1999年12月の地平線通信



■12月の地平線通信・241号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信241表紙●1979年の9月28日金曜日、アジア会館のA会議室は、記念すべき第 1回目の地平線報告会でにぎわっていた。報告者は、三輪主彦さん。

●山岳部の先輩だった宮本千晴さんから「今度、お前にスライドをやらせてやる。その代わり1万円だぞ」と聞かされた三輪さんは、トルコ留学の話を披露するだけで1万円ももらえるなんてすばらしいと感激する。ところがしばらくして「おい、早く1万円払え」。1 万円というのは講師謝礼なんぞじゃなく、生まれたばかりの地平線会議へのカンパだったのだ。「……というわけで、今日は1万円払ってしゃべらせていただいています」という三輪さんの言葉に、満員の会場は爆笑の渦につつまれる。

●当時まだ学生だった私は、まさに“目からウロコ”状態だった。うーん、すごい。これが地平線会議のやり方なのか。世界を駆け巡っている人たちは、パキスタンの乞食と同じ発想が苦もなくできるんだ、と。

●イスラム社会のパキスタンでは、乞食たちは悪びれもせずに堂々と手を差し出し、礼も言わずに立ち去っていく。それはなぜか。喜捨をするのは功徳を積むということであり、将来や来世にむけての投資であると考えられるからだ。徳を積む機会を与えてもらったんだから、感謝しなければならないのは、施しをする側なのである。

●あれから20年。三輪さんはその後何度か1万円をふんだくられただけではなく、この『地平線通信』の発送作業をずっと請け負い、最近では印刷まで引き受けてくれている。もちろん歴代編集長の頑張り、レイアウト担当者たちの地道な努力、イラストレーター陣の冴えたアイデアがなければ、『地平線通信』はとっくに休刊に追い込まれていただろう。また年報『地平線から』に関わった多くの人たちや、会計・受付などを担当してくれた裏方組の苦労も、忘れることはできない。

●しかし、こういった行為にたいして、申し訳ないといちいち深く頭を下げる必要は、パキスタンの乞食に言わせれば、どこにもないのである。彼ら、彼女らは、地平線会議のお世話ができることに喜びを見いだし、光栄ある役割を与えられたことに感謝しなければならない「世話させられ人」なのだから。そして、2000円の通信費カンパを払ってくださっているみなさんは、そう、「世話させ人」だ。地平線会議の活動を支えていると自負していただいてもけっこうだが、逆にそういう機会に恵まれたことに感謝しなくてはならない立場でもある。しかし、どちらも等しく「地平線会議の世話人」であることに変わりはない。

●これまで何度か、私も地平線報告会の報告者となってきた。そのたびに感じるのは、「いい機会を与えてもらった」ということである。準備する過程や当日の会場でのやりとりで、毎回多くの発見がある。報告者も会場費の500円を払わねばならないが、こんなに貴重な体験をさせてもらえるのだから、安いものだ。講演料やお車代をもらうなんて、とんでもない。こうして『地平線通信』の原稿を書いていても、やはり同じ。「つたない文章を掲載してもらっている」という意識が常にある。地平線会議という運動体は、パキスタンの乞食と同様、このあたりの心理を最初からすっかりお見通しだったようだ。

●こうした、いかにも日本人離れした“Cool!”な考え方を続けてきたからこそ、地平線会議は20年ものあいだ続いてきたのではないかと、私は思う。会員制組織にはせず、事務所も持たず、すべて手弁当でやっていくには、これしかなかった。どこかで一度頭を下げたら、論理的にすべてが破綻してしまって、活動の原理を見失ってしまう。地平線会議とは、時間と労力とお金を費やしてやる、高度で贅沢な“遊び”なのである。そういう意味で、最初の報告会で三輪さんが発したあの言葉は、その後の地平線会議の在り方をみごとに表わしていたと言えるだろう。うーん、さすがだ。

●9月から10月にかけて2ヵ月ほど、今年もまたパキスタンへ出かけてきた。泥沼化したアフガン紛争のあおりか、どこでも乞食がひどく増えていて、しつこさも倍増。痛ましさがつのったが、ふと気づくと、お金をもらうとちゃんとお礼を言って去っていく者もけっこういる。それだけ競争が激化しているからなのだろうが、へりくだった態度で接してこられると、施しをする側もなんとなく居心地が悪そうで、後味が悪い。

