1996年8月の地平線通信―その1



■8月の地平線通信・201号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信201表紙 7月13日の大集会、350人を越す人が集まり、大いに盛り上がった。駆けつけてくれた人、縁の下で頑張ってくれた人、みんなに大大感謝です。長野亮之介・実行委員長、中畑朋子、武田力・両副委員長以下「実行委員会」が何度も打合せを重ねた成果と言えるが、早くも「このように立派にやってしまうと、次が困る。」「寸劇(午後の「女の行動学」のなかで披露された)まで見事に演じて、地平線会議らしくない」との批判も出ている。まあ、何をどうやっても意見はいろいろある。ともかくも大成功でした。

 200人の報告者が書いた「地平線の旅人たち」(窓社刊)、おかげで少しずつ紹介されています。旅、冒険の世界を知る出版のプロが「よくぞ、これだけ個性のある(本当は『クセのある』と言った)200人全員がそろいましたね」と驚愕していた。どうか地平線会議を知らない人たちにも、この本の存在を教えてあげて下さい。

 そして、もう一冊、分厚い「DAS」が、ついに出来上がった。別ページで詳しく紹介する筈なので内容には触れないが、ひとつだけダブリ承知で。「限定500冊、ナンバー入り」の希少本です。増刷しないので、早めにご注文を。

 さて、突然の大事なお知らせ。注目の「201回地平線報告会」は、その「DAS」の発刊を記念して岸本佳則氏が中心となって進めている「地平線神戸集会」(8月24日)とすることにしました。東京を手抜きしたわけではなく、「東京だけにこだわっていては、地平線会議らしくない。地方在住の行動者に対しては、むしろ東京から聞きにいく方が正しい」との三輪主彦氏の一言に一同感服してしまった結果です。「夏は、毎年遠くへ出よう」との話も出ています。アジア会館から初めて飛び出す報告会に、ご理解とご協力を。(江本嘉伸)



 FRONT JACKER


 「地平線会議に来たのははじめてなんですけど、本当に面白かった。なんだか目から鱗が落ちたみたい。こういう世界があるんですねえ。今日は興奮でねむれそうにないわ」。イベントの二次会でこんな言葉を掛けられました。報告会の常連Mさんの、奥方でした。御主人のMさんも北アメリカをバイクで横断した経験のある方です。(以下は私の勝手な解釈ですが)変わりものの夫の関わっていた世界に目を開いてみたら、想像以上に新鮮な地平が広がっていた。視野が開けた、その感動が伝わってくるように感じました。「このイベントやって良かったな」と思いました。マンネリという声も聞かれる地平線会議ですが、人を感動させる本質的なパワーは18年前と変わらずに秘めているんだと、改めて確認した思いでした。

 当日小生は現場監督として舞台裏を、文字どうり走り回っていたので、各プログラムは断片的にしか見られませんでした。それでもときどき会場にはいると、なにやら怪しげな熱気を感じました。舞台上の人間だけでなく、会場にいる人たち全体で醸し出すオーラのようなものがあったと思います。地平線会議のコンセプトは、オリジナルな旅をする人間達が交差し、情報を交換し、刺激しあう場だと小生は理解してますが、そんな場が現出した瞬間が何度かあったように思います。ともあれ、イベントに関わった全ての人達、本当にお疲れさまでした。さーて、シドニーオリンピックの時は地平線報告会、順調に行けば248回を迎えているはず。走れば走るほど、地平線は遠い。(長野亮之介)



地平線ポストから

みなさんのお便り、お待ちしています
〒173 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方


●大沢茂男さんから…長野県下伊那郡…96.7.15

◆暑中お見舞い申上げます。今回の200回記念大会、三輪さんの名司会で大盛会ぶ終了したことと思います。小生種々の都合に依り欠席いたし申訳ありません。幹事の皆さんの後労苦に対し心より感謝をいたします。私もヒマラヤからの出稼者、13日ヒマラヤに帰る準備を進めています。



●武居千恵子さんから…尼崎市…96.7.16

◆先日の200回記念集会、参加させていただきました。普段、誌面上で拝見しているだけの方々の顔がわかり大変嬉しいです。これからは通信を読む気合いが変わりそうです。頑張って行って良かった…。三輪さんがとても素敵な?方だったのでびっくりしました。



●山本将さんから…吹田市

 先日の大集会、ほんとに楽しい一日でした。地平線に集う人たちのすごさはよく知っているつもりでしたが、あれだけの人が次々に目の前にあらわれ、驚くとともに感動しました。10時過ぎに失礼しましたが、東京駅についたのは夜行バスの発車5分前。まだ居たかったのですが、震災で全壊したマンション再建の会合が翌日あるので残念でした。震災復興の闘いの真っただ中でしたが、無理しても東京に行ってよかったなと思っています。必ずまた行きます。



