5月15日。どんよりした曇り空。14日のトルコの大統領選の行方が気になっているが、ロシア寄りのエルドアン大統領と野党統一候補、親欧米路線を標榜するクルチダルオール氏(ロシアとの関係も維持するとか)が激しく競り合い、決選投票は必至の情勢だ。ウクライナのゼレンスキー大統領は14日、ドイツを訪問、「年内にロシアの敗北を決定づける」と共同記者会見で表明した。そんな中、この19日には広島でG7サミットが開幕する。
◆4月22日の土曜日午後、3年あまり休んでいた地平線報告会がついに再開した。会場で顔を合わせるということがどんなに大事か、あらためて思わせられた。報告者の小松由佳さんの凛とした声に背筋を正される思いがした。83人も来てくれた。
◆翌23日昼、手賀沼を見渡す墓地で谷口けいさんを偲ぶ集いがお父上と10数人の仲間が集まって開かれた。4年前の集いにはけいさんが生前美味しい、と言ってくれたエモカレーを作って持参、お墓の前で温め、みんなに食べてもらったな。久々に平出和也君と会う。そう言えば彼と初めて会った時も荒木町の我が家でけいさん、服部文祥とエモカレーを食べてもらったんだっけ。けいさんには2010年1月26日、「タテとヨコのハイブリッド」というタイトルで報告会をやってもらった。
◆5月8日午後、水天宮のカフェでオーストラリアから一時帰国したシール・エミコとスティーブに会う。何年ぶりだろう、以前と変わらない、でも幸せ度の断然濃い、素晴らしい再会だった。長い間ガンと戦ってきたエミコさん、昨年10月、「腫瘍科は卒業だ」と信頼する医師に告げられたのだ。この言葉が2人にとってどんなに大きなことだったか。2時間あまり、これまでのガンとの戦いについて患部の写真も見せながら詳細に話してくれた。
◆うーむ。わかっているつもりでわかってなかった。日本ではほぼ匙を投げられた状態だったエミコのがんとの戦いに本腰を入れてくれたオーストラリアの病院の医師。「どんなに痛くても泣きません」と言い切ったエミコの頑張りもあって今の笑顔がある。エミコ、スティーブおめでとう!
◆少し遡って4月17日、連れと上田で合流。霧積温泉に向かった。軽井沢がG7外相会合で厳戒体制の中、静かな山道を走って横川付近で車を降り、1.3キロの旧信越線のトンネル廃道を歩いた。猿たちが賑やかに迎えてくれた。ああ、こうなっているのか。いくつものトンネルをくぐり抜けながら現役の頃の信越線を知っている者としてしみじみ感慨があった。
◆昨年秋、カナダで山岳ガイドをやっている連れの友人が帰国した際、その霧積へ連れとその友人の2人で出かけた。すごい豪雨の中、車を走らせ投宿したという。豪雨、霧積…。突如66年前、山道を必死に走った高校時代の記憶が蘇った。連れに頼んでもう一度、霧積行きとなった次第だ。ただ、この時点では私の記憶に勘違いがあったことが、行った後当時の日記を繰っててみてわかった。
◆「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね? ええ、夏碓氷峠から霧積へ行くみちで渓谷へ落としたあの麦藁帽子ですよ」(西条八十の詩)を引用した森村誠一のベストセラー『人間の証明』の舞台でもある霧積。こんな渋い宿をどうして知っているのかというと、高校時代に在籍した「木苺」という短歌同人のおかげである。
◆文学好きの教師を中心としたグループで旅好きな先生たちが多かったので何度かハイキング、登山に連れ出してくれた。霧積温泉はそうした行先のひとつである。宿には車で入れないことになっていて、電話連絡するとランクルが迎えに来てくれた。山奥の鄙びた温泉宿でかっては裕福な人々の保養地として栄えたらしいが、山崩れで壊滅し、今では「金湯館」という宿だけが残っている。
◆そして、ランクルを降りると、おおっ!と思った。吊り橋の先にまさに「木苺」仲間たちと泊まったふるびた宿があるではないか。思った以上の感動があった。湯も昔と同じくぬるく、いつまでも入っていられる。長湯は苦手なのだが長時間平気、おまけに朝風呂もよかった。高校の時はものすごい豪雨にやられたのだが、家に帰ってふるい記録を探したら勘違いがあった。激しく降られたのは霧積ではなかったらしい。
◆1957年8月2日の日記(縦書き)を一字一句そのまま再録してみる。私が16才の時だ。[草津 大坂屋の一室 九時半ゴロ昨夜の夜汽車は殆どねむれなかった。それから18kmの強行軍女生徒たちのフラフラなこと。“未だか未だか”と歩き続ける。一時を過ぎて、二時を過ぎて…五時を過ぎる。灰色の雲、暗くなってくる。先生ともはなれて、細い道、時々心細くなってくる。遠雷の音、ポツリポツリの雨ー。やがてスコール、物凄い雷の音、ズブヌレズブヌレぬかるみの中をひた走り 女子もびしょびしょ ポケットの中の手帳の中心までしみこむ水 それからそれから、疲労、疲労、もうくたびれた]
◆草津にも行っていたのか。ともあれ、若い皆さん、いま書いている記録は必ず役に立ちますよ。[江本嘉伸]
■3年半ぶりに開催された地平線報告会。会場の新宿スポーツセンターに足を踏み入れた瞬間、懐かしい気持ちでいっぱいになった。開始時刻の13時が近づくと受付の前には行列が。そのなかには宮本千晴さん、三輪主彦さん、岡村隆さん、向後元彦・紀代美さんご夫妻など、地平線会議創設メンバーの御大たちの姿も。SNS上ではなく、ようやく本物の皆さんと会えた嬉しさで顔がほころんでしまう。
◆冒頭で進行役の長野亮之介さんから紹介され、代表世話人の江本嘉伸さんが挨拶した。コロナ禍の間、報告会はできなくても地平線通信の発行が途絶えることはなかった。「通信には地平線会議のいろいろな思いがこめられている。パンデミック時代の貴重な記録として今後残っていくと思う」と江本編集長。
◆ついに再開する報告会の記念すべき最初の報告者は、フォトグラファーの小松由佳さん。2016年に報告者となって以来2度目の登場だ。あれから6年が過ぎ、世界情勢も彼女を取りまく状況も大きく変わった。6年前はベビーカーに乗っていた長男サーメル君は、この春から小学生になった。
◆小松さんが「皆さん、こんにちは!」と話し始めたとたん、芯のある透き通った声に聴衆はさっそく惹きこまれる。自らのすべてを注ぎ経験したことを淡々と語る言葉は、私たちの心にまっすぐ響く。今日の話は3つのパートに分かれているという。これまでの活動、現在の活動、これからの活動について、だ。会場の正面に置かれたテーブルの上には、昨年取材を決行したシリアから持ち帰ったガラスの破片や新聞紙の切れ端などが並べられていた。
◆小松さんは秋田県の片田舎で生まれ育った。そこでは家族と山で山菜を採ったり、田植えの最中に顔を上げると遠くに青い山々が見えたり、そばにいつも山があった。「あの山の向こうを見てみたい」と憧れを募らせた小松さんは、大学で山岳部に入り、2006年に日本人女性初のK2登頂を達成。「山で培ったものは今も私に多くを与えてくれている」と熱をこめた。
◆しかしやがて、山麓で生活を営む人びとの存在に魅了されるように。フォトグラファーという新たな道を歩き始め、国内外を旅するなかで2008年にシリアを初めて訪れた。当時のオアシス都市パルミラの写真には、世界遺産である遺跡の向こうに緑色のナツメヤシ(パーム)の木々が連なる。その土地で小松さんは、砂漠で100頭のラクダを飼う遊牧民アブドゥルラティーフ一家と出会い交流を深めていく。そして家族の1人である青年レドワンと惹かれあっていった。
◆ところが2011年以降、シリアが泥沼の内戦状態に。穏やかに暮らしていた人びとは戦火に巻きこまれ、人口2240万人のうち約1450万人が難民や避難民になった。民主化運動に参加したレドワンの兄2人は反逆罪として警察に追われ、1人はヨルダンへ逃げ難民に、もう1人は今も行方不明。兵役に入ったレドワンは政府軍の一員として市民弾圧に加担することが耐えられず脱走。小松さんは彼とヨルダンで落ちあい、2013年に現地で結婚。日本で一緒に暮らし始めたものの、アラブと日本では文化も価値観も大きく異なり「サバイバルな日々」を過ごしている。
◆ここからはシリア難民の取材活動の話。シリア国内は場所により、シリア政府、クルド人勢力、トルコ軍、反体制派勢力、アメリカ軍の影響下にあって、とても不安定。ちなみにシリア政府はロシアとイランから軍事協力を受けている。
◆不可抗力で難民になったシリア人たちは、今どうしているのか? かつての彼らの豊かな暮らしを知る小松さんは、2013年から毎年彼らに会いに行き、家族としてコミュニティに溶けこみながら取材を続ける。出産後の2017年からは子連れ取材に。「東京での育児は孤独ですが、難民キャンプへ行くとワイワイした温かさがあって癒されます」。現地では誰の子であろうと関係なく、みんなで育てる文化がある。
◆2021年のシリア取材から日本へ帰る直前、レドワンの父親ガーセムの訃報が届いた。懸命に働いてラクダを増やし、家族を増やし、シリアという土地に根づいて誇り高く生きていたガーセム。難民になってからは家も仕事も失い、精神を病んでいた。生涯の幕を閉じた彼の体は、異国トルコに埋葬された。
◆翌2022年夏、小松さんはトルコのオスマニエを訪問(今年2月のトルコ大地震の震源地近く)。ここには夫の親族6家族が暮らしており、居候しながら彼らの生活の変化を見つめた。するとシリア難民たちに変化が起きていることに気づく。彼らはシリアに戻ることを諦め、トルコから海を越えてギリシャへ渡り、そこから徒歩でヨーロッパ各地へ散って、より良い暮らしができる場所を探し求めるようになっていたのだ。
◆レドワンの兄アブドゥルメナムと彼の息子エブラハムも、そうだった。まだ13歳のエブラハムは内戦で学校に行けず、アラビア語の読み書きができないけれど、車やバイクの運転ができるので、今回小松さんのドライバーとして活躍。そんな彼が一家の命運を賭けて、「明日渡航することになった」と言う。少年である彼がほかの家族に先駆けて旅立つ理由は、子どもだと難民申請が通りやすいため。申請が通ったら、トルコにいる家族を呼び寄せる計画なのだ。エブラハムの旅立ち前夜、小松さんはあどけない彼のポートレートを撮影し、別れを告げた。
◆小松さんには今回どうしても果たしたい目的があった。11年ぶりにシリアに入り、現地を撮影することだ。厳しい情報統制がしかれ、独裁政権下にあるシリアに外国人がカメラを持って行くのだから、当然ながら危険極まりない。しかし「もしシリアに帰るなら今しかないと思った」。サーメル君が小学校に上がる前で長い休みがとれたこと。今はレドワンと婚姻関係にあるため親族訪問ビザを得られること。ウクライナ侵攻の影響でロシア軍がシリアから撤退ぎみであること。以上のタイミングが重なったためだった。
◆正規ルートであるベイルートからシリアに入国した当日、外務省から秋田の実家へ「即退避を」と電話が。さらに小松さんのスマホにも在ベイルート日本大使館から同様の連絡が来た。なぜ携帯番号を知っているのか謎が残るが、小松さんは大使館に毎日連絡を入れながら動くことに。そしていよいよシリア内部へ。
