2月20日。東京は快晴。朝の気温7度。きのう墓地を歩いていたら、梅の花の香りが漂ってくるのに感激した。ああ、もうそういう季節なんだ。
◆今日は通信の発行日なので午前7時に起きた。早速新聞を取りに行く。まさか、と思われる方もいるかもしれないが、このフロント原稿だけは毎号印刷当日に書くようにしている。「どうせすぐ届くわけないんだし」と批判する向きもあるが、「世界の息遣いを見て書く」ことは、私が自分に課していることなのだ。昨夜までは19人の書き手から次々に届く原稿の対応、手入れに追われていて、到底自分で書く余裕はなかったし。
◆いまようやく新聞を見ながら地平線通信526号のフロントと向き合う。もちろん、昨日まであちこち徘徊しながらいろいろ考えてきた。しかししかし、予定していた内容と全く違う展開になることの方がはるかに面白い、ということはこれまでの経験でわかっている。
◆先日、京都に行った折、ワイさんとお会いした。ワイさん。斎藤惇生元日本山岳会会長。1月の通信で「93才、医師は続けています」と紹介された人である。1980年春、日本山岳会が初めてチョモランマに挑戦した時、私も報道隊員として参加したが、ワイさんは隊の医師であり、北壁隊、北東稜隊と分かれたチームで中途から北東稜隊の隊長指揮を取った人である。当時北東稜チームにいた私は当然、ワイさんとは親しくさせていただいた。
◆1962年にサルトロカンリ初登頂、1990年シシャパンマ登頂し、1997年から99年まで日本山岳会の会長をつとめた。そのワイさんがいまも現役で医師をつとめている。京都に行くなら是非お会いしたいと考えた。四条大橋の南座の近くの食堂で「一等三角點研究會」の会長、大槻雅弘さんをまじえて歓談した。
◆と、ここまで書いたところで8時を過ぎ、電話がメロディーを奏で始めた。こんなに早い時間に誰だろう。「安平ゆうです」と若々しい声が飛びこんだ。なんと九州大学の元気女子ではないか。「お電話いただいたらしいので」と言っている。そういえばこの通信13ページにゆうさんの呼び間違いについてお詫びを書いていて、1、2行でも彼女のコメントを入れよう、と電話したのだったっけ。
◆「実は今、山にいまして……」え? どこ?「通信に書きましたけど五竜岳です。途中の西遠見にテント張ってまして……」天気が悪く停滞と決め、そうだ、と思いついて私に電話をくれたそうだ。うわー、面白い。しかも五竜だなんて。何人で行ったの?「4人です。新人が1人、女子は私だけ」
◆五竜と聞いて私には独特の感慨があった。停滞のテントで聞いてもらうのもいいだろう、と考え、そのことをゆうさんと仲間たちに話した。五竜は私たち東京外国語大学山岳会にとって縁のある山なのだ。1968年に念願のモンゴル登山がかなったお礼に1973年、モンゴル登山協会のゾリグ隊長以下5人のモンゴル登山家をお招きした。その際、選んだのが五竜岳(2814メートル)だったのだ。
◆ゆうさんたちと同じ雪の遠見尾根をたどり、全員山頂に立って成功を祝った経緯は当時読売新聞に写真グラフとして掲載された。草原の社会主義国からの登山家たちの来日は当時はまったく珍しく新聞で伝える価値があったのである。以上の顛末を伝えるは、ええ? そうなんですかぁ!と驚いた様子だった。テントにいる仲間達によろしく!と言って電話を切った。
◆ワイさんの続きに戻る。「ワイさん」は、京都大学学士山岳会の新人に先輩たちが勝手につけるニックネームで、入学したときには命名されているという恐ろしい伝統だ。意味はろくでもないことが通常で本人の本性とはまったく関係ないそうだ。私の知人でも「おしめ」と命名されてしまった山男がいるし、京大とは無縁の私ですら斎藤ドクターを前にすると「ワイさん」としか出てこないのだからすごい伝統である。自分の診療所のほか名誉院長をつとめる新河端病院にも週2回は通っているので毎週4日は現役の医者の仕事をされている。
◆90才になったワイさんの元気を祈って3年前の誕生日の9月9日以来、大槻さんが会長をつとめる一等三角點研究會のメンバーが一緒に京都の山を登る試みを続けているそうである。大槻さんは2月16日に81才になったばかりだが、動作はそこいらへんの年寄りと比べ物にならないほどキビキビしている。このことについては若くして大手外資企業をやめ、登山者を後押しする汗かき人に徹している登山家、山田淳さんの原稿(3ページにあり)をしっかり読んでほしい。うーむ。どうやら「徘徊」だけではダメなんだね。
◆コロナがさすがにおさまりつつある。国は3月13日からマスク着用については「屋外屋内を問わず個人の判断に委ねる」としたが、それがすぐ切り替えられるのか心配である。そして、ウクライナ。あのプーチンが明日21日、年次教書で何か語ることになっているが、何を言っても世界はうんざりするだけであろう。[江本嘉伸]
■2月6日、突如発生したシリア・トルコ両国にまたがる大地震。19日現在、死者数は46000人を超えた。被災地のトルコ南部で特に被害が大きかったオスマニエ県、ハタイ県は、まさに2015年以来、足繁く通ってきた取材地だ。ここには、シリア人の夫の親族・知人が、シリア難民として数多く暮らしている。
◆地震の第一報は、オスマニエ在住の夫の兄からのメッセージ。兄弟が参加しているSNSグループメッセージで、リアルタイムで伝えられた。「すごい揺れだ。家族全員で家を飛び出た。道路に座っている。みんな雨に濡れている」。何かとんでもないことが現地で起きたのだと夫と話したことを覚えている。その後、報道で全容が明らかになる。M7.5の巨大地震。さらに震源が浅い直下型の地震であったこと、コンクリートブロック製の古い建物が多く、耐久性が低かったこと。また地震発生が未明だったことなどが重なり、甚大な被害へと繋がった。多くの建物が倒壊したハタイ県アンタキヤでは、夫の従兄弟の家族も行方不明になり、遺体で発見された。地震発生からマンションの倒壊までわずか数分のことで、逃げる余裕もなかったようだ。
◆シリア難民は、シリア国内が内戦状態となった2012年ごろからトルコに流入してきた。その数、シリア難民全体の7割近くに及ぶ360万人。これほど大量の難民の流入を、トルコは比較的寛容な姿勢で許容してきた。しかしそれから10年が経ち、シリア難民への同情論は変化した。特に新型コロナの流行後、トルコが経済危機に陥ってからは「シリア人はシリアに帰るべき」という世論も高まり、シリア人への反感が強まっていった。こうした中で起きた大地震は、シリア難民が多く暮らすトルコ南部を直撃したのだった。地震後、被災地のシリア人の親族や知人からは、次々と情報が届けられている。憂慮していたことだったが、現地ではトルコ人とシリア人との間に深刻な分断が起きているようだ。
◆聞けば、地震被害が大きいハタイ県アンタキヤや同県レイハンルなどでは、支援物資の配給でトルコ人が優先され、シリア人は列に並ぶことを拒否されたり、後回しにされた(トルコ政府やトルコ系のNGOによる支援の場合。国際NGOでは区別は見られなかったという)。また被災地に造られた避難所の多くが、シリア人は利用できなかった。さらには重機を使った行方不明者の捜索の場でもトルコ人が優先された。
◆埋葬をめぐる問題も起きている。遺体がトルコ国籍保持者の場合、通常のイスラム教のルールに則り、遺体一体につき一つの墓への埋葬が許可される。だが難民IDのシリア人の場合、集団埋葬しか許可されない。断ればトルコで埋葬はできず、シリアまで遺体を運ばねばならない。死者の尊厳をめぐるセンシティブな問題だけに、多くのシリア人が憤りを爆発させているようだ。結局、集団埋葬を拒み、遺体をシリアまで運んで埋葬する人も少なくなく、国境まで、遺体を運ぶ車が列になって続いたという。戦争から逃れてきたシリア人たちが、突然の災害によってトルコで命を落とし、死後、埋葬のために再びシリアに戻っていく。その姿は、悲劇としか言いようがない。
◆このような緊急事態下、トルコ人との明らかな支援の差を目の当たりにし、絶望を味わった、とシリア人の親族や知人は語っている。やはり自分たちはここで「よそもの」でしかないのだ、と。もともと圧倒的に困窮者が多く、トルコ社会の最底辺層だった彼らが、地震によってさらに厳しい生活に追い込まれていくことが懸念される。また、同じく地震の被害を受けたシリア側では、トルコ側に比べ支援の少なさが当初から問題になっている。特にシリア北西部イドリブ県は反体制派の支配地域のため、もともと国際支援が入りにくい。国家、政治的イデオロギー、宗教、民族……。未曾有の天災は、人間が作り上げた深刻な分断の姿を浮き上がらせる。
◆さて、地震発生から二週間。被災地では多くの人々が、建物の倒壊の危険から家に戻れず、路上や空き地、公園、車などで避難生活を続けている。シリア難民の私の親族・知人のほとんども被災しており、今後の生活の不安や、寒さ、生活物資不足に苦しんでいるようだ。私はこれまで、この地域に子供を連れて取材に行き、多くの人々に支えられてきた。シリアの戦争から逃れ、生活再建を目指して奮闘してきたシリア人が、地震によって再び生活を失おうとしている。こうした状況で、少しでも力になりたいと願い、被災したシリア人のために生活支援金を集めることにした。被災したのはトルコ人も同じだが、シリア人は圧倒的に社会的弱者であることや、支援が後回しにされやすい対象であることから、ピンポイントで支援ができたらと思ったのである。
◆集めさせていただいた支援金は、トルコ南部在住の親族、知人に直接送り、水や食料、暖をとる薪、薬や医療品など、生活維持に必要な物資の購入などに使っていただく予定だ。また、シリア在住の二人の兄が、支援金を直接、シリア北西部のイドリブ県へ持っていくことになった。日本、トルコ、シリアをまたぎ、親族のネットワークを生かした支援の道が出来つつある。こうした人と人の密な連携は、長年この土地で取材してきたからこそ出来上がったものであり(夫との微妙な結婚生活を色々ありつつも笑い飛ばしてきたからでもあり)、フォトグラファーで良かった、パニック取材を続けてきて良かったと心から思える瞬間である。
