3月12日。小雨の朝。メッシュシートに覆われた階段を降りて新聞を取りに行く。空気はひんやりしているが、それほどの寒さではないことは着ているフリースの軽さでわかる。普段は上りはエレベーターを使うが今日は体調チェックのつもりで8階まで歩いてみた。6階までは息切れせずに行けるので大丈夫、と確認、いったん呼吸を整えて残る2階を登りきる。階段をしっかり下れるか、が私の日頃のチェックでたまに今のように上りもトライする。
◆昼のニュースでサウジアラビアのジッダでウクライナ、アメリカの高官協議が行われ、アメリカの「30日の一時的停戦案」をウクライナは受け入れると表明したことが伝えられた。ロシアがはたしてこの提案を受け入れるかは微妙だが、4年目に入ってようやく「停戦」に向けた協議が具体化しそうな情勢だ。どうなるか。
◆同じ昼のニュースでドジャースの最後のオープン戦で新人の佐々木朗希が4回を1安打に抑えるナイスピッチングを果たした、とのニュースが流れている。きのう14回目の「3.11」、岩手県出身の佐々木はアメリカで震災14年目の感慨を語っていた。私はこの日、東中野のポレポレ東中野で藤川佳三監督の「風に立つ愛子さん」を見てきた。傑作「石巻市立湊小学校避難所」の続編というべき作品で前作で避難所の空気を明るくしていた愛子さん、小学生のゆきなちゃんはじめ当時の避難所の人々と画面で会えたことに感動した。愛子さん、2018年8月17日、逝く。監督に出会えてほんとうによかった。
◆通信に隙間ができた時に便利なので昔の(目下は中学生時代の)日記の断片を去年1月からお目にかけている。70年も昔のことなので実は覚えていることより忘れていることの方が多い。意外に映画を見に行っていることにも驚く。勉強一筋ではなかったんだな。横浜育ちのせいか、海外へのあこがれが強く、少年のころから映画も洋画一辺倒だった。ストーリーより広大な荒野、でかい乗用車など日本にない文化に惹かれていた。
◆熟年になって変わった。日本映画でも自分の少年時代に実体験していた世界が当時撮影されていた映画の中に残存していると知ったからだ。月曜日だったか黒澤明監督の『生きる』をNHK BSでやった。話題作だったので昔見たことはあるはずなのにほとんど内容は頭に入ってなかった。主役の志村喬が公園のブランコに座って「命短し恋せよ乙女~」と歌いながら最期を迎える場面だけがなぜかはっきり脳裡に残っている。午後1時からの放映を見て黒澤が描きたかったお役所仕事の切なさ、狡さが志村演じる市民課長のお通夜の席を舞台に興味深く描かれていることに驚いた。とくに助役の狡さと上司にごまする課員たちのみっともなさを黒澤がこれでもか、と描いたことにうなった。
◆1985年、黄河源流探検をやったことがある。日本ヒマラヤ協会の企画だったが資金がなかったので新聞記者である私がメンバー選びなどかなり仕切らせてもらった。その中で試みたのが「星宿海(しんすうはい)」からの源流200キロ下りである。星が満天に散るように、無数の水たまりが点在する東西湿原。それが長く伝えられてきた星宿海だったが、実際には乾燥した草原が広がるばかりだったので少しがっかりした。
◆源流域には「双子の湖」として知られる「ザーリン湖」「オーリン湖」がある。面積はそれぞれ526平方キロ、611平方キロ、と日本最大の湖、琵琶湖(672平方キロ)とあまり変わらない。気を取り直して、そのうちの一つ「ザーリン湖」のゴムボート横断を試みた。6人乗りのゴムボートに私と地平線当初からの仲間、日大探検部OBの渡辺久樹(当時29歳)、北大院生の梶光一(32歳)の3人が乗り込み、20キロほどとみられる対岸を目指した。
◆青い水面を水鳥が飛ぶ、静かな湖水。オール遣いの息もあってまずは快調な滑り出しだったが、やがて雨が降り出した。風も強まってきておいおい、大丈夫か、という雰囲気になってきた。静かな高地の湖のはずが、夕方に近づくにつれ大きなうねりが次々にやってきてボートは木の葉のようにもまれる。こりゃ、難破船だぞ、と必死で声をかけあいながら漕いだ。いまだから言うが、かなり怖かった。ここは標高4500メートル。高所の湖にこんなうねりが起きるとは知らなかったのだ。
◆暗くなった。闇の中を声をかけ合いながら必死で漕ぎ、ついにびしょ濡れ姿で対岸に上陸。スタートして6時間40分かかっていた。テントを張り、お茶を飲んで息をついた。あの時の相棒、梶君はその後、農工大教授となり数年前に退官した。あいかわらず元気に北海道をフィールドに動き、研究活動を進めている。
◆今月の報告者は、そんなわけで黄河源流の湖を漕ぎ抜いた仲間である。[江本嘉伸]
■今回の報告者はウールクラッサー(羊毛鑑定士)の本出ますみさん。京都で「原毛屋」を営み、羊にまつわる雑誌「SPINNUTS(スピナッツ)」の編集出版もされている。「Spin(紡ぎ)」と「Nuts(夢中になる)」を合わせた言葉だそう。染織の世界でよく知られた本出さんのお話を地平線報告会で聴けるなんて、想像していなかった。ありがたいです。サポート役は親友の本所稚佳江さん(映画『プージェー』プロデューサー)。40年前に京都の川島テキスタイルスクールで隣に座ったのがご縁とのこと。原毛といえば、もちろん私も紡いだことがある。糸車を踏みながら少しずつ原毛を引き出して撚る。タイミングが難しい。ショール一枚分の織り糸を紡いで終わってしまった。フェルトを作ったのもずいぶん前。この場にいるのが、ちょっと恥ずかしいような後ろめたいような。でも、本出さんはそんな気持ちを大らかに吹き飛ばしてくれた。お話は、こんな言葉で始まった。「2025年、世界は大変だ。でも今この瞬間の『暮らし』が大切。羊は『暮らし』そのもの、『衣食住』。だから、スピニングをしましょう!」
◆挨拶のあと、前列に座る江本さんのジャケットに興味津々の本出さん。生地にほんの少し触れて「メリノの24マイクロンくらい。盛岡のホームスパンだと思う」という言葉に会場は大きくざわめいた。隣の山田和也さんのジャケットは、「30マイクロンくらいのチェビオット。たぶんイギリス製」。パタゴニア製のセーターを着てるのは長岡竜介さん。「コリデールの30〜33マイクロン。ナチュラルカラーだから在来種」。みなさん、お洒落だ! メリノ、チェビオット、コリデールは羊の種類。マイクロンとは糸の断面の直径の単位で、1マイクロンは1ミリの千分の一。蓄積された知識が滲み出る。「目で見てわからないことも手で触ればわかるんです」の言葉が素敵だ。人間の髪の毛は90マイクロンくらいだというからその繊細さがわかる。本出さんにどんどん引き込まれていく。
◆次は、目の前のフワフワの羊の毛の説明。「刈り取ったばかりの一頭分の羊の毛をフリースといいます」と、一番大きなジェイコブという種のフリースを広げる。ひとつながりのものという意味もあって、群れになってつながっているという使い方もあるとのこと。「ユニクロがフリースという言葉を使っちゃった。こんな普通名詞を商品名にしたらあかんやろ!」と本出さん。そうだそうだ! たてがみのある原種のフリースは犬くらいのサイズ。羊が家畜化されたのは一万年前。メソポタミアのあたりで始まったとのこと。ジェイコブは二千年前にはすでに存在していたそうだ。フェニキア人もバイキングも羊を船に乗せ大海へ乗り出した。陸の道は遊牧民が連れて歩いた。船に乗り大地を歩く羊を想像してみる。世界中に伝播し、それぞれの地域で品種改良が進んで、気候風土に合った在来種となっていった。日本には、珍獣というレベルで何度か来ているが、家畜としては定着しなかった。
◆羊はどんな恵みをもたらすのか。羊毛(ウール)から糸、フェルト(原毛を圧縮して作る不織布)が作れる。断熱材としても使われる。分解して堆肥になる。古着から毛をほぐして反毛(はんもう:リサイクルウール)にもなる。乳と肉。今回の参加者全員に「SPINNUTS」モンゴル特集号が配られたのだが、羊を屠る記事が見どころだと本出さん。夏は白食、冬は赤食。夏は乳を絞り、チーズやヨーグルトに加工して食べる。秋から冬には、歳をとった羊から一頭ずつ屠る。すぐに内臓を塩ゆでにして食べる。肉は、そぎ切りで紐状にしてゲルの中に干す。干し肉は湯で戻して肉うどんにして食べる。食べつなぐことのできる安心感。今度はアフリカの羊の写真。太い尾に入っているのは脂肪だ。この脂肪が欲しいのだ。脂尾羊という。ボンジリのような味とのこと。モンゴルでもみんな喜んで食べていた。毛をバーナーで焼き切って塩ゆで。そぎ切りにして、それを薪の火で直にちょっとあぶって油がパリッとするのが美味しいそうだ。モンゴルでは焼くことはない。胃袋の中に頭とか蹄とか野菜とかを入れて塩ゆでにすることもある。モンゴルの味付けは塩だけ。ジンギスカンという料理はありえない。
◆そして、毛皮。モンゴルの自然保護官が雪の中、寝袋だけで野宿している写真が映しだされた。シープスキンを内張りにしたデール(モンゴルの民族衣装)をかぶって、毛布を掛けている。マイナス60度だが羊の毛は凍らない。極寒でも生きていける。反対に、灼熱の砂漠でも羊毛は必要とされる。モロッコ、サハラ砂漠のトゥアレグ族が纏うのはウールの外套。陽射しから身体を守る。人の身体を守る保温性。自分の体温とほぼ同じ温度を保ってくれる。
◆そのほか、毛から採れる脂(ラノリン)は、化粧品や石鹸、ろうそくなどの原材料となる。衣食住、全部羊が与えてくれる。羊の歴史は人間の歴史と表裏一体。チンギス・ハーンが短期間にモンゴル帝国を作れたのも、羊を連れていたからだ。家畜とはライブストック(Livestock)。生きている在庫というそうだ。
