1998年3月の地平線通信



■3月の地平線通信・220号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信220表紙●昨年末の12月29日は、あやうく自分の命日になるところだった。享年50歳になるところだった。

●12月26日の地平線会議の報告会に参加し、報告者の佐藤安紀子さんの話をおもしろく聞いた。そのあとの青山での飲み会に参加したが、まったくいつもどおりの体調だった。翌日の27日もなんら異常なく、翌々日の28日も寝るまでは何でもなかった。ところが29日の未明に突然、息苦しくなった。首をギューッと締められたかのような息苦しさで、寝ていられないほど。何が起きたのか、さっぱりわからなかった。

●女房に診てもらうと、さすがに職業的(看護婦)なカンとでもいおうか、ぼくの危機をすぐにみてとり、女房の運転する車で家近くの大学病院の救命センターに運びこまれた。心電図をとられると、機械自体がぼくの心臓の異常を知らせるほどに心電図は乱れ、心機能停止の一歩手前だといわれた。脈拍が途切れ途切れになり、いつもの半分になった。それもまったくリズム感をなくし、コットンと弱々しく打つと、そのあとしばらく停まってしまうこともあった。自分の命の灯が風にゆらゆら揺れ、今にもふーっと吹き消されてしまいそうな心もとなさを感じた。

●発作性の心房細動とのこと。簡単にいえば、信号の故障で新幹線が急停車したようなもの。このときぼくは初めて心臓というものが電気信号で動いていることを知ったのだが、心房の発するその電気信号が完全に乱れてしまったのだ。人の命のはかなさをいやっというほど思い知らされた。「なんで、なんで‥‥。夕べ寝るまでは、何でもなかったのに‥‥」と、思わず天を恨んでしまった。

●さすがに“不死身のカソリ”、なんとか命を落とさずに持ちこたえたが、それからの日々の辛さといったらない。人間は心臓をやられると、まったく動けなくなる。家の中の階段を登ることさえ苦しくてどうしようもなかった。

●これが自分の持っている動物的な本能というものなのだろう、身を低くして嵐が通り過ぎていくのをじっと待った。そのかいがあって、1月も中旬を過ぎると急速に回復していった。地平線会議の江本嘉伸さんや宮本千晴さん、松本栄一さん、関野吉晴さんら多くの方々からの励ましの言葉がよけいに回復を早めてくれた。そして1月も下旬になると、超音波検査や血液検査、レントゲン検査、24時間ホールダーをつけての検査等、各検査結果で心臓にはなんら異常は発見されず、心電図もほぼ正常に戻り、脈拍も元に戻り、普通に息ができるようになった。いつものように心臓が動き、いつものように息ができるという、今までは考えてもみなかったあたりまえのことが、嬉しくて嬉しくてどうしようもないくらいなのだ。

●ぼくは今までの旅の中で、何度か命を落としかけた。エジプトの片田舎ではイスラエルのスパイ呼ばわりされ袋叩きの目にあったり、パキスタンでは28日間つづいた下痢で「下痢死ぬ、下痢死ぬ‥‥」と呻いたり、アフガニスタンのアジアハイウェーではバイクの居眠り事故で対向車線で気を失って倒れたり、インドネシアのスンバワ島のヒッチハイクではトラックの荷台に乗っているときに垂れ下がった電線を顔面にひっかけ、あと10センチ下の首に入ったら間違いなく死んでいたといわれたり‥‥と。そのたびにピンチを切り抜けてきたので、“強運カソリ”とか“不死身のカソリ”といわれてきた。

●だが、それには理由があった。自分自身の中にあった強烈な生きることへの執着だ。しかし、今回、心臓の発作に襲われてショックだったのは、今までのような生きることへの執着がきわめて希薄だったことだ。「もう、しょうがないか‥‥」といった諦めの気持ちが強かった。これが50代というものなのか‥‥。しかし、今回ぼくは、何か目に見えない大きな力によって生かされたように思う。さー、拾った命、天への感謝をもこめて、思う存分に使い果たそうではないか。[賀曽利隆]



先月の報告会から
砂と油の国
宮本千晴・芳子
1998.2.20(金)/アジア会館

★「サウジアラビアって、一体、どういう国なの?」 千晴さんと芳子さん夫妻の話が進むにつれ、そんな疑問がつのる報告会だった。

★まず、サウジの国民性に対する遊牧的印象は、のっけから覆された。「『すぐにレポートを書け』『「提言しろ』とせかされてしんどかったが、適切な提言を出すとすぐに実行してくれる」「現地のカウンターパートナーが有能で、調査に必要な重機や船の手配もテキパキ進め、フィールドに出ている間も早朝から晩までブッ続けで頑張った」

