11月13日。爽やかな秋晴れが続く。このところ毎日のように通り抜ける農工大の農場を吹き渡る風が気持ちよい。
◆日本と世界ではとんでもない事態が進行している。きのう12日、「第2次石破内閣」が始動した。え、もう2次?と言われそうだが、その通り、10月1日第102代総理大臣に就任した石破は9日に衆院を解散、在位わずか42日で選挙に打って出た。しかし、自民党を覆う「裏金問題」の傷は深く、議席を56も減らして191に。最大野党の立憲民主党は逆に50増やして148になった。30年ぶり「少数与党」に成り下がった自民党。石破は当然、猛烈な批判にさらされるかと思いきや、なんと対抗馬は現れず、きのうあらためて「第2次石破政権」が誕生した次第である。
◆「後ろから仲間の背中を撃つ」とまで言われ、党内では不人気とされている石破さん。政治学者の御厨貴氏によれば「母方の曾祖父はキリスト教伝道師で石破はその影響を色濃く受けた4代目のクリスチャン。伝道師のまま首相になってしまった人」という。確かにそれこそが新政権の斬新さと言えるが、そこへ“激震”が起きた。6日に行われた米大統領選でロナルド・トランプが民主党のカマラ・ハリスをおさえて次期大統領になることが決まったのだ。
◆「予測不可能な大接戦」と言われていたのに幕を開ければ重要接戦州の全てをトランプが獲るという圧勝ぶり。新聞、テレビなど既存のメディアの予想は完全に外れた。バイデンの引き際が遅すぎたと民主党内では批判があるがすでに遅し。4つの刑事裁判を受けているトランプ氏、法廷での戦いはどうなるか。そして次々に政権の陣容が発表され、つい先程、あのイーロン・マスク氏が新設の「政府効率化省」のトップになることが決まったとのことだ。ウクライナやガザの問題を含めて大変なことがまもなく世界に起こる。
◆10月半ば、旭川に飛んだ。先月のフロントで明かしたように、北海道で地平線会議をやりたいと考え、模索している。ともかく若い人たちが集まってくるような内容にしたいと、以前報告会をやってくれた五十嵐宥樹君ら北大探検部員たちが住む旭川郊外の若者たちの家に行ってみよう、と思い立った。行く以上、私からお土産が必要だ。そうだ、ミニ報告会をやってしまおう。幸い、以前、大東文化大や九州大学での講義、さらには地平線報告会をやった際、丸山純さんに作ってもらった貴重な画像が何種類もある。これを手に北に飛び立った。
◆集まってくれた7人の青年たちに話すことは予想外に楽しかった。毎月、仲間たちと行動者を探して報告会をやってきているが、時には自分が報告者になることもあった。最初は1980年6月、39歳の時。テーマは「チベット人と風土」だった。文化大革命の影響もあってずっと外国人の入域は禁じられていたチベットにようやく日本山岳会の登山隊が入域を許され、報道隊員として参加した時の体験を報告した。以後、何度かテーマを変えて報告者になっているが、時間が経つにつれ、自分の中ではその都度の異郷体験が歴史の一コマとして懐かしく甦ってくるのが意外だった。
◆山岳部時代、超特大のキスリングを背負って剣沢の雪渓を進むモノクロ写真、エベレストで日本山岳会隊と三浦雄一郎さんのスキー隊の日本の2隊がぶつかったこと、ソ連の強力な指導で家畜全てが国家のものとされていた社会主義時代のモンゴルの遊牧世界で見たもの、など普段の報告会と変わらぬ内容を話すうち、口調は熱を帯びたと思う。皆、真剣に聞き入ってくれているのがわかった。
◆若い人がいることがどんなに大事かと思う。地平線会議発足当時はたちだった若者も10年、20年たつといい大人になる。それが30年、40年も続いているのだから老年が増えるのは自然のことなのだが新しい息吹はいつだって必要だ。旭川での出来事については12、13ページに。
◆帰京して1週間後、外語山岳会のそろそろ最後となるかもしれない集まりに参加するため伊豆に行った。弓ヶ浜や石廊崎の海は青く、山にはカボスの実が鈴生りだった。10人ほどの参加者のうち私はまん中の年代で北海道での集いとは対照的な雰囲気だったが、山を通してのつながりだけに懐かしさはひとしおだった。
◆石川直樹君から「8000メートル14座登頂」の原稿がきのうギリギリに届いた。「原稿遅れてすみません。原稿とは関係ないですが、11月17日「NHKスペシャル」に出演します。ぜひご覧ください」とのメールをつけて。超多忙であろうに地平線を大事にしてくれる青年(あ、もう47歳か!)に感謝。石川君原稿は、16、7ページ「今月の窓」に。[江本嘉伸]
■今回登場してくれたのは、先日ひょんなことから地平線会議代表世話人の江本さんと約40年ぶりに再会したという、英語通訳者のささきようこさんとインド研究家の浅野哲哉さん。ささきさんは、東京外国語大学山岳部での新人時代にOBの江本さんから谷川岳での新歓合宿で訓練を受けた経験がある。浅野さんは、もともと法政大学探検部員として読売新聞の江本さんを訪ねたことから交流が始まり、結果的に地平線会議の誕生にも関わった方である。江本さんは、長い時間軸の中でもたらされた不思議な縁に「長いこと生きているとこんな面白いこともある」とおっしゃっていたが、今回のテーマとなる、映画「ラーマーヤナ」によってつながった日本人とインド人の絆の強さ、深さにも同様に人と人の縁の不思議なつながりを感じる。高い評価を受けながらも時代に翻弄された作品の足跡、そして作品をめぐって出会ったさまざまな人々のストーリーから色濃くインドの空気を感じることができた。
◆「ラーマーヤナ」は、ドキュメンタリー監督の酒向雄豪(さこうゆうごう)さんが企画し1992年に完成した日印合作長編アニメーション映画だ。ストーリーは3000年前の古代インドの神話がもとになった大叙事詩を2時間のアニメーションにまとめた壮大なスケールの作品である。あらすじは、最愛の姫を悪魔に誘拐された王子が猿の神様ハヌマーンの助けを得て姫を助けに行き悪魔と戦うというもので、インド版「桃太郎伝説」のような話だといえばわかりやすいだろうか。日本人なら誰でも馴染みがある、宮崎駿作品のような絵作りのテイストが印象的だ。
◆浅野哲哉さんが「インドに行ったことがある人はいますか?」と聞くと、客席の大半の人から手が挙がる。さすがは地平線会議の参加者だ。
◆インド研究家である浅野さん自身は地平線会議発足の2年前、大学2年生の時に初めてインドへ行った。半年かけてインドを回り、そこでの食事や文化を写真や文章、絵で記録。その後も毎年のようにインドを訪れ、そこで出会った物事を書籍『インドを食べる』『インド絵解きガイド』として発表した。インド人はカメラを向けると構えてしまうが、絵を描くと喜んでくれて自然な姿を記録できるのだという。そうして旅で出会った物事を通して表現活動を突き詰めているうちに、毎月金曜の夜に開催されていた地平線会議からは足が遠ざかってしまっていた。
◆一方、英語通訳者のささきようこさんは、東京外語大のヒンディー語専攻出身。もともとインドに強い興味があったわけではなく、「アジア系言語は人気がなくて入りやすそうだったから」とのこと。語学習得に打ち込めず退学を考えたこともあったが、インド人の先生が魅力的だったこともあり「一度インドに行ってから決めよう」と1982年、大学2年のときに2か月間インドへ行く。現地では、ペンフレンドの結婚式に参加してインド人の生活や文化に直接触れる経験をし、インド人ならではの宗教観や死生観、循環社会のあり方などに大いに衝撃を受ける。
◆この体験をきっかけにもっと世界を見たいと思いアジア各地を旅するようになり、就職先も旅行会社を選んだ。この会社が縁で地平線会議を知り、地平線会議の存在が身近だったが、当時は報告会に参加したことはなく、地平線通信も読んでいない。ましてこのネットワークの真ん中に山岳部の先輩、江本さんがいるとはまったく思いもつかなかったという。旅行会社の仕事は楽ではない。激務の末、退社、静養を兼ねてカナダに1年間留学。その後英語通訳者として働くことになる。
◆今回のキーパーソンである酒向雄豪さんについてここで触れておきたい。1928年生まれの酒向さんは幼い頃に両親を亡くし、孤児として仏門に入り禅寺で修行した経験を持つ。NHK報道部を経てインドを放浪し、幼少期から憧れていたインドをテーマに数々のテレビドキュメンタリーを作ってきた。なかでも「ラーマーヤナ」を史実として発掘調査をしていた考古学者を取材したテレビ番組が、インドの宗教団体の誤解を招き、外交問題になることを危惧した外務省の命を受け、酒向さんはインドに飛び、宗教団体の誤解を解く。このことがきっかけで「ラーマーヤナ」のアニメ化を構想、提案を申し入れるも聖なる神を漫画にするなど考えられないと大反対を受ける。アニメーションとは何かの説得に当時の名作「風の谷のナウシカ」(1984年)を見せて正式に宗教団体からアニメ化の許可を得た。インドの協力を得て始動したプロジェクトには、国民的スターや文学界の巨匠など誰もが知っている超一流のアーティストたちが集結した。
◆ささきさんはカナダから帰国後、インドの友人の旅行会社を手伝っていたときにラーマーヤナ企画を携えた酒向氏が来社。手紙の翻訳を引き受けたことがきっかけで、通訳・翻訳・コーディネーターとして「ラーマーヤナ」製作に関わることになった。それがまさか、今日に至るまで30年もの付き合いになる話だとは当然ながら思わなかったという。
