2023年3月の地平線通信

3月の地平線通信・527号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

3月20日。午前7時の東京の気温8度。ひんやりした空気を感じながら新聞を取りに階段を降りてゆくと屋根たちの上に素晴らしい青空が広がった。こういう風景は荒木町暮らしにはなかったな。そして、近くの多摩墓地の桜のことを特筆しなければならない。広大な墓地を貫いて縦横に走る道路のとりわけ一本が豪華な「花の並木道」となり、お墓参りがてら花見を楽しむ人々が集まる。まさに春爛漫のそのものの風景が目の前だ。

◆朝日新聞の世論調査で危険水域まで下がっていた岸田文雄首相の内閣支持率が上昇し40%まで持ち直したことが今朝の紙面で伝えられている。16日に開かれた日韓首脳会談への高い評価が背景にある。岸田というより韓国の尹錫悦(ユンソンニョル)大統領の決断が大きかったと思うが、さて今後どうなるか。

◆あの、(私と同じ誕生日の)ウラジーミル・プーチンが一昨日18日、ウクライナ南部のクリミア半島と東部のマリウポリを電撃訪問した。1年かけて制圧したエリアに足を運び、力を誇示したかったのか。一方中国の習近平が今日から22日までの日程でモスクワを訪問、プーチンと会談するそうである。うーむ、つくづく人間的魅力の乏しいお二人だ。将棋の藤井聡太さんが日光市での棋王戦5番勝負で渡辺明棋王(38)に勝ち、史上2人目の「六冠」を達成した。まだ20才の若者である。

◆武蔵野美術大学教授だった相沢韶男(つぐお)さんが3月9日亡くなった。79才。学生の頃、茅葺屋根の民家が立ち並ぶ福島県の大内宿に出会い、この建物群をこのまま残すことがいかに大切かと村人たちを説得し40数軒の茅葺屋根の家並みを保存、いまでは毎年80万の観光客が訪れる場所となった。「売らない 貸さない 壊さない」をモットーとする価値あるこの家並み、若き相沢さんが遺した貴重な遺産である。出たがりではない相沢さんを説得して地平線で話してもらったのは2004年5月28日、295回の報告会でだった。若者がこんなこともできるのだ。彼を誰よりも知る関野吉晴さんに一文を書いてもらった(19ページ)。

◆話は前後する。3月6日、「山と探検文学賞」の選考委員会が神田神保町の山と溪谷社であった。12回目となる今回は候補作は堀田江理『1961年 アメリカと見た夢』(岩波書店)、中村寛・松尾眞「アメリカの[周縁]をあるく 旅する人類学』(平凡社)、名倉有里『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)、山と溪谷社・編『日本人とエベレスト 植村直己から栗城史多まで』(山と溪谷社)の4点。

◆自身執筆者の一人であるエベレスト本が候補作となったことには驚いたが、自分の関わった本を推すわけにはいかない。自分としては高校生の時からロシア語を学び、ペテルブルグ大学語学学校、ロシア国立ゴーリキー文学大学の日本人初の卒業生となった奈倉有里さんの本が図抜けている、と思った。とくに同室のロシア人学生、文学を教える先生とのやりとりはまさに「魂の言葉の交流」と呼ぶべきもので読んでいて何度か涙が滲んだほどである。ただし、賞はあくまでも「山と探検文学賞」なのだ。果たしてこれで通せるか。

◆結果は異例の展開となった。私と、エベレスト本を編集した“主役”神長幹雄君は冒頭、選考委員会から外されたのである。候補作が決まったときからわかっていることなのに、と思う一方で当然そうだよな、とも考える。しばし外の喫茶店で時間つぶししていると1時間ほどで「帰ってきてください」。選考委の決定はなんと『日本人とエベレスト』だった。うへぇ、いいのか。長野市での受賞式はどうするんだよ。

◆「けして江本さんのことを意識したわけではないですよ」と事務局の方が言っていたのはわけがある。今回限りで私は選考委員を辞退すると伝えてあったからだ。梅棹忠夫という人と晩年の一時期ご縁を得たことがきっかけで12年続いたこの賞の選考に関わらせてもらったが、80才過ぎたら新たな人に譲るべし、とかねて考えていた。その最後の選考委員会がこういう展開となって不思議である。なお、私は後継については発言権はないが、我らが地平線会議を創設当初から支えてきた御仁が引き継いでくれるらしい。ありがたいことである。

◆春は別れの季節だ。3月16日、昨夏から闘病していた森井祐介さんが亡くなられた。地平線通信が300号に達して以降、ほんとうに長い間、森井さんは大事な大事な通信のレイアウトを担当してくださった。囲碁センターの仕事に加えて毎月のこの通信は生き甲斐であると同時に結構負担でもあった、と思う。しかし、私は森井祐介さんとこの通信を作り続けたかったのだ。森井さん、あらためてありがとうございました。あなたの遺志はしっかり次の世代に引き継がれていますよ。18日、降りしきる雨の中、お別れの会が持たれた。長野亮之介画伯が描いた森井さんのイラストとともに後継の人のひとことを20ページにおさめた。合掌。[江本嘉伸


地平線ポストから

小さな光を見つめ、大事に撮影していきたい

■2月6日に発生したトルコ・シリア大地震では、被災したシリア難民への支援金を集めさせていただき、本当にたくさんの皆様から温かいご支援をいただきました。ご賛同くださった皆様、どうもありがとうございます。

◆3月18日までにいただいたご支援の総額は、¥5,185,394。現在、そのほとんどを現地に送付中・配布中で、¥2,884,000分は、配布が完了しました。これらの支援は被災地のトルコ側とシリア側に折半し、シリア側ではシリア在住の二人の兄が配布に協力してくれました。

◆シリア側の被災地は、政治的に分断されているため国際支援が入りにくく、もともと電気やガスなどの生活インフラが不安定な暮らしに加え、相次ぐ政府軍からの空爆、さらに今回の地震被害が加わりました。兄によると、被災地では地震で全てを失った人々が多く、全てが不足しているとのこと。支援金は衣類や食料、毛布、暖をとるための燃料費、テントを買うための資金として使われたようです。

◆被災地ではほとんどの住人がテントか、平屋の建物か、建物の軒下部分で生活しています。建物の多くにヒビが入っていて、住み続けるのが不安ですし、それ以上に地震が再び来ても、建物の下敷きにならないように注意しているのです。皆、今も地震を恐れ、いつ地震が起きるかもしれない恐怖でよく眠れず、食欲が戻らず、トラウマになっている人もいるとのこと。

◆兄によれば、被災地の中で最も悲惨だったのが、クルド人が多く暮らしていたアレッポ県ジェンディレスでした。ここではかなりの建物が倒壊しました。瓦礫の山がえんえんと続く光景を目にして、ここで起きたことが信じられず、目を疑ったそうです。多くの死者も出ましたが、まだ遺体の捜索が続いています。重機が少なく、捜索にはまだ時間がかかるとのこと。ジェンディレスでは生き残った人々も怪我を負った人が非常に多く、手足を失くした子どもたち、若者、老人たちをたくさん目にしたことが忘れられないと、兄は語っています。

◆また、地震後にトルコからシリアに移動するシリア人も増加しています。シリア側では国際支援こそ少ないですが、物価がトルコ側に比べて安いことや、何よりシリア人としての差別を受けることなく、同胞として助け合えるという点で、トルコにいるよりも安心感があるようです。ただ反体制派が支配する北西部イドリブ県では空爆の危険もあります。しかしそれ以上に、人々が今、家族の生活を維持できるかどうかが大事なのです。

◆地震後、トルコ人の大家によって家を追い出され(被災地やその近郊では、相次ぐ住宅の被害から住宅需要が高まり、大家が元々住んでいたシリア人を追い出し、親族を住まわせるケースが非常に多い)、トルコからシリアに避難した知人のシリア人男性は、「地獄のトルコに比べ、例え空爆があってもシリアは我々にとり天国だ」と語りました。

◆経済的に安定した暮らしがあっても、それだけでは人間は生きていくことができません。周囲から脅かされず、社会に必要とされ、助け合える仲間がいるなら、例え戦地でも、人々はそこに人生を見出そうとします。シリア難民にとり、安全である代わりに差別に直面し続けるトルコより、空爆に怯えるシリアのほうがマシだった、という悲惨な現実があります。

◆こうした状況を前に、フォトグラファーの私はただやるせなさを感じています。この世のなんと無常で理不尽であることか。人間の生まれながらの不平等さを感じずにはいられません。しかし、その諸行無常の中に生きるしかない生き物の宿命のようなものも同時に感じるのです。

◆様々なことが起き、悩んだり悲しんだり、喜んだり幸せを感じたりしながら人間が生き、死んでいく。その、言葉では言い表せない混沌のなかにも、光がある。そうした小さな光を見つめ、大事に大事に撮影していきたいと思いを新たにしています。[小松由佳


地平線会議から報告会再開のお知らせ

2020年2月の延江由美子さん以来、新型コロナウイルスのために休んでいた地平線報告会を、4月から再開します。そして、この機会に数十年の間、「毎月第4金曜日夕」と決めていた報告会開催日を、会場が予約できた場合は「土日の午後」とします。土日はどこの会場も人気なので取れなかった場合はこれまで通り金曜日夕もあり得ます。再開初日は4月22日の土曜日13時から15時半まで。場所はいつもの新宿スポーツセンターで。報告者は小松由佳さん。詳しくは来月の地平線通信でこれまでどおり、長野亮之介画伯のイラストとともにお知らせします。


震災から12年の東北の地へ

■東日本大震災から12年が経過しました。賀曽利隆さんの東北太平洋岸全域を見て回る旅「鵜ノ子岬〜尻屋崎」に今年も同行させていただきました。同旅は今回で何と28回を数えるそうです。

◆メンバーは毎年参加の神奈川県の古山里美さん、地元いわき市から初参加となる焚き火イベント常連の山根和行さん、そして福島県在住の滝野沢優子さんが宿に駆け付けてくれました。滝野沢さんは原発被災地に残された犬猫の保護活動に尽力されており、今回は被災地ツアーのガイドのため浜通りに来られたそうです。

◆滝野沢さんと賀曽利さんは海外の旅のキャリアも豊富で、過去には海外ツーリングの途中でとある場所で待ち合わせしたのに会えなかった……なんて話も飛び出し、出発前夜は大盛り上がりとなりました。

◆さて、旅の出発は福島県いわき市久之浜から。ここは津波に加え大火に見舞われたエリアです。それに耐え残った秋葉神社周辺には新たに住宅や商業施設が建てられ、人々の生活も戻っています。また、広野町〜楢葉町〜富岡町までの海岸線には新たに県道が開通し復興していることを実感します(但し東京電力福島第一原発を挟む区間は不通)。原発事故により帰還困難区域の残る大熊町や双葉町は避難指示が解除されたエリアの一部を復興拠点として住宅や商業施設をコンパクトに集約した整備を進めています。

◆更に宮城県南部までは嵩上げされた県道が完成し、交通の要としての役割りと同時に、堤防を兼ねた防災設備として機能しています。この一帯も大津波の被害を受けましたが、名取市閖上は朝市が大盛況で多くの人で賑わっていました。石巻市女川から雄勝への国道398号も新道やトンネルが新しく開通していました。雄勝は震災後数年間は整備が遅れていましたが、住居の高台移転も進み、港を取り囲む巨大防潮堤も完成しています。

◆約7万本と言われる松原が大津波で全滅した岩手県陸前高田市も、新しい街は嵩上げされた高台へ整備されましたが、かつての市街地は更地のままです。新しく造られた津波伝承館の隣に震災遺構の旧道の駅が残されているのが印象的でした。同行の最後は宮古市田老へ。ここは明治から昭和そして今回の平成と何度も大津波の被害を受けてきた地域ですが、元々の防潮堤を更に高く強固にした巨大防潮堤が完成しており、凄まじさを感じさせるほどの迫力です。港周辺には水産加工場も再開しており、わかめや昆布の養殖業も復活しています。

◆このように、被災地のインフラや商業施設、そして人々の暮らしは12年経って元に戻りつつあるように感じました。大事なことは現場に行くこと、そして記録し続けることで見えてくるものがある。各地を定点的に写真を撮り続け、必ずメモに残す。これは賀曽利さんから身をもって教えていただいたことです。これからも東北の地を駆け回り、そして発信することでお一人でも多くの方が東北の地に思いを馳せてもらえれば、そんな活動を続けて行きたく思っています。[渡辺哲

福島焚き火隊のひとこと

鵜ノ子岬→尻屋崎

■早いもので3.11(東日本大震災)から12年が過ぎました。今年も「鵜ノ子岬(福島)→尻屋崎(青森)」をバイクで走り、巨大津波に襲われた東北太平洋岸の全域を見てきました。今回が第28回目。これからもずっと見つづけます。[賀曽利隆

リアス式海岸の絶景

■3月11日は浪江町で東日本大震災追悼式に飛び入り参列した。遺族代表の「津波で行方不明の家族を探したかったが、原発事故で避難せざるをえず、できなかった……」という悲痛な言葉が胸に刺さった。原発が無事だった女川は復興が順調で、おしゃれな商店街ができ、防潮堤を作らないことで海の展望もいい街だ。北上し、最後に鵜の巣断崖を訪問したが、ここではリアス式海岸の絶景に感嘆! 被災地に学び、観光地を堪能。東北の魅力は多彩だ。[“もんがぁ〜” 古山里美

満載の荷物は何?

