もんがあ里美さんから新年東北旅第一報

2012年になりました。しばし、このニュースも手つかずのままでいましたが、3.11関連の動きはその後も続いています。私自身も年末は登米に行っていました。もんがあさんこと、古山里美さんからその後のエネルギッシュな東北旅についてレポートが届きました。まだ1年も経っていない3.11。ことしもいろいろな人が向かうでしょう。(E)

12月の3連休と年末年始も時間が取れたので、マイカーで東北へ行った。2011年は、我ながら、ホントよく東北へ行ったなぁ、と思う。年末年始を含めた東北(RQやいわきの生木葉ファームも含め)への訪問は24回、合計86日の滞在となっている。

さて、3連休。12月22日(木)はダンナの仕事が終わったところを横浜でピックアップし、高速に乗り途中のSAで車中 泊。23日(金・祝)は、福島飯坂ICで高速を下り、国道13号で山形県に入った。米沢市で昼時だったので、米沢牛の専門店に入る。安くはないが、一生に一度だと、米沢牛のステーキを注文。シェフが目の前で焼いてくれ、素材も焼き加減も最高~!! 他に客はいなかったので、シェフに話しかけてみた。「ここまでは、まさか原発の風評被害はないでしょうねぇ?」「いや、最初の頃はありましたよ」「じゃあ、今は大丈夫なんですね」「あと、一時期、放射能に汚染された稲わらを食べた牛からセシウムが出た時があって、その時は流通がストップしましたよ」「そうですか…」山脈を越えて、山形までが巻き込まれる原発事故、恐るべ し、だ。

この日は山形県をさらに北上し、新庄市から国道47で再び奥羽山脈を越え、鳴子に入り、東鳴子温泉の「初音旅館」という、賀曽利さんオススメのライダー大歓迎の温泉旅館に泊った。前にバイクで1度来た私達夫婦のことも憶えていてくれた。ここの女将や若旦那からは、震災時のお話などが聞けた。

若旦那は、あの時、古川に車で来ていたそうだ。地震で車を止めた脇の建物は、比較的新しい建物だったが、ちょっと手前の建物は古く、壁などがバラバラ崩れて来て、その横に止めていたら危なかったかも、とのこと。そういえば、この辺りや登米などは、地震の揺れが最も大きかった地区だった、ということをこの話を聞いて思 い出した。

夕食で頼んだ地酒は、地震で酒蔵が壊れてしまい、今は空いていた酒蔵を借りて造っているとのこと。旅館自体は、古い造りだったが、柱が数多く用いられたがっちりした構造で、幸い大きな被害はなく、停電で困った程度だったとか。また、一時期、ここにはボランティアも滞在し、朝5時から活動していたそうだ。

翌日24日(土)は、宿のすぐ前にある鳴子御殿湯駅に立ち寄る。版画家、大野隆司さんによるほんわかしたムードが漂うの畳大の作品(”猫こけしアート”と呼ばれるそう)が待ち合い室に何枚も飾られていたが、復興を願うメッセージも添えられていた。東北道へ向かう途中にある「あ・ら伊達な道の駅」 では、大崎エリアを中心をした(鳴子も大崎市だ)震災の写真集(「東日本大震災ーその時、大崎は…」大崎タイムス社)が出ていて、購入。パラパラめくると、その場にいたらとても冷静でいられなさそうな物凄い壊れ方をした道路や建物などの写真が目に飛び込み、今まで、津波の被災地を見る事が多かった私だが、改めて、津波が来ない場所でも、地震は恐ろしいと実感した。

その晩は、仙台泊。クリスマスで、しかもわりと直前にネットで宿を探したため、中心部の安めのビジネスホテルはどこも満室で、郊外の「ベストウエスタンホテル」がやっと残り1室だったのを獲得した。仙台の中心部から5キロほど北西にあり、建物 も近代的で、一見、被災はしていなさそうだった。しかし、話を聞くと、震災のため、ライフラインがストップし、給湯施設なども壊れたため、一時ホテルは休業し、8月6日から再開したということがわかった。

また、この宿へ向かう前に、海岸線も走った。まずは、蒲生地区にある日和山へ。標高6mの元祖日本で一番低い山で、2007年に訪問したことがあり、震災後、4月23日にこの地を訪れようと試みたが、道が瓦礫に阻まれ、近付くことができなかった。しかし、今回は、片付けが進み、そこへたどり着くことができた。

