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■6月の地平線通信・223号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)
●ナマステ、インドの浅野です。約10年振りくらいに地平線会議に顔を出すようになって、通信のフロントに一文を書いてくれと頼まれてしまいました。
●現在、僕は横浜市の一角で発掘調査に携わっている。4月から発掘の現場を監督することになり、夜型の生活が一気に健康的な朝型へ。やたら雨の多いなか、親と同じ世代のオジサンやオバサンたちとスコップやじょれんで遺構を検出し、移植ゴテで遺物を掘り上げ、図面を書いて遺物を取り上げる毎日を送っている。
今の現場は、学校のグランド造成工事に伴う発掘調査で、小高い丘の上から、弥生時代の住居や5世紀後半の古墳(円墳)を検出し、先日、円形周溝の一角から須恵器の大きな甕が完形のまま出土した。突然、移植ゴテの先端にカチッという感触が伝わり、「おお、出た出た!」と思わず歓声がほとばしる。
はじめはお皿かな、と思っていたのが口縁部で、暗褐色土の中からその全貌が露になる数分の間に、自然柚に包まれた深い色合いの甕が、1400年の幾星霜を経て現代に蘇った。胴部直径60センチ以上、骨董好きならよだれが出るほどの「いい、仕事してる」一品だ。空気に触れた瞬間、遺物の色は変色を始めてしまうので、本当の色合いは掘りあげた人しか味わうことができない。たしかに次の日になると、全体的に妙に白っぽくなって風合いが幾分失せてしまっていた。
●土にも同じことがいえる。考古学では、セクションと呼ばれる垂直に掘り残された土層断面とその中から検出された遺物の形態によって時代を推定するのだが、土を日本刀で斬るようにスパッと斬らないと、切れない包丁で刺身をさばくようなもので、風化がすぐに始まるし、崩れ易くなる。熟練したオジサンは、垂直定規をあてながら、深さ数メートルの垂直土層断面をビシっときめてしまう。その切り口は実に艶やかで、美しい。こんなにも土に表情があるとは、と感動しながらも、新米調査員の僕は、その断面におそるおそる移植ゴテをあてがい、土の色味、組成、粘性、締まり具合などを観察して、組成の異なる土の境界ラインを引いていく。
経験豊かな発掘調査団の団長(探検部の先輩)ならひょいひょいと引けるのだが、僕はウンウン悩みながら土層と格闘する。組成の異なる土の堆積状況を描くことは、つまり土層断面に時間軸をあたえるわけで、一番緊張する。このあたりの土は、度重なる富士山の噴火で積もった火山灰のよって、通常の自然堆積より厚く堆積しており、1センチが概ね百年くらいだとか。つまり、移植ゴテのひとかきがほぼ人間の一生分にあたるわけ。数千年の土の宇宙に星座を描くようなスリリングな作業である。
●さて、話はガラっと変わるが、そんな無常感や人間のちっぽけさ、大地の美しさと尊さを僕に初めて教えてくれた、あのインドが、なんと核実験を強行してしまった。ショックである。悠久の大地に畏敬の念を持ち続けてきた彼の国が、破滅的な男根=リンガムで大地をレイプしてしまったのだ。政治や軍事のたわごとは、僕にはわからない。早くから原子力発電所を駆動させた能力があるのだから、しかたがないことなのか。
でも一方では、熱波で2千人以上が死亡し、都市では電力の安定供給すらままならないのだから、すべきことは他に山積みのはずだ。すべてを受け入れることで「インド世界」を形成してきた「壮大な実験」が、今危機を迎えようとしていることは確かだ。
●2度目のインド行で、市場の鳥瞰図を描いているとき、まわりのインド人たちに「おまえはアトミックボンブを落とすつもりか!」と冗談を言われたことがあるが、彼等は原爆の本当の怖さを知っているのだろうか。ヒンドゥー教のシヴァ神が額や身体に塗っているのは、香木を燃やした聖なる灰であって、決して死の灰ではない。聖音「オウム」を創りあげた国が、「オウム真理教」になってしまったら、洒落にもならないではないか。
