次回の上映作はまだ未定(交渉中)です

うんこと死体の復権——関野吉晴

[地平線通信543号(2024.7)・「今月の窓」コーナーより転載]

■今から50年以上前、まだアマゾン源流には、地図の空白地帯が若干残っていました。ペルー南東部のパンチャゴーヤと呼ばれる四国ほどの広さの地域は、まさしくそのような地域でした。いまだ地図のない地域があり、そこに文明と隔絶された先住民がいると聞いて、熱くなりました。その先住民マチゲンガに会いたいと、さっそく準備を始めました。

◆最初に訪れた村では、私が訪れたとき、全員が真っ青な顔をして、家から飛び出して、森の中に走り去っていきました。言葉のわかる案内人がいたので、彼らを探してもらい、私が害のない人間であることを説明して、家に戻ってきてもらいました。それ以降その一家とは、もう50年の付き合いになります。彼らは、私が自然と人間との関係を考えるとき、多くの示唆を与えてくれます。つまり、私の師匠のようなものです。

◆彼らの家に泊めてもらい、同じ食べ物を食べて、居候生活をしてみて、気付いたことがあります。彼らのゴミと排泄物と死体についてです。彼らもゴミをつくります。バナナやイモの皮、ゴザやカゴ、漁網、袋、衣類、ひょうたん容器などが壊れたり、腐ったりしたものをかき集めて、森に捨てます。

◆そのゴミは森の虫などの生き物に食べられたり、微生物に分解されて、やがて土になります。その土のおかげで、植物や苔、菌類が育つ。それらを動物が栄養とするのです。ここでは、ゴミが厄介なもの、消え失せて欲しいものではなく、必要なものなのです。

◆排泄も森の中で、野糞です。これも都会では水洗トイレに流されて、圧縮され、焼いてしまいます。他の生き物たちに利用されることなく、二酸化炭素が排出されるだけですが、ここでは、他の生き物たちに利用されます。

◆死体も都会では焼かれて、二酸化炭素が排出されるだけです。一方、マチゲンガの世界では、埋葬されるか、川に流されます。森では虫や土壌生物に分解され、川では、アマゾンの魚の多くは肉食魚なので、それらが死体を食べてくれます。その魚もいずれは他の魚や動物に食べられたり、自然死して腐食して、自然に戻っていきます。

◆自然界では、生き物たちは繋がっています。どんな生き物も役割があり、すべての生き物が循環の輪の中にいるのです。都会に住む私たちは完全に循環の輪の中から外れてしまっていますが、マチゲンガは、自然界の循環の輪の中にすっぽりと入っています。

◆4年前から、ドキュメンタリー映画を作ってきました。『うんこと死体の復権』というタイトル先行の映画です。文明社会では、邪魔物扱いになってしまったうんこと死体とゴミを見直してみようと、嫌われ者、鼻つまみ者の虫たちに金メダルを与えようと獅子奮迅の努力をしているおじさんたちの映画です。伊沢正名さん(糞土師)、舘野鴻さん(生物画家)、高槻成紀さん(保全生態学者)の3人が主人公です。

◆この映画では、うんこと死体とそれらを食べる生き物たちに焦点を当てています。不潔だ、気持ち悪いと嫌われ、疎まれている存在に信じ難いほどに関心を抱き、執拗に観察し、絵を描き、論文を書く。あるいは30年間野糞をし続けるおじさんたちが主役です。「持続可能な社会」という言葉が流行っています。私はそれが実現するために大切なことは「循環」だと思っています。「循環」に関して大活躍をするのが、うんこと死体とそれらを食べる生き物、鼻つまみ者たちなのです。

◆最初に登場するのが、糞土師の伊沢正名さん。1974年正月に初めて野糞をして以来、50年間野糞をし続けて、野糞の重要性を説く伝道師です。かつては、キノコ、シダ、コケなどいわゆる隠花植物の写真を撮っていました。常に下から逆光で、最大限絞り込んで長時間露光で撮った写真は写真集になり、図鑑などに引っ張りだこになり、その手の写真の第一人者になりました。

◆しかし、被写体のキノコたち、ひいては自然に対して、何かお返しができているだろうかと自問します。その結果、野糞こそが自然に報いる唯一の行為と開眼したのです。やがて糞土師に専念するため写真家を廃業、妻には離婚を告げられます。

◆保全生態学者の高槻成紀さん。絶滅危惧種や頭の良い、かわいい生きものばかりに焦点を当てるメディアやそれにフィーバーする世の中の動向に反感を持っています。私も同感なので、玉川上水その他で、高槻さんと、タヌキやその糞に集まる糞虫、死体に集まるシデムシの観察会をはじめました。

