2023年11月の地平線通信

11月の地平線通信・535号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

11月8日。きのう7日、東京の最高気温が27.5度、100年ぶりの暑さだった、とメディアは伝えている。11月に「夏日」を記録するのはきのうで3日目、ことしもう143日目だったそうだ(昨年は140日)。今日は昨日ほど暑くはないが、軽装で外出できる程度のお天気だ。高温は海水温の上昇がおもな原因という。

◆私の誕生日でもあった10月7日、パレスチナの武装勢力ハマスが突如イスラエルを襲撃し、1000人を超える犠牲を出した事件から1か月が過ぎた。今や復讐の鬼と化したイスラエルは連日パレスチナ人の居住域ガザを襲い子供たちをはじめに死者が増え続けている。国連はもちろん何もできず、目の前の惨劇に世界は呆然としている。

◆イスラエルの苛烈な報復にヨーロッパの国々ではユダヤ人家庭の壁に「ダビデの星」を貼り付けるいやがらせさえ起きているそうだ。ナチスのおぞましい迫害で世界の深い同情を集めたユダヤ人が今、新たに反発を招いているとは。ガザは地中海沿岸に長さ40キロ、幅6〜12キロの狭い地域に220万人のパレスチナ人が暮らしている。

◆そして、世界が支援疲れを見せ始めているウクライナ。ゼレンスキー大統領はおととい6日、来春の大統領選の延期を強く示唆した。え、何!? あの憎きプーチンはハマスと仲がいいんだって! 一体、どういう組み合わせにすればいいんだ。

◆秋の穂高に浸りたくて1日、上高地を訪ねた。傘寿記念旅以来3年ぶり。なんとあのとき、ぞろぞろ出迎えてくれた猿たちが今回もいくつもの小さな群れで待っていてくれた。おお、お前さんたちに会えただけでも嬉しいよ。血気盛んな昔、上高地なんて……、と立ち寄ることすら拒否していたときがあった。1か月近い山の暮らしを5000円ほどの食費でやりくりしていた時期、上高地は贅沢の権化にしか見えなかったのである。

◆歳を重ねた現在、遊歩道が整備され、宿泊施設やレストランが構えるたたずまいがありがたい。こうして年1回は穂高に会える。徳沢ロッジに一泊して少し先に進む。新村橋の工事のため対岸に渡る。ここは懐かしい。涸沢とは別の天国、奥又白の池に行くとき渡る橋なのだ。テントを背負い、3、4時間かけて登れば池に出る。ほとりに幕営して前穂東壁右岩綾、4峰松高ルートなどのクラシックルートの登攀に血道を上げた。

◆さらに1時間半ほどで横尾に出た。ここは涸沢の手前のテント場だ。そして、何と言っても屏風岩が目の前だ。何本もの難ルートが刻まれているが、私は1、2本しか登っていない。素晴らしい壁なのだが、北尾根の末端の「大きな崖」とのイメージが強過ぎる。そう言えば穂高と言えば信州ではなく、断然、飛騨側の滝谷だった。高山から神岡に入り、重い重いキスリングを担いで入山したものだ。

◆そして、穂高のバリエーションをやる以上、毎日のように「壁にへばりつく」トレーニングが不可欠だった。毎週のように三つ峠の岩場に通い、アイゼンを履いて登る訓練をした。クライミングジムなどなかったので山に行けないときは北区西ヶ原にあった東京外国語大学の狭いグラウンドの隅の石垣を攀じてバランス感覚を維持した。

◆先月のこのページでお伝えした石川直樹君の8000メートルの驚くべき現場、「今月の窓」(14、15ページ)でしっかり書いてもらった。はたちそこそこの青年時代から石川君を知っている身には、彼が今やこんなタフな行動者になっていたことは驚きだ。そう言えばPole to Poleの主催者であるマーチン・ウィリアムズ、ラッセル・ブライスが来日した際にも田部井淳子さん、石川君、山田淳君らと上高地から槍に登ったっのだっけ。以上のことは地平線通信でもいちいち書いていないことなので記録として残しておく。

◆そして、「地平線報告会500回!」だ。1979年に始めたとき、私は38才。若い世代への交代はいずれ行われるだろう、と私も誰も考えていた。継続の責任は取るつもりだったが、こんなに長く自分がやっているとは夢想もしなかった。さまざまな理由があり、結果、交代はならないまま今日になった。

◆今回、500回のイベントをやるにあたり苦労したのはプロジェクトのネーミングである。11ページにねこさんが「タイトルどうする?」という漫画を描いてくれているが、まさにあの通りです。大阪の岸本佳則さんがChatGPTに「地平線会議の500回記念のタイトルのアイデアを20個提供して」とリクエストしてみたそうだ。結果、1. 未知の地平線:500回の冒険 2. 世界の旅路:500回の旅 3. 地球を巡る500回の冒険 4.冒険の500人章:地平線の旅 5. 世界の隅々まで:500回の旅路……などなどたちどころに回答してくれたそうだ。

◆わかったのは地平線会議のことばかりはAIはわからない。これからも独自路線で行くしかない、ということです。では、23日![江本嘉伸


先月の報告会から

スマホとシャーマン

大西夏奈子

2023年10月27日 榎町地域センター

★今回は3人の方に自由に報告会レポートを書いてもらった。

その1 国と民

■今振り返ってみるとなんとも不思議な報告会だった、と思う。大西さんが見せてくれたいくつものモンゴルの写真は紛れもなく今のモンゴルとそこで暮らす普通の人々を映していた。大草原こそイメージ通りであったが自分の中でのモンゴルの風景、つまり草原と遊牧民生活は決してメインの要素ではなく、スマホでFacebookを使いこなし、ヒップホップやコンサートに興じる姿は何ら先進国の若者と変わりがない。先入観はその国に興味を持つきっかけにはなるが何らその国を知れているというわけではないようだ。

◆モンゴルといえばチンギス・ハーン、チンギス・ハーンは遊牧民、遊牧民といえば途方もなく広がる大草原、これが自分の中で持っていたモンゴルのイメージの大半だった。それもあってヒップホップに興じる姿やビルが立ち並ぶウランバートル、雇用の悪化、政治家の汚職など、モンゴルの実際の姿は強烈な教示となった。現地の遊牧民の割合は総人口の1割に満たないという。国を知ること、民族を知ることってなんだろうと問いかけられた気がした。

◆この国はかつてODAの影響もあって日本の存在は大きかったようで、ニュースなどでは日本の話題が結構出るとのこと。一方で我々がモンゴルに触れるのは相撲でモンゴル出身の力士が活躍したときぐらいでこういう非対称な関係になるのが不思議でならなかった。だからこそモンゴルの情報を発信していきたいと大西さんは語る。ノモンハン事件の舞台ともなったモンゴル、草原にはロシア兵の姿が。モンゴルでは戦争として記憶されているようで今でもロシアと記念式典を行っている。あくまで事件として記憶する日本。国と国の関係性の面からはこういう認識のズレからすれ違いが生じていくのかもしれない。地政学的に中国とロシアの影響力が強い一方で日本の影はどんどん薄くなっているそうだ……。

◆一方で大西さんは個人と個人の付き合いを大事にしている。総人口の0.1%、3000人のモンゴル人と知り合うことが目標という大西さん、途方もない目標に聞こえたが現時点で1000人と知り合いというから実現する日は遠くなさそう。彼女の原動力となっているのは花田麿公元在モンゴル大使の言葉だ。「外交は人と人との付き合い」。国と国を変えるのは一つの政策決定よりももっともっと小さなつながりが積み重なって動くもののほうが大きいのかもしれない……。そしてそのレベルで動いている大西さんのような活動に畏敬の念を覚えた。

◆あえて今回の報告会のトピック的なものを挙げるならシャーマンの話だろう。自分は何となく程度にしか知らなかったが現地では副業でやる人も多いという。この辺はなんでも自分でやろうとするモンゴル人的な気質があるのかも。協調性を叩き込まれる日本とは異なりモンゴルでは「人の下につくな」と言われて育つらしい。なんともうらやましい限り。

◆この後も次から次へと写真を見せ、エピソードを語る大西さん。町の様子、シャーマンの煌びやかな衣装、芸術家たち、草原で相撲に興じる家族……。思いついたことをつらつらとしゃべっているような感じだが不思議と聴き入ってしまう。遊牧民、草原、相撲といった特定の切り口を持たず、普通の人々とたくさん仲良くなる彼女のスタイルだからこそ見えてくるものがあるに違いない。

◆今回の大西さんの報告会、特に起承転結の流れがあったわけではない。特別焦点を絞るトピックがあるわけでもない。確かに感じるのは彼女の築いてきた人とのつながりだ。1000人と知り合っただけあって次から次へと知り合ったモンゴル人のエピソードが出てくる。幽霊の話が印象的だった。モンゴル人的には日本は霊が多い場所で白衣に長髪の女性の霊が頻繁に現れ困っているという。「誰か解決策を教えてください!」と本気で心配する大西さん。モンゴル人たちと本当に密な関係を作り上げてきたことが伺い知れた。彼女のそんな魅力が不思議と2時間も聴衆の耳を釘付けにしたに違いない。

