1999年1月の地平線通信



■1月の地平線通信・230号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信230表紙1999年、今年もよろしく。あと350日ほどで「2000年」という、記念すべき年に突入するんだから、この一年は、しみじみと景気のいい話をしよう。次のミレニアム(千年紀)は「3000年」まで待たないと、来ないのだから。

●地平線会議が発足して今年8月17日で、ちょうど20年になる。わずか20年だが、振りかえってみれば、超激動というか、現代史の中でもとんでもない20年だったことに驚く。国家が根こそぎ倒れるというような光景があちこちで展開し、「まさか」が連続した日々だった。そんな中で自分たちがペースを変えずに活動を続けてきたこと自体、不思議な気がする。

●なぜ、地平線会議が動き出したか、については時々回顧録をやっているが、先日アジア会館で会った若い人たちの中には、1980年生まれ、なんて人もいた。耳ダコの人は我慢してもらって、20年前の話をすると、ネーミングが結構大変だった。候補となった名前に、やろうとしていたことの輪郭が出ていると思うので再録しておく。

●確か、「地球会議」というのが最初に出た。「私的探検情報蓄積機構」というオモオモシイのが続いて、以下「地球人会議」「地球なめくじの会」「地球懇談会」「世界地図の会」「放浪会議」「冒険の会」「グループ・嵐の世界」「地球冒険の会」「地球虫の会」「地球体験会議」「体験を語る会」「探検人間の時代」「冒険人間よ集まりなさい、の会」「新冒」…。このあと「地平線クラブ」「彼方会議」といういい線になって「地平線会議」におさまった、というのが事実経過だ。その日が、1979年8月17日。

●教師の身でトルコ留学から帰った三輪主彦が一万円をカンパさせられて79年9月の第一回報告者になったのは、有名な話だ。以後、多くの探検家、冒険者、旅人、登山家、彷徨者が毎月いれかわりで報告者になってくれ、アジア会館で開く地平線報告会は、20年目を迎えたこの一月で230回目になる。手弁当で参加してくれたこれまでの報告者の皆さんに、地平線会議を代表してあらためて深い感謝の言葉を申し上げたい。

●「とりあえず次の世紀までやってみよう」とはじめた活動だが、来てくれる人間の面白さに釣りこまれて、あっという間に世紀末を迎えた感じである。もともと主軸として取り組んだ年報「地平線から」は、年間1800万という海外渡航者数の前に息切れしたかたちだが、パソコンネットを駆使した「DAS」(残部僅少!)という新しい作品がそれを補ってくれた。ハガキ通信からはじまった地平線通信も、歴代編集長によるさまざまな試みがあり、どんどんおもしろくなっていった。人材発掘の手腕を発揮し、ユーモア味も含めて新境地(一年続いた読者投稿もよかった)を開きつつある樫田現編集長には、是非十年ぐらい続投してもらいたい。

●おととい、四谷三丁目の角を曲がったら、関野吉晴とばったり会った。グレートジャーニーをはじめてから彼とはしばしば、このあたりでばったり会う。少しふっくらしている。70キロ近くあり、いままでの人生で一番太ってしまった、という。10、11月、チュコト半島の四百人ほどのチュクチ人が住むインチョウンという海辺の村でセイウチ猟の撮影をしているうち、肉ばかり食べていてそうなったそうだ。

●その村では火薬と動力をいっさい使わないで、セイウチ狩りをする。エンジンを切り、手漕ぎのボート上で銛を構え、文字通り身体を張ってセイウチに対決するんだそうな。いつもの淡々としてやさしいた語りくちを路上で聞きながら、はるかナバリーノ島からユーラシアまで「人類の偉大なる旅」を歩いてきた旅人の誇りを一瞬嗅いだ気がした。

●で、ミレニアムのおおみそか初頭、関野吉晴のひさびさの地球報告に期待を![江本嘉伸]


■編集長より
明けましておめでとうございます。編集長任期もあと“絶対数ケ月”(註・打ち消し線入り)ですが、今年もよろしくお願いします。来月号より、新企画「地平線忘れな草」が始まります。旅先で出会った忘れ得ぬ素晴らしい人、今もって殺してやりたい奴、思い出すたびに笑ってしまう人・・。貴方の出会った素晴らしい人を是非紹介してください。字数1600〜2000字での投稿お待ちしております。では今年もよい旅を!