●発掘業界に即していえば、遺構までも破壊してしまう暴力的な機械掘削はやめて欲しい。あくまでも手堀りにこだわって、インドには「いい、仕事」を続けてもらいたい。実は「インド世界」そのものが、かけがえのない「人類の遺構」なのだから。[浅野哲哉]
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丸山純+令子 |
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◆ブンブールカーン一家を初め、多くのカラーシャたちの生活の中に実際に入り、彼ら独自の伝統にのっとった生活習慣などの記録を続けている。初めて訪れた時は子どもだった人が、20年を経て、親の世代になっていく過程は面白かった。丸山さんは、この地に、この間、11回も訪れ、まるで親戚や家族のようだ。
◆私自身、少数民族の伝統的な暮らしぶりや民族衣装などに大変興味を持っており、以前、NHKでカラーシャの民族衣装にスポットを当てた番組を興味深く見たことがある。頭飾りから、衣装、帯、ビーズの首飾りに至るまで、全て手作りだ。カラーシャにとって大切な色は、赤、青、黄。ロンという植物の根から赤を、ザクロの皮から黄を、そして牛の尿にリンワットという染料を加えて青を染めて、手作りの伝統衣装をまとって独自の文化を守っているカラーシャの人たち。
◆そんな伝統社会の中にも、電気やテレビが村に入ったり、最近ではギリシャ人による援助で学校が作られたり(学校にはアレキサンダー大王の彫像がある!)、また、コンピューターを操る人が出てきたりと、文明の波が押し寄せ、近代化が進んでいく。それは、彼らの生活が便利になることではあるが、彼ら独自の伝統的な生活が薄れていくということでもある。
◆いわゆる途上国から日本に来ている人たちに、現代の日本を目の当たりにしてどう思うかとの私の問いかけに、多くの人々は一様に自分の国は素晴らしい、誇りに思っていると答えたことがある。カラーシャも、これからの自分たちの姿をどのように思い描いているのかと思いながら、また、地球が均一になっていく懸念を思いながら今回の報告を聞いていた。[室田夏子]
地平線ポストから ■地平線ポストでは地方からの情報を大募集します。「こんなすごい人がいる」「地平線のだれそれと会った」「こんなイベントやります」など大歓迎。 |
地平線ポスト宛先:〒173 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方 〜電子メールでも受け付けています〜TAB00165@niftyserve.or.jp 武田力方 |
◆久しぶりに報告会(5/22)に参加して、楽しくパワフルな時間を過ごさせていただきました。そしてもっと積極的に“地平線会議”に関わっていきたいと思い、こうして「地平線ポスト」に初めて便りを出すことにしました。題して“地平線Tシャツ”のすすめ。
◆「旅をするときの必需品は何ですか?」そう聞かれたら私は胸をはって“地平線Tシャツ”と答えます。
◆1996年12月7日。初のフルマラソン挑戦(ホノルルマラソン)前日のことでした。エネルギーを身体に蓄えるため“地平線Tシャツ”を着てホテルにいた私は、突然ガッチリとした体格の良い日本人男性に指をさされたのでした。一瞬の沈黙の後 男性「地平線のメンバーですか?」 私「はい…。」 男性「私は180回目の報告者、海宝です」(※海宝さんはウルトラマラソンランナー)…こんな所でお会いできるとは!! 世界中にはりめぐらされたネットワーク。“地平線Tシャツ”を着ているだけで、新しい出会いがあることを確信しました。
◆今月は『第1回ロックン・ロールマラソン』(※マラソンコースの1マイル毎に、ロックンロールバンドが並び、生演奏で応援してくれるというスゴいマラソンです。)に出場するため、サンディエゴに行って来ます。もちろん、“地平線Tシャツ”を持って!
