3月13日。昨日は冷たい雨と風に見舞われたが、今日は朝から明るい日差しが出ている。2月号のフロントで服部文祥さんの山旅犬、ナツの行方不明のことを書いたが、通信を印刷した翌日の2月8日、ナツは無事文祥君のもとに帰った。かなり衰弱していたようだったが、メキメキ快復した。ああ、ほんとうによかった。顛末をどうしようもないほど心配したであろう本人に書いてもらった(16ページ)。
◆2月16日午後、市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷で2023年植村直己冒険賞の受賞者が発表された。ことしの受賞者はなんと4人。イラクの巨大湿地帯(アフワール)の探検を実行した我らが山田高司(66)と高野秀行(57)、そしてヒマラヤ・アンナプルナ山群のセティゴルジュを踏査した田中彰(51)、大西良治(46)の2グループ4人だった。
◆第1回の尾崎隆さん以来ずっと受賞者は1人に限られている。例外としてギャチュンカンを登攀し生還した山野井泰史・妙子夫妻のケース(2002年)があるが、これは夫妻がペアで困難な壁に挑戦した稀有なケース。今回選考委員会が紛糾したことは委員の1人、関野吉晴さんの紹介でよくわかった。なんとか1人、せめて1パーティーに絞ろうとしたが、できなかった。それほど2つのチームのやりとげたことは素晴らしかった、という。
◆山田高司、高野秀行チームの行動は、昨年8月の地平線報告会「アフワール(大湿地帯)漂泊譚」でじっくり聴き、詳しいレポートも書かれている(その地平線通信の記録も発表資料に添えられていた)のでおわかりだろう。植村直己冒険賞にふさわしい、スケールの大きな探検であったとあらためて思った。中でも、心に残るのは、常日頃気軽にそばにいるのでなかなか評価しにくいが山田高司という探検家、環境活動家のすごさ。高野秀行さんが師とあおぐだけのことはある、と感じた。
◆そして、ヒマラヤ、アンナプルナ山群の「セティゴルジュ」(悪魔の谷と呼ばれているそう)の踏査には度肝を抜かれた。アンナプルナ山群にある巨大な裂け目「セティ・ゴルジュ」。ほんの数メートルの幅しかない狭い峡谷。そこの深さ400メートルを下降して「峡谷の底」を2人はキャニオニング(歩いたり泳いだりして降る)し、上部の700メートルの区間を踏査したという。慎重に慎重に実行した、とはいえ、考えられないスケールの行動力である。
◆植村直己冒険賞は1996年に制定された。はじめは豊岡市ではなく植村さんの故郷、日高町がつくった賞だったが、2005年4月1日、旧豊岡市、城崎郡城崎町、竹野町、出石郡出石町、但東町と合併して新たに現豊岡市が発足し、日高町はなくなった。地平線会議はまだ日高町が存在していた1999年7月、写真展「地平線発―21世紀の旅人たちへ」(ノヴリカが企画)をこの冒険館で開催し、あわせて「冒険の瞬間」がテーマの地平線報告会を館内で開いた。館の庭にテントを張らせてもらい、ゴロして夜を過ごしたことが懐かしい。
◆3月4日、渋谷で開かれた民族文化映像研究所の『越後奥三面―山に生かされた日々 デジタルリマスター版』のプレス試写会に行った。朝日連峰の懐に位置する奥三面の集落の日々を記録した超貴重な映画。10年前に逝った姫田忠義さんの張りのある声が懐かしい。先日の水仙忌でカメラの伊藤碩男さんと久しぶりお会いしたばかりでもありしみじみした感慨とともに素晴らしい山の民の記録に見入った。
◆去年5月にいためた右足がすっかり快復し、歩くことが日常に戻った。近くの浅間(せんげん)山にもよく出かける。この土曜日(9日)は家を出るのが遅くなり、暗くなったときの用心に杖を持参した。標高80メートルの山頂まで一気に登り、一休みして反対側に50メートルほど降りて気がついた。杖をベンチに置いてきてしまったのだ。まあ、これも鍛錬になるさ、と登りかえしたら男があらわれた。「やあ」と声をかけあう。宮本千晴だった。以前もこの山で弁当を食べているときに会ったな。
◆山頂のベンチに座り、しばし話し込む。風が冷たい日で千晴がコップに注いでくれたあたたかいミルクティーがありがたかった。鳥をよく観察しているようで、中には人と遊んでくれる鳥もいるという。「今度深大寺公園に行くといい。面白い鳥たちがいるから」。ふーん。行ってみようかと思う。はたちの頃、三つ峠の岩場や穂高で出会った千晴とどういう縁か地平線会議を立ち上げ、もう半世紀近くもそのことを続け、老齢になったいまはこうしてともに府中市の市民となって丘歩きをしてたまに遭遇したりしている。
◆老齢といえば最近丸山純が送ってくれたお義父さん、小島亮一さんの自宅コンサートの画像にのけぞった。6曲をバイオリンと歌で演奏し最後は一番好きという「ケセラセラ」を歌ってしめてくれたのだが、驚くなかれ、このお方御歳103歳、私も千晴も20歳は若いのだ。[江本嘉伸]
■伊沢さん初登場の前回は、2010年4月23日。当時の報告会レポートによると、その朝ののぐそは11234回目だった。今回が16318回目だというから、実に5084回増。「14年ぶり」よりもインパクト大だ。
◆1960年代後半、仙人に憧れた伊沢さんは、願望叶わず、人間社会に戻って自然保護運動に係わった。そのころからきのこの写真を撮り始め、自然界では「腐る」ことが大切だと知った。枯れ木や動物の死骸はやがて土に還り、新しい命へと生まれ変わる。そんな分解の役割を、菌類が担っていた。73年の暮れ、し尿処理施設建設の反対運動が起きたのをニュースで知り、ショックを受けた。反対するならウンコするな、と怒ったが、自分だって出している。困ったな。そのとき思い出したのが菌類の働きだ。
◆自然の中ならウンコは菌類に分解され、植物が育って森ができる。そう閃き、74年の元旦からのぐそを始めた。以来50年。途中で連続記録13年と45日、4793日の記録も打ち立てた。人間は自然界から戴いた命を食べ物に変えて生きている。だから、のぐそでウンコを自然に返すのは生きる上での責任だ。5週間、計35日かけて毎日ウンコの目方を量ってみたら、平均で一回当たり245g。1年分なら90kg近く。一生分だと何トンにもなるという。死体の始末は人に委ねるしかないし、土葬もできない。が、その100倍もある自分のウンコは自分で処分できるのだ。
◆07年の夏、研究者にくっついて北限のサルたちを追った私は、幸運にも、一匹がサルノコシカケに座るところに出食わした。「これは自慢しなきゃ」と写真を葉書大にプリントし、長らくご無沙汰の伊沢さん宛に投函した。ほどなく届いた返事には、「きのこ写真家を辞め、いまは糞土師をしている」の謎の一文が。驚いた。のぐそが趣味だと知ってはいたが、あの輝かしいキャリアを捨てて、そっちの世界に走るとは! けれど誤解していたのは私の方だった。
◆「菌類の働きを知ってもらいたい」の願いを込め、伊沢さんは写真家を続けてきた。しかし、人々の関心は「食えるか食えないか」だけ。そこで、2006年、「もうやってられない」と菌類写真家から足を洗い、糞土師を名乗り、うんこを通して自然の素晴らしさを広める活動を開始したのだった。
◆報告会前半、最初のスライドに選ばれたのは、「写真家として初の作品」というハナオチバタケ。我々なら気付きもしない小粒のきのこ。が、伊沢さんは、「小さくても植物を分解して森作りに貢献している。それに対して自分はどうだ」と感動し、「負けた!」と思ったという。いわば、初心を物語る1枚だ。
◆落ち葉、鳥の死骸、捨てられた新聞、果てはダイオキシン……。スクリーンには、様々なものを分解する多種多様の菌類が次々現れた。後の質疑応答では、「プープランドで実験したとき、関野さんのうんこが50日後でもそのままだった」という話が出た。別の編集者のうんこも、1か月後、まだ分解していなかった。調べてみると、風邪で抗生物質を呑んだり、コンビニ弁当を食べていた。しかし、それも2、3か月後にはキレイになくなった。抗生物質や殺菌剤入りうんこでも、時間を掛ければ分解されてしまうのだ。
◆一連のきのこ写真のラストは「私の訴えがこもった最高傑作です」という1枚で、手前の馬糞の小山とツヤマグソタケ、その後ろに牧草、そして遠くに馬が数頭佇んでいる。生き物は、自分に不要なものや副産物、分解できないものをうんことして出し、それが次の生き物のご馳走になる。この写真は、馬糞→キノコ(二酸化炭素と無機養分を排出)→植物(光合成で酸素を放出)→馬(糞を生産)→……、と、各々の「うんこ」が繋がる糞土曼荼羅そのもので、最後を締め括るに相応しい1枚だった。スライドは、ここから「のぐそ掘り返し」のディープな世界へ。
◆一番乗りのセンチニクバエに始まり、嫌気性、好気性の菌類、アリや昆虫、小動物などにより、うんこは時間を追って姿を変え、分解されてゆく。原形が消え去った跡にも、あたりを鷲掴みするように樹木が細い根を伸ばしている。それは地中で人知れず繰り広げられる、一遍のドラマでもあった。
◆人口を減らす以外に人類が生き延びる道はない。そう考える伊沢さんは、「納得して死ぬためにも、その不安を乗り越え、喜びを見出して死を受け入れたい」と願い、そんな「幸せな死」探しに、地平線が貢献したという。舌の異変を押して参加した2015年4月の「ぼっかされだ里に花の咲ぐ」福島ツアーで、大西夏奈子さんと知り合い、口説き倒して「葉っぱのぐそをはじめよう」――14年前にも語られていた、伊沢さんが心血を注いだお尻拭き図鑑――の編集を依頼した。
◆ツアーの後も舌の痛みは激しくなる一方で、大型連休明けにステージ3の舌ガン宣告。そこから伊沢さんの「幸せな死」の探求が本格的に始まった。本作りの傍ら、様々な人に会って話を聞いた。長野淳子さんも、その一人。彼女が地平線通信に書いた「生き切りたい」に感銘を受け、対談を申し込んだのだ。余命いくばくもない人に、死について問い、本音を聞く。ためらいや、「人間関係がダメになるんじゃないか」の不安もあった。けれど、淳子さんは「光栄です」と受けてくれた。
◆その対談で、何を一番やりたいか訊ねたら、「朝起きて御飯を食べて、という普段の生活を丁寧にやりたい」の答が返ってきた。死に向き合いながら、普段通りの暮らしを大切にする。「何かをやり遂げるだけが幸せじゃないんだ」と気付き、「男なら『これだけはやり遂げて死にたい』と考えるだろう。女は違う」とも感じた。「淳子さんに出会っていなければ、『幸せな死』は見つからなかった」。そう語る声には、万感の思いが滲んでいた。
