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■2月の地平線通信・207号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)
●こんにちは。20世紀の最後と21世紀の始まりに居合わせるというのは、滅多にないことなんだ、と誰かが書いていた。18や19ではなく「20」というのが、他の世紀に生まれ、生き抜いた人たちには逆立ちしたってできない希有なことだという。過ぎ行く時間、という点では今日も明日も、何世紀目だって変わりはないのだが、「次の大きなしめくくりは30世紀。1000年に1度のことなんだからやはり大変なのだ」と言われると、へえそうか、という気もしてくる。
●1900年、つまり明治33年の1月2、3日付け「報知新聞」(いまのスポーツ芸能紙の前身で一般紙だった)に「100年後の日本」の予想というのが出ている。「馬車がなくなり、自動車が普及する」「高速列車ができる」「高等教育が普及する」などは、まさにその通りとなったが、「遠くにいる相手の顔を見ながら話ができる装置が普及する」は、まだほんの一部でしか実現していないし、「犬や猫と話ができるようになる」なんていうのは、新世紀への期待過剰だったようだ。これを予測した記者は「本当のところ百年後にどんなことが起きるのかは全くわからない」と率直な感慨を記しているが、大筋の流れではそんなに間違っていないことに感心する。
●で、問題。30世紀、つまり千年後の日本の状況がどうなっているか、事柄別に「Yes」「No」を。
(解答は30世紀までお預けです)
●そんなわけで、今年もいろいろやってみたい。まず目下は「写真展・地平線の旅人たち」を企画、進行中であることをお知らせします。昨年発行した「地平線の旅人たち」(窓社刊)がきっかけで是非、と声がかかり、もともと昨年から写真展の話は出ていたので、世話人たちと相談してやってみよう、と決めました。
●詳しいことは追ってお知らせしますが、できれば、東京だけでなく日本列島を舞台に展開したいので、その際は地方在住の方々もよろしくご協力を。この件は美術展を手がけてきた「ノブリカ」という、ご夫婦でやっている小さな事務所と協力して進めていますのでご了解下さい。
●全然別の話。この冬、学生と二人、北アルプス大天井岳を登ったとき、森林限界の雪の中に張ったテントを深夜二時頃、ガサガサと揺する音に驚愕した。そこは我々のほか誰もいる筈のない場所だった上、ガサガサは二度、三度と続いたので。テントの中には汁粉用のアンコ、鯛焼き、コロッケなどのおいしい食料があり、もしや空腹で冬眠できない熊だったら、と一瞬緊張したが、思い切って外に出ても誰もいない。足跡からどうやら鹿が角でテントをつついたのでは、と推測されたが、正月早々おいしいものを持ちすぎたため、肝を冷やしたことであった。[江本嘉伸]
●もう20年も前か、18歳の私は図書館で一冊の本に出会った−−『アフリカよ』。あの、読んでいる時の、心を突き上げられるような思いは今も忘れられない。
●17でアフリカ行きを決め、一日2時間の睡眠以外を全てバイトに費やし資金を貯め、灼熱のアフリカを、人々の優しさに触れながら、ギラギラと進んでいく二十歳の魂がそこにはあった。まだ1960年代。驚くことは、その人、賀曽利隆さんのエネルギーはその後30年間、一秒たりとも衰えていないことだ。
●不肖私もカソリック信者になり、20代の前半、サハラにオーストラリアの砂漠にバイクを走らせた。だが、カソリックの教えは厳しかった。
●その1。『テント持つべからず』。オーストラリアの砂漠で予想外の暴風雨が襲ってきた。万が一にと持参していたツェルト(簡易テント)を設営し、ツェルトのポールを握り締めながら私は夜をあかした。
●その2。『主食は米、おかずは塩と景色』。アフリカは行く先々でメシをご馳走になるからいい。オーストラリアでこれを実行した。確かに塩かけメシはうまい。しかし、これを三日ほど続けたある日、米を炊いている時に腹から胸にかけて熱いモノが込み上げてきた。「う、胸焼けだ!」。胸焼けの体に米はつらい。私はすぐさま100キロ先の果物屋へと向かった。青空の中で教祖の顔が笑っていた。
