1997年3月の地平線通信



■3月の地平線通信・208号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

 みなさんおひさしぶりです。地平線の笛吹き、長岡竜介です。音楽家は、かなりの水商売で、夜と土日が忙しく、平日の昼間はけっこう暇という生活で、報告会にも行きたいのですが、なかなか時間が合いません。平日の昼間のイベントの企画あればいいのにな。

 私の吹いているケーナという笛は、アンデスの高原が故郷で、世界でも最も高い所でおこなわれている音楽のひとつです。フォルクローレといいます。

 私がケーナを始める前に凝っていたのは自転車と鉄道で、かなりのマニアだったかな。自転車で日本縦断したのは高校生の頃。鉄道はとくにローカル線の風景が好きで、日本の国鉄と私鉄あわせてだいたい乗ったことがあります。音楽も小さいときからやってみたかったのですが、ピアノは1年で挫折、フルートはなんだかいっぱい押さえるところがあってむつかしそうだし、だいいち物凄く高かった。

 そのころ、高校の図書館で「辻潤」という作家を発見し物凄く影響を受けた気がする。その人の周辺の作家を調べていると、彼の息子が「辻まこと」という絵かきで、本も何冊か出ている。神田の古本屋を捜すと『山の声』というのがあった。ケーナを始めた直接のきっかけは、どうも、この本との出会いだったような感じです。私のやりたかった音楽は、都会的な西洋音楽ではなく、自然に根ざしたもの、もっとプリミティブで、人々の生活に繋がる民族的なものだと気付かせてくれたのでしょう。それから、レコードで世界の民族音楽をいろいろと聞いてみたわけです。その中に、アンデスの一枚がありました。

 ケーナは4000メートル前後のアンデス高原の音楽の楽器だから、山岳楽器といってもいいかもしれません。小説にも山岳小説というのがあるし、写真にも山岳写真というジャンルがある。とすると、ケーナ吹いて、アンデスの山岳音楽をやっているひとは山岳音楽家かもしれない。自然のなかから生まれた、コマーシャリズムに乗らない、生命感溢れる音楽を演奏するのが仕事であれば素晴らしいだろうと考えたわけです。

 ケーナは日本の尺八と兄弟分みたいな楽器で、ちょっと細目のアマゾンの竹で出来ています。先端に、吹きぐちのエッジがUの字型に切ってあって、尺八より少し深め。指穴は尺八より多く、7個あってドレミファの西洋音階になっていて、どんな曲でも吹ける。

 やってみて分かったのは、簡単じゃないということ。ケーナはバランス感覚と職人芸の楽器かな。高音では、唇から吹きぐちが0.1mmもずれれば鳴らなくなるし、最高音の息は、100メートル先の的に矢を命中させるほどの正確さを要求される。でも、うらはらに、音には素晴らしく幅があり、あいまいなところもあって、あまりきっちりしていないところが、私としては気にいっています。

 仕事がらホテルのショーやイベント、かたっくるしいパーティーのアトラクションなどの演奏も多いですが、私の好む演奏場所は、自然の中や、へんぴな所、山の上、川原、人の来ない所、などです。思っていると不思議なもので、そういった所での仕事もあるものです。八ヶ岳の山の上でのコンサートは今年で10年目ですし、森の中というのも随分ありました。飯豊連峰下の廃校に人を集めてのコンサートや、カヌーの集まりで川原で演奏、またこの3月には、奥会津の舘岩村の古い曲り家でのコンサートや、同じく伊南村では山奥の谷に雪のステージを作って焚き火をかこんでケーナを聞く会なんていうのもあります。世の中、私と同じく、けっこう物好きな主催者も存在していることが判明しつつあります。

 今、一般的に地方の人たちが元気ですよ。全国的にあちこち演奏していてそう感じます。東京はなんとなく元気がない。自然を失って生命力も失ったのかもしれない。あしたからグループのCDのレコーディングですが、東京で録ると、勢いや生命感がなくなりそうな気がするので、奥会津の森の中のロッジをスタジオにします。出来上がりを楽しみにしていてください。[長岡竜介]