◆糞土師を名乗り始めた当時の伊沢さんは、ガチガチの「フンダメンタリスト」(のぐそ原理主義者)。いつだったかカミさんの運転で送迎したが、その間、ずーーっとノグソ話が止まらず、一瞬たりとも聞き役には回らなかった。だから、「対談ふんだん」で対話が成立しているのを見たときは、「あの唯我独尊の人物が……」と目を疑い、それくらい「幸せな死」の探求は真剣だったんだ、と納得した。
◆我々は生に対してポジティブな、死に対してはネガティブなイメージを抱いている。でも伊沢さんは、「生きる」ことの意味を問いながら、「死ぬ」ことの意義も認めている。それゆえ人権派に対しても、「彼らは『生きているだけで価値がある』といって安楽死に反対するが、それは患者の苦痛を引き伸ばし『もっと苦しめ』と言うに等しい。自分の価値観を押し付けて満足しているだけだ」。
◆生きることの意味は人によって違うんだから」と手厳しい。また「良識」にも、「我々が何かを判断するときの『正しい』『悪い』は人それぞれ。結局は、その人の好みに過ぎない。それはプーチンもイスラエルも同じ。だから争いが起きるんだ。『正しさ』なんて危険なだけ」と容赦ない。そもそも、伊沢さんは写真だって自己流だ。しかも、実は「やっちゃいけないことばかりやっていた」から良い写真が撮れたという。フィルムの発色は、日陰では青みを帯び、長時間露光すると赤っぽく写る。だからそれまでは、「明るい場所で速いシャッタースピード」が基本だった。けれど、そんな知識もなく、暗い場所に生えるきのこを遅いシャッター速度で撮っていた。その結果、双方の欠点が相殺されて、あの美しい写真が誕生した。「写真の撮り方は被写体によって違い、新しい分野を撮るなら、いままでのやり方通りではダメ」なのだ。
◆伊沢さんにとって大切なのは、「正しい」「悪い」よりも「責任」だ。それも「何か失敗したときの尻拭い」ではない。アメリカインディアンは7代、200年先の子孫の幸せを考えて行動する、を引き合いに、「何かをやるとき、自分じゃなく相手の立場に立って考え、結果がどうなるか、ちゃんと自分でケアできるのかを考えるのが責任だ」という。
◆その伊沢さんは、夫婦でペルーを訪れたとき、旅行ハイライトのマチュピチュ観光を直前にキャンセルした。地元の子供たちに隠れてノグソするのは難しい。万一目撃されたら日本人旅行者全体が白い目で見られてしまう、との判断からだ。巻き添えを食った奥さんとは、のちに別れることとなり、本人曰く、「のぐそのために遺跡観光とカミさんを棒に振った」のだった。
◆自然界の循環は、誰もが知識として知っている。でも、伊沢さんによると、我々は「役割」で見ているに過ぎない。植物は無機物から有機物を作り出す生産者、それを消費する動物、そして、その動物の死骸を分解する菌類。つまり、生産者、消費者、分解者、という役割で生き物を捉えているだけだ。しかし、それでは自然を理解できない。その循環の中に「うんこ」の概念を加えて初めて、「食べてうんこして生きる」という生態系の循環が見えるという。
◆いま、伊沢さんの前歯は1本を残すのみ。舌ガンの後遺症も重なって、食事は大変だ。本人の音頭、「酵母菌のうんこに乾杯!」で始まった二次会でも、箸をつけたのは軟らかなメニューだけだった。でも、治すつもりはないらしい。「食べられなくなった野生動物は、死ぬのが自然の摂理」に従う覚悟だ。実は、2010年の報告会で、私は少なからず気を揉んだ。探検や冒険とは畑が違うし、テーマもテーマ。そこで、事前に長野画伯たちの森林ボランティア集団「五反舎」(地平線の仲間数名もメンバー)で講習会を開いてもらい、参加者の反応に手応えを感じ、淳子さんや外間晴美さんたちにも応援を頼んで報告会が実現した。
◆それを二次会の席で打ち明けた。と、「自分では冒険者だと思っている!」の力強い一言が。これは失礼しました。確かに、相手にしているのは未知のフィールドだ。でもね、伊沢さん。冒険者なら冒険者らしく歯は治し、末永く現役でいてくださいね。お願いします。[昨年暮れに歯を3本入れてハッピーな、久島弘]
イラスト ねこ
■2010年の春、突然報告会に呼んでいただき、出来たてほやほやの糞土思想を話したのが、私が地平線に関わる始まりでした。当初は野糞をしているだけの糞土師如きが、こんな凄い探検家や登山家揃いの集団に入っていいものかとだいぶ気後れしたものです。しかし未知の世界に分け入るのが探検ならば、渋谷の街中の丁字路で、尻の後ろ数mに大勢の人集りがあるにもかかわらず野糞を敢行するのも、都会のど真ん中に未知の世界を求める探検か冒険ではないかと屁理屈ならぬ糞理屈をこねながら今に至っています。
◆それから14年、うんこと野糞に「しあわせな死」も加わりだいぶ成長した糞土思想を、今回の報告会で初めて開陳しました。うんこの方はすでにしっかり練り上げてはいるものの、死の方はまだまだ消化不足もあり、ある程度準備はしても全部出し切ることはできませんでした。二次会の北京では江本さんから一応お褒めの言葉をいただきましたから、そこそこの出来だったのかもしれませんが、私自身はまだちょっと残便感のある便秘気味の心境です。
◆自然生態系の循環が壊されて破滅的な人新世を迎えてしまった根本問題は、行き過ぎた人口増加にあり、その改善には人口を減らすことが避けられないと私は考えています。つまりしあわせな死の目的は、納得して受け入れられる死を探し出し、それを広く提起して、みんなで楽しく自然に還ろうというものです。これまで多くの人が模索してきた、人間としてどう生き、どう死ぬかというような死生観とはまるで違います。
◆死体とうんこは物質としては同一と閃いたところから、野糞跡掘り返し調査で明らかになった命の循環に当てはめてみれば、死は悲惨なものでも終末でもないどころか、死体を野糞のように自然に還せば、むしろ幸せな世界に繋がることが見えてきたのです。しかしそれを理解してもらうには、これまでやってきた糞土講演を聴いてもらわなければなりません。そんなことで前半の話に多くの時間を費やして尻切れとんぼになり、途中で排便を止めざるを得ないような状況に陥った次第です。そこで、報告会で出し切れなかったことの一つをここに記します。
◆地平線報告会500回記念集会の日(2023年11月)に前歯が全滅し、それを機に私自身のしあわせな死に向かう心の準備はしっかり固まりましたが、それを実現するにはまだ大きな壁が立ちはだかっています。自分の死体をどうするかという問題です。一番の希望は自然の中で野垂れ死にですが、喰えなくなって徐々に衰弱し、ある程度身体が弱ったところで山に籠ったとしても、死んで朽ち果てる前に見つかってしまえば不審死体として収容され、検視解剖されて最後は火葬でしょう。また、少しでも誰かの手を借りれば、その人は自殺幇助や死体遺棄などのくだらない法律で処罰されてしまいます。死骸が見つかりにくい可能性としては富士山の樹海という手もありますが、何事にも人と違った独創性を面白がりたい私には、そんな人真似自殺的なやり方は性に合いません。確実に土に還るには、やはり合法的な土葬が最善です。
◆以前の伊沢家の墓地は鬱蒼とした木々に覆われていたのですが、30数年前のこと、石屋にそそのかされた両親は私の知らぬ間に、つるつるぴかぴかの石で固めた今風の一点の緑もない殺風景な墓に造り替えてしまいました。もはや土葬は不可能です。そんなこともあっての野垂れ死に願望ですが、その難しさから今考えているのは、半世紀の野糞で育ててきたぷーぷらんどの林の中に土葬してもらうこと。その一角を墓地にすれば最期の願いが叶います。しかし墓地の認定の権限は自治体にあり、現状ではお寺や宗教法人などでないと認められないのです。この関門をいかにして突破するかという新たな闘いが浮上してきました。そのためには先ず、糞土思想としあわせな死を理解してもらうことが欠かせません。
◆ここまでの糞土思想を纏めた『うんこになって考える』という本を遺書代わりに出そうと、少し前から大西夏奈子さんに手伝ってもらいながら執筆を進めてきました。原稿は一応書き終え、すでにいくつかの出版社に持ち込んだのですが、野糞は軽犯罪法に当たる等の理由で全て断られてしまいました。人と自然が共生するための大切なことを、軽微な犯罪(科料=罰金の最高額が1万円未満)を理由に拒否し、くだらないクレームに怯えて自己保身を図るえせ良識に、出版界まで覆われているのが今の日本社会の実情です。しかし、断られるたびにその問題を原稿に書き加え、批判精神満載の糞土思想がますます充実してくるのだからたまりません。とはいえ、なにくそっというやる気のある出版社を探し出さないことには先へ進めません。何かいい知恵がありましたら、是非ご協力をお願いいたします。
◆最後にひと言。糞土思想は野糞で命を返すという実践哲学です。しあわせな死も遺言のような薄っぺらなものではなく、最期に後悔しないように、おれは死ぬ瞬間までこう行動するぞ!という「生き方宣言」なのです。[伊沢正名 糞土師]
■私は12月の地平線報告会で、いまの日本人が他者に冷酷で、「人生の目的は“私”が幸せになること」、「楽しくなければ人生じゃない」という利己的で刹那的な生き方をしていることに危機感をもち、価値観の根っこにあるコスモロジー(世界観・人生観の大本)を創りなおすべきだと大風呂敷を拡げた。意外なことに、また嬉しいことに、伊沢正名さんがこれに強い関心を示してくれた。そこで先日、茨城県桜川市に伊沢さんを訪ねた。伊沢さんが熱く語る「糞土思想」なるものを拝聴すると、私の構想するコスモロジーとほぼ一致することに驚いた。
◆古くからコスモロジーを担ってきた宗教が近代になって力を失い、“神”は退場して“人”が最高の存在となった。ヒューマニズムの「自由・平等・博愛」は世界を変え、近代文明は私たちの暮らしを便利にした。だがそこに神に代わる“大いなるもの”は存在しない。法律も正義も倫理も“人”が決めることになる。突き詰めると判断基準は人の“好み”しかない。「人権派の正義」を伊沢さんが罵る所以である。
