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■12月の地平線通信・205号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)
1983年の3月、パキスタンのチトラルに住むカラーシャ族の村に滞在して3ヵ月が過ぎた頃、父から2通手紙が届いた。父が手紙をくれるなんて、どうしたんだろう。さっそく封を切って読みはじめたが、「無事退院したから心配しないで……」とある。あれれと思ってもう1通のほうを見ると、そっちが1ヵ月前に投函した分で、母が心臓病で入院することになったと書かれていた。入院と退院を知らせる手紙が同時に届き、しかもそれを逆に読んだのだ。
12月の末から5月の中旬まで、途中の峠が雪で閉ざされるため、チトラル地方は完全に陸の孤島になってしまう。パキスタン航空の国内便が毎日ペシャワールとを結んでいるのだが、悪天候や強風のせいでフライトキャンセルが続き、3週間ちかく飛行機がやってこないこともめずらしくない。おまけに、当時はまだジープ道が完成していなかったので、飛脚のおじいさんが丸木橋をいくつも越えて、近くの村から半日がかりで手紙を運んできていた。
もし入院の知らせが届いたまま、ずっとなにも連絡がなかったら、いったいどんな気分におちいっていただろうか。「冠状動脈の狭窄が75%」などという文字を見ていると、親不孝だなと思いながらも、最初の手紙が遅れて届いたことの偶然に感謝せずにはいられなかった。
20代の後半に数ヵ月ずつ日本と行ったり来たりしていた時期を除いて、私の意識のなかでは、やはりチトラルはとても遠いところにある。日本から送った手紙も行方不明になってしまうことが少なくないし、そもそもカラーシャ語には文字がないので、ごく一部の教育を受けた青年以外とは、手紙のやりとりもままならない。東京に戻って2週間もすると、電気もガスもない、昔ながらの半農半牧の生活が、まるで夢の中の体験のように思えてくる。
だから、2ヵ月ていどの予定で出かけるときでさえ、どうしても構えてしまうことになる。「今年は出かけます」と年賀状で宣言して自分を追い込んでおいてから、仕事を空ける努力をし、留守中の家賃や帰国直後の生活費を用意し、冷蔵庫を空っぽにし(妻もいっしょに行くので)、無文字社会でしばらく暮らすために頭のスイッチをパチンと切り換える準備を整えて、ようやく出発できるのだ。
ところが、最近は勝手が少し変わってきた。村に行くとまず聞かされるのが、援助の金をだれがピンハネしたかとか、役人の腐敗ぶりとか、日本で毎日うんざりするほど接しているのと同種の話である。
さらにチトラルの町では電話のシステムが改善され、国内へは交換台を通さずにダイヤルできるようになった。国際電話はまだ申し込んでから数時間待たされるが、こちらからかけると、イスラマバードやペシャワール以上に、きれいにつながってしまう。おかげで妻が世話になっている旧チトラル王家の人たちとはちょくちょく話をしているが、受話器の向こうでは、ちょうど家族が集まって、国境を越えて届く衛星放送を見ているところだったりする。
さすがにカラーシャの村まではまだ電話線は行っていないのだが、町のホテルにファクスを送ると、所用で町に出てきただれかが、届けてくれるようにもなった。目の前でずるずると吸い込まれていく手紙が、この瞬間、チトラルのファクスから吐き出されているのだと思うと、なんだか不思議な気分になる。
きわめつけは電子メールだ。外国の言語学者の手伝いのためにイスラマバードにときどき出てきている青年が、自分でコンピュータを操作してメールを送ってくる。村は相変わらず無文字社会のままだというのに、発音をそのままアルファベットに置き換えたカラーシャ語が、インターネット経由を経由していきなり私のマックに飛び込んでくるのだ。地球はたしかに狭くなったが、世界のすみずみまでがネットワークにつながることで、よりいっそう、同じ時代を生きているというリアルタイム感覚が増してきたように思う。
街主体に旅をしてきた人たちは20年も前からこんな事態を体験していたのだろうが、私の場合、ささやかながらも「秘境に出かけるエクスペディション」のつもりでこの18年以上やってきたので、ショックが大きいようだ。このあたりで意識改革をしなければ、旅に出られなくなりそうな気さえしている。(丸山純)