◆日本側も宮崎駿監督作品でも活躍している優秀なアニメーターたちが集められた。総勢450名、資金は8億円、9年もの歳月をかけて数々の困難を乗り越えながらも1992年に映画は完成し、1993年1月にデリー国際映画祭で初公開され、インドのマスコミは大絶賛。世界各地の映画祭でも高い評価を受けた。
◆いよいよ公開という時にインドのアヨーディヤーでラーマ神生誕の地にあるイスラム教モスク、バーブリマスジットが破壊される事件が発生し各地で集団暴力が多発。日本でも1995年にオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。よって日印ともに「ラーマーヤナ」の公開が封印された。ようやく1997年になって、モーニングショーではあるもののインドでは劇場公開され、テレビ放送やDVDが販売されるようになった。日本でも渋谷パンテオンでの映画祭や横浜で上映された。2000年にはアメリカのサンタ・クラリタ国際映画祭で最優秀アニメーション映画賞を受賞。2002年には、米アカデミー賞で新設されたばかりのアニメーション部門にノミネートされた。
◆浅野哲哉さんと酒向さんの出会いは1999年に遡る。バックパッカーを卒業した浅野さんは奥さんとともにインドの五つ星ホテルに宿泊していた。そのホテルのテレビで、偶然目にした素晴らしいアニメーション映画に目を奪われた。インド映画でありながら、日本のアニメらしい個性が漂うその作品のことが気になっていると、酒向さんから直接電話があった。「今度インド料理屋をやるから、君の『インドを食べる』の話を聞かせてくれ」とのことだった。そこから浅野さんはたびたび、南青山にある酒向さんのご自宅に招かれ、みゆき夫人も交えて交流を深めてきたという。
◆しかし、2005年10月31日、みゆき夫人が癌で他界。諸事情により酒向さんは奥様の遺骨の一部をガンジス河に散骨。儀式をリシケシで2006年4月24日に行った。そしてそのきっかり6年後の2012年の4月24日に酒向雄豪さんが他界した。酒向氏の誕生日は2月4日。不思議と「2」と「4」という数字に強い縁がある。
◆酒向さんの遺品に35ミリの初号プリントがあった。そのフィルムの状態の確認を横浜のフィルム上映館「シネマノヴェチェント」に依頼した。作品を試写した館主が、こんなに素晴らしい作品があったとは、ぜひやりましょう、ということになり、浅野さんとささきさんは「ラーマーヤナ上映委員会」を立ち上げ、上映に向けて奔走することになる。
◆2018年全28席の横浜の小さな映画館「シネマノヴェチェント」で、1か月限定で上映が行われた。それが話題を呼び結果的に1年間のロングラン上映、2020年1月には東京外国語大学でも上映会が行われ500席が満席になるほどの大盛況となる。それを受けコロナ禍の最中の2020年にデジタルリマスター化された。
◆最後に、「ラーマーヤナ」が繋いだ人の絆の深さを表すエピソードを紹介したい。「ラーマーヤナ」の日本の制作チームはアニメ化にあたり一つの課題に直面していた。男性のインドの衣服の動きがまったくわからなかったのだ。そこに訪ねてきた超一流のシタール奏者に、酒向さんはモデルを依頼したのだった。シタール奏者は伝統的な衣装で演奏するからだ。彼にあらゆるポーズを取ってもらい、日本人アニメーターたちは、それを絵に落とし込んだ。その彼とは世界的に有名なシタール奏者ラヴィ・シャンカルの愛弟子チャンドラカント氏である。この交流で強い絆で結ばれた酒向さんとチャンドラカント氏だが、二人の付き合いは、それだけにとどまらなかった。
◆それから17年後の2008年、酒向さんは脳梗塞で失語症になってしまう。その酒向さんを皆で支援しようと申し出たのがチャンドラカント氏だったのだ。ささきさんは彼に「助けなさい、さもなければ悪徳者だ。私も手伝うから」と言われ、否応なく酒向さんのサポートに巻き込まれることになった。
◆奥さんに先立たれた酒向さんは一人暮らし。しかも失語症なので病院に行くにも付き添いが不可欠だ。都心の自宅でチャンドラカント氏と彼のチーム5〜6名によって、独居老人の介護サポートが整えられた。アーユルヴェーダというインド伝統医学の家系に生まれた彼は独自の音楽療法を編み出していた。酒向さんに音楽療法を無償で30回行い、失語症はなんと90%回復したのである。
◆高齢者の孤独死が取り沙汰される昨今の日本だが、人と人のつながりを大切にし助け合うというインド人の文化、そして酒向さんとチャンドラカント氏にある強い絆がなせる技だ。
◆期せずして30年もの間引き延ばされた「ラーマーヤナ」だが、そこに巻き込まれた数多くの人々が映画という縁でつながった。江本さんとささきさんと浅野さんが地平線会議という場で40年ぶりの再会の機会を持ったことも含め、そんな不思議な縁が、インドの大叙事詩をテーマにした一本の映画によってもたらされたのだ。
◆インドでの公開は残念ながら延期となってしまったが、酒向さんに縁のある数字である「2」と「4」が含まれた2024年のうちに何か動きがあることを期待している。そして筆者は、日本の映画館での上映、何よりもまず地平線キネマ倶楽部でこの不思議な運命を持つ映画が披露されることを願っている。[貴家蓉子]
■昨年から突然、地平線会議の渦がやってきてなんと報告までさせていただくことになった。
◆そもそもの発端は一枚のハガキだ。昨年私は最愛の従妹を膵臓癌で亡くした。彼女は横浜生まれの保育士だったが旅好きで国内外を旅した後、北海道の美瑛に移住。大自然に囲まれて絵はがき作品が生まれた。武蔵小金井のギャラリー「ブロッケン」の佐野さんから遺作展をやってあげたら?と勧められ「コトノハ雲の音色」松下由美子作品展を開催することになった。
◆その案内ハガキに宛名書きをしているところに、「部数が余ったので私が知る若い世代に送ります、江本」と添え書きの地平線通信が届いた。噂に聞いていた通信を初めて読んだ。驚くべき内容がぎっしり。宛名書きをしていた勢いで江本さんに礼状を書き案内ハガキも同封した。そしてまさかの江本さんが会場に現れた。なんとお住まいも近かったとのこと。これがすべての始まりだった。
◆40年ぶりにギャラリーでいろいろな話をした。実は不思議なご縁がもうひとつ。私の母は教員だったが、若いころ、新人の美術の先生が母の中学校にやってきた。数十年後、母が再び教壇に立ったとき、女性の江本先生がいた。そこで美術の先生の奥様だと知り、私の両親と江本夫妻は親しくなり、父が赴任していたインドネシアに共に旅行をした。
◆その後、この美術の江本先生が、先輩江本さんのお兄様だったという事実が判明! ずっと知らないでいたことだ。人は気付かずどこかで何かのご縁で繋がっている。旅と人と出会いが大好きだった松下由美子が雲の上から私と地平線会議とラーマーヤナをつなげてくれた。他界しても人は異なる形で存在し私たちの人生と常に関わっていることを感じている。
追伸:母は江本さんと聞いて古いアルバムから新人江本先生の写真を出してきた。江本さん渡せてよかったです。[ささきようこ]
イラスト ねこ
■「あなた方は大学を卒業してからも『探検ごっこ』をやっていくのですか?」。1978年12月、法政大学で開催された全国学生探検報告会のシンポジウムで、大先輩の宮本千晴氏が発した「呪縛」のような言の葉を引きずりながら、僕は「インド探検」を続けてきた。その翌年に産声をあげた地平線会議の江本氏から半世紀近くの時を経て「お呼び」がかかった、というか、江本氏が所属していた東京外国語大学山岳部の後輩である佐々木陽子さん(以下「Y」)を介しての不思議なご縁である。
◆「Y」とのお付き合いは1999年以降に遡る。92年に完成した日印共作長編アニメーション映画『ラーマーヤナ/ラーマ王子伝説』の生みの親である鬼才、酒向雄豪氏の通訳・コーディネーターとして89年頃から関わってきた彼女が、なんと江本氏の後輩だったなんて! つい数ヶ月前まで知らなかった事実だ。
◆奇しくも地平線通信に「ラーマーヤナの渦」と題された長野亮之介画伯の至極の紹介文に記された「渦」に僕が巻き込まれたのは、2018年から1年間、日本一小さなフィルム上映館、横浜シネマノヴェチェントでの復活上映活動からだ。ほぼ毎月、本作に関わりがあるゲストを招いてトークショーをやることになり、すでに他界されていた酒向氏の遺品(写真やVHS映像)や「Y」が記していた膨大な資料等々を整理・昇華し「動画化」する作業が始まった。
◆1982年に端を発した本作のメイキング秘話には、まさに『ラーマーヤナ綺談』と呼ぶに相応しい秘められた日印交流の歴史が散りばめられていた。これらを伝えるためのエピソード動画(英語版もあり)を作成するにあたって、「Y」と交わした膨大なSNSチャットや電話交換の日々。なによりも、彼女の語りには人並み外れた正確無比の記憶力に裏打ちされた瑞々しい再現能力があった。すべてが許された「ノープロブレム」の世界……。生前、酒向みゆき夫人の美味しい手料理を頂きながら、インドや本作を熱く語った酒向氏の姿が生々と蘇り、脳梗塞で倒れた酒向氏の介護に何も協力できなかった悔いも含め、改めて「恩返し」ができる喜びを噛み締めることができた。
◆そして今回、いままで常に「裏方」に徹していた彼女が、江本氏の計らいによってついに表舞台に躍り出た。「Y」の豊かな経験と深い洞察から紡ぎ出された真理を秘めた「インド観」の数々が披露されたのだ。酒向氏と同じ辰年の江本氏。82年に「Y」が初めてカルカッタで出会った「怪しいおじさま」こと酒向氏の面影を、ふっと彷彿とさせる江本氏に改めて感謝を申し上げたい。また、しなやかに司会進行いただいた丸山氏、的確な映写環境を整えて下さった落合氏、そして二次会に参加して新たな「渦」の出会いで盛り上がった諸氏方々にお礼申し上げる次第である。