■賀曽利隆の3.11被災地ツーリングの前夜祭@よこがわ荘(いわき市四倉)に参加した。私は3.11〜12と被災地見学ツアーのボランティアガイドがあるため、車での参加。他の参加者は、いつもの渡辺哲さんともんがぁ〜女子。ふたりともバイクだが、渡辺さんの賀曽利隆コスプレに驚き((((゜д゜;))))、もんがぁ〜の、賀曽利さんと真逆の荷物満載にも驚いた。一体、何を持ってきているのか、次回は確かめたいとおもいます。[滝野沢優子


島ヘイセンvol.10
三つのじりつ

■島での暮らしも2年が経った。寮では3年生が大学進学へ向け準備を進めると同時に、新たに仲間となる新1年生とも顔を合わせた。新1年生と話すのはとても新鮮で、自分が島の高校に行くと決断したときのことや、入学早々一悶着あったことなど、様々なことを思い出した。慣れない生活、環境、文化の中、不安と期待が混在していたころいつも支えてくれていた先輩が島を去ってしまうと思うと寂しさや悲しみがこみあげてくる。自分は本当に先輩達みたいに皆を引っ張っていけるのか、後輩が困っていたら後押しできる逞しい存在になれるのか不安である。

◆しかし私が島に来た一番の目的は三つのじりつ、「自立・自律・自率」をさらに成長させるためだったことを思い出した。自率とは私が小学校の頃に出会った造語で「自ら率いる」という意味がある。生徒会長となったことで責任感も増した。自分一人で皆をまとめ上げることはできないが、私には頼れる仲間がいる。来年卒業するとき笑っていられるようにこの一年にかける私の想いはどんどん大きくなっている。

◆三学期は3年生が登校することはほとんどなく、たまに部活や村のバレーボールの練習くらいでしか会うことができなくなった。3年生不在の学校は授業中が恐ろしいほど静かで、隣の教室から漂っていた賑やかさはなくなってしまった。今まで先輩がいることが当たり前だったので、ここで初めて先輩たちの存在の大きさに気が付いた。部活動でも引き継ぎが行われ、自分たちも来年度控えている受験に向けて本格的に準備が始まってきた。今年度3年生は大学受験をした人のほとんどが総合選抜型で合格を決めた。特に寮生は人一倍努力していた姿を間近に見ていたので、合格の知らせを聞いたときは皆で盛大に喜んだ。同時に来年は自分もこれだけの努力をしなければならないのかと、暗澹たる気持ちになった。

◆進学の準備で一時的に3年生は島を離れ、寮には1・2年生が残った。先輩なき今2年生が一致団結し1年生を率いていかなくてはならず困難もあったが、昨年と比べたとき自分たちは少なからず、でも確実に成長しているのだなと感じた。三学期は三送会や卒業式などの行事があり、生徒会はフル稼働、2年生は特にやることが多かった。そのなかでもしっかりと自分たちの役割を理解し寮生を率いることができていたと思う。

◆三月に入り、今年度最後の期末テストを終えて迎えた三送会。2年生からは3年生にまつわるクイズ大会と、3年生が過去にお世話になった先生方にビデオメッセージの撮影に協力してもらった。国境を越えてロサンゼルスやカンザスにいる元ALTの先生からもメッセージが届いた。先生たちのメッセージを聞いていると、先輩達への思い入れが非常に強いことがわかった。一見騒がしく収拾がつかない学年だったが、行事などでは率先して後輩を引っ張っていて、何よりもそれが楽しそうだった。文字通りリーダーシップを発揮してくれる学年だった。他にはない先輩達の色だった。

◆三送会後には、軽音楽部でライブを行った。今回はドラムとボーカルも担当した。3年生と立つ最後のステージは私にとって最高の宝物と言えるライブになった。演奏自体も良かったのだが、文化祭や新入生歓迎会など過去のライブの記憶が蘇り、これまでの努力が糧となった瞬間をライブ中に感じることができたからだ。

◆私はここ最近「自分は本当にラッキーで幸せだな」と思うようになった。離島留学に出会えて、神津島に出会えて、この学年に入り素晴らしい仲間を持てて、背中を見て素直に憧れを抱ける先輩に出会えて、自分は本当にラッキーだと思う。しかしこれは偶然などではなく確かに自分自身が歩んできた道がここまで導いてくれたのだ。ここまで支えてくれた同級生、先輩、そして両親には本当に感謝しかない。残り一年。おそらく自分が想像している何倍も早く過ぎてしまうと思う。短い時間を無駄にしないよう、一分一秒をより大切にしなければと思う。島での三年間を経て、一回りも二回りも大きくなって両親に「ただいま」を言える日がくることを切に願う。[神津高校2年 長岡祥太郎

別れの季節に話したいこと

■3月は別れの季節です。異動があるないに関わらず、1年間共に過ごしてきた生徒達の前で話をする機会が何度かあります。何を話そうか悩んでいました。中学生はこれから初めての進路選択があり、自分のやりたいことを見つけていきます。地平線通信の先月号を読み、二神浩晃さんの「自分だけの遊び」や小口寿子さんの「山にいたい、それだけ」を読んで素敵だなと思いました。

◆通信を書いている皆さんは、それぞれ自分が楽しむことを大切にしていますよね。何が自分に向いているか、正解なのかではなく、自分がやってみたいことや目の前のことを「楽しむ」人はカッコイイ。応援したくなる。周りに元気を与える。そんなことを話そうと思っています。[静岡 教員 杉本郁枝

以心伝心、そして旅立ちの春

■雪解けの早い伊南川から酒井富美です。昨年の大雪に比べると今年は随分雪の少ない冬でした。今回は改めて、地平線会議の以心伝心を実感しました。

◆3月13日、中学卒業式の夜、東北をツーリングしている賀曽利隆さんから突然電話が入り、息子(健太郎)にも熱い言葉をいただきました。その2日後、15日は県立高校の合格発表でした。朝から(車で約2時間の)会津若松へ出向き、正午の合格発表を終えて、夜帰宅すると江本さんからお電話いただきました。このタイムリーな、お二人からの電話にやっぱり地平線会議は、恐るべし!と痛感しました。

◆ところで、息子は無事、「会津工業高校」に合格しました。この高校は今年の箱根駅伝で駒沢大学を優勝に導いた大八木監督の母校でもあります。息子がこの高校を受験することが決まっていたので、何となく大八木弘明監督や駒沢大学に親近感を抱いていました。

◆昨年11月の通信でも書かせていただきましたが、5年前のある日突然新聞発表された「県立高校の統廃合」政策により、この春、この地域の宝物であった南会津高校はなくなります。それをきっかけに、息子たちは中学入学当初から進路(生き方)を真剣に考え、悩み、迷い、そして出した結果は17名全員(山を越えた旧田島町に開設される)統合校に進むのではなく、親元を離れ町外の高校へ進学することとなりました。

◆旧伊南村、南郷村で育った子どもたちは全員地元を離れ、新な土地で下宿や寮生活をすることとなります。少子高齢化、過疎化が急速に進むこの地域からは、どんな心からの訴えも県の教育委員会に受け入れてもらえなかったことも今回痛感しました。しかし、これも現実です。これからこの地域を巣立っていく若人たちの人生を心から応援していきたいと思います。江本さんにお電話いただいた合格発表から数日が過ぎましたが、あと10日足らずで息子の入学説明会や引越などで、会津若松へ通う日々となりそうです。今年は桜の開花も早いみたいですね、伊南川は例年ゴールデンウィークに桜が咲き始めます。さてこの春は?[酒井富美


〈そこをまがると展〉
そして恒例地平線カレンダー!

■1年ぶりの個展〈そこをまがると〜ふらんす猫見遊山〜/長野亮之介ネコ絵展7〉を開催します。2022年晩夏に初めて訪れたフランスの印象をメインにちょっと猫を添えて絵を描きました(花粉症に悩まされつつこの通信発送時も描いてる真最中!)。パリと南仏の街が主な舞台です。恒例の地平線カレンダーも販売(作品展スタート時からWebサイトでも頒布予定)。会期中は無休。終日在廊予定です。お暇があったらお寄りください。

●会期:3月31日(金)〜4月4日(火) 12:30〜19:00
●場所:ギャラリーメゾンドネコ(東京都中央区京橋1-6-14 佐伯ビル2F/03-4361-8489)


服部小雪イラスト[服部小雪]

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日本語教師、柚妃の母親、そして一個人

■昨年の一月から本格的に日本語教師の仕事を始めて、徐々に軌道に乗ってきた。受け持つレッスン数も増え、企業研修という新たなステージも経験することができた。2時間の授業のために、最初は3時間も4時間も準備にかけていたのが、気付けば30分程度で仕上げられるようになり、かなり効率が上がってきた実感がある。

◆授業の内容にしても、最初のころは緊張もしたし、教案通りに授業を進めることでいっぱいいっぱいだったが、だんだん一人一人の学生に目が向くようになり、学生が暇な時間を作らないように一人が発言する場面であっても全員を巻き込めるようになり、学生がお互いに教え合ったり補い合ったりできるよう導けるようになってきた。また、私の個性がだんだん学生にも浸透してきたきらいもあり、作文に私を登場させてくれることもあって嬉しい。

◆手元に資料がないので細かいところは間違っているかもしれないが、以前貞兼綾子さんが、ご主人の明石太郎さんと朝の数十分を「明るい政治談話室」と称して時事問題について明るく話す時間を設けているとおっしゃっていた。それを聞いてあーいいな、私もやりたいな、と思っていたが、柚妃が中学生になるのを待って真似するようになった。

◆私と柚妃が毎朝話題にするのは、NHK WORLDの英語ニュース動画を、世界のトップニュースと日本のトップニュースからそれぞれ一つずつピックアップして視聴し、それについて意見交換したり、なんだろうこれはということは調べて理解したり、そこから発展して地平線会議で活動する方たちの今の動きについて話したり、ということをしている。

◆こういう話題はあまりよその人とはできないが、柚妃とは気兼ねなく話せるし、意見が合わなくても険悪になることもないし、わからないからといって恥ずかしい気持ちになることもない。うってつけの相手だ。思えば、幼少期の柚妃にも「なになに期」や「なぜなぜ期」は盛大にあったのだが、私はまったくうんざりすることもイライラすることもなく楽しく過ごした記憶がある。

◆「これなに?」「なんで?」と聞かれたら、知っていることは答えたいし、知らないことやわからないことは「なんでだと思う?」と聞いたり、「かーちゃんにもわからないから調べてみよっか」と一緒に調査したり、その時期特有の好奇心を一緒に楽しんでいた。その時期にすでに「何でも知っているわけではない人」として認知されているので、わからないことがあっても知ったかぶりもしないし、最近では逆に教えてもらうことも増えてきた。

◆さて、柚妃はというと、もうすぐ中学2年生が終わろうとしている。昨年9月の選挙で生徒会長に選出されてから、学校の勉強や受験勉強、吹奏楽部、生徒会と三足のわらじをとっかえひっかえしてがんばっている。最近では、新一年生の保護者向け説明会で生徒会長として挨拶をし、4月になれば入学式で新入生に向けてスピーチをする。言われなくてもオンとオフを切り替えて勉強に取り組んでおり、自身の込み入ったスケジュール管理もきちんとできている。

◆もう精神的には完全に自立しているので、私が“育てる”部分はほとんどない。もちろん帰りが遅くなれば心配するし、けたたましい目覚ましが鳴ってもピクリとも動かない質なので毎朝ぺんぺん起こすのも当分続きそうだ。中学を卒業したら、さらにかかわり方は変わるのだろう。そのころになったら、柚妃の通学にも私の通勤にも今より便利な所に引っ越そうと考え、少しずつ動き出したところだ。

◆ところで、私には夫がいる。江本さんだけが知っていることだが、夫とは10年以上話しておらず、3年以上一緒にも住んでいない。ひたすら精神的苦痛を与えられ相当な額の金銭を搾取された苦々しい思いしかない。数年後には定年退職し戻ってくることになるが、再び同居することは考えられない。そんな近い将来の生活を考えて憂鬱になっていたのだが、そうだ! 引っ越そう!という思いに至ってからは元気が出てきた。

◆そのためにはもっと仕事を増やしたいと思う。一方で、仕事以外の時間の使い方にも変化が見えてきた。柚妃が親離れしたころから、古い友人と一緒に山に行ったり心躍ることを共有したりする楽しみを見つけたのだ。

