1999年2月の地平線通信



■2月の地平線通信・231号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信231表紙●前回、1月の報告者、関野吉晴さんに同行取材しているテレビディレクターの山田です。光栄にも紙面をいただきました。お題は「取材という旅について」。そういうふうに自分の仕事を見てみたことがなかったので、良い機会だと筆を執ってみました。

●関野さんはご存じのように「グレートジャーニー」とタイトルを付けて、人類の拡散ルートを南米からアフリカまで逆行する旅をもうあしかけ6年も続けています。私は去年からその旅に関わった新参者です。役割は探検隊関野隊のメンバーでもあり取材者でもあるという二足の草鞋を履いた立場です。例えば、関野隊が予測していなかったトラブルに巻き込まれる。そうすると、反射的にとても苦悩に満ちた顔をしながら「困りましたねえ」と関野さんに話しかけながら、同時に右手の人差し指をくるくると回してカメラマンに「カメラを回せ」という指示を送ったりする、とても悪い人間でないと務まらない仕事をしているわけです。こういう「困りましたねえ」−「右手人差し指くるくる」の回数が多いほど番組は迫力のあるものになります。

従って関野隊が順風満帆で進み関野さんがさわやかな笑顔を浮かべていたりすると、とても困ってしまいます。しかたなく「関野さん、何故こんな旅を始めたのですか?」「医師としての将来はどう考えているのですか?」など意地悪なインタビューをして少しでも関野隊に波風が立つようにしていくわけです。

●しかし、最近考え方が少し変わってきました。今、申し上げた「困りましたねえ」−「右手人差し指くるくる」という取材はとても重要なことではありますが、ドラマがないと番組は成立しないという考え方は、かなりつまらない。そればかりか、時には危険な考え方でもあることを最近はよく感じるのです。一つだけ例を挙げてみたいと思います。

●今回、関野さんと訪ねたエンメレンというベーリング海峡に近い村でのことです。ここは、昔からセイウチ猟で暮らしている北方先住民の村です。現地についての情報があまり多くなく取材のテーマも現地に入ってから決めようという現場対応型の取材になりました。辺境の取材の場合こういうケースの方が多く、当たり前と言ってもいいかも知れません。関野さんなんかは、涼しい顔をしています。

しかし、番組を任されているディレクターは青くなります。多くの場合、何もない事が多いのです。当たり前ですが、人間が普通に暮らしていることそのものはあまりドラマティックでも刺激的でもありません。ですから取材班はそういう村に入る場合、お祭り、結婚式、通過儀礼やお葬式など冠婚葬祭、ハレの日にタイミングを合わせて行くわけです。そうでないと「画にならない」と、多くのディレクターやプロデューサーは考えるわけです。

今回も「セイウチ祭り」という大漁祈願祭を取材予定に入れていました。ロシア経済が崩壊し、村人のほとんどが給料を何年ももらっていません。お祭りのハレの日とつらい日常の生活の厳しさが対照的にきわだつだろうという読みで取材に入ったわけです。

ところが、お祭りの方はとても楽しく、村民の晴れ晴れとした笑顔が印象に残り、予想通りだったのですが、村民の日常の取材は、大きく予想から外れてしまいました。確かに給料はもらっていず、この冬の暖房費さえ払えるかどうか分からないという悲惨な状況はその通りなのですが、村人の表情がとても明るいのです。お祭りのまんまハレの日が続いているような晴れ晴れとして力強い。いわゆる「画にならない」わけです。

山田夫妻と関野さんいったい何故なのか、分からないまま取材は進んでいきました。そして、ある日誘われた山菜採り。村中の人がツンドラ(夏の間はとてもきれいな草原です)で無心に山菜やキノコを採っている。そうか、この自然の豊かさがロシア経済に関係なく、村人の気持ちを支えていたのだと気づき、さらに山菜の取り方を見ていると、キノコは必ず根を残し、山菜は根を取る場合でも一本ずつ丁寧に抜き取り、ツンドラの表土をなるだけ痛めないようにしている。自然をうまく扱っていく知恵が、ソ連時代に「近代化」された後もまだ村人の間に息づいていたのです。同じ事がセイウチの狩り方や、トナカイとの付き合い方の中にも残っており、そのことがそのまま番組のテーマになり、内容になっていきました。

●「画にならない」、「…らしくない」ことの中にいかに大事なことが隠されているか、つくづく思い知らされた取材でした。

●受け持ちの紙面が尽きてしまいました。舌足らずになってしまった部分は、3月5日21時〜23時フジテレビ系列で放送の「グレートジャーニー5」で補っていただけると幸いです。[山田和也]
[報告会終了後の記念写真:左から、本所さん(山田夫人)、山田和也さん、GJサポートスタッフとして活躍中の白根全さん(地平線年報編集長)、関野さん]



