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■4月の地平線通信・209号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)
あっという間に桜が咲き、散って4月もなかば。地平線会議に年度は関係ないが、ともかく新学期だ、画期的なことをやろう。今日は大事なお知らせです。
2月の通信で簡単にお知らせしたが、ついに地平線会議が「写真展」を開催する。日本の町や村を舞台にできるだけ多くの場所で開催したい、と考えているが、その第一回開催の時期と場所が「7月11日(金)〜16日(木) 東京・品川のO美術館(品川区大崎1-6-2、大崎ニューシティー2号館2F、山手線大崎駅の立体歩道橋を渡った所)」で、と決まった。タイトルは『地平線発−21世紀の旅人たちへ』とするつもりだ。制作費がかかるのでいつもの報告会と同じく五百円の入場料を取らせてもらう予定。
ああ、今度は写真展ね、とあっさり言わないでほしい。どういうねらいでどんな写真を集めるのか。どんな所でいつから?展示方法は?何よりも資金はどうするのか。始めようとすると、難題はいくつも出てきた。
でも、結果として実にいい写真が集まった。子供たち。家族の風景。森。動物たち。祭り。移動。食文化。おしゃれ。氷雪の山々と峡谷。一点一点に重みがあり、個々の写真としても十分素晴らしい。それが一つのスペースに展示される時、どんな交響楽が聞こえてくるのか、想像もつかないほどだ。これほど多彩で多数の記録者が参加する写真展の開催は、大げさに言えば日本でかってなかったであろう。
まずは、電話一本のお願いに写真展への協力を快諾してくれた仲間たちに心からお礼を言いたい。写真は、ひとりひとりの旅人の宝物だ。中には個人で立派な写真展を開ける人も何人もいる。言葉足らずの説明にも関わらず、地平線会議に免じて誰もが手弁当の心で賛同してくれたことが嬉しく、そのことを誇りに思う。
約40人から200点ほどの写真を選ばせてもらった。地平線報告会の報告者を中心とするが、それ以外の人もいる。全員に出展を呼びかけられなかったことについては、第一回の試みということで、許してほしい。そして作品は個々人のものだが、200点が展示される空間に地平線会議がめざしてきたものが息づいているのだということを理解して、協力してほしい。
東京をスタートとする(O美術館以外での開催も検討している)が、今回の写真展のねらいは全国の町や村で展示することだ。昨年出した『地平線の旅人たち』のほかまだ余部のある年報『地平線から』やデータブック『DAS』などもこの写真展を通じてひろめたい。できれば北海道の過疎の村にも日本海の小さな島々にも行ってみたい。費用もかかることなのでどのような段取りでそれを展開するか検討中(一部市町村教育委員会などに相談している)だが、地平線報告会を写真展にあわせて現地でやることも考えている。200点の写真は地球をほぼおおっている。そこから見えるものは日本だけでなく世界のどこに住む人々にとっても大事な何かであると信じている。
そこで、東京そしてそれ以外の地方にいる地平線会議の仲間たちにお願いがあります。この画期的な写真展をできるだけ日本列島の隅々まで展開してゆくために、身近な市町村、学校、農協、青年会議所、どんな所でも結構です、つなぎ役をやって頂きたいのです。東京での開催はパネル制作費などで三、四百万円かかりそう(目下フィルム会社などに協力依頼中です)ですが、地方に行く場合はできるだけ実費主義でやりたい。パネルが汚れたら再制作する決意で、二年かかっても三年かかってもいいと思う。日本のどこかでいつも『写真展・地平線発』が進行中という事態を作りだしたいのです。
最後に、この写真展は美術展の企画を仕事としてきた「ノヴリカ」の影山幸一、本吉宣子ご夫妻の手弁当的熱意と共に進行中であることを報告しておきます。
写真展に関しての提案、質問は 03-3359-7907(FAX)江本、あるいは03-3746-1500、1600(FAX)ノヴリカへ。写真展の詳しい内容は追って紹介します。では。[江本嘉伸]
田中幹也さんはそんな声を聞きつつも、95年6月から96年10月にかけて自転車、カヌー、登山という方法を駆使してアラスカ、カナダ北部約12,000kmを踏破。今回は多数のスライドを使ってそのときの模様を話してくれた。
