1999年3月の地平線通信



■3月の地平線通信・232号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信232表紙●4月1日(木)の午前6時、東京・日本橋からバイクでの3度目の「日本一周」に旅立ちます。今回は2分割の「日本一周」を考えており、5月30日までの60日間が西日本篇、9月1日から10月30日までの60日間が東日本篇で、トータルすると、120日間の「日本一周」ということになります。

●「日本一周」に使うバイクは250のオフロードバイク、スズキDJEBEL250XCのGPSバージョンです。このGPSが大変なすぐれもので、精度の高さと、読み込んである膨大な情報量を存分に使いこなすつもりでいます。「人間GPSのカソリ」といわれているのですが、このDJEBELのGPSには脱帽なのです。前2回の「日本一周」には50バイクを使いましたが、今回、250バイクを使うのは、「日本をくまなく、メタメタにまわりつくしてやるゾ!」と思っているからです。

●「日本一周」の基本的なルートは海岸線。自分のバイクで走ったルートで日本地図を描くようなものですが、その基本ルートから何本ものミニ一周ルートをつくって内陸に入り、ミニ一周ルートを走ったらまた元の地点に戻る、という繰り返しをしたいのです。峠、岬、滝、温泉、郷土料理、寺社(とくに全国の一の宮)等々、いくつかのとくに重点的に見て回るこだわりのポイントを設けています。

●ぼくが初めて「日本一周」したのは1978年のことで、30代に足を突っ込んで早々のときでした。20代の大半を費やして世界を駆けめぐった反動とでもいうのでしょうか、無性に日本をみてまわりたかったのです。このときの超貧乏旅行の「日本一周」はよかった! なにしろ女房・赤ん坊連れの9ヵ月に及ぶ「シベリア横断→サハラ縦断」の旅から帰り、2番目の子供が生まれた直後旅立ちなので、資金的な余裕はまったくありませんでした。女房に「悪い、悪い」と頭を下げ、家にあった金、全部をかき集めて10万円。それが全費用だったのです。そのため全泊野宿が原則でした。そのような貧乏旅行の中で、日本各地で出会った人たちは心やさしかった…。日本も見捨てたものではないゾと何度、思ったかしれません。

●この第1回目の「日本一周」から帰ったとき、ぼくは決心しました。「これからは定期的に日本一周をしよう!」と。その決心どうりにとでもいいましょうか、第2回目の「日本一周」を10年後の1989年におこないました。40代に入って早々の「日本一周」です。このときの旅立ちはなんとも心の暗くなるものでした。出発の2ヵ月前に受けた市の肺がん検診でひっかかってしまったのです。思わず「ウソだろ!」と叫んでしまいました。家の近くの東海大学病院で精密検査を受けるとなんと胸にかなり大きな腫瘍があるというのです。先生にはすぐに手術を受けるようにといわれたのですが、絶対に「日本一周」が優先したので、先生にはすべては「日本一周」から帰ってからということで了解してもらい、予定どおりに旅立ったのです。ですが、頭の中は黒雲で覆われ、もう生きては帰れないかな…と、結構、悲壮感が漂っていました(この胸の腫瘍は結局、40代の後半まで持ちつづけました。まさに「逃病3000日」だったのです)。

●あれやこれやの第1回目、第2回目の「日本一周」ですが、今回の50代篇の「日本一周」では、第1回目、第2回目の「日本一周」でお世話になったり、出会ったひとたちと再会してみたいと思っています。それが大きな楽しみにもなっています。この20年間、10年間での日本の変化も目をこらして見てこようと思っています。出発直前の3月28日(日)午後2時から3時まで、東京・神田の三省堂書店でカソリの「日本一周」出発記念のサイン会&ミニトークショウがあります。お時間のある方はぜひともおいで下さい。[賀曽利 隆]


地平線新刊情報:『とことんおでん紀行』新井由己著・凱風社[1800円+税(3月25日刊行予定)]四六判・並製・288頁〔地平線報告会…No.220(98年3月)・日数…106日間・走行距離…10335.5km・調査地…232か所・スーパー・市場数…409か所・おでんを食べた回数…103回〕



先月の報告会から・232
疾風タッグマッチ
片山忍
99.2.26(金) アジア会館

●100マイル(160km)を馬で走り抜く競技、「エンデュランス」に日本選手として初参加した片山忍さんに、周りの人を巻き込む、大きな力のようなものを感じた。ただし、片山さんのパワーは、一人突き進むだけのものではない。馬の体調・性格などを考えながらレースを進める細やかさの上に成り立っている。

●エンデュランスという競技は、100マイル(160km)を24時間以内に1頭の馬・1人の騎乗者で走るものだ。全行程を5つの区間(レグ)に区切り、各レグ通過時と終了後に獣医による馬の体調検査(ベットチェック)がある。そこで、「この馬がこれ以上走るのは危険」と診断されるとそこで失権となる。