すぐ近くに民家があった記憶があるが、今、それは、ない。周囲は、家の土台のみが点在していた。山は、高さが変 わったかは不明だが、その場所に、日和山と書かれた看板が立てられ、裏はホワイトボードになっていて、メッセージが書けるようペンも置かれていたので、復興を願うメッセージを記しておいた。それから南下し、岩沼市(ここも津波被害が甚大)にある、日本唯一の航空安全の神様を祀る神明社へ。やはり4月23日に日和山に続けて来て、ここは神社まで来ることができた。しかし、かろうじて社は残っていたものの、物凄い瓦礫に覆われていた。今回は、その瓦礫がきれいさっぱりなくなっている。が、そこで神社の復興はストップしているようだった。

周辺の家々は、もちろん、土台のままで、そちらの復興すら進んでいない。 神社復興ということは、周辺も一緒に、ということなのかはわからないが、いつの日かそんな日が来るのを願う。仙台泊の翌日は、また奥羽山脈を越えて山形に入り(冬だから雪景色を見たいというダンナの意向)、天道温泉で温まってから帰路についた。

さて、年末年始も、またまた東北だ、ってことで、28日(水)も前回同様、仕事を終えたダンナをピックアップし、途中で車中泊して、やっぱり雪が見たいというダンナの希望で、翌日29日(木)はこれまた前回同様、福島飯坂ICを下りて国道で米沢に入り、山形を北上。夕方になったところで、銀山温泉(山形県尾花沢市)が近いことに気づく。よく山形のパンフで目にするが、情緒ある温泉街の 風景には憧れの念を抱いていて、いつかは泊れたなぁ、銀婚式の時にでもいいかなぁ、なんて漠然と考えていた。そんな銀山温泉に、今、泊れる可能性が急に浮上してきた。麓の大石田駅から直通のバスが出ているので、そこなら宿情報が聞けるだろうと、駅へ向かった。

観光情報のスタッフのお姉さんが親切にも宿に電話を掛けてくれて、2軒目で空きが見つかり、古勢起屋別館という、木造5階建ての立派な温泉宿に泊ることになった。宿の人によると、年末年始はいつも満室だから普通は泊れない、と言われた。原発の風評被害で、お客さんが、特に海外のお客さん(主に台湾、香港)のキャンセルが相次いだとのこと。また、日 本人でも、ここに来る際は福島を通るのを避けて、新潟経由で来る人もいるのだとか…。宿の方には申し訳ないが、私達にとっては、銀山温泉に泊れて良かった~。

翌30日はまた新庄→鳴子のルートで宮城に行き、北上して奥州市のバイク友達宅に宿泊。31日は予約をしていた普代村の国民宿舎くろさき荘へ向かうのだが、途中、三陸鉄道の久慈駅に寄り、三鉄応援商品である「きっと芽が出るせんべい詰め合わせ」を買い、車内でパリパリ食べつつ…、おいしい♪ くろさき荘では、年越しイベントで餅つきやそばの振る舞いなどの他、釜石の伝統芸能「虎舞」の披露もあった。踊り手は、なんと、三鉄の釜石駅長さん、菊地さんと いう方だ。なんでも、名物駅長さんで、テレビにも出たそう。

ユーモラスな舞いのあとは、三鉄の歌や、元車掌でもあるため、南リアス線の釜石駅から盛駅(大船渡駅の北にある)までの車内放送の観光案内のトークも、三鉄が復興したらぜったい乗ってみたくなるような名調子で披露してくれた。三鉄は乗ったことがない私だが、2011年の東北ツーリングでは、鉄ちゃんのダンナに連れられて三鉄やJRの駅も数多く立ち寄ったので、その駅の様子が目に浮かび、鉄道が復興したら、列車の旅もしてみたいと思った。

明けて元旦。暖かい部屋から大平洋に薄くかかった雲の合間から初日の出を見た後、外に出た。昨日ついた餅が炭火で焼かれ 、甘酒の振る舞いもあった。そこには、支配人と楽しそうに話し込んでいる地元の漁師さんがいた。漁師さんは、普代村の15.5mの防潮堤(このおかげですぐ内側の集落は、まったく津波被害なし)は、高さがあるだけでなく、田老など他の場所では、土を盛った上にコンクリートを被せているという造りがほとんどという中、譜代のは中に鉄筋を入れてコンクリートでがっちり造った構造なんだ、ということや、譜代の多くの漁師は、地震が起きてからすぐに沖へ船を出したので船の被害は少ない方だった、しかし、漁の種類によって船が違うので、普通漁師は船を2~3槽持っており、もちろんすべての船が救えたわけではない、などと 普代村の実情を話してくれた。

また、支配人だが、山田町の実家が被災しているとのこと。ここ、くろさき荘は高台で津波被害もなく、なごやかな正月を迎えてはいるが、実は、さまざまな人の気持ちを抱え込んでいるのだった。

