2024年5月の地平線通信

5月の地平線通信・541号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

5月15日。朝7時の東京の気温18度。爽やかな五月晴れ。散歩道の浅間山には黄色のムサシノキスゲの花が満開だ。府中市に引っ越してやがて3年になるが、書き忘れていたことがある。部屋の窓からななめ上空、毎日見上げている離陸直後、着陸寸前の飛行機のことである。実は我が家は飛行場に近いのだ。

◆4月19日、はじめてその調布飛行場に入った。4月の報告会を神津島に3年間離島留学していた長岡祥太郎さんにお願いした。その日が近づくにつれ、どうしても自分で島を歩いてみたい、祥太郎があの10メートルダイブをやった崖に立ってみたい、という思いに駆られた。1人で行くつもりで長岡家に相談したら私がついていきますと、のり子お母さんが言ってくれ、2人で調布飛行場で待ち合わせたのである。

◆飛び立ってすぐ眼下の風景に夢中になった。なんと広大な多磨霊園の隣に位置する我が家、11階建てのかなり大きな建物、の全容が手に取るように見えるのだ。あそこの窓のひとつから毎日この飛行機を見上げているのだな、となんだか子供のように嬉しかった。新中央航空の19人乗りの飛行機はほぼ満席だった。片道17900円(島民割引がある)だが、日に6便もあるのが素晴らしい。島に行くなら船旅がいいが、急ぐ人には空からの訪問は格別だ。

◆島に着いてからの行動についてはのり子さんに私に代わって書いていただいた(7ページ)が、初上陸した私も手短かに印象を。何よりも神津島の豊かな自然が心にしみた。周囲は海。そして海辺からいきなり立ち上がる緑の世界。人は本来こういう環境で暮らすのが一番なのだ。祥太郎君が思い切ってこの島での3年を過ごしたことがどんなに大事なことだったか、と思う。私にはそんな勇気はなかったな。というよりあの時代、子供は大勢いて島の学校に都心や他県から生徒を呼ぶなんて発想はなかったが。

◆品川ナンバーの車が来たのを見て、ほう、レンタカーで来る人もいるのか、と思ったがとんだ勘違いだった。道幅が狭いので車は軽がほとんどだが、そのすべてが「品川」ナンバーなのだ。島について無意識の差別があったかも、と反省しつつなにか面白かった。府中ではほとんどの車は「多摩ナンバー」だが、たまに「品川」を見ると、お、都心から来たんだ、と感心する自分がいる。

◆祥太郎君が10mダイブをやった「赤崎遊歩道」まで行きこわごわ崖の上から水面を覗き込んだとき、長岡祥太郎の評価は私の中で100mも上がった。私も飛び込みは好きだったが、できたのはせいぜい3m。5mとなると足がすくんだのを覚えている。だから10mをやったとき、彼の評価が島人の中でもいかに上がったか想像できた。

◆島の最高峰、天上山(572m)にも登ってみて驚きがあった。10合目(476m)にたどり着いたとき、様相は一変したのだ。大小の池、砂地、薮が広がって、10合目から上は新たな世界という感じなのである。ああ、こういう山もあるのだ、と感慨深く、何よりもこの日1人の登山者にも会わなかったことが強く心に残った。

◆全然違う世界の話である。この日、ロサンゼルスの裁判所では違法賭博に絡んで銀行詐欺、虚偽の税務書類作成の2つの罪で起訴された大谷翔平選手の元通訳、水原一平氏の初審問が行われ、この日のテレビの報道番組は「一平事件」に時間の大半を割いていた。あの“友人兼通訳”が賭博にはまり、大谷選手の口座から26億円もの巨額の金をひきだしていたという前代未聞の犯罪。報道陣が「大谷さんに一言」と迫っても終始言葉を発しなかった。判決まで半年、収監まで1年はかかるという。

◆大谷選手のミーハーファンにすぎない私は、大谷の活躍を古橋廣之進と較べてしまうことがある。1949年というから私が9歳の時だ。8月にロサンゼルスで開かれた水泳の全米選手権に招待された古橋は400m自由形で4分33秒3、800m自由形で9分33秒5、1500m自由形で18分19秒0の世界新記録を出し、「フジヤマのトビウオ」として日本を熱狂させた。私はとりわけ1500mの「18分19秒0」という数字が忘れられず、今なお「戦後の日本人が出した記録」として記憶にとどめている。大谷はプロスポーツ選手なので比較は到底できないが、日本人のハートをとらえた、という点では「フジヤマのトビウオ」、あるいはそれ以上と言ってもいいだろう。そんな中、「Ippei」の強烈な裏切りである。

◆世界はとんでもないことになっている。ウクライナではロシア軍が攻勢を強め、ガザではイスラエル軍が断固としてハマス殲滅戦をやりとげる体制を崩していない。そんな中、ウラジーミル・プーチンは数少ない同志国、中国に行って習近平と懇談する。何を話すの?

◆ことし元日に能登半島を襲った大地震から5か月。今月はその瞬間居合わせた地元出身の東雅彦さんに語ってもらいます。[江本嘉伸


先月の報告会から

神集う島の異邦人

長岡祥太郎

2024年4月29日 榎町地域センター

■今回の報告者は長岡祥太郎さん(18)。音楽家の長岡竜介さん、のり子さんをご両親にもち、生まれたときから音楽と地平線とともに育ってきた。毎年大晦日には、両親の山小屋コンサートに同行して黒百合ヒュッテで年越し。物心つく前から地平線報告会に連れられ、報告会の感想をいくつも投稿してきた。ここ最近では、不定期連載の「島ヘイセン」が評判を呼んだ。2021年4月から2024年3月にかけて、東京都立神津高等学校で離島留学をした祥太郎さんの島での日々がつづられた。島の様子がリアルタイムに届くこの連載は、私自身楽しみの一つだった。この報告会では、神津島での3年間の青春を、2時間に詰め込んだ。報告会当日、会場の入り口付近には、島のパンフレットやアルバム、学級通信などを広げて、竜介さんとのり子さんが見守っていた。時折、祥太郎さんが言葉を思い出せないでいると、のり子さんから助け舟が出され、会場は温かい雰囲気だった。

なぜ島へ?

◆祥太郎さんは「島ヘイセン〜The Final〜」と題したスライドとともに、少し緊張した面持ちで話し始めた。話は小学校時代へ遡る。祥太郎さんは当時、東京学芸大学附属小学校に通っていた。自主性を重んじ、グループワークを主体とした授業を受けていた。当時はとても楽しい日々だった。そのまま附属の中学校へ進学。ここで祥太郎さんは「人生のどん底」に突き落とされた。いわゆる進学校に通っていた当時、周囲は模試の点数や偏差値を気にしてばかり。様々な学力指標に縛られた世界に息が詰まった。そして高校は外に出よう、と決意した。中学二年生になり、悩みつつも資金面を考え、都立高校の合同学校説明会に足を運んだ。そこでみつけたのが「島の高校に行ってみよう!」というブースだった。興味本位で離島留学のことや神津島のことを調べていると、魅力にぐいぐい引き込まれていった。

神津島へ

◆神津島は北緯34度12分、東経139度8分に位置し、面積は18.58平方キロメートルある。神津村には約1800人(2024年5月1日時点では1743名)が暮らし、観光と漁業が盛んだ。東京都は竹島桟橋から出航する「さるびあ丸」に揺られること約12時間でたどり着く。調布から出ている飛行機を使うと40分と短縮されるが、やや高額だ。祥太郎さんをひきつけてやまなかったのは、その自然環境だった。学校見学の際、窓から透き通るような海を見渡したその瞬間、ここだ!と思った。受験を経て無事合格。同級生は女子生徒10名、男子生徒8名の計18名。全校生徒は約60名。教職員は約30人。生徒数に対して教員が多いことも特徴で、高校3年の受験の際には、生徒一人に教員1名がつくという環境だった。

◆実際の島暮らしはどうだったのだろうか。祥太郎さんは、自分で作成した5分間の動画を流した。さわやかな音楽とともに、3年分の写真の中から選りすぐりのものが映し出された。日常の風景一つ一つに物語があるのだろう。言葉ではとても伝えきれない。祥太郎さんが、全身全霊で3年間の青春を楽しんだのだと伝わってくる動画だった。

◆とはいえ、初めから順調だったわけではなく、島社会になじむのは簡単ではなかった。離島留学生4人を除けば同級生みんなが幼馴染。それまでは島外から転校生が来ることもなかったという。完全に「アウェー」な状況で、微妙な距離感が続いた。その状況を突き破ったのが、あの「10mダイブ」だった。

10mの崖の上から「なんか飛べると思った」

◆その崖は、赤崎遊歩道の柵を超えたところにある。先輩にそそのかされ、地元では「バカしか飛ばない」という崖の先に立った。右側に飛ぶと岩礁に当たって、最悪の場合死に至る。着水の瞬間には足をつま先まで伸ばさなければケガをしてしまう。祥太郎さんは、3本の動画を流した。それぞれ高校1、2、3年生で飛び込んだときの様子が撮影されていた。

◆1本目は1年生のとき。崖の壁側に張り付き、飛び込むのを躊躇している。1分間ほど往生。しかし「なんか飛べそうな気がする」と思った。そこへ「のりこおおお!!!」という叫び声が聞こえてきた。崖から飛ぶときには母親の名前を叫ぶ、という慣習が島にはあるのだという。次の瞬間、祥太郎君は、飛び込んだ。周囲から歓声が上がった。あの崖から離島留学生が飛んだらしいぞ、「やるじゃねえか」と、村民の間でも話題を呼んだ。村の一員になった瞬間だった。ちなみに2、3本目の動画では「のりこおおおおお!」の叫び声は相変わらずだったが、祥太郎さんはあっさり飛んでしまい、そのミスマッチさになんだか笑ってしまった。なんの打算もなく「ただ飛べる気がする」という感覚に任せて飛んだ。そのことが島民との見えない壁を打ち破った。

白砂寮での生活

◆住んでいたのは、白砂寮と呼ばれる、離島留学生受け入れのために建設された学生寮だった。祥太郎さんは寮の6期生。それぞれに個室が与えられ、室内には、冷暖房、勉強机とベッド、クローゼットなどが備え付けてある。祥太郎さんは部屋にドラムとキーボードを置き、半ば音楽室と化していた。この部屋からも水平線を望むことができ、勉強中にふと横を見ると夕日が美しかった。それだけでも島に来てよかったと感じた。

◆男子寮の寮生は10名を超えるほどで、3年生のときで13人だった。仲が良く、3人でちょうどよいお風呂場に6人でおしかけ、ぎゅうぎゅうになって浴槽につかった。掃除当番のなかでも、一般家庭よりずっと広いこのお風呂場が一番大変だった。

◆朝食と夜食は寮で、昼食は学校で給食を食べた。寮では栄養士が作る食事をいただいた。しかしそれは平日の話で、休日の食事は自炊だった。寮のキッチンにはガスコンロ、シンク、冷蔵庫などがひと通りそろう。一日の食費の予算は1万4000円。島唯一のスーパーであるマルハンで買い出しをするところから始まり、最初は10数名分の分量がわからずに戸惑った。予算と勘案して試行錯誤した。島の物価は輸送費が上乗せされて本土よりも高く、とくに2023年には物価高もあって大変だった。

◆祥太郎さんは日常の食事を大事にした。パッションフルーツを練り込んだ手作りパンや手作りのピザにも挑戦した。家庭でよくパンを作ってくれた母のり子さんの影響も大きい。食べ盛りの高校生はよく食べる。BBQの日が決まると、もやし生活で食費を貯蓄し、お肉を買い込んだ。寮には島民からの差し入れも届いた。キンメダイやアカイカといった新鮮な海の幸は、自分たちでさばき、刺身や海鮮丼にして味わった。少し傷が入ると売り物にならないのだという。みんなが捨ててしまうアラを祥太郎さんはさっと確保し、あら汁にして無駄なくいただいた。料理が得意でない寮生には料理を教えたり、自分が作るときには工夫を凝らしたりして、食卓を豊かなものにしていった。