◆あなたも、残り少ない(?)“地平線 Tシャツ”を手に入れ、旅に出ませんか?
■在田さん、地平線Tシャツの宣伝をしていただいて、ありがとうございます。地平線 TシャツはMサイズを中心にまだ在庫があります(LとSSは在庫僅少)。早いもの勝ちです。無くならないうちにどうぞ。お申し込みは、報告会の受付または、地平線ポストまで。1枚2000円です。[地平線Tシャツ担当]
●山内智士さん… 《失われた村を訪ねて》
◆5月のGW、「旅行だ、レジャーだ」と騒ぐ世間とは対照的に、廃村という大変地味なスポットを訪問した。かつて旅先にて「この先は、廃村があるから(行っては)駄目じゃ」と年寄りから謎の注意を受けて以来、廃村というものの特異な存在がなんとなく気になっていたのだ。その後もときどき書籍やInternetで、廃村一般に関わる情報を探ってみたが廃校や廃線に比べその量は格段に少ない。「組織的に隠蔽しているのか」と勘ぐってしまったほどだ。
◆奥多摩町役場や山関係の雑誌から、東京にも複数の捨てられた村があることを知ったのは最近のこと。なかでもA村は室町時代の記録にも残る由緒ある(?)集落で、長年林業を生業としてきたが、高度成長期に住民が離村してから無人状態となっているという。これはいい、ぜひ行ってみたい。でも一人ではちょっと怖い…そこで地平線の二次会で隣に座ったHくんを「きっと、すごく楽しいよ」とたぶらかして連れていくことにした。
◆最寄り駅からA村へのアプローチは、崖っぷちや、沢を縫うような2本の山道のみ。昔の人はこの急峻な道を何十キロもある荷物を担いで通ったらしいが、そのタフさにはまったく驚かされる。薄暗い山道を踏み分けて2.5時間後、荒廃した集落が我々の目前に現われた。半壊した家屋の群、そして窓からのぞく30年以上前の家具や日用品が妙に生々しい。村中に放置されている無数の箱は、水道がなかった村の貯水槽として活躍したのであろうか。それに鋸や板材、炭焼き小屋らしきものの残骸が、森の産業で賑わった頃の情景を彷彿とさせた。
◆しばしの間、村の生活に思いを馳せ、夕方には現代の町に舞い戻った。思えばA村は、不便、暗闇、危険など、我々が都市化・産業化の過程で切り捨てて(克服して)きたモノがそのまま封印された空間でもあったともいえる。ちょっと陰鬱な光景を直視する勇気があれば、廃村ツアーも人間の足跡を知るいい旅になると思うのだが、どうだろうか?
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◆1993年10月、俺が参加したのは、グアテマラ市の南にそびえる活火山、パカヤ登山ツアーだ。「間近で活動が見られる活火山登山」という謳い文句に魅せられて、38人の客が3人のガイドに率いられて中米の活火山に登っていった。登山口から1時間弱で森が消えたところが、真っ黒に競り上がったパカヤ主峰正面の鞍部である。ここまで近づけるとはさすがにグアテマラ、日本なら非常線ものだとザックを下ろす間もなく、ガイドはなおも行こうとした。バモース(行くぞ)の声は、山頂目指してどこまでも繰り返され、その都度俺は、なおも行くのかと率いられるがまま、とうとう山頂直下のキレットに着いた。
◆噴火音はますます近く、背伸びすれば火口で溶岩がうごめいた。「バモース!」またもガイドは全身を号令した。「おい、正気か?! 噴火の真っ只中だぞ!」俺は思わず口走った。「あれ、先月より火口大きくなってる!」別なガイドが、脇で余計なことを言った。その声に俺の足がすくんだ。「それじゃ何か、先月のトレースは、今は火口の底か?」それでも、一行は山頂に向かって連なった。そして山頂まであと数歩という時に、それまでにない大きな轟音が天地を引き裂いたのだ。バラバラッと溶岩の固まりが降り注いでくる! 溶岩塊を避けて俺は走った。俺だけじゃない。誰しもが我勝ちに安全圏目指して、火口輪を一目散に逃げた。安全圏に転がり込んでから振り返ると、中年男が一人腹を焦がして走っていた。いずれ、このツアーも死者を出して中止になるなと俺は確信した。[埜口保男]
