2023年1月の地平線通信

1月の地平線通信・525号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

1月16日。きのうは久々の雨だったが、今日もしっかり雨。朝7時の気温は7度。これが今日の最高気温で終日寒い日となる予報だ。そんな中、2023年最初の地平線通信をお送りする。

◆コロナがやってきて3年になった。もう第8波になっているらしい。つくづく何も知らなかった、と思う。「変異」という不可解な技で彼らはたくみに私たちの中に姿、威力を変えて入りこんでくる。第7波の原因とみられていた「BA.5」というのはすでに勢いを潜め、今や「XBB.1.5」というウイルスに置き換わりつつある、という。

◆そして中国。すべての行動を規制してきた「ゼロコロナ政策」がついに人民の怒りを引き起こし、習近平は一気に規制を緩めた。どんなふうに新型コロナウイルスが拡散するのか世界が注目している。今週21日から27日金曜日まで春節の休みとなり、恒例の「民族大移動」が始まるのだ。

◆ウクライナでは東部バフムトで激しい戦いとなっている。プーチンはロシア軍司令官に参謀総長のゲラシーモフを任命、まもなくと予想されている「総攻撃」の準備に入った、と伝えられる。昨年2月24日の侵攻開始からやがて1年。プーチンのロシアがこんなことを目の前でやっていることをせめてしっかり脳裏に刻んでおこう。

◆府中市に移り住んで1年半、去年は信州上田の太郎山の麓の家で新年を祝ったので、府中で正月を迎えるのは初めてだ。元日の初詣は、目の前にそびえる浅間山(せんげんやま)の頂の祠とした。標高80メートルの、山とも言えない丘だが元日はさすがに若い人の行列ができていた。一応山道なので着物姿はなかったが。

◆家から近いので主峰の堂山、中山、前山の三つのとんがりから成るこの山にはよく通う。3つのピークを2回ずつ一筆書きで登るのが「プロ徘徊師」の基本コースでコナラ、クヌギの樹林で覆われたこの山を週3回は歩いている。健脚向けなんかではなく、初心者向け、いや、というよりは「80才以上、4才以下向け」が妥当なコース評価だろう。

◆山道はよく整備されていて2まわりしても40分ほどで歩き終えてしまうので徘徊量(こんな言い方あるのか)が足りない。麓の広大な多磨霊園を周回し、野川に沿って国分寺方面を往復するのが定番である。いつもは弁当を持って歩き回り、静かな場所を見つけてひとり飯を楽しむ。秋の終わり、いつものようにベンチでお弁当を食べお茶を飲んでいると「やあ」と知った顔があらわれた。

◆宮本千晴だ。引越しして何回か我が家で会ってはいるが徘徊中の出会いは初めてだ。しばし、互いの行動半径について語り合う。60年以上を府中市で暮らしてきた千晴はさすがに棲息域に詳しく、引越し直後は、数十枚の地図にいろいろ書き入れてプレゼントしてくれたものだ。

◆弁当ベンチで1時間ほどいろいろ最近の行動を話したと思う。以下、何回か書いていることだが最近来た人もいるので一言。1978年12月、法政大学で「関東学生探検報告会」が開かれたとき、私と千晴の2人(学生時代、三つ峠の岩場で出会っていた)は記者、そして山岳部OBとして3日間つきあった。そういえばあの探検報告会には探検部OBとして岡村隆、関野吉晴も出ていたな。

◆その最終日、学生たちに「探検部の皆さんは卒業してからどのようになされるか?」と宮本千晴が聞き、学生たちは言葉に詰まった。問うた以上、何かの回答は必要だ。帰りのタクシーの中で「俺たちがやるか?」と2人で話したのが地平線会議のそもそものきっかけである。それから数か月四谷の喫茶店に何度も集まり、侃侃諤諤の議論の末、1979年8月17日、地平線会議は誕生した。地平線という名は確か千晴が口にした。

◆地平線には賀曽利隆(8ページを見よ)や関野吉晴(19ページを読んでひっくり返ってほしい)といったとんでもないスケールの“徘徊師”がいるので自分ごとき小物の徘徊ぶりはほとんど喧伝する意味はないであろう。しかし世の中、スーパーマンだけでは面白くないではないか。

◆今月、老若男女50人もの仲間に書いてもらって20ページの通信が完成した。報告会は3年ほどお休みしているが、どの書き手も本気で向き合ってくれた。で、宮本千晴に電話で原稿依頼しようとしたときのことだ。こちらが用件を話す前に言い出した。「あのな、いろいろ考えてみたが、まだ当分お前さんがやれや」。

◆地平線会議をどうやって次の世代につなげられるか、以前から千晴だけには相談している。なかなかいいやり方が見つからないのだ。浅間山のベンチでも話はしたと思う。彼もいろいろ思案してくれたのだろう。しかし、結論は変わらなかった。そんなわけで2023年の新年は、不肖私が当分地平線会議を牽引する覚悟とともに始まった。[江本嘉伸


地平線ポストから

冬の黒百合ヒュッテで、素敵な巡り合わせ

念願の年越し冬山ケーナコンサート

■今年で45年目になる黒百合ヒュッテでの年越し冬山ケーナコンサートは地平線仲間の長岡竜介さんが、高校生のころからブロになった今まで続けてるライフワークだ。結婚20年の妻、典子さんもピアノ演奏で毎年参加。高校2年になった1人息子の祥太郎君は生まれてから一度も紅白歌合戦を観たことがない。

◆お父さんの背負子で運ばれた赤ん坊時代から、5歳で自分で登るようになったときは泣きべそをかいてたそうだが、茅野駅で待ち合わせした長岡一家と渋の湯から黒百合平まで登ったが、今や1番の健脚で黒百合ヒュッテ一番乗りだった。離島高校留学で親元離れて神津島で暮らしている祥太郎君は寮から高校までの通学で鍛えられていますからと爽やかな笑顔で、あっという間に見えなくなった。

◆30日から2日まで4夜連続で宿泊者は無料で楽しめる。30日は雪は多いが快晴の八ヶ岳ブルーの空で山小屋も満員。テント場にも10張り以上。皆、私のようにケーナコンサート目当てで年末の雪山に登って来たのかと思ったら、19時からコンサートがあるのを知らない人も多くいることがわかった。偶然この雪山で南米フォルクローレ演奏に出会った人は幸運だ。

◆夕飯後、19時から消灯の20時半近くまで、南米のアンデス高原の音色を堪能した。長岡さんの演奏は今まで何回も聴いていたが、やはり雪山の山小屋で聴く演奏は格別だった。私は2015年にクスコからマチュピチュ遺跡まで4日かけてテント泊でインカ古代道を歩いたときのことを想い出した。満天の星空。雨に濡れたポーターの履いてた黒いサンダル。コカ茶の香り。そこを歩かなければ見られない遺跡に吹く風が蘇った。

◆今回は外に張ったエスパーステント泊の九大山岳部冬山合宿中のメンバー6名も一緒に楽しんだ。通信で名前は知ってた副部長の安平ゆうさんと初めて会えたことも嬉しかった。音楽の力、場の力、人の縁に感謝。行ってよかった。[高世泉

島ヘイセンmini
もしや、という出会いが

■明けましておめでとうございます。年末年始は今年も両親のコンサートに同行し、黒百合ヒュッテで過ごした。八ヶ岳で年を越すのも14年目になる。今年は出会いと再会にあふれた年越しだった。いつも通信で拝読している安平ゆうさんとお会いすることができた。

◆今年は天狗岳で訓練をされるとのことで、もしや?と思い小屋のスタッフさんに確認して九大山岳部のテントを突撃訪問。「えー、こんなことってあるのぉ?」と驚かれる安平さん。山小屋で働くことが決まったことなどを伺い、純粋に山を楽しんでいらっしゃる姿勢に触れた。僭越ながら島から応援する次第だ。今後、地平線や山を通して再会することがあったら嬉しい。

◆また、小学校のときにお世話になった小屋番の方とも再会することができた。自分が小5くらいのときにカナダへ行ってしまったのだが、それ以来約6年ぶりの再会となった。自分が離島留学をしたという話をしたらかなり驚かれていた。カナダでの日々や、島での生活など様々なことを話した。

◆そして、昨年からアルバイトに入っている大学生の兄さんからは進路実現の話をじっくりと聞いた。その兄さんは大学に入ったものの将来に希望を持てないでいたが、山を始めたことがきっかけで山岳救助隊に入りたいという目標ができたという。その一歩として県警の試験に合格し、この春入庁が決まったそうだ。何かちょっと感動を覚えた。山で出会ったたくさんの人との繋がりを糧として、今年も全力で走り切ろうと思う。[神津高校2年 長岡祥太郎

雪上強化合宿で万感の思い

■2022年12月28日から2023年1月1日にかけて、九大山岳部は北八ヶ岳における雪上強化合宿を行った。参加者は1年生2名、3年生4名の計6名で、男女比は私と同期、二人が女性という具合だった。目的は厳冬期の五竜岳に登頂するために必要な隊全体の雪山経験を増やすこと、特に一年生の雪上訓練を行うこととし、雪上訓練は具体的に、滑落停止、アイゼン歩行、ビーコン捜索、コンテ、スタカットなどを行った。

◆行動の概要は以下の通り。28日に渋の湯登山口から入山し黒百合ヒュッテにテントを張った。29日には中山付近で滑落停止訓練、スタカットを行い、翌30日に東天狗岳、硫黄岳にアタック。31日、1年隊員1名が体調不良で、3年隊員(自分)とともにテント場で留守番。残りの4名は白駒池周辺でビーコン捜索訓練。この日に翌日の下山が決まる。翌1日、渋の湯へ下山した。

◆5日間とも天候に恵まれ、雪上訓練を一通り行うことができ、全員でのアタックも行うことができた。テント場の黒百合ヒュッテ周辺の登山道はトレースが固く、ラッセルは必要なかった。硫黄岳や天狗岳に続く稜線は岩と雪のミックス帯で、全体として樹林帯と岩稜の両方が交互に訪れる楽しい道だった。冬型の気圧配置であるほど晴れやすいというのが八ヶ岳の特徴だと聞く。実際、初めて雪かきのない冬山を経験し、しっかり眠れることの幸せとは裏腹に、恵まれすぎてそわそわした気持ちにもなった。

◆ところで、年末に黒百合ヒュッテ。あれ、と思われた方がいるかもしれない。30日のこと。アタックを終え、13:00に帰幕した。15:00ごろから水づくりをはじめ、手持無沙汰の私はザックに身を預けて本を読んでいた。すると「九大山岳部のあびらゆうさん? いらっしゃいますか?」。外から女性の声が聞こえてきた。

◆「島平線通信の長岡……」。最後まで聞かず、がばっと身を起こした。どうしよう。あわてて外に出ると、寒い中、長岡のり子さんと祥太郎さんが立っていた。アイドルに遭遇した女子高生さながらの落ち着きのなさだったと思う(少なくとも内心はそうだった)。ケーナ奏者の長岡竜介さん、ピアノ奏者の長岡のり子さん、島平線通信でおなじみの長岡祥太郎さん、長岡一家がテントをたずねてくださったのである。

◆11月号に掲載していただいた原稿を読み、もしかしたらと黒百合ヒュッテの小屋主さんに確認したところ、九大山岳部の滞在を確認、2回にわけてたずねてくださった。それだけでなく、山小屋で開かれるケーナのコンサートにまで招いてくださった。本来は小屋泊の人に向けて開かれているものである。ご厚意に甘え、山岳部6人全員で小屋に押し掛けた。図々しくも、行ってよかった。一山先まで届きそうなケーナの音色、ピアノの優しい響き、アンデスのメロディー。自分は山について知らないことばかりだと実感した。

◆小屋では高世泉さんにもお会いし、明るいエネルギーに圧倒された。長岡一家、高世さんと写真まで撮ってもらい、万感の思いだった。この写真は江本さんのもとに届いていると聞く。高世さんは翌朝下山される前にテントをたずねてくださり、少しお話できた。なんという日。なんという巡り合わせ。

