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■1月の地平線通信・218号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)
●1998年、今年も地平線会議の場でよろしく。
●正月明け早々、5日間山形にいた。「地誌学」の集中講義を引き受けたのだ。 東京に積雪15cmの、最初の降雪があった時で、勿論、山形でも長靴を借りての通勤だった。人にものを教える、というようなことは無縁の人生と思っていたが、引き受けた以上、本気でやった。学生たちに無駄なことをさせてはいけない、との使命感もあるが、15コマ×90分という時間で自分がどれくらいのことを言えるのか、興味があったからでもある。私ごときの話を聞きたい、と、湯河原から登山家の戸高雅史・優美夫妻がわざわざ泊りがけで聴講に来てくれたので、なおさらであった。
●北極、南極、ヒマラヤ、エベレスト、黄河、ロシア、モンゴル、チベット、宇宙、食とファッション、などなどスライドをまじえ、テーマと地域はあちこちに飛んだが、学者筋の話ができるわけでもない。話したかった内容は単純で、要するに「熱」をもった人間になれ、というようなことであった。 16人の学生のうち何人かは、ひどく熱心に講義を聴いてくれ、面白がってもくれた。そういう学生とはうどんを食べながら、いつの間にか地平線会議の若い人たちと話す雰囲気になっていた。
●地平線会議をはじめて19年目にはいっている。年齢、男女を問わず「熱」を持った人間たちと出会ってきた19年であった。なかには、クールで何一つしゃべりたがらない人間もいるが、それでも「熱」は伝わるものだ。顕われ方は、いろいろあった方がいいのである。
●西野始君と初めて会った時も、独特の「熱」を感じた。当時23歳。「オートバイ世界一周10万km走破計画書」という60余頁に及ぶ計画書が、私が撮った、セピア色に変色した本人の写真とともに今も手元に残っている。800日がかりで10万kmを突っ走る計画だったが、実際にはあまりに縦横無尽の旅をしたせいだろう、3年2ヶ月、14万kmを走って、まだアジアを残していた。その体験の一部は「アフリカン・バックドロップ7万km」として年報「地平線からvol.6」に書かれ、「快走ゴンドアナ大陸14万km」として、1985年 3月23日、「第65回地平線報告会」で報告された。
●その西野君が、シンガポールで薬局の仕事をしているさ中、昨年暮れインドネシアで墜落機に乗っていて帰らぬ人となった。地平線会議の仲間からそのことを電話で聞いた時、呆然とし、不思議な思いにとらわれた。彼は地平線報告会200回記念に私たちが出版した「地平線の旅人たち」の中で、「私のとっておきデータ」として、こう書いている。「2000km・2週間:アフリカのマラウィで転倒、片足を骨折したまま走った距離と日数。10m:スーダンでわき見運転のトラックにぶつけられ、空中浮遊した距離」(文責・白根全)。このような激しい旅から生還した人間が、航空機とはいえ、日常の暮らしの場で逝ってしまったのである。今は、彼の「熱」を引き受け、地平線会議で話し、書き残してくれたことに、感謝するしかない。
●日本にいる限り、地平線報告会に参加しよう、と思っている。そこは、貴重な「現場」だからだ。217回に及ぶ報告会を通じて、随分いろんなことを学んできた。目を見張るようなスライドや時には音楽も聴くことができる。そして何といっても、報告者の人間そのものが、魅力だ。気がつけば、それらで得たことは地誌学の講義でも活かさせてもらっていた。私は地平線会議の言いだしっぺの一人だが、最もトクをさせてもらっている者でもある。[江本嘉伸]
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佐藤安紀子 |
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●佐藤安紀子さんが事務局を勤める「ウーマンズフォーラム魚(WFF)」は、このギャップを埋めるべくスタートした市民活動だ。今年で5年目。佐藤さんの報告前半部は、国際的な漁場争奪戦(国連海洋法をめぐる諸問題)の現状解説。海のルールはようやく今作られている最中なのだ。後半は福岡加代子さん(漁業従事者を撮り続けているカメラマン。釧路在住)の写真を紹介しながら、日本の漁師の生活を垣間見せてくれた。一次産業がこんなに冷遇されている国に未来はない。[RYONOSUKE]