神津島点描

◆ここで小休止。祥太郎さんが切り取った神津島が紹介された。
 もろみや ――アルバイトの時給が700円のブラック商店。同級生が数名アルバイトをしていた。しかし客はまばらで、働かなくても時給が発生する。
 マルハン(○のなかに伴でマルハン) ――上述した唯一のスーパー。
  SEKISHO ――放課後の寄り道スポット。となりには浜川精肉店があり、そこで唐揚げを買って食べていた。
 CanDo ――島唯一のチェーン店。雑貨類がそろう。神津高校の英語教師がイギリス出身だったため、学生の間では「カンドゥ」だった。
 「二輪・自転車を除く一方通行」の標識 ――島は道が細く、一方通行が多い。しかし原付や自転車などは通れる、という除外つきの道路標識。
 動いている島(?) ――島の川沿いにのびる神津島のメインロードから、海側を見下ろし、ポツンと浮かぶ島。恩馳島(オンバセシマ)という島で、毎年「ちょっとずつ右にうごいている」らしい。ほかの寮生も実は動いているのでは、と思っていたというが、真相は不明。
 ジュリア展望台 ――一押しの展望台。十字架が掲げられており、島が一望できる。
 川になった道路 ――神津島への不満を挙げるとすれば、排水の悪さがある。台風や嵐も珍しくない島では、どんな雨や風でも休校はない。傘もさせないような風の中、集団登校をしたという。そんな日には、側溝から水があふれ、道が川になってしまうこともあった。
 前浜海岸 ――海水浴といえばここだ。浜辺にはビーチバレーボールのコートがある。島はバレーボールが盛んで、島全体では10チームもある。
 夜の神津島 ――神津島は2020年に星空保護区に認定された。島全体の街灯を改修し、光が拡散しすぎないようにして光害を防止、暗闇と美しい星空を護ってきた。祥太郎さんが中学2年生のときにモンゴルで見た星に勝るとも劣らない、素晴らしい星空なのだという。
 あぶらき ――神津島の名物。さつまいもともち米をこね揚げたもので、家庭によって味が違う。「かさんば」という葉につつまれたあぶらきや、ヨモギを使ったものなど、バリエーションが豊富だ。ヨモギのアブラキは作り手がほぼいなくなっているという。
 神津うどん ――しいたけのだしに、大量のしょうゆと砂糖で味付けされたもの。味がとにかく濃い。
 醤油飯 ――もち米を、醤油とあおさ海苔でたきあげるもの。
 パッションフルーツ ――島の名産。道端でおばあちゃんにもらうということもしばしばだった。

マリーンデー

◆7月になるとマリーンデーが開催される。入学した2021年から始まったイベントで、1、2年生は講習とシュノーケリング、3年生はダイビングをする。海の中は魚で溢れている。少し顔を入れるだけで豊かな海の世界を覗くことができた。ダイビングではボンベを担いで長く潜ることができ、海底10m付近の海の生態系を間近で見られた。他方で、サンゴの死骸を見たときには、温暖化の影響を感じ、悲しくなった。美しさと変わりゆく生態系とのはざまで海に潜った。海岸のゴミ拾いも行われた。海外からの漂流物が多く、外国語表記の怪しい液体物は拾わなかった。神津高校の後輩には、海岸のマイクロプラスチック量を調べて、海外に発信しようとしている生徒もいる。国境を越えてゴミ問題を考えていくことが大事なのだ。

村民大運動会

◆10月になると、ほぼ全島民が参加する大運動会が開催される。2021年にはコロナの影響で開催されなかった。高校三年となった2023年の運動会は、当初、志望大学のゼミナール型の入試で参加できない予定だったが、先の選考で不合格となったことで、参加することができた。島全体が4つの地域に分かれており、それに応じて4分団対抗で行われた。島には小中高校が1校ずつあり、運動会には幼稚園生から大人まで参加する。神津高校の生徒も、神津島太鼓のパフォーマンスに、大会全体の運営にと活躍した。全競技の最後には各分団の代表メンバーによる対抗リレーが行われた。子供から大人まで一心不乱に走り、毎年けが人が出るほどのデッドヒートが繰り広げられる。祥太郎さんも走り、背中を擦りむいた。

◆地域全体をまきこんだ運動会は、23区内では考えられない。離島留学制度の背景には、少子高齢化が進む神津島の外から若者を連れてきて新しい風を吹かせよう、という狙いもあった。島の子供たちは、ほとんどが神津高校へ進学した後、島外の専門学校や大学へ進学する。高校卒業後に島を出ずに働いていた人は、祥太郎さんが知る限り、郵便局のお兄さん一人だけだ。島から出た人たちも、ゆくゆくは帰ってきて島に落ち着くのだという。離島留学制度が島にどんな化学反応を起こすのか、今後が気になるところだ。

黒潮祭(文化祭) 熱いドラム

◆11月には高校の大イベント、黒潮祭がある。1年生、2年生のときにはコロナ禍で制限がある中開催された。とはいえふだんの授業の紹介、出店の運営、ダンスパフォーマンス、ドラムパフォーマンスと、内容はてんこ盛り。「人間と社会」の授業の成果発表では、住民と協力して作成した島のPR動画を披露。2年生のときには手作りのお化け屋敷を作り、娯楽施設が少ない島の子供たちはこぞって遊びに来てくれた。祥太郎さんは所属する軽音部の演奏と、個人のドラムソロの演奏でステージに上がった。

◆いろんなドラマが生まれるのも黒潮祭だ。祥太郎さんは、素人同然の状態からピアノ演奏を披露するまでに成長したひとりの先輩を紹介した。大学に進学する予定だったが、高校最後の黒潮祭でどうしてもピアノを弾きたい、という一心で練習に励んだ。文化祭では圧巻の演奏を披露。現在は浪人生活を継続しているという。そして迎えた最後の黒潮祭。コロナ禍が明けて、無制限にやりたいことができた。実は祥太郎さんは、大学受験の不合格通知が届いた数日後に黒潮祭を迎えていた。気分は落ち込んだが、やるなら思い切り楽しもうと思った。

◆報告会のハイライトは、10mダイブに次いでドラム演奏かもしれない。祥太郎さんはドラムソロパフォーマンスの動画を流してくれた。これが熱かった。汗をぬぐいながら、スティックを落とし、シンバルを落とした。ハプニングに見舞われながらも全力でドラムをたたいた。現地の高校生は熱狂の中にあり、「自分が会場を沸かせている」という感覚が爽快だった。報告会の会場も気温が2度くらい上がった気がした。全力で今を楽しむ。それを体現しているような黒潮祭だった。

旅立ち

◆3月の卒業式。生徒会長を務めていた祥太郎さんは答辞を述べた。先生、同級生への感謝を伝えるときには涙があふれた。一度失敗した受験はその後、先生方の支えで乗り切ることができた。部活動のバレーボールは一度やめかけたが、同級生の相棒と続け、3年間やり切った。同級生はそれぞれ、6人は大学、9人は専門学校、2人が就職、1人はフリーターとして、それぞれ巣立っていった。卒業後も定期的に会っているという。学級人数が少ない分、一人一人と仲を深めることができた。一緒に離島留学をやり切った同期4人とともに寮を出て東京に着くと、昨年、一昨年に島を出た先輩が船着き場に来てくれていた。半分本気で言っていた「We are family!」が心の底から本当だと実感した瞬間だった。

さらなる高みを目指して

◆現在は立正大学の心理学部対人・社会心理学科に通う大学1年生。人生のどん底だった中学時代から、成長を実感している。島に行ったからこそ、たくさんの挑戦を経てリーダーシップを鍛えることができた。生徒会長、文化祭の運営、同級生のまとめ役、ドラム、バレーボール、10mの崖からの飛び込み。本当に盛りだくさんの高校生活を経て、「培ってきたものを無駄にしてやるな」と決意した。現在通う学科は、対人スキル、プレゼンスキルを伸ばし、リーダーシップを鍛えるという特色をもつ。加えて、学部学科に縛られない幅広い学びを提供するカリキュラムにも魅力を感じた。この報告会当日にも講義があったが、サボタージュして地平線にやってきた。

◆現在祥太郎君には「音楽を仕事にしたい」という夢がある。ご両親の影響で、幼いころからケーナとピアノを聞いて育ってきた。自分が育ってきた環境、譲り受けたもの、そして島で培ったリーダーシップやコミュニケーションスキルをさらに伸ばして、あわよくばデビューを目指して活動する。祥太郎さんはコンポーザー(作曲)志望。まずはボーカル探しからはじめるという。島から世界へ。離島留学を経て、頑張ってきた自分をたたえ、鼓舞し、さらなる飛躍を誓った。

◆祥太郎さんとお会いしたのは今回で二度目で、一度目は2022年12月30日の黒百合ヒュッテだった。のり子さんと竜介さん、祥太郎さんの会話を聞いていると、素敵な家族だなあとしみじみ感じた。地平線の出会いからこのレポートを書かせていただくに至るまでのご縁に、改めて感謝している。他方で感じたのは、今を楽しむことは、簡単なようで難しいということだ。報告の端々で「今を楽しんでいるか?」といわれた気がして、面食らった。本気の言葉と気骨に触れて、自分に立ち返っているところです。[安平ゆう 九大山岳部5年]

報告者のひとこと

第二の故郷になった神津島での最高の3年

■去年の9月ごろに離島留学での経験を報告会で話してもらいたいと、江本さんから打診を受けた。受験のスケジュールもあり、半年越しでこの話が実現した。高校を卒業し、大学進学という節目で、3年間の離島留学を総括することができた。8年前、小学生のときに参加した地平線報告会で感銘を受けた宮川竜一さん(356回、448回報告者)からのビデオレターが最後に上映されたのには驚きを隠せなかった。

◆偏差値に縛られた社会に嫌気がさし、学芸大附属世田谷中学校から神津高校へと、異例の進学をした。高校では今までなら挑戦しようともしなかった、文化祭運営委員や生徒会役員を務め、自立・自律・自率するべく寮生活も全うした。高校3年間は間違いなく私の人生のなかで最も濃い時間だった。

◆3年分の写真、高校生活、寮生活、学校行事、島独特の文化。そして大学生になった今、今後どう生きていきたいか。話したいことが多すぎる。島の高校ならではの学校行事はなるべく深堀りしたい。崖からの飛び込み動画は必須。島の魅力である景色や星空についても話したい、何より島のことをたくさん知ってもらいたい。様々な思いから写真を厳選し、話すことのシミュレーションもしていた。しかし終わってみれば、話したかったことの半分も話すことができなかった気がする。

◆報告会を終えた後、なぜ神津島は幸せな島と呼ばれているのか改めて考えてみた。島ではバイクや車には常にキーはつけっぱなし、玄関にも鍵はかけない。だからといって、窃盗や事件はまずおきない。また、データで見た、神津島は日本で最も自殺率が低いという点。なぜ島人は地域を通して仲が良いのか。私は二つの予想をした。親戚の繋がりが多いというのもあるかもしれないが、それよりも島の環境にあると思った。

◆“自然”というのはそもそもストレスを緩和する効果がある。波の音、風の音、鳥のさえずり。ホワイトノイズなどとも呼ばれているが、島にはそれがそろっている。もうひとつは、ある種の治外法権とも呼べる環境だ。コミュニティーを築き上げるためには最低限の秩序が必要だ。しかし、日本では最近、ハラスメントやモラルに必要以上のマナーやルールを定めている。私はこれがかえって不良な進展を辿っていると思う。執拗なハラスメント、モラルへの対策は相当なストレスがかかると思う。ひとつ言葉を間違えれば炎上する可能性のある社会だ。

◆島には必要以上のそのような風習がない。一人一人の距離が近く、それに嫌悪感を抱いている人が少ない。日常生活においても常に島民は助け合って生活をしている。神津島が幸せな島と呼ばれ、島民の仲がいいのはこのようなことも関係しているのではないかと思った。

