2024年6月の地平線通信

6月の地平線通信・542号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月12日。朝は爽やかな緑の風が心地よいが、以後日中は気温が上がり、東京ではことし初の「真夏日」となる予報だ。梅雨入りもまだなのに心配されている猛暑がまもなくやってくる。

◆今日付けの朝刊で2つの記事が目についた。「富士山が見えない」という理由で国立市の新築マンションが新築のまま取り壊されるという記事(朝日新聞社会面トップ)と都知事選で《大量擁立 掲示板を「販売」》という読売新聞一面の記事。街づくりで景観が問題であることは近年の大きな要素だが、完成し来月にも購入者への引き渡しが予定されている10階建てのマンションが入居もなしにいきなり解体されるという。

◆確かに駅前から撮影された「富士見通り」の写真を見ると富士山の半分をマンションがふさいでしまっている。積水ハウスという大手なので思い切った判断ができたのだろうが、ここまでやり通した末の解体騒ぎ。これからの街づくりに少なからぬ影響が出るだろう。

◆20日公示、7月7日の七夕に投票日となる都知事選。立憲民主の蓮舫に続いてきょう12日には現職の小池百合子知事が三選にむけて出馬表明すると伝えられるがなんと掲示板が足りない騒ぎが起きている、という。え? たった1人を選ぶ選挙なのに? 出たい人が多く(すでに50人を超える人が必要書類を受け取ったそうだ)。予算案が8兆4530億円という国家並みの東京都。ここでの選挙は勝敗を超えて自己アピールの戦場ともなっていることにげんなり。

◆5月28日、ほんとうに久しぶりに大手町の新聞社を訪ねた。現役時代関わったイベントの資料を頼まれて届けに行っただけなのだが、20数年前とはまったく違う建物で内部も、え? これが新聞社?と思うほど綺麗になっていて完全にアウェーの心境なのだった。1時間半ほど記者の皆さんと話をして外に出ると大手町界隈がまたすっかり様変わりしていて「ここはどこ? 私は誰?」状態の己に呆然とする。ほんとうにお前さん、新聞記者やってたの?

◆5月30日、宇都宮地方裁判所の判決は厳しいものだった。7年前の2017年3月に起きたことはこの通信456号(2017年4月)のフロントで書いている。栃木県高校体育連盟の春山安全登山講習会に、46人の高校山岳部員(いずれも1、2年生)が参加、那須温泉ファミリースキー場にテントを張り、3日間の合宿をする計画だった。私はその直前の3月25日土曜日の午後、「教科」の時間に話をした。

◆山岳部がどうして素晴らしいか、というテーマで自身の山岳部時代のモノクロ写真、チョモランマや極地の写真、そして通い続けたモンゴルの大自然の人と風景をじっくり見てもらいながら話をした。思いがけず万雷の拍手が湧き起こり、それが長く続いたことにびっくりした。1日おいた27日の月曜日、荒天で計画していた登山を中止し、ラッセル訓練に切り替えた矢先、雪崩が発生、私の話を熱心に聞き入ってくれた7人の高校生と先生1人が帰らぬ人となってしまったのである。

◆そういう経緯なので裁判の行方は他人事ではなかった。7年たった5月30日、瀧岡俊文裁判長は「雪崩という自然現象の確実な予測が難しいことを踏まえて検討しても、相当に重い不注意による人災だった」と述べ、業務上過失致死傷罪に問われた当時の講師役の教諭ら3人に対し、いずれも禁錮2年(求刑禁錮4年)の実刑判決を下したのである。防ぎようもなかった天災ではなく「人災」と明確に決めつけたことは検察の主張を全面的に受け入れたものだ。

◆だが、ほんとうにそれだけなのか。私は中学や高校に山がわかる先生がいることがどんなに大事か、と現役の記者時代から主張してきた。今回の判決でも一部わかるように、実は学校で登山をマスターしている先生はとても少ない。山岳部顧問といっても山の経験はほぼなく、“初心者”に近い人がほとんどなのだ。しかし、山岳部は必ずや存続する価値がある。今回の判決以降も、山岳部の存在自体が揺らがないように希う。

◆会場確保と報告者自身の都合で5月末日に地平線報告会、翌6月1日に地平線キネマ倶楽部主催の映画『馬ありて』上映会と2日地平線イベントが続く異例の展開となった。報告会も映画も内容のあるものだった(とくに『馬ありて』は映像詩を見せてもらったような深い印象があり)のでそのこと自体はいいし、今後もあっていいのだが、問題は2次会の連続です。府中に引っ越してからまる3年。なんとか今回のように早い時間に終われますように。[江本嘉伸


先月の報告会から

歪んだ水平線

東雅彦

2024年5月31日 榎町地域センター

■今回の報告者は石川県能登半島出身の写真家、東雅彦さん(47)。能登半島の先端付近、奥能登とよばれる輪島市町野町(まちのまち)出身で、現在は東京都在住。今年の正月、実家に帰省中、最大震度7の令和6年能登半島地震に遭遇する。それもまさに震源地付近で。目の前で大きな日本家屋が倒れ、土砂崩れや地割れで道が寸断される中、半島をさまよう経験をする。まだ震災の記憶も生々しい中、能登半島地震に遭遇した当時の状況や感じたこと、そしてご自身のルーツやそれを培った奥能登の風土について東さんに語ってもらった。

「自分は何者なのか」について

◆町野町にある実家は海岸線から車で5分ほど内陸に入った山あいに位置している。小さなころから自然の中で遊ぶうちに体力がつき、「輪島市陸上競技大会」の100m走では中学1年生にも関わらず学校の代表として出場するまでに。12秒6を記録し3位に入賞した。

◆高校は輪島実業高校機械科に入学。高校にボクシング部もない中、ボクシングを志す。校内の格技場を使って、志を同じくする友人と見よう見まねでボクシングの練習を続ける日々。ついにはボクシング部のある他の高校への練習参加を運動部の顧問に直訴するも「今までに例がない」という理由で却下され、高校生活は虚しい思いが残った。

能登半島の風土、熱狂のキリコ祭り

◆ここで東さんから往時の町野町のお盆の様子がスクリーンで紹介される。巨大な長方形の灯籠が映し出される。キリコというそうだ。キリコとは縦長の長方形の灯籠のことで、高さは2階建て相当(最大で高さ16m、4階建て相当!)の巨大なもので根元に担ぎ棒が設置されている。それを20人前後で担ぎ上げて子供たちが鐘をカンカンカン、太鼓をドンドンドンと叩きながら練り歩く熱狂的な夜祭りだ。豊作や大漁を願い、毎年7月から10月にかけて、能登半島の約200もの地区で、この祭りが繰り広げられる。

◆祭りの期間中は街全体が浮かれており、活気があり、楽しい雰囲気が漂っているそうだ。スクリーンに映されたキリコ祭りの映像からは(震災前の)町野町の人々の熱さと結びつきが伝わってくる。半島という地理的閉鎖性の中で人々は助け合いながら生活し、結びつきを深め、神事や祭礼に対して地域全体が一体となって深く関わり合う土壌が形成されたのだろう。

最初の上京 念願のボクシングジム通い

◆高校卒業後、東京へと上京。歯科技工士専門学校へ入学するという大義名分で昼は学校に通い、夕方はガソリンスタンドでのアルバイト、そして夜は念願のボクシングジムへと通う。ボクシングジムで感じたのは、ボクシングは才能がモノをいう世界。努力だけでは埋まらない溝がある。ボクシングをずっと続けていけば自分は日本ランカーにはなれるかもしれない。しかし天賦の才をもつ者たちがさらに努力を重ねることでその先の「世界を目指す」現実を目の当たりにした。凡人の自分とは雲泥の差があることを身に沁みて感じた。

◆それで19歳ごろボクシングも専門学校も辞め、故郷の町野町へ戻った。電子部品を作る会社に就職したが3〜4か月もすると「やっぱり上京しようかな」という気持ちが湧き、お金を貯め1年後に再度上京。そんなフラフラした気持ちでは何者にもなれるはずもなく、20歳から25歳の夏まで夜な夜な渋谷で遊ぶ日々。シルバーアクセサリーの販売、写真のレタッチやバナー制作をしながら日銭を稼いだ。25歳までただただ遊んでいると、ある夜、自分は何もやってないなと気づく。自分は空っぽだと思った。

◆そんな時期を支えたのがカメラだ。高校のときから新聞配達のアルバイトをしてカメラを買うほど写真に興味があったことを思い出す。高校当時、祖父から譲ってもらえず遺品になってしまった一眼レフカメラを手に26歳の夏、一念発起しオーストラリア・シドニーへと渡る。

渡豪、そしてインド、アジア放浪

◆シドニーでは語学学校に入学し、現地の家族のもとで3か月のホームステイを経験する。余談だが今回の筆者の私=塚本と出会ったのはちょうど20年前のこの語学学校で、だ。当時のクラスは韓国、タイ、日本等のアジア出身者を中心に南米や欧州と様々な国の出身者たちが入り混じっていた。初めて東さんを見かけたときに、当時は珍しかったロン毛にひげ面だったため日本人かどうか確信が持てず「Are you Japanese?」と声をかけたのが最初の会話だった。当時、学校では私が一番若く、5歳上の東さんはお兄ちゃん的な存在だった。

◆シドニーには約1年間滞在し現地の写真事務所での撮影を仕事とした。その後タイを経由しインドのコルカタやラダック、ネパールを旅する。

地震前夜

◆能登へ帰省した12月29日の時点で、街に入ると電柱が大きく斜めに傾いていた。一週間前の大雪のためだ。すでに地盤が影響を受けていたのだろう。そして12月31日には雨が降りさらに地盤が緩んだ。年の瀬は独り身の父と弟の3名で紅白を見ながら鍋を囲んだ。

震災当日と現地の状況、命の分岐点

◆1月1日。遅めに起床し、(能登半島の海近くの)岩倉寺へと向かい初詣を済ませた。例年であれば元日は母方の菩提寺である佐野寺へと初詣に行くが、訪問していないことに気付き、一旦内陸側の佐野寺へと戻り初詣を済ませた。この行動が命の分岐点となる。佐野寺へと戻っていなければ、後述する大谷峠での撮影が終わる時間が早くなり、その後訪問する予定だった珠洲市飯田の海沿いの土産物店で地震と津波に遭遇するところだった。飯田は津波に飲み込まれた街だ。

◆15時45分。海岸近くの高台にある大谷峠で、ライフワークの水平線の撮影を終え、大谷峠を(内陸側の南方面=珠洲市側へと)車で下っていく。

◆16時06分。最初の地震。車が垂直に3度跳ねた。運転中の車内からは何が起こったのかわからず、そのまま大谷峠を下る。

◆16時10分。2度目の地震(最大震度7)。大谷峠を下り若山地区に入ったところで大きな揺れに襲われ思わず車を停める。あまりの揺れの強さに目の前の大きな日本家屋が軋みながら音を立て潰れる瞬間を目撃する。その直後、各地の友人たちからLINEやSNSで津波が来る旨の連絡がある。できるだけ高い場所へと避難するためUターンし再び大谷峠へ戻る。道路はひざ丈くらいの高さで上下にズレて地割れしており数台の車が立ち往生していた。大谷峠で30分ほど避難していると(車が通れないため)反対側の輪島市側から歩いてくる人と出会う。「輪島側はどうですか?」と訊くと「ダメや、輪島側からは道路が割れて車が入ってこれん」。

