12月19日午前2時58分、ついに決着がついた。カタールの首都、ドーハで開催中だったサッカーワールドカップ決勝。アルゼンチンがフランスを破り、1986年のメキシコ大会以来36年ぶりの優勝を果たしたのである。さほどのサッカーファンというわけではないが、今回はこの通信を出す日に決勝という巡り合わせだ。しっかり見届けたい、と徹夜のテレビ観戦をしたわけである。
◆試合は35才になったアルゼンチンのエース、メッシとフランスの若きストライカー、エムパべ(23才。なんと発音しにくい名だ)の真っ向対決となった。前半メッシの活躍で2-0でリードしたアルゼンチンが圧倒的優位に立ったが後半になってエムパべがなんとハットトリックを決め、3-3の同点に。結局PK戦を4-2で勝ち、アルゼンチンが3回目の制覇をなしとげた。
◆我らが日本は大健闘して決勝トーナメント進出を果たしたが、その初戦のクロアチア戦でPK戦で破れ、ベスト8は成らなかった。PK戦についてはあの大谷翔平君が「PK戦になったら急に別競技だよね。野球でいったら急に本塁打競争で決着がつくみたいな」とLINEに書いたそうだ。確かにそういう感じがある。さすがだ、大谷君。悲願の優勝を勝ち取ったリオネル・メッシはMVPを受けた。
◆新型コロナウイルス、もう3年になるのだから、と完全終息を願っているが、WHO(世界保健機関)の集計によると12月5日から11日の週間感染者数は日本が85万人で6週連続で「世界最多」だそうである。ええ、世界一?と思うが、そういえばこのところ地平線の仲間たちにもかなり感染者が増えているようだ。幸い重症な人はいないが、まだまだ付き合わなければいけないのか。
◆などとほざいていたら我が家でも先日ついに連れが発熱し、喉がかすれる症状が。薬局で検査キットを入手して調べたられっきとした陽性の反応だった。すぐ関係機関に連絡して指示を仰ぎ、最大限の注意を払いつつ自宅缶詰状態に。やばい状態は3日続いたが、その後は日に日に改善し、1週間で切り抜けることができた。コロナ、やはりおそるべし、なのだ。
◆師走のある日、近くの市民ホールでの混声合唱団のクリスマスコンサートを聴きに行った。40人ほどの団員の皆さん、かなり年配の方々に見えたが、ほんとうに歌うことが好きなのだろう。しっかりマスクつけたまま堂々と斉唱される。プログラムにこんな「ごあいさつ」があった。
◆「哀愁漂うロシア民謡を歌い続けて36年、世界中に共感を呼ぶ音楽は国境を越えて連綿と歌い継がれていることをあえて申し上げた上で、ロシア軍によるウクライナへの非人道的な侵略戦争が1日も早く終わり平和が訪れることを祈って……」。プーチンが仕掛けたウクライナ侵攻作戦はもう10か月を越えようとしている。音楽を通してロシア的なものを取り入れてきた人たちはある意味被害者と言えるだろう。
◆しかし、歌はいい。「ロシア、ウクライナ民謡の花束」というパートを聴いていて懐かしかった。「泉のほとり」「鶴」「黒い瞳」なんて最近は聴く機会がほとんどないものな。「小さいぐみの木」だけロシア語の歌詞で歌われたのだが、頭の中で私も合唱してしまった。しっかりロシア語の歌詞が出てきたので嬉しかった。
◆ことし2月24日にロシア軍が侵攻を開始したウクライナ戦争、おそらく数日で一気に、という(プーチンの考えていた)戦いがもう10か月続いている。それだけウクライナがロシアの考えていた以上に強かった、あるいは強くなった、のであろう。米「TIME」誌は「パーソン・オブ・ザ・イヤー」にウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領を選んだ。そして、一方のプーチン氏は年末恒例の「大記者会見」を今年は中止することにしたそうである。強気で政策を進めてきたこのリーダーも自信が揺らぐことがあるのか。
◆「今年の漢字」というのがある。公益財団法人である日本漢字能力検定協会がその年をイメージする漢字一字を全国から公募、最も応募の多かった一字をその年の世相をあらわす漢字として原則として12月12日(漢字の日だそうである)に発表する。1995年から始まり、今年は「戦」という字が選ばれた。
◆ウクライナ侵攻や北朝鮮の相次ぐミサイル発射などその字が表す事態を警戒してか、岸田政権はこの16日、国家安全保障戦略など安保関連3文書を閣議決定した。これまでの政権が否定してきた他国領域を攻撃する敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有を認める安保政策の大転換である。当然、激しく賛否の声が上がっている。
◆ものみな値上がりする昨今、経済の動向も危なっかしい。2023年、私たちは世界との向き合い方を一層真剣に、自分の生き方として考えなければならないであろう。[江本嘉伸]
■今年5月、マレーシアがようやくコロナ禍からの入国制限を緩和した。行こう。ということで、4年ぶりとなるボルネオ島・サラワク州に10月20日から31日まで滞在。これで約30回目の訪問となるが、短期であれ、改めて変わりゆく、そして変わらないサラワクを実感した。サラワクの熱帯林で劇的に変わったのが、100万人以上はいる先住民族のほとんどが、ほぼいっせいに「焼き畑」をやめたことだ。政府に命令されてではない。数年前から、自主的にやめていた。
◆世の中に「絶対もうかる仕事」は……少なくとも今のサラワクにはある。ゴールド・ラッシュならぬ「オイル・ラッシュ」が起きているのだ。1992年頃から本格化した油ヤシプランテーションは、最低3000ha、なかには1万ha超の規模で、森をいったん丸裸にして、油ヤシだけを植えるのだが、油ヤシから搾油されるパーム油は、今や生産量世界一の油脂であり、マレーシアとインドネシアだけで世界の9割を生産し、世界中に輸出されている。
◆パーム油は確実に「売れる」。ここの町に住む一般住民や、村に住む先住民族も、自分の畑の一部で油ヤシ栽培を始めた。そして数年後、大きくなった果房(ひとつが20kgほどある)を搾油工場に運べば100%買い取ってくれる。私の根城の一つであるウマ・バワン村でも、6〜7年ほど前に焼き畑をやめた。4年前、いつも泊まるロングハウス(文字通りの長屋。100メートル以上もある)の屋根裏で吊っている米の収穫用の籠に蜘蛛の巣が張っているのを見た。
◆「使っていないの?」→「もう焼き畑はやめた」→「米はどうしているの?」→「町でベトナム米やタイ米を買っている」→「そのお金は?」→「油ヤシを売っている」。そりゃそうだ。焼き畑は、半年も体力の限りを尽くして育てるがその見返りは自給自足できる米だけ。だが、油ヤシは現金収入をもたらし、欲しいものが手に入り、子どもをいい学校にやることもできる。
◆焼き畑にもいいことはあった。きつい作業だが、楽しいのだ。二次林の開墾、火入れ、地面への穴あけ(棒で地面を突く)、その穴に種籾を入れる、そして収穫。火入れの後は一切の日陰がないので、体が茹で上がる。収穫時には、50kg、人によっては100kgの米を背負って運ぶ。その後も脱穀、精米、風選(風を利用してゴミを飛ばす)などの作業が待っている。特に共有地における作業(「ゴトンロヨン」と呼ばれる)では、多人数が集まり、酒を飲み、冗談を飛ばしあいながら、心からの充足感を味わうことができる。そのゴトンロヨンがサラワク全域でほぼいっせいになくなった。サラワクの歴史の大転換点といってもいい。
◆油ヤシには2つ問題がある。(1)企業型プランテーションの場合は開発面積が莫大なので、いくつもの村が消滅することだ。雀の涙ほどの補償金につられて、半ば土地をだまし取られた人たちもいれば、半強制的に土地を取られた人たちもいる(取材をしたが、書けば長くなるので省略)。(2)そして、国際市場作物である以上は価格が一定しないこと。いいときで1トン1250リンギ(3万8000円)のときもあれば、昨年などは200リンギ(6000円)のときもあった。
◆そこで現れたのが「油ヤシだけに頼らない」と決めた人たちだ。30年来の付き合いとなるある女性は、「私も油ヤシを植えている。でも、収入のすべてを油ヤシに頼れば、価格が下落したときが怖い。そうではなく、地元産農作物で十分な収入が得られることを証明したい」と、数年前から、従来はほかの土地の名産だったパイナップルや、本来は野生種のドリアンを畑に植えることを始めた。ドリアンは実をつけるのはもう数年先だが、パイナップルでは十分な収入を得ているという。昨年はパイナップルの収穫でゴトンロヨンを実施したという。変わりゆくサラワク、見続けたい。
◆さて、私にはサラワクに家族がいる。といっても血縁関係はない。1989年、初めてウマ・バワン村に入ったとき、私を気に入ってくれた男性が「お前を養子にする」と言ってくれた。それは旅人へのもてなしのつもりだったのかもしれないが、何度も現地に通い、その家に住み込み、一緒に農作業をこなすうちに、私は家族として扱われ、彼の10人の子ども(10代〜30代)は自動的に私のきょうだいとなった。1989年当時は、10人のうち6人が村に住んでいた。だが、その後、結婚や就職などで多くが村を離れ、サラワク各地に散った。ウマ・バワンに残るのは2人だけになった。だが逆に言えば、私にはサラワクで頼るべき拠点が増えた。
◆今回、無理だろうなと思っていたが、各地に散った9人のきょうだい(一人は5年前に死去)全員に会うことができた。携帯電話が通じない奥地に住む妹は突然現れた私を見て「夢みたいだ」と喜び、来年は一緒に農作業をやると約束した。小さいが交通の要になる町に住む兄は、炎天下での農作業の毎日に真っ黒に日焼けし、一気に老けていた。都会に住む姉と妹(家が近い)は私を泊めてくれて、私が「10年前に亡くなったお義父さんの墓に行きたい」というと、私の都合に合わせて、4人のきょうだい、そして、その子供たちなどが集まり、サラワク最後の日に墓参りに行くことができた。