◆私たち人間は、自然という“大いなるもの”の恵みで生かされており、生態系の食物連鎖という循環の中でその一員としてしか生きられないことをつねに自覚すべきだと伊沢さんは訴える。さらに生き物のエネルギーは太陽によって与えられているとして、循環の輪を地球外へと広げていく。これは、人は宇宙の一部としてエネルギー循環の中で生かされているとの気づきをベースにする私の新コスモロジーとぴったり重なる。また、中村哲医師の、人は “天”が与える自然の恵みのおこぼれを得て生きているとする哲学にも通じる。
◆伊沢さんの自宅、「糞土庵」に泊った翌朝、私もプープランドで野糞をした。陽当たりのよい山林の木陰で、穴を掘って用を足し、糞を落葉と土で覆う。土の中の無数の微生物が喜んでわっと私の糞に群がるさまをイメージする。すると「食物連鎖のなかで正しいことをした」という満足感がこみ上げてきた。
◆人間は自然の循環の中にあるという理屈なら5分でわかる。だがアタマで理解するだけでは人の価値観を基礎づけるコスモロジーにはならない。無意識にまで染み込ませる、仏教で言う薫習(くんじゅう)が必要なのだ。ムスリムが一日5回神と向き合うように、野糞は自然と直に向き合う“儀式”であり、それは毎日繰り返されて身心に“沁みる”。新しいコスモロジーを薫習する有効な方法の一つだと実感した。
◆伊沢さんと意気投合し、「糞土師の対談ふんだん」の次回の対談相手にご指名いただいた。どんな対談になるか楽しみである。[高世仁]
■先日の地平線報告会の後の二次会で、ご挨拶させていただきました西口です。随分以前に江本さんに、緒方敏明さんとの二人展にいらしていただきました。あのときはありがとうございました!! とってもおいしい手作りのカレーをたくさんご馳走になりましたこと、忘れません。
◆あれから、ご無沙汰しておりまして申し訳ありません。久々に参加した報告会の伊沢正名さんには、思想を実践した生き方に魅せられました。身近なうんこだけど、いつも早くトイレで流してしまいたいと思っていました。見たくないと思っていたのです。
◆でも。生理のときに使う、ナプキン。市販のものから、やわらかい布で手作りした布ナプキン(洗って何度も使うことができる)に変えたときに、汚いと思っていた生理が、大切な身体の一部に思え、自分の身体や生理を慈しむ気持ちに変わったのを、お話を聞いて思い出しました。汚物入れという名のゴミ箱に、自分の身体からでたものを受け止めたものを捨てるから、生理は汚物なんだと思っていたのです。
◆のぐそをして、やわらかい葉でお尻を拭いて大地にお返ししたら、矛盾のない気持ち良さに、身体も大地ももっと好きになりそうです。
◆わたしは、好きなこと(絵を描くこと)をしています。心を動かされたものを描き、それがいい絵になったらいいなぁと思います。また、友人たちと一軒家を借り、女性のための安心できる家をすこしづつ作っています。大きな庭があるので、のぐそをしてみようと思いました。また地平線報告会に参加させてください。どうぞよろしくお願いします。[西口陽子 画家]
■私は、大学で生物学を学びましたが、うんこ、に対して、ただ汚いという印象しかなかったことに、気がつかせていただきました。伊沢さんのリアルなお話を、学校で子どもたち学生たちに、聞かせてあげたいと思いました。キノコの写真は素晴らしく、自然を、自然の神秘な美しさを、伊沢さんは心から愛していると感じました。人間の人口過剰の話などは、過酷な状況で懸命に生きようとしている人たちにはどう聞こえるか、など、疑問に思うところもありました。が、とにかく独創性に満ちた伊沢さんに驚くと共に、ますます活躍していただきたいと、思いました。[秋葉純子]
■朝まずめの多摩の森歩き、夕まずめの多摩川河原歩きを昨年から日課にしている。一年で一番寒いといわれる大寒に入った1月20日に、滝山城趾の梅は蕾を開いた。1月28日、日曜日の夕まずめ、日当たりの良い多摩川の土手に気の早い春告げ花のホトケノザ、オオイヌノフグリ、カラスノエンドウが花びらを開き始めた。
◆じっくり観て匂いを嗅いでいたら体が冷えたので土手を走りはじめると、ヒヨドリの声をさいてスマホが鳴った。未登録の番号なので警戒して出ない。迷惑電話は2回以上はない。緊急だったらいけないと思い3度目に出た。「植村直己冒険館館長の◯○です。植村直己冒険賞の候補にあがっています。受けていただけますか?」(やばい、新手の詐欺電話か)と思った。「冒険賞に当たるようなことはしていませんが」「選考委員全員が強く推しています、委員の関野吉晴さんに代わります」「今年から選考方針が変わって過去の活動も評価することになった。高野秀行と同時受賞です」(関野さんの声に間違いない。詐欺電話ではなさそうだ)。「高野が受ければ、悪いので受けます」。関野さんは高野には、山田が受けたので君も受けるようにと言ったらしい。高野、山田の過去の行動も加味されたとのことだったが、冒険をやってきた自覚がない。それでも行動を評価していただいたことはありがたい。
◆2月16日の記者発表の場でも言ったことだが、4人(2組)の受賞者のうち3人が探検部OB(早大、関大、農大)だったことも、感慨深い。早大、関大、農大は大学探検部の中で創部が早く、一番古い京大(1956年創部)を加え、私が大学に入った1970年代は、大学探険部界の御三家とか四天王とか言われていた。曰く、学者予備軍の京大、マスコミ養成部の早大、実力の関大、現場の農大といった具合に。大学探検部は部員が減ったとか、内向きになって海外遠征に行かなくなったとか言われているので、一般に注目を集めることも何かに貢献できるかもしれない。
◆また、我々のフィールドが川(湿地)、田中・大西組が渓谷で、これまで冒険賞になかったフィールドが選ばれたことも喜ばしい。山や極地は発表媒体も多く評価しやすいが、川や洞窟は選考委員も知らない分野でこれまで選ばなかった反省もある。とは関野さんの言葉。
◆それにしても、昨年末の新「3バカタカシ」のご指名以後、身辺が慌ただしい。故宮本常一さんの水仙忌(1月30日)では、新3バカタカシ就任の自己紹介をした。2月19日は「現代の冒険者たち」(地球永住計画主催)で関野さんと対談した。水仙忌、植村冒険賞記者発表会場、現代の冒険者たち対談、どこにも賀曽利さんの笑顔があった。賀曽利さん関野さんとも小生が高知のど田舎から上京した1978年に初めてお会いしてからの長いお付き合いになった。これは賞をもらったこと以上に感慨深い。
◆2003年3月、四万十川河川敷で開いた四万十黒潮エコフェアは地平線報告会in四万十がメインイヴェントだった。江本さんの司会で石川直樹、賀曽利隆が「水談義」。その前座で私が「青い星の川を旅して木を植えて」のスライドショウを話している間、賀曽利さんは生後3か月の長男龍樹をずっと抱っこしてくれていた。あの万国共通語の満面の笑みで。賀曽利さんは人生唯一の大病から復活したばかりだったと、水仙忌で聞いた。会う人すべてを幸福感に浸す冒険王の笑顔に生後3か月でどっぷり触れたおかげで、龍樹は思いやりのある青年に育ってくれた。
◆関野さんはアマゾンの現地でお世話になった人たちになんとかお返ししたいと考えて医者になったと聞いた。真似たいけど、私には医者になる頭はないので、いつからか地球の庭師になろうと決意し修行を続けてきた。1990年代から、川旅と森作りの二刀流になった。時々、賀曽利さんの満面笑顔が脳裏に浮かぶ。「山田くん、医者にも庭師にもならなくても大丈夫、僕はこの笑顔で世界中の人を幸せにして地球何十周もしているから」と、賀曽利さんの笑顔が無言で語りかけてくるのを聞いてきた。そう、あの満面笑顔は鬼に金棒。出会う人すべてを幸せな気分に変える。
◆三輪先生は、教え子たちに「賀曽利のようなバカになれ」と教えてきたらしい。言うは易し、行うは難し。特にあの笑顔の体得は超難問。賀曽利さんのあの笑顔は、大学に行く代わりにアフリカをバイクで走ったときに体得したものだと小生は踏んでいる。「山田くん、アフリカにはねえ、心も魂も裸のままの人間がいるんだよ、人も大自然も素晴らしいよ」と1978年の初対面のときに言われた。
◆私も1985年から2005年までの20年間アフリカ通いを続け、10年以上住んできた。世界のすべての幸いはここに集まっていると言わんばかりの満面笑顔のまさに心も魂も裸の人たちに出会った。大自然と共にある無私無欲、無位無冠、無名無数の全身善人の「ホモ・ソバージュ(野生人)」たちだった。ヨーロッパ文明が入ってきて、この純粋アフリカ人が減ってきているのが残念だ。私がパンアフリカ河川行を中断してパリに住んだ1980年代、人類学者レヴィ・ストロースは「野生の思考(パンセ・ソバージュ)」で、ヨーロッパ人が野蛮とか未開と見下してきた非ヨーロッパ人には、ヨーロッパとはまったく違う「知の構造」があると提唱していた。西の自由の女神の横暴に失望し、東の平等の英雄の侵攻に絶望したフランスの若者たちが、ヨーロッパ中心思考から出られない(フランス一の知性と言われていた哲学者)サルトルより、レヴィ・ストロースを支持したとキオスクで買った週刊誌に書いてあった。
◆人類が目指すのは何が正解かわからないけれど、私は「ホモ・デウス」(神の人)より賀曽利さんのような「ホモ・ノブム・ソバージュ(新野生人)」を目指したい。賞をもらうことをゴールに見立てたことは一度もないが、「賀曽利のようなバカ」(=地球共通笑顔)を永遠の目標にすることを再確認した受賞でした。三輪先生、一連の謎かけの回答はこれでいいですね?[山田高司]
■江本さ〜ん、山田高司さんの植村直己冒険賞受賞は何ともうれしいニュースですね。地平線会議にひと足先に春がやってきたような気分です。これで地平線会議「3バカたかし」のうち、岡村隆、山田高司と2人が植村直己冒険賞の受賞者になりました。これって、すごいことですよね。山田さんは四国の土佐清水市の出身だと聞いています。きっと地元では大騒ぎになっていることでしょう。四国最南端の足摺岬の入口には郷土の偉人、ジョン万次郎(中浜万次郎)の巨大な銅像が建っていますが、郷土愛に燃える山田さんなので近い将来、その隣にさらに大きな山田高司像が建つかもしれませんよ。一躍、時の人になった山田さんなので、彼の壮大な世界大河紀行がふたたび脚光を浴びるようになることでしょう。ぼくはそれがすごくうれしいです。「頑張れ、山田高司!」と声を大にして声援を送りたい気持ちです。[賀曽利隆]
