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■9月の地平線通信・238号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)
■旅師たちの二十年■
「晴釣雨流というだろう」。雨で増水する渓流を尻目に釣師はさっさと竿をたたんだ。
●「それって晴耕雨読っていうんじゃないの」。未練たらたら私は“パラシュート”という大きめのフライ(毛鉤)を巻いていた。鬼と呼ばれる“名主”と出会ったのは、この夏の終わりだった。私に渓流釣りを手ほどきしてくれた釣師と、鬼の住む場所、乳頭山を訪れた。岩手県側では烏帽子岳と呼ばれるが、山の形が乳頭に似ているところから、秋田では乳頭山というのだそうだ。
●「鬼が棲むのは雪代が入る川だけだ」。雪解けで浄化された水の澄んだ川にしか“鬼の名手”は棲まないという。釣師は残雪の源流へと私を誘った。釣師はわずかな弛みや淵を六メートル級のテンカラ竿にオモリを噛ませて水底を探る。いわゆるダウンストリーム(流し釣り)というテクニックを釣師から盗み見した。
●名主は川底をゆっくりと尻を振りながら、小振りの手下を従え列を組んでやってくる。目の前の餌を確かめ、その先に釣針がついているのをまるで見破ったかのように尻尾で毛鉤を叩いて川底へ戻っていくから憎い。川底を支配する一尺を超える大イワナを釣師は“名主”と呼び、なかでも三年モノのボスイワナを“鬼”と名づけていた。
●釣師、文字通り、釣りの師匠との出会いは五年前の春だった。「名主を上げるには川にくらいつけ」。腰までつかるほどの急流の中ほどに私を引きこんだものだった。職漁者の血を引く釣師の釣り歴は四十年に及ぶ。「名主は尻で釣れ」。釣師がいうように、餌を“名主”の後ろにそっと落とす。すると、“名主”は身を翻し、瞬時に餌に食らいつく。イワナの野性を逆手に取ったテクニックで“名主”を初めて上げたのは三年目の春だった。
●「お前さんに教え込んだ釣りの方法は俺の四十年の経験から一番のものだ。しかし、あと一年もすると、お前さんは自分で工夫をしたくなる」。釣師にいわれて間もなく私はスランプに落ちこんだ。それでまた自分流に技を磨く。そして五年目の夏を迎えていた。
●釣師のテクニックは技術や経験だけではない。積年というやつだ。十年、二十年と年を重ねるとともに何度も繰り返される不滅の生産力である。釣師は言う。「この四十年、俺は仕事もしてきた。家族も養った。子どもも巣立った。親の旅立ちも見送った」と。年を積み重ねる毎に、体力は衰えても、それを補う社会人として身についた土壇場での危機管理の適応力を発揮する。過去の時間がモノを言う積年のパワーに、若輩は足元にも及ばない。「釣竿を持つには邪念はあってはならない。自分は山川草木の一部であれ」。五年目のこの夏、釣師の言葉で私はスランプから脱して“鬼の名主”を初めて上げた。
●結局は、釣師から教わった原点に戻っていた。すると自分で原点を見つけ出したほどの自信が生まれているから不思議だ。この夏、地平線会議は二十年を越えた。かつて私は“旅ごころ”を“魔物”と呼んだ。魔物を一度体内に宿すと、生涯この魔物と付き合わなければならない。魔物は永遠に年をとらない。魔物にとりつかれた旅師たちは、少年のまま老いて、なお蘇る。さらに三十年、四十年と積年を重ね、魔物を永久保存するのだろう。
●「十年釣りして三行書け」といわれたものだ。五年の釣り歴なら一行半か。地平線歴二十年の旅師たちは、もう六行も書けるではないか。【森田靖郎】
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伊藤幸司・松本栄一・賀曽利隆 ・河田真智子・桃井和馬 |
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■賀曽利隆(バイクジャーナリスト)