◆2年ほど前の島ヘイセンに、私は島の高校を選んだことを後悔しないために、全力で島生活を楽しみたいといったニュアンスの文を綴った記憶がある。離島留学を終えて、神津高校を選択したことは間違いではなかったし、神津高校の卒業生であることを誇りに思う。自然に囲まれた地で青春を送れたこともそうだが、新しいことに挑戦できる環境があったこともまたひとつ、恵まれていたと思う。両親、先生方、島人、そして寮生。沢山の人に支えられながら、最高以上の体験をさせてもらった。

◆寮には新1年生4人を迎え、楽しく寮生活を過ごしている様子が後輩からLINEで送られてきた。夏になったら友達と一緒に第二の故郷となった島へ帰ろうと思う。少しずつ島へ恩返しをしていきたい。[長岡祥太郎


「何があっても外に行く!」という言葉のかっこよさ

■連休の最終日の朝、思い立って報告会に出かけることにした。11時少し前に家を出ても間に合うとは、なんとありがたい。会場に入って、とびきりの笑顔の方に惹きつけられた。初対面だが、ピン!!ときた。やはり。「私、西穂山荘に2回泊まったことあるんです!」と、いきなり話していた。「なんでですか?」「仕事で」さぞやびっくりされたことと思うが、初めて会った方とこんな話ができる「地平線通信」の存在はすごいなあと思いつつ、隣に座った(レポート楽しみにしています!)。

◆小学生のころから知っている祥太郎さんの離島での話を楽しみにしていた。そういえば、小学校から中学校に上がり、その後どうする……なんていう話をかつてしたこともあったなあ。そのとき「いいなあ、附属……」なんて安易に言った気がする。その彼は小・中とどういう思いで過ごしたのか、この日の語りで知った。

◆実は、国立の小→中と進んだ人の中では、似たような話を聞くことが多い。先進的ということばが嵌まるのかわからないが、自主性を大事に、活動を楽しんだ小学校生活から一転して、彼のことばを借りると「偏差値と模試」の中学校生活。小学校で培った力をどうして活かせないのだろう。それには、その上の高校や大学の入試のあり方を変えないと、とは昨今よく聞いてきた。なんだか、トータルで見る力というかどう生きるかとかどう育てるか、といった視点が欠けているからかな、とずっと感じている。

◆「何があっても外に行く!!」。このことばはかっこよかった(ちなみに私の周辺では、高校を卒業するときにこう言って県外に出て行きます)。島のコミュニティにとけこんで「成長した」と自身で感じられたことが、またなんとかっこいいことか。島に行く決意をして、そこでの生活の話を聞きながら、この選択をした祥太郎さんはもちろん、自分で決断して進んでいくよう育ててこられたご両親がすごいなあとつくづく感じた(地平線の方々には、何言ってるの? 当たり前でしょと感じられるかと思いますが、現代ではそう多くはないのです。と考えると、彼にとって小学校生活は意味があったのだと思います)。

◆これを書きながらたまたま見ていたテレビのローカルニュース(5月9日)で「茅野市の黒百合ヒュッテでは、3cmの積雪がありました」というナレーションとともに、その映像が流れた。「え、ここなのね!」もう、このシンクロにぞくぞくしている。心理学を学び音楽も続けていくという、近しさを感じる彼のこれからがとても興味深い。[長野市 南澤久実 教師]

才能とは、【体力】のこと

■長岡祥太郎氏の「島留学」報告会。参加してナマで聴いてこその報告会でした。ありがとうございます。

◆ぼくは、あのころ、なにをしていただろうか。想いを巡らせることができました。なにもしなかったなあ〜。自分は、漠然と想い、漠然と生きていた。親からも地元からも逃げたくて上京したにすぎず、東京に行ったら「なんとかなる」と漠然と妄想して、そのまま変化も無く、今に至る。明確なのは「老い」のみ。なにもやらないままに「なにも出来なくなっていた」

◆そして、自分も「島留学したい」と なにを今更 想った。「人生をやりなおしたい」と漠然と想う。そして、やっぱり「なにもやらない」のだろう。「若い」ということは、それだけで そのありのままで「ほんとうにすばらしい」ことなのだと感じました。そして、江本さんから見たら、ぼくなんかは、まだまだぜんぜん「若造」なのだな……とおもいました。江本さん、いつまでもいつまでも頼りになるセンパイで居てください。と 願いを込めたのでありました。

◆阿部雅龍氏の夢をみるひとたちは、わりといらっしゃるのですね。ぼくもみました。ちょうど亡くなるころです。阿部さんは、巨大な木製の機織り機を操作していました。ぼくと阿部さんの間には いく本もある茶色の縦糸が輝いていて美しかった。阿部さんは、疲れ知らずな感じで、やっぱり笑っている。

◆江本さん、健康には充分に留意されて、ほんとに元気でいてください。うっかり転けないように。階段から落ちないように。70歳過ぎてからの「骨の損傷」は、厳しいです。ぼくも、健康チェックして、「体力・筋力」を付けようとおもいます。才能とは、【体力】のことだとおもいます。江本さんも、体力の維持を大切にされてください。体力さえあれば、生涯、現役の視座で記事を描いてゆけるとおもいます。[緒方敏明 彫刻家]

江本さんと行く神津島の旅

■2月の報告会後の北京の席で、江本さんから祥太郎の報告会の前に神津島を訪れてみたいとの相談を受けた。この3年間、息子が不定期連載していた島ヘイセンを読んで色々と想像しているのだよと常々伺っていたこともあり「百聞は一見に如かず」ということで、4月19〜21日の2泊3日の日程で神津島取材の旅にお供することとなった。往路は大型客船に乗船したかったのだが、あいにくGW直前まではドック入りで運休のため、今回は飛行機で往復することにする。19日朝、調布飛行場で待ち合わせ、8:50発、19人乗りのプロペラ機で出発する。離陸後20分で眼下に伊豆大島、そこから10分で利島、新島、式根島と続く。先月の通信の題字を上空から眺めて密かに楽しむ。神津島までのフライトは40分、定刻通り9:30に到着した。

◆いつもの民宿で一息入れ第一の目的地、噂の10m飛び込みスポット「赤崎遊歩道」を目指す。赤崎は島の北端で村落に戻るまでの途中に商店はないため、先ずはお昼ご飯を調達する。島の郷土料理の醤油めしのおにぎりと息子お勧めのお肉屋さんで惣菜を購入。村内バスに乗車し、10分程で赤崎遊歩道に到着した。独特な岩場の景観を損なうことなく整備された木造の遊歩道はまるでアスレチックの様。いよいよ一番高い展望台に立ち10m下の水面を覗き込む。何度も何度も歓声をあげる江本さん。「もう少し若かったらなぁ……」。好奇心をくすぐられる場所に違いない。

◆私たちは赤崎遊歩道を後にして、村落までの約6kmの海岸線の道をゆっくり散歩しながら戻ることにした。聞こえてくるのは波の音、風の音、野鳥のさえずりだけ。神津島では年間を通して約150種以上の野鳥を見ることができるそうだ。自然が作り出した造形美「ぶっとおし岩」や「踊り岩」、史跡「トロッコ橋跡」で足を止め、誰もいない白浜に腰を下ろして海を眺める。少し寄り道をして、式内明神大社「阿波命神社」にも参拝した。何と贅沢な時間だろうか。途中、これからの観光シーズンに向けて、草刈りやバーベキュー施設などの掃除をされる島民の方々をみかけた。こうして島は守られてきたのだなと感じる一コマだ。初日、江本さんの万歩計によると2万歩は歩いたらしい。

◆二日目、島のシンボルとも言える標高572mの天上山に登る。天上山には二つの登山口があるのだが、村落と前浜をずっと背にして登れる黒島登山口から出発した。歩きやすく整備されたスイッチバックの登山道を登っていく。1合目211m、2合目240mと順に確認しつつ歩みを進める。海抜0mがすぐそこに見えるという面白さがあり、少しずつ背後の景色が広がっていく。登山道ではオオシマツツジが咲き始めていた。10合目476mに到達すると様相が一変し、しばし藪の中を行く。足元には丸々としたトカゲちゃん達がざわざわ、1メートルを超えるシマヘビもお出迎えしてくれた。

◆台形の山頂には大小さまざまな岩が連なり砂漠や池が点在する。表砂漠を経由して最高地点の山頂に立った。実はここまで他の観光客には一人も出会わず、貸し切りの天上山をたっぷりと満喫することができた。山を知り尽くした江本さんも「低山ながら違う局面を併せ持つ珍しい山で、新しい山にチャレンジするのもいいものだな」と感慨深げであった。しかしながら、息子よ。3年もこの島に暮らしていたのに天上山に登っていないとは、もったいない!!

◆神津島の旅から戻って一週間。世の中はGWとやらに突入し、ワイドショーでは連日、高速道路の渋滞のニュースと有名観光地のオーバーツーリズム問題をとりあげている。神津島の海も観光客で賑わい始めたことだろう。今回の旅でまた新たな島の魅力を感じることができた私は、必ず再訪しようと心に決めた次第である。[長岡のり子


先月号の発送請負人

■地平線通信540号(2024年4月号)は、さる4月17日に印刷、封入し郵便局から発送しました。今月も力作原稿多く、24ページの大部に。印刷・発送作業にいつもよりは時間がかかりましたが、精鋭揃いで順調に終わりました。北京では丸テーブルを囲み、いままで注文したことのない料理を頼んでおいしくいただきました。今回も長岡のり子さんのあんパン付きでした。のり子さんありがとう。みなさんおつかれさまでした。

 車谷建太 中畑朋子 高世泉 伊藤里香 長岡竜介 渡辺京子 落合大祐 白根全 久島弘 武田力 籾山由紀 江本嘉伸


―― 連   載 ――
波間から

その8 境界をこえて

和田城志 

■生物の定義は色々あるが、自己複製、エネルギー代謝、細胞膜があること、とりあえずこれで話を進めよう。細胞膜は自己と非自己を隔てる境界面である。人間の思考はこの接点から始まる。相互扶助と共存共栄の考え方は、この境界が生む差異を止揚しようとする知的営みである。人間の存在価値は、自然淘汰による競争原理にあらがうためにあるように思う。

◆生物の持っている機能の究極の進化として、人工知能(特に大規模言語モデルによる生成AI)が生まれた。自己複製とエネルギー代謝は獲得している。しかし、細胞膜(境界)はまだない。というよりも、境界を必要としない自他を超えたネットワークを目指しているから、境界そのものが邪魔にさえなる。人工生命(ALIFE)が、地球という一つの巨大な単細胞に思えてくる。我々はそれを支えるための、個性をはぎ取られたアミノ酸の一粒に落とし込められそうだ。「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」というガリレオ・ガリレイの言葉を信じている私は、アルゴリズムの迷宮といえるコンピューティングに正直怯えている。だから悔しいので、人工生命を生物の仲間に入れたくない。

◆細胞膜と免疫システムが、生き物としてのアイデンティティ(私が私であること)を支えている。それはデジタル化されない身体そのものである。脳みそはあまりあてにならない。すぐに人工知能の軍門に下りそうだから。個の身体には、環境(空間)と経験知(時間)が織り込まれているから、同じものは二つとないはずだ。それらを、近似値でひとまとめにしてほしくないのだ。私は、生身の身体を判断の拠り所にしたい。バーチャルとリアルを混同したくない。人類がその境界をいつまで保てるか、自信はないけれど。

◆世界(社会)はいくつもの境界で仕切られている。ウクライナやパレスチナの紛争(戦争)も、つまりは領土の境界問題だ。重層する歴史的背景が問題を複雑にしている。生存をかけた国民国家の戦いだ。LGBTQは性的マイノリティを分類した言葉、男と女(ジェンダーとセクシャリティ)の境界、先進国と途上国の経済格差、人種差別、社会体制やイデオロギー、あらゆるところに境界線が横たわっている。境界は、人間の都合が設定した概念で、境目そのものは目に見えない。もっと言えば、本来なくてもいい。