◆17時も回り、暗くなってきたので、大谷峠から珠洲市側(若山地区)へと再び下って行った。ここから迂回路を経由し実家へ戻れないか試行錯誤するが、どの道も土砂崩れや地割れで進めない。車が道路を通れないため、人々がぞろぞろと歩いてくる。5〜6本の迂回路を想定して車で進むがどの道路も所々地割れがありセンターラインを無視して進まなければならない。夜も暗くなり地割れもある中、車でも時速10キロ程度しか出せず、所々、車から降りて進めるか確認をした。グーグルマップでも出てこないような生活道路も含めて迂回路を探していると警察や消防も同じことをしていた。土砂崩れで進めない、電柱が倒れており進めない道が多発。震災後の数日間、ニュースでは輪島市の朝市エリアの火災の映像がひたすら流れていたと思う。奥能登の珠洲市側の報道が無かったのは報道陣も現地に入れない、進めないのが理由だったからだ。

◆迂回路を1つ2つ進んでいくと、潰れた建物の下で人が生き埋めになっている場面に遭遇する。外にいる娘さんが父親の名前をよぶと「うぅ〜、あぁ〜」と辛うじて返事をしていたがそのうち聞こえなくなってきた。さらにその向こう側の家でも生き埋めが発生していた。娘さんが警察や消防に電話してもまったくつながらない。どうしようもない。助けることもできない状況を目の当たりにする。

◆ちょうど、迂回路を探していたパトカーが通ったため、人命救助をしたほうが良いかと訊いたが、警察は「素人が触るもんじゃないから」と言い、生き埋めになっている方の名前や年齢を確認し、警察のネットワークへと登録した。しかし登録ができただけで、その後どうなったのかはわからない。自分はこの場にいても何もできないと悟り、その場を後にし、迂回路を探し続けた。生き埋めになっていた方のうめき声は今も脳裏に染み付いていて忘れることができない。無力感だけが残った。

◆夜も深まる中、海岸線の道、内陸の道とあらゆる迂回路を想定したが、迂回に失敗し続けた場合はガソリン切れも懸念されるため、実家へ戻るのを断念。車中泊をした。翌朝明るくなるのを待って実家へと車で向かう。はたして、道路はかろうじて復旧していた。工事業者が夜を徹して、地割れした道路に砂利を詰め、障害物を取り除き応急処置をしてくれたからだ。そうして最初につながった道が能登町の天坂から輪島市の町野町へとつながる道だ。その天坂は、以前東さんのお母さんとおじいちゃんが交通事故で亡くなった場所だ。何かの導きか。もし震災当日、母親ゆかりの佐野寺へと初詣に戻っていなければ、珠洲市飯田の海沿いの土産物店で、津波に飲み込まれてしまっていた。生かされたと思った。

今回の報告会にあたって塚本が考えたこと

◆2024年元日の夕方。令和6年能登半島地震が発生した際、福井市の私の家も何度も大きく揺れた。東日本大震災発生時の東京と同じ震度5強だった。水槽の水がチャプチャプと床に溢れ、大きく揺れ今にも倒れそうになる壁面棚を全身の力を使って押さえ、転倒を防いだ。恐怖を感じるほどの大きな揺れから始まった2024年は一生忘れられない年となるだろう。

◆今回、東さんには自身の生い立ちと能登の豊かな風土、そして震災当時の状況を詳細に語っていただいた。残念ながら時間が足りず、語り尽くせなかったことが多かっただろうと思う。報告会後に東さんに「能登の復旧の進捗状況はどんな感じですか? 今年のキリコ祭りは開かれますか?」とつい訊いてしまった。返ってきた答えは「復旧はほとんど進んでいない。家族が亡くなった人もいて、家も仕事も失い、まだまだ先のことを考えられる状況ではない」。

◆それが現地の方たちの偽らざる声だろう。震災からもう5か月が経った。しかし現地の被災者からするとまだたったの5か月だ。高齢化や過疎化が進む中で、復旧そしてその先の復興までの道のりや先行きが見えてこない。復旧・復興は10年単位の長い道のりだ。心の整理がつかないことも多いと思う。今回のリポートを書いているさなかの6月3日には、震度5強の大きな揺れが再び能登半島を襲った。1月の地震で辛うじて建っていた家々の倒壊が相次いだ。

◆人には誰しも故郷がある。アイデンティティーを育んだ心の拠り所となる地だ。人々の結びつきが強く、結(ゆい)の文化が残る能登半島で発生した今回の大きな震災。過去の先人たちがそうしてきたように、災害の多いこの土地でたくましくもしなやかに元に戻ろうとする当地の人々に我々なりの継続した支援が求められている。[福井市 塚本昌晃

報告者のひとこと

突然だった母との別れ

■迂回路が尽きてしまい車中泊をしているときに命の分岐点を実感することになったことを経て2024年1月2日朝、生かされたと思ったことについてのディテイルを補完させていただければと思います。そうするには母の死に触れなければならない。母の死については、ほとんど誰にも話をしていないし正直、この出来事の整理も心の整理もできずに11年間の月日が流れている。5月31日の報告会で初めて人前で触れることになった。

◆2013年1月15日に母は永眠した。私は2012年の暮れから1月7日まで町野町でのんびりしていた。弟は毎年仕事があると言って盆も暮れも帰省していなかった。2012年の暮れは私の勘が働いたのか、なんとしても連れて帰ろうとお盆が過ぎたころからチクチクと今年は必ず連れて帰るぞと呪文を唱えるように繰り返していた。

◆その甲斐があって弟は30日から2日まで休みを取ることができた。10年ぶりの家族の団欒。みんな揃って大晦日と正月を過ごせた。両親は本当に嬉しそうにしていた。私は2013年、新年を迎えた日に「そうだ家族写真を撮ろう」と思った。何年ぶりの家族写真になるのだろうか。というか写真館で撮影したことがないのだから、みんなが1つのフレームに収まるのは初めてのことなのではないだろうかと気がつく。

◆2日に弟を金沢駅に送り私は町野町に戻り7日までのんびりと母と映画を見たり一緒にコーヒーを飲んだり話をしたりして過ごした。2013年1月15日、都内で早朝ロケ撮影だった私は14時過ぎに撮影が終わり、ふと正月ぶりに母へ電話でもしてみようかと思ったがまぁいいやと電話をたたんだ。自宅帰りにTSUTAYAに寄ってレバノンという作品をレンタルしてお惣菜を買って帰宅。シャワーも浴びてさてとビールでも飲みながらビデオでも観ながら夕飯でもとしたところで父からの電話が鳴った。

◆違和感しかない。父から電話があったことなんてこれまでになかったのだ。電話に出ると父の声は震えていた。「驚かんと聞かしやぁ、オカン死んでもたー」。?思考が追いつかない。つい先週まで2人で話しあい笑っていたではないか。死んだ? 最初で最後の家族写真になったってことか? とか色んなことが脳裏を巡った。心ここに在らずの状態で弟には俺から伝えとくから、そっちも気をつけて事を進めてくれと電話を切った。

◆交通事故で即死だったそうだ。深刻な面持ちの弟と合流。私の顔を見て、じわじわと目を赤くする弟。堪えているのだ。私が仕事終わりに電話していれば事故のタイミングはズレていたのにとか、なんだかわからないけども涙が止まらなかった。ドライバーは母のお父さん、助手席に母。私はじいちゃん子だった。2人は天坂をのぼって町野町へ戻る帰路で逝ってしまった。

◆2024年1月2日10時、陸の孤島化していた珠洲市宝立地区から最初に通じた道は母とじいちゃんの没地に繋がる天坂だった。1日に母の実家がお世話になっている佐野寺さんへ挨拶に行っていなければ私と弟は津波に流されていたと思う。こうした出来事の1つ1つがあって子供のころにしてもらったことがあって導かれているようで、生きなさいと言われているようで、私は生かされたのだと思った。[東雅彦

追記:6月3日、浅い眠りの中、報告者のひとことを草案しているとギューンギューンギューンッとスマートフォンから警報が鳴り響いた。どうやらJアラートと揺れにトラウマがあるようだ。能登か!飛び起きた。老眼でよく画面が見えないけれども富山湾のようだ。父親の避難先の近くだ。この日は午後一番で中目黒に作品を設置する予定があった。設置が完了したところで父へ電話。「今朝、富山湾で強い揺れがあったそうなんだけど大丈夫か?」と聞くと父「わりと揺れたわ。でもこの地震、輪島で震度5強じゃなかったかあ」と情報が修正されたのか私に届いた緊急地震速報は富山湾と記されていた。だとしたらと故郷で在宅避難している親戚に電話。無事だった。よかった。畑物の出荷作業のパッキングをしている最中の地震だったそうだ。「怖かったわいやぁー、この間の地震よりも怖かったぁ」と話す。横揺れだと感じたそうだ。私の実家は半壊の証明書が出ている。親戚の恐怖を聞いて、1月2日の夕方になんとか辿り着き、一晩を過ごした日のことを思い出した。空から鉄球が地面に落下したようなドーン、ドーンと不気味な音が響きビリビリ、ギシギシと軋む家屋。あの日のダメージと度重なる余震で家屋のダメージは蓄積されているし、親戚の恐怖も不安も募る一方だろうと思う。私も実家で在宅避難をしなければいけないとなると正直ひるむ。6月3日、この地震で親戚の在所の被害は作業場の崩落。死傷者がなかったのは幸いだけれども堆積されていくダメージに恐怖の迷宮は深まって出口も光も見えてこない。そんな心境だ。


生い立ちから母上の力に救われ、生かされた東さん

■能登の地で、先祖代々160年も続く家に生まれた東さん。語られた生い立ちの中で、強烈なエピソードが……。小学生のときに弱視と診断され、成長過程でいずれ失明となるだろうと医師に告げられ、そこでお母様が愛情を注ぎ込み、毎日欠かさずに作って与えてくれたのは『にんじんジュース』と、目に良いと言われている『プルーン』。そして、遠くの緑多い山々や、夜の星空を眺めることを続けた結果、劇的に視力が回復したということ……。それは、後に写真家を志すこととなった、東さんの写真家の命ともいえる大切な目を、まず子供時代に『お母様と能登の自然に、救われ、生かされた』という経験。

◆そして、能登震災当日の1月1日。毎年の元日の過ごし方の通例とは違った、『何となく取った行動ルート』によって命拾いしたということは、必然的偶然のような、代々のご先祖様が土地から放ったのかもしれない何かを、もしかすると、直感的に感じ取っていたのだろうか? また、車での移動が八方塞がりになった中、最初に繋がった道は、お母様が事故で亡くなられた場所へ向かう道だったということも、きっとお母様から導かれたのでは……と、思わざるをえない。