◆NGOが行うような大規模な支援ではないが、手の届く範囲、顔の見える範囲で、現地に「応援しています」の気持ちをお送りしたいと思います。もし賛同いただけましたら、ご協力をどうぞよろしくお願いします。いただいたご支援は間違いなく現地にお送りすることをお約束し、支援が人々の生活維持、生活再建に役立てられていくことを祈るばかりです。
【地震で被災したシリア難民への支援金 お振込先】
三井住友銀行 八王子支店 普通 8553199 コマツ ユカ
◆私のウェブサイトの「NEWS」にて、現地の状況や支援についてご紹介しています。ぜひご覧ください。小松由佳ウェブサイトは「小松由佳 ウェブサイト」で検索。
■久々に江本兄から連絡をいただき、地平線会議で紙面スペースをいただけるとのことでしたので、近況など。前回書かせていただいたのが2年前。「コロナ後の明るい未来をしっかり見据えて!」のタイトルでした。
◆まだポストコロナというには早い段階ですが、この2年で多くのことが変わりました。3月のマスク任意化(そもそもどう強制だったのか謎ですが)、5月の5類変更予定など、収束とはいかないまでも、ここ数年の大騒ぎからは少し脱しつつあるように見えます。
◆登山業界は、といえば、海外ツアーはまだ本調子ではないものの、国内の登山者、登山ツアーは活況です。先日も谷川岳に行ってきたのですが、西黒尾根を登りきったときに見えた天神尾根の大行列は夏の富士山のようでした。天気もよく、みなさん幸せそうで、立ち止まっては写真撮り、立ち止まっては景色を楽しんでいて、山って本当に人を幸せにするなー、やっぱりもっと登山する人を増やしたい、と起業したときの気持ちを改めて強く持ちました。
◆屋久島も富士山も各社好調のようです。屋久島はすでに3月、ゴールデンウィークのガイドが確保できない満席具合ですし、富士山も各地域の説明会が人で溢れているようです。弊社の登山ツアー「ヤマカラ」もおかげさまで好調で、レンタル事業「やまどうぐレンタル屋」から始まった弊社も、登山ツアー事業の方が大きくなってしまい、レンタル屋さん、というよりも登山ツアー屋さんになりました。戻って来い、インバウンド……。
◆登山ツアーが活況なので、私も毎日のように山に入っています。そんな中、お客様と登山していて、改めて強調、共有していることが3つあります。一つは「山は逃げないけどチャンスは逃げる」ということ。コロナで予定していた登山がパタっと行けなくなり、行きたいところに行っておかなきゃ、と思った人も多いと思います。
◆ただ、喉元過ぎれば熱さも忘れてしまうもの。「山は逃げない」っていうのは、普段からチャンスをしっかりモノにしている人が、天気とか不慮のケガとかで行けなくなるときに、慰めるために他人が使う言葉であって、自分が山に行けないときに言い訳にする言葉じゃないです。行きたいところはできる限り早く行っておきましょう。これは、田部井淳子さんもよく言っていた、と教え子さんから教えていただきました。
◆もう一つは、「1に体力、2に体力、3、4も体力、5に体力」ということ。コロナ禍で数年登山を休んでいたためか、戻ってきたときにはかなりの人が体力を落としていました。そうすると、行きたい山にもなかなか行けない。自分の体力の落ち具合に認識がついていかず、愕然とされている方も多くいました。
◆逆にいうと、普段の山登りが体力作りにどれだけ寄与しているのか、という証左でもあります。いろんな運動がありますが、1日6時間とか体を動かし続けるものはなかなかありません。健康寿命を少しでも伸ばすために登山はとてもいいのです。そして、維持することがとても大事ということが登れなくなって初めてわかりました。
◆最後に、やっぱり仲間は素晴らしい、ということ。しかも、同じ趣味を持つ仲間。自然と向かい合う経験は、仲間と共有することで何倍にも楽しめる、ということを改めて毎日感じています。そんなことを感じながら、最近は学生時代よりも山に行く時間が長くなっています。
◆この日常の貴重さは、コロナ禍でなくなってみて初めてわかったこと。コロナ禍があったことで色々思考が変わった、という意味では、中学生のときに経験した阪神大震災と、私の中では似たような契機になっています。
◆上に書いたことは、簡単に言うと「人生は有限だから、残された時間を最大限有効活用しよう」ってことなんですが、普段なんとなく頭では理解しているけれど行動にはなかなか移せていないようなことを、ここ数年で鮮明に感じることになったので、今後に活かしていきたいと思っています。
◆みなさんもぜひ素敵なお山ライフを! では![山田淳]
歩いてきた
これまで一緒に歩いてきた
あなたと
歩いてゆく
これからもずっと歩いてゆく
けれども……
本日の降水確率30パーセント
私が先にゆく確率50パーセント
あなたが先にゆく確率50パーセント
同時にゆける確率がゼロではないが
それらが起こる確率100パーセント
今日の雨雲よりも
確かに近づいて来るものよ……
いらない
今は何もいらない
私の膝がしらに
あなたの手のぬくもり
それが永遠と
感じられる
今
■香港、チャンギ、クアラルンプールなど中国圏を経由しないチケットも入手でき、ネパール行きの気分も整ってきました。2018年5月以来のネパールです。2019、20年は一身上の都合により、それ以降は変異性のコロナウイルスの蔓延で、動けない状態が続いていて、今年を迎えました。もうこれ以上は待てないという気持ちで、決心しました。以下は、簡単なネパール行のプログラムです。
◆2015年4月25日発生のネパール大地震から今年は8年目になります。当初の復興支援は5年を目安にしておりましたが、現地で活動する私の能力不足から、色よいご報告もできないまま現在に至っています。
◆反省点の一つは、専門家や研究者たちのご協力をいただきながら、それを十分に活かすことができなかったこと。特に“安全な新しい村つくり=彼らのいうbeautiful village”を希望した村人の要請に応えて、防災を目的とした地質・地理・雪氷の研究者たちの現地調査報告に対して、当時のランタン村復興委員会は理解は示したもののそれを規範にしなかったこと。同様に牧畜を営む人たち(=ゴタルー)へゾモファンドを立ち上げ、失われた家畜を補充し酪農での自活の道を示したけれども、それを十分にフォローできなかったこと。それ以外にもっと挙げられるかもしれません。
◆最も反省すべき点は復興再建に向かう村人たちのスピードを予測できなかったことです。数年はかかると思っていたカトマンドゥの避難先から、なんと1年を経ないうちに帰村を果たしました。帰村後は、各人が競うように支援団体とコンタクトし、「安全な場所での村再建」の青写真もないまま、元の場所周辺に戻ってしまいました。大なだれの跡も痛々しいユル地区西半分の際まで及んでいます。まるで自分たちを襲った悲しみを振り払うように突き進んでいたと思います。
◆2018年の訪問時、外国人トレッカーたちは、ランタン村の入り口や高所登山の起点キャンチェン台地に無秩序に林立するホテルやロッジ群に失望を隠せない様子でした。スリランカ生まれスイス育ちのジャーナリストは、美しく復興を遂げた他の地方を参考にすべきだなど厳しい意見を私に浴びせてきました。しかし、このことは彼ら自身で気づき立て直されるべきであり、その日は必ずやってくると思ったことでした。
◆事前に、状況把握のために、キャンチェンのセンノルブ(酪農組合長)、ランタン村の縁者やゴタルー、カトマンドゥの家族などとvoice messageでやり取りしました。4年半余りのブランクはこれまでの助力を虚しくするような、大変な時間であったことがわかります。コロナ禍とあいまって、ランタン村の経済が観光のみに傾斜していたことを考えれば、日本の例を見るまでもなく、そのダメッジは容易に考えられることです。ゴタルーの数は5軒に減りました。
◆ランタンプランの最後のミッション。体力のこともありますから、そして自分にも期待していませんが、ランタンプランが志していたことをなんらかの形で残せればと思っています。それからこれまで協力してくださった皆さんへ良い報告ができるよう心がけます。
◆時間も資金も限られていますが、おおよそ次の点を中心に進めます:
1. 大地震以降の生活基盤の変化と人口動態のその後
2. 牧畜・酪農の現状把握とこれから(ゴタルー、酪農関係者とミーティング)
3. ハザードマップ再考と景観の問題(旧ランタン村復興委員会とミーティング)
4. 可能であれば、震災以降、とみに信仰に傾いているランタン+ラスワ郡の宗教事情
◆避寒を兼ねたチベット正月期間のため、村人の大部分がカトマンドゥに下山しているものと思われます。ランタン谷に残っているのは、ゴタルー、少数の村人、他地域から移入してきた宿屋経営者など。したがって、スケジュールは村人の動向をみて、滞在の前半はカトマンドゥ、後半にランタンに入ります。陸路入山のつもりですが、チャーター便に便乗あるいはシェアで入山できればそうしたいと思います。昔はニマかチェンガがラマホテルあたりまで馬で迎えにきてくれていました。
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2月8日:RA直行便にて成田→カトマンドゥ Hウッツェ→テンバの家
2月10日〜22日:カトマンドゥ
◆村人の大半はチベット暦12月15日(=西暦2月5日)ころまでにカトマンドゥに下山してきます。寄宿先はに仏教聖地、スワヤンブナートとボーダナート周辺。正月準備と元旦を親類縁者の家で過ごし、正月明けのチベット暦1月5日(西暦2月24日)ころにランタンへ帰って行くようです。
2月23日〜3月5日:ランタン谷へ(* 冬の放牧地)
2月23日 カトマンドゥ→シャルパガオン(ジープ)
24日 リモチェ*、ラマホテル、チュナーマ*のゴタルーを訪ねつつ キブネーサ(=ゴラタベラ)泊
25日 ゴンバ経由 ユル泊
26日 ユル泊
27日 ムンドゥム*経由 キャンチェン泊
28日 キャンチェン泊
3月1日〜2日 タンシャップ*あるいは放牧地の中心地点泊(ミーティング)
3日 シャルパガオン/あるいはシャブルベンシ泊
4日 カトマンドゥ
5日 予備日
3月7日夜カトマンドゥ発/8日朝成田着
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■エモノトモシャさま。戻ってきましたカトマンドゥ(北島さぶちゃん風に)!