先月の報告会から・231
グレヱトジアニイさんの人生航路
関野吉晴
99.1.29(金) アジア会館

◆「忙しいことをステータスにする人は嫌いです。なぜなら、忙しいことは、その能力以上のことをしているから。」と話す関野さんの顔には、そんな大それたことをしていると言う気負いは感じられなかった。旅も日常の内とでも言うように通り過ぎてきた景色やふれあってきた人々のことを淡々と話していく様子には、いろいろすごいものを見てきてしまった人にありがちのたいていのことには驚かない何か超越した風格が感じられた。

◆関野さんは、忙しさをどう捕らえているのだろう。時間という概念がたぶんこのような旅をしていく中で変わってくるのだろうか。なにも車や飛行機で能率よくいけばいいのに、何で人力なの。何でパタゴニアからアフリカへ?逆にたどる意味はなに?ひとつひとつ疑問が浮かんでは話を聞いて解ったような気がして消える。

◆何故か、とくに町中でなくめったにお目にかかれない少数民族の中にあえて入って交流し、時に友情を深めていく旅。わかるようなわかんないような。関野さんのサインの入った写真集を友達に見せた。「こういう所には住みたくないですねえ。」と一言。極寒の中に住んでいるシベリアの人々そこまでしてなぜその土地にすんでいるのだろうか。だいたいどうやって冬を越すの?そう思っていたら、いろいろ仕掛けがあってなかなか面白い。

◆たいへんな適応能力だなあと感心する。そして、熱帯雨林も、たいへんな所みたいだけど、けっこう自然の恵みが豊富なのに驚かされた。では、そこに住む人たちの世界観はというと、シベリアの人々も大変なところにすんでいるけれど、通常の世界観を持ち、熱帯雨林の川に住む人々は独特の世界観を持つと言う話はおもしろいが、比較するには少し無理があるように思えた。最終狩猟民いわれる彼らは本当は幸せなのだろうか。それとも、いつも忙しい我々が不幸なのか。わからなくなってきた。日の出とともに働き、日没と共に休むというゆったりした時間を取り戻したいとか、ゆったりした時間と少しずつの歩みは、たぶん人類の進化とともに我々が捨ててきた物かなと考えながら聞いていた。

関野さんは、人類が400万年かかった旅を、ここ20世紀の終わりから、21世紀にかけてわずか数年でやるという。無謀だなと思ってしまうが。フジテレビもついてるしなんとかなるのだろうと他人事に傍観してしまいそうになる。だけど、やっぱり、いいなあそんなことしてみたいと思ったりもする。

◆関野さんの話は、やはり、環境問題を抜きにはできない。旅をすればするほど、人々はエコロジストになるのだろうか。自然とどう調和し共存するか、または、折り合いを付けるか。何かもともと自然の中で生きていく人々から学ばねばならないことがたくさんある。そんなことを教えてくれたグレートジャーニーだったような気がする。[松本 敦子]


新シリーズ 見えない地平線
のぐちやすおの刑務所レポート
その1 入所から出所まで

◆事件が起こり、容疑者が逮捕されました。すると容疑者はどこへ連れていかれるでしょうか。この答えは警察の留置所です。そこで現場検証を経て起訴され、裁判が始まって身柄は留置所から拘置所に移動、裁判の結果次第で無罪なら釈放、有罪なら上告しない限り刑務所に行くことになります。

◆刑務所に入ってくると、まず分類という部署に回され、そこで受刑者の心徳とか規則についての講義、適性検査、集団行動訓練などを受けます。こういうことをしてはいけない、懲罰にはこういうものがある、歩く時は声を出して前90度、後ろ30度に手を振る、待てといわれたら壁に向かって30cm離れ、足を肩幅に開き手を後ろで組んで目を閉じる、といった具合です。もちろん、この講義の最中に姿勢を崩すことはできず、居眠りでもしようものなら、たちまち懲罰対象となってしまいます。

適性検査にはIQ検査も含まれますが、これは真面目に請けるものが少ないため、70以下が多数出てきますが、この辺りの詳しい数字は後日改めて。さらに健康診断を受け、適正工場へと配置され、ここで延々と満期釈放を待つわけです。よく、模範囚ゆえに仮釈放という話を聞きますが、仮釈放の対象になるのは刑期を半分以上過ぎてからです。しかし実際問題として、半分で出所する人はまずいません。宮城刑務所の場合はとかく厳しく、よほどの模範囚でも残期1割を切ってようやく出所にこぎつけるレベルです。

◆そして出所1週間前になると、洗心寮というかなり規則の穏やかなところに移されて、出所を迎えます。この時悲しいのは、何年間という懲役を宣告され、夏に入ってきた人でしょうか、衣類の私物は下着くらいしか認めないので、出迎えが来ない限り、半袖姿のまま雪の降る仙台から出所することになるのです。

