2015年11月の地平線通信

11月の地平線通信・439号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

11月11日。439回地平線報告会を兼ねる「日本冒険フォーラム 2015」まで、あと11日と迫った。今回のフォーラムのテーマは「極地とは何か」。それに遠くつながることなので、地平線会議が誕生する1年前、北極にいた時の経験を書かせてもらう。

◆「N.P」と小さく書かれた、色あせた、数冊の取材ノートがある。「North Pole」の略だ。1978年4月12日の記述は、氷上キャンプの隊員からの厳しい報告だ。「2人のエスキモーがこのままではさびしくていやだ、と言っている。もうひとチームを送ってくれ、そうでなければ金をもっとよこせ、と」

◆4月16日には、こんな交信があった。「激しい地吹雪。氷点下20度。天候回復のきざしなし。食料は肉のかたまり4個を残すのみ」翌17日。「こちらは皆いらついている。エスキモーの1人が突っかかってきた。正直なところ、私は次のフライトで帰りたい、もうごめん、という気分です」。

◆当時、カナダ北極圏の海氷上では植村直己さんと並行して日大隊のチームが北極点を目指していた。補給できる物資が限られていたので、この時の犬ぞりチームはグリーンランドに住み着いている日本人エスキモーの大島育雄さん(日大山岳部の出だ)を含めて日本人3人、グリーンランドエスキモー2人。言葉も通じず、なかなか見えないゴールにメンバー間の空気は険悪になる日もあった。植村さんと日大隊。それぞれ積年の夢の達成に向かっての力走だったが、どうしても一番乗り争いともなった。

◆結果は日大隊がわずかの差で先着したが、植村さんは、ひとりで極点に到達。「お見事!北極点独りぼっち」1978年5月2日付け読売新聞社会面のトップに、私は「レゾリュート発 江本」として植村直己さんの北極点到達を讃える記事を書いた。植村さんはこのあと、さらにグリーンランド縦断の新たな旅を目指し、その「単独行」ぶりが、世界を驚かせた。

◆北極海の海氷上の一点。それが北極点だ。常に氷は動いているから、GPSのなかった当時、真の極点は簡単には確定できなかった。日大隊の場合、到達を発表したあと、誤差に気がつき、大騒ぎになった。到達を発表してから慎重に計測した結果、「北緯89度55分」でしかなかったのだ。「あと5分足りない!」時間にして3時間、さらに北に向けて犬ぞりを走らせ、北緯89度59分18秒、と計測した時点で極点到達を確認した。時に1978年4月28日午前3時。

◆歴史を振り返ると、極地は常に冒険者の心をとらえる場所だった。エベレストの頂上、南極点、北極点は「地球の三極点」と呼ばれ、科学技術の進歩で人の「移動力」が飛躍的に高まった現在も人々を強烈に惹きつけている。私自身は南極に行く機会はまだないが、エベレスト、北極と何度か通ううちに「どうして極地なのか?」との問いかけをずっと抱き続けている。極地に惹かれる心理とは何だろう? 今回、極地スペシャリストたちの本音を聞き出せれば、と願う。

◆10月31日、11月1日の2日間、久しぶりに南三陸町を訪ねた。女性たちの力で被災地の女性たちを支援しよう、というWE(NPO法人ウィメンズアイ)の企画したツアー。短時間に多くの場と人に出会うことができ、東京でくすぶっていてはダメ、と言われたような気がした。

◆養蚕発祥の地とされる、緑豊かな「ひころの里」、かさ上げ・造成工事が進み激変しつつある志津川地区(あの防災庁舎は、いまや高い盛り土に囲まれている)、看板代わりに使っていた浮き球がアラスカで見つかり女手ひとつで立ち上げたレストラン「慶明丸」などを見学し、おいしいものをご馳走になった。何よりも、あの混沌とした被災の町や村に住み着き、女性たちの支援を休まず続けているWEの精鋭たちに頭がさがった。あれからもう4年8か月。地平線仲間も参加してくれたこの旅のレポートは10、11ページに掲載した。

◆11月8日には祖師ヶ谷大蔵で滝野沢優子さんたちが開催した[被災動物写真展「いのちをつなぐ」〜福島の動物たちをあきらめない〜]を見に。今月の通信でご本人が書いているように、滝野沢さんたちは、3.11直後から福島に動物ボランティアとして入り、4年8か月経った現在も動物たちを通して原発被災の深刻な現状を見続けている。地平線報告会で何度か話してもらい、福島移動報告会でも現場で詳しく実情を報告してもらっているが、動物たちを通してこそ見えるものは深いのだ、と写真を見、話を聞いてしみじみ思った。

◆きのう10日、我らがマッシャー、カナダ・ホワイトホース在住の本多有香さんの著書『犬と、走る』の文庫本化が決定したことを版元の集英社インターナショナルから聞いた。文庫編集部はすでに編集作業に入っている、とのことで、来年2月にも文庫として出版されるらしい。文庫だと部数も多めに印刷するから少しは助けになるだろう。有香さんのために、よかった、と思う。

◆10日夜は、我が家に植村直己冒険館の吉谷館長と西村氏、丸山、武田、落合の地平線の主軸が集まり、22日に向けて最後の詰めの話し合いをした。面白いフォーラムになりますよ、皆さん無理しても参加しなさいね。(江本嘉伸


先月の報告会から

南極の白い跡

阿部雅龍

2015年10月30日 新宿区スポーツセンター

■人を見かけで判断してはいけない。肩書きもまた見る人の目を惑わす。素人芝居は臭いが、本当に演技の達者な人はそれが芝居なのか地なのかわからなくなる……。「夢を追う男」という「匂う」肩書きを名乗る阿部雅龍(あべ・まさたつ)さんは、本当に匂う人なのか、それとも「臭う」人なのか。プロジェクターにつないだPCを完璧にセットし、まだ大会議室がガヤガヤしている中でBGMを鳴らす。

◆薄手のジャケットを軽く羽織り、丸首のシャツの上にはアクセサリーが光る。短く整えた髪に、描いたような眉毛。緊張の色は見えず、垣間見える余裕は投資家にプレゼンする若手起業家を思わせる。見かけだけで判断してはいけないと思いつつも、私の頭の中のアラーム音が鳴り響く。いったいどうして?

◆阿部雅龍さんは秋田出身の32歳。昨年と今年にカナダ北極圏単独徒歩行を経て、来年にはグリーンランド1200キロ走破を予定。翌2017年には南極点への到達を目指している。まるで受験勉強のように計画的だ。「いまさらどうして行くのかとよく聞かれる」。

◆同じ秋田出身で、日本人で初めて南極大陸を探検した白瀬矗(のぶ)中尉に憧れてきた。まだアムンゼンとスコットが「世紀の南極点レース」を争っていた時代、白瀬はロス氷棚に上陸を果たし、南極点を目指したものの上陸地点から数百キロのところで断念。付近を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名した。「それから100年経っても彼のルートをたどった日本人はいない。彼の足跡をたどって大和雪原を踏んで南極点に立ちたいというのが、いまの一番の夢」。

◆29歳のときに一念発起、2017年南極行きのための5年計画を立て、まずはカナダの北極圏に向かった。トレーニングを兼ね、食糧や装備の詰まったソリを引いてスキーで歩く。2014年は500キロ、今年は750キロを踏破した。カヌーや筏で世界中を旅し、極地を目指してテレビ番組にも出演、雑誌の取材もこなし、著書『次の夢への一歩』(角川書店)を書き、アウトドア用品の広告にも出て、資金を稼ぐ「夢を追う男」。だが10年前はまったく違っていたという。

◆髪を金色に染め、眉を剃った姿の大学生当時の写真。農家の跡継ぎを期待され、国立大学で機械工学を専攻した彼が冒険を意識した最初のきっかけは彼が4歳のときの父親の交通事故死だった。遊んでもらった記憶はないが葬式だけは覚えているという。「人間はいずれ死ぬんだな、と知った。人生は1回しかないから後悔しないほうがいいじゃないかとそのとき思った」。享年29歳の父親の死から彼は学んだ。

◆でもやりたいことが何ひとつない、と就職活動に悩んでいた時期にふと思い出したのが白瀬矗、間宮林蔵、アムンゼンと言った冒険家への憧れ。彼らのような理想の大人に近づきたい。そう思って調べるうちに、北極と南極を世界で初めて単独で横断した大場満郎さんを知った。「人生は一度かぎり、笑って死ねる人生がいい」。この大場さんの言葉を見てすぐ学生課に行き、家族に黙って休学届けを出し、山形県にある大場満郎冒険学校でスタッフとして住み込みで働き始めた。時間のある時には大場さんの蔵書を片っ端から読み、山の中でトレーニングに励んだ。

