地平線報告会200回記念大集会 「地平線の旅人たち」 96年7月13日・東京ウィメンズプラザ |
★飯野昭司(DAS入力スタッフ、山形県酒田市在住)
〜山形から駆けつけてくれた飯野さんが、翌日さっそく「地平線HARAPPA」に書き込んでくれた感想をもとに、7月13日を振り返ります。〜
※ここでは細切れになってしまいましたが、飯野さんの報告の全文は、地平線通信201号で読めます。
》7888 [96/07/14 23:18] MXAXXXXX 飯野:楽しく有意義な一日でした
●昨日の大集会は、とても楽しい有意義な一日でした。早めに会場に着いたので、準備の手伝いを頼まれたのですが、長野さん・武田さん・中畑さんら実行委員の皆さんがテキパキと準備をされていたので、ほとんど手伝うことはありませんでした。(略)
【オープニング風景・ロスビエントスの長岡さんの叩くアンデスの太鼓が鳴り響き、開会を告げる】
●大集会のオープニングは、田部井淳子さんのお話。HAT-Jの活動や清掃登山(この日も午後から、会津駒ヶ岳へ出かけると言っていました)のことを興味深く聞かせて頂きました。田部井さんは普段とくにトレーニングをしていないが、足(靴)と呼吸にはいちばん気を付けているということでした。また、一緒に山に行きたい人はどういう人かというお話も、なるほどと頷ける内容でした。
【環境問題に取り組む田部井さんに、江本嘉伸さん(地平線会議代表世話人)がインタビュー。興味深い話をいくつも引き出した】
●第2部の「地球犬学」は、犬という社会的な?動物を通して世界の文化の違いを知る、という内容でした。北村節子さん・中村進さんのお話も面白かったのですが、なかでも高野孝子さんの、犬を食べる話が特に印象に残りました。
【左から、司会・進行をつとめた地平線犬クラブ代表・滝野澤優子さん、北極圏とミクロネシアでの犬と暮らした体験を語ってくれた高野孝子さん、キューバをはじめとする南米の犬についてユニークな話を披露した白根全さん】
●第3部の「女の行動学」は、女性がひとり旅をする際に遭遇するいろいろな問題について、かなりつっこんだ討論が行われましたが、金井重さんがうまく結論をまとめてくれていました。
【各国の民族衣装をまとった地平線の女性たちが、これまでなかなか語れなかった深いテーマに切り込んだ】
●第4部は、長岡竜介さんとロス・ビエントスのフォルクローレ・コンサート。はじめて、生のフォルクローレを聞きましたが、とても素晴らしい音楽でした。フォルクローレというと、代表的な楽器としてケーナが浮かびますが、そのほかにもいろんな楽器があるのですね。名前を忘れてしまいましたが、重低音?のでる管楽器の共演は迫力があって凄かったです。
【お祭りらしい雰囲気を盛り上げてくれたロス・ビエントスのメンバー。約1時間のコンサートを楽しんだ】
●第5部の「地平線の201人」は、過去のビデオをバックに流しながら、それに関係する人のお話を聞くという構成でした。報告会には一度も参加したことがないので、報告会のダイジェストというつもりで聞いていました。それにしても驚かされるのは、報告会が200回も続いてきたという事実です。長ければいいというものでもないのでしょうが、長く続けることの意義というか、長く続けるうちにはじめて見えてくることも多いと思います。会場にいらっしゃった報告者の方々は、当時のことを鮮明に記憶しているようでしたし、ほとんどの方がその後も様々な活動を続けていることを知って、さらに深い感動を覚えました。地平線会議というのは、まさに“自分がやりたいことをやる”人たちの集まりだと思いました。(略)
【ビデオを上映しながら、それぞれの行動者に前に出てもらい、司会の三輪主彦さんや江本嘉伸さんとのトークで、近況を報告しあった。この場面は、97年5月に北極点に徒歩で到達することになる河野兵市さん】