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●大久保信夫さん…茨城発
「太陽のかけら」(1965年公開)というスウェーデンの映画がありました。青春の思いでのその映画をもう一度見ることができないかとストックホルムまでいき、一人借り切ってその映画と再会してきたのが大久保さんです。
◆オリエンテーリングをはじめ野外活動が盛んなことで知られる北欧の国スウェーデン。その北部山岳地帯に位置する最高峰、ゲネブカイセ(2117m)は原始が残された自然の中にある。その裾野のアービスコキルナ・ハイキングコースを歩いてきた。このコースは私の青春時代の映画「KUNGESLEDEN(王の道)」日本題「太陽のかけら」の舞台となった映画と同名のトレッキングコースの一部である。道や山小屋もよく整備され、また変化に富んだ雄大な景観が楽しめるため、世界各国からハイカーを集めている。〈中略〉原作の小説の中で「天国のように美しい場所」と描写されているビスタ小屋のある谷間に向かうのがお勧め。
●藤原謙二さん…神戸発
◆私も還暦を迎え、身辺をスリムにし、諸処の会をを辞退しました。山の関係は「地平線山岳会」だけにしました。会長は私一人で会員も募りません。自分が納得できる山遊びをすることにしました。同封させてもらった記事は地平線通信からの影響が大きいものと思っています。〈中略〉時代が流れてもロマンを求めて旅に出たり、未知を求めて旅する者は存在するし、出てきてくれるものとと信じています。地平線通信、地平線からはぜひ継続してもらいたいと願う理由です。よき知恵と知識から新しい方法が生まれますよう祈っています。
◆◆藤原さんの永野萬蔵峰登頂記−私の故郷である長崎県の出身で、日系社会のパイオニアである永野萬蔵の名前に出会ったのは90年、カナダバンクーバーへの機内であった。機内誌をなにげなくめくっているとMt. Manzo Naganoの文字があった。Mt.とあるから山の名前だと察したが、カナダのどこにあるかは不明であった。帰国後カナダとナガノマンゾーとの関連を調査した。そして日本移民百周年を記念して書かれた「カナダの萬蔵物語」を発見し、この本を元にしてルーツをたどり、私の郷里の長崎県川棚近くの口の津出身であることを突き止めた。その山がカナダの西海岸にあること、地図上に日本人の名を冠された山は南極大陸のナガタ山、グリーンランドのウエムラ岩峰、そしてカナダのマンゾー・ナガノ山であることが判明した。
〈中略〉 97年キャンベルリバー在住の小笠原毅氏から、NAJCが120周年を記念してマンゾー山に登山する計画があることを聞き、その場で参加申し込みを伝えた。8月18日に日本を発った。この間7年間、情熱と体力を維持できたのは、故郷が生んだ偉大なパイオニア、開拓精神の先達「永野萬蔵」に敬意を表し、日本人としての誇りを持ち続けている私の精神と通じるところがあったからである。この山に登る日本人は私以外にいないと思いつつ 7年間、ついによき仲間、グループの協力を得られた。そして24日午前9時20分、1951mの頂上に立つことができた。〈後略〉
●遊友裕さん…西表島発
◆西表島からこんばんは! 月曜日の朝一番の便(船)で、石垣島から西表島へ渡り、 1週間、農地改良工事をし、土曜日の最終便で石垣島へ戻るという生活をしています。自然が好きな私にとって、西表島はグッドです。気に入っています。「地平線報告会」に参加できなくなり、誠に残念ですが、通信を送っていただいているので、とても嬉しいです。今後ともよろしくお願いします。
◆さて、216号に我が憧れの高野孝子さんが「プロジェクトの報告書を読んでくださる方はご連絡を」と書いていらっしゃるので、私はぜひ読みたいと思っていますので、その旨、彼女に連絡願います。よろしくお願いします。
◆八重山へ移住して2ヶ月が経ちました。すべてがのんびりしていて、私にはふさわしい地だと感じています。毎日が新しい発見で、とても楽しく嬉しく暮らしています。こちらでは「お酒」というと、日本酒ではなく、泡盛のことです。「オトーリ」と言う飲み方(宮古島のやり方)があり、私は今まで2回経験しましたが、2回ともつぶれてしまいました。あらためて「私は、酒は好きだが強くない」と自認しました。移住してまだ日本酒は飲んでいません。また八重山の情報を送ります。
●丸山富美さん…スウェーデン発