1日の宿は、予約なし。国道45号で沿岸部を南下していると、時間的には大船渡が良さそうだった。泊れる宿のリストは前回、盛駅に立ち寄った際に手に入れているので、釜石あたりで電話を入れたところ、3軒めで空きが見つかった。大船渡の南部、下船渡の駅から近い高台の宿「オーシャンビューホテル丸森」。部屋からは大船渡湾が一望で、ここにいたら津波がよく見えたことと思う。このホテルで は、空いた部屋を被災した美容室に貸出していて「絆」という名の美容室があったが、正月期間は丁度お休みだった。夕食は、近くに復興屋台があるというので、そこへ。宿から車で5分程、国道45号を大船渡駅方面へ北上すると、明るいネオンが輝き、そこがそうだった。プレハブ造りで、20軒ほどはあっただろうか。ただ、”屋台”の名の通りどれも座席が少なく、すでに入っているお客でいっぱい。それではと屋台村のすぐとなりの、やはりプレハブ店舗の居酒屋に入った。

店内は広かったが、同じく多くの客で賑わい、やっと2人分の座席が空いていた。プレハブ店舗といえど、料理はあなどれない。海鮮ピザは、店員さんに小さいです よ、と言われつつも注文したら、確かに直径は小さいけれど、乗っているエビ、イカ、ミニホタテなどが溢れんばかりの盛り沢山で、感動! 他の料理もおいしく、満足、満足♪

2日は、宿から海に下り、下船渡駅から県道で北上し、大船渡駅へ向かおうと試みた。県道の両側は、黒色の紫外線防止土嚢がずらりと並び、茶色の吸出し防止材(見かけはジュータン)で覆われている。土木関係の職を持つダンナによると、道路のかさ上げ工事の準備だという。大船渡の地盤沈下も深刻だ。いくらも進まないうちに、大きな水たまりというか、道が水没している箇所があった。ザバザバ…、ダンナも慎重に運転し、そこを無事に切り抜けた が、その先は、ずーっと水没が続いていた。無謀なことはやめようと、今越えた水没箇所をもう一度戻り、上の国道45号に出た。

さて、実は昨日、1つ気になったことがあった。大船渡の宿を探して電話をかけた1軒目の宿「ホテル福富」。かけても全然出る気配がなくあきらめたのだが、場所は、大船渡駅よりも海側にあった。大船渡駅は津波で完全被災している。前(11月下旬)に通った時は、陸側の国道45号近くに寿司屋が開店した(ちょうど開店祝いの花環が立てられていた)のを見たが、それ以外、特に海側はまったく復興していないように感じられた。そこで本当に宿が営業しているのか? 果たして、そこの宿に行ったら、もち ろん津波被害はあったが、建物は存在し、下の階のガラスはすべて新しく取り替えられ、上の部屋にはカーテンがかかり、駐車場には車も泊っていた。よかった、リストの通り、間違いなく営業していたんだ、とホッとした。次回はここに泊って、夜は寿司屋かな、なんて夢も膨らんだ。その後は、震災後、何度も訪れ、1か月前にも訪れた陸前高田へ。前回は、1本松は、幹だけになった、と思ったが、今回、それは別の松だったことが発覚した。

本物は、茶色いながらもまだ葉を付けて、すっくと立っていた。そして今回は、初めて間近まで行った。根元には、「父母地蔵尊」と台座に文字が彫られたお地蔵さんが置かれていた。しかし、 観光客の多い事! ここで焼き芋の屋台とかお店を出したら、一商売できそう。次から次へと来る。千葉や横浜など、関東ナンバーの車も多かった。

正月休み最後の宿は、福島の飯坂温泉に予約を入れていた。聞きはしなかったが、ここも間際になっても予約が取れたのは、風評被害で客が減ったからかもしれない。チェックアウトの時に、3.11の時は、ものすごい揺れで、お客さんも帰したし、建物からみんな飛び出し、寒い中、余震も何度もあって大変だったと聞いた。そして、3日は一路帰宅の途へ。私事だが、退院を目前にした母の容態が急に悪化したと連絡を受け、心はそのことでもういっぱいだった。幸い容態は 落ち着いたが、今年の東北行きのペースは、そんなこともあり、控えめになりそうだ。しかし、少なくとも、ダンナには1月中に山形へ行ってもらわないと。実は、銀山温泉に泊まった翌30日に、車の電気系統の重要な部品が脱落し(脱落はたぶん前日)、なんとか修理屋には走行できたものの、もう年末で純正部品は手に入らないので、そこで車は預け、急遽レンタカーに乗り換え、自宅のある神奈川で乗り捨てとしたのだ。たぶん、1月中旬には直るだろうマイカーを、取りに行かねばならないのだ。長くなるので省くが、この時は地元の方にはずいぶん親切にされ、故障して余計な出費もあり、がっかりはしたものの、心温まる日でもあった 。

