10月9日午前8時。激しい雨。東京の気温昼過ぎには16度に。ようやく秋らしい空気、と思ったがそれどころか寒いぞ。振り返ってつくづく酷暑の日本であった。そんな中で石破茂という政治家が我が国の首相になり、なったと思ったら今日9日、衆議院を解散し、15日告示、27日に総選挙をするという。
◆辰年生まれの私は年男である。10月7日、84歳の誕生日を迎えた。おいおい、ほんとかよ、という気分である。相変わらず1、2時間の散歩は楽しんでいるし、最近は5年ぶりにプールに通うことも復活した。少し気になるのは大した重さでもないザックを背負っていて時々左肩がかすかに痺れるような感じになること。山岳部時代の唯一のいやな体験、“ザック麻痺”を思い出させた。
◆私の最初の夏山は20日間。北アルプスの剱岳に1週間ほど定着して長次郎谷や平蔵谷で雪上訓練、八つ峰六峰の壁で岩登り、そしていわゆる“黄金コース”をたどり、西鎌尾根から槍に登り、飛騨側に降り、滝谷を見上げて蒲田川から穂高を登り返して涸沢、上高地に降りるという行程だった。はじめ装備、食料を含め45、6キロ(当時の私の体重と同じだった)はあった超特大キスリングの重さは新人ゆえにあまり減らず、そのうち痺れが頻発するようになった。
◆1959年7月27日、18歳の日記。「歩き出してすぐ左ひざのイタミ、又ひどくなる。左腕のしびれがきょうははげしい。ザックの重みに左腕はダランと垂れ下がってツメタクなる」。四六時中キスリングを背中でずらしたり、休憩がある度肩を振り回して痺れをなくすようのにするのだが、痩せっぽちの私に重荷はこたえた。無事家に帰っても状態は変わらず、風呂に入って左腕を上げる練習を続けた。
◆なんとか回復したが、その後も垂直の壁に長い時間しがみついていると急に左腕が利かなくなるという恐ろしいことが何度かあった。三流クライマーの所以であるが、ザック麻痺対策を18歳の新人に教えなかった先輩にも責任があると今では思う。80歳を超えて今更なんだが「痺れ」の恐ろしさを思い出したわけである。
◆山岳部の生活には「しんかん(新歓)」と呼ばれた春の谷川合宿がある。毎年、OB、OGたちが大勢参加してマチガ沢出合にテントを張り、初日は雪渓で滑落止めとグリセードを習得し、2日目は西黒尾根から頂上に登り、芝倉沢をグリセードで降ってテント場に帰るというプログラム。入部したての頃は雪渓歩きもおそるおそるだった新人が1年経つと劔や穂高の雪や岩で鍛えられすっかり先輩風を吹かせて後輩たちをコーチする風景は山岳部独特のものだ。
◆ひ弱な自分の山岳部修行時代が忘れられず私は新人が入るたび、元気なOBとして谷川に通った。ついにはワンゲルに吸収されて消えてしまったが、私自身は最後の何年かもできるだけ学生たちと山に行くようにしていた。そんなことが伏線としてあったか、9月のある日「東外大山岳部の江本さんを知る世代の部員と江本さんとの再会」という集まりが突然新宿で持たれた。
◆インドネシアで仕事している仲間の一時帰国をきっかけに男子3、女子3人の“元新人”たちが集まったのだが、なにしろ40年ぶり。名は覚えていたが、みな初老のおじさん、おばさん。ああ、君があの、と確認するまで時間を要した。宴を企画したささきようこさんだけはこの1年地平線通信を読んでいるのでよく知っていた。
◆この集まりに1人だけ山岳部とは無縁の元若者がいた。「インド探検家、作家、イラストレーター、柔道整復師」の肩書きを持つ浅野哲哉。1978年11月、仲間2人と読売新聞に私を訪ねてきた元法政大学探検部員、結果的に地平線会議誕生のきっかけに関わった人間である。ささきさんは長年関わった「ラーマーヤナ」という日印合作アニメ制作の仲間として浅野君に参加を呼びかけた。実は、この宴がきっかけとなり、ささきさんと浅野君は今月地平線報告会に登場する。詳しくは22ページの予告イラストを。
◆石川直樹君が10月4日、シシャパンマ(8027メートル)に登り、ついに8000メートル峰14座登頂をなしとげた。石川君は1999年4月に「海を渡る星の唄」で報告会に初登場、以後、いろいろな場面で地平線に顔を見せてきたが、まさか8000メートル峰をすべて登ってしまうとは。
◆明日10日、20年ぶり北海道に向かう。阪神・淡路大震災後の神戸、鷹匠がイヌワシの「崑崙」と参加した山形県鶴岡、会津の伊南村、四国の四万十川、沖縄の浜比嘉島などあちこちでやってきた地平線、一度は北の大地を踏んでみたい思いが私には強くある。寒いのだろうな。[江本嘉伸]
■チャドで友人からプレゼントされたバティック(ろうけつ染めの布)で仕立てた、民族衣装グランブーブーをまとって登場した坂井真紀子さん。学生時代からアフリカに惹かれ、彼の地に行くことを目標に生きてきた真紀子さんのアフリカ歴は、かれこれ30年余りになる。
◆NGOのスタッフ、第2の学生生活を経て、研究者、大学教員となった今も「地元の人とおしゃべりするのが楽しくて、彼(女)らのことを知りたくて、アフリカと関わっています」という本人の気持ちが、話の端々から伝わってきた今回の報告会。前半はこの春、写真集にまとめた現在の主たる調査地・カメルーン西部の伝統的な定期市にまつわる話が、そして後半ではアフリカへと至る自身の道のりが語られた。
◆真紀子さんが2015年から通っているのは、バミレケという民族が暮らす、カメルーン西部メヌア県のチャン市。それまで調査に通っていたチャドの治安が悪化し、入国できなくなったことがきっかけだった。山がちで耕作地が少なく、畑を継ぐ長男以外は出稼ぎに行く人が多いチャン周辺は、伝統的なチーフダム(首長領)が存続している地域でもあるという。
◆チャン周辺の定期市の最大の特徴は、8日間を周期とする暦で市が立つこと。各村では、市の曜日が決まっているだけでなく、近隣の村では、市の立つ日が重ならないよう配慮されている。「商人は各市を巡回するし、普段は畑をやっている人も、市に合わせて行商に出る。定期市はバミレケの人の生活の、大事なサイクルになっています」
◆行政や学校では、週7日の暦が使われている中、市場の必需品が7日暦と8日暦を合わせたカレンダー『MELE ela YEMBA』だ。カレンダー自体は昔からあったけれど、ポケットサイズはきっと売れる。そう閃き、30言語でカレンダーを制作した男性Dongmoさんは、売上で家を建てるほど財をなしたそうだ。
◆そもそも市場とはどういう場なのか。神(聖)の世界と人間(俗)の世界の境界に位置し、世俗の縁や文脈から断ち切られた場について、真紀子さんは「たとえば彼氏のために愛情を込めて編んだマフラーは、想いが強すぎて重いですよね。そういうものを断ち切った無縁状態で、モノの価値だけを見て交換・売買するのが市場です」と、説明する。
◆では、市場とスーパーマーケットの違いは何か。個と個がやりとりする市場は、モノだけでなく情報・文化が交流するコミュニケーション・システムであり、その周期性は生活のリズム、社会の脈拍になる。もうひとつ、なるほどと思ったのは、市場では生産者が交易者兼消費者でもあるということ。「スーパーに来る人は消費者でしかないし、売り手も資本主義的競争にさらされています。でも、市場では普段、畑で野菜をつくっている人が、市の日には野菜を売り、帰りに夕飯の材料を買うときは消費者になるように、3つの役割を体現しています」
◆ところでこの定期市、誰でも商売できるのだろうか? 屋根や物入のある場所は1年契約、ゴザを敷いて路上で販売するのは1日契約などカテゴリーがあり、それぞれのキャパシティに合わせて市に出られるそうだ。
◆カメルーンの首都ヤウンデからチャンまではミニバスで7〜8時間。フィールドワークでは宿や食事も重要で、現地に到着すると、真紀子さんはまず食べ物を探し、夜の外出のリスクなどをチェックする。そして宿のオーナーやカフェに集まる人を伝手に、人間関係を広げていく。かつてコーヒー栽培で潤っていたこの地は、90年代の自由化でコーヒーの価格が暴落。雨が多く冷涼な高原地帯では、代わって近隣諸国に輸出するほど野菜栽培が盛んになっている。これを可能にした救世主が、バイクタクシーだ。道が整備されていない山間の畑から収穫物を運ぶ手段として、バイクタクシーが登場したのは2000年頃。中国から関税なしで入るようになったバイクが急増したことが、その背景にある。失業者や、次の仕事までのつなぎとしてライダーになる人が多かったバイクタクシー。ただ最近は供給側が過当競争となり、小銭稼ぎも大変になっているという。
◆市場調査の一環で、野菜売りの女性に話を聞き、仕入れに同行する。畑を見に行き、仲良くなった人の自宅を訪問し、一夫多妻の家庭の、夫の立場を垣間見る。真紀子さんはそのお宅で、夫のお母さんから「私のお葬式に来てね」と、いわれている。金曜日から日曜日は葬儀に参加するため、大学の先生たちも毎週、地元に戻ってしまうように、カメルーンでは葬送の儀が盛大におこなわれる。
◆なぜ伝統を守り続けるのか? 真紀子さんの問いに「定期市も8日暦も、自分たちのアイデンティティだから、絶対なくなりません。僕らは見える世界(この世)と見えない世界(あの世)を行き来しているんです」と、学生は答える。カメルーンでは政治不信が強く、一般市民は自分たちで経済を回すことを信じている。「葬儀を介して都市と農村を往復し、次の世代に価値観と習慣を共有する。すごいなと思います」。調査地チャンの伝統市をテーマにした前半の報告の終了前に、写真集を編集した丸山さんが「宝の山」と称した真紀子さんの写真について解説した。制作にまつわる裏話のあれこれは、記録の意味をあらためて考えさせてくれるもので、地平線への寄付として用意された写真集40冊は、あっという間に報告会参加者の手にわたった。
◆「何か目的のためというより、彼(女)らを知りたいという好奇心から、日常の延長でアフリカに滞在しています」。報告会冒頭での発言が腑に落ちた前半に続いて、「今回、こうして地平線会議で報告する機会を得たので、自分がアフリカに辿り着くまでを振り返ってみます」と、後半がスタート。表面的なことではなく、その人が何を大事にしているかを知りたい。そんな思いでフィールドワークをしている真紀子さんのスタンスを象徴するのが、セネガルのある村を、初めて訪問したときの出来事だ。到着してすぐ女性たちの輪に溶け込み、「10年くらいここにいるみたい」といわれたように、どこででも、すぐその場になじむ真紀子さんは、人と接する際に邪魔になるものとして、肩書や所属を挙げる。「相手の話を聞くとき、聞き手がつい自分の成功体験を話していることもあるので、フィールドワークではそういう自我を出さないように心がけています」
◆真紀子さんがアフリカに惹かれた1980年代後半の日本は、バブルの絶頂期。アフリカに関わる=援助するという当時の空気に対して、「アフリカを援助の場にすることへの違和感がすごくありました」と話す。お金の有無は物事の本質と関係ないのに、なぜそこで優劣を決めようとするのか。今も経済成長とは別のところで社会をつなぐ何かを探しているという。
◆自分がなぜ、今の自分になったのか。考えると、やはり大きいのは家族の存在。町工場を運営する祖父のもと、ひとつ屋根の下に9人が暮らす大家族は、人から「交差点の真ん中にいるみたい」といわれたように、アフリカに通じるものがあった。その一方、病弱な父親のひとことから、いずれ母子家庭になったときに右往左往しないように、真紀子さんは小6のときから「葬式イメトレ」をしていた。