◆次回はどこにいる死刑囚についてです。[埜口保男]


地平線はみだし情報

地平線はみだし情報:先月の報告会でNo.270(だと思う)の、表紙がゆがんだ『地平線データブック・DAS』を買ってくれた方、までご一報を。あれは特価品のキズモノで、500円多くいただいてしまっています。


地平線ミラクル
エヴェレスト登頂のミラクル

◆「ミラクル」の趣旨とちょっと違うのだが、たまには仕事の話をしよう。

◆エヴェレストをネパール側から登る場合、最初の難関が有名なアイスフォールである。5350mのクーンブ氷河末端のベース・キャンプから6000mにかけてビルディングほどもある巨大なセラック(氷塔)群が林立する。その間をジュラルミンの梯子やロープをかけて(これは、ほとんど経験あるシェルパたちがやってくれる)登るのだが、底知れぬ口をあけた黒いほどに青いクレヴァスにかけられた梯子をおそるおそるアイゼンの爪を立てて渡る時は、ほとんどサーカスやっている気分になる。

◆それにもまして気になるのは、セラックがいつ崩壊するか、だ。ある日ここを下降する途中、大きじ(野糞)を打ちたくなってしまった。こんな神聖な場所で、と思ったが、この手のことは我慢するのはよくない、という日頃の哲学があったので、大丈夫そうな場所をみつけて準備にはいった。といっても、ほんの30センチ四方の小さな小さな場所。おまけにピッケルはもちろん、オーバー・シューズにアイゼンをつけ、防寒用のウィンド・ブレーカー上下を着たままなので、作業は手間取る。なんとか体制ができてしゃがんだその瞬間、ドーン、という轟音ともに近くのセラックが倒壊した。

◆ぶったまげた。我ながら見事というほかはない猛スピードで下を引っ張り上げながら横っ飛びにすっ飛び難を逃れたが、あたり一面、モウモウと雪けむりならぬ氷けむり。環境汚染がそんなに厳しく言われていない時代だったが、こんな場所で尻出して昇天した日には何言われるか、と、心底ゾッとし、かつホッとした。

◆アイスフォールさえ抜ければ、登山の実質的な拠点は、6400mの第二キャンプである。ここは、ウェスタン・クゥムと呼ばれる平らな氷河のキャンプ地で、歴代の登山隊が必ずアタック・キャンプを張る。テント・サイトはやや高台になっていて、どこから雪崩が起きてもまあ安全とされる場所である。

◆その夜、午前零時をまわった頃、ドオーン、という腹に響く音がした。「こりゃ、でかいぞ」寝入ったばかりの私もすぐ目がさめたほどの迫力だった。「とにかく早く立とう」とテントの中のふたりの仲間と互いに言い交わすうち、ズン、ズン、ズンと何ものかにテントの外からおしまくられ、気がついてみると出入り口付近に閉じ込められて動けなくなっていた。

◆出られたのは、シェルパがナイフでテントを破いてくれたからだ。外に出て驚いた。絶対安全と思っていたキャンプは、雪崩の下になっていて、メンバー・テントは二張りともつぶれていた。隊員たちは中で身動きできなくなっていたが、シェルパたちに次々に救出されていた。不幸中の幸いはシェルパ・テントが離れていて、無傷だったことだった。

◆まさか落ちはしまい、と思っていたヌプツェの稜線直下に張り出した大きな氷の庇が落ち、雪崩を誘発したようだった。キャンプ・サイトのヌプツェ側は谷になっており、少々の雪崩は、届かないのだが、今回のはどうしようもないほどにでかかった。谷を駈けあがって、一気にテント群を襲ったのだ。雪崩といっても、それが止まる時は、すでに雪ではなく押し固められて石のようになっている。その圧力の下敷きになって隊員たちの数人はかなり重症に見えた。

◆「これで登山は終わりだな。まあ人が死ななくてよかった。ところで、会社にどう説明しようか」この登山を支援して新聞社を動かしてきた身には、しんどい事態だった。そうだ、辞表を出せばいい、とぼんやり考えたりした。30いくつかの若僧が社を辞めたって大したことにはならなかったかもしれないが、大まじめだった。酸素吸入を受けながら、うんうんうなっている主軸の隊員たちを見ると、とても登山続行なんて事態は考えられない。日本の新聞は一斉にトップ記事でエヴェレスト雪崩遭難の一報と登山断念の見とおしを載せた。

◆だから、負傷したメンバーの中で最も重症だったひとりが数日にして回復し、歩行訓練をはじめ、ついには「江本さん、待っててください」とアタッカーとしてこの第二キャンプを出発した時は、ちょっと「ミラクル」だった。5月16日午後12時35分、その本人が8848mのてっぺんから「とうとう、着きましたあ」とトランシーバーで伝えてきた時は、さらにミラクルであった。

