2022年8月の地平線通信

8月の地平線通信・520号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

8月24日。6時の気温28度。新聞を取りに降りるといつもより涼しげに感じられる。そうだ、かねてから考えていたことを実行してみよう。そのまま外に。5分歩くと広大な多磨霊園のはずれに出る。関東大震災(1923年)の直前に開園した、東京ドームの27倍もある広い墓地で今は百日紅の赤い花があちこちに咲いている。

◆霊園の中を3分ほどで登山口に。と言ってもあちこちに傾斜のある山の散歩道がはりめぐらされている、というだけできつい感じは全くない。標高79メートルの堂山、74メートルの中山、72メートルの前山、と3つの頂きがあり、私はひと筆書きで2回ずつ3つのピークを踏むことにしている。

◆43年暮らした都心から府中市に引っ越して1年が過ぎた。夜型の暮らしなので山歩きも川辺の散歩も昼か夕方になることが多く朝の出撃は今日が初めてというわけだ。1時間で帰宅して朝食とした。

◆原稿を書かなければいけない時間にこんなことをしているとは、と叱られそうだが、私なりの儀式である。昨日深夜までこの通信20ページ分と格闘、丸山純さん以下6人の通信編集スタッフの献身的な仕事のおかげでなんとか印刷直前の状態まで持ってくることができた。さあ、お前の番だ、体力つけてがんばれ、と活を入れているのだ。

◆8月17日は、地平線会議の43歳の誕生日だった。1979年のこの日、宮本千晴、森田靖郎、岡村隆、賀曽利隆、伊藤幸司らの面々が四谷荒木町の我が家に集まり、この名を決め、翌9月から地平線報告会という集まりを毎月実行してきた。2年半前にコロナ禍が始まって以来集まることはできないが、なんとか通信だけは発行し続けている。

◆43歳というのは実は厄介な年だ。植村直己、河野兵市、長谷川恒男、谷口けいなど多くの登山家・冒険家は43歳で亡くなっている。探検家、作家の角幡唯介は3月に出した『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』の冒頭「43歳の落とし穴」という章を建て、このことを論じている。「四十三歳――。それは、私の考えを述べれば、経験の拡大に肉体が追いつかなくなりはじめる年齢である」と角幡は書き、彼独自の「43歳論」を展開する。非常に興味深いので是非一読されることを。

◆地平線会議は個人の挑戦とは別ものなので同じラインで論じる必要も資格もないが、「43年続けてきたこと」の責任はあるであろう。それは何か。たとえば、地球で起きている出来事や現象についてできるだけほんものを伝えあうことであろう、と私は思う。地平線通信はその現場だ。今月の通信にはシリア難民の取材に入っている小松由佳さんからホットな(きのう届いた)報告が入っている。由佳さんの伝えようとする姿勢をありがたい、と思う。

◆ロシアがウクライナに攻めいってから今日で半年だ。何度も書くが、2、3日で済むと思われた戦争はウクライナの頑張りと西欧の支援でなんといまだ結末は見えない状況だ。中国の“台湾併合”への干渉も日に日に増している。戦争とは永久にさよならした気分の我が日本で、こういう国と国の対決がこんなに身近に感じられるとは。

◆おととし2月、クルーズ船、「ダイヤモンド・プリンセス号」に端を発したコロナ禍は、国内だけで1720万人が感染、死者は3万7059人となった。実は、地平線仲間はじめ私の周囲でもかなりの友人たちが感染を体験している。80歳を超えた私は、浅間山や近くを流れる野川という20キロほどの小さな、しかし生き物が豊かに生息する川のほとりを歩いて毎月の通信を作るエネルギーを得ている。

◆にしても、80歳ぐらいでは年寄り自慢はまだできないね。先日、以前も紹介したことがある「195コンサート」の新たなバージョンを視聴して再確認した。まもなく102歳になるお年寄り(丸山純さんの義父)と仲間の93歳になるお2人の歌とバイオリン演奏を動画で鑑賞させてもらったのだが、表現することにこれだけエネルギーを注げる生き方に教えられた。何より伴奏者を含めて、参加した皆さんが楽しそうなことに感動した。

◆43歳の地平線会議。荻田泰永君の書店をどう支援するか(8ページ参照)を含めそのうち、皆と語り合いたい。小松由佳さん、NHKの「心の時代」(28日午前5時)に登場します。「ある出来事を境に、砂漠や草原といった過酷な大地で生きる人々の写真を撮り始めた。人間が生きる根っこにあるものを小松さんは見つめ続けている。過酷な環境で生きる人々の姿から、小松さんは何を見いだしたのか? その心の軌跡をうかがう」。由佳さんが拓こうとしている未来、私たちにとってどんなに大切か、と思う。[江本嘉伸


地平線ポストから

秋の気配のモンゴル最新報告

■8月20日夜7時半、ウランバートルのロシア式アパートの窓から涼しい風が吹きこんでくる。オレンジ色の太陽はまだ沈む気配がなく、急な夕立で埃っぽい空気が一気に澄んだ。気温13度。もう秋空だ。ついさっきまで私は、友人たちとウランバートル中心部の公園で開催中の「ジャパンフェスティバル」を訪れていた。ドーム型のライブ会場では、日本・モンゴル外交樹立50周年を記念して招かれた特別ゲストのピンキーこと今陽子さんが、「恋の季節」(モンゴルでも有名)などの持ち歌を熱唱し、客席をわかせていた。

◆一緒にステージを見ていたモンゴル人女性たちは、「彼女は本当に70歳!? なぜあんなに若くてエネルギッシュなの!」と大騒ぎ。高さ10センチ以上のハイヒールを履いて軽快にステップを踏み、強烈な肺活量で素晴らしい歌声を響かせた今陽子さんは、さすがプロフェッショナルだった。この前夜に国営テレビで松竹映画「恋の季節」が放映され、それを見たというモンゴルの若者たちは、まるで数十年間ピンキーとキラーズの熱狂的ファンであったかのように、手拍子と声援でライブを盛りあげた。

◆いまから3週間前、私は3年ぶりにモンゴルへ来た。2年前は渡航後の隔離が5週間必要だったのが、今年からは隔離ゼロ、入国時のコロナ陰性証明不要、ワクチン接種証明不要と、この国はウィズコロナへ舵をきっている。見る限り、ウランバートル市内でマスクをしている人は全体の5%くらいで、地方ではほぼ0%。「モンゴルではワクチン4回接種済みか、コロナ感染経験者ばかりだから、集団免疫ができてるんだと思う」と、2回感染済みの写真家青年がチンギス・ハーン・ビールを飲みながら熱弁していた。

◆コロナ禍の2年半、モンゴルはロックダウンを繰り返していたが、政府から補償金はいっさい出なかった。そのため経済がひどく停滞していると事前に聞いていたけれど、現地へ来て驚いた。街には新しいビルやおしゃれなレストランが増え、スフバータル広場に敷かれた人工芝で老若男女が優雅に日光浴している。日本の支援でできたチンギス・ハーン国際空港も、予定より4年くらい遅れて(やっと!)昨年開港。時間はちゃんと前に動いていたのだった。

◆しかし実際には、物価が上がって市民の生活は苦しくなる一方だ。とくにガソリンや食料品の価格が高騰し、平均給与4〜5万円のモンゴル人は「どうやって生きているのか自分でもわからない」と言う。でも彼らからはあまり悲壮感が感じられない。大好きな夏のパワーを思いきり吸収するため、隙あらばすぐ車を走らせて草原に出かけ、服をポンと脱いで川に飛びこみ、家族や友人たちとビールを飲んで、よく歌い、笑い、眠るからだろうか?

◆先日は、念願だったバヤンホンゴル県を初めて訪れた。2016年のわんぱく相撲全国大会で私が出会ったモンゴル代表の小学生選手3人とコーチのガンホヤグ先生がバヤンホンゴル総合生協学校(大分県の労働者総合生協の支援でつくられた)の相撲クラブ所属で、それ以来Facebookで芋づる式にバヤンホンゴルの知人が増え、いつか行ってみたかった。今年10月に東京で開催されるわんぱく相撲全国大会でも、モンゴル代表6人のうち5人がこの学校のこどもだ。田舎の草原の小さな学校で、どんな練習をすると強い選手が生まれるのか見てみたかった。

◆ウランバートルからバヤンホンゴル県までの道のりは、ガンホヤグ先生の友人が運転する中古プリウスで草原を14時間走ったら着いた。同じモンゴル人でも、ウランバートルの都会人と地方の人では雰囲気がだいぶちがう。田舎の人は日によく焼けて、顔の色が黒すぎて写真に写らない人もいた。そして中年男性は、スイカが入っているかのようにみんなお腹だけぽこっと出ていた。

◆バヤンホンゴル総合生協学校には6〜18歳まで1,000人の生徒が通う。「日本人が建ててくれた学校だから」と体育教師のガンホヤグ先生がつくった相撲クラブには、現在40人ほどの生徒が所属。お金がないので布製の土俵をマットの上に敷いて、モンゴル相撲の衣装を着て、過去にわんぱく相撲と白鵬杯に出た子が大会でもらってきたまわし数セットを順番に締めて練習する。布製の土俵を草原に敷いて練習した日は、頭上の空が突き抜けるように青く、太陽はジリジリ熱く、そばで放牧中の数百匹の羊の群れが草を食み、のどかだった。

◆相撲クラブのこどもたちの半分が遊牧民の子で、彼らのゲルにも遊びに行った。練習ではまわしを締めていた男の子が、家に戻れば長ズボンを履いて暴れ馬を乗りこなしている。遊牧民一家のおじいさんは、民族衣装の袖から取り出した嗅ぎタバコを私に手渡しながら、「モンゴル力士の強さの秘訣は馬乳酒だよ。モンゴルのこどもは小さいうちから馬乳酒をたくさん飲んで体が強くなるんだよ」と教えてくれた。

◆モンゴルには1か月滞在する予定だ。前半は草原に出かけてばかりいたが、後半はいろいろやることがあってウランバートルにいる。アパートの窓の外では、夜10時になってもこどもたちの元気な遊び声が聞こえてきてにぎやか。もっと夜が深くなると、酔っ払った青年たちが円陣を組んで歌う声や、タクシーに乗って帰りたい女性と必死に彼女を引き止める男性の言い争いが聞こえてくる。この激しさがたまらない。[大西夏奈子

シリア難民苦渋の選択
   「ヨーロッパへの“密航”」

■7月半ばより、シリア難民の取材のためトルコ南部に来ています。今年も6歳と3歳の子連れ取材。まずは夫の家族のほとんどが暮らす高原の街オスマニエを訪ねました。

◆日本ではまだコロナ禍のマスク生活があたり前ですが、こちらに来てみるとほとんど誰もマスクをしていません。所変わればこんなに対策も変わるのだとびっくり。

◆しかしそれ以上に驚いたのは、トルコの物価が昨年の2倍以上に値上がりしたこと。コロナ禍の経済政策として、トルコの中央銀行が昨年の9月から4回の利上げをした結果、急激な物価上昇が起きたのです。トルコの一般市民はもちろん、社会の最底辺でなんとか生活を維持してきたシリア難民も、非常に苦しい状態にあります。