◆祖母の介護が始まったのが中学3年。高校から大学にかけて、父親、母親、祖母と3人の肉親を亡くした真紀子さんは、2人の弟と年が離れていたこともあり、この間、介護や看護、家事など、家族の世話を担っている。なぜ自分だけが? そんなモヤモヤもあったものの、『道元入門』を通じて、人間の心身を支える仕事なのに光が当たらず、お金にならず、けれど生きている限り続くシャドウワークの大切さに気づいたのはこの頃だった。家族のことが片づかなければアフリカに行けない。そう思っていたとき、道元のことばとともに自分を支えたのがビリー・ジョエルの「Viena waits for you」で、ウィーンをアフリカに置き換え、語学の勉強など、アフリカ行きのためにできる準備を進めていた。
◆真紀子さんの大学時代から就職期は、バブル期とほぼ重なる。「お金がすべて」的な資本主義への怒りは、アフリカだけでなく、ベトナム、パレスチナなど、第三世界への関心にもつながっている。この時期、影響を受けたものとして、犬養道子の『人間の大地』、和崎洋一の『スワヒリの世界にて』、母子でお世話になった早坂泰次郎教授の心理学のゼミなどを挙げる。「『人間の大地』に書かれた、先進国の生活様式が地球の裏側で貧しさを生んでいるという話は、その通りと思いました」
◆敵情視察で入社した総合商社を9か月で退職すると、海外留学生の多いアジア学院で1年間、ボランティアをしながら有機農業を学んだのち、ついに念願のアフリカへ。半年間で6か国を巡ったのち、長期滞在しようと、94年には、砂漠の縁で植林活動をしている「緑のサヘル」のスタッフとしてチャドに赴任した。PC導入、現地スタッフのために労働法規を学ぶなど、チャドでは事務方=シャドウワークが中心で、なかなかフィールドに出られなかったが、そこで圧倒されたのが地元の女性の生活能力の高さだった。チャドのことを知りたい、開発援助についても再考しようと、5年弱いた「緑のサヘル」を離れ、30過ぎてパリに留学。国立の大学院大学のアフリカセクションに飛び込み、のちに恩師となる在野の人類学者を紹介された。開発援助に一家言ある恩師は厳しかったが、博士論文までお世話になっている。
◆チャドで、On the Job Trainingで耳から学んだフランス語をブラッシュアップしようと、真紀子さんはパリに移住後、すぐ語学学校に通っている。フィールドワークをしっかりおこない、フランス語で論文をまとめるためだったが、その前提にはつねに「ことばを大事にしたい」という気持ちがあった。コーディネーターという肩書があったNGO在籍時は、村人とも距離があったけれど、貧乏な学生として村に寝泊まりすると、それまで聞けない話を聞くことができた。パリでは週末ごとに持ち寄りパーティをしたり、朝市巡りをしたりと、生活を楽しみつつ、時間はかかったけれど、フランスで博士号を取得した。
◆帰国後、3年ほどのフリーの時期は、山仕事のボランティアに注力。「週末、ここに通うためにも仕事をしないと」と、思ったところで、2011年に東京外国語大学国際社会学部に新設されたアフリカ地域専攻で教えることに。なかなかフィールドに出られないジレンマを抱えつつ、現在に至っている。
◆調査地カメルーンでの詳細なフィールドワークの話から、アフリカへ至る道のりまで、ライフストーリーを交えて語られた今回の報告会。現地でも台所に入って女性とやりとりするなど、家族が大変だった時期のさまざまな経験が関係性づくりに役立ったのかもしれないと、真紀子さんは振り返る。
◆若い時期に3人の肉親の介護と看取りをしてきた経験は、一期一会を大切にする生き方にもつながっている。「この人に、また会えるだろうかと思うと、一歩踏み込むことができるし、そうすることで相手が今、このときに発することばを受け取ることができると思います」
◆語学が堪能で、40過ぎまで定職に就かなかった真紀子さんの自由人ぶりに、尊敬する文化人類学者の西江雅之さんを思い出した。肩書や所属に縛られず、つねに個として他者と向き合い、関係を結ぼうとする。オープンでフラット、何より世界に対してフェアであろうとする真紀子さんの話に、希望と勇気を感じた報告会だった。[塚田恭子]
■9月末の報告では、私のフィールドでの写真を元に、カメルーン西部州の定期市の面白さや出会った人々とのエピソードをみなさんと共有することができました。これはひとえに丸山純さんが、調査資料の中に埋もれていた私の写真に、丹精込めた編集で命を吹き込み、すてきな写真集にしてくださったおかげです。自分がフィールドで撮る写真は記録用なので、これまで特に誰かに見せることはありませんでした。今回、丸山さんからのコメントをはじめ、感想を多数いただいて、私が無意識にファインダーに納めた市場の商品や風景、人の表情が、新しい意味を持って迫ってくる、そんな不思議な体験をしました。
◆そして、写真一枚一枚をとおして、そのときの記憶が戻ってきました。市場のおばさんのにっと笑った顔、カフェの客たちと馬鹿話で盛り上がったこと、炭火焼きの魚をはじめて口に入れたときの驚き……。そうだ、私は確かにあの場所にいて、その場、その瞬間が大好きだった。あのときの「袖振り合うも多生の縁」が、写真の隅々に残っていたとは驚きでした。なくしたことすら忘れていた大事な宝物を発見した気分です。そして自分の撮った写真を見返す暇もなかった日常にため息がでました。
◆報告の後半では、アフリカに通うようになるまでの道のりについて話をしました。アフリカについて話すことはあっても、まさか自分の家族の記憶を、大勢の方々の前で話す日がくるとは思いませんでした。でも振り返ってみると、10代のころから、家族の中の出来事を反芻しながら生きてきました。私の人生の冒険は、むしろ家族との物語、祖父母、両親、弟たちと「家族」のしがらみと格闘しつつ、「待ってろ、アフリカ!」と意気込んでいた日々だったのかもしれません。自分の人生の前半と後半をつないだら、憑き物が落ちたような脱力感が襲ってきました。家族の介護や死から得たことは、私なりのアフリカとの向き合い方につながっていました。あのころの自分が、やっと納得したようです。会場でうなずきながら温かく耳を傾けてくださったみなさん、ありがとうございました。あの不思議な一体感はなんでしょうね。地平線の“場”の力でしょうか?
◆事前の打ち合わせから、当日の機材のセッティング、進行、二次会の手配まで、江本さんをはじめ地平線のみなさんには大変お世話になりました。この場を借りて、心よりお礼を申し上げます。[坂井真紀子]
■9月28日の地平線報告者は、アフリカ研究者の坂井真紀子さん。私にとっての坂井さんは、最初の出会いが、今年3月の地平線報告会後の北京で座った席が隣だったことで、それに続き2回目は、8月の報告会会場で空いていた椅子に座ったら隣が坂井さんだった。しかも次回の報告者であり、テーマはアフリカ! 国は違うが、私がかつてバックパッカーとして旅したことがある地域の話だ。これはもう、聴きに行くっきゃないでしょう。
◆坂井さんの報告は、学者さんならではの知性と、人としての奥深さを感じさせられる内容で、こちらも聴いている端から「つっこみたいこと」が次々と湧いてきた。そして質疑応答コーナーでは、ありがたいことに一番に質問させてもらう機会をいただいた。が、実は私には大きな質問が2つあったのに、ひとつに絞ってしまった。
◆それが失敗だったと気づいたときは、後の祭り。なぜなら、その回答から、日本人にとって最も遠い世界のひとつであるアフリカの人たちの考え方を、あの報告会の場で共有したいという思いが強かったから。なのでこの場を借りて、報告会当日は残念ながら時間切れでできなかった質問と、後で聞いたそれに対する坂井さんの回答を共有させてください。
◆それは、死者の葬り方に対する感覚の違いについて。ちなみに報告会当日の質疑応答コーナーで、葬儀の方法などについては他の方によっていくつか質問がされ、土葬か火葬か、という質問に対しても、「土葬」です、という回答は共有された。そこで私があの場で共有したかった質疑応答は……。
◆Q:日本で行われている「火葬」は、現地の人達に理解されましたか? A:いいえ(補足:死者を焼くということは、彼らにとっては、人としての理解の範疇を越える行為である、ということ)
◆やっぱりそうかー。あー、すっきりしたー。ありがとうございます。この続きはまた![中井多歌子]
■坂井真紀子さんの報告会は、他用重なる中、行ったかいがありました。楽しかったですし、心に残りました。マーケット、市場なんてあまり関心ないな、などと報告会の前には思っていたのに、マーケット再発見! どれだけ人が関わる催しか、それぞれの人生、生の交流の場になっているか、面白い!と。
◆たしかに、私の住む東京都三鷹市にはまだ農家(多くは相続税対策とはいえ)があちこちにあり直売所をしていて、そこで生産者の方と出あうと、いつも楽しくて心が晴れる。実家の新宿一丁目(旧花園町)界隈も、私の幼いころは、どこも平家で路地があり商店街があり、今でもそのころから顔見知りだった人に道で出あうと、なんか不思議な親しみがある。などの思いが巡り……。
◆そして、今は、新宿の地元の商店街は消えて、大きなスーパーマーケットができ、さらに最近はセルフレジがほとんどとなり、買い物に行くことは、単にお金と物(ストーリーのわからない商品)の交換だけになって……それは、都会の孤独をますます助長しているのではないか。
◆一方、地元の、さらに生産者も参加している市場は、人の営みと交流の場であり、どれだけ貴重であるか、面白いか、ステキか。もしかしたらマーケットをとおして、今、誰からも取り残された人たちも何らかの役割が持て、参加し、みんなの一員になれる、そんなこともあるかも……。今回は、こんなことをあらためて思った報告会でした。
◆私がこんな風に感じたのは、坂井さんが「冒険したくてアフリカに行っていたのではなくて、そこの人たちとお話したくて。深く話を聞きたくて」という気持ちや、「自分の話を聞いて聞いて、という自分の欲求を満たすことには、気をつけていた」という知性があったからのように思いました。
◆話をしたくて行きました、という言葉がなんだかとてもよかった。これは、人の心に潜む自然な気持ち、私は心から共感しました。なのに、それがなんだか難しくなってしまっている日常。たくさんの人間たちがいるのに……。今回の報告会は、この点でも深く心に残りました。
◆この16年間、私は実家の両親の日常の補佐ヘルパーをしていますが、シャドーワークという単語を初めて知ったことは、衝撃でした。坂井さんは、若いころシャドーワークをし、やり遂げて、それから、自由に自分の人生を拓いてきた。私は、若いころからブラブラ暮らして、人生後半にシャドーワークにどっぷりは案外葛藤も多く、でもそれまでまるで知らなかった社会の人生のいろんなことを体験できています。シャドーワークは、今自分の成長のために必要なことですね〜。
◆以前、たまたま江本さんと二人でお話したときに、江本さんから地平線会議は冒険の報告会や集まりでもあるけれど、深いところでは一人一人の人生の探求を共有する場なんだ、というように聞いて感動したのですが、今回の坂井さんの報告会ではそのことをあらためて思い出しました。[秋葉純子]
■ペルー共和国元大統領アルベルト・ケンヤ・フヒモリ・イノモト、日本名=藤森謙也氏が去る9月11日、悪性腫瘍のためリマ市内で逝去した。享年86歳。ペルー全土で3日間の服喪が実施され、彼の足跡が再び語られることとなった。