◆シリアでは監視のために秘密警察がついて来て、「パルミラでは撮影禁止。あなたは家にずっといるように」と忠告された。本来なら夫の友人宅に滞在する予定だったが、警察が彼女を別の親族宅へ連れていき、昼間は自宅軟禁状態に。夜になって涼みに外出すると、周囲の建物がことごとく崩れ落ちていたのを目撃した。秘密警察と交渉してパルミラの遺跡を見に行ったら、ナツメヤシも、夫や彼の家族と歩いた場所も、ボロボロに破壊されていた。
◆そしてついにガーセムの実家へ行くことが叶う。だが以前の穏やかな生活の面影はなく、家の窓はなくなり、床には瓦礫やモノが散乱。秘密警察からカメラでの撮影は不可と言われ、やむなくカメラを外に置いて、スマホのみを手に急いで家のなかを撮影。1分後に家を出てカメラを確認すると、内部に入っていたSDカードが破損しており、やっとの思いで撮った写真が消滅……。ギリギリの精神状態が1週間つづくなかで、唯一安らげたのはトルコにいる夫や子どもたちとテレビ電話で会話するひとときだった。「パルミラから帰るというより脱出という感じで、トルコに戻りました」。
◆ところがトルコで待ち受けていたのは、予想外の波乱。空港へ迎えに来た夫から「第二夫人をめとりたい」と告げられたのだ。昨今トルコ南部のシリア難民の間では、シリアから妻を迎える結婚紹介ビジネスが流行っている。男性側は手頃な費用で若い女性と結婚でき、女性側はシリアから抜け出すことができ、互いに利点がある。乗り気なレドワンと彼の家族とは対照的に、小松さんは放心。ところがレドワンの兄の夢にガーセムが現れ、「レドワンの結婚は不要」と告げたのがきっかけで、家族内の風向きが変わり第二夫人の話は流れたのだった。
◆この一件で、シリアで見た無惨な光景に対するショックが吹き飛ぶほどの衝撃を受けたという小松さん。しかもレドワンの親族からは「夫を満足させるため、もっと努力を」と諭された。「地平線会議でこんな話をするのはどうかとも思ったのですが、夫の姉たちから夫婦の営みの頻度を尋ねられ、2週間に1、2回くらいと答えたんです」。すると姉たちから「シリア人は毎日2回以上。あなたが悪い」と怒られ、セクシーな下着をたくさん贈られ、さらに複雑な気持ちに。その数日後に小松さんは40歳の誕生日を迎え、姉たちから励ましとともに祝われた。小松さんはガーセムのお墓参りへ行き、夢に出てきてくれたお礼を伝え、トルコを発った。
◆日本へ帰国後もしばらく頭がクラクラしていたが、「夜空の暗さにではなく、星の美しさに目を向けよう」という「40歳の誓い」を立てた。「生活が改善されない苦しみや問題はあるけれど、それでもシリア難民がいかにしなやかに強く生きているかを見つめ、撮影をしていきたい」と言う。
◆どんな困難があっても、落ちこんでも、また顔を上げて歩みつづけ、さらに強固な輝きを放つのが小松由佳さんだ。今年6月にはふたたびトルコにいるシリア難民を訪れ、地震の被害状況も取材予定。現在2冊目の本の執筆も進行中で、ほかにも写真展や写真集でこれまでの取材内容を発表していきたいという。「これからも彼らがどのように新しいふるさとを築いていくのか、難民として生きるとはどういうことなのか、写真という媒体で表現していきたい」と締めくくった。[大西夏奈子]
■3年半ぶりのリアル地平線報告会。その日を心から楽しみにしていました。報告者はなんと私とのことで江本さんからお声がけいただき、大変光栄なことでした。思えばこの3年ほどは、この先どうなることやらと思えた新型コロナの流行下、「コロナ禍だからこそできること」をしようと、現場に立ち続けることを意識してきました。この時代を生きていることを全身で受け止め、もがきたかったのです。報告会では、例年のトルコ南部でのシリア難民取材や、昨年のシリア取材などについて皆様にお話させていただき、改めて自分の活動について振り返ることができました。どうもありがとうございました。
◆最近になり、ようやくコロナの流行が終息しましたが、コロナ禍を経験した私たちの社会は、学校や職場でのリモート化など、新しい文化を育みました。私たちはかつての日常に戻るのではなく、コロナと共に培った新しい価値と共にこれからを生きていくのでしょう。そんな人間の歴史の転換期を目撃し、そこに生きている意味を問いながら、今日もカメラを手に歩き続けるのみです。
◆さて6月は、2月に発生したトルコ・シリア大地震の被災地へ、短期間の取材へと向かいます。昨年秋に取材から帰ってきたばかりで金欠極まりないですが、継続して取材してきたトルコ南部のシリア難民コミュニティが地震の被害を受け、大きな変化を迎えています。現場に立ち続けることで見えるものを見つめてきます。では皆様、行ってきます。[小松由佳]
■コロナ禍を経て3年ぶりの報告会。そして再開の第一発目の報告者は小松由佳さん。少し早めに会場に入ると、どこを見ても懐かしい顔ぶれ。言葉を交わすたびに、声が弾む。
◆迎えた報告会。緊迫のシリア取材とシリアからトルコへの脱出。その直後の第2夫人メトリタイ騒動。「女は強いんじゃなくて強くなっていくのよ」と、現地の女性たちに慰められ、アラブの女になったと認められたこの騒動と、その文化的背景を端的に俯瞰した考察。小松さんのピンと張った迫力ある話には、誰も割って入ることができない緊張感を感じた。
◆最後に語った「夜空の暗さにではなく、星の美しさに目を向けよう」という自身の誓い。激しく目まぐるしい日々を経て辿り着いた小松さんのその言葉には衝撃を受けた。
◆写真家として、二人の子を持つ母として、そして難民の困難さに直面する一人の人間として。どんな状況でも幾多の困難に対して、前向きでしなやかな強さの源泉は何なのかじっくりと訊いてみたい。[福井から馳せ参じた 塚本昌亮]
■4月の報告会に参加しました。コロナ禍以前からご無沙汰しており、久しぶりで少し緊張していた私を江本さんも皆さんもあたたかく迎え入れてくださり、会えない時間などまるでなかったかのようでした。
◆ちゃっかり3次会まで参加してしまい、酔いと眠気で朦朧とした私の前で、気づけば「それは愛だよ!」の言葉の大合唱。武蔵野美大で学び、関野吉晴さんの黒潮カヌープロジェクトに参加した私は、今は中高一貫の女子校に勤務しています(今年は中1のぴよぴよちゃん達を担任しています)。
◆地平線会議と出会ってから20年。自身の環境が変わる中、変わらずお付き合いできる人たちがいることの喜びをひしひしと感じながら、「うん、確かにこれって愛だよね」と霞がかった頭でぼんやりと考えたのでした。次回通信を楽しみにしています。[木田沙都紀]
■この春、中3に進級したので少しだけ近況報告をする。去年の秋から生徒会長をしている。それまでは本部役員として言われたことをこなすだけだったが、会長として新たな企画を考案したり話し合いをまとめたりするようになった。責任ある立場という自覚を持ち、日々仕事を全うしている。
◆私の学校の運動部は早いところだと5月くらいに引退試合があり、そこから受験勉強に本腰を入れる人が多い。それに比べて私の所属している吹奏楽部はサマーコンサートをもって引退となるので、7月いっぱいまで部活がある。 他の部活の人たちと学力面で差が開いてしまわないように、今のうちから人一倍内容の濃い勉強をして差をつけたいと思い、これまで通りの週一回の塾に加え、日曜特訓の受講資格を取得し日々がんばっている。
◆中1の頃から毎年合唱コンクールのピアノ伴奏をしている。最初はピアノが弾けるという理由で半強制的にやらされたのだが、自分の伴奏に歌が乗る楽しさに気づき、そして歌が下手くそだから歌いたくないということもあり伴奏者に立候補するようになった。ただ、パッと譜面を読んですぐ弾けるタイプではないのと、受験生になり更に忙しくなることを見越して、本番の一年も前から3年生の課題曲の伴奏を練習している。もう概ね弾けるようになり、音楽の先生には「授業で弾いてみる?」と言われた。自分ではまだ納得がいっていないのでそれは断ったが、10月にある合唱コンクールまでに曲を研究しつくして本番当日成功させたい。
◆ここ一年くらいの趣味は自分の過去のアルバムを見ることだ。学校のアルバムもそうだが、年長〜小5まで毎年通っていたモンゴルのアルバムを見て懐かしさに浸っている。それを見てモンゴルのことを思い出すが、言葉は3年以上のブランクによってほぼ忘れてしまった。キリル文字は何となく読める。ただ、単語が思い出せないのだ。家で母にモンゴル語で話しかけられることが時々あるのだが、本当に何を言っているのかわからない。せっかくモンゴル人やモンゴル語教室の先生の知り合いがいるのだから、受験などが落ち着いたらまた一から勉強し直すのもいいなと思った。
◆神津島で寮生活をする長岡祥太郎くんが 「島ヘイセン」という題で連載をしているのを読んで、同じく生徒会長で受験生なのだと知った。会わないうちに内面も外見も大きく成長しているなと感じた。離島留学という選択をし、親元を離れ、地平線的な生活を送っている祥太郎くん。目先のことしか考えていない私とは大違いだなと尊敬の念を抱いている。
◆先月22日、約3年ぶりの地平線報告会が行われた。金曜だと部活があって参加できないので土曜開催というのはすごく嬉しい。通信を見ることでしかみんなが何をやっているのかを知る機会がなかったので、久しぶりにじかに報告を聞くことができてよかった。最近は何も考えず(強いて言うなら受験どうしようとかしか考えず)のらりくらりと過ごしていた。
◆私にとってとても刺激的な時間だった。また、私も久々に会った人たちのことを忘れかけていたが、3年も経つと私の容姿が結構変わったようで、前まで仲良くしてもらっていた人から最初は気づいてもらえなかった。しかし通信などに母が書いていたのを読み、「ゆずちゃん、生徒会長やってるんでしょ〜」などとたくさん話しかけてもらえて嬉しかった。二次会の北京は安定の美味しさで、更に初めて会った方とも話ができて充実した時間だった。日曜特訓の宿題が終わっておらず切羽詰まっていたため三次会への参加は断念した。非常に惜しい。今月は金曜開催ということで参加できないが、今後の報告会も楽しみにしている。[瀧本柚妃]
■4月の報告会で「地平線会議券」なる謎の紙幣が登場しました。片方は「狩狸(kari)」で、もうひとつが「遊暇(yuka)」。これは実験的に用意したこの日限定の「地域通貨」で、名刺サイズ。古い紙幣をパロって描いた長野画伯の絵が冴えわたります。狩狸は『地平線カレンダー』(頒価500円)に、遊暇は小松由佳さんの著書『人間の土地へ』(頒価2000円)に使われ、完売しました。
◆公共の施設で物販をすることが、だんだん問題視されるようになってきています。それに正論や原則論で対抗してもこじれるだけでしょう。そこで、地平線会議のなかだけで通用するローカルな通貨をテストとして仮に(だから狩狸)作ってみたわけです。あくまでも地平線会議へのカンパとして受け付け、この“紙幣”はその領収書として扱ってください。
◆5月の報告会で、正式版の○○」(乞うご期待!)がデビューします。ゾモTシャツに使ってください。[丸山純]
■私たちは現在日本です。4年ぶりに二人で帰省しました。今回は長年ご無沙汰していた昔からの友人を訪ね、茨城県大子町や江ノ島へと再会目的の旅を楽しんでおります。
