1998年11月の地平線通信



■11月の地平線通信・228号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信227表紙●11月18日未明、待ちに待ったレオニズ(しし座流星群)が33年ぶりにやってくる。学生の頃からもっとも楽しみにしていた天体ショーが、ハレー彗星の回帰と、このレオニズだった。

●そのハレー彗星は86年に、最高の条件が整うパタゴニアの荒野で見届けた。33年ぶりに回帰する彗星が地球の軌道近くをクロスし、莫大なチリを撒き散らしていいってくれたおかげで、派手な演出は整っている。前回はアリゾナで1時間に1万個近くが、史上最大だった1833年にはアメリカ東海岸で22万個が流れたというが、今回は日本上空でどれだけの流星が舞い散るかと考えていると、仕事も手につかない。

●ただ困ったことに、この流星群はわずかに1時間の見物である。彗星のように、何夜にも渡って夜空を楽しませてくれるというわけにはいかない。地球の公転速度は時速11万キロ。たかだか数キロの核をもった彗星が撒き散らしたチリの帯などたちまち突破してしまう。その瞬間を捕らえなければならないのだから、これは少しばかり辛い、空模様頼みのイベントである。

●それでも、また33年待てば帰ってくるのだから、もし見れなくても次回がある。昨年素晴らしい尾を北西に引いたヘールボップ彗星、一昨年に無気味な姿を天頂ににじませた百武彗星など、再会したくても1万5000年も待たなければ帰ってこないのだから、それよりはまだいい。

●太陽系規模で旅を考える時、いつも思い出すのがMさんである。Mさんはなかなか保護室から出れなかった。なにしろ、いつもあらぬ方を見つめながら、宇宙旅行を楽しみ、壁の一角に映るという惑星人との会話を楽しむ患者なのだ。(編集部注:埜口さんの職業は看護士です)「ここはどこか? 決まってんじゃねえか、ほれ、そこに火星人がいるだろうが。そんなことも分からねえのか、しょうがねえな。ここ? ここは金星だよ。そこに金星人がいるじゃねえか。あれが見えねえか」

●食事を運んでも、血圧を測りに行っても、投薬の時間になっても、彼の足は、木星や火星の大地をひたすら歩いている。スペースシャトル2回目の向井さんなど問題外で、その佳麗なる妄想は、いくら自転車で頑張っても地球から脱出できない私を、いつも羨ましがらせていた。

●あまりにも非現実な世界にどっぷりと浸り、人間的日常生活の営みが危ぶまれる患者には、最後の手段として頭部に電気を流す治療を施す。100ボルト1ミリアンペアが5秒ほど前頭葉を突っ走ることで脳に衝撃を与え、現実に引き戻すのだ。この治療方法をESあるいはECTといい、薬物治療の効果が期待できず、長期運用に伴う副作用が深刻化してきた時などに利用されるが、これも薬物と同様、効く患者もいれば効かない患者もいる。

●彼も、流した直後は地球に戻るのだが、数日をもたずして再び宇宙に旅立ち、いつのまにか部屋は火星や木星の観光地になっていた。そうしたある日、Mさんはそのまま冷たくなって、地球からも旅立ってしまう。Mさんは今ごろ、一体どの星を旅していることだろう。火星を主に、時々木星にも移動するのが彼の旅のフィールドだった。そこにようやく地球のしがらみから脱出したのだから、行動範囲はもう少し広がったことだろう。ひょっとすると、土星に軟着陸している頃かもしれない。

●11月18日午前4時(水曜日)、外房の太東岬付近でレオニズ観測を行います。予報通りの流星群が出現すれば、1時間で2500個が期待できます。ただし曇れば全てがオシャカになるのを覚悟で。この通信が間に合えば、参加希望者は17日正午までに私まで連絡を。FAX 043-270-2391 太平洋を見ながら、前夜からテントを張って待機するので、寒くない服装で、沢山の酒と沢山の願い事を準備して集合。[埜口保男]


宣伝‥9月、拙書第5弾「新・自転車漂流講座」が山海道より発刊。ただでさえ、アウトローサイクリストになるための本が、なおさらアウトロー的を求める内容になったぞーい。なお、これに伴い「自転車漂流講座」は廃刊となります。


地平線新刊情報:
「来て見てラテンアメリカ」滝野沢優子 凱風社 [1800円+税]
写真集『鳥のように、川のように――森の哲人アユトンとの旅』長倉洋海 徳間書店 [1600円+税]



