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■9月の地平線通信・214号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)
●1997年7月18日16時33分、母になった。7日後、彗太(けいた)と命名した。この夏はどこにも行けずに家にいる。それまでの私は生き甲斐の全てを旅に懸けていた。ディパック片手に自由にひとり旅をするのが何よりの楽しみだったのだ。2年前に結婚したが、挙式後1ヶ月で単身、南アフリカと南米に出かけた。その時強盗に首を絞められてしまったのだが、薄れゆく意識の中で、「旅行中に死ねるなら本望」と思ったほどだ。訪れた国の数は49か国になっていた。そんな風だったので、妊娠中も安定期に入ると我慢の限界になり、7ヶ月の時先生に「旅行してもいいですか」と聞いてみた。先生は「いいですよ、近場なら」と言ってくれた。私は喜んで一番近い韓国を予約したのだが、後で「熱海か箱根だと思いました」と言われてしまったのだ。
●韓国は3度目だった。1度目は島めぐりを中心とした1ヶ月程ののんびりとした旅。紅島で見た犬殺しとその肉の味が一番印象に残った。2度目は釜山への旅。慶州へ行くのが目的だったが、釜山で寄った日本語学校で講師をすることになり、そのまま半月、そこで過ごしてしまった。
●そんな訳で今回は慶州を中心に、時間があれば河回村に寄ろうと思った。旅に出てみると、実際『お腹にあるもう一つの心臓』を意識することは難しく、軽い山登り等もしてしまった。でも、お腹の子と一緒に鳥の声を聞き、海を見、遺跡に感動したことは忘れ難い思い出になった。それにさすが『儒教の国』だけあって、席を譲られるのはもちろん、たまたま会った人が、荷物を持って一緒に歩いてくれたこともあった。いずれにしても、その時だけの、貴重な旅を経験することができた。こうして幸運にも無事、1.5人旅から帰れたのだ。臨月に入ってからは旅行ができないので、近所の人達と公園で毎朝太極拳をし、中国にいるような気分を味わった。区民プールで遠泳もした。
●そして7月17日の昼ごろ、破水をした。いつも旅行に持っていくディパックに出産準備品を詰め、自転車で病院に向かったのだが、病院に着いたらすぐ車椅子に乗せられ、「安静に」と言われてしまった。
●その日の夜から陣痛が始まった。体力・気力・持久力には自信があったが、呼吸ができない程の痛み、胃液を吐き続ける程の痛み、しかも逃げることのできない痛みに驚いた。この世にこれ以上の痛みのないことを断言できる。その苦しみの中、最後には今までに出したことのない力を出し続けなければならない。我が子を手にしたのは入院から28時間後だった。子供が長い産道を抜けて新しい世界に飛び出したとき、私も長いトンネルを抜けて新しい世界に出たような感じがした。「今までの人生で一番の感動」これは立ち会った夫の感想だ。その後「男の子でよかった。あんな苦しい思いをしなくてすむから」と付け加えた。でも、私のお産はごく普通のものだったらしい。
●翌日から母子同室になり、子供の世話が始まった。手足のくびれも、透けて見える血管もコトコト鳴る心臓も皆、「私が産んだ」と思い、子供を抱きしめていると胸がしめつけられるような幸福、充実感に涙が出てくる。こんな感動があることを今になって初めて知った。
●息子はもうすぐ2ヶ月。お話ししたり、声をたてて笑ったり、両手を差しのべて抱っこのポーズをしたりする。今は、必要とされている自分の体さえ愛おしく思えてくる。
●さて、50か国目はどこへ行こうか。「いっしょにいこうね」彗太に話しかける毎日である。[堀田志津子(旅する日本語教師)]
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森田靖郎 |
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◆第2部は一転して、皇帝魚(チョウザメ)をルアーで釣る、というのどかなお話。7mの記録も残るこの巨大魚は、時には犬や猫も喰うと云う。そこで森田さんは、密かに日本やスコットランドでルアーの腕を磨き、80kgまで大丈夫な竿、ネズミやカエルのルアーなどを携えて、中・ロ国境を流れる黒龍江に乗り込んだ。そして、「皇帝魚がかかる感覚だけを信じて、5000回、いや8000回は投げた」 ミノーやワームなど、ルアーもいろいろ変えてみた。しかし、結果は惨敗。原因は「技術不足、魚の生態研究不足、そして黒龍河が魚の棲めない河になっていたこと」だった。地元でも、網や仕掛を使って年に1匹獲れるか獲れないか。「透明度は5cmくらい」という汚染では、そもそもルアーが見えないのだ。
◆もともと、「人格形成になればいいや、と思いながら始めた」という森田さんのルアー。黙々と投げ続ける姿は、最初は「あんなもので釣れるか!」と冷笑していた現地の人々の反応も変えた。「あなたの釣りの姿を見て、私たちは色々教えられた。あなたにこれをぜひ差し上げたい」 そう云って、帰り際、釣りの指南役の尤金玉(ヨー・キンギョク)さんから渡されたのは、魚の皮を材料にした伝統の衣服だった。今では全く作られず、贈られたのは娘さんが嫁入りしたときの貴重な品だという。河底の貝も心を動かされたのか、ワームに巨大な二枚貝が10コ前後も喰い付くという、エビ鯛ならぬルアーで貝のオマケもついた。
◆報告会は、終始、森田さんの淡々とした口調で続いた。いつもの、会場の疑わしそうな反応に「いや、これはホントの話」「ホントですよ、ホント!」を連発する『長老』諸氏の報告に馴染んできた身には、その静かながらジワ〜ッとくる説得力が印象的な報告会だった。皆さんも、ルアーをお始めになれば?[地平線臨時記録係 ミスターX]
※「とうしょうへい」の「とう」がJISになかったので、ここでは表示できませんでした。地平線通信では、2つの文字を合成して作りました。
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〜8月27日昭和女子大グリーンホールでHAT-J主催のエベレスト初登頂者エドモンド・ヒラリー氏の講演会がありました〜
山岳環境保護団体の日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(HAT-J)で、ヒラリーさんをお招きすることになった、と言ったら、何人かの若い人から「すてき。で、クリントンは来ないの?」と聞かれた。うーむ、あのヒマラヤの英雄も歴史上の人物になっちゃった?
