7月10日。東京はじめ関東では気温が上昇、昼過ぎには東京で36度、ことし初の「熱中症警戒アラート」が出された。東京はこんなに青空が広がっているというのに福岡、大分県には大雨特別警報、それも5段階の中の最大級の「緊急安全確保」が発令された。NHKは毎朝の「あさいち」という番組を中止、天気ニュースに切り替えた。唐津市では土砂崩れで3人が行方不明、と伝えられた。10日昼前時点で大分、福岡、佐賀県で筑後川水系のいくつもの川が氾濫し、6河川に氾濫情報が出された。
◆豪雨は今や日本の普通の出来事となった。おだやかな流れが一瞬で地獄のような濁流の世界と化す。数年前、能海寛の故郷、島根県金城町に向かう途中、すごい豪雨に阻まれ、岡山駅でストップ、「のぞみ」車内でまんじりともしないで一晩過ごしたことを思い出した。新幹線なら濁流に巻き込まれることはない。
◆きのう9日、NHK衛星放送で『鷹を継ぐもの』という90分番組の再放送をやった。本放送は地平線報告会と重なっていたのでよかった。山形県天童市に住む鷹匠、松原英俊さんのもとに1本の電話がかかったのは去年の春だった。高校1年の女子からで「鷹匠になりたい」という。小学生時代、動物作家として知られた戸川幸夫の『爪王』を読んで自分は鷹匠になりたい、と思ったそうだ。番組では松原さんが女子高生と会い、鷹を腕に止まらせて歩く「据えまわし」など、鷹狩の初歩を教える様が記録されている。
◆このドキュメントの中で、73才となった松原さんが雪の中、かんじきを履いて走る姿に私は驚いた。雪のない道でも、鍛錬のため走る。1日8キロぐらい走るそうだ。府中市に引っ越して3年目、先月の右ふくらはぎの故障でまだどうにか歩ける程度にしか回復していない自称「プロ徘徊師」、少しは見習おう、と我が身に言う。
◆地平線と松原英俊さんの付き合いは結構長い。2000年1月、鶴岡市で開いた「出羽庄内ミレニアム集会」に松原さんはイヌワシの崑崙号と共に参加してくれた。当時49才。
◆思い出深いのは、鶴岡市田麦俣の以前の松原さんの家に泊めてもらった時の出来事。居間で炬燵に入って食事させてもらった際、クマタカのカブ号のため、松原さんが冷凍庫からアオゲラ、シロハラ、モモンガなどの食事を出した。食べやすいように手で少しさばいてあげようとした時だった。天井の梁に止まっていたカブ号が、バサーッと炬燵の上に舞い降りたのだ。まさに私の目の前だったのでカブ号の翼が巻き起こした風を顔面に受け、たまげると共に実に爽快な体験となった。
◆2007年1月、2008年1月と松原さんには東京での地平線報告会を2度やっていただいている。それだけ聞きたい内容に溢れていた、ということだ。我が家に来てもらい、「手作りのシチューや煮物、それにモンゴルのヒツジのモモ肉や沖縄のパッションフルーツまでも腹一杯ごちそうになりました」(当時の通信から)。2009年11月の地平線会議30周年記念大集会「踊る大地平線」では「自然に生きる、野生を食う」というテーマで服部文祥、関野吉晴とともに鼎談もお願いした。
◆女子高生の突然の弟子入り志願について、ことし1月の地平線通信で松原さんはこう書いている。「ある日突然奇跡のように天から舞い降りてきた一粒の種子。水をやり肥料を与え、大きな花を咲かせてやることができるだろうか。積雪が5メートルにもなる豪雪の月山で今はまったく金にもならないウサギなどの小動物を追い、タカと自分の心の喜びのためだけに生きる。彼女もまた厳しきイバラの道を歩いていくのだろうか」
◆5日の水曜日午後4時過ぎ、スマホが鳴った。岡村隆からだ。「心配かけてすいません。早くお話したかったので……」との声に心の底から安堵する。今月中旬に出発する予定の「スリランカ密林遺跡探査隊」。総隊長として陣頭指揮を取っていた岡村が、突然発症した病で急遽参加でとなくなったことは聞いていた。あれほど打ち込んでいた遺跡調査だ。岡村を信頼して青年たちが多く参加するこの隊に行けない、というのがどれほど辛いことか。しかし、通常の社会活動は大丈夫と医師に言われた、という声の様子で安心した。岡村隆にはスリランカ以外にも彼でなければできない多くの仕事がある。
◆再開した地平線報告会。3回目となった6月30日の今井友樹さんの報告は、「ツチノコ報告会」とも言うべき盛り上がりだった。今号の通信を見てください。いかにさまざまな世代の人がツチノコに情熱を持っているか、がわかります。今井君、この作品当たりますよ。[江本嘉伸]
◆久しぶりに会場は榎町地域センターにカムバック! 530回目を迎える記念すべき今回のテーマはズバリ……「ツチノコ」でしょう!(ちびまる子ちゃん『まぼろしのツチノコの巻』が神回再放送していました)ということで、登場したのは映画作家の今井友樹さん。前回の野鳥のカスミ網猟を追った処女作『鳥の道を越えて』に纏わる報告会(2018年9月28日)に次いで、同じ故郷を舞台にあの “ツチノコ伝説”に挑みます! さぁみんなでツチノコ探しにいってみよ〜!
◆その前に今井さんが今日までに手がけた作品の中からここでいくつかご紹介。2018年に公開した『夜明け前』は100年前、治療法が無く座敷牢に閉じ込められていた精神障害者を救おうとした呉秀三氏のドキュメント。依頼を受けた際、「差別の反対は何ですか?」と問われた今井さん。「平等」と答えると返ってきた「差別の反対は(世間の)無関心だ。それに向けて作ってほしい」との言葉に、自身も無関心の代表と思い引き受けた。
◆このテーマを扱うために学ぶべきことがとても多かったと話す。当時精神病の原因は狐憑きや脳の病気など諸説あり、良くなるために狐祓いをしたり、猿の頭の黒焼きをも取り入れていた時代。沖縄の山原に残された「私宅監置」の取材に訪れた今井さんは、現地の方の沖縄の歴史、精神病者の歴史のお話を前に、撮影者としての浅はかさを痛感する。コンクリートに覆われたその中は薄暗くギリギリ立てるかどうかの高さ。明かり取りの窓からは母屋が見え、言葉にできないショックだったという。
◆94歳のおばあちゃんがミツマタを蒸して皮を剥がし出刃でこそぐ。こそぐことを“へぐる”と言う。高知の和紙原料作りの記録。取材当時、なかなか食べていけない現実のなか「何のために記録するか?」を自問自答していた今井さん。「百姓は儲からない」。たとえ世間の平均収入の半分でも、千年の歴史を継ぐ人々から“豊かさ”を受け取った。途絶えてしまうかもしれない暮らしの記録。「この人達じゃなくて自分達の明日をへぐるんだ」。そんな想いからこの作品を『明日をへぐる』と命名し2020年に完成させた。
◆時は1989年、ツチノコ騒動が勃発。最初の発見者が地元広報に掲載されたことを皮切りに、岐阜県東白川村では発見者が続出し(23名は全国最多)「槌の子探そう会」が発足。1970年代に地元で「ツチヘビ」と呼ばれていたその生き物には、生けどり100万円、死体50万円、写真20万円、皮2万円の懸賞金がかけられて、第一回「東白川村槌の子捕獲大作戦」には県外からも多くの人が押し寄せてきた。
◆当時小学生だった今井少年は、サスマタを手に童心に帰り、本気になってツチノコを探したり、みんなを笑顔でもてなす大人達の姿に「こういう大人になりたいな」と憧れを抱くのだった……(ちなみにこのイベントは今でも毎年数千人規模で続いていて、最近はツチノコだけでなく山菜もターゲットになっている)。
◆やがてついには親戚のおじいちゃんも発見者としてメディアの取材を受けることに。「兄さまは嘘をつくような人じゃない」とおばあちゃん。「ツチノコは絶対にいる!」そう信じて止まない小学5年生の登山行事でのことだった。目撃例の多かったその山を下山中、友達と斜面の石を剥がして遊んでいたらその裏側にペットボトルくらいの黒くて艶々したそいつを見た!!! そのときの衝撃。「生きているか!?」 木の棒で突っついたら、ムクッと動いて自分の足元に「コロコロ転がってくる!」。
◆あまりに怖くて咄嗟に走って逃げた。当時「見たら人に言っちゃいけない。災いが起きる」とも聞かされていたので、そのまま下山してしまったのだそう。やっぱり見ていたんですね、今井さん!(ちなみにこの山の麓にはツチノコの眠るお墓と『ツチノコ神社』が鎮座していて、毎年祭礼が行われている)
◆今回の作品に9年かかっているのは「取材が心底楽しかったから」。目撃者の村人から研究者、日本全国を捜す人などあらゆる人達(延べ30名以上)に取材を敢行した。と、ここで思いもよらない発言が。今井さん、なんとこれまで自分が見たツチノコのことをすっかり忘れていて、とある目撃談の取材中にその記憶が蘇ってきたと言うではありませんか。何故そんな大切な記憶を無くしていたの!?