先月の報告会から・227
タイガの民
山本千夏
98.10.30 アジア会館

◆モンゴルといえば草の海、羊、馬、ゲルのイメージである。しかし、ジャーナリスト屈指のモンゴル通である代表世話人の江本嘉伸さんを前にして語られるモンゴルが、それだけのはずがないことは、たやすく想像できていた。しかし、目の前に座っている報告者は、秘境や荒野とは結びつかないふくよかな若き女性。緑色サテンのモンゴル衣装に黒のパンプス、ロングヘアで登場してくれた山本千夏(チカ)さんである。

◆「まっ白な地図」。それが、チカさんのモンゴルとの出会いであった。開いた地図のそこだけ白い部分がモンゴルだったのだ。そして、その地図を埋める「野心」がチカさんの原動力となった。チカさんの言葉には一見とかけ離れた勢いと単語が随所にちりばめられていく。心身に濃縮されていたモンゴルが100%に還元されてほとばしる瞬間のようだ。そして「遊牧民と友達になりたい」と。発言の振幅の広さが、序盤から新鮮な魅力と知識の広さを予感させた。

◆「友達になる」ためには、まず言葉、と考えたチカさん。既に英語は交換留学生としてカンザス州でのホームステイで習得済みであった。選んだ大学が東京外語大、モンゴル語を専攻、ワンダーフォーゲル部に所属。母校を一にする江本さんとの点は、早くも線で結ばれ、チンギス・ハーンの陵墓を探すプロジェクトにも参加した。チカさんの柔軟な知識欲は、アッという間にモンゴル語を吸収し、大使館から通訳を頼まれるほどに。心を伝える「スーパー通訳」を目指した時もあったが、何か物足りない。モンゴルは既に日常であった。通訳としての仕事は多岐に渡り、そのまま社会人にもなれたが、大学院を受験。映像制作との関わりが楽しく思えてきた頃、急接近してきたのが「幻の民・ツァータン」である。

◆「トナカイを持つ人」を意味する「ツァータン」(トゥバ族)。幻の少数民族は、トナカイを放牧し、トナカイに乗って狩りに行き、トナカイの肉、ミルク、チーズを食する遊牧の民である。

◆96年夏、初めてTVクルーと共にツァータンの住むタイガ(永久凍土の針葉樹林)の谷を目指した。ウランバートルから1100キロ、モンゴル最北のツァガンノール村から更に奥地へ。北緯52°、標高2500m。円錐形の小さな白いテント「ウルツ」がポツンポツンと見え、間近に感じたが、遠近感を狂わす程に遠かった。初対面のトナカイは角が切り落とされ間抜けな牛に見えたし、ツァータンの人々は、町の言葉を話すチカさんを警戒した。写真を撮るとお金を要求されたが、「お金は働いて貰うもの、だから渡せない」と涙ながらに訴えたチカさんは、テント布とストーブで手を打ってもらう。今では家族のように待っていてくれるタイガの人々との初めての出会いであった。このTVの仕事は西田敏行さんを起用して、96年冬、ウイスキーも凍る−40℃の厳寒で収録、ようやく今年放映されたが、初期の段階から関わっていたのがチカさんである。

◆社会主義体制下では定住化政策が推進され、90年代に入って民主化の波、市場経済への移行、トナカイの病気の蔓延で、再び森に戻るツァータン。時代に翻弄されてきた民族でもあるのだ。ツァータンの暮らしは、タイガによって守られていると言うチカさん。“雪とぬかるみ”である。ウルツを支える潅木の針葉樹、トナカイが食べる苔、「雄鹿が口をすすぐ雪」と呼ぶ雪が降れば男たちは狩りに出かけ、ヘラジカを一頭狩れば一冬は越せるという生活。シャーマニズムが信仰され、女や家族の夢を見れば、森の恵みがあると信じ、彼らの夢の中にチカさんが登場するようになっていた。子ども達がチカの夢を見た。チカに会いたいと30キロを歩いて村まで下りて待っていてくれる。チカさんのモンゴルは、雪解けの香りだ。

