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■11月の地平線通信・204号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)
急に寒くなりました。街の匂いや色に、冬を感じ始めます。こんな季節には、つい一年を振り返ってみたくなりますが、来年に向けて新しいことに目を向けてみるのもいいかもしれません。
私はこれまでずっと「色」に興味を持っていました。これまでは民族衣装の色や、象徴としての色、色が精神におよぼす影響、なんてことを考えて楽しんでいました。あるきっかけで、光とは何か、目はどういう構造になっているのか、色は測定できるのか、といった苦手でたまらなかった物理学、生物学からみた「色」に接する機会を持ちました。
これがなかなか新鮮でおもしろく、ますます「色」にこだわることになってしまいそうな気配です。なかでも注目しているのは、日本列島をいくつかのエリアに分けて、風土ごとに色彩感覚に違いがあるとした説です。気温や湿度、日照時間が異なることで、色の見え方に違いがあるというのは私も感じていましたが、統計や地形、それぞれの風土で生まれた文化の特徴をあげての説明で、それまで感じていた疑問がすっと解けていったようで感動してしまいました。(だまされやすいのかもしれませんが)
というのも、数年前に始めた染織で、自分の中に蓄積されていた黄色から赤にかけての暖色の存在に気づき、驚いていたのです。青や緑が好みだったはずなのに、モノ作りをしてみると寒色に対しての感度が悪く、微妙な色が出せません。
それに反して、暖色は作品のイメージが湧いてきて、感度もそう悪くないようです。生まれ育った土地の色が作品に出るという話を開き、故郷である寒い飛騨地方のいったいどこに暖かい色が潜んでいたんだろうと考えあぐねていたところだったのです。
風土説によると飛騨地方は緯度の関係でもともと赤みを帯びた自然光がさしていて、さらに日本アルプスによっておこされる反射により、同緯度の土地より黄色みを帯びた光が充満しやすい地形とのこと。また、冬には低くたれ込める雲のシェードのかかった自然光になるということ。私自身が感じている自分の作品イメージにあまりにもピッタリで、自分の素直さに笑ってしまいました。来年2月にグループ展を開きますので、ぜひ確かめにいらして下さい。
江戸時代に、茶色と鼠色を「四十八茶百鼠」といって微妙な差異で色分けして名づけていました。素晴らしい文化だと思っていましたが、風土色の話にとりつかれてからは、様々な土地で育ち、色彩に関して異なった感度をもった人々が江戸という大都市に集まって来たからこそ生まれることが可能になった文化であり、社会現象だったのではないかと考えるようになりました。色彩感覚が文化を作ったのです。
現代の日本人は、高照度の照明器具の中で暮らしています。高照度の中での視覚は明るい色、淡い色への感覚が鋭くなっていくそうです。高明度系統色を強く感じる能力が高まっていくのは、宇宙人ぽくて、それもまたおもしろいけれど、人工光の元での生活時間が増え、地域差のある自然光の中で過ごすことが少なくなっていくことで、日本人の視覚、色彩感覚が均一化されてしまうのではないかと恐れています。(自分自身を含めて)陰影の中で濁色系の中間色に微妙なニュアンスを見分けられるような感度を保てる生活に憧れている私です。
新たに行動を起こしたり、別の視点で物事を見ることになることで、それまで知らなかった自分に気づくことがあります。それは決して、いつも好ましい自分との出会いになる訳ではないけれど、様々な自分に会えるようになるのはとても愉快なことだと、考えられるようになってきました。そのためにも、五感をしなやかに保ち、小さなきっかけにも敏感に反応していける人間でありたいと願っている今日この頃です。[夢見る染織家 中畑朋子]
