2024年7月の地平線通信

7月の地平線通信・543号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

7月10日。この原稿を書くために早起きした。午前5時現在の気温28度。これからジリジリ上がってゆくのだろう。おととい8日、我が府中は、なんと「39.2度」を記録した。外を歩くのが躊躇われる熱暑であるが、地球は当分燃え続けるのであろう。

◆引っ越しして3年。通信編集や印刷、発送に尽力してくれている面々を中心に日頃私が日常としている「徘徊」ルートを紹介するぶらぶら歩きを試みた。8人が参加した府中散歩の顛末は18、19ページにあるが私は帰りのバスで寝過ごし3停留所分追加で歩いたので帰宅すると「31000歩」になっていた。よく歩いたと言われそうだが、違う。1歩の歩幅が狭くなっているのである。しっかりさっさと歩いていたころならたぶん20000歩ぐらいではないか。我が家では「府中のバイデン」の呼称が定着しつつある。

◆そんなわけで6月27日、民主党のバイデン(81歳)、共和党のトランプ(78歳)が対決した米大統領選事前討論会ででバイデンの予想以上のヨタヨタぶりが注目された。民主党内からはバイデンに大統領選から降りるべきと露骨な勧告が相次いでいるが、本人は「あの時は風邪気味だっただけだ。トランプは私が倒す」と引かず、目下代わりの候補も出てこない。きょう10日に始まったNATO首脳会議でバイデンが何を言うかその言い方が注目されている。

◆地平線通信をつくっていて元気な行動者の訃報を書くことほど辛い作業はない。7月に入ってパキスタンから悲報が届いた。大西浩さん。64歳。1日、カラコルム山脈のスパンティーク(7027メートル)に3人の教え子とともに登頂したが、下山中の2日、クレバスに転落、亡くなったという。大西さんとは国立登山研修所の専門委員仲間として知り合った。「中信高校山岳部かわらばん」というユニークな、内容の濃い読み物を出していてその回数は700回を超えていた。

◆地平線通信の読者でもあり、しばしば原稿も寄せてくれた。先月のこの欄に栃木県の高校山岳部の春山講習会で起きた雪崩遭難について指導の先生たちに有罪判決が出たことを書いたが大西さんはまさに高校山岳部の傑出した指導者だった。その、最後まで生き残って若い人を育ててほしい人が「最後のヒマラヤ」の覚悟で出かけて帰らない。合掌。

◆2024年で100年、と言われてわかる人は少ないかもしれない。しかし、私にはほんの少し身近な人だ。100年前の1924年6月、エベレストから帰らなかった、あのジョージ・マロリーのことである。世界最高峰の登頂を目指すイギリスの試みは1921年に始まった。マロリーは、その1次隊から24年の3次隊まで隊の中心的存在だった。1924年6月8日、37歳になったマロリーは弱冠22歳のアンドルー・アーヴィンとともに第6キャンプを出てそのまま帰らなかった。第5キャンプにいたノエル・オデルが2人の最後の姿を見た。

◆1980年春、日本山岳会隊が外国隊として初めてチベット側からチョモランマに向かった時、報道隊員として参加した私は北壁ではなく北東稜チームにいれてもらった。半世紀以上前にこのルートから行方を絶ったマロリーの痕跡を見つけられれば、との思いからである。その時は加藤保男が北東稜からソロ登頂したが、マロリーの痕跡はなかった。ただ、この年の8月、行方を絶ったマロリーの最後の目撃者、オデルが日本山岳会の招きで来日、私は加藤とともに89歳の老登山家と会うことができた。当時山岳会の月報に「海外の山」というコラムを書き続けていた(20年ほど続いた)。私は来日した著名な登山家とはほぼ確実にお会いできた。

◆マロリーたちは登頂しただろうか、との問いに対してオデルさんは「おそらく頂上に立った。しかし下山中になんらかの事故に遭ったのでは」と私たちに語った。しかし、1953年5月29日、英国隊のヒラリーとテンジンが初登頂を果たす以前にマロリーたちが頂上に達した、という具体的な証拠はいまだない。

◆登山経験豊かな上、「ギリシャの神のよう」と形容されたマロリーは英国隊の切り札として資金獲得のための講演にも駆り出された。1923年3月、ニューヨークで講演した際、ニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで「なぜエヴェレストに行くのか?」と聞かれ「Because it is there(それがそこにあるから)」と答えた。「it」はもちろん「未踏の世界最高峰」を指すのだが、なぜか後に「山がそこにあるから」と禅問答のような言葉として流布されてしまった。

◆1999年5月1日、エリック・サイモンソンをリーダーとする「マロリー、アーヴィン捜索隊」が北東稜8230メートル地点でついに凍りついたマロリーを発見した(もちろん、私はその高さまで到底達していない)。いろいろな要素からマロリーたちは頂上に達する前に倒れた、との見方が強まった。

◆1924年のあの日から100年。アーヴィンはまだ見つかっていない。歴史の現場をこれからも刮目して追い続けたいが、さて私より2歳は若いバイデンさん、願わくば、老いをしぶとく克服してみせてほしい。[江本嘉伸


先月の報告会から

炭から笠へ

三宅岳

2024年6月29日 榎町地域センター

■笠をかぶって登場した三宅岳さん。会場には山仕事の写真が展示され、形や素材の異なる笠も並んでいる。なんとギタレレまで! お似合いの笠は岐阜県高山市一之宮町で作られている七寸紅白の宮笠だ。一之宮町は大合併で高山市に編入される以前は大野郡宮村だった。飛騨で笠といえば、宮笠。私は高山市出身で、連合いは宮村出身。山仕事と笠の魅力についてとのことだから、懐かしい故郷の写真や意外と地元民が知らない話が聞けるはず。山仕事も興味深い。ウキウキ、なんだか応援するような心持ちで、私たちも宮笠をかぶって参加した。

◆岳さんのお父さまは、2019年8月の報告者、山岳写真家三宅修さん。「修さんは私にとっても大事な方なんです」と江本さんからの紹介で始まった。修さんは山だけを撮ってこられた。写真に人は写っていない。戦争中の体験が修さんを人間嫌いにしてしまったとのこと。江本さんは息子の岳さんも山岳写真家として似たような道を歩んでいるのだと思っていたそうだ。著作を読んで、山のとらえ方が違うことに気がついたと。岳さんは、山に生きる人に魅せられ、山の暮らしを撮っている写真家なのだ。

◆岳さんは小さいころから山を歩き、大きくなったら山の写真を撮るのかなと思っていた。東京農工大学環境保護学科で学んでいたころには、すでに具体的な夢を描いていた。「自然っていいな、環境って面白そうだな、と思ってもらえるような写真を一枚でも撮りたい」。そして、その夢は今も続いている。近況報告を兼ね、ギタレレを弾いて歌う岳さん。自作の「道しるべの歌」。モデルは、丹沢山地の西側、静岡県小山町で道しるべを作り続けた岩田㵎泉(いわたたにいずみ)さん。160本もの道しるべを立てた気骨の男。行政が作った道しるべは金太郎のブロンズ像が付いていて、一本何十万という経費がかかる。しかも指している方向が間違っていた。何度訴えても町役場ではぐらかされる。㵎泉さんは勝手に抜いて、自首。起訴と拘留。岳さんは裁判で証人になった。

◆高齢の㵎泉さんに裁判長は情けをかけたいのだが、「町役場が間違えたらまたやります」と言って困らせた。㵎泉さんが立てたのは美しく愉しい道しるべ。道しるべを読むために不老山に行く人が増えたが、㵎泉さんの道しるべは朽ちつつある。岳さんが撮って残した写真がありがたい。書籍にもなり、つい最近は小山町観光協会と協力して、写真展を開催したそうである。

◆岳さんは、炭が身近にあった時代を知らない。大学時代に二つの出会いがあった。ひとつめは、環境保護学科の土壌水界研究室で土や水の汚染を研究する自主ゼミ。そこでの炭は化学の素材で、汚れを吸い取る吸着剤であった。もうひとつは、山の仕事として。1985年1月、地元の神奈川県旧藤野町で開催された炭焼き見学会に参加。これが「炭焼きさん」を知るきっかけとなる。山の中で老人が一人で火の塊を自在に扱っていることが衝撃だった。巨大な火の塊をコントロールしている。面白い仕事だなと思ったそうだ。大学を卒業して数年後、青年海外協力隊に応募するが健康診断で引っかかってしまう。思惑が外れて次の予定がなくなり、どっぷりと時間が空いた。「学生時代に見た炭焼きのあの世界はどうなっているのだろう」と動き出す。このころ、岳さんの地元ではプロフェッショナルな炭焼きさんは石井高明さんたった一人になっていた。

◆ここからは、炭焼き仕事の解説である。山仕事の方っていうのは、山の神を敬い、祀りをする、こういうところが僕は好きだったと話す岳さん。窯は古い窯を使うことも多い。一度使った後、そのあたりの木がまた大きくなるころに手直しをして使う。石井さんの窯の天井の写真が映された。石がびっしりと積みあがっている。工芸品のように美しい。秩父、奥多摩、上野原、藤野、そして東京にかけての炭窯は石窯で白炭を焼いていた。岳さんの説明は続く。炭には白炭と黒炭があり、焼いた後の処理の違いで仕上がりが異なるということ。燃えている最中に釜口を少し開け酸素を入れ、不純物を燃やし切ってから窯の外に出し灰をかけて冷ますのが白炭。黒炭は窯の口を閉じたまま酸欠状態にして火を消す。窯の温度が下がったら窯から出す。黒炭は樹皮が燃え残った状態で炭になる。見栄えを気にするお茶の世界で重宝される。なるほどなるほど、面白い。石窯の特徴の一つは、一度窯が熱くなってしまうとなかなか冷めないこと。火を落として一週間たっても中はサウナ状態。これから焼く木を中に入って並べるなんてことはできない。窯口から木をひゅっと投げる。木が窯の奥でポンと立つ。窯がいっぱいになるまでその作業を続ける。これも美しい熟練の技だと思う。窯から炭を出すときは本当に美しい時間。言葉では表せない。よく焼けた炭だと、この時に炭と炭とがぶつかり合ってキンキンと金属音がする。気持ちのいいものだ。炭焼き仕事への敬意のこもった解説が心地よい。

◆石井さんは窯だけでなく、窯へ行く道も造った。たった一人で道を作る石井さん。石井さんの仕事を見て、「土木」という言葉の本当の意味がわかった気がしたという。炭材を木馬(きんま)と呼ばれる橇で山から降ろすのも大変な作業だ。昔の人はトン単位で運んでいた。とんでもないことだった。貴重な写真を残せたことは本当によかったと岳さんはしみじみ話した。「炭焼きさんは、山の総合職」という岳さんの言葉に、皆、深く頷いた。

◆石井さんが炭焼きを辞めた後、全国の炭焼き窯へ。紀州備長炭が気になり、和歌山県旧日置川町(白浜町)の玉井製炭所へ。大きな窯が並び、ベテランだけでなく若者が働いていてびっくりする。天井に耐熱性のある粘土を使うので大きな窯が造れる。粘土は放熱性があるので、少し冷めたら窯の中に入って次の木を並べられる。地域の特性が窯にも表れるのだ。何年もかけて全国を巡った。お茶炭の兵庫県池田炭、生産量日本一の岩手県、冬の秋田県。山形県飯豊町へはラジオで炭の品評会のニュースが流れたので行くことにしたという。ラジオはアンテナの一つだった。土佐、日向、人吉、鬼無里と炭を訪ねる旅は続いた。

◆山を歩くと多くの窯跡が見つかるとのこと。働いていた人に思いを馳せると景色もまた一層味わい深くなるという。会場にはカナダの窯跡の写真が展示されていた。はて? カナダで炭焼き? 驚くべき歴史の話を伺った。カナダのブリティッシュコロンビア州ギャリアノ島在住のスティーブさんが見つけた穴は、日本人が造った炭焼き窯であった。明治から第二次世界大戦前まで、ギャリアノ島にも日本からの移民が住み、鮭漁を生業にしていた。そのころ、島に鮭の缶詰づくりの技術が伝わったのだが、封を閉じるハンダ付けに必要な電気がまだきていなかった。そこで日本人の技術、炭焼きが役立つことになる。電気代わりの熱源になったのだ。