★地平線に囲まれた国だから、「地平線」的な男が多いだろう、というヨミも外れた。「サウジの夫は家族に対する義務が重い。10日は何とか留守にできるが、3週間となると、よくよくのことがないとダメです」 これは、男女の世界が厳格に仕切られており、妻子の買い物や通勤通学にも夫の助けが要る、という社会的な事情もあってのことらしい。

★その反面、「サウジの人の暮らしや社会や世間の中での振る舞い方は、かつての日本の人のそれと色んな点で似ている」という。土産も『つまらないものですが』と渡す。「世話をする、されるの判断も、ほとんどの場面で日本人として判断して、(相手に)違和感を持たれることがなかった」と千晴さん。

★そして、冒頭の疑問も、終盤に入ってパッと解けた。「基本的に、国としてまだ若い。石油戦略を発揮できるようになったのは20何年前でしょ。若い人たちが、やっと国造りに一所懸命になり始めているところなんです」 なるほど、何も固まっていないのだから、国としての統一したイメージを求める方が間違いだ。「地平線がこだわってきた、『一個人の寸法で世界を見る』ことが大切だ」 千晴さんは、最後にそう強調した。

★我々は、歴史や伝統を下敷きにして、手っ取り早くその国を理解しようとする。また、今の日本の社会でも、続出する新たな現象に、「専門家」がすぐさま名前を与え、分類し、問題点を把握したつもりになっている。サウジでの経験から、千晴さん芳子さん夫妻は、そういった安直に答を急ぐ風潮をやんわりと諭したかったのではないか。そんなことを考えさせられる報告会だった。[臨時記録係ミスターX]

※『地平線通信』220(印刷版)では、宮本千晴さんのお名前が「千春」となっていました。申し訳ありません。



速報ミニコラム
早大探検部の合同慰霊祭開催

3月14日の土曜日、早稲田大学の大隈小講堂で開かれた、早大探検部アマゾン河筏下り隊の合同慰霊祭に参列してきました。最初に全員で黙祷を捧げたあと、同僚の部員たちがスライドを上映しながら、伊藤千秋君と宮下尚大君のプロフィールや活動歴などを紹介。

続いて捜索活動の報告になりましたが、二人がそれぞれアマゾンに惹かれていった経緯や準備の過程、実際の足跡、手紙に残されたみずみずしい感慨などを知れば知るほど、この行動は一部で言われているような「現地の事情を知らない学生の無謀な冒険」などではけっしてなく、手順を踏んで実現された、いかにも学生探検部員らしい正統派の探検行であったことがひしひしと感じられました。それだけに、国軍兵士による殺害という、想像を絶する結果に終わったことがほんとうに残念ですし、両君の無念を思うと、胸が張り裂ける思いです。

後半は、フジモリ大統領の親書がペルーの代理大使によって代読されてご遺族に手渡されたあと、大学関係者や友人、探検部OBらによる弔辞が続き、さらにご遺族の挨拶、校歌斉唱となりました。そして閉会の挨拶として現役部員代表から「今後も探検を続けていくことこそ、両君の遺志を継ぐ道である」という探検部としての決意が表明されたのを最後に、みなで遺影に花を捧げて別れを告げました。[丸山純]



写真展「地平線発」−21世紀の旅人たちへ−
Photographic Experience to the 21st Century.

国境を越え、地球という大地を舞台に行動する日本の冒険家・探検家・ジャーナリスト等39人の写真展がケアプラザにやってきます。大地を一歩ずつ歩いた旅人がとらえた写真たち。人々の暮らし・圧倒的大自然との遭遇…「何か」に出会える写真展です。

●会期 1998年4月4日(土)〜4月12日(日)
      9:00AM-6:30PM(日曜は4:30まで・月曜休)

●会場 横浜市上倉田地域ケアプラザ
      横浜市戸塚区上倉田町259-11
      公団コンフォール上倉田9号棟1階
      ■駐車場ありません■
      TEL 045-865-5700(JR・地下鉄戸塚駅下車徒歩7分)

●島旅作家・河田真智子さん講演
      4月11日(土)2:00〜4:00PM
      スライド&トーク「島旅・夏帆ちゃんとともに」

      写真展、講演ともに 入場無料

●主催 横浜市上倉田地域ケアプラザ
●共催 パン屋さんよろず相談室 櫛澤電機製作所/ホイートライフクラブ  
●後援 地平線会議
●企画制作 NOVLIKA(ノヴリカ)