◆こうしたなかで高まっているのが反シリア人感情です。路上や職場や学校で、シリア人が露骨な差別や嫌がらせ、ときに暴力を受けることも少なくありません。道を歩けば「シリアに帰れ」と言われ、シリア人が経営する店のガラスが割られたり、学校では子供が仲間外れにされたり。滞在している親族の家の付近でも、道を歩いていたシリア人の男性が首を刃物で刺されたり、シリア人の子供がナイフで脅される事件も起きています。

◆加えて、来年はトルコ大統領選があります。現エルドアン大統領に対する候補者が勝てば、強硬なシリア人帰還政策が取られる可能性が高く、シリア人にとって先行きは不安ばかりです。

◆物価の急激な上昇と反シリア人感情の高まり、そしてシリア人への帰還政策の進行。多くのシリア人は、トルコで生活を続けることに不安を感じています。このようななか、海を渡ってヨーロッパへと向かう人々が激増しています。そこでは、難民として認定されれば手厚い保護と自立プログラムを受けられ、生活を保証されるからです。トルコ南部に暮らす私の夫の親族だけでも、この1か月で3人が渡航を試み、まもなく5人が出発します。

◆彼らの「ヨーロッパに向かう」とは、密航、不法入国を指します。密入国業者の斡旋で地中海を密航し、不法にヨーロッパの国境を越えていくということです。まず男性が先に海を渡り、難民として保護されれば1年後か2年後か、後から家族を呼び寄せます。しかしその過程でトルコやギリシャの沿岸警備隊に見つかって強制送還される確率もかなり高く、地中海を闇に紛れて渡るのも命懸け。

◆何より、その費用は目玉が飛び出るほど高額で、一人当たり6000ユーロ以上かかります。日本円にしたら80万円以上。平均月収が5万円ほどのトルコ南部で、これだけの金額を用意できるシリア難民はごく一部。自らを、保護されるべき難民として、ヨーロッパを目指すシリア難民のほとんどが、実は経済的に恵まれた難民の一人なのです。

◆それにしてもコロナ流行直前の2年前、ここで生活を再建することに希望を持っていたシリア人のほとんどが、今や、難民としてトルコ社会での複雑さと困難さに向き合うことに疲労感を募らせ、諦めかけているように見えます。この11年間のシリアでの戦乱で、離散と避難を繰り返してきた人々にとり、希望をもって選び取ろうとしている選択肢が、「ヨーロッパへの密航」なのです。

◆こうした最中にも、ヨーロッパへと次々に親族が出発しており、まさに今、シリア難民の歴史の一端を目の当たりにしています。人生を変えるため、身ひとつで見知らぬ彼方へと向かう親族たち。人間は、「自分が人間として尊厳を抱いて生きていると感じられる場所」へと、どこまでも旅をし続けるのかもしれません。

◆私は、昨年この土地で亡くなった夫の父のガーセムを思いました。物価高騰や反シリア人感情の悪化などの要因が背後にあるにしろ、間違いなく、一家の大黒柱だったガーセムが昨年86歳で亡くなったことが、こうしたヨーロッパ渡航の動きの引き金になったのです。

◆アブドュルラティーフ一家の旅は、まだまだ続いていきます。シリア難民の取材にやってきた私は、ヨーロッパへと次々に旅立つ彼らを見送る立場としてここにいます。ここで起きている歴史の一端を、目を見開いてしっかりと見つめてきます。かくして今年も、取材は子連れパニック。ドタバタの毎日です。[2022年8月23日 小松由佳

*活動の安定化のため、私のウェブサイト(「小松由佳 ウェブサイト」で検索)内に、月額1000円の「有料会員コンテンツページ」を作りました。取材の裏話や葛藤など、活動の裏側をご紹介します。大変恐縮ですが、ご登録いただき、応援いただけますと大変ありがたいです。

*今回の取材の報告は、私のウェブサイトの「シリア難民取材報告」のページでも更新していきます。ご覧下さい。

小松由佳ウェブサイト https://yukakomatsu.jp

島ヘイセンvol.8
やった! 2度目の10メートルダイブ

■2年生になってからというもの、難易度が増した日々の勉強や学校行事の準備、後輩のサポートなどでとにかく毎日が忙しい。しかし忙しいのは学生の特権。島での生活の全てを全力でむさぼり尽くす覚悟だ。

◆1年生は寮生活にもだいぶ慣れてきたようで、自分たち2年生や先輩方とも良い関係を築けるようになってきた。掃除や自炊当番、島の方々との関わり、先輩として少しでも力になってあげられれば良いと思っている。

◆島での生活は昨年以上に濃いものだった。昨年末に原付の免許を取得したわけだが、6月9日ついにバイクが島に届いた。両親からはその数日前に貨物便に預けたと連絡をもらっていた。島に届いたら東海汽船の事務所から電話がくるという話だったが、待てど暮せど電話はかかってこない。授業が終わったタイミングで事務所に電話してみると「あっ、届いているから、いつでも取りにきていいよー」とのこと。寮に一旦帰宅後、バイクの受け取りに港へ行く。

◆事務所に寄ると「駐車場に置いてあるからねー」と言われた。本人確認や受取のサインをすることもなく、そしてまさかのキーも挿したまま僕のバイクは駐車場に放置されていた。島に来てからの一番のカルチャーショックだったかもしれない。ちなみに島では車やバイクは常に鍵はつけっぱなし、殆どの家は夜も鍵はかけないのだ。

◆かくしてその日の夜、同級生と一緒に念願のツーリングに行くこととなった。昨年までは徒歩やバスで行ける範囲でしか移動ができなかったが、バイクがきてからは山道を超えないと行けない島の北側の海や、千両池という景色がとても綺麗なスポットに行くことができた。島の展望台からは富士山も見えた。崖の上から望む夕陽、村の灯りがまったく無い海岸で見る満点の星空。皆さんにも一度は見て欲しい景色ばかりである。

◆島の夏といえば、やはり海。今年は行動制限のない夏休みということで、観光客も昨年より多いようである。自分は昨年に引き続き、人生2度目の赤崎海岸10mの崖からの飛び込みに成功した。昨年から始まった学校行事のマリーンデーでは、1、2年生はシュノーケリング、3年生はダイビングを楽しんだ。今年はシュノーケリングが2回目ということもあり、素潜りで海底まで潜ることができた。海の中では魚と一緒に泳いだり、エサを与えて魚を素手で捕まえたりした。また来年へ備えて、水泳授業でダイビング講習と海難救助訓練も行った。まだプールの中でではあるが、実際にボンベを背負い水中で呼吸をした。来年の海でのダイビングも楽しみである。

◆神津の海は海底まで潜ればサンゴ礁も拝める。しかし地球温暖化の影響で死んでしまっているものがほとんどだった。今と昔では近海に生息する魚の種類も違ってきているらしい。我々の海を守るため、すなわち地球温暖化を少しでも食い止めるために世界全体で対策を練らなければならないと感じた。

◆神津島には8月1、2日に行われる「かつお釣り」という行事がある。国の重要無形民俗文化財でもあるこの行事は、島の暮らしを支えてきた鰹漁を背景に、物忌奈命神社(ものいみなのみことじんじゃ)の例大祭に奉納される神事で、漁師の若衆が境内を漁場にみたて鰹の一本釣りの所作を演じ、その年の豊漁を祈願するものである。この例大祭では小学生の子供神輿と高校生神輿がある。3年ぶりの開催を信じて、3年生の先輩方が中心となり自分も含めて男子のほとんどが神輿を担ぐ準備をしてきたのだが、コロナの第7波に飲み込まれ、今年も中止になってしまった。島での生活は楽しめているものの、こうした島の伝統行事を体験できないことが本当に残念である。

◆7月に入ってからは島でもコロナ感染者が激増しており、7月27日にとうとう寮でも4名の陽性が確認された。他の寮生全員はもれなく濃厚接触者となってしまった。陽性者は10日間、濃厚接触者は5日間の隔離生活。濃厚接触者となった私も、トイレや風呂に入るとき以外は基本的に部屋に監禁。6畳しかないので思い切り体を動かすこともできず、課題をやるかドラムの練習をするかスマホや本と永遠に向き合っているしかなかった。

◆食事は朝昼晩お弁当が配布されるのだが、毎日同じような弁当が出るので栄養バランスも完全に崩れてしまった。毎日お弁当を食べながら父からLINEで送られてくるのり子飯の写真を見て、今すぐにでも実家へ帰りたくなった。たった5日間だが、かなりの拷問だった。

◆隔離生活を乗り越えた私たちは、8月6日の花火大会を見ることができた。9月には修学旅行、10月には文化祭が控えている。コロナの感染状況によってはこの先予定通りにいかないことも増えるだろうが、感染対策をしつつ頑張っていくしかない。

◆8月7日に内地に戻り、翌8日〜10日は学校行事のボランティア活動の一環として防災士養成講座に参加した。1日目の講座は被災地の話や我々にどのような行動が求められるかといった内容だった。2日目は避難所運営体験と防災体験を行った。3日目は救命講習と最後に防災士資格取得試験を受けた。

◆自分は東日本大震災も経験しているし、岩手県の津波で流された跡や北海道胆振東部地震の被災地もこの目で見てきた。だからか講師の方たちの話には共感できたし、いつか必ず起こる大災害に備え自分が率先して人の命を守る行動ができたらよいと思った。

◆離島留学も折り返し地点にさしかかった。今年は次のステージも見据えて模索中の夏休みである。[長岡祥太郎 神津高校2年]

ねぶた コロナ ごみ屋敷

■8月2日〜7日は「青森ねぶた」! 今年のねぶたは、ねぶた好きはもちろん、北海道から南下する旅人と北上してゆく旅人の交流場所にもなっていた「サマーキャンプ場」の開設はなく、衣装さえあれば誰でも参加できる「跳人」も人数を減らし事前の抽選になるなど、様々な対策が取られながら、3年ぶりに開催されました。

◆ねぶたの制作には3か月以上かかるし、地元内外で愛され、一番の観光資源でもある大きなお祭り。開催の方法や判断、悩ましいんだろうなあ……。複雑な気持ちでしたが、参加してみると地元の方たちの嬉しそうな様子にきゅん。ねぶたが灯りお囃子が聴こえてくると、多幸感でいっぱいに。病み上がりのところつい我を忘れて跳ねちゃって脚を負傷、いまだよちよち歩いています。

◆第7波にやられ、コロナに罹ったのが7月中旬。シェアハウスの住人たちにうつしてはまずいとホテル療養を希望するも叶わず、二部屋あるのに一部屋は物に占領され、もう一部屋も自由になるスペースは唯一布団の上という汚部屋にひたすら籠って療養していたところ、筋力も体力も激しく低下しちゃったのでした。そしていまは痛い脚で、布団にたどり着くまでの狭い通路を障害物を避けながら歩くのがつらい。物たちめ!