◆その日の夜、シュラフに潜りながら、これまでのことが頭に浮かんできた。大学1年の冬にオンラインで江本さんの講義を受けたこと。送ったはがきに返事がきたこと。電話で話したこと。現在まで原稿を書かせてもらっていること。それを読んでくださった長岡一家、高世さんに会えてしまったこと……。なにか一つ欠けていれば、すれ違うことさえなかったかもしれない方々、本当に魅力的な方々に、このようなかたちでお会いできたことに、心から感謝いたします。

◆現在は、2月半ばに計画している五竜岳の山行にむけて、準備をしています。現役としては最後の合宿になりそうです。今後もなんらかのかたちで山に関わっていきたいと思います。今年の3月、7月〜11月は、西穂山荘でお世話になることになりました。[九大山岳部3年 安平ゆう


「信頼」とは本来肉体的な人間同士がおのずと持つ相互理解の感覚なのだ

■歳とともに順調に惚けている。惚けると人や社会が遠くなる。惚けるといっても日々のくらしに必要で習慣になっている作業には困らないし、スクラップだって増える一方だ。やろうと思うことは多く、時間が足りない。しかし、世間から求められることは何ひとつやってないな。多分に手慣れたわがことしかやってない。昔のシングルタスクのプロセッサーみたいになっているからかもしれない。

◆あれこれ智恵を巡らせてなにかをやるのは無理だ。メモリーも小さくてすぐ空になる。思いはあれこれ巡っている。積み重なる前に遠ざかり、集中は続かない。だから結実はしないし、実行にも至らない。あと何年……たぶん何もしないで終わる。面白いことに本人はそれで虚しいわけでも困るわけでもない。なるほど、そういうことか、と発見する。困ったり迷惑したりするのは他の人だ。約束は守られず、姿さえ見えぬ。人の世を支えている「信頼」が消える。これはまずい。

◆コロナとスクラップのおかげで日本や世界とその先行きがどんなに危なっかしい状態になっているのかずいぶんわかった。惚けて「信頼」を担えぬ年寄りでさえ、何か、と思わされてしまう。思わされるが鍵が見えない。見えないのは状況の把握が借り物の知識や情報、文字やことばによっているからかと思う。スクラップの限界だ。やはり己がもっと肉体的な実感と体験から発想し、自分が確信できることから考える他ないのではないか。「信頼」とは本来そういう肉体的な人間同士がおのずと持つ相互理解の感覚なのだ。ならば惚けもおそるに足りぬ。

◆昔畏友三輪主彦が川口や清瀬の高校で、落ちこぼれかかっている生徒たちを集め、知力は体力に宿る、みたいなことをいってさんざん歩かせていたことを思い出した。あれは若者同様惚けはじめ老人にこそ適用さるべき指針なのだ。いま本人が実証中だ。そうだ、やはり山からだ。80になっても山登りの体力は強化されていくことをこれまた畏友川副博司が実証してみせてくれた。あと何年。やってみないとわからない。[宮本千晴 85才になった]


2023年、思い思いの新年メッセージ

高一女子からの1本の電話

■70才も過ぎ、左目も失明し、体のあちこちにガタがきて、あとはもうタカたちと老いていくだけなのか、と考えていた昨年春、自宅に1本の電話があった。千葉に住む高校1年の女子で大型のタカを使って雪山で狩りがしたい、という。小学生の時に戸川幸夫の『爪王』を読み、それ以来鷹匠になる夢を心に抱き続け、中学からは卓球部に入り、腕力や脚力は男に負けないほど鍛えてきたという。その本気度は私にもヒシヒシと伝わってきた。ある日突然奇跡のように天から舞い降りてきた一粒の種子。水をやり肥料を与え、大きな花を咲かせてやることができるだろうか。積雪が5メートルにもなる豪雪の月山で今はまったく金にもならないウサギなどの小動物を追い、タカと自分の心の喜びのためだけに生きる。彼女もまた厳しきイバラの道を歩いていくのだろうか。[山形県 松原英俊 鷹匠]

ひとつの充足感

■このところ半日で行ける低山や無人駅のすぐ裏ですこしラッセルして1泊しただけでもじゅうぶんに満たされる。何かをするわけでもない。目標すらない。そこにはただ自分の足跡。そして真っ白な世界。若いときから犠牲をはらって行けるところまでは行ったという30年余の軌跡が、ひとつの充足感をつくりあげているのかもしれない。もし若いときから妥協しまくっていたら、いま自然のなかで感じる充足感はなかっただろう。[田中幹也

大晦日、664人の行列

■大晦日の都庁下、おなかを満たすために列をなす人たちがいた。その数およそ600人。コロナ禍以降急増し、今日も今年最高に並ぶ644人。子供連れや、女性の姿も見られるようになった。生活保護制度に頼る人は少ない、代わりに失う物が多すぎるからだ。切り詰めて、医療費まで削って、それでもダメでここに来る。受け取って列を離れた彼らは、年の瀬の新宿を楽しんでいる人のように見えた。[小石和男

米寿を迎えました

■毎月の通信発行、ご苦労さま。言い尽くされた表現ですが、継続は力なり、と思います。沢木耕太郎さんの『天路の旅人』早速購入しましたが目下積読です。実は昨年夏、腰椎圧迫骨折を起こし、現在自宅療養中。米寿迎え チベット遠く なりにけり お元気で。[中村保

戦争の時代

■「戦争の時代を初めて生きてます」。暮れの31日、この一文を年賀状にプリントし終えてから気が付いた、なんという愚かさかと。湾岸戦争もボスニア紛争も、私には「存在しない戦争」だったのだと。今回のウクライナ戦争が「世界的だ」ということの証左といえばそうだが、問題は私自身の認識の甘さ。第二次世界大戦後も多くの人命が失われていたのに私には他人事だったのだ。新年3日目を迎えたが、まだ年賀状を書きだせずにいる。[佐藤安紀子

父の認知症

■つい最近73才となった父に認知症の兆候が現れたのは、いつの頃だっただろうか。表情も乏しくなった父がこちらの言葉を理解するのに時間を要するようになった。父が急に老け込んだと感じたのは、彼が祖父の年齢を超えたあたりからだ。人との交流が極端に減ってしまったコロナ禍という環境がそれを後押しした。そんな現実を目の当たりにした僕は半ば逃げるように元旦の昼、栃木の実家を後にした。道中見上げた空は、心とは裏腹にどこまでも澄んだ青だった。2023年は自身よりも家族のことに心を砕く1年となりそうだ。[光菅修

ノロノロとカメのように生きたい

■正月明け、蛇口から水漏れが始まり、慌てて交換部品を買ってきて急場を凌いだ。この原稿を書くべくポメラ(電子メモ)を開いたら、キーボードが反応しない。ダメ元で分解清掃を試み、こちらも何とか復活させた。ともに傷みが激しく、プロの修理や買い換えまでの応急処置だ。うさぎのようにピョンと跳ねて飛躍の年に、と財界人が新春番組で言っていた。日本や世界にとってどんな1年になるかはわからないが、私は昨年通り、次々壊れる道具の修理で、ノロノロと幸せなカメのように過ごしたい。[久島弘

毎月届くとホッとします

■江本さんの1ページから始まる地平線通信、毎月届くとホッとして安心して嬉しくなります。頑張ろう、といつも思います。私は80才になりましたが、この地平線通信をいつまでも読んでいこうと思っております。地平線会議の発展を祈っております。パソコンもないので手書きで送らせていただきました。[埼玉県 石田昭子

私がやった徒歩旅、今や息子が……。

■僕の徒歩旅から、はや19年。我が家の旅人の座は息子が受け継いだ。鉄道に乗れば、一人で日本各地を巡り、自転車に乗れば、知多半島をグルリと一周し、歩きで行けば、東海自然歩道を一日で30km近くも踏破する。僕と同じだ。僕と同じ旅人の道を歩み始めている。血は争えない? 血は受け継がれた! 何か嬉しい。でも何か悲しい。旅立つ息子の傍に旅立てぬ僕がいる。僕の背中を見て旅立つ息子の背中を見て、さあ僕もまた旅立とう。[鰐淵歩

注・鰐淵さんは、2004年4月の296回地平線報告会報告者。30才当時、日本の最西端(長崎県神崎鼻)から最東端(納沙布岬)まで歩き通した。総距離・約3795km、総歩数・5483775歩。

辺境の人々の自然への思いの深さ

■かつて植村直己など6人の冒険者たちの足跡を訪ねる旅に出たことがある。そこで強く感じたことは、辺境の地に暮らす人びとの自然への思いの深さだった。自然は予想をはるかに超えて美しく輝いていた。だが一方で、時に過酷ですらある。だから彼らは、自然を畏怖し、謙虚で慎ましく生きていた。自然が過酷であればあるほど、旅人にも優しかった。あれから10年、コロナと戦争の勃発――、辺境の地に暮らす彼らから教えられることは多いはずだ。[神長幹雄・編集者]

島根県の能海寛の故郷を12回訪ねた江本さん

■新年をきっかけに我が故郷に江本さんが何度来られたか考えてみた。最初は1992年に『西蔵漂泊』の取材で来町され、以後、能海寛研究会で5回(年次大会・フォーラムでの講演)、波佐文化協会で3回(まんが『能海寛』の本出版・「世界の写真展」での講演)、能海寛のふるさと「トレイル100km」で3回(完走)、都合12回ほどお越しいただいています。江本さんが「第二のふるさと」と称されていることをありがたく想っています。今後も、引き続きご指導の程を願っています。[島根県金城町 隅田正三

趣味の短歌を

■日本語教師としては、昨年は外国人の入国が再開して嬉しかった。母国の一部屋からZoomで繋がっていた学生が、本当の日本に来られてよかった。私はオンライン授業を継続しつつ、週1回の対面授業も引き受けて倒れそうだ。仕事がバタつき家事もバタつく。昨年後半はこれまでになく冷凍食品に支えられた。そして趣味の短歌にも。子どもたちは小5と小3になったが、まだこんな感じだ。ふたりの子と われと合わせて六十の 爪を切りおり日曜の夜 [黒澤聡子

還暦のとまどい

■昨年寅年で還暦に! 特に意識無くとも世間は違う。まず元旦にモバイルカードがシルバーに自動更新(笑)の後に悲しい現実が→前年手術のために退職したので就活するも過去には採用の職業でも×!! 「59歳は50代ではない」ことを実感。しかたない。此方も「三叉神経痛で薬を飲んでいる」ことは記さず応募してる。結局、仕事は決まったが希望通りの就職は難関だ。というわけで今年自分なりに副業を始めることにした。先は見えないけど心の向く方へ![石原玲

弱いものいじめの元大親分と……

■世界の大風の中ドサクサに紛れた姑息な弱者いじめに大バチ当たって小麦の皮に滑って転んだヤクザモドキのかっての大親分隣でウサギのようにピョンピョン跳ねる今に失敗するだろうとんでもない代物を大笑いしながら飛ばし続ける狂喜の3代目 そんなやつらに負けてたまるか 幾筋もの爆煙の中青黄の農民は素手で広大な畑に苗を植え続ける 見習う私も1歩1歩地に足踏みしめて今年も牛年 牛とともに生きる。江本さん お元気で。[北海道豊富町 牛飼い 田中雄次郎 速達はがきに怒り心頭の筆致で]

坪井伸吾さんの連載、素晴らしい!