◆多くの日本人が知る唯一のペルー人、となると自動的に彼しかいないだろう。二人目三人目はいなくて、かろうじて四人目に入りそうなのが、2010年度ノーベル文学賞を受賞した作家のバルガス・リョサぐらいか。とはいえ、実際にその膨大な長編大作を読み解いたラテン文学ファンのニポン人読者がどれだけいることか。『ラ・カテドラルでの対話』、『世界終末戦争』、『緑の家』などなど、読み応えのある幾多の作品を世に問うたが、奇しくもこの二人は1990年の大統領選挙で相まみえた宿敵であり、生涯に渡る天敵同士だった。
◆日系2世のフジモリ氏の評価は大きく分かれるが、実際の横顔はあまりぱっとしない田舎のおっさん、という感じしかない。威圧感やカリスマ性を有する人柄ではなく、ラテンアメリカ各国に君臨した歴代の独裁者に較べると小粒で地味な印象が強い。とはいえ、彼がほとんど内戦に近い反政府武装勢力との闘いを制し、その後のペルーの発展の基礎をもたらしたことは歴史的事実である。
◆実際に80年代から90年代にかけてのペルーと、現在のそれとでは、はっきり別の国といっても過言ではない。一人の人間がわずか10年ほどの短い時間で、一つの国家をこれほど変化させた、という実例を目にしてきたわけだが、訃報に接して思い返してみたら、大統領就任前と獄中での2回を含め、都合3回直接顔を合わせていた。現在のペルーとは想像を絶する違いだが、まずは国土の3分の1を支配したテロリストの脅威に怯えた時代の、悲惨な状況を語らなければならないだろう。
◆1968年のベラスコ将軍による左翼軍事革命で、極めて特異な軍部革命政権が樹立。農地解放と激動する社会情勢や経済格差、アンデス農民への差別や弾圧が主因となり、70年代初頭から全国で市民権と土地をめぐる闘争の火の手が上がり始めた。中でもペルー中央高原の中心地アヤクーチョで過激な反政府活動を展開したのが、PCP=SLペルー共産党センデロ・ルミノソ(輝ける道)派という極左武装集団。60年代の文化大革命時に訪中して影響を受けたワマンガ国立大学哲学科教授アビマエル・グスマン=自称ゴンサロ大統領の指導による、無産者農村革命を拡大し都市を包囲する毛沢東主義の古典的活動で、徐々に、だが確実に勢力を広げていく。
◆1981年12月26日、首都リマに隣接する港町カヤオの広場の街灯に、犬の死骸がぶら下げられていた。クリスマス翌朝の猟奇的な事件が、ペルーのポルポト派と呼ばれたセンデロの首都圏における実質的活動のスタートだった。現場写真を撮った知り合いの中国系ペルー人報道写真家によると、死骸には『鄧小平のクソ野郎!』と犬の血で書かれた紙が貼り付けられていたという。毛沢東思想から大きく外れた改革開放政策を推進する鄧小平が許せない、という意思表示であり、都市部に対する闘争開始宣言だった。
◆以降、アンデスからアマゾンまで支配地域を拡大しながら、極めて暴力的な光景が日常化していく。暗殺や誘拐処刑、村ごとの虐殺など残虐非道なテロ活動に、当時若干36歳で大統領に就任し、「ペルーのケネディー」と呼ばれたAPRA党=アメリカ革命人民同盟の期待の星アラン・ガルシア大統領は、初期からテロ対策に後れを取り、失策を繰り返した。アンデス地域の先住民は食い詰めて都市部に流れ込み、周辺の砂漠地帯を不法占拠して段ボール箱や葦の筵で小屋を作り住み着いた。国内難民による「プエブロ・ホーベン=若い村」と呼ばれるスラムは瞬く間にリマの周辺を縁取り、いつの間にか巨大な街を形成した。その隙間にテロリストは根を張り巡らしていったのだった。
◆首都圏には夜間外出禁止令が発令され、午前0時から5時までの間に許可証を持たずに外出すると自動的に拘束。土嚢の後ろでマシンガンを構える兵士たちはまだ童顔の若者で、動くものがあれば恐怖に駆られて即座に引き金を引く。「狙って撃つときは大丈夫だが、威嚇射撃は間違って当たるから気を付けろ」というのがお約束だった。
◆送電線爆破による停電が日常茶飯事となり、いつどこでコチェボンバ=車に仕掛けられた爆弾テロに巻き込まれるかわからない。軍事施設の周辺はもとより、大使館や銀行、新聞社やテレビ局などの建物は標的にされるため、最低2ブロックは迂回しないと巻き添えを食う。街は恐怖に支配され、歩く人の顔は暗く沈んでいた。6000メートル峰が連なるペルーアンデスの登山基地ワラスの街で、居候先の日系の谷川さん宅に通りすがりの車から手榴弾が投げ込まれ、ぎりぎりで難を逃れたこともあった。隣接する市場の入り口を狙ったようだが、立ち昇る白煙と火薬臭、セニョーラの悲鳴がいまだに記憶に刻まれている。
◆脳天気にも、どの山のどのルートを攀るかしか考えていなかったが、後に知り合ったアンデス関係者の中には、センデロから暗殺予告が出され、一時的に調査フィールドを他国に変えざるを得なかった研究者も多かったと聞く。パラチフスなる前近代的感染症に罹患したのも、衛生状態が最悪だったその時代のこと。この通信に連載した我が『パラチフス闘病記』は、隔離病棟探検のパイオニアワークとして大絶賛された。
◆大統領選に立候補したフジモリ氏はラ・モリーナ国立農科大学総長で、テレビ番組の司会者も務め一定の知名度はあった。が、政治はまったくの素人で、帝都トキオ都知事選の常連ドクター・ナカマツ氏に劣るとも勝らないくらいの、超泡沫候補もいいところ。対するバルガス・リョサは世界的知名度も高く、しかも封建制の残る階級社会のペルーでは上流白人層の利益代表で、誰しもがその勝利を疑わないほど楽勝のつもりでいたらしい。
◆旧友の共同通信ストリンガー氏に誘われてフジモリ選挙事務所を訪ねてみたが、なぜか日系コミュニティーの応援は皆無だ。テロに加えて年率7000%を超えるハイパーインフレの破綻経済に、敢えて火中の栗を拾うフジモリ氏の手伝いをする物好きはいない。国会議員にも同時に立候補しており、議員には当選してもまさか大統領になるつもりはご当人にもなかったようだ。尊敬する政治家を聞くと即座にゴルバチョフと答えたのが印象的だったが、「技術・勤勉・正直」をスローガンに、当選したらペルーを3日で日本にする!と浴衣に日の丸ハチマキで日本刀を振り回すテレビCMが話題になった。
◆ペルーの国政選挙は義務投票、棄権すると罰金などのペナルティーがあり、投票率は毎回98%前後をマークする。クスコなど山岳部の貧困層を中心に、次第に勢力を伸ばした愛称チーノ(中国人の意味でやや侮蔑的揶揄も含まれる)のフジモリ氏は、都市部でも支持を伸ばし始めた。誰がやってもどーせダメなんだから、次はチーノにやらせてみるか、と白人中産階級層にも支持者が増えていく。最終的には決選投票にもつれ込んだあげく、誰も予想していなかった初の日系移民2世の大統領が誕生したのだった。
◆就任後最初に手をつけたのは、ガソリン代32倍、公共料金300%値上げなどの経済政策の強行実施。現地で目撃したのは、薄汚れたリマの街から一夜にしてゴミが消える魔術的リアリズムの世界だった。公園の木の枝から道端の段ボール箱まで、煮炊きに使うためだ。後日「フジショック」と呼ばれる大改革に、一般市民も共同鍋などで生き延びようとサバイバルに専念する必死な姿が日常化する。外資に売却できるものは容赦なく、電話はスペイン、銅鉱山はチリ、航空会社はアメリカへと急激な民営化が進められた。一時はなんとマチュピチュまでテーマパークとして売りに出されたという噂が立ったが、さすがにこれはガセネタだったらしい。我が国からの援助やODA予算も一桁以上アップとなり、その利権に群がるワルどもも跋扈しだした。
◆治安状況はさらに悪化し、大学キャンパスから刑務所内までテロリストの解放区状態が蔓延、裁判官や警察官は目出帽で顔を隠さないと狙われる状態が定着していた。91年7月には、リマ北方のワラル市でJICA派遣の日本人農業指導専門家3名が射殺される痛ましい事件も発生、急務のテロ対策が凄まじい勢いで進められた。「○月XX日までに武器を捨てて投降すれば罪は問わないが、1秒でも過ぎたら全員処刑する!」というテレビCMが全国で流され、実際に容疑者の拷問や失踪、暗殺も多発した。人権弾圧と社会正義の実現が両立するはずはなく、その結果が議会解散と憲法停止の自己演出クーデターだった。
◆なりふり構わず強権を奮う姿を頼もしく思う一定の支持層が存在するほど、テロの恐怖がひどかったのも事実だ。CIAの協力でセンデロ指導者のグスマンは逮捕、終身刑に処され海軍刑務所で見世物にされた。治安状況の改善に伴い、外国資本の投資と観光客の増加が進み、ようやくペルーも上昇の兆しを見せ始める、というところで紙幅が尽きた。やはり40年以上に渡る現地体験を見開き2ページに収めるのは無理、ということで、肝心の獄中面会記は次号に回したい。来月から今年3度目の南半球行きとなるので、悪しからず現地報告とさせていただきたし。何とぞ、よしなに。[Zzz-全@カーニバル評論家]
■一気に肌寒くなった福島県の南会津町(旧伊南村:いなむら)からこんにちは。さて、24年前の今日、9月23日は、『川に流れて川を喰う』というテーマで「地平線会議in伊南村」を開催していました。ありがたくも私は事務局を担うこととなり、伊南村役場の上司と上京し、江本さんのところへ出向いていき、四谷界隈で打ち合わせしたことを今も鮮明に覚えています。
◆「川をテーマにするなら」と、江本さんは地平線会議関係者から森田靖郎さん、山田高司さん、賀曽利隆さんに声をかけてくれました。なんと!3名とも遠路はるばる伊南川まで来てくれることとなり、開催前から感動と緊張に胸がいっぱいでした。そして、地域の方から誰か?ということで、隣村(檜枝岐:ひのえまた)のサンショウウオ捕り師、曲輪職人でもある、星寛(ほしゆたか)さんに声をかけました。
◆寛さんには、夏のサンショウウオ捕りに沢へ連れていってもらったり、春木(はるき=春まだ雪の残るころ、山の木を切って薪を作る)作業を手伝ったり、秘境檜枝岐村の暮らしをいろいろ体験させてもらっていました。寛さんも快く受け入れてくれたので、当日は4名の方に登壇してもらうことになりました。伊南は福島県の南西部に位置していますが、群馬と栃木と新潟に囲まれた場所です。首都圏から電車とバスを乗り継いで4〜5時間ほどかかるので、報告会は1泊2日としました。
◆会場は国の重要有形民俗文化財でもある「大桃の舞台」を使いました。「大桃の舞台」は農村歌舞伎の上演のための舞台で、明治28年に再建され、「習芝居(ならいしばい)」といわれる地芝居は明治40年に上演されたのが最後。そのあとは他の地域から役者を呼んで「買芝居」をやっていたみたいです。が、地平線報告会in伊南村を開催するまでの数十年間は、ただひっそりと鎮守の森に佇んでいました。私は伊南村に移住してから、森の中にひっそりとある舞台の姿に何だか惹かれてときどき足を運んでいました。江本さんと「もし伊南村で報告会をするなら……」と話す機会があり、ぜひ「大桃の舞台」でやりたい!と思っていました。
◆舞台活用の交渉から始まった地平線報告会でしたが、地域の方も快く受け入れてくれ、村の協力者も青年会、婦人会、商工会、村の老若男女沢山の人たちの力があり、開催までこぎつけることができました。報告会当日は、何十年も蔵に眠っていた舞台の花道や、木彫りの彫刻を大桃地区の人が持ってきて設置し、素敵な会場に仕上げてくれました。花道には関野吉晴さんからお借りしたアマゾン川の貴重なパネル写真まで飾られて……鎮守の森の舞台は数十年前の賑わいを蘇らせていました。