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11月25日の報告会、登米で8か月暮らした新垣亜美さんです

391回目の地平線報告会、25日の金曜日、18時30分から行います。報告者は、新垣亜美さん。宮城県登米の「RQ市民災害救援センター」現地本部で3月以来8か月以上、頑張っている地平線スタッフです。

そのRQ、今月いっぱいでクローズします。現地ボランティア仲間の間では「がっきー」と呼ばれ、活動を支えて来た新垣さんは、多分新たに編成する「越冬隊」に参加し、次の展開に関わることになりそうです。

それやこれやを含めて「東北での8か月」の貴重な体験報告です。お聞き逃しないよう。

以下は、地平線通信11月号に掲載された、案内より(文と絵:長野亮之介)

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オセッカイのぬくもり
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11月25日(金) 18:30〜21:00 500円
於:新宿スポーツセンター2F 大会議室

地平線通信385号報告会案内「今年2月に沖縄のオバさんから受けたお世話が、私の転機になった気がするんですよ!」と言うのは新垣(しんがき)亜美さん。数年前に父親を亡くし、気が塞いでいた亜美さんにとって、最初は御節介とも思えた親身な気遣いが、実はとても心を励まされるものと気づきました。東日本大震災後、何かできることはないかと3/25から現地RQにボランティアに入ります。以来、主に宮城県南三陸町を中心に現在まで8ヶ月に渡る長期支援を続けています。

「被災者の方々とのつき合い方だけでなく、次々と来るボランティアの方達との意思疎通も重要。一人一人の個性とどう向き合うか、日々手探りです。教員を志していた私にとって、教室でやりたかったことがここにあるような気がして」と亜美さん。

これまで剣岳の山小屋に住み込みで働いた経験や、屋久島に通った離島旅の経験も現地での生活に生きています。

今月は現地での越冬を前に一時帰省中の新垣さんに被災地での生活や心境の変化、被災者の現況などについて話していただきます。

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第390回地平線報告会

10月22日の土曜日、午後2時開始の特別バージョンとして、第390回地平線報告会が開かれました。今回のタイトルは、「フクシマ回覧板(ライブ)」。4月の報告会以後も動物たちの保護活動を続けている滝野沢優子さん、南相馬市で林業と障害児の施設を運営していた「自然環境応援団」の上條大輔さん、6月にも報告ししていただいた『チェルノブィリの今…フクシマへの教訓』を撮った映像ジャーナリストの高世仁さんに登場していただきました。

滝野澤優子さん

パート1の報告者、滝野澤優子さん。持参した福島県の地図で、現在の状況を説明。時折はさまれる地方紙の紙面を撮影したスライドに、福島県民がいかに国や行政に翻弄させられているのかを見せつけられる思いでした。

上條大輔さん

続くパート2は、上條大輔さん。地震の直後の脱出行からその後の状況判断、今後の展望まで、なまなましく語られる話に時間を忘れて聞き入りました。福島で増えている離婚の問題や東電の見舞金が働く意欲をそいでいる側面もあることなど、メディアにはあまり出てこない実態に、原発事故というものの深刻さを改めて考えさせられました。

高世仁さん

パート3の報告者は高世仁さん。まず、DVD「チェルノブイリの今、フクシマへの教訓」から、成人して甲状腺ガンに悩む少女のパートを視聴。その後の解説が素晴らしく、今回私たちが今後直面している問題の所在が、じつに明瞭にわかってきました。

パネルディスカッション

パート4では報告者3人に前に出てきてもらって、パネルディスカッション風に。地平線の仲間でもある本橋成一さんの「ナージャの村」を思い浮かべながら、今後のフクシマの行く末を語ってもらいました。

いつもより長く、4時間以上にもわたる報告会でしたが、まだまだ時間が足りなかったように思います。最後は滝野澤さんが福島県各地で撮ってきた、美しい自然や文化の写真をスライドショーで上演し、幕を閉じました。この報告会の模様は、地平線通信で詳しく報告してもらいます。

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あの「乗り上げ船」がついにクレーンで海に浮かんだ

「乗り上げ船」は、東日本大震災、とりわけ津波がいかに巨大でalあったか、の象徴だと感じる、と地平線通信5月号のフロントで書いた。以来、賀曽利君とは「乗り上げ船」について何回も話した。

「乗り上げ船」

江本さん、うれしいニュースが入ってきましたね。 震災7ヵ月を過ぎた今日(10月20日)、岩手県釜石港の堤防を突き破って乗り上げた3000トン級の大型貨物船、パナマ船籍の中国船「アジア・シンフォニー」がついに日本最大級のクレーン船によって吊り上げられ、海に戻されました。