◆廃校の壁には、ローマ字で書かれた日本人卒業生の名前も多くみられるそうだ。それがある年を境になくなってしまう。見事な歴史の分かれ目。日本人は強制退去になり、その後、誰も戻らなかった。穴が発見されるまで、日本人移民の歴史は埋もれてしまっていた。その後、遺跡として保存されているそうだ。この話には興奮した。いつか行ってみたい。

◆岳さんは炭焼きの取材を続けるうち、炭以外の山仕事も面白そうだと思うようになる。ゼンマイ折で取材したのは新潟県旧湯之谷村(魚沼市)の星さんご家族。1995年頃は、雪解け後、ゼンマイ小屋で一か月暮らしていた。現在は通いとのこと。ブウトウというたっぷりとした衣を羽織るのは継続中。腰にからげてできるポケットに採ったゼンマイをどんどん入れていくのだ。風前の灯のゼンマイ折だが、ゼンマイ折がやりたくて東京から福島県只見町に嫁いだ黒田さんとご家族、桧枝岐村山椒魚漁の星寛さんや平野敬敏さん、山形県鶴岡市では月山筍の渡辺幸任さん、岳さんの山仕事の取材は個々の人々を掘り起こす。

◆炭焼きとゼンマイ折の話をたっぷり聴いた後は、いよいよ笠である。浮世絵の世界では旅人は皆、笠の人。旅人といえば笠というくらいなくてはならなかったものだが、明治の時代から笠がなくなってきた。2022年7月、岳さんは乗鞍岳白雲荘の売店で宮笠に出会う。「なぜこんなところに?」と思ったものの、軽くてかぶりやすい。白雲荘のスタッフ西野さんから、高山市の旧宮村で作られていることを知った三宅さん。取材に行くことにする。笠を作っているのは問坂(といさか)集落に暮らす問坂義一さん・洋子さんご夫婦と息子さんの一家のみ。笠づくりは集落単位の仕事だった、と岳さん。子どもたちもお小遣い稼ぎのために手伝ったという。

◆笠は材料作りから始まる。山から木を切り出し、三日間煮込んで樹皮をはがす。シート状に切り、さらに裁断する。薄い7ミリ幅くらいの材料はヒデと呼ばれ、これを組んで笠を作る。白っぽいヒデは檜(ヒノキ)、赤っぽいヒデは一位(イチイ)である。高山市には竹林がないため、ヒデを支える竹は下呂市のものを使っている。一位は天皇の代替わりの際の儀式で使われる笏(しゃく)の材料として知られている。笏とは、束帯着用(天皇の正装)の際に右手に持つ細長い板である。宮村には天照大神の伝説が伝わる位山(くらいやま)があり、一位の自然林は高山市の所有山林である。伐採許可が出るのは宮内庁で使用する以外は宮笠のみ。問坂さんが切るときに許可が出るのだ。とてつもなく貴重な木を使っていることになる。笠の技術を残すための保存会があり、笠づくりの手作業の技術の継承はできつつある。しかし、材料づくりに関してはとても難しい課題が残っているという。

◆宮笠は、毎年1月24日、高山市の繁華街で開催される二十四日市で手に入れることができる。旧暦では年末。かつてはお正月を迎えるための市だった。私の宮笠も二十四日市で手に入れたもの。炎天下でも、陽射しを遮り、風を通す。大切に使っている。

◆さらに岳さんは、他の地域の笠も調べ始めている。消えてしまった笠もある。兵庫県宍粟市道谷(どうたに)では地元の方に話を聞くことができた。「こうやって笠の技術が廃れるのなら、娘をほかの地域に嫁に出してやってもよかった」と。地域ぐるみで技術を残すために娘をほかの地域に出さなかったということが凄い衝撃だったとのこと。技術を守ろうとしていた気持ちを想像すると、私もなんだか切なくなった。新潟県権現岳のふもとでは継続している方と出会えたという。来年、笠の雪ざらしの取材に行くとのこと。ホッとする。笠の世界も風前の灯。風通しがいい、軽い、雨に強い。目にしたらぜひ手に入れてほしいと、最後に岳さんはみんなに語りかけた。

◆話が終わり、閉会も歌♪ 岳さんの話しぶりは落語か講談を聴いているようで惹きこまれてしまったが、朴訥な歌声もよかったな。ずるいぞ、岳さん。山の仕事についての解説だけでなく、山仕事に携わる個々の方々のお人柄が伝わってきた。まるで良質のドキュメンタリー映画を観たような気分になった。「失われてゆく山の技術」。何度かその言葉を口にした岳さん。お話を伺っているうちに、せめて今のうちに個人の記憶を記録することが大切だと気づいた。私でもできることがあるのかもしれない。報告会の後、連れ合いの父に宮笠について尋ねてみた。宮村で生まれ育ち、70代まで宮大工をしていた90歳である。「ばあちゃんが、村の人たちに笠づくりを教えていて、子どものころは、笠のふち編みの手伝いをしていた」そうだ。おお! ここに記憶している人がいる! もっと話を聞いてみようと思う。[中畑朋子

報告者のひとこと

〜この際、「地平線会議の歌」を披露申しあげたく〜

■富士山にも登ったことがない。金槌ゆえに漕ぎ出す船も持ってはいない。なにより、昨年来の腰痛をいいことに、走るはおろか歩きもせず。すっかり肉だるまと化した腹部を抱え。果たして地平線会議にふさわしいかなあ、と自問自答を時にはするが、そんな悩みも旅の空。あっという間にメトロは滑り込む早稲田駅。

◆左肩にはスタンドを忍ばせた富士フイルムロゴ入り機材用袋。右肩には、写真パネルを運ぶラムダ謹製の大型袋。中身はラミネートに挟まれた幾葉もの写真群。加えてあの笠その笠を潰れぬように段ボールで梱包したのだから、なかなかのサイズ。

◆そして背なには、馬具屋が前身という山形新庄の天幕屋から購入した帆布製の巨大山菜用背嚢。加えてその外側にもう一つパソコンやらギタレレやらの入った小背嚢をぶら下げているというのだから、どう見ても、ただの旅人、という様子ではない。ならば、これぞ今弁慶というような格好の良さとも程遠く、やっぱりどう見ても今宵のお宿が定まらない漂泊の人といった体。ただし、一つ違うところは、少々目深に宮笠を被っているところである。

◆都の西北早稲田の隣の榎町まで、長く下る道のりは玉露の汗をにじませるもの。やがて大通りからわずかに裏手の道に離れて無事熱中症で倒れることなく目的の地「新宿区榎町地域センター」に到着。駅から中途、道中安全を祈願した落馬地蔵の霊験もさることながら、やはり陽射しをはねのけ風通し抜群の宮笠のおかげに相違ない。

    *       *

◆2024年6月29日14時過ぎ。客席も7割から8割が埋まったかというところで、登壇。話の枕にまず一曲。道しるべの歌。約十年前に東中野ポレポレ座で行った、故岩田㵎泉翁のみちしるべ写真展のために作った歌。実はこの6月半ばまで、彼の故郷静岡県小山町で行った写真展でも歌ったのである。その写真展にあまりに人が来なかったのでちょっと悔しかったということも含め、突然披露。つまりは近況報告ということで、本題へ突入。

◆炭から笠へ。壮大なテーマは、まず二十代はじめから。地元の熟練した炭焼さんであった石井高明さんの見事な仕事を披露。彼の廃業から、次には全国の炭焼き産地を訪ね歩いてきた、そのエピソードをほんの一掴み。話のついでに、カナダに残る炭窯跡にもふれて、なんとか地平線的ワールドワイドな話にこじつける。

◆そこですでに予定時間を大きく超過という現状に、内心冷や汗をかきながらも、さらに続けたのは、炭焼きへの興味から派生した、山仕事の世界。ゼンマイ折り、月山筍、山椒魚漁など、さまざまな山仕事をご紹介。さらに木を運ぶというテーマに絞り、今では見られない体を張った運材の様子をご覧いただく。というところで小休憩。

◆実際に展示した写真を見てもらい。並べた笠を被ってもらう。すでに予定時間超過ではありますが、ようやっと笠の世界。飛騨高山の宮笠。会場にこの笠を被っている方が二名も登場というだけで、かなりの驚きである。なぜ、宮笠が、僕のテーマである山仕事と関わるのか、といったところから、ここでは現在唯一の職人である問坂さん家族の仕事を御覧いただき、更には宮笠をきっかけにして、訪ね歩く諸国産地のエピソードを交えて報告。いやはや、なんとかこれで炭から笠へ、という壮大な話も終了。どうもありがとうございました、と言いかけて、あ、忘れていた。あの一曲を歌わねば。

◆実は小生、前夜も西国立駅前の「こまくさ」なる小体な飲み屋で、季節も香る紫蘇ジュースをたらふくいただき夜更けの帰宅という体たらく。当日は茫洋とした目覚めながら腰の重さに比べれば脳の血流は淀んではいないと確信して、早朝一番に作詞作曲したのが「地平線会議の歌」。この一曲で締めれば、どんな荒波となっても無事寄港で収まるはず。という妙な自信でここまで到着。

◆というわけで、唄い始めたのだが、コードがずれたメロディー不明だリズムが崩れた歌詞がぶっ飛んだと、つまりはデタラメ。まいったなあ。終わりよければすべてよし!の逆。いい加減なフェードアウトも僕らしいと無理やり終了。

◆というおよそぼんやりした終わり方で、二次会北京に流れ込みという、しょっぱい一日ではありましたが、多少は楽しんでいただけたのかな。と、北京中華満腹の帰路。なお、少し悔しいので、その題して「地平線会議の歌」の歌詞を掲載。メロディー前半部分は学園天国風、ということで皆様ご自由にお歌いください。では失礼。

  地平線会議の歌

 へいへへへいへい……

 あっという間に 旅の空
 ビビっている暇など ありゃしない
 シーンと静まる 山の道
 でっかい夢が 転がるぜ
 イー線いってるぜ イー線のぼったぜ
 へいへいへいへいへい……
 地平線会議

 へいへへへいへい……

 あっと気がつきゃ 夕闇さ
 貧乏旅には 終わりなし
 知らない世界の 扉をたたき
 でんと構えて 鼻提灯
 イー線いってるぜ イー線とどいたぜ
 へいへいへいへいへい……
 地平線会議

お粗末様。[三宅岳

イラスト-1

 イラスト ねこ


三宅岳さんの貴重な記録に感謝

■切りかけにした丸太を北海道に残して、久方ぶりの地平線報告会に参加した。この春、林業一人親方として開業した私は、薪作りの仕事をいただいたりしながら、馬搬やかき起こし(注)を軸にした林業を学ぶ日々を過ごしている。

◆最後に足を運んだのが5年前の新宿コズミックセンター。そんなに前かと、記録をさかのぼってみて、驚く。私は学生でなくなり、会場も変わったが、地平線会議独特の雰囲気はそのままだった。最前列に座る江本さんもお変わりなく、私の挨拶に優しく応えてくれた。学生時代は緊張でうまく話せなかったのに、今は安心して話ができるのが不思議だった。地平線会議という場に対して、ほっとできる今が、嬉しかった。

◆4年前の春、北海道の林業会社に季節労働者として就職した。苗木を植えて、それを覆う草を刈る「造林」という職種である。山で汗を流すのは気分がよかったが、若い林の手入れで、植えた木以外の木をことごとく切らないとならない日々は辛かった。一列に植えられたカラマツを適度に間引きながら、混ざって生える広葉樹も切り進む。

◆「形がきれいだな」と思ったハルニレを切らずに怒鳴られ、「これはなくてもいいな」と思ったミズナラを切って怒鳴られた。判別に迷い立ち止まっては、「早く切れ」と怒られる。切ったら切ったで間違える。林業1年目の私は広葉樹の違いを見分けることができず、間引きの仕事で苦労した。「見て覚えろ」の業界で、訳もわからず木を切り捨てる日々。怒られることよりも、自分が無差別殺「木」をしていることが情けなく、辛かった。