いやぁ、ほんと、20周年にふさわしい、すごくいい報告会だったね。やっぱり五者五様というか、前に並んだ5人の生きざままでが、くっきりと出ていたでしょ。このなかで誰一人欠けても地平線会議らしくなかったんじゃないかと思わせたほど、個性的な5つのタイプがそろって、面白かった。伊藤さんの緻密な方法論、松本さんの深い味わいのある言葉、河田さんの写真にかける情熱、どの話もとても印象的だったし、桃井君が初めて会った頃のまんまのきらきらした目をしていたのが、とにかく嬉しかったよ。出させてもらって、ほんとよかった。会場に来ていた若い人たちも異様なほど盛り上がってくれて、写真のもつ力というものを、まざまざと感じさせられたね。(談)
■桃井和馬(カメラマン)
ひさしぶりに心が動く写真を見させていただきました。河田真智子さんが娘さんを出産した時、分娩台の上から河田さん自身が撮影したモノクロの写真です。この一枚だけでも報告会に出たかいがあったというもの。男には撮れない写真。当事者でなくては撮れない写真。不安や期待や希望が、すべて凝縮された形で、あの一枚には封印されていました。
■伊藤幸司(編集者)
司会の丸山さんが開口一番「これは15年前の企画なんです」という宣言。15年以上ごぶさたの私にはいたく挑戦的に聞こえて、すっかり昔の気分に引き戻されました。「話をさせると朝まで」という調子がかなり蘇えってしまって、その後、上高地に向かう夜行バスのなかでも興奮が残って、あまり眠れませんでした。ありがとうございました。
■河田真知子(ぐるーぷ・あいらんだー代表)
楽しかった! ですね。写真の話。プロになかなか聞けないことを、どの方も快く何でも話してくれて、とっても勉強になりました。でもでも、もっといろいろ聞きたかった…フィルムは何を使っているのか、厳しい自然の中での撮影でカメラをどう扱っているのか、重いカメラを運ぶには?
会場の方たちも、きっと聞きたいことがいっぱいあったはず。丸山さんがパキスタンの旅から帰ったら二次会の続きをやりましょう! わが家の1階の夏帆のスペースは引き戸を開けて部屋をつなげるとパーティ会場にピッタリ。続きをやりたい。地平線のみなさん遊びに来てネ。(詳細は後日ご案内)
■丸山純(司会)
予定していた内容の半分も語っていただけなかったのに、それでも、写真にかける5人の熱き思いがびゅんびゅん会場を飛び交って、ただひたすら圧倒されてしまいました。写真が下手なのは、技術や感性なんかの問題じゃなく、やっぱり写真にかける意気込みの違いなんですね。あれから1週間以上たったいまでも、それぞれの報告者の言葉が頭に響き、見せてもらった写真が鮮やかによみがえります。9月6日からまたパキスタンに出かけますが、とても大きなプレゼントをもらった思いです。5人の報告者のみなさん、そして会場の使用を特別に1時間延長してくださったアジア会館のみなさん、ほんとうにありがとうございました。
嗚呼! 御大が語る 地平線報告会の20年 |
●5人の写真術師をかこんでぎっしりの会場を見わたしながら、1979年9月28日、アジア会館の会議室で第1回地平線報告会が開かれた時のことを思い出した。「アナトリア高原から」と題して1年のトルコ滞在から帰ったばかりの三輪主彦(当時35歳)の報告に99人が集まり、最後に8月17日に誕生したばかりの地平線会議の活動開始を祝って乾杯したのだった。
●あの日から20年、アジア会館には毎月いろんな報告者が来てくれた。忙しくとも、売れっ子でも、「地平線会議なら…」と、来てくれるのが嬉しい。仕事や旅に追われ、アジア会館からは何年も遠ざかっている地平線人も気持ちの上では近くにいて、地平線会議が頼めば電話ひとつで大概のことは引きうけてくれる。
●昨年だけで92回も山に行ったというこだわり山旅写真師、伊藤幸司、高所の怖さを知らずに富士山の高さのラサに着いてビールをあおり、翌日死ぬ苦しみを味わった恐るべき中年ライダー、賀曽利隆、体調回復し古巣のインドで新境地を開きつつある松本栄一、夏帆さんとともに生きながら島旅生活も重いカメラも捨てない河田真智子、「写真は覚悟です」と言い放った元祖好青年の桃井和馬。カフィリスタン夫婦行を前に今回の企画、進行にあたった丸山純を含めてどの顔も輝いていた。今月号のフロントで森田靖郎が書いているように、とりあえず20年やってきた、よく続けてきたな、という思いが皆に共通していたのだと思う。