◆高校時代、下宿先で出身地を説明する際「ツチノコの……」と言わないと伝わらず、次第にその名を言うほどに小馬鹿にされているような感覚が自分でも嫌になり冷めていったと振り返る。当時当たり前のように「いる」と思っていたのに、「いない」と思うようになっていた。しかし今回取材してみると、身を乗り出して聴くくらい話が面白く、聴いている今井さんの想像力を掻き立ててくれたのだった。
◆これを聞くともしかして自分も……? いや誰もが“今井さんのツチノコ”に替わる“何か”を失ってきているような気がしてならない……。ビール瓶のようなフォルムでお馴染みのツチノコ。実は遡ること江戸時代には既に同様の姿の絵が「野槌」との記述で残されている。全国様々な場所で発見されていて、それぞれの方言での呼び名と分布を記した地図も紹介。テンコロ、カメノコ、バチヘビ、サメ……、実に多くのバリエーションにびっくり。
◆地元「ツチヘビ」の「ツチ」は藁細工に用いていた木槌(ワラヅチ)の形に似ていたことに由来している。みんなが頭に描くツチノコの共通イメージはこれまでの漫画や小説を通して徐々に浸透してきたわけだが、村で募集をかけたところ、年配の実際に見た人達から表情豊かないろんな形の絵が届いたのだそう。一方子供達は揃ってゆるキャラみたいな絵を描く。なんだかツチノコ危うし!という感じがしてくる。
◆『ツチノコ資料館』は平成元年に地方創生1億円の交付税によって建てられた。その内3000万円はふるさとおこしに成功している地域への視察費との名目で、彼らの本音を酒を介してじっくり聞き出すために宿代酒代に使われた逸話が面白い。ツチノコブームの最中メディア掲載されてきた発見記事はどれも「ツチノコっぽい!」のだが、検証の結果はヤマカガシやアオジタトカゲ……結局尻尾は掴めずじまい。
◆懸賞金目当てで集まった大量の写真にはインチキ偽装写真がとても多かったエピソードもほっこり微笑ましい。誤認説の多かったヤマカガシは昔より生息数が減っていると聞く。今井さんの撮影した映像を見ていると「ヒキガエルを丸呑みしているヘビだな」と冷静に認識できるが、これがもし山中の茂みで出会ったとしたら……、こちらがツチノコパニックにならないという自信がない。
◆また地元ではお茶畑でのツチノコ目撃例が多く、近くの石垣の合間からお茶が自生していることと、多くの目撃者情報が土地改良(石垣の取り壊し)の時期と合致していることから「ツチノコの住処は石垣説」が現在有力とのこと。いやはや今井さんはツチノコに関することならば、ありとあらゆる情報を集めている。
◆最後にお待ちかね、目撃者の方々への取材風景の映像が流れる。今井さんの言う通り、ツチノコの話となるとみんな目を輝かせている。自分が本当に見た話だから、それはもう具体的に身振り手振りで、その時の興奮と共に本物のトーンでそのまま伝わってきて、今井さんの相槌にも力が入る。ツチノコに纏わる話は本当に恐れられていて世間話にはあまり出てこないと話す人も。それでも喋る方も聴く方も本当に楽しそう! 目には見えない豊かで純粋な好奇心に包まれているこの空間。今井さんにとって至福なひと時なんだなぁ〜と深く実感。また今井さんは取材の先々で大先輩達から「夢とロマンじゃ!」と何度も聞いたのだそう。果たしていま自分は「夢とロマン」を持っているか? 僕にはその言葉が今井さんの心に火を灯したように見えた。
◆ツチノコはいる? いない? 取材のなかで今井さんは「戦後科学が万能な風潮に傾いていったために理解できないものは全部切り捨ててきたような感覚があって、昔の社会の方が「ツチノコはいるかもしれんぞ」という“理解される豊かさ”があったのでは?」と話す。「いる」「いない」ではなくて、それを超えた先輩達の喋っている“山の世界の想像力”のほうが大事なように思えていて、そういったものを僕らは取り戻していかなくちゃいけないんじゃないか。
◆もう一つはそれらを通して故郷を見つめ直すこと。同級生は村にしがみついて暮らしている。「故郷じゃなければ今すぐにでも街に出て働いた方が稼ぎもいいし、暮らしも豊かになる」と帰省の度に聞いている。「そういったなかで何ができるか?ということをこの映画を通して描きたい」と力強く語ってくれた。
◆今井さんのガイドする「ツチノコてんこ盛りフルコース」は実に贅沢な時間だった。その中でもやはり生の証言が一番迫力があって勝るものなしである。あれを目の前で聴けるなら、少なからず「ツチノコはいるんだ!」と動物的直感で信じることができるのではあるまいか。そんなツチノコの気配を山の世界からしかと届けてくれた今井さんに感謝したい。
◆そして今回僕達に直接自身のツチノコ目撃談を話してくれたことも。信じてくれる受け皿があってこそ話せることだと思うし、その受け皿がなくなってしまえば時には信念すらも失ってしまうかもしれないことにまで想いを馳せることができた。今を生きる僕達はその“理解し合える豊かさ”という想像力をこの世界のなかでどのように見つけ、広げて、育んでゆくことができるだろう。それぞれの土地に暮らす日本人全体で共有したいと思った。
◆ツチノコの作品作りを通して、まるで“自分に還る道”を旅しているようだった今井さん。テーマを追い求め、幾度も故郷に通うなかで見えてきた故郷から広がる山の世界。取り戻した大切な記憶。それらを皆と共有するために必死に編集して記録に残す。その情熱に心底感嘆した。これから先の今井さんの旅が楽しみなんですが、まだ今作の膨大な編集作業が残っているというので、先ずはそちらを全力で応援します! 『おらが村のツチノコ騒動記』乞うご期待!!![車谷建太]
■貴重な機会をいただきありがとうございました。ツチノコで2時間半はあっという間でした。ツチノコの取材はこれまでにないくらい楽しい取材でした。あっという間の9年間でした。今回の報告会の最後で江本さんから「ツチノコの話は山の話だ」とご指摘いただきましたが、まさにその通りだと納得しました。
◆ツチノコの一次資料って何なのかわからないけど、ツチノコの目撃者から話を聞く奥ゆかしさはもちろん、目撃した人から聞いたという伝聞や言い伝えも面白い。コロコロころがってきたり、見ても人には言ってはいけない等々、日本各地の目撃情報がこんなにも共通しているのは何故だろう? 謎は尽きません。
◆人間世界の範疇を超えた怪しげなるものが山の世界にはまだまだあって、その世界で育まれた人間の想像力。そのあたりを映画で表現できれば良いなと思いました。そしてツチノコを探す人たちが口をそろえて言う「夢とロマン」。これは今の現代人には必要なサプリメントだと思っています。
◆報告会では目撃談やロマンを語る人たちの映像をお見せしましたが、各地の年配者の語りは訛りが強すぎて、初めて耳にする人にとっては聞き取りにくい。今回は字幕の必要性を痛感しました。幸い今作は国の補助金を使ってバリアフリー映画制作をすることが決まっています(目の見えない、見えにくい人には音声ガイドナレーション版を、耳が聞こえない、聞こえにくい人には日本語字幕版を選択することができます)。だから通常版にも一部は字幕をつけようと決めました。そういう意味でも、映画の完成前に報告会でお話しする機会をいただけたことは非常にありがたかったです。
◆前回の「オキのサキと飛べ」から実に5年ぶりの報告。今回も思ったのですが、経験豊かな方達を前にして話すのはやはり緊張しますね。でもその緊張はどこへやら、いつのまにかリラックスしてしまうのです。地平線のメンバーはみなさんアットホーム、懐の深さを実感しました。それこそツチノコの話もOK。僕自身のツチノコ目撃体験もOK。普段話しにくいデリケートな内容もOK。地平線報告会はまさにバリアフリーな空間でした。
◆相変わらず拙い僕の話は5年前と変わっていませんが、参加者の熱い視線も変わっていませんでした。新作ドキュメンタリー映画『おらが村のツチノコ物語』は今夏完成し、早くて年明け、遅くとも来春には劇場公開を目指しています。7月28日までクラウドファンディングも募集しています。お楽しみに![今井友樹]
*クラウドファンディング
https://motion-gallery.net/projects/TSUCHINOKO-FILM
■地平線会議の存在は私が20代のころから知っていました。1985年に江本氏と共に黄河の源流を目指す探検隊に参加させてもらったから。まだ私は25才、江本さんは44才でバリバリな頃。数か月に渡る源流行は我が人生に多大な影響を与え、現在に至っています。
◆地平線報告会「幻の蛇を追って」に参加した。今井友樹監督の次回作「おらが村のツチノコ騒動記」に私がカメラマンとして参加しているから。2019年には各地へ撮影に出掛けていた。あれから4年。未だ完成はしてない。監督はもう9年やっていると言っていたが。
◆今井監督は、民族文化映像研究所(民映研)の出身者。所長の姫田忠義を師事し学んでいた。縁は巡り、民映研の代表理事を私が継承した。今井監督は民映研の理事でもある。姫田所長亡き後、民映研が映像制作をすることは終了している。しかしながら、姫田所長が示した映像制作の道を弟子・今井友樹が歩むのはありがたい。「常にね、我々は何をし得るのか、何を記録するのか。それが記録者ですよ」との姫田所長からの薫陶を大切に記録映画を撮る今井監督の存在は大切なわけです。
◆「つちのこ」という存在は実に民俗的存在。自然科学分野だけでは手に負えない。文学的発想では宙に浮く。地に足を付けてつちのこを語るには、民俗学の視点は重要になります。同時に対象と向き合う方法論を姫田忠義方式で学んだ今井監督の手腕が生きる。生きるはず。まだ完成していませんからわりませんけど。[小原信之 最近は「箒有寛」のペンネームで]
1985年の「黄河源流探検隊」の記録によると当時小原信之隊員は「サンヤン(山羊)」と中国隊員から呼ばれていた。当時から顎髭とゆったりした口調で仙人の風格があったから。源流隊の概要は11ページを参照。
■3年ぶりに再開した4月の地平線報告会に初めて参加してから、毎回報告を拝聴しております。今月の報告者である今井友樹さんが、取材した人全員から聞いたという言葉、「夢とロマン」。スマホ片手に育ち、想像もせず手元に「答え」を求めてきた私には、馴染みのない言葉でした。果たして、私は今「夢とロマン」を抱いて何かに取り組んでいるだろうか。そう考えていた矢先、ツチノコを追いかける東白川村の人々が、私には地平線会議のメンバーと重なって見えました。世界を舞台に活躍する皆さんが、わくわくした表情で報告会に集まってくる。その様子は、「『夢とロマン』を追う子どものような大人たち」だと思いました。
◆そんな地平線会議のメンバーである澤柿先生のゼミに入った私は、「社会学部生」という立場から南極大陸を見つめ、地球の未来を観測する人々が直面する問題を研究します。誰もが憧れる未開の地にも、注目されにくい人々の苦悩があったのです。陰にある問題にあえて踏み込み、解明に向けて全力で取り組むことは、もしかすると今の私にとっての「夢とロマン」なのかもしれません。地平線会議の皆さんに少しでも近づけるよう、想像する面白さを味わいつつ研究を進めていきたいです。[杉田友華]
■今回の報告会では記録映像監督の今井友樹さんから「ツチノコ」についてのお話をお聞きしました。私にとって「ツチノコ」とは幼い頃本で存在を知り、この世にはいない架空の生き物であるという認識だったため、大人になって詳しくお話を聞くことができてとてもよい経験でした。多くの人々が今井さんの故郷である東白川村でツチノコを探す活動に参加するという全国的なブームが巻き起こっていたことに衝撃を受けました。私は今井さんのお話の中でも登場したアオジタトカゲやマムシがカエルを捕食した際にツチノコに見えるという見間違いが目撃談に繋がったと考えましたが、目撃した方の映像を見て、やはり特徴が少しずつ違うと感じツチノコは実在したのではないかと思うようになりました。そして開発が進む中で、ツチノコが生活できる環境がなくなり、個体数が激減したと考えることができます。これは私が報告会を聴いて考えた憶測ですが、今日でもツチノコが実在しているのなら、一目見てみたいと思いました。[福司和夏乃]