◆羊への熱い思いに溢れた本出さんだが、「原毛屋」になった経緯が面白い。織物会社の龍村美術織物で秘書をしていた1983年、インド旅行に行く途中で、オーストラリア・シドニーに一か月滞在。羊を飼っているご夫婦と知り合う。妻は日本人の信子さん。フリースをポンと椅子の横において糸車で糸を紡いでいた。すごい衝撃。毛糸ってこんな風にできるんだ! 輝く美しい金の羊に見えた。この糸紡ぎとの出会いの日に「原毛屋」になると決める。本出さんは自分を信じて行動に迷いがない。帰国時のリュックの中には、もうフリースが3枚入っていたという。かっこいい。本出さんは話す。世界中、どの時代でも糸を作っていた。糸から自分の着ているものも作り出した。糸は世界の共通語だと思う。なのに、誰もがやっていたことが今は趣味の世界になってしまった。趣味の世界のスピニング・染織の方々には勉強家が多いのだ、と。そして、勉強家のひとりは本出さんである。
◆西洋で羊がいかに大切なものであったかがよくわかる絵が紹介された。ベルギーの都市ヘントの聖バーム大聖堂にある12枚で構成された祭壇画(1432年作)。血を流した羊は、人々の罪を贖うキリストの象徴。それを囲む天使、予言者、聖職者、アダムとイブ、聖歌隊、殉教者。羊は精神的なイエス・キリストの象徴であるという考え方。教会における祭壇画が織物の世界で展開されてタピストリー(緯糸で絵柄を表現する織物)となっていったという。タピストリーは宗教画でありメッセージのある絵物語。教会の祭壇画をタピストリーにすることがある。織物は軽くて壊れなくてたたんで持ち運べるから戦地に持っていける。野営しているテントの中でタピストリーを正面に置けば教会になる。聖域になる。織物は持ち運びやすいということが、日本の宝物にもつながっている。
◆どうして日本に大陸からたくさんの宝物がやってきたのか。中国や朝鮮からすると、日本は文化が劣っている後進国。属国として扱うために、文化や国力の違い、文明国であることを見せつけるために宝物を持ってきた。銅鐸や鏡、織物。軽くて壊れなくて持ち運べる織物は重宝された。日本各地で何枚も見つかっている。これは朝鮮通信使の本に記録してあったことだそうだ。運ばれてきた朝鮮毛綴(ちょうせんけつづれ)には風刺をきかせたデザインのものが多かったという。日本史の授業のようで面白い。大陸からの宝物が収められているのが奈良の正倉院。756年、聖武天皇の遺愛の品を収めるための蔵として建てられた。研究し、保存してきた保存課がある。年に一回、正倉院展の前に開封してチェックする。保存課に勤めていた本出さんの叔父さまは、一週間前から食を正し身を清め禊(みそぎ)をし、中に入られていたとのこと。
◆2011年、本出さんは正倉院の染織の宝物調査に参加する。京都在住のアメリカ人フェルト作家ジョリー・ジョンソンさんと大阪府立産業技術総合研究所の皮革の研究員、奥村章先生(故人)が仲間だ。調べたのは正倉院の花氈(かせん:花柄の毛氈)。毛氈(もうせん)というのはフェルトの敷物。真円に近い二つの立派な唐花文様。直径がほぼ1センチも狂っていない。花氈第一号は2.75m×1.39mの大きな敷物。神様が作ったのではないかと思うと本出さん。精密な花柄なので、陶器の技法である象嵌式で作られたとずっと紹介されてきた。また、素材は古品種のカシミヤ(カシミヤヤギの毛)ということになっていた。でも、カシミヤがフェルト化しないことは、趣味で紡ぎをしている勉強家のスピナーたちは経験値でよく知っている。ジョリーさん、奥村先生、本出さんは、そうではないだろうと意見が一致し、研究調査を始めた。フェルトは羊毛を何層か重ねて作るのだが、一層だけで作る薄いプレフェルトがある。このプレフェルトと無撚糸(撚りのかかっていない糸)を並べたり重ねたりして文様を作り出す方法を説明し、はめ込む技法の象嵌式ではないことを検証することができた。2013年の新しい紀要は、「花氈の素材は羊毛で技法はプレフェルト」と書き換えられたとのこと。すばらしい成果だ!
◆研究員としてわかったこと。宝物は最高の職人が作ったと思っていたが、フェルトがはがれている部分もあった。下手な人もいた。非常に親しみを覚えた。千年くらい前の人の息遣い。時間を超えた共感みたいなもの。性格まで想像できる。また、丹念に見ていくと、花弁一枚一枚から同じ呼吸を感じた。一人で作ったと思う。いろいろな宝物を見ると、何人で作ったのかがわかる。工房の規模や特徴もわかる。歪みやゴミのある雑な仕事も見えてくる。いろいろな面白さがある。そして、学者の先生たちがその前の資料を書き写しただけで、検証していなかったこともわかった。自分でやってみる、考えてみることがされないで、本に書いてあることやネットで得た情報だけをコピペして抽出していくと、次の時代に伝える情報が大きく変わっていく可能性があるのではないかと考えていると本出さんは話す。
◆日本での羊の歴史に話は続く。戦国時代、南蛮渡来の敷物で陣羽織を作るというのが大流行した。ものすごく派手な羊毛の敷物(フェルトや織物)で作る。軍服としても外套としても、雨風を凌ぎ体温を保つシェルターとして重宝された。陣羽織を鎧甲冑の上に着ると、かっこいい大将であるということを誇示できる。羊毛製品を一番欲しがったのは侍だった。8世紀頃から日本に入ってきていた毛氈は、江戸時代には80万枚輸入されたという。驚きの枚数だ。銅が大量に流出して幕府の財政を脅かす。たまりかねて、国産品を作ろうと考えた。1800年頃に第十一代将軍徳川家斉の案で巣鴨で羊を飼い、300頭まで増やしたが、1、2枚の羅紗(ラシャ:毛織物)しか織れなかった。江戸時代から明治時代にかけて、長崎、千葉県三里塚などでも試みるがうまくいかない。日本の風土に合わない品種だったこともあるが、一番の問題は羊も牧畜も知らない政府の役人たちの働きぶりだったようだ。明治政府は軍服官服を作るための羊毛が欲しかった。オーストラリアから輸入することにする。そこから、殖産興業として毛織物産業が盛んになっていく。日本の羊の歴史は政府主導。自国生産せず羊毛だけ消費してきた。
◆昭和になり、雨の降る地域でも飼えるコリデールを導入。第二次大戦後は衣料品不足を補うため、1945年からの10年間で100万頭まで増えた。しかし、昭和36年に羊毛が自由化となり、激減した。今、日本にいる羊は2万頭くらいだそうだ。200〜400頭を飼っている牧場もあるが、3〜4頭の羊を飼う自給自足の羊飼いもいる。糸を紡いでセーターにして、年間40〜50万円。糞を蒔いて土壌改良。季節の山菜、干し柿の出荷、お米と野菜を育てて生活している。世界的には本当に特殊。衣食住を全部賄い発展してきた西洋の羊文化と、百年あまりの歴史しかない日本の考え方の違いは大きい。もしかしたら、羊本来の考え方に、なぜか日本の若者が目覚めたのかもしれない。新規就労する若い人も増えているという。興味深いお話だ。羊こそが持続可能な生き方の考え方が集約されたものじゃないかな。食べ続けてきたから生きている家畜なのだ。
◆本出さんは2019年から「ジャパンウールプロジェクト」という活動を始めた。ここ20〜30年、日本の羊の毛はほとんどが放置されてきた。用途がなかった。それをなんとか利用しようと考えて、愛知県一宮市の毛織物工場、国島株式会社の社長伊藤核太郎さんと一緒に立ち上げた。質のいいジャケットが作れるくらいになってきている。日本の羊毛は主に中番手でイギリスの毛に非常に近く、ツイード用に適している。ブランケットや敷物にもいい。「できれば日本の羊の毛で地産地消につながるようなサプライチェーンがつなげるといいなと思っています」と本出さんの声は明るい。
◆ここからスピニングの実演。みんなが本出さんを取り囲む。厚紙で作った直径7センチくらいの円盤の真ん中に菜箸を通し、原毛をひっかけてひょいっと回すと、魔法のようにクルクル糸が紡がれていく。見ているだけで楽しい。回り続けるのが大切とのこと。毛の脂を取り除いて、虹色に染めた原毛が準備されていた。希望者に少しずつ分けてくださった。私自身の経験が甦って来る。手の中でフワフワの原毛が糸のようなものになったり、キュッと縮んで分厚いフェルトになったり。自分の目と手でその変化を感じたとき、ものすごく楽しかったこと嬉しかったこと。原毛は実家の押入れにあるはずだ。
◆羊をめぐる衣食住、文化や宗教の歴史、学術的調査。さらに本出さんの生きる姿勢がぐいぐい伝わってくる深くて濃いお話だった。羊についてこんなに考えたことはなかった。専門用語が多かったが、本出さんのやわらかい語り口に助けられ、理解することができた。たくさん学んで満ち足りた気持ち。不思議な幸福感に包まれる。本出さんに導かれて、いつのまにか「羊をめぐる暮らしと世界」のことを考えていた。[中畑朋子]
イラスト 長野亮之介
■まさか羊のおばちゃんの私にお声がかかるとは思ってもいませんでした。40年前から「青い地球一周河川行」の報告書に胸をときめかせ、モンゴル遊牧民の映画『プージェー』に衝撃を受け、一緒に旅する気分で『グレートジャーニー』にはまり、『西蔵漂泊』チベット潜入の登場人物や著者江本様に畏敬の念を抱き、綺羅星を見るように地平線会議の活動を遠くから見てきた私にとって、その星々が集まる会でまさか話をさせていただくなんて!