先月の報告会から

 羊と米の交際術/花田麿公さん

  1997.02.28/アジア会館


 日本とモンゴルが国交を正常化したのが1972年のことで、今年25周年。今回の報告者、花田麿公(まろひと)さんはそれより以前の1965年から外務省の対モンゴル外交官トップバッターとして、様々な面からモンゴルという国や人と付き合ってきている。

 花田さんに言わせれば外交の初めはそれこそ「冒険」。あまり情報の無い国に乗り込んで、一から外交を始めようというのだから、外交官といえど冒険のエピソードは豊富だ。馬乳酒が原因でアメーバ赤痢に感染、現地の医者も初めは信用できず二週間も苦しんだ揚げ句、結局現地の女医に診てもらい事無きを得たとか。冒険外交は最初から苦難の連続である。

 国交回復の話が一気に盛り上がったのは最初のモンゴル訪問のとき、花田さんが日本に持ち帰った日本人墓地の石がきっかけだった。ウランバートル郊外にある日本人抑留者の墓前で、いつか必ず家族を連れてきますと心に誓ったという。そして石を分けてもらった遺族の方たちからぜひ墓参団をという気運が高まり、厚生省も墓参団派遣を決定。戦中戦後の日本人抑留者問題や日本政府の賠償問題などについてモンゴル政府と活発に議論を行い、ついに1972年、大草原の国との外交関係を樹立。花田さんはまさに日本とモンゴルの国交幕開け役だったといえる。

 通算6年半にも及ぶウランバートルでの生活で常に花田さんを楽しませてくれたのは、変化がはげしくてそして美しいモンゴルの四季。その四季が乗り移ったようなモンゴルの人々のおおらかな性格とユーモアに、いつも感嘆させられているという。

 外交官といえば何か堅いイメージがするが、終始にこやかにマイペースで語っている花田さんを見ていると、堅さのかけらも感じさせない。それもモンゴルという国の風土の影響なのだろうか。

 「外交と言ってもしょせんは人と人との付き合い。手探りで、自分の手で、自分の足で」というのが持論だそうで、簡単に海外へ行ける時代にあってのこの一言は、優しい口調の中でもぴんと張り詰めて、この上ない教訓を与えられたような気がしてならなかった。[松井直彦]




■地平線ポストから
宛て先…〒173 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方


●坪井伸吾さんから…

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アフリカ(2)
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◆あぜ道をすぎ、UP、DOWNのある平原に出て少し行った時だった。何か右後方に妙な気配を感じ振り返ると、何か巨大な生き物の群がこっちに突っ込んで来ているではないか。一瞬、僕は夜道で車のライトを突然あびた猫みたいに硬直してしまった。その瞬間にそいつらはもう僕の100メートルぐらいの所まで来て微妙に角度を変え。目の前20メートルぐらいを走り抜けた。キリンだ!!と思う間もなく続いてその後ろを50匹ぐらいのシマウマやヌーやクドゥーなどが猛烈な勢いで過ぎ去った。そして群れは、50メートルぐらい離れた所で止まり、こっちの様子を窺っている。やっと余裕を取り戻して、キリンの数を数えると12匹もいた。写真を撮ろうかとも思ったが、残念だけど、この臨場感を表現できそうにないのでやっぱりやめた。こんなとき、やっぱりこの感覚を共有できる人がいるといいのにな、と思う。

◆感動の余韻に浸りながら草原を過ぎると路面は深い砂状となり、タイヤをとられ苦しんでいる頃、もうサバンナには夜の気配が忍び寄ってきていた。野宿の場所も決まらず今どこにいるのかも分からないまま、不安な気分で進んで行くと、前方に小さい村をみつけた。ああ良かった、今日はここに泊めてもらおうと思い近づくと、不思議なことに道端にこぎれいなテントがある。挨拶すると、ドイツ人のハンティングサファリのサポーターのタンザニア人たちだった。ドイツ人たちはバッファローを撃ちにブッシュに入っているので、ここで待っているという。