◆ダイレクト便の機内は帰省するネパール人で満席。お隣の席は三重県鈴鹿にあるビジネススクールへ通うマガール族の女性。乗客の多くが出稼ぎの人だといいます。日本人は私を含めて4、5人のみ、旅人風の外国人は見当たらず。聞くところによると、週2便のうち1便は日本で働くネパール人のために政府が援助しているのだとか。どうりで混んでいたはずだし、次の便は空いていた。私は7500円を支払ってこの便に乗れたのだった。
◆飛行機の中から遠くにヒマラヤの白き峰々を眺めていると、グッとこみあげるものがありました。さっと飛行機に乗り込んで、さっと山へ向かった昔が懐かしい。お返事をしないままに地平線通信は一方的に届きます。お返事した最後は長野画伯のフランスの旅の報告があったころ。毎号楽しみに隅々まで読んでいます。都度、地平線会議の人々はホリゾンタルの旅人のみでなく、ヴァーティカルな挑戦をする人たちもいたのだと実感します。それもただの旅でないところが地平線会議の優れたところ。[カトマンドゥの宿から 明日、息子のソエンブー(スワヤンブナート)の家に移ります デチェン・ドルカー=あや 貞兼綾子]
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、できれば、最近の通信への感想などどんなことでも結構です、ひとことお寄せくださると嬉しいです。
福原安栄(本年度通信費をお送りします。毎月送っていただき、有難うございます)/向後元彦・紀代美(20000円 いつ送金したのか忘れてしまいました。長いことお世話になっています。全く督促のない、すばらしい会ですね)〈ありがとうございます。向後ご夫妻からは2020年にも20000円頂いています=E〉/桐原悦雄/中村鐵太郎(5000円 ツウシンヒデス イツモオセワサマデス カンシャ)/北川文夫(2023ネンカイヒ オクリマス)/中嶋幸子(5000円)/平本達彦(ツウシンヒヲオクリマス ツウシンヲオクッテイタダキアリガトウゴザイマス ミナサンノカツドウヲドキドキシテヨンデイマス)/佐藤安紀子(10000円 お世話になります!)/砂漠に緑を 須田清治(10000円)/三澤輝江子(10000円 毎月、地平線からのおたよりを楽しみにしています。このすばらしい歩みの上にたくさんの祝福がありますように。ありがとうございます)/奥田啓司/黒澤仁(10000円 5年分です。いつも楽しく拝見しております。引き続きよろしくお願い致します)/鰐淵渉/高野久恵(5000円)/中山綾子(4000円 人生の四季のいろいろな時期にいる50人の“今”が詰まった地平線会議1月号は圧巻でした! 中でも「冬の黒百合ヒュッテで起きたこと」は、点と点が繋がった瞬間の感動を共有できて嬉しくなりました。それぞれの目線で描かれたことで、より臨場感が増して“繋がる”喜びをその場で一緒に味わえたような気分になりました。そして改めて通信を通じて訪れたことのない土地や会ったことのない人とも繋がっているご縁をありがたく感じました)
■過日放映のNHKBSプレミアムカフェ特番・世界のカーニバル特集をやや多数の方にご視聴いただき、ありがたきかな。謝謝大謝多謝多謝に存じます。さすがに天下のNHKだけあって、少しでも過激な表現や政治的発言はしっかり削られていたが、収録の10分の1まで卒なくまとめたのは、ブラジル音楽好きディレクター氏の正月休み返上激務のおかげかも。
◆で、番組内容はさておき、当日着ていた黄色いお星さまボタンの古着シャツが気になった、との反応が多々あり。実はあれには深〜い意味が隠されていたのであった。専属スタイリスト(脳内)による指示だが、この謎を読み解けた方は、マチュピチュかウユニ塩湖かパタゴニアのどれかにご招待。もちろん現地集合現地解散ではあるが、しっかりご案内しますのでふるってこの謎に挑戦してみてくだされたし。ヒントはダビデの星と世界無形文化遺産。
◆さてさて、3年ぶりのカーニバルが迫る中、どこに行くか決めかねて夜も眠れず昼寝していたが、ペルーの反政府抗議活動やブラジルの暴動に、血が騒いでじっとしてはいられず。敢えて火中の焼き栗を拾いに、ペルー経由ブラジルはベロホリゾンテという知らないヒトは誰も知らない都市と、周辺の田舎町に行先を決めた。
◆離陸したとたんに機内で号泣する予定であったが、全然そんなこともなく淡々と現役復帰。やはり空の旅も旅の空も佳きもの也。がやはり、3年分のブランクは大きかった。これまでならあり得ないような大ボケ連発、かなりな自己嫌悪発生中となっている。
◆3年半ぶりのリマは、コロナ禍でさらに困窮したベネズエラ人難民による格安請負殺人など、これまでにないタイプの事件も多発している。物騒なのは程度の問題で相変わらずだが、反政府抗議活動は息切れで一段落。地方から動員されてきた農民たちは、故郷に戻る交通費を支給されていないため帰路につけず、ジャガイモの植え付けも滞って大変とのこと。そんなリマを後にブラジルに移動中、問題多発でカーニバルどころではなくなりつつあり。とりあえず、戦の途中ゆえ詳細は別途あらためて、ということで何とぞよしなに。[Zzz-カーニバル評論家@ベロホリゾンテ、伯剌西爾より]
■昨年の10月以来、ひさしぶりに通信に寄せます。江本さんから「書きませんか」とメッセージをいただいて、私が地平線通信という場に大した言葉を書けるのだろうかと臆病になることがあります。しかしたとえ足踏みしてるだけの状態のように感じていても、「自分の感じた素直な気持ちを文書に書くことで必ず一歩前へ進んでいる、頑張れ」と、江本さんから強い励ましの言葉をいただいたのでした。私は本当に恵まれています。
◆信州の森林(もり)で働きはじめてそろそろ一年が経ちます。植栽、枝落とし、下草刈り、間伐を主に、春夏秋冬の山で、保育・山造りとされる一連の作業をやってきました。体の動かし方と刃の切れ味を整える仕事の技は、まだまだベテランの方に及びません。いかに安全に手際良く楽に作業できるか、それを軸に力を磨いていきます。
◆夏場は木陰でとる昼休憩がとても幸福な時間でした。一方で冬の季節は作業を止めるとすぐに身体が冷えてきてしまうので、車の中で暖房を焚いて休んでいました。せっかく自然のなかにいるのでその場にある資源を使って焚き火でもしたいものですが、1時間の休憩の間にそんな余裕はないのが現実です。
◆しかし最近は日向を見つけ、少しずつ暖かく、わずかに春の気配が近づいてきているのを感じながら昼ご飯を食べることが増えてきました。車にこもっているより、日差しの暖かさを身に染み込ませながら天を仰ぎたまに吹くそよ風を感じて休む時間は、とても気持ちがいいです。
◆さて、林業の世界に飛び込んでまだ浅いですが、実は「将来は林業で何をやっていきたい?」と聞かれると、堂々とすぐに答えを述べることができません。林業という世界で具体的に何をしていきたいか、固まった気持ちを今のところ持ってないのです。林業の道一本でやっていくつもりはないことは確かで、森林の仕事は山の暮らしの一部という見方をしています。林業に絞らず、山のいろんなことに関わっていきたいです。
◆山にいて湧き立ってくる自信があります。山にいたい、山の暮らしをしたい。それはきっとこれからも変わらない軸です。さまざまな人間関係のなかで自信を持てずにいる人も、自然の中で自然体になり素の自分の感情に気づき、これでいいんだと思える。そんなふうに迷っている人に山に来てほしい。私が山にいたいのは、実は人との関係が苦手だということがあります。林業の世界には森林の資源と人の暮らしを繋げる役割があると感じますが、居場所として、漠然としていますが人と山を繋げたいという気持ちもあります。
◆地平線会議には、自身の夢や誰かのために日々動いている方々の姿があり、それに圧倒されると同時に自分も動くぞと、鼓舞されることがあります。はっきりとした道が見えていない私はあやふやで、こんな状態に不安が芽生えてしまいそうでしたが、自分の感じることを大切にして、まだまだいろんな世界を見ていきます。[長野県安曇野市 小口寿子]
■「宮本常一先生の会ですが」と、毎年この時期にかかってくる電話に工藤さんの声。いったんそこで一呼吸あって「今年はやることにしましたので」と言葉が続いて「よかったです」と思わず返事をした。三輪主彦さんに誘われて、「先生」とは面識もないのに押しかけるようになってから10年ほど経つだろうか。毎年電話をいただけるのはありがたい。宮本常一さんの命日1月30日に合わせて開催される水仙忌。新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言下にあった2021年と昨年22年1月は開催が見送られていたのだった。
◆会場は西国分寺駅近くの東福寺。強い風の中、少し遅刻して着くと、本堂ではもう読経が始まっていた。島根県江津市にある日笠寺住職の山崎禅雄さんが毎年自動車と新幹線を乗り継いで東京まで来てくれる。冬のこの時期、毎年欠かさずに峠を越えて運転して来られるのは大変なことだと思うが、水仙忌の楽しみは焼香の後の山崎さんの法話だ。渋沢栄一が主人公だった昨年の大河ドラマの話から始まり、観光文化研究所(観文研)の思い出を交えながら、最後はちゃんと宮本常一さんにたどり着く。
◆今年が43回忌。先生の50回忌に当たる2030年までは毎年続けましょう、と和尚さんが語ると、拍手が湧いた。先生の故郷、周防大島でも水仙忌が営まれているそうだ。参列者に配られたみかんは、周防大島の柳原一徳さんから昨年亡くなられた森本孝さんの家に届いたもの。奥様が持ってきてくださり、「観文研の三馬鹿タカシ」賀曽利隆さん、岡村隆さんとともに今年は森本さんの奥様が記念撮影に収まった。
◆昨年『宮本常一の旅学 観文研の旅人たち』を刊行された福田晴子さんは残念ながらすぐに帰られてしまったが、今宵の盛り上がった話題のひとつはもちろんこの本のことだった。「観文研は給料はくれないけれど、自由に旅をさせてくれる貴重な場だった。観文研で司馬遼太郎さんを招いたことがあったんですよ。あの『街道をゆく』の。司馬さんは我々をうらやましがって、『諸君のように自由に旅がしたかった!』と言っていた」と賀曽利隆さん。
◆宮本千晴さん、伊藤幸司さん、江本さん、三輪さんら地平線会議草創期の重鎮に混じって、私と同じく宮本先生を知らないはずの坪井伸吾さん、二神浩晃さんの姿もあった。さながら観文研同窓会の水仙忌だが、参加者は例外なく年を取っていく。宮本常一さんが亡くなられた1981年、私はまだ子供で、観文研はおろか地平線会議も知らなかった。が、この会に通ううちに、地平線会議にいまも続く先生のDNAがなんとなくわかるようになってきた。面識のない宮本先生のことが知りたいわけではなく、先生に触れて集まった人たちのそれぞれの旅や仕事や人生の話を聞きたかったのだ。願わくば、地平線会議に集う若い旅人たちにも、旅の人生の達人たちの生の声を聞いてほしいと思う。[落合大祐]
■先日、1月30日の水仙忌(宮本常一さんの命日に行われる追善供養)にて江本さんと初めてお会いした縁で、この稿を書いています。同時に私のような者がこの場に寄せていいものか、という迷いもあります。私は本当の地平線を見たことがありません。圧倒的な地平線、自分が人間だと忘れるような地平線です。自慢できるような旅をしてきたわけでもありませんし、どちらかといえば引きこもりがちの出不精、不健康、猫背、あがり症、虚弱が私の実態です。
◆私は映画を作っています。近作では流浪の民サンカをモチーフにした劇映画『山歌(サンカ)』(脚本・監督・プロデューサーを担当)を2022年春に公開しました。舞台は1965年。都会の中学生の少年が、祖母の田舎に帰った際にサンカの家族に出会い、その生き様に惹かれていくという物語です。ほとんどのロケを群馬県中之条町の山中にておこないました。
◆また、本作のパンフレットでは関野吉晴さんを巻き込んでしまい、ご寄稿いただきました。そして光栄なことに、関野さんのYouTubeチャンネルにお邪魔し、お話をさせていただいたのでした。その中で印象に残ったことは関野さんの「笹谷さん、何か自然にいいことしていますか?」という質問でした。これには焦りました。自分は自然に対し害悪でしかないという、ある種の居直りがあることを痛感し、言葉を失ったのでした。苦し紛れに「土に還るものを意識して使うようにモゴモゴモゴ……」と文字通りしどろもどろになった記憶があります。こういうときは沈黙すべきと今になって思い知ります。