◆生物進化は基本的には保守的で、危険を冒すことはしたがらない。いつもおどおど周りを気にしながら、細々と命をつないできた。自然の驚異に適応するだけで精一杯だ。無差別に降り注ぐ宇宙からの高エネルギー放射線に遺伝子を傷つけられて、たえず変異を余儀なくされる。宇宙線はいとも簡単に細胞膜(境界)をすり抜ける。生物はそれに対抗するために、DNAの中に変異を許容する余地を内蔵する。

◆ダイバーシティ・マネジメントは、絶滅リスクを分散し、生命の連鎖を担保するために選ばれた作戦である。無駄を承知でいくつも手を打つ。人間の好奇心は、それを象徴するような働きの一つのように思える。自由と多様性は人類進化の両輪である。好奇心は抵抗である。境界を越えるだけでなく破壊さえする。それが消極的冒険をうながす。

◆私は、登山(アルピニズム)はそのような好奇心、冒険遺伝子の発現の一つではないかと思っている。私にとってそれは、小さな自己満足の冒険であった。人並みに仕事と家族があったが、関心の中心はいつも山だった。生き方に真面目さが欠けていた。ハレとケの境界にある壁に小さなくぐり穴をうがって、こそこそと行き来してきた。

◆私は、1987年の遭難で障害を持つ身になるまで、登山記録を発表したことはなかった。世間に胸を張るような行為ではないと思っていたからだ。そういう意味で、私は純粋なアマチュアである。少ない友人と家族以外に、金銭的援助を受けたことはない。というよりもそういう能力に欠けていた。迷惑は周囲にいやというほどかけてはきたが。

◆探検と冒険の間にも境界がある。この境界はあいまいに使われることが多いが、明らかに異なる。検と険の違いである。今頃こんなことを言ったら笑われるだろうが、探検が冒険より高尚に見える。探検(普遍的知的探求)には人類史的意義があるが、冒険(自己愛的肉体表現)は自己顕示っぽい。上から目線だと、お叱りを受けそうだ。時代錯誤のまちがった感じ方だから、無視してもらってもいい。しかし私には、この違いが心のすみに居座っている。

◆かつて探検とは地理的探検のことで、未知未到の地平の向こうにあった。地平(水平)とは二次元平面の奥行である。現在の探検(探査)のフロンティアは三次元立体、つまり垂直軸の延長である深海と宇宙だから、身体より物(科学技術や機材)の比重が大きくなるのは仕方ない。冒険は、探検よりも生身の身体表現を主張できる余地がある。集団的探検(視覚)より個人的冒険(嗅覚)の方が、親近感があってなじみやすい。私は、思索の深みより肉体の躍動が好きだから、いつまでも無鉄砲な冒険へのあこがれが消えない。

◆探検と冒険の境界を越える、否、両立する活動をしてきた人がいる。気宇壮大なアイデアを実現してきた関野吉晴である。グレートジャーニーは着眼点が素晴らしいし、それを長い年月をかけて実践してきた。人類進化のたどった道を過去へ遡上する、そう考えるだけでワクワクする。まさに時空を旅しているといえる。数万年の時が刻んだ人類の今を探検する。それらを映像美豊かに発信している。未来への警鐘として、文化の多様性をリアルに表現する。いろいろな文化に通底する本質を見つめ、生身の身体がかろやかに反応する。遭遇するあらゆる出来事が彼の血肉になり、新たな問題提起が湧き上がってくる。まさに哲学する探検家だ。冒険に彩られた探検ロマンが満ち溢れている。

◆彼の興味がけた違いに多岐にわたるから、その思考に追いつけない。ただただ畏敬の念を抱く。「新グレートジャーニー」と題して、活動の場を海に広げた。陸上生物の人類にとって、海は果てしなく続く異郷だ。関野は、日本列島への人類伝播を探り、東南アジアから南西諸島経由のルートを、手作り丸木舟で4000キロ航海した。その実践力と執念は驚嘆の他はない。

◆私と言えば、山に愛想をつかされ、海に逃げ場を求めた。深い考えや大それたプランがあったわけではない。フリチョフ・ナンセンの『フラム号 北極海横断記―北の果て―』(太田昌英訳 ニュートンプレス 1998年)を読んで、ノルウェーに妻と2週間の旅をしたことがある。オスロ・フィヨルドにある博物館でフラム号の実物を見るためだった。圧倒された。

◆館内に、トール・ヘイエルダールのブースがあった。『コン・ティキ号探検記』、『葦舟ラー号航海記』は海洋人類学の古典的名著だ。『海洋の道』(カール・イェトルマ編 関楠生訳 白水社 1990年)の副題に、「考古学的冒険」とある。実験航海で自分の学説を立証しようとしたフィールドワーカーだ。関野は、ヘイエルダール同様に多様な地域に踏み込んだ文化人類学者だ。物より人にフォーカスする、未来学的冒険者といえるだろう。

◆スカンジナビア半島の北端、ノール・カップ(北岬)で、茫漠たる北極海の水平線を眺めた。しみじみ世界の広さを思った。私は、この海に触れることもなく、航海の夢を終えるだろう。結局、探検世界には踏み込めないまま。

◆もう一人、とてつもない越境者がいる。中村哲である。1978年、パキスタン、ラワルピンディのミセス・デイヴィス・プライベートホテルで出会った。彼は、福岡登高会のティリチ・ミール(7708m)登山隊に医師として参加していた。私は、東部カラコルムのゲントII(7343m)初登頂をねらっていた。

◆登山を終えて、また同じホテルで再会した。意気投合した。彼は、登山より現地住民の医療環境の劣悪さに心を痛めた。私は初登頂の自慢話を喋り、彼は世の中の理不尽を語った。年齢は3つしか違わないのに、ガキと大人の会話だった。高校時代は学生運動に励んだらしい。医療支援のために、またパキスタンに戻ると言った。生涯の目標を見つけたような口ぶりだった。隊で余った医薬品を寄付してほしいと言われた。その数年後に、国境の町ペシャワールに拠点を築き、アフガニスタンでの活動を始めた。それからの活躍は周知のとおりだ。

◆彼は、あらゆる境界に対して異議申し立てをしつづけた。国家間の経済格差と侵略、宗教の壁(カトリックの彼がイスラム教のモスクを建設した)、政府と反政府の権力闘争、医療教育と灌漑土木の重要性、常に境界の最前線に身をおいて活動した。思想に普遍性があり明瞭だ。眼光鋭い面立ちには、怒りと慈愛が混在していた。

◆戦争と飢餓の克服、和平への道筋を世界に示した。あらゆる戦争の当事者たちは中村に学ぶべきだ。自己主張と破壊だけでは何も解決しない。混迷を深くするだけだ。中村哲は、弱きを助け強きをくじく、義理と人情の任侠渡世の人だ。ノーベル平和賞の没後受賞のさきがけになればと願う。

◆境界を越える人にあこがれる。肉体で語る人にあこがれる。そのようにして磨かれた知性にあこがれる。優勝劣敗弱肉強食だけが、自然淘汰の駆動力ではない。分け隔てなく降り注ぐ宇宙線の御業、繰り返す生と死の突然変異、境界を越えてめぐる輪廻転生、あえぐ宇宙船地球号を導く越境者たちにあこがれる。


能登半島地震4

不思議なご縁といつもの漫談

■1月3日晴れ。弟が朝食の準備。メニューは冷凍食品の焼飯とアオリイカの刺身。電気がなくても北陸の冬は寒いから生ものもまだ食べられた。朝食を終えて、昨晩支度しておいた荷物と携行缶に残っていたガソリン3リットルを背負って車を停車してある6km先の北丸山へ向かう。実家側の畑の白菜などの葉物が朝日に照らされ朝霜が溶けてキラキラ輝いている。いつもの光景なのだが、なんとも美しく大地に根付く命の強さを感じた。その美しさを眺めていると人はなんて弱いのだと思いしらされる。でも生き残った。これに何の意味があるんだろうかなどと思いながら昨日歩いてきた道を行く。実家から持ち出した家財が増えた分、悪路に難儀した。

◆県道から生活道路へ迂回しながら進む。昨日より所々で地割れが広がっていることがわかる。昨晩の空から鉄球が地面に落下したようなドーン、ドーンと響く不気味な音の正体は地割れだったのだと思った。車は無事なのだろうか。昨日よりも足取りは重く遠く感じる。北丸山に到着。車は無事、ホッとする。背負って歩いてきた荷物を車に積んで、エンジンをかけるとガソリンの残量は残り3目盛り。1目盛り60kmとして180kmが走行可能距離か。悪路を走ることを考えると燃費は悪くなる。おそらく100km以下の走行距離になるだろう。

◆この残量では金沢へ到着できない。補給が目下の最優先事項。東日本大震災のときに水とガソリンが最初になくなったと記憶している。ガソリンスタンド巡りをこの日の目的とした。一番近くのGSは天坂付近になる。まずはそこを目指す。目的のGSが見えてくる。列はまばらで給油ができそうで安堵したのも束の間、緊急車両のみと書かれた看板が目に入った。後で知ることになるのだが、どうやらGSの貯蔵残量がある程度になると緊急車両のみの給油になるようだった。やはりガソリンからなくなっていく。悠長なことはやっていられない。目的地を明確に定めて向かわねば燃料が尽きてしまう。携帯電話の電波は通じていないので地図は見られない。土地勘頼り、記憶頼りでGSを巡る。

◆柳田村のGSに数台の車が列になっていたので私も最後尾に並び、自分の番がまわってきた。店員さんが言うにはひとり10リットルの給油になるとのこと。また、レギュラーガソリンのタンクに、もしかしたら水が混入している恐れがあり、ハイオクのタンクは無事であるとのことだった。私の車はレギュラー車だったが水の混入のリスクを避けハイオクを給油してもらった。給油は手動ではなかったので、この地区では電力が生きていることがわかる。燃料目盛り5、車両タンクの半分まで回復したので次のGSを能登町宇出津に定めた。

◆道中、電波が入っているところはないかと注意しながら走行した。すると能登町クリーンセンター前でチンチンチンと着信音! 停車して内容を確認。安否を心配してくれる友人と父親からの電話の履歴がたくさんあった。早速、父へ電話をかけるが繋がらない。「電源が入っていないか電波の届かないところにいる」アナウンスが流れた。たまっているSNSに返信を書くが送信がない。後でわかることだが、どうやら4Gの電波2本だと受信はできるが送信はできないということだ。結局誰とも連絡はつかなかった。

◆宇出津の街に到着すると信号機が作動していた。市内は電波も良好だったがどこのGSも燃料は空になっていた。ガッカリしていると金沢の親戚からSNSで着信。すぐに電話をして安否の連絡と能登の現状を伝えることができた。1時間ほどの会話だった。直後に父からの電話。「やっと出た! 今どこにおるんや! 何も繋がらん」と父。この声色なら元気だし大丈夫だ。合流場所を天坂のコンビニと示し合わせた。17時に大晦日ぶりの再会。私は大丈夫だっかと声をかけ父の背中をたたく。「無事でよかった」。父と再会して被災直後の話や天坂までの経緯を聞いた。

◆ひと段落聞いたところであたりを見回すとベンチに子供と父親が並んで座っていた。冬の夕方は寒い。子供が大きなくしゃみをした。寒そうだ。こんなときに風邪でもひいたら大変なことだ。これも何かの縁だと思って車に積んであるカイロ1束を譲った。親子は親戚と天坂で待ち合わせをして避難させてもらうようだった。二人がいなくなったところで父が「あの親子は町野の万寿さんやぞ」と話す。万寿さんといえば1つ上の先輩。野球部の練習でラグビーをやっているときに私に激しいタックルをしてきて私の前歯が欠けたのに「大丈夫やろ、それくらい!」と詫びのひとつもなく嫌な思いをさせられた万寿さんだった。