■今回はツチノコの話がメインでしたが、ツチノコが「槌の子」という字だったとは知りませんでした。また、ツチノコの伝説が広まるきっかけが東白川村の広報誌だったことも知りませんでした。ツチノコという幻の生き物の名前自体は知っていましたが、その詳細な情報は知りませんでしたし、実際にツチノコを見たという目撃者が多くいるということも知りませんでした。大勢の人が実際に見たといっているので、ツチノコは本当にいたのではないかとも思います。
◆ほかの幻の生き物、例えばカッパは岩手県の遠野市が有名ということは、時々新聞やネットの記事になっていたので知っていましたが、報告会の中で今井さんが話されていたように、ツチノコについてはタブー視され表に出てこなかったため、あまり見聞きしたことがなかったのではないかと思います。
◆コロナ禍で日本各地の伝統や伝承が中止や延期され、途絶えつつある中で、そうした「絵にならないもの」を映像として残そうとしていく今井友樹さんの作品は、将来貴重な映像として注目を集めることになると思います。私自身も、伝統の消失という問題について考えさせられる貴重な機会となりました。今後の報告会でもこういった貴重なお話が聞けることを楽しみにしています。[重松歩武]
■ツチノコについては名前を聞いたことがある程度でした。今回の今井監督のお話を聞いてツチノコを追う夢やロマンについて多くのことを学びました。最初にもおっしゃっていた「ツチノコを信じる信じないの問題ではない、その先にある想像力こそが大事」とおっしゃっていたことはかなり印象的でした。
◆ツチノコというと妖怪や未確認生物として見られることが多く、現実味がない生き物のように聞こえます。しかし、ツチノコ発祥の地とされている岐阜県東白川村への取材の映像では村人は本気でツチノコを目撃したときのことを語っていました。その姿はとても生き生きとしているようでした。子供のころコンクリートやアスファルトに囲まれて育った私の世代にはない想像力です。
◆また、今井監督はこの映画には裏テーマが存在すると語っていました。それは「ツチノコを通して忘れ去られようとしている昔ながらの村の暮らしを思い出す」ということです。ツチノコのお話を聞いているうちに村の暮らしに少し興味が湧き、自分の祖父母も村に住んでいたのかなとか考えてみるようになりました。もしかしたらツチノコは、村での暮らしを忘れないように姿を見せ、村の魅力を教えてくれているのかもしれません。[小峰好貴]
つちのこイラスト:ねこ
■ツチノコと言えば、いまも「科学朝日」の記事を思い出す。読んだのは、40年以上も前。なので中身の大半は忘れてしまったが、出だしの、「家でテレビを眺めていたら、突然画面に奇妙なヘビの絵が現れ、次の瞬間、妻に向かって『オレはツチノコを食ったぞ!』と叫んでいた」(←うろ覚え)に続き、「戦争中、ニューギニアのジャングルで、太くて短いヘビが下駄の歯に挟まった」「そいつを焼いて食ったらウマかった」などの仰天体験が語られていた。
◆誰が書いたか、いつの号だったのかはわからない。調べるのも大変だろうと諦めていたけれど、便利な時代になったものだ。試しにネット検索してみたら、呆気なく手掛かりが見つかった。梅原千治(せんじ)さんという東京医大のお医者さんが、1973年の12月号に書いていた。残念ながら、近所の図書館にバックナンバーがなく、再読は叶わなかったが。
◆掲載から6年後の1980年。タイ北部のラフ族の集落でホームステイしていたときも、その記事を思い出した。ニューギニアのジャングルにツチノコがいたのなら、この辺りにもいるんじゃないか? そこで記憶を頼りに絵を描き、世話になっていたセラニ・オパさんに見せた。彼はしばらくノートを眺めていたが、「ここにはいない」とあっさり否定。ワイルドトイレット的には朗報だけど、やっぱりガッカリした。
◆気を取り直し、セラニ・オパさんの父親にも訊いてもらうことに。一族の長でもある父は、集落内外の人々に信頼されている。山を幾つも越えてやって来る相談者の悩みに耳を傾け、助言を与えると、誰もが納得して帰ってゆくという。外見こそ小柄で目立たない寡黙な老人だったが、そばに居るだけで、よそ者の私にも深い人間性が伝わってきた。それに、若い頃はラングーンでホテル勤めしていた息子とは違い、長年のジャングル暮しだから、動植物の知識も比較にならない筈だ。
◆狙いは的中。彼は絵を一目見るなり、「昔はいた。でも、ずっと前にいなくなった」と答えた。そして、「山奥には、まだいるだろう」とも。私もセラニ・オパさんもビックリした。ラフ語では「パピ・マー」と呼ぶらしいが、「毒があり、噛まれたら死ぬ」「怖い目で人を睨む」「とても凶暴で、ジャンプして襲ってくる」「斜面を転がって逃げる」といった特徴は、ウワサに聞く日本のツチノコそっくりだ。
◆「肉は美味い」も、梅原先生の証言通り。ただ、そのときのノートが行方不明で、いまとなっては、それ以上のことはわからない。今回の報告会で「中国大陸にもいるのでは?」説が出たけれど、その場合の一番の棲息地は、やはり雲南を中心とした照葉樹林帯ではないか。あの体験から、そんな気がしている。
◆タイから戻って数年後、「そうだ、梅原先生に報告しよう」と閃いた。そこで科学朝日の編集部に連絡先を問い合わせたら、返ってきたのは、「先生は亡くなられています」の残念な報せ。ご存命中にお伝えできれば、きっと喜ばれたに違いない。それだけが悔やまれた。[K.ヒロベイ]
■ツチノコはいるのか? 僕はいないと思う。理由は、これほど時間をかけても捕獲できないばかりか死体すら発見されないから。話を聞く前に自分なりの結論が固まってしまい、一度その偏見にとらわれるとすべてが色眼鏡から逃れられない。だが今井さんの話を聞き、映像を見ているうちに気持ちは「いるか、いないか」から「信じるか、信じないか」に傾いてきた。そうなると、信じる方が断然楽しいと思える。
◆実際、目撃者が謎の生き物について語るとき、表情は生き生きとしている。古老が、もはや恥ずかしくて使えない言葉、「夢」や「ロマン」を口にする。そうなるともう「いる、いない」とは別の話で、否定しようという気になれない。古老とは逆に、本気で信じて本気で探す村役場の役人も出てくる。指揮をとっている人物は妻と親がツチノコの目撃者。本人は見ていない、という点が気になる。この人は家族の名誉のために本気で探しているのかもしれない。
◆映画に登場する目撃者の体験談が真に迫っているのは、人は理解不能なものを見てしまったときにどんな反応を示すのかを如実に表しているからだ。人はその瞬間に硬直する。そして本能的に逃げる。正体を確認する余裕などない。
◆自分に引き寄せて記憶を探る。タンザニアの平原。道とはいえない道。何かの気配を感じてバイクを止める。気配の方を見る。複数の電信柱のようなものが猛スピードで迫ってくる。正体はキリンなのだが、キリンが突っ込んでくる、というビジョンが自分の中にない。理解できないから判断もできず動けない。僕は逃げることすらできなかった。
◆それにしても、なぜこれほど目撃例が多く、地域も広く、姿形も似ているのか? 目撃例は江戸時代まで遡る。話し手の今井さんが一番若い目撃者。つまり絶滅した生き物という可能性もある。そんなものいるはずがない、と自信満々に言える人の根拠は何か? 自分が世の多数派の側にいる安心感から、なんとなく言っているだけではないのか? ただ単に無知なだけではないのか?
◆これも思い当たることがある。エクアドルアマゾンでガイドしてくれたハリンが両手を広げ、ここにはこのサイズの亀がいると言った。ゾウガメじゃあるまいし、淡水にそんな生き物がいるはずがない。即座に否定したら、息子が庭の水たまりから巨大な亀を引きずりだした。確かにハリンのいう通り、甲羅の大きさだけでも1メートルを軽く越えていた。自分の知識や常識、想像力を超えたものは世の中には無数に存在する。理解できないから「いない」というのは傲慢であり、無知なのだと思う。[坪井伸吾]
■中学高校の先輩である延江由美子さんから地平線会議を紹介されたのが3年前。江本さんとは同じ大学の同じロシア語専攻という偶然に、勝手に運命を感じていたものの(笑)、当時はコロナで報告会はお休みだったので、今回念願の地平線報告会に初参加できました。
◆今井友樹さんのお話しと映像は、ツチノコだけにとどまらず、カスミ網猟から座敷牢まで、面白すぎて何度もトークをとめて質問したい気持ちを抑えていました。以前は生まれ故郷に興味のなかった今井さんが、ツチノコを取材していくうちに、故郷や村の人達の魅力に引き込まれていくのはまだいいとして、今井さんの心が、ツチノコからツチノコを語る人々へ、さらに彼らの暮らす風土へと大きく広がっていき、ついに「心の豊かさ」という、もはやツチノコはどこかに行ってしまうほどの深い悟りの境地に達していて、映画完成前に出家してしまうのでは?と心配しました(笑)。
◆今はまだ謎のツチノコが、いつか発見されてしまい、大勢の見物客にさらされ、人間との接触が増えてあっけなく絶滅しませんように!と無駄に心配している自分のスケールの小ささに苦笑です。とはいえ、最後に登場した中国人の方の故郷にもツチノコにそっくりな生き物がいるという報告を聞いたときは、これは絶対いるでしょ!と確信しました。
◆さらに、個人的に印象的だったのがカスミ網猟のお話しです。20代のころ、ケニアに3週間滞在して、渡り鳥調査のボランティアに参加したのですが、それがきっかけで鳥好きになり、その後、軽い気持ちで入会した日本野鳥の会から送られてくる『野鳥』というマニアックな雑誌に今井さんの『鳥の道を越えて』が紹介されていたのを思い出しました。
◆ケニアでは、Tsavo National Park内のロッジ周辺の斜面に何枚もカスミ網が設置されていて、深夜から早朝にかけてヨーロッパからアフリカに渡ってくる野鳥が網にたくさん絡まっているのを、私達ボランティアが1羽ずつ丁寧にほどいてフィールドステーションに持っていき、種類ごとに個体数、体重測定、足に標識をつけるリンギングなどを手伝いました。その時に、鳥類学者の方が「このカスミ網は日本製だよ。日本製が一番切れないし丈夫なんだ」と説明してくれました。カスミ網はもちろん、野鳥の捕獲自体がとっくに禁止されている日本で作られているなんて!と驚いたのを覚えています。
◆かつては、食べるため生きるために使っていたカスミ網の技術が、今は世界の野鳥の保護調査に役立っているのです。伝統が消えていくのは寂しいことですが、知恵や技術は姿形は変わっても、私達の暮らしにしっかりと生き続けている気がします。
◆現在、中野のシェアカフェ una camera liveraの世話人をしており、そこで2020年から民族文化映像研究所の作品の上映会を不定期に開催しています。現在、今井さんの作品の上映会も開催したい!と妄想中。記録映像は人類の財産です。タイムマシンが発明されるまでは。[田中澄子]
■2018年11月、カスミ網猟を見に行った。今井友樹さんの前回の報告会に参加してから2か月後のことだ。スライドで紹介された福井県のカスミ網の猟場「織田山ステーション」が自宅から1時間ほどの距離にあるとわかり、妻と子供を連れて訪れた。ここは、地元の人たちによってカスミ網猟が行われていた場所で、現在は環境省の委託をうけた(財)山階鳥類研究所が、渡り鳥の標識調査を行う施設となっている。
◆期待に胸を膨らませ進んだ猟場までの道のりは、クルマで進み続けるのが不安になるくらい、細くうねうねした急登が続く山道だった。山道を登り終え、山の中腹に出ると、突如、30軒ほどの立派な集落が見えてきた。そして、集落を越えたすぐ先の山中の、大人の背丈ほどの高さに切り揃えられたやぶの中に、カスミ網が支柱に沿って帯状に張ってあった。黒色をした細い網は夕方であれば人間の目でも見えないと思うほど、周囲の景色に溶け込んでいた。