◆『導かれた道』『救われ、生かされた命』。そのことを心底感じ取った感覚から、何を見つめ、何を表現していくのか? それは写真家になった東さんが、能登のご先祖様、お母様、能登の土地から東さんに託された『使命』なのではないだろうか? 東さんの瞳のレンズは、何を写していくのか? 東さんのこれからの表現活動に期待して、注目していきたいと思いました。[中川原加寿恵 大西暢夫さん監督作品『水になった村』の舞台、岐阜県徳山村に伝わってきた盆踊りの継承に携わっています]

イラスト-1

 イラスト ねこ

能登と震災と私の接点

■久しぶりの平日夜開催だったので、仕事を早く切り上げて参加しました。今回の報告者は能登出身の写真家、東雅彦さんです。能登で幼少期を過ごした東さんの生い立ちのストーリーから始まり、2000年代初頭の東京、オーストラリア、インド、能登……と東さんの美しい写真作品とともに彼の足跡を辿ることができた贅沢な報告会でした。

◆能登といえば、もう10年ほど前の大学生のころ、旅先で立ち寄ったことがあります。「蛸島キリコ」という祭りに地元民に混じって乱入したのですが、その熱気とエネルギーに圧倒された記憶があります。私が参加したとき、祭りの参加者みんなにエンドレスに缶ビールが提供されました(それも発泡酒ではなく、アサヒスーパードライ!)。実は、当時20歳だった私は、ビールの美味しさがまだわかりませんでした。ビールと同時にお酒が飲めない人用にファンタも配られていたのですが、祭りでアルコールが入らなければ興が乗らないと思い、ガンガン飲んで騒いだところ、その祭りが終わるころにはビールが大好きになっていました。今では私はお酒が大好きなのでもう遠い過去のように思えますが、思い出してみればあれが私とビールの最初の馴れ初めだったのです。

◆祭りではビールだけではなく、それぞれの民家で立派なご馳走が準備され、私もよそ者ながら御相伴にあずかりました。能登の人々は、県外に出ていても一年に一度の祭りのために必ず戻ってくるほど地元が大好きだということを宴会の席で何度も聞きました。ほんのわずかな接点ではありますが、そんな思い出のある能登が被災したということで、ここ十数年に日本各地で何度か起きた震災の中でも、特に感じ入るところがありました。

◆2023年から2024年にかけての年末年始は、私自身もバタバタでした。年明け締切の仕事が終わらず、年末ギリギリまで家で子どもの世話をしながら仕事をしていて、鏡餅も正月飾りも大晦日の夕方に焦って購入する始末でした。ようやく仕事にキリがついたところで年始を迎え、テレビを見ながら昼寝をしていたら大地震。しかも、大地震で番組もすべて地震速報に差し替えられて世間が騒然とした中で子どもが高熱を出し、元日から営業している小児科を急いで探して受診することになりました。年明けに保育が始まってママ友に話を聞くと、その家の1歳児も元日に熱性けいれんで救急車を呼んだとのこと。

◆能登に帰省して過ごしていた東さんも、年末はカメムシが大量発生したりタヌキが出没したり、といつもと違う様子だったと報告してくれています。地震直前に撮影した水平線の写真がモノクロームだったというのも、なんだか象徴的。「いつもと違う何か」というものを、感じ取っている人は少なくなかったのかもしれません。

◆5分遅れで報告会会場に到着しましたが、受付の方が「今日は赤ちゃんいないの? 残念〜(笑)」と言ってくださいました。報告会に息子を連れてきたのは、500回目の報告会が行われた11月が最初で、週末は何かと忙しくて以後一緒に来る機会を逃していました。あれから半年も経ち、1歳を少し過ぎたばかりでまだ歩けなかった息子も、今では達者に走るようになりました。子どもの成長は早いものです。また息子を連れて報告会に伺います。[貴家蓉子

能登半島の式内社めぐり

■震災後、3度目の能登半島をまわってきた。5月15日から5月16日までの2日間で能登国の式内社とその論社の47社をまわった。能登国は羽咋郡、能登郡、鳳至(ふげし)郡、珠洲郡の4郡からなっているが、郡ごとにまわった。羽咋郡の中心は羽咋、能登郡の中心は七尾、鳳至郡の中心は輪島、珠洲郡の中心は珠洲になる。

◆バイクはスズキのVストローム250。すでに地球8周分の24万キロ近くを走っている超タフな相棒。カソリの手足のようなものだ。午前2時に神奈川県伊勢原市の自宅を出発し、新東名→圏央道→中央道→長野道→上信越道と高速道路を走りつなぎ、9時には北陸道の金沢森本ICに到着。ここまで我が家から530キロ。金沢森本ICが今回の能登半島の出発点になる。

◆金沢森本ICから国道159号で能登半島に入っていく。まずは「羽咋郡編」。宝達志水町の手速ひめ神社が第1社目。霊山の宝達山(637m)の山麓にある。苔むした石段、うっそうとおい茂る森。地震の影響はほとんど受けていない。つづいて相見神社、志乎神社と宝達志水町の3社をめぐった。宝達志水町から羽咋市に入ると、羽咋神社、椎葉円ひめ神社(円井町)、大穴持像石神社、気多大社、椎葉円ひめ神社(柴垣町)の5社をめぐった。

◆気多大社は能登の一宮。大穴持像石神社は気多大社のすぐ近くにあるが、ここは民俗学者折口信夫ゆかりの神社。「知らなかったなあ……、気多大社は何度となく参拝しているのに」。志賀町では諸岡比古神社、神代(かくみ)神社、百沼比古神社、奈豆美ひめ神社の4社と奥山峠を越えた能登町の瀬戸比古神社をまわった。「羽咋郡編」では全部で13社をめぐったが、13社ともそれほど地震にはやられていない。

◆高浜(志賀町)の「はしみ荘」に泊り、翌日は「能登郡編」を開始。出発は5時。羽咋市大町の御門主比古神社を参拝したあと中能登町に入り、能登ひめ神社、くて比古神社、白比古神社、鳥屋比古神社、天日陰ひめ神社、伊須流岐(いするぎ)比古神社と6社をめぐる。それほど広くはない中能登町に6社もの式内社と論社があるのは驚きだ。中能登町の文化度、歴史度の高さを感じさせる。そのうち天日陰ひめ神社は能登の二宮、伊須流岐比古神社は霊山の石動山(564m)の山上にある。

◆中能登町から七尾市に入ると藤原比古神社、久志伊奈太伎ひめ神社(飯川町)、久志伊奈太伎ひめ神社(国分町)、能登生国王比古神社、御門主比古神社、阿良加志比古神社、宿那彦神像石神社、伊夜ひめ神社、荒石比古神社、白比古神社、菅忍ひめ神社、藤津比古神社12社をめぐった。さすが能登国の中心の七尾市だけあって数が多い。そのうちの伊夜ひめ神社は能登島にある。七尾市内の神社になると鳥居が倒壊していたり、ご神燈や狛犬が落下している神社が多くなる。

◆最後に志賀町北部の諸岡比古神社と瀬戸彦神社の2社をめぐったが、ともに大地震の影響をまともに受け、かなり激しくやられていた。それでも社殿は倒れずに残っていた。志賀町はこのことからもわかるように町の北部の富来を中心とする一帯と、町の南部の高浜を中心とする一帯では大地震の揺れの度合いが違っていることがよくわかる。

◆2日目は全部で21社をめぐり、「はしみ荘」に連泊。翌日は4時30分に出発し、能登半島横断の県道3号で田鶴浜(七尾市)へ。そこから国道249号を北上する。のと鉄道の能登中島駅で止まり、そして中島の町に入っていく。ここでは久麻加夫都阿良加志(くまかぶとあらかし)比古神社を探したが、なかなか見つけられない。

◆自転車に乗った女性に聞いてみると、中島町の宮前にあるという。なんともラッキーなことに「私はこれから宮前まで行くのですよ。よかったらついてきてください」といわれた。中島の町から約2キロ、自転車の後ろについて走り、久麻加夫都阿良加志比古神社を参拝した。

◆中島から国道249号をさらに北上し、穴水町に入ると、「鳳至・珠洲郡編」を開始。穴水の中心街にある穴水大宮(辺津ひめ神社)へ。鳥居や玉垣は崩れ落ちているが、拝殿はしっかりと残っている。

◆穴水町ではつづいて川島の美麻奈比古神社、中居の神杉伊豆ひめ神社、甲の加夫刀比古神社とまわったが、どこも激しくやられていたが、それでも社殿は残った。穴水町から能登町に入ると、藤波の神目(かんのめ)神社はみつけられたが、布浦の加志波良比古神社が見つけられない。赤崎海岸の灯台まで行ったところで断念し、珠洲市に入った。

◆珠洲市の2社、古麻志比古神社と珠洲の地名の由来にもなっている須須(すず)神社を参拝すると、県道6号で輪島市の町野町へ。ここは先月の報告者で地平線通信に「能登半島地震」を連載されている東雅彦さんの故郷。町は壊滅し、大地震から138日たっているが、ほとんど手つかずの状態。そんな町野をグルグルまわったが、石瀬比古神社を見つけられない。

◆壊滅状態の町中にあるGSは営業していたので、そこで給油し、石瀬比古神社を聞いた。すると、ちょうど給油中だったゴミ収集車のお二人が「それならサンサにあるよ」と教えてくれた。町野から3キロほどだという。「ちょうど収集が終わったので神社まで案内しよう」と言ってくれた。助かった。心やさしき能登人よ。「サンサ」は難解地名で「真久」と書く。真久の家並みの途切れるあたりに石瀬比古神社はあった。

◆鳥居は倒れ、荒れ放題の状態。それでも神社前の水田では田植えが終わっていた。町野町にはもう1社、式内社がある。西時国の石倉比古神社だ。霊山の石倉山(357m)の山上にある。舗装林道を登っていったが、大地震による落石、山崩れの連続で、身の危険を感じてそれ以上登るのは断念した。

◆町野町を後にすると輪島へ。中心街の鳳至町にある住吉神社を参拝。鳥居は崩れ落ち、常夜灯も崩れ落ちている。青銅製の狛犬は残った。拝殿は身ぐるみを剥がれたような悲惨な姿になり、本殿は倒壊している。あまりにも痛ましい。それはまさに能登半島地震で壊滅状態になった輪島の町を象徴するかのようだ。

◆「鳳至・珠洲郡編」の最後は門前町(輪島市)の道下(とうげ)にある諸岡比古神社。ここも鳥居は倒れていたが、拝殿は残った。「鳳至・珠洲郡編」では全部で13社をまわったが、そのうちの布浦(能登町)の加志波良比古神社と西時国(輪島市)の石倉比古神社には行けなかった。加志波良比古神社は事前の調査ミスで、能登町の布浦ではなく、宝立町の柏原(珠洲市)にあることがわかった。残りの2社には必ず行こう。「また、次だな!」。帰宅早々、震災以降、4度目の能登半島を計画するカソリだった。[賀曽利隆