◆やはり報告会で生の声を聴けることは素晴らしいと改めて感じる。興奮冷めやらぬまま会場を後にすると秋風が心地よい。少しいつもと違うにおいがした気がする。大西さんが持ち込んだ、モンゴルの空気かもしれない。[竹内祥太

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  イラスト ねこ

その2 「モンゴル人はラテン系!」

■地平線通信の大西夏奈子さんの紹介記事でまず、「モンゴル人はラテン系!」という言葉が目に飛び込んできた。少なからずモンゴル人とかかわってきた私もそのとおりだと思う。モンゴル人のそんなノリが好きだ。私はいっときの訪問者としてモンゴルとかかわっているだけだが、中まで入り込んでなおラテン系のモンゴル人が好きだと言える大西さんは柔軟な人だと思う。さて、報告会のタイトルは、「スマホとシャーマン」だ。スマホとはすなわち情報だが、ラテン系のノリとスマホとシャーマン? さっぱり想像がつかない。わくわくしながら大西さんのモンゴルワールドへいざなわれよう。

◆モンゴルはロシアと中国に挟まれ、さらに韓国、北朝鮮とも近い。日本も近いはずなのに、私たちはモンゴルのほとんどのことを知らない。モンゴル人の顔は日本人とよく似ている。だが性格はぜんぜん違う。洗濯物の干し方ひとつとってもモンゴル人は自由だ。日本人のように決まった場所に決まったやり方でということはしない。使える場所でそこに合った方法で干すのだ。モンゴル人の性格をいい方から並べると、独創的、創意工夫が上手、細かいことは気にしない、無理やり、適当、場当たり的……となる。

◆モンゴルはチベット仏教を信仰している。チベット仏教の化身ラマの名跡であるジェプツンダンパ10世がモンゴルで転生したとダライ・ラマによって認められ、8歳になった今年、初めてお披露目された。もともとは裕福な鉱山会社の創業者一族に生まれた双子の兄弟の1人であった。

◆チベット仏教と同時にシャーマニズムも共存している。そもそもシャーマンはシベリアあたりが発祥といわれているらしい。ここからは神秘的なシャーマンの話だ。今年初めて、世界のシャーマンが集って情報交換をする「シャーマンフェスティバル」がナライハ近くの草原で行われた。モンゴル、南モンゴル(内モンゴル)、ブリヤート共和国、トゥバ共和国、フランス、カナダのネイティブなどいろいろなところからシャーマンが集まった。各国それぞれ独自の衣装があって、フランスのワイルドないでたちの男性シャーマンや韓国のきらびやかな衣装の女性シャーマンもいた。モンゴルのシャーマンの衣装も独特だ。とがった目と口や耳もついた帽子で、頭頂部からは大小の鳥の羽がワサワサ生えている。

◆装備としては、裾の長い上衣、太鼓、帽子、靴が基本セットだそうだ。モンゴルのシャーマンが降ろすのは多くが先祖の霊で、帽子についた顔をめがけてシャーマンの体に入ってきて語るというスタイルだ。目の前にいる悩み相談をする人に先祖が昔の言葉で答える。横に現代語の通訳者がつく。シャーマンは太鼓をたたき、韻を踏んで歌う。韻と太鼓のリズムとが相まってトランス状態になる。フェスでは世界中から来たシャーマンが、儀礼の方法や踊りを実演して見せあっていた。

◆日本にいるモンゴル人から大西さんが頻繁に受ける相談が、日本には霊が多すぎてよく眠れないというものだ。モンゴルでは霊を見たことがない人もなぜか日本で霊を見る。安い部屋に数名で暮らしている技能実習生は特に見るらしい。モンゴルでは馬糞を燃やした煙で霊を追い払うので、日本に発つ若者に親が馬糞を持たせることがある。もちろん空港の検疫で没収される。日本の馬糞で試してみれば、との声が会場から出た。モンゴルの馬糞には馬が食んだ天然のハーブが豊富に含まれているので、燃やすと香ばしい香りがする。日本の馬糞でそれが実現できるかどうか……試してみる価値はあるかもしれない。

◆モンゴル人いわく、日本に霊がたくさんいる理由のひとつは、数万人規模で一度に人が亡くなる災害があるからだという。テレビで見た津波が衝撃的だったのだろう。日本人でも忘れられないトラウマになっているのだから、海のないモンゴルからすればなおさらだ。また、霊は水が嫌いだから、海に囲まれた日本では行き場をなくした霊が溜まってしまっているらしい。それに引き換えモンゴルの霊は四方八方に逃げられるので溜まらないのだ。

◆日本ではヒップホップというと一部の人が好むジャンルだが、モンゴルでは国民を上げて大人気だ。今年、モンゴルのラップ界のスター、BIG GEE(ビッグジー)と日本のラッパー、AK-69のコラボが横綱照ノ富士の計らいで実現した。照ノ富士はラップが大好きだ。私もハワリンバヤル(練馬区で行われるモンゴルの春まつり)でまだ入幕を果たして間もないころの照ノ富士が舞台上のラッパーに合わせて熱唱しているのを目撃したことがある。今年5月のハワリンバヤルの夜、東京の銀座、渋谷、六本木、新宿の各所でモンゴルヒップホップのライブイベントが同時に開催された。大きなイベントに便乗するのではなく、自分で旗揚げして開催したいのがモンゴル人らしい。このイベントでは豊昇龍や霧馬山(現霧島)もステージに上がっていた。

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◆私は大相撲が大好きで毎場所テレビの前で声援を送っている。角界においてモンゴル人力士の存在は大きい。1992年に旭鷲山、旭天鵬をはじめとする最初のモンゴル人力士6名が来日した。当時モンゴルでは、相撲界で一番偉くなれば大統領の千倍の給料がもらえるといわれていた。実際に大きな経済格差があったためそれは本当のことだった。以来長らくモンゴル人力士が活躍する時代が続いているが、相撲の強豪校、鳥取城北高校ではモンゴル人コーチの指導のもと、今も次世代の関取候補ががんばっている。

◆大西さんと相撲との出会いはこうだ。あるとき四谷の居酒屋に携帯を忘れて帰ってしまった。次の日に取りに行ったついでに一杯飲んでいると、隣に座った人がわんぱく相撲の実行委員を紹介してくれた。次の日にその人に会ったら、3日後のわんぱく相撲全国大会に招待してくれた。そのときにモンゴル人チームの通訳をすることになり、6年生代表として来日していた遊牧民の少年ソソルフー君に惹かれた。その子はその後、鳥取西中学校に留学することになったのだが、バヤンホンゴル県という田舎の草原で育った子がいきなり厳しい日本の相撲部に入って大丈夫かと心配し、取材に行ったことがきっかけで、合同練習をしていた鳥取城北高校と出会った。横綱照ノ富士や逸ノ城、近くは北青鵬も在籍した強豪校だ。

◆ラテン系のノリ、スマホ、シャーマンを軸として語られた報告会ではあったが、そこには収まりきらない盛りだくさんな話題があちこちに飛び回り、質問も活発に投げられ、時間を忘れて聞き入った大西さんのモンゴルワールドだった。報告会の最後には、今はシリア難民を中心に取材を続けているフォトグラファーの小松由佳さんの2人の息子さん、サーメル君とサラーム君からバラの花束が贈られた。大西さんから少年たちにも絵本のプレゼントがあった。モンゴル人絵本作家ボロルマーさんの、遊牧民を描いた作品だ。2人のお父さんはシリアの遊牧民だったので、ぜひ読んでほしいということだ。[瀧本千穂子

その3 つながっている人の数の多さ!