●大島陽さんから…北見市…96.7.15

◆「地平線の旅人たち」の出版、ならびに200回記念大集会おめでとうございます。何のお手伝いもできずに恐縮に思っておりますが、本を2冊も送ってもらって感謝感激しております。200人全員から原稿が届いたというのも、ひとえに編集に人力された委員の方々の努力の成果と思います。とにかくお礼を申し上げずにいられませんでした。ではまた。



●福崎(石塚)陽子さんから…横浜市…第154回報告者

200回の集会おめでとうございます。私や私の仲間に地平線会議の存在を教えてくれた蒲地剛君が6月23日研修留学先のアメリカで不慮の事故のため亡くなりました。彼に「地平線旅人たち」を送ろうと思っていましたが、残念です。山が好きで世界のあちこちの山へ、仕事の合間をぬって挑戦していました。



●田口幸子さんから…足立区

◆暑いですね。先日の地平線の集い,盛会おめでとうございます。ごくろうさまでした。すごい人たちがいるもんだと感心!! さっきラジオを聞いていたら、なんと地平線特集でした。今後のご発展を!



●軍司宮子さんから…足立区…96.7.16

◆先日、読売新聞にて地平線会議のことを知り手紙を書いている次第です。私は現在25 歳で、都内の国立病院で嘱託研究員をしています。旅行は幼い頃から両親の影響で大好きで、暇があると旅行のことを考えている毎日です(ただ、体があまり強い方ではないらしく旅行先で倒れることも多いので、怪しげな旅行の計画をたてるたびにまわりの猛反対にあってしまい、結局は、安全なツアーで行くことになるのですが)。

元来物事を深く考えるのが好きな性分なので、旅行に行くのでも同年代の若い女性のようにショッピングのためや、ファッショナブルな旅よりも、旅先でその国の人の事を知り、出会った相手を通して自分を考え、カルチャーショックを受けずにいられないような旅が好きです。

◆そんな中で先週の記念集会の記事を新聞でみて、とても興味を覚えました。今回はちょうどモルディブから帰ったばかりで、残念ながら会には参加できなかったのですが、会の趣旨はわかり、今後是非参加してみたいと思っています。



●東秀次さんから…京都市

◆ぼくは来年の初めに、南米のパタゴニアとアタカマ高地をとりあえず目標にして自転車で走ろうと思っているのですが、個人で色々と情報を集めたり、身体をきたえたりして準備を進める中で、このようなネットワークを知りあつかましいかもしれないけれど、旅のノウハウ等を教えていただければと、お便りさせていただきました。◆ぼくは京都に住み、仕事の関係でそちらの報告会に参加することがむずかしいのです。もしよろしければ、ネットワークの中で、関西在住の方がいらっしゃれば紹介していただきたい、また関西で同じようなネットワークがあれば、紹介していただきたく思っています。ぼくは、94:ヒッチハイク日本一周、95:アラスカ・カナダ放浪(主にトレッキング)の少ないかもしれませんが経験があります。



●桜井紀子さんから…大宮市…96.7.8

◆いつも通信お送り頂き有りがとうございます。思いはたくさんあるのですが、行動できないでもうすぐ50になる私の毎月のエネル源は地平線通信と山渓とGEOをくり返し読む事です。携わっておられる方に毎月感謝しながら読ませて頂いております。

◆モンゴルに行って来た直後にオペレーションローリーの「寄ってこん会」での江本さんのお話を聞かせて頂き“西蔵漂白”を読む為にアットランダム購読だった山渓を定期購読に変え、地平線報告会にもモンゴル・チベット関係に時々出席させて頂きました。近頃はとんとうかがう事が出来ず通信のみを楽しみに楽しみに待っております。


【特集】

地平線報告会200回記念大集会「地平線の旅人たち」

 報告会200回記念イベントが、去る7月13日に開催され、約10時間のハードスケジュールをこなして無事終了しました。地平線のイベントとしては、年報「地平線から8」発刊記念大集会(1990/3月16〜17)以来、実に6年ぶり。

当日は予想以上に大勢の方に遊びにきていただき、関係者一同感涙にむせび泣いた次第です。普段はそれぞれ好きかってに自分の旅を旅しているスタッフ達です。数カ月とはいえ、このイベントのための組織的な仕事は、いつもとは異質なエネルギーを使う活動でした。新鮮だったけど、しんどかった訳です。「次のイベントはいつ?]なんて質問する気の早い人もいますが、機が熟するのにまた何年かかるかも知れません。

今号では、終了後に寄せられたイベントの感想を特集してみました。会場にこられた方は記憶をたどり、来られなかった方はこんな声が聞かれた集まりだったと想像する手がかりにしていただければとおもいます。



●Part I
▼当日会場に駆けつけてくれた仲間たちから寄せられた大集会の印象記


●中村進さん(第184回報告者、テレビディレクター)