◆「母ちゃん、おれ冒険するから大学休学するよ」と、1年間の休学の間に南米大陸単独自転車横断に。母親とは大げんかになった。その出発時はまだ髪が黄色だった。自転車に60キロの荷物を積み、「本当につらい旅だったが、友人たちにこれやって帰ると言った手前、続けるしかない。ずっとやめる言い訳を探していて、自転車が盗まれて続けられなくなることを期待していた」。

◆当時から「ぼくが伝えることで何かが変わるのであれば伝えたい」と、自分の旅の模様をブログで発信し続けている。そこには旅先で阿部さんの人生を変えてくれたという人たちの姿がある。ペルーの高級リゾート地で宿泊代が足りずに困っているときに「うちに泊まりに来たらいいよ」と言ってくれる人に出会った。暖かい家族、温かいスープに感動した。寝る時はベッドを空けてくれた。

◆「すごく感動した。人ってやさしいんだなと思った」。それまでは旅でうまくいかないこと、つらいことを人のせいにしていたが、この経験で考え直したという。自分の夢を実現することだけを考えるのではなく、旅を成し遂げることが助けてくれた人たちへの恩返しになると考えるようになったのだ。

◆「それまではその場しのぎの嘘ばかりだったのが、帰国してからは友人、家族と本音で話せるようになった」。思うに南米最南端までの彼の旅を後押ししたのは、「意地」なのではなかっただろうか。それはたぶん父の死から学び取り、母親から譲られた性格なのだろう。

◆休学していた大学を卒業後は、就職せずにトレーニングを兼ねて浅草で人力車を引き始めた。「どこが鍛えられるのか」と江本さんの質問に答えるに「ふくらはぎの裏、ハムストリングス。いちばん鍛えられるのはソリを引く筋肉」だという。

さらに人力車を選んだのは「日本文化を勉強して、説明できるようになりたかったから」と彼は言う。南米の旅行中、日本について尋ねられても何も答えられず、地元秋田の素晴らしさに気づいたが「説明できる言葉を持っていなかった」のだという。人力車はガイドでもあるので、話術も鍛えることができる。

◆浅草の車夫になってもう8年。人力車に興味津々の報告会会場からは様々な質問が飛び出す。「人力車の収入は?」いい時と悪いときの差が激しく、思われているほどよくない、と彼は言う。阿部さんは自前の車を持たず、借りて個人で営業しているため、客がつかないと赤字になる日もある。いま浅草には人力車を経営する会社が15軒あり、少なくとも200人の車夫が毎日お客さんを取り合う。

◆「訪日客増で儲かっているのでは?」意外なことに阿部さんの客の8割は日本人だという。「リキシャ」と言えば海外では普通の交通機関。ノスタルジーを感じるのは日本人だけ、らしい。「笑顔のためにお金をもらっている。この仕事はすごく大好き。ずっと続けていきたい」。来年には人力車で1日40〜50キロずつ、日本一周をする計画もある。

◆27歳。秋田に帰れば同世代の人が結婚して、家を購入している。「『夢を追う』とか言って、何もできていない。自分は何もない人間だ」と落ち込んだ。いまから思えば、他人のことばかり気になっていた、と阿部さんは話す。車夫をやっていたかと思えば、カナダのバンフでビデオカメラマンをやっていたこともあるし、アフリカのウガンダをWFPのボランティアとして訪れたこともある。

◆まだ日本人がやっていないことを、と5か月かかって米国のロングトレイル、コンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)の4000キロ以上を歩いたが、「日本人初」は10日違いで逃してしまった。翌年はCDTから続くカナディアンロッキーのグレート・ディバイド・トレイル(GDT)約1200キロに挑んだ。トレイルとは名ばかりの未整備の道。これもGDTをすべて歩いたというカナダ人に山中で出会い、話を聞くうちに彼に同行して完歩した奥さんが日本人であることを知った。

◆またも「日本人初」を逃し、悔しい思いを抱えて帰国。この悔しさの背景にあるのも「意地」ではなかったか。「日本人初」になぜそこまでこだわっていたのかと考えた末、既に「日本人が何十人もやっている」アマゾン川単独筏下りに挑んだのが29歳のとき。大場さんも29歳でアマゾン川を筏で下ったことがあり、それへの憧れもあったという。

◆ただし乾期はあまり例がない。動力は櫂だけ。川下りというより重い筏を水中からロープで引き、浅瀬から引き離すことに追われた。途中、マラリアも患った。日が暮れれば本が読めるほど明るい星空。水面にも星が写り、世界が星で一杯になる。ピンクのイルカが筏に遊びに来る。ホタルも筏で羽を休める。筏の旅でないと出会えない光景がそこにあった。

◆そして20歳のとき自転車単独行のスタート地点としたエクアドルの赤道記念碑にまたたどりついた。9年間で大きく変貌した阿部さん。父親が亡くなった年齢でもある。「まだやってみたいことがある」とこのとき極地への挑戦を決心したのだという。

◆ここで最初のカナダ北極圏単独徒歩行の話に戻る。単独行とは言え、この旅は彼一人の旅ではない。秋田大学の学生たちが「北極プロジェクト」として共同研究を実施しているからだ。例えばソリを引く氷の状況を毎日欠かさずリポートする。例えばノナブト準州のイヌイットの村とSkypeをつなぎ「出前授業」を行う。これらの模様は『阿部雅龍のカナダ北極点単独徒歩 秋田大学と北極を結ぶ』という20分のドキュメンタリービデオにまとめられた。4年生のリーダーをはじめ、学生たちが口々に語る。「冒険家としての阿部さんに惚れた。すごいなと思った」「他人に真似できない自分の夢を追っている姿がすごい」。

◆毎朝テントの中で精神統一を欠かさない。食糧と燃料を満載した重さ140キロのソリを引きながら、北極ウサギなど氷上の野生生物にも目を向ける。マイナス30度でも「あったかいっすね、正直」とカメラに向かってさわやかにリポートする阿部さん。その姿を見て私の頭の中のアラームが一層高鳴る。これでは若者を洗脳する「夢を追う教」の教祖様ではないか。自己啓発セミナーの講師や新興宗教のリーダーの姿が彼に重なって見える。

◆地平線報告会の報告者に共通することかもしれないが、偉業を成し遂げようとする人はどこか普通の人とは変わったところがある。おそらく白瀬矗もそうだっただろう。ヒーローに憧れ、彼自身がヒーローに同化していく。それがシャーマンのように目の前で語り出した困惑が、このアラームの正体だったのかもしれない。するとこの困惑は、「夢を追う男」があまりにも眩しく、私の中のジョーシキが素直に受け入れられないことに起因しているのだろうと分析する。

◆北極圏にはシロクマ(ホッキョクグマ)も生息する。安東浩正さんや荻田泰永さんが恐怖したシロクマだが、阿部さんは「真っ白い世界に周囲数百キロ、生き物がいないところでひとりで生きるシロクマが大好き」と言い切る(その言葉にアラーム音がさらに高く響く)。ときにスプレーを手に、またショットガンに弾をこめつつ、「僕らは友達だから、あっちに行ってください」と大声で歌を唄う。この感覚は星野道夫さんにも通じるかもしれない。

◆そして今年は80日分の食糧を積んだ160〜170キロのソリ2台を引き、シオラパルクから片道600キロを往復する計画だ。南極は少しずつ彼に近づいている。約1億円の資金をどうするか、棚氷や南極横断山脈を越える技術的な難しさ、そもそも1200〜1500キロに及ぶルートを単独でどうやって進むか。

◆「白瀬矗が辞世の句に遺した南極の「地中の宝」は『挑戦心』だと思っている」「大場さんはいつも『手を挙げて歩きなさい』と言っていた。それが理解できるようになった」と彼にとってのヒーロー2人の言葉を挙げて阿部さんは報告を締めくくった。

◆次は南極に向けどうやって「意地」を通すのか。「ノルウェー隊が通ったアムンゼンのルートを通るのが現実的かもしれない」。南極点を目指すルートを説明する彼のまなざしは少し真剣で、緊張しているように見えた。それで私の頭の中のアラーム音は少し静まった。(落合大祐


