2024年9月の地平線通信

9月の地平線通信・545号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

9月11日。「猛残暑」というらしい。秋などはるか遠い、35度前後の日が続く。この通信の空きスペースに「エモ日記」という中高生時代の私の文章を載せているが、今月(15ページ)のは、我ながらショックだった。同じ9月半ばなのに「寒くなった。セーターを着て学校へ」とあるのだ。未来を知らない15歳が、結果的に私たちの日常が半世紀を経て急激に熱帯化している様子を知らせてくれている。

◆いましがた午前10時(現地時間10日午後9時)、アメリカと世界の明日を動かす米大統領選挙に向けた民主党カマラ・ハリス(59)、共和党ドナルド・トランプ(78)の90分のテレビ討論会が始まった。2人の質問者以外はいっさい会場に人はいない。発言中は聞き役に徹するルールで、聞いている時の表情はそのまま伝えられるので印象に残る。

◆とくに人工妊娠中絶問題についてのやりとりは「中絶したい女性なんていません」と述べるハリスの迫力があった。これまで記者会見にほとんど応じていないハリスの実力が注目されたが、一度も口籠ることはなくまずまずの結果であった、と思う。トランプも感情的にならず自分を抑えられることを証明したので大きな失点はなかった。2人の対決は今後に持ち越されたかたちである。

◆一方、明日12日に自民党総裁選が告示される日本。驚くことに目下、9人もの候補が乱立する異様な事態となっている。先月ここで書いた“孤軍奮闘”の青山繁晴氏は結局20人の推薦人を集められないまま断念に追い込まれそうだ。野党立憲民主党の党首選も女性1人を含む4人が立候補、賑やかな展開となっている。

◆しかし、迫力がないのだ。どうしてもっと言葉を持った政治家が出てこないのか。経済失墜など日本という国が大きな曲がり角に立たされているとき、私心を捨てた優れたリーダーが今ほど待たれているときはない。

◆少し昔話をする。2001年というからもう23年前だ。事件当時、私は富士山にいた。「お中道一周」というユニークな企画に2度目の参加だった。お中道は富士山5号目から6号目にかけての中腹をめぐる、標高にして2100メートルから2800メートル、距離25キロの周遊ルートだ。富士山信仰が盛んだった江戸時代には人気で「富士山に3回登頂した登拝者」がお中道めぐりの資格があった、とされる。

◆危険な崩落、大沢崩れで近年は立ち入りが禁止されていたが、あたり一帯を管理する建設省(現国土交通省)富士砂防事務所の所長に我らが花岡正明君が着任したことで事態が動いた。1999年9月「富士砂防事務所30周年」と銘打ち、お中道を一時復活させたのである。このときは今井通子さんをリーダーとするパーティーに私も参加させてもらい、新聞社のヘリコプターを頼んで上空から一行を撮影した。宝永山を含む素晴らしいルートで、その後も3度、4度とここを歩いている。

◆で、2001年の9月11日、私には2度目のお中道だった。エヴェレストに70歳での登頂を目指す三浦雄一郎さんを中心に外国からの登山家、サイクリストらをまじえた賑やかな顔ぶれだった。お中道の途中にある山小屋「奥庭荘」にたどり着いた直後、テレビに衝撃の画像が流れた。ニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機がつっこむ信じがたい風景。アメリカ人の1人は「戦争だ!」と絶叫した。

◆イスラム過激派「アルカイダ」が周到な訓練を重ね、4機の旅客機をハイジャックし次々に突っ込んだ未曾有の事件。24人の日本人を含む2977人が亡くなり、2万5000人以上が負傷、アフガニスタン紛争が勃発した。その後イラク戦争はじめ「対テロ戦争」にアメリカ自身が自らを追い込んでゆく結果となった。

◆ところで、ことしの富士山である。吉田ルート五合目の登山道入口にゲートが設けられた。午後4時から翌日午前3時までは閉鎖され、登山者が1日4000人を超える場合も登下山道は閉鎖されるという。登下山道の使用料として1人2000円払わなければならない。長いこと議論のテーマだった富士山の環境保全がこういうかたちで動き出した。そして、きのう9月10日、静岡県の須走ルート、御殿場ルート、富士宮ルート、山梨県側の吉田ルートと、4登山ルートすべてが閉山した。富士山とはいろいろな縁がある。大学山岳部にとっては富士山は冬山の技術を学ぶ場だった。富士吉田駅から5合目まで長い長い道を冬テントと食料、燃料を担いで登り、アイゼン歩行や滑落留めの訓練に明け暮れ、最後頂上まで登ることを4年続けた。

◆お中道の穏やかな、平和な“中庸の山”(今井さんの表現)の風景。だからなのか私は富士山というと今もあの凄惨な事件を思い出すのである。[江本嘉伸


先月の報告会から

石器野ヨシハルの時を駆ける探検

関野吉晴

2024年8月31日 榎町地域センター

■林に分け入り尻を出してしゃがみこんだ関野吉晴さんが、ほおづえをつきながらじっと待つ。やがて立ち上がると、「出ませ〜ん」「ダメでした……」とはにかみながら戻ってくる。上映中の映画「うんこと死体の復権」は、そんな場面から始まる。数々のドキュメンタリー映画で被写体となった関野さんが、初めて記録者側である監督に挑んだ作品だ。その内容は「不潔だ、気持ち悪いと嫌われ、疎まれているものに、信じがたいほど関心を抱いたおじさんたちが主役」のドキュメンタリー。

なぜ映画を監督したのか

◆なぜこの映画を撮ったのか。報告会の冒頭で語られたのは、50年にわたって通い続けるアマゾンのマチゲンガ族との付き合いだ。関野さんは彼らの家の中の写真を見せながら説明する。「柱、屋根、弓矢、ひょうたん、ベッド……、素材の分からないものがない。必要なものはすべて自然から取ってきて、自分で作る暮らしをしている」。翻って、私たちの中に自然の素材で自分で作ったものを持っている者はどれだけいるのか。「僕はありません。それだけ私たちは自然から離れてしまった」

◆もう一つは排出される物の方だ。彼らはヤシのほうきでゴミを集めて森に捨て、野で排せつし、死体は土葬または魚葬にする。ゴミもうんこも死体も全部森に返して、それが土になって植物や菌類のエサになり、小動物が食べ、肉食動物や人間が食べ、うんこをしてまた土に戻る。「つまり野生生物と同じように循環の中にいる。それに対して私たちはどうか。都市生活をしているとそれができない。片利共生で、自然に寄生している」

◆では、私たちが自然に帰せるものとはいったい何か。……ということで、ご存じ糞土師の伊沢正名さんが登場。伊沢さんは3人いる映画の主役の一人でもあり、報告会の前半いっぱいを使って、二人の対談が熱く深く展開された。

うんこを掘り返して分かったこと

◆映画の中で、二人は埋めた野ぐそを後日、掘り返す調査をしている。伊沢さんがこの調査を初めてしたのは15年前。自身初の野ぐそ本「くう・ねる・のぐそ」の出版にあたり、本当に分解するのか写真で記録する目的だったという。「それまではバクテリアが一方向に分解を進めていくものと思っていたが、全然違った。においも変わっていくし、いろんな生き物や菌類が集まってきて、最後には芽生えがあり、キノコが生える」

◆さらに、江戸時代の百姓に倣い、団粒土になった頃に味見をしてみて驚いた。一口、口に含んだ感想は「ほとんど無味無臭」。ところが口の中で転がすようにしてさらに味わうと「唾液にとろけてねっとりまろやか。はき出すのも惜しく、『こんなにうまいのか!』と植物の根っこの気持ちが分かった」。15年前の調査では土に変わるまで1か月かかったが、今回は半月ですっかり分解されてしまうという驚くべき展開にも直面し、「頻繁にうんこをするから林が元気になって、計算が狂っちゃった」と伊沢さんはうれしそうに報告する。

「軽犯罪法をぶっ潰したい」

◆調査に使ったのは茨城県の自宅の近くの通称「プープランド」だ。ここは伊沢さんが「野ぐそをするため」ではなく、「野ぐそをさせるため」に購入した土地だという。野ぐそを広めたい—。だが、土地には所有権があり無断で入れば不法侵入だととがめられることがある。人前で尻を出せば軽犯罪法違反に問われる可能性もある。そうした、ちまちました批判を、伊沢さんは壮大な野望で蹴っ飛ばす。「最後には軽犯罪法をぶっ潰してやろうと考えている」。東京・桜田門の警視庁の前で野ぐそをして捕まる。そして「野ぐそ闘争を裁判に持っていく」。

◆「で、いつやります?」すかさず関野さんが尋ねるも、その前に大事な仕事があると伊沢さんは打ち明ける。それというのは、プープランドの一角を墓地に認定してもらうこと。「私の意向は山に入ってのたれ死に、動物に食ってもらい、菌に分解してもらい、土に還る」。だが、林に死体が転がっていれば、それは変死体だ。死体は墓地に埋めてもらう必要がある、ならば林を墓地に認定してもらいたい。簡潔明瞭。自分が土に還る準備を整え、「桜田門外の便」に挑む。それが伊沢さんの「最後の闘い」だという。

◆「持続可能な社会を作るのは循環。次の世界を作るポイントはうんこにあるんです」。胸に堂々と「UNCO」とプリントされたオリジナルTシャツを着た伊沢さん。Ultimate Natural Cycle Productsの略だと後で教えてくれた。ぐるぐると渦巻いたUNCOの「O」の字を見詰めるうち、頭の中もぐるぐると渦巻いてくる。そうだ、うんここそ、自然循環する究極の産物……なのかも?