◆当日はあいにくの大雨となりました。そんな中、村内外から約300人も集まり、土曜日の報告会も懇親会もオークションも大きなブルーシートの屋根の下で大いに盛り上がりました(ちなみにオークションでゲットした田部井淳子さんの特製デイパックは今も愛用中です)。次の日は、快晴の下で「伊南村とあそぼ」イベント(バイクツーリング、しだれ桜植樹、岩魚つかみ取りなど)を、楽しみました。イベント最中も江本さんはラジオを肌身離さず持っていました。その理由はシドニーオリンピックのマラソンで高橋尚子選手が走ることになっていたからです。なんと、私たちは江本さんの握るラジオから「高橋尚子!……金メダル!」を聞き取ることができたのです。その場にいた人たちと共に歓喜に沸きました。
◆この地平線報告会をきっかけに「大桃の舞台」は15年余り、毎年夏にはいろいろな地域から歌舞伎役者を呼んで村の大切なイベントとして開催されていました。きっと村の人にとっても、ありがたい「大桃の舞台」復活だったと思います。そんな出来事から四半世紀が経ち、伊南の風景も暮らしも随分変化しました。村の生徒が通っていた伊南中学校と南会津高校は統廃合してなくなり、来年伊南小学校は創立してから初の新入生ゼロ。村の最後の病院も、中心にあったスーパーも今年に入りなくなりました。
◆正直、この村で暮らしながら、この地域がこれからどんな方向に向かっていくのだろうかと心配はありますが、一緒に暮らしている94歳の爺ちゃんが毎日元気に鮎釣りをし、畑作業して、山へきのこ採りにいく姿を見ていると、病院やスーパーがなくなっても生きていく力をつけて、元気でいなくちゃと思っています。[ようやく秋を感じる季節になった伊南から 酒井富美]
追伸:星寛さんは昨年の12月5日に入院先で安らかに永眠され、寛さんの奥様もこの7月末に永眠されました。本当に、この地域の宝物として愛されてきた人に出逢えたこと、地平線報告会に参加してくださったことに感謝しています。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
■8月6日から9月22日まで今年3回目のコートジボワール訪問。目的はいつものすり身ワークショップと関連建設業者との話し合いだったが実は厳しい状況に直面した。かつて日本も歩んできた道かもしれない。国の発展とともに、道路が広げられ、路上販売の屋台が次々に壊されて撤去した更地に小ぎれいな建物が建つ。アビジャンは昨年秋から急激に屋台の取り壊しが進んだ。今年1月のサッカー、アフリカンカップを主催したことが大きな動機だ。道路を広げて渋滞を緩和しアフリカンカップを成功させよう。町をきれいにして観光客を誘致し観光立国を目指そう。この政策のため首相の首がすげ変わり、都市計画専門家が現首相だ。そして、コートジボワールは大方の予想を覆しアフリカンカップで優勝を果たした。大統領も現首相も勢いにのり、ますます屋台は壊されてゆく。
◆その屋台こそ、すり身販売の主たる舞台だ。それがどんどん壊されるのだから「ママ白石、助けて」「どこかに場所だけでも確保したい」とあちこちから悲鳴があがる。この夏は、屋台を壊された女性たちが別の場所で販売できないか、生きのびる道はないか、試行錯誤の連続だった。「ママが首相に直訴したら聞いてくれるかもしれない」「日本大使がアビジャンの各区長に手紙を書いてくれたら解決する」と具体的な提案もくる。
◆行政、政治家、いろいろ働きかけてみたものの効果はすぐには出ない。どうしたらいい? どうするべきなのか? これは目先を変えなければ、とひねり出したのが、ちょっと良い店舗に「すり身商品」を置いてもらう、素敵なレストランのメニューに入れてもらうという作戦。これまでも挑戦してきて実現できていなかったことだけど、いまは突破するしかない。「すり身は栄養価にすぐれた健康食品」「とにかく美味しい、食べてみて」と必死に営業し、すり身センターに足を運んでもらう。学校関係者に働きかけて、給食メニューにいれてもらう。小さくても成功事例をつくり、それを広げて経験を蓄積する。仲間に伝えて規模を増やす……。次のアビジャン訪問は11月末。みんな笑顔で、頑張っているだろうか。[佐藤安紀子]
■約1年ぶりに個展を開催します。タイトルは「天妄懐界旅絵日記」。国内の旅をモチーフに、妄想混じりの、ちょっと懐かしいような風景を描きます。キャンバスに直に色を置きながら描き進める手法を試み、悩みながら製作中。地平線カレンダーも発売。期間中終日在廊予定です。[長野亮之介]
長野亮之介個展「天妄懐界旅絵日記(テンモウカイカイ タビエニッキ)」
10月25日(金)〜29日(火)12時〜18時半(日曜と最終日は17時まで)
ギャラリー・メゾンドネコ(中央区京橋16-14 佐伯ビル2F 地下鉄銀座線京橋駅から徒歩2分)
■7月の地平線報告会で、報告者の白石ユリ子さんの提案で急遽決まった「鯨を食べる会」が開催されます。準備の都合がありますので、参加希望の方は参加申込み先へご連絡ください。
◆また「食べる会」は午後1時からですが、調理は午前10時から始めます。鯨の調理を手伝いたい、見学したい方はお越しください。白石さんはご招待と言ってくださったのですが、ビール代など参加費を1000円徴収することにしました。めったに食べられない特上の鯨肉料理を味わいながら、白石さんの鯨をめぐる話をお楽しみください!![高世泉]
日時:10月20日(日)13:00から
場所:中央区立男女平等センター「ブーケ21」調理室
東京都中央区湊1-1-1
東京メトロ日比谷線・JR京葉線「八丁堀駅」下車(A2・B3番出口)徒歩3分
参加費:1000円
参加申込み:izumit64@gmail.com(高世泉)
■後期高齢者になって、改めて「初めて」の魔力にさらされている。探検にしろ、冒険にしろ、その行為が人類初であるほど評価は高いのは当然のこと。現代の山でいえば、初登攀ということになるか。未踏峰であっても、易しいボタ山では評価されない。同じ「初めて」でも、個人にとっての「初めて」もある。人は皆最初から人類初を目指したわけではない。身近な驚きや好奇心がスイッチを入れる。バカと煙は高いところへ登るというが、岩登りはまさにそれだ。その面白さに説明はいらないが、人は分析をしたがる。理屈が好きなのである。
◆本多勝一の『山を考える』(実業之日本社 1971年)はすぐれた登山論の本である。登山における「初めて」の意味を突き詰めていく。きわめて理屈っぽい論立てで、「バカと煙」の居場所はない。序論のつかみがいい。誰もが口にする、「なぜ山に登るのか? そこに山があるからだ」の真意を説明する。
◆ジョージ・マロリー〈1886〜1924〉が第2次エベレスト遠征後の講演をアメリカのフィラデルフィアでしたとき、聴衆の女性に「なぜ(それほどにも)あなたはエベレストに登りたいんですか」と尋ねられた。「イライラしながら答えた彼の放言が『存在するからだ』なのだ。すなわち、彼は世界最高峰としての『エベレストに』登る理由を答えたのであって、『山に』登る理由を説明したのではない。もっと正確にいおう。彼は『処女峰エベレスト』に登る理由を説明したのである」
◆「Because it is there」のitは、最高峰でありかつ処女峰であることを指す言葉だと説明する。それは、登山における唯一無二の「初めて」を意味するからだ。次に本多は、ダメ押しするかのように、「パイオニア・ワークとは何か」をたたみかけてくる。1950年代の大学山岳部員の議論という設定で登山を論じるが、登場人物の学生は、上から目線の語り口がなまいきで粋がっている。
◆「処女峰の登攀こそ山における最大のパイオニア・ワークである。二度目はだめだ」と断言する。ここまで言い切ると、最高峰エベレスト初登頂をもって、登山におけるパイオニア・ワークは終わったと結論せざるを得なくなる。極端な初登頂主義だ。実際の登山は、エベレスト初登頂後の方が、格段に多様性があり花開いた。彼はその後京大に探検部を創部する。影響を受けたのが今西錦司や梅棹忠夫だから、京大山岳部イズムの本道であるが、登山における「初めて」が見いだせなくなったからだろうか。
◆文中には辛らつな言葉が続く。「大部分の山男は、虚栄か惰性か諦念で登っているに過ぎない。『多くの人は二十歳か三十歳かで死ぬものである。その年齢を過ぎると、もはや自分自身の反映に過ぎなくなる——ロマン・ロラン』」「決して生涯を山に賭けようなどと思ってはいない。寧ろそんな山男を内心では軽蔑するね。(中略)山なんかに賭ける奴は馬鹿の骨頂かもしれん」。きついなあ。当たっているけど。
◆京大山岳部の部室を訪れたことがある。1960年代の剱沢大滝と積雪期の黒部横断の背景を探るためだった。現役部員が心安く応じてくれた。部外者なのに、ルーム日誌を家に持ち帰ることを許してくれた。その中に本多の記述がたくさんあった。特に彼の採譜した曲があって、その多彩な才能に感心した。ジャーナリストとしての業績に脱帽していたからよけいに驚いた。
◆部室には、亡くなった部員の写真がたくさん掛かっていた。京大は、際立って困難な登山を実践してきたわけではないが、とにかく遭難が多い。「初めて」という呪文に囚われ過ぎているからか。ヒマラヤや国内の遭難を分析してみたが、確かな理由はわからない。戦前から多くの部員が、山だけでなく未開の地に分け入った。遠征の数もダントツに多い。まちがいなく、日本の登山界をけん引してきた山岳会の一つである。
◆登山における「初めて」がじり貧なのは仕方がない。魅力的な処女峰は数に限りがあるのだから。山の価値は処女性や高さだけにあるのではない。『登山研修VOL9—1994』(文部省登山研修所)に「登山における困難とは何か」と題して評論を書いたことがある。山側の要素として、高さ、地理的位置、山容を示し、人間側の選択として、人数、登山方法、ルート、パフォーマンス、時期を考えた。これらを組み合わせ、最も困難であろう登山を作ってみた。「厳冬季にシャクスガム渓谷からアプローチして、K2北壁の新ルートを単独で挑み、各高度の雪の結晶をサンプリングして、パラパントでBCに舞い降りてくるのが最高」。初登頂以外のすべての「初めて」を網羅してみた。これは理屈のつじつま合わせであって、こんなことができるわけはなく、する人もいない。
◆大学山岳部の衰退が語られて久しい。冬山登山に人気はなく、競技クライミングに転向していると聞く。その後『登山研修VOL34—2019』に、長文の特別論考「アルピニズム —日本における変遷と今—」を書いた。日本の登山は、旅の延長としての山岳逍遥→西欧アルピニズムの受容→探検的登山→ヒマラヤ初登頂→バリエーション主義→スポーツアルピニズム→劇場型登山→観光登山と移り変わってきた。一部のすばらしい高峰アルパインクライミングはあるが、おおむね登山の質は下降線をたどっている。それは新たな「初めて」を見つけるのが、難しくなったからだろう。
◆登山は本来マイナーな世界で、マニアックな変人たちの活動の場だった。それがいつの間にか市民権を得るようになった。たぶん喜ばしいことだろう。山岳部員は激減したけれど、登山人口は山ガールや中高年を中心に増えているらしい。長生き健康志向の証だから、これも喜ばしいことだろう。
◆私は常々、登山も冒険も群れるものではないと言ってきた。単独行に勝るものはない。日々の雑踏を逃れ、大自然の静寂に身を置くことが魅力だと信じている。だから、なるべく人の来ない所や季節を選ぶ。しかし大衆は群れたがる。情報量が多く観光地化した、日本百名山が荒れて当然だ。ヒマラヤも同じで、急速に破壊と汚染が進んでいる。利便性追求のための道路網の拡大とリゾート地の開発だ。観光が唯一の外貨獲得である途上国の宿命なのか。エベレストに観光登山が集中するのも仕方ない。私は2013年にネパールヒマラヤ全山域(GHT)を5か月間で横断したが、エベレスト街道の人の多さに辟易して駆け抜けたことがあった。