●今年の1月、その世界選手権がアラブ首長国連邦で行われた。馬を愛する王族が参加チーム全員の費用を全額負担し、37カ国を誘致したという。何と総額20億円にも及んだらしい。こんなお金持ちって本当にいるんだなあ、と感心してしまう。レースはスタート前の準備から、始まる。暑さ対策として馬の毛を刈ってやったり、足慣らし、獣医とのコミュニケーション、それに重量調整もある。ルールでは馬1頭に対し最低75kgの重さは乗せねばならない。鞍などの馬具が大体10kgなので、体重65kgの人が乗るのが丁度いい。仮に、50kgの人なら15kgの重りをつけることになる計算だ。「私は何も乗せる必要はないんですけどね。」と30かばの片山さん。自分の年齢や体重をさらっと口にしてしまう女性のカッコ良さ。…憧れます。

●完走目指してマイペースで走り続けた。馬の心拍数を測定する計器をチェックしながら、150くらいに保つ。第4レグ後のベットチェックでピンチが訪れた。馬が片方の脚をひきずっている、と指摘され、ドクターストップの恐れが出てきたのだ。長い協議の結果、ゆっくり行くことを条件になんとか獣医の許可がおりた。が、途中でやはり馬の調子がおかしいことに気付いた片山さんは、馬から降りてゆっくり歩き、ゴール。やはり最後のベットチェックでひっかかり、完走とはいかなかった。しかし、約束通り馬をいたわりながらゴールしたことが評価された。

●馬は賢い、馬は気持ちが通じる、ということはよく耳にする。12歳のころから馬に乗っている片山さんとは比較にならないが、私自身、アメリカとモンゴルで馬に乗ったことがある。初めは「人間は人間」「馬は馬」と完全に分けて考えていたが、生活を共にしていくうちに、その境界があいまいになってきた記憶がある。確かに私は人間で手綱を持っていて、こっちは馬だけど、それが何だ、というような。日本人は馬と一番遠い民族、という。確かに、日本で馬と接する機会は少ない。乗馬というとやはり、お金持ち、お嬢様といったイメージがある。人と馬の関係って、実は誰にとってもすばらしいことなのに。「乗馬クラブで短時間高いお金を払って乗るだけでなく、馬の世話だけでもできたらいいのに」という片山さんの言葉に肯いてしまった。今からなら、エンデュランスの日本代表になれるかもしれない!?

●エンデュランスは個人競技と集団競技の両方を併せ持っているところが魅力の1つなのではないだろうか。馬と人間が一緒になって限界に挑戦する。限界に挑むことは、生きる可能性を広げることだ。その姿に我々は、生命として共感するのではないか、と感じた。[井田ひろみ(モンゴルをテーマとする地平線会議の新人。大学3年生)]


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●滝野澤優子さんから…99/02/19…栃木県那須町発

◆年末に報告会に顔を出して以来、那須で隠居生活をしています。天気がよいときは、犬2匹と一緒に自宅周辺を散歩し、裏手に広がる牧草地から、那須連山や八溝山の絶景を堪能し、素晴らしい自然環境で暮らせることに幸せを感じている今日このごろ。自宅は那須高原のはずれにあり、ダンナの勤務する福祉施設の広〜い敷地内のオンボロ一軒家。町まで10km以上、周囲は牧場農家が点在するだけというすごい環境ですが、せっかく都会から移り住んだんだから、町中に住むよりよっぽどいいですよね。

でも、ここの職員の多くは、少しでも町に近いほうがいいみたいで、家賃タダ、職場まで車で1分という恵まれた環境のこの職員住宅に住んでいるのは、我が家と東京出身のお隣りさんだけ。

◆江本さんのところでやった新年会に行こうと思ったのですが、バイキンだらけの都会(決して地平線の皆さんがバイキンだと言っているわけではありません!)に出るとインフルエンザにかかりそうなので、やめました。実際、1月始めに都内へ出たのですが、それだけで風邪をひいてしまい、体の丈夫さには自信があった私が、那須に戻ってから1週間くらい苦しみました。いつも無菌状態の環境で暮らしているので、都会の空気に体が合わなくなってしまったようです。

◆最近、ずっと歩くスキーに凝っています。昨シーズンにはじめてバックカントリースキーというものを買って、裏磐梯や奥日光、北八ヶ岳などの定番コースにでかけていましたが、今シーズンに入ってエスカレート気味。年末年始の北海道にはじまり、安達太良山や吾妻など近場の山へスキー登山したり、ガイドブックにないクロカンコースを見つけたりと、ダンナ(こっちは私以上に夢中)と2人で休みのたびに行きまくっています。