それから長い年月が流れ、旅先のドイツで学生下宿に居候していたある日、異国の犬を相手に私は再実験を思いついた。ところが、その愛玩犬は完全にパニックに陥ってしまい、最後には飼い主の学生のベッドの上で、オシッコを垂れてしまった。私は慌ててシーツを干し、ベッドマットを裏返して証拠隠滅を謀ったが、ミミの結果と比較して、内心はまんざらでもなかった。
ローレンツも書いているように、犬や猫たちと過ごす素晴らしい日々の代償に、後から来た彼らに抜かれ、やがては一人残される、という悲哀を我々は味合わなくてはならない。食費を切り詰めて1ヶ月でも1日でも長く、という旅行だったけれど、夢の中にミミが現れると、「何か起きたのでは」と不安になり、家に国際電話を入れて無事を確かめた。「ミミは?」と訊ねるなり、「親のことは心配にならないのか!」と叱られたこともある。そして、その長い旅行から戻ってきて余韻もまだ醒めやらぬある日、ミミは忽然とこの世を去った。
さらに数年が過ぎ、それらの思い出に耽っていたある午後、ふいに豁然として私は悟ったのだ。あの学生のチビ犬が恐慌をきたしたのは、視覚で対象を識別しての結果ではない。主人の留守中に見慣れぬ東洋人が奇怪な行動に及んだため、気が動転したのだ。チビが怪しんだのは、異様な毛布姿などではなく、私のアタマの方だった。あの女子学生が同様の振る舞いに出れば、ミミだってキモを潰して逃げ回ったに違いない。
いつかは、私もこの世にオサラバする日がくる。「その時はちゃんと迎えに来いよ。尻尾を振ってくれればそちらへ行くし、もし、まだその時期ではない、というのならウーッと唸ってくれ。そうすれば引き返すから」と頼んであるのだが、それはさておき、ミミの案内なら、あちらの世界の旅にも不安はなさそうだ。そして、実験結果の解釈が正しかったかどうか、それも訊ねてみたいと思っている。
●どこでもそうだが、いわゆる『被害者』に話を聞くときは注意がいる。ついつい、ありもしない話で事実を誇張してしまうからだ。弁護士の先生たちは村に来ていきなり話し合いに入った。一番まずいパターンだ。村人は先生たちの意図に応えようと、大袈裟な話のオンパレードをサービスした −みんな栄養不足だ、ボートを作る木もない、魚も一匹もいなくなった、伐採が始まってから子供に皮膚病が…、木材会社の人間の首を切ってやりたい! うーん…。
●先生たちは実際、帰国後に「先住民はこんなに困っているのです」との報告書を作成したらしい。一人だけ違っていたのが高世さんだった。話し合いの翌朝に私のところに来てこう言った −「ねっ、聞きたいんだけどさ,この人たちは本当に困ってんの?」。おっ、つきあえるぞ、この人とは!
●高世さんの取材はきわめて的確だ。表面的な事象ではなく、なにが問題の本質かを見抜く目を持っている。今までのスクープは、囚人腎臓売買、北方領土一番乗り、サハリン残留韓国朝鮮婦人、アウンサウン・スーチーへのインタビュー、そしてスーパーK(高世さんの独断場)。話もうまい。特に興味深く聞かせてもらったのが、3年間駐在していたフィリピンの裏話だった。
●火災保険目当てで自分のホテルに放火するオーナー(高世さんの同僚が巻き込まれた)、葬儀屋からのリベート欲しさに死体確保に血眼になる消防士(消火はしない)、弁護士も裁判官もカネ次第、事前に賄賂を払えばその場で答えを教えてくれる自動車免許試験、大学の卒論だって雑貨屋で販売、恨みをかえば、警官、入管グルで投獄の憂き目にあう…。
●檻の中にいるはずの囚人が、最低2週間の病院での安静が必要な腎臓摘出手術を受けている。ここを取材するうちに,高世さんは、刑務所の中がきれいに四つにギャング団の支配下に分かれていて、その一つ「シゲシゲスプートニク」(行け行け!スプートニク号)と知り合い、奇妙な親交を深めることになる。