先月の報告会から・230
クロスピークで昼食を
宮澤美渚子
98.12.25(金) アジア会館

横浜に生まれた宮澤美渚子さんは11歳のとき、戦争のため、信州・小谷村に疎開した。4才の時母親を亡くしている美渚子さんは、毎日北アルプスを眺めながら、「あの山の向こうにはお母さんがいるかもしれない」。そんなことを思っていた。

女学校を出て、会社の山岳部で本格的に登山を始めた。北穂小屋の前で見た富山湾に沈む夕日の神秘的な、何か懐かしいような色は今も忘れられない。ある時失恋をしたショックで、「魔の山」谷川岳に毎週のように通うようになった。一度などは雪渓ですべり、湯檜曽川の谷に転落した。「一生結婚なんてすまい」。そんな美渚子さんだったが、憲さんの「ヒマラヤ登山隊長」という肩書きに「騙された」。この人と結婚すれば一生山に登れる。そう思い結婚した。

ほどなく子どもが生まれる。子どもはやっぱりかわいい。美渚子さんは以降、低山ハイキングに徹するようになった。いつしか子が親離れをした。建築家である夫・憲さんは、「俺が設計した家に住まわせる」という約束は果たしてくれたが、結婚する時にしたもう一つの約束、「ヒマラヤを見せてやる」の方は果たしてくれていなかった。それで自分で行くことにした。

88年、田部井淳子さんを隊長とする日本山岳会婦人懇談会のインドのシバ峰(6142m)登山に参加した。一生に一度ヒマラヤを見よう。これをやって山を終わりにしよう。そう思って参加したが、登頂できなかったことで逆に火がついた。翌89年には、東京農大山岳部のナンガ・パルバット登山の支援トレッキング隊に参加した。

この時見たルパール・ピーク(5970m)を次の目標にしようかとも思ったが、どうせなら6000m以上の山をということで、94年、還暦の記念にネパールのコンデ・リ(6187m)に行くことにした。還暦女性3人きりの隊で、はじめて自分で企画をした。シバ登山の経験を通して、人についていくのではダメ、若者に頼っていてはダメなんだと実感したからだ。外国での交渉事のため、少しずつ英語も習い始めた。そうして、一から自分で準備した山だったからこそ、コンデ・リは本当に登りたかったし、登れて帰ってきた時には村のロッジで泣くほど嬉しかった。ようやく区切りがついたと思った美渚子さんは、これでヒマラヤは終わりと、全ての装備をいっしょに登ったシェルパにプレゼントした。

コンデ・リに一緒に登ったシェルパのペンパさんは、美渚子さんのことを「マミ(お母さん)」と呼ぶ。彼が「マミの登れる山があるよ」と誘ってくれ、95年には再びネパールのピサンピーク(6091m)に、97年にはバルチャモ(6187m)に出かけた。毎回「これで終わり」と思いながら、コンデ・リから3回も続けて登頂に成功する。いつも頂上アタックの時、穏やかな最高の天気に恵まれるのは、「導いてくれる目に見えないものがあったんじゃないか」。

クロスピーク(6510m)は、1963年に憲さんが途中まで登り断念し、今も未踏峰として残されていた。35年前から歌にまで歌っていたクロスピークなら、最後を飾るに相応しい。「今度こそ最後」と、美渚子さんは初めて夫と二人の登山隊を組み、シェルパたちと共にクロスピークを目指した。しかし、71歳の憲さんは、ベースキャンプで調子を崩し、登山活動には加われなくなった。夫がリタイヤし、美渚子さんは初めて「自分が登らなければ」という強い使命感を感じる。ルートは落石が多く危険で、ペンパも「これはマミの登れるルートではない。山を変えよう」と進言してきたが、いつも従ってきたペンパの言葉にはじめて反論した。

シェルパたちが何とかルートを見出し、登山は続行された。頂上へ唯一可能性のあるそのルートも、浮石の積み重なる極めて細い稜線で、危険極まりない。テントからトイレに行くのにも、ロープを必要とするほどであった。美渚子さんはキャンプ1で65歳の誕生日を迎える。「何でこんなことしに来たんだろう」。

いよいよ訪れた頂上アタックの時、最後に出てきた垂直の岩溝で、美渚子さんの足はつりそうになり、もうダメかと思われたが、シェルパたちに励まされ、ついにその狭い絶頂に辿り着く。夫の果たせなかった初登頂。下山では力を使い切ってフラフラになり、シェルパたちに「猿回し」のように支えてもらい、日没後の暗い中、なんとかテントに還り着いた。靴すら自分で脱げない状態になっていたが、喜びで「ヒマラヤの雪を溶かすほど泣いた」。ベースキャンプでは憲さんが「よくやった」と迎えてくれた。

