1997年5月の地平線通信



■5月の地平線通信・210号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信210表紙 「グレートジャーニー」を続けている関野吉晴さんが、ついにベーリング海峡に達した。ユーコン川下りなど一部の行程を残しているものの、ユーラシア大陸は目前。一時帰国した関野さんに、4年目にはいった大いなる旅について語ってもらった。

――ベーリング海峡に立った時、感慨がありましたか?

 「ついにここまで来たか、と思った。セスナ機で空からも見たんですが、向こうにロシアの領土が見えて、やはり感無量でしたね」

――とても元気そうだけど、92年12月5日のナバリーノ島出発以来これまでのペースどう思ってる?

 「ちょっと早過ぎると。中米なんかもっと時間かけたかったし、ナバホ・インディアンの居留地や南東アラスカの海洋先住民のところにも、もっとゆっくりしたかった」

――探検の中心であった南米を通り、新しい大陸に入ってみて、どう違いを感じた?

 「基本的には似ている面が多いですね。もともと産業社会にどっぷりつかっていない、先住民族の住む場所を訪ねたかったからそうなるのかもしれないけれど。暮らしの成り立ち方には人間と人間、人間と自然、などいろんな関係があると思うけど、ぼくは自然により多く依存している人たちにつきあってきたから、今度の旅でも人間と自然との距離を考えることがテーマとなっている。その意味では、中南米、とくにアマゾンの人たちは自然に一番近い、自然を知り尽くしているとあらためて思いましたね。

 ただ、北米大陸の先住民、エスキモーやインディアンの人々は、もっともっと自然と離れてしまっている、と思ってたんですが、そうではなかった。エスキモーの鯨とりをみせてもらったら、セイウチの皮を張ったウミアックというボートで漁をする。長老たちが岸辺で双眼鏡をのぞいて鯨の群れの接近を監視するんです。けれど、彼らは一方ではGPS(Global Positioning System)装置を使って自分たちの位置を確認している。北米の人たちは自然と調和しながらそれだけではなく科学的な生き方も考えている、そういう印象を持ちました」

グレートジャーニー写真集3――あなたの探検、旅を見ているとずっと「写真」「映像」にこだわっていますね。『アマゾン源流』『オリノコ』『ギアナ高地』『南米大陸』などこれまでの写真集は見事だったけど、先日は原宿でマルチ・スライドを含む立派な写真展が開かれ、写真集『グレート・ジャーニー3』(毎日新聞社)もきのう発刊された。探検家がどうしてこんなに写真にこだわるようになったんですか?

 「ぼくはしゃべるのが下手だし、文章もうまくはない。ある時から自分のやっていることは写真とか映像で伝えたほうがいい、と思うようになった。それも写真の能力は二流だけれど、写す対象物(自然や人間、動物)に近寄る能力はあると思っている。そのコツはいかに時間を惜しまないか、ということなんですけどね。自分が驚いたり、感動したりした時にしかシャッターを押さないので、撮る時は自分がハイになっている」

――今度地平線会議が開催する写真展「地平線発―21世紀の旅人たちへ」にも、動物をテーマとした写真を10数点出してもらった。多忙な中、感謝してます。

 「こういう写真展は、ちょっと例がないですね。地球のほぼ全域をおおっているんじゃないですか。7月にはいないけど、そのうちどこかで見てみたい」

――間もなく出発ですね?

 「5月19日に出ます。できればベーリングをウミアックで渡って、いったんアラスカに戻り、残しているユーコン川下りを終えたい。シベリアは冬に動きます。写真展、成功祈ってますよ」(文責/江本嘉伸)



先月の報告会から
ムスタンの八十八夜/西尾暁子さん(23)
1997.04.25(金)/アジア会館

●美しいチベット服姿の報告者は、いきなり用意した原稿を手に話しはじめた。「皆さんの中にはネパールと言われ『どこ、それ?』なんておっしゃる方は多分いらっしゃらないことと思います。ですが3年前の私は『えっ、どこ?』という感じでした。山岳部に在籍しながらお恥ずかしい話ですが、憧れのヒマラヤはネパールにある、だけどネパールがどこにあるか知りませんでした……」

●書いたものを読んでいるのだが、それが棒読みではなくて、きっぱりとして、人柄が滲み出る話し方だったせいだろう、驚くほど新鮮だった。はじめは、えっ、原稿を読むの?と内心驚いた出席者たちは、一瞬にして報告者のひたむき、かつ魅力ある語り口にひきこまれてしまった、と思う。

