8月21日。37度、38度というとんでもない猛暑の日が続くが、きょうは曇りでほんの少しだが過ごしやすい。外を歩くと公園や通りのあちこちに百日紅(サルスベリ)の花がめげずに咲き誇っている。美しく、なんと強い花だ、と思う。
◆7月の通信を10日に出しているので今月は41日ぶりの通信だ。この間、時代は激しく動いた。7月27日、パキスタンにある世界第二の高峰、K2(8611メートル)西壁に挑んでいたクライマーの平出和也さん(45)中島健郎さん(39)の2人が標高約7550m地点で「滑落した」。遠くから動かなくなった2人は確認されたが、救助活動は打ち切られた。日本というより世界に知られる2人のクライマーの遭難。あの2人もついに……。
◆平出君と会ったのはTBSの「情熱大陸」に服部文祥が出たあと、谷口けい、服部文祥と荒木町の我が家にカレーを食べに来たときだったと思う。私は是非一度地平線で報告会を、とお願いしたが、そのときは日程で無理だった。そのうちにまた、という話がその後何度もあり、それこそ今年には、という感じだった。パキスタンという文化圏にも深い見識があり、地平線でなんとしても話してほしかった。
◆7月から8月、パリオリンピックの喧騒の陰でアメリカと日本でとてつもなく大きな政治のうねりが進行した。まず7月13日、ペンシルヴェニア州で開かれた支援集会でドナルド・トランプが銃撃されるという事件が起きた。耳をかすめた銃弾で出血したトランプは国旗を背に腕を振り上げ、「けして屈しない戦う政治家」の姿を強調、その瞬間の写真は秋の大統領選に決定的な勝利を保証するとみられた。
◆しかし、この後の民主党の対応は激しかった。「トランプに勝つのは自分しかいない」と秋の再戦を確信する82歳のバイデンを説得し続け、21日になってバイデンはついに秋の選挙からの撤退を表明、59歳の女性、ハリス副大統領が次期大統領候補となったのだ。バイデンの老いをさんざんからかっていたトランプ(78歳)にとっては寝耳に水の事態であったろう。それまでトランプが2、3%引き離していた激戦州の世論調査支持率はハリスリードに逆転しているという。
◆日本では岸田首相が突如、下りた。自民党を変えるにはまず自分が首相から降りること、と。わらわらと10人を超える議員が自民党総裁選に手をあげている。ここですこし不慣れなテーマで書かせてもらう。2022年7月、参院選挙の最中だった。自宅から武蔵小金井駅でバスを降りると1人の男性が数十人の聴衆にマイクで話しかけていた。幟(のぼり)も名前を書いたタスキもなく、ただ語るだけ。自由民主党候補青山繁晴ということはわかった。あとで調べてこの政治家は3人の公設秘書以外、後援会も後援会長も置かず、献金も受けず、政治資金パーティーも開かず、もちろんどの派閥にも属さず、という信条の下、「腐り切った自由民主党」を中から変えると叫び続けているということがわかった。
◆私と同じ新聞記者(彼は共同通信)だったということ、軍事、エネルギー安全保障についてのについての専門家であると知り、私はこの政治家に関心をもった。右翼路線であることは間違いなく、私の思考とは基本的に相入れないが、ひとりで活動する覚悟の良さは評価したい。そうして今回、実はもっとも早く総裁選に名乗りを上げた(なんと刊行したばかりの著書の巻末で)にもかかわらず、きょう21日現在メディアがまったく無視し続けているのであえて書いた。
◆8月17日は地平線会議の誕生日である。何度も繰り返してきた話だが、新たな読者もいることなので。1979年8月17日、荒木町の我が家に錚々たる面々が集まり、ほぼ徹夜で名前を考えた。「地球探検冒険機構」「地球をなめくじる会」「地球アメーバ集団」などなどいろいろな提案が出たが宮本千晴の「地平線という言葉を入れよう」との提言に皆が賛同、「地平線会議」という名前が決まった。冒険探検年報『地平線から』の制作、地平線報告会の開催とそれを伝える「はがき通信」、着信専用電話を利用した「地平線放送」が発足当初の3本柱だった。
◆年報の制作など全面的持ち出しシステムの中でよくも続けたものだ。しかし、年報制作のように体力、知力、そして多少の資金力が要求される作業はやはり力尽きた。情報という点ではインターネットの普及で紙にしなくてもいろいろなやり方がある。
◆きのう20日、山形県天童市の鷹匠、松原英俊さんからハガキが届いた。「12日から14日まで弟子の宗さんが千葉の実家に帰り、昨日夜の新幹線で山形に帰る予定が車内で爆睡してしまい、終点の新庄まで乗り過ごし、ビジネスホテルで一泊して帰ってきました。いろんな失敗やハプニングの連続ですが、見守り続けたいと思います」。わぁ、ほんとうに疲れていたのだろうな。弟子の宗萌美さん、この通信の「夏だより」にもしっかり登場してくれている。
◆はがき1枚もらうことの嬉しさ。地平線は当分紙を大事に歩いて行きたい。[江本嘉伸]
■「肩書をどうしようか迷うほど多彩な活動をされてきた方です」と紹介された白石ユリ子さん。とりあえずの肩書は、「ウーマンズフォーラム魚(WFF)」代表、「NPO海のくに・日本」理事長、「日本生活文化交流協会」創設者(会長)だが、いま力を入れているのは、後述する西アフリカでの活動だ。
◆白石ユリ子さんは、昭和8年12月に北海道で生れた。小6で終戦を迎え、思春期は混乱のなかだった。大学受験で上京するときは、旅館に泊めてもらうためにコメを背負って汽車に乗った。空襲がなかった北海道と比べ東京は酷かった。「新宿の三越や伊勢丹のあたりはグチャグチャ。西口は普通の人は行っちゃいけない『カスバ』です。だから、アフリカで仕事してても何ら気になりません。終戦時の日本の方がよっぽどひどかった」。
◆大学に入ると2年で学生結婚、すぐ子どもができた。夫は売れない画家で、卒業後、白石さんは4畳半で内職の日々となる。サラダ材料のジャガイモをふかし、洋服にボタンを縫い付け、デパートに卸す和菓子を作ってと多様な仕事を経験、「『内職の女王』と言われ、何でもトップでした」。
◆内職暮しが10年続いたころ、新聞広告で「主婦と生活社」の編集者募集を見て応募したら「明るい笑顔がよい」と採用に。世は五輪景気で出版の黄金時代、家計簿付き婦人雑誌が400万部も売れた。昭和43年前期のベストセラーは白石さん編集の手芸の本で、これで会社はビルが建ったと噂された。給料は破格で「少しお金持ちになった」そうだ。
◆「日本のために」本を出したいとの思いで、日本の伝統文化、生活文化を中心に企画をたてた。着物編集のセクションを作り、最後は着物辞典を出し「やりたいことは全部やって」1986年に退職。出版社にいたときにやり残した漁業を手掛けようと、日本の浜を行脚しはじめ、これまで3400か所を回った。全国を巡るうち白石さんは危機感を募らせていく。日本は世界で6番目に広い海に囲まれ、黒潮と親潮に恵まれて豊富な魚がいるのに、漁業も魚食文化も急激に衰退の一途をたどっている。海の国ニッポンはこれでいいのか!と「一人で腹を立て」、93年にWFFを立ち上げた。「『お国』がやらないんだったら私が」の心意気である。設立趣旨は「漁業者女性と消費者が一緒になって日本の食の未来を考える場をつくろう」。
◆白石さんと一心同体で活動をともにするのが、地平線会議ではおなじみの佐藤安紀子さん。97年12月の報告会で、「ニッポンの遠い海」と題してWFFでの活動を語っている。佐藤さんが白石さんを知ったのは出版社時代で、部下として働いていた。「とにかく、すごい上司でした。仕事にはとても厳しいけれど、何をしても判断が早いし、手早い」(佐藤さん)。
◆WFFは大車輪で動き出した。海から食卓にいたる関係者が一堂に会する「WFF全国シンポジウム」で政府に提言を行う一方、食卓の魚離れを食い止めようと、日本中の漁村と東京の消費者を結ぶ「浜のかあさんと語ろう会」を始める。2000年からはとくに子どもたちへの教育活動を強めていった。戦後急激に食文化が変わり、お母さんたちは出刃包丁を持たず一匹買いをしないから、子どもが魚の姿を見ない。「子どもが、魚を切り身の絵で描くというのはウソじゃないですからね」と白石さん。
◆小学校を訪ねては授業をさせてほしいと頼み、これまで東京の区立小1400校のうち800校で授業を行ってきた。「浜の母さん」の授業では、浜で獲れたばかりの新鮮な魚を、漁師の妻たちと生徒が一緒に料理しながら食べる。すると「浜に行ってみたい」との声があがり、漁村にホームステイする「海彦クラブ」を開始。さらに、離島を訪れて暮らしや環境、歴史を学ぶ「われは海の子」も発足。「やりたいことが出てくると、名前を変えてドンドン進めます」(白石さん)。次々にアイディアを形にしていった。
◆「お国」の惨状を救おうと、政治家や省庁にもしばしば政策提言をしてきたが、白石さんの憂国をよそに、現状は悪化の一途をたどっている。100万人いた漁師が今は13万人で高齢者ばかり。漁獲量は80年代の4分の1の300万トンに落ち込んでいる。水産物の輸入額は1兆8000億円(コロナ禍前)で輸出の3000億円と差し引き1兆5000億円の赤字。外に出て行くこのお金をなぜ日本の漁業の振興に使わないのか。「漁業を応援して魚を取ればいいと思うんだけど、このことがこの国にはどうしてもわからないようです。理由がわかりません」。ほとほと呆れたという表情で白石さんは言う。
◆WFFの活動が海外に広がるきっかけはクジラだった。白石さんの故郷、北海道の網走には捕鯨基地があってなじみがあり、戦後は毎日のように鯨を食べてきた。鯨肉は栄養にすぐれ、日本には1万年前からの豊かな鯨食文化がある。これを伝えなければと、白石さんは子どもたちに鯨を食べる機会をもうけ、絵本『クジラから世界がみえる』(06年)を作った。
◆1982年、IWC(国際捕鯨委員会)は商業捕鯨モラトリアムを可決、日本は調査捕鯨を行う時代に入っていた。商業捕鯨ができないのはおかしいと、白石さんはIWCに乗り込み、93年の京都会合から2018年のブラジル会合まで25年間、IWCの場で反捕鯨勢力と闘うことになる。IWC会合には多くの反捕鯨団体が押し寄せ、活発なキャンペーンを繰り広げるが、日本政府は何もしない。そこで日本から唯一参加のNGO、WFFが孤軍奮闘、政府に代わって表に立ち発信し続けた。
◆海の食料生産はサステナブルであり、漁業も捕鯨も日本の食料安全保障に必要不可欠なものだと白石さんは信じている。だから日本政府に頼まれなくても、手弁当で押しかけ応援しているのだ。
◆白石さんがIWCで重視したのは西アフリカ諸国。粘り強く日本の漁業、捕鯨についての立場を理解してもらい、多くの国が日本を支持し続けた。だが19年、日本はIWCを脱退、EEZ内に限定して大型鯨類の商業捕鯨を行っている。
◆鯨の話をしていた白石さん、ふと思いついて、「この会場のみなさんにおいしい鯨をごちそうしましょう」と言い出した。すぐに江本さんと握手し、「10月に、約束よ」で決まり。さすが、決断がはやい。
◆鯨がご縁で、白石さんはさらに遠くへと活動の場を広げる。IWCで懇意になった西アフリカ沿岸諸国から頼まれ、11年、漁村の女性のためのワークショップをはじめた。20年からはコートジボワールに通い、水産物を有効利用して、貧困にあえぐ漁村の女性たちの自立を支援するプロジェクトの指導に当たっている。