◆今までとは違って明るい気持ちで「じゃ、またね!」と別れられるのが嬉しいです。というのも私、昨年10月に癌の寛解を受け、癌サバイバーになれたのです! 22年間の癌闘病が終わったのです! 骨盤内の内臓全摘や尾てい骨切除で身体の障がいは残りましたが、どんなことも受け入れてくれる相棒(夫スティーブ)がいるので何ごとにも前向きで取り組むことができます。
◆5月20日は風間深志さん主催のオートバイイベント『SSTR(サンライズ・サンセット・ツーリング・ラリー)』にゲスト参加で、障がいを乗り越えて旅する力について語り、千里浜を走ってきます。ここまできたら1989年にスタートした自転車世界一周の残りも夢ではないと感じております(あと6か月6000kmぐらい)。
◆すべては応援してくださってる多くの皆さまのおかげ! 感謝しかありません! 旅ゴール後は患者サポートへと立場を変えていきたいと考えております。
◆生きてる限りがチャレンジなので、一つづつ、しっかりと集中し乗り越え、これからもいろんなことに挑戦していきたいと思っております。[シール・エミコ]
■4月下旬、シール・エミコ(エミ)とスティーブが、オーストラリアから一時帰国しました。新型コロナウイルスの影響で、なかなか日本に来ることができず、エミは4年ぶりの帰国。そして、エミとスティーブ2人一緒に東京にきたのは、10数年ぶり。
◆今回、私(東京在住)は、エミたちが帰国してすぐの4月22日、大阪に会いに行きました。この日は、帰国の度に大阪で開催される、気の合う仲間たちとの歓迎会。このメンバーとの再会は、私自身も4年ぶり! 仲間から、「久しぶり〜。ヤコちゃん、東京から来たんやね〜」と。「実は、エミを出汁(=口実)にして、みんなにも会いたかったんです」と、私。「いい出汁出るでぇ〜」とエミ。私は2次会まで。エミとスティーブは、翌日も別の歓迎会が控えているにもかかわらず3次会まで行ったとか。大阪の後、2人は、GW期間の前半、自然豊かな茨城県大子町を堪能してきたそうです。
◆GW後半には、神奈川県茅ヶ崎市へ移動。片瀬江ノ島にあるお店で、エミとスティーブの歓迎会が開催され、私も参加してきました。私自身も、懐かしい方々や初めての方々ともお会いし、ここでも「エミコ出汁」の恩恵を授かりました(笑)。
◆この日、歓迎会前に、歌手の浅倉未稀さんとお会いしました。エミは、今まで、自分が治ることに専念してきましたが、昨年、医師から寛解を言い渡され、今後は、サポート側としての役割を考えているようで、浅倉さんからアドバイスなどを伺っていました。浅倉さん、とっても素敵な方でした(スティーブと私も同席)。江の島でも充実の3日間を過ごした後、東京へ移動。
◆東京での初日(5月8日)、エミ、スティーブ、そして江本さんの3人で約2時間の対談。その後、お店を移動し、夜は、関野吉晴さんやエミつながりの方々も加わっての歓迎会。エミが掲載されたBE-PALの付録「サウナハット」を、なんと!江本さんにもかぶらせてしまうエミ。無邪気と言うか、恐るべし! そんなこんなで、話は尽きず、3時間があっという間に過ぎました。
◆翌日は、私がかねてからエミとスティーブに紹介したかった写真家の相原正明さんと下町の居酒屋で会食。ようやく、私の念願が叶いました。相原さんは、オーストラリアのアウトバックを主に撮影されている方で、素晴らしい写真をたくさん撮られています。相原さん、そして、エミも、私も、同じ時代にオーストラリアをそれぞれバイクで走っていたという共通点もあります(今から約35年前!)。
◆3日目。スティーブは、オーストラリアへ帰国。無事わんこの待つ家に着いたそうです。4日目。エミは、八重洲出版に立ち寄ってからお母様の待つ大阪に。と、過密スケジュールではありましたが、2人とも充実した日々を過ごし、私自身も素敵な出会いや再会もあり、エミたちと一緒に楽しみました。エミは、5月下旬に、バイクのイベント「SSTR(風間深志さん主催)」にゲストとして参加し、その後、スティーブとわんちゃんの待つオーストラリアへ帰ります。
余談:4年ぶりと云えば、「日本三大祭」「江戸三大祭」の一つである神田祭が、今年4年ぶりに開催。2年に一度の祭りですが、前回(2021年)は、コロナで中止。今年は、5月13日、14日の2日間。私も担ぎます! 神田明神では、この2日間で、大小約200基の神輿が宮入りし、この「宮入り」が一番盛り上がります。今からワクワクです。この通信が出るころ、今年の神田祭は終わっています。次回は、2年後。[5月12日 ヤコこと、藤木安子]
■「こんどは日本で会おうね。絶対だよ!」。ティーンエイジャーだったラモ・ツォの娘たち(ダドゥンとラモ・ドルマ)と約束したのは、2018年の日差しの強い季節だった。あれから5年。ようやくこの約束を果たすときがきた。
◆ラモ・ツォ。2009年、わたしはチベット亡命者の町といわれるインドのダラムサラで出会った。巡礼路の道ばたで、チベットのパンを売っていた彼女。パンは、もちもちと歯ごたえがあり、ほのかに甘く、彼女のひととなりそのもののようだった。話を聞けば、彼女の夫は2008年の北京五輪についてチベット人がどんな思いを抱いているかをインタビューしたドキュメンタリー映画を制作し、中国政府に逮捕されているという。その後、一方的な裁判で刑期は6年と言い渡され、投獄された。彼女の強くまっすぐなまなざしは、夫の無実を信じ、チベットの自由を訴える芯の強さを物語っていた。
◆当時、小さなカメラを持ってダラムサラに滞在していたわたしは、彼女にカメラを向け、撮影をはじめた。それがまさか、海を越え、10年以上のつきあいになるとは思いもよらなかった。まして、夫であるドゥンドゥップ・ワンチェンが中国から秘密のルートで脱出を成功させ、家族が米国で再会するなんて……数々の奇跡を目撃し、その高揚感からか約束してしまった。「いつかみんなを日本に呼ぶからね!」。ラモ・ツォの娘たちが、日本の文化(アニメ)が大好きだったからだ。
◆ただ難民は、そうやすやすと海を渡ることはできない。難民であるがゆえに招待する保証人などの存在が重要で、招待状やら保証人の経済状況などの書類を提出し、さまざまチェックされる。Refugee Travel Document(パスポートと同等の役割)と日本への入国ビザを発行してもらうのに、半年以上かかることもある。
◆2020年こうした関門をすべて突破し、来日を待つのみになったところで、新型コロナウイルスのパンデミック。この疫病はなかなかしぶとく、その後も何度か計画したものの頓挫することに……。そうして、すべてがクリアになった2023年。5月26日より全国で講演会のツアーを開催できることになった。東京からはじまり、愛知、福岡、大阪、広島、高知、神奈川とつづく。
◆亡命を成功させた当時、「命より大切なものは自由」と語ったドゥンドゥップ。自由を手に入れたドゥンドゥップはいま、何を語るのか。彼の空白の10年と、海を渡らざるを得なかった家族の10年。交差した彼ら彼女らのいまの生に、しっかり耳を傾けたいと思う。[小川真利枝]
●5/28(日)14:00〜 名古屋YWCA
●6/3(土)14:00〜 福岡市市民福祉プラザ
●6/4(日)13:00〜 大阪・金光教大阪センター
●6/8(木)19:00〜 広島・合人社ウェンディひと・まちプラザ
●6/10(土)14:00〜 高知市立自由民権記念館
●6/11(日) 16:45〜 神奈川・きらら鎌倉(鎌倉生涯学習センター)
※現時点の予定です。最新情報は https://peatix.com/event/3554224 で確認してください。
大正十一年夏
金沢下本多町で
街角を歩み去る女性が
版画家の下絵となった時
私の四人の曽祖母たちは
日本のどこかで生きていた……
夏の盛り
うっすら汗ばんで
ほんのり化粧の匂いをさせて
豊かな木々の向こうには夏の雲
セミも鳴いて……
赤嶺リツ
明治十五年大分に生まれ
二十五歳で保(たもつ・私の祖父)を出産
戸籍上に保の父親の記載はなく
保の養育を姉に託して
豆腐屋の後妻となるが
四十九歳で出戻り
翌年 保死去
六年後五十六歳で再婚……
セミの声に我に返る
(セミの季節はまだ少し先なのだが)
ひいばあちゃんと一緒に
セミの声を聴いている美術館の昼下がり
私の母の父の
その母の日に……
[豊田和司]
■3年ぶり23回目のミャンマー(緬甸)出張でした。いやはや疲れました。ミャンマー語で「フー、モーライッター」。東京のミャンマー大使館で観光ビザが取れたのが出発の一日前。「在職証明書」だの「所属NGOのプロフィール」だの「一日ごとの旅行計画票」だの、大使館のホームページに載せていない必要書類を後追いで次々に要求されました。
◆かの国では2年前の軍事クーデター以来、外国人は村に泊まれません。私たちの現場のベースキャンプはイラワジデルタのオッポクウィンチャン村。そこが使えない。仕方がないので、車で3時間ぐらいかかるピャポン市の公認ホテルに宿を取り、毎日マングローブの現場とホテルを往復せねばなりません。そのホテルの宿泊予約票を提出せよと窓口女性はのたまう。英語もろくに通じない地方のホテルのバウチャーなど取れるわけがないと、押し問答していたら、その女性、突拍子もないことを言い出しました。なら、今この場で、大使あてにピャポンのホテルのバウチャーがない理由を英文で書けと。ああそうですかと、へたくそな英語で手書きレターをこしらえました。まさに泥縄式。これもミャンマーです。
◆もし私がコロナワクチンを2回打っていたら、さっさとオンラインでe-Visa を申請して、こんな漫才みたいなことをしなくて済んだかもしれません。ウェブ申請はワクチン接種が必須。私がワクチンを打たない理由は単純です。勘と直感。打って後悔するより打たないで後悔した方がましですから。ファクトとかエビデンスとか、そんなへったくれは知ったことではありません。表参道のクリニックでPCR陰性証明も取れ、いざバンコク乗継便でヤンゴンへ。
◆閑話休題。4月5日付の現地新聞(軍の御用新聞)は、コロナ陽性者が新たに1人確認されたと報じている。ミャンマー全土で1人ですよ、たった1人。目が点になりました。累計では63万人強が感染し、2万人弱が亡くなっています。日本ではすでに3人に1人は感染していますから、ミャンマーの100人に1人の感染率は圧倒的に低いわけです。ワクチンを打った人は3785万人ばかりと書いてあり、人口の70%は接種済みらしい。しかし、あくまで軍発表の官製統計。実際は2割から3割ほどだろうと。お金を持っている人は自腹で外国産のワクチンを買い、金のない人は軍政提供のタダのものを打つ。イラワジデルタの村々でも、出張ナースが舟でやってきて、ロシア製のスプートニクVとやらを接種して帰っていったそうです。他にも、インド製、中国製、国内産のミャンコなんてのも。百花繚乱。ファイザーとモデルナ一辺倒のどこかの国とは大違いです。軍政下の保健省は、半年に一度のワクチンブースター接種を推奨しています。1日に1人の感染者と旧態依然のコロナ行政。社会は迷走するばかりなり。