◆柚妃は柚妃、私は私という生活スタイルにシフトしてきた中で、ベン図の重なりのように、お互いを気にかけたり話したり笑ったりする時間が持てることもまた、喜びである。[瀧本千穂子

『天路の旅人』と『西蔵漂泊』

■「江本嘉伸」という活字を初めて目にしたのは知人宅にあった雑誌『山と溪谷』をパラパラめくったとき。「西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人」というタイトルに引き寄せられたからだ。チベットという遥か遠くの未知の世界に命懸けで向かう十人にほんとうに驚かされた。面白くて行くたびに新刊の連載を読ませてもらった。

◆それから随分経って、「日本人チベット行百年記念フォーラム」に参加させてもらい、十人の中の二人である野元甚蔵氏、西川一三氏のホンモノにお目にかかる機会を得て大感動! 野元さんは何度か地平線報告会でお話ししてくださったが、西川さんはそのときの一度きりだった。フォーラムの打ち上げで上機嫌でお酒を飲まれていた顔が、昨年からベストセラーになっている『天路の旅人』(沢木耕太郎著)での盛岡の飲み屋でのシーンになると目に浮かんで、江本さんもこうやって盛岡で会われていたのかなと思いを馳せる。

◆『天路の旅人』を読むと『西蔵漂泊』を読みたくなってまた読んでしまった。考えてみたら、私のチベット好きの出発は江本さんだったのかもしれないな……。[田中明美


―― 連  載 ――
旅のはなしのはなし

最終回 場が繋ぐつながり

坪井伸吾 

■場数を踏み、知らない土地、知らない人でも話せる気がしてきたころ、芸術家緒方敏明さんのプロデュースにより出身地の和歌山で個展を開く機会をいただいた。会場となる西本ビルは1927年に建築された有形文化財で、2階から続く階段の壁と3階部分が展示空間だった。写真パネルの前で話した経験はある。だがここまで広い会場だと何らかのテーマがないと展示すらできない。悩んでいると緒方さんがイメージを提案してくれた。「展示物を追って階段を上がるお客さんは、坪井の子供時代を追体験しながら3階に着く。3階には『バイク世界一周』『アマゾン川イカダ下り』『北米大陸単独横断ランニング』『世界の釣り』『旅』という5つの壁が待っている」というもの。それはもう自分の半生のすべてだ。

◆この部屋は僕自身である。緒方さんに集めていただいた和歌山のスタッフと展示を終えると自分の姿が場に浮かび上がった。展示と並行して宣伝も行われた。他人事みたいな言い方なのは、僕は話の準備だけで手いっぱいで、宣伝も緒方さんの恐るべき人脈によってなされたからだ。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌。和歌山市内のメディアがすべて動き、なんと新聞の一面を使って顔写真付きの案内まで出る(どれだけ事件のない町なんだ。和歌山市)。宣伝が効き、弁当を買いに行くと、店員さんが僕の顔を知っているという信じがたい状況となった。

◆今回の展示は5日間。いい機会なので毎日違うテーマで話すと決めた。そうなると準備が5倍。しかも「釣り」は初めて作るお題だ。初日は「釣り」とパンフレットに刷ると、前日になって、女子高の先生から課外授業で生徒30人を連れていく、と、会場に電話が入る。釣りは、釣りオヤジをお客さんと想定して作っている。それを女子高生の団体と釣りオヤジを同時に満足させる内容に変更しないといけない。ううむ、厳しい。結局、その難題は解決できず、講演を一日に2回にして、女子高生向けの話は一日で準備した。

◆当日、女子高生の回では旅人として「旅」の壁の前に立ち、続けて釣り人として「釣り」の壁の前で話した。旅と釣りは複雑に絡み合っていて、完全に切り離せない。でも話しているうちにその方がいい感じがした。自分は誰にもできないことを目指してはいない。何かに特化した専門家でもない。ただ自分の「面白い」に忠実だっただけだ。このスタンスなら力まずに話せる。どの壁の前に立っても大丈夫だ。僕の「好き」にウソはない。

◆「釣り」の回で見た80代ぐらいの紳士が、翌日開高健の『オーパ!』北米編の初版を手に現れ「この本も釣り本展示スペースの隅に置いて欲しい」と言う。その方は最終日にまた現れ「私はもう断捨離中です。その本はアナタの手元にある方が幸せだ。受け取ってもらえませんか」と、バトンを渡された。

◆釣りコーナーの壁から動かない人がいた。話しかけると気が合い、一緒に紀の川にハゼ釣りに行こう、と話が盛り上がる。会場からすぐの紀の川では、東京から応援に来てくれた野宿党のTさんが住み着き、河原から会場に通っていた。そこで朝早くにお客さんと一緒にハゼを釣り、夜に河原でハゼを天ぷらにして宴会をした。楽しい夜だった。

◆新聞一面に顔が出ているので、小中高の同級生、友達のお母さんまでがやってきて、会場はいつの間にか同窓会場になっている。父親も来て、女性客に「アイツはワシの息子なんや」とヘンな自慢話を始めてヒヤヒヤさせられる。地元という地の利があり、本も売れる。中には「全種類くれ、おつりは寄付するよ」と、1万円をポンと出す人など、東京では出あわないタイプのお客さんもいた。3日目、和歌山大学観光学科の先生が現れて、突然大学での講演も決まる。これで6日連続。釣りの日は一日2講演なので6日連続7講演と、まるでトライアスロンのようだ。最終日、熱いまなざしをした中年男性から「読んでください」と、手紙を渡される。動揺しながら控室で開けるとマルチビジネス系のパンフが入っていた。

◆次々と予想もしない事件が起こる。知らない場所で知らない人に話すのは、本当に面白いのだ。1992年のアマゾンの話などしていると、自分で「あずさ2号か!」って突っ込みをいれたくなる。でも古くても楽しんでくれる人がいるなら、これでいいのだと思う。青森、秋田、山形、福島、千葉、東京、神奈川、静岡、愛知、滋賀、京都、大阪、兵庫、和歌山、香川、沖縄。現在旅講演は16の都府県。呼んでくれるならどこでも行きます。

◆「はなす」をテーマに書いてきて気づいた。いつも誰かがチャンスをくれていると。そしてまた面白そうな話が。オートバイ冒険家風間深志さんから、SSTR(サンセット・サンライズ・ツーリング・ラリー。太平洋から日本海までを一日で走るラリー)のゴールで5月24日夕刻に何か話して欲しいとの依頼。500キロを走って疲れ切ったライダーに話を聞いていただく。これは大変だ。頑張らねば。(おわり)


不在を撮る

■「今井さんは、見えないものや、無いものばかりを撮っていますね」、そう友人に言われました。自分では気づきもしなかったが、腑に落ちる言葉でした。思えば『鳥の道を越えて』では、今はもう無いカスミ網猟と渡り鳥の大群を描きました。いま取り組んでいる『おらが村のツチノコ騒動記(仮)』もそうです。いるのかいないのかよくわからないツチノコを題材にしています。どうも僕にとって“不在”は、自分の中に想像として向かわせる表現の原動力のようです。

◆自慢にもなりませんが、そんなツチノコを取材して、はや9年が経とうとしています。まだ完成していない理由は、「ツチノコが見つかっていないから」ではありません。何故なら、目撃者の証言を聞けば聞くほどに、その話の物語性やリアリティが面白く、ツチノコの存在感が迫ってきます。むしろ疑いの余地がなくなり、「これは、いるな」と思ってしまうほどです。一方で、ツチノコの誤認説を検証する取材も行っています。やっとの思いで探し見つけたその姿に出会ったときもありました。確かに「ツチノコだ」と納得するものの、「でも、なんか違うけどな……」と困惑してしまうのです。

◆ツチノコの正体に迫れば迫るほど、ツチノコが遠のいていくような感覚を抱くのです。それはきっと自分が思い描いていた心象世界のツチノコが影響しているのかもしれません。そんなこんなで、ツチノコの取材は面白くて仕方がありません。だから9年も完成せず、続けてしまったというのが一番の理由です。予算には限りがあり、いよいよ完成と迫られているところです。我がふるさと、岐阜県東白川村ではツチノコを生け捕りにすれば懸賞金131万円がもらえますが、何匹捕っても到底足りません(ちなみに村主催のツチノコ捜索イベントが開催された1989年に100万円の懸賞金がかけられ、以来回を重ねる毎に1万円づつアップしています)。

◆9年も経ってしまった理由がもう一つあります。それは本作の本願は、ツチノコではないからです。僕はツチノコを通して「ふるさとの変遷と行方」を描きたいと思っています。実は昨年に、作品最後の取材と心に決めて東白川村を訪ねました。そこで僕は村で暮らす同級生にインタビュー取材を試みました。同級生が語ったふるさとの思いに、僕は胸を深くえぐられてしまったのです。すごろくで言えば、あと数マスでゴールするのに振り出しに戻ってしまったような、映画の根幹を揺るがすような内容でした(詳細は、作品を観てのお楽しみということで伏せておきます)。さて、これからどう構成・編集し、仕上げるのか。撮り貯めた映像は、ただいま熟成中です。4月から本腰を入れて完成・公開させる予定です。

◆もう一つ、ご報告したいことがあります。こちらも“不在”を追いかけた新作ドキュメンタリー映画『いつもの帰り道で』(30分)の紹介です。

◆2007年に佐賀県在住の安永健太さん(当時25才)が、自転車に乗って交差点に差し掛かった際に警察官に呼び止められ、取り押さえられる過程で死亡した事件がありました。当初、警察は遺族に「逮捕した」と説明していました。しかし、後になって安永さんが自閉症スペクトラム障害であることがわかると警察は「保護した」と説明を一転させました。不審に思った遺族は裁判を起こしました。この裁判は2016年に最高裁で結審しましたが、問題の本質は事件から15年経った今でも変わっていません。地域で安心して暮らせる社会のあり方が問われています。

◆『いつもの帰り道で』は、安永健太さんの死を無駄にしないために、遺族や支援者らでつくる「安永健太さん事件に学び 共生社会を実現する会」から声をかけてもらって制作をしました。厳しい制約条件の中で、かつ先方からは20分と言われました。しかし、この取材は時間や予算云々抜きにして、僕にとって撮らなければいけない作品でした。結局、取材量も長編ができるくらい取材をしましたし、結果作品の分数も20分の約束を破り30分になってしまいましたが……、凝縮の30分に仕上がったと自負しています。

◆『いつもの帰り道で』は、肝心の主人公である健太さんがいない。この“不在”をどう描くのか。警察側の関係者には取材は叶いませんでしたが、ご遺族や支援者、弁護士の方々にインタビュー取材をしました。特に印象に残っているのは、父親・孝行さんが語る生前の様子でした。彼は15年経った今でも、健太さんが自転車に乗って帰ってくるのではと追想しているのだと仰っていました。

◆本作は昨年末に完成し、現在YouTubeで無料公開しています。「いつもの帰り道で・安永」とネット検索してもらえればヒットします。誰でも視聴可能です。日本語字幕版、手話通訳入り、音声ガイドも付いています。是非観てみてください![今井友樹

サーミの写真家

■いまから5年前、共通の知人の紹介で長野亮之介さんの個展におじゃました際、たまたまいらした江本さんや常連の方々にお会いし、私は初めて地平線会議を知りました。そして、私が北欧のサーミを撮っていることに興味をもってくださった江本さんにその場で勧誘され、コロナ前までに3回の報告会に参加することに。どこか懐かしさを覚えた会場の熱気を、ここ3年は毎月の通信を通して感じています。[なかのまさき 写真家]

「発見写真旅」のいま

■私が「COVID-19」の影響を直接受けたのは2020年の4月からでした。4月から始まる2020〜22年度の丸3年間、私の登山講習会は(規制のかかった時期を厳密に排除したので)72回の実施となりました。参加者の中には30年近いお付き合いの方がまだ4名以上いらっしゃって、いまや「初歩の山歩き」が「人生終盤の山歩き」となって、こちらが先に負けるわけにはいかない状況でした。私としては最大の前提条件としてきた「月イチの山歩き」だけは死守したいと考えていたのですが……。

◆カメラマン志望だった私が原稿を書かせてもらう面白さや、編集というドタバタの魅力に引き込まれたのは、向後元彦さんの「あむかす」運動や、宮本千晴さんの月刊『あるくみるきく』でいろいろなチャレンジをさせてもらえたからでした。たとえば各雑誌編集部にお願いしてコピーさせてもらった「旅の記事ファイリング」では『資料目録=アフリカ』(500部)。さらには『あむかす・旅のメモシリーズ』を制作・販売。最終巻となった89冊目の『おばんひとり旅 4年半で50カ国 1981.9〜1987.4』は、地平線会議の方ならご存じの、金井重さんのレポートです。

◆それは、「手書き」だから編集者の校正作業不要、400字×50枚以上という量は「特定少数」の仲間に届けたい内容として信頼できる、50ページ以上の「書籍」にすれば国会図書館に永久保存される、というものでした。また旅から帰った人のスライド映写会(可能な限り全部の写真を撮影順に、エンドレスで見る会)もやりましたね。その基本線は地平線会議に引き継がれているのだと思います。