◆ところで、映画を作ることは自然から「背く」ことだともいえます。(それが創作であっても)人の人生を切り売りして、画面を、人間をコントロールし、自然条件をコントロールし、観客の情動、行動をコントロールし、挙句の果てに演じる人間がコントロールから外れるようにコントロールする。もはや自然から背く作為の連続です。映画『山歌(サンカ)』は、2019年7月下旬に撮影しました。この年は梅雨明けが予想より遅く、撮影日のほとんどが雨でした。まったく予定通りに行かず、シナリオの多くを削り、辻褄合わせに心を砕きました。
◆撮影をおこなった中之条町の山中(万沢林道)はヒルの生息区域で、ぬかるんだ所には必ずヒルがいました。ご存知の方ばかりかと思いますが、彼らは地面からピョンと足に飛びつき、また木から落ちてきます。そしてゴソゴソ服の中に忍び込み、恐るべき本能で吸血します。ズボンを脱いだら血だらけだったときの恐怖感を、今も覚えています。
◆ある日はゲリラ豪雨で川が氾濫し、いつ鉄砲水が来て流されてもおかしくないなか、スタッフ全員で機材や大道具、小道具を運びました。全身がドロドロで異臭を放っているのに、あるスタッフはやはり血だらけの足になりながら、各々がなぜか清々しい表情をしていました。スタッフ、キャストの多くはコントロールできない自然のなかで一体となり、身体で映画のワンカットを重ねていく行為に敬意を持ちはじめていました。
◆主演の杉田雷麟(らいる)さん(当時17才)は「撮る、というより自然に撮らせていただく、生きるより自然に生かされている感覚だった」と撮影後に語り、その言葉が出ただけで映画を撮影した甲斐があったと思いました。コントロールできない自然の混沌のなかで揉まれ、うごめき、畏怖や敬意とともに何かを掴み取ろうとする行為に人間の本分を観たのだと思います。
◆「今ほど切実に、自然と人間の関係が根底から問い直された時はなかった」。東日本大震災、原発事故のあと中村哲さんは書きました (『天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い』2013)。コロナ禍の昨今、人と会う機会が減ったからか、人間は関係の総和だという言葉をよく耳にします。自分が個として「生きる」のではなく、人間同士の見えない関係、自然との見えない関係や共同体のなかで「生かされている」ことが見直されはじめているのだと思います。
◆日本ではかつて自然は「じねん」と読み、明治時代になりネイチャーの意味があてがわれました。「じねん」は人間も、見えるものも、見えないものも含めた「すべて」でした。今でも「自然に身体が動いた」等、人間ではコントロールできない現象に、この言葉を使うのは、かつての意味のなごりのようです。そう考えると、私などが「自然にいいこと」と言ってしまうのはすごくおこがましい気がしているのです。
◆繰り返しますが、私は本当の地平線を見たことがありません。しかし、自然の一部として人間が織りなす、圧倒的な地平線はあると考えています。映画を撮る行為は自然に背く行為です。しかし映画を撮りながら私は自然に仕えたい。矛盾と反省のなか、日々を過ごしています。[笹谷遼平 映画監督]
■地平線通信525号(2023年1月号)はさる1月16日の月曜日に印刷、封入作業を終え、発送しました。今月は「年頭の200字」原稿が多く、書き手は50人に達しました。なので通信は20ページの大部に。しかし、幸いいつもより多くの人が参加してくれ、順調に終わりました。ことし最初の発送仕事をねぎらって「北京」で短時間乾杯しました。おつかれさまでした。汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。阿部君は南極トレーニングの最中。光菅君は北京からの参加です。
車谷建太 白根全 中畑朋子 高世泉 阿部雅龍 伊藤里香 久島弘 江本嘉伸 落合大祐 長岡竜介 武田力 光菅修
■地平線通信を受け取るようになって1年が経とうとしています。毎号のことですが、2023年の新年号を受け取って目を通し、様々な生活を送っている人がいるなーという感想を改めてもちました。探検や登山などについて綴っている人ばかりではなく、日々の病気や介護、育児などについての文章を目にすることも多く、その人にとっての日常を送り、それを書き綴る人と、それを読みつつ自身の日常を過ごす人との間に隔たりを感じません。原稿を書く人と読む人の距離の近さを感じます。それも地平線通信のいいところだなと思います。
◆延江由美子さんのインド通信を楽しみに読んでいます。実は、地平線通信に連載している以外の原稿も、メールで送っていただいたものを読んでいました。インドの市井の人々の生命力もさることながら、延江さんの約2か月の旅も、バイタリティ溢れる怒涛の日々のように見えました。延江さんが出版する写真集を見ていたからか、インド通信からも情景がビビッドに伝わってきます。
◆私は農学研究科の修士1年ですが、現在1年間の休学期間中にあり、図書館に通ったり国内各地に遊びに行ったりする生活を送っています。ここ数日は、滋賀県高島市の農家兼猟師兼ペンション経営者を務める小川太賀司さんという方のところに遊びに行ったところです。
◆小川さんとは人づてに知り合い、有志の大学生で農作業を手伝ったりしています。小川さんは「やりたいと思ったらすぐやる」人で、稲作や果樹栽培、しいたけ栽培に飽き足らず、ペンションを建て経営し、養蜂をしてみたり、鶏を飼って卵を販売したり、その卵を使ったプリンを販売したり、最近は古民家を買って改築に着手しているそうです。
◆「琵琶湖一周(通称ビワイチ)」をする大学生などがペンションを訪れることも多く、ペンションに滞在する人たちと交流をもつことを楽しんでいます。私にとっては、たまに訪ねたくなる場所で、数か月に一度のペースでお邪魔しています。訪ねたくなる理由はいろいろありますが、農業に縛られないかたちで農業に携わっているように見える小川さんや、ペンションに集まる人々と交流できるのが魅力になっています。
◆実際に手を動かしてモノを組み替えて生活を作っている人たちと一緒に過ごすと、理論や思想の本を読んでぐるぐるしてきた状態が、またちょうどいい状態に推移する気がします。そういったときに、手を動かすことで私たちは何をしているのだろう、と考えます。また、フィクションの力をどのように使えばいいのかという関心ももつようになりました。
◆現状まかり通っている特権的な「事実」の構築性を暴くだけでなく、新しく物語を紡いでいこうとする活動に目を向けたいです。そこで大事になるのが、手を動かしモノを扱うときの想像的なスキルなのかな、と今は考えています。日々の生活を送ることで都度生活を作りなおしている人々の語る物語に、耳を傾けられるようになりたいです。[坪田七海 京都大学大学院修士]
■初めてのボルネオ行きから早6年。当時まだ二十歳を迎えていなかった私も、25歳になりました。この3月に大学院を修了し、学生生活に終止符を打ちます。
◆昨年8月下旬、私は論文執筆のための現地調査という名目で、懐かしいロング・スレ村を約2年半ぶりに訪れることができました。修士課程へ進学してから、新型コロナウイルスの流行に阻まれほとんど諦めていた現地調査。論文提出から逆算しギリギリのタイミングで渡航が叶ったボルネオ現地では、当初予定していた調査地へのアクセスが困難であると上流の村で判明し、途方に暮れながら調査地をロング・スレに急遽変更。街へ下りた途端に臥せってしまい、再び心と身体を整えるまでに少し時間がかかりましたが、心の底には、大好きな村へ向かう建前ができた嬉しさがありました。
◆半年以上電波塔が壊れたままの村へは、一切連絡を取れないまま直撃訪問という形に。小型飛行機が草の茂る滑走路に降り立つ瞬間の、ガタタタタン!!という衝撃が止むと、あの春以来どんなに望んでも来られなかった場所が、窓の外に広がっているのだという実感が込み上げました。
◆最後に歩いた日と変わらない集落の匂いと家々の間を潜り抜けると、みるみる「ロング・スレのわたし」が戻っていくのを感じました。幸い、村の両親は私の来訪を涙して喜んでくれ、「調査を一体どうしよう」という不安もその日ばかりは吹き飛んでしまいました。自分が最後に使った寝室もそのままの状態にしてあり、部屋中にこんもり積もった2年半分の埃を丁寧に拭いました。
◆それからひと月の間、私は修士論文のための観察や聞き取りをしながらも、この村で過ごせる時を噛み締めて過ごしました。学生最後の滞在になることだけは確かだから、次に来られるのがいつになるかを伝えることができないという点で、これまでとは心持ちが異なりました。
◆学生最後の滞在を終えた今、ロング・スレ村との別れに対する寂しさは、訪れる前に自分で想像していた程ではありません(それでも離れるときの寂しさはひとしおでしたが)。これまで断続的にではあれ、数年間かけて身につけた村での所作や振る舞い、語感を、そのひと月はなぞるように、確かめるように一日一日を過ごしました。その中で、自分の身体はこの村の生活をきっと忘れないということと、村の人たちとの精神的な絆はそう簡単に朽ちていかないということが、確信に近くなったのです。私の身体は村での身のこなしを憶えていたし、お世話になった村の人たちは私との思い出を語りながら、目を潤ませていました。将来、自分がもし母親になることがあったなら、村のお父さんとお母さんに孫の顔を見せに行きたいという、ささやかな夢もできました。
◆ただでさえ遅い時期の現地調査だったこともあり、帰国後は地平線通信で報告できぬままデータ整理・執筆に日々追われていました。この滞在期間中に集まった記録は、集落空間や人々の生活行為が、住民同士のコミュニケーションにどう結びついているのかについての修士論文になりました。教授からどうにか合格印を貰うことができ、最近は新生活の準備に忙しくしています。
◆この春からは名古屋を拠点とする地方ディベロッパーで働くことが決まり、来月引っ越す予定です。東京の会社にも内定をいただいていたのですが、オファーをきっかけに知ったその企業へ就職を決めたのは、土地の縁に惹かれたことが大きいです。
◆青森出身の祖父母がかつて仕事のために移り住み、母が生まれ育った名古屋。その後上京して働き始めた母が里帰りして私を産んだ産院も、名古屋にあると聞いています。祖父母が家を引き払ったのを境に訪れる機会もなくなってしまい、記憶も断片的にしかありません。ですが、この街へなら1人でも飛び込めると思ったのです。
◆私の大学生活はほとんどボルネオ一色でした。偶然が重なって訪れた通過地点が、自分の人生に関わる大切な場所になるとは、当初思っても見ませんでした。同じように、社会人という新たなフェーズの駆け出しを、自分の琴線を揺らす土地で始められることが、今の私の希望です。
◆新生活が落ち着いてきたら、またお便りさせていただこうと思います。季節の変わり目ですので、皆さまくれぐれもご自愛ください。[まだ早大修士 元探検部 下川知恵]
■私がインド北東部について地平線報告会で報告する機会をいただいたのが2020年2月28日。3月に森田靖郎さんが江本さん宅でお話しされたのを最後に報告会は中断され、そのまま3年という月日が経ちました。なにやら感慨深いです。それきりになってしまったのでごく限られた方以外とは顔見知りになれませんでしたが、毎月確かに発行される通信のおかげで新旧老若いろいろ交えた書き手と読み手の興味深い体験に触れ、知らない世界を垣間見ています。
◆「コロナ」もだいぶ落ち着いてきたかに見えた昨年の終わり、久々にインド北東部への渡航が実現。11月、12月と続けて拙文を掲載していただきました。とうてい書き尽くせないだろう濃密な時間を過ごし、身体はかなり消耗した一方で心と頭にたっぷりと栄養を補給して帰国しました。
◆しかし3年ぶりのインドだったせいか、今回は日本に戻ってからの逆カルチャーショックがことのほかしんどい。まずは私が日本に戻る第一の理由である90歳を越えた母の体力が2か月の間にまたガクンと落ちていたこと。インド北東部で短いながらもどっぷり浸かっていたのとはまったく別の現実が容赦なく待っていました。そして、昨今の我が国の有様といったら! 絶望的ではありませんか。世界は今とんでもないことになっていますが、日本もかなり危ういし、ひどいし、頭にくることがありすぎです。
◆例えば岸田首相のワシントン訪問でのやりとり。「え〜? いつの間に? あなたが仕えるべき国はこっちなんですけど? あぁ、やっぱり日本はアメリカの属国なのね……」。そして数日前の前首相秘書官による性的マイノリティーの人たちや同性婚についての信じられない驚愕の発言。それから、つい最近観たテレビのニュース番組では「気候変動が自分の生活に直接影響がある、と答えた若者の割合が、調べた国の中では日本だけが減少している」と伝えます。思わず耳を疑いました。「えっ、どういうわけで? あり得ない!」と、いちいち驚き憤慨する私が世間知らずなのでしょうか?
