1996年4月の地平線通信



■4月の地平線通信198号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

 「犬」の話が出たところで私は自分を失ってしまった。7月13日の「地平線200人」大集会の皮切りは「犬」だそうだ。犬狂いの私が平常心を忘れたとしても言訳にすぎないが、その日(4月4日)の江本さん宅での地平線世話人会、一説では第一水曜日におこなわれるから「一水会」ともいわれているらしいが、ともかく折角の集まりを私のハチャメチャな話でぶちこわしてしまったことを、お詫びしておかなくてはならない。

 じつは、地平線報告会がこの6月で200回を迎え、その報告者は延べにすると200人になる。そこで「地平線の200人」という大集会をやろうよという話を江本嘉伸さんから聞かされ、久し振りに世話人会というものに顔を出したのが、そもそもその夜の出来事だった。200人がどれほどか、数字に弱い私には想像もつかないが、200人に達するまでに単純計算でも18年近くかかると聞いて、その凄さに驚いた。思い返すと、三輪主彦さんが最初の報告者として登場したのが1979年9月だから、地平線報告会が生まれた時にはまだこの世にいなかったという若い地平線の仲間がいても不思議でもなんでもない。あの日をもって地平線会議の誕生と考えている人が多いかもしれないが、少々古顔の私はすこし付け足しておきたいような気がする。

 というのは、地平線会議にはそれまで長い伏線というべき、そこにいたる地平線会議前史があるからである。詳しくは岡村隆さんに譲るが、その1年前に法政大学で「全国大学探検部会議」(正式名称は記憶にない)というのがあった。そこに記者として取材をしていたのが、読売新聞の江本嘉伸さんであり、会場に呼び集められていたのが大学探検部OBたちであった。岡村隆さん、恵谷治さん、伊藤幸司さん、報告者のひとりとして関野吉晴さんもいたと思う。そして会場にはもうひとつのグループがいた。宮本千春さん率いる「観文研」のひとたちである。その筆頭に賀曽利隆さんがいた。それぞれがすでに行動者として地平線会議前史を語るべき履歴を持つ人たちである。

 宮本さんの「大学で探検部をやって、そして社会へ出てそれからどうするんですか」という質問がきっかけだったと思う。学生の探検から話題は社会人の探検、そして日本人の旅、探検、冒険、放浪、ボランティアなど地球をはいずりまわる行動への関心へと移る。そしてその手応えをいちばんに感じ止めたのが江本さんであり、同時にその価値観を共有しあえる場を提案したのである。当初、困ったのは言葉である。「探検」「冒険」という手垢のついた言葉でなく、地平線人としての共通にわかりあえる言葉を探し求めた。「地球体験」「地球をナメクジル」「人肌の温もり」など、地平線会議のイメージを言葉にしようとしたが、結局、言葉よりも行動がはやくたちまち賀曽利隆さんの音頭で「報告会」がはじまり、恵谷治さんの熱意で「地平線から」の編集が始まった。

 はじめは、探検部や山岳部のOBたちが主流とはいえ、地球体験を受皿にした地平線会議にいちばんに反応してくれたのは大学の非探検部OBたちだった。カフィリスタンに通いつめている丸山純さん、ラクダでサハラ横断した紺野衆さん、そしてリヤカーの永瀬忠志さんが足げく地平線会議に顔を出すようになる。サラリーマンの日曜冒険のカヌーイスト吉岡嶺二さんも常連になった。思うに「地平線の200人」は通過点に過ぎない。長い前史が導火線となり地平線会議へと受け継がれる。「地平線の200人」は地平線会議があろうが無かろうがやってきただろうし、これからもやりつづけるに違いない。

 ところで、つぎの「地平線の200人」は21世紀になる。そのとき、犬たちに心奪われた地平線の老人たちは、探検と冒険を忘れ、「探犬」と「冒犬」にうつつをぬかしているかもしれない。そして、「地平線の200匹」集合をいいだすかもしれない。犬、それにしても大変なライバルが登場したもんだ。いつか、地平線会議は犬に乗っ取られてしまい、登録名は愛犬の名になるのだろうか。そうなことを、じつは、ひそかに世話人会で話したのである。(森田靖郎、登録名メイメイ)



