10月24日。小雨。府中市の昼の気温13度。「習氏1強が完成新体制」(朝日)と新聞は、一面トップで中国の習近平が異例の3期目の指導体制を確立したことを伝えている。
◆16日、久々に都外に出た。連れの運転で関越道を北上し、水上インターで降りる。湯檜曽温泉の今宵の宿にいったん立ち寄り谷川岳ロープウェイの駐車場まで行く。車はここまでなのだ。懐かしいほんとに懐かしいマチガ沢出合までの樹林の道をゆっくり登る。私は1959年夏、山岳部に入部した。新人歓迎合宿は4月、新緑の映えるマチガ沢出合にテントを張り、昼間は沢で雪渓訓練、夜はOB、OGも加わって歓迎のコンパをやった。
◆翌17日、宿を出てもう一度上に向かう。今度はロープウェイに乗ってみよう。もう、乗り物もいいではないか。ロープウェイの「大人往復券」は2100円。うーむ、少し高いかな。しかし、動き出すと、お、これは安いかも!と思った。どんどん足下になってゆく木々の紅葉が素晴らしいのだ。こんな風景は滅多に身近にできるものではない。正面に対する白毛門(1720メートル)の雄姿が素晴らしい。そう言えば山の魅力を広めよう、とあの「星野リゾート」がこのロープウェイを買収、運営に乗り出すことが13日付け上毛新聞の一面トップにあった。
◆頂上駅で降りてここからはスキー用のリフトに乗る。止まったらどうしようと心配になる高さのゴンドラと違って笹の斜面をすれすれに昇る感じでひょいと飛び降りることもできそうだ。天神平駅で降りて近くの高倉山(1449メートル)まで。ここから見る双耳峰、トマの耳、オキの耳(1977メートル)の素晴らしさ。
◆谷川岳と言えばあのガストン・レビュファと出会えたことも大事な思い出だ。『星と嵐』『天と地の間に』などの著書で知られるフランスを代表する山岳ガイド。1966年に来日した際、山岳文学の翻訳者として知られる近藤等さん(当時早大教授)とともに谷川岳に来た際、前橋支局の記者として同行取材させてもらったのだ。単に近くの山を、と谷川を見にきただけなので登攀とまではいかなかったが、沢を駆け降りる敏捷な身はさすがだった。
◆円安が続く。モンゴル通いをしていた時は1ドル120円台でも高い!と思っていたのに、いまや150円が相場になりつつある。アベノミクスをはじめ日本の政治家、経済人、メディアが大声で金儲け術を叫ぶ間に日本の国力はつるべ落としのように落ちているらしい。
◆銃撃されて亡くなった安倍晋三元首相と親しかったNHKの岩田明子解説委員が「安倍晋三秘録」という連載を月刊文藝春秋で書いている。安倍からは非常に信頼されていたらしく電話でのやりとりが「多い時は一日に複数回、時間帯は決まって午後十時三十分から深夜零時の頃だった」というから驚く。
◆いろいろなやりとりが明かされる中で私は10月号の冒頭に出てくる「CPAP」についての記述に注目した。安倍、岩田ともに睡眠時無呼吸症候群に悩まされていたようで、安倍は「(治療機器の)CPAPの操作方法や翌朝の熟睡感などを細かく尋ねてきた」という。そうか。あの人たちもCPAP使いながら仕事してきたのだと特別な感慨を持ったのは、私自身そのCPAPのお世話になっているからだ。
◆近年、午後になるとあくびが出てきて、運転中、急に眠気に襲われることが何度かあり、心配になって専門の医師に検査してもらった。そうしたらしっかり「睡眠時無呼吸症候群」と診断され、「CPAP」、連れに言わせれば「ダースベーダーの」マスクを毎日睡眠時に使用するようになった、というわけだ。
◆以後、日中の眠気はほぼなくなった。朝の目覚めもいい。睡眠がしっかりとれて体は以前にもまして健康になった、と思う。問題は電源がないとCPAPは使えないことだ。安倍さんもそうしていたのだろうが、海外でも国内でも常に2、3キロの装置を携行しなければならないのが厄介なのである。上高地でも谷川でもそんなわけでできれば電気のある場所に泊まる。モンゴルの草原や人で混み合う山小屋は行きにくくなった。
◆ロシアのウクライナ侵攻から8か月。10月7日、ウラジーミル・プーチン大統領は70才の誕生日を迎えた。この日、旧ソ連諸国首脳の非公式会合が7日、サンクトペテルブルクで開かれた際、数少ない味方であるベラルーシのルカシェンコ大統領はベラルーシ特産の赤いトラクターを贈った。同じ日、ロシア語教室でウラジーミルと呼ばれている私は82才を迎えた。あの男のひと周り年長なのだ、と初めて知った。
◆久々の谷川行きは、そんなわけで私の誕生祝いなのだった。ダースベーダーとひやかしながら経費を負担してくれた連れに感謝。[江本嘉伸]
■シリア難民の取材は、今年もどえらい取材だった。6歳の長男サーメルと4歳のサラーム、そして私の、3か月近い取材が無事終わった。
◆今年の取材の目的は二つ。一つは、トルコ南部におけるシリア難民の、コロナ後の(トルコではすでにコロナは過去のことだ)生活の変化。そしてもうひとつは、11年ぶりにシリアに入国し、夫の故郷であるパルミラを取材することだった。
◆取材を始めてまず驚いたのは、シリア難民の多くが、トルコの物価高とシリア人への排斥感情に疲れ、難民として保護を受けられるヨーロッパを目指そうとする姿だった。その動きはトルコ南部オスマニエに暮らす夫の親族にも。あれよあれよという間に、二人の兄、二人の甥っ子がトルコからギリシャへと命懸けの密航、不法入国し、そのままほぼ徒歩で、セルビアなどを経由してヨーロッパへと移動していった。
◆それから2か月後の2022年10月現在、彼らはフランスに到達し、これからドーバー海峡を渡ってイギリスに向かおうとしているらしい。最初に男性が難民申請をして許可されたら、一年ほどで家族全員を招聘することができる。こうして来年には、トルコ南部に暮らす夫の家族の半分が、トルコにはいないかもしれないという夫の家族の歴史的大移動の現実を目にした。その姿は、いかに彼らシリア難民が、難民としての現状に危惧し、苦しみ、家族の未来のために一縷の可能性にかけたいと望んでいるかを物語っていた。
◆そしてもう一つ。念願だったシリア国内の取材を行った。シリア中部の都市パルミラは、世界遺産パルミラ遺跡を擁する観光地として知られた地だ。しかし砂漠のオアシスという地理的要因から、2015年には過激派組織ISに占拠され、シリア政府軍に軍事支援をしたロシア空軍による激しい空爆に晒された。結果、街の8割近くが破壊され、ほとんどの住民が街を去った。10万人近かった人口は、2022年10月現在で約500人ほどとされる。
◆再びパルミラに立つことは、この数年の夢の一つだった。夫のルーツであり、トルコ南部で難民として暮らす夫の親族が、パルミラで何を経験したのか。彼らが穏やかな日々を過ごしたあの家や街が、どうなったのか。それをこの目で見なければ、一つの区切りがつかないように感じていた。その思いは昨年春、最後まで故郷を思い続けていた夫の父ガーセムが亡くなってから、ますます強くなってきた。
◆しかし最も大きな問題はシリアへどう入国するかだ。2012年以降、シリアは外国人の入国が制限されてきた。大手メディアの一員であれば、ジャーナリストビザで入国し、シリア情報省の職員が同行する条件で取材が可能だが、私のようなフリーランスフォトグラファーは不可能だ。観光ビザもジャーナリストビザも取得できない。しかしパルミラに立つためには、シリア政府が発行する正規の入国ビザを得なければならない。その最終兵器となったのが、「親族訪問ビザ」であった。つまり夫がシリア人であり、現在も親族がシリアで暮らすことから許可されるビザであった。このビザを日本のシリア大使館に申請したのが今年2月だったが、結果が出るまで4か月もかかった。この大使館からは、11年ぶりに日本人にビザを発給したらしく、ビザ発給方法や料金もすっかり忘れてしまったという。
◆それにしてもなぜ今、シリア取材なのか。そこには私なりに事情があった。まず、アサド政権の支配が安定化しつつあり、かつ新型コロナの影響が落ち着くなか、外国人の入国が緩和されつつある現状がある。観光地のみを案内する一週間のツアーが、ヨーロッパ人観光客を対象に一人当たり1700ドルで組まれている。さらにロシア軍のウクライナ侵攻による影響だ。現在のアサド政権の安定化は、2015年以降のロシア軍の軍事支援によって支えられていたものだった。しかしウクライナ侵攻でロシアが劣勢である今、シリアからも軍隊を呼び戻しており、今後のシリア情勢もどうなるか分からないと感じた。
◆また個人的な事情もある。来年から長男が小学生になり、長い取材に出にくくなるだろう。またさらに言えば、年々不穏な空気が流れつつあるシリア人の夫との結婚生活を考えるに、今だったら、シリア入国の必殺兵器「親族訪問ビザ」が使えるが、この先はわからないという、なんともしたたかな考えもあった(同時に、シリア取材は危険なので、子供は隣のトルコに残したい。子供を親族に預けるなら、夫と婚姻関係にあるうちにという考えも)。とにかく、世界情勢と個人的事情から、シリアに入るのなら今年がベストタイミングであり、そしてそのためには、使えるものは全て使おうという思いだった。
◆かつてシリア政府軍に所属し、任務上、市民を弾圧しなければいけない罪悪感から脱走兵となり、難民となった夫は、シリアに入る私を「裏切り者!」と当初罵倒したが、最後には、「自分の代わりにパルミラを見てきてほしい、あそこに行って写真を撮って、あそこもどうなったか教えて」と一緒に計画立てに協力してくれた。
◆かくして、親族訪問ビザでシリアに入国する準備が整った。今も厳しい情報統制が続くシリアで、しかも破壊され尽くしたパルミラの写真を撮るのは危険極まりなかった。リスクを考え、子供たちをトルコに残し、単身でシリアへと向かった。実に11年ぶりのシリアである。
◆子供たちとこんなに離れるのは初めてのことで、夫がトルコで子供たちと過ごしてくれることになった。彼らは旅立つ私に、お守りをくれた。それはハガキ大の二つに折られた手紙で、「ままへのぷれぜんと」と書かれている。紙を開くと、「ままいつもだいすきだよ。ままわいつもさーめるとさらーむことかわいがってくれてありがとう」と、赤い太陽の下に手を繋いで立つ私と子供たちの絵が描かれていた。その小さな紙切れは、私を待っている子供たちがいるのだ、ここに必ず帰るのだと、いつも思い起こさせてくれた。
◆そうして訪れたシリアでは、ダマスカスやホムスなどの中心部こそ賑わいがあり、紛争はもう終わったかのような錯覚をしそうになるが、少し歩けばボロボロに崩れ去った街が続き、唖然とした。特に地方都市のパルミラは、そのほとんどが崩れ去り、その光景をこれまで報道で目にしていたものの、自分の目で見たショックは大きかった。コンクリート製の家々は、溶けたアイスクリームのように壁や屋根ごと落下し、ぺちゃんこになったり大穴が空いている。銃痕や空爆の損傷の見られない家はどこにもないほどだった。
◆政府の公式発表では、パルミラには5000人ほどが暮らしているとされるが、実際は500人ほどのようだ。パルミラは現在、「軍隊の街」と呼ばれる。周囲を砂漠に囲まれた防衛の拠点として、特に南下を試みる過激派組織ISに目を光らせ、政府の経済維持に重要な油田・ガス田を防衛するため、シリア軍、イラン軍、ロシア軍が駐屯するという、シリアでも特異な状況の街だった。「ムハーバラート」と呼ばれる、シリアでは公然の秘密警察と、彼らに協力する住民の監視のなか、私はパルミラで三日を過ごした。政府による政治的抑圧のなか、人々は廃墟の街で、まるで何事もなかったかのように暮らしていた。その姿にもショックを受けた。
◆パルミラでの三日間は私にとってまさに駆け引きであり、狡猾さがなければ、絶対に写真は撮れなかっただろう。パルミラで我が身に起きたことは、シリアで起きてきたことの縮図のようだった。さまざまな事件があったものの(詳しくは、私のウェブサイト有料会員コンテンツにて公開している)、枯れたナツメヤシの森と遺跡、夫の実家を撮影することができた。これらの写真は、表現を吟味しながらこれから写真展などで多くの人に見ていただきたい。同時に私は、取材前から、このような写真を公開すれば、自分の身の安全上、二度とシリアには入国できないだろうとも思われた。これが自分の最後のシリア、パルミラになることを覚悟をして撮ったのである。実に精神をすり減らしたシリアの取材だった。
◆こうした、破壊と殺戮の現場をシリアで目にしたショックと、これまで取材してきた難民たちのルーツを目にできたある種の覚悟とを抱き、私は家族が待つトルコに戻った。しかし、空港に到着して5分も経たないうちに夫から聞いたのは、驚くべき言葉だった。「第二夫人をメトリタイ」。どえらい話だ。なんと、相手の女性もすでに見つけ(シリア国内に住む19歳の女性)、その父親にも結婚の了承までとったというのだ。その突然の展開に、私は全くもって気抜けしてしまった。なんということか!