「初めから具体的な計画というものは立てず、漠然と自転車で南下することにして。じゃあ内容を濃くしてみようか、といった感じで。」さらりとこう述べたものの、厳冬のカナダはハンパじゃなかった。マイナス40度を優に越える寒さは自転車で走る者に容赦しない。吹き付ける風などの影響で、体感温度はそれ以上になる。そして時には日本の新潟並のドカ雪も降るのだ。凍傷で焦げ茶に変色した鼻がスライドに登場したが、何とも痛々しい。結局この凍傷のせいで一時中断を余儀なくされたが、こんなことで諦める人ではなかった。自転車の次はロッキー山脈を春から初冬にかけて1500kmの大縦走。旅全体を通してヤッケだけでも4着ダメになり、靴も何足か買い代える羽目になったと言う。
中学生の時から登山にのめり込んでいった田中さん、20代のころは年間200日位山に入っていたこともあるそうだが、今回のアラスカ・カナダの旅にしても、「他の人が趣味をするのと同じで本人がやりたいからやっている。特に理由というのはありませんね」とまたもやさらりと言ってのける。
危険だ、無謀だと言う周りからのアドバイスも、実際にやった事のない人の、いい加減で批判的な者が多いと言う。野外に於いてもマニュアル化が進んでしまっている現代、少しでもそこから外れた行動を取る者は批判されてしまう。しかしこれは、冒険や探検に対する自由な発想を拘束してしまうのではないかと田中さんは考える。
最後に次の目標を聞かれると、「今は楽しく思っている、けれど他にもっと面白い事が見つかったら直ぐにもそっちへ行動を移したいです」と言う。これからも簡単にはマニュアル化されない人のようだ。[松井直彦]
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看護士日記
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◆2回目の自転車地球散歩から帰ってきて3年が過ぎました。そしてまたも千葉県職にもぐりこめたので、これで厚生省、法務省、千葉県と公務員をハシゴしたことになりました。公務員のハシゴ、これこそが私最大の特技です。
◆で、いま勤務するのは、救急専門の精神科病棟。仙台の医療刑務所も妙な職場だったけれど、ここも負けじと妙な患者が入院してきます。暮れにはカンフーの達人というふれこみのホモのような中国人がきました。不法就労者でなおかつパスポートと本名が違うという、地平線会議で報告してもらいたいような猛者です。顔写真は当人だったから、どうやらパスポートを不正に取得したようです。精神的にあまりにも具合がわるく、自分がカンフーをできることすら忘れていたようなので助かりましたが、そのような状態での渡航は控えてほしいものですね。長い海外放浪歴のおかげで諸国事情に詳しいからと、外国人が入院してくると私の担当になるのです。
◆機内で暴れてストップオーバーの成田で強制的におろされたアメリカ人、ひたすら路上を歌いまくるイタリア人の鬱病、プリンスホテルのディナーでテーブルの上を走り抜けたスペイン人。いろんな患者がやってきました。でもいちばん多いのは東南アジアからの出稼ぎ労働者。異国で非合法に収入を得るというのは、たいへんなことなのでしょうか。
◆不法就労といえば、かくいう私も15年前は不法就労者でした。資金がそこをついて、ニューヨークでせっせと皿を洗っていたのです。いま思えばそのころにも確かにおかしな奴がいました。ひょっとするとあのうちの何人かも精神科にかかっていたのかもしれません。一緒に働いた仲間には、私が看護士と知って、帰国後注射針を送ってくれ、ヤクは手に入るが注射針が手に入らないんだとせがむコカイン中毒もいました。いまごろ彼らはどうしていることでしょう。
◆一生のうちに世界を5周することを目標に、いまはくそまじめに働いています。
●ご協力を…
◆ただいま放送大学の4年生で、今年は卒論を提出しなくてはなりません。そこでどうせ却下されると思いながらも、テーマを「長期旅人と病気・その対策と療養」で申請したら通ってしまいました。そのため地平線のみなさま方に、旅先で苦しんだ病気をテーマにアンケートをお願いしたいのです。ナイロビにいたとき、アジア・アフリカ・中南米を1年以上にわたって旅した経験の持ち主にかぎって調べたところ、肝炎は7割、マラリアは6割の旅人が罹患し、それぞれ旅先で苦しまれた体験があるようです。それを思いだし、この他にもどれぐらいの人が、どこで、どのような病気にかかり、どのように苦労してきたかまとめたくなったのです。