◆1989年から33年も経っている。サラワクで世話になった人たちの多くは逝去し、だが、新しく生まれてきた子どもたちは私を「アンクル」と慕い、若者の彼らとはSNSでのやりとりを続けている。サラワクの家族にもいろいろなドラマがある。ある兄は、生まれてきた子どもの4人とも重度の障害をもっていた。体をまったく動かすことができない。しゃべれない。知的障害もある。その4人は全員が二十歳になる前に死んだ。
◆兄は、当たり前だが、子どもたちと一緒に暮らす自分の将来を夢見ていた。だが4人は死んだ。だが、彼の周りには、もう一人の兄家族、そして姪家族がいて、いつも一緒に輪になって食事をしている。孤独が存在しない。これだけはサラワクは変わらない。ボランティアという言葉も福祉という言葉もないが、安心して生きていける社会。私はいつもサラワクに来るたびに、なんとかここで住めぬものかと考える。
◆今回はもう一つ、懐かしの出会いがあった。ウマ・バワンでは毎年1回、family dayというイベントをもう30年ほどやっている。サラワク各地に散った村の出身者が、年に1度、サラワクのある場所に集うのだが、これがたまたま、サラワクを離れる1日前にあった。私は初参加。妹や姉に「行こう!」と誘われ、街から車で1時間弱の場所に行くと、その場所は数十台の車であふれ、会場には数百人が集まっていた。
◆顔見知りがあちこちにいる一方、初めて見る顔も多かったが、突然「覚えてますか!」と駆け寄る女性がいた。顔を見てもわからない。「名前は?」「トレイサです」「あ、イシャー(ニックネーム)か!?」「そうです、イシャーです!」。私を慕ってくれていた12歳の少女が42才のお母さんになっていた。
◆村一番のハンターであるアベ・ガオにも再会できた。64才の今も背筋がまっすぐで、森を歩き回っている。イベントの中では、サペ(民族ギター)2台による演奏が行われ、それに合わせて幾人もが踊った。30数年前、あの深い森の中でサペの音色と共に踊った人たちのほとんどは他界した。あの楽しかった夜。だが、今、新しい世代も踊っている。その二つの現実に、サペの音色に私は自然と涙ぐんでいた。
◆変わりゆくサラワク、だが変わらないサラワク。もう若いとはいいがたい私は、今後もサラワクとどう関わるのか。それはそれで面白い宿題だ。来年の春、また行けるだろうか。[樫田秀樹]
■モンゴル人と一緒にいると、彼らにつられて自分の野生もむくむく湧きあがる感じがする。戦闘民族だからなのか、体温も心もつねに熱い人たち。そんな彼らの炎がいま、氷点下20〜30度のモンゴルで燃えに燃えている。大きな政治腐敗スキャンダルが発覚し、怒り狂った市民たちが首都ウランバートルにあるスフバートル広場へ殺到して抗議デモを行っているのだ。
◆始まりは12月4日。数千人の市民が、広場に隣接する政府庁舎におしくらまんじゅう状態で詰めよった。そのほとんどが若者だ。みんなダンボールに手書きしたプラカードを持ち、「石炭泥棒を捕まえろ!」「モンゴルでまともな暮らしがしたい!」「外国へ行くしか希望がない!」「子どもたちに良い未来を残したい!」などと悲痛なメッセージを訴える。
◆デモ発生の引き金になったのは、モンゴルの重要な資源である石炭を、10年間にわたり中国へ横流しして儲けていた「石炭泥棒」の存在が明るみになったこと。モンゴル側の石炭輸出量と中国側の輸入量の値に大きな誤差があり、わかったという。
◆「石炭泥棒」に関わったと疑われるメンバーは、絶対的権力者だったはずのバトトルガ前大統領を含む政治家たち、石炭の採掘と運搬を担う国営企業の幹部、中国との国境管理者、中国マフィアなど大勢いる。不正ルートによる取引でモンゴルが失った損失額は計40兆トゥグリグ(2兆円弱)とも言われ、モンゴルのGDPに匹敵する勢い。あまりに額が大きいので、市民がブチ切れるのもしょうがない。
◆若者がデモに踏みきったのは「石炭泥棒」だけが理由ではない。もともと苦しい経済状況だったモンゴルは、コロナ禍やウクライナ戦争の影響で通貨安とインフレが猛加速。現地にいる私の友人たちも「物価は上がり続けるのに給料は上がらない。税金もバカ高い。どうやって生きのびられているのか自分でも不思議」と口を揃えて嘆く。
◆デモ開始からはや2週間、広場で野宿を続ける若者たちもいる。氷のように冷えた石の上で眠るのだから、凍傷になったり体調を崩したりする人も。そこでウランバートル市と交渉の末、広場にふたつだけゲルが建てられた(ちなみにこの広場は、1945年からモンゴルへ抑留された元日本兵の青年たちが大変な思いをして石を切り出し、建設作業に関わってつくられたもの)。
◆留学や出稼ぎで海外暮らしをするモンゴル人も、それぞれの地域でプラカードを手に集合写真を撮り、SNSで発信して連帯の意思を示している。日本在住のモンゴル人たちも寄付を集め、広場にいる若者へ温かい食べ物やマフラーを贈ったという。現場にゲルが建ち、支持者から食べ物も届くようになり、デモは長期戦に突入。参加者の一番の要求は、モンゴルの富を貪り私腹を肥やしてきた「石炭泥棒」の名前が公表され、厳罰が与えられること。つまり政府の打倒が目的ではない。42才のオユンエルデネ首相も「必ず石炭泥棒を見つけ出す」と意気込み、市民サイドに立とうとするが、彼が若者たちと対話するため広場に姿を表した瞬間、フォークや色々なものが飛んできて会話が成り立たなかった。
◆さまざまな抗議パフォーマンスも繰り広げられている。幼い子どもがいる若い妊婦さんが極寒の広場で20分間も薄着になり抗議の意思表示をしたときは、見ている方がハラハラした。「子どもに食べさせるお金がないから、シャンプー代を倹約するため髪の毛を剃ってやるわ!」と、公衆の目の前で丸坊主になった女性もいた。デモ開始13日目には、自らに液体をふりまき焼身自殺しかけた者も(幸い命はとりとめた)。現場でリードをとる青年たちも現れはじめ、彼らが頻繁にFacebookでライブ配信をするので、日本にいても現地の光景をリアルタイムで垣間見られる。
◆モンゴルでは今年4月にも「政治家は仕事しろ! 仕事しろ!」と叫ぶ激しいデモが起きたが、そちらは数日で落ち着いたので、今回のような長期戦は珍しい(しかも真冬に)。若者たちは「石炭泥棒が裁かれるまで絶対に引き下がらない」と主張し、このまま年を越す可能性も。彼らが広場の掃除をせっせと手伝う場面も目撃され、もはや広場の新住人と化している。中央に立てられた巨大クリスマスツリーにはデモのプラカードがびっしり飾られ、お祝いムードもデモ色に染まる。
◆ここ数年とくに、私はモンゴルの若者からこんな相談をされることが増えた。「この国には希望がないよ。頑張っていい学校を出ても仕事がないよ。すぐにでも外国へ行って働きたいんだけど、日本の技能実習制度はどうかな?」。元気で優秀な若者からそう尋ねられるたび、複雑な気持ちになる。そんな師走の物々しいモンゴル。もしホッとすることがひとつあるとすれば、この国にはまだ表現の自由が残っているということ。このデモがモンゴル国民の長年の悲願である腐敗の浄化に少しでもつながるのなら、もうおおいに闘ってほしいと願う。[大西夏奈子]
■地平線通信525号(2023年1月号)は1月なかばに発行する予定です。新年にあたり、「200字メッセージ」を募集します。最近の通信への感想、自身の近況などテーマは問いません。200字という短い文章で何が語れるものか。もちろん100字でも歓迎です。締め切りは2023年1月10日。宛先は巻末にある地平線ポストまで。ちなみにこの告知の文章は、ちょうど200字です。
■江本さんからお電話をいただきました。「山田は、いつも番組宣伝ばかり、たまには本気の報告を書かないと」。痛いところをつかれました。実は、いつもそう思いつつ甘えていた自分がいました。さて、番組宣伝ではありませんが、テレビ番組取材のため、新型コロナパンデミック以降2年半ぶりにネパール・ヒマラヤに行ってきました。
◆驚きました。歩いたトレイルがエベレスト街道と人気を分かつアンナプルナ・サーキットとアンナプルナ内院だったせいでもありますが、ヨーロッパアルプス並に整備されていたのです。まず、アンナプルナ・サーキットですが、カトマンズからバスとジープを乗り継いで、標高3440mのマナンまで入ることができます。暗くなって到着し、翌朝目が覚めると、眼前にアンナプルナII峰(7937m)とIV峰(7525m)が聳えています。
◆ロッジの朝食は、アメリカン・ブレクファスト、コンチネンタル・ブレクファストどちらもあり、チベッタン・ブレッドと称する揚げパンが人気メニュー。本物の韓国製「辛ラーメン」さえあります。このルートの最難関は、雪で覆われた標高5414mのトロン・ラ(峠)。標高差2000mのきつい登りです。峠に到達した各国のトレッカーは、誰も達成感に満ちあふれ、喜びを分かち合っています。私に、「おめでとう」と声をかけてくれたのはベトナムの看護師さん。韓国から来た同年代のおじさんグループとは、互いにサムズアップを交わし満面の笑顔で健闘を讃えあいました。
◆続いて歩いたアンナプルナ内院コースは、アンナプルナI峰(8091m)の直下に至る好ルートです。比較的楽に歩けるため、訪れるトレッカーも国際色豊かなのですが、欧米人よりもアジアからのトレッカーが目立ちました。マレーシアの政府系企業の団体、タイのお坊様、バングラデシュのグループも。インドのイベンターに至ってはヘリで到着です。中でもびっくりしたのは、自国の誇りであるヒマラヤに触れようとやってくるネパールの若者たちが多いこと。日本でもかつてありましたが、自国の良さを再発見する「ディスカバー・ネパール」ですね。一緒に歩いていた、70年代からヒマラヤ登山を続けている貫田宗男さんが、「ネパールの経済が良くなったということでしょうか」と嬉しそうに話していました。
◆実は、私はトレッキングというものがあまり好きではありませんでした。初めてネパールの山間部を訪ねたのは、1977年。外国人用のロッジなどはまだ存在していません。民家の土間に泊まらせてもらうのですが、出してくれるのはダール(白米)に、豆のスープ。稲を栽培できる所は少ないので、白米は大変なご馳走です。さらに、遠くから来たからと、とっておきのジャガイモまで出してくれました。ただヒマラヤを見たくてやって来た者としては、とてもいたたまれない気持ちになり、白い山を見る前に引き上げてしまいました。