◆横浜でスペース兼じぶんや誰かの不用品をもらっては売る「お店のようなもの1号店」を始めたのが、8年前くらい。もらうペースの方が早かったため立ち退き時に物が増え、「2号店」を開店すると酒などの在庫が増え、コロナ禍になってからはセルフで勝手に祭りやデモをやっちゃえるようにともらった神輿やサウンドシステムなどの機材が増え、ぢっと部屋を見る……。

◆この春、初期の頃からのお客さん兼ご近所の方が、ご年齢や健康状態もあるものの、退去を迫られていたことから施設に移ることになり、少し片付けのお手伝いをしました。長屋式のお部屋は想像以上の状況で、階段と廊下は土足でないと何を踏むかわからず危険だし、最初に住んでいたであろう手前の部屋はよじ登らないと入れない100mはある丘陵のようになっており、下部はドロドロの地層状態。真ん中の部屋は大家さんの防衛により施錠中、住居スペースとして占拠したらしい奥の部屋も物が多く畳はぐずぐずで、よくぞこの環境で生活を、と感動しちゃうような塩梅でした。

◆残したものは行政が処分してくれるそうだし、施設に持って行く物を選ぶことに注力したらとご提案しても、なるべくひとつひとつ片付けたいそうで作業は遅々として進まず。発掘した物々から思い出されるお話を聞く時間は、いま思えば面白いし得難いものでした。それから、生活環境を維持する難しさ、物を手放す難儀さ、己の迎えるかもしれない未来が見えてしまった気が……。

◆その方は思い入れのある物以外でも、使える物を捨ててしまうのが忍びないようなので、これは誰にあれは誰にとお伝えしてもらったり、2号店の店先につくっている「ご自由にお持ちください」コーナーにどんどん放出したり。誰にとっても贈与することや循環していく感覚は大事なのかな、と改めて思いました(近所でも「ご自由にお持ちください」を見る機会が増えてきたような)。

◆それから、わたしがいる間にも、呼びつけられたお友達が様子を見に来られるし、大家さんもぼやきつつ覗きに来られるし。地域柄もあるのかもしれないけど、なんだかんだ孤立せずにいらっしゃるその方の在り方に、なんとかなるもんなんだな、と励まされもしました。

◆話が急に戻って、青森では弘前ねぷたなども見に行ったのですが、ねぷたのあと城址公園の東屋で一人ひっそり寝ようとしていたら、タイミング悪く自転車で見回り中の警備員さんに遭遇。丁寧ながら「起きていたらいいけど、寝たらだめ」「史跡だから」「コロナだから」などとむちゃな要求を受けて、びっくりでした(色んな城址公園で野宿したけど、初めての体験。都内では時々ある)。そのことを青森ねぶたに来られていた安東浩正さんに話すと、安東さんが以前同じ城址公園でテントを張った時には、見回りの人にテントでなく東屋での野宿を勧められたそうで、なんだかどんどんせちがらくなっているぞ、と思った次第です。

◆おかしなことにはそれなりに抵抗しつつ、できるだけ安眠したい。それから物を減らしたい。よちよちの歩みですが、なんとかやっています。[加藤千晶

あのころ札幌駅前広場は数百人が野宿していた

■コロナの波を縫うように、かあちゃん(京子)と出かけている。昨年から今年にかけ、銚子電鉄、秩父鉄道、わたらせ渓谷鉄道、明智鉄道、大井川鐵道、近江鉄道などの地方鉄道にずいぶんお世話になった。鉄道旅の勢いで、5月には新幹線で青函トンネルを抜けて函館へ。港には役目を終えた青函連絡船が係留展示されていた。そうだ、50年前、青函連絡船で渡った北海道が私の初めての一人旅だった。

◆1972年の夏。渡辺久樹、高校2年、16才。当時は国鉄のワイド周遊券というものがあり、私が住んでいた名古屋発着の北海道周遊券は有効期間が20日間。もちろん期限目一杯使う。急行を乗り継いで青森へ。青函連絡船で海峡を渡り、いよいよ函館。だが函館はまだ本州のにおいがする。北海道らしさを求めて、知床へ、大雪山へ、礼文島へと気持ちは先走るのだ。

◆当時、学生が泊まる宿といえばユースホステルだった。宿で知り合った人と、旅先のどこかでまた出会い、その連れとまたどこかで会って、という出会いの連鎖がすごく楽しかった。そんな出会いになにか運命的なものすら感じたりもしたが、なに、広い北海道だけど旅行者が行く所や行動パターンなんて似たり寄ったりだからね。

◆ただユースホステルは楽しくて安いけど、予約が必要だし、昼間は宿から出なくてはいけないなど、いろいろルールが多く、煩わしく感じることもある。ほかにお金を使わずに一夜をすごす方法のひとつは夜行列車だ。周遊券をフルに使って、寝ているうちに稚内や網走や釧路まで移動してしまう。

◆一石二鳥ではあるが、寝台車は別料金なので、普通のボックス席に揺られて一夜を明かすことになる。これが意外と混んでいて、座席に横になれるチャンスは少ない。景色も見れないし、いくら10代の若さでもさすがに疲れる。これも急行や夜行列車がほぼ絶滅してしまった今では過去の手段になってしまった。

◆あとはやはり野宿だ。いちばんいいのは国鉄のローカル駅。終電後、駅員さんが引き揚げて無人になった駅の待合室ほど快適な場所はない。トイレも洗面所もあるし、今のような個別のイスの連なりではなく、長い木製ベンチだからとても寝やすい。朝は始発で行動開始できるのがいい。いちど公園のベンチで寝袋にくるまっていたら、夜中、雨に降られ、さすがに厭世的な気分になったこともあり、屋根があるのがなによりありがたい。

◆ただ、やや大きな駅では待合室のドアを閉めてしまうことも多い。小樽では、裸電球がぼつんとともっただけの誰もいない木造駅舎の軒下で、ひとり寝袋にもぐりこんだ。すると黒猫がやってきて寝袋の上でまるくなる。かわいいが、とても怖い夢を見そうな気がして、寝袋をはい出て、黒猫を遠くにおいてくる。しばらくすると、また鳴きながら黒猫がもどってきて胸の上でまるくなる。また遠くへ連れて行く、という繰り返し。

◆さて、札幌である。寝場所を求めて夜、駅に行くと、閉められた駅舎外の歩道に、すでに数十人が横になっている。隙間を見つけて、寝袋ですぐ寝てしまう。やがて「起きてください。朝です。起きてください」という声に目をあけると、駅員さんたちが野宿しているひとりひとりに声をかけながら起こしてまわっているところだった。身を起こして見渡すと、数十人どころか数百人が駅の周囲びっしり、市バスのターミナルの歩道にまではみ出して野宿していた。

◆夏のあいだ、札幌駅前ではこんな光景が毎日繰り返されていたらしい。当時、「ディスカバー・ジャパン」という国鉄のキャンペーンが大々的に展開されており、私たちもただそのキャンペーンに乗せられていただけなのかもしれない。しかし、あの札幌駅前の光景は、なにか地鳴りのような旅への希求と、それを受け入れる人々のおおらかさを感じさせてくれた。[渡辺久樹

渡辺久樹君は地平線会議誕生のきっかけとなった1978年12月、法政大学で開かれた「関東学生探検部連盟」主催の探検報告会に日大探検部代表として参加して以来の地平線仲間だ。1985年夏には江本が責任者の1人となった「日中合同黄河源流探検隊」に水質研究をテーマに参加、採水だけでなく遊牧民の水汲み調査、ヤク糞の燃料効率、かまどの型の調査などを行った。源流域の双子の湖のひとつ、ザーリン湖を野生生物担当の北大・梶光一隊員(現東京農工大名誉教授、兵庫県森林動物研究センター所長)と3人でゴムボート横断に挑戦、急変した天候の中、必死で漕ぎ続け、6時間かけて対岸に渡ったのは懐かしい。ネパール通いも長く、『カトマンドゥを歩く―ヒマラヤ中世王国の旅』などの著書がある。

マッターホルンで見えた景色

■2022年7月25日、私はマッターホルンの山頂にいた。不思議とそのときに見たはずの絶景が思い出せない。前日の夕方、ヘルンリ小屋から見た夕陽に染まるヴァリス山群の山並みは鮮明に覚えているのに。そして、取り付きに戻ったときの安堵感も昨日のことのように思い出せるのに。あの安堵感は、山頂に立ったときの高揚感よりもずっとずっと大きい、登山における最大の醍醐味だと思う。行ってみてマッターホルンは“下りの山”だということを痛感した。というより、ほとんどの登山において核心となるのは、“登り”よりも“下り”だろう。アルパインクライミングにおいても退却が困難な山ほど生きて帰ってくることが難しくなる。

◆そもそも“山登り”とは言うけど、“山下り”とは言わない。テレビ番組でも登りのシーンは映像で流すけど、下りのシーンはほとんどカットされている。なぜだろうか? やはり、「登りの方が苦しいから。あるいは人生などに譬えて、困難を乗り越えていくイメージがしやすい」ということだろうか。下りの方が苦しいこともあるのに。メディアが作り上げたイメージというのもあるのだろう。

◆話が逸れてしまった。いつも脱線してしまうのは私の悪い癖(笑)。さて、今回のマッターホルン行。なぜ仕事の忙しい時期に無理にでも休みを取って行ったのか? 私はヨーロッパ・アルプスの登山には正直、あまり興味がなかった。近代登山発祥の地であり、数々の名クライマーを生み出した土地ではあるが、登山電車やロープウェイなど、あまりにもアプローチが便利で麓の街からサクッと取り付けてしまうところが好きでなかったのだ。

◆そして、登山スタイルもガイド登山。ルートはもっともスタンダードなヘルンリ稜。17年前までの私だったら、絶対に選択しなかったルートでありスタイル。というか「ガイドを雇って登山するなんて。しかもヘルンリ稜!」と馬鹿にしていただろう。

◆35歳のときに慢性骨髄炎を患って、それがキッカケで登山を諦め、気象予報士の仕事に就いた。幸い、39歳のとき、難しい数回の手術を行って41歳で登山を再開することができた。そのときには、アルパインクライミングに対する情熱はまったく冷めていて、闘病時代に杖をついて歩いた、上高地や戦場ヶ原の散策が何よりも楽しいと感じられるようになっていた。岩や雪にしか興味がなかったのが、森や花、鳥に興味を持つようになり、自然に対する考え方が変わった。自然の魅力の奥深さを知ることができたと思う。

◆登るスタイルについても、それぞれの環境に応じて選べばいいと柔軟な考え方に変わっていった。それまでは人の目を意識したり、格好良さを意識したり、記録を意識したりしていたけど(結局大した所には行けなかったけど)、自分が登りたい山を登ればいい、と思うようになっていた。毎週、岩に行くこともできなければ、ハイキングでさえも月に1、2回程度しか行くことができない。でも自分なりのチャレンジはし続けたい。仕事では常にチャレンジし続けているけど、登山でも挑戦的なことをしてみたい。今年5月に、20数年ぶりに残雪期の白馬岳主稜に行ってからは益々、その気持ちが強くなってきた。

◆そんなとき、母校の先輩で私が尊敬している国際山岳ガイドの長岡健一さんから、そろそろマッターホルンとかアイガーとかのガイドは辞めようと思うという話を聞いた。そこで、彼に「私との登山を最後にしてください」とお願いして行くことになったマッターホルン。山頂からの景色は覚えていないけど、長岡さんのガイディング能力の高さ、マッターホルンをガイドすることの難しさを知ることができ、どんな思いで長年、お客さんをマッターホルンに導いてきたのか、それを肌で感じることができた。

◆そして、そんな長岡さんの最後のマッターホルンに同行できたことが何より嬉しかった。やっぱり自分は、一人で行く山よりも仲間や、お客さんと行く山が好きだ。感動を分かちあえる仲間がそばにいることが。山に登る人が好きだ。

◆人それぞれチャレンジするものは違う。トルコ上空を飛んだとき、小松由佳さんのことを思い出した。今年、富士山麓の西湖での竹内洋岳さんのイベントで久しぶりに再会した。毎回、楽しみにしていた地平線通信の「石ころ」の連載。彼女とその家族のトルコにおける新たな挑戦を陰ながら応援していた。その記事は、いつも私の心の中で燻っていた「何か」を揺さぶってくる。帰国した後、私はマッターホルンよりも大きく山積みになっていた仕事には目もくれず、水害に遭った、故郷の新潟に向かっていた。[猪熊隆之

「冒険研究所書店」で本を買って!!