●その3。『文章の最後は「ゾーッ!!」で締める』。これは恥ずかしくてできないゾーッ!!。
●結局、私はカソリックを破門された。だが教祖の賀曽利さんは、御歳49にしても、これを貫いている。うーん…。
●今回の旅は賀曽利さんにとって23年ぶりのオーストラリア。出会う日本人ライダーたちは、ほぼ23年前の賀曽利さんくらいの年ではないだろうか。その若いライダーたちが賀曽利さんよりもハードな旅をしているかと問えば、足元にも及ばないだろう。
●2週で7万2千キロという距離もそうだが、例えば何気なく話してくれた「シンプソン砂漠横断」にしても、あれは本当に大変なルートだ。恥ずかしながら、当時23の私はあのルートだけは諦めた。何せ地図に道らしい道は載っていない。現地に行っても標識らしき物も車の轍すらない。
●賀曽利さんが他の人よりも強いのは、「行きたい!」という願望と「行くゾーッ!!」という元気と「何とかなるよ!」という気楽さの三点セットである。でなかったら、アデレードからダーウィンまでの3200キロ一気走りなんてバカをやれるはずがない。
●そしてもう一つ。徹底的に「人間が好き」なのだ。私の場合はどうしても人間に好き嫌いがある。気に入った人間とは仲良くし、そうでない人間とは付き合わない。それが普通かとは思うが、賀曽利さんはその目に入る人間全てを好きになってしまう。みんないい人なのだ。初めて会う人でもほんの1分で誰でも友達にしてしまう。この点で私はカソリック失格である。
●質問への答弁で、賀曽利さんは「南極へは行かない」と言った。冒険には興味はない。あくまでも、人のいるところが好きなのだ。「国境通過に賄賂は使わない」とも言った。賄賂をねだるような役人でも、その人を同じ人間として接し、友人にしてしまうことで国境を抜ける。「人間を好きになりきる旅人」としては、今後100年くらい日本からこういう人はもう、金井シゲさんを除いては、出てこないかもしれない。
●それでも、賀曽利さんが唯一、顔をしかめる人間がいる。元巨人軍の江川卓である。−−「江川はとんでもないですよ!」。だのに、なぜか賀曽利さんは読売新聞を取り続け、巨人ファンなのである。また皮肉なことに、賀曽利さんの耳と江川の耳は似ているのである。このへんが、弁慶の泣き所なのだろう。
●さて、間もなく50代に突入する賀曽利さんは、アフリカ縦断、中国、シベリア、中央アジア…と終わりなき旅を続けたいと語る。たぶんやってしまうだろう。今回の報告会は、20代だけ元気がよくて、落ち着いてしまう我ら30代へのゲキだと受けとめたい。地平線の20代、30代の皆さん、50代のカソリに負けていられないゾーッ!!。[樫田秀樹]
自分がたいして善人でないことを棚に上げて言うのだが、世の中にはけっこう悪いやつが多い。今、わが家にいる猫は、去年うちの前のゴミ捨て場に捨てられていた。6月になっていたとはいえ、前夜に降った雨で梅雨寒の朝だった。幸いなことにその日は、8時半から授業のある日で、早起きしてきっちりゴミだしができた。そうじゃなければ、私は彼らに会えなかったし、彼らはゴミ収集車の中で、生まれたての命を落としていたはずだ。
山と積まれたゴミ袋のどこからか、ミューミューいう音を聞いた時には、それが猫の鳴き声とはわからなかった。でも、燃えるゴミや生ゴミがそんな音をたてるはずがない。耳をすませ、音の出所に近付いてみた。近所のスーパーのポリ袋がかすかに揺らいで、中から確かに猫の赤子とおぼしき声がしている。取っ手の部分は結んであったから中身は見えなかったが、確実だった。誰かが猫を捨てたのだ。いや、これはただ単に「捨てられちゃったのね」という言葉では収まりがつかない。男に捨てられる、女に捨てられる、世の中いろんな捨てられ方があるんだろうけど、こんなひどいやりかたがあるもんか。子猫たちは生きたまま、生ゴミにされたのだ。あと10分もすれば、いつものようにゴミ収集車がやって来て、あのガアーっていうギザギザの大きな口に放り込まれて、跡形もなくつぶされてしまう。そうなることを承知でやったのだ。おそらく捨てた人間はつゆほどの痛みも感じていないに違いない。