◆シェルパのアン・ツェリンとともに登頂した日本人隊員の名を田部井淳子という。1975年春のことだ。エヴェレストは日本女性隊だけで、静かだった。[江本嘉伸]


不定期破天荒連載「生田目が行く!」
第四発 生田目の就職

◆また息苦しくなってしまった。また発病である。32年の人生で何度か発病しているが、この時もまさにそれだ。母の過干渉、父の暴力からのオアシスだったはずの彼なのに、いつのまにかやっぱりまた籠の鳥。

◆なんて私は強欲なのか。高校を卒業したらお嫁においでとありがちな小さな恋のメロディを蹴っ飛ばしての浪人暮らし。離婚調停真っ盛りの父母にはこれからのそれぞれの行方の方がビックプロブレムであって、不良娘の道楽はアンビリーバボーでしかなかった。18まで育てたんだから、働かないなら後は勝手にしろだった。本当に勉強したいというなら、学費くらいは何とかしてくれただろうが、母は60を目前の離婚を控えて、余生のために無駄金は使えないという雰囲気だった。兄も自分で大学に行ったのを聞いていたし、学費を出してくれと説得するだけの大学合格の自信もなかった。

◆最初、予備校に行きながら、しゃぶしゃぶ屋でバイトを始めた。和服着用だったので、ファミレスより金になった。が‥3ヶ月でクビになった。夏季講習の授業料の納期限が近かったのであせった。「なんで?」。今では笑い話だが、私がいると板場の若い者が落ち着かないと板長に言われた。板前さんというのは、15、6歳くらいで修行に入って、休みらしい休みもないまま腕を磨いている。仲居のお姉さんも、お姉さんというより昔はお妓さんというかんじで、若い娘は少なかったから、自然とちやほやされた。でも別にわたしが若い板さんに何をしたわけでもないので、濡れ衣だよ!と思ったけど、そんなことは通らなかった。

◆一所懸命働いてたのに解雇されて、悔しくて泣いていたが、転んでもただでは起きないのだ。そうか、私は何もしなくてもちやほやされるのか! これはもしや使えるかもしれない! ウホホ‥うまくいけば、ご飯食べれて、酒が飲めて、カラオケ歌えて、金がもらえるのか?‥なんてとんでもないガキだったんだろうか。トホホ‥。かくして私のお水の花道の始まりである。けっこう単純!

◆母にホステスになろうと思うと言ってみた。昼間は予備校があるから、夜、短時間で稼ぐには水商売がよいということを私なりに真面目に論理立てて(屁理屈!)説得した‥つもりが、かなりあっさり「あ、そう。やってみれば」と言われた。えっ? いいの? 本当? すげーな。OKしてもらったんだから、何で? とか聞いてやぶへびになったら大変だから、とっとと働いちゃえ!とばかりに、近所のスナックに勤めた。

◆最初はおっかなびっくりだったが、客層としても近所の独身のお兄ちゃんが夕食がてら一杯とか、同級生のお父さんが商店街の寄り合いの帰りにちょっとみたいな乗りだったし、ママ自体が、素敵なダンナ様とお嬢さん2人の普通の奥様が初めてやってみた商売というような人で、のどかな感じだった(実際、ママはもう一度大学に行きたいと言って、しばらくして店を閉めた)。

◆1週間くらいして母に「もしヘマして、香港にでも売られちゃったらどうしようかと思ってたけど、何とかやっていけそうだ」と言ったら、「バカだね。水商売だからって色眼鏡で見てちゃダメよ。真面目にやってる人だって沢山いるんだから、お酒が入るからいろんなことがあって、いろんな人がいるけど、自分がちゃんとしてればこんなにいい仕事はないよ。オマエなんて無細工なんだから25過ぎたら鼻も引っ掛けられなくなる。稼げるうちにちゃんと稼いで貯金しなさい」と、なるほどというか、マジ?というような忠言を受けた。この後も、母にはいろいろと水商売のイロハというようなことを伝授され、何かと役に立った。こんな母娘も世の中に入るのです。

◆水商売に入ったら好き嫌いがなくなった。美味しいものを沢山ご馳走になる機会にも恵まれたが、飲兵衛は珍味好きなので、見たこともないようなものを沢山いただいた。タラコとかカズノコは知ってるだろうけど、「ばち子」って何の子でしょう。氷頭ってサケのどこの部分か知ってます? こんなわけで、世界中どこに入っても何でも食べれるようになった。酒の味もわかるようになって、それまで許せなかった父の気持ちが少しずつわかるようになった。酒に逃げるのは良くないけど、人間誰でも何か心の逃げ道というか、拠り所は必要だなと。

◆最近、お酒の飲めない人に(特に若い人に)会うことがあるけれど、何だか寂しい。飲めない体質とか、酒に頼ったりしないというような強い人は仕方ないけど、酒で何も解決しないのもよおく知っているけれど、私にとっては気を許せたり、話せたり、忘れたり、体を温めたり、好きだなーとつくづく思う。おかげで、肝臓には無理させてばかりですまないねーというかんじ。