 毎月一回、一人の旅人の報告が200回となった地平線会議。200カ月、世話人のみなさま本当にご苦労さまでした。その記念式典に参加して、「ここは地球に生きる生き物たちが集まるオアシスのよう」と思いました。このオアシスで人と人は出会い、心に何かを感じまた次の新しい道へ向かって歩き出す。それぞれが自由な意志で、あっちこっち歩き始める。北極の海氷で、イヌイットの橋をひいてセイウチ猟に出掛けるエスキモー犬は犬が本来もっている習性や本能を妨げられないで全て出しきる「最も犬らしく生きる犬」です。案外、僕たち人間も「人間らしく生きる」ということを探して、地平線のあっちこっちを歩き続けているのでしょうか。地平線の皆さんありがとう。



●紺野衆さん(83年8月大集会報告者、東北大学OB、医師)

 約13年ぶりの地平線会議に参加した印象ですが、昼から4〜5本ビールを飲みながら聞いているうちに、日常生活の中で忘れていた昔の自分を想い出してしまいました。17年前22歳の時、駆りたてられたようにサハラのラクダ行を決意し、東京の3畳一間のアパートをねぐらに約10カ月で180万円の資金を作り、トレーニングと称して九十九里浜や暑い夏の東京を歩いていたころの自分。毎日毎日厳しいサハラの大地を自分の心と飽きるほど向きあいもがき苦しんでいたころの自分。ビールの酔いのなかであの時の色々なシーンの中の自分をみることができ、そういう意味では大変よかったのですが、心を熱くさせる話(個人の感情、興味の問題かもしれませんが…)も少し聞きたかったです。



●恵谷治さん(第2、17、81、129回報告者、早大探検部OB、ジャーナリスト)

 男尊女卑が身にしみている私は、第3部の「女の行動学」を大いに期待していた。女性の行動者たちの本音ではなく、公の席での発言を聞いてみたかったからである。パネラーたちの話を総合すると、周囲の理解を得られないまま、大事な部分を切り捨てたまま行動しているのではないかという印象を受けた。タイム・アップのため質疑応答がなかったので、ここで改めて質問させてもらうことにする。「親を納得させるほどの情熱や緻密な計画を持たないまま、先走っていることはありませんか?」私も23歳と18歳の娘を持つ親であり、他人事ではないのである。進行についていえば、玄人はだしの司会に加え、予期せぬファッション・ショーや赤面するような寸劇があって、楽しいひとときだった。スタッフの皆さん、お疲れさん。



●埜口保男さん(第169回報告者…看護士)

 この集会に誘おうとしたけど、地平線会議といっても理解してもらえなかったので、「日本風来坊大集合の会」みたいなものだと説明したところ、ある友人は、どうせ中学校の体育館あたりでやるんだろうけど、何でウィメンズプラザなんてしゃれた名前が付いているのと真顔で尋ねてきた。どうしても私と青山が結びつかないらしい。 『地平線の旅人たち』を読んだ同僚が、この人たち正気なの。何人か入院しているんじゃない?みなウチに入院してもおかしくない人ばかりじゃないのといってました。



●長迫幸成さん(第74回報告者、東京神学大大学院OB)

 10年間義理を欠いていた私に地平線はずっと会報を送り続けてくれました。そして10年ぶりの私を覚えて下さった人がおりました。感謝です。最初、席のまわりの人々は知らない人々でありました。それが、だんだんと知っている人、大切なものを共有する人となってゆきました。久しぶりに楽しい思いをしました。地平線の仲間の行動がある限り、地球は青い地球であり続けることができるのでは。地平線の仲間にカンパイ。



●山田まり子さん(地平線会議発足当時、報告会の受付をずっとやってくれた。
当日は札幌から駆けつけてくれました。)

 7月13日の200回記念大集会への出席は去年からカレンダーに赤丸印をつけて楽しみにしていました。当日、会場の受付で見知らぬ人ばかりだったときはちょっと戸惑いましたが、まずは懐かしい三輪さんの笑顔に触れてホッとした気分。そう、考えてみるともう何年間も、ひょっとすると10年以上も集会に顔を出していないのでした。

'79年発足当時から'80年11月にイタリアへ発つまで、集会の受付には必ずといってよいほど、私も立っておりました。その後も、帰国の度に自宅に届いている地平線通信の熱心な読者でしたから、自分も地平線の仲間のつもりでしたが、今回の会場では知らない人の方がはるかに多く、その上、確実に若い世代の人が増えていました。不意打ちのフレッシュなエネルギーを感じながら過ぎ去った時間を辿り、新しい時代の流れを強く意識した一日でした。「あるく、みる、きく」魂を心に刻み、ずっと旅人として生きていきたいとイタリアにこだわりづづけた15年間。旅への憧れがすでに私の人生の一部とはいえない大きさに育っていることを深く確かめながら、札幌の夏を迎えています。