◆コンビニの駐車場には人が集まってくる。ひとりの男性が歩いてきた。「金沢方面の道はどうなっているのか知っていますか?」という質問だった。能登半島の半分ほどを迂回してきたときに耳にした話を伝えていると、どうも小中学生のころの先輩、米川さんではないかという気がしてきた。同時に先輩が「もしかして左打ち左投げの東くんか!」と私のことも覚えていた。町野で被災し天坂まで歩いてきたとなると結構な距離で何も食べていない可能性もある。私は持っていたチョコレートを譲った。米川さんは、これから金沢の親戚と合流すると言って立ち去った。避難先があって何よりだ。相変わらず優しい先輩だった。

◆万寿さんも米川さんも中学時代のひとつ上の先輩で野球部の先輩だ。不思議なものでご縁がある人とすれ違っていくものなのだなぁと思う。時刻は20時、雨が降ってきた。この日は親子3人で車中泊を決めている。珠洲の薬局で仕入れた食材で食事をする。シュークリームとチョコレートと乾物とお茶。わりと賑やかだ。父はテレビが好きで車にDVDを搭載している。きみまろの漫談を流し始めた。顔がほころんでいる。20分ほどして県道に消防車が隊列を組んで通過してゆく。金沢市を先頭に京都市、福井市など他県からの応援隊が駆けつけてきたのだ。赤色の回転灯が雨に打たれるフロントガラスに滲む。胸にグッとくるものがあった。BGMはきみまろのいつもの漫談。[東雅彦


地平線ポストから

東京都美術館での「現代造形フォーラム展」に参加して

■上階から見下ろせる地下三階の会場。床に広げた和紙の上に、襞を寄せた裂き織りの布三枚を重ねて置きました。裂き織りとは、使い古した着物や夜具などを解き、5ミリから1センチ程度に裂いて紐状にし、緯糸として使う技法。今回用いた古布は、喪の席で身に纏う黒紋付の着物と生命力を感じる赤の襦袢です。タイトルは『underground voice 地底の声』。

◆制作への想いを作品に添えました。「抗えないような自然のうねりを目にすると、地面の深いところで渦巻く、恐ろしくて美しいエネルギーの存在を感じます。破壊しながら生み出していく大きな力。その声を聴きたいと思いました」。来場者の方々はじっくり読んでくださり、感想もたくさんもらいました。黒と赤が象徴する死と生は、離れたところにあるのではなく続いていること。追悼と希望の思いも込めました。

◆展示会は5月初旬の一週間。現代造形フォーラム代表の彫刻家中垣克久氏は同郷の飛騨出身です。強烈なエネルギーを発する作品を制作されていることに興味があって、茅ヶ崎に引っ越してから展示会に足を運ぶようになりました。何度かお話をするうち、参加しないかと声をかけていただきました。自分の想いや考えを込める作品作り、やってみたくて、今年の冬の昭和記念公園での展示会から参加しています。

◆わからないことだらけですが、次の作品の構想も浮かんできました。楽しみ![中畑朋子


あれをするため

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「地域で自分を生きる」ということ

■皆さん初めまして。中澤朋代(トモネエ)と申します。突然ニックネームの自己紹介ですが、野外教育・環境教育ではこちらの呼び名が浸透していて心地良いので、初めての方もどうかお許しください。

◆いつも地平線通信はペラペラとめくって読むばかりで、年月が過ぎていました。NPO日本エコツーリズムセンター(通称:エコセン)の世話人同士という関係の江本さんには、2016年の山の日制定の動きに対し、「松本なんていいポジションではないか。エコセンから本来の山の日を主張せよ!(私の解釈)」とハッパをかけられ、山や政治といった女性が介入しにくい世界に、当時移住10年あまりの私が“ありんこの一撃”で関係者に当たった思い出があります……。そんな私も近年になってようやく、地域から相談や声をかけていただくようになりました。

◆さて、このたびの寄稿は江本さんの一声がきっかけです。住所変更のメールを打ったところ、間髪入れず携帯電話が鳴り、「トモネエ書いて」と。自分で決めたことではありながらも、まだ迷いというか焦りというか、心に引っかかるものがあり、そのような時期に整理の時間と発信の機会をいただき嬉しかったです。江本さん、ありがとうございます。メールに住所変更の事情と付した文章は、以下のものです。

◆「この3月を持って大学の専任を辞し、非常勤講師を続けながら新たな道を歩むことになりました。2006年の観光ホスピタリティ学科の設立に声をかけていただき、18年間に渡り大変多くの皆様にお世話になりながら、ここまで続けてこられました。本学は2002年に設立された後発の地方私立大学でしたので、独自の教育手法としてのアウトキャンパス・スタディ(大学バスを授業に使える制度)をはじめ、教職員のチームで学生一人ひとりを育てる校風をつくりあげるなど、民間から転職した身にとっても刺激的な立ち上げで、学生募集は安定してきました。

◆2021年度には周囲の支えで博士号を取得、自身の専門性はもちろん、卒論指導など教育にも手応えを感じることが増えました。学科も大学も、完成に向けて一定の成果を感じてきた近年でしたが、私自身に大きなライフステージの変化がありました。

◆岐阜県高山市に位置する実家は限界集落といえる中山間地で、分水嶺の自然の美しいところです。退職後に暮らしていた父が病で3年前に他界し、そこには夫婦で切り盛りしてきたブルーベリーの圃場とひとりでも残りたい母、父の村への気持ちを受け継いだ自分がいました。母の暮らしと、コロナ禍でさらに疲弊した地方の様子を感じるにつれて、ホールアース自然学校で実践を学び、エコツーリズムを研究してきた最大の動機である“ここ”について、今動かないと一生後悔する、と思いました。子育ても半ばで安泰から外れるような選択の背中を押してくれたのは、最大の理解者である夫と家族でした。

◆これから少しずつではありますが、地道に、かつ、これまでの積み重ねとご縁を大事にして、新たな一歩を踏んで行きます。大学も役割と時間こそ減りますが、4年生のゼミと複数の科目があり、新年度も地域に出ていって、学生が納得のいく学びを共に探していくつもりです。専任の期間にお世話になった皆様には、一つの区切りにこの場を借りて感謝申し上げます。これからも松本と高山の2拠点です。上高地、中部山岳国立公園にも関わりが続いています。引き続き、どうぞよろしくお願いします」

◆団塊の世代の父が70代で他界し、生まれた息子が心臓病で手術の経験がなければ、50になった自分が大学の専任をやめる選択はなかったと思います。父は現役時代から週末になると戸数20程度の小さな集落に20年間通い、毎年ブルーベリーの苗木10数本を休耕田に植えていき、退職後にやっと村おこしだ、活性化だと、賑わう故郷を夢みて暮らしました。だから癌で余命が短いとわかったときは涙を飲んで「でも、ここまで土台は作ってきたからな」と最期にポツリ。

◆思ったより命は短い。もっと早く、私も一緒に取り組みができればよかった。さらにコロナパンデミックは家族が会えないだけでなく、少子化や地域の疲弊など社会の様々な問題をとりわけ地方では加速させました。今は活性化どころか、次の世代につなぐための維持がやっとで、プレイヤーも足りません。一方、父に連れ添った母は落ち込みがひどく、農場の継続が生きる気力になっているようです。今、ここで関わらなくては皆が不幸になる。直感は「待ったなし」でした。

◆ブルーベリーは小粒で収穫は手間だし、収穫期は7月の約1か月、秋は剪定、冬前は雪囲い、春は剪定と草刈り、と1年を通じて作業があり、関わらせたい父の陰謀としか思えません(笑)。500本の収穫は人にお願いしなくてはとてもできず、集落のお年寄りにお小遣い稼ぎ程度でも手伝ってもらい、日常の張り合いとなるコミュニティにしたい。我が家は夫がお米を作っているから、二人の子どもたちが食べ盛りになっても大丈夫。……と言いながらも、立場と我が家の固定収入をなくし、たびたび揺れてしまうのが正直な今の私。そのうち慣れて笑って、家族と一緒に地域で自分を生ききっていくことが、当面の目標です。[中澤朋代


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら江本宛メールください。最終ページにアドレスがあります。通信の感想、近況など短く付記してくだされば嬉しいです。

上田やいこ 北村敏(4000円  通信費とカンパ2000円ずつ。いつもありがとうございます。★に近況) 中山綾子(4000円 年間通信費+カンパです。今年に入ってから世の中的にも思いがけない出来事が次々に起こりましたが、自分の身にも想定外の事が起こりました。クロスバイクで車道を走っている際に、被っていたキャップが風に飛ばされ、急ブレーキをかけたところ、後輪が勢いよく跳ね上がり、バイクは後ろに自分は前方に吹き飛んだのです。いわゆるジャックナイフ事故というヤツです。習っていた忍術がここで活き、咄嗟に受け身を取ったので頭は打たず、綺麗に前方回転したのですが、ザックの胸ポケットに入れていたボトルを巻き込んだため、肋骨を折りました。それから数週間、運動は控えるように宣告され、じっとしていられない私には辛抱の日々でした。そこに届いた地平線通信。いろいろな人の五感を通して様々な景色を体験し、またいろいろな心情に触れて動けなくても豊かな気持ちでいられて感謝しています) 小森茂之(10000円) 天野賢一 渡辺三知子(10000円 いつもありがとうございます。先日の通信539号で、私が愛読する写真絵本『ほら、きのこが…』の伊沢正名さんがどういう方なのかを初めて知りました。地平線通信はこういう出会いを与えてくださる場なのだなと再認識しました。いつか報告会に参加したいです。姫路市) 村田憲明 滝村英之(3000円 通信費+カンパとして。いつも楽しみにしています) 横山喜久

★北村敏さんから 完全退職して8年経過、すっかり出不精になってしまった。『愛の不時着』を契機にNetflix、U-NEXTの韓流ドラマ、そしてYouTube動画サーフィンで過ごす日々である。5月初旬、評論家・佐高信の動画配信で『中村哲という希望――日本国憲法を実行した男』(高世仁×佐高信対談集 旬報社)が憲法記念日にあわせて紹介されていた。中村氏の生の声と話は、一度だけ講演会で拝聴した。なぜ、井戸や用水を掘り続けるのか?という会場質問に口ごもりつつ「ここで止めたら男が廃る」ボソリと一言、これで会場のカンパ袋は満杯に。私は、用水路は「利権の巣窟」その調整・対処について聞いてみたかった、が会場の熱気に飲まれ聞くことはできなかった。それはきっと誰かが聞き、いずれ判るはず、と思っていた。しかし、襲撃の悲報。今年1月末に民俗学者・宮本常一氏の恒例の追善法要忌がJR西国分寺近くの東福寺であった。そこには前掲書の対談者高世仁氏もおられた。法要後、座がくだける中で、初対面の氏に対し「地元調整・対応はどのようなものでしたでしょうか?」とまるで中村氏を前にしたような気分で尋ねてしまった。すると、高世氏は「出来上がったものは地元の族長たちの慣習に任せて、あまり口出ししなかったようです」と。地元のものは地元に返し決めてもらう。これが中村流かと長年のつかえがとれた気になった。その地域重視・尊重の中村氏がなぜ襲撃されたのか? 緑野に変えたマルワリード用水は地元の対立の落とし子になってしまったのか? 5月配信の佐高信の動画には、何度かの現地訪問者となって来たジャーナリスト西谷文和氏が登場していた。そこで中村氏は、アフガンの緑化安定・和平化を嫌い紛争利権を持続・拡大しようする隣国パキスタンの好戦派の妨害工作の標的になっていたのではと触れている。西谷氏の動画には灌漑前の荒地が、水路をはさみ緑の農場となり、定住可能となった集落や市場・学校が映し出されていた。やはり、日本の現状を見直すにつけ中村哲の行動は希望である。高世さんには申し訳ないのですが、市立図書館宛に早々にリクエストしていた御著書、予約待ちあと一人でようやく手元に届きます。じっくり拝読させていただきます。