■大西夏奈子は地平線会議の宝だ。安易に「宝」という言葉を使いたくないけれど、実際、そう思うのだ。地平線報告会に参加し始めたころに夏奈子さんの姿を見て、「地平線会議って、こんな普通っぽい、きれいな女性も参加している会なんだ」と安心し、地平線会議との距離が縮まった人は少なくないと思う。

◆けれども、夏奈子さんの魅力は、美しさや愛らしさだけでなく、もっと多層的というか多面的というか、マーブル模様の粘土のように流動的で奥深い。好奇心が強くて、フットワークが軽い。心が広く、人への気遣いがあって、友人知人のネットワークは多方面にわたる。自分のやりたいことをコツコツと時間をかけて進めていく。そして、発想が自由で、ときに突飛なことを言ってまわりを驚かせる。そんな人はなかなかいない。夏奈子さんがいない地平線会議はさみしいし、精彩を欠くと思う。

◆今回の報告会で驚き、思わず笑ってしまったのは「ひいおじいちゃんに、私はのっとられている!」発言だ。自身とモンゴルとのかかわりを紹介する流れでだったと思う。数日前にヤフーオークションで入手したという年季の入った冊子がスクリーンに映し出された。それは出版社を営んでいた夏奈子さんの曾祖父の著書ということで、タイトルは『爆發の北支を現地に見る』。中国北部の現地に赴いて「北支問題」を探求した硬派なノンフィクションのようだ。その本を紹介しながら、夏奈子さんは出版の仕事に携わりつつ、モンゴルへ通う自身について「ひいおじいちゃんに、のっとられている」と言い放ったのだ。

◆夏奈子さんは2017年2月にも地平線会議で報告している。そのときには、長い間、なぜ自分がモンゴル語科に進んだのか謎だったが、日本語教師をしている母親に、子どものころから「将来モンゴルで日本語を教えたいな」とささやかれ、刷り込まれていたことを最近になって知ったと話していた。その母方の曾祖父にあたるのが『爆發の北支を現地に見る』の著者・岡野龍一氏とのことだ。

◆今回の報告会では気になる話がいろいろあったが、私が特に気になったのは、夏奈子さんがつながっている人の数だ。モンゴル人らしき人を見かけたら、こんにちはと話しかけて友達になるようにしていることは前回の報告会でも聞いていたが、その数が今や1000人に達しているとは。そして、国内外問わずSNSでつながり、活発に情報交換しているモンゴルの人たちと、夏奈子さんもFacebookでつながっているという。後で聞いた話では、Facebookでつながっているモンゴル人は約2000人。そのほか、友達承認をしていないけれど、彼女のことをフォローしているモンゴル人が1000人ほどいるとのことで、全部で3000人!

◆さらに、日本人については数えたことがないけれど、1000人くらいかと。Facebookに馴染めないだけでなく、普段のつながりでも150人を超えるとキャパオーバーとなる自分にとって、夏奈子さんの交友関係の広さは驚異的だ。それにしても、地平線会議の集まりなどで彼女がスマートフォンをまめにチェックしているような姿を見かけたことはなく、それでいながら、こちらから連絡をとると、すぐに返事をくれる。いったいどうなっているの? いつ寝ているの? 時間の密度が全然違う気がする。

◆モンゴルに行って現地の人と交流したり、現地の様子を見聞きするのはもちろん、日本でもモンゴルの人と深くかかわっている夏奈子さん。相撲の道に進んだ少年のことを気にかけて鳥取城北高校まで様子を見に行ったり、日本での生活での困りごとや悩みを聞いてサポートしたり。モンゴルの人にとって、夏奈子さんの存在はどれほど心強いことだろう。

◆そして私たちは、夏奈子さんを通して、今のモンゴルの現状や、リアルな暮らし、日本との関係などを知ることができる。元モンゴル大使・花田麿公さんの「外交は国と国のことだけれど、人と人のことでもある」という言葉を胸に、個人同士の付き合いなら自分にもできると、モンゴルの人たちと交友の輪を広げ、信頼関係を築き続けている夏奈子さん。モンゴル関係の仕事を円滑に進めるため、9月に会社を設立したとも聞いた。

◆国立国会図書館デジタルコレクションによれば、『爆發の北支を現地に見る』の発行は昭和12年。著者である岡野龍一氏の肩書きは、衆議院議員だ。普通選挙運動に尽力された方らしい。なるほど〜。ひいおじいさんにのっとられているとしたら、夏奈ちゃん、ゆくゆくは政治家か! ご先祖様が憑依して語り始めるシャーマンのように、夏奈ちゃんが民衆のために語り、動き始める日がくるかもしれない。いずれにしても、大西夏奈子さんが、地平線会議だけでなく、モンゴルと日本にとっても宝であり、懸け橋となる重要人物であることは確かだろう。[日野和子


報告者のひとこと

精霊や先祖の霊の存在は重要事かも

■私がやりたいことは、日本人のモンゴルに対する興味が(今よりもっと)膨らむようにすることと、モンゴルでの日本の存在感を(今よりもっと……願わくば、かつてのように!)大きくすることです。人は自分の目の前にワクワクする情報があって、もしちょっとでも興味がわいたら、それだけで精神的な距離は近づく気がします。中には物理的な距離を縮めようと行動する人もいるかもしれません。同じ北東アジアに属して、今のところまだ表現の自由がある国同士、日本とモンゴルがさらに仲良く支え合っていけたら素敵です。

◆今後は日本でモンゴル映画祭を開催したり、日本の絵本文化をモンゴルに紹介したり(モンゴルでは絵本の地位がかなり低いです)、日本でモンゴルのヒップホップ・イベントをやったり、都会のど真ん中にゲルを建てたり……と、実現させたいことが色々あります。先のことを案じずやってみる、上手くいかなかったらそのとき考えればいい、というモンゴルイズムで歩みたいです。

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◆モンゴル人から影響を受けたことは多々ありますが、その一つが精霊や先祖の霊の存在を想うこと。もし自分が縄文時代に生まれていたら、あるいはそういう文化が根強く残る地方で育っていたら、目に見えない存在を身近に感じ、畏れ、大切にできていたかもしれません。実はこのことが現代社会においてけっこう重要事なのではないかと思っています。人間より大きなものの存在をそばに感じながら生きられたら、人間が簡単に奢れなくなり、戦争が減るかも……というのは考えが甘すぎるでしょうか?

◆現実世界に戻って、在日モンゴル人のコミュニティとつきあいながら思うのは、(モンゴル人に限らず)技能実習生などの外国人労働者や移民に関する問題がこれからどんどん目立って出てくるだろうということ。解決の鍵は、お互いの民族性を知ることと、コミュニケーションをとることだと感じます。報告会では皆さんが出してくださったたくさんの質問に救われ、自分にはない視点に驚かされました。貴重な金曜日の夜、どうもありがとうございました![大西夏奈子


地平線ポストから

「ごんごんと流れていた」モンゴルの雲

■幼少期から10代までは、本ばかりを読んでいる子どもでした。いわゆる本の虫というヤツです。テレビを見るよりも本を開き、文字の向こうから立ち上がる未知の世界を想像しながら多くの時を過ごしました。

◆たしか高校生のころだったかと思いますが、椎名誠さんの『草の海』という本を読みました。モンゴルが舞台のルポルタージュです。内容はもう覚えていませんが「ごんごんと雲が流れていく」という一節が非常に印象的で、今でもその表現に触れたときの高揚感を鮮やかに覚えています。いつか私もその風景を見たいと強く思いました。夢が叶ったのは大学2年生のとき。どこまでも続いていくような深い青の空、そこに浮かぶ雲はたしかに「ごんごんと流れて」いたのでした。

◆10月の報告会で夏奈ちゃんのモンゴルの話を聞き、当時のことを懐かしく思い出しました。時間や距離を超えて、あのときと同じ空が目の前に現れるような、そんなひと時でした。[木田沙都紀

ポニョも元気でした

■こんにちは。浜比嘉島に行ってきました(仕事ですが)。外間昇さん、晴美さんご夫妻、お元気そうでした。たくさんのヤギやアヒル、そして脳梗塞から復活したポニョと一緒の暮らし。

◆宿泊は、あしびなーのイベントでお世話になった民宿ゆがふの郷。「地平線の〜」と挨拶したらオーナーの平識夫妻が喜んでくれて、すぐに「江本さんや丸山さんは、お元気?」と聞かれました。外間、平識夫妻ともに地平線の皆さんによろしくとのことでした。[日野和子

リウマチの手術やります

■Dolpo-hairを休業して1か月になります。9月の末に、右手の薬指と中指が突然動かなくなり、原因がわからなかったところ、リウマチの整形外科の手の専門医に診ていただき、リウマチによる伸筋腱断裂との診断で手術が必要となりました。12月中旬に手術となり、入院期間は2週間前後の予想です。術後、リハビリをしてどれぐらい手首が動くのか、美容師として指がどこまで使えるか、今はわかりません。

◆もちろん、リハビリは頑張るつもりです。いままでリウマチで様々な状況を乗り越えてきましたので、また次の山も越えていきます。ただ今回は、いままでにない大きな変化の段階にきていると思いますので、それを受け止めて今後の活動を改めて見極めることが必要だと感じています。

◆実は、2010年の冬、同じ先生に診ていただいていました。当時も腱が切れるかもしれないと言われ、そのカルテの記録が残ってました。先生は、久しぶり〜と言われて、一瞬?になったけど、顔をよく見ると思い出してくれました。当時は、手術をしないと状況はわからない。手術をすると、美容師なら最低1か月はお店を休むことになる可能性があると言われました。私は手術をやめて、そのタイミングで実は今のお店(Dolpo-hair)を2011年2月に開業していました。

◆何故かというと、次の年に長期遠征(2012年、12年に1度のチベット仏教の大祭)を計画していたので、手術する暇なんてない!と思ったのです。なんだそれ?!と思うかもしれませんが、私的には、常に遠征に行きやすいスタイルを模索してます。あれから13年です。忘れていたけど、よくもってくれたと思い、右手首には本当に感謝の気持ちがいちばんにきました。この状況は、今に始まったことではなく、リウマチとは32年付き合ってきています。[稲葉香