〜皆さんからのミラクル話お待ちしてます〜
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◆僕はこの30年来、世界の6大陸をバイクなどで駆け巡っている。今までに旅した国は124カ国だが、陸路で国境を越えた回数は300回は超えている。その300余回の“国境越え”のなかでも、「インドシナ一周」での、バイクでの国境越えの難しさはダントツだった。
◆ラオス政府始まって以来というバイクでの旅行許可証を手に入れ、1993年元旦、首都ビエンチャンを出発し、ラオス北部からベトナム国境に向かった。石ころだらけの山道で、交通量はほとんどない。タイチャン峠が両国の国境で、国境警備隊が国境警備をしていた。隊長を初め国境警備隊の面々は、日本人がバイクに乗ってやってきたというので驚いていた。
◆だが、外国人が陸路でベトナムに入国することは出来ない、バイクを持ちこむこともできないといわれた。“国境越えのカソリ”、そのくらいのことでは諦めない。隊長のタインさんにカタコトのベトナム語と、あとは身振り手振りで、何とかハノイまで行かせて欲しいと頼み込む。するとタインさんは無線で何度かライチャウ省の省都ライチャウに連絡を取ってくれたが、残念ながらベトナムに入ることは出来なかった。
◆それではと、1000キロあまりの距離を走り、今度は、ラオス北東部の町サムヌアからベトナム国境に向かった。チンクンという国境で、ここでもタイチャン峠と同じようなことを言われたが、国境警備隊隊長のアンさんの好意で、彼がソンラ省の省都ソンラまで同行してくれた。ソンラの省庁では僕のベトナム入国を認めるかどうかの聴聞委員会が開かれた。出席した高官たちに懸命に「ハノイまで行かせて欲しい!」と頼み込んだが、結論は規則を曲げることは出来ないということで、ラオスのビエンチャンに戻らなくてはならなかった。
◆僕は一か八かの勝負に出た。ベトナム航空に行き、バイクごとハノイに飛びたいと頼んだ。するとOKの返事。ただし、ハノイのノイバイ空港でバイクを引き取れなかったら、そのままビエンチャンに戻るという条件付きだ。 数日後、僕はノイバイ空港にバイクともども降り立った。税関ではすぐに言われた。ベトナムにはバイクを持ち込むことは出来ないと。そこへ英語を話す係官がやってきた。彼がまさに救いの神だった。「ノイバイ空港の税関長が今ここに来る」。紳士然とした税関長はやってくるなり、信じられないことを言った。「キミの話は聞いた。これは全く特例だが、30日間に限って、キミのバイク持ち込みを許可しよう。キミはベトナムのどこにでも行くことが出来る」。
◆僕は心の中で叫んでしまった――「おー、ミラクル!」[賀曽利隆]
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地平線会議・熊本「異」見聞録 http://www.aminet.or.jp/~kawamoto/tihei/ |
最近どうも元気らしい熊本の地平線からレポートします。メンバーの井上さんが長年アースウィークくまもとの実行委員長をやっていたしがらみ?もあって、地平線会議・熊本もなにがしかのパネルをこさえて、いつも参加しています。今年のテーマは「異」見聞録。一人一人好きなことを書いてみようじゃないかという企画です。各自の「せからしもん(小うるさい人物)」ぶりを抜粋しました。全文と写真は上記のURLで展示しております。おいでやす。[川本正道]