猛烈に腹が立った。いろんな意味で頭に来た。「なんで私の前でこんなことがおきるのよ。」「私にどうしろっていうのよ。」…朝っぱらからこんなひどい場面に出くわしたわが身の不運を心の内で嘆いた。本当のことを言えば、このまま何も見なかったことに、聞かなかったことにしようとも思った。でもできなかった。家に引き返してまだ寝ている夫を起こしてことを告げると、「大変だ」と言って寝巻のまま飛び出していった。そしてポリ袋の口を開いて中を確認すると、すぐに家に持ち帰ったのだ。
子猫は4匹、生後1〜2日だったと思う。羊水だろうか、毛が汚物にまみれて濡れていた。その日から、思いもよらぬ子育てが始まった。近所の獣医さんからは、「成功する確率は低いですよ」と言われたが、とにかく教えを請うて必至になってやった。ダンボールの家を作り、ジャムの空きびんを湯たんぽにし、4〜5時間おきに猫用の粉ミルクを溶いて哺乳びんで飲ませた。授乳の前後には肛門をマッサージし、排泄をさせてやらなければならなかった。糞がつまって、どうしようもなくなって、人間の赤ちゃん用のかん腸を使って出したこともあった。寝不足で目がまわりそうだったが、ミルクをたくさん飲んだとか、うんちがちゃんと出たとか、そんなどうでもいいようなことに感動してる毎日が面白かった。体重100g、体長12cmほどの、無力な赤子は、10日後には目を開け、3週間後には離乳食を食べ始めた。
あれから8か月、4匹の兄弟のうち2匹は里子に出し、家には「ひいらぎ」♂と「むぎ」♀という2匹が残った。あっという間に大きくなり、生意気にも初めての恋の季節を迎えようとしている。その旺盛な生命力が愛しくもあり、悩みの種でもある。
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アフリカ(1)
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◆95年11月、キリマンジャロで軽い雪盲になった目を、麓の町MOSHIで癒し、以前ナイロビで会った日本人のバイクカップルに勧められたタンザニア北西部に広がる草原、マサイステップを走ってみることにした。でも勧めた本人たちも、おもしろいと聞いただけで、何がどうおもしろいのか、道はちゃんとあるのかという肝心のことは全くわからないらしい、まーいーか、マサイステップって響きなんかおもしろそうだ。
◆MOSHIとARUSHAの中間地点あたりで地元の人に聞いて、マサイステップへの入口らしい道を南下すると、すぐに予想どうり楽しいダートとなる。思ったより人が歩いているのでのんびり進んでいると、昼頃少し大きなマサイ族の村に出た。こんな所にラッキーにもガソリンがあったので満タンにして、予備10リットルにも入れておく(悲しいことに僕のTTRは燃費が悪いのだ)。この村にはなんとバイクに乗っているマサイもいて、赤いマントを翻したマサイライダーはなんともカッコイイ。
◆しかし、その村を出ると道は急に道でなくなった。村の出口に洋服を着たマサイがいたので方角を聞いてそのとうりに行くと、道らしき物はそこらじゅうで分岐しまくり、やがて何がなんだか分からないうちに山の中でそれは消えていた。ふと嫌な予感がして振り返ると道と思っていたものは何もなく、ただ前は山、後ろには斜面に広がったブッシュがあるばかり。あいたー、やってしもた、さてどうしようか。意味もなく動くと、もっと状況は悪くなるだろうし、かといってじっとしてても事態は変わらない。赤い地面を睨んで唸っていると暑くて頭が痛くなってきたので、顔を上げ眼下に広がる赤い荒野と、その先にある丸い雲いっぱいの青い青い空を見ると、なんだかほっとした。