長野亮之介の絵しごとtembeaテンベア 〜タンザニア叢幻SO-GEN紀行」

場所:GALLERY HIPPO(ギャラリー・ヒッポ)
   渋谷区神宮前2−21−15(千駄ヶ谷から徒歩8分、原宿から徒歩12分)
期間:11/11(土)〜19(日)【11/15(水)は定休日】
時間:12時〜19時【日曜日は17時まで】

タイトルのテンベアはスワヒリ語で「歩く」という意味です。今夏に訪れたタンザニアのサファリでの動物たちとの出会い、ザンジバル島でのスケッチなどをもとに絵を描きました。恒例の「地平線カレンダ−2024」(1月〜12月)も動物の絵満載で販売します(500円)。また会場では、2月に「新美南吉絵本大賞」で入賞した仔牛のイラスト展示、自主制作絵本の販売もします。会期中はずっと在廊予定ですので、どうぞお寄りください。[長野亮之介

〈インド通信 10月29日〉
メイテイ族とクキ族の間で続く惨たらしい民族紛争

■世界中で連日ウクライナとガザで起きている戦争のニュースが報道されている一方で、ほとんどメディアに取り上げられない出来事の一つがマニプール州に住むメイテイ族とクキ族の間で起きている惨たらしい民族紛争です。この歴史的背景と要因となる事柄は極めて複雑なので、私が正しく状況を把握することは難しいと思いますが、マニプール出身の神父さんやクキ族のクラスメートを持つMMSのシスターに、積極的に様子を聞いています。ようやく軍隊が介入したが焼き討ちにあうクキの村は絶えることがなく、多くの人たちはまだまだキャンプでの避難生活を強いられている、子供たちはなんとか勉強を続けられるようにツテを頼って近隣の州に逃れている、などなど……。断片的ですが少しでもいいから知りたいです。コヒマにある私たちの修道院のご近所さんは数か月前、片方のサンダルだけを履いて着の身着のまま逃げてきたシスターたちを一時的にかくまったそう。修道服を着ているとキリスト者とわかるので危険です。

◆MMSはマニプールで活動していませんが、マニプール出身のノビス(シスターになる準備期間にいる修練者)、クリスティーナがいます。彼女の家族が住んでいるファイブン・クレン村はコヒマから4時間ほどのドライブですから、比較的行きやすいところです。それでゴッドフリー神父さんにお願いして連れていってもらいました(『いのち綾なす』の地図を参照してください)。ゴッドフリー神父さんにはマニプール州出身のプーマイ・ナガ、スティーブン神父さんとコヒマ在住のアンガミ・ナガである女性2人の「ツーリング仲間」がいて、彼らと同行すると思わず興奮してしまう異文化体験の連続です。

◆今回は状況がとても不安定な土地にいくので地元人であるスティーブン神父さんは大変心強い存在でした。ナガランド州と隣接する地域に入ると、スティーブン神父さんが目の前に広がる山々を指しながら「あっちがナガランドでチャカサン・ナガ族が、その手前はマニプールでマオ・ナガ族が、その隣がマラム・ナガ族、マニプールのこっち側にはプーマイ・ナガ族が住んでいるんだよ」と丁寧に説明してくれます。30以上のエスニック・グループからなるナガ民族が居住している領域はかなり広くて北海道と九州を合わせたほどの面積だと聞いたことがあります。この辺りは山岳地帯。空気は冷んやりしていて、ディマプールの暑さが嘘のよう。

◆私が初めてこの地に来たのは2018年です。当時はひたすらのどかな凸凹の山道を走りました。今はというと道が急ピッチで整備されつつあり、大型の重機がガンガン稼働しています。ミャンマーとつながる、国道ならぬ「インターナショナル道」で来年には完成するのだそう。ベンガル人、ネパール人とおぼしき労働者が働いてました。

◆目的地のファイブン・クレンとリアイはどちらもプーマイ・ナガの人たちの村なので、紛争による直接被害はありませんが、インターネットはいまだ遮断されていて陸の孤島と化しています。もとよりかなりの僻地で娯楽などまったくなく、お世話になった家の27歳になる女性は「ほんとうに退屈」と嘆いていました。だからといって両親をおいて他に移るわけにもいきません。WhatsAppの代わりに、ネットがなくてもシェアできるSHAREitという無料アプリで動画や写真をやり取りしているそうです。

◆マニプリ・ナガの人たちはナガランド州で使われるナガミーズ(いわゆるナガ語)を知りません。ですからアンガミ・ナガの神父さんと2人の女性は村の人たちと英語で話すしかないのですが、たいていの大人(40代以上?)は英語を知らずコミュニケーションが取れない。日本人の私と同じ立場です。それでも部族は違えど味の好みや気質といったものは似ているのでしょう、夜になるとライスビールと豚肉と牛肉、それからこの季節ならではの蟹で作られた酒の肴をつまみながら何かを言い合っては大笑い。延々と盛り上がってました。そして今回初めて、自家製のライス・ワインを味わいました。まさに日本酒です。限りなく下戸に近い私は舐める程度のお相伴で勘弁してもらいましたが、みなさんグイグイと飲み干していきます。そして酔い潰れることがない。

◆2泊3日の間には何度もナガ式の肉肉しい食事でもてなされました。驚いたのはたとえ朝ごはんであってもまずはお肉のおつまみと共にライス・ビールが出されたことです。それもマグカップに何杯も。お客としての特別なおもてなしだったでしょうが、それを喜んで受ける神父さんたちのバイタリティに圧倒され、そしてよくもまあこれだけお肉を毎食続けてモリモリ食べられるもんだ、だから彼らはこんなに頑強なんだと改めて思った次第です。[延江由美子


――連   載 ――
充足感と挫折感と

その8 中学生のときに出会った、印象的な2人

田中幹也 

■中学生のころから丹沢や南アルプスをひとりで歩いていた。丹沢からも南アルプスからも富士山がよく見える。都心からも富士山が見えるけれど、山から見る富士山は存在感がある。やっぱり山ってすごい。なんてことは中学生のころはおもったことすらなかった。山の景色なんぞ記憶にございません。あのころは、山で人に会って山の話を聞くのがいちばんの楽しみだった。

◆中学生のときに、印象的だったふたりについて語ってみたい。ひとりは丹沢の山小屋の従業員。中学1年のときに冬の丹沢を歩いた。丹沢にしてはめずらしく大雪。雪山において綿のシャツは濡れると体温を奪うので致命的、なんて知識はない。気温は氷点下。濡れた綿のシャツでガタガタ震える。でも低体温症という言葉も知らん。雪山はこんなものだろう、くらいだった。中学生のころって、もっとも寒さに強い。下界では冬でも半袖で過ごせるお年ごろ。むしろ最近の山岳雑誌もガイドも心配症すぎる。些細なことでいちいち「死にます! 死にます! 死にます!」って。ただ雪まみれになって山小屋に着くと、従業員はあきれ顔だった。

◆さて、その日は客が自分ひとり。山小屋の従業員もひとり。ひとつしかないストーブに手をかざし、しぜんと会話がはじまる。会話というよりも、こちらはもっぱら聞き役。自称・山のベテランのクソ・オヤジにあるあるのマシンガントークではない。昨今の人気の山小屋にあるあるのぺらっぺらな営業トークともちがう。昭和の時代の山小屋の従業員は、朴訥としていた。それでいて話に引き込まれる。まだ丹沢以外の山を知らなかったので新鮮だった。

◆その山小屋の従業員は、大学山岳部出身。いろいろな山のはなしをしてくれたなかで、2週間におよぶ尾瀬のヤブ漕ぎ縦走が印象的だった。縦走中に水場が見つからず、丸2日水なしで歩いた。インスタント・ラーメンをそのままかじる。ようやくみつけた池では、泥水にもかかわらず煮沸せずに手ですくってごくごく飲んだ。

◆深いヤブのなかでめずらしい鳥をみかけることもある。下山後、大学の図書館で調べても該当する鳥はついにみつからなかった。鳥を専門に研究する教授に訊いたところ、図鑑に載っていなくても実在する可能性はあるそうだ。登山というよりも探検の世界だった。

◆もうひとりは、中学3年の夏に南アルプス縦走中に会った単独行者。わたしは甲斐駒ヶ岳の黒戸尾根から入山して北岳、塩見岳、赤石岳を越えて聖岳までテントを担いでひとりで歩いた。食糧はインスタント・ラーメンと乾パンが主体。後半はめんどくせえから乾パンと水。中学生のころって体力はそこそこにある。お腹がいっぱいになれば粗食を粗食ともおもわぬお年ごろ。

◆ひとりで縦走する中学生としてめずらしがられたものの、しょせんは一般登山道。ふつうに歩いていれば目的地に着く。30キロのザックもとくに印象にない。むしろ最近のSNSによる山行報告が大げさすぎる。屁みてえな山登りごっこで「やりました! やりました! やりました!」とか。

◆さて単独行者と出会ったのは赤石岳を過ぎたあたり。単独行者どうしというのは歩くペースがおなじくらいだと、お互いの距離感が縮まる。さらに休憩ポイントがおなじだと、しぜんに会話がはじまる。このときも自分はもっぱら聞き役。