◆6月ごろからアンケートを始めるつもりですので、私の卒業のために、ご協力をお願いします。なおこの大学の入学資格は先着7000名様で、入学料15000円を払うと学生証がもらえます。JR学割の使えないのが痛いけれど、映画館や博物館では使えるので、重宝しています。
●樫田秀樹さんから
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カソリは死なず
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◆久しぶりに賀曽利隆さんから電話がかかってきた。「いやあ、元気? 実は、僕入院してたんですよ! バイク事故で? いやあ、今回は病気だったんです。腫瘍の手術をしたんです」
◆え、え、何、何? 賀曽利さんの二女の雅子さんは、今春めでたく慶応大学法学部の合格が決まった。それを待っての手術だった。
◆腫瘍が胸に発見されたのは、1989年。原チャリで日本一周に旅立つ前。さすがに目の前が真暗になったという。ただ、肺癌ではなく、胸壁にできた腫瘍だったので、半年から一年おきの検査でも、すぐに悪化するものではないことがわかった。本人も手術嫌いだということで、ずるずると何年もたった。
◆だが、旅をしている時でも、一日の本の数分かは「俺の人生も40代で終わるのかな」と気持ちが塞いだという(残りの23時間以上はノーテンキ)。昨年、オーストラリアに行く前に、奥さんの手配で人間どっっくに入った。そして手術を決めたという。
◆3月10日に手術を受け、卵大の腫瘍を摘出するが、さすが鉄人カソリ、脅威的な回復力で13日には退院して、病院を驚かせた。「4月には北海道ですよ!」と相変わらずだが、結局何のための電話だったかというと、「僕が体長崩したのは30代半ばから。だから、カシダ君にも気をつけてほしいと思って…。」(僕が昨年、延べ3ヶ月の咳に苦しんだのを賀曽利さんは知っている。)
◆常々明るい気持ちでいれば、病気にゃならんと思っていた。なのに、あのカソリですら腫瘍になる。わかりました、健康診断に行きます。
◆蛇足だが、原チャリ日本一周の直前、賀曽利さんが所員だった観文研(日本観光文化研究所)が、親会社の近畿日本ツーリストにより閉鎖された。この時の賀曽利さんの怒りようは大変なものだったらしい。また、賀曽利さんがこの世で唯一嫌う江川卓が活躍していた頃でもある。毒気が溜まっていたのかもしれない…。
◆最後に書き留めておくが、こんなことでも、遠慮なく連絡をしてくれるのはありがたい。東京暮らしも10年以上になるが、自分も含め、東京人はなんと積極的に人と触れあわないのかと思う。そんな時の電話。これを偶然とは思いたくない。人づきあいに遠慮はいらない。[樫田秀樹]
■リレー連載・地球“犬”体験……(6)
◆かつて、あるNGOの一員としてソマリアの砂漠の中の難民キャンプで2年間働いていたことがある。
◆全く不自由な生活だった。仕事以外で外を歩けば、悪戯で子供が石を投げてくる。ジョギングをしたら、数百人もの子供に黒山の如く追い掛けられ、難民キャンプは大騒乱。宿舎のフェンス内だけが私たち日本人の唯一息のつける世界だった。だから、犬を飼い始めたのも、ちょっとした気分転換になった。
◆ソマリア人は犬を憎む。『コーランの教えに従って』というのだが、とにかく、犬と見れば、容赦なく石を投げる。犬は、日本人には安心するのだろう。お産の時期になると、僕の小屋を訪ねてきては子供を産んでいく。
◆初めのお産で5匹が生まれた。一匹を飼い始め、一匹を近くにいたフランスのNGOの女性にあげた。
◆親犬はせっせとエサを運ぶ。それは、ある時はラクダの肺であり(ブヨブヨ)、ある時はヤギの生首(ゲッ!)。
◆メス犬は半年ごとに出産を繰り返す。いつしか、宿舎内には常時十匹以上の犬が徘徊し、ある日の話合いの席上で、ソマリア人側から『犬を殺すべきか』と、とんでもない議題が提出された。宿舎外で殺すのは自由だと決まったが、実際に宿舎外で殺すとなると猟銃が必要で、さすがに、そこまでやる奴はいなかった。
◆だが、犬は増える。そこで、フランス人に、またもらってと頼んでみると、意外な答えが返ってきた−「全部、殺しちゃえばいいのに」「えっ、犬が好きじゃないの」「一匹で十分。他の犬は私には関係ないわ」他のフランス人も同意する。なんだ、こいつらは。だが後日、僕たちのチームに短期参加した白人のJも言った−「衛生上の問題もある。殺そうよ」(!)