■静岡県で教員をしている杉本郁枝(クエ)です。3才になった息子は電車や機関車が大好きで、冬休みには家族で大井川鉄道のトーマス号に乗りました。煙が怖い息子は大号泣でしたが、トーマス号はとっても可愛らしかったです! そして、今年も地平線通信を楽しみにしています。小松由佳さんの行動力やたくましさに勇気をもらったり、平和の大切さを感じたりしています。新連載の坪井伸吾さんのお話は、坪井さんと友達のような感覚を味わえ(?)毎回楽しみにしています。「なぜカニ!?」は爆笑でした。そのとき感じたこと、考えたことを記録していく大切さにも気づかせてもらっています。[静岡県 杉本郁枝

小さなことに気を付けること

■地平線通信は感染力があります。拝読しながら私のねむりこけた想像力がびっくりして覚め、思考力がギシギシ動き出します。共感も湧くし、尊敬も覚えます。人の一生懸命な体験の物語でその中に“愛”や人間性、知恵を見つけます。感謝! きっとご苦労もいっぱいの旅を歩み続ける覚悟と忍耐が喜びを結果生むものだ、と。そういえば故斉藤実は優しい眼をして、小さなことを見ていました。私に「小さなことに気をつけて」と言いましたっけ。[斉藤宏子

クロアチア戦、現地で見てきました

■カタールW杯を現地観戦してきました。観戦チケットはリセールを執拗に追えば買えます。GL終了後なら外国人サポーターは半減するので、航空券もホテルも予約は容易です。でもすべてが揃ったのは開幕前1か月を切っていました。W杯専用アプリに観戦チケットとホテル予約のデータ入力すると、連動して入国ビザの手続きも完了。アプリのお陰で一言も話さず、パスポートをスキャンして顔写真を撮られて入国手続きは終了です。でもスマホなしでは入国も観戦もできません。滞在4日間に対クロアチア戦を含むラウンド16の3試合を観戦。GLと違って日本人サポーターは少ないですが、ドイツとスペインを破ったおかげで地元の人は日本を応援してくれます。やはり勝たないといけませんね。競技場も地下鉄も真新しく、バスは何百台も待機していて全員が座れます。毎日ホテルから無料の交通機関で各スタジアムに行けるとても快適なワールドカップでした。3年半後にはまた違ったワールドカップが開催されることでしょう。今から楽しみです。[大阪 岸本佳則・実千代

母に会わずに励ます

■コロナ社会で「面会禁止」。「会わずに」人を励ます困難。せん妄のサルベージ。母親の病床から風景が見える。空と山が見える。ビルを改装してる。大きな機械が動いてる。小さな人が働いてる。快晴。木々や鳥を話題。みんな働いてるね。今日の外気。風の話。病院食のこと。リハビリで手すり立ちの練習中。認知症テストでみんなで笑ったこと。母親は「ありがとう」をただ繰り返すときがある。梅干しを差し入れした。そういえば、会うこともできない人にいつも励まされている。先人のアートに勇気づけられている。[緒方敏明

使いきれるかしら?

■年末年始に帰省。母が一人で暮らす高山の実家に溢れる私の物、物、物。本棚に収まらない本! 読書欲はあるけれど積読本も多々。縁のある方々から貰い受けた着物やお茶のお道具! いつか着物を着てゆったりと暮らすはず。創作意欲を持って集めた染織材料! 使いきれるかしら? 子どもも甥も姪もいない。自分で始末しないとならないのだけど、全く追いつかない。片付けは次回ね。すべてに目を瞑って、またもやそのまま茅ヶ崎に戻ってきたのでした。[神奈川県茅ヶ崎市 中畑朋子

ブラジルのど田舎カーニバルへ!

■あけおめことよろどころではない。3年ぶりのカーニバル、どこへ行くか定まらず、苦悩のあまり夜も眠れず昼寝している今日この頃。が、燃え盛るペルーの反政府抗議活動やブラジルの叛乱に、血が騒いでじっとしてはいられなくなってきた。で、2月初旬からペルー経由ブラジルはベロホリゾンテのど田舎カーニバル攻略を決定! なお、2月1日から3日連続NHKBSプレミアムカフェのカーニバル特番にゲスト出演[Zzz@カーニバル評論家]

新年早々、いい知らせが

■年末から年明けまで何かとプライベートなイベントが多く、1月も半ばのいまだに年賀状が出せてない体たらくですが、新年早々ちょいといい知らせが届きました。愛知県安城市が主催する「第3回新美南吉絵本大賞」に入賞したのです。南吉は「ごんぎつね」で知られる同市出身の童話作家。その童話に絵をつけるというコンペでした。課題の中で僕が選んだのは「仔牛」という童話です。この一篇はこれまで知らなかったけど、南吉の童話の中で「牛をつないだ椿の木」という話が印象に残っていたので「牛だな」と思った次第。今回は大人の部、子供の部合わせて500点あまりの応募があったようです。2月18日の表彰式に現地で出席予定。大賞でも優秀賞でもなく、入賞4名の一人ですけど、これまであまり賞に縁がなかったので、こいつは春から縁起がいいねえ![長野亮之介

2023年は復興元年に

■今年5月で85才になります。昨年秋大腸ガンの手術を受けましたが、なんとか回復しました。今年は復興元年にします。[吉岡嶺二

書初めに「慎重」と書いた

■クウ、ネル、アソブといった日常生活のあれこれを、できる限り自分の足元に近づけたい。そう宣言したのが、昨年の12月。ちえん荘とは名ばかりで、ずいぶん急ぎ足で生きてきたようだ。そのせいだろう、山仕事で顔の骨を折り、コロナに罹患し、完治したと思っていた精神の病が再発し、気が付いたら新年になっていた。新年、ちえん荘恒例となった書初めでは「慎重」と書いた。ヤマで働くひと、になれるよう腰を据えて生きていきたい。[北海道上川郡 五十嵐宥樹 ちえん荘住人]

4人の共同生活

■初めまして。笠原初菜と申します。五十嵐宥樹のパートナーです。「ちえん荘」で、4人で共同生活をしています。私自身は、自分が食べるもの、使うもの、触れるものなどをできるだけ、自分で作ったり、物々交換で手に入れたりしながら、生きていきたいと思っています。そんな夢を抱きながら、日々、修行中です。大学時代にネパールにほれ込み、毎年通っていました。地平線通信でお名前を知った貞兼綾子さんには、日本でも現地でも、大変お世話になりました。1年と少し新聞記者として働いてから、現在は職業訓練校で木工を学んでいます。世の中も、私自身も、めまぐるしく変わり続けていますが、今年は地に足をつけて、焦らず、歩んでいけたらと思います。[北海道上川郡 笠原初菜

ライダー、文化も満喫す

■登山やツーリングだけでなく2022年はライブもクラシックからロックまで色々行きました。映画も43本見ました。近所にミニシアターがあってお手軽なのです。12月の通信で江本さんが書かれていた連れの方がコロナにかかり“やばい状態は3日間…”、というのは重症で肺炎になってICUに……のレベルでしょうか? ワクチンは打ちましたか? コロナに罹って1週間で治ったのなら軽い気はしますが、江本さんもお連れ様も健康でありますように。[古山里美 ライダー]

★熱は39度と高かったが、意外に辛くはなかったそうです。声がほとんど出ない状態が2日ほど。あとはぐんぐん快復して驚きました。[E]

鶴岡まちなかキネマ再開

■コロナ禍とともに始まった退職生活も3年目。ようやく県外にも出るようになり、先月は3年ぶりに北海道へ。途中盛岡に一泊し、江本さんや沢木耕太郎さんがお話を聞いた西川一三さんに想いを馳せました。旅先では6つのミニシアターに立ち寄り、厳しい状況のなか上映を続けている姿も見てきました。2020年5月に閉館した地元の鶴岡まちなかキネマは今年3月に再開予定で、現在クラウドファンディングを実施中(1/23まで)。応援していただけると助かります。[山形県鶴岡市 飯野昭司

総勢19人の賑やかな正月

■新型コロナで人との接触が不自由な3年間に、孫たちが相次いで生まれ、5人の孫に恵まれた。この正月、妻の実家で孫たちも東京から来てくれて、姪甥と共に義母と正月を祝った。総勢19人が田舎の家に集まって大みそかと新年を祝った.97歳から0歳までが集い食事をすることの幸せを改めて感じる。しかし、ミャンマー、アフガニスタン、シリア、ウクライナの人達が大変な毎日を送っていることも忘れられない。

★追伸ではありませんが、お知らせです。しんぶん赤旗に月1回程度で小松由佳さんの写真が掲載されています。正月号はサーメルが1歳でのシリアの難民キャンプでの写真で、室内の茶色っぽい写真が避難者の境遇を語っているようで、サーメルの表情と相まって秀逸です。[岡山県 北川文夫

自分の時間をもとう

■年末、大阪に帰省と同時に2歳になる我が子が体調を崩し発熱。次第に呼吸が荒くなり元旦に救急センターに駆け込んだところ、RSウィルスによる肺炎で入院。幼児のため母同伴で6日間入院しました。子どもが快復してくると、心に余裕ができ、入院中ふと、母になって自分のやりたい事なくなったなぁ。子どもがしたそうな事が自分のやりたいになっていたなぁ、と頭をよぎりました。2022年を振り返るとと一人で出かけたのは1、2回? 特に仕事復帰後は育児と仕事で余裕がありませんでした。2023年は1時間でも30分でもコツコツ「自分のやりたい」をやる年にしてゆきたいです。家族との時間も大切にして。[うめこと日置梓

93才、医師は続けています

■3年も続くコロナウイルス感染症はまだ終息の気配もありません。みなさま無事お過ごしでしょうか心配しています。小生昨年9月9日93才となりました。白鬚岳で転落、頸椎骨折してから10年経ちました。歩くのは杖をついてやっとこさです。でも支えられて診察はなんとかしてます。昨年はサルトロ・カンリ登頂から丁度60年でした。その年生まれた長女のかんりも60才です。[京都府 斎藤惇生 医師/元日本山岳会会長 江本への年賀状から]

★サルトロ・カンリ(7742メートル)は、カラコルム山脈の峻峰。1962年、四手井綱彦率いる日パ合同サルトロ・カンリ遠征隊が挑戦し、6月24日に斎藤惇生ら3名が南東稜ルートから登頂を果たした。

西川一三さんはよく私の実家に

■いつも地平線通信の巻頭文とあとがきには目を通しております。丸山純さんが『望星』でインタビューした福田晴子さんの『宮本常一の旅学』を読むと、宮本千晴さんが観文研で若い人たちを引っぱっていく姿勢が、いまの地平線会議で江本さんがやってきたことに重なってみえます。このところ沢木耕太郎さんの『天路の旅人』で西川一三さんに光があたっていますが、郷里盛岡の実家には西川さんがよく顔を出しています。満州帰りの父とウマがあったようです。古書店で『石峰』(江本注・能海寛研究会の機関誌)を手に入れました。前に隅田正三さんの『求道の師 能海寛』も手に入れています。一次資料にはすぐに手を出す病いがあります。今年もよろしく。[大村次郷 仏教遺跡の写真はがきに手書きで]

「遅咲きのバラになる」

■無我夢中で生きてきたら、いつの間にか82才。多くの会に夫婦で出席すると「こちら、向後さんの奥さん」と紹介される。共同で購入した住居の税金のお知らせも、夫の名前の脇に「外1名」と書かれてきた(半額を夫の口座に入金)。コロナ禍での支援金も、夫の口座に振り込まれたのを分けていただいた。そろそろ、子育て、夫支え中心の暮らしから、自分中心の人生に方向転換しないと、死んでから悔いが残りそう。決意「遅咲きのバラになる」。[向後紀代美


地球45周分走りました!