◆そうしてシーズンも終わりにさしかかったころ、林業に対する諦めのような気持ちが自分のなかに沈殿していっているのを感じていた。山は好きなのに、山で働くことを楽しめない。山で働いているのに、一向に木を知ることができない。自分の努力も足りないのかもしれないが、何かが違う、と。

◆気晴らしで訪れた、隣町の大きな書店で、一冊の本に出会った。『山に生きる 失われゆく山暮らし、山仕事の記録』。 今回の報告者、三宅岳さんの本である。「ひたすらに山にしがみついて生きた、山人たちの暮らし——」という帯の文句に惹かれ、レジに直行した。

◆次の日の労働後、自室で一人、頁をめくった。胸が熱くなって、涙が出た。猛烈な薮の中で撮られた筍採りの瞬間。手橇を押す老人の顔の深い皺。馬搬に木馬。見たこともない山仕事の数々、その迫力に圧倒された。どれもが強烈。格好いいとか、そういう言葉では表現できない、畏れのようなものを、三宅さんの写す「山のひとびと」に感じて、胸が締め付けられた。一度ですべてを読み終えると「やっぱり、山仕事がしたい」という気持ちがぽっと心を温めた。夜はすっかり更けていた。

◆報告会では、本では味わえないカラー写真を存分に眺めた(三宅さんの撮った山仕事の写真展があるならば、もっと、ゆっくり、じっくり、見てみたい)。三宅さんの怒濤の語りを聞いていると、まなうらに山の人々が浮かび上がってくるようだった。笠を被りながら喋りまくる三宅さんの後ろを囲むように、炭焼きさんが、ゼンマイ採りが、樵が、あたたかく見守っているように、見えた、というか、自分は確かにそれを感じた。

◆新千歳空港から旭川へ向かう電車の中で、今回会場で購入した『炭焼き紀行』を眺めた。29ページ目、誌面いっぱいに掲載された藤野町(相模原市)の石井高明さんの姿に目を奪われる。両手をきゅっと、体の前で結んで、前傾姿勢で2俵(30kg)の炭を背負い、右足を一歩前に出そうとしているように見える。ただ、それだけのことなのに、私の目頭はまた熱くなり、慌ててフードを目深にかぶる。前後のページを行ったり来たりしながら、石井さんの姿を追い、その仕事ぶりをひたすら凝視した。貴重な記録を残し続ける、三宅岳さんに感謝しています。[北海道 五十嵐宥樹 林業かけだし]

(注)天然木の種子(たね)が地表に落下した場合に容易に発芽や活着ができるようにするため、地表のササ等をブルドーザなどによって取り除いて畑のような状態にしてやる行為を「かき起こし」と言う。北海道、とくに道北地域では、皆伐後に笹が繁茂して天然更新が困難になる場合が多い。それを克服する技術である「かき起こし」が北大を中心に研究されている。

イラスト-2


地平線ポストから

乗合い舟で天竜川下り

■体調はなんとか回復したのですが、カヌーを漕ぐのは、湘南海岸や相模川などで、県外に出掛けることはなくなってしまいました。それでもこの春、天竜川を下ってきました。と書けば、「えっ?」とびっくりされるでしょうが、実は乗合舟でです。「なあんだ」でしょ。青春18きっぷで中央本線、飯田線と乗り継いでいった久々の旅の中でのことです。

◆天竜川には若い日、十年程も通い続けました。草レースながら“全日本天竜川大会”というネーミングが気にいっていたからです。伊那大島から飯田の弁天港まで、距離は覚えていませんが、JRの時刻表によれば、この区間は9駅、15.2キロになっています。

◆前方からかぶさるように崩れてきた波に打たれてあえなくチン、艇を壊してしまったので右岸堤防をよじ登り、通りがかった耕運機に乗せてもらってゴールへ向かったこともありました。一方、今春の乗合舟の航路は、天竜峡から唐笠までの僅か5.4キロ、一時間程、途中は難所もなく、激流下りというよりは、投網の腕を見せたり天竜小唄を聴かせたりの観光クルージングでした。帰路は唐笠駅から豊橋に出て、翌日、蒲郡から三ヶ根山(標高321メートル)への山行になりました。

◆三ヶ根は自分が小学二年生のときに初めて登った山、西三河の名峰です。頂上からは三河湾一望なのですが、直下にあった拾石(ひろいし)の浜は埋め立てられて海までは遠く、名鉄蒲郡線にあった拾石駅はなくなり、競艇場前駅になっていました。かつての拾石の浜は広大な入り浜塩田場であり、また潮干狩りや海水浴場にもなっていました。前述した自分が二年生のときの小学校(当時の正式名称は幸田村立深溝〈かこうず〉國民學校でした)は、この浜から西へ一里と遠かったのですが、学校の遠足や、家の近所の人たちと一緒に農耕馬が曳く馬車で行ったことを思い出します。

◆拾石の浜については書いておきたいことがまだまだ山程あるのですが、その中の一つをぜひ読んでください。「入り浜塩田というのは、事典には、満潮時は砂浜が海面よりも低くなるので海水を流し入れて天日や風で塩を作る方式とあった。拾石と同様に瀬戸内海の播州赤穂でも入り浜塩田で塩を作っていたから、三河の塩と赤穂の塩との爭いが、江戸城内の殿中刃物事件の伏線になったと言われている。そして歌舞伎や人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』ができたのである」=拙著私家版『深溝日記・拾石今昔物語』

◆割り込み話が長くなってしまいましたが、三ヶ根山からは、昼過ぎに深溝に下りて、東海道本線の三ヶ根駅(昔はなかった)から帰ってきました。充実した三日間の旅でした。

◆さて、今夏の計画の主役は最上川ですが、ここは自分が初めてカヌーツーリングを体験したところです。カヌーを始めたのは、以前南新宿にあったあの大倉大八さん(故人)の店、欧州山荘を訪ねて行ったのがきっかけです。山の道具が所狭しと並べられている一角にファルトボートが展示されているのを見て、即刻入手しました。当時自分の職場が市ヶ谷だったのでたびたび店に遊びに行ったのですが、大倉さんや獨協大学探検部の河村安彦さんにけしかけられて、最上川下りに参加することになってしまいました。山形から支線で行く左沢(あてらざわ)から日本海河口の酒田までの遠征です。

◆夜行列車で左沢に着くと、待ち構えていたのは隼の瀬という難所、瀬というよりは滝でした。「ここからですか」「うんそう」というやりとりの後、覚悟を決めて漕ぎ出しました。滝下では、どうなることかと待機していた面々のもとにぴたり、われながらあっぱれでした。その後はのたりのたりと流されて進み、大石田で日が暮れました。テント場に借りた農家の庭前には、なんと芋汁の大鍋が運ばれてきてもてなしてくれました。三日目の終点、河口の酒田港は水門が閉まっていました。ファルトの背丈は低いので、艇の上に一人立ち両艇を皆で支えて吊り紐を引いて開門入港。こうした体験ですっかりカヌーツーリングにはまってしまったのです。

◆今夏の旅ではそのごく一部だけ、大石田の乗合舟下りから始めますが、どんな旅になるのでしょうか。今度は家内も同行しての五日間、青春18きっぷ2セットを使い切る予定だから、三陸海岸へ行って、宮古の浄土ヶ浜の遊覧船の上から、もう一度あの断崖絶壁を見上げてこようかと、今は時刻表とにらめっこして計画作りに明け暮れています。

◆しめくくりはその先、まだわかりませんが、やはり青春18きっぷやジパング倶楽部で曽遊の地を再訪したり、新たな出会いを求めて未知の所へ行ったりになりそうです。鈍行列車の窓に張り付いていく旅、舟の上から眺める景色に、若き日に見た情景を重ねていく旅。そんなやりかたなら、年齢相応に長く続けていかれるだろうと楽しみにしています。[吉岡嶺二


—— 連   載 ——
波間から

その10 ママリーとナンセン

和田城志 

■私は参加した遠征で、幸運なことにすべてサミッターになっている。1984年の日本山岳会カンチェンジュンガ(8598m)縦走は、日本人隊員39名(報道、学術の隊員も含む)の大遠征隊だったが、縦走した隊員は、私と三谷統一郎のふたりだけだった。古典的な極地法を使った登り方は、たくさんの物量とサポートを必要とした。現在の少人数のアルパインスタイルによるクライミングと比べると、高所登山としての評価が低いのは仕方がない。そういう時代だった。

◆私は、ナンガ・パルバット(8126m)に3度挑んだが、例外的にすべて失敗した。この山は、ヒマラヤ登攀史の中でも際立ってユニークだ。当然エヴェレストがもっとも有名だが、アルピニストとしてはナンガ・パルバットの方がはるかに興味をそそられる。本格的なヒマラヤ登山はエヴェレストではなく、ナンガ・パルバットから始まった。英領インド測量局による高峰の山座同定がいきわたるまで、最高峰はシッキム・ヒマラヤのカンチェンジュンガと思われていた。麓の村から遠望できたからだ。同じように、カシミール・ヒマラヤのナンガ・パルバットも昔からよく知られた山だった。だから、この二つの山が最初に狙われたのは当然の成り行きだった。

◆アルピニズムは、ヨーロッパアルプスで生まれた。アルプス最高峰モンブラン(4810m)を皮切りに、マッターホルン(4478m)まで岩と雪の未踏峰が登られていく過程で、山に登る精神は醸成された。厳しい環境の山岳地はどこでもそうだが、そこを生活の場にしている山麓の村人は、悪魔や神がいる山に登る気はない。登山は、都会の裕福な有閑知識人によって始まった。モンブランは、1786年にスイスの貴族で哲学教授だったオラス・ド・ソシュール(近代登山の創始者)の指導の下、地元シャモニーの医師と山師によって初登頂された。難攻不落を誇ったマッターホルンは、1865年にイギリス人の画家エドワード・ウィンパーらによって初登頂された。

◆登山史では、この80年間をアルプスの黄金時代と呼んでいる。そして、銀の時代、鉄の時代と続く。こういう呼び方は、登山対象や登山方法によって変わっていくのだが、大きく分類すると、初登頂時代かその後かの二つに分かれるだけだ。その後とは、現在まで続くバリエーション時代を指す。バリエーション主義(ママリズム)を唱えたのは、イギリス人の工場経営者で経済学者でもあったアルバート・F・ママリー(1855〜95年)である。

◆初登頂時代に出遅れたママリーは、1879年にマッターホルンのツムット稜を、1880年にブルッケン稜を初登攀する。これらの新登路は岩壁や氷壁のより困難なルートで、そこにアルピニズムの神髄を見つけた。ママリズムは登山を創作する。大自然を相手に、人間の限界(人のやらないこと)を試す。自然探査より人間側の能力に関心の軸足が移ったといえるだろう。ママリーはアルプスからコーカサスへ、そしてヒマラヤへ活動の場を拡げた。インド亜大陸を領有していた大英帝国は、ヒマラヤの情報を得やすい立場にあった。そこには無数の未踏峰が手つかずにあった。

◆ママリーは唯一の著書『アルプス・コーカサス登攀記』1895年(海津正彦訳、東京新聞出版局、2007年)の中で、「真の登山者は彷徨者である。私の言う彷徨者とは、先人たちの踏み跡をそのままなぞって、山々をあちこち歩き回るうちに時間を使い果たす人のことではない。(中略)これまで人が訪れたことのない場所を訪れて、これまで人の指が触れたことのない岩をつかむことに歓びを覚える人、(中略)言い換えれば、真の登山者とは、新たな登攀を試みる人のことである」と、バリエーション主義の意義を説いている。

◆すでに未踏破の山岳地帯に探検家は分け入っていて、アンデスやヒマラヤに注目していたが、高峰の周りを巡るだけで登れるとは思われなかった。カラコルムに初めて遠征隊を率いたウイリアム・M・コンウェイ(1856〜1937年)は、この時代を峠の時代と呼んだ。ママリーは1895年に、イギリス人4名、グルカ兵4名の小さな遠征隊を率いた。グルカ兵は、ネパール王国グルカ朝を支えた山岳地の民族マガール族やグルン族などの総称で、インド亜大陸を支配していた大英帝国の傭兵であるが、チベット由来のシェルパ族のように高地に強いわけではない。