●参加者たちにも結構新陳代謝があり、それが多分地平線の大事なところなのだが、毎回新しい顔がのぞきに来る。第1回からのふる顔もいれば、少し遅れて参加しいまでは中核世話人となっている者も少なくない。ここ1、2年は地平線会議が発足して以降に生まれた、という人たちも来るようになって、未来の旅人や冒険者たちのためにも存続の意味はあるのだな、と感じる機会が増えた。
●どんなことでも終わるのは簡単だが、続けるのは簡単ではない。「これからもやるしかないか」と思いつつ、最後に20年を祝って会場の全員で乾杯したビールがうまかった。
●来年1月、庄内の地で計画している写真展と報告会の打ち合わせを兼ねて酒田から駆けつけた飯野昭司、飛騨高山から上京した中畑朋子、第2次おでん行脚の途次バイクで駈けつけビデオカメラをセットしてくれた新井由己、久々に受けつけを引き受けてくれた、イタリア・日本往来行商旅人山田まり子、アイランダーの森井祐介、皆ご苦労さまでした。
●7月写真展「地平線発」にあわせてやった植村直己冒険館突然的報告会、今回の写真術、そして9月、三輪主彦走り旅一座の20年記念特別公演と、「特別プロ」は3回連続で行い、10月から通常の報告会に戻る予定だ。[江本嘉伸]
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●刑務所で病気になると、少しばかり面倒になります。刑務所ですから、では近くの開業医まで、とはいかないのです。釈放の時が来るまで、生命に危険を及ぼすような状況に陥らない限り、ほとんどの病気は塀の中で処理するしかありません。
●まずちょっとした軽傷なもの。ただの頭痛とめや咳とめなど、家庭常備薬で解決つくようならば看守が手元に準備している常備薬で間に合わせます。もう少し重症になると、出役前に医務職員が工場単位で往診に出て、その上で今後の対応を決め、診察が必要ならば医師の診察が行われ、入院が必要となれば病棟へとなるのですが、そこは刑務所、普通の入院とは少しばかり違います。
●刑務所は常に1か0の世界。団体行動について行けねば、すべて入院になってしまうのです。集団行動中に行動の規律を乱すような行為が病因によって引きこされる場合、たとえば水虫もちがそのかゆみに耐えきれず、掻いてしまった場合など、それだけで即座に入院です。行進中に掻かれては規則正しい行動が乱れるという理由のためにです。
●それから風邪もたいへん。発熱から、風邪と診断されようものなら、3日間の隔離絶対安静入院が指示されます。その結果どうなるかというと、3日間にわたって、動いちゃいかん、文字を書いちゃいかん、本を読んじゃいかんということになってしまうのです。
●そうして入院してきた受刑者たちが私の担当となったわけですが、既に述べたように、そこは一般社会ならまったく入院する必要のない人たちばかり。一般社会でも入院かなと思われたのは、常に2人か3人。それも普段の不養生から起こす、やくざの通風や、シャブの打ち過ぎによる肝炎ばかり。通風親分など、来れ幸いとつついてやりたくなります。
●次回から4回シリーズで、えっ? と叫べそうな、死刑台の風景からをお届けします。[埜口保男]
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●古山隆行さんから
◆7/16から8/2まで、少し長めに休みをとって、サハリンにツーリングに行ってきました。ロシア入国に際して、バイク手続きのためロシア入国の最初の2日間と最後の1日だけは、ガイドを頼みましたが、それ以外は2人だけで行動するということにしました。どうしても自由に走りたかったのです。
◆サハリンにバイクを持ち込むのはけっこう時間がかかり、それというのもロシア側で事例がないのでどんな手続きをしたらいいのか、あちこちの役所の窓口をそれこそたらい回しにされたのです。なにしろ、サハリンに渡るのに使った東日本海フェリーでも貨物取り扱いの日本通運でも、そしてロシア旅行社でもバイクをロシア側で受け入れてくれるのか、わからないというのです。たとえ、持ち込めたとしても許可が出るのにどのくらい時間がかかるのかわからないというのです。だから、ともかく持ち込んで、それでやってみようというので行ったのですから。