■最近の私は本屋をやっている。2021年5月、神奈川県大和市に「冒険研究所書店」という名の本屋を開業した。なぜ極地ばかりを歩き回ってきた私が急に「本屋」なのかと、これまで何回質問されてきたことか。

◆もし私が、出版社勤務を続けてきて、脱サラして書店開業ということであれば、それほど「なぜ書店を?」とは聞かれないだろう。極地冒険の果てに書店開業だと、多くの人は「なぜ?」と思うらしい。それだけ、冒険と本という二つの要素が世間的には距離感を覚えるためだと思う。地平線まわりの諸氏にはもちろん、冒険や探検と本とは切っても切り離せない存在だとご理解いただけると思うので、いちいち開業の理由は書きません。それでも気になる方は、この一年ほどで受けたインタビュー記事がネットに転がっているので、そちらをご参照を。

◆それにしても、本が売れない。というか、世間の大多数の人は本に興味を失っている。私が書店を開業した神奈川県大和市の桜ヶ丘駅前には、すぐ近くに高校があり、店の真横は通学路になっている。夕方には帰宅の高校生が目の前のコンビニにたむろしているが、その中から書店に興味を覚えて入ってくる学生は、皆無と言ってよい。みんなスマホは持っているが、本を持っている姿を見たことはない。そんな時代にあって、もちろんわかっていながらあえて書店を始めた。それは、書店という存在が、必要になる人と機会が街にはあると信じているからだ。言語脳科学者の酒井邦嘉さんは、電子書籍と紙の本では、人間の脳に与える影響は明らかに紙の本が優位であると語っている。また、書店には人が何気なしに集まることができる、集会所のような側面もある。世の中の多くの店では、入店するとお金が必要だ。喫茶店に入って、席について水だけ飲んで金を払わず出ていく人はほぼいないだろう。しかし、書店というのはお金を使わず、立ち読みだけして出ていく人もたくさんいる。書店側からすると嬉しいことではないが、街の機能としては必要であると自覚しているからこそ、立ち読みを黙認しているのだ。

◆実は最近は書店が増えている。それも、私がやっているような、書店界隈では「独立系書店」と呼ばれる、書店主のセレクトで書棚を作っていくスタイルの書店だ。都内を中心に、地方や首都圏各地に広がっている。そんな新規開業する書店主の多くは、街には書店が必要であるという公共の意識を持った人である気がする。私も、そんな新規開業した書店主の知り合いが何人もいる。出版社を退職して始めました、という人も何人も知っているが、収入面では以前と今ではどうですかと尋ねると「前の半分くらいですよー」と笑って話す。前より増えた、という人には会ったことはない。皆、そんなことは始める前から分かっていながら開業しているのである。

◆あたり前のことだが、書店は本が売れないと継続できない。私の店も同様だ。昨年開業するときは、たくさんの人に応援していただき、興味を持ってもらったが、やはり一年も経てば記憶の片隅に存在は押しやられていく。江本さんの蔵書を大量に引き受け、閲覧用の書庫とする計画も、未だ進んでいない。端的に、書棚の問題だ。場所がない。書店で出た利益を使って、地平線会議のこれまでの記録や江本さんをはじめ、寄贈していただいた本を旅と冒険の書庫として活用しようと思っているが、今の書店の売り上げと利益では、そこまでの場所を確保できない。この国では、都市において場所を確保するには金がかかるのである。私のところにも、江本さんの蔵書をどうするのか?こんな活用をした方がいいのではないかと、助言を与えてくれる人がいるのだが「いや、金がないんですよ。みんなが本を買ってくれれば、その利益で書庫を作れるんですが」と言っても、どうにも理解してもらえない。どうやら、私には無尽蔵のやる気とお金があるのだと勘違いされているらしい。

◆昨年から、通信でも書庫の計画を書き、本を買ってねと書いているが、我が書店に足を運んでくれた、もしくはオンラインで本を買ってくれた地平線まわりの方は数える程度である。正直言うと、かなり寂しい。

◆「いやー、どうしても忙しさにかまけてアマゾンでポチっちゃうんだよね」と言うのはわかるが、10回アマゾンで使ううちの、1回や2回はぜひ近所の書店を利用してほしい。私が懸念している未来は、アマゾンが街場の書店を駆逐していった後に、一転して送料増額、サブスク増額し、本を買いたい人はその仕組みに従う以外の選択肢を奪われ、結果的にみんなで巨大企業に貢ぎながら利益を吸い取られていくしかない未来である。

◆何が言いたいかといえば、うちで本を買ってほしいということです。以上。[荻田泰永

「冒険研究所書店」ウェブサイト https://www.bokenbooks.com

忘れられつつある集落と智慧を描く、映画『丸木舟とUFO』

■ここで原稿を書かせていただくのは7年ぶりではないかと思うのですが、2021年に『丸木舟とUFO』という映画を作りました。9月24日からポレポレ東中野(東京)で公開します。この映画は石垣島の限界集落に移住したロスジェネ世代の夫婦が文字通りの貧困を経験しながら、誰もが見捨てたロストテクノロジーである木造のサバニを作る職人になって生計をたてる、というものです。

◆私は前回の長編作品『縄文号とパクール号の航海』で探検家・関野吉晴氏と9名の仲間が木船を手作りし、風力と人力だけでインドネシアから日本まで航海する様子を撮影し映画としてまとめました。その体験は、なかなかに強烈で、星を見ながら眠る船上生活を続けると、天井のある東京の家で眠るのが苦痛で仕方ないくらいでした。

◆しかし当然ですがそのような特殊体験は一過性のものなので、4年の旅が終わると世知辛い日常が襲ってきます。私は映画を作り、そのあとは公開するという実務に追われていたのでした。やがて新型コロナウイルスが蔓延し始め、映画を公開し収益を得る、ということが難しい状況となります。他者・社会・世界との直接接触を忌むべきこととした、ある意味、人間活動の価値の転覆が起きたわけですから、これは一生のうちでも特異な体験だったといえます。

◆石垣島の船大工・吉田友厚さんを取材させていただいたのは、そんな停滞期でした。彼は手製のサバニで近海の自然をガイドする仕事をしていました。パクール号からすれば華奢なフォルムの小船で、地味な印象だったのを覚えています。集落にも人の気配がなく活気がないように思えました。ただ取材を進めていくうちに、友厚さんの特異な経歴、また、この限界集落も戦後の琉球政府による開拓移民政策によって作られた特異な存在であることがわかってきます。

◆友厚さんは東京育ちで、バブル期に喫茶店を経営したり、ゴルフ会員券の売買をする両親に育てられました。しかし金銭問題で両親が衝突し、離婚を経験します。故に思春期だった彼は金銭を忌避するようになり、友達の家を転々とし現在の妻とテント暮らしの旅に出かける日々だったそうです。その後、妊娠した妻・朱美さんに請われて(!)インドを放浪。帰国後に子供が生まれ、石垣島の限界集落で暮らし始めます。当時集落は人口流出が止まらず、全盛期の1/10、およそ30名しか住んでいませんでした。島民ですら集落の存在を知らない、インフラ整備は放置、といった有様で、新しく人が選んで住むということ自体、稀だったようです。

◆集落には当然産業もないうえ、子育て、健康保険、年金、光熱費など出費は増えるばかり。吉田さんにとっても苦労の連続でした。そんな中でも、石垣島の船大工が80歳で引退するという噂を耳にした友厚さんは、木船の需要もほとんどないのに弟子入りを決意します。「家族もいて、貧乏なのに……」。誰もがバカにしていたその決断で、石垣島のサバニ観光産業をゼロから立ち上げていくことになるのです。

◆このテーマはある意味、監督である私にとっても運命的な出会いだったといえます。『縄文号とパクール号の航海』は人類の足跡をたどるために木船を作って、インドネシアから石垣島に渡って来る映画ですが、『丸木舟とUFO』は石垣島に移住して貧乏しながら集落の老人たちと土地の智慧を再発見し、木船を作って生活を営んでいく、というものなのです。テーマ的には、もはや続編と言ってもよいのではないかと思っています。

◆それと、UFOの存在。『縄文号とパクール号の航海』で重要なモチーフであった“星を見る”という行為が新作でも直接的に関係してきます。ここでは割愛しますが必見です。こちらも劇場で確認してみてください。[水本博之 映画監督]

『丸木舟とUFO』が公開決定!
  9/24(土)から
   9/24、25、26は吉田友厚さん(出演・船大工)×水本博之(監督)の舞台挨拶あり

*関連イベント
『縄文号とパクール号の航海』アンコール上映!!
 8/27(土)〜9/2(金) 連日17:30〜
  8/27、28は関野吉晴さん(出演・探検家)、8/29〜9/2は監督による舞台挨拶&トークあり

☆劇場・予約:ポレポレ東中野(東京都中野区東中野4丁目4-1)

遺品整理の旅

■毎年お盆の時期になると、必ずあることを考える。山で遭難した夫の遺品をどうするか、という問題である。

◆我が夫・福澤卓也(当時28才)は1994年8月17日、成田からミニヤコンガに向けて飛び立ち、そのまま一向に帰国しない。新進気鋭の雪崩研究者が雪崩で行方不明になったのだ。皮肉なものだ。もう28年も戻ってこないのだから、きっと現世で再会することはないだろう。

◆28年の間いろいろあったが、3年半前にようやく、残された遺品を整理して福澤の遺稿集を発刊することができた。これでようやく、大量の遺品も心穏やかに処分できるとホッとした。

◆遺品の多くは北海道の山の写真・スライド、直筆の山行記録、詩作、スケッチetc……。さて、いつどうやって処分しよう? お盆になると毎年、この件が頭に浮かぶのだが、実行はせずに時が過ぎた。

◆しかし今年の夏は動きがあった。7月の地平線通信で、ねこさんの『私の小川』を読んだことがきっかけになった。4コマに収まっている「日々のあれこれ」が、「遭難者の遺族としての身の処し方」に重なった。ねこさんったら、小川に「日々のあれこれ」を流してる!! よし、わたしも小川に遺品を流しちゃえ〜、と勢いがついた。

◆最初は勢いがつき過ぎて、札幌市の「燃えるゴミ」に出そうと思った。けれど、さすがにそれは躊躇われた。それでより適切な方法を探した結果、札幌市内に遺品を焼却処分してくれる「お焚き上げセンター」なる施設があることがわかった。週に1回、ご住職が読経にて抜魂の上、供養をしてくださるとウェブサイトに書いてあった。早速電話で問い合わせをしたところ、対応が丁寧で費用も明確だった。そして私は8月23日(火)に、お焚き上げの予約をした。

◆ところがどっこい、予約の電話を切った途端、涙が流れて止まらない。もう夫のことで涙が流れることはないと妙に自信があったのだが、いまだに駄目らしい。まだ覚悟ができていないのだ。ため息がでた。計画はとん挫した。