◆日中ということもあってか残念ながらカスミ網にかかった鳥は見つけられなかったが、周囲の山々からは鳥の鳴き声が聞こえ、生き物の濃い気配が感じられた。ここに来るまでの道のりから、カスミ網猟は下界から隔絶された山の中でひっそりと行われる猟であり、そしてここには「鳥の道」があるのだと確かに感じることができた訪問だった。
◆私には小さな後悔がある。おばあちゃん子だったにも関わらず、わらじをあっという間に作る祖母から、その技術をまったく教わろうとしなかったことだ。流れるような動作で、藁を縄へと変え、いとも簡単にわらじを作る年老いた祖母の姿は子供心にも印象に残っている。大地に根を張ったような強さを感じた。それでも当時の私は、わらじなんて過去の遺物としてしか考えられなかった。祖母の世代からしか学べないような生きる知恵というか力のようなものをもっと学ぶべきだったと今にして思う。
◆今井さんに興味を惹かれたのは、そんな私自身の後悔に対して真っ正面から取り組み、消えゆく市井の人々の生活を映像に残す仕事をされているからだ。ご自身のおじいちゃん、おばあちゃん、そしてその周囲の人たちから話をしっかりと聞き、その背景までを丁寧に映像に反映させる。あと数年遅かったら、この人たちはこの世界にいなかった。今、この記録を残せてよかった。そんなことが感じられる映像だ。最後に。今回の報告会は、出張先の東京から当日中に自宅へとどうしても戻らなければならなかった。そのため報告会が始まって1時間後の19時半には途中退席した。後ろ髪を引かれる思いだった。いつかまたじっくりと話を聞ける機会があればと思う。今回の報告会のレポートが楽しみだ。[福井県 塚本昌晃]
■江本さん、こんにちは。暑くなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか? 6月末に、1か月のトルコでの地震被災地の取材を終えて帰国しました。今回の取材は、いつもより期間が短かかったため、先へ先へと急がなければいけなかったこともあったのですが、子供たちが大きくなり、子供を見守りながら自分の取材を進めることが本当にハードで、大変くたびれてしまいました。子供を取材に連れて行ったはずが、逆に子供たちにあちこち連れていかれ、立場逆転です。帰国後はどっと疲れが出て、3日ほどぐったり。当たり前ですが、子供が大きくなるにつれ、自分はどんどん歳をとっていくのだと実感した次第です。
◆この取材では、地震被害が大きかったハタイ県のアンタキヤ市、また被災者が多く避難しているレイハンル市に滞在し、被災者キャンプにテントで寝泊まりしながらさまざまな方のお話をお聞きしました。壊滅的な被害を受けたアンタキヤでは、地震で亡くなったシリア人の友人ヤヘヤのマンションの跡地を訪ね、墓参りをし、たった一人生き残った9歳の息子と会いました。
◆地震被災者の墓地では、20歳前後の三人の娘全員を地震で失くしたというシリア人男性にお会いし、「子供たちの安全を願ってシリアからトルコに来たが、地震から守ってやれなかった」という深い悲しみの声をお聞きしました。この場所に毎日通い、亡き娘たちに話しかけているそうで、男性も地震から4日後、日本の救助隊に救出されたとのこと。日が沈んでもなお、ひとり墓地に座り娘たちの墓石を眺めているあの男性の姿が、今も脳裏から離れません。
◆日本では地震のその後の報道が少なくなってきましたが、現地ではいまだ多くの人々が、先行きの見えない不安定な生活を続けています。私は被災地に立ったことで、この地震が想像しがたいほどの未曾有の大地震であったことを感じました。被災地では、その瓦礫の山から、スイカやトマト、きゅうり、ひまわりなどが芽吹き、大きく育って花を咲かせていました。倒壊したマンションの台所にあった食材が、瓦礫に埋もれ、発芽したようです。「国破れて山河あり」。人間の暮らしがその場から消え去っても、植物は繁茂し、やがてこの人間の生活の痕跡を覆っていくのだという、なんとも言葉にできぬ感慨がありました。
◆これまでで最大のパニック子連れ取材だった今回は、まだまだやり残したことがたくさんあったのではと、帰国してからあれこれ思い出しては悶々としています。人生の時間は限られており、心をこめてやれることもまた限られてはいるのですが、とにかくこの時代に生きているということに真摯でありたいと思うのです。取材した内容は、今月、来月で新聞や雑誌などに寄稿させていただく予定です。
◆また地平線会議で江本さんとお会いできますことを楽しみにしています。お時間がありましたら、是非お茶でもご飯でもご一緒させてください。取り急ぎ、帰国のご報告でした。[小松由佳]
■ほぼ毎年企画している「夏だより」特集を今年も8月号でやります。普段読むだけの人も是非参加してください。ただし、8月号は9日に印刷、発送しますので締め切りは早いのですが、1週間前の8月2日とします。字数は原則300字以内(編集長からとくに頼まれた人は別です)。
■メディカル・ミッション・シスターズ(MMS)の延江由美子です。5月号でお知らせさせていただいたギャラリーDeepdanでの写真展はおかげさまで無事終わりました。地平線通信で知った、という方も何人かいらっしゃいました。ありがとうございました。
◆実は今、インド北東部はマニプール州で大変なことが起きています。ミシシッピ・バーニングならぬ「マニプール・バーニング」です(『ミシシッピ・バーニング』は1960年代アメリカ南部で人種差別から起きた事件を描いた映画。1988年公開)。
◆私がこのことについて初めて知らされたのは、北東部のMMS共同体から。5月のはじめのことでした。曰く「5月3日以来、これまでに見たこともないような激しい暴力と混乱の嵐に見舞われているマニプール州は、恐怖と無力感と絶望感に包まれている。多くの命が失われ、家屋は焼かれ、略奪が起こり、祈りの場に火が放たれる。何千、何万という人々が住む場から追いやられ、州都インパールからだけでなく、州から他のより安全な地に避難している」。
◆それ以来インドにあっては北東部のみならず全国的に大きく報道されている重大な出来事なのに、日本ではほとんど知られていません。他のインド北東部についてと同様、極めて複雑な事柄なので正確にお伝えすることは到底できないですが、現地から送られてきたことをもとに申し訳程度ですがシェアします(“Manipur is Burning”で検索するといくつも動画が出てくるのでご覧ください)。
◆マニプール州ではこれまでもいくつかの問題が燻り続けており、深い不安と感情のもつれが積もりに積もっていました。もう10年以上前ですが私の拠点がメガラヤ州ガロヒルズだったころ、マニプールに派遣されたインド国軍人である息子や夫を持つガロ女性は、いつも気が気ではないと言っていたものです今回はMeitei(メイテイ)とKuki(クキ)をはじめとする先住民族の民族間紛争です。メイテイが長年にわたり要求してきたScheduled Tribe(インド憲法に基づき大統領が指定する民族集団)への指定を認める方向をとるというインド最高裁の判決に他の先住民族らが反発したことが発端で、資源が豊富な土地をめぐる争いも背景にあります。
◆キリスト教会も完全に巻き込まれていて、メイテイの教会もクキの教会も多くが襲われています。どうやら、文化の保存という名目でキリスト教の存在を混乱させようと目論む狂信的な集団をも刺激しているらしいです。民族に関わらずマニプール州に住むあらゆる人々が甚大な影響被害を被っているこの事態。このような危機的惨事に陥ってしまった要因は他にも多々あり、どれも根が深いとのこと。
◆インド国軍が大量に投入され事態を沈静しようとするも一向に収まる気配はないようです。そのさなかモディ首相はアメリカを訪問。バイデン大統領から国賓としてもてなしを受けたことは皆さんもご存知でしょう。[延江由美子]
■初めまして。いつも楽しく読んでおります。大陸横断や縦断、辺鄙な山国などを徒歩や自転車で回っている記事を読んでいると、もうそんなに歩けませんが、地図を横に置いて読む(見る)のが大好きです。
◆で、「地図中心」という雑誌があります。一般財団法人日本地図センターで発行していますが、最新610号が「総特集 日本空港地図九十七景」で、国内の97の空港・飛行場を「同一縮尺地図」で紹介しているのです。空港で飛行機の飛び立つさまを見たりするのが好きな方、飛行場巡りの参考になると思います。また、全国の所在地の空港地図を手元にあれこれ空想するのもいいと思い、おすすめした次第です。「同一縮尺地図で」というのがグーなところです。
◆なお、老人としては「もう1ランク」大きな字で発行してくれると助かります(「幻の蛇を追って」の手描き文字の、なんと読みやすかったことか!)。[柏市 上舘良継(78歳)]
■なんと50歳になりました^^! この節目にも、色々考えさせられて整理してる最中です。ひとまずはじめたのは、語学、笑。今更ですが、こんなにネパールに行ってるのに、適当な語学で恥ずかしいのです。英語・ネパール語・大阪弁とミックスして、あとはノリ?!でなんとかしてきましたが^^。来年の遠征に向けて英語とネパール語をなんとかしたいと思います。できたらチベット語も必要ですけどね、一気には無理なのでボチボチいきます……。
◆ということで、来年の夏、またドルポ遠征を計画してます。それまでに、写真集を出版したいと思い、昨年から動いてます。完成したら写真展もやりたいと思ってます。そして、私のライフワークの新・河口慧海プロジェクトも、水面下で動いてます。この前、春のネパールでも現地で情報収集していました。[稲葉香]
■はじめてカナディアン・ロッキーを訪れたのは夏だった。1996年6月から10月にかけて1500キロ歩いた。ちょうど東京から宗谷岬までの距離だ。内訳は、トレイル(日本の登山ほどは整備されていない)6割、トレイルのないところ(樹林帯、草原、氷河)2割、ハイウェイ2割。大がかりな計画のようだけれどそうではない。当初は、とりあえず2週間歩いてみようとはじめた。
◆おもいのほかおもしろい。もうちょっと歩こう。その都度地元のちいさな図書館で調べものをする。資料探しや地図を眺めるのは昔から大好きだった。初夏にはじめたはずの旅は、いつしか冬のはじまりになっていた。
◆ところでなぜカナディアン・ロッキーなのか。きっかけはたまたま立ち読みしたアウトドア雑誌の長期縦走の記事。ただの思いつき。でも、天からアイディアが降ってきたのとはちがう。それまでに読んできた本、出会った人、考えたことがうまく噛み合ってわいてきた。だからそこでだったらチベットはとかカムチャッカはと問われても困る。
◆さて、このころのわたしはちょうど30歳。自分のすすむべく道を見いだせずに焦っていた。登攀は20代前半で才能のなさを悟って断念。高校生のころから憧れていた自転車旅やバックパッカーの旅もやってみた。新しい土地も人との出会いも楽しい。けれどもどこかものたりない。自分はいまたしかに生きているという緊迫感に欠けた。そんなときにカナディアン・ロッキーのほうから手招きしてくれたのかもしれない。
◆カナディアン・ロッキーでおなじみの光景は、氷雪をまとった急峻な岩山、氷河、鮮やかなブルーの湖。でもそれだけではない。ふと日本の中部山岳地帯にいるのではとおもわせるような光景にしばしば出会う。山脈西側は太平洋に面しているため年間を通じて降水量が多い。鬱蒼とした深い森、湿地帯、無造作にのびた木の根っこや深緑色の苔、散乱した朽ちた木の枝。そして山の奥深さ。カナディアン・ロッキーのもうひとつの顔に魅せられた。
◆たくさんのハイカーで賑わうのはぜんたいのほんの一部。大部分は、夏のハイシーズンでも静寂につつまれている。緯度が高いので、夜10時過ぎまでライトなしで行動できる。余裕をもって毎日10時間以上歩ける。奥深い森のなかをひたすら歩く。トレイルはしょちゅう不明瞭。整備されているのは一部の人気ルートのみ。トレイルなのか踏み跡なのか、あるいは獣道なのか。何度道に迷ったことか。