報告者のひとこと

「夢を追う男」の肩書きは、これからも貫きます

■夢のような時間でした。まさか僕が地平線会議で話す機会を頂けるとは。今までに何度も聞き手として参加させて頂いていました。地平線会議に来れば本で読んでいた人達に会える。昔の僕はドキドキしなから、そしてワクワクしながら会場に足を運んでいました。生業である人力車の話も沢山させて頂いたのも地平線会議ならではでした。

◆極地を始めようと行動し始めたのは30歳の時。20代は鍛錬を兼ねて始めた人力車の仕事で貯めた資金で世界中を飛び回り、外国で働いたり現地で言語を覚えたりして多くの経験を積みました。そうして見えたのが極地という憧れの土地でした。僕は今その地を踏みしめ歩いています。それが嬉しくて堪りません。

◆来年のグリーンランド単独徒歩1,200kmも面白くなりそうです。2月半ばの極夜が明ける時に世界最北の村シオラパルクに入ります。徒歩期間中に村々は経由しますが、基本は南極を見すえて補給はほぼしません。80日分の食料を積んだソリは150kgを軽く超すでしょう。

◆近年、グリーンランド沿岸は凍り方が悪く内陸越えも余儀なくされるかと思います。傾斜のある内陸を重いソリを引いて歩くのは今年のカナダ北極圏の経験からも地獄の苦しみです。ただグリーンランドが出来たなら南極はもっと近くなる。

◆僕は夢を追う男という肩書を使っています。それに対して訝しげな目を向ける方も、誤解を呼ぶ事もあります。でも、そんな人目を気にしたりゴチャゴチャ面倒くさい事を考えるよりも、僕自身が自分の夢を純粋に追い続け、叶え続け、更に大きな夢を追っていきたい。そういう人間になりたいと心から願うのでこの肩書を10年間以上貫き通しています。

◆夢を追う男は人力車を引きながら南極点を追い続け、そして達して地平線会議へ笑顔で戻って来ます。真っ直ぐ目標に突き進みます。(阿部雅龍


阿部雅龍さんのフットワークの軽さ、その行動力、冒険を「自己表現」とする捉え方に刺激されました

■いつものように報告会の会場に足を踏み入れた時には、開始時間からすでに30分が経過していました。驚いたのは、その日の報告者がおしゃれで今風な青年だったこと。そんな冒険家、阿部雅龍さんの話は「こう思った、よし、やってみよう!」の連続で、私は時にハラハラしながらも、そのフットワークの軽さ、その行動力に、何度も驚かされることとなったのです。興味深い冒険話の中、しかし私がいちばん印象に残っているのは、冒険を「自己表現」とした彼の捉え方でした。表現するということについて、ちょうど意識が向いている時期だったからかもしれません。

◆今年9月、知人の個展に足を運び、ある1枚の絵に深い感銘を受けました。その絵は風景を描いたもので、画面の大半を占める空の赤が実に複雑で豊かな色を成していたのです。佐藤先生、というのが作者で、美大受験の浪人中に私がとてもお世話になった先生でした。先生は記憶の中にある空の赤を再現するために、絵の具を何度も重ねたり、重ね描いた色をじゃぶじゃぶと洗い流してみたり、絵の具だけでは事足りず、山で赤土を採取し塗りたくってみたりしながら、長い歳月をかけてその絵を完成させたそうです。

◆赤い空の風景は、それほど先生の心に深く焼き付いたものだったということでした。手垢や紙のつぎはぎが残るその絵に「表現せずにはいられない」という先生の執念が強くにじみ出ており、それが私を感動させたのです。赤い空は、先生のお父さんが亡くなった日の朝焼けだということでした。

◆「先生が描いた絵、見たーい!」と時々生徒にいわれることがあります。のらりくらりとそれをかわしているのは、自信を持ってみせられる絵を今描いていないからなのですが、阿部さんの話を聞いたり、恩師の絵を見たり、そのほかたくさんの人や物事との関わりの中で、そろそろまた私も描こうかな、描けるかもしれないなと思い始めています。阿部さん、今後のご活躍を楽しみにしています。私も一歩足を踏み出してみることにします。(今は美術の先生 木田沙都紀


注目!! 

━━地平線会議からのお知らせ━━

「日本冒険フォーラム 2015」極地とは何か、をめぐって期待される熱い討論、そして、もうひとつの地平線流儀の試み

■フロント原稿、そして最終面の恒例長野亮之介画伯イラスト告知でお知らせしているように、439回の地平線報告会を兼ねる「日本冒険フォーラム 2015」が連休中日の11月22日の日曜日に行われます。ことしは4年前同様、駿河台の明治大学アカデミーコモン・アカデミーホールで行います。

◆フォーラムは、以下のように進行します。
 プレゼンテーション「植村直己の育った町・コウノトリ悠然と舞う町」(豊岡市長 中貝宗治)
 記録映像上映   「素顔の植村直己 夢果てしなく 愛かぎりなく」
 基調講演     「今あらためて植村直己を語る」湯川豊(文芸評論家 エッセイスト) 
 パネルディスカッション「北極・南極 こんなに違う」
   ゲスト      市毛良枝 (俳優)
   コーディネーター 江本嘉伸 (地平線会議代表世話人)
   パネリスト     大場満郎 (冒険家。北極、南極両極点に到達)
            岩野祥子 (南極越冬2回)
            荻田泰永 (北極点無補給到達3度の挑戦)
            武田剛 (南極越冬、グリーンランド取材)

 伝えてきたように、今回のテーマは「極地」です。

 1979年から続けてきた地平線会議の活動ですが、極地を行動の舞台とする報告会は、南極、北極とも何度となく開いてきました。中には帰らなかった冒険家、河野兵市さんや、今はアラスカの大学で研究活動を続ける吉川謙二さんのような人もいます。しかし、4人の行動者が一同に会して「極地」について語るのは、今回が初めてです。

 もちろん、主催する植村直己冒険館の意向でもあります。植村直己さんは極地にすべてを賭けていた、と言ってもいいからです。しかし、この機会に地平線会議としても「極地とは何か」という命題に本気で向き合ってみよう、と考えました。

 極地といっても、無論南極と北極は違います。それをどう表現するか。今回のパネリストは、「南極、北極」それぞれの役割をもって登場します。

 たとえば、大場満郎さんは、北極点・南極点の双方に徒歩で到達した唯一の日本人であり、岩野祥子さんは、南極越冬2回の経験を持ち北極圏の風景も知る学者です。北極点単独無補給徒歩到達に挑戦中の荻田泰永さんは、最新の北極の姿を熟知するバリバリの現役極地冒険家であり、武田剛さんは、新聞記者として取材で南極越冬の体験をした上でグリーンランドに住む日本人エスキモー、大島育雄さんの生き方に心動かされ、記者をやめてしまった行動の人です。

 植村直己さんが厚く信頼していた湯川豊さんが特別講演者として登場することにも注目です。湯川さんは、植村さんが生前最も信頼していた文芸春秋社の編集者でした。湯川さんが昨年出した『植村直己・夢の軌跡』(文藝春秋社刊)という本で私は植村さんについて新たに知ったことがいくつもあります。

 そしてそして、今回、地平線会議の仲間に伝えたいもうひとつの企画があります。

 午前10時から夕方の6時まで、2階の会議室に「交流ひろば」という、来場者が自由に歓談できるスペースが設けられます。この部屋には植村冒険館を訪れた「チャレンジャー」を紹介するパネルや、現在グリーンランドに滞在している山崎哲秀さん(第364回報告者)の写真や道具、エスキモーの民具などが展示されますが、地平線会議としても、今年の報告会に登場していただいた月風かおりさん(第434回)、高沢進吾さん(第437回)の企画展示「それぞれの極地」をおこないます。さらに、地平線会議ゆかりのケーナ奏者・長岡竜介さんの演奏もあります。

■まずは、特別サイトをみてください!
 http://chiheisen.net/forum2015/

 今回の試みのために丸山純さんが見事な冒険フォーラムに向けて特別サイトを作ってくれました。当日の内容はもちろん、写真を駆使し、地平線会議のすべてがわかる構成になっているので、ぜひご覧になってください。そして、全国各地からこの試みに馳せ参じてください。なお、入場するには整理券が必要です。整理券が必要な方は、江本まで至急メールでお知らせ下さい。(E


地平線ポストから

ぐんと若返りました! 