実際のヒラリーさんは2メートル近い長身に100キロを超える体躯で、5分に1回ジョークを飛ばす愉快なおじいちゃんだ。8月に尾瀬・長蔵小屋で開かれた「青少年尾瀬国際フォーラム」のために三平峠から徒歩で現地入りして下さった。奥さんのジューンがいつも寄り添って面倒をみる仲良しカップル。このイベントに参加するためにアジアの各地からやってきた高校生とも実に気さくに話をされる。自己紹介は「78歳の若者です」。
が、メッセージは率直。在日中、おそばにいて聞いた名語録は…。
「20世紀はエベレストの登頂のようなすばらしできごともあったけれど、自然破壊の時代でもあった。この地球を救うのはもう君達若い者しかいないんだ」
「私は大学をドロップアウトしちゃったよ。けれど、父親の養蜂業を手伝って野山を歩き、そこで人生のすばらしさを勉強した。自然が私を鍛えてくれたんだ」
「エベレスト登頂の際、私はスリップし、いっしょにいたシェルパのテンジンがザイルで止めてくれた。特に感謝はしなかったよ。それがチームだからね。彼が落ちたら私が止める。彼が止めなかったら私は死んでからすごく怒っただろうね」
「ラインホルト・メスナーといっしょに、アルプスでグラビヤ写真に納まることになったんだが、私は彼より6インチも背が高い。見下ろしちゃ悪いんで、結局足元の氷河を掘って、私がその穴の中に立ったのさ。カメラマンだけが知ってるよ」。etc.
この人が最初の登頂者でよかった――そんな気分にさせられました。[北村節子(HAT-J理事)]
香川澄雄さん 300名山ランニング登山達成 |
当日は朝6時半に立川駅に集まり、青春18切符で山梨へ。「無謀かもしれない」と不安をいだきつつ、走る人組の末席に入り込む。ランナーのみなさんは、立川駅からすでにトレーニングウエア姿で、年は香川さんに近い「おじさま」方が中心だが、体はピシリと引き締まってハガネのよう。でも、若い娘(私)にはやさしくて、ちやほやさやれてすっかりリラックス。これなら、山でもやさしく見守ってくれそう、と安心する。
山登りの起点、氷室神社に到着。思い思いにストレッチなどをしてから、ジャージを脱ぎ捨てランニングパンツ姿になる。「普段はレースをされていると思いますが、本日はゆっくり助けあいながら登ってください」という挨拶にホッとしていると、スタートの合図もなしに速攻で登りはじめている人が。え?なになに、というまにみんなばらばらと歩きだしている。こりゃいかん。あわてて流れに加わるが、早歩きのペースで息があがりっぱなし。細い山道では「あ〜ごめんなさいね〜」の声とともに強引に追い抜かされると、ミソッカスとはいえつい真剣になってしまう。くやしい。助けあって美しく登るはずだったのでは、と思うが、やさしいはずの「おじさま」はみな真剣なランナーに変貌していたのでった。「うしろはちゃんと着いてきてる?」と気遣いながら登っていたのは当日の主役である香川さんひとり、他はみな自分が主役といった登りっぷりである。ふもとの増穂町町長や役場の方、地平線から三輪先生ご夫妻と教え子、長野画伯・淳子さん、中畑さん、花岡さん、ほかランナー仲間約50人が異なるルートから頂上で集結。かくして、頂上では異様な熱気に包まれて、300名山達成のお祝いがおごそかに営まれたのであった。
下山後は地元の温泉で祝賀会が行われ、香川さんはこの日のために準備した、地平線の長野画伯と中畑さんによるオリジナルTシャツを一人一人に手渡した。いきなりマイクを持って「ランニング登山とはなんぞや?」と真剣にテツガクを語る某教授などなど、これまたニギヤカな祝賀会となった。
「人とおなじことをしたのではつまらない」という香川さん。91年に日本100名山を走破して後、足掛け6年の地道な活動が今回の300名山に結び付いた。途中、道が岩でふさがれても自力で動かして進み、山小屋のおやじに反対されても強行し、登山禁止の火山にも果敢にチャレンジしたすえの達成である。ランナー仲間は「300名山を走ろうったって、実際にやっちゃうのは香川さんくらいのもんだねえ」と、信念を貫く行動力に脱帽の様子、どうやらこんなどえらい「おじさま」のようにになりたいと思う人は、そうそういないようである。[恩田真砂美]
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9月1日から15日まで横浜・本牧で写真展「地平線発」が開催され、初日の夕方から第2会場のトヨタカレリアのホールで永瀬忠志さんの講演がありました...