◆こんな調子で年明けからどうも否定的な気分が続き沈みがちの日々でした。「一月は行く、二月は逃げる、三月は去る、よ」とは長年教員だった母の口癖。これじゃあいけないと、やっとこさ地に足をつけ仕切り直したところです。
◆日本にいると、母校の卒業を間近に控えた小学生やご縁のある高校生や大学生に、インド北東部での見聞や経験とか、私たちメディカル・ミッション・シスターズの取り組みとか、これまでの道のりで個人的に悩んだこと、苦労したことなどをお話させていただくことがあります。私にとって、未来を担う、というか未来そのものの若い人たちとどんな形にしろ分かち合える機会は大変貴重で実にありがたく、また励みになります。今年もまたそんな時季が巡ってきましたが、去年準備した内容や表現をそのままでは使えないことに気づき、不意をつかれました。社会の動きも子供たちが置かれている状況も変化は早い!
◆私はこのたびのインドで、自分がしっかりと高齢者の部類に属すると痛感しました(実際あと数年も経てば、大幅な割安運賃で長距離列車の「グリーン車」に乗車できるようになります!)。修道服のベールを被るとおでこが全部出るので、私のように白髪が前頭部に沢山あるとそれだけですでに立派な「おばあちゃん」。志願者や神学生は言わずもがな、シスターも神父さんも私よりずっと年下の人が多いですし、おばさん、おじさん世代の集まりやワークショップなんかでは、ひょっとして私が一番の年上?と思わず見回すことも。
◆気持ち的には依然として20代のままなので、自己認識と外見のギャップに気がついたときは愕然としました。でも、小学生くらいの女の子たちと仲良くなって、村を案内してもらったり今でもSNSでビデオコールがくるととても嬉しい。そうそう、2冊の写真集で被写体になってくれた幼い子どもたちは見違えるように成長していました。いつの日か、世界のどこかで、彼女、彼らとまた繋がることがあるかも知れません。
◆今の世の中、年寄りだろうが若かろうが、触れ合って、たわいもない話をして、お互いに認め合って、力や知恵を出し合って、ネットワークつくって活動していかなくちゃな、と改めて思っています。[延江由美子]
■満州で旧日本軍の教育を受けて「密偵」として中国奥地を歩くことを始めた西川一三をリアルに描いた大作です。西川は新しく訪れた土地でいかにして生きていくか、食べ物をどのようにして得られるのかというノウハウを修得しながらチベット、インドなどを歩き続ける。そのうち密偵が目的ではなく、知らない土地を知ってみたいという強い欲求に突き動かされて旅を続ける。何の情報もなく外国人が僧侶として訪れる先々では思いもよらないこともおこり、映画を見るようだ。最後に日本に帰されるときの無念さに心が痛む。沢木耕太郎がこの本を書きあげる顛末も書かれており、その思いと西川の帰国後の生活などを考えあわせて、人間の一生の何たるかを考えさせられる。[北川文夫]
■会場に入った途端、懐かしさで胸が一杯になった。インドネシア東ヌサトゥンガラ州レンバタ島ラマレラ村。日本から行くのに3日かかる南海の島。その村の日常の暮らしがスカイツリーの下の博物館に再現されていた。女たちが紡ぐ織物が会場を埋めつくしている。クジラや手漕ぎ船の意匠を織り込んだ肩掛けや幾何学模様の腰衣。晴れ着、日常着などさまざまな場面で着られ、婚資でもあるイカットが来場者を迎えてくれる。
◆塩もある。海辺の岩礁で天日蒸発させた海水をごく普通の鉄鍋で煮て塩をつくるのだ。さっきまで海水だったものが突然、塩の結晶になるのを目の当たりにしたときの感動は忘れられない。「人間の知恵はなんてすごいんだ!」と心底思ったことを思い出した。塩づくりは同じ東インドネシアでも村ごと、島ごとにちがう。会場にはそのひとつひとつの伝統的製塩法が丁寧に紹介されている。ヤシの葉でつくった小舟は塩の蒸発に用いるもの。その美しいフォルムを見ていて「ラマレラではヤシの葉はいろいろなものに使われていたなあ」と思い出した。さらに館内を歩くとヤシの葉を編んでつくった捕鯨船の帆が見えてきた。この村では、プレダンと呼ばれる手漕ぎ船でマッコウクジラを獲る。マッコウクジラだけを捕獲対象としている漁村は、世界中でここだけだ。そして獲る船は手漕ぎ船。手漕ぎの捕鯨船にとって帆は漁のすべてを決める大切なもの。それはゲバンヤシの葉でなくてはならないという。
◆朝、乗組員がそろったら全員で祈りを唱え、船を海におろす。港はなく海辺の船小屋から海へ曳いていくだけだ。何隻かの捕鯨船を海に浮かべると櫂を漕いで沖に出る。そしてヤシの葉でできた帆を掲げて帆走し全員で獲物をさがすのだ。たいていの日は何もみつけられずに一日が終わる。だが時として、海上にクジラの潮吹きを発見する日がある。その瞬間から、全力の追尾が始まる。数隻の船が一斉に漕いで漕いで漕いでクジラに近づく。クジラに近づくとマストを倒してさらに手漕ぎだけでクジラを目指す。そしてラマファと呼ばれる銛打ちが海にとびこみクジラの背びれ近くに銛を打ち込むのだ。この後も、クジラとの格闘がつづく。転覆する船、二番銛を打ち込む船、三番銛を打ち込む船が入り乱れ、手負いのクジラは徐々に弱ってゆく。そして最後と思われる銛打ちのあと、クジラの噴気孔にフックをかけて船に引き寄せ長包丁で刺してクジラを弱らせる。最後のとどめを刺すのは、やはり一番銛を打ったラマファだ。そして全員で「クジラ曳歌」を歌いながら、浜を目指す。
◆浜に戻れば、女たちが待っている。女たちは、解体されたクジラの分け前を待っているのだ。クジラは一晩、浜につなぎ置かれ、翌朝、分配のルールに従って1500人近い村人に分配される。分配を待っていた女たちは鯨肉に塩をすりこみ日干しにしたり、脂身から滴り落ちる鯨油を集めてランプの油に利用するが、大方の鯨肉は山の民との交換財として利用される。クジラは食べたいけれども、自分たちは最小限だけを食べ、あとは主食を得るための交換財。生きるための貴重な武器なのだ。一切れの脂身が12本のバナナとなり、二切れの鯨肉が皿一杯のトウモロコシに交換される。織布の糸を染める藍、茜、ウコンも山の民との物々交換で手に入れる。ここに、ラマレラの捕鯨が400年もつづいてきた理由がある。男たちの命がけの捕鯨、女たちの塩づくりや機織りというそれぞれができることに懸命に取り組む暮らしかたが全体としてひとつのサイクルを形成し、村の経済を回してきたのだ。
◆私がラマレラを訪ねたのは1998年の夏だった。この村で行われている捕鯨の写真を探していて、江上幹幸さん、小島曠太郎さんと知り合った。毎年ラマレラに通っていた江上さんから「私たちはこの夏もいくのよ。あなたも来たかったらいらっしゃい」と誘ってもらい、先にレンバタ島へ出かけていた江上さんと小島さんを追いかけバリ島、フローレス島を旅してレンバタ島へたどりついた。
◆私の頭では「ラマレラはクジラ獲りの集落」だった。ラマファという村のスターがいて、クジラを獲って食べて成り立つ経済を想像していた。女たちは、亭主が獲ったクジラを大事に食べつなぐことが求められている、と考えていた。だが江上さん、小島さんと一緒にラマレラ村を歩き、ふたりが村人と語り合うのを聞き、ラマレラはクジラ獲りだけではないとわかってきた。
◆なかでも、毎日の水くみから始まる女たちの仕事の多様さと過酷さ、寝る時間もない忙しさ、そのなかでクジラを生かし切る商才をひとりひとりが持つたくましさ、なによりこどもたちの教育に熱心な姿には驚くばかりだった。そして宮本常一氏の著書に出てくる行商の女性たちを彷彿とさせた。
◆ラマレラも少しずつ少しずつ変わってきているが、今も多くの人を惹きつけるのは、ここに人間が生きる原点があるからだ。小さな人間が大きなマッコウクジラに挑む。挑んだ成果を待ちつつ、手仕事でクジラが獲れない日々の暮らしを支える女たち。なんというわかりやすく、美しく、尊い構図だろうか。
◆地平線会議は2008年、沖縄で開催された「地平線あしびなー」で江上さんと小島さんを招きラマレラを紹介した。聞かれた人も多かったと思う。地平線会議が“語り”でラマレラを紹介する場であったなら、いまスカイツリーの下で開催されているのは“モノ”からラマレラを紹介する展示会。まさにモノ語り。圧倒的な美しさで来場者を迎えるイカットや塩づくり、そしてマッコウクジラに挑むラマファーの写真や捕鯨のための道具類。どのひとつも、村の暮らしに欠かせないものばかりだ。1月21日から始まった展示会「江上幹幸コレクション インドネシアの絣・イカット〜クジラと塩の織りなす布の物語〜」は4月9日まで「たばこと塩の博物館」で開催されている。3月25、26日と4月8日には江上さん、小島さんの講演会も予定されている。何回でも足を運び、人の暮らしの原点に思いを馳せたい催しだ。[佐藤安紀子]
■「大会とか出てるんですか?」。走っています、と話すとたいていそう訊かれる。説明すると長くなるので、ひとりで好きなように走っていますと当たり障りのない答えで済ませる。あちこちの川ぞいをひとりで走っている。たまに口が滑ってそのことを話すと、ほかにもやってるヒトはいるんですかときまって返される。そんなとき、ちょっとだけ胸を張ってこう答える。「いいえ、世界でぼくひとりだけです」。
◆海から山頂までひと筋の川をたどって走る“ZEROtoSUMMIT”(ゼロサミ)という遊びをやっている。全国各都道府県の最高峰まで海から走るゼロサミ47を2016年からはじめて今年で8年目。昨年までに41座を走り終え、年内には完遂の予定だ。誰からも頼まれていないし、誰とも競っていない自分だけの遊び。ぼくが走りたいと思った川筋がゼロサミのルートだ。地図と睨めっこして、山頂に落ちた雨粒が海に注がれるまでのラインを突き止め、それを河口から走る。海にタッチし、振り向いたその瞬間からゼロサミは始まる。
◆子どものころから走ることは好きだった。40過ぎで長距離走のコツをつかみ、新宿の職場から世田谷の自宅までの十数kmを毎晩走っていた。同じ道はすぐに飽きるので毎回コースを変えていたら、玉川上水や神田川をはじめ、おのずと川ぞいばかりを走っていた。信号と車が少なく、次々と景色が変わって気持ちがいい。自然地形そのものを体感でき、人々の生活や歴史も刻まれている。風が吹き抜け、街あかりが反射し、せせらぎが聞こえる。そんな川ぞいのランに、すっかり取りつかれてしまった。
◆探検や冒険に憧れていた。だから独自のランニングスタイルをどうにか確立したい。だけどぼくが思いつくことはどれも誰かがすでにやっている。PC画面をぼんやり眺めながら、ふと、雨粒になったつもりで山頂から沢、そして川を下ってみると、未知の集落が次々と現れ、名だけは知る町をいくつか通過して海にたどり着いた。これを海から走ればいいのではないか。そうだ、ルートではなく行為を新たにつくればいいのだ。その瞬間、ゼロサミが誕生した。
◆しかし、誰かがすでにやっていたらダメだ。調べてみると、どうやら類似活動はなさそうである。ならばこれがトライに値する行為かどうか。その見極めができない。そんな折に日大ワンダーフォーゲル部OBの集まりがあり、恩師の近藤暉先生に思いの丈をぶつけてみた。緊張して反応を待つ。学生時代に幾多の山行計画を握りつぶされた鬼顧問に却下されたら、この企画は終わる。喉がやけに渇く。「早急に計画をまとめよ。大いにこれをやりなさい」。よっしゃ! ぼくの進むべき道ははっきりと定まった。