■リレー連載・地球“犬”体験……3


サハラのマラドーナ   滝野沢優子

 物心ついたころから、わが家にはあたりまえのように犬がいた。覚えているだけでも6頭。今のシロ、クロの2頭も動物愛護協会からひきとった犬だし、前のトキオ(メス)も目も開かない赤ちゃんのとき、真冬の荒川土手に捨てられていたのを妹が連れて帰ってきたから、お金を出して犬を買ったことは一度もない。当然雑種ばかりだけど、誰にももらわれず、拾われずに死んで行く犬が多い事実を考えると、お金を払って血統書付きの犬を買うのは抵抗があるなあ。

 とにかくず〜っと犬と一緒にいたので、今では犬のいない生活なんて考えられないほど、私にとって犬は貴重な存在。それだけに、旅に出たときに一番困るのは犬の問題で、わが家の犬たちが恋しくて恋しくって、ときどき気が狂いそうになるほど。だからつい、旅先の犬と仲良くなってしまうのだ。オーストラリアのキャンプ場でテントに入ってきた犬、フエゴ島の山小屋に毎日遊びにやってきたピー助とドンちゃん、クスコでボディーガード役をしてくれたシェパードのサスケ、旅をしながら、世界中のいろんな犬と知り合った(余談だけど、漢民族の国にはどうして犬が少ないのでしょうかねえ−香港とかシンガポールとか)。

 そのなかでも、忘れられない犬の筆頭はアルジェリアのタマランセットという、サハラのオアシスの町のキャンプ場に住み着いていた「マラドーナ(メス)」。薄茶でたれ耳の中型の雑種犬で、人なつっこいから旅行者みんなにかわいがられていたんだけど、犬っていうのは自分のことを好きな人は敏感に感じとるらしく、一人旅の私と彼女はすぐに大の仲良しになった。

 マラドーナは毎日私が出先から戻ると真っ先に出迎えにやって来たし、休むときや夜はいつも私のテントの前。私がひどい下痢で何度も夜中にトイレへ行ったときも、必ず一緒についていて外で待っていてくれた。しかもトイレが長いと心配してちゃんとドアをたたいてくれるのだ。ラクダツアーで3日ほど不在にしたときも、私を必死に捜し回っていたらしい。だから砂漠のピストへ出発するときは、マラドーナのことが心残りだった。上目使いに私を見る目が「あなたも私を置いて行っちゃうのね」とでもいいたげだった。ああ、そんな目で私を見ないで!

 責めるような視線を感じ、後ろ髪をひかれる思いで旅だったけれど、あまり旅先で仲良くしすぎるのも情が移っていけないなあと反省した。

 その後キャンプ場にしばらく滞在していたリヤカーの河野兵市氏から日本に帰ったときに聞いた話だが、私がタマランセットを出発して2日後くらいに、突然マラドーナがいなくなったんだそうだ。どうしちゃったんだろうか? 5年経った今でも気になってしょうがない。




■地平線ポストから
宛て先…〒173 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方


●金井重さん……チリ発
 たくましい(汚れた?)山男たちに囲まれ、可憐な東洋の中ばあさん(若くない、ヨボヨボでない)、はい、それがシゲさんです。

 昨日、モレノ大氷河とじっくり対面。今日は源流のフィッツロイ河、フィッツロイを目ざしています。でもこのバス、終点に着く頃は全員ほこりだらけ。未舗装道路をドアがよく閉まらないバスで走って、“あっ、旅してる”。そして、雪山連峯の主峯、フィッツロイが現れ、その雄姿に心を躍させます。

 夜中の1:00〜朝の8:00まで電気がとまる小さな村落で三日滞在、トレッキングです。と、言うといかにもさっそうと歩いているようでしょう。ところが登りが続くと、風の音も雲の動きも鳥の声も聞いた、もう帰ろうと、戻りたがります。