◆そうこうしているうちに、19の厄年がやってきた。「女19ははらむか死ぬか」と言うらしいが、まさに‥波乱の19歳の幕開けだった。その時、男は子持ちの執行猶予中‥私どーなっちゃうの。予備校は? 黙って待つといってくれた彼は? 父は? 母は? さあ大変!(以下、次号!)[生田目明美]


地平線忘れな草
オーストラリア西海岸での
わすれれな草

◆りんごがいーいかい? のどは乾いてないかい? お腹すいてないかい?」 車体がオレンジ色のバンの助手席に座っていた私は、真っ赤なりんごを噛りながら、コップに入ったミネラルウォーターをガブガブ飲み、アイシングシュガーたっぷりのシナモンロールパンを食べていた。生まれての始めてのヒッチハイク!なんとか一日で3台の車に乗っけてもらった。

◆この車は3台目、青空広がるの昼下がり、オーストラリア西海岸にあるガソリンスタンドでのヒッチハイク。給油のためにスタンドへ入ってくる車すべてに声をかけた。っが、なんだか恥ずかしくって(?)まともに声をかけられない。「え〜とえ〜っと、Excuse me ?」本来は「豪快+でかい声」なのに、こんなときに限って小声でひかえめな声になる。なんともなさけない!

◆なかなか目的の方向へ、乗せてくれる人はいなかった…。途方に暮れていたその時!オレンジ色のバンに真っ赤なキャンピングカーを繋いでいる老夫婦(その時、推定70前後)が、心良く(と勝手に思い込んだ私)乗せてくれることになった。「やったー!」そこから約100キロのドライブが始まる。

◆英語もままならない私は、知ってる単語をフルに使って二人と会話をする。何をテーマに会話したのかはほとんど覚えていないが、どこから来たのか?とか、昨日の夕食何を食べたのか?とか世間話。その程度の内容で盛り上がっても1時間そこそこで話は終る。なんせ話は単語のつなぎ合わせで、語れることも限られるあっという間にネタ切れ。せっかく車に乗せてもらってるのだから、少し面白い話でもして、二人を楽しませたいと思うのだけど、自分の持ち合わせのボキャブラリーでは、どうしようもない。

◆オーストラリアのラテライト、真っ赤な土の上を一直線に走る道。そんな風景を助手席で眺めながらふと、日本の歌謡曲が頭をかすめた。『よっしゃこれしかない』私は「I sing a song, This is Japanese song.」といいい、歌い始めた。一曲目は、今思うと照れくさいけど、"夢をあきらめないで"(知ってます?)「あなたの夢をあきらめないで、熱く生きる瞳が好きだわ〜〜〜」(こう見えて、私は小学校2年生の時、知る人ぞ知る「スター誕生」第一次予選にピンクレディーの曲で出場している、もちろん2次予選にはいたっていない。ちなみにテレビ出てる人は第3次を通り、東京予選で選ばれた人が出場可能であったように思う)

◆とにかく、日本の歌を非常に喜んでくれた老夫婦は、それぞれの生まれ故郷の民謡を披露してくれた。奥さんはアイルランド出身らしく、歌詞もメロディーもまったく始めての美しい音色だった。夕焼けを眺めながら3人の歌はつづいた。わけもわからない小娘を、車に乗せてくれた。こころよく食べ物と水を与えてもらって、言葉は通じてなかったかもしれないけれど、歌とメロディーで心がかよっている気がした。

◆目的の街に近づいた時には、すっかり日が暮れていた。たまたま見つかったキャラバンパークの入り口で下ろしてもらい、二人と、Hugをして「さよなら」言った後、オーストラリアで何百回目かの涙を流し、ウエストポーチの中からメモ帳を取り出した、残っていたのは奥さんの名前だけだった。ふたりの住所もドライバーしてくれた旦那さんの名前もひかえてなかった。

◆あの後二人が、どこへ向かっていったのか? またどこかで旅人を乗せて歌合戦したのか? リンゴとシナモンロールを分けてあげたのか? 考えるだけで心の奥があったかくなる。だから今でも、パン屋で見つけると、あま〜いアイシングシュガー付きのシナモンロールを選んで買ってしまうのかもしれない。[丸山富美]


地平線忘れな草
ヒマラヤトレッキングでの
わすれれな草

◆98年1月、私たち夫婦は、福岡空港発の台北経由カトマンズ行きの飛行機に乗り込み、未だ見ぬ憧れの山エヴェレストへの思いを機内で膨らませていた。私自身、それほど高度な登山技術を持つわけではないし、何せ10日間という短い日程の中でのスケジュールだったので本来ならばスタート地点とも云えるナムチェバザールまでのトレッキングとなってしまった。同行した妻の典子にしても、私と同様の思いをかねてから抱いており、今回の計画や日程は私と違い定職を持つ彼女の事情に合わせるかたちとなった。

