■惠谷 治 【EYA
Osamu】
1949年、東京生まれ、広島・尾道育ち。ジャーナリスト。早稲田大学探検部OB。「地平線会議」創設メンバーの一人。1979年10月の第2回「地平線報告会」では、中東、アフリカなどを回り、エリトリア解放戦線・人民解放戦線、サハラ人民解放戦線(ポリサリオ戦線)の潜入報告。通算4年、アフリカの解放区に滞在、ゲリラ戦を経験するなど、革命の熱気を伝える。第17回(81年2月)では、80年2月、アフガニスタン・ゲリラ解放区に潜入し、ハザラ族に扮してパキスタン・ペシャワールから300キロの山道を歩き、3回にわたって潜入した様子を報告。以後、軍事ジャーナリストと呼ばれる。第81回(86年7月)では、ウクライナ共和国チェルノブイリから130キロ離れたキエフに原発事故45日後に潜入し、持参した放射能検出器が鳴り続けた様子など、ソ連「核の冬」の現地報告をした。ベルリンの壁崩壊後、共産圏が消滅するという予感のなかで、90年2月から3か月をかけ、東欧全域を取材。歴史の裂け目としての東欧の現状を第129回(90年7月)報告会で語る。
- 039 北朝鮮 開城駅構内[1987年10月14日]
朝鮮半島を分断する軍事境界線近くに位置する開城駅に着いた住民たちの多くは、食料買い出しのリュックサックを背負っていた。
- 074 イラン クルディスタン[1989年3月18日]
第二次大戦直後に成立し短命で消えたクルド人の「マハバード共和国」の首都マハバード(イラン)で、にわか雨のあと360度の丸い虹がかかった。
- 075 アフガニスタン ニングラハル州チャプレヘール村[1980年3月12日]
ソ連軍と戦うアフガニスタンの解放区で、ムジャヒディン(イスラム・ゲリラ)によって撃墜された政府軍の武装ヘリのロケット弾発射ポッドの残骸。
- 134 スーダン マクール村付近[1991年12月29日]
スーダン南部のディンカ人たちの中には、今なお全裸で生活している者が少なくないが、槍の代わりにカラシニコフ突撃銃(牛5頭分)を持っていた。
- 135 スーダン アヌウェト・キャンプ[1992年1月13日]
牧畜生活を営むディンカ人たちは、蚊避けのため牛糞の灰を躰や顔に塗って眠る。朝、彼らに出会うとエイリアンに遭遇した気分だった。
- 136 スーダン SPLA(スーダン人民解放軍)解放区イロール村[1992年1月7日]
スーダン南部のサッド地帯に住むディンカ人の子供たちにとって、東洋人を見るのは生まれて初めての珍しい体験だったに違いない。(取材中の惠谷 治 撮影:中野智明)
- 163 アルバニア ジロカスタル[1990年4月25日]
イタリア占領下のアルバニアを解放したエンヴェル・ホッジャ第一書記の像が、彼の故郷に立てられていた(現存しているかどうかは不明)。
- 164 ノルウェー モイラナ[1984年3月14日]
ノルウェー北部のモイラナ駅から車で1時間ほど北の地点に、北緯66度33分の北極圏を表す標識が立っており、思わず途中下車してしまった。
- 165 スロヴェニア リュブリャナ[1991年7月19日]
独立したばかりのスロヴェニア共和国の首都リャブリャナの聖母マリア像の下を走る車の国際マークは、まだ「YU(ユーゴスラヴィア)だった。名前を聞き忘れた広場にて。
- 166 ドイツ ベルリンの壁[1983年12月1日]
東西に分断されていたベルリンには、チェックポイントと呼ばれる通路が開かれており、西ベルリンから日帰り観光が可能だった。旧東ベルリンからブランデンブルク門を望む。
- 167 クロアチア ヴコヴァル[1991年7月17日]
東スラヴォニア地方(クロアチア)のヴコヴァルはドナウ河の右岸にあり、川向こうはセルビア軍が駐屯する最前線となっていた。襲撃されたヴコヴァルの公民館で。
- 173 ロシア モスクワ[1982年11月29日]
クレムリン内部にあるウスペンスキイ(聖母昇天)寺院にはイワン雷帝の玉座があり、歴代のロシアの皇帝が戴冠式をおこなった。クレムリン寺院広場から。
- 174 ウクライナ キエフ郊外[1986年6月10日]
ウクライナの農村には木造のロシア正教寺院が多いが、正教寺院を別とすれば茅葺きの木造家屋は日本の田舎を思い出させた。
- 175 ロシア バイカル湖[1989年2月14日]
世界一の透明度を誇るバイカル湖の氷は厚くても透明で水中を見ることができるが、凍結する以前の湖面からは水蒸気が立ちのぼっていた。シベリア鉄道の車内から。
- 176 ウクライナ キエフ市内レーニン公園[1986年6月10日]
チェルノブイリ原発事故の直後も安全と宣言されたキエフでは、放射能被害について知らされていない市民たちがデートを楽しんでいた。