1999年4月の地平線通信



■4月の地平線通信・233号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信233表紙●今、沖縄の那覇でこの原稿を書いている。なーんて書いちゃうと、どこかの売れっ子作家が週刊誌の連載コラムあたりの冒頭に使うちょっと嫌味な決り文句のようだが、那覇でこれを書いているのは事実です。

どうしても暮らしている場所では仕事の上に、日常の雑多な用事で時間が過ぎて行き、落ち着いて原稿を書くという作業に取り組みにくいのです。しかし、仕事柄よく出かける出張ではだいたいお天道様の拝める時間帯で業務は終わるので、夕食以降は小学生の修学旅行ならさしずめ自由時間です。

そうすると、ホテルに戻って溜まった手紙の返事を書いたり、最近ではE-mailなどというコンピューター文明発展の象徴のようなコミュニケーション手段を用いて、まだ売れっ子の域にはとても達していない僕でもE-mailで連絡をとったり、原稿を書いて送ったりする事が多くなっているのです。

●さて、先月久しぶりに地平線の報告会に出席した。学生時代は皆勤賞を貰えるくらい毎月見に行っていたので先月の参加者の顔ぶれの変化には地平線会議の歳月の流れをちょっぴり感じさせられた。

特に報告者の発表が終わってから、司会者から地平線関係者の出版物の案内が延々と続き、15分ほど本の説明に時間が割かれたのであるが、その中でも僕が関心を持ったのは法政大学探検部が作成した報告書『スリランカ・ルフナ地方の密林遺跡』である。一般書に比べてどうしても地味な割に手間の掛かる報告書のたぐいは、なかなか完成にこぎつけるは難しく、これまでも活動そのものは素晴らしいの一言に尽きる探検隊が、報告書は出せないままのケースがあった。

単行本と違い現地での体験談を書くエッセイではなく、しっかりとした知識と感性豊かな実体験を重ねた上で初めて記録としての価値が有る報告になり、編集作業はどうしても特定の個人の労力と能力に依存するしかない。その点で今回の法政大学探検部の場合、参加メンバーが卓越した能力と多大な労力に敬意を表したいです。

●さてさて、報告書という言葉に敏感なのは、僕には今出さなくてはいけない報告書が二つあるからでしょう。ひとつは94年のメコン川探検隊、もうひとつは昨年夏のデルゲパルカン調査隊。過去に編集した「長江航行活動隊報告書」(残部僅少売価2500円)のお遊びで記入したコラムが、その後の大学探検部の川下りに関する報告書には、まじめに記入しなければいけない記録報告に、いかにもそのコラムを真似たちょっとずっこけエッセイ風文体で書いてあるのを目にして、次回は本格的な報告書を作らないと、と気張っているうちに時間が経過しているのです。

地平線会議関係者にもメコン報告書作成への寄付をして頂いている方が何名かいらっしゃるので、この場を借りて釈明すると共に、何とか今夏までには完成させるべく努力をしている点をご理解頂きたいと思ってます。ちなみに両方の報告書とも編集メンバーとは現在E-mailを使って原稿のやり取りをしている状態です。

●先月の報告会で庄司さんは氷の回廊に関して、「TV作品は六割の満足度」という趣旨の発言をされていたように記憶しています。ここ数年TVで短い映像作品を発表している僕にも似たようなストレスが有ります。文字で書くのと映像で表現する事の違いは色々あると思うが、これはこの場では説明しきれないので辞めにするとしても、文章としてある事実や体験を書き残す意義は大きいと思う。

で、取って着けたかのように最後に書かせて頂くと、僕も単行本を出すことになりました。アジア各地で食べられているデザートを紹介する内容で、発売元はスリーエー・ネットワーク社で「アジアのデザート(仮題)」販売予定価格1500円、イラストは日本を代表するイラストレーター長野亮之介大画伯!総力結集、空前絶後、前代未聞、前人未踏、発売日をお楽しみに。せっかくですから売れない文筆家の決り文句で終わりましょう、「この本買ってください」。アー、ホントに言っちゃった。[中西純一《映像作家、第119回報告会(89年9月)報告者》]