◆その単独行者は、年末年始に毎年南アルプス南部を縦走していると語った。南アルプス南部は、林道が長い。冬は登山口にたどり着くだけで2日、あるいはさらに歩く。山が奥深い。南アルプスは南部にゆくほど雪が多い。ときに胸まで潜る。夏なら1時間かからないところが、冬だと丸1日もがいてもたどり着かない。入念に準備しても計画どおりにいかない。話を聞いているうちに自分が豪雪の南アルプス南部を黙々とラッセルしている気分になってくる。

◆まだ自分の山がグレード(山や岩の難易度)で汚れていなかった中学生のころのはなし。より高きより困難を追求すればそのぶん充実感もともなう。いっぽうでグレードを意識しはじめることによって、自分が純粋に憧れる世界がすこしずつぼやけはじめてしまったのもたしか。

◆ところで上記のふたりと話した尾瀬のヤブ漕ぎ大縦走と豪雪の南アルプス南部の縦走は、印象が大きかったのに実行することはなかった。おそらくこの先も行くことはないだろう。体力的な低下や身体の故障で実現がきびしいというのがある。それよりも中学生のころの白紙だった自分の山の世界を、ずっとそのままでとっておきたい。山で出会った人がみんな輝いていたあのころのままで。


閖上、あれから12年経って

■2011年3月11日の東日本大震災で壊滅した閖上(宮城県名取市)に行ってきました。最大波高12.3mという大津波に襲われ、965人もの犠牲者を出した名取市ですが、犠牲者の大半は閖上です。東日本大震災の翌月、2011年4月22日の地平線報告会では、閖上の相沢秀雄・寛人さん父子の話を聞きました。

◆お父さんの秀雄さんの話はすさまじいもので、閖上中学校に逃げて助かったのですが、名取川を遡上する大津波の音が耳にこびりついているとのことでした。避難したものの食べ物はなく、夜の寒さは強烈で、凍死しないために、「寝ないように!」と避難したみなさんと励ましあったそうです。東日本大震災では多くの人たちが凍死しているのです。

●4月22日の報告会の翌月、5月11日にカソリ、第1回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発しました。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北の岬で、大津波に襲われた東北太平洋岸の全域をバイクを走らせながら見てみようと思ったのです。出発点の鵜ノ子岬で野宿したのですが、そこには4月22日の報告会の冒頭で話してくれた渡辺哲さんがバイクに乗って来てくれました。

◆渡辺さんは被災地の福島県楢葉町の人。東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故、その後の強制避難の生々しい報告をしてくれました。それ以降、毎年、「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走りつづけていますが、今年(2023年)の3月11日に出発した「鵜ノ子岬→尻屋崎」は第28回目。その間、渡辺さんは何度となく同行してくれています。

◆「鵜ノ子岬→尻屋崎」では何か所もの定点観測ポイントを設け、毎回、そのポイントから被災地の変わりゆく姿、復興の様子を見ています。閖上のポイントは日和山です。といっても閖上に入れたのは2011年9月11日に出発した第3回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」のときのことで、第1回目、第2回目のときには閖上に通じる道はすべて通行止になっていました。

◆東日本大震災から半年がたっていました。伊達政宗によって掘られたという日本最長運河の貞山堀を渡り、日和山から被災地を一望しましたが、閖上の惨状はすさまじいばかりで、まるで絨毯爆撃をくらって町全体が全滅したかのようでした。一面の荒野の中に、大津波で流された家々のコンクリートの土台が残っているだけでした。日和山の山上に祀られている閖上湊神社と富主姫神社の神籬(ひもろぎ)に手を合わせるのでした。

◆対岸に渡る橋は流されずに残っていました。その橋を渡ったところに宿泊施設の「サイクルスポーツセンター」があります。建物は残っていましたが、大津波が建物を突き抜けていった痕跡は生々しいものでした。

◆その翌月、2011年10月15日には地平線会議の宮本千晴さん、江本嘉伸さん、落合大祐さん、中島ねこさん、三好直子さん、車谷建太さんらと車でいわきへ。そこで合流した渡辺さんの案内でいわき市内をまわり、四倉舞子温泉の「よこ川荘」に泊りました。その夜は東日本大震災の大津波についてみなさんとおおいに語り合いました。宮本さんのいつもながらの見識の高いお話の数々には感動するのでした。

◆翌日は飯館村から八木沢峠を越えて南相馬へ。南相馬から北上して宮城県に入り、閖上の日和山を最後にするのでした。あれから12年。日和山の山上に仮に祀られていた閖上湊神社は見事に再建され、復活を果たしました。閖上復興のシンボルです。さらにうれしいことに10月21日(土)には、東北初の「ライダーズ神社」としての旗揚げのセレモニーが開催されました。

◆宮司の伊藤英司さんはバイク大好きな方。ということでカソリをゲストとして呼んでくださったのです。夜中の3時に我が家を出発し、22万キロを走破したスズキのVストローム250で駆けつけました。式典は13時から始まりましたが、日本各地から集合した100台以上のバイクが境内を埋め尽くしました。社殿の前には伊藤宮司の愛車2台が置かれています。

◆その夜は人気スポット「かわまちてらす閖上」の「浜や食堂」で、伊藤宮司を交えての盛大な飲み会。造り酒屋「佐々木酒造店」の「宝船浪の音」を飲みながら、閖上漁港に水揚げされた地魚の海鮮料理を賞味するのでした。閖上名物の「はらこめし」も食べましたよ。かわまちてらすと佐々木酒造店、閖上湊神社は隣同士の近さです。

●閖上での宿は「春日館」。ご主人の高橋正博さんには旅館再建までの長い道のりを聞きました。よくぞ再建を果たしたものだと感心させられました。高橋さんのお話の中で印象深かったのは、「閖上には津波はこない、もしきても貞山堀は越えないと思っていました」の一言。宿で見せてもらった『東日本大震災 名取市民の体験集』は興味深いものでした。

◆春日館を出発し、「閖上探訪」を開始。閖上の日曜日は「朝市」で大賑わい。広い駐車場は満車状態。朝市を歩き、ここでは閖上名物の「シラス丼」を食べました。そして橋を渡ってサイクルスポーツセンターへ。ここでは「名取ゆりあげ温泉」の湯につかりました。名取川の河畔にある「名取市震災復興伝承館」を見学し、かわまちテラスを歩き、名取川の堤防上の黒松「あんどん松」を見て、日和山の山上に立ちました。そこからの眺めは大きく変わり、漁港の周辺には水産会社の新しい建物が次々にできています。新しい町並みもできています。日和山を最後にして、名残おしい閖上を離れるのでした。[賀曽利隆

ロシアサーカス団の懐かしい思い出

■地平線通信のフロントで江本さんがかなりの頻度でロシアとウクライナの戦争に触れられているが、ロシアと聞くと思い出す人々の顔がある。彼らは今どうしているかなぁ?

◆私はそのころ舞台俳優を目指していて、毎日演技やダンスのレッスンに明け暮れ、公演が近づくと舞台稽古の日々。それ以外の時間はバイト三昧だった。公演前後を含めると、数か月は時間が取られるから、長期のバイトはムリだ。だからハローワークに行って日雇いのバイトをすることも結構あり、おかげでバラエティに富んだ様々な仕事経験を積むことはできた。何の経験もないのに建築事務所で設計図に線を引かされたり、数十万円するアルマーニのブラウスにタグを縫い付けたり……。裁縫なんて一番苦手なので針で指をさして血まみれのタグをそのまま縫いつけていたのはここだけの話。

◆中でも印象深いのがボリショイサーカスの付人のバイトだ。東京の多摩センターにサンリオピューロランドという、ディズニーランドをもっと小規模にファンシーにしたテーマパークがある。そこでボリショイサーカスの人たちがパフォーマンスをやるので監視役をやって欲しい、と海外のパフォーマーを斡旋している知り合いが私に白羽の矢を立てたのだ。時給は3400円。ロシア語なんて一言も話せないけどいいのか聞いたところ、出演時間近くになったらみんなに声をかけて舞台に上がらせればいいだけだから、と言うのでバイト代に目が眩み引き受けた。しかし初日から引き受けたことを後悔することになるとは……。

◆ボリショイサーカスから派遣されたパフォーマーは老若男女合わせて計7人。夫婦2組に赤ちゃん、少女、それにNintendoゲームのマリオそっくりの髭のおじさんがぞろぞろと賑やかに到着した。控室とは名ばかりの8畳余りのテントは、途端に荷物と人間とそれに伴ういろいろな香りでいっぱいになった。ゲームや映画のキャラの影響か、私のイメージではロシア人は怖くて寡黙なイメージがあったのだけど、彼らはとんでもなく陽気な人達で実によくしゃべる。私がまったくロシア語を話せないことは伝わっていたはずなのだけど、そんなことはまったく意に介さず初日から質問尽くしの要望尽くし……。意味のわからないロシア語のジャブを浴びるハメになった。たった4時間程の勤務時間だったが24時間働き通し位の疲弊感でとぼとぼと帰途についた。