地平線ポストから

地平線ポストではみなさんからのお便りをお待ちしています。旅先でみたこと聞いたこと、最近感じたこと…、何でも結構です。E-mailでも受け付けています。

地平線ポスト宛先:〒173 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
〜電子メールでも受け付けています〜TAB00165@niftyserve.or.jp 武田力方

●有田せいぎさんから…フランス発
  〜第7回コーソン24時間走大会兼1997年24時間走フランス選手権大会報告〜

◆コーソンは96年にヨーロッパ選手権を主催し、99年の世界選手権を検討している積極的な大会である。因みに24時間走世界選手権はいまだかつて実施されていない。7月8月はマイム劇団カンパニーぽっこわ・ぱ!の日本公演ツアー。その合間をぬって過去最高のランニングができた。9月、フランスに戻るが、練習に気が乗らずグズグズしているうちに右足裏足底筋が警戒信号を発する。それを理由に走らなかった。片手にビール。異常気象の残暑が続く。

19日サポートのジャックと待ち合わせ。私は予定より300km練習不足を理由に、スタートから飛ばして行けるところまで行こうという作戦。私の性格は単純なのだ。ジャックは冷静に判断。スタートは極力抑えて、夜涼しくなってから勝負に出ようと言う。そんな馬鹿な。練習不足の私が夜になってからどうやって勝負に出るの?「大丈夫、せいぎ、日中暑い中、ジョンピエー、マーセル、セージの先頭争いは激しいはず。絶対後半つぶれる」とジャックは断言する。謙虚にジャックの言うことを信じよう。

◆20日午前11時、男子42名、女子4名、気温30度。それぞれの思いを抱えて走り出す。コーソンは人口千人の小さな田舎町。その中心を周回する748mのコース。ランナー2人に一台のキャンピングカーが用意されている。2周ごとに水分を補給するが、すべて汗と化する。1時間12.8km11位、2時間25.8km、3時間38.5km3位、4時間50.1km4位。ジャックの予想通りジョンピエーが飛ばしている。それをマーセルとセージが追う形となった。セージはヨーロッパ選手権で2位になったが今回は元気がない。

私は練習不足による疲労感が強いのでペースダウン。深夜に備えての作戦であるが、すべてジャックのアドバイスにまかせる。8時間95.3km4位。先頭とは6周4.4kmの差。ニオーのベルナー爺さんが応援にきてくれる。そしてスウジェ48時間走の知人たちがやってくる。皆私の味方だと勝手に決める。しかし現実は厳しい。両足は悲鳴を上げる。靴を替えたり、サロメチールを塗ったりして宥め賺してみる。苦しいときの神頼み。ウルトラマラソンのすり足走法に固執する。

◆長時間走っていると背中と腰にストレスが溜まるので、2時間ごとに逆立ち30秒のストレッチング。この逆立ちの効果は48時間走で実証済み。12時間 136.3km、3位。21日午前0時。スタートしてから13時間。ジョンピエーとマーセルにかげりが出てきた。まずマーセルを片づけようと決めるが、これがたい変だった。疲れている彼も私も大差はない。17時間185.4km、やっと2位に浮上。ところが先頭のジョンピエーとは6周の差。「弱気は最大の敵」2時間214.0km。3周2.4kmの差。どうにか射程距離にとらえる。

彼に追いつき話してみるが、どうやら総合優勝は捨てたようだ。それでも彼は3度目のフランスチャンピオンを確定させている。私は日本人なので総合優勝してもフランスチャンピオンにはなれない。21時間40分。はじめて先頭に立つ。長かった、本当に長かった。ジャックはホッとした表情とともにさらに2周差をつけろとアドバイス。最後まで彼は冷静だった。走った距離は250.778km。2年連続24時間走フランス選手権総合優勝。9回目の24時間走レースで7度目の優勝。現在5連勝中です。

◆9月の24時間走フランス選手権のドーピング検査で禁止薬物発見の通知がフランス陸連よりあり、私はびっくり仰天。12月22日までの出場停止と記録の無効。禁止薬物はカフェインであるとの事。レースの主催者が用意しているコーヒー、紅茶、コーラにカフェインは含まれており、禁止薬物ではないはず。即抗議の手紙。おそらくフランス陸連のセイギ・バッシングでしょう。フランス陸連と闘争中です。

◆次なる挑戦は5月の48時間走、435km(世界歴代2位)です。[有田せいぎ・在フランス]