◆いまだに「探検ごっこ」の域を出ない僕の「インド探検」は「ラーマーヤナ」という強靭な柱を得た。2024年2月4日という酒向雄豪いわくつきの期日に、ムンバイの日本山妙法寺で催された酒向夫妻の顕彰法要会にも参列できた。実に四半世紀ぶりにインドからお呼びがかかったのである。[法政大学探検部OB・ラーマーヤナ上映実行委員会 浅野哲哉]
[追記]来年1月19日(日)に本作の旗館、横浜シネマノヴェチェントにて特別イベントがあります。
13:30 〜開場
14:00 〜『ラーマーヤナ/ラーマ王子伝説』通常上映
16:15 〜休憩
16:25 〜浅野哲哉のトークショー
18:00頃 終演
※終演後、近所のインド料理ラスミにてゲストを囲んでの懇親会(要別途会費)あり
■連載も終わりに近づいてきた。探検や登山について、ひとりよがりの戯れ言を書いてきたから、老いの今を海の話題に移そう。2023年に北前船の故地を訪ねた航海をした。ヨットマンとしては素人当然の私だから、5か月にわたる北前船航路の旅はとても刺激的だった。不安だらけで心休まるクルージングではなかったが、本物の船乗りだって同じような気持ちで日々暮らしていたにちがいない。恵比寿信仰、港の遊女、日和山、これらは海の男を癒す拠り所である。ヒヨリヤマ、なんと快い響きの言葉だろう。日和山は、日和の山ではない、日和を願う山である。
◆江戸時代の漁労や海運は沿岸航行の域を越えないが、小型の漁船と違って、大型の弁財船(千石船)は、港の出入りが天候(特に風)に大きく影響されるから、海象を知るということは非常に重要である。海象とは単なる海の気象だけではなく、潮流や潮の干満や波濤、海底の地形など海に関するあらゆる自然現象を指す。また、その日一日の海象だけでなく、長期にわたる天候の変化を予測する必要もあった。
◆現代の港には防波堤があり、嵐の防備ができているが、かつては天然の入江や湾を利用していたから、限られた良港を見極める判断力と複雑な海の情報に精通する必要があった。それらの経験や知識の集積は貴重な財産であり、代々船頭によって受け継がれた。それが航路を拓くということである。
◆1672年に河村瑞賢によって北前船の西廻り航路が開拓される以前から、北国航路は盛んに往き来されていた。酒田湊を流通の中継地にして蝦夷地を行き来し、律令時代から税として地方の産物(調)を敦賀へ、そこから陸路や琵琶湖水運の丸子船と乗り継いで都に運ばれた。否、縄文時代からあったヒスイ文化圏は、糸魚川を中心に南は種子島から北は礼文島まで交流があったと言われているから、交易ルートとして海路はすでに拓かれていたはずだ。日本海往来の歴史は古いのだ。
◆初期に活躍していた船は羽賀瀬船で、帆と櫓を併用した小型の廻船だった。流通量が多くなってきて、大型の弁財船が主力になる江戸中期以降数は減ったが、地方廻船ではその後もけっこう活躍していたようだ。今回の旅で、出雲と隠岐、新潟と佐渡、酒田と飛島などでは、櫓漕ぎ船が使われていたことを知った。櫓で進む船など積載量はたかが知れている。それでも本州沿岸から離れ島へ、大海原を越えて物を運んだ。かつての船乗りの体力、知力、胆力には驚かされる。
◆航海の目印としたヤマアテの山は高ければ高いほどいいし、特異な形状は覚えやすくてなおいい。そういう意味で開聞岳や富士山は最高だ。富士山の海没地点は計算上では219キロ沖らしい。船乗りや漁師たちに重宝されたにちがいない。ヤマアテが海から陸を視る航海術だとすると、ヒヨリヤマは陸から海を観るための見張り台である。日和山はどこにでもある地名だ。港の近くの見晴らしのいい小山や丘がそう呼ばれた。だから日和山は普通名詞であり、もとの地名や山名は別にある。船乗りが船出のために、毎日観測する(日和見する)ためだから、高い山である必要はなく、港から離れた場所は選ばれない。
◆「待てば海路の日和あり」日和山から海を眺める船乗りの心情には、命がけの決意がひそんでいる。冒険などする気はない。海に困難を求めるというような甘ったるい感情は持っていない。海は危険そのものであることを、身に染みて知っているからだ。見送る家族や遊女たちも海路の安全を祈ったにちがいない。ヒヨリヤマというネーミングが彼らの気持ちを伝えている。
◆台風通過直後のうねりの残る足摺岬を越えて土佐清水港に入ったとき、岸壁でたむろするキンメダイ漁師に驚かれたことがあった。「この時化によう来たのう。足摺は荒れちょったろう」「ヨットは転覆せんき何とかなります。怖かったけんど」と見栄をはった。ド素人がプロに言う返事ではなかった。あえて荒波を越えて航海するという妄想に浸ろうとしただけのこと、今思うと恥ずかしい。発想がいつまでもアルピニストから抜けきらない。
◆シーマンシップという言葉がある。船乗りとしての技能、資質、心がけ、マナーなどを指す。海上であることの不確実性や自然の厳しさ、事故の危険性の中で、先見性や迅速性が求められる。国際性、寄港地の人との接触、社会性つまり人としての節度が重要視される。その上、質実剛健な冒険心も不可欠である。内なるヒヨリヤマを持つこと、それがシーマンシップということだろう。私はまだそれらを持つに至ってはいない。
◆この船旅でおおくの日和山を訪れた。公園に整備されたところ、草木に埋もれたところ、削られて道路になったところ、限界集落の廃れた港には、往時の日和山の面影はかき消えていた。時の流れは残酷だ。その名といわれだけが、歴史のかさぶたのようにこびりついている。山と呼ぶには貧相な日和山だが、吹き抜ける潮風に人の営みを偲ぶ。私のアルピニズムの末路を、そのけなげな歴史に繋げたがっているのかもしれない。日和山にはたいてい方角石があった。現存するのは全国で31ヶ所だけらしい。
◆島根県浜田港に隣接する浜田城址の東裏側に、かつて北前船の風待ち港として栄えた外ノ浦がある。大きく湾曲した深い入江の天然の良港である。往時の面影がかろうじて残っている。船主集落があり金毘羅、厳島の両神社がある。波濤から入江を守るように北側に岬が出っ張っている。そこに日和山があって踏み跡をたどると、草木に埋もれるように方角石があり、素晴らしい日本海の眺望が広がっている。石柱の上表には方角を示す十二支が、側面には天保5年6月建立と三人の世話人、出雲屋伝次郎、因幡屋藤兵衛、石見屋栄吉の名が刻まれていた。この地方で活躍していた船主の名前だろう。屋号にそれが表れている。
◆日和山に登って日本海を眺めていると、自分が海の男になったような気分になる。土佐には、室戸岬に中岡慎太郎の、桂浜に坂本龍馬の、足摺岬にジョン万次郎の銅像が海を眺めて立っている。海路の日和を望むにはいい場所だ。三人の視線が土佐湾沖で交わるように建てられた。彼らも海の向こうにあこがれていたにちがいない。山男は足元を見ながら、その瞬間に集中し必死に頂を目指す。海の男は、不安にさいなまれながら茫漠たる海の彼方(つまり希望もしくは未来)を見つめる。
◆外ノ浦の港湾口に、海の男、会津(今津)屋八右衛門の頌徳碑が建っている。江戸時代に活躍した浜田藩の御用廻船を担った。藩財政の逼迫を救うため、竹島諸島を根城に朝鮮半島や中国や東南アジアと密貿易をする。戦国時代以後、石見銀山の銀を輸出する航路が出来上がっていたので、南蛮貿易のオランダ船や朱印船貿易の中国船と交流があった。鎖国で海外との貿易が禁じられていた江戸時代、幕府の隠密間宮林蔵によって密貿易が露見した。幕府は、八右衛門を浜田藩勘定方とともに斬首にした。彼は、密貿易で得た利益を領民にも還元したと言われていて、地元では今も海の義人として慕われている。
◆日和山は、青年なら大志を抱く場所として絵になるが、老人にはちょっとメランコリーな場所なのかもしれない。かすむ水平線、望郷、あきらめ、疲労がよけいに身に沁みてくる。だからこそそこに身をおきたい。波間を漂うのもよし、日和山に憩うのもよし、ヨットの旅の一コマ一コマは、ときの流れがゆったりして、老いに似合いのスローライフにはちがいない。
◆さあて、世間に背を向けて「山極道」を貫いてきた私に、大自然はどう付き合ってくれるだろう。追いかけた先達たちも多くは鬼籍に入った。痛風、脊柱管狭窄症、白内障、肥満、アル中、人並みに後期高齢者の道をたどっているのに、頭の中にはまだ「山」が居座っている。
◆「波間から」その3で説明したが、海の男たちが使う用語に「ヤマ」が多いことはうれしい。航海の目印としての「ヤマアテ」、それを望見することを「タケ(岳)ヲミル」、岳が見えなくなるところは「ヤマナシ」の海、岬のことを「ヤマダシ」、そして「ヒヨリヤマ」、「山」は挑戦の対象ではなく、安心の拠り所なのだ。「ヒヨリヤマ」は、私を「山」から「海」につなげる場所だ。山より海の方が、はるかに危険で冒険的要素は多くて、とてものんきに憩う場所ではないが、上手に付き合えば、深い安らぎが得られそうに思う。
冒険残照
ときめいていた企てもやがておぼろげになり
使い古されたあこがれも
くたびれた体に似合うようになる
何かを求め 日々にくじけ
かりたてられた情熱もまどろみはじめる
思い出の手箱には 色あせたガラクタばかり
あの豪雪の山に挑んだ 青春というヤツも
夕暮れの水平線に去っていく