●日大農獣医学部(=帰国後「生物資源科学部」と改称)3年生だった西尾さんは、ムスタン郡の農業発展をめざすNGO組織「ムスタン地域協力開発会(MDSA)」が現地スタッフを募っていると山岳部の先輩から聞いた瞬間、「行こう」と決意した。「もともと考えるよりも先に行動してしまうような人間」で、「この時じっくり考え込んでいたらネパールへ行くことはなかった」と語る。男性を期待していたMDSAは、はじめ渋ったが、西尾さんは何度も手紙を書き、ついにOKをもらう。95年4月、その地ネパール中央部北端の町、ムスタン郡のジョムソンに飛んだ。標高2800m、人口千人のこの町を中心として、稲作を試みることが仕事だった。

●「白っぽい所」というのが、はじめてジョムソン入りした時の印象だった。年間降雨270ml、毎日5、6時間は強い南風が吹く乾燥した気候なのだ。言葉もわからず、西尾さんの手さぐりの日々が始まった。MDSAは、会の創立者である75歳の近藤亨理事長の指導で、リンゴ園、野菜畑、ニジマスの養殖などの仕事を続けている。70人のネパール人スタッフと交流する中ではじめは一言も知らなかった西尾さんのネパール語も、急速に上達していった。

●村人たちの暮らしに溶け込むうち、あちこちの家で手作りの酒、チャンやロキシーを御馳走になり、主食であるダルバートタルカリ(ダルは豆スープ、バートは米、タルカリは野菜のカレー炒めのこと)の味を知った。村では皆、朝の歯磨きを丹念にすることが興味深かったという。かねて夢だった馬に乗るのも、楽しみのひとつだった。

●稲は北海道と新潟のものを持っていった。見事に出穂した。が、ついに実を結ぶまでには至らなかった。成功はしなくとも、ほんものの挑戦だった。その貴重な体験を「ジョムソンでの稲の適正試験」をテーマとして卒論を書くつもりだ。97年2月末帰国。4月には会の招きでムスタン・ラジャー(土侯)夫妻が初来日。「ネパールの位置も知らなかった」女子学生が2年足らずの間に通訳兼世話係も引受けるほどになっていた。

●笑顔が、ムスタンの娘さんのように愛らしい西尾さん、質問にも動じるところは一切なく、最後まで凛とした気迫を感じさせた。こういう人はどこで何をしても光るだろう。男ども頑張れ。[ホライズン]




 ■地平線ポストから
 宛て先…〒173 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方


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アフリカバイク行(その3) 坪井伸吾
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◆翌朝、またチャイを分けてもらい、スタートする。彼らの話では、この次にガソリンが手に入るのはキバヤという村らしい。ガソリンがもつかどうか、かなり際どいところだ。燃費に気をつけて、昨日より少しはまともな道を走っていると、昼頃パンクした。しかたないので、暑い中タイヤを外そうと引っ張っていると、突然横から手が出てきてタイヤを掴んだ。いつの間にか、ひょろりと背の高いマサイが隣にいた。

たまげている僕を気にもせず、マサイはこっちにむかって何か話しかけてくるが。さっぱりわからない。どうやら手伝ってくれようとしているらしい。それで、タイヤを後ろに引っ張るんだと、身ぶりで示すと彼はすごい力でタイヤをあっさりと外した。

◆「次はどうする」と言っているようなので「いや、もういいよ、ありがとう。あとは自分でするよ」ということを身振りで伝えた。そうか、という感じで彼はひょいと僕の横に座り、作業の様子を見ていたが、やがて、また何か言い出した。「ゴメンわからないよ」と身振りで伝えると、次はスワヒリ語で話し出した。

これも少しは分かるけども、何が言いたいのかはやはりよく分からない。なんか申し訳なくなって日本語で「ゴメン」って大声で言うと、今度は、なんと英語ではっきりと「おまえはどこから来た」と言った。「どこって、日本だけど」「日本?」通じたのかどうか分からないが、少しの沈黙の後、彼は「おまえはどこの部族だ」と聞いた。どこの部族だ、と言われてもなあ、僕はいったいなんの仲間だろ、と考えながらとりあえず「日本部族だ」と答える。「これからどこへ行く」「ダルエスサラーム」「それは無理だ」

◆え!どうして。この先の道が崖崩れとか、洪水でなくなっているのか。かといって、ここで引き返すとガス欠は避けられない。これは参った。ともかく彼に「なんで無理なんだ」と聞いてみると、彼は「遠いから」とあっさり答えた。