◆道は定まったが、どう進むかはちっとも定まらなかった。妄想は海外まで広がり、世界中の川ぞいを走りたくなっている。すぐにでも生業にしないと間に合わない。あれこれ試し、二度の転職も経て、建築基準適合判定(昔の建築主事)の資格を生かし、民間の建築確認検査機関で働きながら走る今のスタイルに落ち着いた。待遇と勤務地を選ばなければ仕事には困らない。それに将来はザックに詰めたタブレットで仕事をしながら外国の山河を走れるようになるかも。そんな社会が実現したらいいな。いやほんとに。
◆今年9月、47座目に国内最長コースの長野篇を走る。日本海から信濃川をたどって奥穂高岳まで420kmを走り、十代の青春を過ごした松本で有終の美を飾る予定だ。思い出の詰まった長野を駆け抜けるのが今から楽しみである。無事終わったら近藤先生の墓前に下山報告をして、2024年からはいよいよ海外篇を始動。まずは日本と同様に、韓国全9道の最高峰まで海から走る。ハングル語も猛勉強中である。韓国を走ることで日本がより見えてくるのではないかと思っている。
◆「おい二神君。47都道府県を走っても日本を知ったことにはならないぞ」。昨秋、三輪主彦先生に声をかけられた。わかっています先生。というのも、生まれ故郷の岐阜(富山湾〜神通川〜奥穂高岳:135km)を2019年秋に走ったとき、ぼくの心の拠り所は岐阜県でも、ましてや飛騨地方でもなく、美濃地方にあること――つまり、旧国単位でとらえていかないと、自分の故郷すらもわからないことに気づいていたのだ。旧69国の最高峰まで海から走るゼロサミ69も、海外篇と併せて始動する。69国の最高峰を特定するだけでも大変だが、だからこそ挑みたくなる。やり終えている山河もあらためて走り直そう。ゼロサミに正解なんてないし急ぐ必要もない。誰からも頼まれず、誰とも競っていない、ぼくだけの遊びなのだから。[二神浩晃]
■1回だけの読み切りのつもりだった。が、書いているうちに気が変わる。書くことが多すぎるのだ。横にいる紀代美(相棒=妻)の忠告。「紙面が限られているのだから、ほどほどに……」。たしかにそうだ。計画性に乏しいのは、ぼくの欠点らしい。人生設計なぞできない性格。でも、だからこそ人生が面白くなった、と開き直ったりする。
◆まえの2回で書いた(書きたかった)のは2つである。ひとつはアラビア(沙漠海岸)のマングローブ植林、もうひとつはミャンマー(湿潤熱帯、デルタ地形)のマングローブ植林。いずれも、誰しもが成しえなかった未解決の課題であった。解決への道は多くの困難、苦労があった。ぼくはその行為を “冒険”と位置づけた。
◆だが、書き手(わたし)の能力不足、書きすすむにつれて冒険論から離れてしまう。本稿(3回目)の執筆でも苦闘していた。原稿締め切りの前日、江本嘉伸からのメールがあった。「通信」の1月号は20頁にもなり余裕がない、来月号にまわしてほしい。ホッとする。書いた2000字はボツにした。そして、改めて佐藤安紀子さんの文章を読み直す(<通信を読んで>「面白いと思えることに出会える幸せ」地平線通信527号・2022年12月)。共感してくれたのは“お金のこと”、“面白い課題”だった。そうなのか。
◆むかし、小松左京さんから“花と緑の博覧会(EXPO90)”の講演を頼まれたことがある。あの有名な『日本沈没』や『日本アパッチ族』などの著者、ベストセラー作家だ。お目にかかったときの挨拶が忘れられない。「どうかね君、儲かっているかね」。拙著を読んでくれての講演依頼だったのに、なんだ、この挨拶は……。佐藤安紀子さんと同じく、拙著中の“億万長者の夢”が気に入ってくれたのだと思われる。宮部信明さん(編集者、岩波書店)も同じだったのではないか。「企て」が国や大企業の事業であったなら、けっして岩波新書の一冊に加えてはくれなかっただろう。
◆いくつかの探検記を思いだす。借金の重圧から逃げるようにして故国を離れた極地探検家がいた(あれは誰だったのか)。ぼくの共感は探検そのものではなく、資金集めの苦労だった。いっぽう、西域探検の大谷光瑞やカラコルム探検で知られるイタリアのアブルッツィ侯爵がいる。業績は偉大、行動も冒険的といってもよい。しかし、お金の苦労がない人たちなのだ。共感度は低かった。
◆ぼく自身の人生を振りかえる。お金にかかわる人生である。まずは幼いころ――。叔母さん(母の妹)から聞かされた話だ。「もっちゃん(元彦)は買い物が大好きだったのね。3銭とか5銭の小銭をもらって近所の駄菓子屋にいくの。でも、買ったお菓子はどこかにやってしまい、またお金をねだって(買い物に)出かけるのね」。大戦がはじまる前、平和な時代だった。
◆小学校2年生のときの作文(詩?)はこうだ。「ぼくのおうちはおおきいな/いつでもあばれてあそべるよ/ゆうはんははやいな」。いやはや、なんたる脳天気。敗戦後すぐ、だれもが飢えていた時代だったというのに……。それが記憶に残ったのは、明星学園で担任だった鈴木満男先生が誉めてくれたおかげである。すこし風変わりの、戦後初の芥川賞候補になった作家志望の先生だった。
◆蝶々採りに熱中した中学生のころ(いまも世界中で捕虫網をふっている)、夏休みは井の頭公園入口にあった自宅から深大寺公園にかよった。わが家の経済が傾きかけていたころである。バスには乗らない、一日がかりの徒歩旅行。いまも憶えているのは蝶々ではない、自転車をひいて売っているアイスキャンデー売り、我慢して買わなかった一本5円のアイスキャンデーである。炎天下、もし買っていたら、それは天国の味だったに違いない。
◆中学1年のある日、見知らぬ男たちがやってきて、わが家の家具すべてに赤紙をはっていった。父親が経営する会社が倒産、税務署の“さしおさえ”だった。あのときの不安感、いまも強い記憶として残っている。明星学園は中退。お別れの日、贈られた『原色日本蝶類図鑑』(保育社)にクラス全員42名がサインしてくれた。欲しくても高価で買えなかった本だった。
◆わが家の極貧暮らしがはじまる。しかし、山登りに熱中するようになったのは、なんとこの学校中退が契機だったのだ。説明がいるだろう。転校した公立中学校には親友になった西明尚(サイメイヒサシ)がいた。「世間」を知らないぼくは何でも西明についていく。都立高校の受験も然り。志望校の最初は立川高校、つぎが国立高校にかわる。どちらも西明の兄たちの出身校だったらしい。ランクがひとつずつ落ちてゆき、ようやく都立武蔵高校に落ちついた。
◆思いだせば山岳部入部の動機もおかしい。西明が云った。「山岳部に入ればタダで山に行ける。補助金がでるらしいよ」。そんなことがある訳はない。でも、信じこむ。山には珍しい蝶がいるのではないか……。当時、わが家の経済は最悪だった。山どころではなかった筈だ。父親は行方不明。狭い間借りのひと部屋に母子4人が暮らす。口減らしのためか、長男のぼくは叔父の家に預けられたこともあった。だがこの極貧がヒマラヤを招いてくれたのだ。“塞翁が馬”というべきか。
◆では貧乏学生がいかにして山にいくお金を捻出したのか。アルバイトをしたことはほとんどない。記憶にあるのは2つだけ。高校時代、同級生何人かでクズ屋をやった。リヤカーを引いての得難い経験、だが儲けにはならず途中でやめた。大学時代の製本会社のアルバイト。本の梱包などの肉体労働は苦にならない、だが単純作業に飽きがくる。これも数日だけでおわった。
◆では収入は何で得たのか。答えは“昼飯を我慢すること”、母親からもらった弁当代を貯めたのだ。弁当代貯金は高校から大学まで長い間つづく。臨時収入もあった。高校の修学旅行である。もらったお金は山行き費用に流用する(修学旅行を拒否したのは、多分に、学校生活への「反発」があったから。遅い反抗期だった)。
◆3回の山行はどれも思い出深い。4月の金峰山、同年の百瀬彰と年長の女性2人が同行した。6月は甲斐駒ヶ岳から鳳凰三山への縦走、はじめての単独行だった。10月は北アルプスの後立山縦走、新入部員の土屋正忠をさそった。寒さでふるえながら立った鹿島槍ヶ岳山頂、そして黒部峡谷をへだてた新雪の劔岳・立山の連山、そのすばらしい光景はいまも瞼にのこっている。
◆3回ともすべて学校をさぼっての山行だった。ひょっとすると、これが人生に大きな影響を与えたのかもしれない。同行した百瀬はのちに光学機械会社社長に、土屋は武蔵野市長や国会議員になった。ぼくはといえば、このころ、ヒマラヤに取りつかれていた。深田久弥『ヒマラヤ 山と人』(中央公論社)、そのなかの一章「小エクスペディション論」が元凶だった。
◆1人あたり30万円の費用でヒマラヤを登った英国登山隊を教えられたのである(のちに深田さんからは感謝しきれないほどお世話になった。ヒマラヤの経験を書くことをすすめてくれ、出版まで面倒もみてもらう。大学6年目に世に出た『一人ぼっちのヒマラヤ』である。あげくは人生相談にまでのってくれ、志げ子夫人とともに仲人まで引き受けてくれた)。
◆学校をさぼる快感はしっぺ返しともなって現われる。1年間の浪人生活。だが山に行く日数は増々多くなり受験勉強から離れていく。母親の一言がぼくを救ってくれた。「大学なんてどこだっていいじゃない」。結果、国立大学はやめて、私立の東京農業大学を受験する。でも志は曲がらない。農大は著書『風雪のビバーク』で知られる松濤明が在籍した大学である。伝統ある山岳部、ヒマラヤにいくチャンスがあると考えた。そんな訳で、受験したその日、山岳部の部室をさがし入部を申請した。
◆わが家の家計は少し改善されてはいたが、依然として豊かとはいえない状態だった。学歴の背景がない父である。その頃ハイヤー運転手から独立し、個人営業をはじめていた。個人タクシーではない。黒塗りのトヨタクラウンを購入し、某大手企業役員と契約する。小なりといえど自営業主になっていた(やがてバブルの波にのり不動産売買で大金を動かすようになる。ぼくに「進取の気性」があるとすれば、それは間違いなく、親父のDNAをもらったためだと思っている)。
◆大学生になった。山登りの予算は弁当代だけでなく教科書代も加わる。年間200日以上の山行もこの予算でまかなえた。理由の一つはきわめて安い食事代である。記憶はうすいが1日100円くらい、1か月の山行でも3000円にしかならない。米は家からの持ちだし、タダだった。もう一つの理由は、声を小さくして云おう、非合法の手段である。
◆“キセル乗車”の常習犯になった。つまりタダ同然の汽車賃で山に行けたのだ。事例をあげて報告する。夏山合宿――新宿駅を10円区間の切符ではいる。目的地の富山駅は巧妙な方法ですり抜けた。重さ50キロ、超特大キスリングを背負い、大きな段ボール箱を抱えて改札口へ。両手がふさがっているので乗車券を見せる余裕はない。駅員は了解した。だが戻ることはなく、無賃乗車は成功する。