◆トレッキングとは距離を置いてきた私ですが、近年は旅行者用の設備が整備され、気楽に出かけることができるようになりました。今回、欧米人と肩を並べて歩くネパールやアジアのトレッカーに大勢出会えて、時代の変化、ヒマラヤの経済地図の変化を実感しました。
◆コロナ禍以降、日本人トレッカーが激減しています。28日間のトレッキング中、出会った日本人は、たったの3人。穂高岳の山小屋で働く女性1人と登山歴の長い年配のご夫婦だけでした。ネパール政府の統計で確認すると、日本からの渡航者だけが大幅に少なくなっています。コロナ禍以前の2019年、日本からは、3万人ほどの渡航者が訪れ、フランスと韓国からもほぼ同じ数の渡航者がありました。
◆コロナ禍以降の2021年、ネパールを訪れる旅行客は大幅に減少。日本からはたった784人しかいませんでした。これはコロナだけが原因ではないようです。同じ年、韓国からは1263人(日本の1.6倍)、フランスからは2829人(日本の3.6倍)の渡航者があったからです。今年は円安の影響で、もっともっと減っています。
◆根本的には、日本の経済力の低下が現れているのかも知れません。日本人トレッカーの姿が消えた反面、日本語で話しかけてくれるネパール人が増えたと思います。日本で働いていた人たちが帰国し、親のロッジを手伝ったり、トレッキング・ガイドとして働いているのです。私が日本人だと分かると、懐かしそうに、流ちょうな日本語で話しかけてくれます。
◆ネパールの経済を支えているのは、ヒマラヤ登山やトレッキングはじめバラエティのある観光業と海外への出稼ぎだといいます。現在、日本で働いているネパール人、およそ9万6000人。中国、ベトナム、韓国、フィリピン、ブラジルに続いて6番目です。その労働環境は決して良くはないといいます。日本に対する好意の度合いは様々なまま、ネパール人と日本との関係はヒマラヤまで繋がっています。ネパールの経済的な側面とアジア諸国の経済事情がアンナプルナ山群を取り巻くトレッキングコースに凝縮して現れていました。
◆最後に、ちょっとだけ宣伝です。今回取材したアンナプルナ・トレッキングは、2月に放送予定です。[山田和也]
■西ネパールの33日間のトレッキングを無事に終え、先日帰国したばかりの稲葉香です。3年ぶりのネパールは「浦島太郎」でした。まず、首都カトマンズの空港に到着すると別の国に着いたかと思うぐらいに綺麗になっており、第2の都市ポカラにも、まだ本格的には始動していませんが、国際空港が完成したそうです。
◆登山客はぼちぼち戻ってきてるようです。今回の私の西ネパールトレッキングのメインの訪問先は、初めて訪れるバジャン・ダルチャラ郡でした。河口慧海師のルートをテーマにドルポに通っている私ですが、以前から続けている西ネパールの北部の全土を歩きたいという思いがありまして、今回が今行ける範囲の最後の地域となります。そこはサイパル(7031m)とアピ(7132m)という有名な山のふところです。この地域は、仏教、ヒンズー教、ジャイナ教、ポン教の聖地であるカイラス山(6656m)へ南から入る玄関口となり、山が前門の仁王の役をはたしているといわれています。そこで生活する民族は、今まで出会ったことのない民族ばかりで多民族国家であることをあらためて実感しました。
◆ガイドはコロナ直前のドルポ越冬を共にした人を依頼し、10月18日カトマンズでポーター2名を雇って出発。今回一番驚いたのは、これまでの長期トレッキングでは、燃料はケロシン(灯油)をメインとして使用していましたが、今回出発する中都市チャインプールではケロシンがないと言われたことです。最近はガスがメインで、「下の村で探して手に入れば」と思ってもまったく手に入らず困り果てました。最終的に1000km以上離れたカトマンズの知人に電話し、結局ガイドの家にあるケロシンを、時間がある人を探し出し、陸路で3日がかりで運んでもらいました。この出来事で、時代が大きく変わったことを実感しました。
◆今回は予備日のおかげで日程は大丈夫でしたが、ルート的には予想以上に雪があったり、ポーターの問題などで変更を余儀なくされました。例えば「展望が見たい」と私が選んだルートは、出発地点から危険なトラバースが連続したり、水場のポイント探しに苦労し、安全な村に辿り着いたときは、1人のポーターがこれ以上行きたくないと言い出しました。以前にもこのようなことが何度かあったので想定内で、そのポーターにはキャンプ地を作り待機してもらい、ガイドと二人で荷物担いで進むことにしました。そのポーターは普段はクライミングガイドの経験もあるので問題ないと思ってましたがダメでした。その点、ガイドは私の師匠の故大西保氏と10年遠征を重ねてきたので自分が知らない場所でもNoとは言わない。たまにコミュニケーションでもめたりすることもありますが、やはり大西氏が育て残した貴重な存在だと実感しました。
◆そのおかげで今回いちばん行きたかった場所、セティコーラ(河)を北上し、ウライ・バンジャン(チベット国境峠)の1.5km手前には行けました。そこにはもう消えてるかも知れないと思っていた古道が残っており、冬は雪崩で流されるといわれていた道はその通りなくなっていました。断崖絶壁に石が組まれており、階段になっているけれどぐらついていて、さらに今年は雪が早くてすでに雪崩の跡があり、行きは道が微かにあったけど、帰りにまた通ると完全に雪で流されているところもありました。そして影になってるところは凍っていて、そこを通過するのにロープが欲しいぐらいでした。
◆今までと変わったところは、食べ物や交通費などの値上がり。約2倍に上がった印象がありました。西の奥地はチベット国境で夏に食糧・生活用品の買い付けをするところが多いのですが、コロナの影響で今も中国との国境が閉鎖していてインド国境やカトマンズ方面から運ぶことになり高くなるのだと言っていました。あと、驚いたのはこの西ネパールの奥地にまでダムが造られていたこと、さらにネパール人のチームによる水力発電の新たなプロジェクトがありました。ネパールの中でも、私はチベット仏教圏(ドルポ)を旅することが多かったので今回はヒンドゥー教圏で新鮮でした。でも、仏教でもヒンドゥー教でも大切にしてるものは同じで、山や木、石に祈りを感じました。
◆生活の中で現金を得る手段のひとつとして、漢方に使う植物を採取し乾燥させて中国やインドにキロ単位で売ると言ってました。そして、森があるので銃で狩猟してる人たちに何度か出会いました。この地域は警察がきびしく管理していないので猟は自由だが、もし見つかるとダメなようです。トレッキングルートとしてはドルポよりマイナーな地域で、すれ違ったトレッカーは2組だけ。なんと、そのうち1人がドルポの代表的な映画「キャラバン」の監督として有名なフランス人、エリック・バレィでした。
◆私がガイドと2人でウライ・バンジャンへ北上してる間、ポーター達が2日間下った村へ食糧の買い出しに行きました。そこでまずポーター達がエリック・バレィと遭遇したのです。私がこれから行こうとしていた縦走ルートが危険だという手紙を書いてくれて、ポーター達が手紙を運んでくれたのです。電波がない山の中で、さらにこんなマイナーな地域で手紙が届き、驚きました。映画が日本で公開されたのは2000年です。ドルポの伝統的な生活が美しく描かれていて今ではもう絶対撮れないだろう貴重な作品で、私はずっとファンでした。だから、ものすごくうれしかったのですが、その後実際に出会えた彼は、想像していたイメージとは違いました。
◆手紙をもらった数日後、同じ村にいることがわかり遭遇しました。私は興奮して一緒に写真を撮ってほしいと思い、ガイドに話かけてもらいました。すると、「写真1枚高いよ」とネパール語で言われました。私は一瞬どういう意味なのかわからなくなり、ドン引きして冷めてしまいました。22年憧れてきた人だけにある意味ショックでもありました。その後、休憩ポイントや下山しきった宿でも会えたのですが、私の冷めた心は冷めたままでした。しかし、本当に奇遇な出会いではありました。手紙にメールアドレスの記載があったので、情報を教えてくれたことへのお礼の気持ちだけは伝えてみようかと思いながら、今だに心は葛藤しているところです。
◆3年ぶりの遠征、自分のリウマチの足と腰(今年は腰痛にも悩まされた!)が耐え、歩き切れたことは大きな収穫でした。山の国ネパール、どこまで行っても山また山、そこには人々の生活があることを、歩いて確かめることができた旅となりました。[稲葉香]
台風一過
川土手を歩く
長短さまざま
おびただしい量の枝々が
すさまじい力の通過を物語る
楠の葉ずれが
いつもと違う
それは生き延びた者の誇りではなく
亡くなった者へのかなしみでもなく
自分たち自身の死を
あらかじめ悼んでいるかのようだ
戦前も戦後 戦後も戦前
今はただ次の災厄までの
モラトリアムにすぎない
風雨に削られた膨大な山の粒子が
濁流となって
海へ海へと急いでいる
葉っぱたちも
次の災厄に向かって
戦(おのの)きながら戦(そよ)いでいる
[豊田和司]
■ナガランドのクリスマスは12月1日から始まるみたいです。コヒマのクリスマスが特別に華やかなことはよく聞いていましたが、コヒマだけではなく片田舎の村にも、ほとんど車は通らないだろうような道にも、大掛かりなイルミネーションが設えられています。そのスケールと大雑把さは、アメリカでよく目にした光景を彷彿とさせました。
◆毎年12月1日から10日間、ナガランド州主催によるホーンビル・フェスティバルがキサマ村で開催されます(2020年はコロナのため中止、2021年は12月4日にコニャク・ナガの人々がインド軍に理不尽に襲撃されるという事件が起きて4日間だけの開催)。今年は第23回。私はすでに2008年に観覧する機会がありましたが幸いなことに今回再び、我らがゴッドフリー神父さんのおかげで1日半満喫することができました!