■地平線報告会で2017年12月に報告させていただきました稲葉香です。それ以来の生の報告会は、報告者の熱量や空気感をじかに感じ、江本さんはじめ、地平線メンバーさんにお会いできてとってもよかったです。伊沢さんの著書は、ドルポ越冬に行く前に読んで、ウ○○について考えていましたので、お会いしてお話ができたこと、とても嬉しかったです。
◆私の近況報告。昨年の9月末にリウマチによる伸筋腱断裂となり、右手の指3本(中指、薬指、小指)の腱が切れました。原因は美容師業による長年の酷使。病歴30年、痛い日々を幾度も越えてきたのでショックというより、冷静でした。翌日からは、美容師の仕事はまったくできなくなり、個人の営業でやってきたため10月から休業、12月に手術。現在術後2か月、徐々に回復はしているものの、以前のような動きができない状況です。何故かというと、切れた3本の腱を人差し指の腱につなげているため、力仕事や細かい動きができない。
◆そこで、一つの決断を迫られました。2店舗ある店のうち、独立して12年続いた大阪市内のお店を閉めること。住居で千早赤阪村にコロナ禍の時期に仲間の協力でセルフビルドで立ち上げた店を今後の「美容師業およびネパール(関連の仕事)業」拠点にすると決意しました。一人営業の美容室で、すべてをフル回転では右手に負担がかかりすぎる。一つを手放すことで、身軽になるので、新たな働き方を想定して動き始めています。
◆現在、手術前から企画を進めていた私のテーマでもある「ドルポ」写真集制作のクラウドファンディング中です。よかったら「稲葉香オフィシャルサイト ニュース」で検索してください。自分の作品として制作したいことはもちろん、現地の人々に伝統的な生き方や暮らしが消えつつある今、ドルポ人としてのアイデンティティーを大切にしてほしいと伝えたいのです。今後は動画もYouTubeで発信していく計画です。今年の夏は、ドルポで12年に1度のチベット仏教の大祭SheyFestivalが行われます。そこに完成した写真集を持って人々に会いに行く予定です。
◆その遠征計画もしつつ、「新河口慧海研究プロジェクト」も動いてます。さらに、自ら企画と同行してきたネパールトレッキングツアーは、今春は12回目で募集を始めるところです。これからは、こういった活動でなんとかやっていきたいと思ってます。[稲葉香]
地平線通信538号は2月7日、印刷、封入作業を終え、新宿局に渡しました。2月も18ページと厚めでしたが、ベテランたちのおかげで19時前にはいつもの「北京」に行けました。作業に汗をかいてくれたのは以下の皆さんです。江本は翌朝は久々の人間ドック入り予定なのでビールも食事もやや控えめにしましたが、神津島から食べ盛りの祥太郎君が来てくれたのでちょうどよかった。祥太郎君の母上、のり子さんからのカボチャとあんこのあんぱんも嬉しかったです。
車谷建太 中畑朋子 長岡竜介 長岡祥太郎 伊藤里香 秋葉純子 久島弘 江本嘉伸
■南国土佐生まれの私にとって、日本海には特別の思い入れがある。どんよりと重たい雪雲、風吹きすさぶ荒海はまさに異国といっていい。私が青春のエネルギーの大半を費やした剱岳は、日本海とは切っても切れない間柄にある。日本海を横切ってきた大陸の季節風は、剱岳に大量の雪をもたらした。より困難を求めるアルピニズムにとって、厳冬豪雪の剱岳、黒部は、立ちはだかる最後の障壁だと言っていいだろう。絶望的なラッセル、雪崩、本当に厳しかった。小手先の技術や体力で太刀打ちできる自然ではなかった。吐き気のするような登山を強いられた。
◆いつの日か、冬の日本海から剱岳北方稜線へアプローチしてみたいと夢見ていたが、果たせないで終わった。海から山へ、この対比がいい。済州島漢拏山(ハルラサン)から利尻岳、知床半島への冬季継続登山を考えたこともある。ティルマンのミスチーフ号によるパタゴニア遠征を真似した計画だったが、いつもの法螺話に終わった。ヨットによる冬の日本海横断がどれほど無謀か、今ならわかる。
◆登山はより困難なルートを選べるが、航海にバリエーションルートはない。海とは対等にはなれないからだ。航海は風と海流のもっともいい時期を選ぶ、当たり前のことだ。遣唐使船もマゼランもそうしてきた。北前船は、台風と冬の季節を避けて、大阪と北海道の間を一年に一往復しかしなかった。それでも海難事故が頻発した。冬の日本海など論外なのだ。
◆2012年冬に竜飛岬から象潟まで歩いた。ついでに岩木山、白神山、鳥海山を登った。車もまばらで、歩く人など皆無の海岸線国道をピッケル、ザックを担いで歩いていると、完全に不審者あつかいだ。なんと非効率で無目的な旅だろう。2013年冬には芭蕉の「おくのほそ道」を54日間でたどった。冬に歩きとおしたのは私だけだろう。そんなもの好きはいない。どこにも危険なところはないし、スマホとキャッシュカードがあれば何の不安もない。アル中の放浪野宿旅に過ぎないが、これこそが現代の風狂だと自負している。
◆東京深川から岩手平泉までの太平洋側には印象は少ないが、日本海側は強烈だった。鳴子温泉から堺田へ奥羽山脈の分水嶺を越えると、風景が一変した。歩道や路側帯が除雪した雪に埋まり、車道を歩くしかない。歩く私のうしろに車の列がたびたびできた。車にとっては迷惑至極だったろう。けっこう気を使って、キックステップで除雪の斜面に寄りかかったときもあった。現実は人流も物流も車(つまり石油)が担っている。そんな当たり前なことに逆らう私は、まちがいなく変人である。そのことを考え続けた旅だった。
◆海岸線に出れば、除雪した雪は激減した。ただ海風は強かった。秋田象潟から福井若狭まで、横殴りの風雪を受けながらひたすら歩いた。白波泡立つ海の彼方、雪すだれにかすむ島々、飛島、粟島、佐渡ヶ島の絶景は、最果ての風景を連想させた。北国の人は家にこもっているのか、とにかく路上に人がいない。日本にもこんなところがあるのだと感激した。
◆地平線会議の面々は世界を舞台に活躍している人が多い。私はヒマラヤに15回も行っているので、ヒマラヤニストと思われているが、実は行動範囲も関心ごともそう広くはない。日本の山と風土が好きで、これらを追い求めるのに精いっぱいだった。私は山一途のオタク職人なのだ。そのおかげで狭く深く山と関われてきたといえるかもしれない。満足はしていないが後悔もしていない。
◆北前船の資料を読んでいるうちに、また宮本常一の民俗学にぶち当たった。学生時代に先輩に勧められて、柳田国男の『遠野物語』を読み、風土と民俗に目を開かされた。民俗学は風土学である。人と自然が織りなす知の万華鏡だ。冒険は、その鏡を磨くための一つの手段である。地道にこつこつ時間とエネルギーを費やして、静かに鏡を磨きながら独りほくそ笑む、そういう世界が好きだ。
◆登山の志向に風土が深く関係していることに気づかされた。明治、大正期の西欧アルピニズムの受容についても考えた。西欧近代化に影響を受けた今西錦司(初登頂主義)や大島亮吉(バリエーション主義)の動的登山より、文人墨客の流れをくむ田部重治や冠松次郎の静観的登山の方が、日本の登山の特徴ではないかと思うようになった。杣人、木地師、又鬼、山窩(サンカ)、山の民の風俗が山岳逍遥にオーバーラップした。山水画のような雪に埋もれた黒部こそ、風土に根差した登山ができるのではないかと信じている。
◆2023年7月、梅雨前線と台風の接近で、佐渡ヶ島で7日間、粟島で3日間、飛島で5日間、足止めを食らった。山形県から秋田県にかけて、ひどい水害に見舞われていた。ヨットは動く別荘だ。急ぐ旅でもない。呑気に雨音を聞きながら、キャビンで資料を読み原稿を書き、デッキで焼酎をあおった。
◆飛島は周囲10キロ、人口160人余りの小さい島である。ここから北へは、北海道の奥尻島まで人の住む島はない。連絡船が酒田港を行き来して、生活必需品を運んでいる。港の待合室(唯一のカフェがある)で、飛島学叢書『飛島の磯と海』を見つけた。著者は宮本常一、森本孝、他である。初出は『あるくみるきく 235号』(日本観光文化研究所 1986年)である。宮本常一には影響を受けてきた。読了していないが、彼の『旅の民俗と歴史』(全10巻 八坂書房 1988年)を持っている。これを読むだけで全国の山里、海辺、路地裏を旅した気分になれる。
◆帰路の酒田港でも長逗留し、自転車で庄内平野の故地を巡った。たまたま知り合った郷土史家の杉原丈夫さん(山形大学庄内地域文化研究所)から本を二冊手に入れた。『北前航路と寄港地、北前船と酒田』(北星印刷 2021年)と『同、飛島と北前船』(同 2022年)、第一次資料集と言える貴重な本だ。最上川水運や北前船西廻り航路の歴史を教えていただいた。
◆義経の平泉への逃避行から奥州藤原三代の没落とその家来の末裔三十六人衆が移り住んだ酒田湊、上杉謙信の青苧(あおそ)の専売交易、最上義光が拓いた最上川水運は、内陸の米や紅花を京に運んだ。1622年に徳川直臣の酒井忠勝が、東北日本海防備のかなめとして入部した。彼が拓いた庄内平野は有数の米どころになった。その幕府御城米船往来のために、酒田日和山に公儀米置場を作り、西廻り航路が開拓された。
◆酒田は北前船以前から北国航路の湊として栄えていたが、最上川河口は吃水が浅く、大型船の寄港地には少し不便だったし、西風の防備もよくなかったので、飛島を船荷積み替えなどの経由地避難港として整備した。以来、酒田湊は日本海側最大のターミナル港としてさらに発展した。日本海交易の繁栄が目に見えるようだ。
◆その飛島で、地平線会議のレジェンドの1人、森本孝の仕事に出会えるとは、ご縁を感じる。さっそく読んだ。彼が漁労民俗学の研究者であったことを知った。彼が収集した多くの小型和船や漁具は、国立民族学博物館に収蔵されているらしい。宮本晩年の直弟子だ。孤島で細々と命をつないできた漁民の生活が、森本のレポートから匂ってくる。彼は、常に貧しいもの差別される側に寄り添った、宮本民俗学精神の継承者の一人といえるだろう。
◆中心地の勝浦に平地はなく、海岸線にへばりつくような細長い集落だ。島のなりわいは漁業で、かつてはイカとタラ漁、磯物と言われる貝と海藻が主な漁だった。1600年、最上氏が庄内を領有してからは、海高(漁業租税)として烏賊年貢を課したとあった。江戸末期には1年間に10万枚以上の干烏賊(スルメイカ)を納税した。