◆ヒマラヤには魅力的な名峰があまたあるが、人はそれらに見向きもしない。何故8000m峰塗り絵登山に集中するのか。山の「初めて」ではなく、自分の「初めて」を、世間にアピールすることに関心が強いからではないか。もっと山の個性と登り方に目を向けてほしい。そういう意味で、本多勝一の辛辣な言説をかみしめるべきだろう。
◆その点初恋は、他と比べることのない「初めて」で、人目は気にならないし自慢することもない。そのときめきは、各自固有なもので唯一無二だ。私の登山を始めた動機に一つの邪念があった。何の取り柄もない私は、片想いの人に上高地から初めて葉書を書いたことがある。大学山岳部に入って登山していることを自慢したかったからだ。当然返事はなかった。誰もが認める、同級生あこがれのマドンナだった彼女にとって、私は便器の裏のナメクジほどの存在だったにちがいない。
◆狭い田舎町の幼なじみ、幼稚園から高校までずっといっしょだったのに、デュークエイセスの「幼なじみ」の歌のようにはいかなかった。ろくに言葉を交わしたことがなかったが、母の介護で帰郷したとき、40年ぶりの封印を解いて、初めてデートに誘ってみた。「まあめずらしい、お久しぶり」であっさりオッケー。彼女は立派な家庭を築き、上品さに磨きがかかっていた。夢のようなひととき、ハゲデブアル中おっさんと美貌衰えぬマダムの取合せは、ありえない展開である。
◆妄想を詩(うた)にした。妄想に期限や制約はないから、「初めて」の感覚は色褪せない。『藤村詩集』の「初恋」(まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき…)を参考にした。「初恋」は山岳部でよく唄われた歌である。メロディーはちがうが、舟木一夫のヒット曲にもなった。
想いそめしはいつの頃フォークダンスの輪の中で
白い素足を見つめていたときの流れの消えたまま
二つへだてて椅子並べノートをめくる指先に
揺れる木漏れ日トパーズの君が真顔の美しさ
通学電車の前後ろ友だち越しにウインクを
いたずら顔して投げかける君の女があふれでて
言葉途切れるときにこそ胸がさわぐと謎めいて
稲妻走る倉庫の隅触れ合う肘の危うさよ
幼なじみの身近さが「好き」の一言遠くする
汗に濡れている前髪の瞳の奥に青い海
我が心なき企てを知るやうなじのあどけなさ
二人ながめた夕月の波が消しゆく隠れ浜
ひと夏ひと夜の思い出は花火に咲いた大輪の
浴衣に紅の匂いたち乙女となりし夏祭り
遠い昔と君の名を砂になぞればざわめいて
渚にゆらめく夜光虫褪せぬ想いのほろにがさ
◆初恋という呪文は永遠不滅である。初登頂の純潔に似ている。バリエーションルートのような、あからさまな派手さはない。「初めて」の連続であったはずの人生は、いつの間にかマンネリの波間を漂う木っ端舟になってしまった。時間を巻き戻し、郷愁にまどろみながら、「初めて」という呪文をつぶやいてみても、そんなものはもうどこにもない。そして気付く、これが老いなのだと。詩(うた)の文句のようにいくはずもない。
■江本さん、ご無沙汰してます。娘と双子は行き渋り気味の小学生。毎日3人の準備をさせて学校まで連れて行き、学童から帰ってから宿題をさせ……フルタイムで働きながら小学生3人育てるのに限界を感じてきているこの頃です。
◆2冊目の絵本『こちょこちょ もこもこ ぶわわわわ』が福音館書店ちいさなかがくのとも11月号として発売されることになりました。4年前の秋の日に子供達と秋ヶ瀬公園近くの田んぼを散歩していたときにガマの穂を爆発させて遊んだことからできた絵本です。前回の絵本では蜘蛛の巣を切り絵にしましたが、今回は綿毛を切り絵で表現しました。ガマの綿毛はたんぽぽのものよりも細く、柔らかな感じを出すのに苦心しました。ガマというと因幡の白兎を思い浮かべる方も多いかと思います。
◆ガマの花粉、蒲黄は止血薬になるのでウサギの傷も癒えたのでしょう。穂綿は布団の中綿に、葉は編んで座布団に、茎は簾にと広く使われた有用な植物でしたが、今ではなかなか見つけることもできなくなってしまい取材に苦労しました。大きめの書店の絵本コーナー、雑誌コーナーに10月初旬に並ぶ予定です。串に刺して焼いている姿がガマの穂に似ていることから名付けられた、蒲鉾や蒲焼でも食べながら楽しんでいただけたらと思います。[竹村東代子]
『こちょこちょ もこもこ ぶわわわわ』
(ちいさなかがくのとも11月号 竹村東代子著 福音館書店 価格460円)
■江本さん、こんにちは。千葉の高校をこの春卒業し鷹匠修行中の宗萌美さんと9月3日から9日まで北アルプスを歩いてきました。折立から雲ノ平に入り、水晶岳、三俣蓮華岳、黒部五郎岳と登りました。テントなど重いものは宗さんが担いでくれました。
◆実は今回の山行には宗さんの鷹匠修行を撮影するためNHKスタッフ2人が同行していたのですが最後薬師岳に登る段階でその2人がばててしまい、全員で薬師登頂は果たせませんでした。宗さん1人なら余裕で登れたでしょう。[松原英俊 10月5日、電話で]
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■「京都個展」は、無事に完了することがなせました。今回の「京都個展」を完了して、感じたことですが、ぼくは、「母」が生きているから一生懸命に働けていたのだ、ということを思いました。「母が喜んでくれるから」ということが、仕事の大きなモチベーションになっていたのだと思います。
◆自分は、いつのまにか、「母親ファースト」みたいな人生に成っていたのだろうと思いました。ずっと前から仕事は真剣本気でありましたが、母の介護時代に成ってからモチベーションが「シフト」したのかもしれない。それは、意志が「母」に引き込まれたということでしょうか。いや、そういうわけじゃなくて、「母」に元気で居てほしい、豊かな気持ちで居てほしい、ということは、職業に無関係に「だれしも」が、想い願うことであろうと思います。
◆実際に介護体験をふりかえると、介護の「共依存」も、当たり前・必然と思えました。依存が、どちらもがお互いに望むことならば、どちらも迷惑で無いのならば。「2人でひとり」みたいな二人三脚みたいな期間だったのかもしれないです。もちろんプロの方々の協力もたくさん有りました。「プロの福祉・医療関係者」が対応することと、「肉親・家族」ならではの人間関係を豊かにしてゆくこと。介護には、そのことが必要不可欠であると感じました。
◆そのように思いながら、「母の介護」と「創作仕事」は、どちらも真剣。ある意味で「命懸け」だったと思います。ですから、「母の介護」時代は、ぼくの人生の流れの中では、特別な時期だったのだと想えます。「母と仕事」が、世界のすべてだった。そして、「母」が、他界した。世界の半分を失った、というか。半分という表現は正確では無いけど。なので、現実的に、「世界が、成立しなくなってしまった」という、機能不全のような、自己を律する基準を失ったというか……。母の他界後は、足元が不安定だったのだとおもいます。
◆今回の「京都個展」が、母の供養にもなったら良いなと想いました。[緒方敏明 彫刻家]
◆帰ってきて映画に行った。「ピクニック」と「必死の逃亡者」をやっていたが、「ピクニック」の方がよかった。ウィリアム・ホールデンはもとより好きだが、キム・ノヴァックが印象に残っている。
◆一昨日の夜、グレース・ケリーが僕の所へ来て、2人で楽しく語り合った夢を見た。眼がさめて本当にがっかりしてしまった。「ピクニック」のキム・ノヴァックとグレース・ケリーが混同して印象づけられている。女性はきれいな人が良いな。
◆若羽黒[注:横浜出身なので当時応援していた。もちろん相撲中継はラジオから]は関脇鶴ヶ峰を突き出してとうとう八勝をあげてしまった。全く驚きより他にない。明日勝てば小結に成るかという。明日は対三根戦。大内は朝潮に敗れ千代は吉葉を破り、鏡は松登に破れた。そして今日安念山を投げ飛ばした若ノ花と、依然好調の大晃の2人が三敗である。若ノ花は明日は大内山とあたる。尚、横綱吉葉山は明日鏡に破れると七勝八敗と負け越してしまう。
◆若ノ花がついに優勝した。関脇鶴ヶ嶺を寄り切った大晃と優勝決定戦をしたが、結局は大関にがい歌が上り、先場所、先々場所と二度も準優勝をしていたが、今場所に至ってはじめて栄冠を勝ち得たわけである。
◆残念なことは若羽黒が三根山に屈したこと。元大関の三根山であるからあきらめがつくようなもののもし九勝したら小結太鼓判というのだから本当に残念だ。しかし八勝でも小結になる可能性は十分あるというから嬉しい。関脇鶴ヶ峰と出羽錦が小結に落ちて小結琴ケ浜が関脇に昇進して小結時津山が全休だから平幕に下り、玉ノ海が十勝五敗(琴も同じ星)で小結へゆく。そうすると二関脇三小結に若羽黒は筆頭どまりだが、出羽錦が多分平幕におちるだろう。そうすれば……。若ノ花は横綱より強いのだから横綱になるのが当たり前だが、何しろ五横綱となるとどうも多過ぎる。
◆今日の星、是より三役の成績は
若ノ花(十二勝三敗)[肩すかし]大内山(十勝五敗)
千代ノ山(十一勝四敗)[はたきこみ]松登(九勝六敗)
吉葉山(八勝七敗)[寄り切り]鏡里(九勝六敗)
7月29日に日本を出発、ネパールのドルポへ長期遠征中の稲葉香さん一行(4人)は10月4日、ゴールのララ湖に無事到着した。 一行は携帯電話の電波が届かない場所でも利用できる衛星コミュニケーター「ガーミンinReach Mini 1」を使用して日々の簡潔な行動記録を日本の留守本部に届けていた。その記録を本人の了解を得て一挙に掲載する。2007年、故大西保さん(バラサーブ)率いる「西北ネパール登山隊」に参加したことをきっかけに自身と同じリウマチに悩んだ河口慧海の足跡をたどっている稲葉さん、2021年にはドルポ越冬体験に対して第25回植村直己冒険賞が贈られた。今回の旅では、出発直前完成したばかりの大判のカラー写真集『ドルポ』(英文併記)7部、カラー写真の多い『西ネパール・ヒマラヤ最奥の地を歩く』4部(いずれも彩流社刊)を現地の人々に届けた。[江本]
■8月5日 ジュムラ〜タダカオン(56km)チャーター車で7時間。なかなかの道、想像はしていたけども〜事故なく、無事に着いてホッとした。何度かハラハラだったww 雨季なのに、ダイレクトに行けたのはラッキー。バラサーブ(ネパール語で「隊長」の意味。西ネパールの第一人者、故・大西保氏)と2009年にムグ〜ドルポを横断したときの馬方に会えるなんて、なんと15年ぶり!!! やばすぎて、涙出そーやった。想像もしてなかったよ。目が合った瞬間に思い出した。彼もあ〜という顔になって、ホンマにビックリ嬉しすぎた。今回、昨日に引き続き2人目の大西バラサーブとの思い出の人に会えた。バラサーブの命日は、来月なんだよね。お通夜のとき、西ネパールに通うこと誓った。あれから10年だ〜。バラサーブ見てくれてるかな〜。西を歩く術は、バラサーブから盗んだ。手取り足取り教えてもらった記憶はないけどね。時代が変わった今、生きてたら何してるんだろう〜 同じ時代に一瞬でも重なって本当に良かったなぁ。今回も慧海調査やるよ〜。明日からいよいよトレッキング開始です〜
◆8月6日 Toijun3070m到着。Trek1日目。雨で出発遅れる。降ったり止んだり。村人テンション高い。
◆8月7日 カグマラBC手前。プラス1247mで累計4070m。危険な渡渉、標高あげすぎたけど仕方なかった。
◆8月10日 カグマラ峠5119mを越えた。峠は真っ白だったけど、高山植物の天国!