【地平線通信201号より】●白根全さん(第93、179、200回報告者、カーニバル評論家)…同窓会で和気あいあいもたまにはいいもんだ。でも言わせてもらえば、メジャー指向が少々鼻についた。超レシーブ(受けをねらい過ぎ)はチョベリバ(けしからん)ということですよ。イベントに連動した「地平線の旅人たち」の制作班としては、スタッフの皆さん(恩田真砂美・滝野澤優子・久島弘・森田靖郎・山田高司・長野亮之介)、お疲れさまでしたと心から言いたい。
【地平線通信201号より】★長野淳子(第3部司会進行・劇団「旅のもの」主宰)…第3部の「女の行動学」は、ディスカッションと寸劇の組み合わせがうまくかみ合って、初めての試みながら、おおむね好評であったとのこと。パネラー並びに役者のみなさん、本当にお疲れ様でした。改めて御礼申し上げます。
このパートは、熊沢正子、杉田晴美、中畑朋子、長野淳子の一見良い子の問題児集団が、「縁の下会議」を作って企画の検討をしパネルディスカッションでいくことが決まると、熊沢宅でのべ4日間の合宿をし、全体の構成や討論の内容を話し合いました。
でも、それぞれに旅に対する考え方が違うし、「女であること」と「旅」をどう結びつけて考えればいいのかわからなくて、なかなか話はまとまらない。(ほんとはご飯とお酒がおいしくて…)。他のパートが着々と準備を進める中で、第3部だけが見えてこない状況が続きました。
そんなある日の夕刻、四谷三丁目の風月堂でした。「進行が遅れている3部のために何かいい案はないか」という実行委員長の言葉に、三輪先生は一言、こうおっしゃったのです。「3部?だめだよ。あいつらにまかせてたら暗くなる!」 そんなこと言ってないぜえと、ご本人は思われるだろうし、他の人たちは気にもとめなかったに違いない。でも、杉田、中畑、長野の耳だけはすんなり通過していきませんでした。
杉田は思いました。「こうなったらとことんおちゃらけてやる」、中畑は「あんなことを言うのは私たちを励ますつもりなんだわ」、長野は「メチャクチャにしてやる」と思いました。後に電話で報告を聞いた熊沢は怒りました。「どうせあたし暗いわよ」
結果的にはこの三輪発言が起爆剤になり、縁の下会議は燃えました。「『てんぷく笑劇場』のノリでいきましょう」という杉田の提案で、ディスカッション中に寸劇を2つ入れることが決まり、さっそく台本の制作に入りました。途中、ゆきづまった長野が「芝居はひとつしかできない」と弱気になると「ひとつしかできないんだったらやめてしまえ」と杉田から激がとび、夜中に芝居の原案を綴った、怒涛のようなファックスが届いたこともありました。
とにかく、いろんなことがあって、当日を迎えた訳です。司会進行の不手際で質疑応答の時間が取れなかったり、活発な意見交換というところまでは議論が盛り上がらなかった等々、反省点はたくさんありました。ただ、私自身は本番での出来がどうということより、そこに到る過程を経験できたことが、一番嬉しかったし、楽しかった。例によって、おじさんの主導で始まった今回の大集会で、女4人で準備をし、女性たちのディスカッションができたことは、やはり意味深いことだったと思います。
from Another Angle
[温かいしゃべりで、会場をなごやかにしてくれた田部井さん。このあと、子どもたちを連れた清掃登山のために、会場から直行で東北に出発した]
[当日、印刷が間に合わなかった『地平線データブック・DAS』の内容をパネルで説明。多くの予約者を獲得した]
[会場の2階には桟敷のような場所があり、ここでは、地平線イラストレーター・長野亮之介君のプロデュースによる、「地平線の絵師展】が開催された。地平線通信をこれまで飾ってきたイラストの数々を展示]
[準備にもっとも時間をかけた第3部の「女の行動学」。左から、長野淳子(司会・プロデュース)、堀田志津子、中畑朋子、滝野澤優子、高野孝子、杉田晴美、熊沢正子、金井重のみなさん]