◆お焚き上げ当日の同行をお願いし快諾してくれた友人(第457回報告者・次期南極越冬隊長:樋口和生さんのパートナー樋口文恵さん、とてもチャーミング)、山のスライドを預かってくれている友人(北大ワンゲルOB小野達夫・祐子夫妻と新宮弘久氏)に計画中止を報告した。今年の夏はお焚き上げ騒動に巻き込んでしまいゴメンナサイ。いつも本当にありがとう。

◆そしてナチュラルに、私の背中を押してくれたねこさんにもありがとう。遺品整理の旅は、まだしばらく続きそうです。[札幌 井口亜橘(あき)

井口亜橘さんの夫、福澤卓也さんは、1984年に北大理I系入学、ワンダーフォーゲル部時代にパタゴニア氷河調査を実施した。1989年には大学院低温科学研究所に進学、修了後雪氷学、とくに雪崩の専門家として調査研究を行った。1991年、阿部幹雄、樋口和生さん(いずれも地平線報告者)とともに、ビーコンの役割を重視する「北海道雪崩防止研究会」(ASSH)を立ち上げた。1994年、日本ヒマラヤ協会ミニヤ・コンカ登山隊に登攀隊長として参加、高度6000メートルのC3付近で仲間3人と消息を絶った。2018年3月、福澤さんの遺稿、友人たちの追悼文をおさめた『旅の記憶 空、雲、風 そして心の詩』が友人たちの手で出版された。[E]

帰郷

入道雲の
真下のあたり
私の実家へと続く
白い道

雲よ おまえの中に
かって私の一部だった水の分子
少年の日の汗や
青年の日の涙が
たくさん含まれているのじゃないか

そうでなければ
こんなになつかしい気持ちに
なれるはずがない

雲よ おまえの中に
年の離れた兄弟みたいな
少年と青年の私が並んで腰かけて
わき腹をこづきながら
私を見下ろしているのじゃないか
笑いをこらえて……

そうでなければ
こんなにやすらかな気持ちに
なれるはずがない

私の実家の真上
入道雲へと続く
はるかな
道        [豊田和司

絵本『きらきら くものす みーつけた!』刊行しました

■イラストレーターの竹村東代子です。いっぱいいっぱいの子育てをしているうちに娘は小3、男子双子は年長になりました。お世話する一方の幼児期が終わり、様々なことを一緒にできる時期に入ったのを感じています。

◆このたび、『こどものとも』で知られる福音館書店の月刊絵本『ちいさなかがくのとも』の9月号として絵本を出版しました。

◆和紙をナイフで切り抜いた切り絵のクモの巣を、水彩で描いた植物の上に置いて撮影しています。2年ほど前から観察を続け、子供たちも私もクモの巣探し名人になりました。子供の目は鋭く「お母さん、珍しいクモの巣! あるじ(巣の主人のクモ)もいるよ」と教えてくれました。

◆クモの巣探しは一緒にできますが、切り絵の作画は子供がいるとハラハラ。フルタイム会社員でもあるので、早朝3時4時に起きて6時まで制作して、朝食の用意をして出勤という生活。土日は子供たちを夫に連れ出してもらい、その間に仕事をしていました。子供たちはお母さんといたがるので、毎回食べ物で釣って。京都、奈良まで連れ出したこともあります。

◆トライアスロンみたいな生活の中で生まれた絵本ですが、家族との思い出がぎゅっと詰まっています。幼稚園などでの配本が中心で、ネット販売はありません。お求めの際は大きめの本屋さんにお問い合わせください。[竹村東代子

 『きらきら くものす みーつけた!』
 竹村東代子 作 福音館書店 440円(税込) 2022年8月3日発売


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、最近の通信への感想、近況などひとことお寄せくださると嬉しいです。

光菅修(10000円 地平線報告会も待ち遠しいですが、発送作業に参加して地平線メンバーに会えるだけでも嬉しい今日この頃です。9月頭には遅い夏休みを利用して、石巻で壁画を描いてきます)/三森茂充/中岡久(5000円 ツウシンヒ2ネンブンプラスカンパ)/小林進一(10000円 通信費+カンパ。海外バイク旅を再開しました。2022豪州、2023以降アフリカ?)小林進一さんは3月にも1万円いただいているので、今年2回目/永井マス子


朝顔

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自分の求める原点を大切に林業で生きたい

■勤めている林業会社のつながりで、長野県千曲市にある姨捨の棚田で田植えや草刈りを手伝う機会があった。盆地の夜景や棚田の風景で有名な場所だが、観光として訪れるというのではなく、そこで稲作をして自分たちの糧を得る人になりたいという憧れが実はあったので、とても嬉しいことだった。

◆米作りは小学生のときにバケツで数本の稲を育てたくらいで、田んぼでの稲作は初めて。加えて手植えで、なるべく機械は使わず自ら泥水に手を突っ込み田植えをやりたいとも考えていた自分にとっては、興奮が止まらない。泥水を掻く感覚や小さな苗を指先で摘んだ感覚が気持ちよかった。

◆連日仕事で入っている山は、一般の人はほとんど入ってこない場所。そんな場所で、黙々と作業をし、休憩時間は木々の間から覗く空や山々をじっと眺める。そういうときがあってほんとうにありがたいと思う。

◆4月から未経験で林業の世界に入り、自分にとって新しいことづくしのなかでさらに、人手不足やウッドショック、環境問題など暗雲がかる日本の林業界で既存のあり方に囚われず自分にも何かできることはないだろうかと、明るさをもたらしてくれそうなものをネットやSNSで意識して見るようにしている。

◆しかし、林業のことに限らずいろんな人やものの新しい挑戦を目にするたびに、自分も何か新しいことをしていかないと、と、まるで生き急ぐようになってしまい、それに少し疲れを感じることがたまにあった。そんなときこそ山や森の自然に自分の身を置き、人間のさまざまな思惑や概念を取り払ったまっさらな自然の状態(といっても仕事現場は人工林だったりするが)で自分は何をまず感じるのか、思い出すようにしている。自分が山や森林を求める原点を大切にして生きていきたい。[小口寿子

前途多難 ボルネオ久々の風景

■2年半ぶりのボルネオに上陸し、約1週間が経ちました。大学1年生の終わりに初めて訪れたボルネオの旅も、学生生活では今回が最後になりそうです。今では私も修士課程2年になり、卒業を間近にして現地に赴くことはほとんど諦めていましたが、幸運にも1か月半とごく短いフィールドワークの機会を得ることができました。

◆昨日、テリンという街から最奥地へと繋がるマハカム川をスピートボートで上り、その終点にあるロング・バグンという村に辿り着きました。ボートからは、キラキラ光るカフェオレ色の水面で遊ぶかのように翻るアナツバメたちや、バトゥ・ディンディン(現地語で「岩の壁」)と呼ばれる石灰岩でできた白黒の断崖、暮らしの様子が垣間見える川沿いの家並みなど、パンデミック前と変わらない景色を堪能することができ、空白の時間が満たされていくように感じました。

◆しかし、この場所に至るまでには、経験のない様々な障壁に阻まれ、時の流れを感じざるを得ない場面にも繰り返し遭遇しました。ひとつには、何度か取得経験のあるビザの発給が却下されてしまったことです。コロナ禍を経て、インドネシアのビザ申請は現地のスポンサーがオンライン上で手続きする仕様になり、それに伴う規約の変更を見落としていました。街のイミグレーションで交渉し、申請期間外のビザ延長をなんとか認めてもらったことで滞在期間の問題には対処できましたが、ビザの取得自体は以前よりも難しくなっていると感じます。

◆また、国外から持ち込まれる高価なスマートフォンが今年から課税対象となったことが関係しているのか、現地で購入したSIMカードが登録から一夜にして無効化してしまい、しばらく宿のWi-Fiに頼るほかありませんでした。

◆加えて、まさに今直面しているのが、利用するはずだった村へのアクセス道の状態が非常に悪いという問題です。道を開発した木材伐採業者が撤退してしまったために、整備の手が入らず、以前は丸一日で村へ到着できたルートが、今では4日〜1週間かかるというのです。柔らかい黄土の道路であるので、スコールで地面がふやかされてしまうと、車は殆ど進むことができないそうです。昨日の船旅の途中でこの事実を知り、計画通りにその陸路を進むべきか、戻って別のルートをとるべきか、途方に暮れて昨晩涙しました(村は電波が繋がりにくく、道の状態を詳しく聞くことができていなかったのです)。

◆今回の旅はこれまでになく前途多難だと感じますが、現地の人たちと言葉を交わしながら問題をひとつひとつクリアするたびに、リハビリをこなすような達成感も得ています。旅の終わるころには、この話の続きと、村の人たちとの再会や私のフィールドワークがどのようであったかを、改めて報告させてください。

◆懐かしい村の人たちに逢えるまでの道のりが定まらない不安がだいぶ大きいですが、くよくよしすぎず歩みを進めたいと思います。それでは、行ってきます![下川知恵 早稲田大学大学院人間科学研究科修士2年]


地平線の森

『宮本常一の旅学・観文研の旅人たち』

福田晴子著 八坂書房 2700円+税

■人生70年古来稀なり。これまで通り日常生活を送ることができる健康寿命は男で72歳だそうだ。この年齢に近づくとそろそろ自分の始末を始めたら、という強迫が日に日に強くなる。私も圧力に負けて終活の断捨離を始めた。古い家や車など形あるものには未練なかった。しかし写真(スライド)・書籍は形があるが、捨て去るのは分身を削っているようで気のりがしなかった。それでも書棚の半分くらいを処分した。書棚の空白と同時に私の脳みそにもかなりの抜け落ちが感じられるようになっている昨今だ。

◆そんな気分の折、福田晴子の『宮本常一の旅学・観文研の旅人たち』が送られてきた。観文研は1966年宮本常一が近畿日本ツーリストの後援で作った日本観光文化研究所の通称だった。宮本先生は長い間渋沢敬三の屋敷内にあったアチックミュージアム(屋根裏博物館)に居候をし、民俗探索の旅をさせてもらっていた。晩年はそのお返しとして若者の旅を支援する梁山泊のような研究所をつくった。旅の費用は出すが生活支援まではしない。そこには旅好き貧乏若者が集まってきた。学校ではないので仲間たちがそれぞれ侃々諤々、切磋琢磨していった。

◆30数年前に閉鎖した観文研であるが、福田は当時の若者たちの今を訪ね歩き、この本で当時の様子を再現してくれた。インタビューを受けた人々は古稀を越え卒寿も過ぎている方もいる。しかし明瞭に当時の記憶を語っている。それは観文研で過ごした時間が強烈で30年間に反芻したためだろう。繰り返すことで人間の記憶がより強固になっていく。

◆私もインタビューを受けた一人であるが、本を読んでみると皆さんの思いと比べかなり抜け落ちが多いことに気づいた。1967年に山岳部先輩の宮本千晴から声がかかり私は観文研に出入を始めた。関わっていた時間は長いがその間は「ボーっと生きていた」のだろう。現に観文研の一番重要な仕事であった『あるくみるきく』はとっくに友人に譲ってしまった。森本孝、須藤護両氏によって『宮本常一とあるいた昭和の日本』全25巻として復刻されているが、オリジナルは取っておくべきだった(返してくれなどとは言いませんからご心配なく)。