◆北前船が飛島に寄港するようになった江戸時代の最盛期には、船宿が13軒、1000人以上の島民がいたとあった。北前船の中継地として、酒田と飛島の間を小型船で物資を運んだ。澗口銭、塩口銭などの入港税を徴取したし、客船帳に記された廻船名、出地名、乗組員数を見ると、船宿の収入が相当あっただろうから、島の生活はそう貧しいものではなかっただろう。
◆今は廃屋だらけのさびれた島で漁業も廃れている。昔の面影はないが、1963年に訪れた宮本常一が聞き取りをした飛島旅館(津國屋)が、となりの本間酒店ともども今も営業している。島に食料品店はないが、酒だけはここで手に入る。冬に本州から眺めた飛島、夏に飛島から見た本州の山並み、鳥海山と月山にはさまれた庄内平野、酒田湊の歴史を知れば、日本海の景色も違って見えてくる。
◆もう私には、日本海の神髄に触れることは多分難しいだろう。しかし、昔取った杵柄、重いザックを背負ってラッセルした根性だけは、失っていないとおのれを慰めている。まだ肩にあこがれの残響が染みついている。風が動力のヨットにもディーゼルエンジンが搭載されているから、偉そうなことは言えないけれど、なるべくエンジンに頼らない旅をしたいと思っている。西行、芭蕉、山下清、歩くに勝る旅はないのだから。
かつげるだけが 夢の量
なのに いつもよくばる
あるけるだけが 知の深さ
なのに わかったような気になる
想いをかつぎ ときをあるくのだ
それらは いつわりのない肉体の作法
どれほどかついできたか
どれほどあるいてきたか
夢や知を 悲しませなかったか
かつぎ あるくのだ
このつきることのない あこがれを
このかぎりない 風雪の山々を
■1月2日、迂回路がない宝立町で車中泊をして迎えた朝、珠洲道路は10時頃に通れるようになっていた。道はどこまで繋がっているのか進んでみないとわからないが、能登町柳田方面へ車を走らせる。走らせるといっても、法定速度で走行できるかどうかといった道路状況だ。道路割れ方にも色々あった。段差がついたズレ割れや、少しずつ斜めに割れ落ちていく目が錯覚する割れかただ。これは危険で注意しなければガタンと車が落ちてしまうだろう。
◆土砂崩れがあったり、電信柱が倒れたりしており、蛇行したりタイヤが道路の割れ目に落ちないように時速10〜30kmと徐行運転で進んだ。車の腹が確実に当たることを承知で進まなければならないところもあった。ガリガリ、ガガンと腹を打ちつけながら町野町に向かった。輪島市北円山まで来たところで、県道の宇出津(うしつ)町野線が土砂崩れというよりも山崩れと言った方がしっくりくる状態で、幾つもの大きな岩石で完全に塞がっていた。
◆県道をまっすぐ行けば母の実家がある佐野まで3km程度の距離だった。一旦車から降りて、麦生野地区の生活道路から迂回して抜けられないものかと思案する私の姿を見て地元の人が「麦生野はだめや、佐野までいけん。道路がダメになっとるし、仮に向こうまで行っても土砂崩れで山道も通れんようになっとる」と教えてくれた。なんとかならないものかと岩石のそばまで行って脇道を視察したりしていると、向こう側から大きな荷物を持った親子3人が歩いてきた。山本さんだ。
◆「お母さんが死んでもたわ。棺とってきた」。長男と持っていた大きな荷物は棺だったのだ。妹は白装束を持っていた。妹は悲しみの感情が麻痺しているのか気丈に振る舞っているのか判断がつかなかったが坂道を下りながら振り返り大きな声で「こんなんなってしもーたけど、丁度帰っていて、役に立ってよかったわ」と笑った。3人が坂道を下って行く、うしろ姿に凛とした美しさを感じた。
◆ご遺体はすでに山崩れがあった側の民家で安置されていたのだと思う。県道で棺の支度を始めていた。空は妙に清々しい青色をしていた。時刻は13時を回ったころ、ご遺体を軽トラに積んで「燃やしてくるわー」と能登町方面に向かって行く山本さんを見送った。さて、母親の実家まで3km、車を置いて歩いて行こうと決めた。選択肢はそれしかなかった。生活道路を歩き田んぼ道を歩き迂回した。途中ビニールハウスに避難している家族に会った。
◆私は「無事でしたか」と尋ねた。「とりあえず、家族はみんな大丈夫やったけど、家はこわーて居られんしここにおるんやわ」などの会話をしていると、どうやら父親の同級生の中さんだということがわかった。父親の安否を聞かれ無事を伝えるが町野町には戻ってこられていないことを伝えた。父に中さんの無事を伝えると約束し迂回路を進んだ。こういうときはきっと何か縁がある人たちと再会するものなのだろうと思った。田んぼ道から県道へ復帰して間もなく、道幅いっぱい、ガードレールまで達する道路を塞ぐには十分過ぎる土砂が行く道を阻んだ。
◆歩いて通れるが、人一人分の道幅がせいぜいで残雪と土砂が混ざり足元はぬかるんでおり、倒木が目の前を遮っていた。ガードレールを跨ぎ進まなければならない場所もあった。幅はますます狭くなり、20メートル下に倒木で通れなくなっている生活道路と川が流れていた。落ちたらただではすまないな。山本さんはこの道をどんな気持ちで棺を持って越えてきたのだろうかなどと思いながら滑落しないように進んだ。山本さんにはお世話になっていた。11年前の1月に母と祖父(母の父)を交通事故で同時に亡くし呆然としていた私に寄り添ってくれたことを思い出しながら歩いていると新たな地割れと土砂崩れはあったが歩行に支障はなかった。
◆1kmくらい進むと遠目に母の実家が見えてきた。珠洲、能登町の光景を見てきておそらく倒れているだろうと思っていた母の実家は崩れずに建っていた。思わず「おおおー」と声が出た。弟が「建っとる!」と応えた。家の前まで行くと玄関は開いておりガラスは割れ、廊下をまっすぐ行った先の離れ部屋まで抜けて見えていた。玄関に入ると廊下は落ちているじゃないか。壁は崩れ各部屋を見回ると家具が倒れ散乱していたり天井が崩れていたりしていた。
◆2階へ繋がる階段の真ん中あたりから見えてくる採光窓を射す光線が綺麗で幼年期の記憶として残っている。その光景が好きだった。今もその光景は変わっていなかったけど、どこか色褪せて寂しさもあった。階段を降りながらこの家にはもう住めないなと思い最後に居間を見渡した。じいちゃんの死以来だから11年ぶりだ。じいちゃん子だった私は、母に連れられ毎週末遊びに行き団欒があった場所だ。
◆カードゲームをやったり、将棋をやったり、オセロをやったり、歌番組を見たり、映画を見たり、習字を教えてもらったり、物の考え方を教えてもらったり、悲喜交々色んなことが脳裏に浮かんだ。物心がついたときから居間のまわり縁に飾ってあった龍の刺繍絵は地震に耐え落下せず力強い眼光で堂々としていた。そういえば2024年は辰年だということを思い出した。[東雅彦]
■2月に4日間をかけて賀曽利隆さんと車で能登半島を回ってきました。北陸道から半島西側の国道159号線を北上し、先ずは賀曽利さんと親交のある宝達志水町のバイク店を訪れました。展示してあった相当数のバイクが倒れて損害が出たそうですが、建物は損傷無く営業を再開されていました。社長さんと奥様はとてもお元気そうで賀曽利さんとお話している笑顔がとても印象的でした。
◆続いて七尾市中島町へ。倒壊している家屋がポツポツと見られるようになりましたが、道路は問題なく走れました。こちらでは賀曽利さんのお知り合いのゲストハウスを営まれている方を訪ねました。広島から移住されたご夫婦で、家屋の損傷はあったものの応急処置し宿は再開されていました。ご夫婦も賀曽利さんとお会いして元気が出た、と大喜びでした。出会った方を元気にする、まさに“カソリパワー”ですね。その方々の笑顔を見ることができただけでも、今回能登を訪れて本当によかったと感じました。
◆陽が傾き始めたころに半島西岸の志賀町へ到着。ここは震度7を観測したエリアですが、国道を走っている限りは家屋の倒壊はそれほど見られませんでした。すると国道沿いに民宿を発見し飛び込みでの宿泊をお願いしたところ、何と宿泊OKとなりました。工事業者の方でほぼ満室でしたが、まさかの展開に賀曽利さんと大喜びしました。
◆2日目は能登國一宮「気多大社」からスタートしました。ここは鳥居、社殿共に全くの無傷でした。そして更に北上し能登金剛の巌門へ。海岸線は大規模な崖崩れが発生しておりましたが、巌門に被害は有りませんでした。駐車場が閉鎖されておりましたので、人影は無くひっそりとしていました。続いて東部の能登島から和倉温泉に向かいました。島には大橋が2か所掛けられていますが、北側の「ツインブリッジのと」は通行止めで、島の外周を走る県道も至る所で道路が崩れており、家屋の倒壊も数多く被害が出ておりました。
◆一大温泉地の和倉温泉周辺も建物倒壊、断水、そして配湯管の損傷等により旅館は休業状態でひっそりとしていました。傾いているビルも何棟かあり、揺れの凄まじさを感じました。そして穴水町から輪島市へ向かいました。北上するほどに路面の波打ちが激しく、段差や亀裂の激しい道路を走り抜け、輪島市街中心部に入った途端、状況が一変しました。倒壊した建物で一帯が覆い尽くされ、さらに大火に見舞われ焼け焦げた跡だけが残り、あまりに凄まじい惨状で言葉を失うほどでした。「今回は能登半島地震ではない、輪島地震だ」と賀曽利さんもおっしゃる程の被害の凄まじさです。
◆輪島市街から西岸の県道を進むと、大岩が道を塞いでおり通行不可でした。このように半島北側の道は至る所で寸断し崩落している状況です。この日も志賀町に戻りました。嬉しいことに宿は明日まで連泊OKでホッと一安心です。3日目は半島北部の珠洲市へ向かいました。野付島(軍艦島)も大きく岩が崩れ、正面から見ると鼻を下げた「象岩」に見えるほど姿が変わってしまいました。須須神社の鳥居は昨年の地震で倒壊し再建されたばかりでしたが、今回の地震により再び倒壊してしまいました。
◆珠洲市沿岸部の鵜飼地区は3m超の津波に見舞われ、一帯の家屋や車が押し流され船が岸壁に乗り上げていました。まだ震災直後で手つかずの状況で、本当に凄まじい状況に言葉を失うほどでした。突端の禄剛崎の道の駅「狼煙」は無事でしたが、休業中でひっそりとしていました。灯台も被害は無いようでしたが、眼下に見下ろす海岸は隆起し海底面が露出している状態でした。禄剛崎から西側の県道も道路崩落により通行止めで、展望台から見下ろすとまだ数か所の土砂崩れが発生しているのが見えました。道路復旧だけでもどれだけの時間がかかるのか、本当に凄まじ過ぎる状況です。一旦珠洲市街へ戻り、北側の海岸線へ抜ける道を探しましたが、すべて通行止めで行くことはできませんでした。