 これからも集会にはなかなか顔を出せそうにありませんが、札幌でもフィレンツェでも私の生きる場所で、素敵な地平線の旅人たちとの出会いがあるはずです。その小さな出会いの数を地平線ネットワークへ結ぶお手伝いを始められたらと思いつつ、まずは江本さんはじめスタッフの皆さんに一筆御礼まで。本当にご苦労さまでした。



●Part II
▼電話でコメントをいただいた報告者の声[電話取材:EMO+Ryo]

●賀曽利洋子さん(御存知“冒険王カソリ”の奥方)

 開会時間に会場に行って、結局最後の「2次会」までいてしまいました。それだけ皆さんの話が面白かった。中でも田部井淳子さんの話は印象的でした。山に生きているだけでなく、都会の暮らしがあって山もあるんだ、というところが、夫の賀曽利と共通してるな、と思ったり。本人が一番しまった、と思っている失敗をあとまでじくじく言うような人とは一緒に山へ行きたくない、なんて言う話も身につまされましたね。

 20代後半から30代にかけての若い女性たちの話を聞いていて、自分も家庭だけでない時間があったんだな、となつかしく思いました。会場で賀曽利のメッセージが披露されましたが、ああそうか、48歳になったんだ、なんてあらためて感無量でした。でも、それだけ娘や息子も育っているのに、子だもたちにはお父さんだよ、元気ですか、といった調子のはがきしか書けないんですよ。

 地平線会議の良さは、この活動を通して大きくなろう、エラクなろう、という人がいないからじゃないか、と賀曽利と話しました。それがこれまで続いてきた理由なんでしょうね。



●向後元彦さん(第35、92、159回報告者、地平線会議の発起人、東京農大探検部創設者の一人、「砂漠に緑を」代表)

 やっぱり5部が面白かったね。3部の劇もなかなか良かった。200回というのは大変なことでね。最初に(地平線会議を)作るときに、今世紀の間は続けましょうと話したんです。旅をする人たちが、縄張り意識などなく集まれる場所がこれまで続いてきたことは意味があるし、そのことに対するうれしさを感じます。



●向後紀代美さん(第43回報告者…装身具研究家)

 今までの地平線会議のイベントの中では一番面白かったです。午前中しか聞けなかったんですけど、夫から良かったと聞いているのでビデオを借りて全部見たいと思っています。



●山田高司さん(第146、174、192回報告者、東京農大探検部OB)

まだ地平線会議という名前も決まってないときから関わってたから、あの集まりが実体を持ってここまで続いたんだなと感慨もひとしおやね。女性の部が面白かったし、ご部ではめったに会えない人に久しぶりに会えたな。もう少し時間があっても良かったよね。反面、地平線会議が権威化した感じも受けたよね。俺としては固定した価値観にとらわれずに面白いと思ったことをやるのが大事というスタンスなんだけど、権威ができてしまうと評価の基準が決まってしまう。いろんな価値観を持った人が集まる場所であって欲しい。難しいことだと思うけど、自己満足に陥らないよう自己チェックできる冷静さを持った集まりになって欲しいですね。こういうことを言うのも、それだけ、地平線会議が影響力を持ったってことのなんだね。「群れない組織」をいかにして作るかっていうのは俺の今後の課題でもあるなあ。



●岡村隆さん(第48、132、164回報告者、法政大探検部OB、作家)

 地平線も高齢化して若い人が育たないとかいう声もあったが、やっぱり確実に若い奴が出てこれるような場所になってると思うよ。江本・三輪の二本柱があって、若い世代とギャップもなくつながってると感じたな。裏方の皆さん、ご苦労さん。



●河村安彦さん(第46回報告者、獨協大学探検部OB、会社員)

 女性の部から見ました。学生探検会議が1978年だったから、あれから約20年、いろんな人が関わってきたんだなあと感慨もひとしおだったね。学習院探検部OBの土屋守さんに会えたのも久しぶりでしたね。ちょうど学習院がファルトボートはじめた頃に、学習院の部員を連れて川に行ったりしたんだよ。懐かしかったね。ああいう雰囲気に浸れただけでも幸せでした。ま、でも、ああいう大きなイベントは何年かにいっぺんで十分なんじゃない?