●ということは、昔の乞食のように、毅然として堂々と要求を突きつけたほうが、むしろ気持ちよくお金を払ってもらえることになる。そうか。じゃ、遠慮しないで、みなさんを21年目を迎えた地平線会議の活動にどんどん巻き込んでしまうことにしよう。いろいろとおもしろそうな企画もあるので、よろしく![丸山純]



報告会レポート・241
メコン瀑流航
メコン川源流航行調査隊
1999.11.26(金) アジア会館

◆東京農大探検部OBを中心としたメコン川源流航行踏査隊は、この夏、中国・チベットにまたがる未踏のメコン源頭部を世界で初めて漕破した。今回の遠征に至るまでには94年春の源流域偵察にはじまり5年という歳月が流れている。

◆メコン川源流最奥の村である“莫云”から北上し、水量的に航行可能な地点までヤクと馬によるキャラバンを組んだ。メコン川源流付近は、夏とはいえ一日の寒暖の差が30度以上と激しく変化し時にブリザードや突風が吹きつけることもめずらしくなかったという。

◆日本をでてから31日目、富士山よりはるかに高い地点からチベット自治区の昌都まで、高低差1500メートル、距離にして560キロを漕ぎ下った。ドライスーツに身を包みイリジウムで連絡をとりあって、準備・サポート共に万全を期している。今回の旅で隊員を苦しめたのは、切りたった崖が続く上流部での、ポーテージ(一旦上陸し舟をかついだりしながら運搬すること)だった。落石が狭い川の流れを阻み激しい白波と複雑なうねりが交差している最初の瀬では、ポーテージに6時間を費やし、夜遅くまで作業をした上に大岩の上で幕営と大変な労力を強いられている。隊長の北村さん以下、隊員の方々はあまり触れていなかったが、標高4887メートルから3370メートルという高所を下るのは、あまり前例がないのではないだろうか。これはもっと強調されていいはずだ。

◆隊の唯一の女性である山本さんが女性ゆえの苦労について質問されて「わたしが気を使う以上に周りの人も大変だったと思うし、女だからといって苦労したことはほとんどなかった」と淡々と語るのを、神妙な顔つきで聞く仲間の表情が妙に印象に残っている。彼らの川に対する強い強い思いはメコン源流部のみならずこれからも世界中に広がっていくに違いない、今回の報告にはそう感じさせる力強さが確かにあった。[石川直樹]


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●Hideo Noguchiさんから…カナダ発
 私も今年走りました 〜報告書〜


◆今年はアディダスの5ピークスというのがシーズン化されて、沿岸部の5つの山、内陸部、ロッキー山脈部のそれぞれの5つの山を走ってみようというレースがありました。ボクは沿岸部の5つの山を走りましたが、150人から300人ぐらいが集まって雪の上、岩の上、草の上を走りました。上位15人にはポイントが与えられ、3つのレースの合計ポイントでカテゴリー別に最終成績が出されます。なんだか走るのはさわやかです。カナダに来られる人がいましたらぜひ参加してもらいたいと思います(ほとんどスキー場で10キロ程度の距離のようです)。



●原健次さんから…

【9月24日から25日にギリシャで行われたスパルタスロン(245.3km 35時間3分)完走報告書が届きました。】

●丸山富美さんから…伊南からのたより

◆10月上旬、福島県の奥会津、伊南村へ移り2ヶ月が過ぎます。ここ伊南村で暮らし始めて、雪が二度降り積もりました…。 朝夕はめっきりと冷え込んで、一昨日は部屋の窓(南側は全面ガラス窓の部屋です)に付いた水滴が凍っていました。かまくらで暮らしている感覚に陥りました(窓割れないかなあ)。村内の雪は消えても、私の住宅の周囲だけは雪が残っている。っという寒さの厳しい場所に私の「すみか」はあります。村の暮らしの一部をお届けします。