大相撲初日を見て思う、人を育てるということ

■ 宮城野親方(元横綱白鵬)には独特の迫力があり、対面するだけで緊張してしまう。前人未到の記録を積みあげ、隙なく野望を実現させてきた “完璧さ”のせいだろうか。そんな彼の別の一面を垣間見たのが2022年秋の早朝。「わんぱく相撲」に出場したモンゴルチームの付き添いで、宮城野部屋の稽古を見学したときだ。

◆土俵で力士たちが基礎練習に励んでいると、突然ビリッとした空気が走った。浴衣をはおり、ボサボサの長い髪の毛で宮城野親方が現れた瞬間だ。座敷に正座していた私の斜め前に親方はあぐらをかいて座りこむ。床山さんがその後ろにすっと立ち、黒い染料を親方の髪の毛に揉みこみ櫛で梳かして髷をつくっていく。親方の背中を眺めていたら、人知れず深い苦悩を背負いながら歯をくいしばって頑張る人間の哀愁を感じてしまった。そういえば彼はまだ30代なのだった。

◆その日、稽古場で再会できるのを楽しみにしていた力士がいた。2メートルの長身を活かして番付を駆けあがり、関取になった北青鵬だ。しかし彼は稽古に来なかった。「いま宮城野部屋に来てるよ」とスマホからメッセージを送ったら、風邪で練習を休んだとのこと。北青鵬ことダワーニンジ君と知り合ったのは2017年の秋。その前年に「わんぱく相撲」で出会った遊牧民少年のソソルフー君がスカウトで鳥取県西中学校に相撲留学することになり、気になって私は鳥取城北高校を訪れた。相撲名門校の鳥取城北と近所にある西中が合同練習をおこなっていたのだ。

◆石浦外喜義校長とモンゴル人コーチのゲキが飛び、緊迫感ただよう稽古場。そこに、ひとりヤンチャな雰囲気を出す高校1年生のダワーニンジ君がいた。彼は練習を一瞬手抜きしようとしたのが先生に見つかり、追加の腕立て伏せを命じられていた。ちなみに当時の相撲部主将は、ことしの春場所でいきなり幕内優勝して旋風を巻き起こした青森県出身の尊富士。副主将がトゥバ共和国出身の狼雅。さらに上の先輩にモンゴル出身の横綱照ノ富士、後輩に伯桜鵬、天照鵬がいる。

◆ダワーニンジ君が高校卒業後、宮城野部屋に入門したことは衝撃だった。プロになるほど相撲に情熱をもっているように見えなかったからだ。デビュー直後、「番付表をお送りしたいので住所を教えてください」と彼からはじめて敬語でメッセージをもらい、宛名を手書きした封筒が届いたのにも驚いた。ほとんど負けず一気に幕内入りし、「横綱を目指しています」とNHKのインタビューで真面目に語る姿を見て、こんなに向上心が高かったんだといまさら思い知らされた。

◆2024年2月23日に報道された暴力事件のニュースは青天の霹靂だった。けれど予兆はあった。2月12日に両国国技館で開催された「白鵬杯」に北青鵬の姿がなかったのだ。1年前は審判役などで大活躍だった北青鵬と炎鵬の宮城野部屋ツートップが、ことしはさらに若い伯桜鵬と天照鵬に代わっていた。暴力行為の発覚で宮城野部屋は閉鎖され、親方も力士も伊勢ヶ濱部屋へ。北青鵬は引退した。この件はモンゴルでも報道され、北青鵬への非難が殺到。宮城野親方に対しては「我らが英雄よ、ふるさとへ帰ってくれば温かく迎えるよ」「この人はもう日本人になったのだからモンゴルで報道する必要はない」などさまざまな意見を目にした。

◆宮城野親方の真のすごさは人育ての上手さにあると思う。有能な若者をスカウトして稽古をつけるだけではない。現役の横綱だった2011年から毎年開催している「白鵬杯」出身の力士がいまや20代になり、すでに何人も関取になっている。青年会議所と日本相撲連盟が共催する「わんぱく相撲」との大きな違いは、モンゴル以外の世界各国からもエントリー可能なことで、2024年はアメリカ、オーストラリア、台湾、香港、韓国、タイ、ウクライナ、ブラジルからも参戦。ここに親方の本当の思いが透けて見える。

◆私は2016年から毎年「わんぱく相撲」と「白鵬杯」のモンゴルチームに同行している。宮城野部屋閉鎖のニュースがモンゴルで出た日、ことしの「白鵬杯」小学4年生の部で準優勝したトゥブシントゥグルドゥル君からテレビ電話があった。「横綱白鵬さんはどうなっちゃうの?  宮城野部屋は完全になくなるの?」と不安そうな顔。将来日本で力士になりたいモンゴルの子にとって、宮城野親方は異国にある夢を照らしてくれる灯台のような絶対的存在。私は彼に「白鵬さんは必ず復活すると思うよ。心配しないで練習をがんばってね」と言った。

◆五月場所が初日から大荒れだ。横綱と大関がまさかの全員黒星スタート。伊勢ヶ濱部屋に移ったばかりの元宮城野部屋の力士が10人欠場しているのも謎が残る。15日後にどんな結果が待っているのかはわからないが、それより先のことを予測したい。まず宮城野親方の野心はここで折れるようなものではない。あと5年後あるいは10年後、さらにパワーアップして表舞台に返り咲くだろう。そのとき、彼の本当の時代がやってくると思う。[大西夏奈子]

春のシシャパンマ遠征の顛末

■3月〜4月までネパールに1か月以上滞在し、チベットにあるシシャパンマ(8027m)に登る許可が出るのをひたすら待ち続けた。シシャパンマは、8000メートル峰14座の中でそれ自体が丸々チベットにある唯一の山である。中国大使館から許可が出るのを待って首都カトマンズにただ滞在していたわけではなく、ぼくは標高5000メートル前後のトレッキングピークに連続して登って体を順応させながら、自分の中でまだ撮影が十分ではなかった地域を巡り歩いていた。

◆3月初旬は、ネパール側からチョオユーを撮影するため、ゴーキョ周辺に滞在し、3月4日Fifth lake(5000m)、3月5日Gokyo Peak(5357m)、3月6日Renjo Pass(5345m)などを歩いた。3月末は、昨春にエベレストのアイスフォールに消えた友人のシェルパの家族に会うため、ターメ周辺に滞在し、3月25日Sunder Peak(5373m)に登った。4月初旬は、北側から登頂したアンナプルナのまだ見ぬ南側を撮影しようとアンナプルナ山群を一周しながら、4月7日、8日Thorong Pass(5416m)に泊まり、4月11日Annapurna の南側のBC(4200m)まで行ってきた。

◆高所順応は万全で、シシャパンマに行けさえすれば、すぐにサミットプッシュに入れる身体になっていた。トレッキングをしながら待ち続けていれば、そのうちシシャパンマの入山許可が出るだろうと楽観的に考えていたのだが、許可証は待てど暮らせど 発行されない。自分だけではなかった。シシャパンマに登ろうと考えていた外国人全員に許可が出なかったのである。

◆結局今春、シシャパンマとチョオユーは閉山され、チベット側のエベレストへの入山許可だけがだいぶ遅れてゴールデンウィーク明けに発行された。チベットで登山をするためには、単純な中国ビザだけでなく入境許可を伴ったビザと、入山許可が必要で、それらを手に入れるためには、CTMA(中国チベット山岳協会)とCMA(中国山岳協会)の招待状のようなものも発行してもらう必要がある。CTMAはぼくたちの入山に関して尽力してくれたようだが、CMAの動きが鈍かった。

◆CTMAの担当者は、ぼくたちに何度も「もうすぐ許可が出る」「来週には出る」などと言ってきたにも関わらず、最後にはトーンダウンして「今シーズンは難しいかもしれない」と連絡をしてきた。北京のスポーツ局とやらが、登山者の身元調査をしていて、そのプロセスが遅れている、というのが理由だった。ぼくたちは彼らに要求されて、家族関係を細かく明記した書類から銀行口座の入出金が記された通帳のコピーまで、要望に従ってあらゆる個人情報を渡した。そこまでしないと許可が出ないからだが、結果的にそこまでしても許可が出なかった(一体、何をそんなに入念に調べるのか……と、あきれる)。

◆昨秋のシシャパンマの雪崩事故で先方が神経質になっているのもわかるが、それにしても、許可を出すような思わせぶりな態度をしつつ、結局最後には出さない、というのが理不尽でやるせない。また、彼らは酸素ボンベを使わない無酸素登山も今後禁止する、とも通達してきた。チベットへの入境と登山に関して、彼らが何を言ってくるのかわからず、先が読めないのがつらい。

◆CTMAの担当者は、書類審査を進めつつも今春が閉山したことで「次の秋は迅速に許可を出せる」と言っているが、誰がその言葉を信じよう。正確に言えば、担当者の女性には昨秋会っているから、彼女は真摯な人物だとわかるのだが、その先のプロセスが不透明すぎる。とにかく、シシャパンマに行くのは9月に延期になった。また早めにネパールに入って順応をしつつ、許可を待つことになると思うのだが、さてどうなることやら、という状況である。[石川直樹


エモの目

「青春日記 〜中学生編〜」

  編集長が14歳から書き溜めた、私的記録をちょっとだけ掲載します

1956年2月20日(15歳)

◆今日は学校は半日だ。そういう日はいつも嬉しい。しかも今日は午後から映画へ行くということがあったので実に愉快だった。前ほど生真面目ではなくなったが、度を越さない程度のさぼりも非常に面白い。皆との行き来が多くなっていつも何か面白い事が一緒にある。「エデンの東」は全くよかった。ジェームス・ディーン扮するキャルは父親の愛情に飢えている。父親も彼を愛そうと勉めるがそれはキャルに通じない。共通な心を持っているのに結ばれないという、そういった親子の微妙な心理をエリア・カザン監督は巧みにあらわす。父は熱心なクリスチャンで人格もあり、立派な人間である。キャルは酒を飲んだりいろいろな所をうろついたり、また時々急におかしなことをしでかす、と言った、一見不良性を帯びている人物であるが、彼は彼なりの立派な考えを持っている。しかし、それを父親は理解できない。聖書などから彼のためになるような文句をひきだしたりしてキャルを立派な人間にしようと勉める。キャルが父の愛を得ようと豆の栽培で得た金も父親は冷たく突っ返す。皆が戦争で死んだり怪我をしたりしている中でその戦争を利用して金儲けなどする奴は嫌いだ、というのである。その時のジェームス・ディーンの絶望。僕は映画コンクール特賞に値する映画だと思う。ジェームス・ディーンの顔、目は素晴らしい。劇的な俳優の容貌は当分僕の頭にその音楽とともにあるだろう。


新緑に囲まれて長野亮之介・坂井真紀子結婚パーティー

■〜果てしない大空と 広い大地のその中で いつの日か幸せを 自分の腕でつかむよう〜 品行方正楽団の奏でるメロディに誘われたかのように披露宴会場の奥からかすれた歌声が聞こえてきた。会場に詰め掛けた人々が一斉に声の方を振り向くと新婦の真紀子さんの手を取り、一歩一歩楽団の方へと歩みを進めながら、「大空と大地の中で」を歌い上げる長野さんがそこにいた。〜生きる事がつらいとか 苦しいだとか言う前に 野に育つ花ならば 力の限り生きてやれ〜

◆普段まったくカラオケに行かない彼は、結婚披露宴のためにヴォイストレーニングの動画を視聴し、カラオケで練習を重ね、この日を迎えたそうだ。松山千春さんのつくった「大空と大地の中で」は、大学時代を北海道で過ごした彼の晴れ舞台にふさわしい選曲で、歌声の向こうにうすあさぎ色の北国の空が見える気がした。みんなの視線の先にいるふたりは少し緊張した面持ちながらも、幸せそうな笑みを浮かべている。