◆8月11日 早めのテント場3600mカンジェラルワへの出合を通過。谷は大迫力!
◆8月12日 ポン教のプンモ村で休憩してサムドゥワ着。久しぶりに村と人と快晴!
◆8月13日 ザラナロッジの再会。ポクスンド湖着。ポン教のNo.2のラマさんに会えた。念願のジュムラから辿り着いた。雨季のドルボはなかなかです。歩いて2日目で、強烈な渡渉でこの先どうなるのか?!と思っていたら、途中から渡渉に慣れてしまい、靴は全濡れ、乾かないのが日常?! ネパリスタッフのおかげで、なんとかなってますわ〜。渡渉、めちゃ苦手なんだけど、サポートしてもらってるから飛べてます。一人では、絶対無理〜なところばっかり! 逆に雨季のおかげで、川が大迫力だったり、滝がいっぱい見られたりしている。そして、なんといっても夏のドルポは、高山植物の天国! 第一関門は突破したけど、次の行きたいルートは、雨季では激しすぎるから、断念するしかなさそう。まぁ仕方ない、それがドルポだ。明日は、レスト。ポクスンド湖の展望台に行ってきます。
◆8月14日 明日から第2ラウンドに入ります〜。行きたいルートは、雨季のために川が大きすぎて危ないとのことで、断念することに。ある程度は想像してたけど想像以上でしたー! 悔しいけど、これがドルポだ。変更ルートは、越冬するときに歩いたルートとなる。懐かしさで楽しもう〜。8日後に越冬した村サルダンに到着する。4年ぶりだ。自分がどう感じるのか?! 観察してみよう。《リウマチメモ 痛みが1〜2だったけど、今日下りを少し急いでみたら3になったから、マイペースを保っていくことにする》
◆8月15日 ポクスンドの滝を違う角度から見て、越冬したときに歩いたルートを対岸にみる。
◆8月16日 バガ・ラHC4755m着。11月の景色とまったく違う、夏は雨季だから滝が多い。
◆8月17日 順調に2本目の5000m峠、バガ・ラを越えた。ノルブカンの北面氷河カッコいい。
◆8月18日 予定より進んできつかった! 峠前4930m。景色は最高、天気に恵まれ良かった。
◆8月19日 3本目の5000mの峠を越えた。峠で2019〜20年の越冬以来のサルダンを確認して1人で号泣!
◆8月20日 ラキョ村着。車道になっていた。ラパ村の知人と偶然会えた! 大興奮!
◆8月21日 越冬中、アポなしでキャンプさせてもらったテーカン村に到着、5年ぶりの再会!
◆8月22日 越冬以来のサルダン着! ポーターになってくれた僧侶にいきなり遭遇、感激! 拠点にしていた家の前でキャンプ。1番お世話になっていたペマさんに会えた!
◆8月23日 サルダン村のレスト日。再会の連続で写真や本を渡せた! 明日はニサルの手前まで行きます。
◆8月24日 ニサル着。越冬からの下山時のポーターと偶然に会えて、ニサルでも写真集渡したい人に会えた。
◆8月25日 ニサルでは、慧海ルート再調査! 下道を撮影してきます。
◆8月26日 馬で慧海が越えた国境目指す。今日は川沿いテント泊。ここも道路が所々できている。
◆8月27日 中国側の警備で国境は無理かと思っていたが誰もいなく無事に行けた、3度目のクンラは車道になっていた。
◆8月28日 馬でニサルに戻る。3日目にして馬になれてきた。写真集に入れた人たちに会えた。
◆8月29日 サルダン着の手前で、バイクが通り馬から落馬。擦り傷負った。明日はレスト。
◆8月30日 メンバーが診療所で手当てを受けられた。サルダンのレストはゆっくり休めた。明日は移動する。
◆8月31日 ナムグン到着。越冬中、雪の中来た場所に車道ができて驚く。あのタイミングで思いきって越冬してよかった。
◆9月1日 シェー山着! いろんな地域から沢山集まってる。いよいよシェー大祭に参加。テントは絶景ポイントにはれた。
◆9月2日 シェー大祭で再会の連続、中でも12年前の大祭で出会ったフランス人と再会、驚きすぎた!
◆9月3日 シェー山周回巡礼、個人的には3回目。今回はゆっくり撮影ペースで13時間?! 味わって歩いた。
◆9月4日 シェー大祭を楽しむ。高僧のラマさんがヘリで到着。ドルポの子供達や女性、僧侶がダンスを披露!
◆9月5日 午後からはいちばん見たかった馬のレースとアーチェリーが見れた、大満足!
◆9月6日 シェー大祭、越冬でお世話になった方と涙のお別れ。今度はいつ会えるかわからないと思うとすごく切ない。明日からドルポ最奥地を目指して出発。これから後半戦がはじまる。あと約1か月続きます。
◆9月7日 シェーから移動する現地の人たちと歩く。小さい子どもから大人まで。予定より手前のキャンプ地となる。
◆9月8日 サムリンゴンパ経由でビジョール着。16km、久々に疲れた。ゴンパは綺麗になって住居が増えていた。
◆9月9日 初めての道、従来の紙の地図で全体を見ながら行くので良い。激登りで1300mアップ、峠は5125m。明日は激下り。
◆9月10日 8年前行きそびれていたクゥ村にやっと来れた。ゴルジュが目の前。聞くと人の行き来はあるようで驚き!
◆9月11日 1383m登って670m下りポのカルカ到着。15年前テント張った場所、思い出深い。明日はドルポ最西北のポ村。
◆9月12日 ポ村着。越冬時にかなりお世話になった人がいて再会できた。さらに8年前撮影した方たちが覚えていてくれた。
◆9月13日 ポ村訪問3度目にして行ったことがなかった断崖絶壁のゴンパへ。今回1番感動した場所となった。
◆9月14日 ドルポが終わりムグへ横断ルート。早めのテン場に到着。国境の山々が目の前に。明日は5000mの稜線を縦走。
◆9月15日 5000〜5500mの稜線を縦走し1000m下山した。天気が悪く視界不良、残念。かなりハードだった、風邪ひいてしまう。
◆9月16日 風邪は気合いで治し復活! ヤララ峠前に昼過ぎに到着し昨日の疲れ癒す。明日もまた5414mの峠越え。
◆9月17日 ヤララを越えてチャンディーコーラを進むが、以前とルートが変わったようで危険すぎたトラバースだった。
◆9月18日 1958年、川喜田二郎隊の分隊がドルポからムグへ到達した最後の峠を通過。個人的には2回目だが感無量!
◆9月19日 今回の山旅で10本目となる5000m峠を越えた。今日は快晴で山がいっぱい見えてキャンプ地はお花畑で気持ちいい!
◆9月20日 大西バラサーブの命日10周忌。15年前に待ち合わせたシランドールに到着予定。すごい偶然!! 到着後、バッティを灯してお酒をお供えした。隊長の夢を見た。15年前にシランドールで会った姿だ。声はなかった、なんのメッセージかな、今はわからない。とにかく見守ってくれてる。色んなアクシデントがある中、予定通りに全員無事に到着したのだから。
◆9月21日 ムグ着。ムグ村は想像と違って仏教圏だった。明日はレストで村の散策と最後の予定を考える。馬方の調子が悪くなりルート変更となる。でもなんとか国境方面の散策には行きたい。
◆9月22日 ムグ村レスト。明日から馬方一名を村人と変更。ラスト2週間のルートに国境方面に行く予定をギリギリ入れた。
◆10月24日帰国予定です。[稲葉香]
■江本さん、地平線の皆さん、いつも地平線通信には刺激をもらっています。ありがとうございます。9月号「うんこと死体の復権」非常に強くひかれて読みました。たまに尊敬する人は?と聞かれると「原始人と猿のようにタフな申年の三輪主彦先生」と答えていたので、関野吉晴さんの旧石器時代の話にはずっしり感じ入ります。糞土師の伊沢正名さんの話は前々から好きでたぬきの溜め糞ならぬ「伊沢氏の為糞」。とても為になる糞の話と敬意を表して止みません。
◆牛と人の違いはありますが私は牛飼いとして微生物が果たす偉大な力を日々感じています。私の牧場は化学肥料、農薬、配合飼料を使わないので自然界の微生物の力で牛の糞と草の循環だけで成り立っています。いろんなものが生まれ続けるという循環です。
◆そしてついでに言わせて下さい。うんこになる前、うんこになる原料のこと。死体になる前、死体を育成し育ててくれていた原料のこと。人の問題として皆さん考えてみませんか。そのほとんどが漁業、農業からの産物です。
◆昨今の異常気象、自然災害は人々の生活、食糧生産現場をあっという間に破壊してしまいます。人々の生活は回復しますが、生産現場も高齢化で回復はなかなか時間のかかるものです。異常気象、自然災害の中を懸命に取り組んでいる農業を私は冒険や探検と同じだと思って、めちゃくちゃやり甲斐のある仕事だと感じています。
◆しつこくなりますが、若者よ農業やろうぜ。農業はオリジナリティに富んでいるよ。
◆最後で恐縮ですが、9月7日、私の息子の牧場の工房レティエが東京・自由が丘のミルクランドに出店の際、地平線の皆さんに足を運んでいただき、暖かい応援を本当にありがとうございました。息子たち家族大喜びしていました。江本さん、皆さん、お元気で。[2024年9月25日 田中雄次郎 A4用紙4枚に力強く手書きで]
イラスト ねこ
■10月26日(土)より11月4日(月)まで(9:00〜17:00 最終日は15:00まで 火曜日休館)、北海道美唄市にあるアルテピアッツァ美唄のギャラリー(木造校舎)で写真展「100 Days In Palau」を開催します。コロナの嵐が世界で吹き荒れはじめた2020年初頭、パラオからどこにも行けなくなったわたしが撮った日々の写真です。アルテピアッツァ美唄は彫刻家の安田侃先生の作品が立ち並ぶ、自然豊かでとても素敵なところです。北海道に来てから好きになった場所で、来年4月にここを去る前に何かを企画したいと思い、自身の写真展を開催することにしました。展示する写真は、釧路で長倉洋海さんにアドバイスをもらいながら選んでいます。[光菅修]
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら江本宛メールください。
水嶋由里江(10000円 地平線通信をありがとうございます。通信費の振込をしていないにも関わらず、送っていただき恐縮です。送金連絡のメールをしようとして、さらに昨年も未払いだったことに気がつきました。申し訳ありませんでした。今週始めと、本日に各5千円、合計1万円を振り込みました。通信費とカンパです。よろしくお願いいたします。来月22年ぶりにグアテマラに行きます。前回の旅がきっかけでマヤの子どもたちの就学支援をしていて、会が20周年を迎えます。小学校でのイベントや子供達の生活を知るのが楽しみです。国際空港到着直後から民族衣装の人々の存在の多さに、異国感を強く感じた国でした。変わっているのでしょうか) 相田忠男 嶋洋太郎(「地平線通信」の通信費2000円を送金します) 長瀬まさえ(5000円) 大嶋亮太 白石ユリ子(10000円 7月の地平線報告会では熱い皆さまにお目にかかれてうれしかったです。通信費5年分を送りします。「クジラを食べる会」での再会を楽しみにしています) 北村憲彦(2回ほど前に「北」の上がつながって「大」と読みまちがえられそうな名前で振り込みました。「大村憲彦」は存在しないので、その分はご送付不要です) 金子浩 塚本昌晃 仁原まどか 石塚徳子(毎月地平線通信をたのしみに読ませていただいております。「エモの目」のファンです。先ほど今年度分の2000円を振り込みました。通信に紹介されていた『うんこと死体の復権』を厚木で見ました。なかなか強烈な出だしの映画でしたが、ちょうど絵本作家舘野鴻さんが登壇されており、関野さんがどのように舘野さんを口説いたかなどおもしろおかしく裏話をお話ししてくださいました。報告会にはなかなか参加できないので、通信を楽しみにしています)
■さる8月末の地平線報告会に、初めて参加させていただきました。甲府の実家に帰省した際に、長年の地平線通信読者である母に誘われて同行することになったのですが、あの会場で通信を読んだことのない唯一の参加者だったと思います。
◆母:「ちいちゃんは石器とか好き?」、私:「えーと、好きとか嫌いとかはないけど……、石器?」、母:「東京でね、石器を使って生きている人の講演会があるの。グレートジャーニーっていう旅をした関野さんだけど、石器野さんでね、すごいの。今一番会いたい人なんだけど、一緒に行く?」。突拍子もない母の話には慣れていますが、今日の話題は石器? 何だかまったく意味がわからないけれど、普段知らない人とは一緒に過ごしたがらない母が、とにかくニコニコ嬉しそう。