【温泉は100円!】晴れて村民になった私は、家から自転車で5分の場所にある温泉に100円で入浴できます。(ちなみに村外からの人は310円)初めて温泉に行った日。「村に引っ越してきた丸山です。どうぞよろしくお願いします」っと番頭のおばさんに言うと「あらっまあ初めてねえ。私は村民の顔はみんな知ってるからねえ、顔おぼえなくちゃねえ」っと。100円一枚で温泉に。今は11枚で千円の回数券を持っています。

【いただき物であふれる台所】村の人は、ほとんどのお宅で家庭菜園で野菜を作っているようです。お昼の弁当の時も毎日、女性の職員の方たちと食べているのですが、つけものや和え物、煮物などを作って余分に持ってきてくれます。 1日の中で一番バランス良く食べているのは昼食時かな。おまけに、大根やキャベツやチンゲンサイや山芋、有精卵を分けてくれるので、一人で暮らす私にとってはありがたく、台所は、「新聞」にくるまれた頂きもので溢れています。

【駅伝の選手?】村に来てすぐ「今日は夕方5時半から練習だぞ」と声がかかり、「まっさかあ」と思っていたのですが、県主催の駅伝に「私が」出場する話が出ていました。高校卒業以来10年以上、本気で走ったこともなく、都内で暮らしている時も、もっぱら運動不足気味の「私が」? ところが、話は冗談ではなく、10月下旬から練習に参加し、雨の降る日も、吹雪きの中も車のライトで照らされた道路を(村に街灯が少ないため、10人くらいのスタッフが自家用車で道を照らしてくれる)毎晩中高生たちと共に走りました。

初回の練習は4キロ走って、吐きそうになっていた私も、本番は4.3キロを無事完走し、結果的にチームでは村で出場して以来の好タイム、好成績を残すことができました。駅伝を終えてから2,3日は村を自転車で走っていると『駅伝、お疲れさま』と、スーパーやガソリンスタンドや温泉や、職場やいろいろな場所で声をかけられて、恥ずかしかったり、嬉しかったりです。

◆まだまだハプニングは、たくさんありますが。今回はこの辺りで…。村民1978人という小さな村ですが、ここで採れるものを食べ、この地に流れる水を飲み、この地で湧いた温泉に入り、ここで生きる人たちと共に、喜びや厳しさ・辛さ(これは駅伝のことです)を共有しながら、短期間で村の暮らしやリズムに浸透していることを感じます。当分日々の出来事に感動と笑いと涙と失敗は続きそうですが、今はこの地で働き暮らせることを実感しています。

◆今年の冬、私の暮らす「家」は屋根まですっぽりと雪に包まれます。そんな暮らしを覗いてみたい方、ぜひどうぞお越し下さい…。Welcomeです。



新シリーズ 見えない地平線
のぐちやすおの刑務所レポート
その11 死刑台からの風景(3)

◆先月は残り時間15分で終了しましたが、ここまできてあと15分もかかるの?、と思われた方も少なからずいたのではないでしょうか。これは執行終了が心停止による死亡によって宣言されるために生じるトリックなのです。跳ね板に座らされてから床が割れるまで、どんなに手間取っても2分ですが、心臓があまりにも頑丈なため脳死以後完全に停止するには、さらに13分半もの時間が必要だからです。執行録によれば、その平均時間は12分から15分、最大25分でした。

◆さて、保安課長のゴーサインとともに跳ね板が開き、それまで死刑囚とはいえども生命を維持していた人間が落下、伸び切った麻縄が脛骨をへし折り、頸動脈を粉砕し、迷走神経をも遮断しました。かくしてあなたは、階下では落下の反動によって天井の梁を支点にただ揺れる、振り子のような物体となり果てています。

◆ここで一瞬の間をおいてから回収指示が発令、階下で待機していた医師と医務職員らがてきぱきと降ろして床に横たえ心電図をセット。けれども画面に映し出されるのは本来の心電図には程遠い、むちゃくちゃな波形です。落ちて平均13分半、波打つ心電図もついにフラットに。これをもって医師も死亡を宣言、保安課長も刑の執行終了を宣言して、とうとうあなたの抹殺オペレーションも完了という次第です。

◆なお執行を失敗しては大変なので、前日のうちに予行演習が行われます。もし麻縄が長すぎて落ちたとき床に足が届いたり、切れたりしたら死刑になりません。それで等身大のこけしを使い、麻縄の長さ、強さを再確認しておくのです。それと絞首台への13階段などといいますが、これは階下への13階段の誤りです。考えてもみてください、これから死刑を執行される人間が、階段を自力で上がれるほど気丈でいられるかどうか。