◆夜遅く到着したカトマンズ空港で、私達を出迎えてくれたのは、日本からお願いしていたネパール人ガイドの青年だった。彼は、私たちをホテルに送った後、片言の日本語で最小限のことだけを言い残し車に乗り行ってしまった。その時、私から尋ねた「名前は?」の問いかけで、彼の名が「ボビス」と言うことだけは知ることができた。

◆翌日、彼と私たち3人は国内線の飛行機でトレッキングの玄関口であるルクラへと場所を移し、そこで彼の知り合いのシェルパと合流し4人で歩くことになった。時間が経つにつれて私たちは、どこか照れくさそうに接してくるボビスに次第に親しみを感じ取れるようになった、ボビスのほうもそう感じてくれたのか1日目のパクディンにつく頃にはシェルパと4人でいろいろなことを話すことができるようになっていた。その夜は私とシェルパ、そしてボビスとの3人でビールとチャン(ネパールのどぶろく)を飲みながら、次の日の事も考えず夜遅くまで様々な事を語り合う事ができた。

◆翌日からは更に輪をかけて楽しいトレッキングとなった。そして、ジョルサレを過ぎた時、ボビスがここからもエヴェレストが見えるよ!と一言! ボビスの言葉に、驚きと喜びの気持ちで道無き道を進んだ私たちの向こうには、確かにあの見覚えのある形の山がまだ小さいながらも力強くその姿を覗かせていた。初めて目にするエヴェレストだった。幾度となく見てきたボビスも、私たちと共にまるで自分のことのように喜んでくれた。ナムチェにつく頃にはお客とガイドという関係はいつしか昔からの山友達のような関係になっていたように思える。ナムチェからの帰り道でも私たちにとってはボビスと歩くことのできる貴重な時間と感じることができた。

◆ルクラでは、トレッキングの終わりと共にシェルパとの別れでもあった、その日の夜はシェルパの家でビールを飲みながら彼との最後の夜を楽しんだ、そして、もうすぐ出産を控えた奥さんに宜しくとの言葉で彼の家を後にした。

◆翌朝、カトマンズからの飛行機を待つ間ボビスとの最後の食事のとき、お客さんが先と言って聞かないボビスに私たちからの最後のお願いということで一緒に食事をとってもらった。そして、シェルパも家族を連れて私たちを空港まで見送りに来てくれ、次回も一緒に歩くことを約束してルクラを後にした。

◆カトマンズに戻ってからはボビスと語り合ったことを思い出しながら、いつもの旅の終わりと違うものを感じていたと思う。ボビスという1人のアルパインガイドに妙な親しみを覚え、彼が自分にとって友人のような存在に感じたのは単に同じ時間に同じ場所に居たということからだけではない。彼は、今までに数カ所の旅行会社のガイドを勤めてきた。それは、その度に会社のやり方に疑問を抱いてきたからだと言う。高額の旅費を請求しているのに、それに見合う体制をとろうとしない。例えば高山病の恐れがある場所にもかかわらず、酸素の携帯すらままならない状態では十分なガイドとしての仕事を行うこともできない。結局自分で何とかせざるを得ない状態に追い込まれる、そんな自分の気持ちは会社に伝わる事はなかったと言う。それを繰り返しながら彼は今の会社を見つけた、だが其処とて自分の本当に思い描く姿ではないとも言う。

◆彼の夢は自分自身で本来のツアーガイドの会社を作ることだと言う、お客が高額なお金を支払ってくれるのなら最低でもそれだけの事をしてあげるのが当然だし、またお金だけの問題ではなくネパールという国を安全に楽しんでもらう事が自分達ガイドの本当の仕事だと彼は熱っぽく私に話してくれた。そして、彼のもう一つの夢として日本人や他の国の人がヒマラヤに憧れるように自分は日本のアルプスに行くことに憧れているのだとも教えてくれた。

◆ボビスと空港で別れる時、私は彼に1000ルピーを渡した。日本ではそんな私の行為をうまくお金を取られたのではと思った人もいたようだが、その時、彼と私の間でこのお金は友人として夢を実現させるための何かに役立てて欲しいと言う言葉を交わし、硬い握手を交わした事など説明しようとも思わなかったし、日本に帰ってから彼からの手紙を手にする事ができた事、その手紙から、彼の気持ちが決してその場だけの気持ちでは無かった事を感じ取れた事など、他の人に説明する必要など無いのだろうと感じていた。