今回の大津波を象徴するのが各地で見られた「乗り上げ船」(江本造語)。無数の乗り上げ船の中でもこの「アジア・シンフォニー」は最大でした。それだけに地元のみなさんは喜んでいます。ぼくも間違いなく釜石港復興の大きなステップになると思います。

震災2ヵ月後の5月11日ですが、福島県の小名浜漁港の岸壁に乗り上げた1000トン級の大型漁船が大型クレーン船によって海に戻されるシーンを見ました。港の関係者は「これで小名浜港復興の第一歩になる」といってました。

江本さんと先日、見てまわった福島県の松川浦は震災2ヵ月の時点では、おびただしい数の漁船が松川浦の町中に乗り上げていました。それが震災6ヵ月後には町中の乗り上げ船は1隻もありませんでした。

気仙沼では震災2ヵ月後では、何隻もの大型漁船がまるで折り重なるようにして乗り上げ、その下の迷路をバイクで通り抜けたことがあります。震災6ヵ月後にはそれら折り重なった乗り上げ船は撤去されていました。しかしここには大物が1隻、まだ残っていますが…。

江本さん、こうして乗り上げ船が1隻づつ撤去されていくのはうれしいことで、復興への道を一歩一歩進んでいるのを目で見るかのようです。(賀曽利隆)

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貞山堀-賀曽利隆さんの感慨

「東北のカソリ」を自称する賀曽利隆さんからの投稿です。

 

貞山堀

江本さん、今回の「いわき行」では、最後に閖上(ゆりあげ)まで足を延ばせて、ほんとうによかったですね。閖上は「鵜ノ子岬→尻屋崎」の東北・太平洋岸全域をまわってみても、超ド級で大津波にやられた被災地。小丘上の神社跡に立ち、被災地を一望したときは、体中の力が抜けるほど茫然・愕然としてしまいました。すでにきれいに瓦礫が撤去されているので、よけいに悲しさがつのるような風景が広がっていましたよね。

そんな閖上の貞山堀のいつに変らぬ悠々とした流れは強烈に目に残りました。太平洋の海岸線と平行して流れる貞山堀は日本最長の運河ですが、前にもふれたように北上川河口(現在は旧北上川河口)の石巻と阿武隈川河口の荒浜を結ぶもの。北上運河、東名運河と合わせて貞山運河とも呼ばれるそうです。

阿武隈川河口の荒浜は閖上同様、大津波の被害を激しく受けたところですが、閖上よりは立ち直りが速いというか、漁港は急ピッチで漁再開に向けて動いていました。閖上は港自体が大津波のみならず、大地震の影響を強く受けているので復興はより大変なことでしょう。閖上の漁港に1隻でも多くの漁船が戻り、以前のような賑わいを取り戻し、名物の朝市が再開されるのを願うばかりです。

ところで貞山堀ですが、なぜ「石巻ー荒浜」なのかがわかりましたよ。

北上川と阿武隈川という東北の二大河川を結びつける貞山堀ですが、北上川河口の石巻と阿武隈川河口の荒浜は伊達政宗の時代、仙台藩の二大港になっていたのですね。石巻、荒浜は仙台藩の米運搬の二大拠点だったという訳です。 それが今では荒浜の方はすっかり忘れられた存在になってしまったということでしょうか。この荒浜は亘理町の荒浜です。

それともうひとつの荒浜ですが、こちらは仙台市若林区の荒浜。今回の大震災初期に何度も、浜に200体ほどの遺体が流されていると報道されたところです。こちらの荒浜は貞山堀で集落が2分されていましたが、とくに貞山堀よりも海側の集落は壊滅的な被害を受けました。

その北、七北田(なきた)川河口一帯の蒲生も被害も甚大で、瓦礫撤去どころか、手つかずのまま残されているようなところもあります。 今回の仙台湾の湾岸を襲った大津波を「貞山堀」を通して見るのもひとつの新たな見方のような気がします。400年の歴史を越えて、「貞山堀」がまるで亡霊のようによみがえったような気さえします。(賀曽利隆)

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閖上(ゆりあげ)へ。一気に風化してゆく風景

14日深夜から15、16日の週末、地平線会議の仲間たちと福島、宮城へ行った。津波被害に遭いながら、立ち上がったある旅館を応援に、という趣旨だが、同時に時間の経過とともにどう被災地が変貌してゆくか確かめる意味もあったのだ。

関東地方と東北地方を分ける鵜の子岬を夜明けに迎えた。震災の傷跡は無論、茨城県内でもあちこちに見えるのだが、すでに一見してわからないまでに修復されている所も少なくない。平潟、勿来と北上して小名浜へ。まだ電気が断たれたまま点滅しない信号機がここには残っていた。