◆福田は『あるくみるきく』を大学の研究室で見て観文研に興味を持ったと記している。観文研で学んだ人々が旅学を発表する場がこの冊子だった。宮本千晴ら厳しい編集者によって元の文が残らないまでに添削されたという話は賀曽利隆からよく聞いた。ここで鍛えられた多くが後に大著を出版するまでに成長をとげている。最初は小冊子であったが、内容はよく練られており、JTB発行の『るるぶ』などよりも一部では評価が高かった。私は都立高校の教師が本業であった。書店では入手できない『あるく…』を近ツリの営業マンが学校に持ってきてくれる。地理や歴史の教師が彼らの来校を心待ちにしている姿をよく目にした。修学旅行の業者決定に『あるく…』が影響したことは間違いない。

◆廃刊後30数年たってからの読者である福田がいかに『あるく…』に影響されたかを、私は思いがけないところで見た。「呑み鉄本線・日本旅」というNHKの番組がある。六角精児が廃線寸前の三江線川戸駅に降りてきた若い女性にインタビューしていた。こんな「ど田舎」駅に何で都会的な若い女性が?と六角は思ったようで、かなりのドキドキ感がみえた。その女性が福田晴子だった。彼女は谷住郷村の日笠寺の住職、『あるく…』の元編集長だった山崎禅雄を訪ねるところだった。彼は時々東京に出てくる。そのときにインタビューすればいいのにと思ったが大きな労力お金をかけて遠路はるばる出かけている。宮本先生は大変な山の中まで歩いて古老に会いに行っている。その姿と映像にあった福田の姿が重なるように見えた。『あるく…』にすっかり影響されている、と映像をみながら私は思った。

◆宮本常一に関連する本は数々あるが、「観文研」をメインにした本はこれまでに一冊もなかった。今回宮本千晴のことをまとめたことは意義深い。表に出ることを好まない人だが観文研の実質運営者として大変苦労した姿を私は見ている。どれほど皆がお世話になったかしれないが実態は知られていなかった。Facebookの投稿に「自分たちがやるべきことを福田さんがやってくれて感謝」とあった。その通りだと私も思っている。

◆「ジイサンは流れに逆らわず」の強迫で思慮浅く断捨離なんぞ行った。しかし私にとって書籍や写真などは「思い」が付帯したモノである。もう役に立たないとしてモノを捨てると同時に脳みそから思いも抜ける。こりゃマズイ。

◆ところで今日は8月17日、地平線会議の誕生日だ。1979年の発足時は観文研の片隅でAMKASの名簿を借用し、ガリ版印刷のハガキに宛名貼りをしていた。のちに取材にきた美術家の池田満寿夫に手伝わせた場面がNHKのテレビで放映され、「地平線放送」の電話回線がパンクしたことなど思いだした。これって役立つかな?[三輪主彦

日本語教師を目指す母、最難関高に挑戦する娘

■新たな目標のために前職の介護系の仕事を辞めると心に決めた矢先に、得体のしれない疫病に世界が侵された(と当時私は感じた)。そのため、国家試験を半年後に控え、勉強に集中するために無職の期間を設けようという計画はもろくも崩れた。保育園が休みになり子供を預けられなくなった同僚たちの分まで働かなければならず、辞めるどころかそれ以前よりも働く時間も日数も増えてしまったのだ。

◆ようやく試験2か月前に辞めることができ、最低限の家事以外の一切を放棄して勉強に没頭し、自分で言うのもなんだが見事一発で合格した(通信502号で報告済み)。前職の介護系の仕事から、いろいろこれからのことを考えた末に日本語教師、その中でも特にEPA(二国間経済連携協定)でインドネシア、ベトナム、フィリピンから来日する介護福祉士候補生のための日本語教師を目指そうと思った。

◆だがタイミング悪くコロナ禍に。介護福祉士候補生どころか、留学生も技能実習生もあらゆる外国人が来日できなくなってしまった。さらに、過去のEPA介護福祉士候補生のための日本語教師の募集を見てみると、どれもが「日本語教師経験3年以上」という条件が付いている。

◆よし、わかった。どこかで経験を積んで、3年後には必ず!という意気込みとは裏腹に、3年の修行を積むステージが、ない。現役の日本語教師でも仕事がない状況の中、数名の募集に対して応募がわっと押し寄せる。未経験の私には勝ち目がない。

◆日本で日本語を教える場合、ほとんどが直接法といって日本語のみで教えるのだが、例外もあり学習者のタイプによっては質問時に英語を使うことを許している場合もある。相手は英語しか話せないビジネスパーソン、教える側にもビジネス英語以上の英語力を求む、という募集に目が留まった。おぉ!これなら未経験の私にも可能性がある、と思い応募した。

◆書類審査パス→面接パス→模擬授業パスととんとん拍子に進み、当初希望していた契約内容よりも条件のいい内容で採用された。とはいえ、コロナは収まらず、外国人が増える気配は感じられない。

◆週に数コマで細々と暮らすこと半年、地平線仲間が主催したり登壇したりする講演会などは涙を呑んで軒並み見送り、どこにも遊びに行かず、買い物も控え、ビールも半分に減らし、もちろん旅にも出ず、切り詰めて生活しているのにお金は減る一方。

◆ペコペコして税金の分割納入を認めてもらい、いいかげんお金の心配をしなくていい生活がしたいなぁと思っていたまさに今日、新しく受け持つクラスが決まった。やったー! これまでの受け持ちがいかに少なかったかということだが、コマ数が倍になった。

◆更にいいことは続く。私が独自に作って授業で使っていた教材が教務主任の目に留まり、全講師で使えるよう学校で買い上げることはできないかと打診があった。もちろん謝礼はいただけるのだが、それよりもこんなペーペーの私の教材が役に立ったという喜びが大きい。

◆一方、中2の柚妃は、本人が地平線通信で書いていたように都立最難関高校を受験すべく、ぜんぜん足りていない実力を補うため夏期集中特訓なるものに行かせてほしいと言い出した。なんとか児童手当や給食費のあまりをかき集め、連日10時間勉強に励んでいる。

◆自分の学力に見合った高校を目指すのではなく、まず頭上に輝く目標校があって、それをつかみ取るために自分自身の力をどんどん上げていこうという姿勢は柚妃らしいと思う。

◆家でも朝も夜も勉強しているが、なぜか少しもガリ勉っぽくないのは、キャッキャしながらふざけあえる友だちがたくさんいることや、吹奏楽部でサックスに情熱を注いでいること、そして9月の生徒会長選に向けて燃えていることなどが織り交ざって作用しているからだろう。

◆娘は精神的に自立して、以前のように母娘で行動することは減り、私が与えられるものはもうあまりない。しかし報告会が中断して久しい中でも、本、映画、写真、絵画、地平線通信、そして人たちとの関わり合いの中から、ちゃんとたくさんのことを吸収して、地平線会議的精神を忘れないでいてくれていると思う。[瀧本千穂子

519号、題字わかりましたか?

■岡山の北川文夫さんから届いたメール。「コロナ感染で自宅療養しています。江本さんは感染しないように気を付けてくださいね。私は3回のワクチン接種も効き目ありませんでした。軽症で既に普通の体調に戻っています。療養期間は今日7月29日が最終日です」とまず近況報告。そして、「今月の題字はクラシックな暗号ですね。アルファベットを循環させ7文字後ろにずらせたものですね」と見事な解説が。

◆実は通信の読者から「今号の題字わかりません。是非謎解きを」とのファクスが届いていた。念のため出題者である長野亮之介画伯に聞いた。

◆「『CHIHEISENTSUHSHIN』という英文表記を、アルファベットの並び順に7つずつ後ろにずらしています。最初の『C』はアルファベット順で次の『D』から数えて7番目の『J』となります。以下同様。ずらす数によりバリエーションは25通り。今回のヒントは日付の『JULY(7月)』でした」。ふぇー、頭が悪いと地平線通信読めないね。[E

受験とクロニンジャーと地平線会議

■7月下旬までの半年余り、「受験生」と化していた。5年前に創設されたその心理系の資格(「公認心理師」という)に興味はあったが、大学院で勉強して受験資格が得られるとわかった時点で頭から消えていた。ところが特例措置とやらで今年まではいわゆる現任者も受けられることを、同僚との何気ない会話で知った。

◆調べてみて自分もギリ受験要件を満たしていると理解したのが昨年11月下旬。その後現任者講習会(動画視聴)に滑り込み、2月半ばにレポートを提出。それからいざ参考書を買い込んで読んでみるが、研究や統計分野などは言葉すらまったくわからない。α係数って? 重回帰分析って??(涙)

◆受験を決めたきっかけは、過去問を読んで「あ、わかるかも」と思ったからだ。それらは事例問題で、例えば「84歳の女性、夫と2人暮らし。2年前に大腿骨を骨折し手術を受けたがリハビリ拒否で退院。現在歩行困難で食事は不規則。入浴もあまりしていない。女性は易怒的で夫に暴言を浴びせる。遠方に住む長女から地域包括支援センターに相談があり訪問。認知症の疑いがある。

◆このときの認知症初期集中支援チームによる支援として最も適切なものを選べ(5択)」(答えは「初回訪問で、専門の医療機関への受診に向けた動機付けを夫婦に行う」)。但し、事例問題は配点こそ高めだが、問題数の割合は全体の4分の1程度であることをだいぶ後で知る。

◆この資格を得たとて、特に自分の環境に変化が生じるわけではない。ただ、障害のある人が通う施設から市役所に異動になって、高齢者・障害者虐待や困難事案などに唸り、とっ散らかした約10年の日々の回収になるかも、と思えたのだ。……でもやはり現実は甘くない。

◆心理学の歴史、心理検査、介入技法、脳・神経の働き、発達、分野別心理学、法律・制度……受験用なので深い知識は要らないが、対象範囲が結構広い。週末に参考書や過去問をじっくり、平日はさまざま出ているYouTube講座から自分に合いそうなものを選び、朝食や夕食、通勤時のほか、歯磨きや洗顔などの隙間時間にも浴びるように聴いてみた。

◆だが悲しいかな、五十路真っ只中の脳に、なにせ記憶は定着しない。今聴いたものがもう思い出せない……。YouTube講師の「今が記憶定着直前の時点であると信じる」という言葉を鵜呑みに、放り出したい気持ちをなだめながら隙間勉強を続けた。

◆計4時間154問の試験を乗り越えるイメージも持てないのに、容赦なく日は過ぎて前日。試験会場は神戸ポートアイランド。大阪の家から行けなくもないが、念のためホテルに前泊した。その夜は早めにベッドに潜り込んだが、全館管理のエアコンの「カチッ」という断続運転音が気になってしまい、案の定寝不足になった(と、このように、できなかったときのため、先に言い訳しておくことを「セルフハンディキャッピング」と呼ぶことも今回学んだ)。

◆会場は国際展示場というところで、文字通り展示物がたくさん並べられそうなだだっ広いフロアがいくつか。ワンフロアに1,000人くらいはいるだろうか。膝も満足に入らない長机に2人ずつ座らされ、隣の人が消しゴムを使うたびに机が揺れた。最後は途中退席する人たちに動揺しつつ、マークを塗りつぶす手も震えた(ああ、終わりがやってきた!)。そんなわけで、私の今年の夏はここで(気分的に)終わった。

◆勉強する中でクロニンジャー博士のパーソナリティ理論(7次元モデル)に目が留まった。拙い理解で恐縮だが、人間の性格(パーソナリティ)を「遺伝的な影響の強い4因子(変えられないもの)」と「環境的な影響の強い3因子(変えられるもの)」に分けていて、前者は「冒険好き(新しいものを追求しようとする性質)」、「心配性(損害を避けようとする性質)」、「人情家(人からほめられたり認められたりという“報酬”を求める気持ちが強い)」、「粘り強さ(あることを一生懸命に辛抱強く続ける傾向)」。