◆それでは自己紹介から。京都で原毛屋(ウールクラッサー・羊毛鑑定人)と出版社をしています、といっても一人です。原毛屋を始めたころ、父に「最近何をやってるんや?」と聞かれて、「手紡ぎ用の原毛を輸入して、趣味の染織しているスピナーに売ってる」と言うと、「…それどんな麦や?」と聞かれました。父だけでなく、そもそも誰にも理解できなかったと思います。毎回説明するのがめんどうで「SPINNUTS(スピナッツ・紡ぎに夢中)」という雑誌を始めました。それが出版社を始めるきっかけです。
◆そもそも糸紡ぎ、染織は女性の手芸、趣味ですから、認知されない=視界に入らない存在・ジャンルだと思います。「旦那さんのお金で、結構な趣味やねえ」というしらじらした視線をずっと感じています。でもほんの何百年、いえ地域によっては人間の衣食住を支える大切な手技であったはずです。
◆近年LGBTという言葉を聞くようになりましたが、差別されるステージにも上がっていないのが「手芸する女性」。経済社会では存在すら見えていないジャンルではないでしょうか。そんな私は2月21日当日、羊をめぐる衣食住——その世界と日本のことを偉そうに話しました。かなり恥ずかしかったです。でも今回何が一番言いたかったかと申しますと、その見えていない世界の中にこそ、大切なものがあるということが言いたかった。言わずにおれないこの気持ちを、どう伝えようか……。
◆現代の私たちの日常生活は、お金で衣服も食べ物も手に入れています。自分で作らなくても出来上がったセーターを着る=消費するだけですが、もともと人類は羊を育て、羊の世話をして、羊の毛刈りをして、毛を洗って、染めて、糸を紡いで、編んだり織ったり縫製して服にして、そしてようやく着ることができていたはずです。そういうことを知らずにすっ飛んで、現代はただただかっこいいという理由だけで、流行のファッションを追いかけて消費していることに、もやもやとしています。原毛屋になると決心した理由は「糸を紡ぐこと」は世界共通語だと思ったからでもあります。
◆しかし現実のウール業界は「ウールはチクチクする」という消費者のニーズにこたえ、細番手のメリノ羊やカシミヤばかり増やし、化学繊維の後追いをしています。一方太番手の羊毛の消費は少なくなり、ひいては在来種だけでなく主要品種でさえ維持が難しくなっています。羊の毛・ウールにしかできないことはあるのです。そして羊の恵みである肉と羊毛を消費し続けない限り、羊の品種を維持し、羊を生かし続けることはできないのです。
◆羊の家畜化は1万年前といわれています。羊はその肉と乳と毛から人の暮らしを支えてきました。羊は家畜です。家畜は英語でLivestockと言います。すなわち生きている在庫。人は羊さえ傍にいてくれたら生きていけると思ったでしょう。リアルからAIへ、世の中の価値観が大きく変わろうとしている現代、あえて経済という視界の外にある世界——羊と羊毛——を無駄なく使う取り組みの中に、持続可能な道が見えてくるのではないかと思っています。
◆最後に今回この機会をいただけましたこと幸甚でした。長野様のど真ん中を射抜く似顔絵とコメント。本所様の当日だけでない細やかなサポート。丸山様の丁寧な報告動画。なにより会の運営から通信発行と……皆様一丸となっての協力体制に驚きました。お一人お一人がプロの実力と惜しまぬ労力でこの会が成立し、かつ46年毎月続けられていることは驚愕です! まずは皆様へ心よりの御礼と、その一コマに登場できた幸せをお伝えしたいと思います。ありがとうございました。[本出ますみ]
■江本さんからの強い要請(!)により、ちょっとだけ近況報告です。北海道に移住して今年で早8年目。すっかり生活になじみつつも、雪道でスタックした車の脱出を当たり前のように手伝って、何事もなかったかのように通学路を帰っていく少年たちの姿にちょっと感動するなど、ふとしたときに顔を出す郷里・長野とは違う文化や習慣を楽しむ日々です。
◆仕事は変わらずに住宅雑誌やWEBメディアの編集を続けています。地平線通信の中で皆さんによって語られる世界軸とは少し異なりますが「住宅」を起点に、日本の住文化や建築、それを取り巻く経済や環境、エネルギーなどについて常に学び、思いを巡らせています。住宅を含む「建築」は、少し長いスパンでゆるやかに、でも確実に社会や個人のライフスタイルの変化が反映される。そのことを、足掛け20年以上住宅に関わる仕事をしていて痛感している今日この頃です。
◆住宅といえば、昨年小樽に自分の家を持ちました。念願だった「薪ストーブのある家」です。それこそ20年以上公私にわたって薪ストーブに触れてきて、その魅力は十分に知っているつもりでしたが、仕事から帰って玄関の扉を開けたときに、目の前で炎が揺れているのを見る瞬間は、何物にも代えがたい安心感に包まれます。それは「ここが居場所だ」と心の底から思える安心感、とでも言えるでしょうか。引っ越しからまだ1年弱。実家を出て初めて一つの場所に根を下ろす時間を、ゆっくりと味わっていこうと思っています。
◆地平線通信は私にとって相変わらず、日常とは違う視点への大切で興味深い世界への小さな扉です。最近の通信の内容でいえば小松由佳さんのシリアの報告記などはその典型ですが、自分の見える範囲で完結しているようにみえる世界が、実は果てしなく広く深い世界のさまざまな事象と地続きであることを、信じられる言葉で伝えてくれる貴重で希少なメディアだと、最近は改めて強く感じます。これだけのものを月に1回のペースで作り発信し続けることは生半可ではないでしょうが、これからもさまざまな世界や分野で活躍されている皆さんのお話を楽しみにしています。[西牧結華]
■本日3月8日、シリアはアサド政権崩壊から3か月を迎えました。しかしそのシリアでは今、大変遺憾ながら、情勢が不安定化しております。
◆アサド政権崩壊後は、反体制派の指導者アハマド・シャラア氏が暫定政府の大統領に就任し、破綻した国内の経済やインフラを立て直すべく、政治活動を行ってきました。しかし、様々な宗教的少数派、政治的立場が存在するシリアでは、こうした異なる勢力が一同に手を取り合うことが難しい状況にあり、さらにシリア西部のラタキア、タルトュース周辺では、アラウィ派を中心とする旧政府支持者と、暫定政府の治安部隊との間で大規模な衝突が起きています。3月7日の衝突では、民間人を含め100人以上が死亡したとされ(200人以上死亡とする報道機関も)、昨年12月のアサド政権の崩壊以後、最大規模の衝突と報道されています。
◆そのきっかけは、アラウィ派の武装組織による、暫定政府の治安部隊への待ち伏せ攻撃があり、治安部隊に多くの死者が出たこととされています。しかしその報復として、アラウィ派の非武装の一般市民も攻撃対象となり、被害が拡大している模様です。こうしたアラウィ派の武装組織の上層部には、イランの関与も指摘されています。このような衝突が、シリアの他の地域にも拡大しなければいいのですが……。
◆あまりにも突然に起こったアサド政権の崩壊と、その後の体制転換による反動は、大きな混乱を生み、残念ながらこうした衝突が今後も続く懸念があります。さまざまな立場に分断されているシリアで、本当の平和がもたらされる日がくるのでしょうか。まだ予断を許さないシリア情勢を、今後も注視していきます。[小松由佳]
〈お知らせ〉12月に行ったアサド政権崩壊後のシリア取材の写真展を開催いたします。緊急開催的な写真展のため小規模ですが、現場の雰囲気を感じていただけましたら幸いです。ぜひご来場ください
場所:America-Bashi Gallery(アメリカ橋ギャラリー) 恵比寿駅近く
日時:3月26日〜31日 11:00〜19:00(初日は14:00から、最終日は17:00まで)*会期中無休
ギャラリートーク:3月30日(日)以外の全日、13時、17時。各15分
作家在廊日:3月30日(日)以外全日
(https://americabashigallery.com/syria128/)
■モンゴルで聞く音は、日本人の私にとって独特だ。真空パックの中にいるかのような大草原の無音(最初はこわかった)。そこに突然ツァルツァル響くバッタの羽音。首都ウランバートルで、昼夜構わず鳴りまくるドライバーのクラクション。道端で激しい口論になり罵倒しあう酔っぱらい。そんなモンゴルっぽい音の話を、今月から書かせていただくことになりました。