普通に生きている動物を大切に

◆後半は、映画のもう二人の主役に絡んだ話だ。二人目に登場するのは、保全生態学者の高槻成紀さん。関野さんと高槻さんの出会いには、武蔵野の台地を流れる用水路「玉川上水」が関係している。20、30代に南米に通い、その後グレートジャーニーの長い旅に出た関野さん。外国で日本について聞かれるうち、「日本のことが答えられない。もっと足元を見ないといけない」と思ったそう。

◆旅を終えた関野さんは、週2〜3日、墨田区にある豚皮のなめし工場で働くようになり、一方で週2〜3日は講義のため武蔵野美術大学に通う生活に。通勤の道として歩いていた玉川上水のことを調べたいと考えた時、知人に紹介されたのが高槻さんだった。

◆「高槻さんと歩くと、鳥、虫、蛇など生き物がたくさんいることが分かって見方ががらっと変わった」。レッドデータブック(絶滅の恐れのある野生生物の種のリスト)に載っているような動物でなく、「普通に生きている生き物を大切にしたいという高槻さんの発想が好き」。映画ではタヌキに焦点を当て、そのふんを突きに来る鳥や虫、ふんから芽を出す植物など、生き物のつながりを調べた。そして今、玉川上水と交差する36m幅の都道の新設計画に対し、生物多様性の調査を求める署名運動も展開している。

虫から見たら死体はごちそう

◆最後の一人は、絵本作家の館野鴻さん。デビュー作「しでむし」で、死体食いの虫、ヨツボシモンシデムシの生活史を、精緻で美しいタッチで描いた作家だ。絵本の冒頭に出てくるのは、シデムシのエサとなる赤鼠の死体。「虫から見たら光り輝くごちそう。これから饗宴が始まる」。ヨツボシに魅せられた関野さんは、ぜひ映画に使いたいと、マウスの死体を使ったわなを仕掛けることを館野さんに持ちかける。

◆仕掛けてみるとヨツボシだけでなく、いろいろな虫がやって来ることが分かった。死体を食べに来るセンチコガネなどの虫はもちろん、ウジを食べるエンマムシなどの虫、さらに死体を食べる虫のうんこを食べる虫まで。64種もの虫が確認できた。

◆虫たちの間には、死体を巡る攻防や譲り合いもあった。死体をセンチコガネに取られぬよう、自ら土に掘った穴に死体を引きずり込んだヨツボシ。その傍らでは、スズメバチとアリがカマキリの死体を巡って争う。9月末までクロシデムシ全盛だった死体を巡る勢力図は、10月に入った途端にヨツボシにとって代わられた。「時期で分けている。そういう風に譲り合いをしている」。虫の世界を語る関野さんの口調に熱がこもる。

◆「ウジ虫は最高のヒーロー。そこら中がうんこや死体だらけになるのを防いでくれるから」とも関野さんは言う。ハエもウジも人間からは害虫と言われるが、森にとっては益虫なのではないか。館野さんとは「害虫や害獣って何なんだ」という話になるそう。「一番の害獣は人間だよね。自然を必要としていない唯一の生き物が人間だから」

◆人間は自然との関係を考え直すべきかもしれない。その時、私たちは何をするべきか。答えは「ほどほど」ではないかと言う。「肥大化した欲望がいけない。代理店や広告にあおられた『もっともっと』が」。虫たちのように、ただ今を生き、次世代につないでいく。無駄に奪わず、ほどほどの欲望を持って、ただそこに居る。そんな存在になれるものならと思わず願う。

徒手空拳で森の中に

◆今、関野さんは旧石器時代の暮らしの再現に挑んでいる。動機の一つは、アマゾンの人たちに対抗し、「ナイフも無しに徒手空拳で森の中で生きられるか試してみたかった」から。もう一つは、「鉄の無い時代に生きてみたい」という思いだ。グレートジャーニーを始めた時、旧石器時代の人に思いを馳せられるのではないかと思っていたが、鉄器を使わない人は現代にいなかった。「IT時代でもAI時代でもなく、ずっと鉄器時代。鉄の無い時代に生きるためには時をさかのぼるしかない。タイムトラベル装置がないから自分で環境を作る」。奥多摩で始めた試みは、新潟県、北海道へと場所を移して続いている。

◆最後に関野さんの提言。「『もっともっと』はやめましょう。人間中心主義はやめましょう」。映画のタイトルには「復権」と付けたが、「虫たちは復権なんて願っていません。ただ彼らの生と子孫作りに必死になっているだけです」。私たちがすべきは彼らの生を邪魔しないことであり、そのために人間のことも他の動物のことも考えるべき—。そう話を締めた関野さんに、はにかんだ笑顔が残った。「なんか正しいことばかり言っているので、恥ずかしくなるね」[菊地由美子


報告者のひとこと

10年ぶりの報告会を終え

■かつて、よく地平線報告会で話をしていましたが、今回は10年ぶりの報告会なので、少し緊張しました。初監督のドキュメンタリー映画『うんこと死体の復権』が公開中ということで、江本嘉伸さんに声をかけられました。前半は、伊沢正名さんに登壇していただき、対談という形式にしてもらい助かりました。後半は写真や動画の扱いがうまくいかず、わかりにくかったと思います。終了後、何人かの方から質問を受けました。報告会では質問コーナーがなかったので、質問と回答という形で話を進めていきます。

『うんこと死体の復権』というタイトルはどのように決まったのか?

◆私が冗談で話したのをプロデューサーの大島新がそれにしましょうと反応して決まった。最初にタイトルありきの映画作りが始まった。インパクトはとても強いが誰のための何の復権なのかわからないだろう。たとえば、現在国内の法律では川の鮭を捕獲してはいけない。ところが北海道のアイヌは昔から川鮭を捕ってきた。このような先住権は諸外国では認められている。やっと先住民であることは認められたのに、先住権は認められていないのだ。アイヌは先住権を認めるよう国に求めている。このように、本来は持っていた権利をいったん奪われ、それを回復するのが復権だ。

◆うんこと死体の権利とは何か? うんこと死体は、アマゾン先住民など世界の伝統社会では、森羅万象の循環の輪の中に戻っていき、最終的には土になり、植物の栄養になり、それが動物の栄養になり、それが野糞をして死体が埋められと繰り返していく。ところが現代社会ではうんこや死体は縁起の悪いもの、隠したいものとして扱われる。その認識を変えることが必要だろう。

◆一方で、うんこや死体を食べるムシたちにとっては、復権とはなんだろう。確かに私たち人間はそれらを嫌い、鼻つまみ者として見て、扱う。しかし、彼らは人間の評価など気にしているだろうか? いや、まったく気にしていないだろう。彼らは自分たちの生を全うし、子孫を残すために精一杯活動しているだけだろう。

◆彼らが人間に求めたいことがあるとしたら、何だろう? 「この地球は人間だけのものではない。人間は自分たちのことばかり考えている自己中心主義に陥っている。たまには他の生き物のことも考えてほしい。今、多くのどうぶつ、トリ、ムシ、サカナが人間の行いによって滅びようとしている。SDGs(持続可能な開発目標)は17の目標で構成されていて、重要なものばかりだが、欠けているものも多い。物質的に裕福な人たちは、経済発展や自然開発ありきで、現状をあまり変えたくないことが透けてみえる。肥大した欲望で地球やそこに生きるものたちを圧迫しているのに、もっと物質的に豊かになりたいと貪欲さを失わない。いいかげんにしてくれよ」などと思っているのではないだろうか?

何故旧石器時代にタイムトンネルで行こうと思ったのですか?