◆ナンガ・パルバットは三つの谷に囲まれている。ママリーはまず登路を探すために、南面ルパール谷に入った。高度差4500mの世界最大の南壁は絶望的だった。仕方なく、マゼノ峠を越えて西面のディアミール谷に入った。西壁は登れそうに見えた。他のメンバーが体調不良で、ママリーはグルカ兵1名を伴って西壁の真ん中にのびる岩稜に取りついたが、3日間で6100mに到達できただけだった。残る北面のラキオト谷に望みをつないで、BCを移動することにした。他のメンバーは一旦山を下り、大きく迂回してラキオト谷をつめた。8月23日、ママリーは2人のグルカ兵と共に、ガナロ峰との鞍部を越えて直接ラキオト谷に入ることにした。そして、そこで行方を絶った。

◆ママリーも峠の時代を越えられなかったが、ヒマラヤの高峰を登攀の対象ととらえた点で、この遠征は先駆的であった。ナンガ・パルバットは、世界に14座ある8000m峰で最初に試みられた山であり、最初の遭難者を出した。

◆探検史の最終章は極地からヒマラヤだと書いたが、まさに1895年はそれを象徴する年である。北極探検のさきがけである、フリチョフ・ナンセン(1861〜1930年)のフラム号による北極海横断は、1893〜96年にかけて行われた。402トンの三本マスト汽帆船、隊員13名、5年の計画で、浮氷に閉じ込められたまま北極海の海流に乗って、北極点に到達しようという計画である。当時、極点には島があると信じられていた。

◆ナンセンは最高級の偉人である。海洋学者、探検家、外交官、人道主義者、ノーベル平和賞受賞、彼の思想は難民高等弁務官事務所に受け継がれ、「難民の父」と称えられている。1893年7月21日、スカンジナビア半島北端バルドーを出港、北極海をシベリア海岸線沿いに東へ、9月17日、ベネット島付近で堅氷に封じ込められる。以後、氷海を浮漂する。いろいろな科学的観測と調査の日々、海洋学者らしい探検行である。

◆1895年3月14日、漂流任せでは極点に行けないことがわかり、ナンセンはフラム号を離れ、ヨハンセンを相棒にして、極点をアタックすることにした。橇3台にカヤック2艘を積み、28頭の犬、食糧50日分で出発した。遥かなる水平線、乱立する氷塊、氷の裂け目、極夜、極低温、本当に極点到達ができると思っていたのだろうか。氷に囲まれて漂流するフラム号に帰還することはまず無理だから、極点到達の可否は別にして、以後は自力で南下して、地図も定かではないフランツ・ヨセフ群島のどこかに上陸するしかない。何という無謀な計画だ。

◆4月7日、最北到達点北緯86度13.6分、東経55度で極点到達を断念する。想像を絶する退避行が始まる。食糧、燃料はすぐに尽きる。もっとも重要な装備はライフル銃である。白熊やセイウチは猛獣ではあるが、鴨葱以上の自然の贈り物だ。食糧が燃料を背負ってきてくれるのだから。28頭の犬は弱ったものから仲間の餌になる。この方式はアムンゼンの南極遠征に踏襲された。海が開氷してカヤックで航海するようになると、犬は不要になる。最後に残った忠実なカイファスとスッゲンの2頭は、7月8日に銃で殺処分された。その別れは涙を誘う。

◆水路と浮氷をカヤックと橇で進む。8月7日、ついにフランツ・ヨセフ群島の北端に近づく。水路を拾って、島沿いに海峡を南下する。9月7日、小さな島に上陸して、越冬用の半地下の小屋を作る。冬の長い極夜、白熊が命の綱だ。

◆1896年5月19日、越冬地を出発、氷海の嵐、セイウチの襲撃、海への転落、流されるカヤック、まさに艱難辛苦の氷上の苦闘が続く。6月17日、やっとのことで群島南端フランツ・ヨセフ・ランドのフローラ岬に上陸、常駐しているイギリス隊の探検基地に保護される。そこからイギリス隊の補給船で、8月13日に出航の地バルドーに帰着する。ナンセン生還のニュースが世界中を駆け巡った。絶望視されていたナンセン博士が生きていたと。奇しくも同じ日に、フラム号は氷海を脱出して、スピッツベルゲン島に着岸した。

◆1895年、同じ年になされた極地探検とヒマラヤ登山は探検史の白眉だ。国家の支援でなされた科学的調査目的の探検と、冒険的情熱の発露というべきアルピニズムの対比がドラマチックだ。北極点到達はかなわなかったが、多くの成果を持ち帰り、全員無事に帰国した英雄ナンセン、悲劇的結果に終わったママリー、目的もフィールドもちがうが、同じときに地球上でくりひろげられた最高のパフォーマンスだった。ちなみに北極点は、1909年にアメリカ隊のピアリーによって初踏破され、ナンガ・パルバットは、エヴェレストが登られた同じ年の1953年に、ドイツ隊のヘルマン・ブールによって単独初登頂された。

◆世界の盟主だった大英帝国は、多くの未開の地を手中に収めていた。ナンガ・パルバットは、政情不安なカシミール地方にあり、イギリス山岳砲兵隊に便宜を図ってもらっているが、国民的探検といえるほど人々の関心があったとは思われない。反面ナンセンは、スウェーデンからの独立の機運が高まっていた世相のせいか、多くの市民の歓呼に包まれる。ベルゲンを出港する情景を報告書に記している。貧しい漁民や農夫たちが、楽隊や歌や祝砲で挨拶して、旅の安全を祈ってくれた。「まだ何も達成していないうちに、このように讃えられるのはきまりが悪く、気が重かった」と、ノルウェーの古い諺を引用している。

 夕方になってからその日を讃えよう。
 妻は焼かれたあとで、
 剱は試してみてから、
 娘は結婚してから、
 氷は渡り終わってから、
 ビールは飲んでみてからあとで讃えよう。


阿部さんからもらったユーロ紙幣

■「メスナールートでの南極点徒歩単独踏破のときの写真です」と阿部雅龍を送る会の司会進行を務めていた男性が、誇らしげな、しかし、どこか寂しそうな顔でそう言った。彼のいる空をイメージしたという青いデルフォニウムで飾られた祭壇の中心には、満面の笑みの遺影が飾ってあった。その笑顔を眺めていると彼がどこかから不意に現れて、いつものように茶目っ気のある声で「おさむ〜」と声をかけてきそうな気もしてくる。でも、それはもう起こらない。彼は闘病の末、3月27日にこの世から旅立った。

◆阿部さんのことを初めて見かけたのは、2015年の明治大学だった。日本冒険フォーラムの打ち上げ会場で、赤いウィンドブレーカーを着た背の高い青年がどこか手持ち無沙汰な様子で立っていたのを覚えている。冒険家というよりはアスリートのような印象の彼は、少しその場に馴染んでいないようにも見えた。それからしばらくして板橋区で行われた彼の壮行会に足を運んだ。会場には300人近い人がひしめき合っていて、彼はその会場に来ていた人たちひとりひとりにお礼を言って回っていた。彼の人柄によるものだろうか。会場に来ていた人たちの笑顔からいかに彼が愛されているかがうかがい知れた。

◆7月1日に催された送る会には、そのときの壮行会を超える人数の人たちが弔問に訪れていた。地平線会議の仲間たちはもちろんのこと、アドベンチャーレーサーの田中陽希さんやプロ登山家の竹内洋岳さん、モーターパラグライダーを使って世界7大陸最高峰の空撮に挑んでいる山本直洋さんの姿もそこにはあった。法被姿の人たちは浅草の人力車夫の人たちだろうか。彼の篠笛の先生だけでなく、彼の応援ソングをつくったシンガーソングライターの早川徹也さんといった音楽家の人たちも駆けつけていた。

◆そんな送る会の会場となった板橋区立グリーンホールの壁には、写真家の髙橋こうたさんがつくった彼と白瀬中尉をモチーフにした大きな作品だけでなく、彼自身が南極で撮影した白瀬ルートに立ちはだかった白い山々の写真がタペストリーとなって立てかけられていた。夢だった白瀬ルートに立ったときの彼の興奮や喜びはいかほどであったろうか。祭壇の横にはメスナールートを歩いた際に着ていた上着が飾られ、小松由佳さんの子供たちが「阿部さんのにおいがするよ」と袖に鼻を近づけていた。

◆やがて弔辞がはじまり、彼が指南役としても住んでいた夢を追う若者向けのシェアハウス(Tokiwa-Sou)の代表である鈴木雄二さんが、脳腫瘍の手術前日に届いたメッセージを紹介してくれた。「僕はずっと挑戦者として立ち向かっていきたい。夢は叶えにくいからこそ、輝く。僕はただ挑む。なぜならそういう生き方が好きだから」

◆彼は最後まで挑戦者だった。そして自身の挑戦を続けながら、他者を応援する人でもあった。2019年12月に17年勤めた会社を退職し、パラオからハワイへの約1万キロの航海に挑戦しようとしていた僕の壮行会を開いてくれたのも彼だった。壮行会の終わりに彼は「航海できないで後悔、なんてならないようにしてくださいね」と冗談を言いながら、真新しいユーロ紙幣を僕に手渡してくれた。今でも僕はそれを大事に持っている。

◆献花として、花の代わりに赤いカラビナを彼と一緒に南極を旅した橇に納めた後、僕は椅子に座りながら、しばらく彼の遺影を眺め続けた。談笑の渦の中で遺影の笑顔が彼の不在をいっそう際立たせた。

◆送る会の最後には「阿部雅龍冒険賞」の設立が宣言され、会場からは大きな歓声と拍手が沸き起こった。しかしながら、僕はまだ彼の冒険を、想いを継ぐ者のことを考えることはできない。それでも、いつか彼の背中を追って旅する者が現れることを切に願っている。[光菅修


先月号の発送請負人

地平線通信542号は6月12日、印刷、封入を終え、新宿局に渡しました。この号は20ページもあったにもかかわらず、作業はベテラン揃いで順調に進み17時半ころには終了。そのあとはいつもの「北京」で歓談しながら料理をいただきました。今回も長岡のり子さんが塩あんパンを作ってきてくれました。みなさん、おつかれさまでした。作業が早く終わったので最後の人は間に合わず、北京からの参加でした。

 車谷建太 中畑朋子 伊藤里香 渡辺京子 長岡のり子 中嶋敦子 高世泉 秋葉純子 落合大祐 久島弘 武田力 江本嘉伸


ドルポへの新たな旅立ち

■西ネパールのドルポに通っている稲葉香です。さる1日、東京で行われた阿部雅龍君のお別れ会に大阪から参列してきました。雅龍くんの支援者、応援者は多く300人ほど集まっていたようです。参列されていた皆さんのエネルギーもすごくて、さすが雅龍君の繋がりだと思いました。さらに雅龍君は私が想像する以上のプレッシャーの中で生きていたのだとも感じました。それは大阪では感じたことのない空気感でした。壁には、雅龍くんが南極大陸で自らドローンで撮影した写真があり、それは南極山脈の景色と本人がソリを引く後ろ姿です。私はまた切ない思いでいっぱいになりました。今回のお別れ会は、参列の方から壮行会と言われていたのが印象的でした。私は雅龍君がいない東京をゆっくりと受け止めていこうと思います。

◆話変わりまして、今年の夏5年ぶりのドルポ遠征に行きます。2019年11月〜2020年3月の越冬以来です。コロナ後のネパールで、他の地域のトレッキングには行ってきましたが、アッパードルポに入るのは久しぶりです。しかし、この遠征は長年あたためてきた計画です。ドルポのシェーゴンパで12年に1度のチベット仏教徒たちの巡礼祭が開催されるからです。私は12年前の2012年にも参加しており、2024年もまた必ず行くぞと心に決めていました(巳年はネパール、ムクチナート、午年はチベット、カイラス山、酉年はネパール、ボダナートという具合に12年ごとにチベットとネパールの聖地で巡礼祭が催されます)。ここ数年の個人遠征はすべて単独で行っていましたが、今回は8年ぶりにチームを組みました。メンバーは3名います。まず、以前から友人でネパール在住経験があり語学堪能な清水玲子が賛同してくれました。さらに、私が主催した2023年ポクスンド・トレッキングツアーの参加者で、50年にわたる山友同士で西ネパールに深い興味を抱く中原聰と松永龍士を遠征メンバーとして迎えることにしました。