うなだれたうしろ姿わびしく
ためいき一つを捨てていく
わたしは わたしをはげまして
真顔で独り合点をする
そうして いつものように
赤線が印された古圖をなぞりながら
飽きもせず 酒にあのころを物語らせる
やがて 海が思い出のようにやってくる
そう 日焼けした少女の夢のように
波間には わたしをいざなう金色の道
舟は 潮の香しみつく老いのゆりかご
さめない眠りが ひたひたと近づいてくる
夕立がかけぬけて 舟とわたしをうるおす
見送るマーメイドの手には 一輪の水中花
右舷に茜雲 左舷に薄暮にかがやく一番星
身軽になった舟の 行き先は風まかせ
湊の外には ほんとうの自由が待っている
■7月の地平線報告会で登壇された白石ユリ子さん。講話の最中にふと思いつき「この会場のみなさんにおいしい鯨をごちそうしましょう」と江本さんと握手された。10月20日(日)、有言実行の通り、白石さんと地平線会議メンバーによる「鯨を食べる会」が開催された。
◆鯨飯に鯨汁、鯨竜田揚げと鯨ステーキ、さらにこの日のために共同船舶から寄贈されたアイスランド産ナガス鯨の刺身が供され、参加者は大いに舌鼓を打った。2019年に商業捕鯨が再開。今回は国産のニタリ鯨を白石さんが自ら味付けした。鯨は畜産養殖ではないため、その時市場にある鯨が届く。「若いのだったり、ジジイだったり同じ鯨種でも味や硬さが違うから、鯨の味をみて味付けを変えるのよ。今回はジジイだったから、肉を柔らかくするためにリンゴのすりおろしを多めにして、甘味を出すために玉ねぎのすりおろしを使った。砂糖は固くなるから使いません」とのこと。鯨種でいうと、イワシやミンク、ナガス鯨が美味しいのだが、最近日本の200海里にはニタリが多い。ニタリは、固くて独特の臭みがあるのだが、白石さんのお陰で十分に美味しかった。
◆食後、白石さんから30年来の鯨にまつわる取り組みが紹介された。その後は休日の昼下がり、各々好みのお酒で舌も滑らかとなり、鯨談義に花が咲いた。我々日本人にとって、鯨は食べ物であることが当たり前という事実を再確認する機会でもあった。
◆実は私は白石さんと共に2018年のIWC会議にオブザーバーとして参加し、反捕鯨派の放つ言葉を生で聞いた。鯨は頭が良いから殺しては可哀そう(頭の悪い種は殺されて当然ですか?)。鯨は大きくて神様のようだから敬うべき存在(小さくて醜い見た目の生き物には生きる価値はありませんか?)。鯨は食べるものではなく、ウォッチするもの(ガソリンを使って船を出し、ホェールウォッチングに興じることはサステイナブルな観光ですか?)。( )内は私の心の「?」です! そもそも鯨が激減した理由は鯨油を巡っての欧米諸国の乱獲が原因とのこと。鯨油の代替として廉価な石油が発見され、鯨に商業価値を見出さなくなった国の人々が、今度は非科学的な理由をつけて反捕鯨を掲げる様子を目の当たりにした。
◆さて、鯨は本当に絶滅に瀕しているのか。日本鯨類研究所は、30年に亙る調査の結果、89種類ある鯨種の内、シロナガスのように増えていない種もあるが、ミンクのように増えている種もある。オキアミだけを捕食している種もあるが、鯨類が大量の魚を捕食していることは事実であり、鯨だけを保護することは、海洋資源の不均衡を招くと主張している。
◆生きとし生けるものは、おかれた環境で入手できるものを食べて命を繋いできた。太平洋の行き止まりに位置する日本海域には昔から鯨がいた。日本人はなぜ鯨を食べるのか? 偉大な登山家の言葉を借りて回答したい。「そこに鯨がいるから」[内野美恵 東京家政大学教授]
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■毎年、春から夏にかけて、アラスカで腹一杯クジラを食べてはいるが、日本でクジラを食べる機会はあまりない。そんな折「鯨を食べる会」にお誘いいただいた。会場に着くと、テーブルの上には既に料理が並んでいる。竜田揚げ、ステーキ、刺身、鯨ご飯、そして鯨汁。
◆刺身は尾の身に近い部位だという。脂の刺しが少し入って、とろけるように柔らかく美味しい。クジラの肉ってこんなに柔らかいのか? 普段アラスカで食べているホッキョククジラの肉で、ここまで柔らかいものは今まで食べたことがない。現地では半解凍状態のものをナイフで適当な大きさに切り、塩をかけて食べることが多い。生姜醤油、大蒜醤油で食べることもあり、それもまた美味しいのだが「刺身」として調理されたこの肉の旨さ。
◆竜田揚げ。きちんと作られた竜田揚げは、冷めていても柔らかくて美味しかった。擦り下ろしたリンゴと玉ねぎに漬け込むと柔らかくなるとのこと。竜田揚げ(のようなもの)はアラスカでも時々作る。現地の友人たちも日本風の味付けの揚げ物は大好きだ。次回はきちんとした竜田揚げが作れるのではなかろうか。ステーキはアラスカでもよく食べる。加熱調理したものの中では、肉の味がそのまま味わえるものだ。これもまた美味しい。
◆鯨ご飯と鯨汁。これは皮と脂身の部分を使ったもの。脂身からこんなに出汁が出るのかと驚かされる。ホッキョククジラの皮「マクタック」は、表皮の黒い部分が1〜2センチもあり、単純に同じようなものは作れないが、脂身を使って炊き込みご飯や汁物を作っても美味しいかもしれない。ちなみにマクタックは、茹でたり、肉同様に凍らせたものを半解凍で食べることが多い。
◆ご尽力下さった白石ユリ子さんのお話を聞いていると、年齢を言い訳になどできないと思うのだった。とても美味しいクジラ料理の数々でした。白石さんを始め、準備や調理に関わった関係者のみなさん、本当にありがとうございました。[高沢進吾 アラスカ・ポイントホープで鯨獲り20余年]
■恒例の「地平線カレンダー」の2025年度版が完成しました。今回のタイトルは「天妄懐界旅絵日記」。旅先で出会ったどこか懐かしい風景のなかにたたずむ2匹の猫の向こうに、ありえない物体が顕れます。
◆判型は例年と同じA5判の全7枚組。表紙の裏に各絵のキャプション(猫たちの会話)を載せてありますので、全8ページ構成となっています。売り上げは地平線会議に全額寄付され、今後の出版活動の資金となります。頒布価格は1部あたり500円。送料は1部180円、2部以上は210円。
◆お申し込みは地平線会議のウェブサイトか、下記まで葉書で(〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸方「地平線会議・プロダクトハウス」宛)。お支払いは郵便振替で。振込用紙を同封しますので、カレンダー到着後に振り込んでください。
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら必ず江本宛メールください。通信費を振り込む際、通信のどの原稿が面白かったか、ご自身の近況などを是非添えてください。長文の場合はメールでこれも江本宛に(アドレスは最終ページにあります)。
石塚徳子 田中雄次郎(10000円 家畜の冬支度に追われています。まだ根雪にはなっていませんがまもなく大地は白くなるでしょう。先日も書きましたが、牛たちの世話をしながら伊沢正名さんの仕事の素晴らしさを噛み締めています。家畜の糞は酪農の最大の生産物だと思うからです。江本さん、北海道に来たのですね? どうかくれぐれもお身体を大事に地平線のために頑張ってください) 近藤淳朗 野元啓一・伊津子(10000円 お陰さまで家族全員健康そのものです。毎月届く地平線通信は家族みんなで読ませていただいています。毎月あれだけの話題を提供される方々、それを編集される江本さんと編集スタッフの皆様をリスペクトしています。継続は力なりの諺通りといつもありがたく拝読しています) 広田凱子 掛須美奈子(5000円 2年分+カンパ) 神谷夏実(10000円) 川村志の武(5000円 2年分+カンパ)
■第一期目のフジモリ氏は、大統領官邸の執務室よりも、ペルー全国を作業服姿で飛び回る時間の方が圧倒的に多かったことは間違いない。政治経済社会のあらゆる分野で混迷を極めていたペルーも、テロの減少とともにようやく浮上を見せ始める。2期目の大統領選にも勝利し、国中のインフラ整備や資源開発が徐々に進められ、小中学校や保健所の建設も日本のODA予算で進捗し、という矢先の1996年12月17日に起きたのが、左翼武装組織MRTAのコマンド14名による日本大使公邸人質事件だった。
◆山岳部を基盤とした毛沢東主義のセンデロ・ルミノソに加え、都市部ではキューバ系のMRTA=トゥパック・アマル革命運動が勢力を維持していたが、誰に聞いても「センデロじゃなかっただけ、まだましだ」と口をそろえて語っていた。二桁を超す顔見知りが公邸内で人質にされたが、高齢者や婦女子、日系人関係者などは徐々に解放され、事件解決時には男性のみ約70名が人質となっていた。最終的に特殊部隊が秘密裏に掘削したトンネルから突入するまで、年をまたぐ127日間に及ぶ長期の事件となった。最後まで人質だった直接の知り合い5名はかろうじて脱出できたが、フジモリ氏は当初からMRTAコマンドは生かしてはおかない、という強硬姿勢だった。
◆長期間に渡る交渉で刑務所に収監されたメンバーの釈放や第3国への亡命を求め、日本政府に泣き付かれた髭のカストロは、キューバが引き受けると請け負った。人質だった現地駐在などの知り合いは、内部状況をほとんど語ろうとはしない。後に出版された手記にも、マズい部分はぼかして詳細は記されていない。ほぼ唯一の娯楽だった麻雀の負け分の借金1万数千ドル分が突入でぶっ飛びチャラになった、というリアルな証言は、歴史の闇に葬られたのだった。その後、日本大使館は難攻不落の城塞のような設計の無粋な造りに建て替えられたが、ペルー人は「普通2度目はないだろ」と冷ややかに語るのみだった。