◆1. アマゾンの先住民はナイフ一本持たせて森の中に放り出しても、自然から必要なものを取ってきて、衣食住をすべて賄ってしまう。わたしも彼らと長く一緒に暮らしてきたので、ナイフ一本あれば他に何もなくても、自然から素材を自分でとってきて、衣食住を賄ってサバイバルできる。現在進めている旅は、ナイフももたず、徒手空拳で日本の森に入っていき、サバイバルできないかという試みだ。

◆2. アフリカを出てシベリア、アラスカ経由で南米最南端までの遠征グレートジャーニーは、マンモスハンターたちつまり旧石器時代人の旅だった。私は南米発の逆ルートで移動したが、自分の脚力と腕力それとウマ、イヌ、ラクダ、トナカイの力を借りて、太古の人たちと同じように近代的動力は使わずに移動した。

◆旧石器時代の人たちがどんな思いで旅をしたのか? 森の中あるいは河岸などで焚き火にあたりながら皆で何を話したり、考えていたのか。私は彼らに思いを馳せようと思ったので、彼らに近い条件、近代的動力を使わずに旅した。パタゴニア、アマゾン、アンデスなどの先住民の村や、南米を出てからもできるだけプリミティブな暮らしをしている村々を訪ねながら移動した。

◆ニューギニアには、50年前までは鉄を知らない、石器だけで暮らしをしている人がいたが、現在は鉄の斧、ナイフを使っている。一度鉄を使うともう石器には戻れないのだ。80億に膨れ上がった人間で、プラスチック、ガラスやアルミニウム、金銀銅を必要としない人は10億人以上いる。しかし赤ん坊は間接的だが、鉄を必要としない人は皆無に近い。

◆石器時代の次に青銅時代を経て、鉄器時代になったが、現在も地球レベルで見れば、鉄器時代と言っていい。石器時代人に思いを馳せるには、タイムトラベルで石器時代に戻って、彼らと同じように徒手空拳で森に入って行くのが一番いいと思った。

◆3. また旧石器時代はとてもプリミティブでシンプルな暮らしをしていた。南アメリカの最南端からアフリカまで、10年近くにおよぶグレートジャーニーを終えて、ゴールに着いた直後、友人の坂野皓から、「長旅を経て、どんな気づきがあったか」と問われた。私は「一番大切なことはあたりまえのことなんですね」と答えた。「必要最低限の食べ物」、「汚れていない水・空気・土地」、「家族と、共に生きる仲間たち」、「どのように生きるかを人から強制されない権利」など、本来はあたりまえのことだが、人はそれらを失ったときに初めて大切さに気がつく。

◆山で水筒が空になり、水辺に着いて飲んだときの水の旨さ。病気になって初めて気がつく健康のありがたみも同じだ。旧石器時代の暮らしをするということは、余計なものを剥ぎ取って生きていくことになる。本当に大切なものは何かを再考する契機になる予感がする。久島弘さんは「貧乏ぐらし」を現代で挑戦しているが、私は時代を遡ってチャレンジしてみたい。

  ◆   ◆   ◆   ◆

◆今回、「旧石器時代へのタイムトラベル〜素手で日本の森に入って生きていけるか」という旅を続けるため、クラウドファンディングを始めました。旅そのものは、1年8か月前から始めています。今まで、奥多摩、新潟県山熊田、北海道二風谷で石器を作り、木や竹を切り、紐を綯い、家を作り、森の中で捕れるものだけを食べて生きていく活動をしてきました。今までも動画撮影をしてきましたが、活動費は私の日雇い医師、講演、原稿書きなどでまかなってきました。

◆これから、映画制作も本格的に行いたいと思っています。活動地域も新潟、北海道、沖縄と遠方になり、交通費もかさばり、皆さんに応援をお願いしようと思いました。そのために、ネツゲン制作のドキュメンタリー映画『うんこと死体の復権』と同じように、motion galleryでクラウドファンディングを始めます。興味を持っていただけたら是非仲間になって、応援をお願い致します。また、シェア、拡散をお願い致します(motion gallery https://motion-gallery.net/projects/sekino-sekki)。[関野吉晴


ぐるぐるスイッチオフにして

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報告会に参加して

「しあわせな死」は実現できるのか?

■今回の関野吉晴さんの報告会でも死の話題が出たため、本通信537号に書いた「しあわせな死」について、少し話を進めてみます。以前「地球永住計画」で関野さんと対談した中で、サルには後悔や不安はないと関野さんから伺いました。彼らは今を生きることに精一杯で、過去や未来を思わないからだそうです。その際に私は、何も後悔せず死の恐怖もない自分はサル並の人間です、と返したことを覚えています。とはいえ、私は過去も未来もしっかり認識していますが、たとえどんな失敗をしてもその経験から多くを学んできたし、死んでも土に還ればウンコと同様に、他の生き物に喰われて新たな命に蘇る自然界の命の循環を、野糞跡掘り返し調査で確認しているのです。

◆この命の循環思想は数年前にほぼ出来上がっていたのですが、決定打は昨年の地平線報告会500回記念集会の日です。昼におにぎりを食べた際に、最後に1本だけ残っていた貴重な前歯が欠けてしまいました。それまでの歯の欠損は2本だけだったのが、2022年正月からの2年間で次々に11本も欠けて、まともに食べることができなくなってしまったのです。しかしできるだけ自然のままに生きたいと願う私は、喰えなくなれば死ぬしかない野生動物のように、歯の治療などせずにこのまま死に向かえばいいと腹をくくったのです。そのときに降って湧いた想いが、「困った、どうしよう」ではなく、13年以上続いた連続野糞記録が途切れたときにホッとしたのと同じように、「遂にしあわせな死を実践に移す時がきた!」という喜びでした。

◆元気なときはあれもこれもとついつい欲張ってしまい、なかなか的が絞り切れません。しかしいつか必ずやってくる死にきちんと向き合えば、無駄に時間を過ごすことなどできず、今すぐやるべきことが自ずと明確になります。じつは2015年に舌癌になったときも死を実感したのですが、そのときは「正しい野糞のしかた」と尻拭き葉っぱをまとめた「お尻で見る葉っぱ図鑑」を書き残すことが、どうしてもやり遂げたいことでした。何の因果かこのときも地平線報告会が絡んでいて、それが東日本大震災とフクシマ原発事故現場を巡る432回報告会「ぼっかされだ里に花の咲ぐ」でした。ここで偶然大西夏奈子さんに出会い、彼女の協力を得て、念願だった『葉っぱのぐそをはじめよう』の出版に漕ぎ着けたのです。

◆そして今回の歯っ欠けでは、直後の二次会で高世仁さんに出会えた縁で偉大な「新コスモロジー」を知り、数日後には青森県立美術館でのリアルウンコ写真展が突如決まり、その流れで鴻池朋子さんの奇抜なアート作品がプープランドの林の中に展示されました。この地平線会議に関しては、1月は「今月の窓」に原稿を書き、2月には2月には報告者となり、先月の関野さんの報告会にもいきなり引っ張り出されるなど、これほど濃く関わったのは初めてのことです。さらに一時は劇場公開は無理だと言われた『ウンコと死体の復権』の上映が始まると、予想をはるかに超える好評を得て、何と講談の世界にまで拡散して行く。そして私の遺書代わりともいえる最後の糞土師本「うんこになって考える」の出版は、子どもに死の話は相応しくないとか、野糞は刑法に触れるなどの理由で多くの出版社に散々拒否され続けてきたのが、先日遂に朗報が届きました。これらすべてが死に向き合おうと腹をくくってから、1年足らずの間に起こった出来事なのです。

◆さて、私の理想とする死に様はもちろん、すべてを自然に還すための「野垂れ死に」です。私の死骸は獣や虫たちに喰われ、菌に分解されて土に還り、植物に生まれ変わり、また動物の姿になって連綿と命が続きます。しかし交通事故などで街中で死んだり、たとえ野垂れ死んでも朽ち果てる前に発見されれば不審死体として回収され、焼かれて自然には還れません。やはり法に則った上で、かつてのように墓地に土葬されるのが確実な方法で、半世紀に亘る野糞で育て上げたプープランドの林の一画に墓地が認定されれば万全です。ところが新たな墓地の認定は、お寺など宗教法人でないと基本的に認められません。その権限は自治体にあり、一度市役所に行ってその相談をしたのですが、個人での墓地申請は極めて困難でした。この難関を突破する新たな闘いは避けられません。死ぬのも本当に大変です。

◆余談ですが、この報告会に着ていったUNCOのTシャツがちょっと話題になりました。それは長野県中川村の「運古知新プロジェクト」で作られたもので、このプロジェクトに関わった関野さんも持っているはずですが、なぜかそれを着ている関野さんを見たことがありません。まだ関野さんはウンコへの恥じらいを捨てきれないのでしょうか。それはまぁいいとして、この際思い切って、糞土師ならではのウンコTシャツを作ることにしました。UNCOとNOGSOのTシャツをみんなが着て、人と自然が共生する糞土思想を世界中に広めることが、持続可能な循環社会を実現する力になると確信しています。

◆このTシャツのデザインはもちろん長野亮之介さんにお願いして、すでにウンコTシャツプロジェクトは動き始めています。おたのしみに![伊沢正名 糞土師]

イラスト-1

 イラスト ねこ

谷崎潤一郎が述べた「厠の美」

■先日は、最近2歳になったばかりの息子と一緒に地平線報告会に参加しました。関野吉晴さんともなればファン層も幅広いようで、私たち以外の子連れも何組かいました。小さい子供がじっとしていられないのはどこも同じらしく、他の子もうちの子と同じようにワサワサ動いていたので、まあいいかと、ちょっと安心しました(笑)。