◆いまシリア難民の間では、シリアから花嫁を招聘し結婚するのが流行っている。というのもシリア国内ではインフラが崩壊し、人々は大変な生活苦にあるからだ。そのためかつて高額だった花嫁側への結納金はほぼタダでよいから、とにかくシリアから出国できるよう、迎えてくれる難民の男性を国内の人々は求めているのだ。男性側も、若くて綺麗な女性を安価にめとれると聞くと、まんざらでもない。
◆こうして、シリアとトルコを繋ぐ結婚紹介ビジネスが難民の間で流行っており、夫も、私がシリアに取材に行っている間に(おりしもこちらは緊迫の期間にだ!怒)上手い話に乗せられ、すっかりその気になったのだった。その第二夫人騒動の衝撃は、恥ずかしながら、シリアで目撃した惨禍に対するショックを上回った。もう、こうなったらどうしようもない。
◆さらにその後、この問題をめぐる夫の家族の対応や言動から、さらなる文化的・宗教的ショックを受けた。結局、男はみんな同じなのだ。そしてイスラム文化の中で、なんと女性の立場の弱いことか! こうしたドロドロモニャモニャの中で、シリア後の最後の取材を完結させねばならなかったのは、大変に辛いことだったが、ここまで来たからには、もうやるしかない。
◆私は取り乱したり、取材中に難民の家族の前で涙を流したりしながらなんとか取材を終えた。おりしも第二夫人騒動から数日後に40歳という節目を迎えることとなり(涙)、生涯忘れられぬ苦い思い出に。もうてんやわんや。そんななか傷心の私を慰めるため、付き合いの長い難民の家族たちは、心のこもった誕生日会を開いてくれ、人生は長いよ、と励ましてくれた。こうした試練のときに、側で親身に励ましてくれた彼らの存在がどんなにありがたかったことか。結果的に、この一件を通して、喜怒哀楽なんでもありの彼らとの人間くさい付き合いが、図らずもより深くなったのだった。
◆こうして、3か月の取材は、目の前でヨーロッパへと移動していく兄たちの姿にショックを受け、シリアでの惨状と今も続く政治的抑圧にショックを受け、極め付けには、夫の第二夫人メトリタイ騒動にショックを受け、「人生、山あり谷あり」を体現したような、怒涛の日々であった。もはや取材というより、人生経験を積んだような心境である。
◆帰国する直前に、私と子供たちはイスタンブール郊外の黒海に面した港町カラブルンで静かな時間を過ごした。まもなく冬に向かおうとする黒海沿いの村の寒々とした光景に目を奪われた。人々の営みがあることを物語る、きれいに整った庭木や、干された洗濯物、窓辺に見える人影に、安らかな気持ちとなった。思えばこれまで、トルコ南部の国境地帯やシリアでは、土地の恵みや風土の豊かさより、人間がその土地に被せたイデオロギーの複雑さと向き合ってこなければいけなかった。それに疲れを感じている自分を知ったのだった。政治色を帯びない、ありのままの自然に身を浸したい衝動にかられた。
◆子供たちが寝静まった夜、私は浜辺を歩き、青黒い海のうねりをいつまでも眺めた。この向こうにはウクライナがある。その黒い海に、故郷秋田の、ねずみ色の冬の海が思い起こされた。無性に、自分の故郷が撮りたくなった。さて、帰国してからやるべきことが山積みだ。取材の整理と発表と、そして第二夫人騒動のその後もある。いろいろなことが起きるが、それでも地球は周り、人々は移動し、人生も続いていく。自分の持ちうる全てをかけて挑んだ今年の取材。今なお、精神的な疲れがとれないが(ほとんどは夫のせいである)、それだけこの小さな体には大きく、深いものを目にしてきたからだろう。あとはこれらをいかに表現するかだ。さて、ここらからが正念場である。ふー。[小松由佳 いつも地平線の皆様に応援いただき、どうもありがとうございます。皆様のおかげで今年も取材を終えることができました]
小松由佳ウェブサイト https://yukakomatsu.jp
■20年ほど前に地元の和歌山で旅の話をしたことがある。話の間、講演会の準備を手伝ってくれた高校の同級生たちが、壁際に不安そうな顔で立っていた。会が終わると、みんなが集まってきて「坪井ちゃん、本当に話できるんやな。びっくりしてしもた」と言う。同級生が驚くのも無理はない。誰よりも僕自身が驚いている。僕は今でもかなりのコミュニケーション不全だと思っている。人見知りするから人に話しかけるにはかなりのエネルギーがいる。会話のパターンは受け身で、自分からは話せず、ただ聞いているだけ。あまりにも自分のことを話さないから「オマエ、網走帰りか?」と言われたこともある。講演会で話すなど過去の自分からすればありえない話だった。
◆30歳のときに初めて講演会のようなものをやった。卒業した大学の先生に学校で話してほしい、と、頼まれたからだ。話すのは苦手だし、そもそも僕の旅話に人が興味を持ってくれるとは思えない、と、断った。すると先生は「ワタシは聞きたいです」と、言う。アルゼンチン人のマカダム先生は、自分にとって特別な人で、この人がそういうのなら仕方ない、と、思った。
◆学生時代の恩師の中でいまだに付き合いがあるのは、スペイン語中級会話クラスのマカダム先生だけだ。卒業単位とは関係ない会話クラスは、南米をバイクで走ると決めたときに勉強しなければと選んだ。どうせなら、と、難易度の高い中級会話クラスにする。履修要項にはスペイン語1、2を終了したものが「望ましい」と書かれていたので、教務室に出向き「望ましい」とはどういう意味でしょう、と、ゴネて無理やり入ったクラス。その担任がマカダム先生だった。50代ぐらいで温厚な笑みを浮かべた先生は、紳士な外見からは想像もできない暴走族もびっくりの黒の煤けた箱型スカイラインで通勤していた。そしてクラスでただ一人、スペイン語の挨拶もできない僕も笑って仲間に加えてくれた。授業というより遊びを通じて、南米の文化を学ばせてくれた少人数のクラスは仲がよく、みんな先生が大好きだった。結局スペイン語は身につかなかったが、卒業後35年が過ぎた今でもクラスメイトは友達だ。
◆さて大問題の人生で初めての講演会である。先生は50人の部屋を準備した、という。そんなに人が来るはずはないが、引き受けたからには先生に恥をかかせる内容ではいけない。まずは記憶の総点検が必要だ。そう考え押し入れに埋もれていた旅先の写真やら日記やらを、すべて引っ張り出す。バラバラだった記憶の整理は至難を極める。それから新しい世界地図を買ってきて、今までバイクで走ったルートに赤線を引いてみた。「はっ」とした。そうか、僕はもう世界の半分を走っていたのか……。中途半端は気持ち悪いな。こうなったら残り半分も走ろう。それからのことは、それからだ。思えばこのときに初めて、僕のバイクでの世界一周は決まったのだった。
◆当日、とうとう考えはまとまらず、重い足取りで学校に向かう。どうせ知り合いしかいないだろうと思ったら、先生が集めてくれたのか、20人以上のお客さんがいる。困ったことに知らない人ばかりだ。まぁ、スライドの説明をするだけだから、と、自分に言い聞かせて教壇に上がる。立って驚いた。1人1人の顔がよく分かる。見渡してみると会場からは期待の気配が感じ取れる。もうやるしかない。写真はそれほど悪くないはずだ。
◆ポツリポツリと話す。言い間違えたり、地名が思い出せずに言葉が出なかったりする。活舌がいつも以上に悪い。客席から鋭い指摘が入ったらどうしよう、と、気が気ではない。しかし何も起こらない。寝る人もいなければ退屈そうな顔もない。信じがたいが表情から感動を読み取れる人もいる。少し安心すると、心が客席から離れて、スクリーンに映っている風景に入っていく。あのとき僕は、こんなことを思っていた。感じていた。気負いが抜けて言葉が流れる。こちらの緊張が溶けていくとお客さんの緊張も解けていく。気がつけば1時間が過ぎていた。話終えて拍手を受けたとき、この拍手にはウソもお世辞も入っていない、と、感じた。一応せいいっぱいやったけど、こんなので許されるんだ、と、驚くと同時に、やってよかった、という熱い気持ちがジワジワと体に満ちた。
◆僕はなぜこれほどまでに自分の話をしたくなかったのだろう。自分に問い続けていると出てきた答えは、会場にいる誰かに「そんなの○○さんに比べたらなんてことない。よくそんなエラそうに言えるな」と事実を指摘されるのが怖かったからだと思った。でも○○さんは○○さんで、自分は自分である。何度か話をして、実際に届く手ごたえを感じられるようになると、比較の呪縛は次第に薄れていった。話が上手でなくても、多少間違いがあっても、誠意をもって話したら人は聞いてくれる。僕は話してもいいんだ、と、思った。[坪井伸吾]
■お彼岸の9月23日からおよそ半月間、故郷の山形県を一人で自転車でまわってきた。自分は意外に故郷を知らないな、いつかヒマになったら旅をしようと思っていたのが、自分の会社が倒産して文字通りフリーになったことで実現した。移動手段は持ち運べる折りたたみ自転車にした。メルカリで購入して試し乗りを数回、テールライトなど備品を買ったのが家を出る前日という付け焼刃の旅立ちだった。
◆山形県は置賜(おきたま)、村山、最上、庄内の4つの地方からなっている。大まかに、旅の前半は英国の女性旅行家、イザベラ・バードの足跡をたどり、後半は山形出身の作家の藤沢周平にちなんだ土地をまわるという行程を考えた。バードは明治11年に、当時外国人がほとんど足を踏み入れなかった東北地方から北海道までを踏破し『日本奥地紀行』を記した。新潟県から山形県南部の置賜に入り、村山、最上と北上して秋田県に抜けている。藤沢周平はバードが足を踏み入れなかった庄内の出身で、彼の小説に出てくる人物や風物のほとんどは江戸時代の庄内藩がモデルだ。だから両方を合わせると山形県をほぼ網羅できる。
◆最初にまわった置賜地方は、私の生まれ育ったところで、親戚の多くは半径20kmにおさまる。なじみの場所を通るたび、このあたりで従兄弟とザリガニを採ったな、などと幼いころがよみがえってきた。私の生まれ故郷をバードはこう描いている。《米沢の平野は南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉の町、赤湯があって、申し分のないエデンの園で、「鋤(すき)ではなく画筆で耕されて」おり、米、綿、とうもろこし、たばこ、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、瓜、きゅうり、柿、あんず、ざくろをふんだんに産します。微笑みかけているような実り豊かな地です。繁栄し、自立した東洋のアルカディアです。充分にある土地はすべてそれを耕し、自分たちの育てたぶどう、いちじく、ざくろの木の下に暮らし、圧迫とは無縁――東洋的な専制のもとではめずらしい光景です》
◆若いころ私は田舎がつまらなく、早く都会に出たいと思っていた。目の前に広がるのは、どこにでもある平凡な農村にしか見えないのだが、「エデンの園」、「アルカディア(理想郷)」とバードは激賞している。自分は何か見落としていたのだろうか、と内省的な気分におそわれた。これ以降、それぞれの土地の暮らしに「いいところ」を見つけようという意識で旅をするようになったと思う。これも良きかな、あれも良きかな、と。
◆旅の時期は、ちょうど稲刈りが始まったところで、実りの稲穂が黄金色に輝いていた。とくに夕方は、一面の田んぼが陽に照り映えてまぶしいほどだ。ひょっとして「黄金の国ジパング」というのはこの光景からつけられたんじゃないか、などと妄想しながらペダルをこぐ。目に入る風景が自然に時空を超えた発想をいざなう。それがとても楽しい。