―― 連   載 ――
波間から

その9 冒険という自己愛

和田城志 

■海の上ではあまりすることがないが、常に緊張を強いられる。一人だからすべての出来事に対応しなければならない。肉体は無意識に環境に反応し、神経は研ぎすまされているって感じ。だから港に係留し終わるとホッとして、どっと疲れが出てくる。これは登山とは違う感覚だ。山登りも、洗練された装備や情報に助けられてはいるが、最後は己の肉体だけが頼りだ。海上では、シーマンシップはもとより大切だが、主人公は人ではなく船で、船を離れるときは死ぬときだ。海洋の厳しさ激しさは、山とは比べものにならない。海と人は対等ではありえない。

◆かつて未知未踏を金科玉条として地理的探検を謳歌した時代は、その精神(動機)と肉体(行動)がストレートにつながっていてわかりやすかった。探検の歴史は、帝国の覇権(支配欲つまり富の収奪)から始まり、大航海時代に異文化との遭遇と交流で世界は一変した。そこには常に武力が背景にあり、宗教的啓蒙と経済的侵略は探検の駆動力であった。フェニキア人からキャプテン・クックまで、海洋探検の時代はとても長い。

◆探検は、時代が下るにつれ、組織的事業から個人的活動に変化する。とはいっても、探検圧のベクトルは常に文明国から未開地に向いている。アフリカ、南米、中央アジアの探検あたりから、富より知的好奇心(学術探検)の比重が大きくなっていった。そして探検のフィナーレは極地である。そこには国家の威信はあったが、領土的野心はほとんどなかった。北極、南極、そして第三の極地ヒマラヤへと続く。登山は地理的探検の最終章に登場したことになる。

◆だけど、人間の知的好奇心というヤツはてごわい。対象が枯渇すれば作ってしまう。探検が発見もしくは克服とすれば、冒険は発明もしくは演出といえる。そして探検と冒険は融合する。恋愛に例えれば、うぶな初恋が濃密な性愛に成熟する過程といえるか。探検(初恋)と冒険(性愛)の優劣は、今となってはつけがたい。なかなか一筋縄ではいかない。

◆演じられる冒険とは何か。「初めて」であることは必須であるから、有限な自然環境に多様な役割を果たさせて、バリエーションを創作することになる。人間側でいえば、過去の記録の隙間をみつけて、あえて不利(困難)な状況を自分に課すことになる。これらの掛け合わせで、「初めて」らしい冒険が作られる。しかし、それを実践するのは言うほど簡単なことではない。

◆登山にはもう探検的要素はほとんどない。あまり人の見向きのしない山域の未踏峰を物色することはあるが、とても探検とはいえない。出遅れてきた私もなるべくそういう山を探してきたし、いくつかの初登頂も成功させた。しかし、そういう山は、すぐに忘れられる。メディアは未踏峰初登頂を大げさに取り上げてくれるが、おざなりの評価で登山の中身はほとんど語られない。

◆ヒマラヤ観光登山は、最初はトレッキングが対象だったが、受け入れる側の遠征請負エージェントがしっかりしてきて、高所登山も十分に観光の対象になるようになった。高峰は客単価が高いので、トレッキングよりも儲かる。ドル箱エヴェレストはびっくりする値段で、登るのに罪悪感を思うほどだ。しかし、これも観光立国のネパールにとってはありがたい。最高峰ブランドの人気が衰えることはない。その結果が、ゴミ問題と排泄物汚染なのは皮肉ではあるが。言っておくが、ウンコのせいではない。ウンコは立派な資源である。一か所にたくさん集めるから(つまり人が集まるから)問題なのである。

◆登りつくされた8000mノーマルルートは、もはや冒険の名に値しないが、高所ハイキングにおけるポピュリズムは止められない。冒険の自己愛がそれを加速させる。大衆はオリジナルな目標を持つことはあまりない。だから彼らは、注目を浴びる情報に左右されやすい。日本百名山や8000m峰に人が集中するのは、まさにその証である。目標は数値化されやすく、比較されて競うようになる。エスカレートすると、劇場型パフォーマンスにさえなってしまう。これは高所登山としてはたいへん危険であるし、実際遭難した事例もある。演じる大衆登山家と観賞するヒマラヤ愛好家が、話題を共有して響きあう。YouTubeの世界である。

◆しかし、自己愛は自己承認の素直な姿ともいえる。他人から見て、独りよがりではない行為に感じられることが重要である。わかりやすい冒険は、大衆に受けがいい。他人事であるはずなのに、非日常を疑似体験したような気にさせる。冒険という行為が、社会に何かを訴えるようなものであればなお受ける。冒険が世間という他者の鏡にどのように映っているか、冒険者が人目を惹く行為に振り回され始めたら要注意だ。

◆私は、「沈黙に値する行為としての冒険」を最高のものだと考えている。自己表現の不要な完全な自己充足、その真実を知っている者は、私だけという自閉的世界にあこがれる。それはもはや、冒険というより生き方の問題だ。

◆私といえば、冒険のかけらもないヨット旅の波間に老いを遊ばせているだけだ。ティルマンのように大自然の静寂に身を置いて、女と目立つことを嫌悪する知的な獣になりたかったのに、似ても似つかない遊び人になってしまった。思えば、いつも誰かに影響を受けてきた。学生時代は60年代の京大山岳部に、岩登りに夢中になったときは社会人山岳会のレジェンドクライマーたちに、ヒマラヤに目覚めたら圧倒的なヨーロッパのアルピニストたちに、今でも嫉妬心がわくことがある。

◆かつて体力だけには自信があったが、知識も技術もそこそこで、後塵を拝する登山ばかりに終始した。アルピニズムは刹那だ、マスターベーションなのだと斜にかまえていた。他人の目を気にするよりも、己を見つめる視線こそを大切にするべきだった。本当に何をしたかったのか、すべきだったのか。

◆1960〜70年代、学生運動と連動して、地理的探検やヒマラヤ登山が問い直されたときがあった。海外への自由渡航ができるようになって、小田実や開高健などの見聞紀行が若者をたきつけた。公害、差別、反戦反核、労働争議、イデオロギー論争、政治の時代だった。真の探検の対象は、海外の未開の地ではなく、足元の社会的不公平や不正義にあるのではないか。大学紛争の中で、探検部や山岳部の活動は肩身の狭い思いをしていた。今もどこかにその影響が残っているのかもしれない。何だか胸を張れないのだ。アルピニストは、額に汗する勤労者ではない、呑気な放蕩遊民なのだと。

◆『ランタンの灯』という物語を紹介しよう。本で読んだのか、ラジオで聞いたのか、出どころを忘れてしまった。だから、筋書きをかなり脚色した。アルプスで最後まで登られなかった鋭鋒があった。著名なアルピニストで大学教授の紳士が、ついに単独で初登頂に成功した。国中で話題になり、あちこちで講演会が開かれた。ある町で講演会の後、展示された装備や地図やスケッチを見ている老人を見かけた。懐かしそうに見ている老人に、紳士は話しかけた。老人は言った。「頂上の岩の上にランタンはなかったかね」と。驚いた。実は、頂上で朽ち果てたランタンを見つけていたのだ。しかし、紳士は自分の初登頂の名誉を守るために黙っていた。そして、そのことでずっと悩んでいた。老人は、やわらかい笑みを浮かべ、懐かしそうに物語った。

◆アルプスの山麓に貧しいが愛し合う若者と娘がいた。若者は生活のため、町へ大工の修行に出かけることになった。町と村の間には険しいアルプスの山並みが連なっていた。娘は反対した。町に行ったらきれいな女の人がたくさんいて、きっと私のことを忘れてしまうだろうと。三年の歳月が流れた。淋しさに耐えかねて心を病んだ娘に、若者は手紙を書いた。今年も村には帰れそうもない。クリスマスの夜に山の頂を見てくれ。そこに灯りが点っていたら、僕がお前のことを忘れていない証しだと。

◆そこには登山家たちをはねつけていた、難攻不落の未踏峰があった。若者は、親方に頼み込んで数日間の休みをもらい、単身山に挑んだ。岩と氷、風雪の厳しい登攀になった。あらゆる苦難を乗り越え、三日目の夕闇、疲労困憊して頂上に立った。クリスマスには間に合った。頂上から故郷の村の灯りが見おろせた。ランタンを灯すとすぐに下降に移った。夜通し歩き二日後に麓の町に降り立った。

◆娘は、頂上に弱々しく光る星を見た。娘は若者の愛を確信し、やがて病は癒えた。その後、二人は結ばれ、辛抱強く人生を紡いだ。老人は、子宝に恵まれ幸せな日々を暮らしたこと、妻とは死別したこと、生活は相変わらず苦しいことを語った。しかし、深いしわが刻まれた面差しは、幸せで豊かな人生を歩んできたことを物語っていた。杖をついて歩み去る老人の背中を見送りながら、紳士は嗚咽した。自分の欺瞞と愚かさを恥じた。彼は山を去り、大学も辞めて姿を消した。

◆この物語は、市井に生きるありふれた人間の誠実さと情愛に対して、冒険に自分の名誉を重ねようとしたアルピニストの自己愛の葛藤を描いている。老人の冒険は、まさに「沈黙に値する行為」だった。生きるとは何か、冒険という自己愛とは何か、考えさせる話である。

 ――自己愛――

 口から入るもので わたしはできている
 目と耳から入るもので わたしは豊かになる
 暗がりと静けさが わたしをいざなう
 来し方が あたたかい沈黙をまとって
 うしろ姿で近づいてくる
 少しだけ口をひらいて ごめんと言う
 照れくさくなって 酒をあおる
 行く末が あわれむような顔をして後ずさりする
 賑わいのあとかたもない路地裏に
 しのびよる 潮の香りと波の独り言
 鄙のきわまった 港町のかたすみで
 わたしは 飽きもせず風雪の山を想う
 みなぎる二の腕と 血たぎる胸のときめき
 失ったそれらを 着古したポッケにさぐってみる
 指先に触れたのは 病む児の魂のかけらだけ


植村直己冒険賞を受賞して

■梅の咲く大寒のころに知らせを受けた「植村直己冒険賞」の授賞式が去る6月1日、植村さん生誕の兵庫県豊岡市であった。御挨拶でも言ったことだが、植村さんとは1982年1月、南米最南端でニアミスがある。前年、東農大探検部の20周年記念活動で南米三大河川カヌー縦断をやり、最高峰アコンカグアと6000m峰二つ登って二つの目的を達した私は三つ目の目的の最南端パタゴニアのフエゴ島のウスアイアの港まで来て、南のナバリノ島を観ていた。

◆大学を出てからの計画「青い地球一周河川行」の最終ゴールの偵察であり、先住民の生き残りのヤーガン族のお婆さんに会いたいと思っていた。ウスアイアの港から南を望んでいたら「植村に会いにきたのか? 昨日南極行きの船で出たぞ。残念だったな」「冒険家の植村直己さんですか? 知らなかったです」「せっかくだ、うちへ来て休んでいけ」。第二次世界大戦中自動車隊の隊長として香港へ一番乗りしたというその日本人老人の半生記を三日三晩聞かされた。4日目の朝、同じ話が出てきたので、おいとまを言ってフエゴ島を後にしてパイネ山群とフィッツロイ山群を流れるフィッツロイ川とパイネ川の偵察へ向かった。