●熊沢正子さん(第105、196回報告者、作家)

200回の報告会の約半分、90何回目かから地平線会議に参加しているので、伝説でしか知らなかったあの人この人にお会いできてうれしかったです。地球を舞台にした大同窓会という感じで良かったな。特に印象的だったのは渡辺まち子(120回報告者)さん。忍者だった彼女が山伏になっていたというのが何だか嬉しかった。



●白根全さん(第93、179、200回報告者、カーニバル評論家)

同窓会で和気あいあいもたまにはいいもんだ。でも言わせてもらえば、メジャー指向が少々鼻についた。超レシーブ(受けをねらい過ぎ)はチョベリバ(けしからん)ということですよ。イベントに連動した「地平線の旅人たち」の制作班としては、スタッフの皆さん(恩田真砂美・滝野澤優子・久島弘・森田靖郎・山田高司・長野亮之介)、お疲れさまでしたと心から言いたい。




●Part III
▼大集会当日に寄せられたメッセージ

●永瀬忠志さん(第133回報告者、1996年7月13日(土)午後12時45分付のFAX)

 「地平線の旅人たち−201人目のチャレンジャーへ」をお送りいただきまして、ありがとうございました。昨夕、受け取りました。どっしりと重たい本ですね。今ごろは、きっと大集会は熱く盛り上がっていることでしょう。私も東京へ行ければよかったのですが、4〜5月にインドへ行ったあと生活が苦しくなり、9月の家賃はどうしようかと苦慮する中で、遠慮させていただきました。またよろしくお願い申しあげます。大集会のご成功をお祈り申し上げます。



●賀曽利隆さん(第28、67、103、124、134、170回報告者、バイクジャーナリスト、冒険王)

 地平線会議の皆さん、こんにちは。報告会200回記念の大集会、おめでとうございます。ぼくは今、オーストラリアの北部の町、ダーウィンにいますが、みなさんと一緒に「200回記念、万歳!」と祝えないのが、すごく残念です。

 オーストラリアを縦横無尽に、バイクで5万キロ走ろうとシドニーを発って50日、すでに走行距離は2万5000キロになり、1日平均500キロを走っていることになります。特に広大な西オーストラリアでは連日800キロ、900キロと走っていました。日本で言えば、毎日、東京から青森までバイクで走っているようなものです。

 「オーストラリア一周」は23年ぶりのこととなります。23年前は、タイのバンコクを列車で出発し、マレーシアのペナンからインドネシアのスマトラ島に渡り、大スンダ、小スンダ列島の島々を島づたいに東に進み、今いるダーウィンに渡ったのです。そのときはオーストラリアをバイクで一周し、さらにヒッチハイクで一周し、やはり無我夢中になって、5万キロも★★を駆けめぐったのです。こうして今、バイクでオーストラリアを一周していると、23年前のオーストラリア一周が無性になつかしく思い出されてきます。

 あのときのぼくは25歳、今は48歳。23年間のオーストラリアの変わった点、変わらない点、自分自身の変わった点、変わらない点、それがすごくよく見えるような気がするのです。オーストラリアの赤い大地とはてしなく広がる地平線、それは23年前も今も、すこしも代わりがないように思えるのです。「そうさ、これが自分の人生なんだ!」と、そんな言葉をかみしめながら、また明日も、赤い砂塵を巻き上げながら、地平線を目指して走りつづけていきます。…1996年7月8日

                      オーストラリアのダーウィンにて

《COLUMN》

●●『地平線の旅人たち』を読んで

 ロスに来て以来、2人だけで孤立したような気持ちでいましたが、本を開いたとたん、昔の仲間が会いに来てくれたようで、とても嬉しかったです。夫は興奮して、その晩は良く眠れなかったようです。地平線会議の仲間として加えて頂いたことにとても感謝しています。文字通り私達の人生の一ページとなりました。今後の私達の冒険にも、とても刺激になりました。8月に樫田秀樹さんがアメリカにいらっしゃるという連絡を受けました。ロスではインディアン博物館などを御案内する予定です。とても楽しみにしています。[栗田恵美子+栗田清]

●Part IV
▼大集会を支えたスタッフたちの声

★中畑朋子(実行副委員長、夢見る染織家)

場外で起こったサイン集め現象

 いつのまにか、それは始まっていました。口火を切ったのは、あの恵谷氏だという噂です。“地平線の旅人たち”が『地平線の旅人たち』の各々の登場ページに互いにサインをしている光景を想像してみて下さい。いやはや、お茶目とも異様とも思えるものでした(もちろん苦笑いの御仁もいましたが)。“旅人たち”の姿を人ごとのように横目で見ながら、あたふたとホール内を駆け回っていた私も、プログラムが順調に進み、時が過ぎるにつれ、多少気持ちに余裕ができ、あせってきました。「“旅人たち”が一同に揃うのはめったにあることじゃない。今日しかない。今だ!今だ!」

 遅ればせながら、サイン会に加わってしまったのでした。出遅れたので、全員にしてもらえず、残念、無念。そんな、うわずったままの一日でした。プログラムの進行は、今でも頭にしっかり入っているのに、当日の内容はよく覚えていません。けれど、終盤にさしかかる頃には、心地の良い感覚が頭と身体に満ちていました。会場に溢れる熱気に酔ったのか、それともアルファ波が出ていたのでしょうか。暖かい光に包まれたような気持ち良さ。もう少しの間、あの光の中にいたかった…。