◆そういう体験のおかげで私は旅の写真や風景写真を中心とした出版物に写真編集者として加わるようになって「膨大な写真を見る」という仕事がけっこう自分に合っていると知るのです。

◆そして2001年、大学写真部の同期で毎日新聞写真部長からビジュアル写真集の編集長となっていた平嶋彰彦さんが「宮本常一先生の写真をきちんと見てみたい」ということから始まったのが、2005年に毎日新聞社から刊行された『宮本常一 写真・日記集成』(全2巻・別巻1、60,000円)でした。古い友人の中村鐵太郎さん(詩人)が先生の手帳にかなりしっかりと書かれている行動記録を全文データ化してくれたおかげで、10万点とされるモノクロ写真の多くがその画像の「5W1H」への窓口をひらいてくれたのです。

◆至高の「傑作」写真や、人類の探究心を支える「記録」とは別に、私は「撮ってしまった写真に責任をもつ」という撮影者自身の「発見」写真があると考えるのです。平嶋彰彦さんは「失敗にこだわらないカメラマンは伸びない」といっていましたが、その「撮ってしまった」ことへのこだわりから始まる「発見」が私好みでしたから、できればそれが「フォトエッセイ」へと進化できればうれしいと思ったのです。

◆いま、写真の保存と公開を考えるとき、ウェブ(クモの巣状)世界では、巨大なファイリング空間と、高機能の検索ロボットを簡単かつ安価に利用することができます。それに対して、いわゆるSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)で「発表」の場は広がりました(私ももちろん試みました)が、フェイスブックも、ツイッター、インスタグラムもたかだか1,000点レベルの写真保存量から先が怪しくなってしまうのです。

◆また、ある企業のホームページの立ち上げに参加したことがありますが、パソコンでもウインドウズとマックで表示誤差が生じたり、スマホの小さな画面にも対応しなければならず、小さな苦労が次々に出てきました。そのことをド素人が回避する最善の方法は、印刷デザインで写真を「右なりゆき」などと指定した方法が合理的だと考えたのです。つまり文字サイズを若者向きにしようが、年寄り向きにしようが、与えられた画面幅で改行されます。写真などの画像を(私の場合は)「長辺800px」とすると、それがこちらの希望する画面幅の目安となるのです。いくつかの専門用語(HTML)は使うものの、半世紀前のワープロ文書と完全に同じ感覚でいいのです。ぜひ一度ごらんいただきたいと思います(「山旅図鑑」あるいは「伊藤幸司」で検索できます)。

◆蛇足になりますが、写真アルバムの1ページを、ぜひ一度、セブンイレブンにある富士フイルム(旧ゼロックス)のコピー機のB4サイズ画面でスキャン(ただし「300dpi」で)してみてください。そのスキャン画像の「コピー」から写真を1枚切り出して、「L判」「はがき判」などを写真店でプリントしてみてください。あるいは未整理でバラバラの写真をB4判画面にずらりと並べてスキャンしてしまえば、捨てられます。スキャンは1回50円です。「300dpi」が重要です。[伊藤幸司

地平線Webのミラーサイト、全文検索機能がとても便利です

■1995年9月発行の第191号から、地平線のWebサイトには地平線通信のバックナンバー全文がすべて掲載されています。その膨大なデータのなかから、特定の記事を探しだす方法を紹介しましょう。

◆まず、地平線Webの左にある「Mirror」をクリックすると、ミラーサイトに飛びます。画面の中央下に記入欄がありますので、検索したい単語(複数可)を入力して「Search!」をクリックします。すると該当単語を含むページのリストが表示されるので、個々にリンク先をクリックして中身を見ることができます。

◆例えば「地震」を検索すると、2011.4号(東日本大震災)、2016.5号(熊本地震)、2015.04号(ネパール地震)、2015.5号(福島報告会)……と続きます。地平線通信は各号ごとに1つのファイルになっているので、その中で単語を探したい場合はブラウザの検索機能を使います。ChromeならばCtrl+F、Safariはcommand+Fを押すと右上に検索ボックスが開くので、単語を入れてください。[北川文夫

※ミラーサイトは1998年から北川さんがボランティアで設置・運用してくれています。この3月23日にサーバーが引っ越しをするので、数日間、安定しないかもしれません。

低山宝探し旅の顛末

■奥多摩山域の東端に近い高水三山の縦走コース中程から、一般登山道を外れて、小高い馬仏山へと踏み跡を登っていく。時は去年2月の初め。木々に囲まれ展望のないピークに立ち、さてどっちへ下りていけばいいのだろうと思案していると、後ろから女性が一人やってきた。目的は同じかと「沼沢尾根ってわかります?」と尋ねてみたが、相手は慌てて手で口元を覆い、無表情に首を横に振った。こちらも首に巻いた手ぬぐいを鼻まで引っぱり上げ、「あ、ごめんなさい」と、マスクなしで話しかけたことを詫びる。彼女はそのまま無言で私の脇をすり抜け、また一般道へと下りていった。ただ馬仏山を踏みたかっただけなのだろう。

◆沼沢尾根はJR青梅線川井駅の東南で多摩川に注ぐ沼沢川の谷を抱いて延びている。南東側は人工林中心だが、北西側には広葉樹も多く、棒ノ嶺から長沢背稜あたりの稜線が透けて見えたりして気持ちがいい。でも道標のないマイナールートなので気が抜けない。吉備人出版発行の『登山詳細図』に記された「赤杭147番」「岩場東迂回」「モミ巨木」などの目印や注意事項を頼りに、踏み跡を恐る恐るたどる。低山逍遥ながら、ちょっとドキドキ、かなりワクワク、気分はのんだくれの海賊から偶然手に入れた地図にしたがい無人島へ宝探しに来た冒険者だ。『詳細図』は実地調査がよくされているようで、分岐の先に「こっち行っちゃいけないよ」の×印があるポイントでは、やはり間違えそうになった。わりとはっきりした踏み跡でも、「ひょっとしたら、どこかで間違ってはいないか」と緊張する。落ち葉の積もった急斜面で靴が滑りそうになると膝が震える。そんな臆病な冒険者は、送電線の鉄塔をくぐり、最後の斜面を下って駅の横に出ると、やれやれと冷や汗をぬぐうのだった。

◆もう何年も前のこと、雪が降った後に高尾山から小仏峠へ歩いていくと、寒空の下に露店を広げている中年男女がいた。机に並んでいるのは地図。そのとき買った『高尾山・登山詳細図』の他にも種類があったかもしれない。販売していたのは著者の守屋二郎さんたちで、以後も何度か同じ場所で彼らを見かけた。最初に地図を作ったのは二郎さんの父・益男さんで、二郎さんが踏査・作成に加わり、それとともにカバーする山域も増えていったようだ。私が『詳細図』の〈奥多摩・東編〉を購入したのは二郎さんからだったか、どこかの登山用品店だったか。そこにたくさん記された「ルート=道標がない登山道・小径」は、昭文社の『山と高原地図・奥多摩』に掲載された一般コースをだいぶ歩いてきた私にとって目新しく魅力的に見えた。けれども「道迷い遭難」が怖くて、なかなか歩く気になれない。

◆そんなビビりの背中を押してくれたのが、ある日、青梅線の駅で出会った若い男性だった。といって、親しく話し込んだわけではない。「どこ歩いてきたんですか」と挨拶代わりに聞いたら「高水三山のバリエーション」とのことで、「守屋さんの地図だ」とピンときた。家に帰ってから『詳細図』をじっくり眺めてみた。なるほど、高水三山周辺には『山と高原地図』には記されていないコースが多い。地図の脇に添えられた「コースガイド」を読むと、全部が全部、難度が高いというわけでもないらしい。それではと、まずは難易度A〜B・体力度1の「永栗ノ峰コース」を歩いてみた。途中で会う人もおらず、新鮮な気持ちで味わえた。以降、高水三山周辺以外へもフィールドを拡げ、難易度B・C、体力度2・3と、少しずつグレードを上げていった。知ってる山域の知らないコースを歩く旅。「今日はどこを歩こうか」と地図で検討する時間も含め、楽しくて楽しくて、コロナ前に夢中になっていた「山で(わりと勝手に)泊まる旅」と同様、私の心をしっかりとらえてしまったのである。

◆ところが、なのだった。去年3月半ば、難度C・体力度3の「通矢尾根」にチャレンジし、花粉症のくしゃみが治まらずに途中敗退。そのときは来た道を戻ったのだが、同月下旬、敗退地点を探して別方向の林道の突き当たりから里山の茂みに分け入ったところ、踏み跡を見失い、まったく方角がわからなくなった。斜面下に民家は見えているが、そこまで下りる道筋がわからない。藪を泳いで無理に突破するには斜面が急だし、途中には岩や尖がった細い切り株などもあり怪我をしそうだ。「里山で遭難」とはマヌケな話だが、事態はけっこう深刻である。ガラケーはあるので救助要請の電話はできるが、自分で現在地がわからないのが癪だった。そうこうするうちに景色のなかに林業用の折りたたみ梯子を発見、そちらへ向かってずるずると斜面を滑り下り、何とか安全圏内に戻れたが、際どい脱出だった。こんなときアイツがあれば……と身に沁みて思った。アイツとはスマホアプリである。

◆私がスマホを入手したのは、それから半年後。仕事用のiPadが壊れたのがきっかけだ。そして今年1月から、山歩きの際にヤマレコアプリを利用するようになった。歩く山域の地図を事前にダウンロードして、現地に着いたら登山開始のアイコンをタップする。そうすると、なんだ、こりゃ! 現在地も進むべき方向も教えてくれるではないか!! バッテリーさえ切れなければ、スマホの画面を眺めるだけで迷うことなく歩いていけるのだ。10分ごとに時刻と標高を音声で教えてくれるのは余計だけれど(この機能の止め方を調べなくちゃ)、一般道ではないルートも、奥多摩近辺なら歩く人数が多いからか、たくさんの「足跡」が線になっていて、たどっていける。通矢尾根もこれで改めてやり直して無事に踏破できた。何度かそうやって山を歩いているうちに、ふと気がついた。まったく胸がドキドキしていない。これでは「あんちょこ」見ながら宿題やってるようなものじゃないか。……いや、自分で使い方を考えるべきなんだろう。道迷い遭難を予防するにはいいアイテムに違いないのだから。[熊沢正子

京都北山と著者サイン

■1月31日。机に置いていた携帯電話が鳴った。「東京の江本です」。オーなんと久しぶり。何年になるのか。と思う間もなく「大槻さん、ワイさんと会いたいのだけど、2月の2日3日と京都へ行くので」と。ワイさんとは元日本山岳会会長齋藤惇生先生93歳の現役の医者。「忙しい先生だから、会えるかどうかとりあえずアポとりますワー」と電話を切った。

◆2月2日。寒い京都の夜の祇園町。齋藤先生の診察後に南座前で会う。江本さんと私3人で近くの予定していたレストランが時間切れで、先生お気に入りの中華店へ。食事をしながら、久しぶりで話題も多く、江本さんが新幹線で読んできた『天路の旅人』も。すかさず齋藤先生もこれに呼応してチベットの話と。時間が瞬く間に過ぎた。

◆江本さんと私は、2004年12月17日京都北山の魚谷山へ登り、今西錦司ゆかりの「北山荘」で初めて会った。それ以来地平線通信を読みだして20年近くになる。その北山荘で忘れられないことがある。『西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人』上下の本に、サインをしてもらったことだ。すでに読み終わり、ザックに入れて山に登ったのだ。まさか、山小屋の中で著者にサインをしてもらうとは思いもよらなかった。

◆余談だが、もう一冊サインがある。少し遡るが1994年この場所で。『梅棹忠夫著作集 第16巻 山と旅』に、目の不自由な梅棹忠夫先生にサインをしてもらったのだ。いきさつは、この本に「あたらしい継承者」として私の名前が出ていたからだ。この日は、今西錦司先生のレリーフの除幕式で、梅棹忠夫先生が40年ぶりに北山を訪れた74歳の誕生日だった。

◆2月号にも書いてもらったが私は「一等三角點研究會」という、全国区の会の会長をしている。この会は、名前から受けるイメージだと何をしている会かわかりにくい。要は、一等三角点の山を登る会なのだ。京都を拠点に今西錦司という大先生の下にできた二つの会の一つだ。もう一つは「十二支会」という。いずれも私の職場の先輩が今西先生との山行での交流から生まれたものだ。「十二支会」は干支の山を5巡して、即ち60年目の「亥」の年に、滋賀県の「猪背山」で幕を閉じた。

◆一方、わが会は紆余曲折しながらも1973年から今日まで50年間続いている。創設時には今西錦司先生が顧問に、今は齋藤先生に顧問をしてもらっている。とにかく多士済々の会員の集まりだが、このご時世、高齢化の一途で、会長の私も81歳。

◆京都に本部があるおかげで、記念例会等は清水寺や壬生寺、南禅寺等有名な寺で開き、全国から集まった会員はその時々に京都ならではの貫主さんのお話を聴く。昨年の活動は、5月に伊能忠敬や柳田國男が足跡を残した宮崎県の辺境の地、椎葉村の「笹の峠」一等三角点に集い、10月の秋季例会は北海道の屈斜路湖を望む「藻琴山」に集った。その帰りには、全国923ある一等三角点の中で日本一低い「野付崎」1.87mを探索もした。こうして一等三角点の探索は、一番高い南アルプスの「赤石岳」から始まり923番目の「野付崎」まで全てを探索するには、ある意味ではエベレストより難しいかもしれぬ。

◆いま、NHKで毎週水曜日「ニッポン百低山」を放映している。色んな山行スタイルの一つだが、結構中高年に受けている。私も今年1月18日、このニッポン百低山に、京都の「愛宕山」で吉田類さんと出演した。放送が終わった途端に、全国各地、北海道・東京・山口・高知の会員から「みた、見た」と、電話が入った。この愛宕山は2005年11月22日江本さんとも登り、今ではいい思い出の山になっている。[大槻雅弘

西穂暮らしが始まった!