◆山形県人のやさしさをあらためて感じたのも今回の旅の収穫だった。道路を横切ろうと後ろを振り返ると、私に気づいた車がすぐに徐行して30mほど手前で止まってくれる。信号のない交差点で、互いに遠慮して車同士がお見合いをしている光景を何度も見た。食堂では勘定のとき、店の人だけでなくお客も頭を下げて「おしょうしな」(置賜語で「ありがとう」)と礼を言っている。子どもたちの話す言葉はすっかり共通語になってしまったものの、昔から受け継がれた心性はいまも残っているようだ。故郷を見直した。
◆宿ははじめの5泊は事前に予約していたが、その後は行き当たりばったり。前日の夜か当日の朝、どこに向かうかを決めてその近くの宿を探す。だが、これがうまくいかない。ネットで見つけた安い温泉宿に夕方着いたら、8月に山形を襲った水害に被災し休業していた。なんとか頼み込んで泊めてもらったが。また、安さで選んだ宿がかなり遠く、山中で日が暮れて怖い目をみたこともあった。でも、こういうハプニングがまた旅の醍醐味でもある。
◆今回の旅では、たくさんの人と親しく交わることができた。何人もの旧友と半世紀ぶりに再会し夜遅くまで昔話を語り合った。地平線会議の人にはおなじみの鷹匠、松原英俊さんの自宅を天童市に訪ね、クマタカやイヌワシを見せてもらい、鷹使いの衰えぬ情熱に触れた。庄内では、飯野昭司さんが冠雪直前の月山に車で案内してくれ、八合目で美しい草紅葉を堪能した。旅の終わりに数えてみると、新しく知り合った人が意外に多かったが、それは長年の仕事の性(さが)が影響している。先々で会う人に「インタビュー」してしまうのだ。宿の女将と旅館の歴史について話し込んだり、一人旅の女性にそのわけを尋ねて人生相談にのったり。誰にも邪魔されない一人旅には、くっきりと個性が出るようだ。
◆ということで、今回の山形の旅は、17日間で自転車の走行距離約555km、新たに知り合った人と旧交を温めた人合わせて45人という結果だった。いまその余韻を気持ちよく味わっている。[高世仁]
■「生涯旅人!」をモットーにしているぼくは、トコトン「旅の記録」の数字にこだわっています。その数字というのは1968年4月12日に始まります。カソリ、20才の旅立ち。横浜港からオランダ船の「ルイス号」に乗船し、250ccバイクともどもアフリカ南部モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)に渡り、20か月をかけてアフリカ大陸を一周したのです。
◆「ルイス号」は日本を出た最後の南米への移民船。ケープタウンからブラジルのサントス、ウルグアイのモンテビデオに寄港し、アルゼンチンのブエノスアイレスまで行く船でした。この「アフリカ大陸一周」(1968年〜69年)が我が旅人生の始まりで、それ以来55年間、ただひたすらに「旅の記録」の数字を追いつづけています。その結果、2022年1月1日現在、バイクで走った走行距離は175万6515キロ、旅した日数は8291日になりました。
◆ぼくが本格的に日本をまわり始めたのは、20代も後半になった1975年からのことですが、「峠越え」と「温泉めぐり」を二大テーマにしました。日本を日本らしくしているのは峠と温泉だと考えたからで、峠を越えながら、温泉をめぐりながら日本を見てみようとしたのです。越えた峠の数は1739峠、入った温泉は1982湯(温泉地)になりました。その後、岬もカウントするようになり、351岬になりました。
◆このうちの「温泉めぐり」では、2006年11月1日から翌2007年10月31日までの1年間、「300日3000湯計画」と称して、それまでの「温泉めぐり」とは切り離して日本の温泉をめぐりました。日本を8エリアに分け、正味296日間で3063湯の温泉(温泉地)に入ったのです。カソリの温泉のカウントの仕方は温泉地です。たとえば別府温泉や草津温泉といった大温泉地では、どこか1湯でも入れば、それ以上何湯に入ってもカウントされないのです。より広く日本中の温泉地をめぐりたかったのです。
◆この「3063湯」という数字がギネスの世界記録に認定されました。ギネスのロンドンの本部では、「日本という国にはこんなにも温泉があるのか!」と驚いたと聞いています。ギネスの世界記録に認定されるためには2人の証人が必要なのですが、そのうちの1人は地平線会議の江本嘉伸さん。江本さんのおかげで世界記録に認定されたようなものです。
◆記録というのは破られるものですが、このカソリの1年間での「3063湯」というのは永遠不滅だと自信をもって言い切れます。その訳をお伝えしましょう。まずは1年間、フラフラと遊びまわれる人でないとできません。その温泉めぐりですので、3063湯分の温泉の入浴料(無料湯にも入っていますが)と300泊近い温泉宿の宿泊料金、それと1年間の旅の費用で何百万円もかかります。
◆車では無理です。バイクの機動力があってこそ可能なプロジェクト。つまりバイク乗りのみがチャレンジできる記録なのです。それと体力、気力です。冬の信州の氷点下10度、氷点下20度の寒さの中での温泉めぐりや、真夏の山形盆地での40度越えの中での温泉めぐりはもう地獄。それと温泉を知りつくしている人でないとできません。
◆カソリの「旅の記録」の数字はまだまだつづきます。バイク巡礼旅では「四国八十八ヵ所」だけで終わらせずに、「小豆島八十八ヵ所」と、島四国の代表として「伊予大島八十八ヵ所」もまわり、全部で264ヵ所の札所をめぐりました。お大師信仰の次は観音様信仰です。西国33番、坂東33番、秩父34番の日本100観音霊場を巡るとチベットのラサに飛び、ポタラ宮の観音像をお参りするのでした。
◆今は「神社めぐり」をおもしろがっています。50代に突入してから始めた全国の「一宮めぐり」ですが、最後に立山に登頂して雄山山頂に祀られている越中一宮の御本社と、鳥海山に登頂して山頂直下に祀られている出羽一宮の大物忌神社の御本社を参拝しました。
◆こうして日本の旧国68国の105社をまわりました。一宮は一国一社ではなく、複数社の国もあるのです。「一宮めぐり」を終えると、「式内社めぐり」の開始です。昨年は東北の全式内社をめぐりました。陸奥100社、出羽9社、論社を含め全131社をめぐりました。今年は東北につづいて関東の式内社をめぐっています。
◆このような「旅の記録」の数字に徹底的にこだわるカソリですが、『地平線通信9月号』の江本さんの巻頭言の最後の2行を見て、「いや〜、まいったな」とちょっと困っています。頭から冷や水をぶっかけられたような気分です。みなさんも読まれたように、人生の達人の江本さんは『ついに数字を自慢するおばかな年寄りになったか、と言われそうだが、すみません。何か新しいことを見つけて報告します』と書かれています。ということで、数字を自慢するようになったおばかな年寄りのカソリが原稿を送ります。江本さん、カソリはめげませんよ。それが「生涯旅人!」の極意。さ〜、バイクの走行距離200万キロ(地球50周分)と、旅の日数1万日を目指すぞ〜![賀曽利隆]
■先日、ある青年が楢葉町大楽院の焚き火場を訪ねてきてくれました。彼に会うのは6月の「ならはキャンプ」以来2度目です。はるばる博多から新幹線と電車を乗り継いで「賀曽利さんに会いたい!」とその一心でキャンプに参加してくれました。聞けばママチャリでの日本一周を走破して、次はバイクで日本一周を計画中とのこと。その若さ溢れる行動力、熱意にとても感動しました。その話通り、今回は日本一周の途中で立ち寄ってくれたのです。
◆その夜は焚き火をしながら旅の話を聞かせてもらいました。博多から日本海に沿って北上し、北海道を回って南下の途中で、北海道では資金稼ぎのバイトもしながら旅を続けてきたそうです。バイクの後ろには大きなボードを掲げ、「日本二周中!」の文字がとても誇らしく、また焚き火に照らされた彼の顔も心底旅を楽しんでいるのが感じられ、こちらも嬉しくなりました。
◆「ならはキャンプ」のきっかけとなった焚き火会は隔月で実施しており、毎回20名くらいの人が参加してくれています。常連もいれば初参加の人もいて、毎回どんな人が来てくれるのかが楽しみな会となりました。元々は2011年の震災後、楢葉町の避難指示が解除された2015年から「焚き火をしていれば人が集まってくるのでは」という思いから友人と二人で始めました。ただ、当時は夜間に通る車はほとんど無く、たまにパトカーと町の見回り隊の車が通るだけでしたが、会を重ねる毎に徐々に人が集まるようになっていきました。
◆参加者の多くはライダーなのですが、様々な人に参加してもらいたいですね。いろいろな人が集まり、交流することでまた新たなものが生まれるのでは、という思いからです。実際にウォーキングの資格を持っている常連の方が参加しているときに、たまたま来ていた役場の人と話をして、町主催のウォーキング講習会の実施へと繋がっていったこともありました。
◆一方で、一人で黙々と焚き火を楽しみたい、そんな人もどんどん来て欲しいです。その夜だけでも焚き火で気持ちが安らぐ時間を過ごしてもらえればそれだけで十分です。これからも人が集う場所として焚き火会は続けていきたいと思っています。自分のやりたいことを無理のない範囲で続けていく。肩肘張らずに、程よく力が抜けているスタンスがいいのかもしれないですね。
◆青年と再会した夜は平日でしたので、ノンアルコールで2時間程で別れました。好きなことに全力で打ち込んでいる、彼の笑顔がとても印象に残りました。バイクで日本一周を終えた後は、徒歩での日本一周(3周目)をすでに計画中とのことです。そのときはまた焚き火を囲んで話を聞きたいものです。どうぞ、よい旅を。そして、また会おう![福島県楢葉町 渡辺哲]
水のほとりを旅した
川をさかのぼって
急峻な谷をよじ登ると
ゆるやかな下りとなった
青田の上空を白鷺が悠然と舞い
甲羅干しの亀たちが一斉に水に飛び込む
木漏れ日に我を忘れる土手道
広くなった川はもはや草原だ
遥かな雲を望んで
水は地形に沿ってしか
流れることができないと知る
だがこの豊かさはどうだろう
行く雲と流れる水……
そうつぶやいた
余白を今は生きている
[豊田和司]
■琉球大学附属図書館本館と医学部別館で企画展「医療への信頼」の写真展をしていただいています。写真展は11月30日まで、学外のどなたでも入館してご覧いただけます。初日トークでは主に医学生が50人以上聞いてくれ、その関心の高さと「聞く」迫力に圧倒されました。2013年発刊の河田真智子写真集「生きる喜び」を授業のテキストとして使ってくれ、レポートを提出してくれた100人の感想をすでに読んでいたからです。コロナ禍にあっての島嶼医療の大変さを感じました。次号で書かせていただきます。[河田真智子]
■<門松や おもへば一夜 三十年> 松尾芭蕉の句だ。おとそ気分の抜けない30年前のお正月、私たちは東京中野の株式会社「砂漠に緑を」の事務所で車座になり、酒を飲んでいた。誰が口火を切ったか、非営利非政府の任意団体(NGO)でも作ろうという話になった。湾岸戦争でサウジアラビアの現場が終わり、会社の存続が風前の灯火になっていた。食えるか食えないかは後で考えればよし。とにかく私的な組織をつくることになったのである。
◆「世界92か国にマングローブの鎮守の森を造り、現存面積を倍に増やす」。大風呂敷を広げて熱く語る向後元彦さんや宮本千晴さんら御大たちを前に、私は夢でも見ているように終始もうろうと酔っぱらって圧倒されていた。気がつけば、NGOの名前まで決まっていた。「マングローブ植林行動計画」。略称はアクトマン(ACTMANG)。一番若い私がいつの間にか事務局長にさせられていた。全く名ばかりのポンコツな事務局長だった。事務仕事はそっちのけでベトナムやエクアドルのフィールドにばかり行っていた。事務局の仕事は留守番電話にさせていた。東京にいるときは事務所の一室に寝泊まりして居候を決め込んでいたので、月10万円そこそこの給料でもなんとか生きていけた。バブル経済の余波か、銀座の高級クラブで接待を受けたことも二度三度。まるでマンガである。