『シーン』と静まりかえった場所にいた…。そこは雪と氷でできたミュージアム。場所はキルナ、北緯68度。スウェーデンのストックホルムから北へ飛行機で約一時間半。
11月27日から12月2日まで、故星野道夫さんの写真展準備の手伝いでキルナに滞在していた。会場は全て手作業、雪と氷を使って氷点下20度の世界で1ヵ月かけて作られた。私が到着した27日には、11月上旬から滞在していた20名近くのメンバーらによってほとんど完成されていたが、オープンの11月30日を目指して日々の作業は続く。
到着後、私も雪と氷の中での作業に加わった。1日で約20時間が闇、太陽も殆ど顔を出さない。そんな中、雪と氷にまみれ、日々10時間近くの作業に励んだ。気温が下がってくると、作業着についた水や雪が全て凍って身体全身がパリパリ、バリバリになってくる。歩くと“ザッ、ザッ、シュッ、シュッ”と氷がすれる音して、気がつくとみんなロボットみたいな動作になっていた。
オープン当日は直前まで作業がつづけられ、めでたく30日午後3時、雪と氷で出来た写真展はオープニングセレモニーを実施。どこから人が湧いてきたのか、地元の人々や観光客、関係者で会場は埋め尽くされていた。
星野さんの写真は、北欧の闇の中でも多くの人々に感動を与えてくれるに違いないでしょう。人々が去った後、『シーン』と静まりかえった会場に立っていると自然に涙が溢れてくるのです…。人は感動を求めて生きているのかなあって考えたりしながら…。
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12月の「地平線通信」で地平線会議の窮状をお知らせし、今後の通信の必要性についてお尋ねしたところ、すぐに沢山のお返事をいただきました。「金も払ってないのに9年間も送ってくれてありがとう。でももういらない」「これだけが楽しみなので、いくらでも送金しますから(この部分は捏造)続けて送って下さい」など300通もの返事をいただきました。毎月650通を送っているのですが、約半数の方から、お返事をいただきました。これで一方通行の通信ではなかったことが確認でき、喜んでおります。4月からは 400通程度の発行部数でやろうと考えております。通信費支払方法は2月号で連絡いたしますので、その時はよろしくお願いいたします。またかなりの方がパソコン通信に移行したらという意見を寄せて下さいました。そろそろその時期なのかなとも思っています。とりあえずお礼と、まだハガキが手元にある方は、なにかお便りをお願いいたします。[三輪主彦] |
へんしゅうこうき 地平線井戸端会議室 |
▲昨年私の高校時代からの友人の息子が結婚しました。新婦の親は青森の白神山地の保護運動をしている人だと言います。「もしかしたら鹿内善三さんじゃない」と聞くとその通りでした。鹿内さんの名前は20年前に宛名を書いていたことから見知っていました。正月にヒマラヤから帰って来た鹿内さんと、久しぶりに初めて(?)会いました。弘前大学の山岳部を出た山男は地元の自然を知り尽くした人でした。今年は青森の岩崎村で「地平線会議」をやろうと意見が一致しました。日本全国地平線ツアーをやりましょう。[三輪主彦]
1/27 しかし今、様々な理由でマングローブ林が減少しています。ベトナムでは戦争が最大の原因でした。ベトナム南部のマングローブ林の半分が、枯葉剤で消失しました。 向後元彦さんが仲間と共にベトナムのマングローブ林の再生に取り組んで、5年になります。同時に、人間と自然がどのようにうまく共生してきたのか、その仕組みを探る試みを続けています。今月はこのプロジェクトに参加した方々においで頂き、ベトナムのマングローブ帯文化の見聞録を気ままに語って頂きます。お楽しみに。 出席者:向後元彦、辻信一(文化人類学)、向後紀代美(社会地理学)、三輪倫子(リフォーム研究)、長野淳子(教師)、西田研志(弁護士)、山田高司(緑化)、中西純一(映像作家)。進行は長のりょーのすけ。 |
マングローブの小さな村から、森と人間の共生を世界にアピール! カンザー・マングローブ・プロジェクト(CAMP) |
+ マングローブコンサート (吉納昌吉+新井英一+加藤登紀子+ベトナムのミュージシャン) + シンポジウム |
98年4月9〜14日 ベトナムホーチミン市カンザー郡 費用:約\160,000/問い合わせ:アクトマン(03-3373-9772) |
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