◆以前に比べるとすべてがはるかに洗練されていて、参加するナガ民族の様々なエスニック・グループ(ここでは部族とさせていただきます)やガロ族やカチャリ族らの面々も実に自信に溢れていました。コニャク・ナガ族を始めとする「東ナガ」と呼ばれるいくつかの部族が抗議のために参加をボイコットしたのはあいにくでしたが、それでもやはり “Festival of Festivals” というにふさわしい祭典です。インド「本土」各地(耳に入ってくる言葉がいろいろ)からはもちろん、白人(その多くが本格的なカメラと望遠レンズを持参)も目立ちました。インド北東部に「知られざる」という形容詞が似つかわしくない日がくるのは思いのほか近いかもしれません。
◆オープニングセレモニーは1日の4時から時間通りに始まりました。インド国歌斉唱の後、ナガの90%ほどがクリスチャンというだけあって、 All mighty God とJesus への感謝の祈りとアレルヤの歌。それに続いてVIPのスピーチ。一番手のナガランド州知事は、今年はナガランド州成立60周年にあたり、しかもこの日は、インドがきたるG20の議長国として正式に決定された日と重なって誠にめでたいと強調。
◆次に登場したインド副大統領は、去年選出された大統領が先住民族の女性であり、北東部もまた同じく先住民族の地であること、そしてナガの炸裂するエネルギーにもうすっかり圧倒されているとのコメントから始めました。ナガランドはWWIIにおいて熾烈な戦場となり、この地で命を落とした多くの勇敢な兵士の冥福を祈りたいと述べ(現地の人々と日本軍のことには触れませんでした)、またモディ政権をしっかり「よいしょ」していましたが、ナガの豊かな文化遺産を尊重し近年の目覚ましい発展を称賛する演説は多くの人が好ましく受けとめたようです。
◆ちなみにナガランド州は与党BJPが強く、モディ政権を支持する大きな看板がいたることろに掲げられています。先月ゴッドフリー神父さんの村を訪れたときにインド国旗があちこちにはためいているのを見てビックリしたのですが、8月15日の独立記念日にすべての家に配布されたのだそうです。
◆さあ、いよいよお待ちかねのパフォーマンス! 畳み掛けるように力強い歌と踊りが披露されます。こんな舞台はインドはもとより世界のどこにも見られないのではないでしょうか(例えばミャンマーやフィリピンにも多様な先住民族が住んでいますが、彼らが一堂に会してこのような祭典を開催する様は私には想像し難いです)。もちろんYoutubeにアップされてはいるものの、この迫力はその場でしか味わえないと思います。私は舞台の真下からかぶりつき。太鼓の響きが体中にズンズンきて痺れました。
◆ナガの人々の過去と現実をわずかでも知る者にとって、ほとんどとはいえないまでもこれだけの様々な部族が堂々と晴れがましく、一緒になって自分たちが引き継いでいる伝統を謳歌する姿はたいへん印象的で感動しました(でも、ボイコットした部族に加えて馴染みのあるプーマイ族、マオ族、ロンマイ族の姿もなかったのはとても残念。彼らはマニプール州に住んでいるので招待されないらしいです。そういえば、同じナガ民族なのにマニプール州のナガはナガランド州のナガに比べると弱い立場だという話を何度か聞いたことがあります)。
◆再びインド国歌が演奏されました。今度の伴奏はエレキギターでしたが、違和感まったくなし。これで一応おひらきで、舞台は一転ロックコンサートとなりました。ナガの人々にロックはよく合います。後ろ髪を引かれる思いでその場を後にしました。[延江由美子]
◆今回は、長岡のりこさん手作りのあんパンのおみやげ付きでした。私は2つももらってしまった。美味しかったなあ。さらに、河田真智子さんからクッキーの箱が届き、皆で楽しみながら分けました。[E]地平線通信523号(2022年11月号)は11月21日の月曜日に印刷、封入し、新宿局に投函しました。郵便局が土日配達をやめたため、できるだけ週の早い日に作業するようにしています。印刷とそれに次ぐ作業、車谷君はじめもう玄人の域というべきなのでしょう。私が行ったときは、すでに全て終わっていて、結局、まっすぐ「北京」に行くことになりました。
車谷建太 長岡のりこ 中畑朋子 白根全 落合大祐 伊藤里香 高世泉 武田力 中嶋敦子 江本嘉伸
■地平線通信、いつも圧倒されながら読んでいます。特に国内外で活躍されている女性陣による投稿は仰ぎ見るような思いで拝読しています。女性だからといって限界をつくる必要はないよと教えてくれるような活躍の数々。結婚も出産もせず生きている自分の人生につい疑問を持ってしまうことがありますが、通信を読んでいると同性がこれだけ活躍していることが誇らしく、あなたも頑張りなさいよ!と叱咤激励されている気持ちになります。
◆私の近況ですが、11月から新しい職場で働き始めました。沖縄県工芸振興センターという県が管轄している施設で、県内の工芸事業者を支援する目的で設置されています。センターではつくり手が希望する技術支援を行なったり、技術者育成のための研修を主催したりしており、私はここで染織部門の技師として採用されました。といっても来年の3月までの短期契約なので、自分の染織の勉強のつもりで気楽に入所しましたが、思いがけない仕事を任されてしまいました。
◆看板や車両装飾に使うシートをカットするためのカッティングマシンという機械の運用です。手工芸を支援する施設でなんでこんな機械が?と思ったら、なんと染織事業者から型染めに使う型紙をこのマシンでカットしたいという依頼が入るそうなのです。ところが現在このマシンを使える人がいないため、使えるようにしてほしい、ということで取扱説明書とにらめっこしながら慣れない機械に悪戦苦闘することに。
◆先日やっとまともに動かせるようになりましたが、この機械のなんと優秀なこと! 熟練の職人でも2、3日かかるであろう複雑な図案が、たったの26分で彫れてしまいました。便利は便利……ですが、工芸に携わる人間としては「これは手工芸的にありなのか? これでは工業製品とほとんど変わらないのでは?」という疑問がつきまとい、マシンが無事動いたことに安心しつつも、手工芸品と工業製品の違いについてぐるぐると考えてしまいました。
◆先月のことですが、県内の小学生がセンターに社会科見学にやって来たので「伝統工芸とは何か?」というテーマで簡単なレクチャーを行いました。経済産業省が定める伝統的工芸品の要件を参考に、「伝統工芸とは『主に機械ではなく人の手で』『伝統的な素材で』『伝統的な方法で』つくられた『主に日常生活に使うもの』のことです」という話をしました。
◆工芸品は必ずこの条件にあてはまるべきだ、とは言いません。伝統工芸といっても制作方法は時代時代で異なりますし、科学技術の進歩にも大きく影響を受けてきました。ただ、安価な工業製品で溢れた現代において、あえて手間暇かかる手法で制作する意味を考えたとき、型染めの命ともいえる型紙を便利な機械に任せてしまっていいのだろうか? それよりつくり手個人の型彫りの技術向上を目指した方がいいのでは……?と思わずにはいられないのです。
◆でもこの疑問は私自身の仕事にもあてはまってしまうんですよね。私は採取した植物から色を煮出し、糸を染め、手織りで布を織る、という仕事をしていますが、材料の糸は機械紡績の糸を購入しています。つまり仕事の根幹を「便利な機械に任せてしまって」いるわけです。ところで沖縄を代表する伝統織物である芭蕉布や宮古上布などは、つくり手が原料の植物を育てて糸を紡ぐ(正確には「績む」)ところから自らの手で行っています。その制作にかかる手間と時間は私のそれとは比較になりません。これぞ手仕事の極致といえるこの素晴らしく美しい布が真に手工芸的な工芸品なら、私の織布や件の機械彫り型紙の染物は、手工芸品と工業製品の間に位置するものともいえます。
◆工芸品が『人の手で』つくられたものであるとはいえ、結局「どこまで自分の手でつくるか」がつくり手の価値観に委ねられている以上、私に機械彫りの型紙についてとやかく言う権利はないな、という結論に達し、不本意ながらカッティングマシンの調整を続けています。なによりこのマシンは県民の財産なので、使いたいという依頼を断る理由はないわけです。
◆芭蕉布や上布はいつ見ても惚れ惚れする美しい布ですが、この仕事だけで生活していくのは非常に困難です。手間がかかるということはそれだけ価格も上がります。一方、手間を省けば価格を抑えることができ、一般の手に届きやすくなるので、一概に現代の工業技術が悪であるとはいえません。更にはつくり手の収入にも関わってくる問題なので、安易に機械を非難することもできません。工芸事業者は皆、手仕事へのこだわりと、現実的な生活の問題を擦り合わせながら、各々が納得できるものづくりを目指しているのだと思います。