◆母は人類の起源とか旧石器時代とか遺跡などに尽きないロマンを感じて情熱を燃やす、愛すべきオタクなのです。ウズベキスタンの博物館に一人で行くし、お土産は土偶柄の手拭いだし、スマホの容量が足りないというので見てみると、どこぞの博物館で撮りまくったガイコツの写真でいっぱいだったり。世の中のおばさまたちが韓流スターで盛り上がっている一方で、我が母のアイドルは石器のセッキノさんという人らしい。今回の帰省の目的は「母との時間をゆっくり持つ」だったので、母の興味を一緒に体験する絶好の機会ではないかと思って参加することにしたのでした。
◆「その集まりは地平線会議といってね、この人たちはとっても仲が良くて、いつも終わった後には北京っていう中華料理屋さんで二次会をやっててね……。あー、その二次会にいつか私も行けたらなぁ……っていつも思うんだけど、遠いし夜だしねぇ……でも本当に楽しそうなの」。取り急ぎ電車の時間からホテル予約まで仕込んで、はるばる甲府から到着した早稲田の会場は、なんだか和気あいあいとした雰囲気が漂っていました。
◆素敵な服装の男性が挨拶をすると「あの人はね、リャフノシュケ画伯なの」と母。どんな画伯なのかはもちろんわかりません。そしてウンコの話をする男性は「あの人はね、糞に土で糞土師なんだよ」、……はははっ。とにかく楽しい大人の集いということだけは間違いなさそうです。ことの発端は10年以上前に妹がタイでバイク旅行者と仲良くなり、そのご縁で「地平線通信」が送られてくるようになったとのこと。それを母がいたく気に入り、10年以上にわたり毎月とっても楽しみに読んでいるのだとか。登場する人たちの冒険話にワクワクして、報告会にも何度か参加してきたようでした。そこは、今風にいうとアナログ版インスタライブを観ている感覚で、なんだかとってもあったかい集まりでした。
◆そんな経緯でよくわからないまま二次会にも参加して、あれよあれよという間に同席した皆さんの楽しい話に惹きつけられていました。笑顔の素敵な丸山さんに地平線会議の40年に渡る歩みを教えていただき、日本で唯一のカーニバル評論家、全さんからは私の大好きなカリブ海やラテンアメリカの話をたくさんうかがい、津軽三味線のケンタさんは台湾の演奏家と一緒に活動して……と、濃い時間を過ごすうちに、徐々にこのグループがどんな集まりなのかが見えてきました。学生時代のサークルがいまだに続いているような感じ? なんて素敵なのかしら! まったくのアウェイなのに、なぜかそう感じないとっても気楽な居心地の良さ。なんだかとってもグローバルな皆さんの集まりで、世界旅行に行った気分になりました。
◆私にとっては、住まいは沖縄の離島ですし、海外にいることも多く、日本社会に違和感を感じることも若干あるのですが、そこにいた皆さんとは何のズレも感じずにただ楽しい時間だったのでした。しまいには地平線会議代表の江本さんから「ぜひ今日の感想を書いて送ってくださいね」と何度も熱心に訴えられ、この方の熱意と真っすぐさに、たくさんの人が惹きつけられて今に至るんだろうな、と思ったのでした。仲間として認めて下さったような気がして嬉しかった私が、「今日は皆さんとお知り合いになれて、とっても楽しいです」と言ったら、全さんが「沼の入り口へようこそ」とニヤリ。気づいたら、今これを書いているという次第です。母にとっては夢のような時間だったらしく、宿についてからも翌朝も、楽しかったねと話していました。あれ、これが沼?[宮古島在住 ミワチハル]
■7月初旬に江本さんにお会いし、はじめて「地平線通信」を手にした。冒険家、探検家、登山家と並みいる人々の集まりかと思いきやそれだけではない、誠にユニークな人々が集まっていることに驚いた。9月号に「石器野ヨシハルの時を駆ける探検」の関野吉晴さん、そして菊地由美子さんのレポートが私には刺激的であった。
◆よく我々は「くそったれ」「くそ暑い」「くそ面白くない」「このくそ野郎」など吐き捨てるように使う。クソ(糞)は軽蔑され、日常の生活から疎外されている。しかし、すべての生き物は排泄行為から逃れることはできない。この当たり前の行為が人間にとっては忌み嫌われる。「地平線通信」が面白いのは、「人間社会」、そして「地球環境」を表からも裏からも見ているからであろう。
◆20年以上前になるのだろうか。NHKの自然ドキュメントで「蛇を飲み込む巨大イワナ」のことが放映された。場所は谷川連峰を源に新潟県を流れる魚野川上流。この周辺の河川は時として50cmを超える巨大イワナがしばしば釣りあげられることがある。中でも有名なのが奥只見の銀山湖(ダム湖)で、記録によれば90cmが釣れたとある。
◆イワナは日本固有種の魚で氷河期時代に陸封されたサケ科の渓流魚で最上流部に棲息し、また水温15度以下を好む魚である。魚種は大まかに「ニッコウイワナ」と「ヤマトイワナ」に分類され、一般的にニッコウイワナの方が巨大化しやすい。下流部に大きなダム湖があれば、なおさら巨大化する。その理由はワカサギなど小魚がいて、ベイト(餌)が豊富にあるからとされている。
◆また最近ではヨーロッパ原産のブラウントラウトとの交配が進み、より巨大化しているとの説もある。この交配種はF1といわれる一代交配種で、この現状を放置すれば日本古来のイワナがいつかは絶滅するとの指摘もある。渓流釣りを楽しむ釣り人はブラウントラウトをリリースしないように各河川の漁業組合に働きかけもしている。蛇を飲み込む巨大イワナの撮影を試みたNHKクルーは約1か月挑戦したが、結局は断念せざるを得なかった。しかし、イワナの生態を詳しく撮影することができた。
◆それによれば雨が降り続く日、イワナは大小の滝を超えるのである。しかも滝の横の山伝いをくねくねとまるで蛇のように駆け上がるのである。多少の水溜まりと濡れた木の葉があれば容易に遡上する。多くの河川上流部には「魚止めの滝」なる名がつく場所がある。しかし、それは彼らにとって無意味なものである。滝上に悠然と泳ぐイワナがいるのも納得する。
◆長い長い前触れとなってしまったが、ここからが本題です。35年ほど前の話である。大雨が降り続いた1週間後の初夏の日、私は乗鞍岳麓、梓川上流の大きな滝がある淵で竿を出した。岩陰に身を隠し、静かに一投したとき、足元から小さなネズミが一匹、淵に飛び込んだ。そのときだ、どこにいたのか60cmぐらいの蛇がネズミめがけて噛みついたその瞬間、大きな岩底から40cmは優に超えるイワナが飛び出し蛇の横腹に噛みつき、アッという間に岩底深く引きずりこんだのだ。
◆私は唖然として岩に立ち尽くしていた。それは渓流釣りを始めて20年ほど経った出来事であった。イワナは岩魚と書く。その名の通り岩陰に潜み、大きなものほど岩底の冷水に身を隠している。また凶暴さにおいてはサメを凌ぐといわれている。サメは自分より大きな獲物は襲わない。しかし、イワナは自分より大きなものも平気で襲う。そんなイワナが、いま絶滅の危機に瀕していると聞こえてくる。信州の御岳山、乗鞍岳麓の河川にはまだまだ伝説の巨大イワナが潜んでいる。しかも日本古来のイワナが。
◆最後に開高健さんが「釣り談義、両手を後ろに」……と釣りバカたちを笑わせている。釣りバカはホラ吹きが多い戒めの言葉であろう。でも私が目撃した衝撃の事実は変わらない、今もイワナが蛇を引きずりこむ、あの衝撃の記憶が鮮やかに蘇る。[松本市 田口哲男]
■地平線通信545号は10月9日印刷、発送しました。今号も20ページと厚めになりましたが、ベテランを中心に14人も参加してくれ(最後の1人は北京直行でしたが)作業は18時には終了し、いつもどおり北京で餃子をはじめおいしい料理を堪能、歓談しました。コロナ以降あまり発送作業の予定を発信してこなかったので、メンバーはほとんど固定していましたが、今回は久しぶりに八木和美さんが参加してくれました。八木さん、みなさん、ご苦労さまでした。それにしても大のおとなが10数人もこんな地味な仕事に参集してくれるとは、ほんとうにありがたいです。
車谷建太 中畑朋子 伊藤里香 渡辺京子 中嶋敦子 秋葉純子 高世泉 長岡のり子 八木和美 落合大祐 白根全 武田力 江本嘉伸
第4回目の「地平線キネマ倶楽部」は、11月16日(土)の13時より、いつもの新宿歴史博物館で開催します。上映するのは『クラ―西太平洋の遠洋航海者たち』(1971)と『女の島 トロブリアンド』(1976)の2本。どちらもTVドキュメンタリー界の草分けとして知られる名プロデューサー・牛山純一さんが率いた「日本映像記録センター(映像記録)」の作品です。
今回は、この2作品でディレクターをつとめた市岡康子さんにおいでいただき、このテーマを撮ろうと思い立ったきっかけや現地での取材・撮影の裏話、この作品の意義などについて語っていただきます。市岡さんは日本テレビに入社後、『ノンフィクション劇場』『20世紀アワー』などのドキュメンタリー番組を手がけ、1966年から90年まで『すばらしい世界旅行』のプロデューサー&ディレクターとして活躍されました。1972年に日本映像記録センターの設立にも参加し、アジア・太平洋地域を主なフィールドとして、この地域で暮らす諸民族の生活と伝統文化を映像で記録し続けてきました。
じつは地平線会議の創設期に、年報『地平線から』の出版を記念する大集会で牛山さんにお話しいただき、古いドキュメンタリー映画や映像記録センターの作品を上映したことがあります。このとき映像人類学の傑作と名高い『クラ』も上映されたのですが、裏方として走り回っていた私はじっくり観ることができず、残念でなりませんでした。マリノフスキーの名著『西太平洋の遠洋航海者』(1922)はすでに読んでいましたが、その特異な交易文化のシステムがいまもなお伝承され、美しい映像でいきいきと描かれていることに素直に感動しました。その憧れの作品をこうして上映する機会ができて、とてもうれしく思います。
『クラ』の舞台は完全に男の世界ですが、じつはトロブリアンド島は母系社会です。『女の島』を観ることで、男たちの遠洋航海を支える村の豊かさや、ヤム芋の贈与で人々の結びつきが強まる仕組みが見えてきます。どうぞお楽しみに![丸山純]
日時:2024年11月16日(土)
12:40開場・13:00開演・16:30終了
会場:新宿歴史博物館 2F 講堂
東京都新宿区四谷三栄町12-16
参加費(資料代):1,000円
上映作品:『クラ――西太平洋の遠洋航海者たち』(66分)
『女の島 トロブリアンド』(50分)
作品解説・トーク:市岡康子さん
■9月21日午前、石川県北部能登半島に線状降水帯が発生した。故郷に大雨特別警報が出た。警戒レベル5、「命の危険、直ちに安全確保」らしく、レベル4までに必ず避難しなければならないそうだ。後日友人の消防士から話を聞くと、多くの人が警報の意味と緊張感を知らない。言っても伝わらないことに虚しさが滲み出ていた。
◆親父と親戚、友人に電話が繋がらなくなった。「命を守って」と報道されている。今夏のお盆に20余年ぶりに再会した方と連絡が取れた。よかった無事だ。開口一番、「1月1日に戻ったわ。電気も水道も全部なくなった。情報も入ってこんなってしまって孤立したわ」と話す。雨が酷くて視界もない。町は河川が氾濫しトンネルを水が流れ町中浸水している。震災最中も分け隔てなく暖かいコーヒーを振る舞っていた地元のスーパーも浸水してしまった。電波はauが繋がっている。スマートフォンを貸し借りして助け合って連絡をとっているそうだ。「まーちゃんに言われた通り乾電池式の充電器買っておけばよかった。なんで買わんかったんやろ、今度こそ絶対買っとくね」と電池がなくなるからと電話を切った。
◆珠洲と故郷を繋ぐ動脈となる県道6号線が若桑で土砂崩れ。迂回する金蔵ルートも通れないという。故郷は再び孤立した。地震のときに避難所となっていた小学校、お盆に家族の肖像写真撮影をさせていただいた母校も床上浸水してしまった。今は仮設住宅の集会所が避難先になっている。家族と連絡がとれず、避難できていない人もたくさんいる。また離れ離れか、もう懲り懲りだ。 生きている間に、大地震、大津波、被曝にパンデミックを体験するとは思っていなかった。こんどは大雨だ。家族と親族友人にできる限り連絡を取ろうと思う。命と故郷を思う。神様、慈悲ってなんですか?