◆ともあれ、武装勢力を力づくで倒したフジモリ氏はヘンな自信を持ったのか、その後は性格が変化したようにも見える。結果がどうあれ日本人の人質に犠牲者が出ない事だけが最優先事項だった当時の橋本ドラゴン首相は、ペルーとキューバに大きな借りを作ったこととなった。その後、国連のキューバ制裁対米非難決議に賛成することで、キューバへの借りを返すという形をとったのは、さすがに外交関係のリアルな側面を見た気がした。
◆実際に1990年のテロ発生件数は約2800件、犠牲者は約1500名を数えたが、97年の統計では発生件数が681件、犠牲者数は130名と大幅に減少したのも事実である。が、フジモリ氏の強権的なテロ対策は、逆に体制内部に大きな歪みを抱えることになった。アマゾン河航下中だった早稲田大学探検部の現役部員2人が、営利目的のペルー国軍兵士に暴行殺害される事件が起きたのは、そのすぐ後だった。
◆事前の偵察に来ていた片割れのX君とは稲門会OBからの紹介で接近遭遇、アマゾン源流地帯の失われた黄金都市パイチチ探索、というエルドラド計画を相談された。が、当初の計画は麻薬組織が暗躍する地域で危険度が高過ぎることから、翌年の本番はアマゾン河航下に変更となる。国家権力が外国人学生を殺害する、という想定外の強盗事件だったが、当時の兵士の月給は4000円程度。兵隊になるかテロリストになるか、どちらが儲かるか、という究極の選択肢しかない現実があった。同時に、船戸与一氏ほか早大探検部有志が日本国首相への糾弾文を叩きつけるという前代未聞の顛末となったのも、日本山岳会会員かつ日本山岳ガイド協会会長でもあらせられた橋本ドラゴン総理の事実誤認に基づく不用意な発言が原因ではあるが、ペルー政府に対して強く抗議しなかった背景には、やはり人質事件時の借りが存在していたこともあった。
◆自ら改正した憲法の拡大解釈で、2000年に3期目の大統領職に就いたフジモリ氏は、権力に固執する姿勢をさらに強めていた。が、側近の国家情報局顧問が野党議員を買収する映像が公開され、大贈賄スキャンダルとなる。11月のAPEC参加後に来日し、大統領職辞任をファックスでペルー国会に送付。事実上の亡命で、身元を引き受けたのは某・鈴木むねりん、石原珍太郎、あのその綾子などという香ばしい方々だった。ササガワ関連の利権絡みで喋られては困ること多々ありのフジモリ氏は、某ニポン財団がしばらく面倒をみることとなる。結局は大統領復帰を目指してチリ経由で帰国するが、在任中の人権侵害により訴追され、禁固25年の有罪判決が下される展開となった。
◆公務員用刑務所という不思議な監獄に収監されながら、無実を訴える元国家元首と面会する機会を得たのは2010年と2012年の2回。取材は許可されず、あくまでも表敬訪問だ。施設はリマ市郊外のさびれた一角で、さすがに警備は強固、周囲は高い壁で固められ、もちろん侵入も脱出も不可能だ。とはいえ鉄格子があるわけではなく、3LDKほどの普通の一軒家である。訪問したメンバーは、当時進行中だった天野博物館によるシクラス遺跡調査関連プロジェクトの面々。旧知のアンデス考古学者で東大名誉教授の大貫良夫先生を始め、文化人類学者で愛知県立大教授の稲村哲也氏、耐震工学専門家で筑波技術大教授の藤沢正視氏、天野芳太郎氏の評伝「天界航路」著者で映像プロデューサーの尾塩尚氏、天野博物館事務局長の阪根博氏、フジモリ氏の通訳を長年務めた秘露日系人協会顧問のモリカワ氏が顔をそろえた。
◆身元を確認され、カメラも携帯も検問所に預けたのち、フジモリ氏が暮らす家の玄関をくぐる。広い居間の壁全体に、ペルー全国の地図が張り巡らされていた。挨拶もそこそこに、いきなり現在の政治勢力分布の解説が始まる。北部はケンジ(次男)担当で組織固めは順調、中部と首都圏はケイコ(長女で元ファーストレディー)がまとめ切ったので問題ない。あとは裁判とマスコミ対策の戦略を構築している段階で、これが一番難しいところだ、などなど早口にしゃべりまくる。エネルギッシュな横顔には権力に取りつかれ、国家を自由自在に動かした過去の栄光が張り付いたまま。なんたらと政治家は一度やったらやめられない、という分かりやすいサンプルだ。政治現場に復帰する以外の選択肢を持たず、投降したMRTAコマンドをその場で処刑したブラックな過去は当然のように無視。非情な政治の現場に個人的な感情を持ち込むことは許されない、という冷酷な態度がわずか1時間ほどの間に幾度も迸った。
◆寝室をカラオケルームにするため防音工事をしている、と案内してくれたので、どんな歌が好きか聞いてみた。曰く、両親の出身地である熊本の生んだ偉大な歌姫、八代亜紀の曲をいつも熱唱しているとのこと。大統領主催の晩さん会で唄ってもらったことや、彼女が集めた基金でスラム街に小学校が出来たことなどを、感慨深げに語る。鹿児島在住の親戚との面会や先祖のお墓参りなど、望郷の思いを語る時だけは、やや表情が緩んだようにも見えた。
◆次の面会はさらに手続きが難しく、訪問許可はなかなか出なくなった。当時、つくば市在住のフジモリ氏の実姉から上院議員のケイコに連絡してもらい、内務大臣に許可申請と日時の調整を依頼する、という流れだ。前回と同じメンバーでの表敬訪問となるが、フジモリ氏は2年半の間にすっかり老け込んだ感が漂っていた。裁判が思うように進展せず、恩赦も認められる可能性は低い。権力の頂点に君臨していた時代とは打って変わり、気弱な面を隠そうとはしない。刑務所施設の中庭を耕して花を栽培し始めたと、自慢の花壇を案内してくれた。
◆さすがに農学者出身だけあって専門知識は豊富だし、植物を愛でるごく普通の老人に見えなくもない。以前とは打って変わった穏やかな語り口で、植物は土次第で成長も結実もすべて土壌が基本だと説明が始まる。大統領第1期目の5年間に大地を耕し種をまき、害虫つまりテロを根絶した。2期目の5年間に発芽した苗に水や肥料をやって育ててきたが、その結果を見届けたくて次の5年間、大統領を続けたかったと、ため息交じりに語る。以前の防音カラオケルームは現在、油絵を描くアトリエになっていると言って、作品をやや自慢げに披露してくれた。獄中ではほかに描くものもないのだろうか、バラや花の絵ばかり。数十枚にも及ぶ大量の花の絵だが、これはと思わせる表現は一点も見当たらなかった。
◆ケイコが大統領に当選すれば、その日のうちに恩赦命令が出て解放されると、それだけが希望の綱だったのだろうか。毎回ケイコの選挙戦略担当を務めたが、3度に渡る挑戦も決選投票まで行きながら、過半数には至らなかった。舌癌や心筋梗塞などを患い、獄中から緊急搬送されること数回。忘れっぽいペルー人からすれば、すでに過去の人となっていたことは事実だ。が、すぐ後の政権を担った先住民出身のトレド氏以降、歴代大統領は自殺した元職のアラン・ガルシア氏を含め全員が訴追、収監されたり、裁判を待つ身の上となっている。消去法でしか選べないこの状況を、天敵だった作家のバルガス・リョサは「癌を選ぶか、エイズを選ぶかの選択」と皮肉った。ただひとつ認識しておくべきは、移民の子弟が国家元首にまでなれる国と、在日系には参政権すら与えない国の違いだろう。[Zzz-全@カーニバル評論家 From Lima, PERU]
■地平線通信読者の皆様に報告です。去る10月、江本さんがちえん荘に来訪されるという事件が起こりました。ちえん荘というのは、私が暮らす「共同生活家屋」で、職人や百姓の卵が集住している一軒家の名前です。食べ物を作る人、木を伐る人、加工する人、家を建てる人などが共同生活を送り、協働する生き方を北海道で模索しています。
◆そんな小さな一軒家に江本氏が来る。事の重大さを理解している私は躊躇うことなく「これは事件だ」と仲間に伝え、大掃除の号令をかけ、ハタキを振り下ろしました。
◆メインは江本さんが報告者の「ミニ地平線報告会」(!)。お茶の間に、7人の若者が車座で江本さんの話に耳を傾けました。長い歴史と積み重ねを持つ地平線会議の創設メンバーが、私たちだけのために、真剣に話をしてくださる。こんな贅沢なことが、人生の中ではあるんだな。と、ぼうっと浮かぶスクリーンの白い明りを見つめていました。
◆改めて、江本さんがちえん荘に来てくださったことの有難みを噛みしめながら、人生の不思議について思いを馳せています。江本さん、このたびはどうもありがとうございました。[ちえん荘住人・五十嵐宥樹]
追記 ちえん荘は2021年9月に開所しました。行き過ぎた効率、スピード社会に嫌気がさして「俺たちは遅れていこう、遅延してなんぼ」と言ったのがはじまりです。
■こんにちは。「ちえん荘」住人の笠原初菜です。たまに地平線通信に寄稿させてもらっている五十嵐宥樹の、相方です。ソファや椅子の布・革張りを専門とする「椅子張り職人」を目指して、北海道旭川市内で修行しています。去る10月初旬に、江本さんと過ごした2日半を、江本さんへのお手紙のつもりで、振り返ってみたいと思います。