◆スキー合宿の場合は――。越後湯沢駅のホーム、改札口の反対方向は腰までもぐる深い雪だった。先頭がつけたラッセルに皆がつづく。無賃乗車成功……といった具合である。探検部ではキセルの最長記録もつくった。札幌で有り金を使い果たし、鈍行列車で飯田線伊奈まで無賃乗車をした。伊奈で山岳部の先輩に会い、飯田山岳会のヒマラヤの話を聞く。ご馳走になっただけではなく、東京までの汽車賃をもらって無事帰京することができた。
◆たくさんの経験をする。お金がないことは何ら障害にならないことを知った。初めての海外のネパールでも、ヒマラヤ山地の放浪だっておなじである。現地食を食べ、ときには「貧しい」住民から食事を恵んでもらったりもした……。またしても「無計画さ」が露見する。
◆もうひとつの課題“面白いこと”が残っている。許されるなら、つぎの紙面で書いて「非連載の連載」を終わりにしたい。[向後元彦]
先月号の通信の「あとがき」で九州大学の安平ゆうさんのことを「あびらゆう」とわざわざ“訂正”してしまったが、実はそれは間違いでした。「やすひらゆう」と再訂正いたします。本人に確認しなかった編集長の私の責任ですが、経緯がありました。そのことを長岡のり子さんに書いていただきました。
■こんばんは。先月号の名前読み間違いの経緯についてお伝えします。
◆私が息子とテントを訪れ「九大山岳部のあびらゆうさんいらっしゃいますか?」と声をかけたことはご承知の通りなのですが、少し続きがありまして……。私の問いかけに対して、少し戸惑いを含んだ「はい」という返事が聞こえました。知り合いの居るはずもないテン場で完全に私は不審者だと思われたに違いない。
◆いや待てよ。「もしかして、やすひらゆうさんとお読みするのでしょうか? 島ヘイセン通信の長岡祥太郎とその母です」と名乗りました。すると「はい!! やすひらゆうですっ!!」と元気な声と共にテントから可愛らしい女性が出てきてくれました。ゆうさんにはその場で名前の読み間違いをお詫びしましたが、私の田舎は北海道勇払郡安平町(あびらちょう)といいます。2018年の胆振東部地震の震源地でもありました。したがってこの2年間、あびらさんだと信じて疑わず、本当に失礼しました。[長岡のり子]
追記・我が家の神津島人は、翔太郎×ではなくて、祥太郎〇が正しいです。よろしくお願いします。
しまった。「あとがき」にもう一つ間違いがありました。すまん、祥太郎君、のり子さん。おわびして訂正します。大反省なり。[江本]
■焼き芋屋を辞めてから半年。なぜか僕は専門学校の講師となっていた。きっかけは大阪の住宅街にあった旅本の専門店だった。元旅人の店長が始めた店にある日、観光専門学校の副校長先生が来た。そして店長に「バックパッカー講座」の講師を依頼した。先生は来年度から冒険旅行学科を作ると言ったので、店長は僕の本を勧めた、という流れだった。
◆店長から話を聞いたときに、根っこの部分がおかしい気がした。そもそもバックパッカーや冒険て、教えるものなのか? 順番が逆じゃないだろうか? まず自分の中に抑えきれない興味があって、現実にする過程に旅や冒険があるのでは? 数日後、学校から講師依頼の電話がくる。そんなはずないだろ。先生、本当にあの本を読んだのですか? 本(『アマゾン漂流日記』)の中で、アマゾンをイカダ下りしていた僕らはペルー軍の検問を無視して、岸から銃で撃たれている。先生、僕は常識ないですよ。ルールも守らないですよ。
◆このまま引き受けるとお互いに危険だ。学校の考える方針も知りたい。そう思い副校長先生と学科担当の先生に逢う。二人とも魅力的で熱意のある人だが肝心の新学部の方針についてはほぼ白紙だった。せめて「これだけは止めてくれ」って基準を教えてほしい、と食い下がるも「何をしてくれてもいいです」との返事。そうですか。温厚そうな見かけに騙された、と、後から言わないでくださいね。
◆さてゼミ講師となると、今までの講演会方式では通用しない。講演会は一発勝負だがゼミは半年間、同じ相手に話し続けないといけない。過去に話したテーマはいくつかあるが、中身は違ってもパターンは同じ。今のままだと聞く側はすぐに飽きてしまうだろう。複数の新しい伝え方の形がいる。これは大変なものを引き受けてしまった。
◆授業初日、10名ほどの生徒の前に立つ。最初が大事だと思い「この半年で君らには世界一周してもらうつもりだ」と芝居がかった一言から始めてみた。強気で言ったものの膝ががたつく。これでもう放棄できない。
◆授業は参加型にしたいと思って、まず先生を含め全員に世界地図を描いてもらった。正確な地図なんて僕も描けないから出来は期待していなかった。とはいえ限度がある。紙の中央に大きな楕円形のみが描かれているもの。これ地図? 超大陸パンゲア? 日本の外は何もなく波の絵が描いてあるもの。5大陸を描けた人は一人もおらず、先生の地図も怪しい。ウソだろ。これでは授業そのものが冒険旅行だ。
◆仕方ない。頭の中に地図がないなら、講演会形式で自分が旅してきた世界を見てもらおう。緊張の90分を終え、授業の感想を書いてもらう。ああ終わった。終わった。とりあえず今日は、みんな楽しそうだったからいいや。
◆問題はこれからだ。ゼミと講演会のもうひとつの違いは主体性だ。講演会のお客さんは自分の意志できてくれる。一方、ゼミは何かを選ばないといけないから選んだだけだ。学生のころ、自分はどんな基準で授業を選んでいた? 考えると恐ろしくなる。何をやってもいい。響きはいいが、それは学校側の逃げだ。理想の未来図を見せてくれれば、目標に向けて一緒に作っていけるのに。学科担当の先生に改めて指針を問うが、答えは空を漂うばかり。就職に何の利益ももたらさず、出席していればいい授業環境の中、3回目ぐらいから私語や居眠りする生徒も出てきた。
◆何をしてもいいのなら、ギリギリまで踏み込んでみるか。次は海外で出会う詐欺手口の再現。テーマは「人を信じるな」だ。僕は過去に3回強盗に襲われている。強盗にあう確率は交通事故よりも高かった。理由は治安が悪くても行くからだが、本当にその国を知りたいなら、それも仕方ないと思っている。毒まで受け入れて「違い」を認める。これを伝えよう。「じゃあやろうか。バックパックのファスナーの金具2か所に鍵を通して固定します。よく見てね。鍵かかってるよね。こんなの無意味です」と鍵がかかった状態のバッグを開く。クラスがどよめく。「これは基本です。知らないと中身だけ抜かれます」
◆続いて、この授業のために呼んだバックパッカーHさんに旅人役をお願いする。「じゃあバスで隣合わせた人にジュースを勧められたらどうします? Hさん」。睡眠薬強盗の話と理解したHさんは答えられない。「対応策は簡単です。拒否すればいいだけ。ではなぜHさんはそう答えないのか?」誰も答えられない。僕も答は持っていない。Hさんが黙した理由は、旅先での人の善意をすべて拒否すれば、旅している意味がなくなってしまうからだ。「僕は人を信じるなと言った。それはすべての人が善人だと思うなって意味で、実際は親切でジュースくれる人の方が多いです」
◆自分なりの結論を引き出して思った。僕が話すべきこと。それは理想ではなくて体験から得たリアル。ジュースを飲むかどうかは自分で決めればいい。ただ睡眠薬が入っている可能性について知ったうえで。
■私は中学校の教員をしていますが、昨年から今年にかけてとてもささやかなことですが嬉しいことがありました。それは、生徒たちの世論を受けて生徒会本部役員たちが校則の一部改訂を学校長に直訴し、それが教職員へのアンケートや会議での意見交換を経て認められたことです。校則を変えたいと言ってきた生徒会長に対して、学校内の雰囲気や教職員の感触をみながら背中を押しましたが、矢面に立って動いたのは本部の生徒たちでしたから、それが形となって実を結んだことはとても感慨深いものがありました。
◆本当にささやかなある意味当たり前の内容なのですが、そんなことが中々実現できないのも学校の姿であり、今回の校則改定は実は改訂そのものよりもそこに突破口的な一歩を刻むことがより大きな成果だったといえます。つまり生徒が変えたという事実を作ったということなのです。おそらくこのことは、一般社会の人が何を今さらそんなことで……と思うかもしれませんが、学校というのは実はそんなささやかなことが難しいのです。
◆例えばこれは以前いた学校でのできごとですが、その学校では登校時と午前中の授業は制服が原則で体育等の授業となるまでより軽装の体操着等に着替えることはご法度だったのです。しかしその夏の日は朝から気温が33度を超えておりじっとしても汗が出るほどでしたので、見かねた私は朝の職員集会で、制服を体育着に着替えさせてほしい旨を言ったところ、何とその返事は「来年度に向けて検討します」で私は絶句し、思わず「これが戦争だったら部隊は全滅だ」と言ってしまったことがありましたが似たようなことは珍しくないと思います。
◆このようなことが起こる背景には学校の構造的な特徴がありますが、その一つが三権の集中です。民主主義社会のシステムの中では三権分立が一応謳われていますが、学校では三権は分立していません。教員が規則を作り、教員がそれを執行して違反者は教員が捕まえて教員が取り調べをして教員が裁定します。これは学校の中では極めて当たり前で、私も子供のころからそういうものだと思ってきましたが、教員になってしばらくしてその奇妙さに気付き、せめて規則の決定や改訂に関してそれを最も守らなければならない主体である生徒が関わるべきだと考えるようになりました。
◆特に社会科などでは授業の中で例えば三権分立というシステムのことを話さなければなりませんが、それは時に架空のことを話しているような錯覚に襲われるのです。そして、実はその錯覚の方が正しいのではないかという妙に倒錯した感情に心が揺さぶられてきたのです。今では当たり前になりつつある女子生徒のスラックス制服選択制も30年前から言ってきましたが実現したのはここ1〜2年です。
◆制服については過去には法的根拠の視点から論議されたこともありましたし、制服を強制するならそれを本人(親)に買わせるのではなくて支給か貸与させるべきだと言って顰蹙を買ってきましたが、学校の価値観に疑問を感じてきた自分としては、今回生徒自らが「自分たちが守る規則の決定に自分たちが関与していないのはおかしい」と考えて動き出したことはとても画期的なことではないかと感じ、しかもそれが多くの生徒の気持ち(世論)に押される形で動き出したことは、改訂された内容がささやかだったとしても、実は巨大な一歩だったのではないかと思い、私は一人祝杯をあげたのでした。[山本宗彦 日本山岳会副会長]
■江本さん、みな様、新年のあいさつもせず申し訳ありませんでした。今年もよろしくお願いします。昨年12月10日頃からでしょうか、コロナ8波の影響が出始めました。今回はコロナ患者が増加したことも大変でしたが、入院中の患者にコロナ陽性者が出てしまうことがまず初めての大変!でした。どこの病院でも同じでしょうが、1人陽性が出るとその同じ病棟のスタッフも患者もスクリーニング検査をします。すると、無症状の陽性者も出てきて5名以上で「クラスター発生」となります。もちろん、その病棟には入院はできなくなります。また別の病棟で……、また別の病棟で……と。