 目的地Lag Capalは、すぐそこだ、なんてどこにも書いてないし、人っ子ひとりいません。でも、さすがにガメツく、もう少しもう少しと歩いていたら、突然あのフィッツロイが現れました。ウァー、嬉しい。しかも、こんなところで突然。もうすぐよとかなんとか、教えてくれたらいいのに。踊り上っておしゃべりすると、彼は悠然と「そうか、そうか」とうなづきました。

 宿で「行ってきたのよ。Lag Capalは水がなかった」と言ったら、笑われました。「大きな湖だ。水は満々だ。それはずっと手前だ」。

 翌日も途中のドス・コンドルスで御帰還です。これは、山が二羽のコンドルに見えると教えてくれたけど、ほんとは昔、二羽のコンドルが住んでいたと思うよ(だって、山頂の木が、そう私に言ったのです)。若い解説者は昔のこと知らんけんのー。これからチリに戻ります。パイネグランデが待っています。

 このフィッツロイににまだ日本隊は登っていないようです(年度と登頂隊と国旗が入山する所に貼ってあります)。地平線のみなさんをお待ちしてるそうですよ。ではね。あらあらかしこ。

   雲動き ぬっと顔出す 神の主座

 さすが迷句ですね。では、もひとつ。フィゴ島にて。

   はたはたと 風語で話す 夏をゆく     しげ女

  ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 日本はいそがしいですか。旅行人シゲもいそがしいのよ。もう夏が終って、冬がそこまで来ています。
 雨や寒さは外歩きには困るのよね。イスラエルは強い。軍隊体験者(男女とも)がレンタカーで回ってテントで寝ています。アウトドアというより、野外訓練という感じ。疲れた女だけ、1泊ぐらい夜のベッドに寝ます。彼ら彼女達は、途中で一緒になって、4〜5人でもうBFやGFになって。
 ではね。

                     chili, Puerto Natales
                          Shige KANAI




先月の報告会から
 心で見つめる世界〜水野麻子

 1996.03.29/アジア会館

 子どものころから目が見えない水野さんは、ある日、新聞の記事で「タダでモンゴルに行ける」ことを知る。その記事は、バージン航空がバックアップして、日本とアメリカとイギリスから各1名の障害者をオペレーションローリーという野外学校に参加させるものだった。
 持ち前の明るさを買われ、日本での選考会で選ばれたものの、ザックを背負ったのは選考会のときが初めてであった。そして92年の6月から、「オペレーションローリー・モンゴルフェイズ'92」に参加することになる。

 ウランバートルから飛行機で西へ4時間ほど飛び、ホブドという街に着く。最初の3日間は野外生活で必要な基礎訓練が行なわれた。訓練が終わると今度は、約20人のグループに分かれて、それぞれのプロジェクトに進んでいく。
 水野さんが入ったのは、バードウォッチングのグループだった。「わたしはバードヒアリングしかできない」と文句を言いながら、目的地の湖まで馬に揺らることを楽しむ。朝から晩まで10時間ほど馬に乗り、丸4日かけて湖に到着した。

 プロジェクトの内容は、5日分の食料を渡されて、1972年に作られたロシア製の地図を再調査して修正することだった。湿地が砂漠になっていたり、逆に砂漠が湿地になっている所もあった。移動が激しかったために帰りは馬がバテてしまい、引いて戻ったという。
 草原の中のトイレには道も目印もないため、行くのも戻るのも苦労をする。文明の中では生きられるが、ありのままの自然のなかでは生きられないことに気づかされる。そんな経験を重ねながら、自分がモンゴルに来た意味を悩み始めていた。

 モンゴル最大の祭り・ナーダムに参加した後、今度は医療プロジェクトに参加することになる。集落を歩き、BCGの予防注射をしたり、家族構成や家畜の所有数などを調査していく。大学で文化人類学を専攻した水野さんにとって、このプロジェクトは興味深いものとなった。
 自然のなかで生活して、ナーダムでモンゴル人とふれあい、医療プロジェクトで更にモンゴル人やモンゴル文化を感じていく。少しずつ、水野さんのなかでモンゴルに対するイメージがふくらんできた。
 そして、大自然のなかでは一人では何もできないことを強く感じる。また、人がそこに住むのにはそれぞれ理由があることを知った。例えば、バードウォッチングに行った湖のそばに人が住んでいなかったのは、夏になると蚊が多くなるからであった。