◆国立公園内でも一部人気エリアを除けば焚き火ができる。夜は枯れ枝をふんだんに集めて焚き火をする。紅茶を飲みながら1日をふりかえる。自分が求めていたのはこんな旅だったのかもしれない。そして静かに「これだ」っておもった。このときはMt.アシニボインやテンピークスなどピッケル、アイゼン、ロープなどを使用する登攀的な山にも登ったけれど印象は浅かった。
◆2週間分の食糧燃料を担いで入山する。食糧燃料が尽きたらハイウェイに降りて麓の町で買い出し。ふたたび入山してつづきを歩く、を7回くりかえす。あとから数えたら歩いている日数と麓の町に滞在と半々くらいだった。麓の町ではキャンプ場やユースホステルに泊まる。
◆夏の繁忙期はほぼ満員。出会った日本人旅行者とはよくお好み焼きをつくって食べた。小麦粉、卵、玉ねぎ、ニンジンはどこの町でもふつうに置いてある。ソースはケチャップだったり醤油だったり。関西人にいわせたらイカサマお好み焼きかもしれないけれど美味い。欧米人からはよくホットドッグを、韓国人からは韓国風のり巻きをごちそうになった。韓国人の移民が多いため食材は手に入る。韓国風のり巻きは、日本のおにぎりのようにハイキングの定番のようだ。
◆「やっぱり旅なんかしていても将来プラスにならないですよね」「いや目に見えるものだけがすべてじゃないでしょ」。結論を求めるのではない。模索することに意義がある。夏の終わりとともにキャンプ場やユースホステルがクローズになってゆくのが寂しかった。そして秋の終わりから冬のはじまりに見られる、上半分が雪景色で下半分が黄葉におおわれるカナディアン・ロッキーは圧巻だった。
◆すこし長めに歩いただけで記録的価値はない。パイオニア・ワークなんてこれっぽっちもない。それでいてワン・シーン、ワン・シーンが思い出として焼きついた。山もよかった、麓の町もよかった、出会った旅人もよかった。1996年の夏は長いようで、あっという間に過ぎ去っていった。
■4ページの小原信之さんの投稿に登場する「黄河源流探検隊」。1985年、日本ヒマラヤ協会と読売新聞社が企画実行した黄河の最初の一滴はどこか、を探る不思議な探検隊であった。日本から八木原圀明隊長以下登山家、動物、植物、水質の研究者、中国科学院から青海省登山協会の高成学さん以下登山家、学者が参加し、青海省の黄河源流域を探検した。
◆何をもって「最源流」とするかについては古来さまざまな記録があるが中でも知られているのが「星宿海」という場所である。東西30キロ、南北10数キロの広大な湿地。小さな池か沼地が広大な草原に広がっており、そのひとつひとつの池に星が宿る、との美しい伝承だが実際にたどり着いてみると雨季に入る前だったせいかあちこちに干上がったままの池が見られ、期待したような美しい源流風景とはならなかった。
◆星宿海の手前に双子の湖、オーリン湖、ザーリン湖がある。標高4200メートル。「鱗のない生きた魚」がいると聞いて潜ってみたが、残念ながら泳ぐ姿は見つけられなかった。かわりに中国の魚類学者が投網で何匹かを捕獲し、研究所に持ち帰った。
◆探検隊はこの貴重な機会にさまざまなことを試みた。星宿海から流域最奥の街マドまでの200キロを3チームがリレー式にゴムボートで下ってみたのもそのひとつである。
◆私は梶光一隊員、渡辺久樹隊員と3人でザーリン湖横断チームとして20キロ先の対岸を目指した。うまくオールが水をつかみいい出だしだったが、やがて雨が降り出した。風も次第に強くなって、大きなうねりが次々にやってきた。結局6時間40分かかってザーリン湖を横断した。今度は隣のオーリン湖への水路、つまり黄河本流探しに苦労する。5時間も漕ぎ続けたあと、ボートを岸につけ近くの山に登ってようやくオーリン湖への入り口らしき地点を確認できた。
◆広いオーリン湖へ出た時は3日目の夕方になっていた。もう2日も連絡の取れない私たちを心配して「ボート隊、ボート隊」と仲間が呼んでいる。4日目、なんとかオーリン湖にたどり着いた。ここからは八木原隊長、それに映像チームの小原隊員も加わって5人が2隻のボートで目指すマドまでくだった。
◆黄河は全長5464キロ。中国では「江」といえば全長6200キロ、中国最長の河川である長江、「河」といえば黄河を指す。その最源流はどこか、は古来から最大関心事だった。1985年の探検では青海省の奥地、ヨグゾンリエチュー、ザチュー、カルチューの三つの流れから成り立つ黄河源流域を四輪駆動車と徒歩で動きまわり、多くの遊牧民と交流させてもらった。そして、源流の一つ一つを辿ってみて最後にカルチューの水源の5つの池に到達した。グズグヤ山という分水嶺があり、そこにはなんと黄河と長江の水源の双方を見渡せる、壮大な風景が広がっていた。最接近地点は長江と黄河の距離わずか200メートルだった。
◆探検の記録は『黄河源流を探る』という写真集、『ルポ 黄河源流行』という本(いずれも読売新聞刊)に詳しく記録されている。私と共にオーリン湖を横断した梶、渡辺隊員はいまもこの地平線会議の仲間である。[江本嘉伸]
■地平線会議に会費はありません。通信費(年2000円)と報告会参加費(500円)は頂いています。先月の通信でお知らせして以降、通信費を払ってくださった方は以下の方々です。カンパとしていつもより多めに支払い、あるいは送金してくださった方もいます。貴重なカンパは未来を担う若者たちの購読支援に役立たせており、地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、できれば、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。
大河原由紀子(4000円 地平線会議には会費はなく通信費なのですね。最近号を手にして大いに関心を持ちました。今後ともどうかよろしく。注:大河原さんはカトマンズで長く日本人登山隊の世話焼きとして知られた人。多くの登山家が世話になった。最近半世紀ぶりに日本に引き上げた)/長塚進吉/帰山和明(10000円 バイクが好きで賀曽利隆さんの報告会に初めて参加させてもらってから30年あまり。いつもありがとうございます)/水落公明(3000円 いつも“地平線通信”をお送り頂きありがとうございます! コロナ禍もようやく下火になり、国内外へ出掛ける機会も増えてきたようですが、まだまだその一歩が踏み出せない今日この頃です。引き続きよろしくお願いします。通信費とカンパ送金します)/長瀬まさえ(5000円)/河田真智子(10000円 いつも、ありがとうございます。通信費5年分、送らせていただきます)/本郷三好(6000円 江本さんからご縁を頂きました。通信費3年分です。よろしくおねがいいたします)/大浦佳代(6000円 前号を見て、江本さんに鍼灸院を紹介してもらいました。初体験。積もった不調に「気」が通って楽になればと期待)/井上和衛(10000円 早大探検部だった井上一星さん祖父。本人からは長期連絡なし)/伊丹紹泰(30000円 積年の友情に感謝。7月12日から31日間、タジキスタン・パミール踏査隊で出かけます。単なる四駆でのツァーで探検的要素はありませんが「ワハン回廊」「ワハンコリドー」の響きがたまりません。ご夫妻ともどもお身体ご自愛願います。注:1980年のチョモランマ登山隊以来の江本の仲間)
■この通信で過去何度か、「信州森フェス!」のお知らせをさせていただきました。昨年の第10回で終了と宣言しながら、この6月末に第11回目を催行。今年は我らがモンゴル娘、大西夏奈子さんの講演もあり、2日間で約千名のご来場がありました。森フェスにはこれまでも関野吉晴さん、服部文祥さん、伊沢正名さん、長岡竜介さん、車谷建太さん、今井友樹さん、小松由佳さん、高野秀行さん等々、地平線会議の仲間たちにも出演協力を多々いただいてきました。来年も開催することになりそうなので、この機会に長野県の上田市菅平というローカルな場所で10年以上続けてきた信州森フェスについて少しお話ししたいと思います。
◆「信州森フェス!」はフェスという性格上、二日間の日程でライブ演奏やエンタメ(今年は「信州プロレス」の興行とか、タミル民族ダンス、フラダンスなどもありました)、飲食他たくさんの出店やワークショップ等、盛りだくさんのプログラムがあります。でもメインは、森や自然に関するちょっとアカデミックな講演と位置付けてきました。長野県は海無し県で森林率は高いのですが、身近すぎるのか「県民は意外と森のことを知らないかも」というのが始めたころのスタッフの認識です。そこで、「いろんなメニューを楽しんでいるうちに、なんとなく森のことを少し考えちゃうような場所」というのを、当初から森フェスのメイン・コンセプトに据えてきたのです。
◆始まりは今を遡ること13年前。2010年の4月に中米コスタリカにスタディツアーに出かけたのがきっかけです。旅を呼びかけたのは、菅平の近隣「峰の原高原」でペンションを経営する福永一美さんでした。彼女が個人的に企画したこのツアーに僕も参加。一行は福永さんと、息子でプロ・スノーボーダーの中山二郎くん、その友人の写真家原田岳くん、そしてJICA専門員として中南米で農村開発や自然資源管理の活動に長らく携わっていた城殿博さん(現地で合流)の5名。メンバーでスペイン語を流暢に話せるのは城殿さんだけだったので、ほかの人は英語と片言のスペイン語のチャンポンで旅をした覚えがあります。
◆福永さんは「にっぽんこどものじゃんぐる」というNPOを89年から続けています。子供達の地域清掃活動などから得たお金をコスタリカに寄贈し、熱帯雨林を守る運動に寄与するという活動です。新聞記事で読んだ海外の子供達の熱帯林保護活動に興味を持ち、熱帯林とは何か?を調べるところからのスタートだったそうです。環境問題が今ほど一般的ではない当時、子供達に嘘は言えないと必死で勉強を始めた。そこから人生が100倍にも広がったと福永さんは言います。
◆何度もコスタリカに赴き、知己も多い一美さんの人脈はなるほど豊かでした。この半月ほどの旅でも世界的な昆虫学者ダニエル・ジャンセン教授や、現地在住の気鋭の昆虫学者西田賢司さんを始め、環境問題に携わる研究者を訪ね、グアナカステ保全エリアの熱帯乾燥林やモンテベルデ地区の熱帯雲霧林など、コスタリカの多様な自然環境をみっちり案内していただきました(この旅に関しては2010年5月の地平線通信366号に「コスタリカはエコ優等生か?」の報告文。地平線カレンダー2011・2012にコスタリカの森をテーマに絵を制作。雑誌「ソトコト」137号に「コスタリカ、生物多様性のデパートへ」という記事を執筆)。
◆個人旅行にしては贅沢なアテンドがついたスタディツアーでしたが、もともとが能天気な仲間たちですから、笑顔いっぱいお腹いっぱいの凸凹珍道中でした。帰国後、せっかくだから報告会を企画します。その話し合いの中で上がった、「どうせなら人を集めて楽しくやろう」という声がフェス開催へと膨らみ、前述した森フェスのコンセプトが浮かび上がりました。しかし我々には資金もなく、ノウハウもありません。
◆ここでもまた一美さんと二郎くんの幅広い人脈で次々と人が集まり、事態が動き始めました。菅平のプチホテル・ゾンタックのオーナー、松浦さんのご好意で、それまであまり使われていなかった別館「フォーレス」が森フェス会場に使えることになります。天竜スギの8mの通し柱をはじめ、ふんだんに木材が使われているバブリーな建物。今思えば、このフォーレスをメイン会場に使えたからこそ、ここまで続けてこられたのでしょう。
◆信州大学で森林生態学を教える井田秀行准教授(当時)の参加でアカデミックな部分の下支えがなされます。森フェスのゆるキャラ「森野茉津里」君を僕が作り、もう一人のイラストレーター長針明美さんと会場内のいろいろなポップなどを手描きで制作しました。そして二郎くんのスノボ仲間達が森で遊ぶ人たちを巻き込んで行きます。