■みなさ〜ん、あけましておめでとうございます。昨年(2022年)はカソリ、バイクを走らせて関東の式内社をめぐりました。式内社というのは平安時代の『延喜式神名帳』に記載されている神社のことで、その数は2861社になります。式内社といえば名社の格付けのようなもので、どこも1000年以上の歴史を持っているのです。

◆それにしてもすごい生命力ですよね。式内社めぐりをすると、その生命力の強さにあやかれますよ。関東の式内社めぐりは相模から始め、下総、上総、安房の房総3国、武蔵、上野、下野、常陸と旧国ごとにまわりました。相模21社、下総15社、上総5社、安房9社、武蔵78社、上野18社、下野16社、常陸42社と、論社を含め、関東の全式内社の204社をめぐりました。

◆バイクを走らせての式内社めぐりはじつにおもしろいですよ。式内社を探り、そしてみつけたときはうれしいものです。ぼくは「70代編日本一周」(2017年)以降は、スマホは持たないと決めているので、どのようにしてまわっているかというと、バイク用のロードマップの『ツーリングマップル』が頼みです。それにおおよその印をつけ、現地まで行くと、地元のみなさんに聞いています。

◆バイクを止めて声をかけると、みなさん、じつに親切に、丁寧に教えてくれますよ。パッとスマホで見て、教えてくれた高校生もいました。「ちょっとわかりにくい所だから」といって、車で案内してくれた人もいました。うれしくなるような日本人との出会いの連続なのです。こうして式内社をめぐると、いままで知らなかった市町村をまわれるし、知らなかった道を走れます。カソリの「日本地図」が急速に広がっていくのを実感することができるのです。

◆旧国単位で式内社をまわっているので、それぞれの国がよくわかってきます。日本は47都道府県で見るよりも、「五畿七道」の旧国、68か国で見る方がはるかにおもしろいのです。都道府県は100年ほどの歴史、旧国は1000何百年の歴史、この歴史の違いは大きいですよ、五畿七道から外れる北海道や沖縄は、それとは別に、「北海道一周」や「沖縄一周」で見てまわればいいのです。

◆蝦夷地は明治になってから北海道と改称され、10か国が置かれ、のちに11か国になりました。その結果、日本は五畿八道になりました。沖縄の琉球国は日本の一分国ではなく、日本国と同等の一国なのです。

◆一昨年(2021年)は東北の式内社をめぐりました。陸奥100社、出羽9社、論社を合わせ、東北の全式内社の131社をまわりました。一昨年の東北編、昨年の関東編でもって、式内社めぐりの「東日本編」は終了です。今年からは「西日本編」になります。中部編の式内社めぐりは伊豆国から始めます。伊豆は伊豆半島と伊豆七島から成っていますが、現在は東京都の伊豆七島はその名の通り伊豆国なのです。

◆伊豆七島の島々にはかなりの数の式内社があります。ということで伊豆大島は昨年(2022年)の12月に島を一周し、泉津の波治加麻神社、波浮の波浮比

v命神社と大宮神社、3社の式内社をめぐりました。

◆「伊豆大島一周」では三原山に登り、山頂の三原神社から「お鉢めぐり」をして、中央火口をのぞき込みました。直径350メートル、深さ200メートルの巨大な穴は火山のすさまじさを見せつけています。三原山の東側は裏砂漠。日本にも「砂漠」があるのですね。バイクで黒い砂の裏砂漠を走りましたが、砂溜まりではスタックしてしまい、脱出するのが大変でした。思わず「サハラ砂漠縦断」のシーンが目に浮かんでくるのでした。

◆2023年の新春ツーリングは伊豆七島の「島めぐり」になります。三宅島、御蔵島、八丈島とまわり、青ヶ島にも渡りたいのです。しかし、この青ヶ島が難関。しばしば船が欠航するからです。

◆我がフィールドの東北は昨年、「コースト・トゥ・コースト」と称して、全部で19本の「東北横断ルート」を走破しました。太平洋から日本海へ、日本海から太平洋という奥羽山脈の峠を越える「東北横断ルート」。それにひきつづいて、紅葉の季節に「東北縦断ルート」を走りました。

◆青森を出発点にして国道103号で八甲田、奥入瀬渓流、十和田湖、発荷峠の素晴らしい紅葉を眺め、つづいて八幡平アスピーテラインで八幡平を越えました。ここまでが北東北編。つづいての南東北編では鳴子峡を皮切りにして、蔵王エコーライン、磐梯吾妻スカイライン、阿武隈川源流、駒止峠、六十里越と、日本の紅葉を存分に満喫しました。

◆2023年1月1日現在、ぼくのバイクでの走行距離は、地球45周分ほどの179万7261キロになりました。旅した日数は8345日になりました。目指すのは地球50周分の200万キロと旅の日数の1万日です。「生涯旅人!」をモットーとするカソリ、今年もおおいに走りまくりますよ![賀曽利隆


先月号の発送請負人

■地平線通信524号はさる12月19日印刷、発送しました。16ページ。全体のレイアウトは武田力さんの「整え作業」を受けて新垣亜美さんがやってくれ、新垣さんが仕事で作業できない月曜日に入稿したフロント、あとがき原稿だけはなんと落合大祐さんが出張中の対馬で受信し、かたちを整えて印刷担当の車谷建太さんに送り、印刷する運びとなりました。このあたりの顛末は今号16、17ページに詳しく。終了後、北京で餃子と少しのビールを飲み、2022年の通信発送作業の無事終了を互いに慰労しました。参加したのは、以下の皆さんです。みなさん、ありがとう。おつかれさまでした。

 車谷建太 中畑朋子 白根全 伊藤里香 久島弘 武田力 江本嘉伸 光菅修


元祖カソリック教徒、熟年モラトリアム中

■12月24日、クリスマスイブの日、突然我が家にやってきたのは、トナカイの橇に乗ったサンタクロースならぬ、SUZUKIのバイクに乗った賀曽利隆氏。我が家で1日バイクを預かってほしいとのこと。

◆なんでも、我が天栄村の会津側(我が天栄村は全国でも珍しい日本海側と太平洋側に跨る自治体で、我が家は太平洋側)にある温泉宿に泊まりに来たものの、分水嶺を越える峠道が積雪のため二輪車では無理!と四輪で同行している友人に説得され、車で一緒に行くことになったそうだ。とはいえ、我が家周辺も路面は圧雪凍結状態。翌日も雪予報だというのに、経験豊富なはずのベテランライダーが、なぜ真冬の東北にわざわざバイクで来るのかは理解不能だが、御年75才の賀曽利さん、55年以上もぶれずにバイク旅を続けているのは、ただただスゴイし、そこまで好きなことがあるのも羨ましい。

◆一方、私は昨年還暦を迎え体力・気力の衰えを実感している。元祖カソリック教徒で一時は「女カソリ」と名誉(?)な称号をいただいたこともあったのに、いつのまにか教義をおろそかにしてしまった。いつまでも元気な教祖・賀曽利さんを見習わなくては、と思うものの……。

◆私も今まで、バイクで世界や日本を旅することに夢中だった。20代でオーストラリア一周、激動期の東欧一周、サハラ砂漠縦断(アルジェリア・ホガールルート)、30代で中南米縦断、スペイン・ポルトガル・モロッコツーリング、40代で犬連れ四国遍路歩き旅、夫婦で4年間かけてユーラシア・アフリカ大陸ツーリング、50代は韓国、台湾ほか東南アジア各国など近隣諸国をカブや自分のバイクで走り回った。旅をすることが楽しかったし、その旅が生業となり、旅中心の生活を送ってきたのに、3年間のコロナ禍で、このごろは旅への情熱も下降気味だ。行動制限が緩和されてそろそろ海外へも行ける状況になっているにもかかわらず、モチベーションが上がらない。

◆バイクツーリングも、ツーリングマップル(昭文社の二輪車向けコメント入り地図)の取材で毎年トータル1か月間以上、担当の関西エリアを旅しているけれど、プライベートではほとんどバイクに乗らずラクチンな車移動にしてしまう。宿泊も快適な旅館が中心で、車中泊するのがせいぜい。テントキャンプはまったくしていない。飲み会や直接対面することが制限された影響もあって、夫以外の誰かと一緒に行動することも億劫になっている。冬から春は夫の趣味に付き合って長年バックカントリースキーであちこちの雪山に登って滑ってはいるけれど、夢中になるほどではないし、年々体力・脚力が落ちているのを自覚して我ながらガッカリするばかり。

◆また、東日本大震災以来、福島原発被災地で続けている動物保護活動も中途半端なままだ。旅ができなくなるからペットを飼わないという人も多いが、ペットとの暮らしは人生に癒しと潤いをくれるかけがえのないものだと思っている。そうした思いもあり、「旅をすること&ペットを飼うこと」をもっと普及させて、さらに動物保護活動へ繋げるべく、自らがモデルケースとなるよう行動しているが、10年以上経った今も、納得いく答えは出ていない。

◆昨年は取材・原稿執筆仕事に加え、全国旅行支援の効果もあって副業のペンションのアルバイトが大忙しだったが、それも年末年始で一区切りついて、新年になってからは自宅で犬猫と一緒にまったりお籠り生活を送っている。2年前に我が家に自主的に引っ越してきた2匹の猫「寅治郎&ねずこ」(300m離れた家の外飼い猫。飼い主が来ても戻らずに我が家に居座っている)と、保護犬のトイプードル「ユキさん」との犬猫模様に癒されつつも、若いころになかった迷いがいろいろと出てきて悶々と過ごしている今日この頃。いわば、熟年モラトリアム?

◆こんなことではいけない。まだ60代。体力は落ちても経験値は上がっているし、気力をアゲれば残りの人生で何かやれるはずだ。カソリック教の教えと地平線会議の諸先輩方のアクティブな生き方を見習って、始まったばかりの60代をどう生きるか、何をしようか、この冬はいろいろ模索する予定。春頃までには、モラトリアムを抜け出してなんとか道筋を見つけたい。[女カソリ、60代もがんばるゾ! 滝野沢優子


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

新堂睦子(10000円)/笠島克彦(10000円 通信費です。どうぞ良いお年を!)/森本真由美(5000円 お世話になります。これからも宜しくお願い致します。毎回元気を頂いて楽しみに読ませて頂いています)/戸高雅史(4000円)/神尾眞智子(10300円 いつもお世話になりましてありがとうございます。地平線通信費5年分お送りします/小泉秀樹(5000円 1年分の通信費+αとして。地平線通信から元気をもらっています)/渋谷嘉明(10000円 通信費です。いつもありがとうございます)/菅原強(10000円)/川本正道(10000円 毎月の発行と送付ありがとうございます)/大堀智子(5000円 毎号楽しく拝見しています。近いいつか、また地平線報告会の復活を心待ちにしています!)


新年の「覚悟」と「負けない生き方」

■新年が明けて屠蘇や雑煮を祝う前に新聞を開くと、「『覚悟』の時代に」という大タイトルが目に飛び込んできた (朝日新聞元日のオピニオン欄)。厳しさを増す国際情勢や超高齢社会の進行、長引くコロナ禍などで将来への不安が広がるなか、私たちひとりひとりにもさまざまな「覚悟」が求められる時代がやってきた、とこの記事は言いたいのだろうか。しかし正月早々、いや、どんな場合でも、他人から「覚悟しろ」などと言われるのは、俺はいやだな……。そう思って読み始めると、紙面半分を占める談話で宗教学者の山折哲雄さんがいいことを言っている。

◆仏教用語での「覚悟」すなわち「迷いを去って道理を悟ること」が、本来の意味を離れて、もっぱら「死と結びつく形で日本人を強く動かす言葉」になったのは、それが武士道と結びついたからであり、広く定着したのには『葉隠』という書物の影響が大きかった。しかし、「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」で知られる『葉隠』には、一方に「浮世から何里あらふか山桜」という句もあって、武士が武士の理想を実現できない状況下では、隠者脱俗の世界で花鳥諷詠の文化に生きる道もあることが示されている。山折さんはそう指摘した上で、次のように語るのだ。

◆「閉塞感の中で思想を過激化させたのが『死ぬ事と見付けたり』だったとすれば、価値ある死を選ぶという誘惑を退けて、『勝てないけれど負けない』生き方を示したのもまた葉隠だった――」と。これはつまり、後者もまた「覚悟の生き方」であり、世に閉塞感が漂う昨今は、むしろ「時代の誘惑」を退けることのほうが大事だという山折さん流の示唆なのだろう。