◆そこからは輪島市の門前へ向かいましたが、この一帯も家屋倒壊の被害が凄まじいです。かつての曹洞宗の大本山「総持寺祖院」も大きな被害を受け、立ち入り禁止となっておりました。門前からの帰路も昨日同様に国道249号線を南下し、志賀町の宿に戻りました。この3日間で能登半島の主要な道はほぼ走ることができましたが、やはり震源に近い北部の輪島市や珠洲市に甚大な被害が集中していました。
◆賀曽利さんは常時カメラを手にして被災状況を撮り続け、場所と被害状況等を細かくメモされていました。常々「旅は記録」が口癖の賀曽利さんですが、発災から1か月半経過した現場の姿を留めた記録は後々重要になってくることと思います。今回同行させていただき、改めて「現場」に行き見聞きすることの重要さを実感しました。また現地に立たなければわからないことが多くありました。同時に今後も継続して現地を訪れ、何らかの作業を通じて協力していきたい思いを強くしました。[福島県いわき市 渡辺哲]
■年明け早々に起きた大地震、能登半島に点在する農村漁村のすさまじく変容した地形を見て、私は声を失った。しかし日本人は長く永く歴史の中でこの途方もない自然の力と共存し、多くの涙を流しながらも乗り越えてきた事実がある。でも一次産業に従事する多くの年老いた農民漁民たちが再び家業を再興し後に繋いでいくためには厳しい現実がある。同年代の同じ農民として他人事ではない。
◆私の住む北海道北部・宗谷の今冬は、寒さより雪の厳冬だ。11月下旬に根雪になり、12月に積雪は増し、1月には暴風雪と大雪が交互に毎週続き、除雪・雪おろしに明け暮れた。2月に入りオホーツク海に流氷接岸となると天候は落ち着くが、気温がマイナス20℃以下に冷え込んでくる。1月2月は冬山の形相、オンボロ牛舎での毎日の作業、これ手応え絶大やり甲斐最高。しかしいつまで自分の体がガンバッてくれるかなあ。
◆どんな人でも、食物を食べなくては生きていけない。その食物となる基は農民と漁民の生産によるものだ。地球という舞台の上の人類を支える究極の裏方が、農民漁民だ。高度経済成長のために、日本の農村漁村から若者はどんどん流出し続けた。都会に比べ、農村漁村の高齢化率は非常に高い。私(66歳になりました)の住む地区の戸数は3戸。皆酪農家で、後継者がいるのは1戸だ。ということは、近い将来この地区は1戸になる。豊富町の各地区同じような状況である。
◆日本全国の農業経営者の平均年齢は60〜65歳位。年中無休の酪農家においては後継者がいなければ60〜70歳くらいの間でほとんどが離農廃業する。幸いにして災害等の不可抗力に遭遇しなくても、日本の農業者の多くは、この10年以内いや5年以内に大幅に激減する。地球規模の異常気象、各地の戦争の長期化、世界政治経済の不安定化等々、食糧確保の安全保障は大丈夫なんだろうか。
◆戦後日本は、これからの日本の農業の中の酪農畜産振興のたどるべき指針を、日本に似た地形のニュージーランドを参考にしようとした。それは自然の山を利用した低コスト生産を実現した見事なお手本だった。しかしアメリカが待ったをかけ、アメリカ式穀物多給の高コスト生産になってしまった。
◆更に日本政府はスマート農業、大規模農業を推し進めようと始めている。が、それらが離農廃業に待ったをかけられないだろう。農村漁村に若者たちが住みたくなるようにしなければならない。日本政府のやり方は莫大な借金と超高生産コストの農業指針だ。
◆現在の農家の大多数は中小規模。この規模でいいから少しでも新規就農者が増えて欲しい。農業は自営業、すべて自分の責任。仕事は自分のやりたいようにやればいい。ちなみに私のやっている酪農は放牧酪農。悩みながら続けてきたが、慣れてくると実に楽しい、おもしろい。年中無休、朝早くから夜まで。でも自分次第。平日昼間に買い物や遊びに行くこともできる。意外に自分の時間が自由だ。
◆そしてこの放牧酪農は実に理にかなっている。牛は放牧地で自由に糞尿をする、野糞をする。つまり糞土師の伊沢正名さんの話と密接につながる。ということは、野糞が、放牧酪農が、地球を、世界を救う、ということだ。43年間酪農に携わってきた私は黙って日本の裏方に徹しようと思ってきたが、やはり今、ここで言いたい。進路に悩む日本の若者たち、農業やろうぜ。漁業やろうぜ。あこがれだけで終わらせないで、行動者になろうぜ。若者が農村漁村に増えてきたら、きっと少子化対策にもなると信じている。
◆年末に江本さんから送っていただいた高世仁さん、佐高信さんの本『中村哲という希望』の中で一番心に残っている中村さんのことばで終わりにしたい。「国の威信の神髄は、武力やカネではない。利に惑わされて和を失い、先祖が営々と築いた国土を経済成長が荒廃させる。豊かな心性を失い、付和雷同して流されるさまは危機的である。戦乱のアフガンから日本の行方を祈りたい」[北海道豊富町 田中雄次郎(A4紙6枚に手書きで)]
■地平線の活動をずっと応援しています。元日の奥能登をはじめとした大地震に胸がいたみます。今から4、50年前、須藤護さんはじめムサビの仲間たちと珠洲市の火宮という集落に調査に入り、お世話になり、奥能登の海岸や輪島にも何度か通ったときの風景が目に浮かび、再訪を思いながら怠ったことが悔やまれます。そして、地元の方々の生活の復興を願うばかりです。私の夢は、身体が元気なうちに『あるく みる きく』に掲載された土地にできるだけ行ってみたいことです。夫の残した本や写真の整理もまだ手付かずで実現できるかどうか。どうか江本さんもお元気で、江本さんの熱い魂を若い方へお伝えくださいますようにお願いいたします。[森本真由美 故孝氏夫人 葉書で]
■大学のとき、モンゴル語部の一番若い小沢重男先生は、大学の山岳部の顧問か部長だったと思う。地平線の江本さんも当時山岳部の一員であったそうで、もし山岳部に参加していれば、江本さんと大学時代に知己になるチャンスがあったかも知れない。小沢先生は授業で山の話を時にする。岩壁にへばりついているとき、できるだけ上体は岩壁から反らした方が安全であるそうだ。地平線同人なら常識であろうが、当時の門外漢には新鮮に聞こえた。数学がわりと好きなので、三角関数で、下方への力が軽減し、その分体重が軽くなり、より少ない力で岩壁にとりつけるとすぐ理解した。危ないところからのけぞるのは至当であろう。君子危うきに近寄らずという。s
◆愚息が高校生のとき、授業をさぼったことがあった。妻はわりと勘のいい方で、彼がいま街中を歩いていると私にいう。何の根拠があって?と聞き返すも、携帯がない時代で、確かめようがない。彼の帰宅後尋ねると果たして、その時間街中を歩いていたそうだ。そこで、詰問が徐々にエスカレートして行った。私はそのとき理解できない現象を見て、むしろそちらを鮮明に覚えている。そして詰問の内容は忘れてしまった。自分が学校より重要な価値を見いだしているイベントがあれば、抜け出すのもありかとそのとき多分考えていたはずである。しばること、規格化することを私はこの上なく嫌うので、多分そう考えたにちがいない。
◆それはさておき、興味をもった現象は、妻の順々と諭す説明が佳境にはいるにつれ、愚息は正座のまま妻に近づいていくではないか。私なら距離を縮めるどころか離れていくのにと思った。以後ある種の人間は責める相手に責める度合いが上昇するにつれ接近していくことに気付いた。これが効果があり、相手は責めつつも、すでに許す感情に支配されているようなのである。
◆そこで国際紛争にあてはめて見た。気にくわない相手国に対して経済封鎖を行う手段は、本当に有効なのであろうかとのかねての疑問がある。この手の手段はアメリカがことのほか愛用している。多分、気にくわない日本を経済封鎖に追い込み、戦争に引きずり込んで負かした、との成功体験がそうさせているのであろう。イラン、北朝鮮、中国、ロシアに適用されている。しかし、日本相手と異なり、あまり成功しているように見えない。アメリカが嫌いな相手国に対して適用する制裁に、同盟国だからといって付き合う義理はさらさらないのであるが、義理堅い日本はこれに付き合い、自らの首を締めているように見える。日本ファーストのトランプ氏的な政治家が総理にでもならなければ、この付き合いで大損を続けていくのであろう。
◆そこで危ないところにだんだん近づいていってはどうだろうと思う。例えば北朝鮮。嫌いだから外交関係を結ばないとしているが、これは児戯じみていると思う。嫌いだ、プンーッは幼稚園児みたいだ。北朝鮮に断固抗議したといっても北京の北朝鮮の大使館に文書を渡すかなんかしているだけだろう。北朝鮮に在外公館をおいてそこで腰を据えて、現地で調査し近寄る交渉する方が、拉致問題解決の確かなやり方と思うがどうだろう。なぜなら在外公館は二国間関係交渉の最善の武器だからだ。中国はこういう仕掛けを古代から知っている。虎穴に入らずんば虎子を得ず。[花田麿公]
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださったのは以下の方々です。万一記載漏れがありましたら江本宛メールください。最終ページにアドレスがあります。通信の感想、近況など短く付記してくだされば嬉しいです。