 「しまった!」 自転車旅行や山登り、そして一枚の布を織りあげた時のあの感覚によく似ています。客席に座って舞台を見ているよりも刺激的な裏方仕事。あと2年で20周年という声も聞こえてきました。新たに知ったこの快楽に、またおぼれてしまいそうです。



★新井 由己(大集会公式記録担当)

二つの調整室からの眺め

 大集会の準備は最初から顔を出していたが、6月からは『DAS』の作業にかかりきりになり、まったく準備を手伝えなかった。そんなわけで、当日になっても何をするかわからなかったものの、けっきょくビデオ記録とテープ録音を担当することになった。ビデオ録画を行なう調整室にあるモニターを眺めながら、カメラのレンズで報告者の表情を追った。アップで見ることができるので役得かと思ったが、午後になると約3畳ほどの空間は蒸し風呂のようになり、汗が止まらなかった。

 また、会場の真後ろにある別の調整室でテープ録音をしていたので、テープの反転と入れ替えをするために、ビデオ調整室との間を往復しなければいけなかった。録画されたビデオで、内容と関係ない人物をアップにしていたり、壁だけ写っていたりするのは、テープを反転するために裏側の通路を走っているときである。大集会のビデオを見る機会があったら、そんなことを想像していただければと思う。



★清水康二(地平線番外地担当)

 先日の大集会はほんとうに感動的でした。振り返れば12年間、当時学生だった僕も社会人となり、またこの間に報告者の行動様式もずいぶんと変わったなと思います。当初僕も2次会の酒宴で耳を傾けているだけだったのが、いつしかお酌に回り、時に会計を済ませ、気が付けば地平線酒宴幹事となっているではありませんか!? 今回の集会では報告者と実行委員の方々に敬意を表しまして、2次会『地平線番外地』の仕切りを務めさせて頂きました。これからもグラスあるところに清水アリ! 地平線の一層の発展を願っております。



★本所稚佳江(受付担当、東京農大探検部OG)

 地平線会議が200回を迎えられたのも、今回のような大きなイベントが成功したのも、たくさんの裏方さんが働いているからなんだなあと思いました。少々高齢化が気になりますがそれもまたよしでしょう。

 江本さん、恵谷さん、向後さんやシゲさんの楽しそうな生活ぶりをお聞きしていると、50歳になっても60歳になっても遊べるなあと、楽しみになるのでした。

   当日手伝ってくれた農大生(敬称略)
   ・探検部:斉藤久・小和田久美子・青木亮輔・福田泰宏・佐合茂樹・西清志郎
   ・探検部以外:竹下千晴・佐藤尚子・平田裕子



★長野淳子(第3部司会進行・劇団「旅のもの」主宰)

 第3部の「女の行動学」は、ディスカッションと寸劇の組み合わせがうまくかみ合って、初めての試みながら、おおむね好評であったとのこと。パネラー並びに役者のみなさん、本当にお疲れ様でした。改めて御礼申し上げます。

 このパートは、熊沢正子、杉田晴美、中畑朋子、長野淳子の一見良い子の問題児集団が、「縁の下会議」を作って企画の検討をしパネルディスカッションでいくことが決まると、熊沢宅でのべ4日間の合宿をし、全体の構成や討論の内容を話し合いました。

 でも、それぞれに旅に対する考え方が違うし、「女であること」と「旅」をどう結びつけて考えればいいのかわからなくて、なかなか話はまとまらない。(ほんとはご飯とお酒がおいしくて…)。他のパートが着々と準備を進める中で、第3部だけが見えてこない状況が続きました。

 そんなある日の夕刻、四谷三丁目の風月堂でした。「進行が遅れている3部のために何かいい案はないか」という実行委員長の言葉に、三輪先生は一言、こうおっしゃったのです。「3部?だめだよ。あいつらにまかせてたら暗くなる!」 そんなこと言ってないぜえと、ご本人は思われるだろうし、他の人たちは気にもとめなかったに違いない。でも、杉田、中畑、長野の耳だけはすんなり通過していきませんでした。

 杉田は思いました。「こうなったらとことんおちゃらけてやる」、中畑は「あんなことを言うのは私たちを励ますつもりなんだわ」、長野は「メチャクチャにしてやる」と思いました。後に電話で報告を聞いた熊沢は怒りました。「どうせあたし暗いわよ」

 結果的にはこの三輪発言が起爆剤になり、縁の下会議は燃えました。「『てんぷく笑劇場』のノリでいきましょう」という杉田の提案で、ディスカッション中に寸劇を2つ入れることが決まり、さっそく台本の制作に入りました。途中、ゆきづまった長野が「芝居はひとつしかできない」と弱気になると「ひとつしかできないんだったらやめてしまえ」と杉田から激がとび、夜中に芝居の原案を綴った、怒涛のようなファックスが届いたこともありました。