◆86年1月、首都モガディッシュの日本人ミーティングに出席するため、現場を1週間ばかり離れた。生後2ヶ月あまりの子犬5匹を残して。そして帰ってみると、成犬はともかく、子犬は残らず姿を消している。「うわ、やりやがった!」
◆誰もが口をつぐんだが、犯人はJだったらしい。ゴミでも捨てるように、ポンポンと子犬を川に捨てた(ソマリア人は絶対に犬には触らないので、そんな殺し方はしない)。
◆Jは控え目な性格で、好印象をもたれていた。だが、彼の中にもパパラギはいた。犬を殺す。それは単に、数の大小を整理するという思考なのだろう。それにしても、一言の相談もなく殺すことはないじゃないか。
◆NGOとしても、概して、白人は難民(有色人種?)とは意見を交さず突っ走っていた−「我々のやり方こそ、この貧しい人々を幸せにするのです」(宣教師だね) 先のフランスチームは、その難民無視のやり方に、とうとう難民に斧で追い掛けられる破目になった。
◆ところで、その後の内乱で、ソマリアは国そのものが崩壊した。つきあっていた人々も散り散りになった。あの犬たちは…。たぶん、戦乱の中でも、ヤギやラクダの死骸をほおばり、たくましく生きているのは間違いない。
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樫田秀樹さん「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」を受賞
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◆今月の地平線通信にも「地球犬体験」と「カソリは死なず」の2編を寄稿してくれた樫田秀樹さんが、第1回週刊金曜日ルポルタージュ大賞の報告文学賞を受賞しました。タイトルは「雲外蒼点――ハンセン病の壁を越えて」。おめでとうございます。
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初萌祭 〜母なるブナの大樹のもとで〜
樹齢300年のブナの下で2つのミニコンサートと新緑を愛でるキャンプ
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出演:長岡竜介 タテヤマユキ
場所:長野県大町市郊外の雑木山
日時:5月17日(土)午後 宿泊は各自キャンプ(場所はあります)
Fee :¥1000+カンパ
問い合わせ:荒山雅行(林業家)
〒398 大町市平区海の口Tel:0261-22-2064
佐藤安紀子、向後元彦、向後紀代美、北村節子、賀曽利隆、賀曽利洋子、河田真智子、山崎禅雄、西山昭宜、山田高司、吉岡嶺二、三輪倫子、海宝道義、香川澄推、中山嘉太郎、大沢茂男、久野暢郎、高野久恵、金井重、江口浩寿、田部井淳子、森井祐介、武石礼司、梅沢政弘、岸本佳則、遊友裕、滝野沢優子、武田美佳、武田力、村田忠彦、水谷任子、西村邦雄、保木由佳、飯野昭司、小川正人、藤原謙二、石川秀樹、舟本和子、田中雄次郎、久保田賢司、在田加代子、相川八重、相川和加子、高野孝子、江本嘉伸、江本くるみ、丸山純、北川文夫、小島淳一、埜口保男、宮寺修一、杉田晴美、張替純二、森田昌弘、加世田光子、森田洋、坂下哲之、花崎洋、河村安彦、土屋守、中村柾英、池本元光、菊地敏之、金守達也、野々山富雄、松本栄一、神長幹雄、花岡正明、岩淵清、井口亘、河野昌也、古橋稔、桜井紀子、長谷川絹子、森國興、長迫幸成、本庄健男、岡田典子、斉藤晃、斉藤則子、尾浜良太、那須美智、佐々木眞紀子、長房宏治、山田まり子、出口昌哉、九里徳泰、川島好子、若木美枝、池田朋之、柴田美佳子、長田憲二、松田仁志、岸本実千代、今里好美、野々山桂、鹿内善三、坂本勉、難波賢一、中川淳、小松尾幹愛、西山佳子、野地耕治、島村智子、近山雅人、久島弘、山本千夏、斉藤政喜(敬称略)
4/28 西尾さんは、95年4月〜97年2月、日本のNGO「ムスタン地域協力開発会(MDSA)」の現地スタッフとして、世界最高所での米作りに挑戦してきました。活動の起点ジョムソンは、長らく外国から「秘境」と呼ばれていたローマンタン(91年秋開放)への入口に当たる、標高2800mの町です。 ネパールの中央部北端に位置し、人種・文化・歴史ともにチベットと縁の深いムスタンでは、デロ(ソバ掻き)、ツァンパ(ムギ焦がし)の他、ポカラから輸送してくる米が主食。川原に開田した約10aの田で、西尾さんは試行錯誤しながら新潟や北海道の稲を育てました。残念乍ら、2年とも穂はついたのに、米が稔りませんでしたが、貴重な実験結果は西尾さんの卒業論文として残ります。 今月は西尾さんをお招きし、ムスタンでの23ヶ月の見聞録を話して頂きます。乞御期待。
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