●人を閉じこめておく場所の刑務所が実はギャングの総本山。人を殺すために外出して、2、3日後にまた戻る。何でもありのフィリピン。しかし、高世さんは、腎臓問題が日比両国の国会で問題になるにいたり、命を狙われることになる。その情報をつかんだその日に国外脱出。
●「でもね、フィリピンには善人と悪人との境目がないんだよね。そのへん歩いてる奴が人を殺している。かといって、貧しいものでも生きていける相互扶助は必ずある。誰でも決して過去を問われずに生きていける。フィリピンは目茶苦茶だけど好きなんだよね」
●高世さんは最後に、アジア各国で実施された『自分が幸せかと思うか』のアンケート結果を発表してくれた。フィリピンが断突で90%以上。最低が日本だった。母親は子育てに疲弊し、障害者や老人は施設に隔離され、サラリーマンは時間に追われる。フィリピンが無秩序の中の秩序とすれば、日本は秩序の中の無秩序の国かもしれない。
●だが高世さんは6年前、私の報告会を聞くために地平線会議に参加したのをきっかけに嫁さんをみつけたという幸せ者である(4回目のデートでプロポーズ)。
●来年は是非北朝鮮の話を聞かせていただきたい。[樫田秀樹]
【梅里雪山一周巡礼路踏破(96.10.6〜18)の地図と雪峰の写真をカラーコピーして送って下さいました。】
梅里雪山一周巡礼路のルート、及び今までは写真で紹介されることのなかった怒江(サルウィン川)とその支流(ウィ・チュ)の『深い浸食の国』の雪峰をプロットして一枚にまとめました。(略)
この巡礼路を完全に通過したのは1911〜1913にウォード、1993 N.クリンチ(USA)、1995 スペイン人(男)/フランス人(女性)の組の三グループのみです。そして1996、小生もトレースすることができました。その他先蹤者(ベイリー、ニール等)はこの地域に入っていますが、巡礼路の一部を通過しただけです。
こんにちは。お元気ですか。オーストラリア最北端のケープヨークまで行き、今、ケアンズの町にいます。ここまでの今回の走行距離は2万8000キロ。そのうちの半分近い1万 3000キロがダートでした。シンプソン砂漠を横断し、ナラボー平原を横断し、1000キロ以上ものダートがつづくワーバートンRd.等を走りきり、体力の限りをつくして、オーストラリアのダートコースに挑戦してきました。そんなオーストラリアの旅も終わりに近づき、これからシドニーに向かい、日本へと帰ります。計画を大きく上回り、前回と合わせ、7万キロを超える「オーストラリア」になります。
パキスタンの「山の向こう側」が見たくて、ついにやってきてしまいました。残念ながら、タジキスタンとアフガン・ワハン回廊には入れませんが、ウズベキスタン・キルギスタン・カザフスタンとバスを乗り継ぎ、鉄道で中国・ウルムチに入りました。
地方の一般生活は、ほとんど同じものなのに、とくに都市部ではロシア・中国の影響を強く受けて、それぞれパキスタンとはまた違ったイスラムの世界をかもし出しています。旧ソ連の3国は、ソ連崩壊により独立してまだ5年。古来よりさまざまな民族に支配され、いまだに激動・混乱している感があります。きょうどうするのか、明日どうなるのか――それを手探りで生きている感覚は、パキスタンと同じです。今いるカシュガルからは、峠を越えれば懐かしいパキスタン山岳地帯ですが、今回は、タイムリミットです。それにしても、どこに行ってもバザールが一番たのしいです。
【重度の障害児夏帆ちゃんと、ときには一緒に島旅を続ける。】
イタリア、水の都ベネェチュアに来ています。島の間を巡る舟に乗って毎日島を歩いています。今回の目的地はレース編みの島「ブラーノ島」です。“島を着る”というテーマで世界の島を歩き始めて4年目、果てのないテーマです。