[客席をぐるりとまわって会場を沸かしたロス・ビエントス。後ろのガラスのなかが調整室で、新井由己君を中心に、交代で記録や技術者へのキュー出しに当たった。「地平線の絵師展」をやっていた二階の桟敷が見える]
◆フォルクローレコンサート曲目
1 ディアブラーダ(悪魔のおまつり)/2 コージャ族のおまつり/3 コンドルは飛んでゆく/4 サクサワマンの踊り/5 高原の風/6 チョグイ鳥と鐘つき鳥/7 花祭り
[ラクダでサハラを横断した紺野衆君もひさしぶりに顔を見せてくれた。盛岡からかけつけてくれた]
【地平線通信201号より】★三輪主彦(第5部企画司会進行、マルチメディア・ランナー)…第5部は地平線報告者のうち20人の人に、自分の出演しているビデオを借り、2時間に編集した。1人あたりの時間は8分程度しかないので、内容はほとんどわからなかったが、本人に登場してもらってビデオの解説や近況を報告してもらった。ビデオ出演者以外にも、多くの人に登場してもらったので、総勢40人になった。話を聞くだけでは飽きるが、背景にビデオを流したことで気分転換になった。自宅で準備したときは良かったのだが、本番のときには映像が乱れて見にくかった。でもあまり映像がきれいだと、そちらに注意が集中するので、あの程度でよかったと負け惜しみを言っておく。
【地平線通信201号より】●紺野衆さん(83年8月大集会報告者、東北大学OB、医師)…約13年ぶりの地平線会議に参加した印象ですが、昼から4〜5本ビールを飲みながら聞いているうちに、日常生活の中で忘れていた昔の自分を想い出してしまいました。17年前22歳の時、駆りたてられたようにサハラのラクダ行を決意し、東京の3畳一間のアパートをねぐらに約10カ月で180万円の資金を作り、トレーニングと称して九十九里浜や暑い夏の東京を歩いていたころの自分。毎日毎日厳しいサハラの大地を自分の心と飽きるほど向きあいもがき苦しんでいたころの自分。ビールの酔いのなかであの時の色々なシーンの中の自分をみることができ、そういう意味では大変よかったのですが、心を熱くさせる話(個人の感情、興味の問題かもしれませんが…)も少し聞きたかったです。
[江本さんの質問に答える、自転車野郎の埜口保男君。今回は、精神病の患者をアメリカまで護送した、とんぼ返りの体験を語ってくれた]
[第5部。左から、豪州走行中の冒険王・賀曽利隆さんの奥さん、洋子さん。真ん中は、最後に締めた法政大学探検部OB・岡村隆さん。右は、島を愛する人たちのグループ・あいらんだあの主宰者で障害児教育に取り組む河田真智子さん]
【地平線通信201号より】●埜口保男さん(第169回報告者…看護士)…この集会に誘おうとしたけど、地平線会議といっても理解してもらえなかったので、「日本風来坊大集合の会」みたいなものだと説明したところ、ある友人は、どうせ中学校の体育館あたりでやるんだろうけど、何でウィメンズプラザなんてしゃれた名前が付いているのと真顔で尋ねてきた。どうしても私と青山が結びつかないらしい。 『地平線の旅人たち』を読んだ同僚が、この人たち正気なの。何人か入院しているんじゃない?みなウチに入院してもおかしくない人ばかりじゃないのといってました。
【地平線通信201号より】●賀曽利洋子さん(御存知“冒険王カソリ”の奥方)…開会時間に会場に行って、結局最後の「2次会」までいてしまいました。それだけ皆さんの話が面白かった。中でも田部井淳子さんの話は印象的でした。山に生きているだけでなく、都会の暮らしがあって山もあるんだ、というところが、夫の賀曽利と共通してるな、と思ったり。本人が一番しまった、と思っている失敗をあとまでじくじく言うような人とは一緒に山へ行きたくない、なんて言う話も身につまされましたね。
20代後半から30代にかけての若い女性たちの話を聞いていて、自分も家庭だけでない時間があったんだな、となつかしく思いました。会場で賀曽利のメッセージが披露されましたが、ああそうか、48歳になったんだ、なんてあらためて感無量でした。でも、それだけ娘や息子も育っているのに、子だもたちにはお父さんだよ、元気ですか、といった調子のはがきしか書けないんですよ。