◆自分の仕事に対してこれほど真剣な考えを持った同じ世代の人間にネパールという地で出会えた事が私にとってとても嬉しいことだった。そんな友人を持つ事ができたのは本当に偶然かもしれない、長い旅をすれば必ずつくれるものではないし、ましてやお金で買うものでもない。でも、そんな偶然の出会いをこれからも大切にしながら、そして、いつか自分を友人と思ってくれる人との出会いを密かに期待しながら生きていきたいと思う。[河野孝司・典子]


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●大沢茂男さんから…エベレストの氷河湖発

◆謹賀新年 イヤ〜ア〜山の神様お願ひだ〜金色の木遣りの美声が黄金に輝くエベレストの氷壁にこだまして1999年ヒマラヤの元旦は明けた。思えば遙かなる我人生の夢…エベレスト氷河湖元旦初泳ぎ20回を目前に冒険の血燃える元朝の一瞬である。午前9時気温零下10度、水温零度…精神統一、エイ、ヤーの気合いとともに氷湖に突入…無我夢中…数十秒、氷上にはいあがる。ヤッター、ヤッター。万歳、万歳。俺は生きているのだ。珠峯の女神、御宮の女神、我家の女神ありがとう。親子二代にわたり親身も及ばぬ支援をいただいたシェルパ一家。初泳ぎの成功を神に祈ってくれたヒマラヤ山中の村人たち。世界各地の友人、三輪さんはじめ地平線会議のみなさんに只々感謝、感謝の涙も凍る一瞬、俺は今世界で一番の果報者だ。このご恩に報ゆるために今後の人生をヒマラヤ山中の恵まれぬ人たちに捧げようと心に誓っているうちに元旦の夕日は足早に西の雪峯に沈んで行った。御多幸をお祈り申し上げます。

珠峯初泳
雪山萬里湖珠峯
元朝泳弐拾星霜
報恩林子稔桜笑


●野々山富雄さんから…屋久島発

◆拝啓、通信毎号楽しみにしています。南の果ての島なので情報あまり入らず(本屋小さく、図書館はなく、新聞夕方きて、おまけに私んとこはまだ電気、電話なし。インターネットなんて宇宙の果てのハナシ。携帯は入れたけど自分ちは圏外)さびしいモンです。しかし、逆にここだからこその生の情報に日々ふれています。原因と結果が自分の肌でわかるというのはおもしろいですよ。そんな情報の発信基地にしていきたいです。家の建設は少しサボっているけど、みな様遊びに来て下さいね。


●山上一郎さんから…

◆昨年4月から長野県木曽郡の職業訓練校で家具作りを学んでいます。授業料は無料。その上、1年間の在学中は失業保険が延長して支給され続けるという何ともありがたい所です。下宿しているのは中央アルプス駒ケ岳2合目の山小屋です。とても寒いところで昨夜の気温はマイナス15度、道は完全にアイスバーン状態です。

◆先週から始まった漆塗装の実習でかぶれてしまいました。膝の裏あたりにポツポツと赤い斑点ができていたのが、風邪をひいた途端に全身にかぶれが広がり、特に手や首筋はボコボコ張れあがってヒビが入り、とても痛々しい有様です。

◆日曜大工は得意でしたが、家具作りの勉強は苦難の連続でした。入学して最初にやらされるのが刃物研ぎです。カンナの刃をひたすら研ぎ続けるのですが、手首をしっかり固定しないと、刃先が真ん丸くなってしまう「丸っ刃」という現象が起こります。刃先をしっかり押さえようとすれば指先を砥石で一緒に研いでしまい、鉄粉で真っ黒になった指先は常に傷だらけ。まだ雪の残る沢から引いてきた水は傷口に染みて痛く、本当に惨めでした。

◆職業訓練校というと、リストラされた年輩者が頑張るイメージがあったのですが、東大出の学者もいれば、自動車の期間工員までいて前職は様々です。中学卒業したての若者から60歳の定年退職者までのなか、多いのは20代を中心としたサラリーマンからの転職組です。無垢板で家具を作るという数少ない学校のためか、全国から人が集まります。

◆僕自身もここに来るまで4年間サラリーマンをやっていました。大学を出て入社したテレビ番組制作会社から、テレビ朝日のサンデープロジェクトという報道番組へ出向していました。テレビに出る人は、人並み以上に成功を収めた人かどん底にある人が多いと思います。取材を通じて、人生の波の一番高いところか一番低いところの両端に位置する人々と接して感じたのは、彼らがとても強いエネルギーを持っているということです。それは喜びや悲しみ、自信であったり生き方そのものであったり・・いずれも普通に生きていたら滅多に出会えない強く深いものでした。

◆一番思い出深かったのは阪神大震災です。家族をなくし、家をなくし、悲しみに暮れるなかでも前向きに生きていこうとする人々に出会いました。何が大事なのか、人間が生きるということの原点を見た気がします。