遠い地にいて夏帆のことを思うのは不思議です。以前は,夏帆がまだ小さい頃は,遠い旅に出ると私自身の中で夏帆が薄くなっていってしまうのではないか、ということが不安でした。子どもが生まれる前のような「旅の自由」が欲しいという欲求と闘いながら「日常」と「非日常」を対比させ、旅をしていた気がします。旅の日が一日経つごとに一日減ってしまうような気持ちだったのです。
それが今回は違う。夏帆は「日常」の中にあっても「旅」の中にあっても、常に同じ存在として私の中にあります。旅が非日常ではなくなっているということもあると思います。日本に電話をして、大きな声で「なっちゃん、なっちゃん」と何度も娘の名を呼び、夏帆の声が「アー」と聞こえた時、最高の喜びを感じます。
第25回というから、随分前のことになりますが、地平線報告会であの偉大な「太平洋漂流実験」について話して頂いた斉藤実さんが、秩父市で「へのかっぱ」という喫茶店を開きました。「地平線の旅人たち」を読めばわかりますが、斉藤さんは海難漂流者の生還術を探るためゴムボート「へのかっぱ号」でサイパン沖から沖縄に向けて単身漂流実験を何度も試みた冒険家です。真水で割れば海水を飲んでも生き延びられることを身をもって証明したのですが、その後は肝臓を悪くして海での冒険を断念、もっぱら「陸の安全」をテーマに交通事故防止の映画制作にあたっています。現在は埼玉県秩父市に住んでおられますがこの8月、思うところあって奥様とともに「食事とコーヒーの店 へのかっぱ」を開きました。といっても場所柄それほど繁盛しているわけではありませんが、人々が集まれる場であればいい、と「赤字覚悟」でやっているのだそうです。早速出かけて来ましたが、もったいなくもありがたいことに、屋号の「へのかっぱ」のデザインは、何と小生の字を使って作ってくれていました。『西蔵漂泊』を献本した際に「へのかっぱ号の勇気を讃えて」と書いたのですが、奥様ともどもその字を気に入ってくれたそうです。明るくて、ミニ・ギャラリーを兼ねた、いいお店でした。最近、斉藤さんはこの店に子供たちを集めて紙芝居をやり、集まった少しのお金に自分たちの分を加えてマザー・テレサのもとへ贈ったそうです。実は、体は決して完全復調ではなく、医師からは「肝硬変の末期」と言われたほど大変、とのことなのですか、とてもそんなふうには見えない元気なご様子でした。
場所は、西武秩父駅から歩いて7、8分の秩父市上町3-5-17、「吟月館」2階、電話は0494(25)4842です。ただし、年内は土、日は休み、来年から休日も営業するそうです。市川さんというはたちのお嬢さんがおいしいカレーを作ってくれます。それから、斉藤さん手作りのカッパのペンダントがもらえるかもしれません。斉藤さんの許しが出れば、一度「へのかっぱ」で地平線の集まりをやってみたい、と思いました。どうか、秩父に行くことがあれば、地平線会議で知った、と言って訪ねてみて下さい。[江本嘉伸]
※『DAS』のi-182に、斉藤さん自身が「漂流実験と見込み違い」というコラムを書いています。
11/28 今年8月、ヒマラヤでも特に難しいと言われるK2峰に挑み、無事故で12人の登頂を成功させた、日本山岳会青年部K2隊。その副隊長として計画全般を支えたのが、松原尚之さんです。法大山岳部で活躍後、サッポロビールに就職。気鋭の営業マンとして仕事に燃えていた松原さんの転機となったのは、92年の南極点徒歩踏査隊への参加でした。会社に、長期休職制度を導入させる「事件」でしたが、94年、マカルー遠征を機に退職。いつか山に登ることを生活にしたいと考えていたのが、大きな遠征毎に自信をつけ、実現したのです。「登山をしている時が一番自由」という松原さん。現在は山岳ツアーガイドや、メーカーのアドバイザーとして生計を立てています。当分はヒマラヤに通いたいという松原さんに、山という人生の場について話して頂きます。 |
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