◆明治になる前の約千年間、圧倒的な中国文明のもとにあった小国日本の、国際関係における「現実的な姿勢」と、その我慢や知恵などを指摘したうえで、山折さんは「国にも人にも、そのような『勝てないけれど負けない』生き方があるのだと提示する。その話はもうひとつ私に、かつて霊長類学者 (京大前総長) の山極寿一さんから聞いたゴリラの話を連想させた。山極さんによれば、無用な争いを避けて互いの面子を尊重し合うゴリラの社会は、勝って相手を退けるのではなく、相手と同じレベルでの共存をめざす『負けない論理』で成り立っているのだという。そのことを発見した山極さんもまた、「人は今こそ、ゴリラ社会のそのような姿を見習うべきだ」と語っていたのだ。

◆「勝てないけれど負けない」あるいは「勝とうとはしないが、しかし負けない」という生き方は、では、己に引き寄せて考えると、どんな生き方になるのだろう。人の世は組織や個人間の競争で成り立ち、見えない勝敗もある。そこからは序列も生じ、抜きんでる者がいれば脱落する者もいる (と思われている)。そんな現実世界の多くは無視して、少なくとも「脱落しない」ことだけをめざせばいいということなのか。

◆すでに本業を引退した老齢の私には、もはや競争を伴う実社会での勝ち負けはない。ライフワークとしてきた探検や、周縁の登山、冒険の世界も、幸いなことに「競技」の世界ではなく、他者と競っての勝ち負けや序列を意識する必要はない……はずだが、過去は果たしてどうであったか。また、今後の探検や人生でも立ちはだかるだろう壁や苦難を前に、「自身の弱さや状況に勝つか負けるか」という内的な葛藤は生じないのか……。

◆今年、私は4年間中断していたスリランカの密林遺跡探査を再開するが、巨大遺跡の新発見という成果でも上げない限りは、目標の小ささや行動の地味さ、話題性の乏しさといった活動の「特質」は変わらない。それどころか、年齢による体力の低下というハンデも加わっての活動再開となり、もとより他者の探検や冒険、その他の活動と比べられる状況でもないのだが、それでも他人や自分に「負けない」活動のありようとはどんな状態を指すのだろう。考えるほどに、その捉え方の難しさが感じられて、心が落ち着かなくなってきた。

◆だが、ひとつあり得るのは……と、その元日、考えているうちに静かな思いが湧いてきたのは、やがて飲み始めた酒の助けでもあったのだろうか。尊敬する先輩方や知友たちとも、今後は己を比べないこと、他者の活動や生き方に嫉妬や卑下の思いは抱かずに、自身の内でも成功や失敗を問うことなく、ただ淡々と一度定めた己の道を歩むこと、それだけが私にとっての「負けない生き方」であるように思えてきたのだ。小さくても探検、失敗しても一里塚。これまでもそう思って活動を続けてきたが、改めて「この道を離れない」という平凡な意志を固めることで、自分の「覚悟」が自覚でき、安心できる気分になってきた。

◆正月早々、新聞記事から「覚悟」を問われ、ろくでもない政権からは「国を守る大義のために、増税などの犠牲を払え、辛抱をせよ、いざとなったら命も差し出せ」と言われかねない劣悪な時勢にあって、それはいやだと、強烈な反対の覚悟を固める一方、人生の勝ち負けや生き方までを考えさせられ、個人的な静かな覚悟を自覚させられた新年が、こうして始まった。この思いを忘れずに今年は日々を歩いて行こう。[岡村隆

世紀末の写真展「地平線発」を知っていますか?

■あけましておめでとうございます。1997年に『写真展「地平線発」――21世紀の旅人たちへ――』を企画・編集・制作をさせていただきました旧NOVLIKA(ノヴリカ、影山・本吉)です。毎月の「地平線通信」を拝読しながら写真展開催に辿り着くまでの道のりが深い感慨とともに思い出されます。今も部屋の壁には、チリ・アタカマ砂漠の巨大な手の彫刻とバイクの滝野沢優子さんの写真を使った写真展開催告知のリーフレットがあります。

◆読売新聞に掲載されていた数行の記事から「地平線会議」の存在を知り、写真展を企画してから既に25年。ノヴリカは存続しておりませんが、地平線会議の旅人たち39人+1から提供された1972〜1997年に撮られたポジとネガフィルムあわせて229点は紙焼きに拡大し、額装、あるいはデジタル大判出力でタペストリークロスに印刷、透明なトランリットフィルムにプリントしてアクリル箱に入れるなど、現代美術指向のノヴリカらしい展示をさせていただいたことは、今も鮮明に蘇ってきます。

◆前述の+1とは、スーダンで取材中の故惠谷治さんを撮影された中野智明さんのことです。写真展の開催まで準備に時間を要し、会社として体力が持たない私たちが逡巡していたとき、「地平線会議」主軸メンバーだった惠谷さんに「やっちゃえよ」と背中を押してもらい、写真展は、東京品川のO(オー)美術館を皮切りに1997年7月11日から、日本全国津々浦々“旅する写真展”として、開催会場を大募集しながらスタート。夫婦2人の小さなアートプロデュース会社にとっては大冒険でした。

◆しかし、全作品をフルカラー、キャプション付きで編集し、凸版印刷の協賛により、手のひらサイズ154ページの写真集を残せたことは幸いでした。今も色落ちなく美しい写真に出会えます。その後、写真展は東京練馬区、横浜市中区本牧間門、島根県金城町、横浜市戸塚区上倉田町、兵庫県日高町を巡回。また私たちの手を離れ、地平線会議による独自の展覧会も開催されたようです。229点の写真作品は、日高町の「植村直己冒険館」へ寄贈、安住の地を得ることができました。

◆昨年暮れ、江本さんのメールで医師の中村哲さんがアフガニスタンで銃弾に倒れ3年が経ったことに気付かされました。灌漑用水路を現地の人々と共に建設していた中村さん。個人の写真を掲げるのは珍しい偶像崇拝を排斥するイスラム国で、中村さんの顔写真は東部のジャララバードの石碑に掲げられているそうです。

◆昨年11月、彼の地を高世仁さんと遠藤正雄さんが取材されたことは、通信前号で高世さんが書かれておられますが、私は「あっ!遠藤さん」と懐かしい名前に遭遇した思いでした。遠藤さんは、19歳の時フリーランスの報道カメラマンとしてベトナムへ飛んだ人です。地平線会議とご縁ができる3年ほど前、遠藤さんの写真展を開催したいと思い、時事通信社から情報を得ていました。

◆遠藤さんの写真は、日本のニュースでは目にしない惨状の写真が少なくない。恐ろしいけど、見なければいけない。見せるのはためらうけれど、見せなければならない、二律背反のような写真が多い。今も手もとにルワンダでツチ族が殺され、教会の前に焼けた首が転がる「虐殺の大地」、1994年のポストカードがある。その延長線上に「地平線」の写真展があったのです。

◆写真展「地平線発」の協賛会社を探す中で、ソニー企業が関心を示してくれ、フォット・エッセイを出版することになり、『A LINE 地平線の旅人』(1998)が誕生しました。「A LINE」は「ア ライン」と読み、一本の道を歩み続け、一線を超えて挑戦し、途切れずに続く線をイメージ。三部構成で“生”はモンゴルとチベットのドキュメントを江本嘉伸さん、“死”は戦場カメラマンの遠藤正雄さん、“再生”は登山家の戸高雅史さんに執筆していただき、ソニー企業の担当者と縁故の求龍堂から刊行しました。

◆能海寛チベット壮途100年の1998年を機に、江本さん著『能海寛 チベットに消えた旅人』(求龍堂,1999)も発刊。能海の故郷の島根県金城町では写真展「地平線発」を開催していただき、江本さんも講演、それらが『金城町誌』に掲載されました。寒かった金城町での写真展の設営中に、ほかほかの蒸しまんじゅうを浜田市から買って差入れて下さった温かさは忘れられません。写真展「地平線発」は、出版を促し、人とのつながりを広げることができました。

◆地平線会議をネットワーク、またはセーフティーネットといった人がいました。「地平線通信」は、読み手にリアルな生命力を与えているのだと思います。今後、ポスト江本代表世話人が誕生するのかどうか、持続する「地平線会議」を願っています。写真展の作品が次世代へ残せたのはよかったことです。デジタル時代の今から思えば、フィルムを紙焼きしたアナログの写真展が懐かしい。新たな写真展が開催されることを期待しています。現在、還暦を過ぎた私たちは、日本人や日本列島の記録を網羅的にデジタル保存する「ナショナルデジタルアーカイブセンター」設立に向けた活動を微力ながら行っています。[影山幸一・本吉宣子

帰国が迫る昭和基地で過ごした日々

■江本さま。新年あけましておめでとうございます。昭和基地の澤柿です。

◆昨年「極夜」の時期にミッドウィンターのご挨拶を差し上げてから長らくご無沙汰しておりましたことをお詫びいたします。こちら南極は季節が反転して白夜の季節を迎えていて、忙しい日中の作業を終えた隊長室の窓から、沈まぬ深夜の太陽を眺めつつこのメールを書いています。

◆12月22日に、樋口和生越冬隊長ひきいる第64次南極観測隊が大挙して昭和基地に乗り込んできました。樋口さんとはヘリポートで熱い抱擁を交わして、久しぶりの北大山岳部出身者どうしの再会を喜び、これから開始される怒濤の夏期オペレーションと越冬隊どうしの引き継ぎ作業の成功にむけて一致団結していくことを誓い合ったところです。

◆今年のしらせは定着氷縁までは順調でしたが、12月上旬にやってきた季節外れのブリザードもどきで流氷が吹き寄せられて、そのパックアイスにつかまってしまって動きが一時止まってしまいました。実は、受け入れ側の我々63次越冬隊は、11月に入ってから64次本隊を受け入れるための本格除雪を進めていたところ、11月としては60年ぶり歴代タイ記録となる5つのブリザードに見舞われてしまいました。雪かきしてもすぐに埋め戻されてしまうという賽の河原状態に陥り、いかんともしがたい状況になっていたのでした。

◆そういう状況下でしらせの動きがパックアイスに阻まれて動きが止まったことは、我々にとっては朗報で、すこしは除雪に向けて余裕が持てるかな、と期待したのですが、しらせのほうはしらせのほうで、遅れてはならぬ、と頑張ってしまったので、予定より一日遅れただけであっさり第一便のヘリコプターがやってきてしまったのでした。

◆今回はフジテレビとテレビアサヒの2社が報道入りしていますので、国内では多くの情報が流されていると思います。当然昭和基地ではそんな番組をみることができるわけでもなく、この忙しさの中ではネットもゆっくり見ている暇すらないので、国内のみなさんのほうが我々よりもずっとたくさんのことをご存じなのではないかと思えるくらいです。過熱気味の報道に対して現場の63次隊は疲弊しきって冷めた感じでいますし、その一方で、報道を引き連れてやってきた64次隊のほうは、はりきって元気に活動しています。

◆ミッドウィンター以降の越冬後半には、わずか32名の越冬隊内でも様々なことがありました。特に、前半にはまったく目立たなかった隊員が、極夜期になってから突然頭角を現すということもあったりして、人は誰でも深く付き合ってみないとわからないものだなぁと思わされています。そのような「遅咲き」の隊員は、いわゆる「芸達者」な隊員たちでもあります。ドラムやギターでバンド演奏したり、映画監督さながらに脚本を仕立てて撮影・編集までこなしたり、バーでたくみにカクテルを調合したり世界各国の様々な酒のうんちくを披露したり、と、本業以外の場面で極夜期の沈みがちな隊の雰囲気を盛り上げるのに貢献してくれました。

◆このような隊員たちの様子を見ていて、南極探検時代の末期に活躍したアメリカの極地探検家リチャード・バードの言葉を思い出しました。『孤独 (Alone)』という南極越冬記の中に記されている次のような言葉です――「極地生活を楽しく送ることのできるものは、冬眠中の動物が内部に蓄えた脂肪を食べて生きるように、内面に蓄えた教養を糧に悠々と暮らすことができる人たちである」。