◆ただ、(しつこいようですが)やはり人の手で地道に作られた布は特別に美しいと感じます。そこら中に安価な布が溢れる現代社会で手仕事の布に触れるとき、布とは本来こういうものであったかと感激する瞬間があります。手仕事の布がなくても生きていける世の中ですが、もしこの素晴らしい仕事がなくなってしまったら、なんて味気ない世界になってしまうだろうか、とも。
◆冒険は世の中のためになるんですか?と聞かれるが、ならないんじゃないですかと答える、というお話が先月の通信に載っていましたね。誠に勝手ながら親近感を覚えました。手仕事も直接世の中のためになるものではありません。たぶん、現代においてはなくてもいいものです。それでも、そこにある美しさに惹かれずにはいられないのだと思います。地平線通信に寄せられる素晴らしい実践の数々には圧倒されるばかりですが、こうして時々こっそり共感しては、私も手仕事を通して肩を並べられるようになりたいなと思っております。
◆最近は藍で染めた糸で小さめの風呂敷を織っています。これが終わったら、ずっと温めていたストール制作に入る予定です。少しづつですが、自分の理想の布に近づけるように、根気よく続けていきたいです。[渡辺智子 浜比嘉島]
追記・1
先日浜比嘉島に長野亮之介さんがいらっしゃって、外間晴美さんにお声掛けいただき久しぶりに外間家で夕食をご一緒しました。長野さんのフランス旅の話や、島で開催中だった芸術祭について、はたまたAIイラストの隆盛に芸術論、と大変盛り上がり、久々に文化と冒険の香り(?)に満ちた楽しい時間を過ごしました! こういう時間にレアな話(独身時代の晴美さんの山エピソードなど)も聞けるので、人と会って語らうのもいいものだなぁと思います。特に登山や冒険の話は珍しい物語を聞くようでワクワクします。
追記・2
10月号の「彫刻家からのメール」、大変胸を打たれました。お母様に生きていてほしいと思う気持ちと、「お母様自身の現実」との乖離、それを受け止めながらより良い生き方を模索してらっしゃる様子が優しく素晴らしいなと思いました。ご苦労も多いかと思いますが、納得のいく生き方が見つかるよう祈っております。
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。
小林美子/太田忠行(6000円 高齢ゆえいつまで読めるか分かりませんが通信費をお送りします)/土谷千恵子(お世話になります)/原田鉱一郎/渡辺三知子(5000円 「地平線通信」お送りいただき、ありがとうございました。娘のところで読む機会があり、心ひかれておりました。通信費2年分+カンパです)/小高みどり(10000円)/宮崎拓(江本さん、スタッフの皆さん、お体に気をつけてお元気で活動を続けてください)/大槻雅弘(5000円 2年分同封します。自身が会長をつとめる「一等三角點研究会」会報とともに送付してくれた)
■地平線のみなさんこんにちは。内地はもうだいぶ寒いようですね、こちらはつい2週間前に扇風機をようやくしまいました。
◆さて、先日までこの辺りの島嶼地域を舞台に芸術祭が開かれてました。県内外のアート作家が集い、島のあちこちでアート作品を展示して、ゲージツの秋を楽しめる企画です。詳しくはシマダカラ芸術祭と検索してみてください。
◆さて、その作家のひとりとして参加しませんかと、うちの外間昇が声をかけられました。まあ主催者側としては地元の人を何人か入れたい、ということだったみたいです。島のものを使ったアートを、ということで思いついたのは、すすきの穂のほうき作り、でした。昇が小学生のころは毎年冬休みの宿題としてひとり2本のほうき作りと2枚の雑巾を縫うこと、だったそうで、それを1年間校舎の掃除に使ったんだそうです、エコですねー。
◆ですが肝心のすすき、まだ穂が出たばかりでほうきを作れず、じゃあ島に自生するアダンで何か作ろうかということに。アダンは海岸にたくさん自生していて、葉は鋭いトゲトゲ状でパイナップルみたいな実を付けます。タコのように気根をたくさん付け、昔から気根を裂いたヒモは家の屋根を葺く茅をまとめたり月桃餅を包む紐などに使われています。丈夫でしなやかなので帽子やバッグを作る人もいるようです。
◆そのアダンの気根紐を束ね、細い琉球竹に詰めたら100%自然素材のコップ洗いができました。ひとつ200円で売ってみたら制作が追いつかないくらい好評でした。メイン会場近くの古民家で、ヤギを一頭連れて行き庭につなぎ、軒下でアダン細工、たまに三線をポロリンと弾く、なーんて感じの昔ながらの暮らしを表現、2週間の会期中、悪天候もありましたがなかなか盛況でした。アートとはいえなかったかもしれませんがね。
◆特にヤギが子供たちに人気でしたよ。昔はどの家でもヤギを飼っていて、畑に繋いでおけば除草してくれ、糞は肥やしに、乳は飲めるし最終的にご馳走となり食卓へ。ヤギと暮らす生活が普通だったそうです。ヤギ飼いたいなあという人がけっこういました。
◆実はこの芸術祭、作家を公募すると聞き、我らが長野亮之介画伯にぜひ応募するように連絡したのですが、さすが日本一売り込みが下手なイラストレーターだけあり落選! でもわざわざ訪ねてくれました。久しぶりの再会を喜び、会期中忙しい我が家の牧場仕事を手伝ってくれたり、犬の散歩をしてくれたり、芸術祭を見て周ったりして、次回はうまく売り込もうねー、と言ってさわやかに帰って行きました。長野さんありがとう。
◆コロナはいつまでたってもおさまる気配がありませんが、気をつけながら徐々に3年前の日常を取り戻しつつありますね。来年こそは12年に一度の大祭ができるかな? 地平線報告会の復活は近いかな? 期待を込めて、皆さまよいお年を。[外間晴美]
■子どもが保育園の年長さんクラスだったときに、園長先生に話を依頼された。深く考えずに引き受けたが、準備にかかると子どもが好きなものが何か、自分が理解してないと気づいた。子どもの好きなものとは……。先日の学芸会は、森で昆虫たちとお姫様たちが楽しく暮らしていましたという、子どもの希望をまるまる受け入れた凄い設定の劇だった。劇の配役はナレーション役の女の子と博士役の男の子をのぞき、男の子はカブト虫かクワガタ虫で女の子はみんなお姫様だった。
◆男の子の虫好きは、男として分かる。虫の写真はないけど、虫を動物に置き換えてもまぁ大丈夫な気がする。お姫様は? 民族衣装の女性かな? 子どものことは子どもに聞くのがはやいと思って、娘にいろいろインタビューしてみた。彼女にとっての世界とは保育園までの道だった。その世界の外について聞くと、出てきた言葉は「マグロ」。マグロ? どうも最寄りの駅の目黒らしい。他はと聞くと、どこか遠い場所におじいちゃんとおばあちゃんが住んでいる、と言う。
◆えっ、アホ。いやいや、うちの娘は優秀だ。しかし保育園までの道の外は未知の空間が広がっている状況で、生きていて不安にならないのか? 知りたいとは思わないの? 毎日テレビで見る世界の映像はなんだと思っているのだろう? コイツは保育園では最年長の5才児だ。これじゃ園児にどうやって話せばいいのか見当もつかない。ここで大失態を演じ「変なお父さん」になれば、子どもがいじめの対象になるやもしれん。なんとかせねばと嫁さんと対策を考える。相談した結果、まず子どもたちに自分が居る場所を理解してもらうことにした。宇宙、地球、日本、東京、目黒、保育所、と、現在地までたどり着いてもらう。世界の話をするのはそれからだ。言葉で説明するのは難しいので、小道具として地球儀と日本地図を準備した。まるで地動説を信じる民に天動説を解くガリレオみたいだ。できるんかな、そんなこと。
◆当日、3、4、5才児と保母さん、園長先生、総勢40名ぐらいが遊戯室に集まる。よしやるか。地球儀を取り出し、家でリハーサルしたように説明する。3分後いきなり3才児さんが立ち上がる。その子は保母さんに取り押さえられるが、5分後には3才児さんクラスが制御不能となり崩壊。「みんなー、もう少しがんばろうよ」と残念そうな保母さんたちの声と共に退場。冷や汗が出る。これは今までで最も難度が高い講演会かもしれない。娘のためにもなんとしても残った子どもたちを楽しませばならない。
◆厳選した写真を大きく映す。珍しい生き物や美しい民族衣装のはずだ。子どもたちも静かに見いっている。でもおかしい。なぜこんなに反応が薄いんだ。何か方向性が違うのだろうか? メキシコの海岸に群れるペリカンの写真を出したときだった。一人の男の子が「カニだ」と叫んだ。カニ? その子は壁に走り寄り、画面の右の隅の岩を指さした。部屋中の子どもたちが口々に「カニだ。カニだ」とはしゃいだ。自分で撮った写真にカニが写っているのを僕は知らなかった。でもだからなに。なぜペリカンじゃなくてカニなんだ。
◆とりあえず4才児、5才児さんは最後まで話は聞いてくれた。最後におまけで遊戯室にテントを張ってみた。一人用テントなので2分もあればできた。ここでこの日いちばんのざわめきが起こった。魔法のように見えたのだろう。5才児男子がおそるおそる近づいてきて、入ってもいい?と、言った。先頭をきってその子が入ると、様子を見ていた他の子たちも入りたいと行列ができた。