◆お金もお店もない女性たちは、魚を「借りて」路上に並べて売り、売り上げから借りた分を返して子どもを食べさせる、まさにその日暮らし。問題は、電気がなく魚の保存ができない、まだ食べられる部分が捨てられフードロスが多い、未加工で売るため売値が低いこと。白石さんは、日本伝統の魚のすり身に目をつけた。すり身は昔から、浜の母さんたちが、残った魚を無駄にせず、つみれやさつまあげにして利用してきた知恵の産物。煮沸した瓶に詰めれば3週間はもつ。さらに調理して付加価値をつければ、女性たちの収入源になる。
◆白石さんは、日本から大きなすり鉢を30個も現地に運び、すり身作りを実演。すり身でコロッケやハンバーグ、オムレツ、つみれ汁、たこ焼きなど様々な料理を作って試食会を開くと、その多彩さとおいしさに現地の人々は驚愕、「マダム・シライシは魔法使いだ」との声が上がったという。「すり身は、アフリカにとってはまったく新しい食べ方なんです。だから、とてもヒットしました」。白石さんのアイディアが現地にぴったりはまった。
◆すり身の研修プロジェクトは、50人が1週間ですり身づくりからすり身料理のマーケティングまでを実習する。ただ、事情は日本と違い過ぎた。まず、受講生の女性たちは交通費がないうえ、商売を休むとその日の食にも困るので、急遽日当を払うことに。識字率が1割と低く、名前も書けないので、朝8時から9時に無料で識字教室を開いた。また子どもを何人も連れてくるので、託児所を作り子どもにも食事を出すよう手配した。こうした出費はいつも白石さんの持ち出しになる。大変そうだが、白石さんは苦にならないらしい。「いろんなことが起きてるけど、全部計算済みだから。乗り越えるだけですよ」。
◆最後の勉強はマーケティング。まず5人のグループで、字の書ける人は字を、絵の描ける人は絵をと協力してポスターを作る。自分たちで作ったすり身のハンバーグやコロッケを持って街頭に出る。ポスターを見せ、魚は健康によいなどと説明しながらセールスするとすぐに完売、最後はいつも笑顔で喜び合うという。
◆研修の圧巻は修了式。たった1週間の授業なのだが立派な修了証書を手渡す。学校に行ったことも、社会に評価されたこともなかった女性たちは、修了証書を手に「生きててよかった」とうれし涙にくれる。修了生に抱きつかれる白石さんも、もらい泣きしてしまう。ある女性は「自分を誇れる証明書をもらったのは初めて。神棚に飾って一生の宝物にします。ママ(白石さんのこと)ありがとう」と感謝の気持ちを書いた。「こういうものを(生徒の)手元に置いてあげることでプロジェクトが続いていく」と白石さん。ママは女性たちの心をしっかりつかんでいる。
◆2021年に20人のリーダー研修から始まり、去年までで研修生は500人を超えた。経験を積んだ10人は、新人を教えられるまでになった。日本の外務省の支援で調理室や託児所のある「すり身センター」、「すり身加工場」が建設され、プロジェクトは国家的に注目される存在になってきた。昨年4月にはコートジボワール大統領から白石さんに農事功労勲章が授与されている。“SURIMI”という言葉が現地に定着しはじめ、社会が変化する兆しが見える。
◆白石さんは、年間100日前後はコートジボワールに滞在。この8月6日、11回目の現地訪問に出発した。今回は9月下旬まで滞在予定で、新しい施設、「女性と子どもの館(識字教育センター)」の開所式にも立ち会う。「これから女性たちのすり身レストランも開きたいし、やりたいことがいっぱいあるの。あと10年はがんばらなきゃ」。御年90歳のママの熱意とエネルギーは尽きない。
◆コートジボワールでの活動はすばらしいし応援したい。ただ、編集者時代から「日本のため」になりたいとの熱い思いで走ってきた白石さんが、いまなぜアフリカなのか。白石さんは現地から「受け取るものは彼女たちの成長ですよ。教えたことがみんな身について、それを利用して、もう嬉々としてやってるの。これ以上の喜びはありませんよ」という。佐藤さんになぜアフリカなのかを尋ねると「やりがいですね。現地がどんどん動いていくんですから」とのこと。
◆一方、「日本は、水産分野に限っては30年間、まったく動かなかった。WFFが別の視点から意見を言えば、聞かない、悪口を言われる、という世界です。漁業人口減、漁獲量減、子どもも大人も魚を食べなくなった。危機だからこそ果敢に挑戦すべきなのに、なかなか動こうとしません」と佐藤さんは残念そうに言う。
◆白石さんがうねりを起して作り変えていくアフリカの漁村の向こうに、この類まれな愛国者の片思いを受け止められない私たちの島国がかすんでいく。日本の凋落が止まない理由が見えてきた。[高世仁]
イラスト ねこ
■地平線会議の報告会へ出かけ旧知の方々、昔からおつきあいのあった皆さまにお目にかかったようで、まったく違和感なくお話をさせていただき本当に幸せでした。私のやってきたことは、私なりの冒険旅行です。すべて自分自身で考えて行動をするうちに、体中から熱い血が流れだして、さらに前へ進まずにはいられない。無謀といわれても、興味を持ったところから逃れられない、飛び込んでいかねばならないと突き進んでしまうのが私の生き方。座右の銘は「挑戦は人生の一部」であり、挑戦こそ人生だと信じて生きてきました。
◆思い返せば、子どものときから学生時代、今にいたるまでずっと同じ、ひとつの流れです。流れが緩やかなときもあれば急激なときもありますが、私の人生にはずっと「挑戦しなければ」という熱情が湧いています。戦前、戦後という日本の激動の時代に生を受け、挑戦せずにはいられない人やものごとに数多く出会えたことが、私に人生の味わいを教えてくれました。今日、8月10日はアフリカで夏のすり身ワークショップを始めるところ。3日前、アビジャンの空港に降り立ったとき、ああ帰ってきたんだと実感する自分がいて、そのことがしみじみとうれしく感じられました。
◆お話を聞いてくださったお一人、お一人にまたお会いしたいと「クジラを食べる会」を自分から提案してしまいました。皆さまにもう一度、お会いしたいと思っています。本当に楽しい一日で、今季一番の喜びでした。ありがとうございました。[白石ユリ子]
■「知らなかった、では済まされない」。30年前、白石ユリ子さんは日本の漁業の現状に対して、これは自分がやるべきテーマだと思い立ち、どうしたら皆を巻き込めるかと考えたとき、このフレーズを創出しました。世間が気づいていないことをいかに広く伝えるか。日本漁業の問題は、漁業界だけではなく消費者ひとりひとりにとっても食卓の問題、大切な食料の問題なのだ、という空気感を広く共有できないと解決できない、多く人に自分に関わることだと気づいてもらおうと考えた言葉でした。白石さんはいつも出会った問題、課題を世の中へ伝えるキャッチコピーで持てる能力全開にして取り組みます。そして「切り口を女性にしよう」。漁業界は当時、漁村も流通も行政も研究者もすべて男社会で、食卓側の顔がまったく見えなかったことから、漁村と首都圏の女性たちに声をかけてシンポジウムを開催。タイトルは「ウーマンズフォーラム魚」。それがそのまま、活動名になりました。シンポジウムのテーマは「お魚から地球が見える」。
◆この活動のスタート時は、本当にすさまじいものでした。漁業界という、それまでまったく関わりのなかった業界に対して、当初はジャーナリストとして切り込み、既存の媒体に書き続けたものの、書くだけではまったく何も変わらない。ならば自分でと「浜のかあさんと語ろう会」を開催したり情報誌を発行。漁業界を良くしたい、流通を変えたい、後継者が育つ漁村にしたい、末永く美味しい魚を食べ続けたい、海の環境を守りたいと考える人たちのネットワーク化をはかるために日本中を歩く歩く歩く。なんといっても日本の漁村は全国に6000か所あり多種多様。5キロ離れていれば魚の食べ方が違うというくらい、多様な漁業と魚食文化をもつ日本列島。それが維持され、日本中がその価値を理解することを願いながら、白石さんは漁業界にのめりこんでいきました。そして、漁業界だけでは解決できない、これは国民運動にしなければと考えて「ウーマンズフォーラム魚」、こどものころからの海と魚教育こそ国民が漁業を大切に考える原点となる、海が日本の将来を決めるとの信念から「NPO海のくに・日本」という活動母体をつくりました。
◆海は世界とつながっていることから、活動は世界へと広がり、いまはアフリカで年の半分近くを過ごしていますが、白石さんの原点は同じ、漁業と魚食文化をいかに良くするか、にあります。それは、魚という食料が人間にとって栄養面でも精神面でも大切であるという信念からですが、もう一つ、その土地、その社会における「海の人類学」がものすごく興味深いことも、ここまで走ってきた大きな動機になっていると思います。白石さんは、漁業界への挑戦をとおして、自ら気づかないうちに「海の人類学者」となり、魚をとおしてみえてきた社会の奥深さ、不思議さ、楽しさを記録したい、広く伝えたいと歩きつづけています。白石さんの地平線報告会を聞いて、ずっと側で見てきた私自身、学生時代に学んだ人類学を実地に体験してきた30年だったんだ、とあらためて思い至る3時間でした。[佐藤安紀子]
■下記は現時点で、9月1週目までは上映確定、もしくはそれ以降に日程が決まっている関東圏の劇場です。多くの方に見ていただきたくよろしくお願いします。[ネツゲン 前田亜紀]
◆東京
ポレポレ東中野 上映中(電話 03-3371-0088)
青梅・シネマネコ 9/13 〜 10/3
◆神奈川
川崎市アートセンター 8/24 〜 9/6
あつぎのえいがかんkiki 9/6 〜
横浜シネマリン 9/14 〜
◆群馬
シネマテークたかさき 9/6 〜
■2002年、飛田和夫とキンヤン・キッシュ西稜の偵察に行くパキスタン航空(PIA)機が北京でトランジットしたとき「どこへいくんですか?」と緊張した声で後ろの座席から声をかけてきた若者がいた。それが平出和也だった。それが縁で翌年は我々の隊のメンバーとなり、2022年までは彼の登山の留守本部をすることになった。留守本部は降りたが、今回は6月26日にスカルドから日本隊の事故の件で電話があり、それが声を聞いた最後だった。そして、事故当日の朝もインリーチ(衛星電話)から二度メッセージが届いた……。
◆このたびの彼らの事故に関しては巷では登山界だけではなく、いわゆる「有名人」が自分なりの事故原因の分析とやらでにぎやかだとか。SNSでもいろいろな人がいろいろなことを発信している(らしい)。実力以上のことに手を出したとか、高所順応できなかったのだろうとか、企業の後押しという足枷に無理をしたせいだとか、いろいろいわれているらしいが、いずれにしても最終決断をしたのは「自分たち」。どんなしがらみや足枷があっても、最終決断を下すのは自分である。二人もそうしたと信じている。自分が決めたことの結果が自分に還るのだということを一番よくわかっていたのは本人たちのはず……。登山ではその読み違いは生死に直結する、自分たちの技術的な問題の他に自然状況に起因する危険もある。そこが一般のスポーツとの違いであろう。