◆報告会の前半はツァータンの一年の暮らしぶりが紹介され、後半スライド上映に入った。ウルツの設営、遊び感覚で革をなめす子供たち、子供用のトナカイの鞍、突然死んだトナカイ、解体された肺、貴重な現金収入源のジャコウジカ、健康なトナカイの糞のアップ、キノコを食べるトナカイ、タイガの木の実、去勢のシーンなどなど盛り沢山。そして会場にはトナカイのチーズ。乳脂肪分22%のミルクから、自然に浮いたクリームを取り除いて作ったチーズは高級パルメザンをかじった感じ。話題はその後モンゴル民主化の政治不安、ゾリグ暗殺にも及んだ。モンゴル滞在延べ5年。チカさんは、「寒さに強く、扁桃腺の弱くない方、一緒に行きませんか」と、10月上旬に戻ってきたばかりのタイガの森へまた里帰りするように言った。[本吉宣子]


連載・地平線ミラクル
Oh My Dog!

◆1981年2月イギリスからスペインを経由してモロッコに渡った。メクネスにいたある朝、もっと南に行くためにユースを出た。するとどこからともなく中型の犬が現れ、私の前を歩き始めた。それはまるで私について来いといっているようだったので、その犬の後を歩き始めた。いくつもの路地を通り、何度も角をまがると、ふっと目の前が開け、着いたのはバス停だった。気がつくと私の前を歩いた犬はいなくなっていた。

◆それからモロッコを一通り回ったあと、アルジェリアに渡ろうとしたところ、北の国境が閉まっていて、そこからはアルジェリアには入れなかった。そこで仕方なく南のフィギーグという町に向かった。ここの国境だけが開いていると聞いたからだ。

◆ウジュダからバスで乗りついたフィギーグは、サハラ砂漠の入り口の寂れた村だった。ここの国境で、パンツ一枚になるまで持ち物検査をされてやっと開放されると、外にはもう闇が立ち込めていた。アルジェリア側の検問は、あの遠くに見える灯りがそうだという。そこまでは歩くしかなく、数キロ先の距離だという。これで村に戻ったらまた明日同じことの繰り返しになるかもしれないと思い、遥か先の灯りを目指しとぼとぼと歩き始めた。

◆しばらくあるいていると、一匹、二匹と野犬が集まり始めた。その数は次第に増え、10匹近かったように思う。しかも、薄暗くて姿はよく見えないがみな低い唸り声を上げている。こちらから刺激しないようにと、周囲に神経を配りながら、心ばかり急いで歩き続けていると、突然左前方の犬が吠え掛かってきた。するとその時、右側から別の犬が私の前を通りすぎ、左前方の犬に飛び掛った。吠え掛かってきた犬は、それで身を翻し何とか事無きを得た。その後も回りの犬が低い唸り声を上げ続け、何度も私に飛び掛ろうとするのだが、その度に私の前を歩きつづける犬がそれを制してくれるのだ。

◆この状況が一体どれくらいの時間続いたのかわからない。ひたすら目の前にいる犬を頼りに歩き続けていると、明かりの着いた建物に近づいた。すると犬たちは次第に距離をとるようになり、ついに犬たちは後方、遠くから私を眺めているだけになった。そして私を守ってくれた犬もいなくなっていた。

◆今は、1ヶ月の間に二度続けて起こった犬にまつわる体験で、私を助けてくれた2匹の犬は同じ犬だったのではないかと思っている。何百キロも離れた二つの土地のことだからそんなはずはなかろうが、このふたつの出来事自体不思議なことなので、むしろそう考えた方がおもしろいではないか。[福井慶則]


三輪に勝ったぞ!
完走――奥多摩一周山岳耐久レース

◆生来の内気が邪魔して、このところ「地平線の韋駄天」称号から遠ざかってしまっていた。「かかってきなさい」のせりふで有名な三輪某、頼まれもしないのに300もの山を駈け登りした香川爺、ほとんど発作的に「奥多摩一周山岳耐久レース」に参加し、女子部門三位にはいってしまった忘恩・恩田嬢ばかりがもてはやされているようでは、地平線も困ったもんだ、と内心ニガニガしく思う日々であった。

◆しかし、より力強く生きるために、時には慎み深さもかなぐり捨てるべきであろう。奥多摩一周72キロ、日本一過酷といわれるその「山岳耐久レース」に私が黙々と五年連続して出ていることを、もう隠す必要はないだろう。まして今年三輪某が早々にリタイヤしたあとも、マイペースを保ち、見事完走を果たしたことをレポートすることを躊躇してはならない、と思う。