◆翌日からもハプニング続きだった。フラフープ少女アーシャと、コーリャと夫婦で空中ブランコをやっていたマーシャはよく派手な喧嘩をして、大号泣するマーシャはやったばかりの化粧が全部落ちていた。コーリャは気まぐれですぐにどこかへふらりと消え、本番の時間になっても戻らず、迷子のおじさんを捜しまわるのが日課になった。一輪車乗りの夫婦は、まるで宗教画から出てきたような天使のような可愛い赤ちゃんを連れてきていたのだが、本番中は誰も見る人がいないから私が子守をすることになった……。

◆ただでさえ赤ちゃんの相手などしたことがない上に、見た目の可愛さとは裏腹にもの凄い声量で両親が帰るまで泣き続けるので、私の方が泣きたくなった。一番困ったのは、いたずら好きで好奇心旺盛なマーシャが着ぐるみパフォーマーにちょっかいを出したときだ。着ぐるみパフォーマーは繊細な人が多い。話しかけてはいけないし、触れることさえ許されないのに、マーシャがあろうことか被り物を持ち上げて中の子の顔を覗き込んでしまったのだ。メインキャラのその着ぐるみの子はパニックを起こして舞台袖の片隅で膝を抱えて微動だにしなくなり、危うく幕が開けられなくなるところだった。

◆そんな中でマリオそっくりの道化師のヴィタリーは私の唯一の癒しだったかもしれない。穏やかでいつもニコニコ。私にも気遣ってくれて、手品で小さな花を出してくれたりよく笑わせてくれて、言葉はわからないけど意思疎通ができていたように思う。しかし、10日位が経ち私が簡単なロシア語を理解し始めると、他のメンバーとも急速に打ち解け始めた。ある日私が花粉症を発症してくしゃみを連発していたら、コーリャがこれが効くんだと言って点鼻薬をぽいと投げてよこした。直前にコーリャが自分の鼻に挿している所を見たばかりなのだけど……。気持ちはうれしかった。

◆そして1か月ほどして彼らがロシアに帰るころには、ちょっとしたファミリーのような連帯感が出来上がっていた。思えば彼らも旅慣れているとはいえ、故郷を離れ、都度違うメンバーと共に見知らぬ国に派遣されているのだ。いろいろな背景や想いを抱えながら舞台に立っていたのだろう。私はそんな彼らの少しは役に立てたのだろうか? 最後にはみんなから「あかちゃん、あかちゃん(私の名前が綾子なのと見た目の子どもっぽさからついたらしい)」と親しみを込めて呼んでもらい、ヴィタリーにはロシアに一緒に帰って欲しいと半ば本気のプロポーズまがいの言葉ももらった。最後の幕が下りて彼らが戻ってきたときに、私は彼らと抱き合って号泣してしまった。

◆ほどなくして彼らはロシアに戻った。一度だけみんなが集まったときに、ロシアから私に電話をくれたことがあった。不思議なことにあんなにわかっていたはずのロシア語が電話だとまるでわからなかった。私が理解していたのは言語だったのか何だったのか? 電話では意思疎通ができないことがわかったからか、その後ロシアから連絡がくることもないうちに、私も数回携帯電話を変えたら番号もわからなくなってしまった。それでもあのときの濃い1か月は忘れられない。彼らは今どんな日々を送っているのだろう。私が今手にしている、最後に撮った集合写真の彼らはとてもいい笑顔だ。[中山綾子


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。今月はこの通信の締め切りが早く記載が間に合わない方もいたかもしれません。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、できれば簡単な近況、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです(最初のお2人は9月の冒険研究所書店での通信費です。掲載遅れお詫びします)。

石塚徳子 南澤久実(8000円 4年分です。長野市からはるばる大和市までうがかえてよかったです。「初」大和市、「初」相鉄線……小さな旅気分でした。荻田さんの「太さ」、潔くてカッコいいなあと思いました。書棚に、ここのところずっと私が注目している苫野一徳さんの本があったことにもひそかな感慨を覚えました) 中川原加寿恵(6000円) 振込人記名なし(10/25入金)1件(2000円)


先月号の発送請負人

■地平線通信534号(2023年10月号)はさる10月18日に印刷、封入作業をしました。無事作業を終え、北京でおいしい餃子を食べたあと、新宿郵便局から発送しました。みなさん、おつかれさまでした。汗をかいてくれたのは、以下のみなさんです。長岡のりこさんは、今回は2色あんぱんをつくってきてみんなに配ってくれました。ありがとうございました(江本は1つ余計にもらった)。

 車谷建太 中嶋敦子 高世泉 伊藤里香 長岡竜介 長岡のりこ 秋葉純子 武田力 江本嘉伸 白根全


エミコ、母とのわかれ

■時間が戻ってくれたなら……。悲しいです、母はあの日、歌の発表会に朝から元気に出かけ、5曲歌って皆さんと打ち上げ。夕方帰宅し湯船に浸かったまま亡くなってしまいました。ヒートショック(虚血性心疾患)でした。

◆18歳からコーラスを習い、シャンソンとダンスをこよなく愛し、シングルマザーで3人の子を育てながらも歌のレッスンは欠かさず、先週までボイストレーニングに通っていました。部屋中に遺された歌の本やCD、カセットテープ、大量の楽譜。歌詞カードには蛍光ペンや鉛筆でびっしりと書き込みがされていました。辛いときも苦しいときも歌に救われてきたんだなと心が温かい気持ちになりました。

◆母であり、癌友でもあり(9年前に膵臓癌→奇跡の完治!)、親友のような、私の一番の応援者でもありました。世界一周のゴールを見守ってもらえなくなってしまったことがとても、とても残念です。母の人生最後の歌となった「ラストダンスは私に」の写真を思い出にFacebookに載せました。この数時間後、彼女は天に舞ってしまいました。生前、母によくしてくださった皆さま、どうも有難うございました。心より深くお礼を申し上げます。[シール・エミコ

★エミコさんの母上、阪口松子さん(享年82歳)とは何度かお会いしたことがあり、時には3人でカラオケに行ったこともあります。私と同世代のおかあさんは歌がうまく、次々に昭和の歌を熱唱されるので驚きました。エミが9月に来日した際、例のゾモTシャツのとっておきを2着プレゼントしたのですが、1着はおかあさんにあげたそうで、ゾモTを手に微笑んでいるお母さんの写真を今回送ってくれました。ほんとうにいい笑顔で、亡くなるなんて信じられません。合掌。[江本嘉伸

ねこまんが

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島の高校最後の文化祭

■10月27日、大西夏奈子さんの報告会を途中退席して、浜松町の竹芝桟橋へ向かった。仕事終わりの竜介とは東海汽船フェリーターミナルで待ち合わせ。この夏、アジマス推進器の不具合で大島までの運行だった大型客船「さるびあ丸」がドックでの修理を終えて、伊豆大島〜利島、新島、式根島、神津島の定期航路に復帰。ちょうどその初日に乗船することとなった私たちの旅の目的は、離島留学中の息子、祥太郎の高校最後の文化祭の参観である。

◆22:00乗客満席で出港。客室を確認し、先ずは食堂へ直行する。とりあえずビールとおつまみを注文してしばし東京湾クルーズを楽しむ。23:30横浜港を経由し、翌朝6:00の大島から利島、新島、式根島の各島に寄港し、10:00神津島に到着。3年前からお世話になっている民宿のおばちゃんが港まで迎えに来てくれて、一年ぶりの再会。一息入れて、いざ文化祭へ。初日はクラス毎の企画で、お化け屋敷、カジノ、カフェが出店されていた。どの企画も島の子ども達で賑わっている。午後は教職員や村民有志によるサロンコンサートが開催され、今年は私たちもケーナとピアノデュオで3曲演奏させていただいた。

◆二日目はオンステージ。有志による劇、ダンスパフォーマンス、バンド演奏、忘れてはいけない祥太郎のドラム演奏、軽音部のライブ等々、とにかく盛り沢山。ペンライトを振りながら全員で弾け跳んでいる神高生がとても印象的だった。最後は全校ダンス。全力で踊り切った後の汗だくの笑顔とピースサイン。ああ息子は一片の悔いなく島での青春を謳歌したのだろう。さて、神津島へは都合6度目の来島だが、いつも学校行事がメインのため、実はほとんど島めぐりはできていない。今まで訪れたのは郷土資料館と温泉のみで、あとは村内散策と星空鑑賞くらいか。その村内散策で新たな発見をした。息子が原付免許取得の際、「島ヘイセン」に「島民は皆、一方通行は守らなくていいと言う」と書いていたが、それもそのはず!!  一方通行や進入禁止の標識の下には、もれなく「二輪・自転車を除く」の文字が。妙に合点がいった。