シニア3人のミシシッピー、トムソーヤの冒険

■この秋念願のミシシッピーを漕いできた。9月15日、シカゴ西方近郊の町、クリントンを出発し、トムソーヤの故郷ハンニバルまでの336キロ、10日間の旅だった。スタート早々、真っ向からの強風、逆巻く迎え波、強烈な日差しと手荒いアメリカ流の歓迎をくらった。3日目には雷を伴う未曾有の豪雨でテントはめちゃくちゃ。ノックダウン状態になった。

◆今回は同行3人、レンタルのリジッド艇、といつもとは違う。相棒の一人は自分のクラブの仲間だが、アメリカ生活10数年、今もACA(アメリカ・カヌー協会)の会員。もう一人は彼が引き込んだ自動車旅の仲間で、ソーラーカーの開発テストドライブでオーストラリアやアジア各地を転戦してきた実力者だから心強い。計画作りは一切お任せして、泊りは川中島での野営になった。

◆連夜焚き火が真っ赤に燃え、さながら『トムソーヤの冒険』のジャクソン島のようだ。暴れん坊トム、殺し屋ハック、海賊ジョーと3人そろったのも痛快だった。これまでのヨーロッパ一人旅では、泊りはマリーナかキャンプ場や公園の広場だった。マリーナは地区の社交場だがビジターも大歓迎してくれた。キャンプ場ではあちこちでファミリーディナーに誘われた。

◆一方アメリカのマリーナはボート管理だけで定刻には施錠されて人気もなくなる。公園も夜間は利用禁止でポリスが飛んでくると警告されている。そのかわりに島なら安全と来てみてわかった。だが、一旦ミシシッピーが怒ったら恐い。終点ハンニバルのメモリアルタワーには、1993年7月、増水して水位が31フィート(18メートル)も上がったという驚愕のラインが記録されていた。無事でよかった。

◆アメリカのカヌーは、クリークや沼沢地探勝のネイチャー指向で、大河では漕がないそうだ。だが今回の途中、オオワシや白頭ワシが悠々と舞う姿を見てきた。浅瀬にはペリカンやシギ類の野鳥が群れていた。ワニやカミツキガメなど恐ろしいのには出会わなかったけど。それにしても、アメリカはフロンティアスピリットの国。大河の本流だって漕げばいいじゃないか。

◆途中さまざまなハプニングもあった。6日目のことだ。先行していると思った相棒の姿を見失った。この辺りは川幅3キロほどと広いが、赤と緑のブイを追って航路を進めばやがてロックで落ち合える。秋天高く、うっすらと広がる綿雲を仰ぎながらエッサエッサと漕いで行った。願っての事ではなかったが、ミシシッピーひとりぼっちの旅ができた。

◆4日目以降は天気も回復し、時速2キロの追い波に乗ってきたから9月24日、予定通りに到着した。今回のミシシッピー行は、これまでヨーロッパでやってきた“カヌーを使った旅”てはなくて、ごっこ程度ではあるが、まさしくアドベンチャーだった。おかげでぐんと若返った。

◆旅の道筋はアーリーアメリカ以前、先史時代のインディアンのフィールドだ。「ミシシッピー」の語源は、チピア・インディアンの「大きな川」を意味する言葉だというが、途中通り過ぎてきた小さな町の名も、かってそこに住んだ種族の名や土地の形状に起因するのだろう。やがて川は一面に紅葉し、真っ赤に燃える。色とりどりの羽飾りをつけて疾走してゆく騎馬団の姿が眼に浮かぶ。

◆締め括りは観光だ。ハンニバルは期待通りの古き良き姿を残す町だった。船着場の近くは歴史遺産地区になっていた。暴れ坊主共が荒し回った跡を歩いてみた。すれ違っていく人たちは、トムソーヤやベッキーサッチャーの末裔だろうか、旧知の人に出会ったような懐かしい気持ちにさせてくれる町だった。地ビールレストランの大皿のナマズのフライが思い出の味になった。

◆さて、この先についてだが、15年前退職の挨拶状に書いて宣言した「夢と元気の配達人」の役割は、まだしばらくは持ち続けていたい。一人旅になるか、サポーターが来てくれるかはともかく、旅の計画積み立てにはまだ残額がある。それに、江本さんから「永久カヌーイスト」なんて肩書きをいただいてしまったから、やるっきゃないじゃないか。(吉岡嶺二 鎌倉在住永久カヌーイスト)


先月号の発送請負人

■地平線通信438号(10月号)は10月14日印刷、封入作業をし、翌15日郵便局に渡しました。10月は、頼りの印刷専門家、車谷建太さんが来られなかったのと、もう一人の主軸、松澤亮さんも早めには来れなかったため、森井祐介さんと石原玲さんが奮闘してくれました。とりわけ「折り作業」が大変でした。二次会は、いつもの「北京」で楽しく盛り上がりました。汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました!!
森井祐介 石原玲 江本嘉伸 前田庄司 落合大祐 松澤亮 杉山貴章 福田晴子


勝利への焔・ラクビー日本代表の遺伝子変異あらゆるものは一つに繋がり、関わりあって存在している

■桜のエンブレムを付けたジャージーが躍動したラクビーW杯・イングランド大会。死力を尽くした南ア戦は、ラクビー年間表彰「最高の瞬間」部門に選ばれた。後半ロスタイムにおける歴史を変えたスクラム。日本代表の思いが凝縮された選択は、劇的な逆転のトライを生み出す。左オープンから右コーナーぎりぎりに飛び込んだときの光景は、にわかには信じられなかった。

◆一瞬目を疑い、一呼吸をおいてから夢見心地でガッツポーズを掲げると、目頭が熱くなってきた。強豪を相手に最後まで折れることのなかった心。誇らしげな笑顔と汗と涙が、チームの一体感を物語っていた。

◆学生時代にラクビーをかじっていたこともあり、かつては大学の早明戦や社会人の新日鉄釜石や神戸製鋼の試合に度々足を運んだ。しかし世界レベルにはほど遠い低迷が続き、いつのまにか興味はサッカーに推移していた。今回の凱歌は、この陰りを切り裂き、改めてラクビーに目を向けさせてくれるものであった。

◆日本代表をここまで成長させた原動力の一つは、エディー・ジョーンズHCの指導力によるところが大きいといわれる。「ジャパン・ウエー」を標榜し、「日本独自の戦い方」に向けて勇往邁進。フィジカルとメンタルを世界一の練習量で鍛え上げ、体格のハンディを「サムライの精神」と「忍者の身のこなし」で補っていった。

◆この成果は「アタッキング・ラクビー」に開化する。すなわち、素早いパス回しと連続攻撃、低く鋭いタックル、FW8人の結束したスクラムの構築である。野心的な挑戦へのマインドセットは、勝利への焔を燃え上げてゆく。それは坂の上の雲。世界に立ち向かうための進化=選択と適応であった。

◆生物を生物たらしめる能力として進化があげられる。最近、遺伝子の発現を柔軟かつ精密にコントロールしている「エピジェネティック」という仕組みが明らかとなってきた。遺伝子の構造が変化する突然変異とは異なり、エピジェネティックでは遺伝子の配列に変化はない。いわば遺伝子という「台本」に、アセチル化やメチル化という「ブックカバー」をかけて遺伝子の活性を変化させる仕組みである。遺伝子への信号を微妙に変調して、遺伝子オン・オフのタイミングや作られる蛋白質のボリュームを変化させるのである。

◆このメカニズムには、運動・食事・ストレスなどが関連し、老化やがん化、生活習慣病、体質にも大きく影響していることも解かってきた。環境や経験や意欲などの違いによって、遺伝子スイッチのオン・オフが変化するわけだ。世界に適応するために、ラクビー日本代表という人格に起こったのが、勝利への焔を燃え上げる遺伝子のオンというエピジェネティックな変異であった。

◆ラクビーは紳士のスポーツといわれる。フェアプレーとノーサイド、そして「one for all, all for one」がラクビー精神の基本であり真髄である。一人は皆のため、皆は一人のためという自己犠牲とチームワークの精神。選手たちは15の異なるポジションで役割分担をしながら、プライドをもって体を張っているわけだ。

◆「one for all , all for one」は、医療に携わるものにとっても、チーム医療やイキイキと働く職場づくりのために欠かせない。そしてボランティアの心にも通じている。この言葉は、華厳経の「一即一切、一切一即」の言葉にも似ている。奈良の大仏さんが微笑みかけるように、あらゆるものは一つに繋がり、関わりあって存在しているのに違いない。