◆地平線会議のメンバーには「冒険家」といわれる人が多々いるが、その方々に聞いてみたい。「自分の行動にミスがあったときに、心理的な縛りがあったからと、そのせいにするか」と。かつて故・阿部雅龍氏と呑んでいたときに企業の後押しについて話したことがある。「高額なカンパをもらったときに『ありがとう』と笑顔でそれをもらいながら裏で舌を出せるか、アンタは顔に出るからそんなことをしないで済む登山だけにしなさい」。私がある人に言われたことを話すと、雅龍氏は「俺はできる」と笑っていた。「自分の目標があって、半端じゃない費用がいる、そんなときには『俺は男芸者だ』と自分に納得させる」「それも自分の夢の実現には必要なことであれば」。
◆平出・中島の事故原因は私にはわからない、ただ、彼らが自分たちの判断であの場所まで到達して滑落したという事実だけは信じたい。谷口けいが逝ったとき、私は挑戦者として生を終えた彼女を理解してあげたいと綴った。このたびの平出たちにも同じ言葉を送りたい、最後まで己のステップアップを試みた「挑戦者」だったと。ご家族それに沢山の友人や世間に大変な迷惑と衝撃と悲しみを与えたけれど、事故そのものを登山界を含む一般社会に非難されたとしても、彼等を理解してあげたいと心底思う。今はただ、二人の魂の安らかなることと、遺されたご家族の今後を想う。[寺沢玲子]
■激しく登っている山仲間の死に驚くことはない。「そうか、こういう順番か」と寂しさと空しさに包まれるだけである。かといって「自分に何かできるのか(できたのか)」と自分に問えば、できること(できたこと)はなにもない。ただ彼らの行動に敬意を表し、二人を失ったこれからの世界が少しつまらなくなったことを残念に思うだけである。
◆もっと正直に本心を探れば、いのちを落とすほど登山に自身を捧げることができた彼らが、ほんの少しうらやましくもある。そしてこの先はもう、すごいラインを登る平出和也君と中島健郎君に羨望と嫉妬を感じなくてすむ、ということにごくごくわずかながら心のどこかで安堵している自分がいるのも(正直すぎて格好悪いが)本当のところである。
◆健郎君はいっしょに登ったことはない。少し話をしたり、原稿を依頼した程度である。すごい登山をしているにもかかわらず、いつも穏やかな好青年だった。
◆平出君は2010年の情熱大陸の取材で、長期のサバイバル登山を2回共にした。取材中に私が南アルプス聖沢の滝で20メートルほど落ちて、大ケガをし、二日かけて下山したが、いっしょに登っていたのが平出君でなければ、生きて帰ってきていないかもしれない。そのことに関して、実は二人で事故直後に意見を交わした。「服部さんなら一人でもなんとか下山できたでしょ」と平出君は言ってくれたが、「ビバークしたすぐ上の小滝はどうやって登るんだよ?」と私は返した。「なんとか登るでしょ」と平出君はそれでも笑っていた。
◆2回の取材山行以外に1回だけ、GWの白馬岳(柳又谷源頭)をいっしょにスキーで滑ったことがある。ちょうど白馬で大量遭難があった2012年で、その遭難を引き起こした吹雪のなかを我々(平出、服部、山スキー同人シーハイルの堀米修平)も白馬岳を目指して雪倉岳付近を登っていた。猿倉に車が停めてあるので、どうしても白馬岳を越えなくてはならなかったからである。
◆シール歩行もままならないほどの猛吹雪のなか私以外の二人は黙々と登っていくので、彼らにはこの程度の悪天は何でもないのだな、と舌を巻いた。まったく同じことを他の二人も考えていたことが30秒後に発覚し、ひととき三人で笑ったあと、進路を変更し、蓮華温泉に滑り込んだ。長野県出身の平出君はアルパインクライマーにも関わらずスキーが上手かった。その発見に驚いている私に「サバイバル登山家はスキーもできるんですね」とお世辞が返ってきた。
◆いやはや、そんな思い出を追悼としてこんなところに書いているこの状況がただただやるせない。[服部文祥]
■先月の通信でお知らせして以降、通信費を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら江本宛メールください。通信の感想、近況など短く付記してくだされば嬉しいです。なお、先月のこの欄でお知らせしました通り、郵便料金の大幅値上げが年内にもありそうです。地平線会議にとっては重大な事態なので対処法を考えます。ご注目、ご協力ください。
高橋千鶴子 古山里美・隆行(5/20〜7/12まで長野道・岡谷JCT近くの工事現場で警備のしごとをしてました。神奈川在住なので、現地泊まり込みです。今は本業の主婦業に戻り、7/27からは夫と夏休みで北海道に行ってきまーす!) 田口哲男(先月はありがとうございました。通信、楽しく読ませていただきました。これからも宜しく御願いいたします) 長塚進吉 佐々木陽子 豊田和司(3000円 通信費1年分と寄付でございます。よろしく御願い致します) 大村憲彦(10000円 通信費と寄付です。那須雪崩の判決にショック 大西浩先生の遭難にもショック。気持ちを落ちつけて先生の思いを未来につなげるようによく考え意見交換したい) 永田真知子 児玉文暁(10000円)
■地平線通信543号(2024年7月号)はさる7月10日印刷、発送しました。7月号も22ページの大部となりましたが、精鋭たちの職人技ともいえる印刷・発送作業のおかげで18時には終了しました。作業後、いつもの北京で懇談しましたが、この日は白根全さんの誕生日ということで、デザートの杏仁豆腐を大盛りにしてくれました。長岡のり子さんは求肥入りのあんパンを作ってきてくれました。いつもありがとう。みなさん、おつかれさまでした。駆け付けてくれたのは、以下のみなさんです。最後の人は作業には間に合わず北京からの参加でした。
車谷建太 中畑朋子 伊藤里香 中嶋敦子 渡辺京子 高世泉 長岡のり子 白根全 武田力 落合大祐 秋葉純子 江本嘉伸
■夫・神尾重則が悠久の旅へと旅立ってから4度目のたけなわの夏がやってきました。今(執筆現在)、世界はパリオリンピックの真っ只中。東京オリンピックが延期になって、パリは二人で一緒に観戦に行こうねと、楽しみにしていたので、本来なら今頃は観光を兼ねて夫婦でパリにいるハズでありました。しかし“千の風になった夫”は、私をおいて一人パリに飛び、先ずはサッカー日本戦を声をあげて応援していることでしょう。
◆夫はサッカーワールドカップが終わるたびに日本代表の闘いに対するその熱い想いと私見について、地平線通信に健筆を振るわせていただきました。夫は自身がドクターとして顧問を務めていた「日本山岳耐久レース長谷川恒夫カップ」に何度か参加された江本嘉伸氏とのご縁で、地平線通信に執筆と報告会の機会をたびたびいただくことになりました。
◆NPO法人EWSのドルポ・ティンギュー村への医療と教育支援のためにたびたびドルポを訪れていた夫は、そのドルポへの想いと現状を2005年『青罌粟(ブルーポピー)の彼方へ』、2017年『祈りとワクチン〜生老病死を巡る旅〜』という題で地平線報告会で話をさせていただきました。忙しい仕事の合間にいそいそと目を輝かせながらその準備をやっていた姿は昨日のように思い出されます。講演の機会を与えていただいた江本さんには感謝の念に堪えません。
◆夫は50才から興味を持ち始めたテレマークスキーが晩年は一番の楽しみで、その技術を極めようと鍛錬に励んでいました。地平線会議の大先輩である三輪主彦さまには湯沢や鳥海山もご一緒していただいてとても楽しんでおりました。
◆飽くなき探究心とロマンを持ち続けた夫が、不条理とも言える天からの試練と闘いながら書き残した原稿と地平線通信も含む既存の執筆原稿をまとめた著書『千の風になって』が、スキー仲間である山と渓谷社の元編集長の神長幹雄さまのご尽力で上梓されました。ご関心がおありの方はお手にとっていただければ夫も喜ぶことと思います。
◆自由でおおらかな少年のような心を持った夫は、今は自由に青冥(セイメイ)を吹き渡っていることでしょう。[たけなわの夏 文月に記す 神尾眞智子]
■鷹匠の松原英俊さん(山形県天童市)に弟子入りしてから8キロ離れた果樹園までサクランボやモモの収穫のアルバイトに自転車で通っています。途中の道ではサルの群れやイノシシの親子に出会ったり、ムシを捕まえたり、と動物たちとの出会いを楽しんでいます。その中でも私が一番会いたいのは野生のクマタカ。小学生のとき鷹匠になりたいと思って以来の夢です。
◆梅雨の晴れ間の7月13日、師匠が長年観察してきた月山中腹のクマタカの生息地に連れていってもらいました。杉やブナの森をぬけ、ひどいヤブを漕いで周囲の山がよく見渡せる尾根近くの斜面に陣取りました。誰もいない山の中は静かで体にこもった熱をそよ風が拭い去っていくのが心地よくウトウトしはじめてきたころ、「出た!!」。師匠が突然叫び、慌てて上空を見ると1羽のクマタカが東の尾根に向かって滑翔していくのが見えました。そしてあっという間に森のかげに消え去ったのですが、初めて野生のクマタカを見た興奮と感動でしばらくはドキドキが止まりませんでした。
◆月山で体験した忘れられない夏の1日、さらなる野生を求めて私は歩いていきます。[宗萌美]
★ハガキに鉛筆でぎっしり、でも丁寧な字で。
■令和6年7月8日、第二子となる女の子を出産しました。出産時に看護学生の見学申し入れを受け、快諾したため教員含め4人のギャラリーが。そばでお産の経過説明や私の質問にも応えてもらえとても勉強になるお産でした。特に感動したのはへその緒。産んだ後胎盤を見せてもらったところ、「ほら、ちゃんと血管三本ありますよ」と。へその緒にはたくさん血管が通っていると思っていたため驚き。母親から胎児に流れる血管は一本のみで胎児から戻る血管が二本なのだそう。予備の血管もなく生命線一本で母と子が繋がっていることに感動。入院中も毎日産後の経過観察に実習生一同が来て、私も一緒に産後の経過を学びました。
◆子宮は非常にタフでよくできた臓器で、出産時の子宮の長さと幅は平時の約6倍。重さは約20倍、容積は2000〜2500倍にもなります。たしかに臨月時は約3kgの胎児に約500gの胎盤、羊水をお腹に入れているので納得。また、その容積の変化は筋肉細胞が伸びる(子宮壁の厚みを薄くする)ことで対応していて、一部細胞分裂はあるものの細胞を増やして大きくしているのではないとの話。産後の子宮はブヨブヨになっていると思っていたのですが、実際は産後元の厚みに戻るよう子宮筋肉が収縮し(子宮復古という)元の厚み、大きさに戻っていくそう。私にはまたまた目から鱗。生き物の体は本当に良くできています。
◆嬉しいことに今回の学生3人のうち2人が私のお産に立ち会ったことで助産師を目指そうと決心し、立ち合ったその日に学校に戻り助産師希望の旨を学校に申し入れてきたとのこと。私にとってもとても嬉しい出来事でした。また報告会に参加できる日を楽しみにこれから長い育児に励みます。[うめ 日置梓]
■7月13日、夏の暑い日、小学5年生の息子と白山(2702m)へ向かった。昨年登れなかった山頂を目指す1泊2日のテント泊登山だ。
◆初日は登山口の別当出合から大好きなテン場がある南竜ヶ馬場まで目指す標高差800m、3時間半の道のりだ。登山口から50分ほど歩いた先にある休憩地点の中飯場、そしてその先の甚之助避難小屋と、休憩らしき休憩をとらずどんどん前へ進む。心配していたのは甚之助避難小屋を過ぎた先にある分岐地点だ。