地平線忘れな草
ガンジス河源流自転車の旅

◆なんてこったい! こいつはマジでやばいことになってしまった。こんなところで盗賊団に出くわすとは。オレの人生もここまでなのか…。なにしろ相手は十数人である。めためたに叩きのめされた後ジープの荷台に監禁されたが、そこより3回脱出を試みその度に捕まって再三袋叩きにされたぼくは、もうどこへなりと好きなところへ連れて行きやがれ、という開き直った気分になっていた。ぼくの顔は最終ラウンドまで粘って結局KO負けしたボクサーのように腫れ上がり、体中傷だらけ、骨はきしみ関節は痛んだ。尋問が始まった。だが奴等の顔にも戸惑いの色が現れてきていた。

◆今回は源流を自転車で極めるというテーマでインド亜大陸を悠久に流れるガンジス河を旅していた。その源流域はヒンズー教のシバ神の聖地として巡礼者が後を絶たないという。ガンジスの川面で巡礼者が沐浴するシーンは旅人にインドの魅力を語るに充分といったところだ。この河もヒマーラヤを水源にしており、ぼくが得意とする地域の旅である。

◆季節は雨季でモンスーン期の最後の雨が降り続けていた。たまに開ける青空からは眩しいくらいに陽光が降り注ぎ、木々の梢からまだらの模様が小道に映し出されていた。緑の森の向こうにはガルワールヒマーラヤの雪の連なりもかいま見ることができる。おまけにぼくは一人気ままな旅行中で、ヒマーラヤの奥地へとペダルは着実に高度を稼いでいった。

◆そんな旅に出発して間もないある夜のこと。ここなら誰にも見つかるまいと道脇の薮の中でテントを張っていたのだが、どこからともなくインド人が3人近くにやってきてなかなか去らない。そのむき出しの好奇心にさらされるのもインドの旅の宿命といったところなのだが、その時はあまりに疲れていたのとおまけに睡眠不足だったのに苛立ったぼくは、奴等らを乱暴に追い払った。しばらくして、仲間を引き連れて奴等は復讐にやってきたのである。以下、冒頭の文のありさま。

◆どうやら奴等はぼくをテロリストと勘違いしたらしい。こっちはこっちで奴等を盗賊団と思っている。ぼくの持ち物からは武器も何も出てこないので誤解が解けたのだった。シンプルな生活の中で生きる彼らにとって、森の中に潜む非友好的な外国人イコールテロリストという短絡的発想に結びついてしまったのだった。やれやれ、とんだ忘れな草になりました。旅先ではいくら疲れていても怒ることなく常に優しく微笑んでさえいれば、ぼくみたいなバカなめに会わなくてすみます。

◆翌朝は近くの街の病院に連れてゆかれ骨折した指にギブスをはめた。村人はぼくを家に招待し眠る所と食べる物に不自由はなかったが、早く自転車をこぎだして自由になりたかった。体中ギクシャクして起き上がるにも苦痛が伴ったが、だけどぼくは一人気ままな旅行中のはずだった。だから村人の反対を押しきり自転車で出発した。

◆海抜3000メートルのガンゴトリの街で車道は終わった。その先のヒマーラヤの狭間の荒涼としたトレッキングダートを自転車で爽快に駆け抜ける当初の計画は放棄せざるをえず、その先は歩きになった。ガンジスの源流は雪の峰々の麓に口を開けている氷河の末端から流れ出していた。ここまではインド人巡礼者の定番ルートであるが、本当の源流はもっと上にあると考えたぼくはその氷河をよじ登り、右から小川が滝のように流れ落ちているのに沿って急斜面を登っていった。雲が切れつつあった。不意に広い台地に出た。海抜は4500メートル。そこからはシブリング峰、バギラッティ峰等いくつものヒマーラヤの雪のついた絶壁が圧倒的な迫力で聳えていた。そこはパラダイスであった。そしてそんな聖地にもヒンズー教の修行者が住んでいた。それは不思議な出会いだった。粗末なテントに一晩世話になったが、彼とは目でコミュニケーションをしなければならなかった。彼はもう4年間言葉をしゃべることを拒み続け、下界に下ることもなく瞑想を続ける聖者でした。