◆今回の一番の思いは、ドルポ越冬中にお世話になった村人たちとの再会です。彼らに、ただいま制作中で7月出版予定のドルポの写真集(彩流社)を直接手渡したい。ドルポの消えゆく文化、道、伝統的な生活の素晴らしさ、言葉だけではなかなか伝わらなかったその思いを写真を通して直接伝えたいです。また写真集は英文表記により世界に発信することで、彼らに自分たちのアイデンティティーを誇りに思うきっかけにしてほしいと思っています。

◆私は2007年に初めてドルポに入り、その後も通い続けてきました。時代と共に大きな変化の流れを感じています。特にコロナ後は凄まじいです。現地の人々の生活や生き方、その中で変わるもの、変わらないものをしっかりと目に焼き付けていきたい。ドルポ越冬時にお世話になった方のうちSNSで連絡が取れている人は一人だけ。はたしてみんな元気なのか、私のことを覚えていてくれているだろうか。行かないとわかりません。

◆時代はこれだけ変わりましたが、行かないとわからない、そんな世界が少なからずあります。そして、私自身の人生も河口慧海ルートの探索など自分のテーマを深めていきたい。そんな思いを胸に再びドルポへと戻りたい。慧海ルートについては、これまで研究者の方々が長年研究されてきました。私は個人的にワクワクしながら楽しんできただけですが、故・大西保氏と出会い、遠征隊に入れていただいたことで、いつの間にか自分のテーマになってきました。私は研究者の方々それぞれの熱い情熱をリスペクトしていて、それをできるだけ次の世代に伝えたいと思っています。

◆恐れ多いことですが、今私が慧海ルートの実地での探究をやらなければ、この先人の方々がやってきたことが消えてしまうかもしれません。そのタイミングで、江本さんからお電話いただき、江本さんと川喜田二郎氏(日本の地理学者、文化人類学者、フィールドワークの第一人者)が根深誠氏(ルポライター)と対談した記事について教えていただきました。それが私の本棚をあさったらありました。三者からみたチベット人や慧海師の分析が会話で記録されていて、わかりやすくて面白い。私も共感することがあり、チベット人のいい加減なようでポジティブなところは、今も昔も変わらないなと嬉しく思い、外から入ってくる開発とのバランスが難しいことや、環境問題は現代とまったく同じだと感じました。これは、1992年12月の対談ですが、貴重な記録だなと改めて思いました。

◆シェーの大祭後は、奥地のク村を経由しムグ地方へと西へ横断します。日程的には66日間。以前より予備とレスト日を多く入れています。土地の人々との出会い、予期せぬ出来事など、未知数が多く含まれているため、状況に応じて流動的になる可能性が高いからです。総距離は360km、5000m以上の峠を9本を越え、果たしてどうなるか!? 久しぶりの長期横断計画にワクワクしてます。出発は7月29日、帰国は10月24日、では行ってきます![稲葉香

高世仁さんの「新コスモロジー」をもっともっと広めたい

■高世仁さんに初めて会って話をしたのは、地平線500回記念集会での二次会でした。昼に歯が欠けて食べるのが困難になり、しかし治療はせずにこのまま「しあわせな死」に向かおうと腹をくくってから、わずかか数時間後のことです。それが縁となって新コスモロジーを知り、糞土思想の新たな扉が開かれた、運命的な出会いでした。

◆大地震や異常気象による巨大災害が頻発し、ウクライナやパレスチナでの戦争等々、まさに世界は破滅に向かって進んでいるかのようです。それでも私は希望を捨てず、その先に幸せな世界がくることを信じ、自然の摂理に沿った人と自然の共生社会を目指すために、ウンコと野糞で糞土思想を訴え続けています。

◆しかしそれは、物質的な豊かさや利便性を求める現代人にとっては、まるで先住民に戻れと言われているように聞こえるかもしれません。生活形態の改善以前に、先ずは心の持ち方を大きく変えることが必要なのかもしれません。そこで力になるのが、高世さんの提唱する新コスモロジーではないかと考えたのです。

◆2月の私の報告会のあとで高世さんに糞土庵に来ていただき、じっくり話し合い、コスモロジーと糞土思想の共通点をたくさん確認しました。さらに高世さんは翌朝、プープランドの林で野糞をしてその価値も認めてくださりました。そこで「糞土師の対談ふんだん」へのご登場をお願いし、4月にはさっそく対談が実現したのです。その取材編集は、小松由佳さんです。対談は高世さんの住む国分寺公園で行いましたが、高世さんの広く深い話題に圧倒され、私は合いの手を入れるくらいしかできませんでした。とても対談とは呼べないシロモノですが、前・中・後篇と28000字にも及ぶ素晴らしい話が展開します。是非ご覧になって下さい。[糞土師 伊沢正名

糞土師の対談ふんだん http://taidanfundan.com

家の中がカオスに 〜2年ぶりの写真展を終えて

■2年ぶりの写真展「あなたは ここにいた〜燃やされた故郷、パルミラ〜」が終了いたしました。今回の写真展は、2021年に故郷に帰還することなく亡くなった義父ガーセムへの私なりの追悼であり、2022年に行った11年ぶりのパルミラ取材の記録であり、そしてここ数年のシリア難民の取材の集大成でした。

◆会期の10日間は、毎日ギャラリーに立ち、多くの皆様とお話させていただきました。本当にたくさんの皆様にご来場いただき、心より感謝しております。皆様、どうもありがとうございました。

◆会期中は洗濯が回らず、掃除ができず、だんだん家の中がカオスになっていきましたが、子供たちは母の仕事を理解し(実際は、うるさい母がいなくてノンビリしたかも)、一人で宿題をし(たりしなかったり)、シャワーを浴び(たり浴びなかったり)、寝ることを覚えました(毎日かなり夜更かししてハッスルしました)。洗濯が回っていなかったのと、あちこちに靴下を脱ぎ散らかすせいで、子供の靴下がだんだん片っぽしかなくなり、子供たちは左右違う靴下を履いて学校や保育園に行っていましたが、そんなひとつひとつに、写真展による日常の変化をしみじみと感じるのでした。

◆さて、写真展の終了と同時に、すでに次なる作品への製作の旅路が始まっています。次の作品発表の写真展は、おそらく2〜3年後になるかと思いますが、よりよい取材と発表ができるよう、これからも日々努力と自省あるのみです。

◆シリア人の妻として、シリア難民をテーマとする写真家として、不安定な人生を自分で選び取りました。これからも迷ったり葛藤しながらも信念を持って、未知の世界に飛び込んでいきたいと思います。

◆写真展「あなたは ここにいた」の開催を応援いただき、皆様、どうもありがとうございました。[小松由佳

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地震から半年が過ぎて

■6月29日、30日に「LOVE FOR NOTO Song of the Earth」というイベントが代々木公園で行われた。多くのアーティストが能登にエールを送ってくれた。ステージの美術は能登高校書道部によるものだ。黄色、緑色、水色、マゼンタ色のパステルカラーで水墨画風に石川県が描かれ、その上から墨で「能登」、「未来は輝いている」と書かれていた。福島、新潟、熊本で復興支援イベントをされているキャンドル・ジュンさんは先日、私の故郷へ赴き炊出しをしてくれた。

◆復興支援イベントの翌日の7月1日はキャンドルを灯すために能登へ向かってくれるという。彼の格好をつけないスピーチは熱く、この熱量の源泉は私が避難所へ身を寄せたときに体感した“それ”に近しいように思う。雨が降る代々木公園で彼は「みんな能登へ足を運んで欲しい」と呼びかけてくれた。ステージ上のアーティストHanah Springさんと青谷明日香さんは能登の方言を紡ぎ思いを歌ってくれた。日本とオーストラリアと距離があったのでテレワークで作られた曲だそうだ。地震から半年が過ぎて、こうして能登半島を見続けてくださる方々の行動力は、私たちの手から溢れたものを掬ってくれているように思う。

◆以下は私が避難所へ身を寄せたときに得た“それ”についてのことになる。1月4日夜、町野町広江にあるJA(農協)が避難所になっていたので身を寄せた。避難所内に入ることに後ろめたさを感じる。おそらく東京生活が長く自分は外部の人だという気持ちがあるからだろう。そう思いながらも父がお世話になるかもしれないと、受付で記帳をすませて中へ入れてもらった。それぞれ静かに目を瞑って壁にもたれていたり、椅子に座って俯いていたり、椅子を並べて横になっていた。

◆奥の広間は畳になっており年配者を優先に通しているようだった。バババババガーバーバーと発電機音がなんとも言い難い雰囲気の館内に響いていた。タングステン色の明かりが灯っている。スマートフォンの充電もできるようだ。石油ストーブの周りで何人か暖を取りながら会話をしていたので私も加わった。話を聞いていると今置いてある石油ストーブの場所がちょっとね、という話。折角、暖かいのだからもう少し奥の方の休んでいる人の側に移動すればいいのにということと、入口から風が吹き込んできて寒いということだった。

◆入口の扉の窓ガラスは地震で割れたようでカーテンで塞いではいるものの、人の出入りがあればどうしても冷気が入ってきてしまっていた。私は「ストーブを移動しましょう!」と持ち上げようとすると、入口あたりにいた男性二人がなんだなんだ見慣れない男がストーブを触り出したぞと言わんばかりに「なしたんけっ!」と駆けつけた。私は「奥で休んでいる方が寒いようで少しだけ移動しようかと思って」と伝えると「あーそうか」と理解した様子だった。それならばと私は図々しく「入口から風が吹き込んでくるようなので、この辺にホワイトボードのようなものを利用して衝立にしてみてはどうでしょう」などと言ってみた。地元のおじさん方はJA館内のどこに何があるのか把握しているようで、あっという間に設置してくれた。

◆ストーブ前にいた綺麗なおばあさんは、風変わりで見慣れない人が入ってきたから話しかけてみたら「広江の東くんか、雅彦くんか」と、26年ぶりだというのに私のことを覚えていたことに驚いた。あっという間に私のことがみんなに広まって先ほどの年配の男性が「ああー! 祭りのときに大暴れしたあの伝説の東くんか!」と私のことを思い出した。

◆何という覚え方をしているんだと私は思ったが、場に馴染んだ感が漂った。でもなんだろうこの違和感は。記憶というのは難なく隔たりを超えてゆくタイムマシーンのようなものだが、これまではみんなそれぞれに仕事があって、暖かい食べ物があって、安心して眠れる場所があって生活していた。そうやってしていた世間話と“どこか”が違う。

◆耳を傾けているとハッとした。これまでは各自が余裕を持って自分の立場から話していたのだ。なんとなく程よい距離感を保って、なんとなく聞いて、なんとなく応えて、程度が悪いと私はあなたよりマシだわなどと優越感に浸ったり、私の方が惨めだわなどと貧しい考えを持ってしまったりする。結にしてもそうだ。昔から続くことだし、世間体もある。だから本心からの行為ではなく“形式的”になっていたのだ。今はそうじゃない。これが違和感の正体。

◆家を無くして、家財を無くして、仕事も無くして、紙幣価値もなくて、これからどうなるのかわからなくなって、みんな同じになってする世間話は温もりが違うし穏やかなのだ。困っている人がいたら我先に助けに行く。“無心で結う”のだ。余裕だと思っていたことは実は余分なことだったのかもしれない。すべてを剥がされて残ったのは助け合いだった。人は弱い。一人では何もできないことの方が多い。だけれども、最後がこれなら美しい。人は大丈夫だと思った。[東雅彦

続・能登半島の式内社めぐり

■震災後、4度目となる能登半島に行ってきた。前回の「能登国・式内社めぐり」の続編だ。6月10日〜6月11日の2日間でまわった。バイクはスズキのVストローム250。午前2時に神奈川県伊勢原市の自宅を出発し、新東名→圏央道→中央道→長野道→上信越道→北陸道→能越道と高速道路を走りつなぎ、9時には能登の中心地、七尾に到着。七尾の町が今回の能登半島の出発点になる。