◆昭和基地からは、観測隊員たちの貴重な体験と感動を少しでもお伝えしようと、衛星回線を使った情報発信も重要な任務の一つとしてこなしています。特に、隊員にゆかりのある国内の教育機関に向けて行う「南極教室」では、コロナ禍のリモートワークでもすっかり定着したZoomというシステムを使って、文章や写真だけでは伝えにくい生の現場の様子を伝えたり、低温環境ならではの現象を実験してみせたり、生徒からの質問にライブで隊員が答えたりしています。ここ南極では、低温のために電子機器のバッテリーがすぐに消耗したりケーブルが針金のように折れてしまうほど堅くなったりして、日本では簡単にできてしまう中継操作でもそう容易にはいきません。それでも隊員たちは、この厳しい状況を創意工夫で乗り切り、ドローン中継やスマホ中継などの新しい試みにも挑戦しながら、子供たちに少しでも生の南極の姿を体験してもらいたいと頑張ってきました。

◆「南極教室」に参加していた国内の児童や生徒からは「観測隊員に必要なことは何ですか?」という質問がよく寄せられました。そういう質問にはいつも決まって越冬隊長の私に受け答えする役割が回ってきます。そのときには、隊員一人一人を観察してきた隊長ならではの実体験としてまさに現実味のある名言と感じた先のリチャード・バードの言葉を紹介しながら「学校の図書室での読書や楽器演奏やスポーツの部活動も、教室での勉強と同等かそれ以上に、南極観測隊に必要な素養につながっていますよ」と回答することにしたのでした。

◆連日のマイナス30度近くの冷え込みに耐える暗夜期をやりすごした後、8月に再び太陽が戻ってきてからは一日に約12〜13分ずつ日がのびて、11月にはまったく太陽が沈まない白夜に入りました。晴れていればきまって夜空を彩ってくれていたオーロラもこれで見納めとなり、かわりに、海氷上にはアザラシやペンギンたちが姿を見せるようになりました。

◆こうして、我々の活動は、越冬準備としての第一段階と冬ごもりを耐え忍ぶ第二の段階に続いて、満を持して一気に活動を展開する第三のステージに入ったのでした。厚くしっかりと凍結した海氷の上を雪上車で走り回って、昭和基地から数十キロ離れた場所にある観測小屋やペンギンの営巣地のある島々を巡り、さらに、次の隊と合同で実施する南極氷床内陸部での深層氷床掘削拠点までの3か月におよぶ長期旅行による物資輸送を開始したのでした。基地の外に出られるようになると、感動的で雄大な南極の自然美に触れる機会も増えました。

◆10月下旬には、12月の砕氷船しらせの到着に先だって、国際協力体制で運航されている南極航空網を使って先遣隊16名が飛来しました。積み木崩しのような地獄の除雪作業の傍らで、航空機を受け入れるための海氷上滑走路の整備なども行ってきました。そして1月になった今、越冬隊のミッションもいよいよ最終コーナーにさしかかっており、今月末の越冬交代というゴールに向けて、いよいよラストスパートをかける第四のステージのまっただ中にいます。

◆1月いっぱいで昭和基地を樋口さんに引き渡して、私は3月末に帰国します。帰国したらまた地平線報告会に学生たちを連れて参加させていただこうと思います。本年もどうぞよろしくお願いいたします。[澤柿教伸 第63次南極地域観測隊越冬隊長/法政大学社会学部教授]

*江本宛届いた私信ですが、本人の了解を得て掲載します。

「世界探検全集」復刊を機に考える

■1970年代に河出書房新社から刊行された「世界探検全集」全16巻が、2022年9月より復刊されている。毎月1巻ずつ、今年11月まで毎月順次復刊していく。

◆マルコ・ポーロの「東方見聞録」や、ハインリヒ・ハラー「石器時代への旅」イブン・バットゥータ「三大陸周遊記」リヴィングストンの「アフリカ探検記」など、古典から近代探検まで詰まった16巻だ。当時の監修者の名前がまた凄い。梅棹忠夫、井上靖、前嶋信次、森本哲郎というビッグネームが監修者として連なる。

◆この探検全集復刊には、企画段階から関わらせてもらっている。基本的には、70年代に出版されたときの翻訳をそのまま使用しているが、復刊には現代の冒険家や探検家、作家がそれぞれの本をどのように読むべきか、ナビゲート文が冒頭に増補されている。私は南極探検記の名著「世界最悪の旅」のナビゲート文を担当している。他のナビゲート文の著者は、関野吉晴、服部文祥、角幡唯介、山極寿一、川内有緒、中村安希、高野秀行などなど、現代の書き手が集う。

◆私も関わっているので、もう少し宣伝をさせてもらうと、今回の全16巻復刊にあたっては、新しく非売品の「17巻目」を作成する予定だ。これは、16巻全てを購入した人だけに贈呈される非売品となる。企画段階で河出書房新社の方たちと打ち合わせをする中で、17巻目を作ったらどうかというアイデアを出した。なぜいま、この時代に探検全集を復刊するのか。復刊される16巻は、人類の探検の歴史だ。歴史というのは、我々現代に生きる人々の足元に繋がる流れのこと。過去の探検家たちの営みを経て、では2023年の探検とはどうなっているのか、そこまで読ませることで、現代に16巻を復刊する意味が再発見されるはず。非売品の17巻目作成に関しても、前述のナビゲート文著者たちが関わってくる。ぜひ楽しみにして欲しいと思っている。が、繰り返すがこの17巻目は、復刊される16巻を全て購入した人だけに贈呈される「非売品」となるので、ご注意を。

◆話は変わるようで変わらないのだが、私は2021年5月より、神奈川県大和市で「冒険研究所書店」という本屋を営んでいる。17巻目を贈呈されるのは、基本的には今年3月までに全16巻を予約した人だけとなる。そう、つまり何が言いたいかといえば、私のところで予約をお願いします、ということ。まあ、でも、あれでしょ? 荻田君にコソッとお願いしたら、16巻全部を買ってなくても17巻目が裏から出てきて、特別に貰えるんでしょ?ということは期待しないで下さい。それはなし。探検全集の内容については、河出書房新社のホームページをご参照を。そして、購入は「冒険研究所書店」で検索を。

◆探検全集の復刊に関してはもう一つ。現在、河出書房新社と復刊に合わせたイベントを企画している。先日、私と服部文祥さんとのトークイベントを、池袋のジュンク堂で行ったのだが、その次の企画を計画中だ。新宿の紀伊國屋本店で実施を考えているのだが、ぜひ地平線会議にもご登場いただきたいと思っている。河出書房の方たちとも、打ち合わせをするたびに地平線会議の話を出している。彼らも、正直に言えば地平線の存在を知らなかった。そこで、私の手元に引き上げてきた、江本さんの資料や、いくらか余っている「地平線から」を手渡して読んでもらったところ、これは仮に探検全集とは関係なくても、ぜひご一緒したいという話しが出ている。

◆新型コロナウイルスの蔓延以降、地平線会議もみんなで集まる機会がなくなってしまった。私は、個人的に地平線会議のみんなで集まり、探検とは何か? 地平線会議とは何か? そんなことを考えてみたいと思っている。何か、集まるきっかけが必要だと思うので、ぜひ探検全集の企画というのを一つの理由として、集まりませんか?[荻田泰永

*冒険研究所書店 ウェブサイト https://www.bokenbooks.com/

人の話を聞く、ということ

■ライターという仕事柄、文章を書くことはもちろんだが、人の話を聞く機会も多い。特にインタビュー記事をまとめるときには、取材相手からどんな話を引き出せるかで、できあがる文章の面白さや読みごたえは大きく変わる。ライターにとっては、聞くことは書くことと同じ……いや、もっと言えば、書くこと以上に重要な技術だと、僕は思っている。

◆インタビューという行為は、やればやるほど「奥が深いな」と感じる。同じ相手に何度もインタビューすることもあるが、たいていは初対面で話を聞くことがほとんど。取材相手は、僕にとって「未知なる存在」である。もちろん、そんな未知の相手に徒手空拳で向かい合うのはあまりにも恐ろしいので、事前準備は入念にしていく。その人がこれまでどんな人生を歩み、どんなことを行なってきたのか。どのような考えを持ち、どんな発言をしてきたのか。本人が書いたものや、過去のインタビュー記事などにはできるだけ目を通して、取材プランを練る。

◆とはいえ、実際のところは当人と対面して、話してみないとわからない。その日の相手の気分、こちらの質問の仕方、さらには相手と自分との間にどのような関係性を築けるかで、出てくる話も変わってくる。その意味で、インタビューはオンサイトな営み、なのである。

◆さて、前置きが長くなってしまったが、なぜ地平線通信への投稿として「人の話を聞くこと」を選んだのかといえば、昨年末のあるインタビュー取材がきっかけとなり、自分の中に興味深いつながりが生じたからだ。つながりの一端は、2020年に山のフリーペーパー『山歩みち』で取材をさせてもらった、地平線会議でもおなじみの田中幹也さん。20年間通い続けたカナダでの旅や冬の津軽のこと、冒険と前衛芸術の関係性など面白い話をたっぷりと聞かせてもらい、手ごたえのあるインタビューだったが、個人的に深く心に残ったのは、自然との向き合い方についての話だった。

◆幹也さんは、旅や冒険に出かける前、文献や資料を徹底的に読みこむのだが、やるべきことを決めてフィールドに出て行くときには、調べたことをあえて忘れて、頭の片隅に残す程度にしておく、というのだ。「こう書かれていた、という情報にとらわれてしまうと、現場でギャップが生まれることがある」「大事なのは、あくまでも現場での直感や判断」――そんな話を聞きながら、僕の中では「そうした自然に対する姿勢は、人に話を聞くときにも通じるなぁ」と感じていた。

◆良いインタビューをするには、事前の下調べは不可欠である。けれども、実際に取材相手と向き合ったとき、こちらがあらかじめ考えてきたプランや想定にとらわれ過ぎてしまうと、それが先入観を生み、相手の本質を捉え損ねてしまったり、大切な話を聞き逃したりするおそれもある。インタビューで大事なことは、どれだけ真摯に目の前の相手に向き合い、その人が発する言葉の意味や、その人自身の存在を感じ取れるか。そのためには、時間をかけて入念に準備してきたプランを捨てることも、ときには必要なんじゃないか。幹也さんへの取材以来、そんなことを強く意識するようになった。

◆そうした聞き手としての姿勢が、思いもよらないところでつながったのが、昨年12月、とある出版社からの依頼で行なったジャーナリスト・国谷裕子さんへのインタビューだった。長年NHKの報道番組『クローズアップ現代』のキャスターを務め、国内外の著名人へのインタビューを行なってきた国谷さんの話は、同じく「人の話を聞くこと」を仕事にしている僕にとって、すごく勉強になったし、面白かった(日本屈指のインタビュアーをインタビューするということで、かなり緊張もしたが……)。その中で、取材相手から良い話を引き出すためのコツのひとつとして挙げてくれたのが、「準備したものをいったん忘れること」だった。国谷さんは、取材前の準備を徹底して行なう人である。だが、インタビューの現場では、その準備したものをあえて捨てる(忘れる)ことで、相手の話を真剣に深く聞き、その人が何を言わんとしているのか、まるごと捉えて、発せられた言葉に込められた大事なメッセージをしっかりとつかむことができる、というのだ。

◆いまの自分は、まだまだ準備したものを完全に捨てて相手に向き合う境地には達することはできておらず、つい手元の取材メモ(質問項目を整理したもの)に目を落としてしまうことの方が多い。僕の“インタビュー道”は道半ばであり、これからも精進しなければならないと思っている。それにしても、旅や冒険を通じて厳しい自然に向き合っている人の考え方と、キャスター/ジャーナリストとして多くの人々にインタビューを行なってきた人の考え方が通底している――こうした発見があるからこそ、僕自身、人の話を聞く仕事をやめられないんだなとつくづく思う。[谷山宏典