◆10月12日(土)13時ころ、ちえん荘に登場した江本さん。私は地平線会議で一度だけお会いしたことがありましたが、直接お話するのは初めてでした。到着して早々、我が家のネコちゃん2匹に「あらら、ネコがいるの!」と嬉しそうに話しかけてくれて、一気に気持ちがあたたまりました。ちえん荘の壁にシーツを垂らした自家製スクリーンに、江本さんが用意してくれたスライドを映して、早速はじまり……の前に、江本さんから一言。「大切なのは、『今』を語ること。地平線通信もそうだし、今から話す話もそうだけれど、昔のことを話しているようで、実はただの昔話ではない。今という時代、今を生きる自分の目線を常に意識している。振り返ってばかりではダメ。今日も私は、みなさんとやりとりする中で、パッと瞬間的に今を切り取って、何かをつかんでいくと思いますよ」。いきなり、ガツンと心に響くメッセージ。みんなの意識がグーっと、江本さんに集中します。
◆そして始まった本編では、江本さんの山岳部時代のこと、地平線通信の歴史のこと、社会主義時代のモンゴルのこと……。個人的には、厳しい自然の中で、質素に、力強く生きているモンゴルの人々の姿を写真で見られたこと、そして、その素朴な生活が、90年ころに資本主義経済に触れて一気に変貌したというお話が印象的でした。お話の最中、我が家の人懐こいネコ「右近」が江本さんの足元に何度もすり寄るたびに、話を止めて、「おお〜この子はかわいいね〜」と撫でてくれる江本さんに、みんなほっこり、にっこり。
◆約3時間の、盛り沢山のお話の後は、待ちに待ったエモカレー!! 「普段は全部ひとりでやるけれど、今日は人がいっぱいいるから手伝ってもらいましょう」の声を合図に、若者たちはせっせと野菜を刻みます。ちえん荘の薪ストーブでカレーをぐつぐつ、江本さんからの差し入れビールをゴクゴク。そして、みんなで江本さんを囲んで、いただきます! 小さめに切られた野菜がどっさりの、見た目はスープのような、大鍋いっぱいのカレー。さらっとしているのに色んな野菜のうまみがぎゅっと詰まった複雑な味。ハーブの香りにニンジンの土っぽい香り、オクラの種のプチプチ食感、セロリの苦みがアクセントになって、最後はすりおろしリンゴの爽やかさとマンゴーチャツネの甘味が後を引く……、いろんな香りと味がして、それなのにすべてがうまく、一つにまとまっている。とにかくおいしくて、みんな何倍もおかわりして、あっという間になくなってしまいました。
◆翌日からの2日間は、五十嵐と私と江本さんで、北海道を巡るドライブ。「神居古潭」と「苫小牧研究林」に立ち寄り、秋晴れに輝く見事な紅葉を見られました。「私はね、モンゴルでもそうだったけれど、川のせせらぎの側や、黄金に輝く草原に見とれている時間が好きでね。実は、あちこち忙しく動くよりも、こういう美しい景色の中にいられれば、それで満足なんですよ」というお話を聞いて、嬉しくなりました。私も、そうだからです。木々や花や、空や空気が美しいとき、心地よいとき、何時間でもそこに留まっていたくなります。日本でも、海外でも。
◆13日の夜は、長岡のり子さんのお母様のお家に、泊めていただきました。とっても明るくて、ニコニコ笑顔が素敵なお母さん。秋刀魚の塩焼きに北寄貝の煮物、ほくほくのジャガイモにバターとイカの塩辛を乗せて食べる北海道のじゃがバター、近くで採ったというワラビの煮物に、これまたお母さんが採ったというキノコの味噌汁……。どれもこれも本当に美味しかった。ここで、光菅修さんにも初めてお会いすることができました。
◆その夜も江本さんはいろいろな話をしてくれましたが、心に残ったのは「地平線会議というのは、いざという時に自分たちで生き残れるよう、という気持ちでやっている。そのくらい本気でやっている」という言葉。詳しい意味は聞かなかったけれど、私はこれを聞いて、なんて心強いネットワークなのだろうと思いました。今日私はこうして、江本さんを通じて、長岡さんのお母様や光菅さんと出会い、おいしいごはんを食べながら共に時間を過ごせている。地平線会議というのは、そういう人と人との出会い、触れ合い、あたたかい時間、真剣な時間……生身の人間どうしの途方もないやりとりの上に出来上がっているものなのだろうと、ふと思いました。
◆そしてその「共に過ごした時間」の積み重ねが、簡単なことでは揺らがない結びつきを生み、江本さんの言う「いざという時」に、どっしりとした包容力をもって、互いを助け合える土壌になるのではないか、と。そういえば私は、ちえん荘という場、そこに集まってくれる人たちの結びつきに対しても、そんな風になったらいいなと思っていたな、と、ふと思い出しました。
◆「今」と「本気」。江本さんと過ごした短い時間の中で、何度この2つの言葉を聞いたでしょう。何度も聞くうちに、この2つの言葉が私の中にも徐々に浸み込んで、江本さんと別れた後からは確かに、私の行動を後押しするパワーになっている気がします。今この瞬間を本気で生きたら、人生おもしろくなるに決まっているよな、という気持ちです。江本さん、北海道に来て、私たちと時間を過ごしてくれて、本当にありがとうございました!![笠原初菜]
■北の大地からこんにちは。熊谷といいます。2011年から北大探検部に所属し、在籍中は洞窟探検に勤しみ、ほぼ洞窟未開の地北海道での新洞窟発見を目指し活動していました。近年は200ccバイクにたっぷりの荷物を載せて、北海道内はもちろん九州東北などあちこち走っています。時間とお金が許す時がきたら、インドはラダックやモンゴルの草原をバイクで走り回る旅がしたいと夢見ています。
◆今回江本さんが、東神楽町で共同生活をする五十嵐君宅にいらっしゃるということで、ツーリングで滞在中の帯広から紅葉も終わり冬を待つ峠を越えて向かいました。学生時代のお話から始まり、特にモンゴルでの遊牧民との生活のお話はとても興味深いものでした。お話のあとはビールとエモカレーを振舞っていただきました。たっぷりの野菜とハーブにチャツネとリンゴの優しい甘みのとても美味しいカレー。ご馳走様でした。その翌朝、少しばかり残ったカレーを朝ごはんにしました。江本さんには怒られるかもしれないけれど、私は納豆カレーがとても好きなので、どうかしらと思い、入れてみたのです。すると、エモカレーの優しさを納豆がすべて包み隠してしまいました。どうやらエモカレーと納豆は合わせてはいけないみたいです。[熊谷ちひろ 北大探検部2011年入部]
■北大探検部四年目の赤嶺と申します。数年前に先輩に地平線会議を紹介していただき、一度感想兼挨拶文を掲載していただきました。ご無沙汰しておりましたが、先日江本さんが来道された際に貴重なお話やエモカレーを頂きました。お礼の気持ちも込めて少し書かせていただきます。
◆探検部に入って得てきたものは数多くありますが、その一つが“旅”と出会えたことです。中でも自転車旅をよくするのですが、そんな中で最近考えた旅と旅行について。
◆たびと辞書を引くとりょこうが意味に出てくる。逆もまた然り。語義としては同じらしいが、どうしようもなく旅という言葉に惹かれるのはどうしてだろうか。思うに旅行は点を打つ行為だ。あらかじめ目的地を決め、その箇所を車等で巡る。その途中は基本的に移動に過ぎない。一方で旅は線を描く行為だと思う。自転車で旅行をしていると目的地を巡っているのは同じだとしても、多くの時間はその間に費やされる。そんなときにふとした思い付きでする寄り道こそが旅行を旅にする。偶々訪れた先の風景やそこでの人との出会い、旅を振り返って思い出されるのはそういった間の景色たちであることが多い。寄り道をするという点で自転車は極めて丁度良い。車だと通り過ぎてしまうし、歩きは理想的だが時間がかかりすぎる。偶然の寄り道に巡り合うため、今もまた旅に出たくて仕方がない。
◆まだまだ旅経験の浅い若輩者の思想ですが、何かになればと書かせてもらいました。来年地平線が北海道に来られるならお会いできるのを楽しみにしております。[赤嶺直弥]
■秋も終盤、天気予報には雪マークが付いた。札幌は寒くなってきたが、僕の心は熱く燃えている。僕は北大探検部員である。江本さんがちえん荘に来るということで10月の第2週に先輩とちえん荘へ行った。
◆地平線の歩みについて色々なお話を対面で聞けて、その鮮やかさに自分の目標を再確認できた。人見知りしてしまって江本さんとはあまり話せなかったが、「エモカレー」は美味しかった。OB・OGと部の課題なども相談して、探検部をやめようかという悩みがスッと消えた。もっと早く話しにくればよかったのかもしれない。遅くまで語らい、朝は激ウマかった「2日目のエモカレー」を食べた。
◆あの日、地に足が着いた。今はまだ何もできないかもしれないが、次に地平線通信に載るときは探検の記録を書いたときだ。[工藤隆太郎]
■はじめての写真展「100 Days In Palau」が11月4日無事に終わりました。10日間という短い会期でしたが、予想以上にたくさんの人に見てもらうことができました。写真展の会場として利用させてもらったのは、昭和56年3月まで、炭鉱町の小学校(美唄市立栄小学校)として使われていた木造校舎2階のギャラリーです。
◆去年10月、イタリア・カラーラ産の白大理石をのみと金づちを使いながら自身のこころを彫っていくというワークショップ「こころを彫る授業」に出会い、それから毎月のようにギャラリーのあるアルテピアッツァ美唄に通いました。
◆通いながら、四季折々の彩を見せる美唄の景色に魅せられ、北海道を去る前にここで何かをやってみたいという想いが生まれました。今回展示した28枚の写真は、釧路で長倉洋海さんに順番も含めて指導してもらった24枚をベースに全体のバランスを考え、選んだものです。