◆これら4つは、強いからいい、弱いからダメ、というものではなく、それぞれの因子の強さ弱さの組み合わせによって、その人の生まれつきの個性が形作られるのだそう。後者は「自尊心(自分という存在や自分のやり方に対する信頼感)」、「協調性(ほかの人の気持ちに敏感で思いやりの気持ちを持ちながら行動していくこと)」、「自己超越(現実生活を超えた自然や宇宙への関心)」で、遺伝的な因子が性格の骨組みであるのに対し、それに肉付けをして長所にしたり短所にしたりするのが環境的な3つの因子であると説明される。

◆この理論に触れて、「地平線会議に集まる人たちには「冒険好き」因子(ドーパミンと関連)が元来色濃くあるのではないか!」と思った次第です(自分に置き換えると、冒険好きに憧れる心配性。人情家傾向は強いがねばり強さが元来不足)。

◆合格発表は8月末。手応えもないまま、受験用の知識は最速で忘れていってはいるが、隙間時間に何もしないのが物足りなくなっており、今は毎朝身支度しながら「グレートジャーニーをもう一度」をもう一度視聴している。[中島ねこ

超人メスナーの号泣と歩くことへの想い

■6月最後の週末、奥多摩山水河原者ことヤマダタカシ隊長を誘って、閉館が1か月後に迫る神田神保町の岩波ホールへ出向いた。前号の地平線通信にも書いたヴェルナー・ヘルツォーク監督による『歩いて見た世界――ブルース・チャトウィンの足跡』をこの目に刻んでおかねばならない。加えて、当日はそのデビュー作『 In Patagonia 』の日本語訳をめるくまーる社から出版した環境設計家の芹沢高志氏のトークもあり、これは絶対に外せない。個人的にはその昔、アフガニスタンのカブールで出会った碧眼のイギリス人がブルース・チャトウィンその人だったのでは、という長年の疑門の解に迫れないかという思いもあった。

◆『 WINDING PATHS 』と『 FOTOGRAFIAS y CUADERNOS de VIAJE 』と題された2冊の写真集がその手掛かりになりそうな気がしていた。内容は重なる部分も多いが、後者はスペイン語版でLPサイズの大型本。リマの行き付けの老舗書店EL VIRREY で、顔なじみの書店員ホルヘに「お前が絶対に欲しがるだろうと思ってとっておいた」と押し売りされたものだ。確かに値は張ったが、生涯すぐ手の届く書棚に置きたくて即決言い値で購入。ちなみに、ペルーの書店では書籍代は交渉で決まるところが多い。

◆「写真と旅のノート」と題された写真集の中に、見開き8ページ分の自筆ノートの写真が収められている。特徴のある筆記体とヘタウマなイラストが散りばめられた、いかにもフィールドノート=野外手帳といった趣だ。そのページを見て、カブールの記憶が唐突に過ぎった。かの有名なモレスキンの手帳かは定かでないが、そのページにはどこか見覚えがあったのだ。

◆映画は畏友チャトウィンに向けた、ヘルツォーク監督の狂おしいまでの心情溢れるプライベートな作品。何度でも観て心の奥底に彼の不在を刻まなければ、世界が眼前に開けることはあり得ない。上映後の芹沢氏のトークでは、訪日した際に翻訳者として一緒に過ごした濃密な5時間の思い出が披露された。新宿ゴールデン街で全国の日本酒を次から次へと試しながら、9割以上は彼が話し続けていたという。カブールのあの男と同じ饒舌さだ。秀でた額に何が詰まっているのか気になった、というのも共通する。終了後のロビーでの立ち話と後日いただいたメールでも、出会ったのは彼本人に間違いないでしょうとのお墨付きをいただいたのであった。

◆閉館間近の岩波ホールでは、『極地への旅―ヴェルナー・ヘルツォーク監督レトロスペクティブ』と題された特集も企画され、本邦初公開も含む6作品が上映された。なかでも、超人登山家ラインホルト・メスナーの『ガッシャーブルーム 輝ける山』は見逃せない。1984年のガッシャーブルームI峰(別名ヒドンピーク)とII峰連続登攀に同行取材した記録だ。作中のメスナーはとにかく若くて元気で冷静かつシニカル。キャラバンの途中の露天風呂シーンでは、ザイルパートナーのハンス・カンマーランダーを「友だちではなくてただの知り合い」と突き放す。いい気分で湯につかっていたハンスの複雑な表情や、テントキーパーのフンザ人のおっさんにマッサージと称して身体中をもみくちゃにされるメスナーの子どものような反応がおかしい。

◆が、さすがニュー・ジャーマン・シネマの旗手と称されるヘルツォークの面目躍如的シーンは、アタック前夜のインタビューだ。ナンガパルバットで弟ギュンターを失ったディアミール壁の下降に突っ込む、ヘルツォークのどぎつい迫り方。当初は淡々と答えていたメスナーが、次第に自己崩壊するような際どいシーンが続く。弟の遭難死を母親に伝えた時は、と問われたメスナーは感情の嵐に襲われたように大号泣! 超人メスナーをここまで追い詰めるのも凄いが、微妙な距離感を維持した問いもまた、精神と動態の差異を見つめる眼差しを感じさせる。

◆10日後、登頂に成功しベースキャンプに戻り着いたメスナーは、以前にも増した冷徹な態度で「登山とは登ることではなくて進むことだ。オレの終わりは世界の終わりだ!」と嘯く。しばらく空白があった後、「どこまでも進んで行きたい」とメスナーが続けると、ヘルツォークは「私も同じことを考えていたんだ」と応じる。ドキュメンタリー映像の記録性を超えた、個々の情念が迸るシーンだ。

◆上映後のトークで字幕翻訳を担当したドイツ映画研究者の渋谷哲也教授による解説では、メスナーの返事「一緒に行こう!」は横に並んで進むことではなく、ばらばらに歩いて行くイメージとのこと。目指す地点も違い速度も異なる個人が、自らの足でそれぞれ個としてのパフォーマンスを高めていくしか、世界を認識する方法は存在しないことを突き付けられた気がしている。それは『歩いて見た世界』のラストシーンに映しだされた、木立の緑のトンネルを抜ける小道を思わせる。いずれも終着点ではなく、出発点を示唆するものなのだろう。[Zzz-カーニバル評論家@悪運尽き果てついにコロナ感染! これマジにつらいっ!!]

初秋の森から テンバのことなど

■少し時間をさかのぼります。今年の5月13日、ネパールの統一地方選挙がありました。2017年5月、新しい選挙制度のもとで行われた地方自治体の選挙から5年。2022年の今年、わがテンバ(Temba Lama 45歳)が推されてスルヤ党(共産党系)から地方行政区=ゴサイクンダ地方自治共同体・ランタン地区の委員長に立候補しました。対抗馬はコングレス党のトゥンドゥップ(Thundup 51歳)、元ランタン村長リンジン・ドルジェ(故人)の長男です。スルヤ党かコングレス党か、票の獲得数で、委員長以下の女性を含む4人の体制で向こう5年間の自治体運営を担います。

◆テンバはエコツーリズム関係の仕事をしていますから、まさかと思いました。ただ、選挙の1か月くらい前に村人から出馬要請を受けているがどうしよう、というような趣旨の電話があったけれど、そのときは既に決心をしていたようで、もし村長になればどういうことを実現するつもりなのかと問うと、教育、経済、健康、文化について、日本でも実現不可能な、例えば教育と医療の無償化などと答えて、びっくりさせました。

◆彼のリーダーシップは2015年の大震災のおり、村人を一人も取り残さず、カトマンドゥに避難させ、ランタン復興のために政治的経済的な手腕を発揮したことは、ラスワ郡内外ではよく知られていたと思います。

◆投開票の結果は数日後に、テンバの姪ツォ・ペーマのFacebookで知りました。勝利したのは再挑戦のコングレス党でした。ツォ・ペーマが言います。勝っても負けてもテンバは誇れる候補者だった。

◆テンバの挑戦も終わって3か月。依然として続くコロナ禍、2019年以来現地へは行けていません。ゾモ普及協会をはじめとして地平線会議のみなさんからも最初からずっと、足かけ7年応援していただきました。もう大半の人がプロジェクトは終了したと思っているようですが、本当はまだ最終の青写真も描けていない状態なのです。いろいろ予測不能なことも発生し、無理もありませんが、私的には「次代にバトンタッチ!」まではなんとか頑張りたいと思っています。

◆村の状況もすごく変化していると思います。観光地として再生したい村人、従来型の農業や牧畜のことなど気になることばかりですが、5月の統一地方選挙で、住民に担がれた息子のテンバが村長選挙に敗れたときの状況は、ちょっと感動的でした。いつもは勝っても負けても、内部または両陣営で殴り合いの喧嘩になるのが(ネパール風の)地方選挙でした。しかし、しかし、その日の村人の様子を動画で見ると、全然違うのです。想像もしていない展開でした。

◆村の道に長く列をなした支援者たちは、テンバたち4人の陣営の候補たちの健闘をたたえ、カター布を贈り、テンバは一人ひとりに笑顔で感謝を述べていました。ただ単純にすごいなと思いました。母親のリクチも空の上から微笑んでいるだろうと。村を見つめてきた私には、この光景は希望そのものに思えました。

◆私たち(私)が描く酪農プロジェクトの着地点がうまく見つからなくとも、彼らに託してもいいのかもしれない。その方がうまくいくかもしれない。そう思わせました。

◆この足尾の森の暮らしも10月がくれば3年目に入ります。あたりは秋の気配が濃く、木々の葉はまだ緑なのに、気温は日中でも22℃前後。ウワミズザクラの暗紅色に熟れた実を求めてクマも出没し始めました。キビタキやルリビタキも声かけあって、南へ出かける準備をしているみたいです。[ランタン谷再訪の日を待ちわびつつ 貞兼綾子 ランタンプラン]


先月号の発送請負人

■地平線通信519号(2022年7月号)は、7月20日に印刷、封入作業をし、新宿局に預けました。この日は、森井祐介さんがレイアウトを終え、さて版下を印刷、という段階で突如プリンターが動かなくなり、森井さんも私(まだ自宅にいました)も青くなりました。きょうは、印刷まではムリかも、となかば覚悟したのですが、救世主が現れた。◆我らが落合大祐さんがいつもより早めに森井さん宅に着いてくれたのです。事態を察した落合さんは、森井さんのパソコンにある原稿をクラウドに登録して、近くのセブンイレブンで印刷し、それを車谷建太君が受けとり、印刷するという離れ業をやってのけました。この日は印刷はムリか、と覚悟したので、ほんとうにありがたかった。◆作業は遅れたのですが、印刷主任の車谷君以下、いつもの面々が頑張ってくれ、北京のぎょうざほか時間を短縮して夕食し、無事21時前には新宿局に届けられました。がんばってくれたのは以下の皆さんです。落合君、皆さん、ほんとうにありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 落合大祐 中嶋敦子 長岡竜介 白根全 伊藤里香 光菅修 江本嘉伸