◆そうだよな、焦っても仕方ないんだ、まー冷静に状況を見てみようか。とりあえず頭が働くよう水を飲んでパンをかじる。ガソリンは多分いける、でも水は1リットルもなしか、何とか元のルートに出られないと、野宿になると苦しいな。そう思いながらその辺を歩き回ると、自分のワダチがうっすらと残っていたのでゆっくりその跡を辿ると、元の道らしき場所に出た。ああよかった、今度からは気をつけよう、と思っていたものの、分岐は際限なく現れ、その度に間違いを繰り返した結果、もう南を向いている方が正しいと勝手に決めこみ進むことにした。しかし、さすがマサイステップというだけあり、ここにも人の気配がありギャートルズみたいに足跡だけが道の上に続いている。
とにかく足跡の先には人がいるはずなので、今度は足跡をたよりに進んで行くと、いきなり広い道にでた。どうやらこれがARUSHAの方から入って来るもう一方の道らしく、少し進んだ集落にはバスまで来ている。この道を来るとこんなに苦労は入らなかったようだ。そこから道は岩石地帯の山道となり、それを越えると今度はなんと畑のあぜ道になる。本当にこれでいいんだろうか、全く呆れるほど変化に富んだルートだ。(つづく)
●頒布価格は、Part 1(写真編)が700円、Part 2(イラスト編)は1月分が1日しか使えなくなってしまったので、600円に値下げしました。送料は、1個=190円、2個〜4個270円。郵便振替で、下記まで。よろしくお願いします。 口座番号:00120-1-730508 加入者名:地平線会議・プロダクトハウス●写真編もイラスト編も、もう在庫はまったくありません。手にできなかった方、ごめんなさい。どうぞ来年に期待してください。
●それから、『地平線データブック・DAS』の会計を担当してくれている新井君が、4月上旬までタイやラオスに出かけて留守になります。そのあいだの『DAS』申し込みも、上記「プロダクトハウス」で一時的に受け付けることにしました。(丸山)
佐藤安紀子、向後元彦、向後紀代美、北村節子、賀曽利隆、賀曽利洋子、河田真智子、山崎禅雄、西山昭宜、山田高司、吉岡嶺二、三輪倫子、海宝道義、香川澄推、中山嘉太郎、大沢茂男、久野暢郎、高野久恵、金井重、江口浩寿、田部井淳子、森井祐介、武石礼司、梅沢政弘、岸本佳則、遊友裕、滝野沢優子、武田美佳、武田力、村田忠彦、水谷任子、西村邦雄、保木由佳、飯野昭司、小川正人、藤原謙二、石川秀樹、舟本和子、田中雄次郎、久保田賢司、在田加代子、相川八重、相川和加子、高野孝子、江本嘉伸、江本くるみ、丸山純、北川文夫、小島淳一、埜口保男、宮寺修一、杉田晴美、張替純二、森田昌弘、加世田光子、森田洋、坂下哲之、花崎洋、河村安彦、土屋守、中村柾英、池本元光、菊地敏之、金守達也、野々山富雄、松本栄一、神長幹雄、花岡正明、岩淵清、井口亘、河野昌也、古橋稔、桜井紀子、長谷川絹子、森國興、長迫幸成、本庄健男、岡田典子、斉藤晃、斉藤則子、尾浜良太、那須美智、佐々木眞紀子、長房宏治、山田まり子、出口昌哉、九里徳泰、川島好子、若木美枝、池田朋之、柴田美佳子、長田憲二、松田仁志、岸本実千代、今里好美、野々山桂、鹿内善三、坂本勉、難波賢一、中川淳、小松尾幹愛、西山佳子、野地耕治、島村智子、近山雅人(敬称略)
2/28 「例えば、首都ウランバートルの現代建築は日本人捕虜が作ったものが多いとか、スターリン主義下、日本人のスパイ容疑で多くのモンゴル人が殺されたとか、日本近代史のアカギレみたいなものが、いろいろあるんです」と話すのは、外務省のモンゴル専門家の花田麿公さん(58)。国交樹立以前から、両国の橋渡し役として尽力しています。 高校生の時に「元」の歴史に魅せられて依頼のモンゴルフリーク。「遊牧民と濃厚民。文化も越えて、義兄弟のようになれる民族同士なんですよ。それと、あの草の香り。不思議なくらいなつかしい匂いです」と花田さん。 今月は花田さんにおいで頂き、日本×モンゴル交際秘話を語って頂きます。今までになくユニークな報告会になります。乞御期待。 |
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