「…」。なにそれ、こんな凄すぎるオチってあり? 何か強烈な脱力感に襲われグッタリする。ウーンまあ、歩くと確かに遠いのかもしれない。彼と別れたあと、再びパンクしたが、無事マサイステップ中央部を抜け、キバヤに出て、それから2日後、僕はタンザニア一の都会ダルエスサラームについた。




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小沢剛の監獄日記
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◆真っ暗闇の廻りは草原なのか、砂漠なのか分からない。テキサスのドいなかのせいぜい10分に1台ぐらいしか車が通らない道ばたにもう2時間立っている。今朝からヒッチを続け、今のところ3台の車を乗り継いできたところなのだ。(略)

◆そんな時に、1台のパトカーが僕らの前に止まった。怪訝そうな顔で警官が降りてきた。2台目の車から一緒のジョーがやけに親しげに話しかける。次の町のモーテルまで乗けってくれるぜ。僕はよく状況が掴めていなかったが、「初めてパトカーに乗らせていただきます。どうもありがとうございます。」みたいなことをいった。それは、映画で見たみたいに後部と前部の間にネットのしきりがあり、ライフルが1丁かかっていた。

◆さて、その連れて行かれたモーテルとは、実は警察で、オレらみたいな罪のない困っているビンボー旅行者を留置所に無料で泊まらせるボランティアシステムだということを知らされ、何だか気持ちが高鳴る。簡単な書類を書かされ、荷物と、ポケットの中のナイフを預け、ビニール袋に入った洗面具セットと洗い立ての薄い毛布を2枚渡される。細い廊下を歩いている時なんか、嬉しくてジョーと笑いこけそうになった。

◆その部屋は映画『ダウンバイロー』に出ていたそれとよく似ていた。壁も床も鉄格子も白く(画廊みたい)落書きが多かった。すぐに目に入ったのは「米」と漢字で大きく書いてあった。誰が書いたのだか、どんなドラマがあったのかとても気になる。水道の水を2口飲んで寝る。深夜に他の部屋に新たにお客が入ったような音がした。

◆「朝飯だ」の声で起こされる。ポストの差し出し口みたいなとこから、何やら入った使い捨てのランチボックスを渡される。昨日の晩飯を食いっぱぐれたのですごいうれしい。マフィン、ブルーベリージャム、かりかりベーコン、スクランブルエッグ、オートミールみたいなもの、オレンジジュース、ミルク、コーヒー。なんと豪華な朝食だこと。食っている途中にジョーがションベンをしたのには参ったけど(言うまでもなく、寝食する部屋と便所は一緒で仕切りもない)。5分もしない内に警官が「食事終わり、出る用意をしろ。」と急かす。警官達にお礼を言って、ラッキーだったよな。なんて言いながら、警察署を後にする。(後略)

※アメリカ滞在中の小沢さんが電子メールで送ってくれた近況報告から、一部を抜粋しました。


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地平線HARAPPAが、さらにワイドに、
さらに使いやすくなります。

パティオへの移行にともない、パスワードが変更になりますので、ご注意ください。
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●ニフティサーブのホームパーティ機能を利用して活動を続けてきた[地平線HARAPPA]が、この6月からパティオ機能に移行することになりました。これまでは、トータルで1000行を越えると消えてしまいましたが、これからは512発言まで掲示されるようになります。さらにフォーラムの会議室と同様にコメントモードなどが使えますので、操作性も向上。初めて参加する人でも、話題の流れを見たり、書き込みをしたりするのが簡単にできるようになるでしょう。

●この移行にともなって、従来使ってきたパスワードが、ニフティ側の都合により変更になります。新しいパスワードは、5月末にホームパーティ内でアナウンスしますので、これを見ていただくか、あるいは開設者の丸山(PEG00430)までメールでお問い合わせください。

●1990年の4月にスタートして以来、HARAPPAに書き込まれた発言は総計9000を越えました。地平線会議の活動はどうしても東京に偏りがちですが、全国どこからでもアクセスできる電子ネットワークを使えば、距離や地域を越えたコミュニケーションが可能になります。ニフティサーブに入っている方なら、どなたでも無料でご利用いただけますので、これを機会に、より多くのみなさんが参加してくださることを期待しています。[丸山純]