イノシシを食べられないけどイノシシ丸焼き会へ

■昨年末、知人から東京都青梅市の里山で行うイノシシ丸焼き会に誘われた。山で捕獲したものを皆で食べるというユニークな催し。だが頭を悩ませたのが、イノシシは豚の先祖で、私たち家族は食べられないという事情だった。

◆シリア出身、イスラム教徒の夫と結婚して苦労するのが、こうした食事の問題だ。イスラム教では、豚肉とアルコールの摂取を禁忌とするが、日本でこれを徹底するのは難しい。特に豚肉は、ポークエキス、ゼラチンなどに形を変え、さまざまな食品に含まれている。なぜ豚がダメかというと、雑食性で何でも食べ、伝染病を媒介しやすいこと、また我が子とも交配することもある繁殖の性質からだ。イスラム教では、体のみならず、食べたものから精神性も造られると考える。そのため、心身を乱すと考える食物は摂らないのだ。こうした文化の違いに戸惑いつつも、将来的に子供が自分で文化を選び取ればいいと考え、我が家では子供が小さいうちはイスラム教文化を実践している。

◆さて、イノシシ丸焼き会。問題は、同行する6才と4才の子供たちをどうやって納得させられるかだ。何しろみんなは食べるのに、自分は食べられないのだ。実はこれまでも、同じ問題で頭を悩ませてきた。例えば子供の保育園の給食。メニューの半分に豚肉が出るため、私は週に半分、代替食のお弁当を作っている。しかし、どんなに美味しい代替食を用意しても、「なんで僕たちだけ食べられないの?」という子供の疑問は消えない。子供はみんなで同じものを食べて「美味しい」を共感したいのだ。それを理解しながら、宗教という大人のイデオロギーの都合で、子供の体験を制限することに不満さえ感じていた。親にとっても子にとっても、異文化を実践するのは容易ではない。

◆だが、イノシシを食べられないから、子供への対処が難しいから、「行かない」という選択はポジティブでないようにも思える。ここで回避しても、いつか別の形で同じ問題が起こる。遅かれ早かれ、この難題に体当たりし、悶々とし、その葛藤から生まれるものでしか解決策に至らないだろう。その意味で、これはむしろチャンスなのである。

◆早速、子供たちと話し合うことにした。イノシシを食べられなくても楽しく過ごすのはどうしたらいいだろう。そこで長男が提案したのは「たこ焼き屋さん」だ。自宅にあるたこ焼き器を持参し、みんなに配って一緒に食べよう、と。たこ焼きを焼くのは楽しい。それを配り、みんなに食べてもらうのはもっと楽しい。なるほど素敵なアイディアだ。誰かと何かを共有できないなら、他に共有できるものを自分で作って一緒に楽しんだらいいのだ。その発想に長男が行き着いたことになんだかホッとした。

◆さて、会場ではイノシシが美味しそうな香りを漂わせている。その近くで、我が家はたこ焼き屋さん。親子連れの子供たちがひっきりなしにやってきて大忙しだ。タコは、昨今の物価上昇の影響を受けて高級食材となり買えず。ネギだけをわんさか入れたたこ焼きを焼く。傍に、長男が前日に描いた画用紙を立てかけた。「タコの入っていないたこ焼き屋さん」。赤い大きなタコの絵が、差し込む太陽の光に踊っているように見えた。[小松由佳

ひみつ

夢中で話した
何を話したのか
もう思い出せない

ひとり
またひとりと
私のもとを去って行った

気づかなかった
あの時私たちを
やさしい光が
包んでくれてたことに

気づかなかった
今も私のそばで
あなたたちが
ほほえみかけてることに
       [豊田和司


地平線会議からのお知らせ

■ここ数か月、地平線通信の印刷、発送を月曜日としています。ご存じの通り、郵便行政の改革でこれまでのように水曜日発行とすると週内に届かない事態があちこちで起きているためです。今後も当分の間は「月曜日印刷」を目標としますので、発送作業に参加できる方はご留意ください。報告会をそろそろという声も高まっていてひそかに日程と会場の調整を進めています。


地平線通信ができるまで

[その1]

森井さん、レイアウト作業楽しいです!

■昨年の地平線通信8月号以降、森井祐介さんから引き継いでレイアウトを担当させていただいています。とは言っても、通信制作20年の大ベテランの森井さんと同じ編集ソフトは操作できるわけもなく、ワードで作った五区シンプルなものになっております。おゆるしを!

◆作業はまず最初に、武田力さんが制作スタッフの校正を反映させて作ってくれる「最終原稿」をワードに流し込み、偶数ページになるように調整することからはじまります。

◆原稿の掲載順序は、江本さんが熟考してトップ(つまり2ページ目)と「今月の窓」を決定し、あとはその号のカラーが出るように、読みやすいように、と考えながら組んでいきます。レイアウトをしてできた空きスペースの字数を報告すると、江本さんが「お知らせ」や「補足」などの記事を作ってくれます。この小スペースの記事がまた、いい味だしてくれていますよね。

◆こうしてできたレイアウト原稿は、最終チェックを担当してくれる大西夏奈子さんのもとへ。読み応えのある通信をまるごと一気読みするのは大変な作業! でもこのチェックがあるおかげで、私は安心して作業ができています。大西さんからの修正を反映させ、レイアウトが完成するのは印刷当日(月曜日)の朝。平日仕事がある私の担当はここまでで、お昼に江本さんから届くフロント、あとがきを入れるため、続きは落合大祐さん(8月号は丸山純さん)にバトンタッチします。毎回「間に合った〜」とほっとする瞬間です。

◆初めて通信のレイアウト作業を担当した8月、発送作業に参加すると、ちょうど車谷建太さんが入院中の森井さんとスマホでビデオ通話をしていました。病室のベッドで体を起こしている森井さんの口には酸素マスクが。私が「大変でしたよ〜、早く帰ってきてくださいね(笑)」と言うと、森井さんはふふふと笑い、「レイアウト楽しいでしょ」とひと言、ゆっくり応えてくれました。

◆20年間、森井さんは毎月ひとりでこの作業を担当し続けてこられたのかと思うと本当に頭が下がります。と同時に、それだけ森井さんを夢中にさせた通信制作の魅力の大きさも感じます。いつのまにか人生の半分以上の時間読ませていただいている地平線通信、まさか自分が制作側に参加することになるとは思ってもみませんでした。視野を広げ、さまざまな場面で励ましてくれた地平線通信に少しでも恩返しができたらと思いながら、これからも頑張っていきたいです。森井さん、レイアウト作業楽しいです![新垣亜美

[その2]

対馬でキャッチしたフロント原稿、ぎりぎり間に合わせた修正

■新垣亜美さんが地平線通信のレイアウトを担当するようになってから、最後に届くフロント原稿とあとがきの部分は時間の関係で私が中継役を引き受けることが多い。勤務中の新垣さんに代わって、いつもなら在宅勤務の合間に届いた原稿をさっと仕上げてしまうのだけれど、12月は困った。出張ついでに有休取って、初めて対馬を訪ねることにしていたからだ。

◆18時半に発送作業を終えるために、いつも車谷建太くんと白根全さんが14時頃から印刷にとりかかる。江本さんから原稿が届く13時からの1時間で車谷くんにリレーするのが私の仕事なのだが、ちょうどその時間は対馬厳原から壱岐芦部へ船で移動することにしていた。

◆前夜は国境の町、対馬北部の比田勝に泊まった。暗くなってから展望台を訪れると、韓国の夜景。釜山の高層ビルが見えた。とても50キロ離れているとは思えないほど12月の空気は澄んでいた。そして厳原。昨年開館した対馬朝鮮通信使歴史館で、江戸時代に日韓の外交当局に翻弄された対馬藩の苦悩に、新型コロナ禍でインバウンドブームのはしごを外されたいまの対馬経済を二重写しにしていると、江本さんからメールが来た。あれ、きょうは早いぞ?

◆バスターミナルがある観光情報館で、作業場所を探す。ついでにお昼だ。「つしにゃんキッチン」で穴子カツプレート。頼んでからMacbook出して、イラレ(アドビ社のレイアウトソフト"Illustrator")を立ち上げる。チェック版を編集メンバーに送り込んでから穴子に取り掛かる。骨がちょっとひっかかる。

◆団体客で賑わうフェリーターミナルで、武田力さんから指摘の「コロナ・ウィルス」を「コロナウイルス」に直して、乗船の列に並ぶ。本土へ帰る孫たちを見送る老祖父母。「揺れませんように」との声が聞こえた。ジェットフォイル船ヴィーナスに乗り込んだところで加藤千晶さんから指摘のメールが入っているのに気づく。「あとがきの『余談は許さない』は『予断は許さない』だとおもいます」。

◆うわ、それはまずい。あわてて2文字を直す。動き出した船に岸壁から手を振る見送りの人たち。それを見ながらスマホの電波頼りに再修正版を車谷くんに送る。なんとか港内で間に合った。沖合はきのう上空から見たような白波だったが、さほど揺れずに助かった。右舷に壱岐が見えてから「バッチリでした!」と車谷くんからメール。今月も間に合ってよかった。[落合大祐

[その3]

2023年版 通信発送の風景

■新年早々に腰をぎっくりとやらかしました車谷でございます。寝そべった体勢から失礼しますが、2023年版地平線通信発送の風景を少々お伝えします。

◆基本情報として、僕の通信発送作業は通信の版下と印刷用紙を森井さんのマンションに取りに行くところから始まるのですが、「こんちは〜!」と扉を開けると、中から決まって笑顔の森井さんから「参ったよ〜!」との返事が返ってくるものでした。この「参ったよ〜!」には大体3パターンありまして、1つ目は「江本さんからのフロント原稿が今日も順調に遅れている」、2つ目は「急な原稿の直しが入り、間に合わない」、3つ目は「森井さん宅のプリンターが動かない」。

◆事件は他の現場でも発生します。印刷室の印刷機や折り機はその日の気分で平然と駄々っ子ぶりを発揮しますし、機械を煽てるのも一苦労です。皆で楽しく和気藹々と行う折り込み作業では、二つ折りになったペラ原稿をそれぞれ表面に1,3,5,7ページが来るよう、四つの山を順番に配置してから組み込んでゆくのですが(総部数は560部程)、終盤で「あ!3ページの山の残り枚数だけ異常に少ない!」と発覚すれば一同たちまち凍りつきます。

◆通称『クラスター現象』です。これは最初に配置した段階で3ページのペラ原稿が他の山に紛れていたことが原因です。それまで組み込んだ大量の完成した通信の山のなかから、3ページを重複させて組んでしまった一角を探し出すミッションが発動します。冷静さと諦めない気持ちが肝心です。このように毎回何かしらてんやわんやのアクシデントに見舞われながらも、何故か神風が吹いて発送作業は無事に終了するという奇跡を僕はこれまで何度も見てきました。

◆昨年の初夏に森井さんが療養することとなり、いま発送作業現場では少しづつ変化の波が起き始めています。これまで森井さんが30年程前のパソコンソフトを駆使していたレイアウトの大仕事は、新垣亜美ちゃんが最新ソフトで一手に引き継ぎ、印刷用紙は僕が自宅から直接車で運び、版下は森井さん宅のプリンターからコンビニのネットプリントサービスに鞍替えしました。

◆『ネットプリント』って凄いんですね! 先月は対馬にいる落合大祐さんから僕の携帯電話に受信した全ての原稿データを早稲田のセブンイレブンでいとも簡単に出力しました。いままでウン十年間続けていた地平線的アナログ作業は現代文明からみるとかなり結構ガラパゴス感が否めないのですが、そんなアナログ要素をみんなで繋いでる連帯感も愛おしい今日この頃です。

◆ここ数か月のことですが、なんと江本さんのフロント原稿投稿が予定時刻通りに毎回届くという奇跡が起きています。これは江本さんが引っ越したために通信発送日の午後9時までに新宿郵便局へ運び込む必要ができたこととも関係していますが、個人的にはいちばんびっくりしています。