◆結果は1日で許可が出たのですが、その間に約30km離れた、州都のユジノサハリンスクと港のあるコルサコフを2往復もさせられました。ともかく現地ガイドのインツーリストのユラさんと、オーレグさんが努力してくれたのです。港の保税倉庫からバイクを出したときはもう感無量。
◆今回のツーリングの目的は、最北端のエリザベート岬を見ることと、間宮海峡を大陸が見えるところまで北上することです。結果的には大陸は見れませんでしたが、ほぼ目的は達成、でもそれ以外1日1日が感動の連続。見渡す限りの原生花園の中を走ると思えば、ポリスチェックで仲良くなって、お茶だけかとおもったら、夕食もたべさせてくれたりと。
◆自然も良かったけど、気のいいロシアの人との出会いも良かった。ポリスも最初は、冷たい感じがするのだけど、パスポートやバイク持ち込み許可書を見せて、疑いがなくなると急に親しくなる。ツーリングは約2600km、そのうちダートは2000km。なかなか充実した海外ツーリングでした。
▲▼編集部より…ここがよかったというレポートだけでなく、長澤さんのような、ここの宿はよくない、ここの旅行代理店は信用できないなど、「行ってはいけない」報告もお待ちしています。
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Disco in Tibet |
ポタラ宮の前にディスコがあった。通訳のジョーが夜になったらダンスホールに行こうと誘ってくれた。夜の9時にタクシーでポタラ宮前のネオン輝くダンスホールに到着した。これから店に入ろうとしている5〜6人の男女がいた。屋台の食べ物屋が3台ほどでている。ドアを開けて中にはいると10畳ほどのロビーの奥に熱気に満ちた暗い部屋があった。天井からの赤紫の照明が点滅している中で強烈なディスコリズムが鳴り響いている。7〜8人の女性達が全身をリズムに乗せ踊りに陶酔している。彼女たちの服装は、ミニスカート、タイツ、Gパンと個性に溢れたその姿は、衝撃的かつ挑発的である。ホントにここはチベットなのか?と自問していた。
私とジョーはウェイトレスの案内でホールのソファーに座った。注文出来るのは、30元(1元は15円)の飲み物だけである。制服のウェイターがコップに入ったお茶を2杯運んできた。その場で60元を払う。コップの中身が少なくなると湯を注いでくれる。ジョーの話に耳を傾けた。この店はホールとカラオケルーム数室から成っている。個室は100元かかる。今、踊っている女性達は娼婦である。彼女らはフリーでラサにある30件あるディスコを歩き客を得るとのこと。ダンスの相手は30元、カラオケルームでの相手は100元 、外出の場合は500元だそうだ。男がいれば娼婦が居るのは当然だとジョーは強調する。この国の公安はどうなっているのだろう。
10時から始まるショーのために客がホールのソファーを埋めていく。家族連れ、カップル、仕事帰りの5〜6人の男女、客は女性連れが多く彼らは娼婦達を特別視せず彼女たちはビジネスだからと割り切っているようだ。その雰囲気が健康的にさえ見える。そして客達は30元でショーとダンスを楽しみその日の疲れをいやし明日への仕事のエネルギーを充電させているのだ。ソファーが客で埋まった頃ショーは始まった。
司会者が次々と芸人を紹介し舞台に全員がそろったとき合唱が始まりダンサーが舞台とホールを軽やかなリズムに乗ってステップを踏む。次に四川の男性、チベットの女性の歌が続き中間にインドダンスが入り最後に3人組の寸劇が始まった。俳優達の動きのおかしさと話のやりとりに客席は爆笑している。ジョーの説明はよく分からなかったが私も雰囲気でつい笑ってしまう。次に主役が衣装を変えて歌手に変身し、歌を唄いながらアクロバット風のショーを始めた。青龍刀を手にホールいっぱいに踊り回り最後にビールを頭からかぶり恋物語を熱唱する。約40分間のワンマンショーを終えると、あまりにのハードな動きのため床にうずくまり呼吸を整えている。海抜3600mでのこのパフォーマンスに観客は熱狂的に拍手を送りホールが壊れそうな歓声を上げる。このような芸を披露する人が2人も続く。正に圧巻である。日本の芸能人にチベット魂を吹き込んでやりたいほどだ。芸人はこうでなくてはいかんと私も感激しながら思った。