◆開催地の菅平高原は標高が1300mと高く、夏季はスポーツ合宿でホテルが忙しくなるため、夏前の6月最終週末をフェスの開催日としました。梅雨の最中ですが、これまで比較的好天に恵まれています。2011年6月に開催した第一回目の記録が手元にもネットにも残っていないのでうろ覚えですが、このときはたぶん2日間で200人くらいの入場者だったと思います。スタッフは僕以外は県内在住者で全員手弁当。これは今でも変わりません。当初のスタッフは6、7名だったのかな。運営資金は「にっぽんこどものじゃんぐる」から借りた30万円くらいのお金だったと思います。この資金を返すのに3年くらいかかったようです。
◆地元の中小企業に小口の協賛金は募るけど、自分たちの自由にやりたいので基本は小規模手作り。自腹で好きでやっているんだから、スタッフが面白がれる場にするというのが暗黙のルールです。近年は1000人の来場者がいらっしゃるので、駐車場の整理にシルバー人材センターや学生バイトなどもお願いしますが、規模が大きくなった今も運営体制や運営資金はほとんど変わりません。出店者からは売り上げの10%の協賛金をいただき、出演者には些少のギャラなどを場合に応じてお支払いしますが、最終的に残るのはほぼ当初と同じ程度の運営資金。遊びは明朗会計に限りますね。
◆結局コスタリカの報告会は森フェスでは行っておらず、勢いで始まった手作りのイベントがコロナ禍を挟んで11回続いてきました。当初は、10年も続いたら止めようねと冗談のつもりで言っていたので、昨年で一区切りのはずでした。しかし10年のうちに「信州森フェス!」が地元に浸透し、出店者や若いスタッフから続けて欲しいという声が聞こえてきました。今年の森フェスは4月後半から「やっぱり今年もやる〜?」という感じで始動し、開催前のスタッフ全体ミーティングはなんと1回のみ。会場準備は開催2日前からでした。12年の蓄積はスタッフの阿吽の呼吸を生んでいますが、さすがに今年はスケジュールがタイトだったので、来年はもう少し早く準備を始めます。毎回決めているテーマも早めに設定して、スタッフそれぞれがお話を聞きたい方に早めにアプローチをする予定。地平線会議の皆さんも、もしお声をかけさせていただいたら(ギャラは少ないですが)、ご検討よろしくお願いします。[長野亮之介]
■6月24日、長野県の菅平高原で開催された「信州森フェス!」に家族5人で行ってきた。地平線でもおなじみの長野亮之介さんが運営に関わっているイベントで、自然としての森林、森とひととの関わり、森とつながる暮らしについて、森のなかで楽しみながら考えてもらうきっかけづくりとして始まり、今回で11回目の開催。私たち家族は昨年初めて参加した。フェスの来場者は、小さな子どもを連れた家族が多いのが印象的だった。うちの子どもたちは、会場に来ていた子馬と触れあったり、ツリークライミングを体験したりと、親の想像以上に楽しんでいた。
◆昨年、屋外の芝生で休んでいたときのこと。すぐそばに、歩き始めたばかりの2児を連れた若いお母さんがいて、ぐずる子どもたちに疲れ果てた様子だった。見かねた妻が声をかけて、ぐずった子をあやしたり、うちの子どもたちが一緒に遊んだりして、すっかり仲良くなった。その2児は男女の双子で、お母さんは昼にキッチンカーでお弁当を買ったのだけど、けっきょく夕方まで食べる余裕がなかったそうだ。その人は近隣の嬬恋村でキャベツ農家を営んでいるそうで、1歳の双子と一緒に思い切ってフェスに来たものの、子どもたちの機嫌が悪くなって困っていたという。妻は同じ双子の母ということで、子育ての苦労に共感することも多かったようで、その後も連絡を取り合って、昨年出版した絵本を送ったり、嬬恋村でとれた新鮮なキャベツを送ってもらったりと交流が続いていた。
◆そんな出会いから一年。会場に着くと、長野さんが手描きで制作したキャラクターやサインがあちらこちらにあり、私にとってはそれだけでもホーム感があった。そしてフェス全体に漂うゆったりとした空気感は前回と変わらず、森フェスに戻ってきたという気持ちが高まった。そして双子の母たちは再会。今年はお父さんも一緒に来ていたので、フェス会場を家族で一緒に散策した。会場を見わたすと、自然志向のライフスタイルやオーガニックな食材を好む人が多いように見えた。小麦色の肌、ふんわりとしたワンピース、そして素足にサンダルというナチュラルな雰囲気の人々。キッチンカーで出店している人たちも、近隣に移住してきた子育て世代が多いようだ。
◆「森」という言葉に惹きつけられて、多様な価値観を許容するような人々の中にいると、うちのいたずらっ子でも受け入れてもらえるようで、とても居心地がよい。多種多様な生き物が共存している森のように感じるのだ。昨年は車谷建太くん、今年は大西夏奈子さん、地平線の同世代の仲間たちとも時間を共にすることができた。そして、長野さんは私にとって林業の師匠なので、安全な伐倒の方法、間伐、育林の考え方、アイヌと森の関わりを教わり、森林への関心がいっそう深まった。
◆森フェスに行った夜、私たちは嬬恋村にあるキャンプ場で一泊した。翌朝、嬬恋村の双子のお母さんが、子どもたちをキャンプ場に連れて来てくれた。きっと子どものお世話で手一杯だったと思うのに、私たち家族の朝昼の食事に気を遣ってくれて、手作りのお弁当とたくさんの土産を届けてくれた。森フェスというオープンな場のおかげで出会えた、2つの双子家族。フェスを運営されている方々の大変さは想像しつつも、あの素敵な場が続いてくれたらいいな、と思った。
◆子どもたちがひとしきり遊んだあと、双子のお母さんたちは「また来年、森フェスで」とあいさつして、私たちは帰路についた。[山本豊人]
■先月、新著『穂高に遊ぶ 穂高岳山荘二代目主人今田英雄の経営哲学』が刊行された。北アルプスの穂高連峰、標高2996メートルの白出のコルに建つ穂高岳山荘は、今年創立100周年を迎える。本書はその記念出版として企画され、光栄なことに僕が執筆を担当させてもらった一冊である。サブタイトルにあるように、この本は山荘の二代目主人である今田英雄さんの「山小屋づくり」を柱とした半生記でもある。英雄さんの人物像を多角的に描くため、本人だけではなく、現主人(三代目)で一人娘の今田恵さん、現場の仕事を取り仕切る支配人の中林裕二さんをはじめ、元従業員の方や山荘とゆかりの深い方たちにもインタビューを行った。
◆刊行後、江本さんにも本をお送りすると、しばらく経ってからお電話をいただいた。次の地平線通信で本の紹介をしてくれるというありがたいお申し出だったが、ひとつお題を出された。「この穂高の本と『日本人とエベレスト』を結びつけて書けないかな?」。『日本人とエベレスト』の内容は昨年5月の地平線通信(517号)に書いたので詳細を省くが、共同執筆者として江本さんも僕も関わった本である。今春「梅棹忠夫・山と探検文学賞」の受賞が決まり、7月24日には授賞式が行われる。
◆穂高とエベレストか……江本さんからの電話を切ったあと、僕はしばし途方に暮れた。ともに山の話ではあるが、いったいどうやって結びつければいいんだろうか、と。『穂高に遊ぶ』は、英雄さんが半生を懸けて、どのように理想の山小屋を具現化してきたか、ということが主軸となっている。山荘の前に広がる石畳のテラス、総ヒノキ造りの吹き抜けの食堂、秘密の地下室、空気の缶詰、太陽のロビーなど、英雄さんは斬新なアイデアを次々とかたちにしてきた。中でも70年代後半から始めた風力発電や太陽光発電などの自然エネルギーの活用は先進的な取り組みであった。風や太陽光、石や水といった、山にもともと存在するものを自らの山小屋に生かしていく。「そこにあるものを生かす思想」――英雄さんの山小屋づくりの根底にある考え方を、僕はこんな言葉で表現した。
◆とはいえ、そんな山小屋の話と、エベレスト登山の話をつなげる糸口が見つからず、数日間あれこれと思案し続けた。そして次第に像を結んできたのが「歴史をどう書くか」という視点だった。『日本人とエベレスト』は日本人によるエベレスト登山50年の記録をまとめた本であり、『穂高に遊ぶ』は穂高岳山荘の100年史。物語る対象は違えども、かたや半世紀、かたや一世紀と、どちらも長い歴史を取り扱っている。
◆歴史を扱う物語を書くとき、もっとも苦心するのは、過去の資料や関係者のインタビューから得られた膨大なエピソードをどう取捨選択し、並べていくか、ということだ。どんなテーマであれ、起こった出来事のすべてを書くことはできない。それが半世紀や一世紀という長い歴史となれば、なおさらだ。最近読んだ藤原辰史さんという歴史研究者のエッセイに次のような文章があった。「史料は、過去の出来事の断片を映し出しているに過ぎない。(中略)歴史研究ができることはせいぜい断片を並べ、その角の取れ方や模様などを分析し、大まかな方向性を探ることにすぎない」「できるかぎり多くの史料と歴史研究を読み込み、出来事の文脈を探らなければならない」。
◆『日本人とエベレスト』のあとがきで編者の神長幹雄さんは「今回の書籍では、誌面の都合から取り上げられなかった多くの登山家がいる」と書いている。彼らは「エベレストとは切っても切れないゆかりの登山家」であるが、それでも神長さんは本の文脈をより明確にするために選択したのだろう。『穂高に遊ぶ』でも、まずは関係者へのインタビューや文献などを読み込むことで、エピソード(断片)を集めていった。それらの断片を取捨選択し、並べるとき、もっとも意識したのは「それぞれの断片は本のどこに置くことで最も生きるか」ということだ。同じエピソードでも、置かれる場所や前後とのつながりによって読まれ方は違ってくるし、それによって本全体の印象も変わってしまう。テーマの本質に迫れるように、いかに断片を並べるか。そこに書き手の力量が問われていると思う。
◆本が発売になったあと、恵さんのSNSに英雄さんの次の言葉が紹介されていた。「谷山さんの取材と執筆は、うちの小屋の石集めで膨大な石が一面を埋め尽くしている、そしてそのひとつひとつを組み合わせていって、周りから見れば不思議なことに綺麗にテンバ石が揃い石畳が埋まる、これと同じだなぁ」。英雄さんは従業員と力を合わせて、形や大きさの異なるさまざまな石を組み合わせ、美しい石垣や石畳をつくってきた。それらをどれほど誇りに思っているかは、英雄さんの話を聞きながらもっとも強く感じたことのひとつだった。本書をそんな自慢の石垣や石畳に例えてもらえるなんて、書き手としてこれほど嬉しいことはない。[谷山宏典]
■北アルプス山麓で林業に就いて2度目の夏となりました。「緑の雇用」という林野庁による林業労働者育成の研修があり、私もそこへ通っているのですが、先日の講義で長野県内の「林業経営に適した森林」が人工林において全体の3分の1程度であるという話を聞きました。
◆大きな林業機械が入っていける傾斜であること(斜度30度以下)や木材を運び出すための林道が近くに通っていることなどが木材生産を効率的に行うのに重要で、そのような森林を「林業経営に適した森林」として長野県が調査し、県の森林づくりの方針を決めています。人工林といえば人が一度は木を切り出し植林した場所であり、針葉樹を育て、またいずれ伐採して出すことを前提として作られているものだと思っていました。
◆それが、かつてほどの木材需要はなくなり、奥山などは植林したまま放置されて荒れた山になるなど、人手不足も相まって手に負えない状況となっています。私の仕事でも、狭く曲がりの多く荒れた道を進んだ奥山の現場に行くのですが、昔の人はよくこれほどの急傾斜で木を切っては細い道を通って運び出したものだと、びっくりすることがかなりあります。作業をしていて足場が悪く転げ落ちそうな恐怖を感じることはたびたびあり、そこでの間伐作業などは倒れる木を横にしていざというときは俊敏に避ける必要があるので、とてもストレスがかかります。私としては、怖い思いをしてまでやることかと疑問に思います。