◆しかし、故あって、1996年の年末を潮にアクトマンを辞し、九州に引っこんだ。その後12年間は、フリーで働いたり、沖縄に本部を置く国際マングローブ生態系協会(ISME)に出仕したり、福岡国際交流協会の嘱託でイベントの運営などをしたり。まあ、いろいろ他所の釜の飯を食った末、再びアクトマンに出戻ったのが2008年12月。以来、今日まで東京海上日動がスポンサーのマングローブ植林プロジェクトでミャンマーを担当している。
◆ざっとこれが私のマングローブ遍歴。大学時代に初めて西表島のマングローブ林を調査で訪れてから、還暦を過ぎた今もマングローブとの御縁は続く。人生における出逢いは、まことに不思議なもので、様々な偶然が今では必然だったと思える。
◆いま、アクトマンの常勤スタッフはたった3人。向後さんと宮本さんは顧問・相談役として80歳を優に超えてなお赫々としておられる。世界92か国にマングローブの森を造る夢物語はまだ夢のような話。世界のマングローブ面積倍増計画も、この30年間で増えるどころか漸減傾向に歯止めがかからない状況だ。私たちがやってきたことはまさに『ハチドリのひとしずく』の寓話のようなものかもしれない。山火事を鎮めるため、小さなくちばしに水をためて何度も何度も水場と森を往復する一羽のハチドリ。焼け石に水と分かっていても、やむにやまれぬ思い。森の生き物たちはそんなハチドリを嗤う。
◆30年は、芭蕉が詠んだように一夜の夢、一朝の幻のようなものだったろうか。いや、そうではあるまい。マングローブと遊んで過ごしてきた私たちは、本当に運が良かった。普通の会社や役所に勤めていたら、とても経験できないような楽しくて面白い旅をさせてもらえた。食い物だけでも、ヒツジの脳みそやヤギの金玉、ブタの血の煮凝り、ネコの焼肉、グリーンイグアナの唐揚げと卵、クイ(南米の大ネズミ)の丸焼き、チュンビットロン(孵化直前のアヒルの卵、ヒナのくちばしや羽がすでに生えている!)、ゴカイをミンチにしたハンバーグ、カブトムシの幼虫……。思い出すだによだれが出る。若いときのそういう一つ一つの豊かな時間がかけがえのない宝ものなのである。
◆私たちはすでに年を取った。成し得なかったことは後生の若い人たちに託そう。さりながら、このまま隠退するのも口惜しい。寿命のあるかぎりは、そして求められる仕事があるのならば、その場所へ出向いて行って自分たちのできる事を愚直にやっていくだろう。(後略)
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◆上の文章は、アクトマン創立30周年を記念して団体のホームページにアップしたエッセイの大部(一部改編)です。今年のお正月に酒をかっくらって書いたので、実におめでたい戯言であります。今年もすでに10月。30周年といっても個人的に手拭いとポストカードをつくっただけで、のんき者の揃っているアクトマンとしては何もしませんでした。
◆秋晴れのさわやかな朝、先祖のお墓の前で手を合わせていると、いきなりケータイに電話がかかってきました。江本さんからでした。地平線通信に何か書けとおっしゃいます。私はここ2年半、現場にも行っておらず、コロナワクチンも一回も打っておらないので(関係ありませんが)、原稿は勘弁してくださいと固辞しました。安心していたところ、近所のお爺さんがタマネギを2ダースばかりどっさり持ってきてくれたので、玄関の上がり框で世間話をしていたら、また江本さんが追い打ちの電話をしてこられました。向後さんや宮本さんへの兄貴孝行のつもりで書けとのお達しです。私は向後さん宮本さんを兄貴分と思ったことは一度もなく、親分子分の間柄と思ってきましたが、江本さんにそうまで言われると、書かないわけにはいかなくなりました。
◆昔の文章で申し訳ありませんが、上の駄文でご勘弁ください。ズボラで横着な私をお許し下されば幸いです。自分は東海林さだおさんの漫画に出てくる「まっぴら君」のような万年ヒラのサラリーマンです。今年から繰上げで国民年金をもらっています。55歳まで貯金ゼロで友人からの借金5万がなかなか返せずにおりました。それがここ数年、ちょびっとずつ金がたまるようになり、自分史上最高額に達しました。九州の豪華クルーズトレイン「ななつ星」に乗れるぐらいには貯まりましたが、気分が悪いので、そのうち一気に吐き出そうと思います。来年はミャンマーに行ってきます。地平線子の皆様のご健康とご活躍を蔭ながらお祈りしています。
◆もしご興味がありましたら、アクトマンのホームページを訪ねてみてください。ACTMANGで検索してもらえればすぐに出ます。ついでに真平閑のペンネームで昨年、本をつくりました。長野亮之介画伯に無理をお願いして表紙絵と題字を描いてもらっています。『伝:幡随院長兵衛三代』というタイトルです。国立国会図書館にも納本しました。内容は我田引水でとんでもない書き物ですが、長野さんの絵は絶品ですよ。[鶴田幸一]
■板橋区の植村冒険館で学芸員をしております、内藤と申します。その昔、江本さんにどれだけお世話になったかをお話ししたいと思います。
◆植村冒険館は東京都板橋区が平成4年に財団法人植村記念財団を設立し、同年9月に板橋区蓮根で開館し、本年30年を迎えました。植村直己さんの業績を顕彰する事業を行っており、企画展示や青少年を対象にした野外活動事業「自然塾」などを行っています。豊岡市の植村直己冒険館は生まれ故郷の博物館で、当館は自宅があった板橋区が設置したものです。同じく植村さんをテーマにしているので、常時情報を共有しつつ、それぞれの地域の特性を生かして事業を行っています。
◆私は植村さんの冒険を紹介する企画展を担当しておりますが、開館当初、まず困ったのが、冒険に関するまとまった文献が存在していないことでした。登山は『山と溪谷』や『岳人』『岩と雪』など雑誌だけでなく、日本山岳会という歴史的な組織があるので、文献がまとまっています。しかし、冒険史とか、最新の冒険家の情報を調べようと思ったところ、全体を総括しているような組織がなく、公式の文献がないことに気づきました。
◆さあ、どうしよう。雲をつかむ思いで、過去の新聞記事を拾いました。ところが、紙面の都合もあるのでしょう。途中経過や結果がすべて網羅されているわけではなく、また主要三紙がすべて取り扱っているとも限らず、最後はどうなったのよ?という冒険もあり、博物館で紹介する情報としては不十分なのです。
◆次に私がすがったのが百科事典でした。これも国会図書館で探したのですが、『ブリタニカ国際大百科事典』に「探険」という項目があったのです。たしか当時は毎年発行されていて、1年間の冒険・探険情報を総括した記事がA4見開き2ページでまとめられていました。これはありがたい! 文末には「江本嘉伸」という署名がありました。ああ、江本さんという人がこの記事をまとめてくださったのだな、ありがたいありがたい。無意識に拝んでいたかもしれません。
◆それから3年くらいしてからでしょうか、江本嘉伸さん=「地平線会議」ということを知って体中に電撃が走り、今に至っています。ネットで検索などできない時代でしたが、百科事典に江本さんが記事を執筆されていたことに、今更ながら納得しています。
◆さて、この11月6日に植村冒険館30周年記念講演会を開催します。記念講演を北極冒険家の荻田泰永さんにお願いし、「繋がっていく冒険の系譜」というテーマでお話しいただきます(申し込み制・受付状況などの詳細は植村冒険館のWEBサイトをご覧ください)。対面での地平線報告会の再開も楽しみにしています。江本さんがどうやって冒険家を見つけてくるのか、いつかその謎をお聞かせいただきたいです。[内藤智子]
FAX 03-6912-4705
メール
に以下の事柄を書いてお送りください。
(1)講演会申し込み (2)郵便番号・住所 (3)お名前・ふりがな (4)お電話番号
*1通で2名まで申し込みができます。(2)〜(4)を2名分ご記入ください。ご住所が一緒の場合は(3)のみ2名分ご記入ください。
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。
林与志弘 嶋洋太郎 近藤淳郎 大嶋亮太 鈴木明重・幸子(20000円)
★鈴木さんご夫妻からは今年の1月にも3万円いただいています。実はご夫妻は、金井重さんの妹さんご夫婦で、重さんが亡くなった後も地平線通信を読んでくれています。お2人に心から感謝申し上げます。
■林業で働き始めて半年が経ちました。北アルプスの麓の森林組合で、現場作業員として毎日山に入っています。基本は力仕事の男性社会なので体力や安全面で多少苦しさを感じるだろうと覚悟してこの業界に飛び込みましたが、実際に入ってみると想像していたほどのきつさは感じず、むしろ少し楽が勝っているようにも思えて、こんなやさしくていいのかと疑念さえ湧いてくることがあります。
◆まだ山で働くことを考えていなかったころ、林業はとにかくきつい、汚い、危険のイメージが大きく給料の安さも相まってあまり好かれる職業ではないという印象ばかりがありました。会社による部分もあるので、自分の身体と仕事具合の調子が程よく合っている今の所属する組織に出会えたのはとても運がよかったと思います。
◆そして何より自然のなかで身体を動かすことは気持ちいいです。同じ場所や気候でも一度たりとも同じ景色はなく、季節の移ろう変化を、時計が時を刻むように一時いっときのその地道な変化を以前よりも細かく感じられているように思います。4月からこれまで、春は枝打ちと植栽、夏はお盆まで下刈り、それから初秋まで伐り捨て間伐、現在はまた枝打ちをやっています。
◆枝打ちとは、枝を木の根本から一定の高さまで鋸で切り落とすというもので、目的は節のない良質材を生産することと土壌流出を防ぐなどして森林を健康に育て強い山にするという2つがあり、私が現在やっているヒノキ林の現場は水源涵養を目的としており後者にあたります。木が太く丈夫に成長するのを促したり林床を明るくし土壌を強くするなど、自然環境の循環を考えて良い山をつくることを目的にやるのは、しいて言えば麓の町を住みよくするためでもあり、自分たちの暮らしに関係してきます。
◆材として出すだけを目的としていないのは、私としては少し嬉しくあります。しかし数十年後にこの森林がどう扱われているかは本当のところはわからず、また健康な森林づくりとは言うけれどまっすぐ太く伸びた木が良木とされてそれだけが残された山が本当に自然として健康なものと言えるのかとか、疑いはあります。
◆4月からこれまでやってきた作業のほとんどは、直接はお金になっていません。というのは、目の前でモノが生産されて消費されて、ということになっていないのです。材を伐り出す仕事を自分の所属作業班では任されなかったのもありますが、「いずれいつかは材として出すことになるであろう」木を植え育てるとか、長い年月をかけて循環していく森林環境を整えるというのは、わかりやすく見えるものではないので不安定さを感じます。
◆環境を守る仕事と言えば聞こえはいいですが人間がどこまで自然に手を加えてよいのか、それも疑念がつきません。自分が今やっていることがまったくの無意味な行為だとは思っていませんが、どんな意味や影響があるのか考え続けることはやめられそうにありません。[小口寿子]
■こんにちは、江本さん! いつも声をかけていただきありがとうございます。近況報告させていただきたいことが4つあります。