先月の報告会から・233
氷上のキャラバン
庄司康治
99.3.26(金) アジア会館

◆17歳の頃に出逢った1枚の写真が、庄司康治さんをザンスカールへと導いた。写真との出逢いから3年後、一緒に訪ねようと約束した亡き友人の想いと共に、チベット高原の西端、ザンスカール地方への道は開いていく。

◆1980年、初めてヒマラヤを旅するなか、村とレーの町を結ぶ「氷の回廊」の厳しい旅の途上で出逢い、14年の歳月を経て再会したロブサン父さんは、12歳の三男タムチョス君を「氷の回廊」の旅に連れていくことを、庄司さんに打ち明ける。タムチョス君にとって、初めて出る外の世界。大人の仲間入りのための命懸けの旅が始まった。

◆出発の時、喜びと期待、不安と恐れの入り交じった感情が、彼の心を吹き抜けたときの、それまでの笑顔が、ワーッという泣き顔になったあの瞬間に、うまく表現し得ない、心がざわめくような感覚になった。あのとき、タムチョス君を身近な存在に感じると同時に、新たな世界の遙か遠くを見つめる神々しさみたいなものが、彼の姿にあった。

◆村と街をつなぎ、希望へとつながるザンスカール川の道は完全凍結せず、ときにガラスのように割れ、またずぶずぶと足を捕らえる。タムチョス君を真ん中に、様々な氷の表面を進む一行の様子は、冷酷にも見える自然条件のなかで生きる人々の張りつめたやさしさを垣間見せてくれる。シンプルな生活の深い家族の絆、あからさまなやらせとかの次元じゃない。

◆「出逢い」って一瞬で、些細であっても、心が震えるような、そして人をつき動かしていく大きな原動力がある。「世界初とか前人未踏ということには意味がない、そこを生活の場として生きている人がいる」という庄司さんの出逢いには、そういう力強さがあると思う。タムチョス君のさらに凛々しい姿を続編で見たいと切に思う人は、私だけじゃないはずだ。[横田明子]

この庄司さんの体験が昨年12月、『氷の回廊――ヒマラヤの星降る村の物語』(文英堂・1800円)として出版されました。テレビ番組とは違った視点から、ロブサン一家の日常やタムチョス君の旅が丹念に描かれています。カラーページもたくさんあって、美しく、迫力ある写真にシビレます。地球上にまだこんな人間らしい暮らがあるんだとだれもが思わずうれしくなってしまう、心温まる本。子どもたちにもぜひ読んでもらいたいですね。


新シリーズ 見えない地平線
のぐちやすおの刑務所レポート
その4 刑務所内の工場

◆宮城刑務所には15の工場とその他の専門工場が存在していました。その他とは具体的に、独房、給食、営繕、農場、看病夫、養護班などです。このうち、私の仕事の助手的存在となった看病夫と養護班については後日説明します。

◆収容者が出役すべき工場は、その刑期の特徴と犯罪の種類、個人の背景と知能などによって分類されていきます。もし本人にその工場で働くだけの能力があり、かつ希望すれば、その工場に出役できます。例えば、調理師の経験があれば給食にまわされることが多く、木工とか板金屋とかの経験があれば、その種の工場にといった具合です。なにしろ900人もの収容者がいるわけですから、ヤクザばかりでもなく、結構様々な種類の体験者がいました。そして塀の中は一種のコローニアルみたいなものですから、それぞれの専門職を助け合いながら見事にこなして生きています。徳に感心したのは床屋と植木屋。彼らの手付きを見ていると、さすがにうまいものだと感心してきます。