◆ここは急登が続き、今までの疲労も重なりキツさを感じる場所だ。昨年ここで息子は「つらい」と言って、涙でじんわりと頬を濡らしながら登った。果たして今年の息子はどうだろうか。なんと疲れたそぶりも見せずにグイグイと登り進んでいくではないか。しかも寝不足でバテた父のザック(12kg)を背負って(言い訳すると試しに私のザックを背負わせたところそのままテン場までの登り1時間を歩き通した)。その成長ぶりに思わず頼もしさを感じた。テン場では登山道脇に残る雪渓で、夏の雪遊びを楽しんだ。
◆2日目、雨と強風の中、山頂へたどり着く。下山路でのバケツをひっくり返したような大雨の中、ずぶ濡れになりながらも息子は13時間行動(うち歩き10時間)を歩き通した。そしてようやくたどり着いたゴール地点の登山口で「楽しかった」と笑顔。「キツかった分、山頂に着いたときに達成感がすごくあった」とのこと。まだまだ幼いと思っていた息子だが、驚異的な体力と忍耐強さだ。甘えん坊だと思っていた息子の新たな一面を知ることができた夏の二人旅だった。[塚本昌晃]
■6月、5年ぶりに 東北タイ、スリン県にある〈森を愛する自然学校〉を訪ねました。1990年代ダム開発に伴う森林伐採の反対運動で出会ったカップルが、田舎の集落に飛び込んでつくった小さな学校で、長く国際交流活動で協働してきました。20数年前、村の共有林だと紹介されたささやかである意味貧相な林が、その10年後に訪れたときにみごと森になっているのに仰天。そして、今回は敷地内の竹でつくったコテコテ手作りのキャノピーウォーク(樹幹トレイル)が数百メートルできていました。いやはやすごい。モデル共有林と指定され、他の地域の森づくりにもかかわりはじめ、深刻な森林伐採に憤っていた彼らの創造的な森づくりの取り組みにふれ、力をもらった夏です。[三好直子]
■こんにちは。海風の吹く指宿山川も猛暑で、水分補給に余念がありません。南海トラフが心配された8日の地震。自宅にいたのですが、今まで味わったことのない強い揺れに驚きました。その数日前から桜島の大きな噴火が数回あり、何かつながりが、あったのでしょうか。姉蓉子は、千葉での地震を思い出したとのこと。でもともかくも被害もなくほっとしています。平穏で、小さな幸せを感じられる毎日であるといいなと思っています。
◆おととし、菊子が運転する車のもらい事故で、後部座席にいた蓉子が負傷。担当医師の不手際から2か月後に慢性硬膜下出血で手足が麻痺し、意識朦朧となりました。緊急手術で助かりましたが、昨年は、貧血でぶっ倒れて、また入院。事故以来、右膝はつけず悔しい思いをしながら、今もいくつかの科に通院していますが、元気に過ごしています。先月頭には、二人仲良く新型コロナを貰い、さすがにきつかったです。
◆15歳を過ぎたさくらは聞こえなくなった耳、白内障が進みつつある目とすっかり老犬ですが、元気です。二人の楽しみで始めた「カフェ紫苑」も土、日、月の3日だけの営業ですが、休んでばかり。儲けはありませんが、好きなことをして、皆様に喜んでいただき、幸せな日々を送っています。まだまだ猛暑が続きます。どうぞ、ご自愛ください。[鹿児島県指宿 野元菊子・中橋蓉子]
■地平線通信6月号11ページの「むしろ一種の冒険では」と題した宗萌美さんの文章に惹きつけられた。何年か前にテレビで山形の鷹匠に弟子入りした女子高生をめぐるドキュメントを見る機会があった。鷹と人間の信頼関係を築き、雪深い山を分け入り猟をする姿、そして弟子入りした女子高校生の勇気と決意に感動したが、なんと通信にその当人が書いているのである。
◆彼女の文章の中に「猫肉をフライパンで炒めて食べた」と、あったが、驚きだった。私は信州の岐阜県境の山間の村、南木曽町というところで生まれ、結婚を機に松本に移るまで鉄砲を持ち狩猟もしていた。タヌキ、ムジナなど仕留めて食ったことはあるが、さすが猫には手は出さなかった。宗さんは当然、鷹のために保存してあった死亡した猫を食したのだが、その行為に私は敬意を表する。そんな感想を知り合ったばかりの江本さんに話したところ、是非通信に書いて、と。
◆私は多くの投稿者の皆さんと違い、冒険家でも探検家でも登山家でもない。ただの釣り好きの高齢者である。しかも、「鮎の友釣り」一本に絞った釣りバカである。鮎の友釣りを始めて30年ほどになる。それまでは木曽や乗鞍などの渓流をフィールドとするイワナ釣りに没頭していた。それが長兄から鮎に手を出してみないかと言われ、即ハマリ込んだ。
◆鮎の友釣りは江戸時代からと言われている。そして世界でも類を見ない釣魚法である。縄張り意識の強い鮎の習性を利用した釣りである。その発祥は京都を流れる桂川、いや伊豆を流れる狩野川だと東西で論争があるが、私にとってそれはどうでもいい。
◆開高健さんが、こんな言葉を紹介してくれている。「一日幸せになりたかったら酒を飲め、1年幸せになりたかったら綺麗な女に恋をしろ、10年幸せになりたかったら惚れた女を娶れ、一生幸せになりたかったら釣りをしろ」。中国の諺らしいが、そういえば私の家の神棚には二人の老人が釣りをしている置物がある。
◆「地平線通信」、私にとって楽しい読み物である。地平線の向こうに何がある……。江本さん、そして投稿者の皆さんに感謝です。[田口哲男]
■一昨日、ぽにょが17年の天寿をまっとうし、ごんのところに旅立ちました。誰もに愛されるわんこでした。ぽにょがいなくなり寂しくてたまりませんが、旧盆を前に忙しく気が紛れている状況です。
◆18日がウークイといってご先祖様を送る日で、青年会がエイサーを踊ります。私は今年も三線をつとめます。毎夜二時間練習しています。比嘉のエイサーは、仏壇がある家全戸をエイサーが入り踊って周ります。これは揺るぎない比嘉の伝統です。ウークイの日は満月の明かりに照らされて、子供たちも手踊りで参加して夜遅くまで集落を周ります。いつもはひとけのない集落は盆になると親戚子供たち孫たちが集まってにぎやか。みんな笑顔でご馳走や飲み物を用意してエイサー隊を迎えてくれます。
◆エイサーが終わり、ご先祖様を送り出した後は、煌々と満月が集落を照らし、夜遅くまで人の話し声が響き、なんともいえない夜です。今年はぽにょがまっすぐごんのところへ行けるように、声を張り上げるつもりです。[浜比嘉島 外間晴美]
■先月、Yoga of the Voice のリトリートで、カリフォルニア州サンタクルーズにある山に籠ってきた。その学びそのものの話はさておき、ここでは、その会場の敷地内にあったチベット寺のお話を。
◆静かな山の中にひっそりと建てられたそのお寺は、まだ建立半ば。作業途中の漆喰の跡も生々しく、仏舎利塔を飾る曼荼羅のブッダは金色に輝いていた。そこを訪ねたとき、ふと思った。なぜこのカリフォルニアの山中に、チベット寺を建てる必要があるのだろう。
◆中国チベットもインド側のチベット文化圏も旅したことのある私にとって、アメリカにあるそのチベット寺は、どこか違和感があった。なぜならそこを訪ねる人々は、ほとんどがアメリカ人のようだったから。私が共に訪れた仲間もしかり。そして彼女たちは、みなそこで祈りを捧げる。そこには特定の宗教を越えた祈りがあった。でもそれならば、宗教も場所も関係なく祈ることができるのならば、この場所にこのようなお寺を建てる必要もないのでは? 大自然を前に祈っていたっていいのでは?
◆そして私はひとつの答えにいきついた。民族の伝統というものを持たない人たちには、何かしら外部から設けられた、このような「祈りの場所」が必要なのかもしれない、と。この地は、ほんの数百年前、欧州のプロテスタントたちが移り住み建国した、建国神話を持たない国だ。あー、これがアメリカという国の一面なのかも。そんなことを思った夏の日だった。[中井多歌子 地球元気村通信制作担当]
■今年3月末に左膝半月板を損傷してしまった。一番の趣味である登山に支障が!?と一時は思われたが、現在痛みは残るものの、見た目は普通に歩ける状態で、飛んだり跳ねたりしなければOKだ。で、7月27日から8月4日の夫婦での夏休みは、北海道とした。メインは花の島・礼文島での2泊3日の滞在。約7時間の島の西部縦走や桃岩周辺のお花畑のトレッキングなど、とにかく歩いて夏の花々と対面した。島固有種のレブンソウ、レブンウスユキソウをはじめとする多種多様な高山植物に出会えた。天候は曇りや雨が多かったが、おかげで気温は22℃くらい、涼しくて天国のように快適だった。ずっとここにいたーい!![神奈川県 もんがぁ〜古山里美]
■島から帰ってきて以来ご無沙汰した私だが、大学という新しい環境にも慣れ、勉学に励みつつも、毎日を楽しく過ごしている。心理学とひとことに言っても、たくさんの分野があるため、今は基礎中の基礎を学んでいる。私は社会学の講義も履修したのだが、社会学と心理学を結びつけて考えることはとても面白い。
◆大学生活を満喫している最中だったが、心配なニュースが飛び込んできた。7月24日、私が高校生のとき利用していた、竹芝と伊豆諸島を結ぶ高速ジェット船が漂流したという。東海汽船によると、今回漂流したジェット船の「セブンアイランド愛」は、房総半島沖で油圧系のトラブルでかじが利かなくなったという。海保の巡視船やダグボートがロープで曳航するも、ロープがプロペラに巻き込まれたり、海上が荒れていたりしたことから、竹芝出港から約22時間後に大島に到着した。
◆当日乗船していたお客さんの不安はどれほどのものだったのだろう。この船は1980年に作られたボーイング社製で、かなりのベテラン船である。もちろん船は定期的なメンテナンスが行われていたが、老朽化が進んでいることは言うまでもない。現在日本では18隻のジェット船が運航しており、建造からの期間は平均30年を超えるという。燃費が悪く、新造するには約50億円も要するため、簡単に代替わりできないという現状がある。このままでは老朽化でジェット船がなくなってしまうこともあり得る。
◆ジェット船は島と島、島と本土を結ぶのに最適な船と言われている。それがなくなってしまうということは、島の衰退に直結してしまうため、何としても解決しなければならない。船を新造する資金は島や船を運航している会社だけに頼ることは無理だろう。島の未来のために行政や国も、この問題を考えなければならないと思う。
◆追記 7月6日、夏の黒百合ヒュッテに4年ぶりに訪れた。直接はお会いできなかったが山岳気象予報士の猪熊孝之さんからお便りをいただいた。突然のことで驚きましたが、嬉しかったです。ありがとうございました。[長岡祥太郎]
■看護師として今の病院に就職して30年を越えた。最近は看護管理者となり、看護の実践から離れている。私は自分では管理者には向いていないと思うし、看護部をまとめる能力も経験もない。なぜ自分が管理者なのか納得できないし、やる気も出ない。辞退できないなら、退職するしかない。若いころは登山や遊びの自分のための資金を稼ぐために働き、その後は子育てのために働いているが、それもあと1年で一段落する。これからは病院や部下のために自分の役割を果たすときなのか。
◆いつも地平線通信を読むと、地球規模でその人それぞれの役割を果たすために活躍されている皆さんが輝いて見える。読めばよむほど自分の弱さを感じて辛くなることもある。でも通信は、自分のためだけでなくそのおかれた場所でその役割を果たすことの意味を考えるようにとメッセージを送ってくれているように感じられる。管理者に向いていなくても、きっとなにかできることがあるとそう言ってくれているんだと思う。[河野典子]