◆まあ、これがぼくが先々月の報告会で右手を包帯でぐるぐる巻きにしていた事の顛末なわけです。[荒野のサイクリスト 安東浩正]



地平線忘れな草
バスの止め方教えます

◆旅の先々で出会いがある。心がほんわかするラブリーな人々と出会うことがる、和やかな光景を目にすることがある、ユーモラスな会話/快話を耳にすることがある。街角で、宿屋で、市場で・・・。飽きもせず旅に出るのは、予知不可能かつ偶然的に発生するそれらに出くわしたいという期待感がかなり含まれている。

◆時は1989年インドネシア・ジョグジャカルタ。日暮れの路線バスに乗った。乗客は殆ど仕事帰りの人々だった。しばらくしたら車内がザワザワしてきた。あるおっちゃんが大声で言う「お〜い、運転手さん。道、間違ってるぞーっ!」路線バスの運転手さんが道間違える!?日本じゃ考えられないこった。また別の声「かーちゃんの事考えてたんだろー。早く帰りたいのはわかるけどよぉ」運転手さんも乗客もみんな笑っている。日本じゃこんな風にはいかないよなあ。ま、路線を間違える運転手さんにも滅多にお目にかかれませんが。

◆お次は1994年ジンバブエ・チマニマニ山脈へ向かう途中。またしでもバスでの出来事。年期の入ったバスは右へ左へと大きく揺れながら山道を登って行く。私のザックは屋根の上にくくりつけられているのだが、無事だろうか?トイレ休憩で止まったので、車掌さんに尋ねてみた。「荷物は大丈夫?」彼曰く「Safer than yourself!(中に乗ってるあなたより安全ですよ)」思わず吹き出してしまった。「じゃあ私も上に縛ってよ。」「おーマダム、それは出来ません。」

◆ 1994年ウェールズ・ウェルシュプール。チェスター行きのバスに乗り遅れてしまい、泊まっていたB&Bに引き帰してきたのだが、驚いた様子の女将(70代)に事情を話したら、いきなりスカートを引き上げ片方の腿をあらわにして足を軽く振り出した。どっ、どっ、どうしたんだ!?「お前さんたち、そういう時はこうやって車をとめなきゃ!」だって。大笑い。

◆こんなやりとりが旅心をいっそう潤わせてくれるのだ。いつも心にユーモアを![瀬沼由香]



斉藤実さん逝く

●◆11月22日夜、斉藤実さんが亡くなった。海水まじりの水でも生き延びることができる、と、4次にわたって太平洋で漂流実験を敢行した人。68才だった。1981年11 月の第25回地平線報告会の報告者ともなっている。

◆斉藤さんは、海難をテーマとするドキュメンタリーを製作する中で、漂流中の船乗りたちが飲み水の欠乏から死んでゆく実態を知り、海水を利用できないか、と考えた。漂流中の不安は、飲用水が十分確保できないことだ。「海水は飲むな」が当時の鉄則だったが、真水でわれば、飲用水の確保につながる。「真水1+海水2」が斉藤さんが自らの体験で割り出した比率だった。

◆地平線会議がつくってきた年報「地平線から1981」に、斉藤さんの25回報告会の模様が記録されている。短いが、斉藤さんの生き方を伝える文章である。『海難での死者を減らそうと、自らを実験台に海水飲用実験を続けている斉藤さん。手作りのゴムボートいかだ「へのかっぱ号」に乗っての太平洋ひとりぼっち漂流の話は、淡々とした口調とは裏腹に壮絶な印象を残した。科学的な裏づけを得るために、マウスによる実験や人間の淡水・海水飲用比較も進めているという、その徹底ぶりも、強い印象を与えた。50歳になろうという人間が、このような情熱を持ち続けている、それが全てだ。』

◆斉藤さんは4回の実験を試みた。サイパンから沖縄をめざしたその4回目で風速60メートルの暴風雨に巻き込まれて遭難、ほとんど絶望と思われる状況のなかで、奇跡的に漁船に救われた。1975年11月のことだ。さらに5回目の漂流実験をめざしていたが、救出直後に入院した病院で肝炎に感染し、結局健康上の理由で5回目以降の漂流実験は、ならなかった。