◆この時期に私が思い出すモンゴルの音といえば、ごりごりごり、すりこぎ棒が転がる音。1年前にウランバートルのアパートで寝ていたら、深夜2時に天井から聞こえてきて目が覚めた。上の階の部屋でドスンと小走りする足音、ヤー!とはしゃぐ幼い子どもの声、静かに!と叫ぶ女性の声も。「これはなに?」と居候先の友人に聞けば「ボーズをつくる音」だという。その日は大晦日だった。
◆モンゴルではお正月にむけて、ボーズというまるい羊肉の蒸し餃子を家族総出で数千個つくり、マイナス30度の外気で凍らせる。それをふかして家族や客人と毎日おなかがはちきれるほど食べ、新年の幸せを祈るのだ。ただ近年は深刻な大気汚染で白いボーズが黒くなってしまうので、ウランバートルの人に限っては家の冷凍庫で凍らせるという。
◆モンゴルのお正月は毎年変わり、ことしは3月1日。数日前のこの日、東京の我が家に日本在住のモンゴルの友人たちが来て一緒にボーズをつくった。料理する手を動かしながら彼らは母国の仲間とビデオコールをつないで、「新宿駅は1日の乗降者数がモンゴルの人口と同じなんだって!」と報告。つづいて母親へ「日本では餃子の皮っていう小麦粉が売ってて、これでボーズをつくると簡単だよ!」と報告。緊急の用件がなくても、大切な人と顔を見ながらしゃべり続ける。
◆お正月3日目、ウランバートルから30代後半のゲイの友人が我が家に避難してきた。恒例の親戚めぐりで「なぜ早く結婚しないのか!?」と責めたてられるのが苦行だからといい、今もうちに居候中。マッチョ信仰が強めのモンゴルでは、家族にカミングアウトできず辛い思いをするゲイの若者が少なくない。ハンサムな彼の本当の姿を、家族はまだ知らない。そのうちたぶん諦めて言わなくなるよ、しばしの辛抱だよ……と私は彼を慰めた。
◆それでこの原稿を書きながら、モンゴル人が人目を気にせず豪快に音を出すのは遊牧民の血が流れているからかな?と聞いてみたら、そうかもしれないと彼は言った。となりの家が50キロも離れている草原では、人間に会えると単純にホッとして嬉しい。遠くに誰かを見つけたら大声で呼びかけるし、近づけばおしゃべりが始まるし、人との距離が近くて幸せそう。けれど社会の輪から外れて、孤独に苦しむ人もいる。人口が少ないから、孤独の闇に陥るのをよけいに恐れているようにも見える。友人たちが抱える寂しさを共有するようになってから、彼らが大きな音を出してもうるさいと思わなくなった。
■第1回日本モンゴル映画祭(3/22~3/28)開催まで間もなくですが、上映素材が、来日ゲストのビザ発給が、間に合うのか!? ヒヤヒヤが尽きません。個人的なおすすめ作品は、直近3年のアカデミー賞モンゴル代表に選ばれた『ハーヴェスト・ムーン』『冬眠さえできれば』『シティ・オブ・ウインド』です。前売券(1,300円)は会場となる新宿K's cinemaと歌舞伎町のモンゴル料理モリンホール屋で発売中です。ぜひ遊びにきてください!
公式サイト https://mongolianfilmfest.com/#news
■地平線通信550号は2月12日午後、印刷、封入作業を行い、新宿局に渡しました。いつもよりページ数が16ページと少なめだったため作業は快調に進んだのですが、水曜日の夜に預けても翌木曜日発送となるせいか、皆さんのお宅には翌週になってしまうことが多いようです。駆けつけてくれたのは、以下の皆さんです。終了後は少し離れた場所まで歩き、餃子専門店で焼き餃子、水餃子、白菜餃子などを食べながら、話が弾みました。今回は長岡のり子さんがあんパンを焼いてきてくれたほか、本所稚佳江さんも高知のお土産を差し入れてくれました。みなさん、おつかれさまでした
車谷建太 中畑朋子 伊藤里香 本所稚佳江 長岡のり子 高世泉 中嶋敦子 落合大祐 白根全 武田力 江本嘉伸
■日本中がコメ騒動になり、思い出したのが50年前の中学生時代に手に取った本、『いま、村は大ゆれ。』。佐賀県の農家、山下惣一さんが書いたもので、村に後継者がいなくなり、来てくれるのはフィリピン人の嫁ばかり。田舎から国際化が始まっている現状や、減反減反で農民がやる気を失ってしまっていること。輸入野菜の影響で農作物の価格が下落、そこに土地の転用話が持ち込まれ、農民が右往左往するさまが率直な口調で語られていて驚きながら読んだ一冊だった。こんな大変なことが全国の農村で起こっているのに、どうして大人たちは放っておくのだろう、大切な食べ物を作ってくれる人たちの話なのに、と強く思ったことを覚えている。
◆それから20年後、漁村も大揺れと知った。農村に対しては何もできず、働きかけることもできなかったという責めが心にあったのか、全国各地の漁村へと走りだした白石ユリ子さんを見守るだけではなく、私も一緒に走りだしていた。そうかあ、私が漁村へと向かったのは、コメから始まっていたんだ、といまあらためて思ったところだ。
◆今年1月半ばまでは、とにかくアフリカでの「すり身プロジェクト」だったが、1月半ばから現在にかけては、1年分のこども対象の活動を濃縮して取り組んでいる。「われは海の子プロジェクト」。
◆日本には14000の島がある。そのなかの一つの島をテーマに学ぼう、調べよう、行ってみよう、というプログラムだ。今年は横須賀市の相模湾側の天神島がテーマ。東京から高速に乗ったら1時間半で着いてしまうエリアだが、昔からの漁村だ。定置網漁師さんは、アジ、サバ、イワシにマグロまで入ってくるよ、という。タコやイカも有名で、いまはワカメ、これからはシラスも美味しい。
◆漁師さんは「いまは魚が安くて大変だ。定置網は多種多様な魚がとれる良い漁法だが、小さい魚は市場が評価してくれず二束三文。美味しさは変わらないのに残念だね」と、こども記者に話した。そして「皆さんが水産庁の役人になって、国の政策を変えてほしいよ」「でもね、自分たちでも努力しているんだよ。最近、水族館のイルカのエサにする、という活路をみつけたところ」と話してくれた。
◆このプログラムは、大勢のなかから選抜されたこども記者が、みずから取材したことを友だちや学校、保護者、地域の皆さんに伝え、漁業という食料産業の大切さを広く世の中に伝えることが目的だ。漁村取材だけではなく、別班は豊洲市場に行き、天神島の魚の流通を調べ、発表する。
◆なんとも手間と時間がかかることなのだが、関わってくれる漁村の皆さんも、豊洲の皆さんも、信じられないほどの熱量でこども記者を応援してくれる。ありがたいことと毎回、感激し、漁業が滅びゆく産業にならないようにがんばろう!と気合いが入る。
◆われは海の子活動は3月20日、23回目の取材成果発表会を迎える。今回は、魚のことだけではなく、コメも話題になることだろう。[佐藤安紀子]
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■3月初め。松本の街で最高気温15℃前後を記録した土日に、一人で上高地にテント泊をしてきた。一人での雪上テント泊は初めてである。膝の靭帯再建手術から4か月経ち、そろそろ山歩きに復帰しようと思っていたところだった。快晴予報を知り、これを利用しない手はないと思った。閉山中の上高地に行くのは初めてで、どの程度人がいるのか想像できなかったが、快晴の土曜、案の定人の波は押し寄せツアー団体も多く、特に驚いたのは外国人の多さだった。半分は外国人だったのではないかと思われる。ツアーが多いが、数人の仲間や1人で来ている人もちらほら。外国にはもっと大きなスケールで似たような景色の場所はいくらでもありそうなものなのに、日本に来てわざわざ単調なトンネル歩きをしてまでして来るほどのものなのだろうか。もしかしたら彼らはこういった場所の魅力を日本人よりもよく知っているのかもしれない。
◆多くの人が歩いているので雪は踏み固められ、スノーシューは履かずとも歩きやすかった。日差しが温かく、大正池を過ぎたあたりの川のほとりで太陽に背を向けて座って暫くのんびりした。エメラルドグリーンの透きとおった水の上を水鳥がスーっと動く。目の前で動いているものはそれだけであった。だんだん眠くなってきてザックの上で横になり空を仰いだが、目に映るものが快晴の澄んだ青い空だけであると、今は夏だと言われてもおかしくないと思った。