◆2019年のラクビーW杯はわが国で開催される。日本のラクビー界がさらに進化するために、ラクビー精神に忠実であること、さらに日本代表に発現したエピジェネティックな変異が、世代を超えて継承されてゆくことを期待したい。(神尾重則 医師)

熱海高校ゾモTシャツ奮闘記

■10月31日、静岡県立熱海高校を訪ねた。文化祭「桃陵祭」の一般公開日にあたり、高校生が「ゾモTシャツ」を販売するというので出かけたのだ。熱海高校(通称アタコー)は温泉街の喧噪から離れた伊豆多賀駅近くの丘の上にある。電車を降りて坂道を海辺の国道まで下り、長浜海水浴場に出る。それから「ヒマラヤ桜」の案内板に従って、松の木の角を曲がり、今度は坂を上がっていく。

◆毎朝高校生が通っているとは信じられないほどの急坂だ。振り返れば海が一望に広がる。高校の正門をくぐっても急坂が校舎まで続く。最後は神社の石段のような急な階段を上がってようやく生徒昇降口に着く。学校中が大盛況だ。ゾンビの扮装、顔にメイクをした男子、清楚な和服の女子に混じって、ゾモTシャツを着た生徒が「Tシャツいかがですか!」と学校の廊下で呼びかけている。あ、いた。本当に売ってた!

◆「ネパール復興支援、Tシャツも販売」の見出しの記事が毎日新聞に掲載されたのが9月21日のこと。我らがデチェン・ドルカーこと、貞兼綾子さんが地平線報告会でTシャツを手ににっこり笑っている写真とともに、長野亮之介さんがイラストを手がけたゾモTシャツのことが紹介された。

◆それから1週間たたないうちに「ゾモ協」事務局となっている江本さんのところに、熱海高校からFAXが着信した。「10月末に本校の文化祭があるのですが、文化祭のテーマのひとつにネパールの支援を掲げて取り組んでおり、ゾモTシャツも生徒たちに販売させたいと考えております……」。

◆熱海のすぐ近く、真鶴出身のゾモ協メンバー、田中明美さんがFAXの主、中田真希先生とやりとりを始め、60余着のTシャツをその文化祭で販売してもらうことになったのは、10月の地平線通信に書いてもらったとおり。いま、その文化祭の現場にやってきたわけである。

◆ゾモTを始め、カレンダー、しおりなどネパール支援グッズは「福祉ショップ」と大きな垂れ幕が下がった教室にあった。生徒手製の看板が立ち、マネキンがゾモTを着ている。「ゾモって何ゾモ?」と題された机上の説明にはゾモが冠った「キンカップシャモ」の説明や、Tシャツのゾモの足下の雲にレイアウトされた「4.2.5」の文字が地震の起きた日付であることなどが手書きで詳しく書かれている。

◆そして「ゾモTシャツが48枚売れると、ゾモの子ども1頭をランタン村に贈ることができます!」とはつらつとした字が躍る。TシャツはWebサイトに並んでいる4色のほか、アザレア、ゴールデンイエロー、ライムの限定色も揃い、高校生にはやはり鮮やかな色が人気のようだ。終了まであと2時間を残したお昼過ぎ、目下の売れ行き、半分といったところ。

◆アタコーには普通科ながら観光コースと福祉コースもあり、地元企業と共同でゼリーやチップスを開発したり、障がい者施設で実習をしたりと地元に密着した活動が盛んだ。福祉ショップは福祉類系の生徒が交代で販売を分担しており、ゾモT担当の高橋くんは自分でも購入して「綿の素材が着心地いい」との評。

◆中田先生は偶然にもゾモTと同じ?長野県出身。気付けばもう15年もアタコーに勤務しているという。現在は生徒会を担当していて、今年のテーマ「ネパール復興支援」に合わせたグッズの販売を考えていたところ、ゾモTを新聞記事でたまたま目にしてFAXを送ったのだそうだ。生徒だけでなく先生の素早い行動にも脱帽する。

◆正門のそばには、1968年にネパール王室から贈られたというヒマラヤ桜がある。東大に留学していたビレンドラ皇太子(当時)が熱海の桜と梅の種をプレゼントされたその返礼だという。ゾモTもまたネパールと熱海との架け橋にきっとなるはず。残念ながらまだ少し花には早かった。教室から海が見える高校に、花の咲く時期にまた来たいと思った。(落合大祐

「 先週、無事文化祭が終了しました。 ゾモTシャツは、他のネパール支援雑貨や、障がい者自立支援施設の物資とともに本校福祉コース2・3年生の生徒34名が販売しました。 61枚売れました。よかった!ゾモはかわいい!と好評でした。生徒達はポップを作ったり、お面を作ったりしてアピールしておりました。 ネパールの深い部分まで知らなくても、気軽にこういう機会をいただけて社会参加(した気分だけかもしれないけど)するのは生徒たちにとってとてもよい経験でした。ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。 熱海高校 中田真希 」

 ありがたい、メールだった。この地平線通信を感謝の気持ちとともに熱海高校の先生、生徒の皆さんにも送ります。(E


11月22日のフォーラム会場でゾモTシャツと年報『地平線から』を販売します!

■あちこちで好評のゾモTシャツ、「日本冒険フォーラム 2015」の会場でも販売します。今回のは、箱詰めではなく普通の透明袋に『ランタン谷とゾモのお話』のプリントが読みやすく封入されたタイプ。色、サイズともいろいろあって楽しいです。1着2000円。このうち半額の1000円がゾモ支援にカンパされます。そして、以前地平線会議が毎年制作、発行していた貴重な探検・冒険年報『地平線から』もこの際、販売します。全巻は揃いませんが、たとえば『第8巻 1986〜1988』は384ページの力作です。2500円の定価ですが、今回は廉価販売します。


早ければ年内にも帰島の可能性が

━━口永良部島その後

■噴火で全島避難が続いている口永良部島は、10月の火山予知連絡会で警戒範囲が縮小されたことで、早ければ年内にも帰島の可能性が見えてきました。5月の噴火直後には誰もが避難の長期化を覚悟していましたが、予想以上の急展開。でも住民は喜ぶ一方で、帰島後の生活や支援がなくなる事を心配している方も多いようです。

◆帰島が決まってからは、住民は週に2回ほど一時帰島して家の点検をしています。学校職員も、1階に泥が流れ込んでしまった校舎の掃除でへとへとになっていました。校庭には放牧されていた牛が入り込み、ダニが繁殖していて駆除をしたようです。屋久島からも手伝いに行きたいという人はいるのに、船の都合で一時帰島は平日に行なわれるため、なかなか参加できないのが残念です。

◆6月はじめに勤務先の小学校にやってきた口永良部島の子ども達や先生方とは、授業や運動会、遠足など、たくさんの時間を一緒に過ごしてきました。皆屋久島での生活にすっかり慣れたように見えましたが、やっぱり元の暮らしが恋しいようです。いま屋久島で行なわれている口永良部島の写真展に行ったら、筍掘りや海での漁、祭り、登山など島でのすがすがしいくらい自然と一体になった暮らしぶりが伝わってきました。

◆屋久島も大自然のイメージが強いですが、店もわりとあるので、自然に直接頼らなくても充分生活できてしまいます。口永良部島への帰島が決まったとはいえ、噴火警戒レベルは5のまま。再び噴火する危険もあります。でも不思議なことに、今は口永良部島が以前よりも魅力的に見えるのです。(屋久島 新垣亜美

世界が広くて面白いことを知る良い機会になりますように

……4才と2才を連れて、いざ、報告会へ!!