■地平線HARAPPAより抜粋

8918 [97/04/11 06:03] 神谷:彗星見えてます

 ロンドンの空は照明や排気ガスで、星は見えにくいのですが、ヘールボップ彗星見えてます。わが家は、東西向きですが、西向きのベランダから北西の方向、高さ30度位に見えてます。2歳の娘は、結構目がよく、新月直前の月とか(確か2〜3日前)、超航空の飛行機とかを見つけるのが得意ですが、目下暗くなってから彗星を見るのを楽しみにしています。



地平線写真展を地方で開催するための協力のお願い

 前号の通信でお知らせした写真展『地平線発―21世紀の旅人たちへ』が7月11日〜16日、東京・品川のO美術館(品川区大崎1-6-2 大崎ニューシティ2号館2階)で開かれます。この写真展を、日本の各地で開催し、多くの人々に地球を身近に感じてもらうために、開催会場を探しています。

一線の行動者がシャッターを押した力作200点以上で、他では決して見ることのできない、見応えのある写真展です。経費はかかりますが、多額ではありません。できるだけ多彩な場所で実行したいので、是非、身近な組織や会場を探して、できれば主催者のひとりとなって下さい。講演会、報告会もあわせて検討しています。地平線会議の地方での面白いイベントとなれば、と思います。

 なお、O美術館のあと、練馬区光が丘「J.CITY」での開催が予定されています。

 この件の問い合わせは、03-3359-7907(FAX)江本、あるいは03-3746-1500(TEL)、03-3746-1600(FAX)ノヴリカ(影山、本吉)へ




地平線はみだし情報

(河野兵市さんが)5月3日午前6時40分(日本時間)に、単独徒歩による北極点到達に成功。史上3人目の快挙。ロシア側から挑戦していた大場満郎さんも、5月3日午後9時15分(事務局発表)に到達したと見られる。



[5月10日現在1万円カンパに協力してくれた人]

佐藤安紀子、向後元彦、向後紀代美、北村節子、賀曽利隆、賀曽利洋子、河田真智子、山崎禅雄、西山昭宜、山田高司、吉岡嶺二、三輪倫子、海宝道義、香川澄推、中山嘉太郎、大沢茂男、久野暢郎、高野久恵、金井重、江口浩寿、田部井淳子、森井祐介、武石礼司、梅沢政弘、岸本佳則、遊友裕、滝野沢優子、武田美佳、武田力、村田忠彦、水谷任子、西村邦雄、保木由佳、飯野昭司、小川正人、藤原謙二、石川秀樹、舟本和子、田中雄次郎、久保田賢司、在田加代子、相川八重、相川和加子、高野孝子、江本嘉伸、江本くるみ、丸山純、北川文夫、小島淳一、埜口保男、宮寺修一、杉田晴美、張替純二、森田昌弘、加世田光子、森田洋、坂下哲之、花崎洋、河村安彦、土屋守、中村柾英、池本元光、菊地敏之、金守達也、野々山富雄、松本栄一、神長幹雄、花岡正明、岩淵清、井口亘、河野昌也、古橋稔、桜井紀子、長谷川絹子、森國興、長迫幸成、本庄健男、岡田典子、斉藤晃、斉藤則子、尾浜良太、那須美智、佐々木眞紀子、長房宏治、山田まり子、出口昌哉、九里徳泰、川島好子、若木美枝、池田朋之、柴田美佳子、長田憲二、松田仁志、岸本実千代、今里好美、野々山桂、鹿内善三、坂本勉、難波賢一、中川淳、小松尾幹愛、西山佳子、野地耕治、島村智子、近山雅人、久島弘、山本千夏、斉藤政喜、森田友江、井川等視、山田佳範(敬称略)





■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介/イラストのなかにある手書き文字)

地平線通信209裏表紙

5/30
FRIDAY
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500



ナンガパルバット物語り

95年7月23日、午後5時13分。それまで雪面の白一色だった視界がパッと開け、坂井広志さんはナンガバルバットの山頂に立っていました。山容に魅せられた坂井さんが、一人で準備委員会を始めてから約10年。千葉工大登山隊長として遂に8125mのピークを踏んだ瞬間でした。隊員10名のうち、3名が登頂。平均斜度60度以上の岩壁帯を含む北面の新ルートは「千葉工業大学隊ルート」と名づけられました。

帰国後、坂井さんはこの遠征の記録を約1時間のスライドとビデオにまとめました。紀子夫人が音楽を担当。オペラやシャンソンを使用し、立体的な構成を心がけたそうです。隊員の家族をはじめ、遠征を支えた人々が追体験できるような作品となりました。

今月はこの作品を中心に、坂井さんの山への情熱を語って頂きます。



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