◆河童橋の周辺は、ここは街かと疑いたくなるほどに人で溢れていたが、自分のようにキャンプをしに来た者は、ザックの大きさを見ると圧倒的に少ないようであった。橋を渡ったところで、快晴のもとの白い穂高連峰を拝みながら軽く昼食をとるが、30分足らずで立ち上がる。初のソロ雪上テント泊なので上手くできるか少し不安もあり、早くテントを張って人目のない所で落ち着きたかった。
◆上高地でのテント泊は通年小梨平野営場でと決められており、解放されている冬期用トイレもありがたく使わせていただく。雪をならし、ショベルでテントより少し広くフロアを掘る。雪遊びはこれだけでも十分楽しい。実際にやったことはないが、オリジナルな自分だけの小さな庭を創り上げたような気分ときっと同じ。一点一人で気がかりであったことは、熊との遭遇だった。
◆上高地ではないがつい最近北アルプスの同じ標高帯で動いている熊を見たという情報を聞いていたので、一人で来ておきながらこういうことには人一倍心配症を発揮してしまう。隣のテントは何十mも離れて木々に隠れて見えない(他のテントはおそらく5張を越える程度であったと思われる)。
◆私のテントの周辺はあまり人の来ない場所だったので、まったく効果があるのかわからないが人間の存在をアピールしておこうと、明るいうちに周囲を散策し足跡を付けて回った。午後2時半頃、そのまま再び河童橋の方まで歩いてくると、つい数時間前は人で溢れていたのがこのときは10本の指で数えられるほどにまで減っていた。そのなかでも1人で来ていると思われる欧米系の人がずっとサルを追いかけ眺めていた様子が印象的だった。大半の人は帰っていったのに、よくこんなところに1人で来たなぁ、この後もどうやってだか一人で帰るのだなぁ、と感心する。
◆なぜだかわからないが、昼下がり堂々と姿を見せている雪の穂高連峰と煌々と日差しを浴びる河童橋と梓川とサルたちと、好奇心を隠さずにそれらと在る、1人の外国人のすべてが、この景色を見ることができてよかったと思わせた。冷静になってテントに戻ってきて、のんびり雪を解かしながら夕食を作り、暗くなってからすぐに横になった。
◆夜のうちに風が出て、朝起きると気温は暖かく時おり雨が吹き付けていた。雨の一時止んだ瞬間を掴んでパパッとテントを撤収し、寄り道せず帰途につく。前日は群れでたくさんいたサルたちはこの朝はまったく見なかった。ごうごうと風が山を森を鳴らしており、山だからあたり前の強風かもしれないが、春の嵐のようにも感じられた。朝7時、誰もいない河童橋の前でライブカメラに向かって手を振る。それから歩き出してほどなくして、1人の外国人と日本語であいさつをしてすれ違った。前日よりは少ない気がしたが、時間が経てば経つほどだんだんとすれ違う人の数は加算されていくし、ラストの釜トンネルでは20人近くの団体とすれ違った。
◆雪山に来ること、それも1人で来ること自体まだ経験がわずかななかで、厳冬期ではなかったが憧れていた上高地の雪上テント泊ができて満足した。私はきっと、どこかを登攀するとか滑走するとか目標のある山ではなく、永遠に続くような、のんびり歩いて時おり静かに籠って暮らすように旅を、山をしたいのだと思う。本当は静かに籠って本でも読みたいものだが寒いとそれどころではないのでもっと温かくする装備が必要だと気づいたし、それはやはり膝の治療が落ち着いてからのことだと認識した。
◆そして、思っていた以上に人がいて、なんだか落ち着きに欠けた。人がいるのは安心要素であるが、本来の目的が少し違ったものになってしまう気もした。1月2月の上高地であったら別の感想になっただろうか。この時期の上高地というものにはもうすっかり満足してしまった。人はそれなりにいるし整地された道歩きは長く、山でありながら街のテーマパークのような場所であると認識したからだ。もうしばらくのあいだはこの時期に1人でここに来ることはないだろう。[小口寿子]
■江本さん、初めまして。北海道はちえん荘メンバーの山川です。このたびは五十嵐宥樹君が繋いでくれたこともあって、2024年11月から2025年2月にかけて4部にわたる地平線通信を読ませていただきありがとうございました。2月下旬のある朝、薪ストーブに火をつけ朝飯を終えて一息に読み始めました。まずは各号の表紙の記事を読み、小松由佳さんのシリア情勢の報告を12月号から2月号にかけて読みました。2024年末のアサド政権崩壊はネットニュースで知りました。その当時は目まぐるしく変化する中東情勢の歴史の転換点の一つという認識に過ぎませんでした。
◆2月号の『嬉しくて悲しい/シリア緊急報告』は解放されたシリアと破壊されたシリアを象徴しているように思いました。シリア入国前、そして入国後の国内の様子や、サイドナヤ刑務所で起こっていた想像を絶する環境は読みながらに手に汗が滲むような緊張を感じました。シリアではこの混沌とした時代ですが、今そして未来は存在し、時代の当事者はこれからどう生きていくのだろうか。状況や背景はまったく違えど、著しく衰退しているように見える日本に住んでいる我が身としても“未来”について改めて考えさせられました。
◆それからは11月号から2月号にかけて各号を読んでいきました。書かれている分野も様々で、政治、文化、歴史、探検、旅、食などとても幅が広い! それぞれの記事からは書き手の方々の人生を通してもたらされた知見や個性が文章にのせられており、読み手としてまるで当事者の隣にいるような気持ちで読ませていただきました。個人的ではありますが特に印象に残った記事は車谷建太さんの“よされ三味の音流れ旅”。日本の伝統的な生活を見るためのアテのない一人旅の道中記。出発当初からは想像もつかない未来の成り行きはまるで一本の映画を見ているかのような濃い一期一会の連続の物語でした。
◆僕も学生時代に始めた旅を経て、そしてたった5分でもお互いの行動がずれていたら今につながっていなかったような一期一会の連続の末に、今のちえん荘生活があるのだと思っています。個人的に好きな言葉があります。“バタフライ効果”という言葉です。気象学者のエドワード・ローレンツ氏の言葉で、『ブラジルの1羽の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こすか?』という講義に由来しています。人間社会に限定して言えば、一人一人の何気ない日常の揺らぎが常に未来を大きく左右していると個人的に解釈しています。これが非日常を日常とする旅においては、旅をする人の未来にいかに大きく影響を与えうるか……。地平線通信の記事には空間的・時間的な奥行きを感じ、読みながらに旅を味わうことができました。そんな“読旅”を終えたころには正午を過ぎていました。
◆2021年末、かつて北大探検部にいたころからの仲間である五十嵐君からのお誘いを受けて北海道東神楽町はちえん荘住人になり、それから隣町の美瑛町にて有機野菜を育てられている親方の元にて研修を受けました。その研修期間もつい先日の2月28日をもって修了しました。今年32歳になりますが、新規就農者として一歩を踏み出し始めたところです。
◆僕が畑仕事を選んだ理由は、生きるためです。子どものころから雲が動く様子や雨降りをずーっと眺めてしまう癖がありました。インターネットを知り始めたころには国内の気象データを眺めることも日課になり、記録された気温の数値上どうやら日本全体は温暖化しているらしいということは認識していました。天気に関心があったらしく、北大に進学したのも一年の中で劇的に季節が変化する北海道に魅力を感じたところが大きかったと思います。大学卒業後はやりたい仕事が見つからず、定職につかぬまま季節労働や自転車旅行をしつつ根無し草のような生活をしていました。
◆それでも日々の気象データのチェックは日課であり続けていたのですが、2020年代に入ってからの高温傾向はもはや数字を見るまでもなく体感できるようになりました。2000年代よりも、そして2010年代よりも明らかに温度が高い。19世紀後半からの温度の遷移を追いかけてみると温度の上昇も加速度的であり、この温度上昇が人類由来であることを前提として考えた場合、これからの未来の温度上昇はとんでもなく速いのではなかろうか?