「私の登山はスポーツではないし、近代アルピニズムの流れからも外れていると思う。今生が終わっても、その先にもっと大きなピークがある。来世に向けて今の山登りをしているんです。自分が終焉を迎える時が最高でありたい」。登山後の彼岸の日、カンチェンジュンガの臨めるベースキャンプで、春に同山で命を落とした日本山岳会の二人の若い仲間のために、美渚子さんはケルンを積み、お米とお菓子をお供えした。[松原尚之]


地平線新刊情報

三輪倫子さんが「もう一度おしゃれに リファッション」(窓社・定価1600円)という本を出しました。表紙は長野亮之介画伯の絵です。もったいないから古い衣服をリフォームするというだけではなく、再びファッショナブルに装うというのは新しい視点です。男の人も読んで実践してほしいというのが著者からのメッセージです。


地平線ミラクル
“1万分の1”の奇跡

●僕はこの30年間、バイクで世界を駆け巡っているが、何度か命を落としかけたことがある。エジプトではイスラエルのスパイに間違えられ、暴徒と化した村人たちに半殺しの目に遭い、からくも軍隊に救出された。パキスタンでは28日間連続の下痢に見まわれ、毎日“下痢死”の恐怖におののいた。アフガニスタンのアジアハイウェーでは居眠り運転で事故を起こし、反対側車線にしばらく気を失って倒れていた。アフリカではマラリアの高熱に襲われるたびに、「あー、ここが自分の最期の地になる」と観念した。だが、そのたびにピンチを切り抜けてきたので“強運カソリ”とか“不死身のカソリ”といわれている。

●国内でも同じことだ。東京・越中島の交差点では、無理に右折しようとしたトラックの側面に直進の僕が突っ込んだ。信じられなかったのだが、実にうまい具合にトラックの下にもぐりこみ、まったく無傷でセーフだった。深夜の国道1号の箱根峠では、三島側に下っていくと、なんと暴走トラックが無理な追い越しをかけて登ってきた。「あ、ヤッター」と頭の中は真っ白になり、一瞬、トラックと正面衝突してバイクごと宙に舞う自分の姿が目に浮かんだが、一か八かの勝負で暴走トラックと左側縁石のわずかな隙間に突っ込み、ほんの数センチの差ですり抜けて助かった!

●この強運はきっと僕の天性のものなのだ。で、自分の人生最大のミラクルといえば7歳の時のことになる。小学校1年の夏休みに東京・練馬の石神井に移った。そこはまさに天国。雑木林や草原はいたるところにあるし、自然の沼はあるしで、今とは全く違う、東京とは思えないほど自然の豊かなところだった。そこを舞台に遊びまくった。

●2学期の始業式は僕の7歳の誕生日。元気で学校に行ったが、まさかその日が2学期最後の日になろうとは・・。夕方から熱が出た。翌日になると高熱だ。母に連れられ近くの「石神井診療所」に行くと、すぐに東京大学病院の音羽分院(伝染病棟)に行くようにといわれた。なんともラッキーだったが、その先生は東大病院から来ている先生だった。ここでもし「風邪ですよ」ぐらいのことを言われていたら、僕の命はなかった。

●熱はいよいよ高くなり、歩くこともできない僕は母に背負われてバスに乗り、東京大学病院の音羽分院に連れていかれた。病院で日本脳炎だと診断された時の母の驚きと落胆ぶりは容易に想像がつく。日本脳炎といえば、当時は死亡率が7割とも8割とも言われ、もし命が助かっても、重い障害の残る恐ろしい病気だったからだ。僕は高熱のために意識を失い、昏睡状態が1週間近くも続き、毎日「今日が峠だ」といわれつづけたが、驚異の生命力を発揮して生き延びた。奇跡的に命をとりとめたのである。

●僕の命が助かったといって喜んだのもつかの間、両親は先生から、まず間違いなく知能面もしくは運動面でかなり重度の障害が残るので覚悟するようにといわれた。それをきいて母は、僕を抱いて病院の屋上から本気で飛び降りようとしたらしい。もし飛び降りられていたら・・。危ないところだった。当時は日本脳炎が流行している時で、同じ病室の患者たちは次々に死んでいった。そのなかにあって、僕一人が日に日に回復し、知能面、運動面でも全く障害が残らずに、入院してから1ヶ月後には退院できた。その時僕は先生に「(こうして命が助かり、障害が残らなかったのは)1万分の1の確率なんだよ」と言われたが、あれから40何年経った今でも“1万分の1の確率”は僕の耳の奥底に残っている。