◆あれから42年経ち、植村直己冒険賞をいただき、お墓参りをさせていただいた。感慨深い。こんな日がくるとは思いもしなかった。冒険をやっている感覚がまったくなかったので、受賞当日まで戸惑っていた。友人に教えられてYouTubeの受賞時の動画を観た。案の定おどおどしている。若い他の3人の受賞者の方が落ち着いている。せめて「地球一周河川行」計画の半分くらいまで達していればいいが、私のはナイル源流で止まっている。全体の5分1もきていない。こんなんで賞をもらって恥ずかしい。

◆さらにもう一つの行動の森林保全計画は目標の10分の1にも満たない。その想いがあるままこれからも、次の夢へ向かって進むつもりだけれど、どうも死ぬまでにできそうもない。1997年より四万十川をベースに、ナイル源流のルワンダで植林プロジェクトをやりながらナイル上流の治安回復を待って30年以上になる。偵察と称してユーラシア大陸の川はいくつか行った。虫食いのようにちょっとずつだ。受賞した日の夜、四万十の山の師匠から電話があった。「よかったのう。ワシも86歳になった、82歳まで山で働いたぞ」「若いもんと一緒に?」「おら、おうよ。今でもやわい若い衆には負けんぞ」。縄文遊びや江戸暮らし、山の生活の知恵と技を習ったのは、たくさんの師匠達がいるが、その一人の口癖は「困ったタヌキは屁でわかる」。窮したタヌキは神経と胃をやられ屁が臭いらしい。屁が臭くならないように、今日一日、元気に健康に夢に向かって進もうと決意した受賞でした。[山田高司


通信費をありがとうございました

■先月号の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら江本宛メールください。最終ページにアドレスがあります。通信の感想、近況など短く付記してくだされば嬉しいです。

小林祐二・由美子(5000円 山好き、冒険好きな年長の従兄弟の部屋で出会った地平線通信と、長い時間を経て、再会できて嬉しい毎月です。江本さんたちが同じ屋根の下に転居されて良き隣人となり、素敵な環境を楽しんでいるフロント記事を楽しんでいます。様々な視点で世界を見せてくれる熱量のある皆さんの記事を浮世の憂晴らしのように、また目を覚ます思いで読んでいます。いつもありがとうございます) 上舘良継(振込1か月おくれ、スミマセン。文字がひと回り大きくなると老人には助かります) 野々山富雄(屋久島 10000円 しばらく払ってませんでした。すみません。長野さん、まきちゃん、結婚おめでとうございます。昨年、上京したとき、長野さん宅に泊めていただき、山田兄からもお聞きしてはいましたが、本当に嬉しいニュースです。お二人の末永いお幸せを祈っております。いつかまたお邪魔させてくださいね。自分の方はというと、手術した人工股関節の調子はすこぶる良いです。まだ長時間、長距離の山行は控えていますが、毎日のように山仕事、歩きまわっております。また上京して皆様にお会い出来る日を楽しみに、サイボーグガイドとしてガンバります) 竹下郁代(20000円 地平線通信についての断想。竹下恕軒〈郁代夫〉。大学山岳部で江本さんの一年後輩です。今年で83歳になりました。家内宛に送られてくる「地平線通信」はよく読みます。いつもながら若い人達の冒険談を読むと老骨が疼くようです。名も無き〈少しはあるかもしれないが〉冒険家を世に送り出し、記録を残し、若者たちを鼓舞させた会議の功績は大きいと思います。「通信」の中の年配の方々の寄稿文にもよく老骨を揺さぶられます。失礼を顧みず名前を挙げさせて頂くと吉川謙二、和田城志、山田高司、この御三方の文を私は好みます。若いころからあまりブレずにいきてこられたのだなとの印象です。敬服です) 澤柿教伸 瀧本千穂子 菅野智仁


驚きの高卒女子、ついに我が家に住み込んだ

■千葉の高校をこの春卒業し、鷹匠を目指している宗萌美さんが天童の我が家に引っ越してきたのは月山のブナの新緑がまぶしい5月11日のことだった。大型のタカを使って雪山で狩りがしたいという小学生のときからの憧れをふくらませ、中学高校では卓球で体を鍛え、とうとう両親も説得し私に弟子入りを志願してきたのだ。

◆ディズニーランドに近い浦安の高層マンションで生まれ育ち山登りなどまったく未経験だった彼女にその夢が果たして叶えられるものだろうか。

◆しかし、高校在学中から何度も私の家に足を運び、鷹の訓練や餌作り、夏休みには月山や鳥海山、飯豊山等の登山を体験してきた彼女に何の迷いもなかった。

◆最初はリンゴやジャガイモの皮も満足にむけないほど不器用だったが今では出刃庖丁や手斧を使ってタヌキやアナグマ、イノシシ等も平気で解体できるほど上達し高校3年のときには自宅のマンションの一室でメンフクロウの餌用に手に入れたネズミをシッポを持って床に叩きつけて殺し三つ子の兄妹でわけ合って食べたという。

◆その話を本人から聞いたとき、はるか50年前山登りにあけくれ、ヘビやカエル、はてはイヌやネコまで食べていた私の学生時代を思い出し、それでこそ私の弟子だと感動すら覚えたものである。

◆私の家の2階に住み込んではや1か月がたとうとしているが、タカの訓練や畑仕事の手伝いのかたわら10キロの重りの入ったベストを着て常に腕立て伏せや腹筋のトレーニングを欠かさず、腕相撲勝負では瞬殺で私を打ち負かし、最上川の土手ランニングではあっというまに私を置き去りにして走り去っていく(少しは老人をいたわらんかい)。

◆数年前の冬の寒さで水道管が破裂し、それ以来トイレも風呂も満足に使えない山形の古民家の片隅から今一匹の野獣が生まれようとしている。[天童市 松原英俊

イラスト-2

猫の肉、やわらかく、美味しい

■今年、鷹匠の松原英俊さんに弟子入りした宗萌美です。弟子入りして早1か月ほどになりますが、その中で私がした冒険についてお話いたします。

◆引っ越して数日後、師匠は冷凍庫から車に轢かれた猫の死体を引っ張り出し、「これ、食うか?」と聞いてきました。私はさまざまな動物の肉を食べることに興味がありますから迷わず師匠に「食ってみたい」と答えたのですが、その反面、猫の肉はあんまり美味しそうじゃないなと思っていました。しかし、これも経験、おもいきって猫の肉をフライパンで炒め、焼肉のタレをかけて食べてみるとその肉は意外にも非常に美味でそして今まで食べたどんな肉よりもやわらかいのでした。

◆師匠の鷹狩りは他の方とは違い、雪山に雪洞を掘ってベースキャンプとし、何日も泊まり込みで鷹とウサギを探すのですが、私はこれは鷹狩りというよりむしろ一種の冒険ではないだろうかとすら錯覚しております。しかし、そうすることによって鷹と人が一体となり、やがてそのまわりの自然、山とも一体となることができる。そんな究極の人鷹一体を私はこれから一生かけて追求していきたい。

◆鷹と自然の中で生きていくということがこれからの私の最大の夢ですね。[宗萌美

※松原さん、宗さん、おふたりとも鉛筆書き、同じ封書で

先月号の発送請負人

■地平線通信541号は5月15日に発送しました。今回も22ページの厚さになりましたが、いつもの精鋭で印刷・発送作業は無事に終わりました。北京ではおいしい料理をお腹いっぱい食べました。今回は長岡のり子さんの二色あんパンのほか、武田君が前日沖縄で買ってきた「日本一おいしいサーターアンダーギー」の差し入れがありました。のり子さん、武田君、ありがとう。作業に参加してくれたのは以下の皆さんです。みなさん、おつかれさまでした。

 車谷建太 渡辺京子 高世泉 伊藤里香 長岡竜介 中嶋敦子 武田力 久島弘 秋葉純子 落合大祐 江本嘉伸


森を出たサル 「人間らしく、自分らしく、生きたい、なっ!」

■無知、悔恨そして無念のケリをつけると……雨晴海岸で立山連峰から昇る御光に手を合わせ、「2023歴史をやれ、旅をしろ」を締めくくった。以前、海を背にした駅舎に、いま出会った同じ光景のポスターに「冒険には、年齢制限はありません」と、あった……朝日を浴びる列車に飛び乗った。

◆──あちこち旅をしてまわっても、自分から逃げることはできない……ヘミングウェイだったか。

◆2024元日、能登半島を襲った巨大地震「すわっ!南海トラフか……」、ご光臨を仰ぐ海岸も津波で甚大な被害を受けた。「正月のほろ酔いが吹っ飛んだ」とは、被災者を思うと、とても言えない。

◆「南海トラフの発生確率70〜80%」政府発表の地震発生の確率計算、「やり方変えれば20%もあることも明記すべきか」と、専門家会議「海溝型分科会」での地震学者の指摘(議事録)を気鋭の記者(小沢慧一著『南海トラフ地震の真実』東京新聞発行)がスッパ抜いた。政府の生煮えの地震予知──「70%が20%」としても、いつか必ず南海トラフ巨大地震はやってくる。図らずも、「もはや地球キラーから逃れられない」と、腹をくくることとなった。

◆人知を超えた地球キラー──地球沸騰化による“暴れる極端気候”、巨大地震、AIが人間を超えるシンギュラリティ、日常化した戦争の隙間の平和などなど「先例のない地球事変」に、これまでの延長線上に“正解/ソリューション”はあるのか、地球キラー“実戦場”の歩き方とは……。

◆ぼくらは未来を過去化し、来たるべき未来を“驚異”と“脅威”が同居するパラレルワールドの境界を生きている。戦争しようが、地球が沸騰化しようが、自然環境を破壊しても、AIが一線を超えても、もう誰も止められない。地球キラーは「地球の終わりでなく、戦いの始まり」を告げたのだ。

◆留年を重ね、就職にも落ちこぼれ、社会人としても半人前の駆け出しの頃、土門拳さんの写真集『古寺巡礼』に本気で土門さんの真髄に触れたいと……。山の先輩で“土門番”の編集者は「あの写真には度肝を抜かれた。室生寺は土門先生の原点、数十年通い詰め、まだ一枚の写真を撮り残していると、この時期、室生寺に張り付いている」「一文を寄こせば…」と、全て段取ってくれた。

◆梅雪、春を争う室生寺──東大寺二月堂のお水取りが終わらないと春は来ない。40何年か前、小雪舞う室生川にかかる赤い欄干を室生寺へと急ぐ土門組の姿が……、若気の至りか分別もわきまえず、手押し車で急な山道を登る土門さんを追った。五重塔を見下ろす中腹でカメラをセット、降りやまぬ雪に構わず、10分、20分……、被写体を凝視する土門さんは、仁王立ちのように微動だにしない。