◆暑ければ人間様は空調の効いた部屋に逃げ込むことができるけれど、植物は逃げることができない。今まで作れていた作物が作れなくなれば、ただでさえ食の観点ですら自立できていない日本は少子高齢化と相まってたちどころに極めて深刻な食糧不足に陥る……、などと毎日のように未来の天気について考えていると、「いくら金があっても食い物が手に入らない時代が確実にくる、問題はいつそうなるかだ」という個人的な危機感を抱き、畑仕事を選ぶに至りました。
◆それでも畑仕事は1人だと大変で、多くの地元の先輩農家の方々や、近隣の方々、ちえん荘の仲間たち、町外の同年代の同志達に物理的にも心理的にも助けられています。恒久的な人との関わり合いが、より豊かな未来を実現するための素地を養っているのだと実感します。この地平線通信を読んでいる最中にも“生きること”、“旅の中の一期一会”、“人と人との継続的な付き合い想い合い”を感じ、これから起こるであろう動乱の未来の希望はほかでもない“人”なのだと再認識させていただきました。[山川佑司 北海道美瑛町]
■展覧会を開催します。場所は奈良の「ギャラリー勇斎」です。前回は、江本さんをはじめ、地平線会議のみなさまに見ていただけたこと、感想をいただけたこと、ほんとうにありがとうございました。とても励みになっています。
◆今回のタイトルは「ちいさくて おおきい おおきくて ちいさい」です。とくに深い意味はありません。いろいろなことは、どれも、ちいさくておおきいおおきくてちいさい、とか、みじかくてながいながくてみじかい、とか、せまくてひろいひろくてせまい、とか、あさくてふかいふかくてあさい、とか、よわくてつよいつよくてよわい、とか、どちらか一方では無くて、どっちもだという感じです。[緒方敏明]
期:2025年4月15日(火)~4月27日(日)※月曜日は休廊
時間:11時~18時(最終日は16時まで)
場所:「ギャラリー勇斎」
奈良市西寺林町22 電話 0742-31-1674
■昨年12月の地平線通信発送日、二次会の「北京」で、ママさんに餃子2パックのテイクアウトをお願いした。それを持ち帰り、形崩れしないよう凍らせた上で秘技真空パック。再度冷凍保存し、この1月に北海道へと運んだ。そして先月の某日、甥っ子宅を訪ね、慎重に温め直して、夕食にみんなで味わった。小学4年生の彼の願いは、「いつか通信の発送を手伝って、北京の餃子を食べたい!」だった。突然の閉店でそれは叶わぬ夢となったが、一緒に持ち込んだ店名入りの皿と割り箸も並べたら、卓上にひととき早稲田の名店が甦った。この日、地球上最後の北京餃子は役目を終えて天に昇り、夜空に輝く「餃座」となった。[季節移動者の久島弘]
イラスト ねこ
■2月22日土曜日。ニューデリーの朝は空が茶色い。金曜日までの出張仕事が終わり、デリー国際空港から、帰国する同僚たちと別れて、国内線でひとり、スリナガルへ向かう。約1時間のフライトで着いたスリナガルは2月らしい寒さ、そして空気が澄んでいる。
◆インドの空港につきもののタクシーの客引きがおらず、迎えのドライバーからは「航空券番号がないと空港への検問が通れない」と事前に問い合わせがきていた。桜木武史さんがカシミール紛争を取材していた2005年当時より情勢は落ち着いているとはいえ、インド国軍が力で押さえ込んでいる状況に変わりはない。むしろモディ首相率いるインド人民党の躍進を背景に、「被占領地」の自治は後退している。空港の内外だけでなく、市街地に続く通りにもマシンガンを構えた兵士の姿が目立つ。空気は澄んでいるが、ピリピリした緊張感がある。
◆2泊3日の週末旅の目的はそんなカシミールの取材ではなく、インド最大のスキーリゾート、グルマルグでスノーボードをすることだ。リフト一基だけの謎に包まれたローカルなスキー場がカシミールにあると聞いたのは20年以上前のこと。誰もいない雪の急斜面に架けられたリフトの写真が印象に残っていた。
◆空港から約60キロ。ヘアピンカーブの連続でも「インド走り」でクラクション鳴らしながら先行車を追い抜いていく。上がりきったところでいきなりタクシーや客引きが道を埋めていて、クラクションの喧噪。そこが標高2600メートル、グルマルグ村のタクシースタンドだった。
◆地元のスキースクールでボードや装備を借り、その日は下見をしているうちに日が暮れた。夏はゴルフ場になる草原に雪が積もって、観光客が遊んでいる。短いスロープでは貸しスキー屋がブーツとスキーを並べて子供たちを待っている。その脇を観光客乗せたソリ引きが行き来していた。ひょっとしてインドではリフト代わりに人がソリを引くのか?
◆宿に戻ると、目の前のモスクからアザーンが聞こえる。日が落ちると急に冷え込んできた。夜はマイナス7度。客室に電気毛布を準備してくれていたのは、暖房が壊れているからだった。
◆夜中にたびたび目が覚めるのは不安のせいか、標高のせいか。7時に起きると山に曙光。ゴンドラ乗り場にはすでにインド人観光客の列ができていたが、そっちじゃない、と反対側の乗り場を案内された。スキーヤー向けのパスの販売は9時からだという。長蛇の列の観光客と異なり、スキーヤーは数えるほどしかいない。私以外の外国人は欧州から来た人が多いようだ。互いにビーコンをチェックさせてもらう。
◆ゴンドラはコングドーリの中間駅を挟んで上部下部の2本に分かれていて、山頂駅はアファーワト山の肩にある。朝はガスっててグルマルグ村から山頂が見えず、きょうはダメかと思っていたが、1時間もかからずに山頂駅が見えてくると晴れていた。あの一基だけのリフトも「メアリーの肩」というかなり高い尾根まで架けられている。そして誰も滑っていない。これだよ、見たかった景色は。
◆山頂駅は標高3980メートル。銃を持ったアーミーが警備している。少し先の尾根にインド国旗を掲げた駐留テントが見えた。その向こうは軍事境界線。スキーパトロールではなく、ライフル持った国境警備隊の視線を感じながら雪面を滑るのは初めての経験だ。尾根の向こうに間違って滑り込まない限り、撃たれないとは信じているけれど。
◆少しハイクアップして、4000メートルを十分越えてからボードを着ける。遠く、雲の向こうに突き出ている三角形のピークはナンガパルパッドだという。さて滑るぞ。上部は少しクラスト。でもボウルには深雪たっぷりで、はまらないように降りていく。今年は雪が少なく、しばらく積雪がなかったが、ちょうど数日前から3日間降雪が続いたという。運がいいぞ、とスキースクールの係員に言われたのを思い出した。メアリーの肩では春先に雪崩がある。視界はクリアだが、耳を澄ませながら降りていく。
◆そのメアリーの肩からグルーミングバーンになったが、ややでこぼこして滑りにくい。ボードをコース脇の深雪に当てて滑る。それにしてもこの高度。息切れする。小さな谷に滑り込み、観光客が木製ソリをやっている上に出た。ソリの邪魔しないようにコングドーリに到着。標高3100メートル。朝行列していた観光客がここまでわんさかやってきて、ここでもソリの兄ちゃんたちが客引きしていた。
◆ランチしているあいだに曇ってきたので、もうピークは目指さず、もう2回リフトに乗って、カシミールの雪を楽しんだ。きょうの雪質だとメアリーの肩より下あたりが一番楽しい。チャドルをかぶった少女が器用にスキーを操る。リフトで一緒になった男はインド南部のバンガロールでソフトウェア開発しているそうだ。きょうは州知事がスキーしに来ているから大騒ぎだ、と教えてくれた。まあ、下手だけどね、と。
◆コングドーリから下はグズグズ雪だった。最後は見覚えのあるゴンドラ脇に出た。歩いてグルマルグ村へ戻り、スキースクールで装備を返す。「ラダックから来たのか」と言われる。そうか、日本人よりもラダック人に見えるのか。もっとチベット語を勉強しなくては。
◆いい1日だったな。時間にしてみれば短いが、満足な1日だった。天気に関してはきょうだけの一発勝負なのに、快晴無風が出迎えてくれた。アザーン、クラクションの洪水、犬の遠吠え。耳から聞こえてくるすべてが愛おしい。インシャアッラー。[落合大祐]
■江本さん、先日は転居確認のお電話わざわざありがとうございました。実は1年前に浜比嘉島内で引越したため江本さんにもご連絡しなければと思っていたのですが、原稿を書けと言われるのが怖くて連絡しておりませんでした……、というのは半分冗談で、単に不精しておりました。申し訳ございません。地平線通信は関西在住の母との共通の話題で、最近では親子の大事なコミュニケーションツールになっています。これからも拝読させていただきたいと思います。
◆さて引越しした理由ですが、なんと家主に突然出ていくようにと言われたからです。那覇に住んでいる家主には時々ご挨拶に伺っていましたが、ある日いつものように菓子折りを持って訪ねたところ、「親戚が浜比嘉の家を使いたがっている、もともと自分たちが使いたいと思っていたのになんで勝手に人に貸したんだと責められて困っているので、悪いがすぐに出ていってほしい」と言われたのです。家主にそう言われてしまうと「わかりました」と言う他なく(今思うと私も相当お人好しです)、浜比嘉までの帰り道はただただ呆然としていました。江本さんもご覧になったのでご存知かと思いますが、当時借りていた家は福木の大木に囲まれた古民家で、シロアリ被害でボロボロになっていた床を自分で張り替え、壁は大工の知人に塗ってもらい、古い竈門は染色作業に使えるよう修理して、とかなりの時間と手間をかけて改修した家で、それなりに思い入れもありました。
◆浜比嘉島には空き家はたくさんありますが、崩れかけていたり、家主に貸す気がなかったりで、人に貸せる状態の家はほぼありません。島に帰る道すがら「もう島には住めない」「これは染織の道を諦めて地元に帰れということだろうか」などと暗い考えがぐるぐる頭を巡り、更には1か月前に愛猫を亡くしたばかりだったこともあり、なんでこんな悪い事ばかり続くのかとひたすら落ち込んでおりました。
◆しかし捨てる神あれば拾う神あり。島に戻ってすぐ近所のおばさんに相談したところ「平識の家が空いているから貸してくれるかもしれない」とアドバイスを受けました。地平線・あしびなーに参加した方は当時区長だった平識さんをご存知と思います。「平識の家」は平識区長の奥さんが管理している家で、ここ数年人に貸していたのがたまたま空き家になっていたのです。