地平線会議の良さは、この活動を通して大きくなろう、エラクなろう、という人がいないからじゃないか、と賀曽利と話しました。それがこれまで続いてきた理由なんでしょうね。
【地平線通信201号より】●●長く旅する [あいらんだー通信から抜粋]…(前略) 地平線会議の200回記念大集会には、北海道や九州からも、わざわざ駆けつけた懐かしい人たちもいました。それぞれの人の話を聞いていると、地平線会議に集う人たちは、18年分オジさんになっても、やっぱり現役の旅びとが多い。やはり「すごい!」と思いました。
勿論、オジさんばかりでなく、わたしよりももっとオバさんも現役だし、体力と自由時間をいっぱい持っているシングル(身一つ、母親でないという意)の世界を駆ける女性もいっぱいいました。大集会やパーティーが進行する中で、「すごいなあ」「立派だなあ」「うらやましいなあ」と、重度の障害児を育てながら旅をしている私は、長い旅はできないので、ちょっと取り残された気分になっていました。
(略)江本さんだけではなく、ずっと一緒に支えて来た三輪主彦さんにも、それに若手で実務を引きうけている人、私の知る範囲では丸山純さんや、白根全さんにも、きっと続けてくることは、大変だった時期もあったに違いない。その時、誰かが「続けよう」と踏ん張らなければ、会はつぶれてしまうのだもの。だから、「おめでとう」「おめでとう、地平線を支えて来た人たち」という思いでいっぱいになりました。[河田真智子さん(第45、89回報告者、ぐるーぷ・あいらんだー主宰者]
[会場内の模様がモニターで見られるので、ロビーはなつかしい人との旧交を温め、初対面の挨拶をする場にもなった。左から、この人の参加なくしては『DAS』はとうてい出せなかった山上修さん、神戸から駆けつけてくれたフィアンセの高下由美子さん、山上さんの盟友の尾田光浩さん。真ん中の写真も、『DAS』の入力で活躍してくれた落合大祐さんと、奥さんの金子美穂さん。カナト君がまだお腹にいるとき、美穂さんは身重の体でこつこつと入力に励んでくれた。右の写真は、山田まり子さん(真ん中)と佐々木真紀子(右)さん。観文研に深く関わったお二人は、創設直後の地平線会議を支えてくれた]
【地平線通信201号より】●山田まり子さん(地平線会議発足当時、報告会の受付をずっとやってくれた。当日は札幌から駆けつけてくれました。)…7月13日の200回記念大集会への出席は去年からカレンダーに赤丸印をつけて楽しみにしていました。当日、会場の受付で見知らぬ人ばかりだったときはちょっと戸惑いましたが、まずは懐かしい三輪さんの笑顔に触れてホッとした気分。そう、考えてみるともう何年間も、ひょっとすると10年以上も集会に顔を出していないのでした。
'79年発足当時から'80年11月にイタリアへ発つまで、集会の受付には必ずといってよいほど、私も立っておりました。その後も、帰国の度に自宅に届いている地平線通信の熱心な読者でしたから、自分も地平線の仲間のつもりでしたが、今回の会場では知らない人の方がはるかに多く、その上、確実に若い世代の人が増えていました。不意打ちのフレッシュなエネルギーを感じながら過ぎ去った時間を辿り、新しい時代の流れを強く意識した一日でした。「あるく、みる、きく」魂を心に刻み、ずっと旅人として生きていきたいとイタリアにこだわりづづけた15年間。旅への憧れがすでに私の人生の一部とはいえない大きさに育っていることを深く確かめながら、札幌の夏を迎えています。
これからも集会にはなかなか顔を出せそうにありませんが、札幌でもフィレンツェでも私の生きる場所で、素敵な地平線の旅人たちとの出会いがあるはずです。その小さな出会いの数を地平線ネットワークへ結ぶお手伝いを始められたらと思いつつ、まずは江本さんはじめスタッフの皆さんに一筆御礼まで。本当にご苦労さまでした。
|
|