漁港近くの「みなと食堂」で朝食。魚を材料にした港町の食堂が復活営業しているのは、頼もしい。私は「うに・いくらご飯」を頼んだ。四倉まで上り、久之浜へ行くと、奇跡的に海辺の赤鳥居が生き残った波立海岸へ。鳥居まで歩いていこうとしたが、橋がやられていて通行不能となっている。

「よこ川荘」という民宿へ行く。津波に襲われた直後、1階は砂と瓦礫で埋め尽くされ、厨房内はめちゃくちゃに破壊され、「もう再営業は無理では」と以前からこの宿を知る地平線仲間は思ったというが、おかみは見事3か月で復活させた。そういう頑張った宿に14名で泊まること自体、意味があるのだ、と痛感。夜、原発問題などで議論は盛り上がった。

翌日は、川内村、葛尾村、飯館村と原発20−30キロ圏を行く。川内村の静けさに驚きつつ、飯館村に入ると役場前には観光バスが2台。大型の線量計の前で記念撮影する人たち。原発被害対策に関わる人たちなのだろうか。美しい色調のモダンな役場は、いつの間にか”視察順路”のひとつとなっている。

さらに南相馬市、相馬市を経て私としては初めての新地町へ。常磐線がずたずたにされたここは町がすべて破壊されて、跡形もない。「新地駅」の壊滅ぶりもすさまじく、ただため息をつく。

しかし、衝撃的だったのは、この日足を伸ばして行った、閖上(ゆりあげ)の惨状だった。地平線報告会でここで被災された方の話を聞いていた。テレビで何度もこの地の様子は放映されているので、ある程度想像できていたが、うーむ、それにしても。

一面、何もないのである。こんなに平らで広い町が津波に一気にやられたのか。4階建ての鉄筋マンションもすべて吹き抜け状態になっている。墓地は、一基ごとに墓標が倒され、時には底からくつがえされている。住民が逃げて助かった閖上中学校の建物がいとおしく思えた。

しかし、この閖上でさえ、すでに最悪の状態からは脱しつつある。瓦礫の山は、分別して移動され、さら地ができつつある。何もないが、時間が経つにつれて被災地は目に見えて整備されてゆき、震災直後の目を覆うほどの惨状というのは、明らかに影をひそめつつある。

風化しつつある風景。私たちは意外に早くあの未曾有の大津波がもたらした瞬間を忘れてしまうかもしれない。そう思って心がふるえた。何かが足りないのだ。おそらく「死」の現実、「死」の証拠から目を背けすぎているために。

 

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新北上大橋の開通を喜ぶ−賀曽利隆さんから

東北の被災地では多くの橋が流出、あるいは破壊されて交通を難しくしている。そのひとつ、新北上大橋が修復され、仮橋だが本日開通した。

新北上大橋といえば、児童、先生の多くが犠牲になったあの大川小学校のすぐ近く。3 .11当日、皆は校庭に集合してやや高台にあるこの新北上大橋のたもとまで逃げようとして間に合わなかった。現地に賀曽利君らと行ってみて、実際には津波の舌先はこの橋の上まで達しており、今回の大津波のものすごさを思い知らされた。

新北上大橋

江本さん、ひとつうれしいニュースが入ってきました。今日(10月17日)の午前11時をもって北上川にかかる国道398号の新北上大橋が通れるようになりました。

3・11の大津波で橋の大半を流された新北上大橋ですが、大震災7ヵ月を過ぎて、ついに仮橋が開通したのです。この橋が通れなかったので、対岸に渡るのは大変なことでした。北上川右岸の堤防上の県道30号でいったん国道45号に出、今度は左岸の堤防上の道で新北上大橋の対岸まで行くのですが、1時間近い時間のロスがありました。

これで石巻、女川方面から海岸ルートで南三陸町の志津川まで行くことができるようになりました。きっと復興の大きな力になると思いますよ。 三陸海岸の海岸ルートでいえば、すでに国道45号の津谷川にかかる小泉大橋(気仙沼市)、気仙川にかかる気仙大橋(陸前高田市)の仮橋も完成しているので、これで迂回ルートはなくなりました。被災地の復興は大変なことですが、一歩一歩、前に進んでいることを印象づける新北上大橋開通のうれしいニュースでした。(賀曽利隆)

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世田谷の高放射線量から、ラジウムについてひとこと

計測不能な線量が感知された世田谷の住宅街の騒ぎにはほんとうに驚いた。万一、あれが原発の「結果」だったら、どれほどの問題になるか、と。わけのわからない瓶の中の物質が原因らしい、それはラジウムらしい、とわかって心底ほっ、とした。安心するようなことではないのだが、実は「いい放射能」というのもあるらしいので。以下、温泉についてやたらに詳しい賀曽利隆さんからです。