◆七尾から県道1号を北へ。この県道1号は輪島に通じている。七尾からは羽咋に通じる県道2号、志賀に通じる県道3号も出ている。石川県内でも最重要の県道1号、2号、3号の起点は金沢ではなく七尾なのだ。石川県内での能登の重要度を証明するかのようなルートナンバーだ。国道249号に合流すると中島町(七尾市)の道の駅「なかじまロマン峠」で小休止。ここでは「赤イカのにぎり」を食べたが、道の駅はほぼ平常通りの営業をしている。奥能登の入口の穴水に到着すると、道の駅「あなみず」で小休止。ここはのと鉄道の終着駅。鉄道の駅と道の駅が隣り合っている。穴水駅は閑散としていたが、にぎわいが戻る日を期待しよう。

◆穴水のファミリーマートでシャキシャキレタスのサンドイッチを食べ、珠洲道路で珠洲へ。桜峠を越え、県道6号との立体の交差点を過ぎ、能登町から珠洲市に入った。そこが宝立町。柏原の集落に入り、前回は行きそびれた式内社の加志波良比古を参拝。神社はすさまじい状況。鳥居は倒れて砕け散り、ご神燈も狛犬も落下している。足の踏み場もないようなメチャクチャ状態。それでも拝殿は倒れずに残っていた。

◆珠洲の中心、飯田の町からは国道249号で大谷峠まで行ってみる。若山町に入ると、若山小学校の前を通り、その先には「火宮」のバス停がある。火宮は戸数が40戸ほどの集落。元祖「3ばかタカシ」の森本孝さんの奥様、真由美さんは学生時代、火宮をフィールドにして民俗学的調査をされた。それが日本観光文化研究所(観文研)発行の月刊誌『あるくみるきく』第64号(1972年6月号)の「奥能登の村」にまとめられている。〈編注・能登地震がテーマだった5月の報告会に森本真由美さんも参加され、当時のことを話された〉

◆観文研所長の宮本常一先生の「中世の村」も載っている、貴重な1冊。ここではVストローム250を降りて、大屋根の崩れ落ちた家々を見てまわった。火宮を過ぎると、国道249号の大谷峠の登り口。震災から162日になるが、いまだに通行止がつづいている(日本海側の大谷には迂回路で行ける)。

◆飯田に戻ると、珠洲道路経由で県道6号に入り、町野町へ。ここは5月の地平線報告会で話してくださった東雅彦さんの故郷。壊滅した町の状況はまったく変わらないが、そんな町中に震災以降、ずっと営業をつづけているスーパーがある。奇跡のスーパー「もとや」だ。ここでパンとバナナ、チョコレート、フルーツゼリーを買って食べていると、何と「もとや」の若旦那がコーヒーを入れてくれた。

◆熱いコーヒーを飲みながら若旦那の話を聞いた。その間、若旦那は店に出入りするすべての客に一言、二言、言葉をかける。みんなが顔見知りだという。そこへ完成したばかりの仮設住宅のキーをもらってきたという人がやってきた。仮設住宅の住み心地を話してくれたが、大きな家に住み慣れているみなさんにとっては仮設住宅の狭さは大分、こたえるようだ。

◆スーパー「もとや」の若旦那に見送られて町野町を出発。日本海側の曽々木へ。曽々木の交差点の手前が岩倉山(357m)の登り口。山上には北陸観音霊場第16番札所の岩倉寺と式内社の石倉比古神社がある。前回、岩倉山への道は落石や崩落がひどく、途中で引き返した。ところが今回は落石は取り除かれ、段差には古畳などが敷かれ、まったく問題なく山上まで登れた。ところが岩倉寺は見るも無残に崩壊している。

◆岩倉寺の裏手に式内社の石倉比古神社があるが、岩倉寺以上の惨状で、大木が倒れ掛かり、社殿には近づけないような状態だ。岩倉山を下りると、曽々木の交差点で国道249号に入り、大谷方向と輪島方向に行ってみたが、ともに通行止のまま。曽々木からは県道6号→珠洲道路→県道1号で輪島の町に入っていった。

◆輪島ではルートインに泊った。翌朝は夜明けとともに輪島の町を歩く。朝市通りにはまったく人影はない。大火事の痕は焼けただれたままでそのまま残っている。倒壊した7階建てのビルもそのままだ。ルートインの朝食を食べ、8時に出発。まずは輪島漁港に行く。漁港は大地震の地盤隆起で漁船は海に出られず、係留されたまま。ここでは舳倉島への船乗場に行ってみる。舳倉島には式内社の奥津比咩神社があるのだ。

◆しかし舳倉島航路の船は運休中で再開はいつになるかわからないという。残念ながら諦めるしかない。運航が再開されたらすぐに舳倉島に渡ろうと決めた。ここで朗報。奥津比咩神社は輪島漁港のすぐ近くにもあるという。さっそく行ってみたが、すさまじい状況。鳥居は倒れ、玉垣は崩落している。それでも拝殿は残っていた。扁額には誇らしげに「式内 奥津比咩神社」と金文字で書かれている。

◆つづいて輪島の名所の鴨ヶ浦に行った。しかし鴨ヶ浦への道は両方向とも大崩落で通行止。それでも何としても「行くぞ!」という気分でVストローム250を下りると、歩いて崩落した山を越えた。遊歩道を歩き、6コースまである25mの海水プールを見た。鴨ヶ浦の駐車場にはシートをかけられた車が1台止まっていたが、発災前に来て、震災の大崩落で出るに出られなくなってしまったようだ。

◆輪島から海沿いの道で門前に向かったが、大崩落で通行止のまま。国道249号で門前まで行き(中屋峠は迂回路で越えられる)、曹洞宗の大本山、総持寺の祖院を参拝。修復の終わったばかりの総持寺の祖院は今回の大地震でまたしても大きな被害を受けた。門前からは能登半島の秘境、猿山岬まで行く。皆月から海岸線の道を走り、娑婆捨峠の駐車場までは行けた。そこから先の遊歩道は大地震で崩れている。それでも崩落箇所をクリアし、猿山岬の灯台まで行った。灯台は若干、傾いている程度だったが、隣の建物が倒れ掛かり危ない状況だ。

◆門前に戻ると国道249号を南下。志賀町に入ると、世界一長いベンチのある道の駅「とぎ海街道」でカレーライスを食べ、羽咋市に入ると千里浜の「なぎさドライブウェイ」を走り、最後の宝達志水町では能登半島の最高峰の宝達山(637m)に登った。山頂には式内社の手速比咩神社が祀られていた。予期していなかったので大喜びするカソリ。能登半島の式内社めぐりで一番最初に立ち寄ったのが宝達山麓の手速比咩神社になるが、山麓の神社は下社で、山頂の神社は上社になる。宝達山の山頂からの大展望を目に焼き付け、震災後、4回目となる「能登半島」を終えるのだった。[賀曽利隆

今井友樹監督より、『ツチノコ撮影日誌』刊行のお知らせ

このたび、映画(ドキュメンタリー映画『おらが村のツチノコ騒動記』)の制作ノートとこれまでの活動を綴った新刊書籍をはる書房さんから出すこととなりました(https://shop.studio-garret.com/items/87327957)。電子書籍版での販売も始まっています。映画には含まれなかったツチノコの世界、ぜひご堪能いただけますと幸いです!!

『ツチノコ撮影日誌 令和の「幻のヘンビ」伝説』
 今井友樹(著) 山村基毅(編集) 岩井友子 4コマ漫画(その他) はる書房 ¥1,650(税込)

序章 ツチノコって何モノ/第1章 「おる」との確証?/第2章 伝承とブーム/第3章 捜索は今も続く/第4章 ツチノコがいなくなる日/第5章 終わりなき旅に幕/終章 その連なりの先へ

(今後の上映スケジュールなども地平線キネマ倶楽部のサイトhttps://chiheisen.net/cinema-club/で紹介しています)


悩める豪速球

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最北のケーブルカー「もぐら号」に乗ったぞー!

■6月25日夜、盛岡の宿に突然電話がかかってきた。「いま渡辺哲君と大船渡にいるんだけどすぐ来ない?」。いつもの酔っぱらった賀曽利さんの声だ。しかし私は翌日、国道339号線をいく予定だったので誘いを断り寝てしまった。「日本全国の国道は全部走ったゾー」と豪語する賀曽利さんだが339号線の最後は走っていないことは知っている。「ここで出し抜けるゾー!」とほくそ笑んだ。

◆翌日盛岡から新幹線で奥津軽いまべつ駅に向かった。そこからは「わんタク」という乗り合いタクシーで竜飛岬に向かった。339号国道の最後400mは362段の階段になっており日本唯一の階段国道で、車はもちろんバイクも通れない。「どうだ賀曽利、参ったか!」と叫んだが強風にかき消された。

◆階段国道の終点では「津軽海峡冬景色」の歌がガンガン、風がヒューヒューひびいていた。そこから少し下ったところに「青函トンネル竜飛斜坑鉄道」駅がある。実は階段国道はおまけでこの「鉄道」に乗ることが今回の旅の目的であった。かなりの鉄道好きでも竜飛岬に鉄道事業法に基づく鉄道があるなんてことは知らないだろう。しかし「小さな鉄道」愛好家としてこれは逃してはならない。

◆この法律に基づいて新幹線や山手線や私鉄各線が営業しているが、その中に索道というのがある。いわゆる鋼索鉄道、ケーブルカーである。竜飛斜坑線は青函トンネルを掘るときに海底の現場に機材を入れる斜めの搬入路で車台は太い鋼索(ケーブル)につながれ巻き上げ機で上下していた。これが本州最北の「鉄道」として営業していたのだ。

◆通常のケーブルカーは2台の車台がケーブルでつながれ片方が上がるともう一方が下がるという釣瓶(つるべ)式である。日本にある24の営業用ケーブルカーのうち22カ所はつるべ式であるが、青函トンネルのケーブルカーは珍しく単線で巻き上げ式なのだ。

◆私はケーブルカーにはかなりのこだわりがある。単線なのに中間点ですれ違いができるように設計されているつるべ式(交走式)にはすばらしいアイディアが詰まっている。最初に御岳山ケーブルですれ違い線路を見たときには驚き、あきれた。何と片側車輪は幅広平坦で線路の上に載っているだけ、外側の車輪は両側からがっちりと線路を抑えている。普通の車輪では交差する線路をまたぐことはできないがこれなら脱線もせず進むことができる。この高度なすれ違い方法がない単線のものはケーブルカーには値しないと考えていた。

◆しかし昨年の11月に青函トンネルのケーブルカーが廃線になったと聞き、焦った。つべこべ言わずに乗っておくんだった! しかし廃線を惜しんだ鉄道ファンがクラウドファンディングによって今年の4月に復活させたと聞き、何としてでも乗っておこうとやって来たのだ。

◆青函トンネルに在来線が走っていたころ「竜飛海底」駅が海面下140mにあった。駅や坑道を見学する観光客のために工事用車台は20人ほど乗れる客室になり、鉄道事業法に基づいた営業がなされていた。

◆往復1200円払って乗り場に行く。6月なのに外は寒く、坑道内のほうが暖かいくらいだった。14人乗ったもぐら号はまさにガタンゴトンしながら780mを下って行き8分で海底駅についた。案内の方の後ろから坑道や工事車両を見学した。北海道新幹線になってからトンネル内の竜飛海底駅は廃止され見学もできなくなった。10分ほど海底にいて再びケーブルカーに乗って地上に戻る。ケーブル脇には階段が付いているが緊急避難用で歩くことはできない。どうりで片道乗車券がないはずだ。合計40分ほどの青函トンネル坑道体験だった。

◆これまで興味を持っていながらいろいろ理由付けして敬遠したことが多々あった。この後大急ぎで、鉄車輪からゴム車輪に変えたので無視していた鞍馬山ケーブルにも文句も言わず乗りに行った。これで24全部「乗りケーブル鉄」完成。しかし他にもまだまだ心残りのことが数多くある。つべこべ言わずに実行してればよかったのだが、もうこの年では遅い! ……いや遅くないかも![三輪主彦