■3月も半ばに差し掛かりました。下界では気温が20℃を越える日も出てきたようですが、ここはまだ氷点下です。標高2367mに位置する西穂山荘からお届けしています。

◆ 先月、8日間にわたる冬合宿を終えました。山岳部の現役部員として最後の合宿となりました。1年2名、3年2名の4人パーティーで、遠見尾根から五竜岳を目指しました。2月18日に白馬五竜スキー場から入山し、19日には西遠見山付近にBCをおきました。3日間の沈殿の後、24日には五竜岳山頂に立ち、翌25日に全員無事に下山した次第です。BCまではトレースがしっかりとあり、スムーズに進みました。

◆23日の行動は、3日間降り積もった新雪をラッセルでかき分け、体重をのせ、ステップを固め、の繰り返しでした。24日は、登頂した後が核心でした。山頂から五竜山荘までの稜線は雪面の下降とトラバースが続きました。雪の状態が締まりすぎたり、緩すぎたりして、安定しませんでした。白岳からの下りでは、往路にて必死で刻んだつもりのトレースが、降雪と強風で跡形もなくなっていました。雪庇と雪崩を警戒しつつ、一時ホワイトアウトにも見舞われ、緊張が続きました。自分が雪や風に転がされているような、吹けば飛ぶような、小さな存在であるように感じられました。だからこそ山に行くのだとも思います。山行を通して、自分の傲慢な部分が少しはマシになるような気がします。

◆五竜岳から下山後、1週間ほど経ったころ、西穂山荘に入りました。通年営業のこの山荘は、新穂高ロープウェイから徒歩約90分というアクセスの良さもあり、天気のいい週末は特に、登山者で賑わいます。長野と岐阜のほぼ県境に位置する山荘付近には、長野側に霞沢岳、岐阜側に笠ヶ岳がそびえます。視線を遠くに送ると、八ヶ岳、乗鞍岳、白山、といった山々の雪化粧が見られます。皿洗いや掃除の傍ら、窓からの景色は刻々と変わります。

◆文字通り、山に包まれている環境にありながら、山荘内の営みは驚くほど「生活」です。電気、水、ガス、食料、といった様々な資源、エネルギーが、活かされていると感じます。小屋に入ってやっと2週間経つ程度の私の目にすら、様々な工夫が映ります。どうすれば効率的なのか、無駄が少なくなるのか。すべての行為に意味があるとすら思えます。裏を返せば、雪山で人が暮らし、さらには登山客に羽休めの場を提供するためには、多くの工夫と労力が必要なのだと理解できます。

◆ 山荘には様々な登山者がやってきます。年齢も経験も異なる登山者が登山をする、その前後をこんなに間近で見られる場所はありません。正直なところ、仕事を覚えることで必死の毎日ですが、山という場所や登山という営みが、人にとってどんな意味を持っているのか、見てみたいです。[安平ゆう

追記:江本さん、改めて、フロント原稿を書いている最中に電話をとっていただきありがとうございました。申し訳なくも、自分が向かっている山が遠い地と繋がったようで、嬉しかったです。

冒険研究所書店は、ちょうどいい匂いがした

■その書店の存在を朧げに認識したのは、インタビューの仕事で初めて江本さんにお会いした2022年の1月だった。長年住み慣れた便利な都心の家から、府中に引っ越された。その際に大量の蔵書を整理しなければならず、行き場を失った本達は、めでたく書店を始めるある冒険家の元にもらわれていったというお話しだったように思う。そのときは何となく冒険家が書店?ということが軽く引っ掛かった程度で、すぐにそのことは脳裏に薄れた。

◆しばらく経ったある日、Twitterで雪ぞりに乗って本を読む可愛いシロクマのアイコンを発見した。「冒険研究所書店」なんてわくわくする書店名だろう! 冒険×書店なんて私にとっては最強の組み合わせ。早速Twitterをフォローすることで満足して、またしばらくそのことは忘れていた。

◆冒険研究所書店が、江本さんの話されていたその書店だということに気づいたのは2023年1月だった。つまり最初にその書店の存在を知って約1年が経ったころだった。

◆私はあちらこちらに首を突っ込んではすぐに飽きてしまう性格だが、なぜかランニングだけは15年以上続いている。といってものめり込む程ではないため特に距離も伸ばせず、ハーフマラソンで走れれば満足だった。とはいえいつかはフルマラソンもという思いもなかった訳ではなく、出場希望者が減ったコロナ禍に、ようやく抽選連敗中の東京マラソンの出走権を得た。

◆青梅の30キロがこれまで知る最長だったので、それ以上の距離を知らなかった。今年に入ってさすがにまずかろうと思い、毎週末、ハーフの距離から始めて徐々に距離を伸ばしていく作戦に出た。ただ、私は先ほども書いたようにかなり飽き性なのだ。当然同じコースを毎週走るなんてことは苦行でしかない。

◆そこで思いついたのが、とにかくマラソンと関係なくその日行きたい場所を探す。なるべく遠い所で開催されているイベントや行ってみたいお店など。行きは公共交通機関でそこまで行き、家まで走って帰るという戦法だ。帰り道はMAPを眺め、川沿いや緑道といったなるべく自然の多いコースを選んだ。ある日は野川の源流を観に行く、ある日は音の良い映画館で映画を観る、など毎回まったく違うコースを選び飽きずに距離を伸ばすことができた。

◆話はここで戻る。週末ランのコース選びの中で、唐突に冒険と書店という文字が頭に浮かびあがった。あれ? あのシロクマのお店と江本さんはもしかしたらどこか繋がっているんじゃなかったっけ? 江本さんから聞いた書店名等は忘れてしまっていたけれど、間違いない気がした。調べてみると、冒険研究所書店は、北極行を十数回も行い、日本人初の南極点無補給単独徒歩という偉業を成し遂げている北極冒険家の荻田泰永さんが2021年に開設した書店で、小田急江ノ島線の桜ヶ丘という駅にあるらしい。湘南台に毎日通っていた家族に聞いてもそんな駅なかったよ? と記憶されないような小さな駅だ。MAP上で走れるコースを辿ると小田急線の自分の駅までちょうど30キロくらいだったので、東京マラソンに向けてのラストランにしようと決めた。

◆桜ヶ丘駅は想像以上にこじんまりとしていて人の気配があまりなかった。人が住んでいない訳ではなく、土日のお昼はお隣の大和駅やどこか大きな街に出かけてしまうのかもしれない。ただそんなことは特に気にならず、よく晴れた冬空の下、私の気分は最高に盛り上がっていた。

◆店は駅近なはずなのに、最初は看板に気づけずに少しうろうろしてしまったが、北の海の色を思わせる濃紺のおしゃれな看板を見つけ階段を上っていく。階段の壁には地図や極地の写真が貼ってあり気分は更にアガる。明るい光の入るドアを開けると、なんというかちょうどいい匂いがした。古い本だけじゃない、新しい本だけじゃないそんな匂いだった。

◆それが手作りの本棚や床の木の香りと混ざり私には心地良い匂いに感じられた。店内は開放的な窓があってなにかカラっと明るい空間だ。店のレイアウトにも、新旧揃えられている本にも、荻田さんの強いこだわりが感じられた。冒険の本はもとより、歴史小説、哲学書、イキモノやコーヒーの本などなど。わー私の好きなものが詰まっている場所だと細胞も喜んでる気がして、気づけば1時間はその“場”に没入していただろうか。

◆また、本と一緒に、荻田さんと冒険した貴重な資料や衣類やカメラ等の装備が手に触れられる所に惜しみなく置かれている(特に実際使われたソリがあるのはアツい)。入口ドア右側はちょっと図書館の子ども本のコーナーを思わすようなエリアになっている。低めの書棚に冒険関係を始めとしたたくさんの本、本、本。荻田さんが絵本作家の井上奈奈さんとコラボして作られた絵本『PIHOTEK 北極を風と歩く』の大きな画が壁面を飾り、ソファも置かれ座って読むことができる。その場でコーヒーも買って飲めるから、走って帰るというミッションさえなければ何時間でもそこに居座ってしまっただろう。

◆その書棚の一角に私は江本さんの気配を確信した。思わずお店の方に、ここの本は江本さんが寄贈されたものではないですか? と聞いてしまった。お店の方はちょっと驚かれて、はいその通りです。と仰っていた。そこから少し立ち話。ちょっとだけ開店の経緯を聞かせていただいて、後は荻田さんが書かれた「書店と冒険」という可愛らしいイラストが表紙の冊子を買って、戻ってから復習することにした。その他にTwitterのアイコンにもなっているシロクマのブックカバーも購入し、意気揚々と店を後にした。当初の「走って帰る」目的を忘れそうになるくらい長居をし、帰り道は途中で日が暮れガッツリ迷うというハプニングはあったが、私の小さい小さい冒険は楽しく終えられた。

◆毎週末プチ旅行を兼ねて走っていたおかげだろうか? 3月10日に開催された東京マラソンでは、身構えていたほどのツラさは感じず、東京の景色を堪能するうちに無事完走できた。

◆桜ヶ丘は昔、桜株(さくらっかぶ)と呼ばれていて桜の名所もあるようだ。あの日はゆっくりコーヒーも楽しめず、走って帰るから気に入った本も買えなかったので、桜が咲くころ、お礼も兼ねてまた書店にひょっこり顔を出そうかなと考えている。[中山綾子

本たちは黙っている

山村の廃屋内部に斜めに日が差して
そこだけほこりが舞っているのが見える
書棚の前で演説する男
あー、諸君。
この家は村もろともダムの底に沈むことになった
私と一緒に逃れたいものは申し出るように
つまりこの私がノアというわけだ はっはー
本たちは黙っている

えー、事態の深刻さがわっかてないようだな
君たちねえ、ただの紙なの
紙の上にインクが載ってるだけなの
水の底でどうなると思う?
それともかって私の頭の中で
自由に泳ぎ回っていたように
水の底でも泳ぎまわろうとでも言うの ホッホー
本たちは黙っている

改めて見渡せば
どの背表紙にも思い出がある
木漏れ日の下で読んだこともある
病院の待合室で
かすかな消毒液のにおいとともに読んだことも
どれもこれもかけがえのない私の友人たち

ごめん いやごめんなさい
どうか どうか私と一緒に来てください
何往復でも致します……
本たちは黙っている
       [豊田和司

冒険研究所書店で聞いた植村直己さんの叫び

■先月21日、冒険研究所書店で、「『植村直己北極点に立つ』LPレコード視聴&解説会」が荻田泰永さんの解説付きで行われた。氷原に降り立つ飛行機の爆音、西堀栄三郎との途切れ途切れの無線交信、犬たちの咆哮、雪原を削る橇の軋み、エスキモーの言葉で指令する植村さんの必死の叫び、寒気を切り裂く音速の鞭。アナログ記録の生々しい再現力。店の奥には、江本さん寄贈の稀覯本(これはさすがに非売品)が所狭しと並ぶが、今回のLPはその中に紛れていたとのこと。エリック・シプトンと、フリッチョフ・ナンセンの本を買って帰った。[長岡竜介 ケーナ奏者]

風雪の八甲田山で、雪に埋もれたテントのなかで考えた

■思い立ったときにやらないと、ずるずる流されてやらずに終ったりする。人ってそれほど強くないから。夢をかたちにできなかった人たちのほうが社会に適応しているようにも思う。夢を諦めた人たちが夢を諦めない人たちをささえていたりもする。どちらがどうこうというはなしとはちがう。この1月2月は連日激しい風雪の八甲田山で、雪に埋もれたテントのなかでよくそんなことを考えてみたりした。きっとどんな選択にも意味はある。[田中幹也