◆関野さんは最近、ドキュメンタリー映画『うんこと死体の復権』を公開されたということで、おそらく伊沢さんもいらっしゃるのではとひそかに期待もしていました。前々から伊沢さんの野糞の活動にも興味があったので、おふたりのお話を聞くことができてよかったです。

◆グレートジャーニーにしろ野糞にしろ、なかなかまねができない卓越した……見方によってはクレイジーな活動に身を捧げるおふたりの話を、実際に会場で2時間以上もの時間をかけて聞いてみることで、自分の中で生まれてくる変化がありました。それこそ普段の私たちが日常生活で意識も及んでいないけど本当は大切なことに、話を聞くという受動的な行為を通してしっかり浸り、考えを巡らせることができた時間でした。

◆排泄も死も、清潔な現代生活からすれば“不浄”なものとして扱われがちです。野糞について考えていると私がよく思い出すのは、谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で述べた「厠の美」です。谷崎曰く、日本の厠は母家から離れたひっそりとした場所に設けられており、うすぐらい光線の中でうずくまり自然を感じながら精神を休める場所であるとのことです。多くの現代人が、LED電球に明るく照らされた狭い個室に入り、真っ白な洋式便器で用を足すとき、そんな豊かさを感じるでしょうか。

◆現代人の日常生活は、生きることの本質からあまりにも遠ざかっているように感じています。自分が何を食べて生きていて、排泄すればその糞がどうなっていくのか、そんなことを考えないでいる方が楽に回っていくように思えるほどです。水洗トイレは便利で清潔だし、家の中でウジ虫を見れば、益虫だと言われてもやっぱり背筋が凍ります。だけど、知らなくても済んでしまうそれらのことを無視して過ごせば、無意識で私たちの人間としての根底が揺らいでいき、そしてそれは確実に、物質的な意味でも何十年も先の未来に影響していくことになるはずです。

◆今年の夏は、家族で海やキャンプなど、自然豊かな場所にたくさん遊びに行きました。昼はじりじり灼けるような太陽の下で海水浴をし、夜は自分で起こした火を使って料理をし、焚き火を眺めて過ごす時間は、うまく形容できませんが、内側からパワーがみなぎる実感をくれるものでした。便利で娯楽にも事欠かない現代ですが、私たちを心の底から満たしてくれるものは、おそらく何千年も何万年も前から変わらないのでしょうか。

◆さまざまな情報が溢れ、何が正しいのかわからなくなってくる世界に、ますます重要さを増しているのが、人間としての感覚を失わないことだと思います。報告会で関野さんと伊沢さんが話してくれたことは、現代を生きる私たちに肉薄した問題だと思いました。[貴家蓉子

「南極の祭り」をテーマに 北大大学院へ

■10か月ぶりに報告会へ参加して、久しぶりにたっぷり刺激を受けました。翌々日には東中野へ関野さんの映画を観に行ってきました。関野さんと伊沢さんのお話、そして映画から、私は自分自身も自然を構成する一部分であるということに気づかされました。

◆山でテント泊をしたとき、夜中に獣の鳴き声が聞こえる中、遠くに小さく町の明かりが見えて、「人間の世界から出てきてしまった」と恐怖を感じたことがあります。人工物に囲まれ、人工的に処理される社会で生きることに慣れてしまった私は、自然から隔離されかけているのでしょう。しかし、昆虫も菌類も私たち人間も、本来は共通した生命の循環の輪の中にいるということを教えてもらいました。自然的存在であるはずの人間が、自然を脅かす存在になってしまった今、地球に対する姿勢をあらためる時期にきていると思います。これまでの反省から、人間の私利私欲にとらわれない社会実現のために、私たち若い世代が行動しなければなりません。

◆その中で私は、来年度から北海道の大学院に進学し、「南極の祭」というテーマで極域の自然環境と人間社会について研究します。地球環境問題の解決や自然環境の保護・保全に取り組めるようになることを目指して勉学に励んでいこうと思います。南極の祭りといえばご存知の方も多いと思いますが南極大陸の世界中の観測基地が冬至の日に一斉に行う「ミッドウィンター祭」のことです。太陽が失われる極地の厳しい冬を乗り越えるために生まれた、極地探検時代から現代まで続いている歴史ある祭りです。

◆緯度が高い北欧でもこれに似た儀式が行われていて、それがクリスマスの原点であること、この祭が探検家たちの健康の維持に心理学的にも栄養学的にも重要だったこと、などがわかりました。この研究が面白いと思い、ここまでわかったことを卒業論文として提出し、修士論文でも続けていきたいと考えています。修士論文では「ミッドウィンター祭」の枠を超えて、極地の人々の暮らしや文化、精神構造などについても明らかにしたいと考えています。

◆さて、北海道といえばですが、法政大学澤柿ゼミは、8月23日から前半・後半に分かれて、各3泊4日のゼミ合宿を行いました。今回の舞台は南十勝でした。今年6月、日高山脈襟裳国定公園が「十勝」という名を入れて国立公園に指定されました。私たちはこのテーマを社会学的に紐解き、秋には研究発表を行う予定です。

◆私が参加した前半組は、「六花亭」の包装紙をデザインした山岳画家・坂本直行の入植跡、太平洋戦争末期に造られたトーチカ群(ロシア語で「点・地点」を意味するコンクリートを固めた小型の防衛用陣地)、海岸浸食が進む砂浜などを見て回り、日高山脈の国立公園化を記念する講演会にも出席しました。

◆原生的な自然が残された日高山脈は、その姿を描いた直行さんをはじめ多くの登山家や住民から愛され、尊ばれてきたことがわかりました。一方、私たちが目にしたトーチカや海岸浸食は、戦争の現実とダム開発の弊害を意味します。それは十勝という地が人間によって開拓され、利用されていったしるしでもあります。

◆新たに生まれた日本最大の国立公園も、保護するのか、利用するのか、その矛盾をどう乗り越えるのか、という問題は、人間を自然や生き物との循環の中に置いて考えることが大切だと思いました。[法政大学4年 杉田友華


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら江本宛メールください。実は、先月痛恨の見落としがありました。愛媛県今治市の徳野利幸さんから夏だよりとともに15000円頂いていたのに後で加筆するつもりで別に保管したまま通信費欄に書き漏らしてしまったのです。徳野さん、ほんとうに失礼いたしました。

徳野利幸(15000円) 津川芳巳 佐藤泉(3000円 K2の事故は大変残念なことです。平出、中島両氏の映像はNHK BSでその美しさに見とれていました。ご冥福をお祈りするばかりです。1,000円はカンパです) 永井マス子 石原卓也(4000円 2年分) 伊沢正名(4000円 2年分) 河村安彦(10000円 5年分) 渡辺久樹 世古成子(5000円 2年分+カンパ) 街道憲久(10000円 1年分+カンパ) 菊地由美子 笹谷遼平(5000円 6月の「馬ありて」上映会ではありがとうございました。また映画を上映できるように牛歩で頑張ります!) 坪井伸吾(20000円 地平線の通信費を10年ぶりに支払う。正確には10年がどうか定かではない。ともかく長い間だ。もちろん忘れていたわけではない。過去、何度も現金を持参し報告会に臨み、二次会で酔っぱらって忘れる、を繰り返していた。今回、報告会の最後に郵便料金の値上げが通信の発行にいかに痛手かの具体的な説明と共に、地平線の懐具合の話が出る。申し訳ございません。今すぐお支払いします! 今日は最初からそのつもりで現金を持ってきました。ためにためた2万円を、二次会で直接、代表の江本さんにお詫びして手渡す。江本さんが笑顔で許してくれ、本当にホッとした。二次会会場を往く道すがら、古株の参加者に通信費の話を振ると「いやー実は私も」という微妙な笑顔が返ってきた。その笑顔を見て、あの人も払ってないんじゃないの?と、何人かの顔が浮かんだ。ダメですよ。皆さん払いましょう。払って急に強気になった)


うんこと死体はなぜ嫌われる?