◆『子連れ』『バックパック』『トスカーナ』『3週間』の旅に来ています。皆さんのような『冒険』ではないのですが同じような『子連れ』の悩みをもつ方も多いかと思いペンをとりました。3歳と5歳(もうすぐ4歳と6歳になります)の女の子2人を連れての旅行。荷物は多くなるし、洗濯もマメにやらなければならないし、おまけに下の子は車に酔うので長い移動はできないし…。でも、なんというかとてもいいペースです。午後は必ずヒルネか読書ののんびりした時間をもち、夜も10時には寝てしまう生活ですが、その分朝早く目覚めるのでトスカーナの朝焼け、夕焼けを毎日見ています。田舎にあるアグルツリズモにはキッチン付のところが多く、狭い我が家よりずっと快適で、子供たちも外で放し飼い(?)にできます。この旅で上の子はスケッチブック1冊分のスケッチをしました。 …トスカーナのモンタルチーノ近郊にて
◆地平線通信をいつも有りがとうございます。「地平線の旅人たち」「地平線データブック・DAS」を楽しく愛読させてもらっております。人間を59年間やっておりますが、人は年をとると段々好奇心が無くなったりうすれたりするものだと、私本人が実感として体験しております。この様な時に中途半端な年令のおじさんには「地平線の旅人たち」「DAS」は何よりの刺戟薬となりました。感謝しております。「人は歳月を重ねたから老いるのではない。冒険心を失うとき老いるのである」
◆地平線会議の皆さん、こんにちは。お元気ですか。ぼくは「オーストラリア50000計画」をすべて走り終えて、11月15日に帰ってきました。計画ではオーストラリアを2周し、全行程が5万キロ、そのうちダートが1万キロというものでしたが、実際には、それを大幅に上回り、全行程7万2000キロ(そのうち、ダートは1万6000キロ)、地球2周分に及ぼうかという距離を250ccのオフロードバイク、スズキDJEBEL250XCで走ってきました。
◆7万2000キロのうち、3分の1の2万数千キロがナイトランでした。そのため、頻繁にカンガルーと出会い、その回数は100回を越えました。内陸のヒューエンデンという町に向かう250キロあまりのダートコースでは、夕日が地平線に沈んでから2時間ほどの間に、全部で17回ものカンガルーの飛び込みがありました。
◆一番強烈だったのは、右から2頭、左から1頭のカンガルーが、同時にバイクのヘッドライトをめがけて飛び込んできたときです。3頭のカンガルーは交差してジャンプしたのですが、そのうち1頭が、なんと真上に飛び上がったのです。「ヤッター!」
◆と、まさに心臓が凍りつくような思いでしたが、からくも体を伏せ、その下を走り抜けていくことができました。そのほか、走行車線上に座っていたカンガルーやフェイントをかけたカンガルー、Uターンしたカンガルーと、命の縮むような思いを何度かしましたが、幸いにもカンガルーとのクラッシュは、一度もありませんでした。で、オーストラリアでは、ラッキー・ターキー(タカシからきているぼくのニックネーム)とか、カミカゼ・ターキーといわれました。
◆ぼくにとってオーストラリア一周は、23年ぶりのことになります。1973年にオーストラリア一周したときも、やはり、大陸を2周しました。そのときは、最初の1周がヒッチハイクで、2度目の一周がバイクでした。今回の大陸2周の発想も、23年前のオーストラリア一周が、大きく影響しています。それだけではありません。23年前の旅が鮮やかによみがえり、23年前のカソリタカシを随分と意識しました。当時、25歳、体力絶頂のカソリをライバル視し、パワーでもって、その25歳のカソリをねじ伏せてやろうとしたのが、今回のオーストラリアでした。その結果は、って? もちろん、グーの音もでないほどに、ねじ伏せてやりましたよ。これができたというのも、50歳を過ぎても、体力のみ(失礼!)というE氏やM氏のような地平線の諸先輩がいるおかげ。ありがたいことです。(賀曽利隆)
1冊に134冊 この珍本の名前は? パートI
◆地平線のみなさん、こんにちは。今日は午後から雨になってしまった。シゲはおもむろに、窓社発行の1冊をひもとく。すでに本文は7月に読んでしまったので、今日は下段の「私のとっておきデータ」の[4]「最近おもしろく読んだ本」を拾い読みする。時々本文の人物と照合し、怪しげに頷く。