■ 7月20日。台北のシンボル「中正紀念堂」の自由広場で総統府主催の一大音楽イベントが行われた。その2か月前に「演奏があるからおいで」との誘いを受けて来たものの、現場は僕のイメージを遥かに超える規模だった。このたびのパリ五輪に出場する台湾選手団を鼓舞するために台湾を代表する音楽家たちが集結し、テレビ各局が生中継するという。2時間にわたる演目が秒単位で進行する生本番。夏の夜の屋外会場全体がオリンピックの熱気に包まれ、特大のスクリーンを背にステージ上で顔をあげると、多くの観衆のずっと先のVIP席には頼清徳総統と蕭美琴副総統の姿が。カメラマンたちも息を呑んでこちらを向いてスタンバイしている。
◆陳明章氏の率いる我らが『福爾摩沙淡水走唱團』。コロナ禍から4年のブランクがある僕にとってはあまりにも刺激的な大舞台。「ああ、いつのまにか自分もオリンピックに参加している!」。そんな興奮に浸っている間もなく演奏は始まり、僕のソロパートになると陳老師は僕の隣に歩み寄ってきて、月琴ギターと三味線のコラボ演奏が会場に響き渡る。正直なところ終始熱中症気味だったことに加え、緊張で出だしから筋肉が硬直し、ヒートアップしてどんどん加速するスピードについてゆくのがやっとだった。
◆ワンチャンスをものにすることのとてつもない難しさ。その一瞬に全てを賭けるオリンピック選手って本当に凄いなあ。それでもこんな貴重なステージに立つことで味わえるこのアドレナリンは間違いなく自分の人生の宝物だと肌で感じ取ることができた。メダルには程遠いけれど、これからの良き糧となるこの夏のオリンピック体験でありました! [車谷建太]
★僕の参加した「撼山河」という曲はこの動画の44:30から始まります。1:10:00からは沖縄県立西原高等学校のマーチングバンドが登場し、 “躍る大地平線——地平線会議30周年記念大集会” で皆で踊った「ダイナミック琉球」も演奏していますよ♪ YouTube 「2024總統府音樂會—自由之力」 https://www.youtube.com/live/jBeniEkQmHg?si=pFNSnx6hlgecP0_s
■この夏、北海道の居候先にエアコンが入りました。大家の意向で、集合住宅の全戸に設置されたのです。取り付け工事に来た二人の作業服も、流行りの空冷ファン付きでした。その昔、旅先で聞いた、「インドにだって四季がある。サマー、ホットサマー、ホッターサマー、ホッテストサマーの4つだ」のジョーク。本州や九州・四国の連日の気温に、「いずれ日本もそうなるのでは?」と不安です。[久島弘]
■7月初旬、4年ぶりに1週間ほどパラオに足を運びました。友人がパラオの空港に壁画を描くことになり、今回はそのお手伝いが主目的です。到着翌日からワークショップもはじまり、壁画の下地を描きながら地元の子供たちの面倒をみる日々を過ごしてきました。一方、滞在中はセーリングカヌー、アリンガノマイスのキャプテンであるセサリオの家で以前のようにお世話になりました。彼の孫たちも大きくなり、三女は母親になっていました。変わらぬ居心地の良さと変わっていく家族の在りようを感じつつ、セサリオとは新たな航海の計画について話をしてきました。4年前にコロナ禍で実現できなかったハワイ航海です。2026年初頭、パラオから出港予定です。[光菅修]
■名古屋に来て2度目の夏。毎日蒸し風呂のような暑さですっかりインドア派になっているが、先週末はふと思い立ち、母が育ったまち・有松を訪れた。駅を出て少し行くとたちまち町家建築が並び、各軒先には絞り染めで「ありまつ」と施された濃紺の暖簾が揺れていた。ちょっとした観光地だとは聞いていたが、すでに店仕舞いの時間帯で、地元の人がぽつぽつと見えるだけだった。風が通り抜けるたびに、どこからか鳴る風鈴の音色が辺りを包んだ。
◆この日ある商店で、色鉛筆のように陳列された、繊細な染め模様のハンカチに出会った。ほんの少し値は張ったが、自分が気に入った5色を選び、大切に使うことに決めた。夏バテ気味の心が潤う日曜日だった。[下川知恵]
■毎月報告会をしている早稲田にある水稲荷神社に海の日に行ってきた。高田富士は1779年に富士山頂の岩や土で作られ約10メートルあり、最大最古の富士塚として有名だ。その後、江戸に続々とできた富士塚が、富士山信仰や江戸庶民の生活文化に大きな影響を与えたことを考えると富士塚のルーツとも言える。海の日とその前日の二日のみ登拝できる。
◆今回一緒に行った、バイク冒険王賀曽利隆さんは2013年から今までに100近い富士塚めぐりをしているが、こちらに登拝するのは初めてだったそうだ。夕暮れの富士塚の提灯の灯りに集まる家族連れに、江戸から続く庶民の変わらぬ祈りや願いを感じた。そして〆はいつもの北京でビールと餃子で暑気払い。[高世泉]
■6月の報告会の前々日、仕事中に右膝を捻挫した。以前から膝に違和感を感じていて気がかりではあったので、その翌日整形外科を受診したところ、トントンと検査が進み、靭帯を断裂していることが判明した。靭帯断裂は3年前にももう片方の膝で経験済み。人生、本当に思うようにはいかない。手術は9月か10月以降になるようで、今はただ待つことしかできない。
◆7月に入って25歳となり、三十路が見えてきて少し焦りのようなものを感じている。膝の怪我のおかげで山の仕事現場は暫く休むことになり、今は事務所でひたすらPCと資料に向き合う日々だ。林業3年目、一つ歳をとり、これから夏山だ登るぞ、もっと山に入りこんでいくぞ、と意気込んだ矢先の脚の怪我。エアコンに当たりながらの事務仕事には早くも忍耐が切れそうで、やはり外で身体を動かして気持ちよく汗を流して働きたいなぁと思ってしまう。
◆三宅岳さんの報告会は参加できなかったが、岳さんの著書『山に生きる』を改めて拝読した。旅先で木や竹、また獣の皮などで作られた民芸品を見ると不思議といつも小さな興奮が湧く。報告会では宮笠が登場したとのことだが、傘を被って峠路を歩いたら少しは昔の人の気持ちに近づけるだろうか。自然と向き合い自然の恵みを自らの手を動かして扱う姿は本当にリアルに人間らしく、なによりかっこいいと思う。私もそんなかっこいい山の人になりたい……。[小口寿子]
■こんにちは。4月から大久保にある鍼灸専門学校に通い始めて以来、生活は一変しました。私がインドで習い施術していた鍼治療は、今習得しようとしているものとはまったくの別物で、座学と実技ともについていくのに精一杯です。クラスメートは31名、私を含め4名が還暦あたり年代、続いて50代、40代、30代、20代、高卒は1人だけ。男性はたったの5名ですが、これは最近の傾向らしいです(だから女子トイレが足りません!)。みんな非常に熱心で真剣そのもの。
◆こんなに必死になって勉強するのは、その昔アメリカで看護の勉強をして以来です。夏休みは基本的にお盆休みだけで、9月早々に控えた7種類の実技試験に向けて一同戦々恐々としています。夏休み明けには経絡と316のツボの名前を漢字(その中には虫眼鏡で見なくてはわからないくらい複雑なものも少なくない)で筆記する試験もあって、やらなくてはならないことがとにかくありすぎ。でもありがたいのは同級生も先輩もお互いに助け合いの精神に溢れ、教師陣はいつも喜んで指導してくれることです。インドでの生活がはるか彼方に感じられますが、3年後無事卒業した暁には長期滞在を目指します。とりあえず進級しなければ![延江由美子]
■この1年、地平線通信を読ませてもらっている地平線新参者です。1年ほど前、足を痛めた江本さんが私の鍼灸院を訪ねてくださったのが、出会いでした。そのとき、地平線通信を拝読し、旅好きの妻共々すっかりファンになりました。
◆冒険に溢れた、イキイキとした文章に魅了され、そして、長野さんのイラストにも癒されます。神津島で高校生活を送った長岡祥太郎さんのレポートも素晴らしく、単に「島留学」という記事では終わらず、色々な立場の方々がコメントを寄せていて、皆さんの文章から温かい眼差しを感じました。
◆長い地平線会議の歴史の中で脈々と繋がる人と人、今では数少ない、顔と顔を付き合わせた交流の数々が魅力だと思いました。それらが端々から滲み出ていて、すっかり顔馴染みのような気持ちになり、毎号読み入っています。こんなに濃くて温かい、内容の詰まった通信が、月刊だということも驚きです。[鈴木健司・真希子]
■8月、猛暑が続く都会を抜け出して、山奥の小屋に行きました。年に数回、小学生を集めて開かれる山の学校に去年からスタッフとして参加しています。子どもたちは「ナツ!ナツ、おいで!」と犬を追い回しますが、ナツは子どもが大の苦手で逃げまくります。沢の冷たい水につかったり、野原でスイカ割りをしたりして、身体がどんどん生気を取り戻していくのを感じました。
◆いったん都会のシステムから外れると、熱くなった建物を電気でガンガン冷やすということが異常に思えてきます。災害などでエアコンという延命装置が使えなくなったとき、初めて人は現実に向き合うことになるのでしょう。この夏、拙著が文庫化され『はっとりさんちの野性な毎日』というタイトルで発売されました。近年、我が家で起きた出来事を少し加筆しました。手に取っていただけたら嬉しいです。[服部小雪]
■こんにちは。大学の学生寮に昨日8月9日に入寮し、やっと少し落ち着いてきました。今は自室の机に向かってキーボードをたたいています。お昼前の空は曇り。23:00頃まで外が薄明るいため、時間の感覚がまだつかめず夜更かしをしがちなこの頃です。
◆8月5日の朝、アイスランドはレイキャビク、ケプラヴィーク国際空港に到着し、その後は9日朝まで、中心街にあるKEX Hostelというバックパッカー宿に滞在しました。共有のトイレとシャワー、キッチンがついて一泊約5000円でした。朝食には棚のフリーコーナーで余り物をありがたくいただき、夜ご飯には日本から持ってきた乾麺を食べていました。ここレイキャビクは世界的にみても物価が高く、いまだにスーパーマーケットにいくと悲鳴を上げてしまいます。例えば、昨日見つけたキューピーのマヨネーズ(たしか450g)は1400ISK(1ISK=1.06円、8月10日現在)でした。小麦、ジャガイモ、牛乳、ヨーグルトの類は比較的安価で、食生活をシフトしています。
◆島国かつ高緯度でありながら、暖流の影響で過ごしやすい気候です。今は夏で、最高気温は15℃ほど、冬でも最低気温はマイナス5℃ほどだそうです。日中は長袖一枚でちょうどよく、夜にはコートが欲しくなります。こちらについてまず困ったことは通信で、日本の携帯会社の契約はそのままに、現地のSIMカードを購入しました。
◆そのSIMカードを見つけてネットワークに接続するまで2日かかったのですが、なにか買うにしても、バスに乗車するにしても、支払いは電子決済が主で、インターネットがなければ支払いができません。私はバスに乗った際、カード決済で行けるだろうと安易に考えて乗り込んだところ、アプリでの事前決済が必要と知りあたふたしました。そのときには運転手さんの懇意でタダ乗りさせてもらったのですが、なにかとアナログな私は相当おどおどしています。