◆9月22日、現地の電波が酷く悪い。何度か電話を父や親戚にかけるが繋がらない。震災のときのことを思い出すと、どうせ電波がないし電気もないので充電もできないわけで、非常の中の最善として電波があるところで繋げるために、電源を切ってエネルギーを温存しているのだと思う。故郷の友人知人のコミュニケーションの輪が父の無事を教えてくれた。電話は繋がらないが人の輪は繋がっていた。結局、最後は人だ。
◆9月23日、故郷の友人知人からの連絡で町の状況が伝わってくる。ありがたいことだが、状況はまずい。多くの声は「1月に戻ったわ」だ。文体から感覚的に伝わってくることは震災当時以上に精神が参っていることだ。今回、私は県外にいる。ウェブなどで得られる情報は表層的でしかないことを実感している。深層は目隠しされている感じだがないよりはマシだ。物理的な距離も手伝って心の在り方を教えられることになっている。
◆9月はお米の収穫の最盛期だ。震災の影響でこれまで通りに田植えをできなかった農家もたくさんある中で、笑顔を忘れずに希望を持って育てたお米も刈り入れ前に水没してしまったと聞いた。さすがにこたえる。地震で潰れてしまった家から探し当てた遺品も流れてしまったと聞いた。家、家財、家族、友人の命を持っていき、育てたお米も希望も奪うとは。神よ、その上、遺品までも奪うのか。あなたは何を試されているのだ。
◆9月25日、一昨日の晩、こちらから電話をしても繋がらなかった父から連絡があった。正月のときと同じ場所へ行かなければ電話は繋がらないということだった。「あ〜あれか」。あの状況かと思った。親戚はだめだった。最悪な予感が当たってしまった。夫婦共に流されてしまった。おじちゃんは近所の人に助けられ一時はヘリコプターで搬送されたけど肺に水がたまり命の火が消えてしまった。おばちゃんは22日、川の水が引いて発見された。
◆発見時の状況からすると自宅から200メートルほど流され水中で流木に引っかかっていた。もう意識はなかったそうだ。恐ろしくて苦しかったろうなぁ。ねぇ、おばちゃん。震災後も避難所や仮設住宅を選ばず自宅で自慢のトマト作りと稲作を続けると言っていたので、春に故郷へ戻ったときに元気にしているのか顔を見に行くと、地震を乗り越えた自宅の居間に通してくれた。壁は崩れていたもののDIYで手入れが施してあった。用意してくれたと思われる煮込みや刺身を振る舞ってくれた。「よばれ」だ。困難な状況下でも奥能登の文化は根付いていて、決して絶えないのだと思った。帰り際に精魂込めて作ったであろうお米を「持っていけ。会いに来てくれてありがと。また戻ってきたら遊びに来さし」と見送ってくれた。それが最後になってしまった。いつも穏やかでニコニコとしていたおじちゃんとおばちゃんは子供のころの記憶と変わらない。私の脳裏で今もニコニコと笑ったままだ。
◆9月29日、今日ようやく友人と連絡が付いた。故郷の同級生はみんな無事だったそうだ。「車や家、残っていた家財も仮住まいとして改装したばかりの建物もすべて流されてしまったが命は残った。そんでいいんやわ」と話してくれた。子供は外に出ることを怖がるようになった。この数日間の出来事に思考が追いつかない。起こってしまったこと、やらなければならない業務、忘れてしまってどうしても思い出せないパズルのピース。どこから整理したらいいのかわからない。「祈りとはなんだ」。神様に救いを求めているのか。まだ甘えるのか。問答の日々。送られてくる映像、故郷の光景。泥かきをする町のみんなの姿。祈りとは常軌を逸した極限の中で行動すること、そしてその姿から伝わってくる心のことだと気付かされた《ここまでが9日間の私の見聞》。
■10月1日、ふるさと町野町唯一となるスーパーの1階が、9月21日の大雨で飲み込まれる映像が知人から届いた。水位は2mほどに達しているように見える。どうやら長光寺のあたりで鈴屋川が決壊し五里分橋に濁流となり、もとやスーパーは飲み込まれてしまったようだ。
◆もとやには少年時代の思い出がある。夏休みに開催されたコカ・コーラのイベントでにいちゃんが私に「好きな子おるんか」とかエロくて照れくさいことを言ってきたり、本を見せて少年心を刺激してきたりするけれど、ツナギを着て健康的に笑うにいちゃんはカッコよかったことを覚えている。電気館の展示テレビからは都会の景気のよさが伝わってきて、外では日傘を立てて設置されたファミコンでワイワイ騒ぐ、田舎で感じられる“バブル時代”が夏の日差しとともに脳裏に焼き付いている。今年の年末年始はもとやで年越しそばを買ってえびフライも付けて新年を迎えようと思っていた。そうやって過ごそうと決めていたのは震災直後のもとやでの出来事があったからだ。
◆1月4日、朝7時30分、晴れ。よく晴れているから庭でご飯を食べようと弟に声をかける。青空の下で食べるご飯は状況も伴って格別だった。弟が調理師で助かっている。5月中旬辺りが見頃の、のとキリシマツツジの畑向こうに住んでいる幼馴染で同級生のお母さんが、「もとやスーパーにまだパンとか缶詰とかたくさんあるから今のうちに行ってくるといいよ」と教えてくれた。
◆実家に戻れていない父の食料と親戚の分を求めにもとやに向かう。親戚から避難所で1食、食パン1枚の4分の1と紙コップに1口分のお茶が配給されるのでそれで過ごしていると聞いていたので差し入れ分も用意したい。もとやに着くと入口に石油ストーブで温められた缶コーヒーと甘酒があった。「お、まーちゃんか、座って飲んでけ。飲んでいかんと法律違反なんやぞ」とオーナーの一郎さんが言う。
◆缶はカンカンに熱かったけど、あったまる。食料を求めに往来する人みんなに絶対寄って飲んでいかんとダメなんやぞと声をかけていた。「腹、減ってないか? これ、まんでうまいんやぞ」とえびフライをアルミホイルを敷いた石油ストーブの上で炙り出した。しばしの間。「そろそろ、食べんか焦げるぞ」と割り箸をくれた。うまい。言葉にならない。これまで食べたどんなえびフライよりも美味しかった。
◆ニコニコしながら「残したら、死刑なんやぞ、絶対残すなよ」ともう2尾、弟の分を含め炙ってくれた。あったかくて、優しくて胸にも鼻にもこみ上げてくるものがあった。目が潤む。きっとこれが幸せってことなんだと思う。これ以上のことは余分なんだと思った。帰り際、一郎さんに「ありがとう、またね」とお礼。「おう!じゃあなー」とニコニコしている一郎さんは子供のころのまんまだった。
◆9月26日、もとやスーパーにお世話になった輪島市の野球部から、店内に流れ込んだ土砂のかき出しをさせて欲しいと申し出があったという。3代目が再建を諦めそうになっていたタイミングだった。最初はこの申し出を断ろうと考えたそうだが、土砂をそのままにしておくと固まり除去は難しくなる上に虫もわいてくるしと助けてもらうことにした。
◆そしてそして。泥をかき出す野球部員らの姿に励まされ、もう一度やってみようと思えたと話す。もとやの現状はニュースで放送され全国から支援物資が届いており今は電気館に保管しているとのことだ。私がもとやで1月にもらった温もりは今年の冬も同じ様に町野のみんなを温めることになりそうだ。
■9月16日、市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷で神尾重則医師の遺稿集『千の風になって』の出版記念会が故人を知る多くの友人、知人、ご家族が参加して開かれた。神尾さんは生前実に多くの文章を書き、地平線通信や医学誌などに掲載していた。
◆ふりかえって、奥多摩一周山岳耐久レース(第2回大会だった)に出走したのが神尾さんとの出会いだった。大会で医師として活躍する姿に打たれ、私は勝手に「自分の主治医」と決めてしまった。年に1回、武蔵増子駅で下りて、時には迎えの車で、普通は歩いて風景を楽しみながら神尾さんの待つクリニック、病院に行くことが楽しみだった。神尾さん自身も地平線会議や通信には深い関心を持ってくれ、報告会や通信に何度も登場してくれた。
◆会の最後にはご家族が撮った晩年の神尾さんの姿、声が、活発なお孫さんたちの歓声とまじって会場に映し出され、しみじみ心に迫った。神尾さん、ありがとうございました。[江本嘉伸]
ラーマーヤナの渦巻き
「インドは何故か私の人生に立ち現れるんです」と言うのは英語通訳者のささきようこさん(62)。東京外語大ヒンディ語科在学中に訪れたインドの衝撃が強すぎ、距離を起きたくてカナダに留学。帰国後、英語を職とします。しかし日印合作アニメ映画「ラーマーヤナ」に通訳として関わり、否応なくインド的カオスの渦中へ。 インド人のバイブルのようなこの大長編古典叙事詩のアニメ化にはジブリの錚々たるクリエイターや、インドの一流芸術家が結集し、'93年に完成。が、なんとも複雑な事情でお蔵入りに。インドの映画フェスやTVで何度か上映された以外は秘蔵されてきました。 約30年後の'18年、この映画を日本で復活上映するプロジェクトに巻き込まれるのがインド研究家の浅野哲哉さん(67)。法政大学探検部出身。カレー好きからインドにはまり、現地に通って得意のイラストでインド食事情をルポ。大学探検部の交流を図る学生探検会議に関わり、地平線会議誕生にも大きな役割を果たした人物です。 アニメの企画者との縁でささきさんと出会い、インド人脈を活かしたイベントでプロジェクトに寄与します。インドでデジタルリマスター版が封切りとなる今月、ささきさんと浅野さんに、このアニメ映画の渦に巻き込まれた人々の不思議な縁と出会いの妙、そして奥深いインドの魅力を語って頂きます。 |
地平線通信 546号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2024年10月9日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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