■8月31日の地平線報告会は、関野吉晴さん。今チャレンジしている石器時代の暮らしについて、を副菜に、メインは、初監督映画作品『うんこと死体の復権』公開のお話だった。報告会翌日、早速映画の上映館へ。運良く関野さんの舞台挨拶つき回のチケットがとれた。そこでは、前日の地平線会議での報告とはまた違った側面での話が展開され、この映画の宣伝にまつわる苦労話が話題になった。私も映画を見終わった直後なだけに、納得。なんせ扱っているものが、うんこと死体。モノがモノだけに、いくらテーマが良くても上映を断る館も多い、というのはもっともな話だと思った。

◆実は私は、とある取材で昨年の春、すでにこの映画の話を関野さんから聞いていた。なので、今回この映画を実際に鑑賞後、真っ先に思ったのは、そこに込められたメッセージもさることながら、この映画をどうやって世の中に広く届けられるか、だった。いくら映画のテーマがすばらしくても、その手前で見る側の嫌悪感が際立ってしまっては、先方の懐まで届けられない。だからこそこういう映画を、地球を股にかけてきたレジェンド探検家の関野さんが監督することには、とても大きな意義があると思った。とかくレジェンドのやることは、かっこよくて人目を惹きつける魔力がある。

◆ちょっとネタバレになるが、映画の中で、うんこのかっこよさにこだわる関野さんがいた。レジェンドたるもの、うんこもかっこよくなくてはならない。りっぱなうんこを排出できて、ドヤ顔で人様に披露する関野さんがいる一方で、なさけないうんこしか出せなくて、なさけない顔をしながらソレをそそくさと隠してしまう関野さんがいた。どちらの関野さんの中にも、沸々と煮えたぎるレジェンド魂。レジェンド自ら排出するうんこのかっこよさへの責任と覚悟が、うんこや死体という、世の嫌われモノに向けられる嫌悪の壁を突き崩し、それらの復権への道を拓くのかもしれない。そんなことを思ったのでした。[中井多歌子


世界一周ライダー 馬とゲル暮らし 単独ヨット旅…… 驚異の女性の講演会です

■ヨットの修理費用捻出のため日本に出稼ぎにいきます、と、フィリピンのミンダナオ島からメールが来る。ヨットで単独世界旅をしている杉野真紀子さんからだった。杉野さんはバイク仲間だ。6年かけて世界一周したライダーで、その後なぜか滋賀県で馬と一緒にゲルに住んでいた。そして2年前に、いきなりヨットで旅立ってしまった。

◆今回のメールは一時帰国にあたり、バイクの旅を振りかえってみたいのでセットしてほしい、という依頼だった。「お金が必要なら有名になるのが手っ取り早い。今の杉野さんのキャリアなら簡単だと思う」と返事する。すると「ワタシは有名になったら死ぬ。ワタシは自然との真剣勝負をしている。その一対一に、第三者が入ったらワタシの隙になる」と血が騒ぐ返事が来る。「でもお金がいるんでしょ。じゃあ募金しようか」「いや募金ではなく、話を聞いて面白かったらお金ください。投げ銭トークライブ。募金は重い。人の夢に乗っからないで。自分の夢を見て欲しい」

◆「当日は写真無し。その場でお互いの想像力の勝負です。お話会はワタシのチャレンジ。冒険です」。カッコいいなぁ杉野さん。言葉が刺さりまくるよ。というわけで杉野さんのお話会をやります。会場はそれほど広くないので先着50名です。お話会の後、杉野さんは行方不明になるので連絡はつきません。日本で話すのは一回だけだそうです。[坪井伸吾

 WTN-J第92回お話会
  『昔バイク乗り、かつて馬乗り、今ヨット乗り。杉野真紀子の投げ銭トークライブ』

 2024年9月29日(日)15時開場 15時30分より17時まで
  (終了後、同じ場所で2次会。20時頃まで)
   飲み物、食材、各自持ち寄り(調理はできません。ゴミは持ち帰りでお願いします)
 場所 スペースあや3階(東京都荒川区西尾久4-32-1)
 メール 
 参加費 500円プラス投げ銭(面白ければ会場にある箱にお金放り込んでください)
   *会場に椅子がないので座布団持参でお願いします
 話し手より「約20年前のバイク旅を思い出し、お話をします。Zoomなし、映像なし。来てくださった方とライブで作り上げるお話会です。一緒に冒険しましょう!」


私と同じ死生観を持つ伊沢正名さん

■登山が趣味なので、会ったことがない人でも山の事故、と聞くと心が痛む。8月10日に蓼科山荘に泊まった。小屋番に「最近この人がK2で亡くなったんですよ」と言われて見ると、壁に小屋の手ぬぐいがかかっていて、それには中島健郎の名前と2023年9月の日付がサインペンで書かれていた。約1年前にはここに泊まっていたのか……。ただただご冥福を祈るばかりである。

◆それから間もない8月下旬に、私の長年知る人の奥さんから手紙が届いた。昨年12月に伊豆の山へ単独日帰りで出かけたまま行方不明で、現在に至る、とのこと。手紙には、午後6時頃「道に迷ったが林道に戻ったので大丈夫」という連絡が入ったのに帰宅せず、5日間の警察の捜索にも関わらず、見つからなかった、ともあった。

◆山はよく登る人だったし、最後の言葉からして、何故遭難したのか、ともやもやした疑問が残る。ただ、私の近所の丹沢山系では、遭難者が亡くなってすぐに見つからないと、サルやクマなどの野生動物に食べられて、遺体は見つからない、と聞いたことがある。伊豆の場合でも同じであろう。知人の、すでに亡くなっていると思われる遭難は悲しいが、その死に方は私からしたら羨ましいとも思った。

◆山に、土に、自然に還ったのだ。他の生き物の糧となって。私はお墓は不要な主義だ。夫には常々、私が亡くなったら遺灰は近所の小鮎川に流せばいいよ、と言っている。本気である。だから自然な形で山中で死ぬことができたら願ったり、なのだ。

◆さて、そんな私の死生観と同じ考えを持っている、糞土師・伊沢正名さんも出演する映画『うんこと死体の復権』はぜひ観たいと、地元厚木のミニシアターkikiにリクエストしたらそれが通じ(kikiの案内パンフに「リクエスト上映」と書かれていた)、9月6日から上映されることとなった。ヤッター! 絶対観に行くぞー!

◆今年の夏も暑かったが、去年に引き続き、今年も日中はクーラーなしで過ごした。外が35℃以上でも、室内が若干それより低いので、あの手この手を使って何とか猛暑を乗り切った……、という感はあるが。主婦として家にいるときは、扇風機の風を浴び、頻繁に麦茶を飲む、が基本。それでも厳しく思う場合は、手ぬぐいに保冷剤を包んで首に巻いたり、時には額に巻いたり。カルピスをシロップとした手作りかき氷もしばしば昼食後のデザートにした。

◆近所の買い物には窓を開けて送風モードにした車(それでも車内はめちゃめちゃ暑い!)で出かけ、帰宅すると、ああ、家の中って涼しい! と自分を錯覚させたり。炎天下で庭の草むしりなどして家に入ると、やっぱり、家の中、涼しい!! さらに厳しい(頭の働きが鈍くなってきて、これはヤバいと自覚する)ときは、ぬるめのシャワーを浴び、頭は水シャワーで冷やすと平常に戻る。このシャワーを使う手は今年は1回で済んだが。

◆夜寝るときは網戸にしても30℃以下にならないと、そこはさすがにクーラーを使う。過去に扇風機だけで寝ようとして、結局寝苦しくて寝られなかった苦い経験を何度もしたので。今年は5日くらい使ったかな。夜間はクーラーを28℃設定、そして扇風機を併用。それでも背中に熱がこもり、寝苦しい場合もあるのだが、今年は新技を開発した。ほどよく濡らしたバスタオルを背中に敷くのだ。ヒンヤリ気持ちいい。熱がこもってきたら何となく体をずらすと扇風機に当たって気化熱で温度が下がるので、ヒンヤリバスタオルが復活するのだ。

◆では、明日9月7日から4日間の日程で、剱岳に夫婦で登ってきまーす。以前、別山尾根から登ったので、2回目となる今回は早月尾根から登ってきます。実は、10月には山岳ガイドの松原尚之さんと源次郎尾根ルート(上級者向けのバリエーションルート)で剱岳に登る計画もあったりします。[古山もんがぁ〜里美


先月号の発送請負人

■地平線通信544号は、さる8月21日、印刷、封入、発送しました。今回もベテラン揃いで18時には終了し、いつもの北京で餃子を始めおいしい料理とデザートの杏仁豆腐もしっかりいただきました。今回は長岡のり子さんお手製のあんパンの代わりに、のり子さんの出身地である北海道の木の葉のかたちの郷土菓子べこ餅の差し入れがありました。汗をかいてくれたのは以下の皆さんです。おつかれさまでした。

 車谷建太 中畑朋子 長岡竜介 伊藤里香 白根全 渡辺京子 落合大祐 秋葉純子 中嶋敦子 武田力 江本嘉伸


山田高司イラスト

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—— 連   載 ——
波間から

その12  魔の山—II

和田城志 

■平出和也、中島健郎ペアの遭難を聞いたとき、ついにやってしまったかと思った。K2西壁は最高難度の未踏岩壁である。そこをアルパインスタイルで直登しようというのだから、とんでもない計画である。アルピニズムにおける、正当なバリエーション主義の王道といえる。彼らのクライミングにはいつも心を揺さぶられてきた。大衆化するヒマラヤ登山の中にあって、彼らの登山は日本登山界唯一の希望であった。心から哀悼の意を表する。特に健郎君とは、NHKの山岳ドキュメンタリー番組の「幻の剱大滝」や「地球トラベラー」などで何度か会っていたので、大変ショックを受けている。