◆生活の一つ一つが不格好ですが、人は親切で、空気と水が最高においしく、気持ちが落ち込むことはありません。レイキャビクの中心街にはギャラリーも多く、女性作家の作品を多く見ました。質感がどことなく火山を思わせるざらっとしたもの、動植物がモチーフになったものが多く、見ていて飽きることがありません。とにかく知らない道を練り歩いている日々です。
◆明日からは現地の大学の同期二人とレンタカーを借りて、1週間かけてアイスランドを一周します。いずれ自転車で一周できれば最高だなあと思っています。今日は中古の自転車を探しに行きます。通信はしばらくウェブで拝読します。多くは書けませんが盛りだくさんだった7月号、特に稲葉香さんの言葉にしびれました。それでは![レイキャビクにて 安平ゆう]
■ぼくは、ここのところ、とてもとても忙しいです。展覧会の準備が大変です。開催まであと1か月無いです。展覧会は、ぼくの内心への旅路の報告会です。ぼくは、閉塞の活路を内心世界へと求めるしかありません。ぼくは、滅入りつつ凹みつつ、自分自身へとダイブしてゆきます。妄想を進んでゆくと、自分の内側で遭難しそうになることもあります。森の中の静かな湖に息を止めて潜ってゆく、息が続く最後に得体の知れぬ「何か」を伸ばした手に掴んで浮上し、水面で大気をおもいきり吸い込んで、手中を検証する感じ。ぁぁ、リアル現実に還ってこれてよかったと、ひらいた手の中に、おもわぬ宝物が視えることがあります。
◆今回は京都の本屋さんのギャラリーでの展示です。この度、ぼくの作品写真集が刊行されました(『建物彫刻』道音舎)。その本を作ってくださった宇治田真宣さんが企画してくださいました。「本のお披露目」作品展覧会ということで、書店での開催となりました。作品集に登場する作品が実際に並びます。
◆タイトルは「緒方敏明作品展 銀河講堂」です。もれなく、だれしもどなたも、こころのなかに森を持っていると想います。どうぞ、よろしくおねがい申し上げます。[緒方敏明]
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◆会場 恵文社一条寺店
〒606-8184 京都府京都市左京区一乗寺払殿町10
https://note.com/keibunshabooks/
phone 075-711-5919
◆開催期間 2024年9月3日から9月16日 11:00〜19:00(最終日は15:00)
《画像をクリックすると拡大表示します》
■地平線通信の記事は、現在進行形の出来事を伝えるのが本来の役割だが、私の連載は過去のことばかりを書いている。何もしていないので仕方がない。もう少しお付き合い願いたい。
◆やはり、ナンガ・パルバット(8125m)について語らなければならない。私の山人生の大半を費やした雪黒部冬剱の熱狂も、ナンガひとつでぶっ飛んだ。私は、84年にディアミール西壁、86年にルパール南壁中央側稜、91年にルパール南東ピラーに挑んだ。雪崩の巣、危険と困難と恐怖がてんこ盛りの登山だった。7900m付近ですべて敗退、頂上は指呼の間だったが届かなかった。
◆ヒマラヤ登山史上、最も劇的で波乱に富んだ歴史が刻まれている。初登頂に至るまでに実に31名の遭難者を出した、他に類を見ない非情の山である。ナンガ・パルバットはサンスクリット語で「裸の山」を意味する。現地の別名に「ディアミール」がある。王の中の王という意味らしい。イギリス人は、Sleeping Beauty(眠れる美女)と呼んだ。エヴェレストをイギリス宿命の山だとすると、ナンガはドイツ執念の山と言える。
◆ナンガは政治的に微妙な位置にある。インド亜大陸を蹂躙した大英帝国の隷属国になる過程で、この山域は戦争に明け暮れた。今もカシミール紛争がくすぶっている。この山を最初に探検したのは、1856年のアドルフ・シュラーギントワイト〈1829〜57〉、ドイツの植物学者である。始まりからドイツとナンガは縁がある。ママリーのことは前号で書いたから省く。
◆『ナンガ・パルバート登攀史』(パウル・バウアー〈1896〜1990〉著 安川茂雄訳 あかね書房 1969年 ヒマラヤ名著全集 8)という大著がある。初登頂までの軌跡を克明に記している。彼は、1929年と31年のカンチェンジュンガ遠征を率いて脚光を浴びた。29年隊の報告書は、京都大学学士山岳会の伊藤愿訳で『ヒマラヤに挑戦して』(黒百合社 1931年)として出版された。戦前のヒマラヤ登山の手引き書になった。
◆この本を解説している上田豊(1973年ヤルン・カン8505mの初登頂者)は、バウアーの言葉を紹介している。「彼ら(隊員たち)は心から生命を共にすることを誓い、如何なる時たりとも誰一人同じ運命を拒もうとせず、狂信者の帰依にも似て共同の運命に殉ずる固い決心の人々であった」。バウアーはドイツ・ヒマラヤ協会を設立した登山界の重鎮だ。ナチズムのシンパで、国粋主義傾向の強い国家主義者だ。エヴェレストに挑んでいたイギリスに強烈な対抗意識を持っていた。
◆このドイツ精神を引き継いだのが、32年のナンガ第一次遠征を率いたヴィリー・メルクル〈1900〜34〉である。ここからドイツとナンガの長い戦いが始まる。メルクルは、ママリーから37年ぶりに、北面のラキオト谷からナンガに挑戦した。隊員8名、スリナガールから37日間のキャラバンの末、6月24日メルヘン・ヴィーゼにBCを建設した。ラキオト氷河をつめ、ラキオト・ピークの西側6950mで稜線に出た。そこで初めてナンガの頂上を確認した。初登頂を確信するが、モンスーンのため8月半ばに断念した。
◆33年には、ヒトラー(国民社会主義ドイツ労働者党党首)がヴァイマル共和国の首相に選ばれる。34年には総統に就任し、独裁体制が確立される。ナンガ遠征に彼の思惑が影響を与えたのは想像に難くない。ドイツ・ゲルマンの民族優位を標榜するヒトラーの、人種主義、優生学に染まった選民思想は心底おぞましい。
◆34年、メルクルは捲土重来の意気込みで、経験豊かなクライマー8名、学術3名、輸送のイギリス人将校2名で第二次隊を編成した。ポーター500名の大キャラバン隊は、スリナガールからわずか17日で、5月19日にBCを建設した。第一次隊の失敗理由の一つは、高所ポーターとしてフンザ人を使ったことだった。彼らは登山経験が乏しく戦力にならなかった。今回は、すでにエヴェレストやカンチの活躍で名をはせていたダージリン・シェルパ30名を呼びよせた。
◆ルートは前回通り、ラキオト氷河から東山稜に取りついた。順調にルートを拓く。7月6日、C7(7050m)から隊員5名、シェルパ11名が頂上攻撃を開始した。その日のうちにジルバーザッテルを越え、上部雪原端にC8(7500m)を設ける。成功を確信したが天候が急変した。悲劇の始まりだ。暴風雪は収まる気配はなく、退却が決定される。深い新雪と突風、壮絶な撤退行、15日にかけて、隊員、シェルパがバタバタと斃れていく。結局メルクルら隊員3名とシェルパ6名が凍死する。原因は、極地法の未熟さ(途中のキャンプを無人にして、補給とサポートが絶たれたこと)と過度な突撃精神に帰する。
◆メルクルの死後、弟のカール・メルクルによって書かれた『或る登攀家の生涯』(1936年/長井一男訳 昭和刊行會 1943年)の序文にドイツ体育連盟総裁のフォン・チャムメルは「ウイリイ・メルクルと彼の同志達は、(中略)祖國の名の下に倒れたものである。闘争と死に就き、そして死を越えた勝利に就いて物語る書は、我が獨逸に於いては総統アドルフ・ヒットラーが、最も理解のある讀者である」と書いている。
◆34年には難攻不落を誇ったアイガー北壁の攻撃も始まる。「我に続くものは死を覚悟せよ」の標語が流行った。36年には、初登攀者にはベルリンオリンピックの金メダルを授与すると約束、クライマー4名が壮絶な遭難死を遂げる。38年にドイツ、オーストリア合同隊が北壁初登攀するまで8名も亡くなった。ナンガとアイガーの登山には、ナチスの考えが影を落としている。
◆37年、雪辱を果たすため第三次隊が派遣された。K・ヴィーン博士率いる隊員8名は、前年に装備、食糧の現地輸送を終え、万全の準備で山に向かったが、6月14日深夜、ラキオト・ピーク下のC4が氷雪崩に襲われ、隊員7名とシェルパ9名全員が埋没する。ヒマラヤ登山史上空前の大量遭難になった。
◆知らせを聞いたバウアーは、急遽捜索救助隊を組織し、遺体や装備類の一部を回収した。何故、登山隊員全員がC4に集結していたのか。これは1991年、京大学士山岳会の梅里雪山(6740m)C3での雪崩による17名の遭難と同じく、限りなく人災に近い極地法タクティクスの失敗例である。
◆38年、バウアーは第四次隊を組織する。あくまでもラキオト氷河のルートにこだわるも、34年の遺体を発見した以外大した成果はなかった。この隊は初めて、ドイツ空軍機ユンカース52で隊荷を上部キャンプに投下したけれど、効果はなかった。
◆39年、38年にオーストリアを併合したナチスドイツは、ポーランドに電撃侵攻して第二次世界大戦の口火を切った。さすがに余裕がなかったのか、第五次隊は4名の偵察隊を出すにとどまる。彼らは登山終了後、大戦勃発でイギリス軍に捕まるが、終戦間近に収容所を脱走してチベットに潜入する。その顛末は、P・アウフシュナイターとH・ハーラーの『チベットの7年』として有名だ。映画にもなった。ハーラーはアイガー北壁初登攀者の一人である。
◆1953年、ついに第六次隊で初登頂される。ここに強烈な個性のK・M・ヘルリッヒコッファー〈1916〜91〉が登場する。ザルツブルグ大学医学部教授、クライマーではなく遠征オーガナイザーである。彼は年の離れたメルクルの異父兄弟である。この遠征隊の正式名称は、ドイツ・オーストリア合同メルクル記念登山隊である。
◆正式報告書『Nanga Parbat 1953』は、横川文雄訳で1954年に朋文堂からすぐに出た。人々の関心がいかに高かったがわかる。報告書には、ヘルリッヒコッファーの気持がいたる所に表れている。巻頭言に「兄ヴィリー・メルクルを記念して——われらが敬愛する母に捧ぐ」「感激はつねに、必ず、無気力に勝つ(フィヒテ)」「今日人々を惹きつけてやまないものは、世界の屋根の最高の峯々であり、(中略)神秘に満ちた冒険——そこには目的とか打算は考えられない」とある。
◆この初登頂は登山史上もっとも劇的だ。ヘルマン・ブール〈1924〜57〉は、7月3日午前2時C5(6900m)を独りで出発した。BCの指示は、モンスーン到来のため退却だったが、上部にいたアタックメンバー4名はこれに従わなかった。ブールの超人的な頑張り、深い雪、風、低温。午後7時頂上に着く。この頂上稜線は決して易しくない。私も7900m付近まで登ったが、ビバークが嫌で断念した。彼は8000m付近で着の身着のままでビバーク、覚醒剤メタンフェタミン(日本品名ヒロポン)を服用したので幻覚に悩まされ、翌日夕方フラフラになってC5に帰幕する。41時間のアタックだった。
◆ヘルリッヒコッファーの本領は初登頂後から発揮される。62年には、西面ディアミール壁から第二登を成功させるが、ジギ・レーヴが下降中に滑落衰弱死する。二日目のビバークで彼を看取ったキンスホッファーをたたえて、彼の名前をこのルートにつけている。今はこのルートがノーマルルートとなっている。