先日は、とうとう10万以上もする山スキーまで買ってしまいました。貧乏くらしには痛い出費でしたが、那須からだとフィールドも近いことだし、ゲレンデスキーに比べれば山はお金もかからないし、と自分を納得させています。元を取るためには、もっと遊ばないと! というわけで、来週も火曜、水曜と磐梯山へスキーで登ってきます。


不定期破天荒連載「生田目が行く!」
第六発 生田目の驚愕


●浪人暮らしもラストスパートの12月になっていた。お水と勉強と過干渉の母という生活に少々くたびれて精神的に弱っていた。愚痴をこぼす友だちも時間もなかった。それでもレギュラー(お水では常勤の人を指す)のIさんとEさんは「勉強は替ってあげられないから」と、なにかと親切にかわいがってくれて、私には相当ありがたかった。

●Iさんは元バレー部キャプテンで、芯の強い九州女という感じ。Eさんは東北出身で信用金庫に勤めていたが、体の悪いお母さんと弟妹に仕送りするためにお水をやっていると言ってたけれど、おとなしくて(沢山話すと東北なまりが出て恥ずかしいらしい)、少し田舎者ぽい(失礼!)、優しいお姉さんだった。そして東京出身のキャピキャピ破天荒娘の私という3強(?)で、忘年会だクリスマスだと、お水の正念場とも言える12月が過ぎていった。勉強漬けの正月が明けて出勤してみると、いつも店を開けるちーママ役のIさんではなく、暗い顔してママがいた。

●私「あれ、Iさん帰省しないって言ってたのに、やっぱ帰ったの? Eさんは10日ぐらいまで帰省してるんだよね。もしかしてママと2人でがんばるの? お年玉もらい放題かな? ラッキー!」。ママ「Iちゃんね、常連さんのTさんと駆け落ちしたの…、さっき電話で辞めるって…、取りつく島もなかった…」。

えっ? Tさんていつもカウンターの端で歌も唱わずお通しだけで、相手しなくても黙ってひっそりと飲んでるあのTさん? だってあの人、そこの大店の婿養子で、子供も2人ぐらいいたよね! 年だってIさんと20ぐらい違うし、背だってIさんの方がずーっと高いし(あんまり関係ないけれど!)。

私「つ、つきあってたの? ママ知ってたの?」。ママ「う〜ん、まぁIちゃんがTさんを好きなのは、見てればねー」。うそぉ! 逆ならまだしもIさんがTさんを? 本当かよ!。ママ「でもIちゃんて私たちより常識人ていうか、人の道に外れたことを嫌うタイプだから“まさか”と思ってたけれど。やっちゃったわねェ。でもまぁTさんも、今までは養子とはいえ大店の主人て肩書きあったけれど、飛びだしちゃえばただの冴えないチビのオジンだから、先は見えてるんじゃない?」。

などと“みのもんた”になっているママの横で、初めて大人の男と女のどろどろを見た気がした。父母の離婚調停はあいかわらずだったけれど、父母の場合、干ばつの続く砂漠で日干レンガの廃屋がカサカサと崩れていくような感じで、どーにでもなってくれと当事者以外はあまり気にならない(笑)が、IさんとTさんの話しは、熱帯のジャングルの湿地でヒルに吸われ、ダニに卵を産みつけられながら、ずぼずぼと沈んでいくような生々しい感じがして、新年早々ぶったまげて落ち込んだ第1弾だった。でもこれは序章にすぎず、すぐに第2弾がやってきた。

●受験に専念したいから休みたいのに、Eさんは一向に店に来ない。と思っていたら、とある客に「Aさんに聞いたんだけど今晩大丈夫?」と言われた。Aと言えば、えげつなくて酔っ払いで金に汚い、店でもワースト3に入るような嫌なオヤジだった。何のことかさっぱりわからないので、「えっ? 今晩何かあったっけ?」と言うと、あーオマエじゃないのか、いいんだいいんだと、話しはそこで終わった。

2、3日すると、Aが血相を変えてママに食ってかかっていた。ママは、Eちゃんは年始から来てないし、何も知らないと言ってAを店から追い出すと、深いため息をついて、心配そうに見ていた私に「Eちゃんね、どうもお店のお客さんとね…」。えっ? えっー? えっー!。私「もしかしてAと?」。ママ「Aも…、Bも…、Cも…、ほかにも…」。ほかならともかくAと…。私なら舌噛み切って死んだほうがマシ(笑)。

どひゃー! それもあのおとなしい、いもっぽい(死語か?)Eさんが援交!(当時この言葉はなかったが)、うそだろ!。まだこのころは純情だったから立ち直れないほどショックだった。ママ「最近服とか派手になったから変だなとは思ってたのよ」。そういえばそれまでブラウスにスカートみたいな信金ルックだったのに、クリスマス前ぐらいから真っ赤なフリフリのワンピースとか着てたけれど、クリスマスだからなのかなぁと思ってたんだ。