◆現場のレイチョー村の舟着場で10代後半と思しき3人組の男子がスマホでアメリカ製の戦闘ゲームに興じていました。時々奇声を発して。舟から上がってきた我々には挨拶も頓着もせず、無関心そのもの。こんな辺境の地でもスマホの電波は入ってきて、私から言わせればつまらないものに心を奪われている。アメリカという国も罪作りなものです。私は「触らぬスマホにたたりなし」とばかり、スマホは猫に小判です。今回、仕方なくガラケーからスマホに換えて持参しましたが、昔の彼女が50歳になった日におめでとうのショートメッセージを送ったくらい。あとは東京のミャンマー大使館に入るときに役立ちました。玄関先のQRコードを読み取って個人情報を入力して登録しないと(それも毎回)、中に入れさせてもらえないのです。スマホを持っていない人は大使館で門前払いを食らいます。やれやれ。
◆今、ヤンゴンの有名高級ホテルやレストラン、みやげ物屋は軒並み営業休止や廃業に追い込まれています。観光客が来ないから。ミャンマービールも置いていない店が増えました。ミャンマービール会社は軍閥企業なので、市民はささやかな抵抗で割高なタイガーやハイネケンなど外国ビールを飲んでいる。日本に帰る前日、カウンターパート(相棒)のチョーソートン君が、カチン族の伝統料理を食べさせるレストランバーに連れて行ってくれました。そこで、サンバーの肉を初めて食いました。偶蹄目シカ科の大型哺乳類で、和名では水鹿(スイロク)というらしいですね。私は日本では一汁一菜、隠者のような暮らしをしていて、肉などめったに食いませんが、サンバーの肉は精が付くとみえて、翌朝も体がポカポカしました。チョーソートン君がお土産に持たせてくれたニッパヤシのシュート(若芽)のお茶はミャンマー人参(じんせん)と呼ぶそうで、高麗人参にも匹敵する位に精がつきます。ニッパはマングローブの一種。これもマングローブの功徳でしょうか。
◆ミャンマーは今が一番暑くて乾いた季節。人々が楽しみにしている水掛け祭りもこのころです。それに合わせるかのようにパダウの木の黄色い花がシャワーを降り注ぐ如く咲いています。ミャンマーの民話には、よくロイヤープリンセスなる「法律家の王女」、様々な問題や困難を賢い知恵と明るい判断で解決に導き、民から敬われるキャラクターが登場します。クーデターで世界の信頼を一気に失い、経済的にも苦境にあえぐ現下のミャンマーには、こういうキーパーソンが切に待望されるのです。
◆最後にミャンマー語をひとつ。「エイヤーヤーアセインピェーパーデー(世はすべて事もなし)」。ミャンマーの人が教えてくれました。そういう日常が早くまた戻ってくることを祈りつつ。[鶴田幸一]
■シブリン北壁、カメット南東壁、ナムナニ南東壁……、数々の輝かしい登攀を行いながらも、2015年12月、北海道・黒岳でなくなってしまった谷口けいさん。青春の輝きを残す43歳だった。
◆今年(2023年)4月、けいさんとゆかりのある方々で、お墓参りに行った。お墓の前で一人ひとり手を合わせた後、持ち寄ったお昼ごはんを手に近くの芝生の上へ。その墓地は丘の上にあり、眼下には手賀沼が凪いだ湖面を見せていた。
◆集まったメンバーは、自分の道を歩くエネルギーあふれる人ばかりだ。それでもそれぞれの心身は、あの日から確実に7年という歳を刻んでいた。ぽつりぽつりとけいさんとの思い出話をする。「けいさんが、大石さんとアルパインクライミングを始めたのは、大石さんと僕とけいさんと、秋の瑞牆山で冬壁の話をしてたからだと思いますよ。あれがなかったらその年末、けいさんと槍ヶ岳に行ってなかったと思いますよ」。鮮やかな紅葉と、深い青空に聳える雪山。突然、忘れていた光景がよみがえり、過去の点と、点がつながった。
◆その日のお墓参りで初めて知ったこともあった。「けいさんはインドのシブリンを登る前に、山麓にあるアシュタンガでヨガをやっていたんです。ヨガのインストラクターになることも考えていたみたいで」。好奇心旺盛なけいさんのことだから、ヨガの哲学も少し学んでいたに違いない。その哲学では、肉体は借り物で、精神は来世にも継続するという。来世の次も、また来世があり魂の転生は永遠に続く。その悠久の時を思うと、人生の長短はあまり重要でなくなってくる。けいさんは来世でも、自分と自分のまわりの世界を輝かす存在になっているのだと思う。
◆私は今、けいさんが亡くなった歳と同じ43歳だ。ここで人生が終わってしまっても、けいさんと同じように来世に行くのだと思えば、死は恐れるべきものではないのだと思う。怖いのは、現世で何もせずに死んでしまうことではないだろうか。けいさんのお墓を前にすると、そんな気持ちになる。
◆しかし煩雑な日常をこなしはじめると、そんなことはすぐに忘れてしまう。現代社会では、自発的には何もせず、システムから外れずに生きたほうが、確実に現世を伸ばすことができる。快適な管理機構の中で歳をとればとるほどに、その気持ちは強くなっていく。
◆だが、そんな日常のなかでも、ふとした瞬間に「それでいいの?」という声が、天から聞こえてくる。暖かいけいさんの輝きは、時折、刺すような鋭さで僕たちを射抜く。思い出深い点から点へと結ばれた過去。それを天からの声を糧に、未来に伸ばしていきたい。その点の連なりこそが、荒漠とした無窮の輪廻を、色鮮やかなものに変えていくのだと思う。[大石明弘 『太陽のかけら アルパインクライマー 谷口けいの軌跡』著者]
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■毎年のように海外に出かけていても、会心の旅というのはそう多くない。40代のとき、冬のカナダ中央平原に8回訪れた。そのうち2回、会心といえそうな旅があった。いずれもアクシデントで、当初の計画の半分にも満たない地点で断念。求めていたのは距離の消化でもどこかに到達でもない。一歩一歩の過程にこそ意味はある。
◆さてカナダ中央平原だが、カナディアン・ロッキーやナイアガラの滝などの観光スポットはない。何千キロと大平原がつづく。冬にはマイナス40度を下まわるものの、北極圏ほどは冷え込まない。冒険の舞台としては注目されていない。それがいい。情報がすくないエリアは、のびのび旅ができる。
◆会心の旅のひとつめは、2008年冬の自転車旅。中央平原を南端から北へ、行けるところまで行こう。このときは日本を出国する時点で、足の指ぜんぶが紫色になっていた。冬型の強まる富士山トレーニングで凍傷を負う。行ったところでなにもできんだろう。いや、まだできないときまったわけではない。
◆彼の地に着いてもすぐに出発しなかった。凍傷悪化が恐い。手術室で真っ黒に壊死した指を骨ごと切断するシーンをおもい浮かべるだけで、痛い。一日一日と出発を先延ばし。町のユースホステルに滞在中は、パソコンで神風特攻隊の動画を何百回も観る。気がついたらやっていた。必然性があったのだろう。一度飛び立った特攻は引き返すことは許されない。でも冒険はいつだって引き返せる。
◆1月下旬にスタート。しょせん自転車旅。氷雪をまとっていても道路の上。クライミングみたいに些細な判断ミスで死ぬことはない。冬の長期縦走でかんじる隔絶感もない。交通量が少なくてもクルマは走っている。ホスピタリティあふれる土地の人たちに守られながらの気ままなひとり旅。ほかのサイクリストの表現が大げさ。ついでに歩き旅の人も。オメエら、誇張もいいかげんにせえって蹴りぶっこみたくなる。
◆凍傷が悪化するごとに途中の村や町の病院で治療。そしてまた自転車旅再開、をくり返す。フラフラになっても試合をつづけるボクシングみたい。いつしか足の指の半分は壊死して真っ黒。そろそろ試合終了してもいいかな。強い人なら妥協せず突っ込む。小心者のわたしは、4月上旬に早々と断念。自転車の踏破距離1200キロ、期間63日間、現地の道中の入院や通院が合計37日間。
◆帰国後、凍傷の専門医の診断結果、足の指の壊死部分を切断となった。身体の一部を失うショックがないわけではない。それよりも静かな充足感がふつふつとわいてきた。やっぱり出発してよかった。行けるところまでは行った。手術後の病院のベッドで、退院したら新緑の山をゆっくり歩いてみようとおもった。
◆会心の旅のふたつめは、2013年冬の凍結した湖でスキーを履いての歩き旅。凍結した大きな湖を南端から北へ、行けるところまで行こう。2月上旬にスタート。いくらもすすまないうちに、寒気と強風で顔面凍傷。その影響で一時的に片目が見えなくなった。凍傷を負った頬が腫れあがり、それが目のまわりの肉を圧迫する。目が見えない恐怖と不安。不幸中の幸いは、凍傷にやられた地点が町にちかかったこと。そしてもう片方の目は見えた。自力で町にたどり着く。踏破距離200キロ、期間13日間。強い人なら断念しない。死んだらおしまいとよくいう。死んで一人前ととらえる人もいる。小心者のわたしは、いつも断念が超速。帰国後、医師の診断で眼球そのものにはダメージがないことがわかった。だから目はふつうに見える。
◆10年以上経ったいまふり返ってみる。ボクシングの世界をおもった。失明寸前の危機にさらされながらも打たれるボクサーは、極限まで追求した者にしか見えない世界が見えるという。勝ち負けという概念を超克した最高の時に出会える。あのときわたしは、凍結した湖の強風のなかで不思議な感覚を体感した。怖くて躊躇していた領域に一歩踏み込めたような、解き放たれたような感覚。それでも失明して光を失うのは怖い。あのときあのタイミングで断念してよかった。自分の弱さを受け入れると、すこし肩の荷が降りた。
●6月16日(金)〜20(火)12:00〜18:30 カフェ「ひねもすのたり」(阿佐ヶ谷駅北口徒歩5分)
淳子が亡くなって5年。命日の6月18日(または17日)には偲ぶ会を行う予定です。[長野亮之介]
■田中幹也さんが語りはじめてくれた。前から話を聞きたいと思っていた。遠目にも歳のうつろいへのあせりをバネに模索と苦闘を止めようとしない哲人と見えるからだ。
◆といっても、残念ながらそんな苦闘への助言は持ち合わせていない。ただ、津軽の山の雪に埋もれたテントの中で突然硬直七転八倒する恐怖と苦痛に対しては、ひょっとすると、いや多分、短縮、軽減できる手があるよ、試してみて、と言えそうだ。これまた残念ながら予防ではなく、攣(つ)ってからの、あるいはその前兆が出てから後の応急処置でしかないが、それでも子供のときから攣り癖のあるわたしにとっては常用の必需技だ。
◆方法は簡単。ベルト状のものをズボンの上から太股の付け根に巻いて締めればよい。硬直状態で、一人でそれが数十秒でできるかどうかが問題なのだが、装着できれば、そして締められれば、すぐに感覚が変わり、5〜10秒もすれば脚をある程度コントロールできるようになるだろう。そしたらもう一方の脚の処置にかかれる。それで立ち上がることができる。痛みは耐えられるレベルにすぐ落ちる。軽く屈伸したりその場で歩きまわったりしていれば、たいていの攣りなら5分か10分で痛みと攣りが解け、締めたベルトを外せる。その後は行動を再開できるし、行動を終えるまで攣りが再発することはめったにない。
◆予防とまでは言えないが、攣りの前兆が出てきたときにこれをやることで本格的な攣りに発展させずにいなせたことは何度かある。前兆から本格的な攣りへの展開は数秒で起こってしまうが、きっかけはわかるときがある。動作の形を変えたとき、たとえば自転車から下りて膝が伸びるときだ。前兆で危険と感じた段階でベルトを装着して軽く締めておくのがいいようだ。