◆コロナ禍のパラオで感じた、自分がまるで「不思議の国のアリス」に出てくる落とし穴に落ちてしまったような感覚を、会場に足を運んでくれた人たちに共有してもらえればという想いを胸に1枚、1枚写真を選びました。それがどのくらい伝わったか、正直なところわかりません。ただ会場に置いたノートには日本語だけでなく、英語やハングルで書かれたたくさんの感想が残っていました。それがとても嬉しかったです。
◆最終日、すべての写真を片付けた後、教室の中央に位置している安田侃先生の彫刻を見つめながら、この会場ではじめての写真展ができて、本当に良かったと思いました。「〇〇がしたい」からではなく、まずその場所を好きになり、好きになった場所で何かやってみたいという気持ちになれたこと、そして、そのスタイルが自分には合っていると知れたことが、今回の最大の収穫だと感じました。次にどこで写真展をやるかは全く決まっていませんが、北海道で1番好きになったこの場所で、いつかまた開催できればと思っています。[光菅修]
■地平線通信546号(2024年10月号)はさる10月9日印刷、発送しました。今回は22ページもあり、人数が少なくて(それでも7人!)間に合うか危ぶまれましたが、ふだんより会話控えめで作業して19時までに終わりました。参加してくれたのは、高世泉、車谷建太、中嶋敦子、白根全、秋葉純子、渡辺京子、落合大祐の7人です。遅れて二次会の北京に駆けつけた8人目の江本は、いつもと違う雰囲気に首をかしげました。なんと誰もビールを飲んでいないのです。これは長い通信発送史上初めてのことです。こういう貴重な歴史的瞬間は大事にせねば、と、江本もビールは拒否しました。なんとも素晴らしい時間でありました。22ページを590部、7人で黙々と作業してくれたのです。なかなかこういう現場には居合せられないでしょうが、そのうち一度でもこの現場を見てみてください。地平線通信の発送はこれらの人々に支えられている。皆さん、ほんとうにありがとう。
■私の友人であるシール・エミコさん(エミ)が、お母様の一周忌のため、10月に日本に帰ってきていました。約1か月間の滞在中、風間深志さん主催のSSTR(サンライズ・サンセット・ツーリング・ラリー)というオートバイのイベント(ゴール地点の能登の千里浜で行われました)に、昨年5月に引き続きゲスト出演しました。
◆能登の後は、東京にも会いに来てくれました。1週間の東京での滞在中は、「久しぶり〜!」の人もいれば「初めまして」の方々まで、エミにとって、そして、私にとっても素敵な出逢いがたくさんありました。
◆「初めまして」のうちのお一人、歌手の藤田恵美さん(元ル・クプルのボーカル)のラジオ番組に出演し、「恵美」同士での対談が収録されました。藤田恵美さん、とても穏やかで素敵な方で、緊張していたエミもリラックスして話ができたようです。
◆また、お互い忙しい江本さんとエミとのスケジュール調整ができ、なんとか江本さんにもお会いすることができてよかったです。旅のことや病気のこと、現在の生活のこと等々、いろいろな話をする中で断然盛り上がったのがエミが飼っているオリバーことオリ君のこと。老犬(17歳!)になってきていることもあり、今回、パートナーのスティーブはオリ君とオーストラリアでお留守番。家に設置しているLiveカメラで、エミは、日々、オリ君を確認。愛おしく、心配でたまらないエミ。江本さんとエミ、二人の犬談義は尽きず。
◆そして、オリ君の話から地平線通信の話になり、江本さんが「過去の思い出も大事だけれど、“今”を書くことが大事!」と力説されておられたのが印象的でした。江本さんは、通信の巻頭について、「過去の話も書くがそれで終わらせない。そのことによって、今がどうなっているのかまでを書くようにしている」とおっしゃっていました。「今を書く」、その視点が大事である、と。「今を書く」それは、きっと10代の江本少年もそう思っていたのだろうな、とふと思いました。
◆私は毎月の通信で「エモの目」というコラムがとても好きです。少年時代の日記をそのまま再録したもので当時の映画や相撲、世の中の情勢等が江本少年の視点で記録されていて面白く、また、見聞やその感性が豊かで文才もあり、10代の少年時代から培ってきたのかと思い、凄いなと感心しています。何よりも60年以上も前の日記が今でも手元にあることがほんとうに驚きです。
◆今は中高生編ですが、今後の大学生編、社会人編も楽しみにしつつ、江本少年の成長を読み続けたいです。同じような気持ちでいる「エモの目」の隠れ(!?)ファンは、たくさんいると思います。エモの目は、過去の思い出話とは違い、「江本少年の(当時の)今」が記されている貴重な日記なのですから。[藤木安子]
◆明日は「社会」だけなので昼間は遊ぶことに決めN君とオバケ山《当時鬱蒼とした森だったがその後山ごと削られ今では平らな住宅地に》にトランペットの練習に行った。何年ぶりかで行ったのだが、木々はうっそうとはえており、草はぼうぼう生え、蚊が飛び交いクマンバチだか雀バチだか知らん大きなハチがブンブンとうなっていた。ヘビは見なかったがこの山全部探したら千匹ぐらい出てくるかも知れないと思った。何より食料が豊富だった。山の幸、山イチゴやクワの実がふんだんにあった。誰も来ないらしく食べても食べても減らなかった。そうしているのがとにかく一番僕は好きなのでつくづく豆口《私が生まれ住んでいた高台の名》の良さを味わった次第である。トランペットもドレミファは大体合格、「メリさんの羊」とか「ちょうちょう」くらいなら吹けるようになった。明日も行くつもりである。
◆10日目、若羽黒《横浜出身の幕内力士》は琴ヶ浜に完敗、松登は吉葉山に惜敗、勇み足である。朝汐は栃に不戦勝、信夫山、若瀬川も敗れた。そして千代の山は大関大内山に突き出された。一敗は大晃、二敗は鏡、双ツ、吉井の三力士《鏡里、双ツ竜、吉井山の略称》。今日はあまり嬉しい勝負はなかった。
■2024年9月22日朝、ネパールのラスワガディから陸路で国境を超え、チベットのキロン(吉隆)に入った。国境越えは決してスムーズとはいえなかったが、ついにチベットに入ることができた。
◆キロンから、シシャパンマに行く前の最後の街オールドティンリーに向かう途中、分岐点となる村、セロンがある。セロンから右に曲がるとシシャパンマBCで、分岐点に、シシャパンマホテルという名のホテルが建てられていた。その向かいにある小さな茶屋に昨年も立ち寄ったのだが、今回もそこで休憩した。国道をそのまま真っ直ぐ行くとオールドティンリーである。
◆23日夜、オールドティンリー着。そして、24日は、朝から近くの丘に登って高所順応に努める。丘からはオールドティンリーの市街が見渡せる。標高4600m、体調は悪くない。その翌々日からついにシシャパンマのABC(標高5650m)に入った。
◆ABCに入ったその日から、ドカ雪が降った。26日からずっと降り続き、ようやく雪がやんだのが28日の夜。積雪量は軽く1メートルをこえ、ダイニングテントがつぶれた。その後、少しだけ気温が高くなると、四方八方から轟くような雪崩の音が聞こえはじめて、ナーバスになった。
◆29日朝に、久々に快晴となる。降り積もった雪が固まるのを待って、サミットプッシュに入る。ローテーションなしのシングルプッシュで行く計画を立てた。最初スノーシューを履いて懸垂氷河の入口まで行き、そこからアイゼンを付けて登攀を開始する。自分が所属するイマジンネパール隊には、以下のようなメンバーがいる。〇サルバース(パキスタン最高のクライマー。13座の多くを無酸素で登頂。平出中島ペアや竹内さんはじめ、多くの日本人と交流がある)〇ミンマG(言わずと知れた不動のリーダー。13座を完全無酸素登頂。シェルパ・オブ・シェルパ。IFMGAガイド)〇ザンブー(新人)〇ニマヌル(ペンバ亡き後、自分とタッグを組んできた。アンナプルナとナンガに一緒に登頂した。若くて強い)〇ダワギャルジェ(13座登頂。ダワヤンザムの実兄。JAC東海のローツェ南壁はじめ、多くの日本隊に参加し、高難度のルートで研鑽を積む。IFMGAガイド)〇ギャルツェン(シェルパたちがギャルツェンこそ最強と囁く。2022年のカンチでは長時間トップでルートを拓き、ぼくはその強さを垣間見た)〇キルー(K2冬季初登頂を果たした10人の一人。昨秋のシシャパンマではぼくと組んで、最後の最後まで行った。むちゃ強い)
◆そして、アメリカ人のトレイシーとマケドニア人のサシュコ、そして自分である。みんな、何度も山行を共にした頼もしい仲間たちである。
◆ABCにいる隊は、まず先頭にイマジンネパールがいて、その隣にニルマルプルジャが率いるエリートエクスペディション隊とクライムアラヤ隊、最後にセブンサミッツ隊がいる。今回の遠征は、すべてにおいてイマジンネパールが先導する感じになっている。
◆このABCからシシャパンマを眺めたとき、頂上のように見えるとんがった頂は中央峰で、それよりも高い本当の頂上である主峰は、その少し左にある。日本のシシャパンマの登攀記録を調べると、その多くが手前の中央峰の頂に立ってシシャパンマ登頂としていた。しかし、それは中央峰に登頂しただけで、シシャパンマの最高点に立ったわけではない。
◆昨秋、アンナたち(エリート隊)は中央峰から主峰へトラバースしようとして雪崩に遭った。ジーナたち(クライムアラヤ隊)は中央峰へ向かう稜線の途中からトラバースして、そこから直登して主峰の頂上直下で雪崩に遭った。今回は、トラバースをせず、頂上へ続く斜面の基部を左から大きく回り込むルートをとる。雪崩を回避するためのルートだが、うまくいくかはわからない。