◆各工場の特徴ですが、まず1工場と2工場は木工で、実に見事な作品を仕立て上げる工場です。ご婚礼3点セット鎌倉彫りなどという伝統工芸品も仕立て上げるぐらいですから、一朝一夕でなせるワザとはいきません。そこで当然のように、ここは8年以上の長期受刑者が配属されることになります。8年を食らうには最低でも殺人を犯していなければならないので、この工場は殺人者の巣窟ともいえる工場でした。

◆13工場。ここはワープロ工場と呼ばれ、IQが110以上ないと入れないエリート工場です。学術論の校正や入力まで行うので、それなりの知識が必要なのです。9工場。鉄工場で、焼却炉などを作っていました。売上高としてはナンバー1の工場ですが、かぶる何というのでしょうか、溶接用のヘルメットが重く、しかも決まった時間しか休めないために辛く、医務に逃げ出す患者の最も多い工場です。

◆6工場の洋裁工場。ベビー服などを作っていましたが、袖から刺青を覗かせてせっせとミシンを踏む姿は、滑稽そのものでしかありません。

◆次回は収容者の誰もが恐れる懲罰についてです。


地平線ポストから
地平線ポストではみなさんからのお便りをお待ちしています。旅先でみたこと聞いたこと、最近感じたこと…、何でも結構です。E-mailでも受け付けています。
地平線ポスト宛先:
〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
E-mail :
お便りお待ちしています


●野口英夫さんから…カナダ・ウイスラー発

毎月毎月、地球を舞台に元気にやっている人たちのニュースを送って頂きありがとうございます。私の方は半年におよぶ冬をあっという間に楽しく過ごしました。「スキー、スノーボードはなぜ楽しいのか?滑るという行為が心に与える影響は?」そんなことをこの間大学の研修旅行に引率できた先生が言っていました。冬ここいに来るほとんどの人が楽しんでもらっているので、ここでガイドをしている私としてもありがたいことだと思っています。こちらにお越しの節は連絡をお待ちしています。



●河田真智子さんから……ぐるーぷ・あいらんだあ代表

◆旅の達人たちに「超初歩的な」質問をしたいのです。私はふだん島旅をしています。島は出入口が、空港、港に限られるためとても安全な旅先と言えます。ところが今回バリ島に行って、身の危険を感じてしまいました。25年も島旅をしていて、マーシャル諸島の核実験の島々を訪れた時もちょっと恐かったけど今回の方が冷静に「危ない」と感じました。

◆バリに住むの日本人で織物を学ぶ女性と200人の先住民の住む小さな村を訪れました。1回目、2回目は日帰りで、2回目の時に自分の判断では3回目の夜の祭りの日の民泊の予定は「やめるべき」と思ったのですが、何と、それまでの撮影の失敗に気付き写真を撮ることに目がくらんで「行ってしまった」のです。

◆昼間のバリ島は観光の島で、とてもハッピーなところですが、ヒンズー教以前の信仰を持つ先住民の村で「島社会の人間関係」+「祭り(神様)」+「女」と言う要素が足し算ではなく、掛け算になった時、島は、とても恐いのです。

◆質問1 彼女の住む別の村の家に荷物の大部分は置いていき、最低限のものとカメラ用品だけ持って行ったのですが、こういう時って「パスポート」「お金」「帰りのチケット」は、「肌身離さず」の原則通りなのでしょうか? 同行の彼女は、バリに住むようになって死ぬのが恐くなくなったというし、泊まる予定の家は屋根と柱だけの家で、そこには自爆的に命がけで「悪いこと」をしている男がいたのです。2回目の時にこの男に私が何者か怪しまれ、脅かされたように感じられました。同行の彼女に迷惑がかかるので具体的には書けないのです。

◆質問2 こういう場合、こっちも死ぬのは恐くないと思って行くしかないのでしょうか。重度の障害児を育てている私としては、娘よりも先に死ぬ自由がないというプレッシャーの中で旅しています。