◆まず1つ目。先日9月8日に河口慧海師の法要が和歌山県高野山の三宝院の本堂で行われました。そのきっかけを作って下さったのは、日本で美容師でありヘナのオーガニックを導入された森田要先生でした。今年の5月その三宝院で要先生と一緒に講演会をさせていただきました。
◆そのご縁でご住職から声をかけていただき今回の法要が実現することになりました。慧海師のご親族にお伝えするととても喜んでいただき、慧海師の姪の故宮田恵美氏、恵美氏の旦那様であるNHKアナウンサーの故宮田輝氏、3名様の合同の法要となりました。法要中、私は言葉でなんと表現したらいいのかわからないほど、感銘を受けていました。このような機会をいただいたことが信じがたく自分自身と慧海師ストーリーがフラッシュバックしてました。2003年から個人的に慧海師のことを追いかけはじめ、2007年に研究者の方々と出会い、2018年にご親族からご連絡をいただき、そして2022年こんなことになるなんてという感じです。このようなご縁に恵まれて、本当に感謝しております。
◆2つ目、不思議なリウマチの状況。春、ようやくDolpo-hair千早店をオープンさせることができました。大阪市内にもお店があるので、1人で2店舗ということになり、かなり忙しい春を迎えることになり、それで頑張りすぎてリウマチが爆発しました。実はドルポ越冬から帰国後の2020年8月にも再発し、右足首にずっと痛みを抱えつつ、山で治してやろうと思い、痛みを無視して山に行くという荒行をしてました。
◆その上この春は、右手首が痛すぎて手足両方の痛みが続くという厳しい状況でした。足の痛みはまる2年治らず、6年ぶりに整形外科のリウマチ専門医に診てもらいました。結果、リウマチから変形性関節症と診断され、普通なら人工関節だが、山に行くなら不向きだと言われ、逆にボルトを入れて関節を固める固定手術をすすめられました。私のリウマチ生活は30年となり、足首は固まって、可動範囲がかなり狭い、すでに固定しているからということです。
◆痛みがなくなるなら手術するのもありかも?と、初めて思いました。または、内視鏡で骨の掃除の手術をすれば痛みは軽減するだろうと言われました。私は今までに手術をしようと思ったことは一度もありません。どちらかというと絶対やらないと思っていましたが、今回は痛い期間が長すぎて、初めて手術を考えました。それが不思議と手術を受けることが頭の中の90%をしめたとき、ふと痛みが軽減したのです。痛み止めも飲んでないのに、なんでだろう?! もしかして、骨が反応したのかも。「痛みを出さないから手術はやめてくれ」と、身体が嫌がっていると思い、最後に信頼している中医学の先生にも相談し、やはり手術は受けないと決断できました。
◆続いて3つ目。10月15日〜12月3日、極西ネパールトレッキングに行きます。出発間近のお伝えとなったのは、上記の忙しさと体調のアップダウンが重なったからです。いつもの私ならイケイケGOGOで迷いなんてない。しかし、今回は違いました。いつもと違う自分がいました。コロナのせいなのか、歳のせいなのか、そこに去年のギックリ腰が再発し、その再発がショックで久々にへこみました。
◆今回の目的地は、師匠であった故大西保氏が行っていた場所で、そこから自分で好きなルートを考えました。私は初めて訪れる場所でバジャン地方とダルチャラ地方です。西ネパールの端っこ、ゴールはインドとの国境に面してます。また2018年(10月1日から11月15日まで46日間)にフムラに行ったときに後半に見つけたルートの続きとなります。
◆それは、とある谷でのヤクのキャラバンとの出会いからはじまりました。話しかけると彼らはバジャン地方からやってきたと言う。ということは、トレッキングルートには掲載されていなかったが、地元のルートがある。そのとき、ある道を探していたが、間違えてその谷に入りこみ、偶然の出会いで、知りたかった地元の道を見つけた、というわけです。
◆以前、『ヒマラヤのスパイ』(シドニー・ウィグノール著)という本を読んでこの地域に興味を持ち、ウライ・バンジャン(峠)に行ってみたいと思っていたのです。これらをきっかけに極西ネパールの縦走ルートを考えました。今回は本当に何度も再検討し、わからないときはヒマラヤ協会の岩崎洋氏に相談してやっと決められました。またこの旅の報告もいたします。
◆そして、最後の4つ目! 私の初めての著書『西ネパール・ヒマラヤ 最奥の地を歩く――ムスタン、ドルポ、フムラへの旅』(彩流社)が、増刷決定です! 地平線通信で宣伝していただきありがとうございました! では、行ってきます。[カトマンズのホテルにて 稲葉香]
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■2週間の予定が6週間になって、アンゴラからやっと帰国しました。アンゴラのほぼ南端に位置するナミベから、ほぼ北端の首都ルアンダまでは1時間半のフライトですが、運悪く航空会社のストで欠航。ルアンダから東京への次の便は1週間後なので、帰国を延ばすか、ルアンダまで車で行くかの決断を迫られました。
◆ちょうど元請社員がひとり一時帰国することになり、旅は道連れでふたりいれば安心だろうと、車で行くことにしました(運転は現地のドライバーです)。元請がいちばんいい車(トヨタの海外専用ミニバンFortuner)を出してくれたこともあり、940キロ、16時間の車の移動は思っていたほど苛酷ではありませんでした。
◆アフリカの道は穴ぼこだらけの悪路だと勝手に思い込んでいましたが、今回走った国道100号線はほとんど穴ぼこはなく、工事中の迂回路に未舗装があったくらいで、路面のいいところでは時速100キロ以上で飛ばしていきました。出発地のナミベは沙漠で、橋はあっても涸川でしたが、北上するにつれ草や木が増え、水を湛えた川が現れ、集落では畑が見られ豊かな大地になっていくのがわかりました。飛行機からでは見ることのできない変化を感じられました。
◆車の旅もけっこう楽だったなあ、と思いながらルアンダの国際空港の駐車場で、ちょっとした穴につまずき転んで膝をすりむいてしまいました。やはり足にきていたようです。このあと合計20時間のフライトで、日本に着いたときには時差ボケで3日間くらいふらふらしていました。
◆帰国した10月15日に定年退職を迎え、引き続き嘱託として残ることにはなっているのですが、週明けに出社したとき、社員一同から瓶に私の名前が彫ってある泡盛の一升瓶を退職祝いとしてもらいました。私の好きな「沖縄」+「酒」のサプライズでした。[武田力]
■8年半住んだ屋久島を離れ、生まれ育った埼玉に帰ってきてから早1年。6年生になった教え子たちの小学校最後の運動会を見に行くために、久々に屋久島へ里帰りしてきました。島バナナの畑の横に車を停め、橋を渡って学校に向かいます。あ〜この緑色に輝く川! 橋の上から川底の丸石1つひとつがはっきり見えるほど透明な水の流れを見ていると、子どもたちと過ごした日々がよみがえってきます。
◆6年生になった教え子たちはすっかり背が伸び手足も長くなり、男子は声変わりが始まっていました。その迫力ある走りっぷりに、自分の体も軽くなったような感覚で夢中で応援! 徒競走、大玉転がし、綱引き、ソーラン節、そして全校リレー。最後まで大盛り上がりで運動会は幕を閉じました。そして宿への帰り道、すっかり旅の目的を果たした気分でいたのですが、屋久島の子どもたちとの嬉しい再会はまだまだ続くのでした。
◆3日目、夏に九州大会に出場した中学校吹奏楽部の凱旋公演があると聞き、友人と足を運びました。演奏中、何気なく視線を落としたパンフレットに見つけた名前にびっくり。昨日の小学校の卒業生でした。独特の感性があり、集団行動に馴染めないことも多く、担任ではなかったけれど気になってよく声をかけていた子です。大あわてで姿を探すと、なんと目の前の最前列でクラリネットを吹いています。
◆背筋を伸ばしてしゃんとすわり、先生の指揮を見つめながら、気持ちよさそうに体を揺らして演奏する姿に言葉が出ませんでした。体もすっかり大きく成長し、別人みたい! 休憩中に声をかけたら、「見てたのわかってましたよ、ふふ」とはにかむ笑顔と話し方はあのころと同じ。音楽と出会ったおかげで、仲間ともうまくやっているようでした。
◆感動冷めやらぬまま、午後は昨日の運動会で釣りをする約束をした子と一緒に港へ。時間が少し遅くて釣果はありませんでしたが、ときたまウミガメやフグがぷか〜っと浮いてくるのをながめながら、進路の話を聞きました。屋久島では中学校から親元を離れて島外に出るケースがよくあり、その子も先日、学校見学に行ってきたところでした。その子曰く「うちの小学校が普通じゃなかったのかな」。
◆え?と思いましたが、たしかに全校児童30名弱、ぬくもりを感じる木造校舎で学んだ小学校生活からしたら、鉄筋コンクリート建ての校舎で教室に机がぎっしり並ぶ中学校は異次元のように思えたのかもしれません。環境の変化にとても敏感な子ですが「まあ、そのうち慣れると思うけどね」のひとことに、日々の出来事からしっかり学んできたんだな〜と、じーんとしてしまいました。
◆4日目は朝から海へ。昨夏まで担任していた男の子とそのお父さんの魚突きに同行しました。小4のその子は、自分の身長の倍以上あるモリを持って毎日海で魚突きをしています。おいしくて大きい魚を探しては突くこと1時間半。お父さんがタコ採りに潜っている間、彼が膝の裏に手を回し体を丸めて浮かんでいるので、私もすぐ隣で真似をしました。おー、楽ちん。
◆海からあがってそのことを伝えると、「ああやっておしっこすると、あったかいんだ」と……。これも生きる知恵ですね。このとき彼は耳の調子がわるくて深く潜れなかったのですが、夕方、兄の記録を抜く40センチ超えのオオウルマカサゴを突いて見せてくれました。
◆さいごの夜は、干潮時間を見計らって、海と繋がる平内海中温泉へ。車を降りると、熟したグァバのいい香りがふわっと漂ってきました。海岸に続く坂道を下っていくと、「あみ先生!」と呼ぶ声が。目を凝らして行く手を見ると、夕闇みせまる海をバックに走ってくる裸の少年が5人。さっきのお父さんが、川で遊んでいた教え子たちに声をかけてくれていたのでした。なんというワイルドな再会! 「水泳の授業のあと、裸で机の上を走り回る彼らを叱ったっけなあ」なんて思い出が頭をよぎります。この旅は子どもたちの成長ぶりに感動の連続だったけれど、さいごは相も変わらぬ元気な姿に大笑いで締めくくりました。
◆何気ない日々の中で、人はちゃんと前に進んでいるということ。そして元気に生きるって大切!ということ。子どもたちから教えてもらった気がします。心の底から大きな深呼吸をして、島を後にしました。今回もすてきな出会いをくれた屋久島、ありがとう![新垣亜美]
■10月21日、山野井泰史さんから封書が届いた。「このようなドキュメンタリー映画ができました。11月25日公開ですが、試写とオンライン試写があるようです。山野井」。パンフが同封されている。「人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版」(製作:TBSテレビ)。「登山界のアカデミー賞《ピオレドール2021 生涯功労賞》受賞 世界的クライマーの足跡を、未公開ソロ登攀映像とともに振り返る《渾身》のドキュメンタリー」とある。オンライン試写もあるようなのでウェブサイトで検索を。[ ■10月21日、山野井泰史さんから封書が届いた。「このようなドキュメンタリー映画ができました。11月25日公開ですが、試写とオンライン試写があるようです。山野井」。パンフが同封されている。「人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版」(製作:TBSテレビ)。「登山界のアカデミー賞《ピオレドール2021 生涯功労賞》受賞 世界的クライマーの足跡を、未公開ソロ登攀映像とともに振り返る《渾身》のドキュメンタリー」とある。オンライン試写もあるようなのでウェブサイトで検索を。[E]