桐原悦男 多胡啓次・幸子(20000円 毎月の通信に元気を頂いています。ありがとうございます) 高松修治 西嶋錬太郎 小長谷由之(5000円 長い間ありがとうございました。今月で送付を止めてください) 斉藤宏子(10000円 石川直樹さんのご活躍、喜んでおります。実亡き後の石川さんの心遣い、今も忘れません。『太平洋漂流実験50日』の著者、斉藤実夫人) 平田寛重(10000円 地平線通信の送付は538号を最後にさせてください。長い間ありがとうございました) 賀曽利隆(10000円 江本さん、がんばってください) 柿原和夫(10000円 通信費3年分+寄付) 渕上隆(ツウシンヒオクリマス マタ1ネンヨロシクオネガイシマス) 平本達彦 酒井富美(10000円 地平線通信をいつもありがとうございます。限界集落の旧伊南村で暮らしながら国内外で活躍している方たちの生き方に元気をもらっています。記録的な暖冬でしたが、昨夜から今朝にかけて50センチくらい積りました。3月9日) 田中恵子(4000円 町田正と2人分。地平線通信を有り難うございます、いつも楽しみにしています。地平線会議に最初に参加したのはもう30年近く前になるかも知れない。確か、プージェーの映画を見たのが参加のきっかけだったと思う。東京在住の頃は時々参加していたが、6年前に京都に転居してからは、地平線通信を読ませて頂くだけになった。日常生活では様々なストレスがあるが、地平線通信を読むと別の世界へ行けて、こんな小さい事で悩むのは止めようと、心がスッキリする。一種のカンフル剤である。最近537号の高世仁さんの、報告者のひとこと、には心動かされた。日頃思っていた事を見事に語ってくれている。「日本人の利己的で刹那的な人生観、他者への冷酷さは世界で突出している。中村哲さんも、自分の事しか考えない日本の風潮を嘆いていた。『自分の身は針で突かれても、飛び上がるが、他人の身体は槍で突いても平気という人が急増している』と」感動した文章である。いつか京都で地平線会議をと企んでいます)
■私自身は地平線会議と関わりを持つようになってからまだ日が浅いのだが、自分なりのテーマを突き詰めている人がこれだけたくさん集まっている集団というのはかなり稀有な存在だと思っている。家と学校の往復というごく狭い世界で生きていた高校時代は、ルポルタージュを読むことが世界を知るための入り口だった。世界の辺境を旅し、独自のテーマを追う人々の著作を読んで、これから出会えるであろう世界への期待に胸を膨らませていた。しかし、入学した慶應義塾大学理工学部で出会った周りの学生たちはみな驚くほどに同じ価値観を持っており、そのことに私はかなり失望した。
◆そんな鬱々とした気持ちで大学生活を過ごしていたので、大学院入学と同時に早稲田大学探検部に入ったときにはかなり衝撃を受けた。こんなにぶっ飛んだ人たちがいたのか、これが早稲田かと感銘を受けたのである。それと同時に、独特な世界観を持った10代の少年少女たち(ピカピカの新入生たち)の間で、わりと平凡な世界観しか持てない23歳大学院生として気後れしてしまったのも事実だ。そんな尊敬すべき探検部員たちや、地平線会議で出会う人々のように、自分なりのテーマを見つけたいのだが、いまだに見つけられていない。どうやら、ある日突然、雷に打たれるように出会えるものではないらしい。
◆周囲の理系の学生と同じく、ずるずると大学院に進学したために、初めて就職したのは25歳だった。優良企業に入社したものの1年で退職し、20代半ばのころはアルバイトを転々としていた。特に何かやりたいことがあったわけではなかったが、いい大学を出ていい会社に入るという敷かれたレールから逸脱しない限り、本当の人生は始まらないと思ったからだ。
◆渋谷の高層ビルの窓を拭きながら、夜勤の工事現場で警備員をしながら、引越し屋で段ボールを運びながら、私はあてもなく将来を模索していた。当時はすでに今の旦那と同棲していて、毎日のように下町の安居酒屋で飲んで、叶いもしない夢の話をするというどうしようもない有様である。半年ほど気楽なフリーター生活を送るうち、映像や文章で表現する仕事がしたいと思うようになった。だが、実は好きでもない理系の道を進んできたという経歴は、まったく異業種のマスコミ業界を目指して転職活動をする上でかなりハンデとなる。
◆そんなときに偶然見つけたのが、ジンネットの求人だった。戦場取材の経験が豊富な番組制作会社としてジンネットが書籍で取り上げられていたのを見たことがあるので、応募するときには特別な思いがあった。そして履歴書とともに、探検部での経験やここ半年のフリーター生活で考えてきたことやこれからしたいことについての手紙を添えて応募した。面接の日、初めて会った高世仁さんはまるで旧知の間柄のように迎えてくれ、オフィスの中を案内し、「それで、いつから来れる?」と聞いてきてくれた。入社後2か月でジンネットは倒産してしまうのだが、私の思いをまっすぐに受け止めてくれた高世さんに出会ってなければ、おそらく今の私はなかったと思う。
◆ジンネット倒産後は、テレビ局内で報道番組を作ったり、大きめの番組制作会社でドキュメンタリーやドラマを制作していたりしたが、自分の働きぶりはいまひとつだった。憧れと夢を追いかけているだけで何だか雲を掴むような調子だったのだ。自分の伸びしろに疑問を感じていたころに妊娠した。妊娠は計画したことではなかったので、正直子どもを持つことは不安だった。共働きで子育てをする大変さは、日々あらゆるメディアで取り沙汰されている。そういう自分も御多分に洩れず「限界共働き」家庭なわけだけど、自分よりも大切なもののために生きる毎日がこんなに幸せだとはまるで想像もしなかった。
◆息子には「みんなが居心地よく周りに集まってきてくれるように」という思いを込め、凪いだ港に自然と野良猫が集まり遊んだり微睡んだりしているようなイメージで「凪津(なつ)」と名付けた。1歳半になり、彼はまさに名前に込めた願いの通りに成長してくれている。人間にとても興味があるようで、周りの人に積極的に笑いかけ、話しかけていく。息子の生まれ持ったコミュ力には目を見張るものがある。
◆出産後は編集プロダクションに転職し、雑誌や書籍の編集やライターの仕事に就いた。編プロといえば激務薄給として知られる業種だが、今の仕事では、自分の企画も通るし、お堅いビジネス記事からエロ記事まで幅広くできるので面白い。遅咲きながら、ようやく仕事で手応えを感じられるようになってきた。夢語りの日々・自分探しの旅がいつまでも終わらなかった私は、青春はいつ終わってくれるのだろうと漠然と考えていた。私は子どもが生まれて半年後に30歳の誕生日を迎えたが、そのとき、“それ”は終わったのだということを悟った。
◆ろくに勉強しなかった大学院での学費は間違いなく無駄になってしまったが、そうでなければ早稲田大学探検部で過ごした時間は得られなかったし、その後ジンネットに入社することにもならなかっただろう。そして、妊娠しなければ思い切って出版業界に転職することも考えなかった。そして今、地平線通信で原稿を書かせてもらっている。そういう、不思議な縁が絶妙に繋がって今がある。最近、モノ雑誌でリフォームアイテムの特集記事を担当したのだが、そういえば居住空間のあり方に興味があったから大学で建築を専攻したんだったな、と今更ながら思い出した。
◆伏線だらけの私の30年だが、スティーブ・ジョブズの「connecting the dots」みたいに、今までやってきたことがこの先何かにつながったらいいなと思う。[貴家蓉子]
■没後10年姫田忠義回顧上映会。この企画を民映研のメンバーを巻き込んでやり切りました。「親父が死んで10年、親父も宮本先生が亡くなって10年くらいで、不思議と先生の話をしなくなった。今井くんも、これからは自分の時代だね!」。姫田さんのご子息の姫田蘭さんから言われました。僕が映像を生業にして20年が経とうとしています。これまでずっと民映研の意義を素直に信じ、民俗の映像記録の大切さをひたすら実践してきました。そのことを信じて疑わず。ただ、いま頃になって思うのです。なぜ大事なのか、どういう未来があるのか、型にはまり過ぎていやしないか、もっと柔軟でよいのではないのか……。先の回顧上映会は、頑なだった自分の心を揺さぶりました。
◆特に、来月から劇場公開も予定している民映研の代表作『越後奥三面―山に生かされた日々』(1984年/145分/デジタルリマスター版。4月27日からポレポレ東中野でロードショー予定)。いままで何度も見ている作品なのに、印象が全く違っていました。見ている自分の内面を刺激したのです。それは民映研で積み上げてきた映像制作のテクニックが、ガタガタと崩れるようでした。
◆もっと素直に、純粋に、下手に、無骨に、生身の人間として記録と表現に向き合うことが必要と感じたのです。そう思うようになった僕の心境の変化は、実はここ数年の間に起こっています。ツチノコの映画でも同様でした。先々月、ようやくツチノコの映画が完成しました。この映画は一度昨年夏に編集を終えていました。しかし、そこから幾度か内容をがらっと作り変え、現在の形に行き着いたのです。
◆どういう方向でまとめていくのがベストか、自分ではわからなくなっていたからです。そんな迷いに答えを出せたのは、スタッフや仲間からのアドバイスでした。これからの20年、記録するという姿勢は変わらないけど、僕はまったく違うプロセスで向き合っていこうと思っています。変化を積極的に受け入れて、新しい自分に生まれ変わろうと心に決めました。どんな世界が待っているのだろう。僕は、いまとてもワクワクしています。そんな僕の転換期に出来上がったツチノコの映画を、5月からの劇場公開に先駆けて3月20日に地平線キネマ倶楽部の試写会で上映します。ぜひ、ツチノコを見届けていただけたら幸いです![今井友樹]
■地平線通信の2月号で、なぜ「地平線キネマ倶楽部」を立ち上げようと思ったのか、その次第を書かせていただきましたが、その「第二弾」として『おらが村のツチノコ騒動記』(今井友樹監督/71分)の先行上映会(試写会)を開催することになりました。
◆日時は「3月20日」(水曜日・春分の日で祝日)。会場は前回と同じ「新宿歴史博物館」の講堂で、13時40分に開場、「14時から開演」します。上映終了後、今井監督の「トークショー」があります。会費(資料代)は1000円。地平線会議が初めてという方もご参加いただけます。申し込みは不要。当日、直接会場にお越しください。
◆今井さんは昨年の6月の地平線報告会「幻の蛇を追って」に登場してもらったので、みなさん、記憶に新しいことでしょう。世間一般ではうさん臭く思われがちなツチノコが、地平線会議のみなさんにはとても好意的に迎えられ、自分の子ども時代の目撃談もまったく偏見なく受け止めてもらえたことに、今井さん自身、とても感動していたようです。
◆その報告会を受けて7月に刊行した地平線通信では、今井さんの映画づくりの手法やツチノコの実在をめぐって、熱い思いを込めた投稿が幾つも並びました。車谷建太さんによる報告会レポートも出色の出来です!