◆民宿の夕食では金目鯛の煮つけ、明日葉てんぷら、地魚の刺身などの島の味を堪能。今回は初めて「たかべ」の塩焼きもいただいた。現在はたかべ漁をする漁師がほとんどおらず、市場には出回らない魚だそうだ。また、島には「あぶらき」という郷土料理があるらしいが、お目にかかったことはない。蒸したさつま芋を潰して、もち米を挽いた米粉と練り合わせ、団子状にしたら油で揚げ、塩味で食すという。民宿のおばちゃんは、米粉を石臼で挽くところから手作りにこだわる、実は郷土料理の人間国宝みたいな人だった。現役の石臼を見せてもらい、次に訪れたときに「あぶらき」を作ってもらう約束をして、私たちは帰路に就いた。[長岡のり子

びっしり文字の紙面に手描きイラスト文字の妙

■地平線通信によって突然、別世界に飛び込んでしまった感じがする。郵送されてきた通信を初めて目にしたときは、びっしり文字で埋め尽くされた紙面が模様に見えて、老眼が激しく進行中の私にはとても読めそうにないと反応してしまった。しかし、手にとってみると、真っ先に不思議な手描きイラスト文字で表現されたタイトルに惹きつけられ、しばしの間、これは何語なのだろう、とじっと眺めてしまう。

◆読み始めてみると、誰かとおしゃべりしているように楽しく、紙面は意外にも読み易いのだ。手元に置いておくと、本当はやるべき仕事に集中すべきなのに、つい手に取って読んでしまう。内容が驚きの連続。ユニーク極まりない! 夢と希望と勇気をくれる。この世にはなんといろいろな人たちがいることだろう。未知の世界、知らなかったことばかり、考えてもみなかったことやものを、真剣に追及している人たちがいる。そこで発見したことや驚き、楽しさ、素晴らしさ、挫折、苦しみ、さまざまな体験談を聞けることはとても興味深い。この小さな数ページの地味な紙媒体がこんなに豊かな出会いをもたらしてくれるなんてー!と驚いている。

◆この通信に登場してくる人たちは、若者から長老まで年齢層は幅広く、多種多様。そこが面白い。日常ではまず出会えない人たちに直に会って話を聞ける。地球を舞台に大きなスケールで遊び挑む人たちが、それぞれ独自の視点で宝物を発見して、その大切な宝物を見せてもらっている。知らないうちに皆が仲間になってしまうような何か温かみをもったよい雰囲気に満ちている。本当に不思議な通信だ。

◆びっしりと文字で埋め尽くされた紙面も極力無駄を省くという気遣いだ。そこに手描きのイラストに心が和む。そして紙がいい。ツルっとした手触りが気持ちよく、クリーム色が目に優しい。やはり紙媒体、アナログはいいものだな、と思う。地平線通信には、人が忘れ去ってはいけない何かとても大切なことが生きている。

◆いまさらですが、『地平線会議』というネーミングが素晴らしい。初めて聞いたときから、そう思っていました。[通信初心者 佐々木陽子


地平線会議からのお知らせ

『つなぐ 地平線500!』を11月23日に開催します

■前号でもふれたように、新型コロナウイルス感染症の影響でほぼ3年の休止はありましたが、ことし4月に再開、以後以前と同じペースで毎月報告会を開催し通算500回を迎えることになりました。地平線通信の方はコロナにも影響されることなく毎月一度も休むことなく発行し続け、11月で535号を数えています。

◆通信も報告会も考えてみればはるばるきたものです。この機会に500回を振り返り、遠い昔からの仲間、そしてつい最近地平線にやって来た若者たちも一緒になって賑やかに「地平線500」を祝いたいと思います。

◆地平線報告会が発足当初、いったいどんな報告をやったのか振り返っておきます。第1回は何度も書いてきましたが、1979年9月28日 三輪主彦「アナトリア高原から」、第2回 10月26日 惠谷治「砂漠からサバンナへ、独立の戦火を追って」、第3回 11月22日 街道憲久「カナダ北極圏にしがみついた10年」、第4回 12月14日 飯田望「ラクダでのサハラ砂漠横断行」。1980年に入って第5回 1月25日 丸山純「異教徒の谷カフィリスタン・非探検人間の探検行」、第6回 2月22日 河野千晴「カンプチアの光と影」、第7回 3月21日 土屋守+元吉仁志 「ザンスカールの村と人」、第8回 4月25日 関野吉晴「南米に渡ったモンゴロイド その過去と現在」、第9回 5月23日 楠原彰「アフリカのリズムとにおい」、第10回 6月27日 江本嘉伸「チベット人と風土」。

◆そして、11月23日の目下のプログラムの概要を以下に。実は、当日誰が来るのか見えないので“あけてびっくり”的進行にしたい、と考えています。


『つなぐ 地平線500!』

「オープニング」 品行方正楽団

「地平線報告会の歩み」
500回の報告会を振り返る。

「78年12月の学生探検会議」 渡辺久樹(日大探検部OB) 河村安彦(獨協大探検部OB) 山田高司(東京農大探検部OB)
地平線会議誕生のきっかけとなった学生探検会議。当時はたち前後の学生だった3人はいまも元気に活動している。当時の探検部の位置づけを回顧し、その後の変貌についても語り、メイントークの関野・岡村対談につながる。

「原点を語る」 関野吉晴 + 岡村隆
地平線の誕生以前から探検活動を続け、いまなお現役として活動している2人。78年12月の学生探検会議にも参加していた。45年を経ていまなお現役で活動する2人にあの当時といまを語ってもらう。

「明日に向けて」
終盤は最近地平線に登場した若手を紹介したい。自由に動けなかったコロナ禍の3年、地平線にやって来て通信に思いを書き込んでくれた人たち。たとえば、竹内祥太、下川知恵、安平ゆう、小口寿子、長岡祥太郎など

服部小雪イラスト

イラスト 服部小雪


今月の窓

チベット遠征報告・シシャパンマから撤退

石川直樹 

■2023年9月27日、ネパールのラスワガディという街から陸路で国境を越え、チベットに入った。チベット側の街はキロン。英語だとKYIDRONG、漢字だと「吉隆」と書く。この国境は2015年に新しく開いた。2015年以前は少し東のコダリからチベットのニャラムに入るのが国境越えのルートだったが、今はそこが封鎖され、西のラスワガディに移っている。2001年、自分がチベット側からエベレストに登頂後、ネパールに帰る際もニャラムから国境を越えてネパールのコダリに入った。どういう事情で国境越えのルートが移動したのか知る由もないが、2015年のネパール地震の直後に旧国境近くの道路が閉鎖されていたこともあったようなので、地震の影響で新しい道が整備された可能性がある。

◆国境の中国側には立派な城門のような建物が立っており、イミグレーションもネパールとは比べものにならないほど厳密だった。その検査を無事にパスすると、晴れてチベットに入れる。国境にはイミグレ以外に小さな店がいくつかしかないので、チャーターしたバスに乗って北へ向かって走り、最初に出てくる大きな街がキロンである。キロンに一泊し、翌9月28日、標高4200メートルのニューティンリーに入った。ホテルは、部屋がタバコ臭い以外は至極まっとうで、きちんとお湯のシャワーが出たし、ベッドにホットカーペットが仕込まれていて、暖かすぎるくらいだった。中秋の名月の一日前だったので夜は満月に近く、気持ちが昂った。

◆9月29日朝、車でチョオユーのベースキャンプへ向かった。2001年にチベット側からエベレストに登ったときは、ティンリーからひどい悪路を車で進んだものだが、今はエベレストやチョオユーのベースキャンプまで、つるつるの舗装路が開通しており隔世の感がある。移動が楽にはなったが、それを手放しで喜べない。その分、チベットの中国化は急激に進み、昔のようなチベットの面影はない。

◆標高4800mのチョオユーのベースキャンプには、この山で科学調査をするという中国研究者の隊が大きなテントを何張りも立てて陣取っていた。その脇にぼくたちはキャンプを作らせてもらった。ぼくたちは順応のための事前ローテーションなし、ワンプッシュでチョオユーに登ろうとしていた。ガッシャーブルムI峰に登頂したのが7月26日で、チョオユーベースキャンプに入ったのは9月29日。2か月が経ったが、順応が体に残っていることを願うばかりだった。

◆9月30日、標高5700mのABCへ上がった。一泊し、翌10月1日朝、ABCを朝9時に発って一気に頂上を目指した。標高6400mのC1に着いたのが17時ごろ、C1で3時間程度の仮眠(と言っても色々やることもあって15分くらい居眠りして悪夢で目覚めた程度)、20時くらいからサミットプッシュに入った。前述した中国の科学者たちの隊が、この10月1日に18人の登頂者を出した。10月1日は最高の天気で、この天候がギリギリもつと思われた10月2日早朝までに、ぼくたちも続いて登頂したかった。10月1日夜にC1から夜通し登り詰め、10月2日夜明け頃に頂上直下のイエローバンドを通過、あたりが完全に明るくなってから、頂上プラトーの入口に着いた。問題はここからだ。