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8月からアイスランドに行きます

■こんにちは! 8月5日から12月19日まで、アイスランドで過ごすことになりました。現地の大学で学ぶこと、フィールドワークを行うことが主な目的です。首都のレイキャビクにあるアイスランド大学の、文化人類学、社会学、民俗学科で環境人類学を主に学びます。

◆加えて、現地の環境NPOや宅地の庭でインタビューや参与観察ができればと思っています(参与観察は文化人類学の調査法の1つで、現場の実践に参与させていただきながら、観察をおこないフィールドノートを作成することをいう、と理解しています)。

◆私が関心を持っているのは、アイスランドの土壌再生、植林など、人が自然環境に積極的に介入する実践と、自然観です。現在バタバタと準備中です。簡単ではありますが、ご報告でした。九州は曇天と雨天が続いています。何卒ご自愛ください。[安平ゆう

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山形の飯野昭司さんから、『プロミスト・ランド』劇場公開のお知らせ

渋谷のユーロスペースで、6月29日から『プロミスト・ランド』という劇映画が公開されています。原作は山形市出身の飯嶋和一さん(個人的には新作を待望する唯一の小説家)が40年前に発表した同名小説で、舞台は山形県の西川町ですが、映画のロケは集落シーンが鶴岡市大鳥、山岳シーンは西川町志津で行われました。ロケ地ということもあり、山形県内の2館では全国にさきがけて、6月15日から先行上映が行われています。

◆主演は笹谷遼平監督の『山歌』にも出演していた杉田雷麟さんと寛一郎さん。熊を追う山岳シーンはセリフのない場面も長く、(実際に歩いたことのある)山の空気感と緊張感が伝わってきました。飯島監督はこの映画を撮る前に大鳥集落の熊撃ち(マタギ)たちのドキュメンタリー映画『MATAGI —マタギ—』(U-NEXTで配信)も撮っていて、その経験が活かされているようでした。

◆できれば地平線会議の皆さんの感想をお聞きしたいので、ぜひご覧ください。[飯野昭司


エモの目

「青春日記 〜中学生編〜」

  編集長が14歳から書き溜めた、私的記録をちょっとだけ掲載します

◆定期考査が終わってほっとしている。気持ちがゆるんだ。しかし、今さらひきしめる気は全くない。ツルゲーネフの「父と子」を読み終わった。考査でずっと読めなかったのが終わったので一気に読んでしまった。思ったよりやさしいというかゴテゴテしてないというか何しろまぁ味わい深く面白い。今日は下で映画があるそうだ《江本少年が住んでいた豆口台という町は「上」と「下」に分かれており、双方に小さな公園があった。夏の夜はそこでよく野外映画会が開かれた》。明日から学校で水泳がある。もうすぐ夏休みだ。

1955年7月20日(15歳)

◆晴れたよい天気だ。通知簿をもらった。1点下がって144点だった。別に悲しくはない。内容はさほど悪くないから。まぁ、1学期は終わった。「蝶々夫人」を早くみたい。

1955年7月22日(15歳)

◆「蝶々夫人」《八千草薫主演の日伊合作映画》を観た。美しかった!! 美しかった!! この感激は忘れない。美しかった。オペラをはじめて映画でだが観た。やはり素晴らしい。もう一度観たい。聞きたい。あまりにもきれいであった。

 7月23日

◆それにしてもあまりにも蝶々夫人という歌劇は美しすぎる。

 7月24日

◆盆踊りを見てしまった。静寂を好むと自分自身で断言しているたてまえ非常に変な気持ちでいる。が、やはり今静かになってみると静寂とはいいものだとつくづく思わざるを得ない。一方、こういう皆が参加する行事にはよく参加するのがよいという声もある。僕は前者をやはりとることにする。別に威張っているわけではない。蝶々夫人をラジオでまた聴いた。映画の場面を一つ一つ思い起こして聴いているとひとしお感激にたえない。美しかった。

府中エモ散歩を皆で実践した!

■梅雨の差し迫る6月の通信発送日。「緑が美しいうちに府中散歩を是非一緒に」という江本さんの鶴の一声で、前回の横浜に続き急遽 “エモ散歩第二弾” の開催が決定した。6月16日午前10時。武蔵小金井駅に総勢7名が集まると、そこにふらりと現れたのはなんと宮本千晴さん!  飛び入りサプライズゲストとして江本さんはこっそり千晴さんにも声をかけていたのだ。

◆この武蔵野の地に移り住んで3年間、ほぼ毎日家の周辺を歩き倒してきた江本さんの感性で厳選された散歩コースに、在住歴50年以上の千晴さんがセコンドにつくとはなんたる贅沢か。黄門様が二人いるような鬼に金棒無敵の布陣に胸は高まるばかり。お二人が用意してくれた地図を手に意気揚々と歩き始める。

◆あちこちに湧水があることで知られる多摩武蔵野エリア。そのモデルともいえる「滄浪泉園(そうろうせんえん)」には、古来「はけ」と呼ばれる崖の下からこんこんと湧き出る地下水がそのまま残されていて、市街地から一歩踏み入ると背の高い樹々が生い茂り、野鳥の集まる本来の自然の世界に引き戻されるような気持ちになる。ここは人気がないのでその静寂に包まれて一人瞑想するのにもよさそうなスポットだ。

◆続いて、その湧水が注がれる野川に沿って歩く。川のすぐ隣の茂みの道まで降りて歩ける臨場感が素晴らしい。「春先にここを歩くたびに童謡の “春の小川” が聞こえてくる気がするんだよ」と話す先導役の江本さんの後を一列になって進んでゆくと、自分の目線のすぐ先に川面があって、時々亀や鯉が顔を出す。水質が良いからなのか羽黒トンボ(東京都では絶滅危惧種)が普通に横切ってきて、僕は無意識にその美しい羽を指でそっと摘んだ。その距離感に何だか子どものころの感覚が沸々と湧き上がってくる。野花や虫や鳥たちの出現のたびに皆が足を止め、千晴さんの解説に耳を傾ける何とも幸せな時間が流れていた。

◆川辺から通常の歩道に上がると直ぐに自然豊かな武蔵野公園と野川公園が連なっていて、こちらも魅力的なのだが今回のお目当ては別にあるため、公園を横切って多磨霊園に入る。東京ドーム28個が入る大きさの我が国初の「公園墓地」。自家用車も進入できるよう見事に区画されたお墓達はまるで迷路のよう。晴天の空の下、広大で安らぎのある不思議な景観を進むと、やがて目指すべき山の登山口が見えてきた。この通信でも幾度も登場している江本さんと千晴さんが足繁く通い続ける伝説の“浅間山” だ。

◆段差のある階段が始まり、心して登ろうと顔を上げた瞬間、その山のピークの浅間神社の鳥居が視界に入った。標高80mと知ってはいたが、まさかこれほどまでに低いとは恐れ入った。ここから富士山へ想いが届くよう参拝し、縦走を開始。もう一つのピーク手前の東屋にて昼食タイムとする。いつもよりもおにぎりが美味しく感じるのは浅間山の思し召しなのか……? 食後の千晴さんお手製水出し緑茶と新垣亜美さんの差し入れ羊羹が我々の士気を最高潮に高めるのだった。

◆歩き出して程なく、千晴さんが一つのベンチを指差して「ここが “江本の弁当場” 」と紹介してくれた。お二人が散歩中にばったり遭遇する貴重な名所として、後世に語り継ぐべく僕たちは心にしかと刻み込んだ。それにしても千晴さん、「耳も聞こえ辛くなってきているし、素人の解説です」と仰るも、鳥の鳴き声の違いから、浅間山の敷地内のどの場所に何の植物がいつ頃開花するかを熟知されていて、今日の見どころの解説がとてもわかりやすい。一週間ずれれば咲く花も変わってくるそうで、初めて見たというヤブコウジの花を嬉しそうに撮影記録している姿が印象的だった。

◆ここからはしばし市街地を抜けてやや平坦な長い道のりに。正直僕は足腰がギクシャクし始めていたので、バスに乗るという選択肢に一票投じたい気持ちだったが、ツートップのお二人のあまりの健脚ぶりに度肝を抜かれて、とてもじゃないが投じることはできなかった(この日、江本さんの歩数計は31000歩を計測したらしい)。ようやく府中駅近辺の馬場の欅並木参道を経て、ついにゴールの大国魂神社へ到着。府中にこんな立派な神社があったとは知らなんだ。一日中歩いた後の神社近くの老舗蕎麦屋でのビールの美味しかったこと!  皆で武蔵野国一国ひと回りを振り返りつつ団欒を楽しんだ。

◆終始緑が視界に入る程に自然溢れる今回のコース。とても一日では回り切れないエリアだった。武田さんが「江本さんはここに来て寿命が20年延びたね」と笑って話していたが同感だ。基本的に「皆で歩けばどこでも楽しい」というのが僕のモットーではあるけれど、これだけ魅力的なエリアをその日の気分で気兼ねなく選んで歩ける贅沢な環境は本当に羨ましい。季節によっても見応えが変わるので、また是非秋頃に来てみたい。そしていつの日か、このたび江本さん&千晴さんにまざまざと体感させていただいた『徘徊道』を会得できるよう、日々精進を重ねてゆきたい所存である。江本さん&千晴さん、勉強になりました〜!!![車谷建太

2年半前のおそろしい散歩

■「坂道一つひとつに名前がついている。ここは弁車の坂。あそこの崖からは化石もたくさん出ていて……」。宮本千晴さんの解説を聞きながら歩くと、住宅街の坂道にもロマンを感じることができる。大人8人、子どもみたいに川沿いの草道を1列で歩きながら、謎のキノコに驚いたり、花のつぼみをさわったり、鳴き声をたよりにウグイスの姿を探したり……。「今、目の前にあるもの」の美しさにひたれる贅沢な時間だったなあと、改めて思う。ママコノシリヌグイなんて花の名前、初めて聞いた。

◆実は2年半ほど前にも、今回とほぼ同じルートを歩いたことがある。江本さんの案内で大阪の中島ねこさんも一緒に歩いたのだが、出発したとき小降りだった雨はだんだん強まり、雷もゴロゴロと近づいてきた。雷が大の苦手な私は傘をたたみ、ねこさんが貸してくれたポンチョを被って震えながら江本さんについていくので精一杯。風雨はますます強まり全員ずぶ濡れなのに、頭がつきそうなくらい低い橋の下で立ったままおはぎを食べたあと、「さあ行こう!」と歩みを止めない江本さんには、さすがに少し恐怖を覚えた(今となってはいい思い出!)。

◆打って変わって今回は、爽やかな風が吹く初夏の晴天。もうそれだけで、心は踊った。江本さんの健脚ぶりはさらに増していて、住宅街や川沿いをたっぷり歩いたあとも、「浅間山のコースを2周したい」「農工大の農場も通りたい」などと言う。千晴さんが「時間的にも距離的にもムリ」ときっぱり制してくれなかったら、暗くなるまで歩き続けることになっていただろう。

◆江本さんが日々欠かさない長距離散歩を、周囲の人たちは敬意を込めて「徘徊」と呼んでいる。毎月の通信編集が大詰めのときでさえ、江本さんは散歩を待つわんこのように「早く歩きに行きたいんだ」と繰り返す。「歩くことは考えること」を、いつまでも体現してくださっている千晴さんと江本さん。日々の忙しさやちょっとした悩みはあるものだけど、立ち止まらずに歩いて行きたいと思えた府中エモ散歩だった。[新垣亜美

地平線会議からのお知らせ

8月の地平線報告会は
8月31日(土)14:00〜16:30
榎町地域センターにて開催します。
(報告者は未定)

※地平線通信8月号は、お盆の関係で8月21日(水)に発送します。いつもよりお手元に届くのが遅くなりますので、ご了承ください。

夏だよりを募集します

今年は昨年にもまして激しい「猛暑」の夏です。そんな中、8月の地平線通信で恒例の「夏だより」を特集することにします。1人300字以内で。短いので挨拶めいた文章は不要です。ただ事実を書いてほしい。締め切りは8月10日とします。パソコンを持たない方はハガキで江本あて送ってください。


