2022年7月の地平線通信

7月の地平線通信・519号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

7月20日。猛暑がぶり返して東京の今日の予想最高気温は36度になるらしい。今年は、6月25日から7月3日まで9日連続の猛暑日が続くという記録(これまでは2015年7月31日から8月7日までの8日間)に加え、関東甲信地方は6月27日には「梅雨明け」が宣言されるという異常気象ぶり。だからというわけではないだろうが、参院選投票日(7月10日)直前に起きた事件は、異常過ぎた。

◆7月8日午前11時32分、近鉄大和西大寺駅前で参院選応援演説中の安倍晋三元首相が男に撃たれ、午後5時過ぎ亡くなった。41才の男が逮捕され、手製の銃が押収されたが、驚くべきはその動機だった。韓国に発する宗教、統一教会(現在は世界平和統一家庭連合)に母親が入れ上げ、多額の現金を献金してしまった。家庭を破壊した元凶、教祖の文鮮明夫人の韓鶴子を狙ったが近づけず、この宗教団体を支援している安倍元首相を狙ったというのだ。

◆世界でその名を知られ、いろいろ問題もある安倍さんだが、まさかまさかこんな人生の結末が待っているとは。政府は安倍さんの死を悼むため、9月27日、日本武道館で「国葬」を行う、という。

◆統一教会と聞くと、忘れられない思い出がある。「集団結婚式」が話題になった1990年頃、新聞記者時代のことだった。入信した娘さんを教会から脱会させたい、力を貸してほしいと、ある婦人から真剣な相談を受けたのだ。話をお聞きするだけで、娘さんと会うまでにはいかなかった(実はそれほど親しい関係ではなかったから、相談もしやすかったのだろう)。その後、娘さんがどうしたかは知らない。ただ、あの時のにわか勉強で、一度信者になった人を脱会させたいなら、家族は生涯をかけて戦うしかない、ということを聞いたのだ。そこまでの覚悟と努力がなければ脱会させることは難しいのかと、戦慄した。直後にオウム真理教の事件が出てきて、統一教会の問題は社会的には少しずつ忘れ去られていった。

◆7月6日、電話を受けた。「沢木と申します」。作家の沢木耕太郎さんだった。『深夜特急』はじめ数多くの旅のドキュメンタリーで知られ、山野井泰史・妙子夫妻のギャチュンカンからの生還を書いた『凍』はとりわけ印象深い。実は……と話されたことに驚いた。なんと沢木さん、今度は西川一三さんの本を書かれるらしい。

◆明治から大正、昭和にかけてチベットを目指した10人の日本人を追った『西蔵漂泊』(山と溪谷社刊)という上下巻の本を、私は書いたことがある。もう30年も前のことで、2017年には『新編 西蔵漂泊』として文庫本1冊ともなった。

◆その中で直接会って話を聞けたのは野元甚蔵、西川一三、木村肥佐生の3人だった。中でも破天荒の旅を続け、その記録を『秘境西域八年の潜行』という3巻本に遺した西川さんは、何度も盛岡に訪ね、また東京にもおいで願った忘れられない人である。『西蔵漂泊』の出版記念の会、そして私が仲間たちと企画した「チベットと日本の百年」というフォーラムにも、鹿児島県に住む野元甚蔵さんとともに参加してくれ、「チベット人はきらいだ! モンゴル人の方がいい」などと言い放ち、満席の聴衆を圧倒した。

◆2008年2月、89才で逝去。あの時は信州の山小屋から急いで下り、盛岡に駆けつけた。ご家族、友人代表の方と相談し、青春の時代、モンゴル、チベットと歩き通した故人の生き方を私が語らせていただいた。変わり者と見られていた西川さんのことを知ってほしい。大先達への、せめてもの恩返しの気持ちだった。沢木さんから久々に西川さんの名を聞いて懐かしかった。

◆7月7日、長野市の信濃毎日新聞社に行った。11回目となる梅棹忠夫山と探検文学賞の受賞式に選考委員として参加したのだ。今年は、人類学者、川瀬慈(いつし)さんの『エチオピア高原の吟遊詩人』(音楽之友社)に決まった。音楽が大事な要素なので、記念講演では「アズマリ」と呼ばれる街の楽士たちの生き生きとした日々が映像と音楽で紹介され、実に興味深かった。

◆「ルソフォビア(ロシア嫌悪症)」。プーチン自身もよく使う言葉らしい。2月24日のロシアの侵攻からもう5か月。2、3日で終わるか、と思われた戦いはウクライナの本気の反撃、米欧の支援でまだまだ行き先は見えない。きのう19日にはロシア側に情報を漏洩させた責任を問われ、ウクライナの情報機関と検察のトップの解任が伝えられた。