◆これはまさにヘミングウェイの世界だな、と思いつつ、ともかく隣にテントをはる許しを得て準備をしていると、すぐに村のガキどもが集まってきた。よく見ると遠くの方には様子を窺っているマサイの赤いマントも見えている。幸いにもタンザニア人たちは英語が話せたので、「今日は村が見つからなかったら、ブッシュで寝ようと思っていたんだ」って言うと、彼らは急に真顔になり、「とんでもない、このへんにはライオンもいるんだぞ、恐ろしいこと言うな」と怒られてしまった。さっき野生のキリンを見たばかりだというのに、なにかライオンといわれても実感がわかないのはなぜだろう。

◆「ところでおまえ、腹減ってないか、アフリカンフードならあるから食え」と言って、彼らは鹿の一種であるアンチロープの干し肉とチャイを持ってきてくれた。これが、ちょっとグロテスクでスルメイカみたいに堅いけど、なかなかいける味なので、そう言うと、彼らは大喜びして、「そうか、ならもっと食ってくれ。実はドイツ人連中は我々の料理を食べてくれないんだ。おまえはうまいって言うのか。そうか、もっと食ってくれ。ところで、おまえの名前は何て言うんだ」「伸吾だ。シンゴはスワヒリ語で首っていう意味だろう、すぐ覚えられるだろう」「ほう、よく知ってるな、オーケー、シンゴ、とりあえずここにおまえが居るということを村の連中に知ってもらっている方が無難だ。これから村の実力者たちを連れてくるから挨拶しろ」そう言って彼が連れてきた人達は、突然あらわれた外国人である僕をなんの違和感もなく受け入れてくれた。

◆すぐに地酒が用意され、赤道直下の満点の星の下、焚き火を囲んで村長たちと話していると、ナイフ一本でバッファローのアキレス腱を切れるというタンザニアのブッシュマンまで現れ、昼間の疲れも忘れるほど、その夜は最高に楽しかった。(つづく)


●渡辺京子さんから

◆こんにちは。「鬼はそと、福はそと!」と叫びながら5才の長男が豆をまき、節分を終わらせました。当分我が家には福はこないでしょう。節分の次は、ひなまつりですね。日本は季節にあわせた行事が次から次へと続くので、昔の人のゆったりとした季節の楽しみ方に頭が下がります。

◆さて、3人目が誕生してから早10ヶ月。経済的な理由で、早々と育休を切り上げ、昨年12月から特養ホームに職場復帰しました。もう旅行にはかれこれ1年以上も行っておらず、最近ムズムズムシが発生しております。

◆ところで、通信205号に山中さんが書いておりました「子連れ旅」のことですが、おたよりを読みながら、ふむふむと唸り、頭の上下運動も激しくさせ、自分たちの旅と重ね合わせてしまいました。

◆そうなんですよ、そうなのですよ。“荷物は多い”“洗濯物の量はすごい”うん、その程度なら許せますが、なんといっても我が家は頭数が多いので、旅費がかかるのが最大の悩みです。経済的になんにも問題がない家なら結構ですが…。

◆さて、今回のおたよりの本題なのですが、山中さんの二女もそうらしいのですが乗物酔いについてです。

◆私と長女は乗物酔いをしてしまいます。まだ子供がなく、ダンナと二人旅をしていた頃も旅先でけっこう乗物に関して制限があり、時間やお金のムダづかいをしていました。例えば、夜行バスはダメ。考えただけでも気持ち悪くなります。となると、昼間の移動で列車になったりします。1泊分のホテル代や交通費の差額等で損をするのですよね。

◆長女が生まれ、また旅に出たときも同じです。とにかく私よりも長女の方が弱いので大変です。ビニール袋はいつも持参。片時も気がゆるめないので、私は長女といっしょの時はとうとう乗物酔いができなくなりました。