ウェブサイト https://jinsei-climber.jp
■8月から9月にかけてグリーンランド徒歩横断に行ってきた。11月からの再度の南極遠征のトレーニングを兼ねてだ。極地冒険に関わる人間としてはグリーンランド・クロッシングという言葉には特別感がある。それはナンセンの香りだ。初のグリーンランド横断は彼が成し遂げた。ナンセンは探検家としてだけでなく政治家としても多大な功績を上げている。いつかは彼のようにグリーンランド横断に行きたい、と考えるのは当然のことだろう。
◆グリーンランド内陸氷床は最も南極に近い環境である。標高が高く、風が強い。人里から半径数百km離れ隔絶された空間も味わえる。南極の前哨戦には最適だ。本来は去年の南極遠征前に行き現場感を取り戻してからの南極を予定していたが、横断遠征はコロナで実行不可能であった。それが今年にそのまま振り替えられた。
◆今回は多国籍の男性のみ7人チームだ。高所登山の国際公募隊のようなものでガイドがリーダーとして同行し、クレバス帯はチームメイトたちとアンザイレンする。故によっぽどの落差の転落でもない限り引き上げて貰えるので事故のリスクはごく低い。タシラック(旧名アンマサリック)周辺からカンガルルススアーク周辺までの600km30日間の遠征だ。
◆僕は通常、単独遠征ばかりだが今回はチームだ。極地冒険の装備や知識は年々アップデートされていく。単独ばかりでは学ぶチャンスを逃すことがある。過去にも極地冒険家エリック・ラーセンとトレーニングをしたことがあるが、こうしたトレーニング遠征に参加することは外部との繋がりを増やしていく上でも大事だ。なぜなら次の南極で夢が終わる訳ではないからだ。極地冒険の先進国は今の時代でもノルウェーやイギリスにあるように感じる。また内陸氷床遠征はグリーンランド政府からの許可問題もあり、秋からピテラック(東海岸における南極のカタバ風のような滑降風)のシーズンになると許可が出ない。年々、遠征の実行がデリケートになっている印象を受けている。
◆横断遠征で強烈に感じたのは気候変動だ。近年、氷の流出がグリーンランドでは顕著だが、驚いたのは北極圏に入った北緯66度かつ内陸氷床上の標高2500mで雨にやられたことだ。高気圧により気温がマイナス1℃程度まで急上昇したせいだ。低温の備えはあれど雨への備えはない。強く風が吹き、濡れたウェアは途端に凍りつく。融水により氷床の上に数々の湖ができ、表面が凍結していれば渡れるが、そうでなければ迂回の必要がある。
◆遠くない将来、横断にパックラフトが必要になるだろう。氷河の融解は明らかでそこら中に川が流れていて、ソリを引いての渡渉を求められる。腰まで浸かっての渡渉では気を抜くと流れるソリに身体が持って行かれる。衣服が1日中濡れていてテントでも乾かすのが間に合わず、濡れた靴を履き続ける。何人かはトレンチフット(塹壕足)の症状が出ていた。
◆雨の中、濡れたズルズルに滑る氷河を下ることになり、グリップが効かないのでアイゼンを履く。内陸氷床で圧縮された氷河の氷は硬くて刃が通らないが故に反力が強く、アイゼンが4つ(2セット)破断して完全に使い物にならなくなったのでチームの半分が片足アイゼンだ。最終日は17時間行動でプッシュして氷河を下りきった。
◆衣服が濡れた行動が多かったので、想定よりもカロリーを多く消費し、終了時には食糧が完全に底をついていた。1か月間で体重は5kg減少した。実にバリエーションに飛んだ遠征で学ぶことが多いが、今までで一番楽しかった遠征かもしれない。長期チーム遠征は自分にとって初めてだ。助け合えるチームメイトがいるということがメンタルを健康に保つ上で実に重要なことを知った。雨と風で身体中が氷の塊になっているとき、「これでひどい臭いの身体がキレイになるから下界に降りたらすぐに女性とデートに行けるな」なんていう馬鹿げた冗談で笑い合う。そんな単純なことが苦境では必要なのだと改めて感じる。よく笑った遠征だった。
◆今後、氷床の流出は加速する。加速すれば氷河の速度が速くなるのでクレバスが多くなる。渡渉も増える。横断の難易度は高くなっていくだろう。そこにまた面白さがあるように思う。
◆11月中旬頃に再度の南極遠征に出発予定だ。クレバスだらけの氷河をのぼり南極横断山脈を単独で越えて南極点へ。その感覚を養うためのグリーンランド遠征だ。南極をやると決めて動いているが、行くことが確定している訳ではない。飛行機をチャーターする以外にアクセスがないのだが、その資金が莫大だ。
◆本日10月20日、米ドルが150円を超えた。チャーター費は米ドル払いであり円安の影響を多大に受ける。これにより予算が1500万近く増える。少ない金額ではない。今年1月に帰国した南極遠征でも約6500万を使った。それに近い金を短期間で集める。次は南極点に確実に到達するために、トレーニングもして極地遠征にも出なければならない。自分の好きなことをやるために人さまから莫大な資金的援助を受ける。植村直己さんが北極点遠征のために募金をしたとき、子どもが自分の小遣いから募金したとき、複雑な顔をしていたというエピソードがあったと思う。いま、その気持ちが自分ごととして痛いほどわかる。遠征がどこか自分の手から離れていくように感じる。自分に金も力もない癖に分不相応な夢があって、どうしてもその夢を叶えたい。自分がバカなんじゃないかとよく思う。
◆それでもやはり自分は南極点に行きたいんだ。憧れた白瀬矗が見られなかった景色を見たい。人生全部賭けて一途に追い続けてきた想いが結実して南極点に立ったときに何を感じるのかを知りたい。これはオレのオレによるオレのための南極点だ。どの時代でも逆境でもやる奴はやる。指を咥えている奴に永遠にチャンスはこない。南極に行けることは確定してないが、資金を集め、装備などの手配を進め、鍛える。資金は工面できつつある。結果は行動した後についてくるだろう。今までと同じく単純なことだ。一途に動き続ける、それだけだ、走れ。[阿部雅龍]
■東海大探検部OBの街道憲久がかつては社長をつとめ、法政大探検部OBの岡村隆が長らく編集長の座にあった東海教育研究所の月刊誌『望星 11月号』(目下発売中!)を開いて驚いた。知った顔が次々に登場するではないか。「人は、また旅に出る」というのが本号の特集テーマ。表紙はお馴染み長野亮之介画伯の作で水色の羽の生えた女性が「guide map」を読みながら颯爽と歩いているイラスト。背景となっている地図に描かれた川はセーヌの流れか。
◆「人は、また旅に出る」特集では3人が馴染みの顔だ。「遺伝子の中に『旅』がある人たち 極寒の地を“ラテン心”で生きている」とくれば書き手は近年モンゴルに打ち込んでいる大西夏奈子さんだとわかる。彼女はこの月刊誌で「大草原のつむじ風」という連載をもう4年も続けており、この号でも特集とは別にその46回目として「わんぱく草原奮闘記」を書いている。
◆次に「宮本常一から受け継ぐ旅学のススメ あるく・みる・きくを実践した若者たち」では、8月の通信で三輪主彦さんが紹介した『宮本常一の旅学・観文研の旅人たち』の著者、福田晴子さんが登場する。文章を書いているのではなく一問一答形式で最後に「構成 丸山純」とある。編集部から頼まれて丸山さんがこの企画を進めたことが伺える。次の「知りたいという好奇心が僕を動かす 戦場ジャーナリストとして触れた人々の思い」も地平線の報告者である桜木武史さんが丸山さんの問いに答えるかたちで自分の足跡を語っている。
◆大西さん9ページ、福田さん、桜木さんそれぞれ8ページとボリュームある構成。内容については紙数の都合でここでは触れられないが、3人とも実に読んで面白い内容だ。
◆『望星』今号ではほかに地平線通信編集長をつとめたこともあるジャーナリストの樫田秀樹さんの連載「高速鉄道の光と影」の第4回も掲載されている。滅多に手にすることのない月刊誌かもしれないが、11月号だけは是非入手して読んでみるようお勧めする。定価660円なり。[E]
■ぼくは、3月からずーっと働いてない。なのに、忙しいです。まったく仕事してないのに、いつも疲労困憊な感じ。おかしー。
◆「引っ越し」は、ようやく7月からやってるんだけど、まだ、終わりません。6月は、スーパーの駐車場で昼ご飯食べてたら、警察署に連れてかれて拘束されて困り果てました。検察庁へ呼ばれた。正義の味方に裏切られた気持ちで凹んだ。江本さんが身元引受人に成ってくれて、励ましてくれて自己卑下から浮上できました。地平線会議のみなさまには、ほんとうにお世話になりました。ありがとうございました。警察やら検察やらに八月半ばまで時間やら出費を奪われて。それは、警察や検察の日常の職務なので仕方が無いのですが、なるべく市民の日常生活の邪魔しないでほしいです。圧倒的なパワーと冤罪の軌道。弁護士さんも人権侵害と言ってて。公務が社会と乖離してる感じ。なんだか、納得が行かないままの理不尽な迷惑な気持ちです。「日本国民救援会」の方々と出会うことができたのは、良かったです。
◆あと、8月、母親の介護で、実家への高速道路で車が壊れて、困りました。修理代金も高額だった。なのに、9月、まさかの再び高速道路で壊れて。レッカー代金とか、レンタカー乗り捨て代金とか、保険範囲オーバーで、滅入る。今、車は、また修理中。10月、今、実家ですが、新幹線で帰省。てゆーか、高速道路で車が壊れるのって、自分的には、けっこうコワイんです。自分の場合は、機械について無知なので、「壊れてる」と云う初期の気配に気づかない。かなり重篤になってる。だから「車の動き」そのものが、かなりヘンテコになる。バックミラー見たら、後方が煙だらけで何も見えない、とか。どんだけアクセル踏んでも、エンジン音ばっかし大きくなるとか。4個の点火プラグの3個が溶けてたり。ミッションが壊れてるのを知らずにサードだけで関東関西高速往復してたり。高速運転で「どんどん右に寄ってくな〜」って、これは愛車の個性だな♪とおもってたら、たまたま車屋で、「前輪が取れかけてます」と発見してもらったり。
◆やっと、荷物を積み終えて「さあ出発っ!」ってドアを閉めたら、ドアが、「ゴトッ」 て取れたこともあって。まったく、出鼻を挫かれたってゆーか。無理矢理はめ込んで、スパナでドアレールを叩いて、ガムテープで留めて、関西まで帰った。神戸の車屋さんと仲良しになれた。と云うことで、修理代金で、めちゃくちゃ出費してる車なのですが、譲ってくれた友人が病気で他界してしまって、「形見」みたいなものなので、都度治して乗り続けてる。生前からずーっと、ぼくの創作を応援してくれてる人。運転しながら、今も 声を出してそのひとと「話し合う」ことがあります。
◆と云うことで、今度の引っ越し先の車屋さんのところに入院してる。その車屋さんが、貸してくれてる代車が、年代物で。その車で、実家に帰っても「平気ですか?」ってきこうと思って電話したんだけど、車屋さんがぜんぜん電話に出ないので、今回は、新幹線にしたんです。クラシックカーみたいで、見た目には、シブいんです。その車屋さんは、いいひとだとおもいます。借りた代車のシフトレバーにコンビニ袋がぶら下がってて、中にキウリが2本入ってたから、どうしたらいいのか電話したら、「今日、稲刈りに行ったときにもらったのを忘れてた。食べてください」って 言ってくれたから。こんど引っ越す地域は、田園地帯。そして、洪水ハザードエリア&放射能汚染ホットスポットです。さらに 8月は、冷蔵庫と洗濯機とプリンターが壊れました。