夜中の1時過ぎにショーは終わり再びディスコダンスが始まった。客席の後ろから先ほどの娼婦達が踊りはじめた。今夜は暇なようである。ダンスには一般客も加わってきた。この日、ホテルに帰ったのが2時を回っていた。後日、地方都市のギャンツェとシガツェでもディスコを体験したが特にシガツェについては案内人が公安だったのには驚いた。 帰国する前夜、ジョーの家族、友人とでJJディスコで楽しんだ。このディスコはかっての観音菩薩の化身といわれたダライラマの住んでいたポタラ宮の前にあった。3年前ロシアのレーニン像の前で若い群衆がディスコダンスに酔いしれているのを思い出した。
ダライラマは輪廻転生で復活した政治的、宗教的地位の第一人者でありチベットの最高権力者である。40年前中国の開放によりインドに亡命したとはいえポタラ宮はチベット人にとっては永遠の聖域であり、チベット精神の象徴である。全国からの巡礼者、五体投地で廻る人が絶えることがない。だが、その目前に出現した遊興施設に私は驚愕した。日本の皇居前広場に歓楽街が出来るのと同じことである。どう考えたらいいのだろう…。「第3の眼」に魅せられ1人で降り立ったチベットではあったが私の想像を遙かに超えた3600mの雲表の国であった。もしかしてディスコは中国のチベット政策のひとつかもしれない…。ラサを後にして機上でそんな思いがよぎった。そして成都で乗り継ぎ上海に向かったが、行きも帰りも中国上空を飛ぶ飛行機は思いのほか内装がよく、すばらしい乗り心地であった。[本庄健男]
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賀曽利 隆さん(52歳) |
――久しぶりです。もう心臓の方は大丈夫なんですか?(※1)
「もお、大丈夫ですよ! 去年おとなしくしていた甲斐がありました!」
――心臓発作が起こったのは、一昨年の年末ですよね。あのお、死ぬこととか考えたんですか?
「うん。心臓がドキドキ動いたかと思うと、数秒間止まったりを繰り返したから。それは死ぬの覚悟したね」
――それにしても賀曽利さんの弱音って初めて聞いた。
「僕は何度もマラリアにやられてるけど、マラリアだったら体が弱っても、いつかは回復するという気持ちが持てるよね。でも、心臓って人間の大元でしょ。それがやられたんだから、さすがに弱気になりましたよ」
――例えば、昔出場したパリダカールラリーで、猛スピードで立ち木に激突して足を骨折して、ガソリンも体に浴びてますよね。あの時は死ぬことは考えたんですか?
「いや、それはない。あの時はとにかく、大出血のまま肘で砂の上をいざって、レスキューが通る道まで移動したんです。ここで死んでたまるか! って思っていた」
――弱気ではないけど、賀曽利さんが心底疲れているのは見たことがあります。1982年、アフリカで行方不明になった知人の小林淳さんの捜索に行ってますよね。あの出発前は相当疲れているように見えたけど。
「あれはつらかったなあ。小林さんのお父さんと一緒にアフリカまで捜索に行ったけど、僕は、これはもう、どこかで殺害されていると確信をもったけど、お父さんが諦め切れないんだよね」
――現地に行っているからこそ納得できると思っていたけど、逆だったんですね。
「うん、捜せば捜すほど、どこかで生きているのではとの期待を捨てきれないんです」
――そういえば、以前、上温湯隆さんのお母さんを訪ねた事があります。その数ヶ月後に福井慶則君(サハラ研究家)がサハラで上温湯さんの遺骨を収集して、日本に戻したけど、あれでお母さんは「ホッとしました」と話してくれました。気持ちの整理がついたって。それにしても、70年代と80年代は、上温湯さんの『サハラに死す』(※2)で僕もそうだけど、実に多くの人がサハラに行きました。
「でもね、僕もあの本読んだけど、辛いんだよね。その前に出版された『サハラに賭けた青春』(※3)と全然印象が違う。『青春』の方は、そこに純粋な若さを感じるよ」
――確かに。