●“1万分の1の確率”のミラクルは、僕の原点のようなものだ。小さい頃から「自分の命は拾ったもの」といった強烈な意識を持っていたので、「だから死ぬことなんてちっとも怖くない」という気持ちが強くあったし、「だから自分は何をやっても絶対に死なない」という思いも強かった。“1万分の1の確率”のミラクルの力を借りて、僕はこれからも世界を駆け巡ろう![賀曽利隆]


新シリーズ 見えない地平線
のぐちやすおの刑務所レポート
その1 刑務所入門講座

◆いつお世話になるかわからない、表面上のことでいいから教えてほしいという地平線メンバーのご要望にお応えしまして、今回から刑務所とはどんなところかを12回シリーズでお知らせすることにしました。ただし、私の記憶が薄らいでいるので、数字上に若干の相違があるかもしれませんが、その点についてはご了承下さい。

◆ところで少なくなったとはいうものの、未だに「おまえのことだ。外為法違反か出入国管理法違反で入ってたのか」との質問を受けます。最近、この通信を手にした人もいると思うので、くれぐれも勘違いされないようお願いしますが、私は宮城刑務所に勤めていたのであって、宮城刑務所で勤めていたのではありません。(編集部注;埜口さんの職業は看護士です)

◆さて、まず犯罪が起き、いずれ犯人が逮捕されます。この時点でドラマや小説は終了しますが、現実はそうはいきません。犯人の、受刑者との名を変えた満期出所までの生活が始まります。その前に、今回は刑務所と一口に言っても、刑務所によってそれぞれ違うということを覚えてください。これが今月のテーマです。

◆関東地区で説明しますと、黒羽と前橋は初犯や軽犯罪者で、水戸と川越が少年刑務所(26歳以下)、市原が交通刑務所で交通違反専用、栃木が女性刑務所、そして八王子が医療刑務所で服役中の疾病者を対象としています。それから、千葉、横浜、府中がミックスで軽犯罪から重要犯罪者までが対象です。

◆当時私が所属していた宮城刑務所は、その中でも最も重い、LB級という受刑者を扱っていました。具体的には懲役8年以上と累犯(前科3犯以上)者です。かつての同僚から誘われたとき、収容者は900人、うち300人が殺人犯で、そのうちの100人が無期懲役刑者だと聞かされたときは、世の中にはそんなに殺された人がいるのかと驚きました。

◆次回は入所してから出所するまでの流れについてです。[埜口保男]


地平線ポストから

◆あけましておめでとうございます。今年もどうぞ地平線会議をよろしくお願いいたします。年賀状をたくさんいただきました。大変申し訳ないのですが、ここでお礼の賀状にかえさせて下さい。何度も手紙を下さった下関の河野さんご夫妻、地震の被害からはい上がった兵庫の山本さん、新年早々奈良の三輪山を訪れた高橋さん、日本の海外広報をされている西村さん、他みなさんありがとうございました。なにせ正月休みは遊びのかきいれ時なもので。みなさんに失礼をしてしまいました。[三輪主彦]



暮れに来たハガキから

●野口英夫さんから…カナダ発
こんにちは! いつも地平線通信をどうもありがとうございます。今回はニュージーランドからです。サザントラバースというアドベンチャーレースに、日本人女性のみ3名が参加するということでアシスタントとして参加しました。日本からは他に男混成5人組がでています。女性チームはタイムオーバーで、力及ばずという結果でしたが、女性のみで参加したという過程が大事だったんだろうと思います。(サザントラバース 5日間で400キロ、マウンテンバイク、カヤック、マウンテンランの3種目)



今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)

地平線通信230裏表紙 1/29
FRIDAY
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500



グレヱトヂアニイさんの
人生行路
あのドクトル・グレートジャーニー、関野吉晴さんが、日本短期滞在の合間をぬって駆け付け登場。
グレートジャーニーは、93年末、南米大陸の最南端を出発して以来、6年目に突入し、万年少年のようなドクトル席のもついに齢50の大台に。
前回の報告('94.6)のパタゴニア氷床縦断以来、南北米大陸を走り抜け、ベーリング海峡を漕ぎ渡り、ユーラシア大陸最東端からイヌゾリ、馬、カヤックで踏破。カムチャッカ半島の付け根付近まで到達したグレートジャーニーの大総括。
世紀末ワールドの清く正しい歩き方と、変わらぬ若さの秘密をドクトル関野が解説してくれます。

1月29日大公開!!
 6時半から9時まで
 五百円
 亞細亞会館
 (3402-6111)


通信費(2000円)払い込みは、郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議/料金70円

地平線ポスト宛先:〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
E-mail :
お便りお待ちしています



to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section