◆ところで、地平線の皆さんで、誰ひとり乗物酔いでこまっている人の話を聞いたことがありません。実は「かくれ乗物酔い人」がいるのではないかと思うのですが、どうでしょうか? 今度そういう方々と“乗物酔いかくれ話”をしたいものです。

◆最後にこれまた通信205号に載っていた金井重さんのおたより。その中で「地平線の旅人たち」の本で「最近おもしろく読んだ本」の項目に私が「シゲさんの地球ほいほい見聞録」と書いたので、やさしいシゲさんが「よーし、ビール券をどーんと送るぞ」と書いて下さり、その通り本当にビール券をどーんと送って下さいました。シゲさんどうもありがとうございました。

◆次に江本さんに「江本さんの本を読んで、江本さんのファンになりました」とファンレターを送ったら、どーんとドッグフードが送られてくるかもしれません。ためしに誰かやってみて下さい。


●河野孝司さん・典子さんから

◆この度、地平線通信205号などがないので送って下さいといったところ、さっそく送っていただき本当にありがとうございました。ご多忙中だと思い“いつか送っていただければいいや”と思っていたので、ビックリしたのと同時に、とてもとてもとても嬉しく思いました。通信は本当に楽しいのでポストに入っているのを見つけたときから、読み終えるまでウキウキしている自分がいます。これからも大変だとは思いますが、どうかできる限り続けていって下さい。

◆「冒険」にはほど遠いのですが、月に1〜3度、登山を楽しんでいます。下関なので九州の山に登ることが多いです。山頂キャンプや冬山登山など季節に合わせて行動しています。これからも高い山、素晴らし景色を見つけると同時に、自分の人生とか、今とかを考えるような、そんな冒険がしたいと思っています。 


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『みわかずひこ 走り旅 1997年の計画書』より
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◆長年温めていた『日本縦断走り旅』を実行に移すときが来ました。昨年4月には名古屋から金沢までの「さくら道」270キロのコースを45時間で完走、10月には奥多摩山岳耐久レースで入賞、年末からの東海道・伊勢街道684キロも完走し、体の方は何とか自信ができました。

◆10年前は一日80キロを何日も走り続けることなど、まさに夢の夢でした。そのころの「東海自然歩道走り旅」の記録を読み返してみると一日平均距離は40キロで、50キロ以上走った日は1、2回しかありません。しかし今や平均75キロの距離を連続10日程度はこなせるようになりました。この年になって体力が向上したというわけではなく、走り方が分かっただけのことです。

◆10年前はまだウルトラマラソンという言葉が日本に入ってきたばかりで、実際に走っている人はごく少数でした。私も手探りでやってみたのですが、100キロという距離はまさに「恐怖」でした。しかし山登りと同じで、一回だれかが登れば、あとに続く者は気分は楽なものです。その昔、惠谷治氏の書いた「42.195キロはマラソンだが、100キロは冒険だ」という言葉は、私にとってずーと心の支えでした。ジャングル探検や、砂漠横断、秘宝探しの冒険だけでなく、100キロ以上の距離を走ることも立派な冒険であるというお墨付き、現代の冒険家の第一人者から頂いたのですから。(後略)

第一弾
日本橋→東海道・伊勢街道経由→京都
685km
完了
第二弾
京都→山陽道経由→下関
550km
3月
第三弾
北九州→阿蘇→五家荘→高千穂→佐多岬
510km
3月
第四弾
千住→白河の関→松島→平泉
550km
5月
第五弾
平泉→十和田湖→下北大間崎
450km
未定
第六弾
函館→洞爺湖→札幌→襟裳岬
540km
8月
第七弾
襟裳岬→富良野→中頓別→宗谷岬
550km
8月
合計
3835km