◆話は、右往左往してるけども、引っ越しは、遅くとも9月半ばに完了するはずでした。おかしー。これは、つまりぼくは、引っ越しの「読みが甘かった」。「自分」を知らなかった。自分愚駄レベルを舐めてました。数百点程度だと想ってた作品は、立体だけで数千点。平面ドローイングも含めたら、もっと増えてしまう。絵葉書や缶バッジやら印刷物やらの量産類とかは、含まずです。手創りの作品だけで、すごい点数です。運んでも運んでも湧いてきます。壊れやすい作品が、かなりあります。「作品梱包/積み下ろし」は、ぼく自身にしか成せないので、作品の移動を、サッと完了してから、「地平線会議の仲間たち」に頼み込んで手伝っていただいたら「あっという間に引っ越し完了♪」と、お気楽イメージしておったのであります。30年前から開封してない箱まで、出てきます。謎と闇に包まれた自宅です。浦島太郎みたいです。あっというまに 手遅れだ。へんな感じ。現在進行形で「失敗の途上」に居てる感じ。
◆で。最近、寒く成ってきて。ぼくは、冬服もストーブも、すでに引っ越し先へ運んじゃってて。これは、また、戻さねばならない。フリースが一枚あったから、とりあえず着てる。しかも、物が減ってるので、屋内がとても広く成って、寒い。「こんなに広かったのか〜」ってビックリした。もっと、空間を有効に使うべきでした。30年間、空間を活かせて無かった。もったいなすぎる。その上、秋雨。雨漏りです。新規に四箇所。それを応急処置。
◆てことで、「両方の大屋さん」にず〜っと家賃を支払いつづけてるっていう、なんだか、とてもマヌケなことになってます。どっちの大屋さんもやさしい【カミサマなひと】です。先日は、あたらしい大屋さんから「ひっこし 年内におわるの?」って 言われてしまいました。今までの大屋さんからは、立ち退きの催促が届きます。ほんとうに申し訳ないです。まー「何もかも」ぼくが、頭が悪すぎるからです。で、今、実家と云うわけです。引っ越しは、また、中断です。「引っ越しのこと」と「母親のこと」との思考の切り替えが、難しいです。
◆ケアマネさんヘルパーさんと話し合いを重ねてます。母親の心身の変化に合わせて工夫更新しています。生きてるだけで大変だった要介護4から、奇跡の復活。これは嬉しいこと素晴らしいです。介護チームの方々が、ほんとうに頑張ってくださいました。でも「寂しさ問題が百倍増量」。「寂しさ」。たいせつなこととは想うけどむずかしい。たのしみ うれしみ おかしみ、、、いろんな「よろこび」。ぼくは、介護は人生初で。まったく素人で なにも知らないんだけど。当事者の幸せとか喜びは なんだろー? わからないのは、わかろーとしてないからだろーか。寄り添えていないからだろーか。「わかる」ということとは、別のことがたいせつなのだろーか。
◆で、母親が、相変わらずヘルパーさんやケアマネさんに「(生きすぎたから)殺してください」と言う。ちなみに母親は看護師さんに「息子は、地下組織に捕まってる」と言ってます。ぼくは、母親のことは、なんだか心配です。そして、ずーっと仕事を出来てないということは、もちろん無念。どちらも上手く出来ないままに試行錯誤してます。毎月、二週間程度しか母親といっしょに居れない。母親とのことは、「人間」が、人間らしさを編み出してゆく感じ。がんばってもなかなか「ほんとうのことに たどり着けない」ということは、創作に似てる。ぼくの引っ越しが中断してるので、母親は、「大家さんにまで迷惑かけてしまって、申し訳ないから、殺してほしい」と言います。「自分が死んだら、みんなが楽になる」と言います。
◆介護は「楢山節考」のバリエーションなのだろうか。じゃなくて、そもそも「生きてほしい」という想いに理由が必要でしょうか? 切なる願いや祈りに 説明が必要でしょうか? 母親は、どのような理由ならば、「生きていたい」と想ってくれるのでしょうか? ぼくは、なにを満たせば良いのでしょうか? どんどん自信が無くなってくる。というか、母親の言う「殺してほしい」は、【SOS】だと思います。母親は、安心したいのだと思います。「生きてていいんだ」と思いたいのだと思います。ほんとは、もっと、たのしみながら生きたいんですよねー。だれだって。「独り」は、さみしい。
◆母親は、10歳までに両親が他界して。それから転々と生きてきたので、孤独は深層トラウマになってる感じもします。母親と向き合っていると、ぼくは、「母親の親」が、ぼくに降霊してきてるような気持ちになってることがあります。母親の親の視線というか。「よく、がんばって生きてきてるね」と、うれしくほほえましく感じ、こころから励まそうとしています。母親の両親は他界のとき、子どものことが、ほんとうに心配だったと思います。さぞ、無念の死だったことと思います。
◆母親は、むしろ被害者だとおもいます。なのに、なにゆえに自分生存に「罪悪感」を抱かねばならないのか? だからといって「無実の母親を 幽閉の監獄から救出する」とか、介護は解放のミッションとか言っても、こちらの「生きてほしい」という気持ちと、「母親自身の現実」との間には、大きな乖離があるのだろう。母親は、「とてつもなく」寂しい。たとえば、【いつも「いっしょに」生きてる感】というのは、どうやったらお互いに創り育んでゆけるのだろうか。参画してる人たちも 豊な気持ちになれるような 「こころの お祭り」を いっしょに母親と おもしろおかしく歩めないものだろうか。
◆秋晴れ続きなので、車椅子散歩を誘うのですが、なかなか「行く気」になってくれない。でも、外出できた日は、気持ちがいいみたいです。散歩中に「ハナガミを持ってないか」と母親が問う。ぼくは、持ってなかった。そのまま車椅子を草むらに突っ込んで、「その葉っぱで ええんちゃう」と言ったら、母親は低木の大きめの葉をちぎって鼻をかんでた。それから、母親は木に「ごめんね」と言った。
◆なんだか、長々、大仰で回りくどいのですが、この作文は、ぜんぶ 自分のための「自分勝手な」自己鼓舞です(笑)。描いててとても恥ずかしいです。
◆◆◆ ◆◆◆
ひとは 古くならない
古いひとなど ただのひとりも居ない
ひとは いつも あたらしい
「今」よりも
たった1秒たりとも過去を生きてるひとは居ない
1秒たりとも未来を生きてるひとも居ない
今朝に生まれた赤ん坊も 明日は旅立つ老人も
世界中のだれもが、もれなく 時代の「最先端」を 寸分違わず まさに同時に 生きている。
このことは 揺るぎない ぜったい事実だ
「古い」というコトバに騙されてはならない
ひとは、けっして古びない。
だれもが いつも あたらしい
生きる ということは それだけで いつも あたらしい
◆◆
ぼくたちは 真に いっしょに 生きている
同じ時を 生きている
はるかかなた と いまここ
ずーっと つながっている
一歩を踏みだすこの足元を照らしているのは 太古からのひかり
「今」「此処」は、いつか【いにしえ】になる。
ぼくらは、
「いまここ」から、想いを飛ばしている。
いちばん あたらしい
なんども しっぱい なんども ぶんかい なんども まよって なんども いつも あたらしー
◆◆◆ ◆◆◆
◆江本さん ぼくの近況を描かせていただきました。うまくかけなかった。だけど、いろいろ考えることができました、ありがとうございます。さいごは、散文になってしまいました。母親の「独り」は、かわいそうだとおもいます。特別な寂しさだとおもいます。けっきょく、ぼくが、常にいっしょに居ないことが、ダメだとおもいます。作文してて 母親を「母」と描かない自分について ずーっと考えてました。【親】という意識を ぼくは外せないのだとおもう。
◆いつもありがとうございます。地平線の仲間は、インターナショナルに繋がってる。たくさんのかたがたが連絡をくださって、ほんとうに うれしいです。感謝であります。[緒方敏明]
■9月号の地平線通信届きました。今月号も、個人的な夏の体験や海外渡航の話題など楽しい内容です。恒例になってしまった感がありますが、題字の解読を誰かが書かないとせっかく作ってくれた長野画伯に申し訳ないので、お送りします。
◆長野画伯がフランス渡航した話題がヒントでしたね。〔FR 君.犬達=12345678〕これが解読の手掛かりです。FRはフランスですから、フランス語で考えます。君:TU 犬達:CHIENS なので、これを続けるとTUCHIENSとなり、これが12345678に対応します。
◆CHIHEISEN TSUHSHINのアルファベットを上記通りに対応させると今月の題字になります。お元気で。[北川文夫]
■服部文祥さんから新しい本が届いた。『お金に頼らず生きたい君へ 廃村「自力」生活記』。河出書房新社の「14才の世渡り術」というシリーズの一環だが、内容は14才に限らず大人なら必ず読むべき具体的な示唆に溢れている。「沢から水を引き、薪を集め、ソーラーで発電、夏は菜園、冬は狩猟……」という帯の言葉でわかるように「土地付き20万円の廃屋」を手に入れた後の自然人の暮らしぶりが楽しく克明に記録されている。誰も予測しなかった混沌とした時代になりつつあるいま、必読の書。272ページ。1420円+税[E]
『お金に頼らず生きたい君へ 廃村「自力」生活記』
服部文祥著 河出書房新社 272ページ 1420円+税
■地平線通信521号(2022年9月号)、さる9月28日に印刷、封入作業を行い、その日のうちに新宿局に託しました。今月もレイアウトは、入院中の森井祐介さんに代わり、新垣亜美さんが引き受けてくれました。先月と同じく20ページの厚さになってしまったけれど、見事なお手並みでした。ねこさん、落合君らいつもの編集メンバーも健闘してくれたが、今回のご苦労賞は、遠くアンゴラから細かな編集作業をやってくれた武田力君でした。皆さん、ほんとうにありがとう。汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。車谷君はあいかわらず印刷を一手引き受け。今や彼なしでは通信はつくれません。
車谷建太 中嶋敦子 高世泉 白根全 光菅修 江本嘉伸 落合大祐
◆先月の不参加を反省し江本は最後に駆けつけ「北京」にも参加しましたが、驚いたことになんと花束と和菓子のプレゼントが。まもなく82才となる私のために誕生祝いを用意してくれていたのでした。美味しいビールと餃子も江本はタダ。生きているとこういうありがたいことがあるのですねえ。最近、通信が届くのが遅い、との苦情をよく聞きます。郵便は土日は休みなので水曜日に出しても週内には届かないことが多い。そういう事情を考えて10月から長く続けてきた「水曜印刷・発送」をやめて「月曜印刷・発送」に変更してみます。
◆カトリック女子修道会の一つであるメディカル・ミッション・シスターズ(MMS)として生きていく、という誓いを立ててから今年で25年になりまして、そのお祝い(Silver Jubilee - 銀祝)とMMSのPRを兼ねた写真集のプロモーションのためにこの夏ひと月ほど滞米しました。地平線通信の読者さんは修道者の誓願式などに興味ないのでは?と一抹の不安はありますが、ある意味「異文化紹介」と言えなくもないかな、と思い寄稿しました。