「僕が今でもわからないのは、「死す」のなかでは、彼は、旅が終わったら、大学に入るとか、国連の職員になるとか、将来のことを考えている。サハラ横断ということをやっている最中に、なぜ、そんな将来のことを考えるんだろう。植村直己さんにしても、彼の北極遠征を称える人は多いけど、彼がなし得た最高の冒険はやっぱり最初の本『青春を山に賭けて』(※4)に書かれてあることですよ。あれは最高の旅ですよ。でも、北極に行くあたりから出される本は、だんだん読むのが辛くなるんだよね。上温湯さんや植村さんに共通しているのは」
――生真面目で真っ直ぐすぎる‥
「そう。やはりね、どんな行動でも必要なのは、『柔軟さ』や『いい加減』な心ですよ。その点、僕なんかなーんも主義主張ありませんからね。あるのは、樫田君にも書かれたけど『ゾーッ!!』だけですからね」
――でもね、僕今でも分からないのは、賀曽利さん、12年前に胸に腫瘍ができてましたよね。腫瘍っていったらガンですよ。なんで、手術もしないで日本一周や世界一周に出かけたんですか?
「うん、日本一周出発の数日前に女房が手を回して、健康診断を受けることになったんだけど、そこで見つかったんだよね。もう目の前真っ暗ですよ!」
――普通、そこですぐ手術を受けますよ。
「一応、先生には日本一周をしたい旨伝えると、帰ってきたらの再検査という話になったんです。それで日本一周に出たけど、一日一度は、ああ俺はもうあと何年も生きれないのかなあって絶望感に襲われたよ。でもね、再検査したら、なんと腫瘍は大きくなっていなかったんです。それで、医者に『あのお、世界一周にも出かけるんですけど』って‥」
――それでやっと手術を受けたのが3年前。
「それがラッキーだったんだよね。ちょうどその頃に新しい手術方法が開発されて、胸を切り開く必要がなくなったんです。入院だってほんの数日間だったし」
――そして、まもなく因縁の日本一周に旅立つわけだけど、これで一周は3回目ですね。
「思い出してみると、30歳、40歳、そして今51歳と、10年おきにやっている」
――賀曽利さんくらい、自分のやりたいことをやり遂げている人もいませんよ。
「いや、僕は30代の頃、やりたくない仕事をやらされていた時代も数年間あったんです。やっぱり、そういうこともあったから、なおさらやりたいことをやろうという気持ちが強まったよね」
――じゃあ、10年後の60になったら還暦日本一周に出たりして‥。
「60どころじゃないですよ! 80になってもバイクですよ!」[3月4日/賀曽利宅にて]
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日時:1999年10月1日(金)→10月14日(木)
10:30a.m.〜6:30p.m.〔10月9日(土)3:00p.m.、
最終日4:00p.m.終了〕入場無料
会場:ペンタックスフォーラム
〒163-0401東京都新宿区西新宿2-1-1
新宿三井ビル1F。TEL:03-3348-2491。
http://www.pentax.co.jp/japan/FORUM/
★PENTAX OPEN STUDlO
〔庄司康治スライド&卜一ク〕
10月9日(土)3:30p.m.〜6:00p.m.〈会費制・要予約〉
●高世さんのジンネットの番組オンエア!
★きょうの出来事(日本テレビ系)特集
「移植されたヤコブ病―繰り返された薬害」
札幌のA子さんの息子、高校に入学直後、不治の病「ヤコブ病」が発症した。感染源は移植用の硬膜。日本の厚生行政を追求する。 ※9月20日ごろ
●「地球と話す会」で今年の遠征(中国・カシュガルからキルギス・ビシケク)の様子を伝える写真展を開催します。
タイトル:シルクロード自転車紀行
日時:10月7〜13日
会場:国立公民館(東京都国立市)。
入場無料。問合せ:042-573-7667(長澤)
9/24(金) Friday 6:30〜9:00 P.M. アジア会館(03-3402-6111) \500 「ジャーニーラン」新しい旅の始まり? |
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議/料金70円 |
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