◆二人の目指したアルパインスタイルによる高峰バリエーションルートのさきがけは、ラインホルト・メスナー〈1944〜〉である。彼は、ヘルリッヒコッファー隊長率いる70年のルパール南壁中央側稜でヒマラヤデビューした。ナンガは、姿形も歴史的背景も正真正銘の魔の山であるが、彼らが先導した過激なバリエーション主義は、あらゆる山を「魔の山」に仕立てた。アルピニズムの精神「より高く、より困難」の本道をピュアに追求した。そして、限りなく遭難に傾斜していく。

◆ナンガにおけるヘルリッヒコッファーとメスナーの軌跡には、遠征観の違いがよく表れている。オーガナイザーとクライマーの違いだといえばそれまでだが、その執着心のもとになったのが、それぞれの兄弟の遭難死である。ヘルリッヒコッファーは17歳のときに、敬愛する兄メルクルを失った。メスナーは、70年の遠征で弟ギュンターを失った。

◆二人の確執は「赤い狼煙事件」から始まる。天気の予報を伝えるための信号で、ヘルリッヒコッファーが誤った狼煙を上げ、それがギュンター遭難の原因になったと考えたメスナーは、登山隊を提訴したが、逆に名誉棄損で訴えられて敗訴した。以後二人の交流は途絶えた。

◆メスナー兄弟のアタックには無理があった。BCの意向に反し独断でアタックしたように見える。結末は悲劇だった。ザイルを持たない二人は、仕方なく前人未到のディアミール側を下る羽目になる。そして、ギュンターは壁を下りきったところで雪崩に埋められてしまう。私は、86年にこのルートの第二登を目指したが、メルクル・リンネで岩雪崩のため追い返された。メスナー兄弟はここをノーザイルで突破している。7800mで着の身着のままでヴィバーク、まさに九死に一生の壮絶な退却行である。

◆ヘルリッヒコッファーはこのルート上の地名に、34年に死んだ3人の名前を付けている。ヴィーラント氷壁、ヴェルテェンバッハ・クーロアール、メルクル・リンネ、彼の執着心がよく表れている。今私たちは、このルートをメスナー・ルートと呼んでしまうが、ヘルリッヒコッファーは、著書『ナンガ・パルバット回想』(岡沢祐吉訳 ベースボール・マガジン社 1984年)の中で、「(メスナーは自分の著書の中で)人を迷わすように“メスナー・ルート”と言っている」と嫌味なコメントをしている。彼の気持ちは理解できる。彼の挑戦はその後も続く。ルパール南西稜、南東ピラー、未踏ルートを物色する。彼は、1953年以来、亡くなる1991年まで、ナンガだけで11回の遠征隊を組織している。

◆ヘルリッヒコッファーが亡くなってから、メスナーは彼の遺族と和解した。著書『裸の山——ナンガ・パルバート』(平井吉夫訳 山と溪谷社 2003年)で、封印されていた「赤い狼煙事件」について赤裸々に語っている。辛辣なヘルリッヒコッファー批判が続く。70年の遠征で頂上に立ったメスナー兄弟と第二次隊のペーター・シュルツ、フェリックス・クーエンのうち、生きのびたのはメスナーだけである。シュルツは帰国後モンブランのプトレイ山稜で墜死、クーエンは74年に自殺している。

◆2011年、この事件をテーマにして、メスナー監修のもと映画化された。『ヒマラヤ 運命の山』である。訳者平井はあとがきの中で、「メスナーも『裸の山』の本来の主人公はヘルリッヒコッファーだと述べたことがあります。おそらくその意味は、ヘルリッヒコッファーに代表されるドイツ・アルピニズムの英雄主義、戦友愛、同志的連帯、指導者原理、ひいてはナチス・イデオロギーに帰着する『ベルグ・カメラードシャフト』と決着をつけることだったと、私は解釈しています」と述べている。

◆南西稜は、76年にオーストリアの4人パーティによって軽やかに初登攀された。78年には、メスナーによってディアミール壁に単独新ルートが拓かれる。ヒマラヤ登山史上最高の登山である。このルートは70年に弟ギュンターと決死の下降をしたルートと重なる。このルートに挑んだメスナーの心情が手に取るようにわかる。彼は自分を総括しようとしている。人生を賭けていたのだ。

◆私は、彼がまさにディアミール壁に挑んでいるとき、その上を飛行機で飛んでいた。私はその年に、東カラコルムのゲントII(7343m)とネパールのランタン・リルン(7246m)の二つの初登頂をした。私は、窓から広大なナンガを見下ろしながら打ちのめされた。彼は同じ年にエヴェレストを人類で初めて無酸素で登頂し、80年にはエヴェレスト北面の新ルートを単独で登った。彼は私とは生きる世界が違うのだ。

◆メスナーは8000m峰14座を最初に完登した登山家である。いくつかのノーマルルート登山はあるが、基本的には無酸素、新ルート、アルパインスタイルである。二人目はポーランドのイエジ・ククチカ〈1948〜1989〉である。彼は史上最強の登山家である。すべての記録は新ルートか冬季の初登頂である。無酸素は当然である。彼が唯一ノーマルルートを登ったのは、79年のローチェ(8511m)である。彼は88年に14座完登をすませた後、89年にローチェ南壁で墜死した。記録の完璧を期すため、ノーマルルートが許せなかったのだろう。

◆三人目はスイスのエアハルト・ロレタン〈1959〜2011〉で、最初の山は82年のナンガ・パルバット、95年のカンチェンジュンガで14座を完登した。圧巻は86年のエヴェレスト北壁を40時間で登ったことだ。四人目はメキシコのカルロス・カルソリオ・ラレラ〈1962〜〉である。彼はククチカのザイルパートナーとしてヒマラヤにデビューした。最初の山は85年のナンガ・パルバット南東ピラーで、92年のカンチェンジュンガで14座完登となった。彼らは、後に続く8000m峰コレクターとは次元が違う。私は出遅れたが、ほとんど彼らと同時代に生きた。身の程知らずを承知しているが、彼らの末席に連なりたかった。

◆ヘルリッヒコッファーの四度の挑戦をはねのけた、ナンガ最後の難関ルート、ルパール南東ピラーがついに陥落した。登ったのは、ククチカ率いる85年のポーランド・メキシコ合同隊である。世界最難のルートの一つであろう。ククチカ隊も苦労している。ククチカの唯一の著書『MY VERTICAL WORLD——Climbing the 8000-metre peaks』(Hodder & Stoughton 1992年)の9章に詳しく書かれている。ククチカら4名のアタッカーは、C5(7500m)を出発し、急な氷雪壁にフィックスロープを張りながら進むが、頂上には届かず、稜線直下の雪洞でヴィバークを余儀なくされる。翌日7月13日午後1時、全員登頂する。下降では最年少のカルロスが衰弱し、濃いガスにまかれ、暗くなってようやくC5に帰着する、きわどいアタックだった。

◆私は1991年、このルートの第二登をねらって挑んだが、76日間の苦闘むなしく登頂できなかった。高度差4500m、気の休まるところのない、雪崩の博覧会のようなルートだった。私の隊は落石による骨折一人だけだったが、ククチカ隊は雪崩で一人亡くなっている。我々もククチカ隊と同じようなアタックだったが、ヴィバークを恐れて退却した。核心は越えていたのでもったいなかった。しかしこれは正解だった。その後悪天に見舞われ、風雪と雪崩の中、決死の下降を強いられた。生きた心地がしなかった。BCに下るまで5日間を要した。

◆ククチカ・ルートはまだ二登されていない。メスナー・ルートは、2005年に韓国隊によって二登された。同じ年にルパール南壁正面がアメリカのスティーブ・ハウス〈1970〜〉らによって登られた。2012年には長大なマゼノ山稜からの完全縦走がなされ、2016年には冬季初登頂もされた。もうバリエーションルートの時代は終わったのだろうか。

◆時代は登山の内容や数稼ぎからタイムレースに移っていく。英国グルカ旅団特殊部隊にかつて属していたネパール人、ニルマル・ピルジャは、2019年に6か月間で14座すべてを完登した。彼は、酸素を使いノーマルルートを登った。私は14座や競争には関心はない。人の行かないところへ行き、人のやらないことをやる、そういう登山家にあこがれてきた。アルピニストは、アスリートではなくアーティストであるべきだと信じている。

◆ナンガ・パルバットは、私にとっては魅惑の魔女、見果てぬあこがれの山である。臆病と実力不足が私の命を救ったといえるかもしれない。満たされてはいないが、悔やんでもいない。ナンガで死んだ者、ナンガ登頂の後、新たなナンガを求めてアルピニズムを追い求めた者、すぐれたアルピニストは遭難する運命にあるのか。平出、中島のペアは、K2という魔の山に魅せられた。魔の山は、ナンガ・パルバットの専売特許ではない、人の心の中に潜んでいるのだ。