◆10月10日。立川からの電車には、ザックとストックで武装した男と女たちが、目立った。険しい顔つきで皆レース参加者だ、とわかる。それも日本中から来る。隣に座っていた30代とおぼしき人は、今朝一番の新幹線で大阪から駆けつけた、という。なんでも鹿児島からも来ているらしい。

◆受付は朝9時から始まっていた。装備一式を机の上に出して検閲を受ける。「これが雨具、これが保温用衣類、ええとライトがこれで‥」「替えの電池は?」「あります、あります。それと食料がこんなに。水は2リットルもちました」制限時間の24時間いっぱい行動することを想定して用意した食い物は、お握り4個。あんぱん1個。ゴマ大福1個。超特大大福1個。茶饅頭4個。クリームパン1個。コロッケ2個。森永ミルクキャラメル1箱。みかん2個。レモン2個。ちびちび食えば1週間は生きていけるだろう。

◆着替えを体育館でする。おお、いっぱい人がいる。エントリーした人1300人とか。近くのトンカツ屋でひとりヒレカツ定食を味わう。正午、開会式が始まったが、宿敵三輪は見つからない。1時スタート。ザックを背負った集団がいっせいに走り出した。直後、カメラを構えた三輪夫人を見つけた。あわてて手を振ると「三輪は先に行ってまあす!」。そうか、やる気十分なのだな。

◆日暮れ時まで明るいうちにどれだけ行けるか、が今日の課題だ。気温は予想外に高い。水2リットル以上が規定だが、6リットル持った人もいるそうである。今熊神社(標高506m)というところまで、ゆるやかなアスファルトの登りが続き、その先から本格的な山道の急登がはじまった。

◆ザックから新品の2本のストックを取り出す。1本4000円で2日前に買ったばかりだ。この手のレースでは、金力で体力を補おうとするのが一般的な傾向である。ストックだけではない、靴も前日「レイドゴロワーズ仕様」とかの言葉に釣られた三輪某にそそのかされ、一緒に買ったのだ。足首まですっぽりはいる形で、まあいい感じである。これが1万2000円。ついでながら,参加料は9000円だ。

◆午後3時27分、市道山(770m)分岐。ここまで11.7キロ。醍醐丸、連行峰、三国峠、熊倉山と登り下りを繰り返し、第一関門の浅間(せんげん)峠にたどりつく直前、奥多摩の尾根は闇に包まれた。

◆立ち止まってライトを出す。午後6時浅間峠。ここまで22.6キロ、まだ3分の1にも満たない。ここでミカンを食べる。珍しく食欲がなく、水分ばかり欲しい。といっても、あと20キロ先でないと給水はないので、水は配分を考えつ飲む。

◆暗やみの中で膝下までのスパッツを脱ぎ、足首までのタイツに着替え、半袖シャツの下に化繊の長袖シャツをつける。手袋はとうにつけている。それでも冷えてきた。10分少し休んで出発する。

◆闇の中に次々に休み終えたライトが登ってゆく。奥多摩耐久レースは闇の中の勝負なのだ。いくつもの起伏を乗り越え、最後のバテバテの登りをどうにか誤魔化し、夜9時48分、中間地点のコース最高峰、三頭山(1527m)のてっぺんに立つ。中間というが、ここまで来ればあとは大きな登りが2カ所だけ、もっぱら下り気味のルートとなるので少しはラクになる筈なのだが、そうはいかなかった。三頭山の下りから俄然消耗しはじめたのだ。

◆こりゃ、ちっとも楽しくないぞ、と思いながらぐずぐず下る。ファー、とした朦朧とした気分に襲われる。なんだか、ひどく時間をかけて、42キロ地点の第2関門の月夜見山にたどりついた。この頃は、スピードなど出せず、次々に抜かれている。1.5リットルの水をここで補給してもらった。でも、しばらくは立てない。暗くなってきたライトの電池を換えようとして気づいた。電池をいれたザックのポケットが開いてしまっていて、どこかに落としてきたらしい。ガーン。

◆ショックだったが、次の瞬間、「これでリタイアの理由ができた」と思いついたのは、さすが老獪というべきか、ベテランの味というべきか。まあ、いいや。いいわけも出来たし…。ところが、である。隣に座った人に雑談まじりに話すと、なんと、この方は自分は多めに電池があるから、と、スペアをくれるのだ。なんという親切、なんという残酷。とっておきのゴマ大福をお礼にもらってもらい、めでたくもとぼとぼと、闇ののろのろ歩きを再開するハメになった。しかし、限りなく眠いのである。「死し累々」の言葉が誇張でないほど、毎度恒例の「選手ぶったおれ風景」があっちでも、こっちでも見られる。私も例外ではなく、何度もひっくり返って数分の眠りをとる。寒さで目覚め、もそもそ動き出す。