■子どものいる暮らしが、ようやく普通になった。どこへ行くにも、荷物はかさばり、ゆっくりしか移動できない。だけど、お喋りしながら、一緒にジャンプしたり葉っぱを拾ったり、のんびり歩けて何よりだと、今は思えるのだ。2人の子どもを連れて外出することにも慣れてきた。いよいよ報告会だな、と夏に思った。それには、家族全員の体調及び機嫌も良く、次の日に大事な用事がなく、雨ではないことが絶対条件だ。8月も9月も条件がクリアできず、10月、ようやく決行の時が来た。

◆親バカだが、今年、幼稚園に入園した娘は、随分成長した。電車などで寝てしまっても「降りるよ」と言ったら、何とか起きて自分で歩く。「ママ抱っこ〜」と泣いたりしない。さすが4歳のお姉ちゃん。2歳になる息子は、あれもこれも触りたい、登りたい、入りたい。こんな小僧からは、ひと時も目を離せない。今回は、息子をおんぶして、娘の手を引くことにした。心配は、幼稚園後の外出で疲れた娘が、帰りに本気で寝てしまったらどうしようかと、いうこと。息子10キロ、娘17キロ、2人担いで歩けない。

◆6時過ぎには会場へ。2人とも「ママが行こうって言うから来たけど、ここで何するの?」という感じ。会場のドアの前に立った途端、娘の人見知り炸裂。ぽろぽろ泣いて「入らない〜」と言う。娘は、大人がたくさんいるのも、パッと注目されるのも怖い。反対に息子は、何があるの?とワクワクが止まらない。

◆予想通りの展開だ。娘を励まし、息子をなだめ、後ろの方に席を取ろうとしたら、娘が「前のほうが良く見えるよママ」とベソかきながらアドバイスしてくる。「そうね、でも頼むから静かにしておくれよ2人とも!」と心で叫びつつ、前方の端っこに座った。息子のジタバタも、娘の涙も止まらない。結果、膝の上に2人抱え、何のかんの言う口にお菓子を放り込み、40分持ったかどうか。早々に失礼しました。

◆最寄り駅では、最後の戦い。30分に1本しか来ない貴重なバスが、あと5分でくる。そんな時、娘から不穏な一言が。「おうちに着いたら、おてて洗う前に、おトイレに行くんだ!」え、もう今限界なんじゃない?バス来ちゃうけど! 心の葛藤はねじ伏せ、トイレに走る。戻ったらバスが出ていく後姿。あーあ。ぐったりタクシー乗り場に向かった。

◆通信で、瀧本柚妃ちゃんがほぼ毎月、報告会に出席、他にも子連れの方がいらしているようだ、と分かっていたので、行こうと思えたのだった。1年生のその柚妃ちゃんにも会えた。きちんと椅子に座って、私が話しかけると快く応対してくれた。ありがとうね、いつかうちの子たちも、こうなって欲しい。

◆皆様にはうるさくしてご迷惑をおかけするが、少しずつ参加したいと思う。私にも刺激的だし、皆さんとの再会は嬉しい。それに、子どもたちには、世界が広くて面白いことを知る良い機会になると信じている。(黒澤聡子

たくさんのすばらしい女性たちに出会うことができたWE主催の南三陸の旅。日本も捨てたもんじゃない

■10月31日、11月1日の土日、「WEとめぐる南三陸町」という被災地視察ツアーに参加した。主催した「WE(ウィ)=ウィメンズアイ」は、宮城県沿岸部に緊急支援で入ったRQボランティアの中から生まれた女性たちによる女性支援のNPOだ。会の理事でもある江本さん、ジャーニーランナーの渡辺哲さんも参加し、総勢10人ちょっとのグループで町を回った。仮設住宅を訪問し、船に乗って養殖場をめぐり、被災者の体験談を聞き、夜は大交流会で心づくしのご馳走をいただき、とイベントが盛りだくさんの、とても中身の濃いツアーだった。

◆南三陸町は、震災で6割の住居が全壊し、800人近い死者・行方不明者が出るという壊滅的な被害を受けたが、いまは、仮の暮らしから本格的な町づくりへの過渡期にある。鉄筋三階建ての立派な建物が完成した南三陸病院は、12月の開院を控え、その隣には新しい町役場が建設中だ。

◆高台移転の造成工事が進み、町民は少しづつ仮設住宅から新築の町営住宅や一戸建て、アパートへと移り始めている。被災地の課題はいま、物理的なインフラよりも、人々の暮らしの中身をどう作っていくかだ。WEは「女性が自らをいかし、元気に活躍できる」を目標に、南三陸町・登米市で支援を続けている。では、そもそもなぜ女性を支援するのか。

◆「被災のしわ寄せを一番受けるのは、障碍者、高齢者、乳幼児、子どもたちです。でも、そんな方たちのお世話“ケアワーク”に長けていてキーになるのは、実は地域の女性たちなんです。女性が弱いから支援するのではなく、ほんとうに弱い人たちにアクセスするために、女性にもっと力をつけてもらいたいと思ったんです」と、代表の石本めぐみさんは語る。

◆女性をテコに地域を再生するという、この視点がすばらしい。家庭内のグチを言い合う女子会のノリの気軽な交流の場をもつことから、小物などを販売する「手づくりマルシェ」、クラフト作りや料理などの「スキルアップ講座」や小さな事業を起こす女性への経営相談まで、支援の形は実に多様だ。10年前の中越地震の被災地に視察旅行し経験を交流するなど、他の地域にもつながりを広げている。

◆海産物の通信販売「たみこの海パック」を起業した阿部民子さんに海辺の仕事場で話を聞いた。夫婦でワカメなどの養殖をしていた民子さんは、津波で自宅も加工場も流されてしまった。ショックで海を見ることさえできず、早くこの町を出たいと思った。夫婦仲もおかしくなり、ふさぎこむ日々が続いた。「みんな被災しているから地域では何も言えない。でも、よそから来たボランティアさんには愚痴が言えたんです。それだけでも精神的に楽になれました」。

◆集落の33軒のうち船が残ったのは民子さんの家だけ。自分が立ち上がらなければ町の漁業が廃れてしまうと一念発起。ワカメから始め、挫折も味わいながら、ヒジキやコンブ、さらにカキ、ホタテへと、扱う海産物を増やし、今では4人を雇用するまでになった。民子さんは、3人の大きな息子がいるとは思えない若々しい笑顔で、もっと地域にお役にたつ事業に育てたいと語ってくれた。うれしい話である。WEでは、経営コンサルタントを紹介するなど側面から事業を支援している。中越地震被災地の視察には民子さんも参加し、新潟県でがんばっている女性たちと交流してますますやる気がわいたという。

◆それにしても、息の長い支援を続けるWEのスタッフは大したものだ。多くが震災で初めてボランティア活動をやったというが、代表の石本さんら主軸のメンバーは隣の登米市に住み着き、4年後の今なお、実にきめ細かな支援活動を展開していることに驚く。魅力あふれる女性ばかりだったことは言うまでもない。

◆さて、二日目の朝、仮設商店街の朝市に行くと、焼き芋を売る女性がいた。「ひーさん」というアラフォーの彼女、かつて南極越冬隊員として気象観測をしていたという。震災直後、沿岸地域でボランティアをするうち「ここに住みたい!」と思うようになった。豊かな海と山があり、食べ物はうまいし人情は篤い。「南極は、食糧から何から全部を外からもって行かないと生きられない。その対極にあるのがここ。人間に必要なものがすべてそろっている」。なるほど……。

◆一方で、自分の暮らしが、エネルギーを含むすべてをお金で買う、自然から切り離された異常なものに見えてきた。はじめは土日に通って来ていたが、次第に満足できなくなり、将来を嘱望されていた気象台をすっぱり辞めてここに移ってきた。今はキャンピングカーに寝泊りし、大工の手伝いなどのバイトでしのぐが、近く小屋を建てて住み、「衣食住に直結する仕事」がしたいという。

◆「ひーさん」の哲学をじっくり聞きたい。地平線報告会に呼べないかな。今回のツアーでは、被災地という厳しい環境のなかに輝く、たくさんのすばらしい女性たちに出会うことができた。日本も捨てたもんじゃない。(高世仁

印象深かったのは、今の福島にはない元気さ、そして、WEの活動に頭が下がります

■10/31〜11/1の2日間、「WE(NPO法人ウィメンズアイ)の活動を知る南三陸訪問ツアー」に参加してきました。このツアーはWEが応援し、パートナーとして活動している方々を訪ね交流するのが主な目的です。まず、現地で目に飛び込んできたのが、至る所にある盛土の山です。山が切り崩され、土地のかさ上げや高台移転のため、津波被害により鉄骨だけが取り残されている「防災庁舎跡」の周辺も盛土の山に覆われておりました。

◆防潮堤や漁業関連の施設が再建されている所も多くあり、復興が進んでいることを窺わせる一方で、災害公営住宅の建設が遅れており、長引く仮設住宅での生活を危惧する声も聞かれました。漁港近くの施設では翌日の「南三陸復興祭」の準備で作業されている女性の方とお話したのですが、皆さん元気な笑顔で“活き活き”としているのがとても印象的でした。