◆「亮之介と真紀ちゃんは90年代頭には実はニアミスしていたんだよ。俺はふたりをそれぞれ知っていたんだが、ふたりが出会ったのはそれからずっと先の未来だった」とタキシードの長野さんとウエディングドレス姿の真紀子さんを見つめながら山田高司さんが、こっそり教えてくれた。山田さんは高野秀行さんと共に先日植村直己冒険賞を受賞したばかりだ。そんな山田さんが長野さんに初めて出会ったのは、80年代初頭。東京農大探検部だった山田さんが南米大陸の3大河川をカヌーで縦断し、帰国して間もないころだった。長野さんはユーコン川をイカダで下る相談をしに行ったのだろうか。その後、山田さんは緑のサヘルを立ち上げるのだが、そのロゴは長野さんが手がけている。

◆その緑のサヘルの事務所に90年代初頭にやってきたのが、真紀子さんだった。しかし、同じ事務所に通っていた長野さんと真紀子さんが出会うのは、それから20年ほど先の未来だった。真紀子さんは大学卒業後、緑のサヘルに参加。しばらくチャドで植林事業に従事していた。そんな彼女は「真紀子に今日会ったとは思えない」とこれまで訪れたアフリカ諸国の人たちに言われることが多いそうだ。はじめて出会った人たちにも安心感を与え、気付けば仲良くなっているのが彼女の特技。それはひとえに従兄弟たちも同じ敷地に住んでいるような大家族の中で育った彼女ゆえなのだろう。

◆チャドでの植林後、彼女は開発援助を学ぶためにフランスに留学。しばらくパリ生活を楽しみ、2007年の年の瀬に日本に帰った彼女は、農大探検部OGで緑のサヘルの仲間だった本所稚佳江さんから「楽しいから来てみない?」と五反舎の忘年会に誘われることになる。それがふたりのはじめて出会った場になった。そのとき、ふたりは今の未来を予想することができただろうか。そして時が流れ、今日この日がやってきた。〜歩き出そう明日の日に 振り返るにはまだ若い ふきすさぶ北風に 飛ばされぬよう 飛ばぬよう〜

◆披露宴の会場となったレストラン・アラスカの窓から見える日比谷公園の新緑は目に眩しく、空はどこまでも青かった。そんな青空を見上げていると「真紀ちゃん、亮之介はひとりじゃ生きられない人なんだ。真紀ちゃんだったら任せられる。だから彼をよろしくね」と長野さんの奥さんであり、真紀子さんの友人でもあった淳子さんの声が4月の気層の光をはらんだ空から聞こえてくるような気がした。[光菅修

イラスト-1

イラスト ねこ

「淳子さんの置き土産」であります

■6年前に亡くなった妻、淳子と出合ったのは高校1年生のときだ。一目惚れの片思いだった。それから色々あって26歳のときに結婚した。当時僕は将来の展望など何もないただの無職。若いという以外に、相手の親を安心させる要素は何一つ持ち合わせなかった。四女が連れてきた頼りないムコ候補生を前にした義父は「まあ、元気ならいいんじゃないですか」と微妙な表情で笑った。拒絶しないとすれば他に何が言えただろう。でも、その言葉は僕にとっては福音だった。結婚した翌年、インド由来のA型肝炎をこじらせた以外は、まあなんとか元気でその日暮らしをしてこられた。結婚式には当時40代前半の江本嘉伸さんにもご出席いただいた。地平線会議の先輩方の生き方も、心強い指針だったのだ。なんとかなるさ、と。

◆それから33年間、淳子さんのおおらかな手のひらの上で風に吹かれるまま乱れた足跡を残し、友達が唯一の財産と嘯いてきた。彼女が逝ってから、改めて僕は、地平線会議の友人をはじめとするたくさんの仲間に支えられてきたことに気づく。その中の一人が先月結婚したお相手の坂井真紀子さんだ。彼女は淳子の友人でもあり、知り合ったのはかれこれ15年くらい前になる。たまたま同じ市内に住み、コロナ禍の外出もままならない時期に距離が縮まった。考え方や興味の方向に共通点が多く、8歳の差も気にならない。「縁は異なもの味なもの」とはこのことか。26歳の僕は勢いのみで結婚できた。あのころ未来は永遠だったから。もうすぐ66歳になる今、時間に限りがあることはぼんやりと感じるが、この期に及んでも実はピンとこない。バカ男子は永遠に成長しない。というわけで、やっぱりque sera seraで再婚へ。

◆二度目の結婚披露パーティーも、江本さんの乾杯の音頭で幕を開けた。二人をそれぞれ長く知っている本所稚佳江さんと山田和也さんご夫婦は、スピーチで淳子のことも丁寧に語ってくださった。会の締めに関野吉晴さんからいただいた言葉が印象的だ。意訳すれば〈タイパやコスパに囚われない縄文人のような生き方をこれまで通り続けてね〉という趣旨だ。最近は「石器野」吉晴と自称する先輩には遠く及ばないものの、こう言われて嬉しかった。糸の切れた凧のような僕の足跡も、それほど捨てたもんじゃないのかもしれない?

◆真紀子さんは、皆さんへの挨拶の中で、僕のことを「淳子さんの置き土産」と表現した。果たして「もらって嬉しい土産」なのかどうかは甚だ怪しい。でも指輪の代わりに交換した時計をシンボルに、これからは真紀子さんと共に新たな時間の中を歩いていこうと思っています。今後ともず・ずい〜と、よろしくお願いしまする。[長野亮之介

台湾と京都府のイベントに参加してきました

■5月11日、12日。台湾文化総会の主催で2018年から毎年東京で行われてきた「TAIWAN PLUS」というイベントが今年は初めて京都府とタッグを組んで開催されました。照明を抑えたまるで台湾夜市のような会場には、食べ物や雑貨販売からカルチャー展示まで盛り沢山のブースが屋台のように並び、多くの来場者で大盛況。なかでも台湾漫画作家が大躍進していることを知り驚きました。

◆音楽家同士がコラボレーションするコンサートも多数行われ、台湾の我が師匠・陳明章老師は「Style KYOTO管弦楽団」との共演を果たしました。陳老師の歌声が響くと会場全体が瞬時に台湾の空気に変わり、その歌にはどこか懐かしい情緒が漂っているので、初めて耳にする観衆にもすぐに受け入れられているようでした。実は会場には京都に留学中の台湾人学生もかなりいて、老師の音楽に感激していました。

◆僕としては今回のオーケストラ側のアレンジにジブリ映画音楽の要素が入っていたのがとても新鮮な編曲で新しい発見でした。台湾へ遠征したことで人気を博し、台湾で社会現象化した京都橘高校吹奏楽部の演奏も大人気でしたね。お互いの文化交流がここまで上手に噛み合うイベントはなかなかないと思います。これからも日台が更に交流を深めて、伝統も文化も共に新しく進化していってほしいと感じた京都滞在でした。[車谷建太

阿部雅龍の夢に思いを馳せたひととき

4月29日地平線報告会の終わりに阿部雅龍さんの追悼の時間を設けた。阿部さんは2019年の南極点徒歩到達に続き、白瀬矗(のぶ)ルートによる南極点単独徒歩到達を目指していたが、3月27日、脳腫瘍のため秋田市内の病院で亡くなった。報告会では生前の阿部さんの録音に懐かしく耳を傾けるとともに、彼が叶えられなかった白瀬ルートによる南極点単独徒歩到達の夢に思いを馳せ、41歳の早すぎる死を悼んだ。また阿部さんとそれぞれに関わりのあった関野吉晴さん、荻田泰永さん、小松由佳さん、稲葉香さん、関口裕樹さんのメッセージを紹介した。[落合大祐

関野吉晴 自分の夢を追いかけていく姿を見てみたかった

■昨年9月上旬、阿部雅龍のFacebookで、耐え難い頭痛・吐気が続き検査の結果は悪性脳腫瘍だった、それも脳の中心部で、脳室部、記憶を司る中枢である海馬の近くだったという告白があった。

◆脳腫瘍は悪性と良性があり、悪性にも細胞によって悪性度が違う。20年前、先輩であり、グレートジャーニー応援団の中核だった坂野浩氏が悪性脳腫瘍の手術をした。術後、屋久島まで行けるようになり、回復の期待をもったが、しばらくして再発し亡くなってしまった。悪性度の高い細胞だったのだ。

◆阿部雅龍は遠征資金を調達するために人力車を引く。それはトレーニングも兼ねている。ユニークなスタイルだ。筋トレも欠かさず、誰よりも身体造りに励む努力家だった。南米自転車縦断、ロッキー山脈縦断走破、アマゾン川筏くだり。冒険人生まっしぐらだった。脳腫瘍が見つかったときから2、3か月後には秋田の大先輩が途中まで行った未踏の白瀬ルートに再挑戦する予定だった。

◆2年前、私は植村直己冒険賞の審査委員になったが、最初に選んだのが阿部雅龍だった。まだ白瀬ルートは未完だったので、その年は該当者なしにしようとか、反対意見もあったが、今までの実績を評価すると共に、遠征を後押しするという気持ちをこめて、受賞が決まった。実は20年以上前、私もグレートジャーニーがいまだゴールに到着していなかったが、確実に到達するだろうと思われ、激励の気持ちも込めて受賞が決まったと、選考委員から聞いていた。

◆それにしても信じられない突然の病魔に無念で、悔しかっただろう。いまだ若くて、未完ルートのゴールの後、どんな冒険をつづけていくのか? 楽しみにしていた。私と同じ思いの人は多かったろう。冒険学校で子供たちに夢を吹き込みながら、自分の夢を追いかけていく姿を見てみたかっただけに残念だ。

◆植村直己、長谷川恒男、星野道夫など偉大な冒険者の多くが40代前半に夢を断たれている。昔流に言えば厄年前後だ。加藤文太郎、加藤保夫に至っては30歳前後で夢を絶たれている。しかし、彼らの影響を強く受けた次世代がその意思を引き継いでいる。阿部雅龍の生き方に感銘し、影響を受けた後輩たちが夢を膨らませ引き継いでいくことだろう。阿部雅龍には天国から、それらの子供たち、若者たちを見守っていて欲しい。

荻田泰永 冒険者は後世を生きる人々に出会いなおされたとき、生き返る

■阿部くんと最初に会ったのが、いつどこかは正確には覚えていない。彼の存在を最初に知ったのは、私と彼の共通点となる大場満郎さんを通じてだった。2014年に私が2度目の北極点に挑戦した年。彼は初めてとなるカナダ北極圏の徒歩冒険に出ており、その帰りにオタワで一緒に食事をした。話を聞くと、かなり初歩的なミスを犯して苦労したようだった。その後も毎年、北極圏での遠征を行っていたが、側から見ているとかなり危なっかしかった。

◆阿部くんが極地に出始めた初期、彼は母校秋田大学の学生たちに日本事務局を任せていた。阿部くん自身が事務局の役割やリスクへの対処方法を深く理解してないように感じ、彼には内緒で秋田大学の事務局の学生に連絡し、もし仮に事故が起きたらこうやって動け、自分にまず連絡しろ、と指示を出した。阿部くんには内緒にしておいていいから、と伝えた。阿部くん自身は、きっとそれは知らないままだっただろう。

◆彼の存在はよくわからないところがあった。何がしたいのか、よくわからなかった。南極に行きたい、白瀬のルートをつなぎたい、というのはわかるが、それでも最後までわからなさが残っていた。それがいつか腑に落ちる日がくるのだろうと思っていたが、結局はその日がこないまま、彼は死んでしまった。冒険者が計画の中で死ぬのがいいのか、そうではないのかはよくわからない。しかし、一つ言えるのは、この歳で病気で死ぬのは早すぎる。

◆あまり冒険にも向いていないように思えて、常に危ない感覚を覚えてきた。しかし、熱意はあった。不器用ながらもやろうとしたことを実現させてきたことには何度も感心してきた。これから阿部くんがどうするのか、常に気になっていた。まだまだこれから、なんでもできるというときに死んでしまうのは、もったいない。

◆冒険者の存在は、個人の想いによって始まった冒険行為がやがて、歴史の中で一つの歯車となって語られる。想いが行為となり、その行為によって社会の中に少なからず影響を与えたとき、その想いから始まった個人的欲求に機能的意義が与えられ、後世に伝えられる。阿部くんが白瀬を想ったように、彼の行いがもしかしたら誰かの想いを誘発するのかもしれない。そのとき、彼の想いは真の意味で蘇る。冒険者とは、後世を生きる人々に出会いなおされたとき、生き返るはずだから。