◆急いで平識夫妻に相談に行ったところ、私の状況に大変同情してくださり家を貸していただけることになりました。更に幸運だったのはこの家には井戸と広い台所があり染色作業には不自由しないこと、また機織り機が置ける十分なスペースがあったことです。おかげさまで引越してからの1年でずいぶん制作が捗り、最近は自宅で草木染めのワークショップも始めました。島の人たちには「引越してかえって良かったよ」と言われます。私も最初は色々納得できない気持ちがあったのですが、良い方向に進んだのでこれで良かったんだと思うようになりました。なにより私はまだまだ浜比嘉島で染織の仕事を続けたいんだという、自分の気持ちに気づけたのは大きな収穫でした。
◆ところで以前住んでいた古民家ですが、親戚が使うというのは大嘘で赤の他人に売り払ってしまいました。親戚云々は私を追い払うための言い訳だったようで、悪者にされた親戚の皆さんが気の毒です。お金が必要なら最初からはっきりそう言ってくれたら良かったのに、と思っています。[渡辺智子]
■2025年、寒くならない正月が過ぎ、小寒に入ったある日、山本洋ドクターが亡くなったと辛く悲しい知らせが私のホームページに届いた。山本先生は私の四万十暮らし20年(1997年~2017年)で、一番仲良くさせていただきお世話になった方だ。四万十町の山本先生と共通のカヌー仲間が知らせてくれたところによると、癌で長患いしていて一年前に亡くなったのだが、家族葬で済ませたため知らなかった友人知人も多い。一周忌にあたり記念文集を作ることになり、私にも知らせがきた次第。コロナ禍以降、連絡を途絶えがちにした不義理を悔いた。取り急ぎ、一文をしたため依頼があった思い出のイラストを描いて返信した。山本先生が四万十の沈下橋の上を翔び、カヌー仲間に見送られて天の川へ向かうイラストを観ていたら、第一回四万十ドラゴンラン(2007年)のとき、ウルトラじーじ原健次さんが指を骨折され、診察したのが山本先生だったことを思い出した。1月30日の宮本常一さんの水仙忌に、イラストと追悼文を持参し、江本さんに山本先生と原健次さんの一期一会の邂逅があったことを話した。「四万十ドラゴンランのことも含めて、原さんの思い出話とともに通信に書いてみたら」と提案をいただき、今この文章を書いている次第。
◆当文を書くにあたり江本さんに丸山純さん編集の「原健次の森を歩く」を借用し読み直した。47歳から始めたウルトラマラソンは100kmは朝飯前、1日200km以上を何日もかけて走るロングトレイルは日本全国、世界各国に足跡を刻まれている。専門は化学で大手化学メーカーの研究者、ビオラ奏者でオーケストラメンバー、岩石蒐集家、花を追って全国の山を登山。とんでもなく旺盛な好奇心と読書量、それを具体的に実行する行動力と計画性。博覧強記、多才多趣味、さらにそのレベルが半端なく、それらを通じて築かれた友人関係の広さも日本国内だけでなく世界に広がっていたようだ。自分のことはもちろん、人のこともあまり「凄い」という表現は使わないことにしているが、原健次さんについては、まさに凄いウルトラじーじとしか言いようがない。
◆四万十ドラゴンランは徒歩、自転車、カヌーの人力だけで、四万十川源流から海まで、196kmを一週間でたどるイヴェント。地元の高校生や仲間と2度やったことがあったが、参加者募集したのは初めてだったので2007年を第一回とした。新聞、ラジオ、ミニコミ紙、地平線通信などを通じて募集したら20人近い応募があった。上は80歳代の元小学校校長から15歳の中学生まで。アウトドア技術はプロレベルから70歳代の普通の主婦まで。参加条件をつけなかったからなかなか多彩な参加者になった。地平線関係者も3人来てくれた。年齢差、レベル差を気にしないようにスタッフが気を利かせて、全員あだ名で呼び合うようにした。江本さんは、4人の大学生たちからエモーンと名付けられた。アッパー、クエ、ウメ、キッシン、カズリンなどなど、今でも思い出せるあだ名と顔がある。もちろん原さんはウルトラじーじ。
◆ドラゴンランには、ある仕掛けを仕組んでおいた。その話の前段に閑話休題して、一つのエピソードを話しておきたい。2001年、西土佐環境文化センター四万十楽舎に入ったとき、関係者からいくつか要望を受けた中の一つが、「過疎化を食いとめるためになんとか新たな収入源をつくってほしい」だった。時代は「モノ」から「コト」へで、ただの見物する観光から体験観光が言われ始めていた。「日本最後の清流」四万十川流域は、農林漁業の名人の宝庫だった。本人たちがその意識がないだけで、そのチエとワザは知らない人が見聞きしたら感動する。2001年、さっそく「四万十インストラクター養成講座」として名人たちが案内人になるための1年間月1回の講座を開いた。翌年2月修了証書を渡しながら「これで皆さんは、四万十インストラクターとしてお客さんを案内して、お金を稼いで下さい」と言ったら、「バカにすなや、わしらはお客さんに喜んでもらおうと勉強しただけじゃ、そんなことで金が取れるか」と怒られた。少し反省し、これこそ四国八十八ヶ所遍路の接待文化だと大いに納得した。四国お遍路には弘法大師空海による両界曼荼羅(金剛界と胎蔵界)の修行の仕掛けが込められている。遍路たちは金剛界(己に厳しい)智慧の修行として、ひたすら歩く。迎えるものたちは胎蔵界(他に優しい)慈悲の布施としてただただ優しく接待する。歩くことはもちろん接待することも修行なのだ。この功徳の接待で金をもらうなんて、とんでもないことなのだ。
◆話はドラゴンランに戻る。この四国遍路の接待文化でドラゴンランをやり、参加者も接待者もお互い楽しい一週間の旅にしようと考えた。各宿泊地には、それぞれの山川海里の名人たちに話してもらうよう頼んだ。案の定どこでも接待文化大発揮し、いろんな地元自慢のご馳走を差し入れてくれた。山本先生が原さんを診断した夜は、大正町のキャンプ場ウエル花夢で四万十高校環境コースの生徒たちが四万十川の環境調査の発表をしてくれ、山本先生のカヌー&アウトドア仲間「野宴」のメンバーが山川海里の産物を持ち寄ってくれた。こんな夜を毎晩仕込んで接待し、昼間アテンドした地元の若者たちは気のいい私のアウトドア遊び仲間だった。その肩書きなど気にせず、エモーン、アッパーとタメ口を叩いていた。
◆原さんは金剛界智慧の修行もウルトラマラソンなどで十分なされていたが、家庭人として仲間として胎蔵界慈悲の布施も人一倍やられていたことは「原健次の森を歩く」に詳しい。まさしく丸山純さんが名付けた「原健次の森」、計り知れない奥深さがある。そして、この文では多く触れられないが、山本洋先生の金剛界智慧の修行と胎蔵界慈悲の布施も、名前の如く海のように広く深いものだった。ホスピス終末医療に造詣が深く、患者さん一人一人の話をじっくり聴く方だった。休日でもかつての患者さんから電話があり、丁寧に対応しているのを何度も見たものだ。仲間への思いやりも深く誰からも愛された。
◆山本先生への追悼文の最後は次の言葉で締め括った。「山本先生、本当にありがとうございました。安らかにお眠りください、とは言いません。天の川でカヌーしてキャンプで待っていてください、琴座の織姫さんがいるあたりで。おいおい、みんなが集まりますよ」。たぶん、天の川のほとりをランニングするウルトラじーじに出会い「あれ、どこかでお会いしてますね」とか言ってるかもと、想いを馳せると楽しくなる。
原健次氏 2011年2月17日逝去 享年65歳/山本洋氏 2024年3月27日逝去 享年68歳
◆余談 ドラゴンランでは、日本レベルで画期的な出会いがあったことを、この機会に書いておきたい。題して「サニーナのウルトラじーじとウォシュレットのハマチャンの大接近」。第一回四万十ドラゴンランには便器メーカー大手のTOTOがスポンサーでついてくれた。TOTO水環境基金に応募したら採用になった。審査にあたった浜田さん(ハマチャン)によるとタイトル見ただけで1番に採用決定だったそうだ。ハマチャンはかつてウォシュレット開発の責任者だったそうだが、「そのことは内緒に裏方に回ります」とのことだった。全行程に同行され、サングラスして目立たないように見守ってくださった。ウルトラじーじ原さんは花王のおしり拭きの大ヒット商品サニーナの開発者。原さんが怪我したときの山本先生の診療所への送迎はハマチャンがかって出てくれた。日本のお尻をキレイにした東西の両巨頭がこのとき、密かに会していたことになる。お尻の話だけに、おあとがよろしいようで。
■原健次さんが参加した四万十ドラゴンランには私も2度とも参加した。第1回は、2007年3月26日昼、JR土讃線の須崎駅が集合場所だった。近くの食堂で焼肉定食を食べて外に出ると「やあ」と元気な原の笑顔があった。左手の指に白いものを巻いている。「大谷のクスまで走ったらなんでもないところで転んで打ち付けてしまった。たいしたことないです」と言う。須崎には樹齢1300年という、幹まわり17メートルの巨大な楠がある。植物好きの原はそれを見に行った際、ころんだらしい。
◆四万十ドラゴンランは、四万十の源流まで歩いて登り、その後徒歩、自転車、最後はカヌーで太平洋まで計196キロの距離を漕ぎきる、6泊7日の変化に富む旅だった。源流から徒歩、自転車で下り始め27日は20キロ歩いて「大野見青年の家」というところに泊まった。ちょうど原健次62歳の誕生日で用意されたケーキで皆が祝った。3日目の28日は自転車で54キロほど下降し、「ウエル花夢」というキャンプ地まで来ると近くに診療所があった。山田高司が書いている山本先生のおられた診療所である。
◆診察を受けて戻ったとき、おだやかだった原健次の顔は一変していた。そして、私たちに聞いた。「最速で東京に帰るのにどうしたらいいですか?」。原健次はビオラ奏者としての一面を持っており、指は何よりも大事にしなければならない。山本医師の診断でそこが重症と知り、事態は急変したのである。幸い、帰京後の治療で指は全治し、ビオラ演奏は十分できた。翌年同じドラゴンランのコースに再度挑戦、見事太平洋まで漕ぎ抜いた。
◆元気な原健次が2011年2月17日未明、急性虚血性心不全で逝ったときは誰も信じなかった。2009年7月、地平線報告会をお願いしたときのテーマが「ウルトラじーじ欧州花追いラン」、4500キロを64日で走る「トランスヨーロッパフットレース」を完走した鉄人の報告だった。まだ65歳の若さでどうして。
◆原健次のいなくなった宇都宮の自宅には多彩な蔵書が残された。典子夫人に請われて地平線仲間が整理にうかがったが、マンガから学術書まであまりに多彩なその森はついに歩ききれなかった。
◆典子夫人はその後も地平線報告会に手製のお菓子を送ってくれるなどさまざまな喜びをくださった。地平線会議との付き合いという点では典子夫人の方が長期にわたった。しかし、ガンで倒れ、2018年7月4日朝、70歳の生涯を終えた。健次さん、典子さん、安らかであれ!