◆さて、シスターとして誓願を立てる前には修練期という最低3年の準備期間があります。その間、真剣に祈りに取り組み、基礎的な神学を勉強し、従順・貞潔・清貧という3つの誓願が現代社会においてどういう意味を持つのかを学び考えます。それから自分に正面から向き合う機会も十分すぎるくらいに与えられます。また、修道生活というのは一般の社会人とはまったく別の種類の生活で経験しないとわからないことばかりですし、それぞれの修道会(MMSは、例えばマザー・テレサの修道会や聖母病院を運営していたフランシスコ会とは違います)には独特のカラーがあるので、シスターたちとの共同生活を体験しながらのいわば「お試し期間」も必要です。そして「今の時代になぜあえて修道者なのか?」見極めようとします。まあそんなこんなを経て「これなら大丈夫」的に本人も修道会も納得したならば誓願をたて、晴れてシスターと名乗るようになるわけです。
◆誓願式はちょっと結婚式と似てるかも知れません。その昔(本当に大昔の話)、それこそまるでイエスの花嫁になる感じだったようです(今は違います!)。1997年、私の誓願式には母と伯母が遠路はるばる東京からフィラデルフィアまできてくれました。あれから25年。MMSに入会したのがまるで昨日のように感じられる一方で、なんとも長い道のりだったなあ、という気もします。
◆どうやら私は場違いなところに飛び込んでいくタチらしく、1994年の「修道会入会」も然りです。MMSにとって日本という国は馴染みの薄いところで、日本人を個人的に知っているというMMSはほとんどいませんでした。私はこう見えてもはにかみ屋の口下手で、ましてや英語でのやりとりとなれば口数はますます少なくなりました。テレビのニュースで何を伝えているのかもっとわかりたい、一段落くらいの分量を続けて喋りたい、などといつも思ったものです。
◆加えて、2000年弱の歴史を持つカトリック教会には、八百万の神を否定しない私には受け入れ難い決まりごとや教えがいろいろあることに改めて気づかされ、日本人として受け継いだ精神性と日本文化とキリスト教文化を自分の中でいったいどう統合させたらいいのか散々悩みました。けれどもこの時期に、日本で長年禅を学んだアメリカ人の神父さんと出会ったおかげで決心がついたのでした。それ以来、1冊目の写真集のタイトルにもなった「行雲流水」という禅の言葉を座右の銘としています。
◆ミッショナリーにとって、いく先々の土地にしっかりと根付いていくことは欠かせないステップです。ですから1997年に誓願を立てた後そのまましばらくフィラデルフィアで生活したことは私にとって大変重要な時期でした。幾人かのシスター(姉妹)たちとアフリカ系アメリカ人が多い地域に住み、そこの教会に属して、坐禅を組むことを紹介するなど様々な活動に参加しました。同時に、当時アメリカ各地でうねりのように広がっていたさまざまな代替療法を学び、多くのクライアントに施術する機会を与えられました。独立独歩のアメリカン・スピリットは基本的に私に合っていたようで、3年後の2000年、インド西部にあるプネに派遣されるころには、アメリカもまた自分の家だと思うようにまでなったのでした。
◆インド派遣は代替療法を通しての医療奉仕が目的でしたが、当初は異文化体験が重視されました。アジアの中でもとりわけ多民族、多文化、多宗教のインドは憧れの土地でしたから、私はどこにでも行ってなんでも見てみようと、自分で機会を見つけては嬉々として出かけて行きました。街も村もワクワクすることでいっぱいです。マラティ語(プネの公用語)の勉強も兼ねて近くのコロニーに住む人々と積極的に交流し、どんどん馴染んで行きました。しかし、ここはアメリカではなくインドだということをわかっていなかったのは致命的だったようです。
◆インドでシスターが一人街を歩き回るということは論外で、同じ共同体にすむ姉妹たちは私にお手上げに近い状態でした。多民族国家とはいえインドにいるMMSは20年以上インド人しかいませんでしたから、私は全くの異端児に映ったのでしょう。しかもおめでたいことに私自身はそのことにまったく気がつかず、「YUMIKOは一体どこで何をしているのかしら!?」と妙な噂が立ったりして、かなり困った状況に陥ったこともあります。まあそれはともかくとして、ヒンズー教徒の村での医療奉仕や、ダリットの人々との心温まる交流は、私をミッショナリーとしてしっかり育ててくれました。
◆数年後には北東部に転勤となったわけですが、先住民族が多く住むその土地は実にのびのびとしておおらかでした。村の人たちも生活もシンプルそのもの。鍼治療のために一人自転車で動き回っても全然大丈夫。治療に赴くついでにあちこち足をのばして北東部の豊かさを満喫しましたし、ここに来て仰せつかった新規会員勧誘のためのツーリングも、修道院にいるだけでは決して知り得なかったさまざまな現実を見せてくれました。
◆相変わらず共同体では、異なる文化的背景をもつ姉妹たちとのやりとりに時として「も〜〜めんどくさい!」と憤り、一時は崖っぷちにまで追い詰められたこともあります。「共同体はお恵みでもあり十字架でもある」。確かにその通りだと思います。彼女たちがいてくれるからこそ私はMMSとして活動できますし、一方異質である私の存在は共同体にとって何かとプラスかもしれません。
◆銀祝を迎えた今何より見えてくるのは、私の心の中に広がる、世界のいろんな場所でいろんな人々との出会いを通してだんだんと紡がれてきた繋がりの美しさです。この素晴らしい神様からの賜物に感謝しかありません。
◆8月15日。日本では終戦記念日という特別な日ですが、インドでは独立記念日、そしてカトリック教会では聖母マリアの大きな祝日で誓願式が執り行われることの多い日です。私の修道生活25周年に加え、姉妹2人の60周年(ダイヤモンド祝)を祝うミサには、30年来の大事な友人たちやNY在住の従姉妹家族も含め多くの人が来てくれ、またZoomを通してはインドと、数か月という短い期間でしたが赴任していたロンドンの姉妹たち、そして日本からは13時間という時差にもかかわらず少なからずの友人が参加してくれました。実を言えばちゃんとした着物で式に臨みたかったのですが、あまりにも暑いので浴衣に半帯、足袋に礼装草履にしました。カジュアルだけれどアメリカっぽく、フェスティブでよかったみたいです。
◆ミサの後のささやかな祝賀会では仕出しのインド料理とアメリカ料理が振る舞われました。MMSにはかつてインドはもちろん、バングラデシュやパキスタンで何十年も生活してきた人が多く、私が食べようとしたころにはチキンのホワイトソース煮込みとマッシュポテトは大量に残っていた一方、インド料理はチキンカレーのグレイビーと固くなってしまったチャパティ以外、お肉もご飯もチャトニも全部なくなっていました。でも、心いっぱい、胸いっぱい。こんなに多くの人々に励まされ、お祝いしてもらって、「よし、またしっかり生きていこう!」なんて思った次第です。そして気がつきました。だから25周年という節目に共同体をあげてお祝いするんだって。
◆その後モードを変えて、MMSのPRとインド北東部ミッションのファンドレイジング活動を開始。友人の尽力で、フィラデルフィアとワシントンD.C.とその近辺にあるメリーランド(MD)の教会と中学校でスライドショーが実現しました。どこも多様な人種が集まっているところですが、とりわけMDでは白人、黒人、アジア人、ヒスパニックと実に様々で、私の早口になりがちな日本人+インド訛りの英語にもかかわらず、みなさん熱心に聞き入ってくれました。分断がますます激しく進む世界において、国籍や人種や宗教や言葉といった境界を超え、お互いにいいところも悪いところも理解し合って繋がりをつくっていこうという私たちの取り組みは大海の中の一滴かもしれませんが、できることをできる限りやるだけです。
◆おかげさまで日本から持参した「いのち綾なす」は完売しました!
■上記の拙文は9月号にとしたためたのですが、どういうわけか江本さんのお手元に届きませんでしたので今月号に載せていただきました。その間、宗教について今更ながら感じることもありましたので、先ずはそのことをちょっと。
◆日本人が抱く「宗教」のイメージはおそらくあまりいいものではないんじゃないかと思います。とりわけ1995年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件はその傾向をますます強めたように感じます。去年のクリスマスに、日本の若い世代のカトリック信徒と話す機会がありました。そのとき彼らが異口同音に「小学生の頃、日曜日に教会に行くって、ほんと友達に言いにくかった。自分がカトリック信者だと言うにはほとんどカミングアウトするような覚悟がいった」と言うのを聞いて、まさかそこまで……と驚きました。古来からいくつかの宗教が生まれ、宗教と生活は切っても切り離せないインドでは考えられないことです。
◆そして今、安倍元首相の暗殺事件が起きて以来、再び統一教会が大きく取り沙汰されています。そういえば私が大学生だったころ、構内には「原理研」と青いペンキで書かれた巨大な立て看板がいつもありました。「教会」とついているので、どうも「キリスト教」が連想されてしまうようですが、全く関係ありません。そもそも、オウム真理教や統一教会は「宗教」といえるのでしょうか? 「じゃあ、どうして宗教じゃないの?」と聞かれても、私には納得していただけるような説明ができるか自信ないのが正直なところです。それにしても、地下鉄サリン事件で亡くなった方々、また命はとりとめたけれどいまだに後遺症に苦しんでおられる方々、また統一教会で被害にあった家族の方々のことを思うと、なんともいたたまれません。
■この地平線通信のレイアウトを20年以上やってくれてきた森井祐介さんは今日現在自宅近くの病院に入院中。先日私に電話をくれ、ようやく立って歩く練習をはじめました、と言っていた。この際、じっくり体を休めて再起してほしい、と願う。
◆新聞記者であるとともに野次馬としても好奇心は旺盛だったので、内容はわからないまま現場に飛び出してしまうこともしばしばあった。1976年6月26日、日本武道館で行われたアントニオ猪木とモハメッド・アリの一騎打ちもそんなひとつである。デスクに「行ってこい」と言われて現場に駆けつけたが、一体どういう対決なのか、ルールはどう決まったのか全く不明だ。
◆ゴングが鳴って驚いた。猪木はいきなり仰向けに倒れてしまったのだ。寝たままアリにかかって来い、というふうに手招きする仕草をしつつ何度か鋭く足を繰り出した。しろうと目からは終始、アリは立っていて、猪木は寝そべっているふうにしか見えない。そんなわけで世紀の一戦という割には私の仕事である「雑観」はなんとも書きにくかった。一体、どんな記事を書いたのやら。ただ、不思議な現場に居合わせた、という記憶だけが残っている。試合はドローとなったが、猪木の蹴りは猛烈に強く、相当アリにダメッジを与えていた、とあとで知った。
◆今月も“新米”の新垣亜美さんがレイアウトに奮闘してくれた。そして、先月も今月もフロント記事とこのあとがき、そして画伯の題字、漫画は、落合大祐さんがすべて請け負ってくれた。いろいろな才能があるのが地平線の強みです。みんな、ありがとう。[江本嘉伸]
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今月も地平線報告会は中止します。
ピークは過ぎたようですが、まだ感染者数が高止まりしているため、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。
地平線通信 522号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2022年10月24日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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