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら江本宛メールください。通信の感想、近況など短く付記してくだされば嬉しいです。なお、通信費は「1年2000円」でやってきましたが、郵便料金の大幅値上げが秋にもありそうです。いっさい値上げしてこなかった地平線会議にとっては重大な事態なので注目、ご協力ください。

鈴木泰子(6000円 いつもありがとうございます。たくさんの方の体験に刺激を受けています。うちの長女も大学1年、長男も高校1年となり、祥太郎君のように色々な体験や経験を積んでいけるかこれからも楽しみです) 長谷川昌美(10000円) 水落公明(3000円 毎月ボリュームのある「地平線通信」をお送り頂きありがとうございます。昔はまず目的地へどのようにして行くかという事を考えなければならなかったですが、今は誰もが世界中どこへでも行ける時代。随分変わったものです… 引き続きよろしくお願い致します。1000円は些少ですがカンパということで) 三森茂充 森美南子 光菅修(10000円 5年分) 斉藤孝昭(6000円 3年分) 橋口優 福島健司(10000円 5年分)


今月の窓

うんこと死体の復権

関野吉晴 

■今から50年以上前、まだアマゾン源流には、地図の空白地帯が若干残っていました。ペルー南東部のパンチャゴーヤと呼ばれる四国ほどの広さの地域は、まさしくそのような地域でした。いまだ地図のない地域があり、そこに文明と隔絶された先住民がいると聞いて、熱くなりました。その先住民マチゲンガに会いたいと、さっそく準備を始めました。

◆最初に訪れた村では、私が訪れたとき、全員が真っ青な顔をして、家から飛び出して、森の中に走り去っていきました。言葉のわかる案内人がいたので、彼らを探してもらい、私が害のない人間であることを説明して、家に戻ってきてもらいました。それ以降その一家とは、もう50年の付き合いになります。彼らは、私が自然と人間との関係を考えるとき、多くの示唆を与えてくれます。つまり、私の師匠のようなものです。

◆彼らの家に泊めてもらい、同じ食べ物を食べて、居候生活をしてみて、気付いたことがあります。彼らのゴミと排泄物と死体についてです。彼らもゴミをつくります。バナナやイモの皮、ゴザやカゴ、漁網、袋、衣類、ひょうたん容器などが壊れたり、腐ったりしたものをかき集めて、森に捨てます。

◆そのゴミは森の虫などの生き物に食べられたり、微生物に分解されて、やがて土になります。その土のおかげで、植物や苔、菌類が育つ。それらを動物が栄養とするのです。ここでは、ゴミが厄介なもの、消え失せて欲しいものではなく、必要なものなのです。

◆排泄も森の中で、野糞です。これも都会では水洗トイレに流されて、圧縮され、焼いてしまいます。他の生き物たちに利用されることなく、二酸化炭素が排出されるだけですが、ここでは、他の生き物たちに利用されます。

◆死体も都会では焼かれて、二酸化炭素が排出されるだけです。一方、マチゲンガの世界では、埋葬されるか、川に流されます。森では虫や土壌生物に分解され、川では、アマゾンの魚の多くは肉食魚なので、それらが死体を食べてくれます。その魚もいずれは他の魚や動物に食べられたり、自然死して腐食して、自然に戻っていきます。

◆自然界では、生き物たちは繋がっています。どんな生き物も役割があり、すべての生き物が循環の輪の中にいるのです。都会に住む私たちは完全に循環の輪の中から外れてしまっていますが、マチゲンガは、自然界の循環の輪の中にすっぽりと入っています。

◆4年前から、ドキュメンタリー映画を作ってきました。『うんこと死体の復権』というタイトル先行の映画です。文明社会では、邪魔物扱いになってしまったうんこと死体とゴミを見直してみようと、嫌われ者、鼻つまみ者の虫たちに金メダルを与えようと獅子奮迅の努力をしているおじさんたちの映画です。伊沢正名さん(糞土師)、舘野鴻さん(生物画家)、高槻成紀さん(保全生態学者)の3人が主人公です。

◆この映画では、うんこと死体とそれらを食べる生き物たちに焦点を当てています。不潔だ、気持ち悪いと嫌われ、疎まれている存在に信じ難いほどに関心を抱き、執拗に観察し、絵を描き、論文を書く。あるいは30年間野糞をし続けるおじさんたちが主役です。「持続可能な社会」という言葉が流行っています。私はそれが実現するために大切なことは「循環」だと思っています。「循環」に関して大活躍をするのが、うんこと死体とそれらを食べる生き物、鼻つまみ者たちなのです。

◆最初に登場するのが、糞土師の伊沢正名さん。1974年正月に初めて野糞をして以来、50年間野糞をし続けて、野糞の重要性を説く伝道師です。かつては、キノコ、シダ、コケなどいわゆる隠花植物の写真を撮っていました。常に下から逆光で、最大限絞り込んで長時間露光で撮った写真は写真集になり、図鑑などに引っ張りだこになり、その手の写真の第一人者になりました。

◆しかし、被写体のキノコたち、ひいては自然に対して、何かお返しができているだろうかと自問します。その結果、野糞こそが自然に報いる唯一の行為と開眼したのです。やがて糞土師に専念するため写真家を廃業、妻には離婚を告げられます。

◆保全生態学者の高槻成紀さん。絶滅危惧種や頭の良い、かわいい生きものばかりに焦点を当てるメディアやそれにフィーバーする世の中の動向に反感を持っています。私も同感なので、玉川上水その他で、高槻さんと、タヌキやその糞に集まる糞虫、死体に集まるシデムシの観察会をはじめました。

◆そこで、ヒトには侮蔑されながらも、懸命に生きている生き物たちを見て、自然界では、必要ない生き物なんていないことに気づきました。また、彼らの視点で、自分たちヒトの社会を見ることを学びました。

◆絵本作家の舘野鴻さん。処女作が死体を食べる「シデムシ」だということからわかるように、嫌われる存在にシンパシーを感じるひとです。最初のページがアカネズミの死体。皆が眼を背ける素材を飛び切り美しく描いています。そう、死体はムシや肉食獣にとってはめったに出会えないご馳走なのです。

◆学生時代には新左翼の立て看板を書き、アングラ劇団で主役を演じ、バイクで爆走してきた舘野さんはカブトムシやカミキリムシを描く気にならなかった。日陰者に光を当てるのが性分なのだ。

◆3人にはもう一つ共通の特徴があります。孫の世代に、「じいちゃんたちが動かなかったから、こんな醜い地球になってしまったんだ」と言われないためには、どうしたらいいかを常に考えています。自分たちが観察したり、経験から大切だと思ったことを、積極的に観察会やワークショップを通じて、子供たちに伝えようとしています。

◆野生の生き物で、必要ない生き物はいません。私が尊敬するウジムシを見てみましょう。集団で、踊るような動きをしながら死体を食べています。ギューッと密集して動く様は、とても躍動的で、地震の原因はウジムシではないかと思うほどです。

◆毎年、害虫展が行われます。害虫をモチーフにしたアート作品を公募して行われ、今年で4回目になります。昨年、主催者から、生物画家の舘野鴻さんとの対談を頼まれました。舘野さんと意見が一致したのは、害虫、害獣という言葉が人間中心的な考え方だということです。例えばハエやその幼虫ウジは人間には害虫と見られ嫌われ者です。しかし、ハエは植物の受粉になくてはならない存在です。ウジは脊椎動物や無脊椎動物の死体の肉、内臓だけでなく、皮まで食べ尽くし処分して土にします。食べ尽くすと地面に潜り蛹になります。自然界では益虫なのです。

◆彼らは、死体やうんこを片付けてくれる分解生物として、重要な役割を果たしているのですが、彼ら自身は遺伝子の命ずるままに、必死になって生きているだけです。必死に生き抜こうとした結果が、生態系を安定化させています。なおかつ自分たちが生態系の安定に寄与しているなんて、思ってもいません。

◆彼らとウンコ、死体とそれに集まるムシたちを観察していて、気がついたことがあります。ムシたちも、ムシたちにウンコと死体を提供する野生動物たちも、何も身につけずに、ナイフも持たずに、徒手空拳で自分で食料を獲得して、生きています。私たちは動植物の生きた細胞を食べて生きています。しかし、彼らは排泄物と死体だけを消費して、殺生せずに生きています。僕は、彼等をカッコいいと思い、憧れるようになっていきました。どうしたら彼等のようになれるのか?

◆僕は野生の生き物の様に、「徒手空拳で、森の中に1人で入って行って生きてみたい」と思いました。アマゾンのマチゲンガは、ナイフ一本持てば、他に何も持たずに、衣食住すべて調達して生きていけます。僕も彼らと長く生活を共にしていたおかげで、ナイフ一本あれば、アマゾンの森に放り出されても、生きていける自信はあります。

◆しかし、森の中で、ナイフも持たず生きていけるのか? 憧れていた、野生動物のような生き方をできるのか? 一年前から、東京郊外の森、続いて新潟のマタギの村で、その試みを始めました。まずは石器作りから始めました。それで木や竹を切り、紐を綯い、家を作り、小魚を取る筌を作り、罠をつくり、火を起こし、ドングリを拾い、石器だけで、様々な道具を作る。狩猟採集の旧石器時代の再現を試みています。

◆今まで、空間的な移動の旅をしてきましたが、今回はタイムマシーンに乗って、旧石器時代へと遡る旅です。毎日が試行錯誤の連続です。なかなか思うようにはいきませんが、創意工夫の手応えがあると嬉しいし、毎日がワクワクしています。

   関野吉晴 初監督作品

    『うんこと死体の復権』

      8月3日(土)より
        ポレポレ東中野ほか
        全国順次ロードショー


あとがき

■50人以上が立候補した都知事選は現職の小池百合子が圧勝、対抗馬と目された蓮舫は3位に沈んだ。次点にのし上がった石丸伸二に40万票の差をつけられた蓮舫さん、自由民主党がそうとうの体たらくなのに野党がやはりダメ、という図式をまたまた実証して見せてしまった。

◆ただ自分を売るためだけの候補者ポスター、NHKに出たい人の自己満足のためだけの「政見放送」、選挙というのは確かにそういう要素はあるけれど、今回の選挙ほど入れたい人がいない選挙もなかったね。

◆用あって、先日久々に松本の町を歩いた。女鳥羽川のほとりをぶらつくのは猛暑に関わらず爽快だった。松本は山岳部時代に何度も来ているのだが、振り返ってみれば一番通ったのは駅の「日本食堂」(たぶん今はない)であることを思い出した。あそこの「カツ丼」と立ち食いそば。その2つを食えるなら十分幸せであったな。

◆先月の通信のフロント原稿の最後に「6月末日に地平線報告会、翌7月1日に地平線キネマ倶楽部主催の映画…」とあるのは、表現が1か月ずれていました。お詫びして訂正します。[江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

魚食文化に首ったけ

  • 7月27日(土) 14:00〜16:30 500円
  • 於:新宿区榎町地域センター 4F多目的ホール

「今はアフリカに燃えてます!」と言うのは白石ユリ子さん(90)。北海道東部の北見に生まれ育ち、大学進学で上京。学生結婚後、専業主婦生活を経て30才から『主婦と生活社』の編集者に。茶道、香道、着物など様々な実用書を世に出し、ベストセラーも。日本の伝統文化を日常の生活文化におとしこむ面白さを実感します。「企画は全部オリジナル。何が当たるか勘が働くの」。

'86年に独立して地域活性化事業なども手がけました。'93年にWFF(ウーマンズフォーラム魚)を立ち上げ、念願だった海に関わります。「島国日本は世界でも稀に見る多様な魚食文化があるのに、忘れられてるのがもったいない」。

食の伝統を見直そうと、全国6千ヶ所の漁村を訪ね歩き、東京の小学校と浜を繋ぐ運動など多くの活動を続けてきました。80才の時、西アフリカ沿岸22ヶ国の漁村女性ネットワークから講演依頼がきます。日本の〔魚のすり身〕を現地に紹介して、地元女性の収入や地位の向上を目指すワークショップ等を始め、毎年のようにアフリカに赴いています。

今月は白石さんに、魚食文化の魅力とアフリカとの関わり、今後の夢などを語って頂きます!


地平線通信 543号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2024年7月10日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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