◆アドバイスをお願いします。次回、実際の私がどうしたか報告します。


●大沢茂男さんから…長野県発

応援をして戴いた皆さんへ

皆様の温かいご声援を戴き
我人生の遙かなる夢
珠峯元旦初泳二十回
實現出来ました。
珠峯街道の林子、桜並木も後二年で
目標の千本、恵まれぬ子等の奨学支援も
米ドルで(二・五萬ドル)皆立派に成長してくれました。
以上御報告申し上げ御礼といたします。

平成十一年三月              大沢茂男



●野々山富雄さんから…屋久島発

◆お元気ですか。私はちょっと不調です。冬場がガイドの仕事もあまりなく、ログキャビン造りを手伝ったんですよ。材料をおろした時「グキッ」腰がいっちまいました。3年前にも痛めたので注意はしていたのですが、ムリがたまってたのかなァ。酒の飲み過ぎは確実にありそうです。歩くことは歩けるんだけど、立ったり座ったりができない。こりゃ、まいった。体しかない人間が体を壊したら何の役にもたちゃしない。

◆でも知り合いの整体師(正確に言うと快医学というんだそうですが)に見てもらったらありゃ不思議、すぐ動けるようになりました。ミラクルとまではいきませんが認識を改めた次第です。

◆家の方は一期工事が一応形になりましたが、電気の申請はまだかな。私がギックリ腰になって動けないと、近所の人がみんな親身になって面倒を見てくれました。ありがたいことです。やっぱり屋久島っていいよなあ。そんなに無理に働かんでも十分暮らしていけるし、一生ここに生きて行くつもりッス。落ち着いたらまた旅に出ますケド。ところで賀曽利さん、日本一周、屋久島にもきて下さい。峠も岬も温泉もバッチリ。潮が引かないと入れない海中温泉なんてのもあります。地平線のみなさま、熱烈歓迎。でもまた仕事せんで、酒飲んでしまうかも。携帯電話 090-1084-6248


地平線忘れな草
ロシアからの便り

◆我々はとてもいい気分で酒に酔っていた。ロシア人のじいさんは、「この傷はドイツにパラシュートで降下した時に出来た傷なんだぜ」と袖をまくり上げタダレた腕をぼくに見せつけた。それならばと、ぼくも袖をまくって肘を見せると「これはバイクでこけた時の傷なんだぞ」と男の勲章を自慢しあうのだ。じいさんは大喜びで、同志よもっと飲めとばかりにウオッカの瓶をよこす。一口ラッパのみすると胃の中でアルコールが燃え上がった。じいさんがアメリカが嫌いだと叫ぶと、そうか実はオレも大嫌いなんだと叫んで乾杯を交わした時は、ぼくの口はもはやろれつが回ってはいなかった。

気がつくとその部屋のベッドで寝ているというありさまで、朝起きても二日酔いで気持ち悪い。ウオッカなんて強い酒は普段飲みなれてないので、どうも悪酔いしたようだ。じいさんが二日酔いにはこれがいいんだと、起きるが早々またウオッカの瓶を持ってきた時には、いかんこのまま酔っぱらってるわけにはいかないんだ、すぐに出発しないと日本に帰りそびれてしまうぞ、とちょっと慌てたものである。

◆季節は冬だった。二月のサンクトペテルブルグの街中には凍てついた風が吹き抜けていた。モスクワで中国行きのシベリア鉄道の切符を何とか手に入れ、出発までの空いた時間に北極圏のムールマンスクまで列車で北上してオーロラを見てきたぼくは、かつて芸術の都レニングラードと呼ばれたこの街に寄ったのだった。