◆行動中だけでなく、疲れる行動をした後、家やテントなどの安全な場所で食後くつろいで横になっているときなどに突然襲ってくる攣りも同様に処置できる。もちろん攣りにも程度がある。ストレッチなどで対応できるレベルのものならそれでいい。が、もっとひどくなれば他に手はない。芍薬甘草湯をベースにした定番薬は毎日飲んでいても、その場で頓服しても、それとわかる効果はない。鍵はベルトとして使えるものにいかに素早く手が届くかにある。
◆ベルトはズボンの上から締める。安全のために一応15分以上は締めつづけない。皮膚や筋肉や血管を傷めずに十分締めつけられるものなら何を使ってもいい。しかし基本的に寸秒を争って鎮めたい技(まあ、遅れても七転八倒する時間が長引くだけのことなのだが)なので、お薦めのベルトはある。簡便な「荷締めバンド」の類がいい。幅2センチ程度のものを二重か三重に巻いて締めるのが具合がいいから、長さは1.5メートル前後。2本で70〜80グラムだ。簡単に脚の付け根に巻きつけられ、連結できて、簡単に締められ、手が離せる。安いし、これならポケットにも納まる。
◆わたしがこの応急処置にたどり着いたのは苦し紛れに加圧トレーニング用のベルトで締めてみたからだ。加圧ベルトはわたしの体質と使い方では筋肉をつけることにはほとんど効果を感じなかったが、攣りを緩める効果には驚嘆した。締めると脚に何が起こるのか。昔読んだ加圧の研究論文集ではまだ攣りを緩める効果の答えは見つかっていなかったと思う。適度に締めつけられていれば動脈流には制約がないが、静脈流はかなり抵抗を受ける状態になる。おのずとある程度の鬱血状態になる。毛細血管への血流の圧力が増し、毛細血管が広がって、血液の末端での循環量が増える。当時の研究では締めつけ状態で無理に筋肉を動かした後、締めつけを解放すると何が起こるか。異常に乳酸が増え、おそらくそれが引き金となって、遅れて成長ホルモンがやはり異常なレベルで増えるというようなおおまかなメカニズムが明らかになりつつあった。しかし攣りに対する効果は解放後でなく締めつけて血流を制限したとたんに現れるから、おそらく仮説的にイメージされていた毛細血管の拡張やそれに伴う酸素と乳酸などのエネルギー源の供給増加が実際に起こっているのだろうと思う。
◆そういう理屈はともあれ、ひどい攣りに襲われることがあったら、寝間着の紐でもタオルでもシュリンゲでも4連くらいに束ねた自転車の荷締め紐でもズボンのベルトでも何でもいい、まずは試してみてほしい。ただし静脈瘤やら高血圧やら循環器系の不調に悩んでいる人にはお薦めしない方がよさそうだ。
◆ちなみに膝から下の攣り、いわゆるこむらがえり、特に夜明けや起きるときに叩き起こされることになる攣りにもこの技は効く。でもそれより予防法の方がいい。これまた単純で、膝下丈の医療用着圧(弾性とも)ソックス(ストッキング)を起床中履いていればいい。すると不思議にあの嫌な毎朝の蹴っ飛ばしから解放される。鍵は自分の足に合うソックスを履くことだ。最初とあるクリニックで処方され、与えられて効果に感動したソックスはブランド名を教えてもらえなかった。で、捜し当てるまでにずいぶん無駄な投資をした。探しつづけたのは、医療用をうたっていても他のものはみんな何らかの理由でわたしには使い物にならなかったからだ。わたしの足が待っていたのは米国製のTherafirmのクラシックなモデル。中程度のきつさのものだ。中厚手でも薄手でもよい。しかし同じブランドでも多少高価で履きやすくした新製品は役に立たなかった。千差万別の足に対応するにはたくさんの苦労があるのだろう。しかし残ったものにはなるほどと思わせる制作者の配慮と失敗と苦心や職人的な誠意が感じられる。
◆いや歳相応の健康話になってしまった。恐縮です。でもぜひ一度試してみて。同苦を共有する諸兄姉。効く人がいれば幸いだ。[宮本千晴]
■みなさん、GWはいかがお過ごしでしたか。ぼくは4月30日から5月9日までの10日をかけて「123・10987・46」をやりました。「えー、何ですか、その123・10987・46って?」と言われそうですが、わかる人にはすぐにピンとくるかと思います。そうです、日本の幹線国道の「1桁国道」です。国道1号→国道2号→国道3号で鹿児島へ、鹿児島からは国道10号→国道9号→国道8号→国道7号で青森へ、最後は国道4号→国道6号で東京に戻ったのです。そんなカソリの連休123…を聞いてください。
◆第1日目。朝から雨。重い気分で神奈川県伊勢原市の自宅を出発。相棒は4月4日に20万キロを達成したVストローム250。我が家から14キロ走った地点で国道1号の国府新宿(大磯町)の交差点に出る。ここから「123編」の開始だ。小田原まで行くと雨は上がり、ホッとしたのもつかのま、箱根峠は数メートル先も見えない濃霧。静岡県に入り、三島まで下ると雲の切れ間から青空が見えた。静岡、浜松を通り、愛知県に入った。
◆15時、豊橋に到着。さー、宿探し。連休中なのに、大津の「東横イン」がとれた。超ラッキー。宿がとれないことを想定して、どこでも野宿できるようにテント、シュラフを積んでいる。しかし結論から先に言うと、野宿することもなく、全泊宿がとれた。さすが「強運カソリ!」。名古屋からはナイトランで三重県に入る。四日市から鈴鹿峠を越えて滋賀県に入り、23時には大津に着いた。部屋で缶ビールで乾杯!(走行距離439キロ)
◆第2日目。夜明け前の4時に出発。京阪神の大都市圏を早朝のうちに走り抜けていく。大阪駅前の梅田新道の交差点が国道1号の終点であり、国道2号の起点。兵庫・岡山県境の船引峠のトンネルを抜け出ると山陽路をひた走る。岡山、広島の県都を通り、山口県に入ったのは16時。上出来だ。下関に到着したのは20時。ここでも泊りは「東横イン」。とにかく眠い。ベッドに横になった瞬間、爆睡モードに入っていた。「カソリの3秒寝」だ。(走行距離607キロ)
◆第3日目。今日は余裕のある行程なので出発は5時。関門トンネルを抜けて門司へ。ここから国道3号になる。関門トンネルの通行料は110円。これが今回の唯一の有料道路代。天気は快晴。福岡到着は7時。朝からやっている「博多屋」で「博多ラーメン」を食べた。小栗峠を越えて熊本県に入り、熊本に到着したのは12時。その先の宇土の「洋食亭」で「エビおむれつ」を食べた。これが絶品。
◆鹿児島到着は16時30分。照国神社前の交差点が国道3号の終点。その交差点から鹿児島の中心街の天文館を走り抜け、鹿児島中央駅前の「東横イン」に泊った。さっそく夜の町を歩き、「駅亭さつま」で「薩摩の黒豚しゃぶしゃぶ鍋」を食べた。(走行距離423キロ)
◆第4日目。5時出発。照国神社前の交差点から今度は国道10号を走り出す。目指すは青森。「10987編」の開始だ。すばらしい日の出を見る。鹿児島湾を真赤に染めて朝日が昇る。威風堂々とした桜島はいつものように噴煙を上げている。宮崎県を走り抜け、大分県に入り、15時には大分に到着。あちこちの宿を探したが、どこも満室。これが連休。大分を諦め別府へ。ここでは耳寄りな情報をキャッチ。日帰り入浴の「かっぱの湯」は宿泊可という。さっそく行ってみると宿泊OK。そのかわり10人以上の宿泊客とのゴロ寝だ。ぼくの隣には中年の夫婦……。(走行距離350キロ)
◆第5日目。4時30分出発。この日はスペシャルステージで、「豪州軍団」の九重での集まりに参加する。「豪州軍団」とは30年前に一緒にオーストラリアをバイクで走った仲間たち。国道10号で中津へ、中津からは国道212号で日田へ、日田から国道210号で九重まで行った。まずは温泉めぐり。壁湯温泉と筋湯温泉の2湯に入った。壁湯温泉の混浴露天風呂では2人の若い女性と一緒になった。筋湯温泉の共同浴場では豪快なうたせ湯に打たれた。
◆やまなみハイウェイで久住連山から阿蘇へ。熊本地震で大きな被害を受け、楼門を再建中の阿蘇神社を参拝し、九重に戻った。16時15分、「九重グリーンパーク泉水キャンプ場」に到着。ここが「豪州軍団」のミーティング会場。広大なキャンプ場は連休で大盛況。我々の会場は2階建のバンガロー。ここで「豪州軍団」のみなさんとのうれしい再会をはたす。錦戸陽子さんの作ってくれた熊本の郷土料理「だご汁」を腹いっぱいいただいたあとは、飲んで騒いで、大宴会は真夜中までつづいた。(走行距離387キロ)
◆第6日目。みなさんの見送りを受け、ひと足先に出発。時間は7時。水分峠を越え、湯布院を通り、8時には別府に戻った。国道10号で中津を通り、福岡県に入る。小倉で国道3号と合流し、門司港からは国道2号で関門トンネルを走り抜けて下関へ。小郡までは国道2号と9号の重複区間。小郡からは国道9号で県都山口を通り、野坂峠を越えて島根県に入る。益田、浜田、江津を通り、出雲市駅前の「東横イン」に泊った。(走行距離581キロ)
◆第7日目。4時30分出発。松江を通って鳥取県に入る。米子、鳥取を通り、中国と関西を分ける蒲生峠を越える。兵庫県、京都府と国道9号を走り、12時30分、京都に到着。ここから滋賀県の草津までは国道1号と国道8号の重複区間。草津からは国道8号を行く。琵琶湖を見ながら走り、湖北まで行くと雨。それも恐怖の大雨。な、なんとこの大雨は青森までつづく。峠を越えて福井県に入り、敦賀駅前の「東横イン」に泊った。(走行距離496キロ)
◆第8日目。4時出発。土砂降りの国道8号で福井、金沢、富山、新潟の北陸4県の県都を通過。新潟では古町の道路元標まで行く。ここが国道8号の終点であり、国道7号の起点になる。国道7号を北へ。村上を過ぎたところで、道の駅「朝日」の「朝日まほろば」温泉に飛び込みで行く。ここは宿泊不可なのだが、連休最後の日曜日ということもあって泊れた。地獄で出会った天国のようなもの。
◆宿泊棟は2階建の別荘風建物。近代的なキッチンつき。さっそく温泉に入り、生き返った。そのあと道の駅のレストランで「桜ますと山菜の春定食」を食べた。さすが山菜王国だけあって各種山菜の天ぷらは超美味。(走行距離546キロ)
◆第9日目。4時45分出発。大雨警報の出る中、国道7号を北へ。鶴岡、酒田を通り、秋田県に入るとガクンと気温が下がる。秋田を通り、大館まで行くと気温は3度。県境の矢立峠の雪を覚悟した。しかし、助かった。矢立峠では雪は降っていなかった。道の駅「矢立峠」の赤湯に入り、湯から上がるとレストランで「きりたんぽ鍋」を食べた。テレビでは北東北各地の季節外れの大雪を報じている。青森県に入り、弘前を通り、17時、青森に到着。青森駅前の「東横イン」に泊ったが、最後の最後まで大雨は降りつづいた。(走行距離411キロ)
◆第10日目。4時出発。気温は0度。強烈な寒さだ。国道4号を南下。陸奥湾に朝日が昇る。天気は快晴。国道4号の路面凍結が心配だったが、さすが春の雪、路面にまったく雪は残っていない。岩手県から宮城県に入り、仙台の先の岩沼からは国道6号を行く。福島県に入ると気温がグングン上がっていく。「もう大丈夫!」。浜通りを南下し、いわき市から茨城県に入る。日立周辺の大渋滞を走り抜け、水戸を通過。「あともうひと息!」。利根川を渡って千葉県に入り、東京・日本橋に到着したのは23時。これにて「46編」、終了。