 モンゴルに来た意味に悩み、無力感におそわれていたが、そこに住む人に思いをはせることでしだいに立ち直っていく。モンゴルから中国に戻るころには、すっかりモンゴル人と間違われるほどになっていた。
 「日常の様々な場所にチャンスがあるし、自分が今まで持っていた常識の物差しを覆される経験があると思います。それを受け止められるような感性というか、アンテナを張っていると、人生は楽しいのではないでしょうか」

 何かを見るときにどう認識しているのかを、僕たちはもう一度考えてみる必要がある。なにげなく見ているだけで、実は何も見ていないのではないだろうか。水野さんの体験が、そして言葉が強く心に響いてくる。       (新井 由己)




Voice on HARAPPA

最近、NIFTY-Serveの地平線HARAPPAは海外からの参加が増えて、
海の向こうからホットな話題が届いています。

7077 [96/03/21 21:29] QWF01317 花岡 JKT便り#01
 Selamat Sian! =Good Afternoon 赤道からほんのわずか南の当地(南緯9°)は雨季で、まだまだ洪水が頻発します。ジャカルタは独立以来最悪の洪水被害に見舞われ、スマトラ北端のアチェの洪水被害等ととともに大きな社会問題となっています。
 雨を降らせる雲が日照時間を短くし、夏と言うのに乾季の冬より涼しく感じます。自宅のベランダにおいた最高最低温度計の観測によると、ほぼ一年を通して最高気温35°C最低25°Cくらいで、1月には最高が30°Cをきるほど寒い日がありましたが、最近暑い日が見られ始め、一昨日の最高気温40°C、最低27°C、昨日の最高気温41°C、最低26.5°Cです(!)。このわずかな差が涼しく感じたり、寒く感じたりするから、不思議です。
    ドリアンのおいしい季節に忙しくてスマトラに行けなかった、
                    悲しいJICA専門家・花岡

7216 [96/04/10 01:21] LEB03112 谷川秀夫:皆さん今日は再び
★…先日のエジプト航空機ハイジャック事件で、24時間空港に釘ずけになり、又、カダフィ大佐の乗客に対する会見などのパフォーマンスには、乗客以上に、乗客が人質になり2次遭難するのではと気を揉むのでした。
★さて、今年後半、西アフリカへ仕事で行こうと思っています。人、文化、自然、何でも結構です。面白く参考になる話教えて下さい。…


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介/イラストのなかにある手書き文字)

4/23
TUESDAY
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500



ヒマラヤの宇宙

『そうだ、剣の道…剣道という言葉があるように、登山で自己を追求する道…登山道という言葉があってもいいんじゃないか。そして僕は登山道をとことん追求していきたい。まぐれや偶然で登るんじなく、どんな条件であっても頂上に立てる、本当の力を習得したいなあ』。

89年のヒマラヤ・ブロードピーク遠征の手記に、登山家の戸高雅史さん(34)はこう書いています。以来毎年ヒマラヤの山々に「がむしゃらに」挑み続けてきた戸高さんですが、山に対する考え方は2年ほど前から変化してきました。その心境を、「今、僕にとってヒマラヤは宇宙を意識する場所ですね」と表現してくれました。戸高さんと大自然が「調和」した時の喜びを感じるための「場」なのです。

極限の地で、自分の内宇宙と向きあうことで形づくられてきた「登山道」の一段階なのかもしれません。94年12月からはそんな考えのもとに、野外学校FOS (feel our soul)を主宰し、後輩の始動にもあたっています。今年5月からは、 K2に単独アタックの予定。

今月の報告会では、「もしかするとK2は、今までの山登りの区切りになるような気もしているんです」と言う戸高さんをお招きします。意識の変化に大きな影響を与えた、95年夏のブロードピーク縦走・カンチェンジュンガ遠征を中心に、山への思いを語っていただきます。



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