◆土門さんは、ボケた写真が嫌いで、カメラの絞りを極限にまで絞り長時間露光で被写体に迫る。

◆春の雪が五重塔を白く覆う、息を殺すほど静まり返った現場で土門さんのシャッター音の響きに、梅にかかる雪が砕け落ち、静寂を破った。殺気だった現場に身も心も縛られ動けない。絞り、ピント、構図と土門さんの動きに、秒殺のごとく動く土門組の迫真の気配だけは森に隠れていても伝わる。匠たちの阿吽(あうん)の呼吸に固唾を呑む。連写機能やズーム機能もない土門組の神業だった。

◆「恐れ多くも、身のほど知らず」を恥じ、言葉も出ず「恐れ入りました」と手を合わせ、山を下りた。

◆「絶対非演出のリアリズム」の写真界の巨匠、「被写体をじっと凝視し、いらないものは徹底して剃り落とし、削る。どうしても切り取れない一点だけに絞る」土門さんの被写体に肉薄する“クローズアップ”は、その後のモノ書き人生で、取材現場ではもちろん、文筆においても、日常生活でも「何も足さない、何も引かない、ただ一点に絞る」、モノ、コト、ヒトを見る“心得”となった。だが……、わが人生を振り返ると、生半可でムダなモノ、コトばかり、モノになったものは何ひとつもない。

◆一文の約束も果たせず、段取ってくれた先輩にも、土門さんにも顔向けができない。あれから何十年振りか、雪の室生寺を撮った。身動きひとつ見せない五重塔、土門拳さんの人生そのものだ。

◆恥知らずの、あの頃読んだ『野生の思考』(レヴィ=ストロース著)を書棚から見つけ読み返した。

◆レヴィ=ストロースは、社会学教授として赴任したブラジルで、アマゾン川流域の先住民族たちと出会い、それまでの学術論をくつがえした。現代人が陥りがちの西欧文明を絶対視する自文化中心主義(オンリー、ファースト)を見直し、野心的な身構えで、人間の根源的な思考=構造主義という手法を見出し、「いま、ここにある自分存在の生き方=実存主義」を向こうに、カッコよかった。

◆ぼくらは自分の意志で生きているつもりだが、無意識で家族、国家、社会や時代、歴史、自然環境など“構造の森”で「地球船の乗務員=地球市民」として生きている。自分勝手は赦されない。

◆人間を超えるAIの代償として起こり得る未来……恩恵をもたらす反面には誰も触れたがらない。

◆今、見渡せば風景が一変「やられた!」と立ち尽くす。人間の欲動が地球をも変えてしまっていた。

◆森を出たサル=ヒトとして野生味や自然観は、何処へ……。都市を再開発するとなると、森を切り崩し自然環境をも破壊することしか頭に浮かばない。地球キラーが“人間キラー”になってはいないか。人間を超えて生活に入り込む“AI事実”に“真実”はあるのか……自分が自分でなくなっていく。

◆「いまの世の中、危機の到来が叫ばれているけれども、元をただせば、それは人間が“直観”を軽視し出したことによるものだろう」と、生態学の大家・今西錦司師は、地球環境や野生動物、自然界の危機に、「直観を磨き、その場、その時の臨場感を、心に留めよ!」と、この一言に尽きる。

◆森を出たことでヒトは、他の生き物とは段違いの能力を向上させ、高度な文明を創造してきた。

◆AIには想像もしなかったことを思いつく“人間らしさ=創意工夫”はまだ無理だ。

◆創意工夫=ブリコラージュというレヴィ=ストロースの基本的な考え方は、あらかじめ準備した設計図などは一切使わず、与えられた条件の中でありあわせの素材を使って見事にその時その場に最適なものを作り出すことだ。そこにはIT化のなかで見失いがちの人間らしい豊かな思考の可能性が潜んでいる。この人間力こそ「地球キラー実戦場」の歩き方だ。

◆ヒト以前から地球に存在する生き物や自然環境、そこに生きる生命を活かす知恵、共に生きる本能=野生の思考…“真の人間的とは何か”には正解はない。ひとりひとり、自らに問いかける。

◆ぼくら地球市民─大衆の国民化で深化するポピュリズム=21世紀のファシズムに惑わされないためには、「何が生まれた新しい美しさか」、「何が失われた大切さか」を、スマホでなく自らの目と足で確かめることが“知命”、そして人生に社会に次世代に活かせてこそ“立命”なんだが……。

◆元来が無知・無学・無教養・単細胞で野放図な人間……背伸びしてモノ書きになったものの、気がつけば、知れば知るほど知らないことばかりの“半知半解”本を書く度に高くなる「無知の壁」に、モノ書き人生50年「無知の墓標」の数ばかり、でも「無知だからこそ今の自分がある」無知の森を出る気はない。

◆無知は不知でなく未知──座禅の師は「論語読みの論語知らず、学を絶て、喝!絶学無為」と、老子は「知らなければ、迷いや憂いもない」“絶学無憂”を、無知の哀れもあるが「知る哀しみ」も、“真を知る”とは、知らないということを知る=無知の知覚、ここらが自分らしい生き方なのか……。

◆「人新世/アントロポセン」──人間の活動が地球に甚大な影響を与えるようになった“人類の時代”、どうせ「人生は大いなるヒマつぶし」……「群れず、媚びず、悪あがきせず」と“反骨”を胸に秘め生きてきた。人間らしく、自分らしく、生きざまを彫り込んだ“自分の顔”だけが、作品か。

◆森を出たサル。森へ還れないなら、自分なりに「人間の森」をつくればいい。観自在[地平線会議卒業生 森田靖郎

イラスト-3

 地球上に生きるあらゆる生命の魂の一冊を──

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   地球キラー「人間の森」

               森田靖郎著
     770円 各電子書籍ストアで販売中

 気候変動、地球温暖化、巨大地震、AI維新、終わりなき戦争
  ……来たるべき「実戦場」の歩き方


地平線キネマ倶楽部

撮らせていただいている、に過ぎない

キネマロゴ

■2024年6月1日「地平線キネマ倶楽部」にて拙作『馬ありて』を上映していただきました。場所は新宿区歴史博物館。何度経験しても上映会は緊張します。また、丸山純さんの司会と円滑なお話の運び、長野亮之介さんの素敵なポスターに救われたことはいうまでもありません。

◆お話のなかで私は「目に見えないものに触れたいと思い撮っている」と言ったように記憶しています。ああやってしまった。これが私の限界値だ。また口から出まかせを言ってしまったと猛省しています。

◆間違いではないのですが、むしろ撮るときに、そんなことを意識していたらいいものが撮れない気がします。「〜〜をこう切り取ろう」と意識の世界で撮影しているうちは、本当にまだまだです。なるべく身体が反射するように撮りたいもので、格好をつけてそんなことを言ってしまうなんて、改めて反省しきりです。そして編集は、いただいたもの、授かったものを自分を通してどう活かしていくか、そんなシンプルなことのはずでした。

◆気温がぐいぐい上がってくるこの季節に、特に思い出すのは、2021年7月、次女が生まれたときに妻が生死の淵を彷徨ったことです。出産時に胎盤がおりてこず、子宮が丸ごと外に出てくる子宮内反(ないはん)という万に一つの症状が発生し、外に出た子宮に血が溜まりボーリング球ほどの大きさになりました。普通なら出血多量で命を落としているはずでしたが、偶然当日は土曜日で大ベテランの医師に診療がなくすぐに来ていただたき、本当に偶然、奇跡的に手術が成功し(ここで失敗し、開腹、子宮全摘出となると余計に出血してしまうので助かる見込みはありませんでした)、そして、偶然にも輸血した5リットルの血液が妻の身体に早くになじみ、血圧を保つことができたのでした。

◆子が生まれた直後に「妻が亡くなる可能性が高い」と言われた数時間は、私にとっては10年ほどの長さと重さを持っていた気がします。なんというかそれほどにぼんやりとした認識しかまだできていません。ただ、奇跡とか運命ではなくて、人間にはコントロールできない偶然が重なったのだと思っています。結果として、それが私にとって心底、人生で一番ありがたいものだったと。

◆木に実がなり、それをもぎとって食べることは人間の意識ではない気がしています。大部分が自然の成り行きで、与えられたものをいただいているに過ぎない。

◆そのような事件があったからか、映画も同じで、取材に行くこと、撮影することは大変意識的な「自力」ですが、それも含めて撮らせていただいている、または撮らされている「他力」であるように認識しています。そうでありたいと願うばかりの自分は本当に、まだまだです。自戒も含めて記しました。馬ではなく牛歩ですが歩んでいきたいです。

◆拙作を観てくださった皆様、場を作ってくださった丸山さんに改めて感謝を申し上げます。貴重な機会でした。本当にありがとうございます。[笹谷遼平

「馬ありて」監督の妻・廣田繭子さんのこと

■目黒区自由が丘に、手間暇かけて作った美しく貴重な染織品を間近で見せてもらえる美術館がありました。岩立フォークテキスタイルミュージアム(現在一般公開休止中)です。何度か足を運ぶうちに、学芸員の廣田繭子さんと少しお話するようになりました。5年ほど前に「夫が撮っている映画です」と馬の写真が印象的なチラシを渡されました。その後、廣田さんは産休に入り、2021年には岩立ミュージアムも一旦閉じてしまいました。

◆タイミングが合わず、その作品「馬ありて」を観ることができたのは、2022春。会場の東京都写真美術館には廣田さんとお子さん二人もいらしていて、久しぶりにお会いしました。秋には「山歌」(笹谷さんの劇映画)の上映会場でも! 映画がご縁で再会できたことが嬉しかったです。

◆そして今回のキネマ倶楽部で、笹谷さんから廣田さんの近況を伺うと「世界染織月かげ」という場を作られたとのこと。またどこかでお会いできたら嬉しいな。[ナカハタトモコ

「馬ありて」よかった!