◆陸では交通事故防止をテーマとする記録映画の製作を仕事としていた。カメラマン以外は、ほとんど自分でなんでもやる手作業的な仕事。免許試験場や警察などで、交通安全映画として斉藤作品を見た人は案外多いかもしれない。

◆遅い結婚だったが、宏子夫人とは信頼しあっていた。秩父に移ってからは、マイペースの平穏な日々が続いたが、肝臓は慢性肝炎が肝硬変となり、肝臓ガンとなっていった。入院と退院を繰り返しながら、「こんどは肝臓にできた腫瘍を7つも焼ききった。もう26 年、肝臓とはつきあってますよ」などと、笑いながら言った。できあがった「能海寛チベットに消えた旅人」をもって夏、秩父の自宅を訪ねたのが元気な斉藤さんを見た最後となった。

◆11月17日、急に様子がおかしくなり入院。18日、希望して洗礼を受けた。クリスチャンの宏子さんに前からすすめられてもいた。でもまさか、そのまま逝ってしまう、とは誰も思わなかった。

◆26日、文京区関口の聖カテドラル大聖堂で告別式がおこなわれた。庭には斉藤さんと宏子さんがかって寄進した1.8メートルのヨゼフの像が立っている。

◆何もできなかったが、海の安全に体をはった冒険家のことをしのんで、「地平線会議代表世話人」の名で献花させてもらった。[江本嘉伸]



スルジェさんへ

◆平成元年の春、ご主人と一緒にバンコックのジュライホテルで一緒でしたね。ボクはアフリカからの帰り、スルジェさんご夫婦はネパールからでした。成田までのフライトも一緒にしましたね。あれからもう12年近くも経ってしまったのですね…。ご冥福をお祈りします。[のなか悟空]

◆87年ポカラのスルジェハウスにも、89年僕の下宿から歩いて 10分あまりの練馬のアパートにも、93年ハリーの結婚式を挙げたペワ湖に浮かぶ小島にも、いつもスルジェさんの笑顔がありました。これからはその微笑みを、遙か天空から僕たちに投げかけて下さい。合掌[楠藤和正・和江]



2000年1月は山形へ...
報告会 + 写真展「地平線発」

◆前号の地平線通信で、山形県酒田市在住の飯野昭司さんが書いたように、2000年1月23 (日)日から30日〈日)まで、山形県の出羽庄内国際村で写真展「地平線発」を開催、これにあわせて1月29日(土)午後、2000年代初の地平線報告会を同じ出羽庄内国際村和習室で開く予定です。

◆詳しい内容は飯野さんたちが練ってくれていますが、朝日村に住む鷹匠の松原英俊さん(年報『地平線から6』の「行動者たち」参照)、アマゾン民族館長の山口吉彦さんら地元の貴重なゲストのほか東京方面からも元気な面々が馳せ参じる予定です。

◆夜の部は目下休館中で来春再開の準備を地元有志の皆さんが進めている「つるおかユースホステル」に舞台を移し、2000年の旅について語る場とし、その後名物寒鱈汁を囲んで懇親会を開く計画です。

◆次号で詳細をお知らせします。写真展も貴重なチャンスです。是非いまから1月の計画に折り込んでおいてください。[地平線会議世話人一同]



今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙 12/22(水)
Friday
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500

これを見ないと2000年は迎えられない!!
チベット秘蔵記録+千年紀さよならオークション

↓いつもと違います。
12月22日(水)18:30〜21:00 \500
アジア会館(3402-6111)

地平線会議の報告テーマとして何度も取り上げられてきたチベット。しかし、その文化は片隅に追いやられようとしています。今回は 1938年から39年頃、ドイツの撮影隊が記録した未公開映画を、チベット人のケルサン・タウアさんの解説で特別に披露し、チベットの真の姿を映像でとらえます。

そして、後半は、世界のあちこちから持ち寄った“宝物”のオークション! オモシロイ解説つきです。オークションへの飛び入り協力、歓迎。FAX:03-3359-7907へ。


通信費(2000円)払い込みは、郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議/料金70円

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