写真をよーく見てください。山積みされた産業廃棄物の山。ここは国体のために建てられた熊本総合屋内プールのゴミすて場。(中略)屋内プールは本年春完成予定で、来年九月の夏季団体メイン会場として四日間使用のみ、工費二七○億円は借金で建設された。当然、その借金と国体後の膨大な維持費のツケは子供たちに残る。「未来国体」とは未来に借金をツケの残す国体というのが正確な呼び名らしい。こんな金喰いイベント、俺は要らんバイ!![小杉邦夫]
● 私の信号無視論、そして環境アナーキズム論
ぼくは無神論者ならぬ積極的信号無視論者である。歩きや自転車に乗っている時には、まず信号には従わない。道を横切るかどうかの唯一の判断材料は、いま渡って大丈夫か否かの自分自身の判断だけである。別に、交通信号を軽視しているわけでもない。いやそれよりむしろ、信号機と交差点には特別な思いを抱いている。交通信号と交差点はまことに分かり易い表出された社会秩序である。第三世界の交差点では、路上に溢れる者たちを蹴散らすよにクラクションを鳴り響かせて車が我がもの顔で走っていた。概ね第三世界では、歩行者優先の理念はなく、車の方が偉そうだ。混沌としている路上には車と人で溢れ、数少ない信号機も人々から無視されぱなしだ。国家は人民を統制しきれていないし、人々も国家を信用しきっていない様が交差点には表現されていた。つまり、ぼくはコンピューターによって制御された日本の路上(ひいては環境)を第三世界的歩き方で歩いているのだ。信号に従わないのは、秩序だった環境よりもアナーキズムの環境の方を好むぼくの大人げないささやかな抵抗である。[太田黒剛]
● やればできるのに。
(略)行政はサービス業であります。税金の使い方に問題が大きければ倒産して当然です。ユーザーである国民の意見を聞きなさい。ほとんどの議員はユーザー代表なんかではない。行政機構株式会社の中間管理職ではないですか。とすると有権者はその部下です。これはおかしい。何か変だ。私らは客なのにいつの間にかタダ働きどころか、金を払う使用人になってしまった。私らはもっとまじめに議員さんを選ぶべきだと思います。議員さんを選ぶときは、ちょっと遠視になった方が結局は自分の為だな。と思います。[川本正道]
● 4/1000文字から見える日本
(略)これらが、縦割り社会と責任不在の人々を多量に生み出し、社会は混乱をきたしていると思えるのだ。わかりやすく言えば、上や関連するものの意見を伺いながら自分の意見を持たず、他人がする事には細かいチェックをして指摘することである。全く違う目的の団体であるのに、あるところが許可を出さなければ、ここもあそこも許可が出ないことがよくある。地方分権であれという。その根底は自らの視点で状況を捉えて、自分で判断し異な事は「異」と言えることではないか。企業や行政や私たちがそれぞれの環境に関する責任を果たしていれば、私たちは環境保護活動を始めていない。今必要なのはそれぞれの個性を持ち、責任を果たそうとする行動である。[井上智]
(注)井上さんの作ったイベント案内ポスターに「ダム反対」の4文字があった為、熊本県は毎年行っていた後援をとりやめた。
● 食の責任
私は豚肉が嫌いだった。10年ほど前、豚を屠殺する現場にいた。ピーピーと、か細い声をあげながら力尽きてゆく姿を目にした。食べられる為に命を落としていく。それを見たときに「食べる」いう行為の責任を感じ、好き嫌い無く食べるよう心がけるようにした。しだいになんでも食べられるようになっていた。(中略)残さず食べる。必要以上に求めない。これは食のエコロジーだと思う。だれもが普段の生活で実践でき、健康をも左右する重要なことではないだろうか。飽食の現代を少し考えてみたい。[矢次智浩]
※それぞれの異見は写真1枚を添えて、様々な環境グループのパネルと共に、商店街で 1週間掲示された。2枚の感想メモが寄せられた。
アンケートはがきから 3 |
●「何か手伝ってくれますか? 近況」/「何者?」/「すまい(市町村)」 「お名前」