◆うーん。みんな真面目にちゃんと書いてるなー。なんと134冊もある。さてさてこのうちシゲが読んだ本は9冊、これで「晴遊雨読」とは、ザンキの念で134冊を眺めていたら、お!シゲさんの地球ほいほい見聞録もあるではないか。誰?この奇特な方。あ、あの3人子持ちの若いかあちゃんだ。嬉しいねー。と舞い上がり、「よーしビール券どーんと送るぞ」と心に誓うのでありました。
キコキコと自転車をこぐ小春みち
◆おわかりでしょうね、この名句。シゲ・シゲ(行け行け)図書館なのです。浦和図書館の在庫は120冊、シゲが用意したリストは次の3枚。
2. 著者が複数
辺見庸、沢木耕太郎=各3冊、立花隆、吉林昭、クリシュナルムテイ=各2冊
3. シゲが選んだ本
サハラに死す、真言秘密行法、ひみつつたえふみ
◆上のリストのうち、3は残念ながら3冊とも在庫なし。1のうち森の回廊とTAOは貸し出し中。そう、それじゃあとりあえず脳内革命でいくか。「それも貸し出し中で、予約者は128名です」
◆えっ!138名、驚き桃ノ木サンショの木。さすが情報化時代だねー。人が読むものだけ、人は読みたがるのだ。ああ恐ろしい。(以下次号)
のっけから私ごとで恐縮だが、私が初めてひとり旅をしたのは小学5年生の時だった。なにかの時の電話代30円をポケットに入れて、神戸から淡路島一周の貧乏旅行だった。思い起こせば、三十数年前、この時心の中に宿った“小さな旅ごころ”は、その後私のなかで生息をし続け、私の人生までを決定づけてしまったのである。旅ごころとは、私にとってやっかいな魔物のようなものである。頭やこころのなかで、静かに眠っているうちは仲のいい友達であるが、いつしか魔物は体内で成長して居たたまれなくなって体外へ飛びだしてくる。しかも、魔物は周期的にやってきては、その都度数倍、数十倍に大きく育ち、むしろ私の向上心とやらをかき立てるから始末におえないのである。
この魔物を保存しようと同好の諸氏が集まって結成したのが「地平線会議」である。資格なし、会則なし、会費なし、議長なしと得体の知れない「地平線会議」が誕生したのは1979年のことである。そして結成以来、東京青山のアジア会館の小さな会議室で毎月一回、旅人が手弁当でかけつけ報告をすることに決めた。いわば魔物の報告会が200回を重ねて、その記念にこれまでの報告を活字にしたのが「地平線の旅人たち」(地平線会議編)である。「地平線の旅人たち」は、選ばれた冒険者や探検家たちではない。ふつうの旅人たちの旅の記憶と記録をひとり840字を原則とした、たった1ページの地球体験記である。サブタイトルは「201人目のチャレンジャーへ」と、この報告会が永遠に続くことを約束している。報告会が始まったのは1979年9月、200人目の報告者は96年6月だった。この18年間をふり返ると、日本人がこれほど世界を旅したことは歴史上ない。世紀末を日本人はどのように旅しているか。本書は200人の旅人の地球体験のドキュメントと同時に、旅ごころの魔物にとりつかれた200人の旅人たちの自分史でもある。魔物にとりつかれた旅人よ、その永久保存法を、この一冊がご指南いたします。(森田靖郎)
91年10月に隊長の大西宏さんがナムチャバルワ峰で遭難死した後も、副隊長となって計画を進めていった。隊長を亡くしたことでスポンサー集めに苦労することになるが、実際には「なんとかなる」と楽観的だった。
そして、グリーンランドの合宿に出かける段階になって、会社に話さなければいけなくなった。会社が終わって何度か飲みに出かけるもののなかなか切り出せず、けっきょく日曜日に上司に電話をして今回の計画を告げた。
いったんは退職を覚悟したものの、長期休暇制度を導入する会社が多くなってきたこともあり、サッポロビールで「フロンティア休暇制度」を作ることになる。松原さんはこの第1号となって、無事にグリーンランドに出発することができた。
南極大陸では、起きて、歩いて、食べて、寝るという日々が続いた。単調な毎日のなかで、松原さんは空想の世界に遊んだ。余分な情報がないぶん、飽きるまで空想ができた。
環境調査を兼ねた南極点の徒歩到達を終えて帰国し、1年2か月ぶりに会社に復帰する。「会社への恩返し」と思って仕事に挑むが、以前のような調子が出ない。どうも調子が違うのだ。しだいに仕事がおもしろくなくなり、週末に山へ出かけられるのを待つようになる。
そんなときに、マカルーの公募隊の募集を耳にする。学生時代に山岳部在籍していたことから、いずれは8000m峰の世界に挑戦したいと思っていた。復帰してから1年9か月しか経っていなかったが、今度は会社を辞める気持ちは決まっていた。ただ、それを言いだすきっかけがつかめない。ようやくマカルー遠征の話を切り出したところ、会社の人たちは好意的に見送ってくれた。