◆日本橋は大改修の工事中で一大工事現場になっている。最後は国道1号。多摩川を渡って神奈川県に入り、横浜、平塚を通り、大磯の国府新宿の交差点に到達したのは2時。日本橋からは74キロ地点。ここから伊勢原の自宅に戻った。「123・10987・46」の全行程は4996キロ。「残念、あと6キロで5000キロだったのに……」と悔しがるカソリ。それとともに青森からは津軽海峡を渡り、国道5号で「函館〜札幌」を往復し、最後を「546編」にするべきだったと無性に悔やまれた。あと1日あればできたのだが……。ま、それはおいて、ぼくにとってはとってもいいGWになった。(走行距離864キロ)[賀曽利隆]
■ここしばらくアフリカ報告ばかりでしたが、「日本の漁村の現状を都会の消費者に伝えよう」というのが私たち「ウーマンズフォーラム魚」の活動の原点です。1993年5月12日の発足から30年を迎えましたが、志は変わりません。
◆来る6月10日、福島から浜のかあさんに東京(八丁堀)にお越しいただき、福島の現状を話していただく会を開きます。自慢のお魚もお持ちいただき、参加者全員でお料理して味わいます。東日本大震災の被災地は12年がすぎて復興が進んでいますが、福島だけは放射能汚染という難しい課題を背負い、いまも汚染水放出問題に揺れています。そのなかでもこどもたちは成長し、大人たちもそれぞれの暮らしを立て直しています。今回は2011年からの12年間について、漁業現場の話をうかがいながら、放射能汚染の問題がなくなった水産物をしっかりと味わいたいと思っています。
◆日本には6000の漁村があり、その一つ一つにかけがえのない漁業と魚食の文化・伝統があります。私たちは活動を始めた当初、いくつかの決めごとをしました。その一つが、「浜のかあさんと語ろう会」の開催です。上記の会合もそのひとつで、今回で123回目になります。これまで北海道から九州まで122の漁村から東京にお越しいただいて開催してきました。2011年から6月開催は被災地シリーズと決めて、石巻、女川、福島、茨城からお招きして開催してきました。6月10日ご参加を希望くださる方は佐藤(080-1378-4114/ )までご連絡ください。東京都中央区の公共会場のため参加者の事前申請が必要です。参加費は無料です。[佐藤安紀子]
■土に水がしみ、爽やかな風が吹く「うりずん」の季節に60代の沖縄八重山を訪れることができた。「60代の」というからには、20代の7か月に及ぶ何かに憑かれたような冒険の日々、30代結婚してしばらく日本を離れる前の一人旅、40代小学生になった娘2人を連れての子連れ旅。50代やまねこマラソンを走るという口実の一人旅があった。
◆一周道路のない西表島の西の端にある、白浜から船でしか行けない陸の孤島の集落、船浮(ふなうき)は5回目の訪問。コロナで4年ぶりの開催になる『第17回船浮音祭り』に初参加できるように10日間ほどの旅程を組む。
◆音祭りを主催しているシンガーソングライターの池田卓さんが4歳のときに、卓さんの両親である池田米蔵さん夫妻には大変お世話になった。また再会できて嬉しかった。船浮集落は西表島西部冒険の起点でもあったのだ。当日、土砂降りの雨の中、人口40人ほどの集落に600人が押し寄せた。翌日の八重山毎日新聞の一面トップ記事になっていて感慨深かった。
◆また、最西端の与那国島に39年ぶりに降り立つ。石垣島からプロペラ機で30分。昔は座席もない板敷の小さな船で大荒れの海を6時間半揺られてたどり着いた最果ての地だった。宿屋に泊まるという発想もなく、最西端の西崎(いりざき)にテントを張って暴風に一晩耐え、翌日台風一過の快晴に目の前に陸地が見えて驚いた。台湾だった。今回は空港でレンタカーを借りて、租納(そない)の宿に荷物を置いてから西崎に夕日を見に行く。その近くにある久部良バリ。かつて人頭税に苦しむ島が人減らしのため、妊婦にこのバリ(割れ目)を跳ばせたと伝えられる。39年前の私はこのバリを、そんな悲しい歴史に負けないぞ!とばかりに跳んだ覚えがある。覗いてみて恐れおののいた。幅3〜5mで深さ7〜8mだと昔はなかった案内板に書いてあるが……。いくら若いとはいえ、あの頃の私は失うものが何もない怖いもの知らずだったのだろうか? 今の私にはとても怖くて跳べない。
◆翌日朝、東崎(あがりさき)の与那国馬に会いにいく。近づくと走り寄ってくる。日本の在来種の中で最も小型で人懐こい。与那国島の厳しい環境下でヒトと400年間共生してきた。39年前は西崎から歩いて来たから与那国島をもの凄く大きい島だと認識していたが、今回道路も整備され一周27kmだと知る。36年前に発見されたという海底遺跡を見る半潜水艦に乗る。実は私は39年前に浜からシュノーケルで泳いで、この遺跡の階段を見ていた。誰に話しても信じてもらえなかったが、やはり位置から考えて間違いないと確信した。
◆西表島から見える鳩間島でも1日過ごす。最初の訪問は西表島より早かった。人形劇団かじまやぁの離島公演の最終公演地が鳩間島だった。雑用係で付いて回った私は、ここで皆と分かれて旅人に戻った。ちょうど鳩間中学校が10年ぶりに復活開校する春でTV局や写真家も来島して忙しくなった民宿を手伝った。その縁で裏の浜で星砂捕りの仕事をやったりした。寝食付きで1日1000円の過酷な労働だったが、目の前に広がる西表島冒険を控えてのトレーニングだと思えばありがたかった。
◆星砂は干潮でも満潮でも捕れない。ウェットスーツを着て、海藻についてる有孔虫の遺骸を取る。セメント袋30kgを担ぎ上げ何往復もする。桟橋で干して、ふるいにかける。下に落ちたのが星砂。中に残ったのが太陽の砂。純度100%! リゾート業者が買ってビーチに撒くわけだ。身体はみるみる鍛えられた。毎晩飲む泡盛や電燈潜りの漁を通して精神力も鍛えられたかも。
◆今回同行している連れ合いに少しでも西表島のワイルドな原生林を感じてもらいたくて、西表島最高峰の古見岳やユツン滝にも行く。限られた時間のなかでこれ以上ないくらいにぎっしりと、若い日の自分に会って、今を楽しんだ。また、次が楽しみになる新しい出会いもあった。
◆70代の旅がまた二人旅になるか、はたまた一人旅になるかはわからないが、どちらにしても、今回のこの旅を思い出すだろう。そして、80代になっても、90代になっても旅の形が変わっても必ず行きたい八重山への旅なのだ。[高世泉]
■高齢者の運転は世間様から白い目で見られている。70歳を過ぎたころ奥様子供世間様の強い圧力で愛車を手放すことになった。「免許も返納せよ」との圧力もあったがゴールド免許は手放すことはしなかった。しかし高齢者の免許更新には認知症検査が必要になっていることを知った。
◆3年前、まさか私が運転免許試験ごときで落ちることはないと何の準備もしないで検査会場に行った。私の時代運転免許は府中の試験場に行って一発で取れた。もっともその前に無免許でかなり練習はしたけど。ペーパー試験は常識で解ける問題だった。
◆高齢者認知症検査の最初のテストは生年月日や当日の日にちを聞き、時計に現在時刻を表示するという、かなりプライドを傷つけるような幼稚な質問だった。次は「16枚の絵を見て4分間かけて覚えてください」という問題。「なんだこんなもの! 忘れるはずはない」。さて答案用紙に書こうと思ったらその前に「もう一問、足し算をできるだけたくさんやってください!」と用紙が配られた。30問ぐらいを簡単にできた。
◆しかしこれがボケかかっている私には大問題だった。「さっきの16枚のイラストを思い出し名称を書きなさい」。記憶ファイルにあった絵が、計算をやっている間にすっかり消去されてしまった。断片的な記憶を拾い集めたが結果は76点しか取れなかった。
◆75点以下は再検査とのことで、まさにギリギリセーフ。周りの人たちが95点だったよ!など喋っているのを聞くとおおいに自信を失い、恥ずかしさがつのった。「俺ってそんなにも認知度が下がっていたのか!」。
◆それから3年、また免許更新の季節がやってきた。インターネットには認知症テストの問題集が紹介され、模擬テストもやっている。前回皆さんが準備をしていることも知らずに検査を受けた。あれから大分ぼけているので準備しなければ確実に75点を下回る。
◆そこで本日からイラスト4種類を懸命に覚え始めた。AからDまで4種類のパターンがあって、当日はどれか一つが出題される。完璧にしようと思ったら16×4=64枚のイラストを覚えなければならない。しかし検査は明日、もう余力がないのでパターンAの16枚だけを覚えることにした。もしパターンAが出題されれば余裕でパスするがそれ以外だとちょっときついかも。まさに一夜漬け、山かけ! 私は昔山岳部にいたので「山を駆ける」ことは得意だった。今回もその得意技が持続しているかどうか見ものだ。
◆本日5月1日、明日5月2日が検査日。さてどうなることか。[三輪主彦(傘寿)]
編注:みごと山が当たって予想通りパターンAが出題され、ほぼ満点の成績でパスしたとのこと。おめでとう。なお、江本は2度同じ試験をクリアしたが、いまは免許返納した。
■2023年4月19日の出来事を、どう書いたらいいのかいまだにわからない。わからないなりに言葉にしようと思う。
◆4月15日、西穂山荘から下山し、翌16日に福岡にもどった。山荘にいた1か月半で季節は巡った。次は6月末に入山する予定だ。福岡に戻ったその日、山岳部の追いコンに出席し、先輩方の卒業を祝った。18日には友人と会う約束があり、東京へ発った。東京へ行く準備をしながら、突発的に思った。そうだ、江本さんに連絡してみよう。
◆一か八か、メールを送信すると、返事がきた。時間を作ってくださるという。そして4月19日、友人と別れ、一人武蔵小金井に向かった。改札をくぐり南口に出ると、地平線会議代表世話人の江本嘉伸さんがそこにいた。
◆事の始まりは、2021年1月、九州大学での講義「世界が仕事場」だった。オンラインで江本さんの講義を聞いたあと、一枚のはがきを投函すると、地平線通信と手紙が送られてきた。通信を開くと、世界への窓が開かれるような気持ちがした。人と実際に話すことで広がる世界は計り知れない。しかしコロナ禍でなければ、地平線会議を知ることもきっとなかった。通信を読むと、コロナ禍の日常であっても自分なりの行動を続けようと鼓舞された。自分の大学生活が地平線通信とともにあったことはとても幸運なことだと思う。
◆江本さんはその世界への窓に連れてきてくれた人だ。緊張もしたが、対面で話すことができ、とてもうれしかった。そしてこの日、長野亮之介さんともお話しできた。毎号の題字や8コマ漫画は楽しみの一つなので、うれしさ倍増だった。お二人の名前は何度も目にしてきたが、今回実際にお会いして、人として存在するのだな、ということを確認できてほっとした。
◆その一日はそれだけでは終わらなかった。15時頃だったか、用事があった長野さんと別れたあと、時間があった私は「徘徊」にお供させてもらうことになったのだ。いま振り返っても本当かどうかわからない。妄想にしては想像力がたくましすぎるので本当なのだろう。