◆本年もジャンジャンバリバリ発送してゆく所存ですのでよろしくお願いします。皆さんどうぞお気軽に発送作業に遊びにおいでくださいね。お待ちしています♪♪♪[車谷建太


(笑)笑門来福

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―― 連  載 ――
旅のはなしのはなし

第4回 定時制高校の学園祭で話す

坪井伸吾 

■「久しぶりやな。坪井。ワシ、今定時制高校で校長やってるんや。それでな、頼みあるんやけど、今度の文化祭でウチの生徒に話してやってくれ。よろしく頼むわ。交通費、宿泊費込みで15万や」。理解する前に瞬殺で決められてしまった。

◆高校のクラブ、ヨット部の顧問の先生(通称がっさん)からの電話だった。一応元体育会系としては、話がその筋から出てきたら選択の余地はない。しかし電話がまさかがっさんからとは。久しぶり過ぎて顔もぼんやりとしか浮かばない。スピードについていけなかった話をもう一度検証する。今、最後になんて言った。15万! ホンマですか、先生。よろこんでやらせていただきます。

◆前日、現地に着く。がっさんが空港まで出迎えに来てくれる。がっさんとの年の差は10才。考えてみれば高校入学時15才の時にがっさんは25才だったのだ。15才にとって25才は大人だが、今となっては昔ほどの距離感はない。

◆「ワシの教え子から有名人が二人出た。一人はプロ野球選手の小久保で、もう一人はオマエだ」。「いや、先生。それはエライ勘違いです」「でも本も出してるし、芸能人とも付き合いあるて聞いたぞ」。誰だ、話を大きくしてるのは。

◆「あのな、坪井。定時制高校って普通の高校とは違うんや。いろいろ理由があって高校に行けなかった生徒がいる学校なんや。今いる生徒で一番年上は30才ぐらい。前は70代の元やくざもいた。その人は悪さばっかりやって、また刑務所に戻ってしもた」。がっさん、その話は最初にしてほしかった。うかつだった。15万に気を取られて定時制高校が何かに考えが及んでいなかった。

◆僕は自分の高校生の頃を思い出し、母校のイメージで今日の話の準備をしてきた。だけど、どうやら生徒は僕が想定していた生徒とは違うかもしれない。今更、写真の変更はできない。様子を見て場合によっては即興で話の中身を変えるしかない。幸いにも今回は「世界で出会った人」の写真で組んでいるから、融通は利く。

◆まず学校を見てくれ、と言われ、がっさんと二人で校内を歩く。話す予定の体育館の入り口に「なんとかなるよ。バイク世界一周 講師 坪井伸吾先生」という大きな立て看板があるのが目に付く。不思議な気持ちだ。先生? 僕が? 「なんとかなるよ」は自分の座右の銘だが、このユルさは生徒の眼にはどう映るのだろう? これでよかったのか?

◆校長室に戻り、二人で遠い昔の話をする。「僕、学校行きたくない日は直接艇庫に行って、堤防に寝転んで海を見てました」「オマエらの船が港に戻ってるのに、ワシの乗ってる本部船(指示を出す漁船)が帰ってこないことあったやろ。あん時な、ワシ、本部船からルアー流して太刀魚釣ってたんや」。なんだ、それ、酷い話だな。二人だけにしか分からない昔話。もう今となってはすべて時効だ。

◆「坪井、出番までここでお茶飲んでろよ」と言われ、はっと現実に戻る。こんなことをしている場合ではない。「場」の雰囲気を観察して体感するのだ。会場に入り、舞台の隅に目だたないように座る。体育館を見渡すと、全員が着席している中を、なぜか2人の男子生徒がウロウロ歩き回っている。教師は黙認しているから、そういう生徒として受け入れられているのだろう。他にも室内なのにフードで顔を隠している子もいる。やはり何かが違う。

◆文化祭はスピーチがメインだった。まず女子の生徒会長が壇上に上がる。学園祭でクレープを焼いたのが最高の思い出です、みたいな話が出ると思っていた。しかし彼女が静かに話したのは、自分が身ごもったときの体の異変だった。17歳のシングルマザーとなってから、仕事と子育てと学業、三つをこなすのは本当に大変だ、と続ける。圧巻だった。このままテレビで放映しても通用すると思った。同時に自分の役割を考えると息が苦しくなる。僕はこのスピーチを越えないといけないのだ。もう今更逃げ場はないが、とりあえず現場を見ておいて正解だった。

◆二人目は不登校の女子生徒だった。学校に行けなくなった彼女の居場所は保健室しかなかった。そこにはもう一人同じ境遇の男の子がいた。彼女にとって唯一の同志だった彼はある日自殺してしまう。そのとき彼女は決意した。私は彼の分まで学校に行かなければいけない。聞いていて僕も涙ぐんでしまった。そしてさらに追い詰められる。何が「なんとかなるよ」だ。どうにもならず苦しんだ子たちが、この体育館に集まっている。話の中身を変えなければいけない。もう時間がない。出番が迫ってくる。

◆あのときにどんな話をしたのか、もう思い出せない。「人」の写真だったので、旅先でその人と、どうやって出会って、なぜ記憶に濃く残っているのか、を話した気がする。「出会い」の話は定時制高校の生徒さんに受け入れてもらえたと思う。

◆このときの緊張感は強烈だったので、以降、誰に対して話すのかはできるだけリサーチしている。


今月の窓
2023年、高齢者のチャレンジ

森に放り出されたら私は生きていけるのか?

関野吉晴 

■今から50年ほど前、ペルーアマゾンの地図の空白地帯パンチャコーヤに向かった。外部の人間を寄せ付けない、よそ者とはコンタクトのない先住民が暮らしていると聞き、会いに行ったのだ。その中の一家とは50年の付き合いになる。彼らは、私が自然と人間との関係を考えるとき、私の師匠だ。今年私がチャレンジしたいことは、そのマチゲンガ一家との付き合いと切っても切れないものだ。

◆彼らの家に泊めてもらい、気付いたことがある。彼らのゴミと排泄物と死体についてだ。彼らもゴミをつくる。バナナやイモの皮、ゴザやカゴ、漁網、袋、衣類、ひょうたん容器などが壊れたり、腐ったりしたものはかき集めて、森に捨てる。ゴミは森の生き物に食べられ、ムシや微生物に分解されて、やがて土になる。その土のおかげで、植物や苔、菌類が育つ。それらを動物が栄養とする。ここでは、ゴミが厄介なもの、消え失せて欲しいものではなく、必要なものなのだ。排泄も森の中で済ます。都会では水洗トイレに流されて、圧縮され、焼かれて二酸化炭素が排出されるだけだ。ここでは、他の生き物たちに利用される。

◆死体も都会では焼かれて、二酸化炭素が排出される。一方、マチゲンガの世界では、埋葬されるか、川に流される。森では虫や土壌生物によって分解される。アマゾンの魚が死体を食べてくれ、その魚もいずれは他の魚や動物に食べられたり、腐食したりで、自然に戻っていく。自然界では、生き物たちはリンクしていて、繋がっている。どんな生き物も役割があり、必要ない生き物はいない。すべての生き物が循環の輪の中にいる。都会に棲む私たちは完全に循環の輪から外れてしまっているが、マチゲンガは、自然界の循環の輪の中にすっぽりと入っている。

◆3年前から、ドキュメンタリー映画を作っている。「うんこと死体の復権(仮題)」とタイトル先行で、文明社会では邪魔物扱いになってしまったうんこと死体とゴミを見直してみようという映画だ。伊沢正名さん(糞土師)、舘野鴻さん(生物画家)、高槻成紀さん(保全生態学者)の3人が主人公だ。夏から編集に入り、年内には完成させたい。

◆マチゲンガの家に入ると、もうひとつ気がつくことがある。周囲にあるものは見事に素材がわかるものばかりなのだ。家を作っている屋根、柱、梁、柱や梁に載っている籠や漁網、ひょうたん、弓矢や糸巻き棒、燃えている薪、ハンモック等々。すべて自然から素材を取ってきて、自分で加工してしまうのが彼らの流儀だ。それに対して都会で暮らす私は、自然から素材を取ってきて自分で作ることはほとんどない。私の部屋を見回しても、素材の分かるのは合板でできた机くらい、自分で自然から素材を取ってきて自分で作ったものは皆無だ。

◆45年前、私は『山と溪谷』の別冊で「ロビンソン・クルーソーの生活技術」というムックを出版した。私にとっては初めてのグラフィックな本だった。マチゲンガはナイフ一本あれば、一人でアマゾンの森に放り出しても、そこの素材で家、服を作り、食料を獲得して生きていける。家、獲物、解体、魚、火、採集、旅、遊、酒、畑、衣料、筏、弓矢の15項目を、私が克明に撮った写真とイラスト、文章で表した本だ。コラムに「実験考古学・縄文人の道具を作り、使ってみた」「図説・古代人に学ぶ衣、食、住のすべて」「横井庄一さん30年の工夫の歴史」がある。そして、「ナイフ一本で密林に放り出されたら、現代人は生きていけるか!」という植村直己、西堀栄三郎さんらの鼎談がある。

◆今回、私は「ナイフもなしで、単独で、徒手空拳で、森に放り出されたら生きていけるのか」を試み始めている。下のタイムテーブルは今年一年に考えていることだ。

 ■1〜3月 石器時代の半地下式家屋づくり
  並行して、火起こし、炉作り、粘土を探して、野焼きで土器づくり、石臼づくり
  縄、紐づくり、籠、ゴザ、鍋置き、草鞋
  蛇紋岩で石斧、流紋岩で砥石、黒曜石で石斧、ナイフ作り
  竹の食器、ナイフ作り
 ■4月 罠猟で猪、鹿を獲る、皮を鞣す。オーガニックコットン栽培
  並行して、漁網づくりで魚を捕る。鬼くるみ、野苺など野生フルーツ採集。ひょうたん栽培
  昆虫およびその幼虫を採取し食用として使う。自然栽培による畑作り
 ■5月 糸づくり、鹿角針作り、竹のドームつくり。桃、栗の植樹。蜂蜜飼育
 ■6月 ザリガニ、カエル、ヘビの採取。焼いて食べる
 ■7月 籠、敷物、瓢箪容器
 ■9月 ドングリクッキー作り。栗採集
 ■10月 赤麻アカソ、カラムシの繊維で服づくり。草鞋、藁のブーツつくり
 ■11月 ウサギの飼育開始
 ■12月 口琴、ケーナ、サンポーニャなど楽器作り


あとがき

■2021年2月の通信502号のフロントで2通のハガキについて書いた。縁あって九州大学の「世界が仕事場」というオンライン講座で話をした際、最後に私の住所を伝え「どなたかはがきで感想でもなんでも書いてください」と呼びかけた経緯だ。

◆大方の声は「今時の学生がはがき書くわけないよ」というものだったが、それが2通来たのだった。その1人が今回黒百合ヒュッテで長岡一家、高世泉さんと出会った安平(あびら)ゆうさんである。すでに何度もこの通信に登場しているのでご存知と思う。

◆九州の大学山岳部女子が東京の島の高校生に雪の山で遭遇する。人生の素晴らしさとはまさにこういうことなのではないか。地平線会議がそんな出会いのきっかけになったとしたら嬉しい。ありがとう、ゆうさん、翔太郎君。

◆暮れに終わる予定だった向後元彦原稿、今回は新年号で余白がほとんどなくなったため、来月にします。その旨本人に伝えたら「ありがとうございました。じつはホットしています。2000字まで書いてあと一息、でもしんどい、苦しい、の状態でした」と返信があった。よかった。

◆先月のフロントで「フランスの若きストライカー、エムパべ」とあるは、「エムバペ」の間違いでした。すんません。[江本嘉伸


『草刈りの巻』(作:長野亮之介)
表4 初夢の巻

《画像をクリックするとイラストを拡大表示します》


■今月の地平線報告会は 中止 します

今月も地平線報告会は中止します。
感染者数が高止まりしているため、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。


地平線通信 525号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2023年1月16日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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