今月の窓

「一度死んだから」と言われた男 斉藤実

1981年11月10日に『地平線通信第25号』が出された。当時ははがき通信のみ、しかも手書きだった。こんな内容である。「斉藤実さんを御存知でしょうか? 手製のゴムボートいかだ『へのかっぱ号』で何度となく海の漂流実験をしてきた冒険家です。山の遭難にくらべ社会的関心の低い海難と真っ向から取り組んだ斉藤さんは海水を飲みながらどれだけ生き延びられるか(正確には海水3分の1、真水3分の2の混合水)自ら大海に身を漂わせ、そして奇跡的に帰ってきました。文字通り生命をかけたその壮絶な行動記録は、童心社刊『太平洋漂流実験50日』に淡々と述べられています。(以下略)」 宏子さんとは1990年4月に結婚、1999年11月22日に逝去するまでなごやかな家庭をつくられた。23年目の夏を迎え夫人が語る。

■私の人生に救世主のように現れ、十年間を共に暮らした斉藤実の、知られざる姿を、書くことによって探るチャンスを下さった江本さん、ありがとうございます。斉藤と漂流実験、続く交通事故現場の撮影を共にし、私以上に斉藤とつきあったカメラマン、市川任男氏と語りあいながら書きました。

◆昭和6年、千葉県は印旛郡安食村(現在の栄町)に誕生。歯医者の末っ子です。上二人の兄は秀才で、どこに行っても「お前の兄さんは……」と引きあいに出され、迷惑だった、とか。農家出身の父上は苦学し(農家の貧しさをご存知故か)、貧しい人から治療代を受け取らず、慕われ、まだ夜が明けない暗いうちから患者さんが並んでおられたとか。

◆戦時になると、「歯が痛くなっては兵隊さんが可哀想」と、昼夜、兵隊さんを治療し、倒れ、終戦3日前に亡くなったと聞きました。「その戦争体験が斉藤さんの原点にある」「お上の言うことを丸ごと信ぜず、自分で調べ、自分で考え、決めて責任を取る生き方の」と市川さんは言われます。

◆ゆったり流れる利根川のほとり、印旛沼の自然の中を自由に走り回りながらも、厳しい躾も受けたようでした。たとえば登校前には姉、兄たちと一緒に、家中の掃除を課せられたそうで、大きな家が嫌いになりました。また、印旛沼の浮島で夜明かし計画をたて、サテ、真暗な夜がくると、他の子は迎えに来た親と共に泣きながら帰ってしまい、とうとう一人ぽっちになったそうです。「あなたの親は迎えに来なかったの?」「あ〜来るもんか。『ヤル』と言ってやらないで帰ったら叱られる」と。東京育ちの私にとって涎の出るお話でした。「幸せな子供時代ね」と言うと「そ〜かあ〜」でした。

◆大学は演劇部。アルバイトは歌舞伎の切符モギ。酔うと歌舞伎の定番を演じてくれました。就職した会社が倒産し、友人とPR映画会社を立ち上げました。売り上げは上がったものの、良心に添わない日々で、結局退き、心身の鍛え直しも兼ねて、日本自転車旅行に出掛けました(その後で計5回しました)。「日本の最果て、流氷流れる海岸の番屋で、黙々と網の修理をする男たちを見た! お魚で一杯になった舟を迎え、唱いながら網をたぐり寄せる女たちの足取りはダンスのように美しかった! このシーンは自分を変えた」と言いました。

◆6か月の自転車旅行を惜しみつつ終えて、海難事故の多発した、近海北洋の海での漁業取材をはじめました。北洋の海は漁師の墓場。未亡人作りの海と恐れられていました。そこでカメラを廻した市川さんの体験です。「荒れ狂う真冬の海での漁船の操業を撮るために、斉藤さんは『今日は、マストの上から撮ります』と言ったのですね……淡々と……特別なことじゃないみたいに……ボク、登りました」。

◆その北洋取材中に大型台風にあい、仲間の船が遭難。ゴムボートに乗った船員は翌日救助されたのですが、ボートには既に2名の死亡者がありました。北洋といえどもまだ9月。数時間後に何故死んだのか……その究明から漂流実験ははじまりました(そのいきさつは彼の著書『太平洋漂流実験50日』にあるので省きます)。

◆第4次漂流実験で乗るボートを製作中の話。市川さんもその製作に加わられました。「作業が終わり、作業靴を脱いだとき、斉藤さんが『あれ、親指の爪が剥がれている』と。……内心の怒りや痛みを外に出さない人でしたね」と。

◆母上の話もよくしてくれました。「父上は戦争の過労で亡くなった。そして母の苦労が始まった」と。「料理の上手な優しい母だった」(最期のころ、母上のレシピを教えてくれましたが、満足してもらえませんでした)。少年のころの、あの印旛沼の浮島の出来事のように『ヤル』と宣言してみたものの、死への恐れがふっ切れないころの出来事です。漂流実験のため、3帖のアパートにテントを張って寝起きしていました。

◆「ある夜、酔って帰ると、白い衣を着た母が居て……。『アッ! カアチャン』と叫び、見ると、自分のワイシャツで、その晩、母が夢に現れました。「みのる、世のため、人のためです。おやりなさい」と。「恐くとも、決心はつきました」と(何だか“マリア様のご出現”の話を聞くようでした。私はキリスト教、カトリック信者です。彼も逝く2週間前に、自分の意思を持って洗礼を受けました)。

◆昭和50年10月7日に出航して、同11月25日、台風の中、奇跡的に生還しました。その知らせを聞き、翌日、市川さんたちが病院に訪れたときの話です。記者会見どころではなく病院に運ばれたのですが、翌日の朝刊に「もうコリゴリ」と言っているとあり、それを見て「斉藤さんは、ガリガリに痩せて、全身打撲で痛む体をベッドから起こして、『モウ一度ヤル!』と。斉藤さんといえばその場面が目に浮かびます」と。

◆この漂流実験は昭和40年から50年の10年をかけ、その間“お上”海上保安庁からはヤッカイ者扱い……イエそれ以上のお叱りも受けたようでした。その後、約3年の治療等のブランクを経て、交通安全教育映画に取り組み、逝くまで続きました。「一人の命が助かればいい」と言って。

◆救急車と一緒に現場に行き、撮りました。当時は“交通戦争”といわれたくらい事故多発で、事故現場の映像はボカシ処理もされませんでした。目を覆うばかりの痛ましさに映写技師が気持ち悪くなったくらいでした。

◆安協(全日本交通安全協会)の方は「悲惨すぎる」と。「これが現実です」と応じても、推薦は取れませんでしたので、推薦なしで出したところ、大変な注文で、安協は後から推薦を出したとの経緯があったそうです。漂流実験のときのように、交通映画をつくるときも、“お上”安協さんとやりあい、結局、よい(?)同志になりました。

◆交通問題を研究するうち、故・平尾収東大名誉教授のご著書に出合い、「これだ!」と共感して、先生をお訪ねし、以後、平尾理論の映像化に取り組みました。先生は逝かれる1週間前まで、ベッドの上でシナリオを直して下さいました。

◆先生は“人動車論”で国際グランプリを受けられ、運転はルールを守るだけでなく、危険を予測――即ち“だろう”ではなく“かもしれない”運転を提案、車間距離を1秒・2秒で測るやり方も紹介なさいました。

◆これも最初は安協の方のご理解は得られず、思わず「こんなことも判らないのか」が口から飛び出してしまい、「ドウセ、バカですよ」と物別れになった一幕も。結局粘り続け、“かもしれない運転”は定説となり、現在も教則本にのっています。車間距離を1秒、2秒の測り方も。「斉藤さんは工夫の人だったね。CGのないあの時代、磁石をつけた紙の車を動かして、事故現場を再現したり」と市川さん。

◆結局、反対、無理解をバネにして、あきらめずに考え抜き、扉を開けた人でした。大声立てずに。そして、「映画一本つくると胃が痛くなる」と。

◆第5次漂流実験は肝炎が治り切らず中止で、葛藤があったようですが、「やっていたら死んでいただろうね。肝炎が助けてくれた」と言い、肝硬変でもつくり続け、肝臓癌で亡くなりました。

◆書きながら、彼の行動の“何故”を思います。何が、命がけの漂流実験に駆り立てたのか……。何故自転車旅行だったのか……。思い出が繰り広げられ、切なくなります。よく話してくれた父上のこと……深い尊敬と畏れがありました。何の悪さをしたのでしょうか、刀を持って叱られた、とか……。

◆父上との楽しいことも話してくれました。母上を大切になさった話とか。彼の行動には秘められた“愛”が感じられるのです。東映の方が「斉藤さんの作品は厳しい表現に愛が感じられる」とおっしゃってくださいました。写真の父上のお顔は厳しい眼に、お口はほほえんでおられます。母上は慎ましい感じです。手帖に『厳しかった父、優しかった母』と書いてありました。ご両親から“愛”を教えていただいたのだと思います。そしてジェントルマンでした。ヨーロッパから来たお嬢さんもそう言いました。

◆結婚にあたって、斉藤実と面談した神父さんが「斉藤さんの言うことを聞いていれば問題はないよ」と私に言われました。母も同じことを言いました。彼は、自分を押し出すというか、手柄を誇るというか、ウヌボレたところを思い出せません。

◆姉上が言われた言葉、「一度死んだから」と。危険な仕事を、命をかけた冒険(その後の病気もかな)が彼を新生させたのだとの暗示です。広い、大きな世界を旅し、純粋な自然の中での修行僧みたいですね。サラリと他者に尽くすことができました。私にも。

◆旅する地平線会議の人生塾のメッセージの一助になれたら、きっと彼は天から喜んでいることでしょう。彼の映画のエンディングは“平和”でした。[2022年7月27日 斉藤宏子

斉藤実さんの新書版『太平洋漂流実験50日』(2013年6月第14刷 700円)を宏子夫人が地平線会議の人々に贈りたい、とありがたい申し出がありました。斉藤さんのことを知らない若い人はもちろん、知ってはいるが是非読んでみたい、というベテラン世代にも、価値ある一冊と思います。ご希望の方は300円分の切手を添えて江本宛てにお申し込みください。50部ほどありますので、先着順とさせていただきます。江本の住所は最終ページに。

あとがき

■フロントで少し触れましたが、今月はレイアウト一手引き受けだったベテラン、森井祐介さんが体調を壊して入院、急遽、新垣亜美さんが代役を引き受けてくれました。代役といっても20ページに及ぶ通信をはじめてこなすのだから大仕事。通信作業のベテランたちがメーリングリストで的確なアドバイスをしてくれ、なんとか印刷にこぎつけました。

◆新垣さんは屋久島で教師を勤めていたときに、ワードでのレイアウト作業を経験したそうです。ワードでは無理か、と無知な私など考えたのですが、ベテランたちの親身な応援もあって見事仕上げてくれました。森井さんは1か月は入院するとのことなので来月も今回のペースで乗りきるつもりです。

◆地平線通信を作りはじめて以来、私は常に常に最後の仕上がりを手にして帰宅したものですが、今月だけは慎重を期して車谷建太君以下に任せ、自宅で待機することにします。ここまでせっかく維持してきた健康体を壊してはならぬ、との判断ですが、仕上がりを手にできないのは少しさびしいね。[江本嘉伸


『木の精の巻』(作:長野亮之介)
表4 木の精の巻

《画像をクリックするとイラストを拡大表示します》


■今月の地平線報告会は 中止 します

今月も地平線報告会は中止します。
オミクロン株の感染が収束しないため、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。


地平線通信 520号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:新垣亜美/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2022年8月24日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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