 とにかく、いろんなことがあって、当日を迎えた訳です。司会進行の不手際で質疑応答の時間が取れなかったり、活発な意見交換というところまでは議論が盛り上がらなかった等々、反省点はたくさんありました。ただ、私自身は本番での出来がどうということより、そこに到る過程を経験できたことが、一番嬉しかったし、楽しかった。例によって、おじさんの主導で始まった今回の大集会で、女4人で準備をし、女性たちのディスカッションができたことは、やはり意味深いことだったと思います。



★西山俊一(「地平線の旅人たち」販売担当、大手零細出版社「窓社」社長。)

 地平線会議の人たちは自分たちを見直したでしょうね。このイベントを見ててそう思いました。(談)



★三輪主彦(第5部企画司会進行、マルチメディア・ランナー)

 第5部は地平線報告者のうち20人の人に、自分の出演しているビデオを借り、2時間に編集した。1人あたりの時間は8分程度しかないので、内容はほとんどわからなかったが、本人に登場してもらってビデオの解説や近況を報告してもらった。ビデオ出演者以外にも、多くの人に登場してもらったので、総勢40人になった。話を聞くだけでは飽きるが、背景にビデオを流したことで気分転換になった。自宅で準備したときは良かったのだが、本番のときには映像が乱れて見にくかった。でもあまり映像がきれいだと、そちらに注意が集中するので、あの程度でよかったと負け惜しみを言っておく。

《COLUMN》

『地平線の旅人たち』の読後感

 3万6000キロの「オーストラリア一周からいったん帰国すると、すぐさま『地平線の旅人たち』を読んだ。「すごいぜ、これは!」

 よくぞ、これだけのものを短期間でまとめられたものだと感心したし、よくぞ、これだけの行動者にコンタクトをとれたものだと驚かされたし、それに何よりも、地球を舞台にした各人の行動の集大成のボリュームのすごさには、心底、圧倒された。

 読み終えて、すごく、うれしくなった。地平線会議の創設時、ぼくは報告会を担当した。そのねらいは3つ、あった。まずは我々の一番大きな願いであった年報を出しやすくするための下地づくりだった。2つ目は、報告者の行動を直に、生の声で、1人でも多くの人たちに伝えることだった。3つ目が、それによって、我々自身が刺激を受け、更なる行動を続けていきやすくする環境をつくりだすことだった。

 『地平線の旅人たち』を読んでいると、そのねらい通りのことができたと思うのだ。また、地平線会議創設時の、口から泡を飛ばして激論をもかわした、あの熱気がよみがえってくる。さー、オーストラリア2週目に出発だ![賀曽利隆]

★久島弘(『地平線の旅人たち』+『DAS』編集スタッフ、耐寒耐暑耐乏生活者)

── お気楽ジゴクとこだわりジゴクの狭間から──

 数年来の心身の不調から復活し、体内に沸々と湧き上がる「勤労意欲」を感じた私は、それが本物かどうか確かめるべく、最終段階に入っていた地平線の本作りを手伝った。

 『地平線の旅人たち』の編集作業が行われている「窓社」の前に立った時、私は緊張した。ドアを開けると同時にドッと襲ってくるであろう、あの、追い込みに入った編集現場の緊迫感と殺気に身構えたのだ。しかし、扉の向こうにそんなものはなかった。おまけに、本の設計図とでも云うべき「台割り」や、作業全体を統括するデスク役も存在しなかった。そして5時過ぎになると窓社のN氏が現れ、「今日はこれで閉めますから」と我々に立ち退きを迫った。しかし、それでも予定通りに本は出来てしまったのである。

 私はまさに不思議の国のアリスで、「なんだったんだ?」と頭がクラクラした。そこに、見計らったように丸山純『DAS』本部長が電話を掛けてきて、当たりは柔らかながら有無を云わせぬ口調で、「著書リスト作り、お願いしますよ」と耳元でささやいた。

 こちらの『DAS』作りも、ないない尽くしの世界だった。編集室がない。相手の顔が見えない。作業机の上に積み重ねられた紙の山もない。日本中に散らばったスタッフは、ひたすらキーボードを叩いてパソコン通信上の虚構空間にデータを送り込む。そして、そのデジタル星雲の中から『DAS』が形となって、丸山邸の一角にお姿を現す、という仕組みである。

 パソコン通信+DTPのコンビは、文句なく画期的な道具だ。しかし、新たな可能性を実現するシステム総てがそうであるように、ここに完璧主義という潤滑油が加わると、恐るべき永久機関になってしまう。機能の向上は、その自乗倍の完成度を作品に要求する。土壇場に来ての丸山本部長の死闘も、まさにこのドロ沼の中で演じられたに違いない。