第二弾 計画  3月6日から13日まで

6日(木)
京都→大阪→神戸
74km
7日(金)
神戸→淡路→明石→相生
78km
8日(土)
相生→赤穂→備前→岡山
68km
9日(日)
岡山→倉敷→福山→尾道
78km
10日(月)
尾道→西条→熊野→広島
83km
11日(火)
広島→宮島→岩国→徳山
85km
12日(水)
徳山→防府→小郡→宇部
70km
13日(木)
宇部→下関→小倉
60km

第三弾 計画  3月14日から20日まで

14日(金)
小倉→香春→宝珠山→日田
83km
15日(土)
日田→小国→内牧→阿蘇
58km
16日(日)
阿蘇→杵島山→高森→蘇陽→矢部
72km
17日(月)
矢部→赤石峠→五家荘→頭地
68km
18日(火)
頭地→人吉→堀切峠→えびの高原
69km
19日(水)
高千穂原→霧島→国分→垂水
77km
20日(木)
垂水→大根占→根占→佐多岬
80km
 (注・第3弾は山の雪が融けないこともあり、延期になりました)



[3月10日現在1万円力ンパに協力してくれた人]

佐藤安紀子、向後元彦、向後紀代美、北村節子、賀曽利隆、賀曽利洋子、河田真智子、山崎禅雄、西山昭宜、山田高司、吉岡嶺二、三輪倫子、海宝道義、香川澄推、中山嘉太郎、大沢茂男、久野暢郎、高野久恵、金井重、江口浩寿、田部井淳子、森井祐介、武石礼司、梅沢政弘、岸本佳則、遊友裕、滝野沢優子、武田美佳、武田力、村田忠彦、水谷任子、西村邦雄、保木由佳、飯野昭司、小川正人、藤原謙二、石川秀樹、舟本和子、田中雄次郎、久保田賢司、在田加代子、相川八重、相川和加子、高野孝子、江本嘉伸、江本くるみ、丸山純、北川文夫、小島淳一、埜口保男、宮寺修一、杉田晴美、張替純二、森田昌弘、加世田光子、森田洋、坂下哲之、花崎洋、河村安彦、土屋守、中村柾英、池本元光、菊地敏之、金守達也、野々山富雄、松本栄一、神長幹雄、花岡正明、岩淵清、井口亘、河野昌也、古橋稔、桜井紀子、長谷川絹子、森國興、長迫幸成、本庄健男、岡田典子、斉藤晃、斉藤則子、尾浜良太、那須美智、佐々木眞紀子、長房宏治、山田まり子、出口昌哉、九里徳泰、川島好子、若木美枝、池田朋之、柴田美佳子、長田憲二、松田仁志、岸本実千代、今里好美、野々山桂、鹿内善三、坂本勉、難波賢一、中川淳、小松尾幹愛、西山佳子、野地耕治、島村智子、近山雅人、久島弘(敬称略)





■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介/イラストのなかにある手書き文字)

3/25
FRIDAY
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500



情報の枷を逃れて

「例えばカナダ北部での越冬に、スリーシーズン用シュラフを使うと言うと、『甘い』とか『無謀』とか、無茶苦茶言われるんです。でも、実際やってみた上で忠告してる人はまずいない。たいてい常識や情報を鵜呑みにしてるんですね。下準備は徹底的にした上で、道具一つにしても自分のやりたいようにやってみる方が面白いと僕は思うんです。駄目ならやめればいい。失敗だって旅の一部として面白がる。理屈はあとからついてくるんです」。
 こう話すのは田中幹也(かんや)さん(31)。95年6月から96年10月にかけて、アラスカとカナダ北部約12000kmを人力(自転車・カヌー・徒歩)で踏破し、今年1月に帰国しました。長い旅の間、たくさんの人と出会い、励まされましたが、いっぽうでオリジナリティーのない旅人や、常識にとらわれた人々からのワンパターンの忠告や質問が気になりました。
 今月は田中さんにおいで頂き、北米の旅を注進に、旅と冒険の哲学を語って頂きます。



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