  ——墓碑銘——
 風雪に打たれたあのころ
 氷の山のただ中で 熱い鼓動を響かせあった
 色彩はいらない それらは体の内に溢れていた
 灰色の氷河に積み重ねられた幾星霜……
 忍耐の夜のいくたび……
 そして すべては誘惑のかなたに去った
 雪は それらをおおい凍らせ 忘れさせるだろう
 静寂だけが 彼らのララバイ
 アルピニズムという墓碑銘のもと
 その魂は 万華鏡のきらめきで
 ゆっくりと脈を打ちつづける
 嘆くまい 悲しむまい
 やがてわれらも その墓碑に刻まれるのだから


地平線の森

『千の風になって——神尾重則遺稿集』

 神尾重則著 2024年8月12日 山と溪谷社刊 3000円+税
 四六判上製(本文544ページ、カラー口絵16ページ)

神尾重則さんの『千の風になって』

■書籍の校了ではいつも「やった感」よりも「やり残し感」のほうがつよく、後悔ばかりが先に立つ。時間とのせめぎあいの末に校了するのだから、達成感などかけらもなく、なんとか間に合わせたという体たらくである。そうはいっても、印刷会社に校了紙を手渡した2024年7月19日、神尾重則遺稿集『千の風になって』は難産の末にようやく私の手から放れていった。なんだか呆けたような不思議な感懐だけが残っている。

◆神尾さんは長年、地域医療に携わってきた医師であり、山とスキーをこよなく愛した旅人でもあった。科学者でありながら詩人の心を合わせもった表現者でもある。地平線会議のメンバーとして報告会にも何度か出席、報告者を務めたこともあった。

◆その神尾さんから2019年12月、突然、病院を休んで治療に専念しますという手紙が届いた。唐突な知らせに心底驚かされたが、躊躇しながらも電話をしてみると、「今回は無理ですが、治ったらまた山スキーに行きましょう」と、元気そうな声が返ってきた。ところが発病から8か月、楽しみにしていた息子さんの結婚式に出席した直後、病態が急変し、8月12日、足早に逝ってしまった。

◆「なんとか神尾さんの本を残したい」。その思いが、今回の遺稿集制作の出発点だった。本書にもあるように神尾さんは、なによりも本が好きで、しかも書くことが好きだった。私は1年に1度、彼の病院へ行って内視鏡による健康診断を受けていたのだが、問診が終わると決まって手渡してくれたのが印刷物になった神尾さんの原稿だった。かつては西多摩新聞の連載だったし、ここ数年は文化情報誌『EPTA』の記事だった。本が好きで、自ら原稿に著わすのを楽しんでいるようだった。

◆ところが、あれだけ元気だった神尾さんが、突然、闘病生活を強いられたのだ。しかも深刻な病である。それはまったく想定外のことであろうし、あまりの不条理な出来事に気持ちの整理などつかなかったはずだ。しかし、神尾さんは事態を受容し、科学者として冷静に対処しようと努めた。決して諦めることはなく、それでいて諦観できる人だった。今回、闘病中に書かれた原稿を読ませてもらって、つくづく神尾さんらしいと感心させられた。だからなおさら、ご自分が書かれた原稿を書籍に残さなければいけないと思った。

◆本書は、四六判、544ページの大冊である。カバーは、ヒマラヤ最奥の地ドルポの峠に舞うタルチョー(祈祷旗)。書籍の内容は、ガンを異形の山になぞらえた架空の登攀記を冒頭に、続いて「憧憬のドルポ」と題したいくつかの紀行、地平線通信に書かれた随想、「アンチエイジング」についての西多摩新聞の連載など、そして後半は自らのガンに対する考察と闘病記に俳句と短歌で締められている。

◆なかでも「憧憬のドルポ」は、神尾さんらしい「ヒマラヤの風」に関する記述がたびたび出てくる。風が吹きすさぶドルポの峠に立って、豊饒と荒漠が交差する世界、過去、現在、未来の輪廻が巡りめくその異界について多くの文章を残している。峠に舞うタルチョーは、天空を自由に飛び交う「チベットの風」の象徴でもあったのだろう。

◆また特筆すべきは、アンチエイジングに関する文章である。ひとつのテーマを1000文字で表現すること自体大変だと思うが、時に社会的な話題や季節の移ろいなどの調味料をまぶしながら起承転結をつけて文章にするのは並大抵のことではないだろう。ウィットに富んだ文体は、きちんとオチまでついている。51のテーマは、中高年読者には恰好のものであり、肩の凝らない軽い啓蒙書でもある。だから厚さを度外視して、なるべく多くを収録することにした。

◆私は編集者として、本の姿形に少しだけこだわりがある。書籍には手ごろなページ数と束幅があると考え、結果としてそれは持ちやすく読みやすい本に通じると思っている。一方で、編集者のわきまえとして「原稿を切る」ことをいつも教えられてきた。原稿は切られて整理されたものほど、テーマが明確になり読みやすくなる。しかし、原稿を「切る」ことはたやすいことではなく、時に困難や苦痛を伴う。

◆だが、今回の神尾さんの本は、こうした前提には目をつぶろうと考えた。あれだけ大量の原稿を残しているのだから、たとえ束幅が出て重くなっても、できるだけ切らずに残すことに決めたのだ。560ページの大冊になってしまったとしてもである。

◆編集に手をつけてみると、すぐに容易ではないことがわかった。後半の原稿はすべて執筆途中の未完成稿なのである。何台かのPCに分けて原稿を書かれていたようだし、その所在さえわからないことがあった。執筆途中で添削し、書き足された箇所も多いと聞く。何度、神尾さんに「ここはどうなっているんですか」と問いかけたかったことか。その思いは奥様、眞智子さんもまったく同様であろう。いや、彼女が超えなくてはいけないハードルは数段高かったはずだ。冷静に神尾さんの原稿が読めるようになるまで、実際、何年もかかっている。そうした彼女の全面的なバックアップがあって、やっと完成までこぎつけられたのである。

◆神尾さんの主要なテーマは、「生老病死」にあった。人の生き死にという重い課題に正面から向かい合っていた。最近のSNSやスマホによる情報発信だけが時代の先端だとしたら、なんと「いのち」そのものが「軽く」なっていることか——。神尾さんが綴ってきた原稿が、身をもってその大切さを提示してきたような気がするのである。[神長幹雄 編集者]


エモの目

「青春日記 〜中学生編〜」

  編集長が14歳から書き溜めた、私的記録をちょっとだけ掲載します

1956年9月17日(15歳)

◆全く寒くなった。今日はセーターで学校へ行った。つめえりの奴もだいぶいた。今…、足が冷たい。下が床なのでスリッパがないと駄目だ。この寒さであるが、さっきのペレス・ブラドオのマンボの心地いい事。(マンボなんか…)と思っていてもその強烈な音勢でダンタタ、ダンタタ、ウーッとやられると全く圧倒されてしまう、というより小気味が良い。3人の姉妹の歌う三重唱「慕情」と「ムーチョ・ムーチョ・ムーチョ」もよかった。良い声だった。マンボが見たくなった。

◆相撲の始まる前のNHK第2で「草むらの秋」という題の放送を聞いた。クモが巣をはる音や歩く音、トカゲがのどをならしている音等百万倍に拡大したというのだが、どんな機械だろう。草むらの鈴虫や松虫、エンマコオロギの鳴き声もあったが今もエンマコオロギの鳴き声がようく聞こえる。

1956年11月10日(16歳)

◆『木苺』《注:所属していた詩歌研究誌。文芸好きの高校の教師と生徒たちが同人》に短歌19首が載っているが、幼稚な歌だ。

 臓物は みなとびだして 斑なる
         蟇の死骸を 三度見し朝

等と安易に逃げている。同じ蛙でもAさん《文学好きのクラスメートの女生徒》のは

 幾百とも 知れぬ生命 抱いて死んでおり
         我らが裂きし 雌の蛙は

と、ぐっと内容が違う。生命力という溌剌とした(この場合は死んだ中に)力に溢れている。もっとも、僕のこの一首、

 黄葉せし 柿の葉に未だ 止まりたる
         皮なき蓑虫 なほも生くべし

は、多分にAさんのものと共通している。

歌は字数が決まっているので前から敬遠気味であったが、作り始めると実に面白い。その事を歌にする楽しさ自体もさることながらたまたま自分が俗(悪)に浸ってしまっても、すぐカクレ場所として、又、慰安場所として慰めてくれる。他人から離れることができる。

◆M先生《中学時代の女性国語教師》の夢を見た。音楽を臨時に教えてくれているところだった。僕には特別に親切にしてくれなかった。只、皆に親切で自分も愉しそうだった。とてもなつかしくなった。M先生とO先生《やはり女性国語教師》に『木苺』を送ろう。


今月の窓

今月の窓2024秋

 