9月1日、暑い夜だった。会場は高いドーム状の天井を持つ直径15m程の円形のホールで、おしゃれな部屋だった。聴衆は20余人程度で少しさみしかった。平日なので来られなかったのかもしれないが、リヤカー男・永瀬さんは大阪の人だし、もったいないことをしましたゾ。僕は一家で出かけたが、3才の娘も喜んでいた。
長野亮之介さんから地平線会議の紹介があった後、永瀬さんがボソボソと話し始めた。照明が落ちてスライドが映った。学生時代の自転車での日本一周。次は徒歩で〈リヤカーを引いて〉の日本縦断。その次はオーストラリア縦断。その次はアフリカ縦横断。一つの行動が終わると次にもっと厳しい行動をしないと満足できなくなるタイプの行動者なのだ。しかし、その風貌も話し振りも実に穏やかだった。「こんなになっちゃいました。」と掲げたボロボロのTシャツと穴の開いた運動靴。次は南極でリヤカーを引きたいとのこと。きっとこの人は行くに違いない。[平本達彦]
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■広島三朗(みつお。サブローはニックネーム)さんは、1986年11月の地平線報告会に登場し、イスラムの密教とも言える聖者崇拝について報告してくれている。昨年刊行の『地平線の旅人たち』にもそのあふれる思いが綴られているが、パキスタンの自然と人々にとことん惚れ込んでしまっていた。パキスタン通いは、通算55回を数えるという。夏は教員仲間らと北部山岳地帯の登山やトレッキングを楽しみ、冬は聖者廟を訪ねてパキスタンの南部を歩くというのが、最近のスタイルだった。
■今日のように開放地域が増えてカラコルムやヒンドゥークシュを気軽に歩けるようになる前、広島さんは「ミスター・ノーパーミッション」と呼ばれていた時期がある。国境が近くてとうてい入域許可など降りないはずの峠も、あの日本人離れした物怖じしない態度と底抜けの笑顔で、なんなく通り抜けてしまうからだ。あとでほかの人間が出かけても、追い返されるだけ。77年のK2隊の実現に際しては、ルートの偵察に、現地との交渉に、そして日本での資金調達に、この並外れた能力が大活躍した。国境とか官僚主義とか縄張り意識とか、そういう人為的な障壁にぶつかると、めらめらと闘志が湧いてくるらしい。
■それでいて自然にたいしてはどこまでも謙虚で、登山のスタイルも慎重だった。けっして無理はせず、山のご機嫌のいいときに登らせていただくというスタンスを貫いた。また、若い人たちの育成にも熱心で、自らの行動で示すことによって夢と情熱を与えたいと、いつも張り切っていた。
■パキスタンに行きたいという人には、昔から実戦的で詳細なアドバイスを惜しまなかったが、さらにそれを押し進めて、あの分厚い『地球の歩き方―パキスタン編』をほとんど一人で執筆した。最近は改訂にも情熱を燃やしていたが、今年の号には、大の親日家として知られるチトラル王家のブルハン殿下が一昨年亡くなったのを偲んで、いっしょに並んで写った写真をわざわざ掲載している。ところがその広島さんも、亡くなってしまったのだ。
■今月の28日、鎌倉で合同のお別れの会が開催される。ちょうどその頃、私はチトラルに到着し、ブルハン殿下の墓前にこの悲しい事実を報告していることだろう。広島さんがお気に入りだったあの写真の場所、ドロムツ館のチナール(スズカケ)の木陰で風に吹かれながら、あらためてご冥福をお祈りしたいと思っている。[丸山純]
9/30 情報の鎖国を続け、共産主義体制を維持している北朝鮮ですが、三難(食糧難、外貨難、エネルギー難)にあえぎ、内部崩壊も時間の問題ともささやかれています。「急に壊れても、日・韓・中・米、みんな困る。といって、カンフル(援助)を打ち続けてもキリが無い。崩壊が長引けば、難民が増えるばかりだから」と惠谷さん。 今月は、『北朝鮮解体新書/金正日と朝鮮人民軍』(小学館・1600円)の上梓を10/8に控えた惠谷治さんに、北朝鮮が今どうなっているのか、話して頂きます。 相次ぐ高官の亡命、少女拉致事件、日本人妻里帰り、コメ援助問題など、マスコミ報道をどう読み、隣人として、どう考えればいいのか、手がかりを得られる貴重な報告です。見逃すとソンです! |
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