小松由佳 さようならは言いません。また会う日まで

■阿部さんのあまりにも早すぎる死を受け、今も寂しさでいっぱいです。「夢を追う男」であるあなたから、気づけば私も夢を見せてもらっていました。あなたの熱い心、夢への真摯な姿勢を忘れません。あまりにも早すぎるよ、と言いたいけれど、でも、あなたしかできない冒険人生を生き切ったね。

◆あなたが見せてくれたもの、伝えてくれたものを、今度は私たちが受け継いでいきます。またきっと会えると信じて、さようならは言いません。友よ、ありがとう。また会う日まで。

稲葉香 私の心の中で永遠に生きる

イラスト-2

■雅龍くんと最後に会えたのは、2023年4月1日千早赤阪村で開催した冒険サミットだった。言い出しっぺは、雅龍くん。2022年の年末に私の自宅に遊びに来てくれて、関西つながりの冒険野郎達と久しぶりに何かやりたいねとなった。振り返ると、雅龍くんとの出会いは2013年、千早の自宅で彼の講演会を企画したことがきっかけだった。関西開催ならではのノリとツッコミで、もの凄く盛り上がり、その後も不定期で開催するようになった。そのときの雅龍くんの講演は、彼自身も涙声になるほど、いつもより熱い想いが増していた。また10年後みんなで集まろうと約束して別れた。

◆3月30日、私は雅龍くんの夢を見て目覚めた。気になってLINEを見たら、12月に送信して未読だったメールが既読になっていた。あれ?!と思った。これはどういうこと……。そして、翌日知人から連絡をいただいた。夢の中の彼は、とても笑顔だったけど、目の奥にはどこか寂しさを感じた。言葉はなかった。目が合って雅龍くんはニコって笑ってくれた。私に最後に会いに来てくれたんだね、そう思うことにした。雅龍くん、ありがとう。私の心の中で永遠に生きる。

3回目のキネマ倶楽部は6月1日、『馬ありて』を上映します

キネマロゴ

■1月の『ガザ 素顔の日常』、3月の『おらが村のツチノコ騒動記』に続いて、3回目の「地平線キネマ倶楽部」は、笹谷遼平監督の『馬ありて』(2019)を上映します。6月1日(土)の午後2時から。会場はいつもの新宿歴史博物館です。

◆私が笹谷さんと初めて出会ったのは今年の1月30日、宮本常一先生の門下生や関係者が集う「水仙忌」の会場でした。『馬ありて』という作品名は聞いたことがあったものの、残念ながら劇場で観る機会がありませんでした。でも、その場でぜひキネマ倶楽部で上映させてくださいと申し出たのは、自己紹介がてら触れた新藤兼人監督の『裸の島』を、「日本映画で最も気に入っている作品のひとつです!」と笹谷さんが熱く共感してくれたからです。

◆地平線ではあまり語っていませんが、私の父(丸山国衛)は映画の録音技師で、新藤作品に何作か参加しています。『裸の島』(1960)は、瀬戸内海に浮かぶ水のない小さな孤島で畑を耕して暮らす夫婦(殿山泰司と乙羽信子)の営みを淡々と描いたモノクローム作品で、台詞のまったくない映像詩として各方面に大きなインパクトを与え、モスクワ映画祭など数々の賞に輝きました。

◆『裸の島』は劇映画ですが、その影響を受けた監督が作るドキュメンタリー作品とは、どんな映像なのだろう。後日、笹谷さんからDVDを借りて『馬ありて』を観ましたが、リアルな記録映画の手法を採りながらも、監督の思いはまた別のところにあるようで、不思議な感覚に陥りました。ともかく、陰影に富んだモノクロームの映像美が素晴らしい。6月1日、歴博の大きなスクリーンで観ることができるのは、得難い体験になるでしょう。上映後のトークで、この作品の狙いや完成までの経緯を語っていただけるのも楽しみです。

◆今回の上映に向けて、キネマ倶楽部のウェブサイト(https://chiheisen.net/cinema-club/)を作りました。まだコンテンツは少ないのですが、今後はこの地平線通信と連携しながら、作品の魅力や映画の面白さを伝えていきたいと思います。問い合わせなどもこちらにお願いします。[丸山純

[追伸]5月18日よりポレポレ東中野で、今井友樹監督の『おらが村のツチノコ騒動記』の劇場公開が始まります。詳しくは公式サイトで。https://studio-garret.com/tsuchinoko/

『馬ありて』(笹谷遼平監督)

キネマロゴ

 日時:2024年6月1日(土) ※5月の地平線報告会の翌日です
    13時40分開場 14時開演

 会場:新宿歴史博物館 2F 講堂
    〒160-0008 東京都新宿区四谷三栄町12-16
    https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/

 参加費(資料代):1,000円
 (地平線会議の関係者でなくてもご参加いただけます)


今月の窓

映画『馬ありて』と更生の旅

笹谷遼平 

■去る3月30日は私にとってはじめての地平線報告会でした。高沢進吾さんの35年間アラスカに通われたお話で、「刺激的」という軽はずみな言葉では到底集約できない熱量と情報量で、私はひたすらに畏敬の思いばかりを抱きました。なかでもオムツ交換やトイレの介助をしていた子供が今は立派な大人になっているとのお話に、生活の機微、そして35年の重さを感じずにはいられませんでした。何故そのような熱量を保てるのかという問いに、高沢さんは簡潔に「面白いから。行くたびに発見があるから」と返答されました。その颯爽とした言葉とともに、飛行機に乗ってこの場からアラスカに出発してしまうのではないかと、そんな絵さえ想起させられました。同時に、主語が「自分」ではなくなったときに、弱くなるものは確かにあると、一人納得しました。思えば、主語が自分のままもの作りを続けることが、一番難しいのかもしれません。映画の場合は観てくださる人がいてようやく完成するものだと思っているので、自分が作りたいものと人が観たいもの、そのバランスの取り方にいつも悩まされています。

◆2011年の東日本大震災と原発事故より以前、私はサブカルチャーを追いかけては映像作品を作っていました。秘宝館、蝋人形職人、道祖神のお面のドキュメンタリーなど、今書いていても「?」と思うモチーフばかり追いかけていましたが、私としてはサービス精神というか、エンタメを提供しているつもりでした。すでに優れた作品が世に沢山あるのだから、私はカウンターカルチャーを走るんだと格好をつけていた時期でもあります。そんなとき3.11がありました。遅すぎるかもしれませんが、25歳の私は、目の前の世界と土台の世界が砂上の楼閣だったと、いかに今まで飼い慣らされていたのかを、大いに思い知りました。同時に、このまま消費社会に乗っかったままでいいのかという危機感がつのり、人から評価されなくてもいいから主語が自分の作品を作りたい、真正面から映画と取っ組みあいたい、命(自然)に触れたい、私はそのような思いに駆られたのでした。そこで1トン近い大きい馬が1トンほどの重いソリをひき競走する「ばんえい競馬」という生々しく力強いモチーフに出会いました。

◆2013年2月20日の夜明け前、私は北海道帯広競馬場(ばんえい競馬)の練習場に立っていました。マイナス25度。マフラーで口元を隠すと息でまつ毛が凍り、目が開かなくなってしまいます。すべてが凍るなか、ソリをひいた馬と人が行き交い、馬の汗や息の熱が煙のように立ちのぼり、朝日が透けて輝く神秘的な当地の「当たり前」の光景に、都会人の私は言葉を失いました。それが映画『馬ありて』の、はじめての撮影でした。

◆ドキュメンタリー映画には大きく二つのパターンがあると思っています。一つ目は、対象を映画の枠に収め構成する方法(歴史上の人物を対象にしたテレビ番組を思い浮かべていただくとわかりやすいかもしれません)、二つ目は、先天的に映画に適した対象(人)が映画のなかで花開く方法です(映画『ゆきゆきて神軍』などはその極致です)。拙作『馬ありて』はそのどちらでもないように思います。馬と人の営みと、主語を自分に、ということだけをブラさずに、あとは感覚のまま美しいと思うもの、裸でゴロリと寝そべっているような「当たり前」の現実を切り取ることに、私は腐心しました。対象もばんえい競馬から北日本に広がり、伐採した木を馬と運ぶ「馬搬(ばはん)」、馬を売買し生計を立てる「馬喰(ばくろう)」、馬への信仰を起源とした「オシラサマ」などを撮らせていただき、馬を通して自然と人間の関係を考えました。

◆特に馬搬は、山の斜面に丸太がゴロゴロと転がり、一歩間違えると大事故に繋がってしまう大変危険な現場でした。馬搬の親方・見方さんは手綱一本と声だけで馬とコミュニケーションをとり、木を運んでいきます。ときには怒号が飛び交い、見方さんは馬をいさめました。他人から見ると厳しく映るかもしれません。しかし彼と馬の関係は、かわいい家族だというただ平和なものだけではなく、人間と馬の命懸けの真剣勝負のうえに仕事や生活が成り立っているという、とても身体的な関係でした。実際、見方さんは馬搬の仕事中に何頭もの馬を事故で亡くしています。そこにあるのはキレイ事や西欧的倫理ではなく、「自然のなかで生きるために生きる」ということだったのではないか、そんな風に思っています。

◆京都の郊外、向日市の新興住宅地で生まれ育った私は、都会人の部類に属すると思います。自然に対する身体能力を養わず、資本主義社会が提供する娯楽と情報を食べて生きてきました。『馬ありて』という映画は、どうしようもない現代人の自分の更生と学びの旅でもありました。馬ではなく牛歩ですが、これからもその旅を続けていきたいです。では6月1日、地平線キネマ倶楽部にて。お待ちしております。


あとがき

■この通信、できるだけ土日のうちに全体を組んでしまいたい、と考えている。レイアウトをやってくれる新垣亜美さんはじめ皆さん、本来の仕事を持っているので可能なら土日のうちにほぼ仕上げてしまいたいわけです。

◆考えてみればこれだけの内容を毎月送り出すのは本来専業集団しかできないことかも。幸い、編集長の私は時間がいっぱいあるから「追い込まれる緊張感」に対応できているが、そんなわけで原稿締め切りは今後も「遅くとも印刷1週間前、できれば10日前」とさせてください。

◆今月も優れた読み物が多く、感謝しています。今月は大相撲の元白鵬の話がとても面白かった。こういう文章は、地平線通信でしか読めないかも。かなこさん、ありがとう。

◆今月の能登地震報告会、東さんのほかにエネルギッシュな旅人、賀曽利隆さんに登場してもらい能登半島の昔と今について語ってもらいます。[江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

歪んだ水平線

  • 5月31日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿区榎町地域センター 4F多目的ホール

「御先祖さんも眺めていたはずの水平線の景色が変わりました」と言うのはカメラマンの東雅彦さん(47)。輪島市町野町(まちのまち)に160年前から続く家に生まれ育ち、今年元日、帰省中に能登半島地震で被災します。最初の5日間に見た光景、感じたことが強烈に心に刻まれました。「何もかも失って平等になると、人は助け合うしかなくて、優しくなるんですね」。

18才で上京。学業と並行してバイトしながらボクサーを目指すなど模索を重ね、祖父のカメラをきっかけに独学で写真を始めます。26才でオーストラリアへ。その後インド放浪などを経て仏教思想に傾倒。帰国後写真家として独立します。9年前、肉親の死を機に、自分を育んだ奥能登の風土をアートとして表現し始めました。

モチーフに選んだのが地元の大谷峠から望む水平線でした。「地震で、時の流れが急に圧縮され、変わらないと思いこんでいたものがそうじゃなくなった。とどまるものなど何一つ無いことを実感してます」。

今月は東さんに、被災を経て考えたこと、そしてそこに至る足跡について話して頂きます!


地平線通信 541号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2024年5月15日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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