◆このルートは、2006年のスペイン隊のルートとほぼ重なる。18年ぶりにこのルートを拓くことになったのは、昨秋の雪崩の轍を踏まないように熟慮したミンマの決断によるものだった。
◆ドカ雪がやんだ後、シシャパンマは好天周期に入った。ABCから6000mの丘まで上がって順応し、完璧とはいえないまでも順応は終わった。いよいよサミットプッシュである。
◆イマジンネパール隊が歩を進め、最終キャンプとしたのは第三キャンプ、標高およそ7000m地点だった。10月4日深夜2時ごろにC3を出発。昨秋、雪崩で亡くなったジーナとテンジェンラマが眠っているあたりを通ったとき、皆で周囲をつぶさに確認したものの、何も見つけられなかった。何の痕跡も見当たらなかった(ちなみに、下山時には、自分たちが通ったルート上にデブリができていて、登っているあいだに小さな雪崩が起こったであろうことを確認した。このあたりは、必ずどこかで雪崩が起こる。来年以降もこのルートが使われるようになるだろうが、シシャパンマ主峰への道のりは、どこを進んでもリスクが高い)。
◆昨秋の雪崩の終着点あたりから、まずはキルーとギャルツェンとサルバースの3人が頂上稜線まで固定ロープを張った。彼らには、目一杯の感謝と敬意の気持ちを送りたい。
◆そして、誰の踏み跡もない、まっさらな頂上稜線をトップで拓き、最初に頂に立ったのはニマヌルだった。その後、12名全員で登りつめた。10月4日16時30分、標高8027m、シシャパンマ主峰の頂にぼくは立った。今シーズン初めてシシャパンマの頂に立ったのは、ぼくたちイマジンネパール隊となった。
◆シシャパンマの頂上は狭かった。シングルベッドの半分ほどのスペースしかない。そこに12人の仲間が寄せ集まり、みんな興奮していた、快哉を叫び、歌い、語り、祈り、抱き合い、肩を叩き合った。今回ばかりは、みんながみんな、本当に登頂したかったのである。
◆山頂に着いてやるべきことは一つだけだ。記録することである。自分が今この瞬間に山頂にいることを証明するため、写真と映像で記録を残すのである。
◆まずはフィルムの中判カメラで四方の写真を撮った。遠くまで見渡せる美しい眺めではあるのだが、取り立てて目立つものもなく、茫漠としたチベットの風景が広がっている。まずはそれを撮る。
◆次は動画だ。コンパクトなデジタルカメラを使い、自分で自分を撮る。自撮りである。そして、頂上に着いたことと、たった今の心境をカメラに向かって述べた。頂上に着いたらこんなことを話そう、と事前に考えたりもしていたが、いざ頂に来るとそれらはすべてすべて飛んでしまった。これまでのあれやこれやを思い出し、感極まってしまった。
◆手前にいくつものニセピークがあり、あそこよりも高く、あれよりも高く……、とずっと考えていたので、頂で360度視界を確かめて、確実にここより高い場所はない、と自分の目で確かめた瞬間が一番嬉しく「ここより高い場所はどこにもない」という言葉が口をついて出た。それこそが率直な自分の気持ちだった。シシャパンマ主峰の最高点にようやく到達したのだ、と。これで14座目の最後の山の頂に本当に立ったのだ、と。
◆最後に、自分が頂上にいる姿を誰かに撮ってもらわねばならない。だが、このときはそれを忘れていた。8000メートル峰への遠征を何度も繰り返してきたので、頂上でも冷静にいられたはずの自分が、シシャパンマ山頂では興奮していたのだろう。登頂した自分を撮ってもらうことを忘れていたのを、後で気が付いた。
◆が、隊のリーダーであるミンマGがぼくの写真を撮ってくれていた。最後となる14座目の登頂写真をミンマに撮ってもらえるとは、思ってもみなかった。ミンマは、14座すべての山に無酸素で登頂を成し遂げるという歴史に刻まれる快挙をシシャパンマで成し遂げ、ぼくなんかより彼が写真に収められるべきなのに、彼はぼくの写真を撮ってくれていたのである。彼には感謝してもしきれない。こうして、ぼくの23年間にわたるヒマラヤ巡礼は一区切りを迎えたのであった。
◆頂上から下山を始め、C3に帰り着いたのは20時過ぎだった。C3より上にはイマジンネパール隊11名(と、ニルマルプルジャ)しかおらず、全12名が登頂後にC3まで無事に帰り着いた。
◆この数日後、イマジンネパール隊が張った固定ロープと踏み跡をたどって他隊から多くの登頂者が出た。が、彼らは10月4日の最初の登頂時の苦労や逡巡を知らない。10月4日の隊の動きは、新潮社から出す新刊にしっかり書く予定だ。以下、詳細な日程を記す。
◆9/26 Old Tingri→ABC(5650m)/9/27 Puja Ceremony in ABC(5650m)/9/28 We couldn’t do anything because of heavy snow(5650m)/9/29 Acclimatization Hike(5800m)/9/30 Acclimatization Hike(6000m)/10/1 ABC(5650m)→Camp1(6300m)/10/2 Camp1→Camp2(6800m)/10/3 Camp2→Camp3(7000m)/10/4 Camp3→Summit(8027m)→Camp3/10/5 Camp3→ABC(5650m)/10/6 ABC→Old Tingri/10/7 Old Tingri→Shigatse/10/8 Shigatse→Lhasa
◆シシャパンマABCからオールドティンリー、シガツェを経て、チベットの首都ラサに帰り着いたのは10月8日だった。ラサは、今から23年前の2001年、23歳だった自分がヒマラヤへの旅に足を踏み出したはじまりの地である。
◆まだ大学生だった自分は、英語もロクに話せず、高山病のなんたるかも知らず、ただチョモランマの頂に立つべく、HIMEX隊のタクティクスについていこうと必死だった。ポタラ宮の階段を息を切らせて登っていたあのころの若い自分は、23年後に再び自分がここに戻ってくることを知らない。
◆ヒマラヤ14座を巡る長い旅を終え、仲間のシェルパたちと共に、五体満足で再びラサに戻って来られたことは奇跡に思える。自分の人生を変えたヒマラヤ巡礼は、ラサにはじまり、ラサに終わる。四半世紀という歳月のなかでチベットの街並みは一変しても、この大地の奥底に刻まれた聖性は消えない。広大無比なチベットは、精神の寄る辺として自分の心のうちに死ぬまで在り続ける。ラサとは、自分にとってそういう場所なのである。
◆ラサから成都に飛び、夜は、いくつもの山を共に登った中国人の岳友ガオリたちと合流して、シェルパたちと最後の大宴会に興じた。その後、カトマンズに戻って、航空券を取り直し、10月半ばになって日本に帰国した次第である。
■旭川では、動物園見学がもう一つの目的だった。ユニークな動物たちの「行動展示」で知られる旭山動物園にまだ入っていない。もともと動物園が好きなのでこの際、としっかり日程に組んであった。旭川駅からバスで30分、市街地を見わたすゆったりした斜面に日本最北の動物園はあった。
◆ペンギンやあざらしがスイスイ泳ぐ姿を真上のガラスを通して目の前にできる「ペンギン館」や「あざらし館」、エゾヒグマやアムールヒョウのいる「もうじゅう館」などが工夫された展示方式で園内に散在していてほんとうに楽しめた。ホッキョクグマやカバ、ライオンや虎の楽しいひとときだった。帰りの便が夜だったこともあって2回も園を訪問してしまった。
◆現地でも帰京してからも北大関係者に会っていろいろ学んでいる。私自身もう少し北の国のことを学んで方針を決めようと考えているのでしばし時間を。[江本嘉伸]
閉ざされた旅の記録
「今思えば奇跡の20年間でしたね」と言うのは映像ディレクターの山田和也さん(70)。「'90年から'10年は現代史上稀に見るほど世界で紛争が少なく、穏やかだった時代。当時グレートジャーニーで訪れた国々(山田さんは'98〜'07に同行)は、今では入れない所も多いんです」。 ヒマラヤを始め、国内外の山々や、辺境の旅のドキュメンタリー制作を数多く手がける一方、モンゴルの少女を主役に据えた映画「プージェー」の監督として数々の受賞歴もある山田さん。その旅は最初から独創的でした。 東京農大探検部時代にガンジス川全流2200kmを降下。放浪を含めてインドに一年滞在。卒業後ある興産に就職したものの、フィリピンのマンガン鉱脈を探す山師仕事で命の危険を感じて退社。その後開放間もないラダックで非合法に越冬を試みるが、当局に捕まって断念。 その時撮った写真が探検部先輩の日テレスタッフの目にとまり、現地チベットで調査、撮影、録音、演出などを叩き込まれ、テレビドキュメンタリーの世界に入ります。 今月は山田さんがどのような旅を経て映像表現の世界に魅せられてきたか、そして現在では行けない地域で撮った映像の裏話などを話して頂きます。 |
地平線通信 547号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
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発行:2024年11月13日 地平線会議
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