◆そして70年に、三度の試登の末、最も心血をそそいだ南面ルパール中央側稜を攻略する。スーパースター、ラインホルト・メスナー〈1944〜〉の登場だ。この初登攀は、メスナーのスタンドプレーが目立つ。色々な問題を残し、後に裁判沙汰になった。ブールとメスナー、2人ともオーストリア、チロルの人である。ブールは暮色に染まる頂上で、ドイツ国旗ではなく故郷チロルの旗を掲げた。メスナーは国旗を持って行っていない。ついドイツとオーストリアの確執を想像してしまう。その顛末は次回に書こう。渦中の人、メスナーの心情に私自身を重ねてみた。
——山の教え——
青春の妄想のなかで、
自分を過信せずに済んだのは山のおかげである。
青春の暴走のなかで、
体力が頼りになると教えてくれたのも山である。
未熟を誇るときがある。
傲慢を悦ぶときがある。
腐りはじめた自閉が、つぶやくようにキミを叱る。
かたわらに寄り添う、沈黙を強いられた過去たち。
キミは上目づかいに、一つ一つにこうべを垂れる。
そうしたら山がまた……キミの肩をたたく。
■今年は比較的氷も天候も安定していて、猟に出ると氷上で2泊3日程度を過ごすことが多かった。5月初旬、アラスカ・ポイントホープ。時刻は深夜0時過ぎ。白夜に近いこの時期は、夜明けまで長い薄暮が続いている。昼間とれたベルーガの残骸がすぐ横に転がっている。自分は海の様子を見ながらソリに腰掛けている。甥っ子はボートの脇で海を見ている。他のクルーはテントの中で寝ている。
◆ポケットから携帯電話を取り出して画面を見ていると、甥っ子が緊迫した声で「あそこだ!」と言いながら駆け寄ってきた。「ベルーガでも来たか?」と聞くと「そこだ!」と指差す。10メートルほど先にホッキョクグマの姿。音も無く現れベルーガの残骸を食べ始めている。甥っ子曰く、自分はホッキョクグマの姿を確認した瞬間、ソリの上から飛んで逃げたそうだ。
◆何丁もあるライフルはソリとクマの間。取りには行けない。甥っ子はソリの脇に置いてあった大型のピストルを手にしている。「撃っていいかな?」「うん、撃て!」。結局ピストルを撃つことなく、テントで寝ているクルーに声をかける。皆慌ててテントから出てくるが、誰も銃は持っていない。すぐ隣のキャンプから銃を持ってやって来た人がクマの足元に威嚇射撃をする。クマは数歩退くも、すぐに戻ってベルーガを食べ始める。
◆携帯電話でクマの写真を撮ろうとポケットを探るも見当たらない。飛んで逃げた際にソリの上に置いてきたらしい。飢えて痩せたこのホッキョクグマは、結局射殺された。近くに解体済みのクジラの残骸など、食べるものはたくさんあるはずなのに、なぜここへ来た? とても後味が悪い。
◆5月下旬。海岸近くで氷が割れ、大きく海が開いた。「海も穏やかだし船を出してみるか?」。キャプテン、キャプテンの父親、そして自分の3人で海に出る。
◆「いいか、銛を打つと同時にアヴァタクパック(ブイ)を海に投げ込め。下から抱えるよう投げるんだ」。果たしてクジラが現れたら、ひと抱えもある大きなアヴァタクパックをきちんと投げられるのか不安で仕方がない。何しろ今までこんな重要な場所に座ったことはない。
◆「あそこだ!」。操船をしているキャプテンが僅かに水面に出ていたクジラの背中を見つけ、ボートを加速させる。我々の様子を見て、他のボートも集まってくる。かなり離れたところに潮を吹き上げるクジラ。ボートは一斉に鯨に向かう。そしてクジラは姿を消す。そんなことを繰り返しながら、少しずつクジラに近づいていく。
◆ついに我々のボートの前にクジラが現れる。クジラを追いボートを加速させる。キャプテンの父親が銛を構えて立ち上がる。ブイを両腕で抱え、いつでも投げられるようにする。呼吸のためにクジラが水面に現れる。噴気孔が見える。このクジラ意外と小さいな。銛が打ち込まれる。ブイを投げ込む。うまく行った。緊張で全身が震えている。
◆銛についた長いロープは、ブイに巻き付けてある。クジラが移動すると、そのロープがほどけ、クジラと共にブイは移動し始める。しかし、ブイはその場から動かない。「クジラに銛が刺さらなかった。くそ、オレは何やってるんだ」。自身の失敗を責める父をなだめ、銛を回収し、再びクジラを追い始めるキャプテン。
◆目の前に再びクジラが現れる。キャプテンの父が銛を構えて立ち上がりクジラ目掛けて銛を打ち込む。同時にブイを海に投げ込む。ブイに巻かれたロープがぐんぐんと繰り出されていく。うまくいった! 多少の安堵感はあるものの、相変わらず緊張感は続いていて、全身が震え続けている。
◆ほかのボートが手負いのクジラを追っている。クジラに追いついたボートから何本も銛が打ち込まれる。巨大な胸鰭や尾鰭が水面から立ち上がり水飛沫が上がる。小さなクジラではない。クジラは血で染まった赤黒い潮を吹き上げる。やがて動きが止まった。自分の緊張も解け、ようやく震えが止まる。
◆尾鰭の付け根にロープを結び、7隻のボートで町の近くまで曳航していく。すべてのボートは笑顔に満たされている。キャプテンもその父も満面の笑み。キャプテンにとっては6年ぶりのクジラだ。喜びも人一倍大きいだろう。
◆引き上げ場所の海岸まで3時間ほど。海岸には多くの人たちが集まり、歓声をあげている。我々もそれに応える。引き上げ場所は町に近いため重機が使える。たいした苦労もなく、クジラは氷の上に引き上がった。
◆16メートル近い巨大なオスのクジラだ。記念撮影もそこそこに解体が始まる。分厚いマクタック(表皮と脂身)を切り取り、肉を切り取り、背骨の関節を外し、肋骨を外す。ブヨブヨとした巨大な塊となった内臓を引きずり出し、心臓や腸を探し出す。あっという間に全身が血と脂にまみれる。夜は家に帰って休み、3日間でほぼ解体は終了した。
◆6月中旬に行われるクジラ祭りまで、日にちがあまりない。解体終了から数日後、すぐにクジラ祭りの準備が始まった。忙しく、慌ただしく、楽しく、そして最高に嬉しい、そんなクジラの猟期だった。[高沢進吾]
■8月10日23時40分、お盆を故郷で過ごすため都内を出発する。11日午前8時、石川県内の天気は晴れ、のと里山海道を走る車窓から見える海は青く空には夏の雲がモクモクと浮かんでいる。7月17日、のと里山海道は上下線ともに通行可能になった。これは復旧に向けて大きな前進になったと思う。
◆しかしながら中能登を過ぎ奥能登へ入ると道路状況は一変する。崩れ落ちた道路を避け迂回路を設けているため、道路の作りは急勾配のうえに蛇行しており車内の荷物は飛び跳ねる。午前11時30分、能登半島の西側に位置する輪島市にある千枚田パークに到着。ここは水平線を境界線に見立てライフワークとして繰り返し撮影しているポイントで4月に帰省したときに違和感を覚え5月末の報告会でお話できなかった、歪んだ水平線を感じた場所になる。
◆祖父と母の死を経て先祖代々変わらずに観ていた物事とは何かを考えるようになった。思い当たったのが水平線だった。変わらないと思っていた光景もしっくりこなくなっていた。地殻変動を繰り返し現在の世界地図になったことは知識としてあったけど、実際に体験することですべてのことは留まることなく移ろい変わって行く。地震は時間を圧縮して、これを教えてくれたように思う。
◆千枚田パークで1時間の撮影を終え故郷町野へ向かう。迂回路が開通して助かった。4月は輪島市街地から町野まで車で90分掛かったが今回は60分と短縮された。町野の姿は瓦礫処理は一段落付いていたが、解体はほとんど進んでいなかった。200棟以上が焼けた輪島の朝市通りも同様だった。
◆8月12日、祖父のころから行われている、ふるさと五千人の祭典が今年は復興を祈念して行われることになった。春の時点で開催など思いもつかなかったことだ。家、家財、思い出の品を失ってしまった。だけども生きている。そして家族の大切さを思い出した。震災後、最初のお盆となる今夏、これを形にすべく家族の肖像写真撮影を企画し参画させていただいた。
◆祭典のプログラムは、音楽発表、大阪プロレス、親子による和太鼓演奏披露、子どもキリコ、そして打ち上げ花火だ。同級生の消防隊員が花火の安全点検に来ていた。天気は昼からグズグズしていたから私は「花火、上げるの?」と聞いた。友人は「上げる。絶対に上げる」と答えた。祭典開催に漕ぎ着けた皆の思いを背負っているようだった。町野の皆に少しでも元気になってもらいたいという思いがひしひしと伝わってきた。
◆夜祭が始まる。天気はあいにくの雨。グラウンド中央に設営されたリング上、レスラーは雨に打たれながら対戦相手を垂直に持ち上げていた。ブレインバスターだ。これがフィニッシュ・ホールドにつながった。拍手と声援の中、子どもキリコがグラウンドを練り歩き始める。この日に向けて練習を重ねてきた子どもたちの勇姿、雨は降っているが楽しんでいる姿を撮り収めていく。後日、PTAに納品することになっている。
◆いよいよ打ち上げ花火の時間が迫って来ているが雨は止まない。町の光景は震災の日から殆ど変わらないからこそ花火を上げて子どもたちの心をパッと咲かせて笑顔にしたい大人たちの思い。運営は何としても打ち上げたいし思いに応えたい。会場にアナウンスが流れる。カウント・ダウンだ! 良くやった友人よ! 子どもたちの歓声に大人たちの安堵感のある声が混ざりあって空にもグラウンドにも花が咲いたようだ。毎年見てきた祭典だけど今年は一体感があって美しかった。
◆8月14日、午前中から大回りをして珠洲の大谷峠を目指した。以前は10分も走れば到着していたが今は90分かかる。ここは私が被災した場所のそばであり能登半島西側のライフワーク撮影のポイントでもあるが、やはりたどり着けなかった。大谷はとにかくこっ酷くやられた。水道はまだ復旧していなかった。
◆珠洲市内、1月1日に暗中模索して迂回路を探した場所を視察した。4月にも視察したが、時が動き出している気配はなかった。予備撮影ポイントへ車を走らせてカメラを設置すると、これまで撮影に使用してきた画角のレンズでは同様に写すことができなくなっていた。
◆私のOblivionという作品は画面比率4:5の中央に水平線をレイアウトして空と海を1:1の比率で撮影しているのだが画面下にどうしても海底だった岩礁が写り込んできてしまうようになった。明らかに隆起が原因だ。繰り返し行ってきた作品制作を通して、茫漠たる時間をかけて変化してきた地形の移ろいを生きている間に目の当たりにしたことを実感した。
◆8月15日、以前は野球場だったところに能登スタイルの仮設住宅が建てられており、ここの集会所を市からお借りして家族の肖像写真撮影2日目を行わせていただいた。撮影を通して故郷の声が聞こえてきた。「これから先のことは何も浮かばないし解体が終わらなければ何も考えられない。解体の順番もいつ来るのかさっぱりで見当もつかないし、5年後か、もっと先か、病院も店も食べるところも、なんもないし」と話す者が多数だった。同級生は、家を建てるつもりはあるが、いずれにしても解体後に地面の状態を見ないとなんともできないとしていた。道路の復旧に2〜3年、家の修理は県内どこの工務店も200世帯以上の待ち、解体の目処は不明。まったく見えてこない未来。夜空を見上げると満天の星が輝いていた。[東雅彦]
■太平洋戦争末期に疎開がありました。私の疎開先の玉山鉱泉にも中野区の桃園小学校から、先生と多数の生徒が家族と離れ集団疎開していました。彼らは土地の人々や土地の学校との交流が希薄で、ひたすら帰京を待っていました。数え歌の替え歌を集団で歌って励ましていました。「二つとせ、二親離れて来てみれば、集団疎開も国のため」。