日本三大ラジウム泉

江本さん、東京・世田谷の高放射線量問題は興味深く成り行きを見守っていましたが、発生源が床下の瓶だとわかったとき、ぼくはすぐにラジウム泉などの放射能泉の温泉を頭に浮かべました。

日本三大ラジウム泉というと栃尾又温泉(新潟)、増富温泉(山梨)、三朝温泉(島根)で、それら3湯は世界でも屈指の高濃度ラジウム泉として定評があります。放射線量を測ったら、相当の数値がでるのではないでしょうか。

ところがこれらラジウム泉はどこも古来、万病に効くといわれ、人気の湯治温泉になっています。

北海道の日本海側には1軒宿の茂津多海岸温泉という温泉がありますが、そこが近年、「日本三大ラジウム泉」以上の高濃度の温泉ということで脚光を浴びています。 島根県にはやはり高濃度の池田ラジウム温泉がありますが、ほかにもあえて「ラジウム」をつけた温泉地名があります。これらは天然温泉ですが、ラジウム鉱石を使った人工温泉も多数、あります。

人体にとって良い放射線と悪い放射線、この違いをすごく知りたいものです。(賀曽利隆)

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支援のスタンス−平野泰巳さんの投稿

 

福島への支援について、地平線会議への投稿です。念のためですが、福島に行って除染などボランティア活動をしよう、とは言ったことはありませんよ。深い関心を持つべきだが、何ができるのか簡単なことではありません。それはRQにしても同じでしょう。以下、全文そのまま載せます。

初めまして。静岡県に住む平野泰巳といいます。地平線会議に投稿するのにこのアドレスで良いのかわからないので、間違っていたらご容赦願いたい。

さて、地平線の面々を敵に回す覚悟で申し上げる。

福島を初めとする原発震災被災地への支援のスタンスについて、如何にあるべきかよく考えて欲しい。

ミイラ取りがミイラになってはいけない。これはレスキューに携わる者にとって、最優先事項と言って良い。人命を救うために、自分の命を危険に晒してはいけないということであり、要救助者を助けに行って、自分が要救助者になる愚を冒すなということでもある。

地平線会議の主要メンバーの方々には、こんなことは釈迦に説法であろう。文字通り命の危険を冒して冒険にチャレンジしてきた人達だ。周囲からは自分の命を粗末にするなとの批判も受けてきただろうし、自らも葛藤してきた筈と思う。だから賀曽利氏が福島へ行くのも、賛成はしないが止めもしない。自分が何をやっているのか、全て承知の上での行動だと思うからだ。

しかしそうでない人もいるのである。

被災地における放射能の危険については、政府(原子力マフィアの一部)の発表などあてにしてはいけないことくらい、地平線の皆さんには説明の必要も無かろう。・・・と思っていたのだが。

放射能の汚染地域には、救援のためであろうと入ってはいけない。そこに人がいてはいけないのだ。汚染地域の除染を進めるより、そこに住む人々を非難させる方が先決であろう。

風評被害についてもしかり。福島の生産者の方々にはとても辛く厳しい対応になるとしても、汚染された食品は食べてはいけないのだ。

「風評被害を防止する」ことを建前にした言論封じ込めキャンペーンによって、汚染食品の危険性について語ることが半ばタブー視されるようになってしまった。だが危険なものを危険と言うのは、決して「風評」などではない。

要は情報を鵜呑みにせず、自分で考えろということである。これは正に冒険者の得意とするところではなかったのか。

例えば考えてみてほしい。

除染と称して田畑の表土を剥ぎ取っているが、その作業に従事する者がその表土に触れて良いのか?。土ぼこりを吸ったりしないと断言できるのか?。表土を剥ぎ取る必要があるなら、田畑や家の敷地だけでなく、森や山など地表にある全てを一皮剥かねばならない筈だと気づかないのか?。一方では汚染されたからと表土を剥ぎ取り、その一方では同じ地域で取れた農作物を喜んで口に入れているこの矛盾に気づいた者はいないのか?。若者がそういう愚を犯すことについて、人生の先輩として取るべき態度は間違ってはいないか?。

地平線会議の考えるRQがどんなものであるにせよ、プロパガンダにどっぷり浸かった若者を汚染地域に送り込むようなことは断じてして欲しくない。

若者に限らない。もし汚染地域に入るのであれば、そのリスクを正しく理解していなければならない。

私自身、福島に支援に行くべきか否か、未だに答えが出せないでいる。新潟地震の時は、私も現地に入って色々とやった。でも今回は違う。現地に行けば、それは「ミイラ取りがミイラになる」ことでもある。命を大事に思うからこそ、助けに行くのだ。そういう者が自分の命を粗末にして、何が人命救助か。