マカルーの登頂はチベット側からのかなり険しい未踏ルートだったが、少しずつ慎重に進みながら、ようやく頂上に立つことに成功した。10年間の夢だった8000m峰に立てたことや、亡・大西宏さんも立った頂上であることから、自然に涙があふれてきた。
次に、95年の秋にカンチェンジュンガの遠征に出かける。ちょうど、2番目の“8000m峰14座登頂”を競っていたときで、一人は遭難死、一人は登頂に成功というニュースを耳にする。
松原さんは死と生の境が身近にあることを実感しながら頂上を目指した。無酸素登頂だったこともあって、8400m地点でこれ以上進めないと思う。けっきょく第1アタックの後は天候が悪くなって、そのまま撤退することになった。松原さんは、「自分が言いだしたのが情けない」と思う一方で、「死がすぐ先にあるような感じだった」とも言う。
そして翌年8月にK2の登頂に成功する。難しい山だったことに重ねて、メンバー間の人間関係にも気を遣ったことが、更にうれしい登頂になった。「マカルーに続いてうれしかった。涙が出てきた」と松原さんは話す。
現在、松原さんは登山ガイドやメーカーのアドバイザーをしながら、好きな登山を続けている。大学を出たときはこの世界に飛び込む勇気はなかったが、南極がきっかけになって夢が実現した。小学校のころにトムソーヤやロビンソンクルーソーを愛読していた松原さんにとって、何かのきっかけがあればよかったのだろう。
カンチェンジュンガで生と死の境を実感した松原さんは、しばらくはヒマラヤに通いたいという。ヒマラヤの8000mの世界では、おそらく「生きていること」を強く実感できるのだろう。
「心も自由にして、本当にやりたい事だけをやれる状態にしたい。それが登山をしている理由かもしれません」
自分の人生を、後悔しないように送りたい。だれでも思っていることだが、それを実践していく人はあまりいない。生が輝く場所は、手を伸ばせばすぐそこにあるのかもしれない。(新井由己)
12/27の報告会めざして、フロッピーディスクサイズの「地平線カレンダー'97」の制作が進行中です。〈Aタイプ〉は、地平線を代表する行動者12人が各月を担当する「写真編」。〈Bタイプ〉は、長野亮之介の手描きイラストによる「旅の絵本編」。
どちらも限定10 0部しか刷りません。すでにかなり予約が入っていますので、お申し込みはお早めに(A/Bの区別をして郵便か葉書で・〒271 千葉県松戸市西馬橋1-10-3 武田力方「地平線カレンダー係」まで)。価格は各700円(予価・送料別)。お支払い方法など詳細は、カレンダーの発送時にお知らせします。
◆今年は7月大集会、8月神戸集会と地平線会議としては大イベントがあったため、問い合わせも多く、通信の発送が3割増しになってしまいました。
◆家内工業での発送作業は500部が限度で、それ以上になったら企業化しなければ対応できません。地平線会議はまだまだこの先、手工業でやるつもりなので、通信を500部程度にしたいと思っています。もちろん通信費・カンパを下さった方、労力提供して下さった方には送り続けますが、ここ数年間連絡が途絶えた人は通信をストップしようと思っています。しばらく連絡をしていなかった方で、まだ通信が必要な方は、何らかの連絡を下さい。年明けに Wantedをもう一度やりますので、ご了承下さい。明年もまたよろしくお願いします。[三輪主彦]
12/27 早速2月10日から撮影開始。校庭に張ったテントで準避難所暮らしをし、報道的取材はせず、住民の視点から起きたことを淡々と記録するという原則方針で、12月まで11ヵ月。後半は東京から通いながらの長いロケを経て完成した映画が、「すきやねん、この町が」です。 製作・三好亜矢子、撮影・金沢祐司、録音・大野夏郎、監督・製作・山田和也と、一応職責分担はしていましたが、現場では全員が監督でした。「2つの事が印象に残りました。まず避難所の人達がすばらしいかったこと。もう1つは、再開発の実態です。人々の絆は断ち切られ、血の通わない入れ物だけの町が作られています」と山田さん。今月はスタッフ4人をお招きして、「すきやねん、この町が」を一部上映しながら、神戸の2年間について報告して頂きます。 |
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