■笹谷遼平さんの『馬ありて』上映会、すばらしかったです。参加できて、ほんとうによかった。ありがとうございました。

◆作品は、もちろんすばらしかったです。そして笹谷さんと丸山さんの対話的ライブもすばらしかった。笹谷さんの真摯で誠実な創作への向き合い方が伝わってきました。特に丸山さんの云う「馬のイヤそうな顔」という表現が、ぼく的にはとてもフィットしました。そこから、笹谷さんのお話が展開してゆきました。

◆上映後、笹谷さんと直接におはなしできて、勉強になりました。「ポニーのソリ引き映像の撮影のときは背後に“二人乗り”して撮影したのですか?」という質問に、笹谷さんは「そうです」。さらに、つづけて詳しく説明してくださいました。「“強い馬”を持ってるということが、とにかくステータスなのです。ですから、『二人乗りでもこのポニーは、引ける。強い馬なんだ』という誇示なのだそうです。ベンツかフェラーリか、ということとまったく同じなのです」との笹谷さんのお答え。

◆「作品に登場する戸田富治さんが『人間がイチバン悪い』というようなことを語る場面がありましたが、あのシーンは、戸田さんに笹谷さんご自身の(3.11以降に変化した)“人生観・世界観”や“制作意図”を話している流れで生まれたカットなのでしょうか?」。笹谷さんは「その通り」という答えでした。

◆「馬が木を運び出す仕事は、今も有るのでしょうか?」。「あります」。しかし、それは「馬搬によって運び出された木材を使って生産している商品を謳う」という「ブランドのための馬搬」なので、自分の作品撮影の範疇では無い、とのことでした。本来の、まさに「馬搬としての馬搬」を仕事にするひとは、見方芳勝さんが最後、とのことでした。

◆二次会でもお話しすることができてよかったです。創作者として、心身タフな方だなあと感じました。機材も、持ち得るものを最大限に活かしてるという感じがしました。「自身のテーマ」を設定してゆく経緯のセンスが、すばらしいとおもいました。そして、したたかだと感じました。スゴイです。柔軟で臨機応変でありながら、「ブレず、流されない」ための工夫を更新されている感じ。目前に起きることに乗っかりながら、同時に思考対応してゆく。感性の緻密さを感じました。とても勉強になりますが……とても真似はできません。

◆笹谷さんは、話しながら随所に「資本主義批判」みたいな主観をまじえて語ってくださいました。ぼく自身も共感するところです。表現者・創作者は、この国で、日本型資本主義社会で「生きてゆかねばならない」です。ましてや、子育てをされていたら、仕事の方向性や選択肢への影響は、多大なるものがある。「ARTを生きる」ことにも切実果敢だとおもいます。超スゴイひとだとおもいました。[緒方敏明:上映会翌日の丸山宛てメールより抜粋]

「馬ありて」を見て

■高校の馬術部で馬に乗っていた。「手入れ七分に乗り三分」と教わった。「馬ありて」の中で、馬房掃除、毛づくろい、一輪車でボロ(馬糞)運び、餌混ぜ、装蹄などのシーンが次々と映し出されるのを見て、馬の手入れに明け暮れたことを思い出した。馬は生き物、人1人がついてやっと1馬力。これでは強力なエンジンにはかなわないが、人は歴史のかなたからどれほど馬に助けられただろうか。

◆現代の馬は「走るか、肉か」という過酷な現実を突きつけられているところが悲しい。快走する姿は美しい。最初はビクともしない大木を満身で引く姿は凛々しい。様々なシーンが走馬灯のように駆け巡る。馬は往々にして荒ぶり立ち上がり、一見反抗的に見えるが、それは未知のことへの怖さの現われ。人の鞭は懲罰的とも見えるが、それは「合図」、人と馬の意思疎通。馬は生き物、人との信頼が生まれると、馬の動きは途轍もなく機敏になり、人馬一体となった瞬間、馬は最大の力を発揮する。馬との一体感を失いたくないと思う映画であった。[神谷夏実


地平線ポストから

大西夏奈子さんの見事なレポートに思う

■地平線通信5月号で大西さんがモンゴル相撲の最新情報を掲載されています。モンゴル関係では他誌にはない詳細な情報でさすがと思います。最近のモンゴル関係に疎い私も勉強させていただきました。

◆他方、宮城野親方から、御丁寧に伊勢ヶ濱部屋に転属となったご挨拶をいただき、宮城野部屋の後援会活動を中止する旨、今後差し入れ、稽古見学、各種パーティーへの参加(?)は控えていただきたいとの申し越しとともに、永年頂いてきた場所ごとの番付表を今後送付できないとのご連絡をいただきました。文面の裏にあることは推し量れませんが、その複雑な事情が多少にじみ出ているようです。大西さんの文面と併せ考えますと親方の苦境が多少理解できるようです。

◆私にとっての実害は番付表ぐらいなものですが、モンゴル横綱は残念ながら鶴竜を除き最後は不幸な形で追われています。輪島、曙、若の花、貴乃花など横綱を張った方々の晩年と協会の関係は再考を要するように見えます。

◆外国人力士に限って見れば、少子化の今、今後外国からくる生身の人間である労働者とどう向き合うのかという問題にも通ずる問題が一点と、大相撲は興行かスポーツかの根本問題が問われており、問題はモンゴル力士は間違いなくスポーツと理解している点にあると思われます。

◆ 大西さんの好レポートに関連して以上の感想を持ちました。[花田麿公

10メートルダイブに刺激されて

■昨年より参加させていただくようになった報告会へは、このところ足を運べていない。しかし、通信を読んでの感想は書けます。4月の報告者は、神津島で3年間の高校生活を送った長岡祥太郎さん。「18歳で報告者に抜擢されてすごい!」と驚きながら報告レポートを読んでいると、21歳の私の想いと重なる部分があると気づいた。

◆報告会へ行けていない、というのも、私は今大学院進学を目指して受験勉強に取り組んでいるからである。私が目指すところは、今の自分の身の丈よりもはるかに高く、入学できたとしても後れを取らぬよう、必死に食らいついていく日々になることは承知している。それでも、私は自分が行こうとしている先に、ものすごく面白いことが待っている気がするのだ。「10mダイブ」をした長岡さんのように、根拠はないが「なんか飛べそうな気がする」のである。だから、「当たって砕けろ」の精神で挑戦してみようと思った。

◆地平線会議との出会いもそうだが、自分がこのような道に辿り着くとは思ってもみなかった。だが、日々の中で心を動かされた方に進んでみたらこうなったのだ。人生経験がまだ浅い私たちは、好奇心に溢れている。失敗を知らないからこそ、ときめくままに巡ってくるチャンスをつかむことができる。「なんか飛べそう」を信じて飛び込んでみたら、意外な展開が待ち受けているかもしれない。怖いもの知らずのダイブ、今しかできない。[杉田友華 法政大学4年]


伸び〜る

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エモの目

「青春日記 〜中学生編〜」

  編集長が14歳から書き溜めた、私的記録をちょっとだけ掲載します

1956年11月6日(16歳)

◆英仏軍がイスラエルを操ってエジプトを攻める。金があるからすごいものだ。ソ連はハンガリーの反乱に対し、目茶苦茶にその強大な力を以って打ちのめしている。そうして英仏軍に「エジプトを攻めることをやめろ」と勧告している。ハンガリーを攻めていることなど“屁”でもないというかっこうだ。この勧告を受けないと武力闘争に入っても強要はやめさせると云っている。とにかくハンガリーの町はすごいのだ。女の人も子供も片端からやられているのだから。残忍なタイラントであるこれら強国に対し僕等は絶大なる義憤を感ずる。第三次世界大戦になる可能性が大分あるそうだ。このソ連にアメリカが出てきたらどうなる? 今、世界二箇所て戦火が上がっている。(ハンガリーの方はもうおさえつけられてしまったらしいが)そうしてソ連の勧告によりその二つが結びつつある。即ちそうなると第三次世界大戦になる怖れがずいぶんあるわけである。充分の富を獲ていても小国に経済的援助するとでもいふのならいいが、その力にものを言はせてあばれまわっている奴らを憎む。

1956年11月18日(16歳)

◆快晴のはずが曇りだった。うすら寒い天気。自転車で桜木町から日本大通りへ走り、港に出た。へんな所へ出た。人が誰もいなくて淋しい所だった。海の水も黒くておよそ素っ気ないものであった。汽車が奥まで来ていて真っ黒い煙を吐きながら通っていた。赤いレンガ作りの倉庫のような大きな大きな建物が二つあった。実にきれいだった。特に遠くからもや(汽車の煙かも)に少し霞んでいる様を見る時はさながらパリを連想させるに充分な風景だった。近くで見た時は去年修学旅行で行った関西の風景、とくに三十三間堂のあたりの雰囲気を思い出した。何かうたれるような力があった。


2年ぶりの写真展開催のお知らせ
小松由佳 写真展

「あなたは ここにいた
   〜燃やされた故郷、パルミラ〜」

 ▼会期
  2024年6月13日(木)〜 6月24日(月)
  10:00〜18:00(最終日は15:00まで)
  入場無料 休館日:6月18日(火)・19日(水)

 ▼会場
  OM SYSTEM GALLERY(新宿駅西口から徒歩5分 / 旧 オリンパスギャラリー東京)
  〒160-0023 東京都新宿区西新宿1-24-1 エステック情報ビルB1F
  電話番号:03-5909-0190

 ▼ギャラリートーク
  6月15日(土)14:00〜15:00
  6月22日(土)14:00〜15:00


■6月13日(木)〜24日(月)まで、新宿駅徒歩5分のOM SYSTEM GALLERY(旧 オリンパスギャラリー東京)にて、写真展を開催いたします。この二年間は、膨大な経費がかかる取材費と写真展開催費のやりくりに苦労し、現地取材をより優先して行ってきました。今回は、久々の写真展となります。現在の私のすべてを投入した、渾身の写真展です。多くの皆様にご来場いただけましたら大変嬉しいです。

◆展示内容は、2022年夏、11年ぶりにシリアを取材し、空爆で破壊された夫の故郷、シリア中部のパルミラを撮影した記録です。大変に苦労しながらシリアに入国し、取材した写真であり、私としてもかつてないほど思い入れの強い作品群です。

◆夫の故郷である破壊されたパルミラと、そこを離れざるをえなかった難民たちの姿を通し、難民になるということ、故郷を失うということがどういうことなのかを、皆様と一緒に考えることができたら、と思います。

◆この展示は、答えを示す展示ではなく、問いを投げかける、というコンセプトです。写真から、それぞれに何かを感じていただけたら嬉しいです。会期中、私は全日在廊しております。どうぞよろしくお願いいたします。[小松由佳


今月の窓

応援する側から挑戦する側へ

――エベレストに登ってしまった記

山岳気象予報士 猪熊隆之 

■5月21日午前8時10分、エベレストの山頂に立った。ご存じの通り、エベレストは1953年5月にイギリス隊のエドモンド・ヒラリー氏とシェルパのテンジン・ノルゲイ氏によって初登頂され、猪熊が生まれた年の1970年5月には、日本山岳会隊の松浦輝夫さんと植村直己さんが日本人として初めて登頂している。2020年には累計登頂者数が9,000人を超えて、毎年渋滞が発生している山に「今さらなぜ行くのか?」

◆21年前の2003年、32歳のときに西稜からの登頂を目指した。そのときに山頂に立てなかった悔しさだろうか。あるいは単純に「世界一高い場所に立ちたい。そこからの眺めはどんなだろう? 空の色は、雲はどんな風に見えるだろう?」という好奇心があるからかもしれない。過去に何度もエベレストの登山隊に気象情報を提供していた。これまではずっと応援する立場だった自分が初めて挑戦する立場になりたいと思ったのかもしれない。あるいはエベレストの気象を現場で学びたい、新しい何かを発見したい、という知的探求のためかもしれない。どれもが正解であろう。それらすべてが「予報をしながら登頂する」というスタイルを決定させたのだと思う。