そもそも、自分の命は自分の所有物なのか?。

恐らく命がけの冒険をしたことがある人ならば、一度くらいは考えたことがあるのではないか。もしかすると、この問いに対する明確な答えを持っている方だっているかもしれない。

だが私自身は未だに答えを出せないでいる。葛藤がある。

だから最低でもこの葛藤を知っている者でなければ、放射能の汚染地帯に乗り込む資格はあるまいと思う。

汚染地域の方々に対して血も涙も無い物言いだと言わば言え。嘘と知りつつ、おためごかしでその場を誤魔化し、人助けしている気になっている者、汚染された食品を日本のみならず世界中に拡散させ、間接的な人殺しに加担しながら人助けしている気になっている者、そういった者達と一緒にされるよりはマシである。

では被災地に対して何をすべきか。

除染を手伝いに行くことよりも、現地の被災者をいかに早く、多く、非難させるかを考えるべきではないか。何よりもそれが優先されるのではないか。

そして福島産の野菜を敢えて選んだり、汚染土壌を掘り返したりすることのリスクを、ちゃんと伝えていくことが、命の尊厳を守ることではないか。

この点について、もう一度考えていただきたいのである。

平野泰巳

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「奇跡のポイント」-生き残った神社、鳥居への賀曽利隆の考察

10月になりました。早速、元気な賀曽利隆さんからです。波立海岸の岩場に残った赤い鳥居は私も見て驚きました。美空ひばりの歌碑のある塩屋崎周辺も、確かに無傷でした。日頃、ひばりを神様と思う三輪主彦さんが「美空神社建てるべし!」と言っているのは、 わかるが・・・。

「奇跡のポイント」

江本さん、昨日は荒川河川敷のグランド、「浦和レッズランド」でサッカーの試合でした。そこへなんと三輪主彦さんが自転車を走らせてきてくれました。三輪さんとはサッカーそっちのけで、大津波の話で夢中になりましたよ。

話題の中心はもっぱら「奇跡のポイント」。「どうしてあんなにすさまじくやられたのに、あそこだけは大丈夫だったんだろうね」を連発したのです。
三輪&賀曽利が一致したのは「神仏のご加護」ということです。地質学者、三輪主彦をうならせたのは、神仏のご加護以外に、説明のしようのない奇跡のポイントがあまりにも多すぎるということでした。

福島県の波立海岸では国道6号沿いの「波立食堂」は大津波で押しつぶされました。ところが高低差のまったくない国道の反対側の波立薬師は山門、本堂ともに無傷なのです。それよりもさらに驚かされるのは、歩いても行ける岩場の赤い鳥居が残ったことです。

福島県の薄磯海岸の薄磯はいわき市では最大の被害を出したところですが、ここの寺はすぐ前までが家並みが壊滅状態なのにやはり残ったのです。それを渡辺哲さんと一緒に見たときは、「どうして、どうして!?」と2人で何度も言ったほどです。

宮城県の阿武隈川河口周辺も大きな被害を出したところですが、その近くの神明社は社がしっかりと残りました。すぐ近くの鉄筋の建物はグニャとなってました。

岩手県碁石岬近くの熊野神社の境内には日本一の大椿、「三面椿」があります。碁石海岸の周辺も激しくやられたところですが、熊野神社と三面椿はともに無傷でした。神社の石段のすぐ下までは大きな被害を受けているのですよ。

宮古湾入口の岩場に立つ龍神もあの大津波を受けながら残っていました。
これら「奇跡のポイント」は、人智を超えたところで何か大きな力が働いたとしか説明のしようがないのです。

三輪さんとの「奇跡のポイント」の話はまだつづきました。福島県の塩屋崎には美空ひばりの歌碑が建っていますが、岬の北側の薄磯、南側の豊間があれだけの被害を受けているのに、やはりここも無傷で残りました。三輪さんはここには「美空神社」を建てるべきだといってました。

気仙沼の岩井崎には有名な潮吹岩があります。ここでの奇跡のポイントは、海岸に建つ第9代横綱「秀ノ山」の像です。岩井崎周辺は気仙沼一帯でも、大津波に最も激しくやられたところで海岸近くの旅館や土産物店、食堂などはすべて全壊状態。その中にあって秀ノ山像は何もなかったかのように建っているのです。信じられない光景です。

塩屋崎の美空ひばり歌碑は「奇跡のポイント」として今、多くの人たちが見に行ってます。もうすこし被災地が落ち着いてくると、「奇跡のポイント」は東北・太平洋岸の人気スポットになるような気がします。みなさん誰しもが、奇跡にはあやかりたいのです。その奇跡のパワーを我が身に取り込みたいという思いが強いのです。(賀曽利隆)

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