◆11日午前2時12分、御前山(1405m)頂上、なんとかここまで来た。46.5キロ。御前山からの下りは、もっともいやらしいものの一つだった。それだけバテてきているのだ。大ダワという次のポイントまで行ったら、もうヤメかな、とまた考えはじめる。それなのに、手前の避難小屋で知った面々に会ってしまった。大ダワには香川爺もいて「おお、江本さん!」と、なんと一緒の写真まで撮られてしまったではないか。今日は、みなここでボランティア・スタッフをやっているのだ。「三輪先生は?」と聞かれ、「とっくに」と言ったら、「それはない、必ずここでチェックしているから」という。あれま。実は早々に浅間峠でリタイアしていた、とあとで知った。

◆ここにぐずぐず1時間以上いた。そのうちうまいことに、お腹が空いてきた。お握りを食べ、レモンもかじり、ちょっと元気になった。仕方なくゆっくり歩き出すと、遠くの空が白んできた。そうだ、間もなく光の朝が来る。

◆御岳山に向かって、はじめは快調に歩いていたが、じきにまたもや猛烈な睡魔にやられた。人生は難しい。さっきおいしくお握りその他を食べたために、胃に血がいってしまったのだ。ふらあ、ふらあと自分が傾き出すのがわかる。とてもまっすぐ歩けない。さすがにちょっと止まって、横になる。寒さでじきに起きる。そんなことを何度かやっているうちに、もう、あたりは明るくなってきた。ライトをしまう。おお、あそこに、富士山がすっきりと立っているぞ。朝の、一番美しい富士が。

◆午前7時10分、御岳の第3関門着。ここからは、人に出会うことが多いせいか、眠気をさほど感じなくなった。 最後の日の出山を登り終え、いよいよ下り一本のコースに入る。時間をみて、ちょっとだけ挑戦することにした。つまり、ゴールまで駆け下ることを試みたのだ。最後の金毘羅尾根は長かったが、結構走ることができた。11日午前9時38分、ゴール。20時間38分。488位とか。去年より10分遅いが、リタイヤしなくてよかった。三輪さん、来年かかってきなさい。[江本徒歩歩]



不定期破天荒連載「生田目が行く!」
第二発 生田目の憂鬱

◆母とおんぼろアパート暮らしが始まって間もなく、私は近所のファミレスでアルバイトをした。今もそうかもしれないが、当時高校生のバイトと言えば、ファーストフード、コンビニ、ファミレスが三本柱で、テレクラや援助交際なんてまだ全くなかったから、500円程度の時給でマニュアル通りのぶりっ子声で駆けずり回るのは、学校のクラブ活動のノリだった。

◆事実、バイトの9割は16〜20歳くらいの高校生と大学生だった。女子大生の深夜番組が流行するような時で、大学生はみ〜んな遊んでいた(ように見えた)。帰宅拒否症だった私は10時にバイトが終わっても(高校生は10時までしか働けない)、なだだかんだと言い訳をつけてバイト先に残っていた。うらぶれたアパートに帰るのも、過干渉の母の小言を聞くのもうんざりだったのだ。

◆そんな時、W大1年の田中F君と付き合い出した。ちゃらちゃら系の多い中、そこはかとなく漂う知性的な雰囲気・・物静かな立ち振る舞い・・「なんかこの人違う!」。それもそのはず、かれはいいとこ坊ちゃんだった。初めて彼の家に遊びに行った時のこと・・。彼母「どちらの学校いらしてるの?」 私「都立で〜す」と元気に言った。

◆私にとっては私立のお嬢さん学校がいやで、親の反対を押しきって入った念願のふつーの学校だったし、金出せば入れる(少し語弊はあるが)学校なんてなんのステイタスも感じてなかった(お受験組には申し訳ないけど)。彼母「んまぁ、うちのFちゃんはずーっとG習院やT女、T田塾、Fリスの方としか交際させたことございませんのよ! お父様は東大ですし、Fちゃんにも東大かW大以外は考えられないっていつも・・ねぇ、Fちゃん!」とやられた。心の中で、私は都立だけど、その大事なFちゃんとLOVELOVEなんだもんねー、ふん! と思ったが黙っていた。次に、彼母「お父様は何を?」 私「ハイ、新井薬師でスポーツ店やってます」 彼母「まぁ御商売? お大変だこと!」