◆終了後、園長先生と話をしていると、保母さんが部屋に入ってくる。子どもたちは、まだ字が書けないので今日の感想を絵で描いた、という。一枚目を見て愕然とした。アニメキャラのナルト。この子は話にまったく興味がなかったのだ。次をめくると自画像の隣に、真っ黒な顔の人がいる。この子は僕の色の黒さに驚いたんだろう。カブトガニを持って笑う自分を描いている男の子。かわいいバイソンの絵。そしてまたもやカニ。カニは何枚もあった。一番多かったのはテントに並ぶ行列の絵。子どもって残酷なほど正直だ。絵の感想は言葉より伝わった。
◆翌朝、園の前で、4才児のお母さんから「昨日はありがとうございました。うちの子が地球は丸いんだって、トモちゃんのお父さんが教えてくれたって言ってました」と、お礼を言われる。なんて優秀な4才児なんだ。その子にとっては昨日の話は驚きだったに違いない、と思うと感動した。
◆ひとつどうしても腑に落ちなかった「カニ」について、知り合いの絵本作家に尋ねてみた。答えは「大人は世界が確立しているから、知らないモノに興味を示しますが、子どもは知っているものの方に反応しますよ」。そう言われればなんか納得する。講演会以降、僕の話が原因で子どもがいじめられることもなく、保母さんたちからも「よくわからないけど、そういう人なんだ」と、認知されたようで、園に行きやすくなった。
■前編ではアラビアを中心として書いた。話を続けよう。1988年、拙著『緑の冒険』(岩波新書)が発行された年である。本のあとがきに“ユネスコ・マングローブ会議への出発の日に”としたためた。じつはこの会議で大変な任務を背負わされることになったのだ。
◆ほぼ10年つづいたプロジェクトが終わった。その成果を埋もれさせてはならない。NGOを設立させよう。国際マングローブ生態系協会(ISME)である。では、どの国に本部をおき、活動を継続させるのか。オーストラリアに次いでタイがノミネートされたのだが「できない」という。次なる候補地として日本が提案される。マングローブはほとんどない。だが経済大国たる評判は誰もが知っている。その場にいた唯一の日本人、ぼくに向けられたつよい視線を感じた。
◆賢い人間ならば即座に断ったにちがいない。なにせ国際組織の誘致なのだ。どれほど困難な仕事が待っているのか。深く考えないで承諾したのは、“マングローブの国際組織”がぼくの夢でもあったからだ(『緑の冒険』pp.211-213)。それに加えてユネスコ・プロジェクトとの密接な関係がある。開始以前からパリでのつきあい、多くの調査をさせてもらった、いくつもの国際会議にも招待された。バンコクでの会議終了後、その足で那覇に飛んだ。東京ではなく、本部は沖縄と考えたからである。
◆わずか2年でISMEの沖縄誘致が叶った。同じ熱帯の森林をあつかうITTO(国際熱帯木材機関)の日本誘致とくらべてみた。まさに奇跡的、それほど順調にことが運んだ。その経緯を知る人がほとんどいない。記録として書き残しておきたい。
◆ふたつの作戦をとった。ひとつは沖縄県庁攻略。しかし、よそ者には直接の交渉はむずかしい。那覇に到着してすぐに連絡をとったのが木崎甲子郎さん(琉大名誉教授)である。北大山岳部OB、ヒマラヤと南極の活動で知られる地質学者だ。しかし、残念ながら、木崎さんを巻き込むことはできなかった。責任がある仕事を抱えて時間的余裕がない、という。代わりに紹介されたのが馬場繁幸(当時琉大助手、現在は名誉教授)、かつて木崎さんをリーダーとする琉大ヒマラヤ登山隊のメンバーである。
◆山と探検の仲間意識はここでも威力を発揮する。ついでに云っておくと、ユネスコ・マングローブ計画の責任者2人もおなじだった。海洋部長のステイヤルトさん(Dr. Mark Steyaert)はベルギーの南極探検家、CTAのヴァヌチさん(Dr. Martha Vannucci)は海洋学者だが、インドとヒマラヤ大好き人間だった。初対面から話がはずんだ。蛇足だが、ヴァヌチさんはイタリア系ブラジル人である。外見はインデラ・ガンジー首相と瓜二つ、二人が会ったとき顔を見あわせて大笑いをした、と聞いた。
◆馬場との二人三脚で沖縄県庁に足しげくかよった。窓口は企画開発部、かれらと何回会議をもったことか。それでも足りず夜の居酒屋で話がつづく。県知事の西銘順治さんとも何回かお会いした。拙著『緑の冒険』をおもしろがり、ISME誘致を理解してくれた。実感したのは役所を動かすことの難しさだった。でもなんとかISME支援を取りつけることができたのは幸運だった。
◆いっぽう東京では……。すべきことは明らかだった。沖縄県だけでは心もとない、日本国政府からも支援をひきださねばならない。どうすればよいのか。正直に告白すれば、ぼくには「戦略」というものがまったくなかった。できるのは、沖縄の場合と同じく、お題目を唱えること。「地球環境にとってマングローブは重要です。ユネスコが10年間、十数億円――いやもっとかな――をかけた資産を受け継ぐことができるのです」。
◆奇跡がおきた。官界に影響力をもつ人、神足勝浩さんが現われたのである。あとで気がついたのだが、神足さんのとった方法はじつに見事なものだった。はじめに3省庁(外務省、林野庁、JICA)の課長をあつめて意見を聞いた(のちにぼくの知人の大蔵省課長が加わる)。全員ぼくよりもすこし若い。しかし、実質的に日本国をうごかしている人たちなのだ。結論は肯定的、ISME誘致の重要性は認められた。
◆つぎは人事である。ISME副会長は元国連大使の斎藤鎮男さんに引き受けてもらう。むろん後でわかったことだが、これで外務省の協力が約束されたのである。会長職は非日本人のポスト、ヴァヌチさんの人脈から決まった。世界的に知られる農学者インドのスワミナタンさん(Dr.M.S.Swaminathan)である。これでISMEもスタート時点から国際組織として認められるだろう。1990年8月、横浜、常陸宮ご夫妻の参加もあり、盛大な創立記念会が開催された。ぼくの任務は終わった。
◆30年余がすぎた今、ISMEは94カ国/地域の個人会員1,300人余、団体会員46(2022年1月現在)、大きな団体に成長する。いうまでもないが、ISMEの今日があるのは多くの人たちの協力・支援のおかげである。なかでも創立から30年以上事務局を支えた3人(国府田佳宏琉大教授、馬場繁幸、大城のぞみ)の名前を忘れてはならない。もうひとりいた、ヴァヌチさんである。那覇に住み、名実ともにユネスコ・プロジェクトの成果をISMEに移し、さらに発展させてくれた。
◆思い出にふけっているとき、ぼくの脳裏に神足さんの姿があった。神足さんなしには、間違いなく、ISMEの今はない。その神足さんと、どこでお会いしたのか、どんな接点があったのか。思いだせない。山や探検のつながりではないことは確かだ。大蔵省の戸恒東人さん(のちに造幣局長、雙峰書房店主)のように『緑の冒険』を読んでくれたとも聞いていない。大正生まれの本人はもうこの世にはいない。神様があわせてくれた、と考えよう。
◆誤算がひとつあった。ISME支援を強化するため2つの組織を提案したことである。日本レベルでは杉二郎さん(農大教授・東大名誉教授)の尽力で日本マングローブ協会が、沖縄では中須賀常雄(琉大)の尽力で沖縄国際マングローブ協会が発足した。誤算といったのは、組織というものの本質に気づかなかったことである。それぞれは維持・発展をすべく努力をしなければならない。ISME支援までの余裕はなかった。
◆よいこともあった。マングローブの重要性を理解する人口がふえたことである。世界のマングローブたちから感謝されたに違いない。ISMEの誘致にがんばっていたときである。またしても大役を引き受けるはめに陥ってしまった。UNDP(国連開発計画)からの依頼である。荒廃したミャンマーのマングローブ林、その再生の助言がほしい、という。いきさつを述べてみたい。
◆話があったのは、一時帰国していた北谷勝秀さん(UNDPミャンマー事務所代表)からである。国連人事委員の田代空さんの紹介だという。国連人事委員のひと……? あとで知ったのだが、田代さんは西堀榮三郎さんから「アラビアのマングローブ植林」の話を聞いていた。記憶につよく残ったのは、九州大学の農学部出身だったからに違いない。
◆その田代さんが国連の業務でヤンゴンを訪れたとき、北谷さんに会ったのだ。北谷さんから受けた相談はマングローブの専門家に関することだった。ミャンマーのマングローブが乱伐され危機的状況にある、ミャンマー森林局が10年にわたり植林を試みたが、かんばしい成果はあがらなかった。
◆北谷さんからは一刻もはやくミャンマーに来てほしいと頼まれた。だがISMEのことが優先する、すぐには行けない。依頼をうけてから8か月がすぎた。ISMEはぼくの手からはなれ、あとは神足さんと外務省がやってくれることになる。とりあえず1か月の予定でミャンマーを見てみよう。