◆私は個別疎開でした。父は仕事で東京に残り、母とちょうど1歳年下の弟と三人で小学校1年から6年まで福島のいわきに疎開できました。疎開できなかった子供は、たとえば、友達のお不動尊の子供は、昭和20年2月の世田谷空襲の翌朝、うちの前の水たまりに首をつっこんで息絶えていた、と父から聞きました。両親とも失った子供は「浮浪児」といわれ、戦後街中にあふれていました。疎開できたらラッキーでした。
◆両親は最小限の荷物を鉄道便で運びました。ちなみに鉄道は国鉄、公共鉄道、私鉄を問わず運行されていました。広島市電は米軍の原子爆弾投下後三日で動いたそうです。昭和20年、空襲で我が家が焼けたのを知り、父を心配して急遽家族で上京した際も、常磐線、山手線、京王線とも運行していました。笹塚駅から一帯は焼け野原で、富士山まで一望できました。父は地下の防空壕から出てきて、寝る場所がないので、すぐ福島に帰れと言いました。
◆住宅前の川は生活用水として利用され、常に少し濁っていました。昭和19年は寒く、なんと完全凍結していて、子供たちが滑っていました。朝、手桶一杯の水を大家さんの屋内井戸から炊事飲料用にいただき、茶碗は生活川で洗い、井戸水でゆすいでいました。トイレは風呂につらなる別棟が屋外にありました。この野性的なトイレは特に冬の夜間に厳しかったです。後に外交官になってモンゴルの地方でも同様な経験をしました。風呂は五右衛門風呂で、一日交替で母も川からの水くみを担いました。
◆隠居所は寝室用の四畳半と囲炉裏が切ってある7畳弱の部屋の二部屋でした。この囲炉裏で暖をとり、炊事もしました。寝室には父が調達した紙を天井全体に張りました。こたつで十分暖がとれました。
◆農家の大家さんは食料を売るのを一貫して拒否しました。ナスが畑いっぱいに実り、一部では腐りかけていても売りませんでした。雀の涙ほどの粉の配給でしのぎました。慢性の食料不足で極度の苦しさでした。逆に父が東京から、コッペパンや粉など担いできてくれました。
◆大家さんやご近所は同じ態度で、疎開人には食料は売らないとの原則をもっていたようでした。田植えのときご近所の加勢とともに、私の一家も出ましたが、秋にその米は買えませんでした。最初の食料は早朝こっそり部落を抜け出し、三人で2時間強の山越えをして、ポツンと一軒家の方から売っていただけました。後には母が入手ルートを開拓して何とか切り抜けました。
◆危機がありました。小2の春先、母が座骨神経痛で40日ほど寝込みました。私は、配給の粉と油、味噌のみでしのぎ、粉を水でこね、油をひいたフライパンで焼き、野良から採った田芹の味噌汁をつくり、三度の食事としました。
◆後に野菜は他部落から内緒で入手しました。親しくなるに連れご近所から内緒で入手できるようになりました。夏場は同級生の長二君の指導で川岸にカボチャ、トマト、キュウリなど栽培しました。また四ツ倉にでて八百屋さんで仕入れるようになりました。四ツ倉からオサヨさんがバスできて魚を販売するようになり、夏は鰹、秋はサンマのみをいやというほど食べました。
◆囲炉裏に焚く燃料は、松の落ち葉を焚き付けにし、枯れ枝のタキギをくべて、最後にクヌギのマキを焚いていました。他部落からの特別ルートで1年分購入できたクヌギのマキ以外は、主として長男である私が調達する役目でした。枯れ松葉は秋に日曜ごと観音様の裏山に入り、篭いっぱい熊手で1年分集めました。枯れ枝のタキギは、疎開ですから遠くの国有林から採りました。最初は母と行きましたが、4年生のある日、母が鍛冶屋に特注した私専用の鉈と背負子ができてきてからは、日曜ごと弁当をもって一人で入山しました。片道1時間以上かかります。
◆夏はさらに奥に二つあったつつみ(大池)まで行き泳ぎました。あるとき対岸から私ねらいの蛇がそっと水にはいり、微音に気がついて急いで上がりました。自然児になっていました。モンゴルの地方旅行をすべて車でとおし、どこでも野営できたのはこのころの経験のおかげと感謝しています。タキギは二把つくると帰宅です。一度道に迷い、近くの高いところに上って家の近くの「ショウガ岩」を発見して、そこを目指して下山して助かりました。
◆玉山で空襲がありました。夜間の灯火がもれ、集落と見られ夜間爆撃があり、それが山側にずれ、焼夷弾が多数落とされました。母は暗闇でねぼけの私を着替えさせ先に逃がしました。道にでると、爆風が頭上を越え、作から逃がされた牛が猛進してきたり、人々が大声あげて田んぼの方へ走っていました。翌日昼頃人に聞いてやっと家族と再会しました。大家さんの納屋に作のユキ子一家が収容されました。焼夷弾の硫黄の臭いと人肉の焼ける臭いがしばらく続きました。
◆ウサギの飼育販売が三年の春からの大仕事でした。大家さんのナガ子ちゃんも黒ウサギ一匹をつれてきて飼い始め、飼い方の指導をうけたり、ウサギ床用に麦わらを自由に使えるようにしてくれたり助かりました。ウサギ一号は薄ブルーで首に三日月がある「ブチ」でした。ウサギは増えて団地になりました。私は毎日放課後、草刈りに出るのが日課でした。
◆餌調達で冒険もしました。台風の翌朝、仁井田川は岸まで満タンの濁流でした。ブチの好物、クズのツタが対岸の水面近くにあり、上流から激流に飛び込み、対岸に泳ぎ流れていき、ツタをつかみました。直後灌漑の水門に吸い込まれ、あわやとなりました。餌はそれほど魅力的で、餌の確保は盆も正月もなく厳しく、冬場は特に苦労しました。ナガ子ちゃんの手配で、時にウサギを販売して郵便貯金が1万円に達しましたが、5年のとき父が失業して疎開先にきたので、生活費に消えました。
◆1年三学期、疎開初登校のとき、なまりと方言で先生の言葉が聞き取れませんでした。篠竹で笛をつくるのに真竹を持参したりしました。理解不能がありつつも、やがて学校生活に慣れました。すぐ2年になり、担任が当初いなくて、無法地帯となりました。教室は全員が「疎開!疎開」と合唱して足踏みし、私たち疎開児童をいじめました。
◆しばらくいじめは収まらず、つらい毎日でした。やがて女性の担任、金子先生が赴任され、生徒を一喝して私へのいじめが減りました。ある日身体検査で上半身裸の列に並ぶいじめの首謀者の一人に近寄り、パンチをお見舞したところ、彼は鼻血を出して泣いて帰宅してしまいました。以後いじめがなくなりました。
◆鈴木君を例外として、学友とは放課後も遊びませんでした。鈴木君は、クラスで明るく押しの強い子でした。6年生の秋、クラスの男子全員が山から一団となり降りてきました。鈴木君がリンチにあったのです。疎開の私を除外したのは、仲間と認めなかったのか、あるいは鈴木君が私と一番親しかったからかのどちらかと思います。
◆大家さんの名誉のために言えば、大家さんの子供たちと一緒に私たち兄弟を、時にサクランボ畑や柿の木畑につれて行ったり、秋に松茸山につれて行き食べさせてくれました。大家さんの家には早苗さんはじめ男3人、女4人がいましたが、小さな五右衛門風呂に兄弟姉妹全員で入るときがあり、わが兄弟も呼ばれて、風呂の縁に円陣に座り混浴しました。言葉どおり裸のつきあいです。
◆とくにすでに青年だった長男の早苗さん、二歳上のナガ子ちゃんがいなかったら玉山の生活はつらく、二人に感謝しています。そして大家さんの母上、「おばんちゃん」が私たち一家の守り神でした。残念ながら私が三年のとき腸チフスに罹り、避病小屋で他界されました。
◆早苗さんは馬を仁井田川の堤防に放つことが多く、草刈り帰りに連れ帰るようよく言われました。馬の背に草かごを乗せ、土手から背中に飛び乗り、騎乗して帰ったものです。初めてのモンゴルでの騎乗もそんなわけで苦労しませんでした。また馬の餌を押し切りで作るのを手伝いましたが、これで大家さんは私のウサギ飼育を不問にしたのかも知れません。そこがねらいの早苗さんの親切だったのでしょう。
◆4年生あたりから、近所の子供たちと遊ぶようになり、馬乗り、ビー玉、ひと通り遊びました。観音様に合祀されている天神さまの御輿の天神講にも呼ばれたりして、子供御輿もかつぎました。6年生からお盆のジャンガラ念仏の練習に青年と参加させられました。いまも太鼓の最初の一部は叩けます。
◆大家さんには父が来るたびにお酒を振る舞っていました。帰京の前日、私の「ブチ」を父と弟が殺し、大家さんの家ですき焼き宴会をしていました。以後、酒宴とすき焼きは嫌いです。大家さんは、「おめーらいつ東京さけーんだ」と時に聞きましたが、私の小学校卒業まで5年4か月おいてくださいました。昭和25年4月ついに帰京し、中学校はまるで外国留学のようでした。[花田麿公]
■酷暑と言いつつ、夜は少し秋の風が吹き出している。今月も「夏だより」があった上、和田城志さんの力作連載、花田麿公(まろひと)さんの貴重な疎開回顧物語、などあって読ませる通信になったと思います。フロントで地平線とは縁遠い政治家話を書いてみましたが、あまりの事態に今回だけのつもりで書きました。あんなに真っ向から声をあげている人がいるのに、新聞、テレビは何をしているのか、という気持ちです。
◆森井祐介さんから新垣亜美さんがレイアウトを引き継いで今号で2年になるそうです。「毎月、森井さんの想いを感じながら編集作業をしています」とメールしてくれました。厄介な仕事を短い時間に会得して頑張ってくれている新垣さんには感謝しかない。森井さん、新垣さんは見事にあなたの後を引き継ぎましたよ。これからも見守っていてくださいね。
◆来年にも北海道で地平線をやりたい、と密かに企んでいます。森がテーマになるかな。詳しくは後日。[江本嘉伸]
石器野ヨシハルの時を駆ける探検
「石器で竹だって切れるんだよ!」と言うのは医師で探検家の関野吉晴さん(75)。学生時代に南米先住民マチゲンガ族の村に通い、ナイフ1本あれば自然の中で生きのびる知恵と技術を習得します。 やがて人類拡散の道を人力で辿るグレートジャーニー(GJ)で世界各地の先住民族を訪ねました。「GJは旧石器時代のマンモス狩猟者の足跡を辿る旅のつもりだったけど、現代の先住民は例外なく鉄を使ってたね」。 早速、関東、東北、北海道などに拠点を作り、実際に鉄器や土器を使わない生活を始めます。「初めの一歩の住居作りから難儀してなかなか進まないけどね」。ヒトが環境への「害獣」ではまだなかった(?)時代を体感し、自然とのつきあい方を見直す試みです。 その想いの延長線上に、現在公開中の映画、関野さん初監督作品『うんこと死体の復権』があります。最近は「石器野吉晴」とも名乗る関野さんに、時をワープした狩猟採集民修行や、映画つくりへの思いを熱く語って頂きます! |
地平線通信 544号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2024年8月21日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
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郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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