◆そこで、ヒトには侮蔑されながらも、懸命に生きている生き物たちを見て、自然界では、必要ない生き物なんていないことに気づきました。また、彼らの視点で、自分たちヒトの社会を見ることを学びました。

◆絵本作家の舘野鴻さん。処女作が死体を食べる「シデムシ」だということからわかるように、嫌われる存在にシンパシーを感じるひとです。最初のページがアカネズミの死体。皆が眼を背ける素材を飛び切り美しく描いています。そう、死体はムシや肉食獣にとってはめったに出会えないご馳走なのです。

◆学生時代には新左翼の立て看板を書き、アングラ劇団で主役を演じ、バイクで爆走してきた舘野さんはカブトムシやカミキリムシを描く気にならなかった。日陰者に光を当てるのが性分なのだ。

◆3人にはもう一つ共通の特徴があります。孫の世代に、「じいちゃんたちが動かなかったから、こんな醜い地球になってしまったんだ」と言われないためには、どうしたらいいかを常に考えています。自分たちが観察したり、経験から大切だと思ったことを、積極的に観察会やワークショップを通じて、子供たちに伝えようとしています。

◆野生の生き物で、必要ない生き物はいません。私が尊敬するウジムシを見てみましょう。集団で、踊るような動きをしながら死体を食べています。ギューッと密集して動く様は、とても躍動的で、地震の原因はウジムシではないかと思うほどです。

◆毎年、害虫展が行われます。害虫をモチーフにしたアート作品を公募して行われ、今年で4回目になります。昨年、主催者から、生物画家の舘野鴻さんとの対談を頼まれました。舘野さんと意見が一致したのは、害虫、害獣という言葉が人間中心的な考え方だということです。例えばハエやその幼虫ウジは人間には害虫と見られ嫌われ者です。しかし、ハエは植物の受粉になくてはならない存在です。ウジは脊椎動物や無脊椎動物の死体の肉、内臓だけでなく、皮まで食べ尽くし処分して土にします。食べ尽くすと地面に潜り蛹になります。自然界では益虫なのです。

◆彼らは、死体やうんこを片付けてくれる分解生物として、重要な役割を果たしているのですが、彼ら自身は遺伝子の命ずるままに、必死になって生きているだけです。必死に生き抜こうとした結果が、生態系を安定化させています。なおかつ自分たちが生態系の安定に寄与しているなんて、思ってもいません。

◆彼らとウンコ、死体とそれに集まるムシたちを観察していて、気がついたことがあります。ムシたちも、ムシたちにウンコと死体を提供する野生動物たちも、何も身につけずに、ナイフも持たずに、徒手空拳で自分で食料を獲得して、生きています。私たちは動植物の生きた細胞を食べて生きています。しかし、彼らは排泄物と死体だけを消費して、殺生せずに生きています。僕は、彼等をカッコいいと思い、憧れるようになっていきました。どうしたら彼等のようになれるのか?

◆僕は野生の生き物の様に、「徒手空拳で、森の中に1人で入って行って生きてみたい」と思いました。アマゾンのマチゲンガは、ナイフ一本持てば、他に何も持たずに、衣食住すべて調達して生きていけます。僕も彼らと長く生活を共にしていたおかげで、ナイフ一本あれば、アマゾンの森に放り出されても、生きていける自信はあります。

◆しかし、森の中で、ナイフも持たず生きていけるのか? 憧れていた、野生動物のような生き方をできるのか? 一年前から、東京郊外の森、続いて新潟のマタギの村で、その試みを始めました。まずは石器作りから始めました。それで木や竹を切り、紐を綯い、家を作り、小魚を取る筌を作り、罠をつくり、火を起こし、ドングリを拾い、石器だけで、様々な道具を作る。狩猟採集の旧石器時代の再現を試みています。

◆今まで、空間的な移動の旅をしてきましたが、今回はタイムマシーンに乗って、旧石器時代へと遡る旅です。毎日が試行錯誤の連続です。なかなか思うようにはいきませんが、創意工夫の手応えがあると嬉しいし、毎日がワクワクしています。

8月の地平線報告会で、たっぷり2時間半語っていただきます

8月31日(土)の地平線報告会に、関野さんが登場します。開演は14時。17時から近くの中華料理店「北京」で二次会をやります。地平線報告会はどなたでも参加いただける、自由な場です。事前の申し込みも不要です。詳しくは、地平線会議のウェブサイトで。

この記事を書いた人

地平線キネマ倶楽部事務局。デジタルエディター。北部パキスタン文化研究者

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