懐かしい!甲冑旅人

■地平線通信に久しぶりにあの甲冑旅人の山辺くんが寄稿していたのを読み、感無量! そうなんだよなあ、私も20代前半の日本一周の長旅から帰ったあと結構きつかったなー。

◆山辺くん! いつぞやは牧場仕事を手伝ってくれて、大変助かりました。ありがとう! 地平線あしびなーで会ったころよりも数倍も、旅から帰ったあなたはたくましく気が効く青年になっていてびっくりしたものです。

◆旅は人を育てる、よね。旅で出会った出来事が必ず人生の糧になるはずだよ。これからの人生に幸あれ![外間晴美


先月号の発送請負人

■地平線通信526号(2023年2月号)は2月20日に印刷、発送しました。2月号も18ページと大部になりましたが、精鋭たちの動作はもうプロ並みで19時にはほぼ終えました。江本もほんの少し手伝いました。

◆二次会に全員が参加した際、ご母堂をなくされ、落ち込んでいる彫刻家の緒方敏明君に電話し、ひとりひとり話しかけました。引越しもまだ終わってないし、しばらくは辛そう。発送作業に参加してくれたのは以下の皆さんです。光菅くんは北京からの参加ですがとにかく来た。

◆特筆はこの3年、皆勤賞だった白根全がいないこと。なんとカーニバル取材についについに行ったのだ。

 車谷建太 中畑朋子 高世泉 久島弘 落合大祐 長岡竜介 武田力 江本嘉伸 光菅修


見送った母親のこと

ぼくは、いま、頭が変です。
もちろん 前から変なのだけれども。「さらに」という意味。
そして、後悔と反省多々。
いまさら言ってもしかたがないことばかり考えてしまいます。自分の介護は「失敗だった」という気持ちがある。愛情が無かった。
ぼくなりに一生懸命に頑張ってたつもりだったけど。ぜんぜん足らなかった、及びませんでした。
やっぱり、寄り添えなかった。ぼくは、誤差を埋めようとしていただけだと思います。

母親は、「助けてほしい」と言っていたのでは無いです。
母親は、瀕死の病床にチューブに繋がれながらも、「ぼく」を助けようとしていました。

しかし、ぼくは、母親に なにも恩返しできなかった。親不孝だとおもいます。
母親は、ぼくと一緒に暮らしたかった。なにもぼくに対してできないことを謝ってた。
「家を売るなりして 倹約してなんとか生きていくのだよ」と 言ってた。

母親は、入院してからも、「心臓をあげるから移植してもらって」と言っていました。実際には、母親は、近年に弁膜症も不整脈も発症していて、かなりポンコツな心臓保持者なのだけれども。母親のその気持ちが、ありがたすぎて、ぼくは、なんという親不孝なのかとおもいます。

母親は、以前は、「死にたい」ということが多かった。それが「寂しい」というようになって、そして「ごめん」というようになって、それから「ありがとう」ということが増えて、そして 他界した。

ぼくは、一緒に 筋トレをすべきでした。そしたら、母親は、転げなかった。入院しなかった。
もしも、筋トレをしていたら、母親はもっと「歩けるように成った」と思います。転げなかったと 思います。ぼくは、それを 「やらなかった」。

もちろん、それだけじゃ無い。
とにかく ぼくは、やっぱり考え悩んでしまいます。
母親の無償の愛、みたいなことが知れるごとに なんだか、うらはらに、自己の無念、至らなさ、ダメ人間性、後悔、愛の無さ、バカすぎる、というか。

母親は、昨年の11月に入院して、他界するまでの二ヶ月間で、面会できたのは、たったの二度でした。しかも、10分間ずつ。
死ぬまでに会えた時間は 結局20分だけでした。
「コロナ社会」だから。って、厳しすぎる。残念すぎる。「面会禁止」って、絶対おかしいと思う。
【会えずに 励ます】って「魂を繋ぐ言葉」を編み出すことが、難しい。超難しい。

そして、
母親は、面会の翌日に 旅立ちました。

今、想うと、
他界する前日に母親と話せたことは、すばらしいことだったのだと想えます。v母親は、握手するぼくの手を握り返してくれた。ぎゅ っと。その感触をぼくは、生涯忘れてはならないと 想いました。
ビニール手袋で握手できました。v母親は、もごもご発声して「ありがとう」と言った。

ぼくは、棺の中に、自分が描いた手紙を入れさせてもらった。それと返信用の便箋と封筒を母親の胸元に置かせてもらった。宛先住所は、今のぼくの住所(まだ、工房の移転が完了してないから)。84円切手を貼った。

いっしょに連れ添って汽車旅をしてきた母親を うっかり途中駅に置いてきちゃったという感じ。
人生は 未来にしか行かない乗り物
ぼくだけが 未来へ進んでる ぐんぐん
わけがわからないままに

ショックはなかなか大きく とてもツラいのだけれども
悲しいというのではなくて 泣くようなことではなくて
強烈な衝撃波みたいなのが怒涛に来てる感じ。自分は、無防備に「浴び続ける」しかない。逃れることができない。
なんだろうかこれは
今 此処は どこなんだろー 
みたいな感じの連続

 ◆

ぼくは、なんとか現実世界と繋がっていたい気がします。少しずつ治るのだと思います。
まだ、下降してる感じする。下降なのか、沈殿なのか 混迷なのか。

うずくまってジーッとしている姿勢が増えました。
仰向けのときは、大気の底に埋没してる感じ。天井は遠のき 背中は徐々に畳になっていく。思考は、後頭部から 地中に溶け落ちて

ほんとうは、
イメージの駱駝に揺られて眠っていたい、ずーっと。

あるいは、
いっそ、冬眠したい。
氷結の湖底にうずくまるように、貝みたいに。

まだ、介護をやろうとしている。

忠犬ハチ公が、毎日、渋谷駅に通い待つ気持ちがわかる気がする。
「精神の慣性」というか、、。

「精神の慣性」っていう感じは、たとえば

漕ぎ手を終えた舟が、平らな湖面をすーーっと 音もなく滑っている
わずかな航跡に 月光がゆらぐ、、、、て感じ。
止まれないまま

静寂の鏡のうえ 微速の舟

 ◆

個人的な感想として 特筆したいことがあります。
他界する前日に話せたときに、
母親が「佐藤さんは、どこに行ったの?」とぼくに聞きました。病室を探し見るように。
佐藤さんというのは、近所に住んでいた、母親の唯一無二の親友で、7年前くらいに99歳で亡くなりました。それから、母親は、消沈して引きこもることが増えました。
ぼくが、「佐藤さんは、もう、かなり前に亡くなったでしょう」というと、母親は「ああ、そうだったね」と言う。
それからまた、母親とほかの話をして。「点滴が外れたら退院できるからね」とか。書いてきた手紙を渡して、読んでもらって。
そしたら、また、母親が「佐藤さんは?」と 問う。

それが、「お迎え」というのだろうと 想いました。
実際の霊魂とかそういうことは、わからないけれども。
母親の脳裏には、「佐藤さん」が、発想されていたということは、リアルな現実だと思えます。

「佐藤さんと母親」が、ほんとうに親しみ深い付き合いを続けていたのだなあと、おもいました。すこし、ぼくは、救われたおもいがしました。
近所の佐藤さん宅の前で手をあわせて 感謝しました。[緒方敏明


ゆきつかえりつ

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母の認知症と地平線通信

■母の認知症が急激に進み生活がすっかり変わってしまいました。母の脳内で何がおきているのか……とまどう毎日……。一方夜に私の布団に入ってきて並んで寝るような機会はこんなことでもないとなかったように思います。そんな最中に届いた「地平線通信」。みなさんののびのびした体験談、感想、コメントに、力をもらいました。目の前のことで精一杯のときに、ふと大きな視野をもらえる、なぜかほっとする……。そういう力が地平線通信にはあるんですね。[三好直子

コロナの3年の看護師勤務の厳しさ

■2月末日で勤務先の第4次コロナ病棟が閉鎖されました。ゴールデンウィーク終了後に感染症5類変更、インフルエンザと同格になり専門病棟開設も今回かぎりです。

◆かといって移行するからもう自由に歩けると、手放しでは喜べません。市民にとっての最大の問題は医療費の有料化でしょう。調子が悪い、コロナかも知れない、でも金がかかるなら黙っていよう隔離されるかもしれないし、という発想は当然のように起こります。つまり陽性者が自由に巷を闊歩するわけで、感染したくなかったら三密の回避や手指消毒、感染源になりたくなかったら罹患者のマスク着用と、自主的な罹患防止がこれからは必要になってきます。

◆高齢ゆえにコロナ病棟勤務はついに命じられませんでしたが、わが病棟にもコロナ患者はたくさん来ました。このコロナ病棟以外で受けいれるコロナ患者というのが、かなり厄介なのです。コロナ病棟なら病棟が丸々汚染区域として扱われるため、玄関をくぐるや防護服の職員が出迎えるし、まわりで寝ている患者もみなコロナなので新たな感染者を出す心配はありません。

◆一般病棟でもコロナ患者が出たら専門病棟に送っちまえとなるのですが、それはあくまでも施設があってのはなし。下火になって閉鎖されれば各病棟で対応するしかなく、業務は非常に煩雑になります。

◆がん末期の多くは腫瘍からの発熱を伴いますが、これががんによるものなのかコロナ感染なのかは、はた目にはわからない。かくして発熱や呼吸器系症状を伴う新規患者はすべて陽性とみなすしかなく、PCR検査結果が陰性と判定されるまでは感染者扱。しかも外注なので、祝日のからむ金曜日の午後にでも入院されたら、判定の出るのはなんと水曜日になるのです。

◆ここで苦い症例を紹介します。60代前半のTさん。がん末期で緊急時蘇生希望なし。主たる訴えは動けなくなったことと発熱でした。前述のようにがんでは腫瘍熱というがん細胞自体が起こす発熱が、しばしば伴います。しかも肺がんだと咳もふつうに出る。これではコロナ合併なのか腫瘍熱だけなのかわからない。そこで検査結果が出るまで陽性とみなし病室は封鎖。

◆いつもならすぐにでも入れるよう開けっぱなしにしてカーテンだけを閉める扉も、コロナ疑いでは閉鎖、中に入るにも廊下で防護服を着なければならない。しかもその着脱にそれぞれ5分はかかるうえ、着せてくれる介助者も必要。それを3人体制の夜勤でするわけですから、その最中に他の患者からの呼び出しが重なっても無視するしかない。そのためもっとも余裕のありそうな時間帯を狙って、打ち合わせのうえ行動するのですが、思うようにはいかないものです。

◆その夜勤に入ったとき、Tさんはおそらく朝までは持つだろうと思っていたのですが。業務上1時間ごとに全員の呼吸状態や循環動態を観察しますが、終焉の近い患者は少なくとも15分単位で様子をみたいところです。しかしコロナ疑いではそのたびに入室できず、扉をわずかに開けて耳を澄ませて、呼吸音から状態の変化を読み取るのが精いっぱい。

◆そして朝6時。呼吸が乱れだした、これはまずいと感じて夜勤のパートナーに介助されてあわてて防護服を着て入室、するとあと10分もつかどうかの呼吸に、すぐさま家族への呼び出しを同僚に依頼しました。通常なら気軽に病室に入って、うわっと飛び出し家族に緊急連絡、となるですが、Tさんには防護服を着ないと顔が見られないという壁があり遅れたのです。

◆想像以上に早く駆け付けてくれた家族でしたが間に合うはずもありません。幸いにも物分かりの良い家族だったので、このご時世ですから死に顔をみられただけでも十分です、と言っていただけたことに、どれほど安堵したことか。日勤帯になり現場業務から解放されてカルテ書きに専念。書きつづけてやっと終わった昼過ぎに検査結果が届きました。陰性でした。どっと疲れが噴き出しました。

◆コロナに見舞われたこの3年の勤務状況のすさまじかったこと。ことにこの1年は日勤よりも夜勤のほうが多いという、40年の看護師生活空前の日々でした。しかも手薄になる夜勤は日勤よりも忙しいのが通常です。そのため仕事しているか寝ているかの日々。仮に地平線報告会が開催されても、出席するだけの余力はなかったでしょう。

◆このところ『週刊文春』が看護師のブラックさを報道していますが、現場からすればなにをいまさらの感です。妊娠していようが夜勤は業務内、残業手当などもってのほか、熱を出したら下げてでも出てこい、3親等なら忌引なんかいらんだろ、これを飲むしかないのが医療の現場です。ところがコロナ感染したら問答無用で一定期間出勤停止となったため現場が回らなくなり、入院を絞るという考えられない業務削減がほどこされたおかげで、待遇はいくぶんかマイルドになりました。これだけがコロナのもたらした医療従事者への唯一の恩恵でしょうか。

◆ある看護師のつぶやきが耳に残ります。「医療の現場って、いかに己の寿命を削って他人の残り時間を延ばすか」、なんだ。[埜口保男

マスクを捨て、星を投げる

■地平線報告会に最初に顔を出した大学生時代から、もう20年以上が過ぎた。先日、江本さんからそのことを指摘されて気が付いた。その瞬間、アジア会館のバングラカレーの香りと共に20年前の記憶が頭をかすめ、ぽっかり空いた直近の3年の月日を思った。