●川本正道さんから…地平線会議・熊本
  〜島根県・金城町での写真展「地平線発」を見に行った熊本のメンバーからの報告です

◆写真展「地平線発」が島根県金城町である。江本さんの講演もある。と聞いて熊本から小杉、森永、太田黒、川本の4人が車で出かけました。実は私たちも、この写真展を熊本で開催したいという企画を暖めているのです。まずは実物をみてみたい。それから江本さんにもお会いしたいと出かけた金城町波佐は、落ち着いた雰囲気の山陰の美しい山村でした。

◆江本さんの講演の終了間際、ちょうどノヴリカのお二人が帰られた頃に到着しました。幸運にも、写真展の閉館時間を過ぎた後、写真展スタッフのみなさんと共に江本さんの解説を聞きながら一点一点を見てまわるという機会に恵まれました。ひとつひとつの写真に見入りながら、高揚した気分を味わいました。

◆しつこく江本さんと同じ宿に泊まって、深夜までお付き合いしていただきました。10年前から地平線会議・熊本を名乗ってきた自分達としては、ぜひ理想的な形で写真展をやりたい。そんな思いが募りました。最後に帰りの車内で一行の長老格小杉邦夫さんに書いてもらったメッセージを添付します。

◆「写真展、江本さんの話、僕ら熊本から駆けつけた4人それぞれに多くの収穫がありました。これを機会に、より交流を深め、協力を強め21世紀の人々への熱いメッセージを伝えるための仕事に励みたいと思います。江本さん、心から感謝!!」

◆さて、熊本での写真展がどのようなものになりますか。また報告します。

→最終面「“旅する写真展”ニュース」に江本嘉伸さんの報告があります。



“旅する写真展”ニュース

▼写真展「地平線発」が、3月7日(土)から15日(日)まで、島根県那珂郡金城(かなぎ)町波佐(はざ)の「ときわ会館」で開かれた。1世紀前、チベットに旅立ったまま帰らなかった、波佐出身の学僧、能海寛(のうみ・ゆたか)の「旅立ち100年」を記念して、波佐文化協会と能海寛研究会が共同主催したもので、初日の7日午後には、江本が「日本人の旅と冒険−21世紀に向けて」のテーマで講演した。

▼能海寛は、河口慧海と前後して1898年11月、神戸を出航してチベットを目指した僧。1901年4月18日、雲南省の大理からの書簡を最後に、行方を絶った。

▼会場には、金城町だけでなく、かなり広範囲な所から客が詰めかけ、大会議室と小会議室のふたつに分かれて展示された作品群を、熱心に見守った。 「ここで、これだけの写真が見られるなんて、素晴らしい」と、ホメてくれる声が多く、地平線会議・熊本の4人が8時間かけて車で駆けつけてくれたのも、嬉しかった。なお、ノヴリカのお二人も、トラックの狭い助手席に乗り、はるばる写真とともに、長い旅をしての奮闘だった。

▼写真展は、新聞各紙の地方版にかなりの扱いで紹介され、NHKはじめテレビでも、地方版トップで報道された。

▼なお、 次回の写真展「地平線発」は、4月4日(土)から12日(日)まで、横浜市上倉田地域ケアプラザ(TEL 045-865-5700)で開かれます。11日(土)には、午後2時から、河田真智子さんの講演が予定されています。[江本嘉伸]

→次回写真展の詳細は2面をご覧ください



■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介/イラストのなかにある手書き文字)

地平線通信220裏表紙

3/27
FRIDAY
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500



オデン列島駆けある記

「ギョウザ巻き」というオデンのネタを食べたことあたますか? 「ゲソ巻き」や「バクダン」のイカや卵のかわりにギョウザが入ったもので、博多ではポピュラーなネタです。

このローカルなネタに出会って感銘を受けたのが、新進気鋭のライター、新井由己さん。早速パソコンネットで各地のオデン事情をプレ取材したところ、実に多様な味つけやネタのバリエーションが見えてきました。

そこで日本のオデン地図を作るべく、新井さんは列島縦断の旅を計画します。97年10月、50ccのカブで宗谷岬からスタート。各地のスーパーやコンビニのネタ調査と味見をしながら南下しました。台湾、韓国まで足を伸ばした旅は、延べ106日間。オデン文化の様々なの境界線が見えてきました。例えば同じネタが浜名湖を境として「〜巻き」と「〜天」と呼称が変わるそうです。

今月は新井さんに日本オデン地図試案を披露して頂く予定です。お楽しみに!

 



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