あとがき全文

発売前は「あとがき」の一部を掲載していましたが、3月1日に刊行されたので、全文と差し替えました。

夜空のくろぐろとした高原への夢──あとがきにかえて

 本書は明治から大正、昭和にかけて日本の仏教者、冒険旅行者、情報員が閉ざされた国、チベットに潜入した記録である。十人の日本人がそこで何を見、何を書き残したか。それらはチベットが事実上中国に飲み込まれてその特有の文化が失われようとするいま、貴重な記録と言っていいであろう。

 本書のもととなった『西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人』は、月刊誌『山と渓谷』に二年三ヶ月連載されたあと、1993年3月に「上巻」、1年後の1994年4月に「下巻」を刊行した。「序章」の「ウランバートルの邂逅」の記述を受けるかたちで、昭和の木村肥佐生、西川一三の時代から書き始め、能海寛、河口慧海の明治時代に遡り、矢島保治郎、青木文教、多田等観そして野元甚蔵と、時代をくだったため、十人の旅人が登場する時代の経緯が多少わかりにくかった面があった。

 この文庫版では歴史の流れに沿って、旅人に登場してもらったため、わかりやすくなった、と思う。

 明治のあの時代、どうしてすぐれた日本の青年たちがチベットを目指したのか。この本が何よりも意図したのは、そのことである。チベットと言うと、すぐ河口慧海の名だけが取りざたされるこれまでの風潮に一石を投じたい気持ちもあった。

 生前、知己をいただいた司馬遼太郎さんにこの上下本をお贈りした際、その都度丁寧な文章をくださった。もうかなり時間が経つので天におられる司馬さんも笑って許してくださると信じ、以下に一部を紹介させていただく。

「明治末年から大正期にかけて西蔵高原の神秘は、天を飾る銀漢とともに日本の知識人をとらえてふしぎな夢を見させてきました。そのことが学問になり、探検になり、ほんの一部では仏教学のテキスト比較(チベット大蔵経と漢訳経典との比較)になったりしました」

 「いま忘れられようとしているとき、中国による侵略というリアリズムが日本にやってきましたが、日本人はいまひとつその現実にピンときていないようです。ひとつには昭和七年から十三年間中国を侵略したという自責がなまなましいからでしょうか。それにしても明治末年から大正期にかけての、夜空のくろぐろとした高原への夢はどうなったのだろうと思っていましたところ、『チベットと十人の日本人』でした。

 司馬遼太郎さんは、明治から大正にかけての日本の知識人たちのチベットへの情熱に深い関心を持っておられたのだろう。浅学の私に心のこもった感想を寄せてくれたこと、いまもしみじみありがたい。

 原則として上下本のあとに調査取材して加えた内容は少ないが、日本人にチベットのありのままを伝えた、という点で最大の功労者である河口慧海の新しい面、若き日の恋の話はじめ、新たに追加させてもらった事実はいくつかある。

 日本人が初めてチベットに立った年から百年経ったことを記念して、2001年12月15日、東京・青山で仲間たちと『チベットと日本の百年』というイベントをやった。健在だった野元甚蔵さん、西川一三さんが参加してくれたこともあり、250席しかない会場に500以上の聴衆が詰めかけて盛況だった。その席で「チベット人は大嫌いだ」と言い放った西川さんの単刀直入の語り口、おだやかな野元さんがダライ・ラマ十四世との出会いを懐かしげに語る優しい口調が今も深く印象に残る。

 貴重な生き証人であった西川さんは、2008年2月7日、亡くなった。故郷の昭和の時代のチベット潜行のことを知る人は故郷にも少ない。お通夜は20人足らずの参会者だった。翌日の葬儀では弔辞を読ませていただき、彼がいかに偉大な旅を実践し、膨大な記録を残したか、お伝えした。

 町の教育委員長をされた野元甚蔵さん(2015年1月30日逝去)の告別式には350人もの方々が詰めかけた。ここでも青年時代の野元さんがチベットでいかに稀有な旅を体験したか、そのことを本にし、若い世代に伝えたか、詳しく話した。ほんの少しお二人に恩返しできたか、と感無量だった。

 本書の取材には多田等観師の三女明子さん、矢島保治郎の長女、仲子さんはじめ多くの、方々の協力をいただいた。名作「チベット 上下巻」で毎日出版文化賞を授与されたチベット学者の山口瑞鳳先生には多くの基本的な知識をお教えいただいた。

 ふるい友人の星達雄、牧新一郎両氏には貴重な情報をいただいた。深く感謝したい。

 最後に『チベットと日本の百年』を共に企画した著名なチベット学者、貞兼綾子さんがこの文庫版の解説を書いてくださったことに最大のお礼を申し上げる。貞兼さんは一昨年4月ネパールで起きた大地震でほぼ壊滅したランタン谷の村人と家族のようなつきあいをされており、谷の復興に自分を投げ出しておられる、行動する学者である。」

 チベットに潜入した十人の先人たちにこの本を捧げる。

       2017年2月1日    江本嘉伸