◆報告会では個々の取材映像を断片的に見せてもらっただけで、いわば「お預け」「乞うご期待!」となった印象がありますが、それらが1本の作品としてまとまったらどれだけのインパクトを持つのか。心から楽しみにしています。[丸山純]
■前号の地平線通信編集中の1月31日に、熊本県阿蘇山でナツが失踪するという事件が起こり、印刷段階になっても見つからないまま、通信は発送された。編集長で犬好きの江本さんが、ひどく心配だ、といった内容のコメントをフロントに書いたままになったので、状況をTwitter(X)などで追っていない通信の読者は、そのままひと月、心配していたかもしれない。先に結果だけ書いておくと、失踪から9日目の2月8日に外傷を負って衰弱した状態のナツが発見、回収され、今はほぼ失踪前と同じ健康状態に戻っている。
◆失踪と捜索の経過については3月7日発売の「新潮」4月号に4600字バージョンで、3月15日発売の「岳人」4月号に11000字バージョンで報告している(のでここには書きません)。
◆失踪の直接の原因は、ナツが鹿を追って走った直後に、まとまった雨が降り、帰るためにたどる自分のニオイが完全に消えたことだと思う(推測。ナツの意見は聞いていない)。ナツは近頃、鹿に強くなり、年老いた鹿や幼い鹿、妊婦鹿などを噛んで動けなくしてしまうという猟芸を見せるようになった。今シーズンも銃猟に出て、発砲せずに3頭の鹿を獲っている。それが変な自信になり、鹿を深追いするようになったのが間接的原因のひとつだと思う。他にも、ナツにとって土地勘がまったくない初めてのエリアだったこと。阿蘇山にどのくらい鹿が生息しているのか知らずに私がリードを解いたこと。雨が降りそうだったのにリードを解いたこと。阿蘇山は独特の火山地形であることなども原因だと考えている。
◆ナツがいなくなったあと、雨の中、リードを解いた地点の近くにテントを立てて待ち、雨が止んだら徒歩で捜索兼ニオイ付けを繰り返し、警察と保健所に連絡し、レンタカーを借り、Twitterで目撃情報を募り、周辺のゴルフ場、ホテル、公共施設などなどに目撃してないか聞き歩いて、何かあったら連絡して欲しいと頼んで回った。
◆その結果、失踪5日目の午後と6日目の夜に、ナツの元気な姿が目撃されたものの、行き違いになって回収できず、最終的には9日目の2月8日の夕方、地元の若いお母さんが、衰弱している犬がアパートの駐車場にいるのを発見して、市役所に連絡してくれた。それが保健所経由で私のところに来て、現場に駆けつけ回収となった。
◆再会できたら、私も嬉しいが、ナツも喜ぶだろうと思っていた。だが、再会時のナツは衰弱し切っていて、まったく反応がなかった。再会の高揚はひと目で血の気の引く思いに変わった。地元の病院に急ぎ、診てもらうと、眉間、首、背中、お尻にケガがあり、首とお尻の傷は牧場の有刺鉄線で負ったようだった(周辺には牧場が多い)。
◆眉間は強い衝撃を受け、背中の傷は圧迫されて皮が剥がれ、少し時間が経過していた。どの傷も縫合するべき重傷だが、犬の縫合は全身麻酔になり、衰弱時に麻酔をすると命に危険があるため、傷は消毒しかできず、抗生剤を注射して、皮下点滴で回復を待つことになった。目撃時には元気だったらしく、防犯カメラに写った画像でも傷は確認できない。目撃談と回収後の傷の具合を合わせて考えると、2回目の目撃後に、ナツは交通事故に遭ったのではないかと私は推測している。また、ナツの回復を観察した結果、再会時には脳に何らかのダメージがあって、よくわかっていなかったのではないかと思う。いまさらだが、もし2回の目撃時のどちらかで、私が現場に駆けつけていたら、無事再会回収で笑い話に終わっていたと思うと残念である。
◆Twitterで目撃情報を募ったことで、たくさんの情報が集まり、また、地元の人が、ナツの捜索に協力してくれた。SNSの威力を人生ではじめて実感したといっていい。また、携帯電話による情報のやり取りの便利さも見せつけられた(私は相変わらず携帯電話を所持していない)。捜索隊として集まってくれた方のほとんどが、私やナツの素性を知らなかったことも少し驚いた。
◆ただ、SNSでの告知はいいことばかりでもなかった。ごく一部だが、憶測からの言いがかりややっかみ、不当な要求、ナツが見つかった後には、謝罪しろという意見も寄せられた。情報と協力を求めた結果、目的が達成されたら、謝罪しなくてはならないのだろうか。大なり小なり現場で動いてくれた人たちには、とても感謝している。心配してくれた人もたくさんいるだろう。一方で「頼んでいる」というこちらの立場に、いわゆるマウントをとってくる人もほんの少しだが存在した。
◆失踪から3日ほどは混乱したナツがどこかで私を探し、私を待っているのではないかと思い、文字通り胸が張り裂ける思いだった。家族が失踪してもそこまでの心の痛みはないと思う。相手が人間ならそれなりの考えがあっての行動だろうと思えるからだ。犬の失踪はなぜこんなにもやるせないのか。今も自分の心を分析している。そして同時に、目撃談が入るまでは死んでいることも覚悟していた。
◆目撃情報があった後は、なぜ回収できないのか、ずっとやきもきと考えていた。ナツの耳に私の呼ぶ声が届いても、ナツの中で声と私を繋げられなかったのかもしれない。もしくは、すれ違いを繰り返して声が届く範囲に一度もいなかったのかもしれない。
◆私は日頃、猟師小屋で化石燃料をできるだけ使わない自給自足の生活を試みている。だが、いざ、飼い犬が迷子になったら、ナツを探してインターネットが駆使され、何台もの車が阿蘇山の麓を走り回っていた。また日頃は、ナツと力を合わせて、鹿やクマやイノシシを殺している。ところがナツが衰弱した状態で見つかったら、オロオロしながら動物病院に乗り付けていた。私はズルが嫌いだが、私はズルい。命に軽い重いなどないと言っているくせに、命の相対的な価値を認めている。今回もまた、自分の中の矛盾と向き合うことになった。
◆ナツは今、この原稿を書いている私の猟師小屋の畳の上ですやすやとお休み中である。縁側と庭が定位置だったのだが、大ケガ以降、甘やかして、薪ストーブのある部屋に入り込んでいる。
■あーあ、つまらない。因数分解がなにわからない。ゆううつだ。わかっている奴等もいるのに。イヤだな〜。数学この頃面白くない。坊主《数学の教師のあだ名》も前のほうが好きだった。明日学校へ行って聞こう。これがわかれば完全に幸福だ。机と椅子はまだ来ない《中学生のころ、本を読んだり、勉強するのは当時でいうちゃぶ台の前に畳にすわってのことだった。机と椅子がほしい。ほんとにほしい。振り返って不思議なほど強烈な欲望と戦う日々だったが、自分で作ることは思い至らなかった》。
◆自分で満足のゆく文章を作りたい。そして『中学時代』に投稿して自分の腕を知りたい。夜11時過ぎともなれば全く静かだ。少しまわりを歩いた。今11時30分強。ちっとも眠くない。明日は日曜日だと思うといつまでも起きていられる。試験が終わったら沢山本を読みたい。
◆良い天気である。蒼い空である。しかし、机と椅子の夢はつぶれた。父さんたちが僕のことをよく考えてくれている事はわかる。僕より父さん達のほうが苦しいだろう。だから僕はガマンする。
◆父さんがイスと机の代用品を作ってくれた。買ってもらうのがそれだけ延びるかなと思ってそれほど嬉しくはなかったが座ってみるとだいぶよいようで、勉強もしよい。まわりがきれいになった。電気スタンドだけつけて夜のひんやりした風を受けていると幸福だと思わずにはいられない。おゝ、我が家よ 自然よ 幸福よ
◆今日がその日だ。記念すべき劇的なその日である。驚嘆歓喜の時の日だ。3学期、進学張り切るぞ。happy Yoshinobu 僕は今日机と椅子を得た。
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■15年あまりこの通信のレイアウトをやってくれた森井祐介さんが天に逝ってこの3月16日で1年になる。今もふらりと荒木町の我が家にあらわれ、犬の麦丸を撫でる姿が浮かぶ。森井さんの80歳の誕生日を我が家でやった。スタッフ9人が参加し、楽しく盛り上げてくれたのだが、「実は誕生会なんて生まれてはじめて」とほんとうに嬉しそうだった笑顔が忘れられない。
◆地平線通信制作のためにメーリングリストを作ってある。このページにあるスタッフ間のやりとりのためだが、2016年4月13日、森井さんはこんなことを書いている。《皆さん、通信のフロントができ上がるのを待つばかりです。じつはお知らせしたいのは、われらが編集長、江本さんのことです。444号製作中の電話のやりとりの中でいつも「鼻声」なのです。それに、内容のチェックについて、頻繁にある電話連絡が今回はえらく少ない。作ったページについても、いつもなら編集長の見解のひとことがあるのに、ほとんどなかった。このことは江本さんが風邪をこじらせて参っているに違いない、とわたし森井はそう思いました。と言うわけで編集長にお見舞いの一言をお願いします。森井祐介》
◆ああ、森井さんは、私の体調にも気を遣ってくれていたのだ、としみじみ思う(この書き込みを指摘してくれたのは中島ねこさん)。命日の16日には皆で巣鴨の染井墓地にあるお墓を訪れ、森井さんに地平線通信しっかり続いてますよ、と報告しよう。[江本嘉伸]
クジラの海へ里帰り
「伝統的なウミアック舟は、ほぼモーターボートに代わりましたねー。最近は氷が早く溶けて海が開き過ぎ、手漕ぎ舟じゃクジラに追いつけないんです」と言うのは、アラスカ半島北西端のポイント・ホープ村に30年通い続けている高沢進吾さん(57)。植村直己さんの旅に憧れて同村を訪ね、'00年からはクジラ猟期の4〜7月に日本の職場を休んで毎年3ヶ月滞在しています。「800人の村に10組程のクジラ猟組が。うちの組は男女20名ほど。仲間と一緒に猟を手伝い、祭りに参加します。毎年新しい学びがあって楽しい」と高沢さん。 クジラの肉は現地のイヌピアックの人々の一番大切な食べ物ですが、法的に換金はできず、猟の費用は組長(キャプテン)の持ち出し。「組長は人望を集める名誉職です。僕は遠くから来る地元民と思われてるみたい」。組長の家に居候し、料理当番をしながら猟の準備や長いつきあいの仲間達との交流を楽しみます。「いまはネットで瞬時につながるし、本当に隣村の親戚の家に里帰りする感覚です」。 今月は高沢さんに、村での暮らしと、昨年の猟(クジラ、アゴヒゲアザラシ、ハクガン…etc.)の模様を語って頂きます! |
地平線通信 539号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2024年3月13日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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