●できることならなんでも。日本語のクラスを3つ持ちながら5ヶ月になる赤ん坊と過ごしています。フロントを書いてから通信がますます楽しみになりました。知らない人から返事を頂いたのがすごく嬉しかったです。子連れで行ける所ならどこでも行きます。でも、金曜の夜は仕事なのでアジア会館にはなかなか行かれません。/旅と子育てをする日本語教師/東京都世田谷区 堀田志津子
●地平線会議に集まる人たちは、ものすごい人たちで、ダラダラと日常を過ごす私にとってはとても遠い存在だと思っていました。しかし、地平線通信から受ける明るい希望と生きていく勇気(ちょっと大げさかな?)は、何にもかえられません。といっても、写真展に行ったり、刊行される本を友人の中でも比較的アンテナを張っている人たちに薦めるくらいしかできませんが。/ナマケモノ/埼玉県三郷市 平本明子
●何も手伝えなくてすいません。報告会にはなかなか行けないので、地平線通信を楽しみにしています。/賀曽利さんの報告会にはよく顔を出していたツーリングライダーです/神奈川県横浜市 古山隆行
●いつも刺激をありがとう。少しでもアウトドアの空気にふれたくて、楽しく読ませていただいてます。「読む」から少し「行動」へ移行できるとよいのですが。サラリーマン生活が終わってから、もう一度足元を見直します。/現在は広告代理店勤務。8月からは年金生活者/東京都中野区 久永裕子
●多少のお手伝いは可能ですが、どんな仕事があるのでしょうか。/人に報告するような旅などしたことのない、ごくフツーのサラリーマンです/神奈川県横浜市 平野泰巳
●以前は毎月のように報告会を聞きに行けましたが、最近はなかなか時間がとれず、通信を非常に楽しみにしています。実は地平線HARAPPAとインターネットものぞいているのですが、印刷物は人に見せるのが楽なのでこれからもよろしくお願いします。/学生の頃はあちこちふらふらしていたけれど今はふつうの“会社員”/埼玉県川口市 福島健司
●毎月楽しみにしています。何年も通っていますので、お手伝い出来ればと思います。ヨコハマなので何が出来るでしょうか。/旅大好き会社員です/神奈川県横浜市 舟本和子
●学生時代よく報告会に参加させていただいてましたが、93年以降、火、金という時間がつらくあまり行けていません。97年は森田さんと恵谷さんの報告会に行きました(火、金以外でした)。仕事出よく中国にいる他、97年はチベットに行ったり、スキューバアドヴァンスコースをフィリピンで取ったり…、そんな近況です。/メーカー中国担当。年の1/4くらい中国にいます/埼玉県与野市 深谷和正
●長崎にいます。東京から遠くはなれてはいますが、できることがあればご連絡下さい。/高校教員(化学)高知大学探検部OB/長崎県大村市 渕上隆
●定期的にはお手伝いできませんが、どうしても人手がないときとか連絡して下さい。/本所です/東京都新宿区 本所稚佳江
●どのような作業が必要かわかりませんが、できることがあればやります。ワープロ打ちくらいはできますが、PCは苦手です。/平凡な会社員。自分では行動できないが、みなさまの行動・活動の話を聞かせていただいて、刺激を受けるとともに世界を広げたいと思っています/東京都世田谷区 橋口優
●「通信」送っていただきまして、ありがとうございます。いつも読む度にみなさまのパワーに勇気づけられています。冒険のような旅は、私にはとても出来ませんが、旅することは大好きです。大学1年の時、先輩でいらっしゃる田部井淳子さんのお話を伺い感動したことを覚えています。/主婦&フルタイムパートタイマー/東京都中央区 古橋里佳
●仕事に追われる毎日で、あいにくお手伝いはできそうにありませんが、“行動する”皆さんを心より応援しています。/サラリーマン旅行家/埼玉県深谷市 平山達雄