●この後、笑い話しで常連さんたちに明美ならまだ頷ける(なんでよ!)、けれどあの地味なEちゃんがねー、人は見かけによらない。と、よくからかわれた。あのAに聞いたという客も、私だと思っていたのだから!。そーいえばこのころ街で良く「映画(もちろんAVです)に出ませんか?」とか、ピンクキャバレーのスカウトに声をかけられた。私ってそんないかがわしい顔をしていたのだろうか…トホホ…。最近もキャバクラの店長に“ぜひ”と言われて、32だと告げると呆気にとられていた! バカめ!。

余談ですが、この後10年余のお水生活で、耳タコのように叩き込まれたのが、身体でなく、いかに夢を売れるかがホステスの技量と思え、でした。

●話しを戻すと1986年はIさんの不倫、Eさんの援交、そして第3弾が私の身に起きようとは…。あーしまった、前説で字数が終わってしまった。申し訳なく以下次号! エヘヘ。[生田目明美]


地平線新刊情報:「チベットの白き道---冬季チベット高原単独自転車横断6500キロ」安東浩正著・山と溪谷社[予価1800円(今月中旬発行予定)]A5版288ページ(カラー32ページ)〔広大、厳寒の冬のチベット高原をたった独りで駆け抜けたチャリンコ野郎の冒険紀行〕


新シリーズ 見えない地平線
のぐちやすおの刑務所レポート
その3 どこにいる死刑囚

●刑務所に勤務していたというと、死刑囚に会ったかという質問をよく受けますが、死刑囚は刑務所にはいないということを知っておいてください。なぜなら、刑務所というところは刑を執行する場なので、死刑囚は刑を執行されたら死んでしまいます。従って、死刑囚のいるのは刑務所の前段階となる拘置所ということになります。

●また拘置所にいる死刑囚は、確定者と未決囚とに別れます。未決囚とはまだ裁判が行われている最中の人で、確定者とは上告も終了し死刑判決を受けた人をいいます。私がいた当時、宮城刑務所には3人の確定者と1人の未決囚がいました。

●この3人のうち、1人は、三鷹で起きた女子高生殺害事件、通称「牟礼事件」の犯人です。この当時53歳の某新聞記者は、かれこれ28年間を拘置所で過ごし、死刑の執行を待つ身でした。

●ところで、宮城刑務所医務部には、死亡者一覧表というのがあって、それによれば昭和30年代は次々と執行していた死刑も、50年代に入ると激減し、昭和51年を最後に途絶えていました。ですから、彼がいつ判決を言い渡されたのかは知りませんが、延々とその日を待っていたことになります。

●ところが81歳の時、くも膜下血腫で死んでしまいました。かくして病死ということになり、刑は執行されずに終わっています。この時は多くの報道陣がかけつけ、巨大カメラを遠方に設置するなど、ものものしい雰囲気に包まれていました。抜き打ちの電話が医務部の職員を相手に偽名でかかってきたりしてと、実に面倒な日々でした。一方、残りの2人ですが、こちらは私が辞職してから後、執行されたとの連絡が入っていますし、新聞紙上でも発表になっています。それともう1人の未決囚については、あれからどうなっているのか、いまのところ分かりません。

●次回は各工場の特徴についてです。[埜口保男]



今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)

地平線通信232裏表紙 3/26(金)
FRIDAY
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500



氷上のキャラバン
インド北端、ヒマラヤ山麓に位置するザンスカール地方は、冬季(10〜5月)には雪に閉ざされ、陸の孤島になります。この時期、一番近くの町、レーと、村をつなぐ唯一の通交路はザンスカール川。2月を中心の約1ヶ月間だけ、川は凍り、「チャダル」という氷の回廊に変身します。完全氷結することのないチャダル上のキャラバンは、時に2週間にも渡る命がけの旅。

ザンスカールのリンシェ村に住むタムチョス少年は、97年の冬、チャダルを通って生まれて初めて外界に出かけました。当時12才。なにもかもはじめてです。この旅に同行し、記録したのが、庄司康治(やすじ)さん(40)。1980年にはじめて訪れて以来、ザンスカールに魅せられてきたカメラマンです。旅の記録はNHKスペシャル「氷の回廊」にもまとめられ、好評を博しました。

今月は庄司さんをお招きし、チャダルのキャラバンを背景に見えてきたザンスカールの人々の暮らし、家族の絆について話して頂きます。

※地平線通信232号では、庄司さんのお名前を康治ではなく康司と間違って表記してしまいました。申し訳ありません。


通信費(2000円)払い込みは、郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議/料金70円




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