◆住宅街を抜け、野川に沿って歩き、橋を渡り、「多磨墓地」を抜けて浅間山へと歩いた。春の陽光が降り注ぐ野川のほとりは、私のイメージしていた東京にはない風景だった。満員電車や狭い空ばかりだと思っていたのだ。浅間山ではムサシノキスゲが咲いていた。江本さんは「徘徊」ルートのことをよく知っていた。いい休憩場所やどこにどんな生き物がいるのかを話す姿は、その空間をどの生き物より楽しんでいるように見えて、羨ましかった。
◆墓地や山道を歩いているとき、江本さんの電話が度々鳴った。通信の原稿依頼や報告会についてのやりとりをしているようだった。江本さんの日常のなかで、毎月の通信、報告会の骨組みが形成されていく過程を垣間見た気がした。その息の長い記録と行動の蓄積を想像し、しばし呆然とした。
◆その身でもって地球を体験している人の集まりが地平線会議なのだと思う。そこから生まれる表現に触れたり、実際に話をしたりすると、私は自分の一生でなにができるのかと考えさせられる。どういう時代の流れにいても、何が起きているのかに目を向け、想像し行動したい。改めて、今こうして文章を書かせていただいていることやこの通信に巡り合えたこと、今回の訪問のこと、心から感謝しています。[安平ゆう]
■皆さんが新緑の世界に飛び込んでいるゴールデンウィーク、珍しく吉祥寺の映画館に3日も通った。「プーチンより愛を込めて」というヴィタリー・マンスキー監督によるドキュメンタリー。一体、どうしてプーチンがこれほど愚雑な侵略に踏み切ったのか何かヒントが見つけられないか。ロシア語を学び、少しはソ連、ロシアとの関わりを持ってきた者として何かが見えないか、との期待からである。
◆1999年12月31日、時のロシア大統領、ボリス・エリツィンは健康上の理由から突如辞任、「大統領代行」としてウラジーミル・プーチンを指名した。9月に首相に就任していたが、世界に「誰?」と驚かせた人選だった。翌2000年3月の大統領選でプーチンは当選した。お祝いの電話をするエリツィン。しかし、プーチンは恩人に対して冷酷だった。いっさい電話に出なかったのだ。たまたまエリツィンの自宅に入っていたカメラは落胆した前大統領の表情をクールに追う。この瞬間、プーチンの“独裁”は始まっていたのである。
◆映画の原題は「プーチンの目撃者」。プーチンを教えたことのある元女性教師を登場させ、若き日の独裁者について語らせるなど彼を好意的に描き出そうとしているのは、選挙でプーチンを勝たせるための手段だから仕方がないが、さりげなく批判的な表現を試みてもいる。「ソ連国歌の復活」はそのひとつだ。♪自由な共和国の揺ぎ無い同盟は 偉大なルーシが永遠に結びつけた 人民の意思によって建設された 団結した強力なソビエト連邦万歳!♪
◆日本語訳してしまうとなんとも味のない歌詞だが、1964年の東京五輪、1972年の札幌冬季五輪、何回かのソ連取材でさんざん聴いてきた私には懐かしいメロディーである。1917年の革命で誕生したソビエト社会主義共和国連邦。生まれて以来聴き続け、歌い続けてきた民衆にはどれほどソ連国歌が体に染み付いていることか。一部の富裕層だけが大手を振っているいまに比べて平等の意識が強かったソ連時代を懐かしむ者が多く、プーチンの支持率80%というのはあながち誇張ではないのだろう。
◆映画では自宅でプーチンがソ連国歌の復活を目論んでいると監督に知らされたエリツィンがただ一言「赤だ!(ガチガチの共産主義者だ、の意)」と吐き捨てるように言い放つ場面が印象に残った。エリツィンは急に自身の後継者として20人の後進からまだ47才、ほとんど無名に近いウラジーミル・プーチンを選んだ。当時誰もプーチンのことを知らず、まだ剛腕をかくしたままだったので「安全な後継者」と考えたのだろうが、とんでもなかった。
◆2000年はじめに始まった撮影は1年半続けられ、2001年6月12日にテレビ放映された。もちろんプーチンが受け入れる内容だったから監督には物足りなかったのだろう。2014年、ロシアによるクリミア併合を機に監督はロシアを去り、ラトビアに移り住んだ。そして、「黙って同意してプーチンの犯罪の目撃者になった自分を含めすべてのロシア人に向けて20年前の映像を活かした。なのでタイトルを『プーチンの目撃者』とした」という。
◆私がソ連を初めて訪れたのは1977年夏だった。横浜から船でナホトカに行き、列車でハバロフスクへ、さらに空路タシケントに飛んで中央アジアのウズベキスタン、さらには北のヤクーツクへ、と飛び回った。「市民たちのソ連」という新聞一面の連載を芥川賞作家の日野啓三さん(当時編集委員だった)はじめ4人の記者が分担して22回にわたり書いた。飛行機を9回も乗り継ぐ旅でソ連という国のでかさを痛感した。
◆以後、1980年代後半から世紀末にかけて何度かソ連を訪れているが印象的だったのは、ゴルバチョフが登場してからの劇的変化である。当時、メディアのモスクワ駐在記者たちは「ソ連の悲劇は」とよく言っていた。「こんなにいろいろ問題が起きていてもソ連という国だけはやめるわけにはいかないことだ」。
◆それがゴルバチョフが登場して「ペレストロイカ(変革)」政策を取るようになってガクンと変わった。固く閉ざされていた「鉄のカーテン」がみるみる開かれていったのだ。1988年4月にはその象徴として「ソ連カナダ合同北極横断隊」が組織され、私はロシア語ができる、植村直己を知っているというだけで北極点取材を許された。「植村直己の『北極点単独行』と安部公房の『砂の女』が今のソ連では1番の人気だ」と横断隊を主催する「コムソモリスカヤプラウダ」紙の編集長は言っていた。
◆結局、私はジェット機とヘリを乗り継いでソ連側から北極点に立ち、ソ連、カナダ両国の副首相たちとともに「北極点セレモニー」に参加することとなった。なんだかエベレストも北極点も仕事で行けてしまい、申し訳ない感じである。以前ここに書いたが「アイゼンとロシア語(実は大した語学力ではない)」が私の仕事をいつも助けてくれた。
◆プーチンによって書き換えられそうな現代史。今も自分に何ができるか、考えている。[江本嘉伸]
地平線通信を20年支えてくれた森井祐介さんを偲ぶ会が4月15日、降りしきる雨の中、いつもの「北京」で開かれ、22人が参加しました。参加したのは以下の方々です。
丸山純 長野亮之介 武田力 落合大祐 大西夏奈子 加藤千晶 新垣亜美 車谷建太 白根全 長岡竜介 杉山貴章 光菅修 中畑朋子 中嶋敦子 坪井伸吾 日野和子 佐藤安紀子 山本豊人 岡本理香弁護士 森井しのぶ 北京ママ 江本嘉伸
■小雨のぱらつく4月15日。早稲田の中華料理店「北京」で「森井さんを偲ぶ会」が開催された。会場には3年ぶりに会う人もちらほらいて、偲ぶ会ではあるけれどもみんなどこか顔がほころんでいる。ここにはいない森井さんもみんなが集まっている姿を見て、喜んでいるに違いない。どこからか「晴れ男の森井さんがいないから今日は雨なんだ」という声が聞こえてくる。
◆会場のテーブルには遺影だけでなく、金井重さんと一緒に写るまだ60代の森井さんや80歳の誕生日を仲間に祝ってもらい嬉しそうな顔をしている森井さんの写真、そして長野さんが描いた森井明王のイラストや花が飾られていた。
◆15時になり偲ぶ会がはじまると妹のしのぶさんが森井さんの子供時代のことを語ってくれた。「兄は空襲の最中でも猫を抱いて逃げたんです。そのくらい心の優しい人でした」。しのぶさんとともに参加された岡本弁護士は、体調が悪くなり会話がままならなくなっても「入院費は自分がしっかり払う」といつも気にかけていた森井さんのことを話してくれた。
◆そんな森井さんが入院したのは去年の8月。7月の発送作業日にプリンターが動かないと連絡を受けた落合さんが訪ねると明らかにやつれ、足もぱんぱんにむくんでいる森井さんがいた。その翌月の8日から森井さんは入院することとなる。ようやく退院の目途がついたのは11月初め。しかし、退院した約2週間後に事態は急転する。
◆江本さんが森井さんの様子を見に行くと普段は開いているドアに鍵がかかっていた。そのことが森井さんの不在を際立たせた。再入院後、森井さんは意識を持ち直すたびに江本さんや車谷さんに電話をかけ、会話はできなくとも生きていることを伝えてくれていたそうだ。「森井さんは見事に生き抜いた」と江本さんは言う。確かに森井さんは生き抜くということを身近なところで見せてくれたひとだった。
◆会費制のはずなのにどんどん運ばれてくる瓶ビール。心配して尋ねると「それはいいのよ。いつも来てくれたからね」と北京のママ。そんな優しさも溢れる偲ぶ会を締めくくったのは長岡さんと車谷さんの演奏だった。長岡さんがケーナで朗々と「コンドルは飛んでいく」を吹きあげ、サンポーニャの音を響かせ終えると車谷さんが森井さんとの思い出を語ってくれた。「いつもレイアウトが完成した版下を受け取りに行くと「車谷くん、まいったよ」と困った表情を見せながらも嬉しそうにしているんですよね。そんな森井さんが僕は好きでした」。
◆偲ぶ会を自分の演奏で締めるとなったとき、車谷さんは森井さんが好きだった沖縄の曲にしようと決めた。車谷さんが用意した曲は「安里屋ユンタ」と「島唄」。車谷さんの三味線にみんなの歌声と長野さんの指笛が加わった「安里屋ユンタ」を終えると車谷さんは次の演奏に入る前に「島唄」の歌詞の本当の意味を教えてくれた。よく知られた「島唄」だが、赤いデイゴの花が咲く季節に起きた悲劇を歌ったものだという。
◆サビの「ウージ(サトウキビ)の下で千代にさよなら」という部分はガマ(鍾乳洞でできた防空壕)で自決した友人との永遠の別れを意味し、風に乗って海を渡る鳥は死者の魂を表しているそうだ。「今回『島唄』を最後に演奏しようと思ってから、しばらくこの曲と向き合いました。元々は悲しい歌なんですが、森井さんを想いながらずっと向き合っていると新しい曲の解釈が僕の中で生まれました」。そう言って静かに車谷さんが三味線をつま弾きはじめると僕たちも「島唄」に声と想いを重ね合わせた。[光菅修]
■「ああ、約束が果たせなかった〜」。森井祐介さんの訃報に接して最初に思ったのは、そのことだ。4年ほど前に荒木町の江本さん宅で森井さんの80歳の誕生会が開かれたとき、私は小さなカードに「伊豆の家への招待券(交通費付き)」と書いてプレゼントした。伊豆の家で、父と囲碁をしてのんびり過ごしてもらいたいと思ったのだ。森井さんは少し困った感じで、「ありがたいけれど、今は……」というような返事だった。気力や体力のこと、そして見知らぬ人の家を訪ねることへの躊躇もあったのかもしれない。私はずっといつかはと思っていたけれど、残念ながら実現しなかった。
◆森井さんと会うのは、たいてい地平線通信の発送作業の日だった。作業を終えたばかりの森井さんは放心状態のことが多かったが、それでも「最近どうお?」と声をかけてくれたり、「行ってきましたよ、沖縄」と、沖縄でのプロ野球のキャンプ地や碁会所めぐりの話を聞かせてくれたりした。
◆2008年に浜比嘉島で「ちへいせん・あしびなー」が開かれたときは、同じ日程で島に入ることがわかり、宿の手配を任された。私たち女子は1泊目はリゾートホテルを考えていると伝えると、それで構わないと言って同じホテルに泊まられたけれど、2泊目に民宿に移ると、「やっぱり民宿が落ち着くね」と笑っていた森井さんの姿が印象に残っている。