◆あー、きっとこのお母さんの頭の中はまだ士農工商なんだろうなー。この父があげくに酒乱で、たびたび警察の御厄介になるんで別居してますなんて言ったらぶっ倒れるな、きっと‥(笑)と思っていたら、戸棚の奥から大切そうに少し小振りのアンパンがお出ましになられた。 彼母「これ、とってもおいしいのよ! 是非召し上がってごらんになって」 私「頂きます」 彼母「どお?」 どおったって、別にアンパンだよね‥これ‥。と思いながらも少し遅れて 私「おっ、おしいです!!」とちょっと大げさだったのが、 彼母「あんらー、やっぱりこの上品なお味、お分かりにならなかった? ギンザの木村屋のアンパンなのよお! この控え目な甘さと上の桜の塩加減が・・ああ、あなたには御ムリね〜!」ときた。何だ?何だと? ただのアンパンじゃねぇか! 悪いけど薬師銀座のキムラヤの桜アンパンの方が、あんこぎっしりでナンボもうまいゾ、食ってみろババァとは言えなかった。トホホ・・。

◆それからというもの、ギンザの店に怨みはないが、今もギンザで大量のアンパンを買い込んでる歌舞伎座帰りみたいな上品ぶったおばはん連中を見ると、桑原桑原と思ってしまう。話は戻るが、そんなわけで彼は家から多額の小遣いをもらい、W大生ということで、家庭教師やら塾の講師で稼いでいたので、そんじょそこらのサラリーマンより、よっぽど金持ちだった(なのに、なぜファミレスでバイトしてたのかは今もって謎だ! 運動不足解消かな? ロリコンだったのかな?)。

◆彼はいろんな所に連れていってくれた。知らないことを沢山知っていた。ますます帰りが遅くなった。いつも自信満々で我が道を行く母がオロオロして、学校やいろんな機関に相談に行っていた。私の方は学校の勉強は彼が教えてくれるのでそこそこだったし、友達ともうまくいっていたので、先生は母の相談にあまり取り合わなかった。他に登校拒否やら校則違反やら、問題児は沢山いたし、「難しい年頃ですから」とか「家族愛が・・」とかなんとか言われてよけいに落ち込んでいたのがおかしくて、ざまぁみろとばかりに泣かせてばかりいた。[生田目明美]


アンケートはがきから 6

◆昨年12月に同封したアンケートはがきのコーナーです。こんなにたくさんあるとは思わなかった!! まだまだ続きます。掲載した項目は次のとおりです。 ●「何か手伝ってくれますか? 近況」/「何者?」/「すまい」 「お名前」(敬称略)

●気が利かないもので、何か行って下されば、時間はどうにかさせますので、バシッといって下さい。 11月発表になったエミコさんと同じ頃、ワーキングホリデーへ行き、それ以来、各地を荒らしまわっている者です。今年?97年は会社員でありながら、1ヶ月ちょっと休みをもらい(上司はいまだかつていないとMeetingを開き、すこしもめましたが‥)、6月に結婚を控えながら、3〜4月にかけて、シンガポール、インドネシア、マレーシア、タイ、ラオスと旅してまいりました。心の栄養一杯もらって無事6月に結婚し、今に至っています。主人の泉(男です)は、写真が好きで、今回の旅も実は一緒に行ったのですが、様々なところでたくさんの写真を撮っていました。次は何から手を付けようか考え中です。これからも宜しくお願いします。98年からも皆様がずーっとHappyな年になりますように‥。/東京都田無市 小川美和

●たまに会議を聞きに行っています。割と暇を持て余しているので手伝える事があれば協力したいと思います。/私鉄職員。水辺の植物と風景が好きで、神戸大学の水草研究会に入っています。/神奈川県小田原市 小澤敬