◆コロナ禍による最初の緊急事態宣言が解除された後の2020年5月末、「マスクとエアロゾルと言葉と」と題した文章を地平線通信に寄せた。その春、3歳だった次女は週1〜2回しか保育園に通えず、小4になったばかりだった長女は春休みからずっと休校で、家で宿題のプリントをこなす日々に、どちらも不満を募らせていた。私自身は記者として復職したばかりで、マスク越しに初めて会う仕事相手とどう関係を作っていくのか、そもそも対面取材が行えない状況で仕事をどう進めていけばいいのか戸惑う気持ちをそのまま書いた。

◆それから3年を経て、6歳になった次女は今春、保育園を卒園して小学校に入学する。かつては嫌がっていたマスクを黙って着けるくらいには我慢がついた。当時、楽しみにしていたタコの形をした公園の大型遊具で遊ぶ機会は減り、水泳と体操教室に通うようになった。家ではオリジナリティーのある“アート作品”で部屋を埋め、床中に絵の具を塗りつけてしまうので困っている。

◆長女も今春に小学校を卒業し、私立の中高一貫校へ進学することになっている。受験のための勉強の時期と丸々重なった3年だった。当初こそオンラインを使った塾の授業はほどなくリアル対面型に切り替わったが、進学先となる学校に見学会などで足を運ぶ機会はなかなか得られず、モチベーションを保たせるのに苦労した。それでも最後には第一志望校の合格を見事勝ち取ったが、この間に苦い思いも経験した娘は、すっかり大人びた表情を見せるようになった。

◆私の仕事は、一時はオンラインが幅を利かせたが、今では取材は8割以上、顔を付き合わせて行っている(今の担当が芸能関係なので、当事者が出てきてくれないことには記事になりにくいという理由も大きい)。もちろんマスクを隔てた会話になるが、どうだろう、相手もプロの仕事なのでそのことで不便はない気がする。私自身もマスクなしに外を歩くと、むしろ心許ない気持ちになるくらいには、この生活習慣になじんでしまった。

◆3年前には、自宅の内と外の間に見えない境界線が引かれていることを感じると書いた。そのことを思い出している折、『世界の家の窓から 77ヵ国201人の人生ストーリー』という書籍に関連したイベントに参加した。外出できなくなったコロナ禍に、世界中の人が自宅の窓からの景色を撮影してフェイスブック上のグループに投稿したのをまとめた本だ。

◆メルヘンの世界のような色とりどりの花が咲き誇る庭に面した米国の窓もあれば、割れたガラスが飛び散るのを防ぐためバッテンにテープが貼られたウクライナの窓もある。一口に「自宅にいる」といっても、そこから見える景色はずいぶん違うことを物語っていた。イベントに出席した某タレントは、「誰の近く、何の近くで過ごすかで人はできていると思う。家や景色も同じ」と話した。どんな景色を見る毎日を送っているか。それは、どんな場所に身を置くかということでもあるが、同じ景色を自分がどう見詰めるかということでもある。旅の代償として楽しく眺められる世界の窓の写真から、そんな本質も問い掛けられた。

◆最近よく、「星投げびと」の逸話のことを考える。ローレン・アイズリーという米作家の短編集に含まれる話の一つで、海に向かってヒトデを投げる少年が出てくる。散歩で通りかかった人が何をしているかと尋ねると、少年は「海に戻してやらないとヒトデが死んでしまう」と答える。しかし、海岸には見渡す限りヒトデが打ち上げられている。「すべてを助けることはできない。そんなことをしても意味がない」と言われ、少年は少し考えてまた答える。「でも今投げたヒトデにとっては大きな違いだ」と。すべてを助けられなくても、足元のヒトデを投げれば半径3メートルの景色は変わる。

◆また先日、長女が進む学校の保護者説明会に参加した。大学の進学実績などは一切語らず、春休みは子どもに勉強をさせないでほしいとまで話す学校が、大きな時間を割いて説いたのは、キリスト教に基づく教育理念についてだ。その大きな柱の一つはこんなふうに示している。「神が自分に授けた賜物を見つけ、それを磨きなさい。その賜物を他者のために使える人間になりなさい」。自分にとっての「賜物」とは何だったのか。それを今どう使っているのか。親もまた、子どもを通して自らの姿勢を問い直される学校だと感じた。

◆振り返って、なかなかにハードな3年間だった。未曾有の事態の下、仕事に追われ、家事に追われ、人間関係に悩み、荷の重さを感じて自分の未熟さを知った。旅が遠のき、交流が疎になり、閉じられた窓の内側でそれこそ打ち捨てられたヒトデのようになった日もあったかもしれない。でも今は、窓の外を歩くことができる。人と会うことができる。マスク越しでも目の前の人の話に心震える瞬間がある。いずれマスクを捨てられる日だってくるだろう。あまりのヒトデの数に心折れそうになることもあるけれど、一つずつでも海に向かって投げ返し続ける腕力と精神力を養うための時間だったのだと今は受け止めている。[菊地由美子 そろそろ旅がしたい……!]

やっと見えてきたコロナ禍のゴール

■「いつも楽しく読ませていただいていますというような感想は必要ない。自分をさらけ出すんだ!」。日曜の昼下がり、大阪マラソン2023のゴールを見ていた私の頭は、初めての江本さんの電話にすっかりシャキッとしてしまった。その反面、この言葉がNHKの朝ドラ『舞いあがれ!』に出てくるボブヘアーの編集者と重なり、不謹慎ながら内心ニヤニヤもした(すいません)。というわけで、初めて地平線通信の原稿を書いています。

◆私は今、広島県の尾道市にある「しまなみ海道」で、外国人旅行客のサイクリングツアーガイドをしています。コロナ禍のこの2年半は本当に苦戦を強いられました。2020年春までは地元のレンタサイクル企業で働き、さあ独立!というタイミングで外国人旅行客がゼロになった当初は途方にくれました。仕入れがないからまだいいようなものの、急にご近所さんがみんな引っ越して買い手がゼロになった商店のような状況は当初全く想像にありませんでした。そして、来春こそは大丈夫だろうというニュースを見ては安堵し、挙句の果てに緊急事態宣言にまん延防止法。もうどうしようもないので、ええい!と、実家の山の手入れをしたり、しまなみ海道の島々の下見をしたりしていました。とはいえ、広島県と愛媛県をまたぐしまなみ海道、県内から出るなと言われれば、半分までしか行けませんでした。

◆そして昨年10月から、外国人旅行客の受け入れがツアー客のみとはいえ再開しました。最初に行ったツアーガイドは、まるで初めてツアーをやるような気持ちで、正直不安も多かったです。しかし、しまなみ海道を走り切った人の笑顔を見ると満足感が勝りました。それに、こうしてしまなみ海道を旅したいという人にまた出会えたことが本当に嬉しかったです。

◆10月の終わりにはツアーが続きすぎて、ツアー終了後ほぼ動けず、もう壁さえあればいいという状態で、コンビニの外壁にしばらく持たれているところを通りがかったガイド仲間の車に、自転車ごと乗せ帰ってもらうという日もありました。こうしてフランス、シンガポール、オーストラリアの方々にツアーを楽しんでもらうことができました。旅っていいなと心の底から思いました。またこの時期、地平線通信で知り、内容がとても気になった『宮本常一の旅学』の著者、福田晴子さんもしまなみ海道を訪れ、無事完走されました。旅する心が豊かで、とてもタフな方でした。

◆こんな激変のコロナ禍に、出会った言葉が「自分にわくわく」です。偶然、秋のツアーで泊まった石鎚山系の山荘で、書いた方にほんの数分ですがお会いすることができました。日々の暮らしが「なんだか最高で」という、本当にきらきらしたトレイルランナーの方で、自分を旅しているような印象を受けました。この「自分にわくわく」の心持ちが、コロナ禍を通じての一番の収穫かつ今の目標です。

◆今年はマスクもついに外せるようになり、ガイドもお客さんも互いの顔がよーく見えるようになります。私にとっては初の春のツアーのスタートです。これからもお互いの顔の見えるツアー、続けていきたいです。[宗近朗

3年前、ナマで聞いた森田靖郎報告会

■3年前の3月は未知のウイルスに怯えながら喜界島に引っ越す準備をしていました。偶然にも江本家で行われた森田靖郎さんの報告会に同席することができ、そのときのひとことを時折考えなおします。今は文明周期の交替期。何が起こるかわからないといわれている。その一つがコロナ。

◆報告会は濃密でいまだに自分に落とし込めないことがたくさんあるのですが、報告終盤におっしゃった「過去や歴史は、未来のことを一番よく知っている。行き過ぎたものは必ず戻る。これは自然の摂理です。文明の大原則です」のひとこと。戻る、とは? コロナ発生から何が変わったか。

◆人々のマインドの変化、世の中の変化は大きかったと思います。皆さんにも2020年3月の報告会を読み直しをおすすめしたいです。今の世はコロナ前に比べてどうなったか、森田さんのお話しを改めて拝聴したい気持ちになった3月でした。[うめこと、日置梓


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、できれば、最近の通信への感想などどんなことでも結構です、ひとことお寄せくださると嬉しいです。

秋元修一(4000円)/川崎彰子(10000円 最近、ヒマラヤへ。キャニオニングで巨大ゴルジュを探検する番組制作だったが、なぜ未踏の谷を目指すのかの問いに「美しい景色を求めているんだ」と語った渓谷探検家・田中彰さんのシンプルな言葉が印象的でした)/岡朝子(4000円 2年分です。毎号、楽しませていただいています)/河野典子(10000円 皆様によろしくお伝え下さい)/吉田文江(4000円 R2、R5通信費 え?令和2年、令和5年の意味?)/高松修治/松尾清晴(10000円 地平線通信は恐ろしい)/上田やいこ/小河原章行(10000円 復活購読です。先日、自宅に近い冒険研究所書店に行ってきました。実に面白かった)


相沢韶男を偲ぶ

■相沢さんとは50年来の付き合いだった。宮本常一さんが所長をしていた日本観光文化研究所で何回か顔を合わせていた。節子夫人と新婚旅行でペルーに行き、長男が生まれた時、迷わずインカ(印架)と命名したと聞き、ペルー通いしていた私と仲良くなっていった。

◆そのうち相沢さんから、課外講座や特別授業に呼ばれるようになった。学生たちの反応は良かった。2時間ほど講演したあと、2〜3時間熱のある質疑応答があったが、学生たちはほとんど席を立たなかった。

◆私は、1993年から南米からアラスカ経由でアフリカに向かう、グレートジャーニーを逆ルートで辿る旅をしていた。ベーリング海峡をシーカヤックで渡り、トナカイぞりで極北シベリアを旅している頃、相沢さんから「武蔵美に来てくれないか? 文化人類学と人類の移動・拡散、できたら医学概論も担当して欲しい」と連絡があった。

◆大学で専任で講義するなんて考えたことがないし、私の旅のゴールまでまだ最低3年はかかるので、「無理ですよ」と伝えると、「3年なら待っているから。文化人類学者を育てるためではなく、あなたが地球を歩いてきて、見て、聞いて、あなたの頭で考えたことを学生に話して欲しいんだ。あなたを何回か武蔵美に呼んで講義をして貰ったけれど、あのように話して貰えばいいんだ。あなたの話は学生の心に響いている。学生や助手たちが待ち望んでいるよ。武蔵美の学生は講義よりも教員の生きざまを見ているんだよ」と何回か熱心な説得があった。生き様を見ているなどと言われると、怖気ついてしまう。

◆一方私を専任教授として武蔵野美大に招聘することに反対する教員もいるという。その理由は、「いつ講義を放り出して、探検にでかけてしまうか分からない」「すぐ辞めちゃうのではないか」など、大学の仕事に専念できないのではないかという意見だ。私はそれはありうるとも思った。

◆結局、アフリカのタンザニアのゴールまで待ってくれるならばお引き受けするということになった。ゴールに着いた二ヶ月後、私は教壇に立って、講義をしていた。人は役割を与えられれば、必死になってこなせるものだと思った。研究室は相沢さんの隣だった。

◆相沢さんは、会津の「大内宿」の茅葺き屋根村落の保存に情熱をそそいできた。彼の情熱と行動のお陰で、今日の形で保存され、年間100万人観光客が集まるようになった。きっかけは、宮本常一の学生だった相沢さんが1967年に会津茅葺職人の調査に入ったことだったが彼がいなければ、大内宿という貴重な文化財の保存はなかった。

◆私は相沢さんと大内に行ったことはないが、北海道のアイヌの村に何回か同行した。相沢さんは、萱野茂さんが亡くなるまで、毎年二風谷に学生を連れて、体育館に寝泊まりして、アイヌの民具の実測図を書いていた。萱野家の倉庫にはまだ整理していない民具がたくさんあり、それをきれいにして、実測図を書く作業を黙々とするのだ。