●出来ることがあれば是非 !! 希望として神戸で写真展を開いて欲しいです(無理だとは思うけれど)。地平線会議を神戸でもまたしてほしい。その時はもちろんお手伝いさせて下さい。/会社員です。きっかけは、同じ会社の平本達彦さんに誘われて第1回? 神戸地平線会議に行ったこと。リヤカーの話に感動した/兵庫県明石市 細川由香利
●1月に子供が産まれて以来、報告会に行けない状態です。バウルの方のときも“行かなきゃ”と思いましたが、非常に残念でした。通信だけでも拝見して地球上のあちこちで頑張ってる皆さんの様子に元気づけられ、産まれた子どもにも早くいろんな世界を見てほしいなと思う日々です。/インド留学のことを報告させていただいたことがあります。今はアユルヴェーダを学んできた主人とまもなく1歳になる息子と3人の暮らしです。結婚式は東京でインド式に挙げ、パーティーには世界各地より友人たちが集まりました/神奈川県横浜市 福崎陽子
●報告会へは今まで2度行きました。とてもおもしろくて「地平線会議」のファンです。ただ知り合いは1人もいなくて、ただ話を聞いて帰るだけなので、少しさびしいかな、と思います。1999年3月出発予定でアフリカの南端から日本まで2年間で自転車で旅をしようと計画しています。ホームページに計画書を作成中なので見て下さい。http://sfc. keio.ac.jp/~t97886th//慶應義塾大学環境情報学部1年、20歳。山、自転車旅行が好き。16歳の夏、自転車で1人でカナダを縦断しました。今年のクリスマスの時期は常念岳へ行きます/神奈川県藤沢市 本郷毅史
●出張が多くほとんど家にいないので、期限の厳しい仕事はできませんが、何なりと言っていただければお手伝いいたします。/丸山純さんの後輩です/神奈川県横浜市 平本達彦
●申し訳ありません。時間の使い方が下手なのかと自分でも思いますが、定期的に何かお手伝いできる時間はありません。/障害児施設で働いています。退職したらバックパックで世界一周をすることが夢です。今はできる範囲での山登りや旅をしています。/東京都東村山市 東向淳子
●すみません、そこまで力がありません。/20年ぐらいになります、通信をもらいはじめて。こちらから何もしていません者です/千葉県茂原市 花崎洋
●イベントの宣伝(ハガキ、Eメールなど)(特に極地モノ、仲間うちに極地好きが多いのです)。先月はシャチと泳ぎにNorwayに行ってきました。/いやー、ふつうの会社員です。鯨好きの/埼玉県戸田市 林与志弘
●手伝います。このところまったく参加せず申し訳ありません。今、CGやホームページなどマルチメディアづいています。/11年前に溝田氏(アフリカでカヌーをしていた)と少し一緒に旅をした夫婦です/東京都品川区 長谷川豊・なおみ
6/25 廃村に住む11人の老人に出会った時に、写真家の大西暢夫(のぶお)さん(30)が受けた印象です。 岐阜県揖斐(いび)郡徳山村。県内でも特に僻地で、それだけ昔ながらの文化風習が色濃く残る地域。1957年、この村にダム建設が発表されました。以来約半世紀。計画の見直しもされず、2007年の完成に向けて基礎工事が続けられています。 村は87年に廃村。村人は移住しましたが、その後自分の意志で戻って村に住み続けているのが、大西さんの出会った老人達。季節の変化を五感で読んで農耕を営み、その生活の中には伝説や伝承が日常に生きています。 同じ郡内の市街地に育った大西さんでも、理解できない程の文化的ギャップ。現代の情報ネットにも乗らず、貴重な文化がひっそりと消えていこうとしていた事が、ショックでした。今も徳山村には5人の方が住んでいます。 徳山村の老人達はなぜ「便利」な町の暮らしを選ばないのか? 山でどんな暮らしをしているのでしょう。今月は大西さんに、村の「オバア」「オジイ」の話をしてもらいます。 |
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