 例えるなら、『地平線の旅人たち』は200枚の作品を集めた美術館だ。中味が主役だから、容れ物にはこだわり過ぎない方がよかった。実際、編集委員四人組にとっては、作品集めという冒険的ハンティングゲームが、本作りのハイライトだったようにも見受けられる。一方、『DAS』は歴史博物館だ。いくら丹念に収集してみても、展示品の化石や土器のカケラはランダムに並べただけでは意味を持たない。見せ方にこだわった、最終段階での丸山本部長の執念がなければ、ただの物置で終わったっていただろう。

 昨年の知事選の後で、「大阪で青島が、東京で横山ノックが立候補していたら、この結果はなかっただろう」と論評した記事があった。地平線の2冊も、適任者を得て世に現れたのだ。(‥‥ と思う) そして私の勤労意欲の炎も、いささかも衰えることなく、未だにめらめらと燃え続けている。めでたし、めでたし。

《COLUMN》

●●長く旅する [あいらんだー通信から抜粋]

(前略) 地平線会議の200回記念大集会には、北海道や九州からも、わざわざ駆けつけた懐かしい人たちもいました。それぞれの人の話を聞いていると、地平線会議に集う人たちは、18年分オジさんになっても、やっぱり現役の旅びとが多い。やはり「すごい!」と思いました。

 勿論、オジさんばかりでなく、わたしよりももっとオバさんも現役だし、体力と自由時間をいっぱい持っているシングル(身一つ、母親でないという意)の世界を駆ける女性もいっぱいいました。大集会やパーティーが進行する中で、「すごいなあ」「立派だなあ」「うらやましいなあ」と、重度の障害児を育てながら旅をしている私は、長い旅はできないので、ちょっと取り残された気分になっていました。

(略)江本さんだけではなく、ずっと一緒に支えて来た三輪主彦さんにも、それに若手で実務を引きうけている人、私の知る範囲では丸山純さんや、白根全さんにも、きっと続けてくることは、大変だった時期もあったに違いない。その時、誰かが「続けよう」と踏ん張らなければ、会はつぶれてしまうのだもの。だから、「おめでとう」「おめでとう、地平線を支えて来た人たち」という思いでいっぱいになりました。[河田真智子さん(第45、89回報告者、ぐるーぷ・あいらんだー主宰者]

◆第4部ロス・ビエントス・フォルクローレコンサート曲目紹介

1 ディアブラーダ(悪魔のおまつり)
2 コージャ族のおまつり
3 コンドルは飛んでゆく
4 サクサワマンの踊り
5 高原の風
6 チョグイ鳥と鐘つき鳥
7 花祭り



★飯野昭司(DAS入力スタッフ、山形県酒田市在住)〜地平線HARAPPAより転載〜

》888 [96/07/14 23:18] MXA02151 飯野:楽しく有意義な一日でした

●昨日の大集会は、とても楽しい有意義な一日でした。早めに会場に着いたので、準備の手伝いを頼まれたのですが、長野さん・武田さん・中畑さんら実行委員の皆さんがテキパキと準備をされていたので、ほとんど手伝うことはありませんでした。(略)

●大集会のオープニングは、田部井淳子さんのお話。HAT-Jの活動や清掃登山(この日も午後から、会津駒ヶ岳へ出かけると言っていました)のことを興味深く聞かせて頂きました。田部井さんは普段とくにトレーニングをしていないが、足(靴)と呼吸にはいちばん気を付けているということでした。また、一緒に山に行きたい人はどういう人かというお話も、なるほどと頷ける内容でした。

●第2部の「地球犬学」は、犬という社会的な?動物を通して世界の文化の違いを知る、という内容でした。北村節子さん・中村進さんのお話も面白かったのですが、なかでも高野孝子さんの、犬を食べる話が特に印象に残りました。

●第3部の「女の行動学」は、女性がひとり旅をする際に遭遇するいろいろな問題について、かなりつっこんだ討論が行われましたが、金井重さんがうまく結論をまとめてくれていました。

●第4部は、長岡竜介さんとロス・ビエントスのフォルクローレ・コンサート。はじめて、生のフォルクローレを聞きましたが、とても素晴らしい音楽でした。フォルクローレというと、代表的な楽器としてケーナが浮かびますが、そのほかにもいろんな楽器があるのですね。名前を忘れてしまいましたが、重低音?のでる管楽器の共演は迫力があって凄かったです。

●第5部の「地平線の201人」は、過去のビデオをバックに流しながら、それに関係する人のお話を聞くという構成でした。報告会には一度も参加したことがないので、報告会のダイジェストというつもりで聞いていました。それにしても驚かされるのは、報告会が200回も続いてきたという事実です。長ければいいというものでもないのでしょうが、長く続けることの意義というか、長く続けるうちにはじめて見えてくることも多いと思います。会場にいらっしゃった報告者の方々は、当時のことを鮮明に記憶しているようでしたし、ほとんどの方がその後も様々な活動を続けていることを知って、さらに深い感動を覚えました。地平線会議というのは、まさに“自分がやりたいことをやる”人たちの集まりだと思いました。(略)

 

【その2へ続く】



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