◆1990年5月、バンコクで乗換えたタイ航空のエアバスはヤンゴンに近づき高度を下げていた。広大なイラワジデルタが眼下にあった。そのときの光景が忘れられない。一瞬、中東の沙漠に来たのではないかという錯覚にとらわれたのだ。季節は乾季のおわり、雨は半年以上ふっていない。平野の大部分を占める水田は乾き、緑がないのは当然だろう(この極端な乾季をみたことが後になって大いに役立つことになる)。
◆首都ヤンゴン。飛行機からみた景色とは全くちがった。同じミャンマーと思えないほど緑が多い。どの道路にも立派な街路樹がならび、家々の庭は熱帯の花であふれている。レイントゥリー(雨の木)の巨木に目を見張らされた。しかし街のたたずまいは近代的なバンコクやクアラルンプールとはちがった。
◆ヤンゴンは学生時代の1962年4月、数日間だが歩いたことがある。英国の貨客船でカルカッタ(コルカタ)にいく途中、寄港したのである。驚いたことに、それから30年ちかくが過ぎたというのに、街の様子が当時とまったく変わっていない。英植民地時代の古色蒼然とした建物だけ、新築のビルはひとつもない。街を走るクルマも新車は見当たらない。たくさんのリキシャ(輪タク)が顔をきかせていた。夜、窓から漏れる電灯の明かりは暗い、停電も多いという。これがミャンマーの首都、国は発展をとめていた。
◆街をぶらつく。道路わきで開業している屋台が多いのはむかしと変わらない。コンロで調理をしている。使われている燃料はすべて木炭、聞けばマングローブの炭だという。立派なレストランの調理室も覗いてみた。やはり調理は炭火、それは上流の暮らしをしている北谷さんの家でも同じだった。都市ガスやプロパンガスはない。石油は配達制、手に入りにくい。電圧が不安定、停電が多いから電気器具もつかえない。いっぽう貧しい家庭では高価な木炭ではなく、薪に頼っている。火力がつよいマングローブの薪に人気があるという。ヤンゴン市民の台所はマングローブで支えられていた。
◆昨年、マングローブ林の保全が発表された。途端に薪や木炭の価格が倍に跳ね上がったという。保全計画はただちに引っ込められた。なぜマングローブ植林が重要なのか、なぜそれが政治的優先課題となっているのかが理解できた(4,000字が超過した。次回につづけたい)。[向後元彦]
■ことしも冬山コンサートを開催いたします。今年で45年目です。アンデス高原の笛・ケーナの音色を、暖炉の暖かい北八ヶ岳の山小屋でお楽しみください。私が初めて訪れた高校生のころから、奇跡的に全く変わらなかった黒百合ヒュッテの建物も、老朽化のため全面改装中です。今年は新しくステージスペースも新設されたとのことで、演奏が楽しみです。祥太郎は、期末試験が終わり、ほっと一息ついているようです。本年もいろいろとお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。[長岡竜介]
■日 時 2022年12月30日(金)より2023年1月2日(月)までの4日間
毎晩19:00より
■場 所 八ヶ岳、黒百合ヒュッテ
JR茅野駅下車、バス渋の湯、徒歩約3時間
■演 奏 長岡竜介/ケーナ/サンポーニャ/ボーカル
長岡のり子/ピアノ
■料 金 宿泊者無料
●お問合せ 黒百合ヒュッテ 0266-72-3613 090-2533-0620(小屋直通)
長岡音楽事務所 03-3709-1298
■先月の地平線通信を読んでひっくり返った。あの向後元彦さんが「マングローブで億万長者になれるのだ」と書いていたからだ。そんな野心もあったのかと驚く一方で、内心うれしく思えてならなかった。なんたって、夢を実現するにはお金がかかる。砂漠を緑にするには長い年月と継続するお金が絶対必要で、そのためにリーダーはプロジェクトを儲かる仕組みにしようとすべきだからだ。その試行錯誤が素晴らしく面白い。こんなにも面白いのは、ご本人たちが苦労続きであっても、面白がっている様子が伝わってくるからだ。
◆巻き込まれたであろう周囲やご家族はさぞや大変だったと思われるが、奥様の「家族4人で暮らせたことが何にもましてよかった」という言葉には思わず感銘を受けた。同じ価値観で生きる夫妻の絆が美しい。幸せは、大金や立派な家ではなく、同じことを良いとおもえる仲間と一緒に夢を見られることに違いないと実感した。そしてときに「奇跡」が起こる。奇跡が夢を形にし、志が夢を実現に導く。億万長者になれずとも、活動を続けることができる。そして奇跡に甘んじることなく、向後さんは次なる冒険に乗り出すのだから、やっぱり根っからの冒険家なのだ。
◆向後さんは、「子ども時代からマングローブと一直線につながっている」という。ここで私自身のことを考えると、この30年間熱中している「さかな」と私は、一直線につながっていない。だいたい生物は苦手で、教科書を開くのはグラビアのショウジョウバエで断念した。それでも、「さかな」をめぐるあれこれを面白いと思ってしまった。なぜだろう? 私は元来食いしん坊で、とくに魚料理が大好きだ。日本の魚料理の多様さはなぜかと考えると、日本近海に世界有数の漁場があるから、ということにゆきつく。また山の多い地形ゆえ、山からの栄養分が沿岸域に流れ込み、日本中の沿岸域が魚類のゆりかごだった。そこでとれた多様な魚が、さまざまな魚の食文化を育て、食卓に上ってきた。それがいまや川も沿岸域もコンクリートに覆われ、魚たちのゆりかごはみるかげもない。当然、漁獲量は激減だ。
◆漁業というのは実にダイナミック、そして厳しさも半端ではない。農業のように毎日の耕作の積み重ねで秋の収穫を待つのではなく、魚の群れが来れば一攫千金、というダイナミックな産業だ。その一方で「板子一枚下は地獄」といわれるほど海難事故も多く、いつも危険と隣り合わせ。かつては一回の航海で家が建った時代もあったが、今では漁村に後継ぎがおらず、ジジババで漁獲、選別を行っている。定置網にかかった魚を引き上げるのは定年退職して故郷にUターンした高齢者が多い。
◆私は西東京市という、海から遠い町で生まれ育った。漁業についてはまったく知らなかった。それが仕事で漁業関係者にインタビューし、漁村取材で漁業や捕鯨について知るにつれ、いまの日本にこんなに厳しく、そして自然と共に食料産業を担っている人がいるのかと驚き深く惹きつけられた。捕鯨業やクジラの町を知るにつれ、こんな厳しい状況に置かれた人たちがいるのかと衝撃を受けた。それだけ、私は漁業から遠いところにいたのだ。
◆30年間、同じように活動しているが、いまも毎日が面白くてしょうがない。国内漁業の動きを追いかけ、現状をよりよくしようと仲間と共に活動することも、思いがけず始まったアフリカでのすり身プロジェクトも、私にはどちらも面白くてしょうがない。水産界においては30年活動してきていても、いまだに外様扱いであるが、だからこそ誰に気兼ねすることもなく、自由に活動できる。発言できる。評価されることはめったにないが、ときどき向後さんのように「奇跡が起きた!」と思える瞬間もある。アフリカでの活動を続けられているのはまさにそうだ。私たちの活動を米国の研究機関がみつけてくれて、一緒にやりましょうと申し出てくれたのだ。
◆米国研究機関との活動は今年3月でいったん終わり、現在は次の仲間や協力者をさがしている。「奇跡」はそうそう起こるものではないけれども、活動を続ける先にはきっとまた出てくると思えてならない。いままさに、あちこちへ必死に働きかけているところであるが、今年夏には日本で一番古い水産団体と一緒に単発ではあるがコートジボワールでワークショップを開くことができた。ワークショップの中身はともかく、こうした協力体制が組めたこと自体が、私には「奇跡」のように思われた。先に書いたように、私たちは外様で、老舗水産団体と一緒に活動するなど考えられないことだったのだから。
◆面白いと思えることに出会えることはありがたい、それを継続できる人生は、まさに幸せな人生ではないだろうか。困難、苦労がつづき、お金の不自由さはどうしようもないけれども、「面白いと思えることに取り組めている」のは心をいつも前向きにしてくれる。こんな幸せな人生はない、ということにあらためて気が付いた。気づかせてくれた向後さんに感謝します。[佐藤安紀子]
■井口亜橘さんが福澤卓也遺稿集『旅の記憶』を送ってくださった。懐深い北海道の山々を一緒に駆け巡った北海道大学ワンダーフォーゲル部の仲間・低温研究所の同僚・職場の上司そしてご家族が、飾らぬ文面でミニャコンカ遠征から帰らない福澤卓也さんへの思いを吐露している。ワンゲル同期の吉田さんによると、彼は何か飛び抜けたもの感じさせる人物であった。
◆純朴さやはつらつとした活気、大きな仕事をマネージメントしてしまう実力を併せ持っていた。さらには過酷なフィールド調査に耐える野人の力と、理論の力を併せ持った人物。登山家としての実力も折り紙付き。福澤さんは傑物だったのだ。そしてとびっきりのロマンチスト。でも山の世界は業が深い。山に目覚めてしまったら周りを置き去りにしても出かけてしまう。福澤さんもご多分に漏れず……。終章に亜橘さんのご友人、亜橘さんご本人が長くて、でも短くもあるここまでの歩みを綴られている。胸が詰まるお話だ。