◆最後に関わった取材、昨年春に放送した震災3年目の神戸特集では、野球場の中にできた大きな仮設住宅に2ヶ月通いました。怒りや悲しみ、諦め、そしてエゴ・・争いが絶えない暗闇に包まれたような雰囲気の仮設住宅のなかで、88歳になるのおばあちゃんが内職を頼りに自活しているのを見て救われる思いでした。どんな状況でも生き方を決めるのは本人の心の持ちようということを強く感じました。

◆家具に興味をもち始めたのは、97年5月に結婚して、家に家具がなかったので自分で作り始めたら面白くて、これは天職と思い込んでしまったからです。独身であれば、恐らく職人の道に進もうと考えなかったと思います。やはり結婚し家族をもった身で、将来のことを今までより少し長い目で見るようになったからなのだと思います。そして、それを決断させたのは、取材を通じて出会ってきた人々から学んだ自分なりの価値観でした。

◆今春、東京の家具屋に就職します。テレビも映らない山奥での生活はとても楽しく、本当に夢のような1年でした。やりたいことをやれるというのはとても幸せなことと思います。いつか独立して家具工房を営むことが夢です。とりあえずここまでやってこれたのは、わがまま勝手な転職にも関わらず励ましてくれた仕事仲間や友人、何よりも東京で仕事を続けながら僕を黙って支えてくれた妻のお陰です。妻、規子からは転職の条件として、人様の前では必ず内助の功を強調するよう指導されていますので、この場を借りて最後に一言、「のりちゃん、ありがとう」


●西牟田靖さんから…

以下の2冊の本の一部を西牟田さんが書いているそうです。読んでみてね。

◆「アジア辺境紀行」下川裕治編(徳間文庫)
 →『アフガニスタンに消えた日本人』の章
◆「ベトナム縦断鉄道途中下車の旅」下川裕治+ぷれすアルファ(双葉社)
 →北ベトナムの写真と文


地平線はみだし情報

日本電波ニュースを辞めてJiNNET代表になった高世仁さん(96年10月の報告者)の番組

●2月19日19〜21時 MX(東京メトロポリタン)テレビ 高世さんが生放送でトークライブ。「朝鮮半島はどうなる?」

●2月20日8時〜9:25 日本テレビ「ウエイクアップ」の特集で「朝鮮有事 その時米韓は?」

●2月20日23時半 テレビ朝日「ザ・スクープ」で「朝鮮の軍事戦略」


「99しまなみ海道100km遠足」
参加者募集!!

◆「99しまなみ海道100km遠足」地平線会議の仲間の海宝道義さんがこんなおもしろい遠足を考えました。今年4月に開通する本州四国を結ぶ瀬戸内海大橋は歩道付きなので歩いて尾道から今治まで行けます。そこを一日で渡ろうという計画です。

日時は6月6日日曜日、福山城をスタートして海を渡り松山城まで行きます。距離は100キロ。自分の足で瀬戸内海を渡るというのは楽しそうです。申込は3月31日まで。もちろん三輪主彦も参加します。

問合せ、FAX 0462-55-4689


事務局からのお願い

◆地平線会議は、世話人のボランティアですべてのプロジェクトが運営されています。事務所もないため事務局の仕事は数人で分担して、自宅や職場で仕事中にこっそりやっています。

最近、郵便振替で入金していただくときに、お金だけ振り込んでくる方が増えています。何の本の注文なのか、通信費やその他のカンパなのか、確認ができないこともあり、困っています。入金するときには必ず「通信欄」に内訳を書いてください。

『地平線からVol.8一冊△△円+送料□□円=○○円』とか『×月の報告会で○山さんにDASを1冊申し込みました』と書いていただければ、確実に処理できます。

なお、通信費やその他のカンパは↓の『地平線会議』の口座で、DAS、年報等書籍類は『地平線会議・プロダクトハウス(00120-1-730508)』で受け付けていますので、よろしくお願いします。



今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)

地平線通信231裏表紙 2/26(如月)
FRIDAY
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500



疾風タッグマッチ
「チェックポストまで、まだ数百メートルあるのに、制限時間はあと3分! 頑張って!」。片山忍さんは相棒のアラブ馬アインサーに祈るように語りかけました。とたんにアインサーはスピードをあげ、視界のきかない山道を飛ぶように走り始めました。ポストにはギリギリセーフ。しかも獣医チェックに備えるかのように、心拍計の数値も正常値に戻っていくではありませんか!

アメリカで最も歴史のある耐久乗馬レース、テビスカップに出場した片山さんは、97年、日本人ではじめて100マイルを規定通り完走しました。「馬とのコミュニケーションが醍醐味」という片山さん。

98年12月にはアブダビで行なわれた国際耐久チャンピオンシップに出場。チェックで完走にはなりませんでしたが、ゴールを切っています。

今月は片山さんに、レースの報告と乗馬の楽しさを語って頂きます。お楽しみに!


通信費(2000円)払い込みは、郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議/料金70円




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