■9月に入ったある日、横浜・大倉山の小さなカフェを訪れた。控えめに『服部小雪個展』の表示。小雪さん、ついに作品を発表する場を得たのだ。家族や生き物のなにげない日常が小雪さんらしいタッチで表現されていて見ていてあたたかい気持ちになった。夏の終わり、『建物彫刻 緒方敏明』という不思議な、いかにも本そのものが「作品」です、という雰囲気の重厚な書が届いた。地平線全員に贈るつもりでひっそり代表世話人の私に贈ってくれたのであろう。恒例の長野亮之介個展は10月末だ。猛暑の中で続く地平線芸術家たちの活躍がことしはとりわけまぶしい。[江本嘉伸

初めての個展をお気に入りのカフェで実現

■わたしが住む街に『ぽるく』(フィンランド語で小径という意味)という名の喫茶店がある。アートや音楽等、表現活動をしている人に発表の場を提供している店で、3週間ごとに展示が入れ替わる。初めてぽるくを訪れた日、年配の女性が描いた静物の水彩画を見た。丁寧に描かれた食卓の桃。楽しんで描いたことが伝わってくる。北欧風な店の雰囲気にも惹かれ、わたしもここで作品展を開かせてもらいたいと考えるようになった。

◆それから4年も経ってしまい、今年こそと心に決めて会期を決定した。頭の中で壮大なイメージを描いてそれがプレッシャーとなっていることに気づき、油絵を出品したいとか、大作を描きたいという意気込みをいったん脇に置いた。ここ数年、スケッチブックに描いた自分らしいと思える絵を出品しよう。

◆急に肩の力が抜けて、店に来る人に作品を楽しんでもらいたい、という思いがふくらんだ。店のグレーの壁に似合いそうな月夜の森のモビールを作ろう(家族にゴミ扱いされた)。張子で動物のお面も作りたい(やってみたが失敗した)。額装は外注するとお金がかかるから、家にある額を再利用すればいいんじゃないか(そんなに簡単じゃなかった)。毎日、金具を買いに走ったりモビールのパーツをつなげたり、やるべきことが数珠つながりにあることが不安でもあり、何にも変え難い幸せでもあった。

◆自分でも信じられないのだが、どうにか初めての個展が実現した。未熟な部分も含めて自分らしい展示ができたとホッとしている。作品10数点の他、8月に文庫化された『はっとりさんちの野性な毎日』のサイン本や、挿絵の原画も置かせていただいた。

◆お知らせが遅くなりましたがもし間に合えばぜひぽるくに散歩にお越しください。[服部小雪

 第58回ぽるくの小さな美術館「服部小雪展」

  会場 喫茶ぽるく
     横浜市港北区大倉山2-7-47-102
  会期 9月2日〜9月19日(8:00〜18:00)
     営業は月〜木(金土日はお休みなのでご注意ください)
     ※15日(日)、16日(月)は特別営業(10:00〜18:00)

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10月にまたまた個展やります

■米アラスカ州スキャグウェイの街角で日記がわりのノートにスケッチをした。ライラックとか郵便ポストを描いたその片隅に「一生絵を描いていたい」と書いた。農学部の学生だった1981年初夏のことだ。その真意は自分でも不明だが、26歳のときに成り行きでイラストレーターと名乗ることに。まだ出版・広告業界が元気な時代とはいえ、ヘボ絵描きにおいそれと仕事が来るほど甘くない。ヒマで自己崩壊しそうなとき、地平線通信のイラスト描きが、かろうじて絵描きの端くれと自覚させてくれた。

◆15年前から始めた個展も地平線会議仲間を初めとする友人達に支えられてきた。仕事では与えられたお題と枠をどう満たすか、技術やアイデアをひねり出す過程が面白いが、個展は内的なイメージを手探りする新鮮さがある。でも芸術家ではない僕にとっては、仲間達と一緒に作り、集う「場」としての意味も大きい。この10月後半にまた個展を開く予定だ。タイトルも未定。長い助走中です。[長野亮之介


京都で再確認した、緒方芸術家の魅力

■9月3日早朝、夜行バスを下りて久しぶりの京都の空気に触れる。出町柳駅から叡山電鉄一乗寺駅下車。地平線通信先月号で案内のあった恵文社書店で開催の『緒方敏明作品展 銀河講堂』初日に伺う。開店11時から閉店19時まで楽しい時間を過ごした本屋は、沿線に京都芸大はじめ大学がいくつもありふらっと入って来る若い人や外国人観光客など平日だが人の出入りが多い、広くて気持ちいい場所だった。作品集を制作して、この作品展を企画した和歌山県の僧侶、宇治田真宣さんと作品の撮影をした鈴木いつ子さん、芸大予備校時代からの旧友で栃木県在住の益子明宏さん等、緒方芸術家を支える皆さまに会うこともできて嬉しかった。

◆緒方芸術家と私は地平線報告会受付でご一緒するようになって10年くらいの友達付き合いだ。会っているときには大した話をしていないが、時々送ってくる文字が気になる。芸術家の本流といえるかもしれないが幸せそうでなく、いつも悩んでる。多くを語らなくても芸術家には作品がありそれが雄弁だ。この人を死なせてはいけないと思わせる。今回企画した宇治田さんもその不思議な魅力に取り憑かれた1人だ。

◆限定500部で発行した作品集は2020〜2022年の創作がメインで46点の作品を掲載した2年がかりの労作だ。通信の案内を見たときに、「いくらするの?」と緒方さんに訊ねたら「高額なので知らない方が良いと思います(笑)」と教えてくれなかったので、きっと何万円もするのだろうなぁ……と価格を見たら5,940円(税込)! 私にとってはたしかに安いとはいえないが、下に書いたようなこだわりの手間を考えたら破格の値段設定ではないだろうか。

◆表紙には作品を実物大で掲載する(たとえ本からはみ出ても)/表紙を蛇腹折りにする(宇治田さんが僧侶だからお経本のイメージ)/本自体が建物彫刻のような佇まい/小人目線で自分が小さな人になって建物を訪ねて覗いてるような写真撮影/作品に関連があると思える緒方さんの詩もいくつか掲載されている

◆この展示は「母との人生」と「これからの自分」の間に位置する「点」みたいな領域で「今」「此処」から人生スタートな感じだと言う私より1つ年上の67才の緒方芸術家にとって大切なものだ。もう次回の個展も決まっていて新作も作り出している。いつももう駄目だと言っているが実は体力があるのでは疑惑が浮上した(笑)。初日は一冊も売れなかったが、実際の作品にペンライトをかざして楽しんでくれた人が沢山いたから良しとして、次回展示を楽しみに京都の夜に祝杯をあげた。[高世泉

イラスト-3


あとがき

■10月から郵便料金が大幅に値上げされるという。地平線通信の発送に支障が出るのか、と大いに心配し、8月の報告会の最後、会場の参加者にも事情を説明し、万一の通信費の値上げについて相談した。しかし、あらためて郵便局に問い合わせると地平線会議の郵便物についてはとりあえず現状のままでいいらしい。

◆現在、地平線通信の発送は500部。「ゆうメール特約運賃」契約をしているので特別に安くなっている。そしてこのかたちの郵便物の値上げは今すぐにはないらしいのだ。ああ、よかった。また相談するかもしれませんが、そんな事情であるとお含みおきください。

◆北海道地平線をやる企画、10月にも私が現地に行ってみるつもりです。皆さんご協力ください。今回の通信でねこさんのスケッチに驚く。「大倉山まで行ったの?」と聞くと「喫茶店のインスタグラムと小雪さんのインスタグラムで雰囲気つかめないかと、さがしました」ですと。なるほど。間に合う人は是非大倉山へ。[江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

カメルーン西部のフシギな暦

  • 9月28日(土) 14:00〜16:30 500円
  • 於:新宿区榎町地域センター 4F多目的ホール

「市場がお金だけじゃない価値観で回っているのが面白くて」と言うのはアフリカ研究者の坂井真紀子さん(58)。西アフリカのカメルーン西部州で生活必需品の、一週8日間のカレンダーに着目。市場の立つ日や、伝統行事の開催も8日暦で巡ります。「世襲制の王様を中心に成り立つ首長領(chefferie/kingdom)という生活文化圏があちこちにあって、今も日常生活の根底をなしてる。市場も競争じゃなく共生の原理で動いてます」。

坂井さんは大学卒業後短い商社勤務を経てアフリカ放浪の旅へ。「アフリカでは生活劣等生。でも、たくましいおばちゃん達とおしゃべりするのが楽しくて」。アフリカへの思いは募り、帰国後環境NGO「緑のサヘル」に参加してチャド共和国に駐在。さらにアフリカ研究では先進的なパリ大学に留学して博士号を取得。現在は東京外語大学のアフリカ地域専攻教授となり、アフリカに通い続けています。

今月は坂井さんに、カメルーンの8日暦のヒミツをはじめ、チャド、タンザニアなどアフリカ世界の多様な魅力を語って頂きます!


地平線通信 545号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2024年9月11日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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