◆相沢さんは調査しない、発表しない、書かないというスタイルで、ただひたすら萱野さんの手伝いをしていたが、とうとう萱野さんから「調べてくれや」と言われて、萱野さんの発言を全て録音するようになった。また『アイヌの民具』という美しい本の他に、ゆいデク叢書にその成果が残っている。彼はゆいでく有限会社という出版社を作り、ゆいデク叢書という図や写真の多いおしゃれなシリーズ本を何冊も出版している。

◆相沢さんに「情報の意味を深く考えたことはありますか」と聞かれたことがある。ポカンとしていると、情に報いると書いてあるでしょうという。相沢さんのアイヌの仕事を見ていて納得がいった。話を聞くことは情を貰うことなので、それに報いなければいけない。相沢さんはしっかりと報いる研究者だった。

◆それだけに、不治の病に彼は困惑したことだろう。亡くなる2日前に会った時、相沢さんは印架くんと私に何かを伝えたいのだが、文章にならない、単語の羅列のような会話だった。マルコポーロと何回か言っていた。私は咄嗟に何を言いたいのかわかった。

◆彼は民俗学者だが、海外にも関心があり、世界中を旅している。中国、インドシナでは一緒に旅をしたこともある。彼はマルコポーロの「東方見聞録」に対して、「西方見聞録」を書きたいと言っていた。

◆ところが他に書きたいことが山積していて手が回らなかった。大内宿の江戸時代の文章が出てきた時とても嬉しそうだった。それを読み解いて、本にしたいと思っていた。その他書きたいことが山積していて、いつも「時間がない」「間に合わない」と言っていた。

◆彼と印架くんはこの日、抗がん剤治療など積極的治療をやらず、痛みや苦痛などを取り除くだけの緩和ケアに専念することを決断した。病床で「俺も終わりかー」とつぶやいた。とても寂しそうで辛そうな顔だった。やり残しがたくさんあり、悔しいだろうなと思った。

◆しかし、通夜の時、棺の中で眠っている相沢さんの顔はスッキリしていた。すべてを受け入れ、「俺は旅立つぜ」とでもいいたげな表情だった。[関野吉晴

森井祐介さんと麦丸と女性たち

■ついおととしまで森井祐介さんと私は同じ新宿区の、歩いても30分足らずの場所に住んでいた。通信を印刷、発送する日が迫ると互いの家を行き来することはごく当然だった。とりわけ我が家にいた麦丸というマルチーズは森井さんが大好きで彼の来訪を体中で跳ねて喜ぶので森井さんも「おーおー、麦、そんなに嬉しいか!」と言いながらちび犬をやさしく撫でてやっていたのが今も思い出される。

◆森井さんは新宿駅南口にある囲碁センターで店番をし、初心者指導にあたっていた。週4回ぐらいは通っていたから高齢者にしては忙しい日々だったと思う。その上で地平線通信作りをやってくれていたのだから若々しい後半生だった。読書家だったので通信を作りながらページの掲載順序、見出しなど相当踏み込んだ相談にも乗ってもらっていた。印刷の現場にかなり長くいたことが通信作りにも役立っていた。

◆知的作業には素晴らしいセンスを発揮したが、健康とかスポーツにはまったく関心を持たなかった。2016年、心臓の調子が悪く、バイパス手術を受けた際、2か月は通信制作を休み、その間女性編集スタッフが森井さんの代役をやったことがある。そういうこともあり、誕生日などはよく新宿御苑に近いイタリアレストランで女性たちと食事を楽しんだ。そうそう。80才の誕生日には荒木町の我が家に森井さんの子供か孫の年齢の仲間が集まり、賑やかにお祝いをした。18日のお別れに多くの若い女性もいたことを妹のしのぶさんはびっくりしていたが、そういう意味では森井さん、青春は長かったかも。[江本嘉伸

森井祐介さんを見送る春

■連日の春の陽気が嘘のように、真冬並みの寒さとなった昨日(3月18日)。森井祐介さんとのお別れのセレモニーが、都内の斎場で執り行われた。森井さんは入院された昨夏の8月まで、20年以上もの長い間、この地平線通信のレイアウトを一手に引き受けてこられた。印刷した仮原稿を家中の壁に貼って原稿の配置を考える姿が有名で、縁の下の力持ちとして地平線会議を支えてきてくださった。もちろん、楽しみながら。その精神はまさに「地平線マインド」と言えると思う。

◆セレモニーには妹さんの他、地平線関係者を中心に18名が参加した。棺の中の森井さんは優しいお顔のまま眠られていて、悲しいけれど少しほっとした。たくさんのお花と文庫本、そして地平線通信を仲間の手でたむけ、お見送りをした。

◆お骨になるのを待つ1時間ほどの間、妹さんから思い出話を聞くことができた。「自分の下にも兄弟が3人いて、戦争のとき、母親は下の子たちを連れて逃げました。私の手を引いてくれるのは、いつも兄。靴を反対に履いていれば直してくれ、靴紐も結んでくれる、優しい兄でした……」。私たちの前でもいつもニコニコとしていた森井さんの姿そのままで、思わずこみ上げるものがあった。唯一の身内である妹さんをサポートしている弁護士の先生も同席されており、森井さんの入院中の様子なども教えてくださった。柔和なお人柄の先生がついていてくれて、森井さんも安心されているだろう。その他にも、森井さんが30代の頃から参加していた島好きの人たちの集まり「ぐるーぷ・あいらんだあ」の清水良子さんからもお話を伺い、離島を愛した森井さんの一面を知ることができた。

◆また、丸山純さんは、森井さんの写真をプリントアウトして持参してくださった。2008年に沖縄の浜比嘉島で開催された「ちへいせん・あしびなー」の際に撮影されたものだ。島の青空を背景に微笑む、サスペンダー姿の森井さん。心が和むいつもの笑顔だ。さらには長野亮之介さんが森井さんを見事に表現したイラストを作成し、これもまた丸山さんがフレームに入れてきてくださり、会場に飾ることができた(カラーでご覧になりたい方は、地平線会議のウェブサイトへ)。

◆森井さんの84年の人生に少しだけ関わることができて、嬉しく思う。森井さん、今までありがとうございました。安らかにお休みください。[新垣亜美


今月の窓

旅先から持ち帰った2つのもの

久島弘 

■「旅先から持ち帰ったものって、なんだろ」と、時々考える。あれこれ思い浮かぶけれど、でも、やっぱりこの2つだけのような気がする。帰国した当初は、決してそうではなかった。もっと感動的な体験や驚きの方が心に強く焼き付いていた。ただ、それらは年月と共に色褪せてゆき、逆に地味だった2つの印象が、次第に大きくなってきた。

◆その1つは、「世界は私と同じ庶民で出来ている」の実感と同族(属?)意識。お蔭で、訪ねた国々に限らず、シリアやミャンマー、ウクライナなど、まだ知らない土地の人たちの苦しみも、他人事とは思えなくなった。もう1つが、「この世の中に、『無』から産まれた物体など何一つない!」の認識だ。すべてには出処があり、長い道のりを経て店の棚に並び、我々の手許にやってくる。

◆もちろん、2つともアタリマエ過ぎる事実だから、言うまでもなく頭では分かっている。しかし、知識として理解しているのと、現場を見て胸で受け止めたのとでは次元が違う。突然現れた原生林の伐採地や広大なプランテーション開拓、鉱山の露天掘りなどを目にすれば、溜め息と共に、「日本に溢れ返っていた品々の多くは、こうやって産まれたんだ」と痛感させられる。

◆ゼムクリップ1つ、ポリ袋1枚だって、地中から掘り出した鉄鉱石や原油を、膨大なエネルギーで精製・加工した産物だ。その現地では、自分たちの土地から得られたものが、温帯の「先進国」で消費され、あるいは製品となって戻ってきても、利益が地元に還元されなかったり、一般庶民には高嶺の花だったりする。

◆中米では、いまにも崩落しそうなジャングルの急斜面に拓かれた牧場に、気持ちが沈んだ。訊けば、「あの牛はマクドナルド用だ」との返事。それまでだってマズくて敬遠していたけれど、帰国後は「奢るよ」の誘いを受けても断るようになった。

◆また、キトのスペイン語学校で出されたコーヒーに、「ここは産地なのに、何でこんなにマズいの!?」と文句を言ったら、「いい豆は全部ドイツやアメリカや日本に行く。私たちが飲めるのは、輸出できない安い豆」の回答が。浅はかな発言が恥ずかしかった。

◆そんなこんなを思い出すと、自分の手と知恵で自然界から作り出した物でもないのに、「壊れたから」「もう要らない」との理由で気軽に処分するのが後ろめたくなる。断捨離も、次の使い手を探して譲るのならともかく、単なるポイ捨ては無責任以外の何物でもない。

◆ウチに来たからには、最後まで面倒見てやりたい。そんな気持ちで、私は長年、可能な限り自前のリサイクルに努めてきた。「ブリコラ(ージュ)工作」と名付け、破れたレジ袋を繕い、使用済み歯間ブラシにはヘアブラシの汚れ落としの再就職先を見付け、菓子の空き袋も捨てずに食品保存用の真空パックに加工し、コーヒーのドリップペーパーは数十回使いまわし、仕事場でも空になったインク芯の寄付をお願いして様々なパーツに変身させ、アルミ箔を溜めておいて鍋の保温帽に再生し、邪魔覚悟で壊れた品々も捨てずに取り置き‥‥、などなど数え上げればキリがない。

◆数時間かけて100円ショップの商品を修理したりもした。けれど、最終的な大地への還元は不可能だ。単なる時間稼ぎ、根本解決じゃないことは、百も承知している。その点で、私は伊沢正名さんを同志だと勝手に思っている。糞土師活動も、リクツの上では、食べた物のうちの輸入分を原産国の山野に還して初めて、「一件落着」なワケだから。

◆そして、この「リクツ」ほど厄介なものはない。そこから入ると、リクツのためのリクツの不毛な論争に陥ってしまう。その昔、参加した自然観察ツアーの中に、アニマルライト原理主義のベジタリアン学生がいた。周囲の問いに、「動物には生きる権利があるんです!  動物性のものは食べちゃダメなんです!!」と興奮気味に叫んだが、間髪入れず返ってきた「ふーん。植物には生きる権利がないんだ」「赤ちゃんも母乳で育てちゃダメなのね」の手厳しい反応に、頭を抱え込んでしまった。

◆彼には気の毒だったけれど、その時の相手も悪かった。ツアーには筋金入りのバードウォッチャーやナチュラリストが少なからず参加しており、彼らに「世の中、リクツじゃないんだよ」と軽くいなされたのだ。因みに、宿の娘もベジタリアンだった。理由は、彼女が大ファンのマイケル・ジャクソンがベジタリアンだから。これには誰も突っ込めなかった。

◆私の旅は回数も期間もささやかだった。でも、そのリクツ抜きの経験が、いまだに私のライフスタイルに影響し続けている。最近、地平線通信は若い書き手が頑張っている。彼らの原稿に、オレもこんな体験したかった、と羨んだり、そりゃ大変だったね、と同情しながら、「いつ、どこで、何が自分にとって意味あるものになるのか、それは時が来るまで分からない。だから、どんなに小さな経験でも大切にしてね」と声援を送っている。[六畳ごみ部屋の座敷わらし:ミスターX]


あとがき

■今号はとりわけ上の長野亮之介画伯の8コマ漫画が身に沁みます。そうだよな、長野画伯、3年以上も毎月毎月8コマを描き続けてきたのだから。この8コマは毎月の登場人物が私のような地平線オタクには実によくわかる「コロナ禍でのお目汚し」なんてとんでもない。たまには皆さんを登場させてね。ともあれ、長いことありがとう。楽しかった。

◆森井さんが倒れても地平線通信は毎月発行し続けてきた。みんなが頑張ってくれたが、とりわけ屋久島の教員生活から帰ったばかりの新垣亜美さんがレイアウトに手をあげてくれたことが大きい。加えて編集スタッフ全員がやる気になってくれた。つまり、森井祐介さんを思う気持ちが彼が不在でも続けるぞ!という暗黙の決意となり、みんなの中にあった。

◆今月の通信費原稿の中に「地平線通信は恐ろしい」というひとことがありましたが、なんとなくわかる気がする。そう言ってくれた方はその表現で地平線を評価してくれたのでしょう。さあ、明日も頑張らねば。[江本嘉伸


『まんがの秘密』(作:長野亮之介)
表4 まんがの秘密

《画像をクリックするとイラストを拡大表示します》


■地平線報告会は4月から 再開 します

今月も地平線報告会は中止しますが、4月から再開予定です。
4月22日(土)13:00〜15:30に、いつもの新宿スポーツセンターで3年ぶりに開催する予定です。詳しくは地平線通信528号(4月号)で。おたのしみに。


地平線通信 527号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 森井祐介
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2023年3月20日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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