◆こういう“元気さ”は今の福島にはないですね。漁業にしても福島の港ではまだ試験操業により本格的な漁が出来ないため、港の活気が戻ってません。あらためて、福島とのギャップを感じました。また、海産物販売や養殖現場の見学ツアーを手掛けている女性の方や、津波により全壊した魚料理のお店を再開させた女将さん、皆さん震災後の辛く苦しい体験を乗り越え、力強く前に進んでいる姿には本当に勇気を頂きました。

◆今回見学させて頂いた所は、WEの活動のごく一部ですが、地元の方との繋がりを細かな点までフォローし、接している事がとてもよくわかりました。スタッフの方の中には、南三陸に移り住んだ方、遠方から南三陸に通っている方等、皆さんの懸命な活動には頭が下がる思いです。今回、あらためて現場へ赴き、現地の方と直に話することの大切さを実感しました。お誘い頂きました江本さんには感謝感謝です。(福島県いわき市 渡辺哲

福島の動物たちと向き合って56か月。今も、いろいろなかたちで保護活動に関われることを知ってほしいです

■「知らないふり、見なかったことにして、何もしなかったら私は絶対に後悔する。行動できなかった自分を嫌いになる。一生後ろめたい思いをすることになるだろう」。そういう思いで、東日本大震災直後に始めた、福島原発被災地の犬猫レスキュー活動。人間が居なくなった町で飢えて死んでいく動物たちのことを思うと居ても立ってもいられず、当初は無我夢中だったけれど、まさか、4年8か月経っても続けているなんて、我ながらびっくりです。

◆でも、そのおかげで被災地の最前線を見続けることができ、二度とできない貴重な経験ができました。福島のこと、被災地のことも自分の言葉で語れるようになりました。現在、福島へ通う動物ボランティアはごくわずかです。ほとんどが個人ボランティアで、中には仕事を辞めて福島に移住して保護活動に専念したり、一人で保護動物を数十匹も抱え込んでしまったり、モロモロ犠牲にして毎週必死に通っている人もいます。そういう姿を見て、多くの人は「動物保護活動に手を出すと、ああなるからやめておこう」と、引いてしまいます。

◆それではいけない、と私は思うのです。一人でなんでもやろうとせず、家庭や仕事を犠牲にせず、できることを無理のない範囲でやることが、長く続ける秘訣であると思います。 また、「旅に出られなくなるからペットを飼わない」という人も多いのですが(私もそうです)、一時預かり、ミルクボランティア(子犬、子猫の期間だけ預かる)、フォスターペアレント、動物シェルターでのボランティア、里親会の手伝い、PRや物資での後方支援、ペットの搬送ボランティアなど、いろんな形で保護活動に関われることを知ってほしいです。

◆これからは、福島の動物たちに限らず、こうした動物保護活動の底辺を広げることも考えていきたいと思います。(滝野沢優子


★「福島被災動物写真展 いのちをつなぐ 〜福島の動物たちをあきらめない〜」 ★

■11月3日(火)から8日(日)まで世田谷区砧5丁目の画廊での展示が好評のうちに終了、11月20、21日両日、多摩市たま・まち交流館で行われる。
 ◆日時
  11月20日(金)11:30〜16:30
   滝野沢さんらの講演会が15時から
  11月21日(土)10:30〜16:00
   講演会は13時から
 ◆会場
  たま・まち交流館(京王線多摩センター駅南口から徒歩3分)
  東京都多摩市落合1−45−2 丘の上パティオ新館地下1階 入場無料

30回目のキューバとその変貌に関する一考察

■国連総会は去る10月27日、米国のキューバ経済封鎖に対する破棄勧告決議案を、加盟193ヶ国中賛成191、反対2、棄権ゼロで可決した。反対したのは米国とイスラエルの2ヶ国のみ。1992年以来、連続24回目となる可決で、賛成は史上最多の191ヶ国に達した。キューバと54年ぶりに国交正常化にこぎ着けた米国は、今回初めての棄権を予想する声もあった。経済封鎖の解除は米議会の決定事項であることや、来年の大統領選挙への影響を避けるため、米政府は反対の姿勢を崩さなかったと見られる。

◆晩秋の年中行事と化したキューバvs米国の国連決議バトルだが、口さがないキューバ庶民の間では、もはや米国の棄権も想定内。それより、キューバ自らが米帝非難決議に反対票を投じるのでは、という超ブラックな噂すらささやかれていた。米国の経済封鎖を財政破綻の言い訳にできた時代はすでに終わり、新しい理由づけかガス抜きか、苦し紛れの新手を見せるのでは、という皮肉まじりの目線が飛び交うキューバの現状が悩ましい。

◆1989年の初訪問以来、キューバ詣でもこの度ついに30回目をマークした。説明するのもめんどくさいので、キューバは趣味/道楽ということにしているが、それにしても飽きもせずによく通ったものだ。では、昨年末の米国との国交正常化交渉以降、それまでのキューバとどこがどのように違っているのか? 革命の故郷サンティアゴ・デ・クーバのカーニバルを攻略した後、地方都市を経由しながらハバナに戻り、しばらく定点観測する機会を得た。

◆何より印象的だったのは、外国人観光客の増えたこと。下品で傍若無人な米国人で溢れ返る前のキューバを体験するラスト・チャンス、という駆け込み需要だ。国立統計情報事務所(ONEI)の発表によると、7月1ヶ月間で26万6821人、前年度比26パーセント増! 国別でもっとも多いのはカナダで7万2350人、以下イギリス、スペイン、メキシコ、フランスと続く。以前にキューバはそのまま世界遺産に指定して保存せよ、などという戯言を地平線通信に書いたことがあったが、マジにそうしたくなるほどレアな世界の例外、という事実に敏感に反応した結果だろうか。

◆受け入れるキューバ人の側はといえば、大雑把に見渡した体感度では、概ね3分の1ずつ、これまで通りの現状維持派、どう対応していいやら右往左往の思考停止派、そしてアグレッシブに過剰反応するビジネス先行派に分かれる。ただし、「世界中の富を積み上げても、キューバ人のプライドは買えない」という諺のとおり、どの層も根拠のない自信が揺らぐことはない。大金を払うからといってすぐに動くキューバ人ではなく、逆からすればプロ意識と集中力、向上心の欠如が先行する熱帯社会主義は、微妙に揺らぎつつも簡単には移ろわない。

◆とはいえ、昨年に較べて大きく変わった顕著な光景は、何といってもインターネットや携帯電話の普及ということになるだろう。もちろん10年以上前から携帯は出回り始めていたが、わずか1年の間にその所持数は倍加し、しかもその大半はスマートフォン! どこに行っても、歩きながらでも、うつむき加減に画面を見つめるおなじみの光景は、ここがキューバかふと疑うほど普通だ。

◆道端で広げたラップトップをのぞきこむ姿も日常化している。アイフォンならぬ中国製のチャイフォンを筆頭に、型落ちした旧モデルをさまざまなルートで安く仕入れたのだろう。その普及速度のすさまじさには驚かされる。それにしても、1950年代の旧モデルのアメ車が疾走する古い街並みと、歩きスマホのミスマッチなこと、どうにも絵にならない。

◆この夏からは、ハバナ市内各所の公園にWi-Fi(無線LAN)が利用できるホットスポットが開設された。ネットに接続するためには、専用のカードをETECSA(キューバ電信電話公社)で購入しなければならない。1時間有効のカードが2CUC(約260円)、カードの裏に、8ケタのID番号とパスワードが刻まれている。ネットカフェを兼ねたETECSAの周辺はいつも長い行列が取り囲み、人混みが薄らぐことはない。

◆しかし、ちょっと待てよ。キューバ市民の平均月収はおよそ500ペソ、つまり2580円という計算だ。いくら医療や教育が無償で、基礎食料品の配給制度が維持されているとはいえ、いくら何でもこのネット接続料は高すぎではないか。例えば、キューバで卵1個は5円ぐらいなものだから、日本人の感覚からすれば激安だろう。だが、月収2580円の5円となると、もうTKG(卵かけご飯)など絶対に食べられなくなる。この謎は……、うーむ、来月に続く。(カーニバル評論家−ZZz


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。近況など「ひとこと」を添えてくださると嬉しいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。