◆1992年はちょうどソビエトが独立国家共同体とかいう奇妙な国名に変わった直後のことであり、異常なインフレに経済はハチャメチャで、デパートの棚には何も物がないのに、その前で闇商品を売る人々がずらりと並んでいる奇妙な風景があった。ちょっと前みたいにパンを買うために長蛇の列に並ぶ必要はもうなくなっていたが、それもすべての物価が庶民には簡単に手が出せないほど上がってしまったからにすぎない。

何がしらのドルを持っていたぼくは食うに困ることはなかったが、裏ルートで入国したのでバウチャーを持っておらず、列車の切符を買ったり、宿泊施設を見つけることは容易ではなかった。だからサンクトペテルブルグの駅で泊まるあてもなく半分途方に暮れていたところを、じいさんに誘われて家におじゃますることになったのだった。

◆じいさんは生活に困っているようだった。社会主義の時代には保証されていた年金も突然カットされたのか、当時老人達は特に苦労していたようだ。食うに困ってか、名誉ある勲章なんかまで金に変えるために通りでは売られていた。ウオッカは闇市で一瓶5、60円くらいだったと思うが、その価格でも高くてじいさんにはなかなか手が出せる代物ではなかったに違いない。泊めてもらう代わりといっては何だが、じいさんに頼まれて2、3本のウオッカを買って雑居ビルの一室に入ると、家族のばあさんと猫が1匹いた。

◆泥酔の朝の気分は最悪だったが、午前中にもモスクワに出発しなければ苦労して予約を入れたシベリア鉄道に乗り遅れてしまう。この切符の予約を取るためにモスクワで3日間も切符売場に通いつめたのだ。北京行きのすべての切符は1ヶ月後まで満席であり、もうダメかと諦めかけた時に、偶然的に北朝鮮行きの列車を、憶えたてのロシアンキリル文字の時刻表から見つけ出し、運良くなんとか手に入れた切符だった。だからもう酔っぱらっているわけにはいかなかった。

だけれど不思議なことに、じいさんに勧められて飲んだ少量のウオッカは二日酔いに良く効いた。さらに今思うと不思議なんだが、じいさんは英語など知るよしもなく、ぼくだってロシア語なんてしゃべれやしない。どうやら我々は魔法のウオッカを飲んでいたようだ。

◆もう7年も前の話だ。ロシアは相変わらず危機的経済のようだが、じいさんも相変わらず元気にウオッカを飲んでいるのだろうか? そんなことを思い出しながら、スミノフのボトルからまた一杯、魔法の液体をグラスの上に注いだ。[安東浩正]


地平線新刊情報

法政大学探検部が『スリランカ・ルフナ地方の密林遺跡』という、A4判274ページのすごい報告書を出版しました。ほとんど全編に英訳が並べられ、写真や図版も満載。行動記録などの資料編も充実しています。申し込みは まで。頒布価格3000円。


お知らせ

地平線会議のWebサイト(ホームページ)のアドレスが、4月から変更(or.jp→ne.jp)になっていますので、ご注意を。http://www.bekkoame.ne.jp/~jun-mar/です。



今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)

地平線通信233裏表紙 4/27(火)
Tuesday
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500



海を渡る星の唄
石川直樹さん(21)が、シニヨンホクレア号の一員として、サイパンから出航したのは98年8月のこと。目的地は、900キロ先のサタワル島(ミクロネシア)です。ナビゲーターは、マウ・ピアイルグさん。星を見つめ、波のうねりや風の声を聴き、海図や磁石のない航海術を今に伝えるベテラン航海士。

しかしこの旅は風に恵まれず、4〜5日の予定が、6日過ぎても陸が見えません。雨水で命をつなぐ中で、発狂するクルーも出てきます。「ナイショで持ち込んだSOS発信機を押そうと何度も思ったけど、マウを信じてガマンしました」と石川さん。

今月は石川さんに、この航海の顛末と、失われつつある伝統的な航海術の魅力を語って頂きます。術を伝える神秘のスターソングとはなにか?! 乞御期待。


通信費(2000円)払い込みは、郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議/料金70円



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