◆福澤さん、雪崩事故防止研究会は立派に活動を続けておられますよ。それからどうか亜橘さんを遠くから見守ってください。最後に植村直己夫人、公子さんがどこかに書いておられた言葉に触れたいです。「巡り合えてよかった」。それはそれはお似合いのご夫婦だと私には思えたのです。[中嶋敦子]
■地平線通信、いつもお送りくださり、ありがとうございます。そして11月号では福澤卓也が関係した「雪崩事故防止研究会」を紹介してくださり感謝しております。ミニヤコンガでの遭難から随分と時間が経っているのに記憶にとどめてくださり、ありがとうございます。福澤の遺稿集を江本さん宛に送りました。行き先が見つかって、とても嬉しく思っています(私ではなくて福澤が……)。
◆毎月の通信に刺激を受けています。とりわけねこさんの4コマに癒されています。11月号は、主人公が自分の稼ぎで自分のためのモフモフマフラーを買っているのかと思ったら、四コマ目でうさぎへのプレゼントとわかり、ほっこりしました。そして、いちばん目がとまった文章は、江本さんが書かれた『西川一三さん最後の日々』の中にあった「破天荒な生き方に夫人も娘さんも苦労も多かったらしい」という一文でした。家族として相当の苦労をされたんだろうなと思いました。[札幌 井口亜橘]
福澤卓也遺稿集『旅の記憶』をご希望の方は、江本宛メールかハガキで申し込みください。アドレスは、通信の巻末にあります。送料に300円切手が必要ですが、部数に限りがあり、先着順とさせていただきます。
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■10月、旧友のジャーナリスト、遠藤正雄さんからアフガニスタンへ行くのでテレビに打診してほしいと電話があった。懸命に売り込んだが関心を示す番組はない。それでも「もうトシだからこの取材を最後にするつもりで行く。家族には自分の葬儀料を今くれと説得する」と遠藤さん。取材費を取り返すことの絶望的な“自爆取材”である。彼にとってアフガンは1970年代前半から取材し続け、去年8月のタリバンによる政変後は現地に一番乗りした特別に思い入れのある国だ。遠藤さんが今回の取材を“最後”と覚悟しているなら、ええい、私がカメラマンとして同行しよう!と決めた。
◆私は3年前に番組制作会社をたたんで以来、本格的な取材をやっていない。これからどう生きていこうかと考えることが多くなっていた。この機会に何ができるのか試してみたい。古希を目前にしての“自分さがし”の旅である。お金をかき集め1ドル151円という最安値で両替し、11月14日首都カブールに入った。
◆実は私はこの国は初めてである。部下を出張させたり遠藤さんのようなフリーランスをプロデュースしたりしてアフガニスタンの番組は何本も制作したが、自分は行ったことがなかった。同行した遠藤さんのおかげで、タリバン政権の閣僚、それとは逆の立場の旧政権の大幹部、麻薬常習者から国連機関のプロジェクトまで広く深い取材ができ、とても新鮮でおもしろかった。また、尊敬する中村哲医師が東部ナンガルハル州で手がけた用水路プロジェクトが今も現地の人々の手で維持・発展させられ、多くの人の暮しを支えていることには同じ日本人として誇りに思い、明るい希望を見た。
◆なかでも印象に残るのは都会と農村の女性たちの違いだった。カブールでは「地下教室」を2か所訪れた。女子の中等教育を禁じるタリバンの政策に抵抗して、ひそかに女子に英語や数学、物理などを教える私塾である。私たちは一つの「地下教室」の修了式に招かれ、100名を超す女生徒たちが一堂に会する、きわめてまれな映像を撮影することができた。式典では修了生の代表が「女性について」と題するスピーチを英語で行った。
◆「コーランによれば、知識を求めることはすべてのムスリムの義務である。社会の半分が文盲のままで、どうして社会が発展できるだろうか。私たちはタリバンに対し女子の学校を開くよう、女子に科学の勉強を禁じることをやめるよう要求する」。あどけなさの残る表情で、慣れない英語につっかえながらも堂々と訴える。彼女らの願いを叶えてあげたい、応援したいと心から思った。カブールでは、こうした自立をめざす女性たちに何人も出会った。
◆ところがカブールから3時間の用水路プロジェクト地では、あらかじめ「女性には近づかないように、カメラを向けないように」と何度も念押しされた。ここでは女性は家の中にいるのが基本で、家人以外の男性に姿を見せることは禁忌である。実際、用水路の建設現場にも、農地の種まきや家畜の世話にも女性はいない。女性たちは私たちの姿を遠くから見ただけで隠れてしまう。農民の自宅を訪ねるのも、そこに女性がいる場合は難しい。結局、一人の女性もインタビューはおろか撮影すらできなかった。こうした土地で中村哲さんはどうやって人々の信頼を得て、難事業を成功させることができたのか。
◆私は女性に近づくなという注意事項を守るのだが、「ほんとはこんなの後進的でおかしいのだが、取材をうまく進めるために仕方なく従う」という気持ちがぬぐえない。そこが中村さんと大きく違うことに気づいた。中村さんが凶弾に倒れる二日前の2019年12月2日、『西日本新聞』に彼の絶筆となった現地報告が載った。そこには「都市部の民心の変化」と対照させて、農村の人びとの「後進性」に「倫理観の神髄」を見ると記されていた。
◆中村さんは「外国人の想像を超える強固な農村社会の掟」として「客人接待」と「復讐法」を挙げる。タリバンが「ビンラディンを引き渡せ」との米国の要求を蹴ったのは、前者の「客人接待」にあたり、一般大衆に説得力を持っていた。これが米国の侵略を招いたのだから、民衆が米軍に敵意を持つのは当然である。軍事力では質量ともに圧倒的に劣るタリバンが勝利したのは、この農村の掟に根差した存在だったからだろう。
◆「復讐法」については――「誰の目にも理不尽な仕打ちの場合、『仇討ち』を賞賛する。例えば、悪徳有力者が弱い者を殺(あや)め、やられた側に成人男子がいない場合、母親がわが子を復讐要員として育てる。宴席に招いて毒殺という例もあった。数年後『めでたく』本懐を遂げると、人々は『あっぱれ』と賞賛する。(略)いわゆる家庭内暴力や自殺も、人権思想が浸透しているはずの先進国で圧倒的に多いのは皮肉である。健全な倫理感覚と権利意識とは、案外反比例するのかもしれない」。そして人間が共生するための心構えとして、「美点・欠点を判断する『ものさし』そのものが、自分の都合や好みで彩られていることが多い。『共に生きる』とは美醜・善悪・好き嫌いの彼岸にある本源的な人との関係だと私は思っている」と締めくくっている(『天、共に在り』)。
◆異文化の人々と「共に生きる」には、「近代」が作った自らの善悪の基準自体を問い直さなければならないのだな。そのことをアフガン滞在中、ずっと考え続けた。今回のアフガン行きでは、取材対象の分析よりも、ものごとの裏にある人の価値観や生き方、哲学につよく惹かれていく自分の性向がはっきりわかった。テレビでやっていくのはもうやめよう。これが“自分さがし”の成果といえるかもしれない(お金がかかりすぎたけど)。さあ、これからどんな道を歩もうかな。
■コロナの猛威がまだおさまらないのは想定外だった。新年明けたら地平線報告会も開けるか、と見ていたが、今や日本が世界で一番感染者が多いなんて信じがたいが事実なのである。
◆中国では「ゼロコロナ政策」が民衆からの激しい反発に遭い、習政権を批判する「白紙デモ」まで組織される状況だ。さすがに規制は緩みはじめているようだが、この先どう展開するのか予断は許さない。
◆アメリカの行方も気になる。日本が防衛にさらにお金をかけるとなると軍需産業との関わりは濃密になってゆくのだろう。武器を持たないことが武器、という主張は「お花畑の思想」と一笑に付されるが、ウクライナへのロシアの侵攻でその傾向は強まった、と思う。しかし、ほんとうにそれでいいのか。
◆「200字原稿」待っています。はじめて書くという方も挑戦してください。先月号の通信の最終ページのページ番号は「20」ではなく「16」が正しい。お詫びして訂正します。[江本嘉伸]
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今月も地平線報告会は中止します。
第8波が流行しているため、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。
地平線通信 524号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2022年12月19日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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