◆父さんが又、よくない。母さんの話によると今朝役所へ出かける時、靴下をはき、たちあがろうとしたのだが、腰がつっぱって立てない。しばらくしてやっと立ち上がったが、腰の辺が痛くてつっぱってとうてい役所《当時横浜地方貯金局勤務だった》へ出かけられるものではない。
◆とりあえず田辺さんのお兄さん(医者)を呼んで診てもらうことになった。はっきりしたことはわからないが、入院する程でもないそうだ。診察している時、僕は学校へ出かけたので学校へ着いてからもいろいろな「思い」が頭に浮かんできた。そのまま腰が悪くなって「廃人」同様になってしまう、僕が父さんを乗っけて乳母車を押す。お稲荷さんの坂《住んでいた豆口台から下の集落に降りるやや急な坂道》はうまくおりれるだろうか……。
◆(父さんが死んでしまう。僕は学校をやめて働く。姉さんはわからないが、何よりも兄さんが心配だ。働くことなどできるだろうか。僕は良いのだが……。)等の変な「思い」が浮かびでてきたのである。しかし、今、隣の部屋で秦野さんの小父さんと話している声は案外元気だ。
◆先刻母さんから借金が十六万円あると聞いた。驚いた。十六万円!! 僕らに心配かけないようにやっている父さんと母さんの苦労はどんなものだろう。
◆今日は久し振りで買い物ついでに映画へ行った。こういうふうに時々の映画鑑賞もいいものだ。しかも「東宝名画座」はものすごくきれいで四〇円ときている。帰りに「テクシー」だったのもよかった。見た映画は、ゲーリー・クーパー主演、インディアン出演の「征服されざる人々」。もちろんよかった。
原典子さんは、健次さんの蔵書の整理に私たちが伺った直後、懐かしい2人の故郷、福岡に思いきって向かった。命の最後の炎を燃やしての強行軍。その顛末を地平線通信に書き残してくれた。亡くなるわずか3か月前である。今でもこの文章を読むと心をわしづかみにされる(2018年4月 地平線通信468号掲載)。[E]
■6年ぶりに癌が再発しました。昨年の秋、例年のように地区の健康診断を受診したところ、大腸と肺の精密検査を受ける必要ありとの報告を受けたのです。その少し前、病院での定期検診で、5年完治の朗報も受けていただけに、驚きました。さっそく精密検査を受けると、大腸には異常がないものの、胸水が溜まり、胸膜に腺癌がカビのようにはびこっていて、全身の骨に多発性骨転移が見られるとのことでした。あちこちの骨に癌が点在しているというだけで、絶望に襲われました。
◆原健次が亡くなって7年が過ぎましたが、残されたたくさんの本、楽器、趣味で集めた品物の数々、手作りの本やアルバム等、まだほとんどの物の整理ができないまま暮らしてきました。これからだんだん不自由になると思われる私の生活も考えなければいけません。今後は、病院での治療と家庭での療養を繰り返しながら過ごすこともわかり、まず地区の包括支援の方々の協力で、電動ベッドを導入することになりました。しかし、壁という壁には本棚がある今の部屋の様子では、ベッドは置けません。
◆手始めに「本片付け大作戦」を決行することにしました。どの本も原健次の思い入れのあるものばかりで、片っ端から紐で結んで廃棄処分をするというには忍びなく、まず健次に近い方々に来ていただき、気に入った本を引き取っていただきたいと思いました。ベッドを置く部屋は時間の猶予もなく、近所の気の置けない友人6人が引き取ってくれたり、涙をのんで廃棄してくれました。あと書斎と書庫、納戸でも本棚が壁を覆っています。これは地平線会議の皆さんにお願いして、健次の思い出と一緒にずっと大切にもっていただきたいと、江本さんと丸山さんに相談しました。
◆そして早速、『原健次の森を歩く』を出版したときに発送作業に来てくださった皆さんを中心に呼びかけていただいて、精鋭7人が4月3日にはるばる宇都宮まで来てくださいました。しかし、作業はどの部屋でも一向に進みません。みなさんが、手に取る本に見入ってしまうからです。ましてや廃棄なんてできないと言われる始末。この日は持参してきたリュックに気に入った本を詰め、また後日ゆっくり整理をしに来たいと言い残して帰られました。
◆翌日、私は姉夫婦に付き添いをお願いして、新幹線で福岡に行きました。「今会いたい人に今会いたい」という思いがつのってきたからです。福岡では、6人の友人が待ってくれていました。途中気分が悪くなり、何度も吐きながら博多駅に着いた時は、大事をとって姉夫婦が救急車を呼んでくれていました。検査や点滴をして、翌日友人たちともなんとか会うこともでき、友人のお宅でミニ高校クラス会の思い出話や、ギターと私のオカリナのセッションも楽しみました。
◆新幹線での帰途、彦根に住む妹からメールが入りました。「新幹線が京都を出て10分過ぎて、進行方向左に小高い丘が見えます。そこに、二人で立っています」と。その場所を姉と目を凝らして、今か今かと待っていました。遠くに手を振っている妹夫婦を見つけ、思わず涙が溢れました。
◆皆さんに心配をかけてしまった旅。娘たちや息子、多くの方々に力を借りた入退院の日々。これからもきっとたくさんの方々にお世話になると思いますが、一日一日を大事に、感謝の気持ちを持って生きていきたいと思います。
◆地平線のみなさんも来月、二度目の訪問を予定してくださっています。どうぞお好きな本を手に取って愛読書の一冊に加えていただきますよう、お待ちしております。[宇都宮市 原典子]
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら必ず江本宛メールください(冒頭の川口さんの通信費は昨年の報告会で頂いたものです。大変失礼しました)。通信費を振り込む際、通信のどの原稿が面白かったか、や、ご自身の近況などを添えてくださると嬉しいです。通信の感想を書くことは地平線会議の活動を支援してくれることでもあり、お金以上に私たちの励みになることをご理解ください(江本のメールアドレス、住所は最終ページにあります)。
川口章子(20000円 10000円は通信費残りはカンパです) 北川文夫 高松修治 小長谷一帆 西牧結華(10000円 近況は今月の通信に) 田立泰彦(5000円 通信費2000円、余りはカンパ) 渡辺智子(10000円 近況は今月の通信に) 渕上隆
■「江本さん、おはようございます。昨晩は遅くにお電話、すみませんでした。例によって賀曽利さんと太平洋岸を北上しており、岩手県宮古市まで来ました。ここでお別れして、私は南下します」。福島のライダー、渡辺哲君からのメールが3月11日朝、入った。3.11以来、賀曽利隆は仲間と必ず東北をバイクで走り上る。。
◆きのう11日朝、齋藤惇生ドクターが亡くなった、との報。日本山岳会元会長で現役の医師。1980年の日本山岳会チョモランマ登山隊でご一緒した。飄々とした人柄に多くの山仲間がひきつけられた。一昨年、連れと京都を訪れた際、夕食を共にしたのが最後となった。威張らぬ、味のある人だった[江本嘉伸]
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しのびよる日本シカ天国
「日本では年間60万頭の鹿を獲っているけど、それでも増え続けています。せっかくの肉や毛皮は利用もされず、ほとんどが捨てられてる」というのは日本の鹿研究者の草分け、第一人者、梶光一さん(71)。 縄文の昔から野生動物を“畏れ敬いながら利用”してきた日本の技術や文化が途絶えたのはこの一世紀ほど。この間に、鹿、猪、熊などは著しく増えました。「農林業や環境への影響だけじゃなくて、最近はヒトとの接触事故も。でも未だに野生動物とうまく共存する方法論がないのが日本の現状です」。 東京の下町出身。北海道大学農学部林学科の学生時代にヒグマを論文テーマに設定。森林管理に野性動物対応の概念が抜けていた当時の日本林学界では異端児でした。当時増えはじめていたエゾシカを対象に変更し、頭数を把握する試みから四苦八苦の手探りをはじめます。「環境適応力も繁殖能力もハンパない日本の鹿と共存するには、獲って食べる仕組みを本器で考えないと」。 今月は梶さんに、シカをはじめ、これから我々は野性動物とどうつきあっていけばいいのか、その考え方を語って頂きます! |
地平線通信 551号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2025年3月12日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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