◆昨年秋のマナスル登山で、現場で予報することの大変さを痛感した。日本で予報を出すときとはプレッシャーがまったく違う。恐らく、天候が悪くて登れなかったとなれば、その場で糾弾されるだろう。そういう危機感がある。しかも今回は、自分の参加する登山隊だけでなく、海外の登山隊を含めて3隊に発表する予定だ。

◆高所登山において重要なのは、ベースキャンプにいかに体調を整えて入るかということである。もちろん、高所順応も含めてだ。ところが、今回はそこで躓いた。今回の公募登山ではトレッキング隊などを含めて30名を超える大所帯となり、トレッキング初日から体調が悪い方が数名いた。そういう人にはなるべく近づかないようにし、マスクも着用していたが、食事の席などはその場で決まるので、咳をしている人の近くに座ることもある。また、食器や調味料などを取りあったりするので、完全に感染を防ぐのは難しい。

◆ただでも私は持病があり、風邪などを引きやすい。心配していた通り、標高約4,400mのディンボチェという村で私は高熱を出し、ヘリでカトマンズに下山することになった。カトマンズに下りれば症状が軽くなると思ったが、その夜から病状は逆に悪化。熱が高くなり、喉の痛みが酷くて唾液も呑み込めず、水や食べ物は取ることができない。そのため、脱水気味になり、入院することになる。点滴で栄養と水分を補給する。

◆薬の効果もあってか3日程で回復し、退院することができた。他の隊員も数名が体調を崩し、カトマンズへ一時下山。その間にも本隊はロブチェ・イーストで順応を済ませ、ベースキャンプへ。私はロブチェ・イーストでおこなう予定だった順応はエベレストに回すことにして、ヘリで標高4,900mのロブチェへ移動し、4月下旬、ベースキャンプで本隊と合流した。

◆5月上旬、いよいよ標高7,000m付近まで高所順応を開始。C1(6,050m)まではアイスフォールと呼ばれる、氷塊が積み重なった不安定な場所をSPCC(SAGARMATHA POLLUTION CONTROL COMMITTEE)がルート工作をしてくれるが、今季はルートが大きく蛇行していて距離が長い。なんと11時間もかかってヘロヘロになって到着。21年前は高度に順応した後は3時間で登れたので、自分の体のあまりの退化に呆然とする。次のC2(6,470m)までも21年前は2時間で行けたのに5時間もかかって到着。

◆そこで、眼前に大きく迫るエベレストに久しぶりに対面。南西壁が立ちはだかり、難攻不落のように見える。この風景を見て「自分には無理だ」と登山を諦める人も結構いるそうだ。また、ここからは21年前に登った西稜への1,000mを超える氷雪壁が見える。「あそこを登ったのか」とあのときの、呼吸が苦しくて喘ぎながらルートを切り開いた記憶が蘇る。C2で2泊し、高所順応。ここでも隊員のうち3名が39度を超える熱を出し、一人はヘリで下山へ。残念ながら帰国することになった。翌日はローツェフェース取り付き手前まで行くが、足が動かない。「こんなんで登れるのか」と不安に思いながら高所順応を終えてベースキャンプに戻る。

◆その後、ルクラで4日間休養を取り、ベースキャンプに戻った後、私の最大の仕事に取りかかる。気象状況を予想してもっとも気象条件が良い登頂日を選ぶ。それを元に近藤謙司隊長が登頂日を21日に決定。17日深夜にベースキャンプを出発。C1までは7時間程で到着することができ、C2も前回より大分楽に到達する。ローツェフェースから先は未知の世界。渋滞が始まり、固定ロープには登山者が数珠つなぎに。なかなか進まないことにじれったさを感じながらもC3に到着。

◆さて、エベレストに登頂するのには、サウスコル(7,906m、C4)に何時に到着するかと、C3/C4間で酸素を使い過ぎないことが大切である。サミットプッシュ時にはC4を19〜21時頃出発するので、遅く到着すると休む時間がまったくなくなる。実際、今回の登山隊でもC3/C4間で10時間以上かかっているパーティは敗退している。そこで、AG隊はC3の出発時間を早め、5時に出発する計画にした。実際には吹雪のため、1時間出発を遅らせたが、C4到着はもっとも早かった私と三戸呂拓也で12時30分、他のメンバーも14時30分までには到着。C4で休憩する時間を取ることができた。

◆その後、食事を取り、準備ができたパーティから順次出発。自分と三戸呂は20時30分にC4を出発した。三戸呂は今回のエベレスト登山で、私に同行してもらった山岳カメラマンである。田中陽希さんの三百名山すべての完全人力踏破に挑戦する様子を追ったNHKの「グレートトラバース」や、アドベンチャーレースを密着取材する番組「クレージージャーニー」などの撮影を手がけているほか、国内外の数々の山に登攀し、ピオレドール賞を受賞した平出和也さんとパキスタンのサミサールという未踏峰に登頂している。明大山岳部出身で、私とは国立登山研修所の講師仲間でもあり、共通の友人、知人も多く、色々な場所で顔を合わせていた。

◆2014年には日本テレビ「世界の果てまでイッテQ!」のエベレスト登山で一緒に仕事をする機会があった。そのときは、アイスフォールで大規模な雪崩が発生し、ルート工作をしていたシェルパが巻き込まれて16名の命が奪われた。この事故で、登山が中止となったが、その帰りにカトマンズで飲んだときの彼の悔しがっていた様子が忘れられず、今も私の頭に残っていた。それで今回は彼に撮影をお願いすることにしたのだ。

◆さて、いよいよ登頂の日。高所登山の場合、最終キャンプを出発した日の体調で、その日の調子がわかる。「今日は行けそうだ」。ベースキャンプから登山者のヘッドランプの灯りが光の帯となって山頂方面に延びている。「あんな所まで登るのか」と思いながらも、その光が見えたあたりまで登ってくると、今度はさらに高い所に光の点が見える。その高さにガッカリしながらも黙々と歩みを進めていく。途中、渋滞に巻き込まれてペースが落ちたが、バルコニーを順調に通過し、見えてからなかなか近づかない南峰にようやくたどり着く。

◆南峰の手前で空が明るくなり始め、地平線に沿って空が真っ赤に染まり出す。やがて、その一点から光が溢れ出し、ご来光。思わず、拝んでしまうような、凛とした宇宙を感じさせる空気の中からの日の出だ。南峰を過ぎると、いよいよヒラリーステップ。かつてより難易度は下がったが、鋭いリッジが連なり、登りの登山者と下りの登山者がすれ違うのが難しく、渋滞が発生している。しばらく足止めを食らうが、山頂に向けて再び歩き続ける。山頂直下で、日本人最多登頂者の倉岡裕之さんとすれ違い、ハグする。「11回目の登頂、おめでとうございます!」と声をかけ、さらに前進。

◆ヒラリーステップを超えてしばらくすると、前方にタルチョー(五色の祈祷旗)が飾られているピークが見え、そこが山頂だと知る。「あと少しだ」。焦る心を抑えて一歩ずつ頂に近づく。この21年間のこと、入院したことなどを思い出して胸が熱くなってくる。そして、夢にまで見た山頂に到着。マカルーやチョ・オユーなどヒマラヤのジャイアンツがすべて眼下に見える。ここが文字通り、世界のてっぺんなんだ! 空がなんて青いんだろう。雲がなんて低いんだろう。振り返るとくしゃくしゃになった三戸呂の顔。思わず、抱き合う。この瞬間を何度、イメージしてきたことか。彼の10年越しの思い、そして私の21年後の思いが重なった。その瞬間、酸素だとか、シェルパだとか、ノーマルルートだとか、そんなことはどうでもよくなった。

◆行く前は、「お金を使って2か月という休みが取れれば誰でも行ける山」と自分の挑戦を冷めた目で見ていた部分があった。行ってみると、それぞれのメンバーは、仕事やお金、家族のことなど色々な難題を乗り越えてここに集い、長いアプローチをこなし、自分自身との体調と闘い、きつい高所順応の行動を終え、長い長い7日間の連続行動と睡眠なしの長時間行動の末に山頂に辿り着くことがわかり、それは体へのダメージも含めてオッサンには結構キツい、充実した山登りであることがわかった。そして、参加者それぞれにとって、エベレストは大きな目標、壁であり、この登山はそれぞれにとっての大きな挑戦、冒険なんだということも。

◆自分にとっても、気象という見えないものを追い求める挑戦であり、天気予報という不確実なものへのチャレンジであり、今まで知らなかった未知のものへの探求の旅であり、体力的、技術的、体調的に今の自分にとってギリギリの山登りへの挑戦であったといえる。今は登山の余韻に浸りながら、「予報&クライム」次はどこにしようっかなと考えている。


あとがき

■マリーナ・オフシャンニコワを覚えていますか? ロシア軍のウクライナ侵攻が明らかになった直後の2022年3月14日、モスクワの政府系テレビ「第一チャンネル」の画面に突然登場し「NO WAR」と訴えた勇気あるジャーナリスト。当時のことを詳しく伝える『2022年のモスクワで、反戦を訴える』(講談社1800円+税)が邦訳、刊行された。「国境なき記者団」というネットワークが彼女の脱出に大事な役割を負ったことがこの本の中で明らかにされる。

◆「自らの良心に従った6秒の反戦行動」と本の帯にはある。夫とは別れ、自分の母親と男の子もロシアに留まっているのですべてめでたし、というわけではない。ただ、心の命ずるままに動いた、ということなのであろう。ただ1人でもこういうジャーナリストがいることが大事なのだ。

◆ヨーロッパでは“極右”とされる政治勢力が勢いを持ち続けている。フランスではマクロン大統領は欧州議会での与党連合の劣勢を認め、国民議会(下院)を解散し、総選挙をやると発表した。日本では(あ、アメリカでは)大谷翔平君が久々に16号を打ったことが嬉しい。[江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

炭から笠へ

  • 6月29日(金) 14:00〜16:30 500円
  • 於:新宿区榎町地域センター 4F多目的ホール

「炭焼きは山仕事の総合職なんです」と言うのは写真家の三宅岳(がく)さん(60)。東京農工大学環境保護学科在学中の実習で炭焼き職人に出会いました。「山中の木で小屋を掛け、粘土や石を利用して窯を作り、木を伐り、運び、燃焼加工して持続可能なエネルギー源を作り出す。職人さんはカッコ良いし、植物の緑色、炎の赤色と、被写体としても申し分なし」。

山岳カメラマンの父親の影響で幼少時から写真を表現手段とすることを志してきた岳さんは、炭焼きを追う中で、山仕事の多彩な世界に目が開かれます。馬搬(ばはん)や木馬(きんま)曳き等の素材生産仕事をはじめ、ウルシ掻きやカンジキ作り、独楽作りなどの伝統工芸、ゼンマイ、筍や山椒魚漁など食の現場にも通い、記録してきました。

岳さんがいまハマっているのが山笠です。岐阜県高山市一宮町(旧宮村)の二十四日市で目にしたイチイ笠の美しさに魅せられました。今月は岳さんに、これまで取材を重ねてきた多岐に亘る山仕事と山笠の魅力を語って頂きます。


地平線通信 542号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2024年6月12日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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