報告会に参加しましたが、お話しする機会を逃し残念でした)/林秀明(岐阜県在住。先日の講演会では、野元さん、西川さんの生き様の話をお聞きできて、とても興味深かったです。私の祖父は大正4年生まれの100歳で健在なので、支那や満州の話を話してくれる時に、よく聞いておこうと思います)/国枝忠幹(広島市 日本山岳会広島支部会報編集者 イラストレーター)/中村保(10,000円 10年ごしの『ヒマラヤの東―山岳地図帳』が来年1月末に出版されます。四半世紀に亘る最後の辺境チベットのアルプスとその彼方―南チベット、東チベット、四川、雲南、青海―踏査の集大成です。菊判(304×218mm)、352頁、地図53葉、写真540イメージ、オールカラー、上製ハードカバーです。英語・日本語・中国語の三ヵ国語版です。日本山岳会110周年記念出版で、京都のナカニシヤ出版が発行元です)/尾上昇(10,000円 ご無沙汰しています。地平線通信費、そろそろ切れるかと思いますので送ります。愚痴を一つ。来年施行の「山の日」何を勘違いしてか「登山の日」として解釈し、我田引水して事を進めようとしている輩が居ることです。困ったものです。元日本山岳会会長)/広田凱子/林与志弘


今月の窓

「基礎」の問題は根が深い

■「支持力」ということばをテレビのニュースなどでよく聞くようになった。横浜のマンションの杭施工偽装のおかげ(?)である。「支持力」「支持層」は土木・建築の専門用語で、何度も報道されているのでご存知の方も多いと思うが、支持力とは基礎杭がどれだけの荷重(重さ)に耐えられるか、支持層は杭を支える強固な地層ということである。

◆たとえば、総重量が1000tあるビルを10本の杭で支えるためには、単純計算で杭1本あたり100tの支持力が必要となる(SI単位系というのを使うことが義務づけられているので本当は100tといわずに1000kN《キロニュートン》といわなければならない)。

◆地平線会議ではあまり知られていないが、私は杭の支持力を確認する「載荷試験」を仕事にしている。施主からも施工者からも独立したいわゆる第三者機関に近い立場で、杭の支持力の検査を日々やっている。社員数わずか32人で最大手という、小さい業界である。

◆今回の事件は支持層まで杭が届いていなかったことが問題になっている。施工した技術者が偽装をしたことは許し難いことではあるが、元請会社や発注者(施主)もそれを見抜けなかった責任はある。しかし、それだけではない構造的な問題を孕んでいると私は思っている。

◆杭が沈んだ、という話はときどきあることで、先週もその案件で試験をしてきたばかりだ。原因のひとつは「地面の中は見えない」ことにある。施工した杭が地面の中でどうなっているのか、誰にもわからない。どれだけの支持力を持っているかは、バラツキがあり杭ごとに違うので推定するしかない。そのためにいろいろな手法があるが、実際に構造物ができたときに沈下する、ということは少なからずある。きちんと支持力を確認するためには載荷試験が有効であるが、様々な理由から、実施されないことの方が多い。

◆設計前には地質調査をして、その結果から杭がどれくらいの支持力を持ちうるかを計算するのだが、不確定要素が多いために「安全率」という考え方がある。通常、安全率は3(倍)とすることが多く、先の杭1本あたり100tの支持力が必要な場合、安全率を考慮して300tまで大丈夫なように杭を設計するのだ。そうすれば、余裕を見込めるので多少の問題があっても杭としては機能するわけである。

◆しかし、ふたつめの原因にも絡んでくるのだが、横浜の支持層は土丹(どたん)という「未固結泥岩」である。泥岩とは河原に転がっている石ころを想像してもらえばいい。堆積岩としてああいう固い石になるためには数千万年という時間がかかる。土丹の「未固結」というのはまだ数百万年しかたっていない地質年代的には新しいもので、要するにまだ岩(業界では“がん”と読む)として固まりきっていないものである。

◆ただ、土丹の問題は未固結であることではない。杭の先端が土丹層にしっかり届いていれば、十分な支持力を期待できるからだ。横浜の地形は起伏に富んでいるため、土丹層もでこぼこしている。つまり、支持層の深さが場所によって違うということだ。このことは業界では常識なのだが、実際に私も横浜で、数メートル離れて打った杭で土丹層の深度が3メートルも違ったという経験をしている。

◆報道でもあるように、同じ長さの杭を施工しても支持層が深いところでは、杭の先端が支持層まで届いていないわけである。地質調査を綿密に実施して、杭1本ごとに長さを決めればいいのだが、そんなことをしていたらコストと工期がいくらあっても足りなくなるので、数少ない調査結果から設計をすることになる。

◆一般論だが、工法によっては掘削に伴う泥水が降りかかることもある3K現場で、杭の施工者はそんな設計と現実の板挟みとなり、自分ができる範囲でなんとか仕事を収めようとする。本来は設計変更を求めるべきだが、すでに施主に認められた設計は簡単には変更できず、施工者にしわ寄せがいくことになる。今でこそ下請け業者の立場は改善されつつあるが、つい10年ほど前までは、設計通りに施工できない業者が悪いという風潮が強かった。そんな強いストレスの中で何かが起きても不思議ではない。

◆私がいちばん問題だと思っている3つめの原因は、基礎にコストをかけないことだ。たとえば家を建てるときキッチンや壁紙など内装は真剣に考えてお金もかけるが、基礎のことを考えて造る人はほとんどいないと思う。内装はあとからでも変えることができるが、今回の事件でわかったとおり基礎はそうはいかない。家(構造物)を建てるときにいちばん大切なのは基礎なのだ。しかし、あまり興味を持たれないため、基礎に回される予算は最低限なものとなる。

◆設計(デザイン)とは「上もの」を考えることだと思われがちだが、地質調査を含め半分くらいは基礎のことを考えるべきだと思う。実際には調査と施工を含め全予算のせいぜい10%程度がいいところではないだろうか。このようにないがしろにされている基礎なので、技術者と呼ばれる人の中でも、地味な杭の施工や管理のできる人はものすごく少ない(元請や施主にはほとんどいないといっていい)。これがさらに基礎を軽視させることになっており、元請会社や施主が偽装を見抜けなかった原因でもある。

◆このほかにも、施工業者間の競争が激しいとか、コスト削減のために余裕のない設計をするとか問題点は多々ある。基礎の問題は根が深いのである。日本人がノーベル賞を受賞するたびに基礎学問の大切さがアピールされるように、これは建設業界だけのことではなく、基礎というものを軽んじる背景が日本にはあるのではないだろうか。[地盤調査会社勤務 地平線会議万年下働き 武田力


あとがき

■今月も多くのいい原稿をもらってありがたかった。「窓」に使わせてもらった武田君の話は、実に興味深かった。本人は地平線らしくないのでは?と遠慮がちだったが、とんでもない。地平線通信ではこじ開けられなかった地平線こそ拓いてほしい、と私は考えている。

◆黒澤聡子さんの挑戦とその報告の文章にも感謝したい。4才と2才の子を連れて地平線報告会に来てくれたのだ。一見無理そうに見えてやってみなくてはわからないではないか。私は地平線会議では少々やかましい子供の歓声はあって当然、と考えている。そういう空気の中でも話せますよ。

◆22日に迫った「日本冒険フォーラム 2015」。ひそかに私は大島育雄という人間の存在を意識している。北極を志す者のほとんどは大島さん(フロント原稿でちらりふれたが、日大OB。グリーンランド最北の村、シオラパルクに住み着き日本人エスキモーとして知られる)のお世話になったはずだ。

◆南極越冬体験を持つ朝日新聞の元編集委員、武田剛さんは、大島さんに出会ったことで自分の何かを変えたらしい。何が彼を動かしたのか。植村直己さんを追いながら、周辺の素晴らしい人たちのことも貪欲に吸収したい、と思う。そういうフォーラムです、22日は。

◆日本も捨てたものではない、と、ジャーナリストの高世仁さんに書かせた、東北の元気な女性たち。犬や猫のいのちに真正面から向き合っている滝野沢優子さんと仲間たち。こういう人たちがいることがどんなにありがたいか、と思う11月だった。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

最果てのパワースポット

南極と北極。地球の軸を結ぶ2つの極地は、ヒトの冒険・探検ゴコロを刺激して止みません。そこにひきつけられた行動者達は何を求め、何を得たのか?

今月の報告会は、植村直己冒険館との共催で、極地、極圏に魅せられた行動者の素顔に迫ります。会場も日程もいつもと違います。


地平線通信 439号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2015年11月11日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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