●東京で旅行会社で勤めた後、NZに1年、Englandに3ヶ月いました。地平線会議のことは旅行会社の同僚が通信を取っていたという事を知っていましたが‥。その後、石垣に縁あって住み着き、出来れば民宿を開いてのんびり過ごしたいと考えております。シーカヤックにここ1〜2年のめり込み(といっても、今のところ月1回のペースですが)、もっと海を楽しみたいと思っています。地平線会議のお手伝いも石垣でできる事であればしますので知らせて下さい!!/昼間は地ビール会社の事務。夜は中学生の英語講師。石垣に住み着いて9ヶ月の者(でやんす)/沖縄県石垣市 小野麻紀

●平日18時くらいからならお手伝いで来ますが、仕事ありますか?/会社員?/東京都中野区 恩田真砂美

●きゃー、すみません。12月、1月、旅行に行っているうちに机の上に置かれてそのままになっていました。ご、ごめんなさい。初めての一人旅に東欧へ行ってきました。語学が苦手な私には時折困る事もありましたが、寒さも気にならない愉快な旅でした。今回は体調も崩さなかったし・・(私が崩すのは胃腸痛なんていう小山くらい。赤痢やコレラなどという大山は崩せないのはもちろんである)。では、また近いうちにお邪魔いたします。私なんかのようなものでも手伝える事があればいくらでもご連絡下さい。/某国立病院にて研究をしています。また、女で独身で27歳です。自分では結構フツーの人間だと思いますが、さて、この会が気に入るようですからいかがなものでしょう? ハンガリーのレストランで青ネギを食べた・・つもりだった。生のパプリカだった。ああ、私は自分の目が本当に悪かった事を27年目にして初めて知ったのであった。/東京都足立区 郡司宮子

●無芸ですが、何か手伝える事がありますか? 役に立ちそうな事がありましたら声をかけて下さい。/植木屋と百姓の夫婦です。/埼玉県加須市 江口浩寿・由利子

●関西でできることがあったらお伝え下さい。/髭山人/大阪府堺市 宇都木慎一

●地平線会議に顔を出すようになってからもう7年近くになります。その間、旅行で海外にいる時以外は出席しているのですが、最近ちょっと足が遠のき気味です。最初は斉藤夫妻のバイク旅行の報告でしたが、あのときの興奮はなかなかのものです。行くたびに「元気」になれるのが何よりでした。しかし、一方で、地平線の方々は遠い存在に感じました。どうしてなのか‥。すでに固まっている中に後から近づくのはそれ相応のパワーと技術がいるという事でしょうか・・。でも目を離せないところもあるので、お手数ですがこれからも通信をお願いします。/自転車操業の日々が続き、老後に不安を感じながらも、休みのたびに出歩いてしまう究極の遊び人。PS:仕事柄編集はやりたくないのですが、封筒詰めくらいなら手伝えるかもしれません。/神奈川県川崎市 岩井美由紀

●北海道で出来る事なら何でも。/元貧乏旅行者。現在、古書店経営/北海道千歳市 乾哲美

●写真展を姫路で開始したいと考えています。どこが金を出すんじゃ、無謀なことせんとき!!と諭されています。あぁ、でもあの写真を前に立ち尽くしてみたい。最近、和裁を習い出し、日本の着物というもののリサイクル度の高さに驚いてしまいました。レトロな布地が再び自分の手の中で蘇る。こんな仕事エエナアと思ーとります。/武田力さんの会社の元同僚。今は播州者。/兵庫県姫路市 一柳百

●できることがありましたら。/福祉施設職員。/東京都調布市 石毛民春

●遠ざかっていると、何となく手伝いにくくって。何をどう手伝う事が出来るか教えて下さい。/不明。40余年生存しているが今もって自分でも良く分からない。/東京都文京区 石川一郎

●なまけ学生なので、お金はありませんが時間ならたっぷりあります。何か手伝える事があったらいつでも声をかけて下さい。7〜8月にかけてユーコン川をカヌーで一人で下りました。10月には216号にもありましたが、エコクラブの高野さんとウォレアイ島に。98年は再びアラスカか、もしくはサタワル島へ行きたいと思っています。/高野孝子さんのエコクラブで活動しています。10月に高野さんと一緒にミクロネシアのウォレアイ島に行ってきました。早大1年生です。探検部には片足を突っ込んでます。/東京都目黒区 石川直樹

●サッポロでも出来る事ありますか? 3月にエチオピアに行くかもしれません。/チャリダーです。JACC会員。/北海道札幌市 池田研一

●遠距離ですが手伝える事があればなんでも?!又お会いしたいです。次は20周年の時でしょうか。/地平線HARAPPAにときどき書き込んでいます。/山形県酒田市 飯野昭司