◆このような森林は木材生産をしても採算が取れないため、災害防止や水源かん養を目的として暮らしを守る名目で補助金によって整備されています。針葉樹と広葉樹の混交林として自然林に近い状態にして、人の手を入れる必要のない山にしようという方針です。補助金がないと成り立たないという現状は何も生み出さず税金を浪費する、社会の負担でしかないと思っていたのですが、「林業経営に適した森林」の話を聞いてこの作業には意味があるのだと改めて感じたのでした。またなにより、人工林に占める林業経営に適した森林の少なさに驚きました。
◆とはいえ、意味がある、というのはどこまで重要なのでしょうか。山にいて何をしたいのかを尋ねられるたび、いつも答えに詰まってばかりの変わらない自分がいます。誰かの役に立つことをしたいとか、どこに登頂したいとかどこを旅をしたいなど明確なものもなく、いつまで続けるかわからない林業で働いて、週末は近場の山にふらっと登る。山にいたいの軸はぶれないと自負していますが、そこに何か目標や意味を見出そうとすると途端に弱くなって息苦しさを感じます。
◆地平線通信のなかで、長岡祥太郎さん安平ゆうさんなど自分より若い方の新たな旅を決めて動き続ける姿が輝いて見えて、いいなと思います。考えることやどこかに疑問を持つこと、絶えず私も続けたいです。[小口寿子]
p.s. 7月になり、1つ歳をとりました(24才になりました)。安曇野の実家から通う暮らしでしたが、今月から念願の1人暮らしを始めました。実家から独立したかったのです。望むようにできないことは多くありますが、想像を通り越して思いがけず降ってきた幸運もあり、その幸運の力は大きく感じます。ここまで生きてこられてよかったです。いろんなものに感謝したいです。
■2020年3月30日、私は牛込箪笥地域センターの会場に行きました。その頃コロナはまさに未知の恐怖の感染症病原体、電車に乗ることすら危険な行為というような雰囲気の中、迷いに迷いながら、怖がっててもしょうがない!と、意を決して出かけたのでした。
◆ところが会場に着いてみると、シーンとして真っ暗、おかしい!と、受付に行き尋ねてみると、中止になりました、と……。え〜〜〜。私の他にも、何人かの方がうろうろしていましたが、なんとなくみなさん事情はわかって静かに去って行ったという感じでした。私は、せっかくなのでその足で外堀の夜桜見物を満喫して、帰路についたのでした。
◆このことは、特に誰に話すということもなく時が過ぎ、6月の報告会に久しぶりに参加して、たまたま二次会でお隣になった江本さんに話したところ、今度は江本さんが、え〜〜〜っ!!!。そういう人がやはりいたのか。是非、顛末を書いてくださいよ、と。そんなわけで3年何か月ぶりの報告会空振り報告でした。[秋葉純子]
地平線通信530号(2023年6月)は、6月19日に印刷、発送作業を行い、新宿局に渡しました。先月号は5月号と同じ20ページの大部なのに参加者が少なく、タイムリミットぎりぎりの大苦戦を、アンカー長岡竜介さんが救ってくれて間に合いました。午後9時までに局に運び込まなければならない宿命があります。江本は原稿出し切ったらホッとして寝過ぎてしまい、北京からの参加です。遅れたけど、汗をかいてくれた仲間と飲むビールはやはりうまい! 奮闘してくれたのは、以下の方々です。
車谷建太 伊藤里香 高世泉 中嶋敦子 落合大祐 長岡竜介 江本嘉伸
■名古屋駅から電車に揺られること30分、そこから歩いて10分。雑木林の丘に臨む8畳1Kに暮らし始めた。名古屋は母の故郷であり、自分が生まれた土地でもある。物心ついてから訪れた記憶はなく、昨年の就職活動で縁を持つまでは、この場所に住むことなど想像したことがなかった。東京で働く選択肢もあったが、「母と祖父母の記憶が詰まった土地で、自分はどんな仕事をし、どう暮らしてゆくのだろう」という好奇心もあって、この転機を掴みにいくことにしたのだ。
◆この春私が就職したのは、オフィス・商業施設賃貸業を主とする地元ディベロッパー。営業や施設運営を担当すると思いきや、配属されたのは「名古屋駅地区街づくり協議会」という、まちづくり団体の運営チームだった。定期的に駅前の花だんの植え替えや街路の清掃活動を行う他、今年度はリニューアルされる駅前広場の整備案を、周辺地権者、行政と協議するなどしている。営利的活動から離れる分、財政的な制約はつきまとうが、市民や名古屋を訪れる人のために仕事ができるのは嬉しい。それにしても、この街に来たばかりの自分が街の運営に加わるのは不思議な感覚だ。この街で経験するあらゆることが、仕事の糧になっていくのだろう。
◆配属から丸2か月が経つが、職場ではわからないことばかりで、帰宅とともに緊張が抜けるのか毎日どっと疲れてしまう。どうしても休息が第一優先になるため、生活のサイクルに趣味や勉強を織り込めるようになるまでには、まだ時間がかかりそうだ。
◆このような生活の中で、地平線通信は毎月のささやかな楽しみとなっている。最近はなんといっても、「地平線報告会」が満を持して復活した。真剣勝負のレポートは臨場感に満ちていて、「ああ早く参加できないものかな」と心底思わされる。まだ大学1年生だった冬、初めて報告会に足を運んだ夜の興奮は今も忘れないし、毎回お祭りを待つかのように浮き足立った会場の雰囲気が好きだった。一度報告者として自ら語り手となる機会もいただいた。当日駆けつけてくださった60名近くのお客さんが、旅慣れない私の話に時間いっぱい真剣に耳を傾けてくださったこと、その後の経過を気にかけてくださる旅の先輩や、共通のフィールドを持つ先輩を得たこと。地平線報告会自体が、唯一無二の磁場であると感じていた。
◆就職後、ボルネオに焦がれる気持ちは一層切実だ。仕事に就いた以上、休職などしない限り、現地の家族、友人に一目会うことも難しい。以前からわかっていたことではあるが、実感は社会に飛び込んだ今頃になってやってきている。地平線通信の読み方も少し変わったのか、生活と人生をかけて現地に赴き活動を続ける小松由佳さん、貞兼綾子さんの報告会レポート、ラモ・ツォ一家と約15年越しの約束を果たした小川真利枝さんの寄稿を読み、これらの記事は、ボルネオと対峙する自分の素直な気持ちを問う標にしたいと感じた。現地へ赴くことが叶わない今の時間が、いつか私とボルネオを繋ぐ鍵に変わる瞬間がきたらいいなと願う。今後も「地平線会議」という磁場に触れながら、自分の人生の歩み方をゆっくりと考えていきたい。[下川知恵]
7月はじめ、釧路市に住む写真家、長倉洋海さんから和紙に丁寧なペン書きで書簡が届いた。
■江本さま いつも地平線通信を送っていただき、ありがとうございます。府中の方、だいぶ馴れてこられたと思いますがあまり無理な運動は控え、健脚を大切になさって下さいね。ところで本日お手紙を差し上げたのは、9月12日から公開される『鉛筆と銃』を是非とも地平線通信で紹介していただきたくお願いのためです。フリーの写真家としてスタートし、マスードと出会い、彼が暗殺されてからは「山の学校」の支援を続けてきたこと、その大きな連なりをフォトドキュメンタリー(もちろん動画も入っています)として作った映画です。まだ制作中でCDをお見せできないのは残念ですが、地平線通信で紹介していただけたら100万の味方を得たような気持ちになると思います。
◆一人の男を通して見たアフガニスタンを見続けることで今の世界のありようも見えてきます。時を越え、人を越え「生きること死ぬこと」を考えるきっかけになるようなものにしたいと思っています。なにとぞご協力のほどをお願いいたします。[2023年7月1日 長倉洋海]
★フォトドキュメンタリー『鉛筆と銃』は9月12日(火)から24日(日)まで東京・恵比寿ガーデンプレイス内、東京写真美術館ホールで(9月19日は休館)。詳しくは地平線通信8月号で書いていただくことに。
■我が子が2歳5か月になり、日々の成長が目覚ましい。保育園は園庭の横に森がある園で、お友達と毎日とても楽しく過ごしている様子。羨ましいくらいに楽しそう! すねたり、思いどおりにならずイライラしていることも多々あるけれど、自分なりに考えて意見を出すようにもなり、おっ!と気づかされることもあります。そんな子どもの発達の過程をそばで感じられることに幸せを感じています。一方、自分はというと……低空飛行。仕事も今までのようにはやりきれず、好きな運動もそれほどできていない。
◆いやいや、2歳児がいたら無理でしょ。いやいや、2歳児がいてもできるよ。あなた次第ですよ。等々色んな意見が出てきそうです。それにつけても毎回小松由佳さんが子連れ取材をされてるとのレポートに驚かされてきましたが、自分が子育てをしてからはさらに敬意の念を抱いています。お子さんも日本や取材先でもすぐに楽しく過ごしていることもまた素晴らしい。これまでどんなに大変でも「子連れ」取材を続けられた賜物なのでしょう。由佳さんの思いを受けてしっかりアイデンティティーが育っているのでは、と思います。
◆あるユダヤ・メキシコ系アメリカ人女性がアメリカでの2大差別の対象で幼いころ辛いことがたくさんあった。でも辛いことのお陰でいろんな経験ができ、そのお陰で自分が何者かを知ることになった、アイデンティティを理解できたので本当によかった、と話をされていました。色んなバックグラウンドを持つことは人にはない経験ができることがよい、というお話でした。
◆お話を戻し、今に不満というよりも、ふとしたときにちょっと物足りなさを感じるときがあります。このままでは自分が成長しないし、これから過去の話しかできないのはつまらないです。この低空飛行で余裕があるうちに、今後の種まきをしておきたい。何かプランがあるわけではないのですが、今できる学びを少しづつすること。やりたいことを温める期間としようと思います。もう独り身ではないので今までどおりにはいきませんが、小さくても自分が中心の世界も持ち続けたいです。[日置梓]
■9月の地平線報告会は久々に東京を離れて行います。神奈川県大和市の冒険研究所書店で。詳しくは来月の通信でお知らせします。
《画像をクリックすると拡大表示します》
■埼玉生まれ埼玉育ちの私だが、父方の祖父は沖縄県最南端にあるウミンチュの町・糸満の出身だ。祖父の実家があったのは名城(なしろ)という海辺の集落。近しい親戚は糸満市内に移り住んでいるが、名城住民の約9割が新垣(しんがき)姓というところに密かに自分のルーツを感じて嬉しい。
◆旧暦5月4日(ユッカヌヒー・四日の日)にあたる6月21日、名城の小さなビーチで、4年ぶりのハーリー大会が開催された。安全航海と豊漁を祈願するハーリー競漕は、伝統漁船サバニを用いて沖縄や九州各地の海を舞台に繰り広げられる。その起源は中国にあり、沖縄に伝わったのは600年前とも聞く。
◆長野亮之介さんを筆頭にした地平線メンバーで「地平線ダチョウスターズ」というハーリーチームを結成し、浜比嘉島の比嘉ハーリー大会に出場したのはもう十数年前のこと。島在住の外間昇さん、晴美さん夫妻のお世話になりながら、1週間の練習合宿をした。みんなのエーク(櫂)の動きが揃い、サバニが海上を滑るように走る心地よさは今も体に残っている。ハーリーが大好きになった私は、その後も沖縄や奄美大島のハーリー大会を見に通っていた。
◆沖縄県で新型コロナ感染の第9波がささやかれる中、久々に再開されるハーリー大会。4年間という月日を経て、小さな集落の伝統行事はどんな姿になっているのだろうと、少し心配な気持ちで大会当日を迎えた。
◆6月21日、朝8時の開会式に間に合うように名城ビーチへ向かうと、さっそくハーレー歌が聞こえてきた。波打ち際には3艘のサバニ。漕ぎ手たちの白い衣装が、水色の海によく映える。ビーチには自治会テントが並び、本部席前には立派なプログラムが掲げられていた。以前はなかった、婦人部による焼きそばとかき氷の屋台まである。子どもたちはもう海に入り、きゃっきゃと遊んでいる。今日は平日だが、ハーリーの日は学校が休みになるのだ。もちろん、子どもも親も先生も出場する。会場はワクワクした空気でいっぱいで、さっきの心配は一瞬で吹き飛んだ。むしろコロナ前より元気なくらいでは?