◆去る4月15日、「森井さんを偲ぶ会」に参加させてもらった。コロナ禍だけが理由ではないが、ここ数年、私は地平線通信の発送作業にまったく参加できておらず、報告会もしばらく開かれていなかったため、数年ぶりに会う方ばかり。時間が許すなら、通信を毎月、制作・発送してくれている一人ひとりに感謝を伝えたかった。偲ぶ会はなんともいえないあたたかな空気に包まれていて、気取らず、建前がなく、凝っていて……そんな地平線会議ならではの変わらぬ雰囲気が懐かしく、うれしかった。
◆集った人の多くは、長年にわたる通信レイアウト作業への感謝はもちろんあるが、それだけでなく森井さんの人柄に魅せられていたのではないかと思う。基本的にいつも機嫌がよく、自分から前に出ることがなく、一歩下がって全体を見ている森井さん。大声をあげたり、だれかの悪口を言う姿は見たことがないし、想像がつかない。そんなことを同じテーブルの人たちと話した。総しぼりの羽織から作られたという素敵なマスクをかけた森井さんの妹のしのぶさんは「とにかく優しい兄でした」と語っていた。
◆私が森井さんに父と碁をしてもらいたかったのは、きっと気が合うだろうと思っていたからだ。19歳のときに囲碁を始めて以来、83歳となった今まで、父は人生の多くの時間を囲碁に費やしている。私を女流棋士にしたいと思っていた(笑)というほどの囲碁好きだ。1990年代前半までは碁会所に通っていたが、その後はインターネットで世界各国の人と対戦したり観戦したりが中心の生活に。
◆以前、碁会所を訪ねて旅する森井さんの話をしたとき、父は「それはすごいなあ」と感心していた。父が碁会所から足が遠のいたのは閉鎖的な雰囲気が好きでなかったからだそうで、囲碁界には新参者を歓迎しない人が少なからずいると嘆いていた。もちろんすべての人がそうでないだろうけれど、森井さんが勤務先の碁会所で「初めて来た人や対戦相手がいない人と碁を打つのも自分の仕事」と言われていたことを思い出した。きっと森井さんの存在に救われた人がたくさんいたはずだ。
◆旅先の碁会所を訪ね、そのなかに自然に入って飄々と碁を打っていたであろう森井さんはかっこいいなあ。森井さんの好奇心と人柄がなせる独自の旅のスタイルだったと思う。[日野和子]
■「宛名ラベル、届きましたよ」。コロナ禍で私が発送作業に足が遠のいていたときも、森井さんは律儀にお電話くださり、毎月少しですがお話しできたのが「雑用係(データをもらってラベルを印刷して送るだけ、簡単!)」の役得でした。
◆それまでも、プリンターが壊れて急きょラベルの印刷をお願いする、間に合わず当日お宅に届けにゆく、「水増し号」の印刷で操作がわからず泣きつく、慌ててばかりの私を「大丈夫です」「なんとかなりますよ」って、優しく落ち着かせてくださった森井さん。
◆レイアウトの佳境なのに「よく来ましたねえ」と紅茶を淹れてくださり、帰りにはそっと食料を持たせたり、「お店で売って」とデータ化を済ませたクラシックやジャズのCDを大量にくださったり(食べられているのか、心配くださっていたんだと思う……)。
◆通信制作中も後も、お疲れの様子は見せても、いつも一定の穏やかさを保って、飄々と楽しい雰囲気で、そこにいらして。ご自分のミスは小さなものも気にされるのに、人のミスには寛容で。私にとっての森井さんは、どんな時も人を傷つけず貶めない方だ!と思わせてくれる存在で、いてくださるだけで嬉しくなる。どうしたらあんなふうに徳のある人になれるのだろうと、お会いするたびに思っていました。
◆江本さんから電動自転車を贈られたとき、「これはとても速いですよ」って、得意げにびゅーんと走ってみせてくれた森井さん。白内障の手術後「いや〜、参りましたよ。見えるようになって驚きました」って、照れながら掃除途中のお家の本棚(の埃)を見せてくれた森井さん。キュートだった! 行きつけの定食屋さんに連れて行ってくださったときは、店員さんとのさりげない会話が小粋で。何度かお邪魔した碁会所では、そこにいる方たちみんなの居心地がよいよう、心を配っているお姿が印象的でした。
◆私が森井さんのお宅で、我が身のシェアハウス暮らしを愚痴ったときだったか。「でも加藤さん、ずっとひとりは寂しいものですよ」って仰って。たいてい疲れて寝てしまうけど眠れない夜もある、そんなときは本を開いて物語の世界に浸るんだ、そんなお話しをしてくださいました。それから、最近読んだという小説のお話も。文学、音楽、囲碁――。眠れぬ夜や、ひとり静かに深く好きなものと向き合う時間があって、森井さんという素敵な方がいまここにいらっしゃるのだなあ、と、強く思ったことを覚えています。
◆「森井さんを偲ぶ会」で頂いた、丸山さん編集の「森井讃通信84号」には、森井さんの存在が満ち満ちていて(信頼でつながった、森井さんと江本さん、森井さんと車谷さんの関係性にも満ちていて。じーんと)! もうお話できないのは寂しいけど、これからも地平線通信を読み返したら、そこには森井さんがいらっしゃるなあ、って思いました。[加藤千晶]
■江本さん、「森井讃通信84」(編注・4月15日、偲ぶ会のために丸山純さんがつくった冊子)を送っていただきありがとうございました。連休で5日ほど家を空けていて昨日5月6日に帰ってきたら、郵便受けに封書が入っていました。カラー刷り24ページの大作で、過去の地平線通信のなかから森井さんに関するものを時間の逆順にたどってピックアップして構成した内容は、通信制作に関するものを中心に熱量と誠実さが感じられる内容です。森井さんにかかわった人たちの文章から森井さんの人柄が立体的に見えてくる配置にも感心させられました。
◆私は2回か3回程度しかお見かけしたことがありませんでしたが、この通信を読んで改めてその偉大な功績を知ることができました。森井さん本人の文章も誠実な人柄を感じさせます。丸山さんのセンスで選び出した地平線通信の記事からの構成が素晴らしいものだということにも感心しています。ありがとうございました。[5月7日 北川文夫]
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。今月は久々の報告会再開とあって、会場での入金が目立ちました。カンパとしていつもより多めに支払い、あるいは送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、できれば、最近の通信への感想などどんなことでも結構です、ひとことお寄せくださると嬉しいです。
中村和晃(4000円 送付先の住所変更をお願いします)/北村敏(3000円 いつもありがとうございます。誌代+カンパです)/藤本亘/天野賢一/大塚覚(10000円 5ネンブンデス)/西嶋錬太郎(3000円 通信費2000円 カンパ1000円)/滝村英之(3000円)/村田憲明(毎月ポストに地平線通信。コロナの中でも減ることもなくホントすごい。フロントは江本さんが歴史を別の視点で過去と今を記録しているみたいでいい。祥太郎くんと柚妃さんの会ったこともないのにその成長に驚き、未来を想像して楽しみ。だから5年後10年後の地平線通信を読みたいな。体には気をつけて下さいませ)/塚本昌晃 6000円(3年分)/伊沢正名(10000円 5年分)/光菅修(10000円 1年分+カンパ)/竹澤廣介(6000円 3年分)/日野和子(10000円 5年分)/新保一晃(10000円 5年分)/松田行泰(10000円 5年分)/川村志のぶ(10000円 5年分)/宮本千晴(20000円)/木田沙都紀(20000円)/金子浩/山地信義/横内宏美/田中明美/坂井真紀子/樫田秀樹/野口英雄/森永憲彦
■地平線通信528号はさる4月10日印刷し、新宿局から発送しました。盛りだくさんな内容で18ページとなりましたが精鋭たちの頑張りで時間通りに発送できました。私が駆けつけた時はすでに「北京」に移動していました。作業に参加してくれたのは以下の皆さんです。江本以下は、北京からの参加です。作業に参加できずとも当面の地平線会議についていろいろ意見を交わすなど十分役割を果たしてもらいました。みなさん、おつかれさまでした。
車谷建太 中畑朋子 中嶋敦子 伊藤里香 落合大祐 久保田賢次 白根全 久島弘 武田力 江本嘉伸 光菅修 長岡竜介
■あいかわらず、よく歩いている。先日は九州から珍客が来たのでいつもの徘徊コースを歩いてもらった。本人の感想にもあるが東京とは思えない自然環境にびっくりしたらしい。そう。今の府中市に引っ越しして6月末で2年になるが、私の体調は高齢期に緑深い府中に来たことで多少改善していると感じている。
◆日に3時間か4時間は歩き回っているかカフェでのコーヒータイムにしている。その間、結構電話して通信の原稿依頼や報告会候補と話しをする。何かがひらめく瞬間でもある。そういうニュアンスが私の徘徊にはある気がして、徘徊はいいのだ、と言い聞かせている。
◆森井祐介さんを偲ぶ会が終わった。森井さんのような地平線会議のために人生の大事な部分を捧げてくれた人をどのように見送ればよかったのか、今でもはっきりしないが、一応できることを考え、皆さんの協力で実行できたと思う。それにしても森井さん、遠慮されていたので私とでさえ、じっくり自分の最期について語ることはなかった。が、一度はフランクに自分の最後のことを話してもらえばよかった、と手遅れながら思う。今頃、麦丸、会いにきたぞぉ!と空で私のわんこに話しかけているかも。
◆森井祐介さんのいた地平線会議。その時代がいかに大切であったか、静かに考える。[江本嘉伸]
すみません。私のせいでいくつかミスがありました。[江本]
★フロント原稿の真ん中から下の「スカイツリー の舌」は「スカイツリーの下」と訂正。その3行下の「江上幹幸(もとこ)」は、「江上幹幸(ともこ)」と訂正。
★4ページの恩田真砂美さん原稿「吉川謙二さんようこそ」の左段最後の行「以上は竜宮城に…」の1行は削除ください(別原稿の一部が紛れてしまった)。
未来を照らすランタン
「私が馬で通ると、遠くの方からゴタルー(牧民)が挨拶しにわーって走ってくるの。皆すごく元気で安心した」。チベット学者の貞兼綾子さんは今年2/8〜3/7の一ヶ月間、5年振りにネパール中部のランタン村を訪ねました。 '15年4月25日に発生した大地震で壊滅的な被害を受けてから8年。コロナ禍を経て村人の心がどんなにか落ち込んでいるかと気がかりでした。ランタン村に30年近く通い続け、村の人々と家族としてつき合ってきた綾子さんには「息子」のテンバをはじめ「孫」達も11人。急激に復興する村で、スマホを使いこなして前向きに生きる若い世代の姿に明るい未来が垣間見えました。 村の自立を支援するランタン・プランやゾモ・プロジェクトは停滞していましたが、今回再スタートの道すじも。「彼等の未来を信じたい」という綾子さんにランタンの今を報告して頂きます! |
地平線通信 529号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2023年5月16日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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