●返事遅れてすみません。今日は元旦で、南の島与論島で風雨の最中することもなく手紙を書いています。午前中は天気も良く、初日の出も拝め、サンゴの海が信じられんくらい美しいブルーに輝いていたんだけど、午後からチャリンコの旅が台無しになって残念です。地平線会議には冒険旅行的な話の時よく行ってます。自分に何が手伝えるか良く分かりませんが、肉体労働を必要とする事があれば何なりと手伝います。(事務仕事もできますけど)/ヒマラヤンサイクリスト。鳥取大学山岳部OB。中国崑明登山旅遊探検協会会員。日本アドベンチャーサイクリストクラブ。/神奈川県藤沢市 安東浩正

●いつも大阪のNGO関係の活動などで忙しいですが、声をかけて頂ければ出来る範囲でやらしてもらいますヨ!!/会社員29歳。樫田秀樹さんのご紹介で報告会に行きました。熱帯林保護などに関心があります。/大阪府堺市 荒木琢磨

●ワープロ打ちくらいならできます(メールで送信可)。/ただの会社員です。/東京都杉並区 ##正人

●もう何年も地平線会議に出席していません。それどころか私は1度だけしか行った事がないのです。こんな私ですが、皆さんの通信を読むのを楽しみにしているのです。わがままですが、これからも送って下さると幸せです。宜しくお願いします。/一般市民です。/東京都武蔵野市 岡本康子(つづく)



「西域発!」
シルクロードの文物展&写真展
写真展
シルクロード自転車紀行
日時:11月14日(土)〜11月23日(月)
    11時30分〜19時
会場:ギャラリーかぶらき
   (東京都新宿区四谷1-4
    四谷駅前ビル地下1階
     … JR、地下鉄丸の内線・南北線四谷駅下車
      徒歩2分「しんみち通」入ってすぐ右)
入場:無料
日時:11月30日(月)〜12月18日(金)
    9時〜17時
    (初日は13時より、最終日は15時まで)
会場:東京ガス夢・料理館
    (埼玉県大宮市桜木町1-7-5
     ソニックシティ3階)
入場:無料
問合わせ:地球と話す会(TEL 042-573-7667)
ホームページ http://web.infoweb.ne.jp/chikyu/


カラコルム雪崩遭難の報告書
『スキルブルム7360』刊行

●昨年の8月、カラコルムのスキルブルム峰(7360m)で、地平線の仲間でもある広島三朗さんを隊長とする登山隊が大雪崩に遭遇し、爆風で6名の隊員が亡くなったのはまだ記憶に新しいところですが、このほどその公式報告書『スキルブルム7360―夢は白き氷河の果てに』が刊行されました。

●遭難の一部始終をなまなましく再現した「八月二十日の手記」や、雪崩研究の権威による事故分析、さらに「あのとき、何ができたのか」と題した隊員たちによる座談会など、これまで私たちが“知りたい”と思ってきた事実や現場を知る当事者の率直な感想が次々と披露され、深く考えさせられる内容となっています。凝った表紙や迫力ある山の写真、充実した行動記録、そして胸を打つ巻末の追悼文集なども印象的です。

●申し込みは、神奈川ヒマラヤンクラブの尾上弘司さんまで。1冊3000円(税込み)です。

(〒259-0151 神奈川県足柄上郡中井町井ノ口1267/Fax:0465-81-1089
/e-mail:/郵便振替:00280-6-17193)



今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)

地平線通信226裏表紙 11/27
FRIDAY
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500



焦げつく北極点
「出かける前も大変やったけど、北極の動いている氷の上を歩くのは、ほんまにしんどかった。でも、日本に戻ってからは、もっと大変やったね」
昨年5月、日本人初の単独徒歩北極点到達を成し遂げた愛媛のスーパースター、河野兵市さんが、地平線会議の高座に上がります。市民運動にも例えられた草の根遠征の、ほかでは聴けないオハナシ。
最近シーカヤックとオカリナにこっている河野さんの新たな計画は、北極点から故郷の愛媛県瀬戸町まで人力での旅。
北極の氷も溶かすあつ〜〜〜い一席に、乞う期待!(Z)


通信費(2000円)払い込みは、郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議/料金70円

地平線ポスト宛先:〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
E-mail :
お便りお待ちしています



to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section