◆多くのハーリー大会では港を使用するが、名城では自然のビーチが舞台になる。こぢんまりとした雰囲気がとてもよい。白い砂浜に座って風を感じながら、水平線に向かって進むサバニを眺めているだけで幸せだ。ユッカヌヒーに同日開催される他地域のハーリーも見に行きたいのだけれど、やっぱり名城に来てしまう。
◆開会式の後、まずは御願(ウガン)バーリーが行われた。地域別に「前(メー)ンティー」「中(ナカ)ンティー」「後(クシ)ンティー」の3チームに分かれ、白地にそれぞれ水色、紫色、赤色の丸い模様がついたハーレーギン(衣装)を着た11人がサバニへ乗り込む。10人が漕ぎ手、最後尾の1人はカジ取りだ。距離は830m。浜から漕ぎ出したサバニは沖の旗で折り返し、浜へ帰ってきた後、先頭の漕ぎ手である一番エークが舟を飛び降りて砂浜を走り、竹竿に紐で吊るされた酒瓶を取ったところでゴールとなる。名城独自のゴールの仕方だ。
◆今年は4連覇がかかっていた前ンティーが沖で波の影響を受け大きく蛇行してしまい、後ンティーの勝利。大いに盛り上がった。穏やかに見える海だが、やはり自然のビーチならではの難しさがある。住人たちは浜から声援を送り、おばあたちはパーランクー(手持ちの太鼓)をたたいて応援し、誰もが行事の再開を心待ちにしていたことが伝わってきた。その後、職域、青年、小中学生などのレースが次々と行われた。
◆超遠浅の海なので、潮が引いてしまう午前11時前には全てのレースを終了させないといけない。のんびりした口調の進行役が勝者に話を聞いている間にも、次の組がどんどんスタートしていく。職域ハーリーは会社などの仲間でチームを作って出場するもので、今年は建築士会、ホテル従業員、学校職員などが参加した。東京でバーを経営している名城出身者も、社員やお客さんと一緒に参加していた。目を引いたのは、外国人農業実習生チームだ。練習ではまっすぐに進まなかったので大丈夫かと思ったが、本番ではダントツで速かった。日頃から名産の電照菊作りで鍛えられているだけある。
◆最後のレースは、血縁集団で競い合う門中(ムンチュー)ハーリー。神差、海勢頭、前敷・新地・前門合同の3チームが出場した。その後、サバニでゆっくりと沖を周回する上がいハーリーで奉納を行い、名城ハーリー大会は幕を閉じた。
◆戦争で一度は途絶えた名城ハーリーだが、昭和23年に復活させたという。祖父も子どものころ、この景色を見ていたのだろうか。小柄だった祖父は徴兵検査に通らず、戦時中は大阪の造船工場で働いていた。その後、埼玉に出てきて祖母と結婚。祖父が沖縄へお金を送ったり、毛や皮のついた豚肉を取り寄せたりしたので、祖母は沖縄のことをあまりよく思っていなかったらしい。祖父は私が17歳のときに亡くなった。その日の夜、私はアロハシャツを来た祖父が南の島から電話をしてくる夢を見た。今思うと、あの服はかりゆしウエアだったのかもしれない。祖父はきっと、この海をずっと恋しく思っていたのだろう。私は沖縄に来ると、必ず名城の海に寄るようにしている。
◆名城ハーリーの後は、糸満ハーレー(糸満ではこう呼ぶ)が大々的に行われている糸満港へ移動した。のどかな名城から一転し、かなり技術の高いレースを見ることができる。人で溢れた会場の熱気がすごい。親戚のいる自治会テントに入れてもらい、沖縄そばやヤギの刺身をいただきながら競技に見入った。
◆皆が楽しみにしているのが、海に放したアヒルを捕まえる一般参加のアヒラートゥエー(アヒル取り)。子どもからおじいまで服のままぼんぼん海に飛び込む様子を見ていると、海に親しんできた歴史のある人々なのだと改めて思う。泳いで追いかけてもアヒルは絶対に捕まえられないので、潜って足を掴む。アヒルとの知恵比べだ。盛況だが、動物保護団体などからの批判が相次いでいるので、今後の存続はどうなるかわからない。
◆糸満ハーレーの見どころは、何と言ってもクンヌカセー(転覆競漕)だ。レースの途中で自分たちの舟を転覆させ、泳ぎながら舟を元どおりにし、再び乗り込んで漕ぎ出す。「糸満独自の操船技術を競うもの」とある。舟を転覆させてから復元させるまで、わずか5秒。先に乗り込んだ2人が水をかき出しながら、全員が乗って再走するまで30秒。あっさりやってのけるけれど、サバニの長さは8mもある。舟の扱いに慣れ、体力のある人でないと到底できない技だ。必死で水をかき出す姿は滑稽でもあるが、命をかけて海で生きてきた人々の心技を見るようで感動した。ちなみに糸満はミーカガン(水中眼鏡)の発祥地でもある。
◆大会の最後を飾るアガイスーブ(「スーブ」は「勝負」)は、他のレースの3倍近い2150mを漕ぐ長距離レースだ。各村の精鋭たちが出場する。スタミナ勝負になるが、序盤から早送りで見ているかのような櫂さばきに圧倒された。港の中を2周半。5回あるターンは、最後尾に乗るカジ取りの腕の見せ所だ。一本の櫂を海中に下ろすことで、スピードを保ったまま舟の方向を変えて鮮やかにUターンさせる。優勝チームが高々と櫂をあげると観客も次々と海に飛び込み、舟に泳ぎ寄った。
◆25日の日曜日には平安座島と宮城島のハーリーを見に行き、どちら会場も伝統行事の再開を喜ぶ人々の笑顔が印象的だった。一方で、外間晴美さんから「浜比嘉島では今年のハーリー大会は見送りになった」と聞き、とても寂しく思った。比嘉ハーリーを経験させてもらったことはとても大切なことだったのだと痛感した。浜比嘉島ではウガンバーリーだけはコロナ禍でも毎年続けていたというから、住人たちの真摯な思いが伝わってくる。行事を通して深まる住人同士の繋がりが、ずっと続いていくことを願っている。
■6月の地平線通信を拝読し、あらためて地平線に集う人たちの熱量に圧倒されています。私は相変わらず、浜比嘉島で機織りをしたり、アルバイトをしたりして生活していますが、ついつい日常の小さな悩みに囚われがちな私にとって、地平線通信はカンフル剤のような存在です。
◆さて、先日6月21日は旧暦でいうと5月4日、沖縄ではユッカヌヒーと呼ばれる日でした。この日は航海安全と豊漁を祈って漁師たちがウガンバーリーという祭祀を行います。浜比嘉島のウガンバーリーはそれほど大掛かりな行事ではないのですが、毎年必ず行われる重要な祭祀で、私も休みを取って参加しました。海人を中心とした男性陣が爬竜船を漕ぎ、女性達が陸から太鼓を叩いたり手踊りをしたりして声援を送る姿からは、海の恵みで生きてきた島の人々の真摯な祈りが感じられ、毎回心を打たれます。島に移住して9年になりますが、行事に参加するたびいつも新鮮な感動があるのは、現代的な生活しか知らない私に人と自然の繋がりを思い出させてくれるからかもしれません。
◆ところで毎年行われているウガンバーリーですが、今年少し違ったのは、行事を取り仕切ったのが私と同世代の青年だったこと。ノロ(島の祭司)や先輩達に指導されながら一生懸命仕切っている姿は、胸に迫るものがありました。実のところ、私の住む比嘉区では今、伝統行事消滅の危機にあります。こんなことを書くと島の人に怒られそうですが、もともと熱意ある少数の人たちが高齢化の中ギリギリで行事を回していたところに、コロナ禍による自粛としまんちゅ同士のいざこざが重なって、行事が立ち行かなくなってきています。
◆特に自粛の影響は大きく、弱った足腰でなんとか踏ん張っていた人が、一度座り込んだまま立ち上がれなくなってしまったような、残念ですがそんな状況です。そういう中でのウガンバーリーだったので、同世代の若者が伝統を受け継ぎ、行事を取り仕切る姿はひときわ感動的でした。
◆ウガンバーリーが終わり、島はこれから夏の行事シーズンがやってきます。8月10日に予定されている豊年祭は比嘉の行事の中でも特別好きな行事ですが、綱引きと「ウスデーク」という女性達による踊りがコロナ以降ずっと中止されたままです。特にウスデークはコロナ前から人手が足りていない状態だったので、このままなくなるのか、復活するのか、分かれ目にきている気がします。
◆島の人口がどんどん減少し、高齢化が進む中では伝統行事の簡略化は避けられないと思いますが、細々とでもいいから続いてほしいと願わずにはいられません。[渡辺智子 浜比嘉島]
■またも、やっちまった。朝方、書き始めていたフロントを含め地平線通信原稿が全て消えてしまったのだ。どこをどうしたのか、わからない。救いはフロント、あとがき以外はすべてレイアウト済みだったことだ。IT時代、もう少し自力をつけなければ、と痛感する。丸山、武田、落合といったベテランがいるから毎回何とかなってきたけれど。
◆フロントで書いたように、「プロ徘徊師」の日常は低空飛行のままだ。この1か月半、目の前にある標高80メートルの浅間山ですらも登っていない。週2回の鍼灸治療を受けつつこの期間、次の10年をどう生きるかのんびり考えるための時間ととらえよう。え? 10年後っていくつ?
◆なんだか周囲に地平線通信を読みたいという人が少し増えている感じがする。この20ページほどの冊子を初めて手にする人からしばしば驚きの声を聞くが、それは若い書き手がいるからだと思う。[江本嘉伸]
開拓者でいたい!
「ストレスで20kg太りました〜」というのは第63次南極越冬隊('21/12〜'22/3)隊長の澤柿教伸(さわがきたかのぶ)さん(56)。南極氷床下の地形研究をテーマに、34次、47次、53次、そして今回と、4回の越冬隊経験を重ねてきました。 立山連峰を仰ぐ富山県上市町、浄土真宗のお寺の長男ですが、隣町に第一次南極越冬隊員がいて、幼少期から南極に憧れます。北大の地質物理学科から環境科学院に進み、大学院生の時に越冬隊に選ばれて「初めて人間になれた気持ち」でした。 63次の隊長に任命されて手本にしたのは、初回34次の隊長です。法政大社会学部の教授職で若者と接してきた経歴や、住職の父の影響も、32名の隊員をまとめる一助になりました。「開拓者」であることが澤柿さんの研究人生のモットー。トラブルもあったけど、隊員達からのサプライズ記念品にこの言葉が刻まれていたのが何よりの誇りです。 今月は南極越冬隊長の一年を語って頂きます。オモロイっす! |
地平線通信 531号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2023年7月10日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
|
|
|
|