◆チョオユーの頂があるプラトーはむちゃ広い。20年ほど前は、たくさんの日本人がチョオユーに登った(今はマナスルが8000m峰入門の山のような扱いだが、マナスルにFixロープが張られるようになる前は、多くの人がチョオユーで練習を積んでエベレストに向かった)。しかし、チョオユー山頂がわかりにくいため、このプラトー上のどこかで、後ろにエベレストを入れて写真を撮ればそれで登頂、と見なされていた。しかし、今回は間違いなく最高点に立ちたかった。

◆ぼくとシェルパのニマ・ヌルは、隊のトップでプラトー入口に到着したのだが、頂上プラトーの入口に到達前から天候が悪化し、ホワイトアウトになった。その日は、ニムスことニルマル・プルジャ率いるエリートエクスペディション隊と、ぼくたちイマジンネパール隊しかおらず、その中でも一番早く頂上プラトーに到達したのが、自分たち2人だった。

◆強風かつホワイトアウト状態のプラトーに入るとお手上げだった。どこが頂上なのかまったくわからない。Fixロープは当然ないし、トレースもない。が、後からやってきたニルマル・プルジャのルートファインディングによってぼくたちは登頂に成功することになる(ニルマル・プルジャは元グルカ兵のネパール人で、半年間で8000m峰14座すべてに登り、その過程がNetFlixでも映画化されて世界的に有名になったネパール人である)。詳細は省くが、ニルマル・プルジャの軍隊仕込みのナヴィゲーションによって、ぼくたちは視界ゼロの最高点に立つことができた。10月2日14時40分のことだった。そして、23時30分ABC帰着。帰り道、何度もえずいた。順応も不十分なうえに、無理をし過ぎてボロボロになった。

◆10月3日、ABCからBCを経由しニューティンリーに戻って休養。10月4日、休む間もなくニューティンリーを午後に車で出発し、暗くなってからシシャパンマBC着。10月5日、早朝にBCを出て、ひたすら歩き続けてABC着。この道のりでヤクの調達が間に合わず、自分たちで荷揚げしたことによってだいぶ疲弊した……(ティンリーからBCまでは車、BCからABCまでは本来ヤクが荷物を運べる予定だった)。

◆そして、10月6日朝5時にABCを出発した。チョオユーと同じく、その先にキャンプを一つだけ作り、また3時間ほど休養して、夜から一気に頂上を目指した。夜通し登り詰めて、日付が変わった10月7日早朝、周囲が少しずつ明るくなってきたころ、最後の急斜面の取り付きに、ぼくたちイマジンネパール隊とエリートエクスペディションの合同隊が到達した。今、あらためて振り返ると、チョオユーからシシャパンマの頂上直下に至るまで、毎日動き続けているハードすぎる行程である。どう考えても急ぎ過ぎている……。

◆10月7日、最後の朝がやってきた。シシャパンマ頂上への斜面を前にして、後ろからテンジェン・ラマ率いるジーナ・マリーたちがやってきた。ジーナは13座の登頂を終え、シシャパンマに登ればアメリカ人女性初の14座登頂者になろうとしていた。ぼくは彼女とダウラギリやカンチェンジュンガ、K2やブロードピークに同じ隊で登った旧友でもある。今回は、ノルウェーの女性登山家、クリスティン・ハリラと14座の最速登頂を終えたばかりのテンジェン・ラマというクソ強いシェルパを雇い、別隊でシシャパンマに登りに来ていた。

◆ラマに率いられたジーナたちは鬼気迫る速さで、ぼくたちを追い抜いていった。固定ロープは当然なく、ラマはダブルアックスで先頭を行き、ロープを結んだジーナをガンガン引っ張っていった。その先には、エリートエクスペディション隊から抜け出たアンナ・グトゥたち3人がいた。アンナもまた13座の登頂を終え、シシャパンマに登ればアメリカ人女性初の14座登頂者となる。アンナとも、ぼくはナンガパルバットなどを一緒に登った仲だった。

◆つまり、ジーナ(+シェルパ2人)とアンナ(+シェルパ2人)は、「アメリカ人女性初14座登頂」というタイトルを賭け、最後のシシャパンマ登頂へ向かって競争をしていたのである。ここに至るまでも、彼女たちはライバル心を剥き出しにしていたのだが、そのあたりの詳細を書く紙幅はない。とにかく14座登頂を目指す仁義なき戦いにぼくたちは巻き込まれた。しかし、こんな競争に命を賭ける価値などないことは、地平線会議の皆さんならすぐわかるだろう。

◆とにかく、彼女たち2チームの次、3番目に、ぼくとキルー・シェルパがいた。キルーはK2冬季初登頂を果たした10人のネパール人の1人で、ぼくのザイルパートナーとしては、十分すぎるほどの実力者だった。ぼくたちは2人で、固定ロープのないシシャパンマの最後の斜面をひたすら登っていくことになる。

◆ジーナとアンナたちは、それぞれ別ルートで頂上を目指した。彼女らを後ろから追う形になった自分は、シシャパンマに少し前に登頂した経験を持つラマが選んだルートのほうが安全だろうと踏み、アンナではなく、ラマ+ジーナのほうのルートを進んだ。強風が吹き荒んでいたが、視界は開けていた。対決状態で先を急ぐ2チームを追う形で、ぼくとキルーは長いトラバースに取りかかった。トラバースを終えて直登すればシシャパンマの主峰、最高点に出る。一方、アンナたちはトラバースせずに稜線をあがり、一度中央峰に着いてから主峰を目指すルートをとった。

◆ぼくとキルーはトラバースを続け、セラック(氷塊)のある地点で、一息ついて行動食を食べることにした。その先に休めそうなところがなかったからだ。自分がパックの杏仁豆腐を食べていると、その先の斜面でチリ雪崩が上からくるのが見えた。ぼくとキルーはセラックに守られて無傷。が、途端に無線が交錯した。誰かが流されたらしい? ただ事じゃない様子が、数分後には伝わってきた。結果的にこの雪崩で、アンナと1人のシェルパの2名が滑落して亡くなり、もう1人のシェルパが重傷を負ったけれど助かった。3番手に位置していた自分とキルーは、はるか後方にいた、自隊のリーダーであるミンマと無線で連絡を取り合い、撤退を決めた。その先の斜面も似たような状況で雪崩れる可能性が高かったからだ。

◆が、話はここで終わりではない。ぼくたちが引き返しはじめ、一息つける緩斜面まで戻りきる直前に後ろを振り返ると、上部から再び雪煙があがっている。2度目の雪崩が起こり、今度はジーナたちが頂上を目前にして流されたのである。3人のうち、ジーナとラマが行方不明になり、今も見つかっていない。そしてアンナたちと同様、1人のシェルパだけが重傷を負ったものの助かった。

◆2度にわたる雪崩に最も間近で遭遇し、アンナやジーナたちと一番近くにいたのが、自分とキルーだった。シシャパンマは彼女らの遭難によって今シーズンの閉鎖が決定。この遭難に関しては、アメリカのメディアも多く取り上げたが、ぼくからすればどれも的外れな論調だったので、今、正確な記録を書き残している最中である。登頂できなかったシシャパンマには来年3月末に再訪予定だが、今回の遭難を受けて、チベット山岳協会がすんなりインビテーションレターを書いてくれるかわからず、どうなるか不透明な状態である。


あとがき

■熊の出没がハンパない。山に食い物が不足していることはほぼ間違いないのだろう。心配になったのは服部文祥とナツのことだ。鉄砲だけで食を補いつつ北の山の旅を続けている。わんこがいるとはいえ、熊とは一番近くで長期間行動している人間と犬であることは間違いない。

◆服部君、最近相次いでナツの本を出した。『北海道犬旅サバイバル』(みすず書房 2400円+税)『山旅犬のナツ』(河出書房新社 1800円+税)の2冊。これは2冊ともとても面白く、かつ写真が素晴らしかった。犬好きの私は常にナツのことを気にしているせいかとても気に入った。

◆ナツと初めて会ったのは2019年7月だったか、報告会をお願いした小雪さんとの打ち合わせに画伯と自宅を訪ねたときだ。すでに狩りの経験者だったが、まだ初心者に近かった、と思う。ただし、我が家にいた「オトーサンいのち」タイプのわんこではまったくなく、我が道を往く種のわんこであった。

◆「いぬたびの文祥たちは鹿を食べながらなんとか元気でやっているようです」。今回「地平線500」を祝って13ページに素敵なイラストを描いてくれた小雪さんは、包装紙上にせっせと鹿肉を食べるナツのスケッチをおまけしてくれた。そこにナツのモノローグの吹き出しが。「今日のごはんも鹿かぁ。シュークリームたべたいなぁ」だって。小雪さん、ナツ、ありがとう。[江本嘉伸]


■今月の地平線報告会の案内(イラスト:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

『つなぐ 地平線500!』

  • 11月23日(木・祝) 12:30〜16:30 資料代500円
  • 於:新宿区立新宿歴史博物館 2F講堂

    表4イラスト

    《画像をクリックすると拡大表示します》


地平線通信 535号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2023年11月8日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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