◆次の大変!はスタッフの陽性が多数出て働ける人がいない状況になってしまうということでした。あちらこちらのスタッフが陽性なので手術の延期、入院延期などもやむを得ない。そんな状況はうちの病院だけでなく他の病院でもあり、市民のコロナ以外の病気の方々を受け入れられないようになりました。こんなことは初めてのことでした。「たらい回し」が毎日起こり、命にかかわった方もきっといらっしゃったのではないかと思います。でも、何とかしてあげたいけど受け入れできないのです。そんな年末年始を日々ストレスを感じながらも続けていました。
◆毎日毎日患者受け入れを断り続けて、それでもこの波がいつか引くことを信じていたころ、私自身がコロナになってしまいました。まず家族が陽性になりました。そのため、自分もちょっと疲れ気味でしたが、家事や病院に連れて行ったり……。喉の痛みから始まりました。この痛みは夜も眠れない、呼吸しても痛いくらいでした。3日くらい不眠が続きました。その後の倦怠感。コロナってこんなに辛いもんなんだと泣き出したくなるほどの日々でした。
◆今日、送っていただいた地平線通信を何とか読む元気が出てきました。そして、力をふりしぼってハガキ書いています。こんな自分が情けない思いです。今年も通信を楽しみにしています。こんなハガキですみません。[下関市 河野典子 年賀ハガキの裏表にぎっしり手書きで]
■人生ってなんですかね。僕が子供のころはノストラダムスの大予言により人類は1999年に滅びると思ってました。そして社会に出て働き始めたときはこのままこの会社で定年まで働き年金を孫に使い死んでいく。これが人生と思ってました。しかし! 恐怖の大王は降臨せず、嫁も現れず、35才で会社を辞め武将として城巡りの旅に出たおっさんは武将から無職へジョブチェンジを果たす。
◆旅の途中「歩いて日本一周すごいね」、帰宅後「その年で無職スか」。無職。俺は無職だ! 2年間バイトで凌ぎようやく正社員の職を得る。もう無職はイヤだ「このまま定年まで」からの3年後再び無職へ。これが去年の11月です。12月に再就職を果たすもこの会社が酷かった。
◆10人程度の小さな会社。会長と呼ばれるTOPの超絶ワンマン体制。とにかく社員をボロクソに責める。みんなの前で一人ずつボロクソに責める。パワハラ超えて折檻開始。「商品が売れないのはやる気のないお前のせい」「お前がいないほうが売り上げあがる」「お前から商品買う奴いない」「日曜は会社で商品の勉強しろ」「わからないことをまとめて明日質問しろ」「質問するな自分で調べろ」「調べてないのはお前のやる気がないから」などとボロクソに責める。
◆僕に対しても「ヤマベさんは早死にしますね。こんな背の高い爺さん見たことある? デカい奴は早死にするから」とか「ヤマベさんが独身なのは一緒にいても楽しくないから」や「商品の説明は後でするから今はいい」からの「商品のことを調べてないのはやる気がないから」のコンボ。
◆「メモは今じゃなく家に帰ってから思い出して書け」など謎の理論を展開し、それに対して周囲は歯向かえず一緒になって「そうですね、ヤマベさんは早死にします」とか言ってるわけ。もうね1週間で辞めた。辞めるときも「辞めるなら1か月前に言え、非常識、お前なんかいらんわ!」と激オコ。
◆また無職となりハロワに通うがなかなかいい仕事がない。「給料15万、休日92日」なんでこんな会社をハロワは紹介してるの? またボロクソ会社に当たったらと思うと怖くてたまらない。地平線の久島さんに相談すると「PTSDだねそれは」と診断された。現代日本ほんと怖い。
◆旅の途中で犬や猪に襲われ嵐でテントごと吹っ飛ばされても平気だった自分がPTSDとは。そこへ年金税金健康保険がドーンと襲来。怖いホント怖い。2社受けてすべて不採用。人生終わった。旅に出ておいてよかった。もう悔いはない。五十前のおっさんに仕事なんてない。ノストラダムスのアホ! 恐怖の大王来てれば! これが自由に生きたおっさんの末路である。
◆しかし人生何が役立つかわからんもので昔とったフォークリフト免許のおかげで採用が決まった。あれこれ不安はあるが職業無職よりはマシ。今度こそ定年突破目指して頑張ろうと思います。若いころ旅に出て中年で社会復帰が望ましいけど、僕のように20年働いて旅に出ても職歴があると社会に戻れる可能性があるので旅立ちを迷ってる人は思い切って無職にジョブチェンジしようぜ!
◆仕事を辞めて自転車で日本一周してますってキラキラした目で言ってる人も、西成の公園で空き缶拾ってるホームレスも職業は無職だ。[山辺剣]
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■江本さんから着信があったのは、JR石巻線にゆらゆらと揺られ、うつらうつら雪化粧の松島湾を眺めながめているときだった。この日わたしは、あるひとにお会いすることができ、仙台市で取材を終え、翌日の取材のために北へと向かっていた。
◆取材をしていたひととは、大川小学校津波裁判の控訴審の裁判官3人のうちのひとり。“大岡裁き”ともいわれる画期的な判決を担ったひとだった。まさか取材には応じてくれないだろうと思いながらも、お手紙と、かつてわたしが書いたチベットの本を同封して送ったところ、「本を読んで、事実に誠実に向き合っておられると感じました。わたしで良ければお話しいたします」と返事をもらい、インタビューが叶った。
◆取材内容はさておき、裁判官に「この裁判の担当だと決まったとき、どう思いましたか?」と問うたときの、裁判官の答えに心が揺さぶられた。「担当だと言われたとき、わたしの運命だと思った。裁判官人生すべてを注ぎ込もうと決めたんです」。こんなふうに自分の仕事に矜持を持ち、真摯に向き合えるだなんて、なんて素敵なんだろうと思った。どうやら山好きらしく、若いころは毎年のように槍ヶ岳に登っていたのだという。わたしが勝手につくりあげていた裁判官のステレオタイプががらがらと崩れる、刺激的な出会いだった。
◆出会いの興奮冷めやらぬなか、ぼうっと電車に揺られていたところに、江本さんからの着信があった。この日は何かに本気で取り組むひとと縁のある不思議な日だなと、勝手に身が引き締まる思いで石巻市のビジネスホテルに泊まった。
◆大阪で4歳になったばかりの娘を育てているわたしにとって、娘と離れて単身で外泊するのは、かなりの挑戦で、この4年間でまだ3回くらいしかない経験だった。あぁ、あそこに取材に行きたい、あぁ地震で大変なことになっているトルコとシリアに何かできないか……。ニュースを見ながら、地平線通信を読みながら、いつもいつもここではないどこかを夢想している。でもいまのわたしにできることは寄付をすることくらいで、目の前の幼い娘の命を守ることと仕事で精一杯。じつはこの日も、わたしが取材から戻る日に夫も遠方へ出張が入ってしまったため、わたしは午後イチの飛行機で大阪へ戻り、夫と娘と空港で待ち合わせをして、娘のバトンタッチをするという計画だった。いつもは節約でLCCを利用するのだけれど、昼間の便はJALとANAしかなく、背に腹は変えられないので今回は泣く泣くいつもの3倍くらいの料金で時間を買ったのだった。
◆そんなわたしの(母になってからの)記念すべき4回目の外泊は、何をしよう、どれをしよう、とわくわくしながら、ひとりでビールを飲み牛タンを食べて、この原稿を書くという、静かな時間。夕ごはんの帰り道、スノーブーツでみしみしと雪を踏みしめながら、星空をひとりで見上げるだけで、なんだか自由を取り戻した気持ちになった。
◆翌朝は、早くからボートに乗って女川湾の沖合へ。幸運にもぐっと冷えた夜明けにしか見ることのできない気嵐(けあらし)があらわれ、海からふわりと白い霧が立ちのぼる幻想的な光景に酔いしれ……と思ったら、ものすごい船酔いでぐらんぐらん。なんとか船酔いの頭を騙し騙しに女川港からレンタカーをかっ飛ばし仙台空港に滑りこむ。すると、なんと予定していた便が遅延!? いつもの3倍くらいの料金を払っているのに遅延! ようやく伊丹空港に到着したときには、シートベルトのランプが消えるや、出口に猛ダッシュすることに。娘と感動の再会(たったの1日だけれど!)を果たしたものの、夫は集合時間ぎりぎり3分前という肝を冷やす事態となった。でも、あの夜のビールと星空と、早朝の気嵐と、そして娘の笑顔があれば、まだまだやっていけるぞと思うのだった。
◆そして、この原稿を確認しているいま、娘は胃腸炎で早朝5時から嘔吐している。なぜかタオルもタライを使うのも嫌だそうで、マーライオンスタイルがお気に入り。さらに、こんなときに息をわざわざ吐くしゃぼん玉がやりたいそうで、寒空の下ベランダで遊んでいる……子育ては、取材より旅より何よりもスリリングかもしれない。北風に揺られ、しゃぼん玉があちこちの彼方へ飛んでいった。
■コロナ禍で長くお休みしていた地平線報告会、当面4月にも再開するつもりで準備に入っています。これまでは第4金曜日の夕方、とほぼ決まっていましたが、会場が予約できた場合、土日の昼間も考えています。詳しくは3月の通信でお知らせします。
■今日は、「世界社会正義の日」だそうである。そういう正義の日の朝、北朝鮮がまたまた弾道ミサイルを発射したそうだ。防衛省によると2発が発射され、排他的経済水域の外側に落下したらしい。金正恩の妹である与正は20日朝、「太平洋を射撃場として活用する頻度はアメリカ軍の振る舞い次第だ」と警告したとのことだ。
◆おいおい。これでは2023年度から5年間の防衛力整備の水準を今の1.6倍の43兆円にするという日本政府は全然正しいことになるのではないか。北朝鮮もロシアもその意味で防衛産業に大いに貢献しているだけなのかも。
◆「世界社会正義の日」が国連で採択されたのは2008年で、実際祝われるようになったのは2009年というから知名度はまだまだ低い。私はまったく知らなかったです。英語では「World Day of Social Justice」という。
◆京都の鴨川に沿って素晴らしいランニングコースができていて、以前は何回か走ったことがある。今では歩くことに集中しているが、私は40才以降は結構なランナーで本当に走り好きだったんです。興味ある人は『鏡の国のランニング』(窓社)で検索してみて。地球のあちこちを走るおばかな中年が出てきます。[江本嘉伸]
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今月も地平線報告会は中止します。
4月に報告会開催を目指して準備中です。もうしばらくお待ちください。
地平線通信 526号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2023年2月20日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
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Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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