◆東京では一時はおさまるかと思われたコロナ禍はきのうまで8日連続で10000人を超え、まさに「第7波」が襲いかかる状況となった。BA.5なるオミクロン株の新たな亜種の拡散が原因らしい。安倍元首相が狙撃された8日、高齢者の私は4回目のワクチン接種を受けた。そろそろ地平線報告会を再開できるか、と考えはじめた矢先だったが、いま少し様子を見ます。

◆後日、『新潮』8月号が届いた。表紙に大きく「沢木耕太郎 旅の真髄を問う超大型ノンフィクション(第一部・460枚)」『天路の旅人』とある。数ページ開いて驚いた。え? 西川一三さんが書き、ふさ子夫人が清書した原稿用紙3200枚がいま沢木さんのもとにある?! いずれ本にもなるのであろう。皆さん、注目を。[江本嘉伸


地平線ポストから

糞土塾を公開します

■動物植物菌類を問わずすべての生き物は、誕生し、食べてウンコして成長し、子孫を残して次世代に命を引継ぎ、死を迎えます。そしてウンコを定義すれば、食物(生きるために取り入れる物)を消化・吸収した後の残りカスで、捨てるべきモノ。つまり、植物は根で吸い上げた無機養分や光合成で取り込む二酸化炭素が食物で、排泄する酸素がウンコです。一方の菌類は、動植物の死骸やウンコを食べて(腐らせて)捨てる、土を肥やす無機養分と二酸化炭素がウンコです。ということは、菌類のウンコが植物を生かし、植物のウンコのお陰で全ての生き物は呼吸して生きているわけです。自分にとっては無用なウンコでさえ、他の生き物には命の素になるように、死も単に自分にとっての終わりではなく、うまく他に繋ぐことができれば、「命」はさらに長く大きく発展していくのではないかと思うようになりました。

◆私は何年か前に車に跳ね飛ばされ、さらに舌癌になったりして、いつ何時死がやってくるかわからないことを実感しました。また、対談ふんだん*などで「しあわせな死」を探究してきた結果、自身の持っているモノのすべてを、夢も知識も財産も、次世代を担う若者に引き継いでもらうことで、それを実現できるのではないかと確信したのです。糞土塾の開設を決意し、それに向けて動き出したのは2年前の秋でした。

◆私の一番の願いは、糞土思想を広めて人と自然の共生社会を実現すること。その拠点となる糞土塾を立ち上げ、若い次世代に引き継いでもらうために、先ずは古民家の母屋を改修し、宿泊可能なイベントスペースとして糞土庵を造りました。続いて、誰でも心置きなく野糞を楽しんだりできる林:プープランドを整備し、今年に入ると食と糞の循環を叶える畑:野良ガーデンも動き始めました。

◆そんな矢先に、関野吉晴さんが企画する次の映画『ウンコと死体の復権』の撮影が始まったのです。ウンコに関しては、その分解の様子を撮るための舞台としてプープランドが選ばれました。関野さんは6月後半から毎週のように、撮影と調査、そしてご自身も撮影用の野糞をするために、プープランドに通って来ています。糞土庵でのイベントを何にしようかと考えていた私は、この機会を捉えて関野さんに講演をお願いしたところ、快く引き受けていただけました。

◆糞土塾の一般公開に漕ぎ着けるまでには、予想以上の苦労がありました。築200年は経っているだろうと思われる古い母屋には、物を捨てられない明治・大正生まれの親世代以前からのゴミが溢れ返り、しばらく空き家になっていた床はベコベコに腐って全て張り替え。東日本大震災の激しい揺れに耐えたものの、柱や敷居は大きく傾き、開かず閉まらずの戸や扉。特に茅葺き屋根の内部を活かして造った屋根裏部屋では、分厚く積もった煤や大量の藁屑にハクビシンのウンコの山など、軽トラック何台分ものゴミ出しで連日真っ黒け。それでもなんとか去年の夏までに改修工事はひととおり終わり、寝泊まりできるまでになりました。

◆林業の衰退などで長年放置されていたプープランドの林は、私が野糞に行く以外はほとんど人気がなく、道も消えかかって藪化し、あちこち倒木だらけ。遠く兵庫からの助っ人を得て、枯木の伐採や道造り、階段造りから始まって、ようやく気持ちの良い野糞天国の様相を呈してきました。

◆近所の農家に貸してあった畑は、その方が体調を崩した数年前から耕作放棄地となり、イノシシが跋扈する草ぼうぼうの有様でした。それがこの2月にいきなり、夢はお百姓さんになること、という糞女師(ふんにょし):のんちゃんが現れました。そのお陰でようやく、草刈りと電気柵の設置が始まり、野良ガーデンがスタートしたのはこの春のことでした。

◆そして、のんちゃんのガンバリでようやく出来上がった糞土塾のホームページ**も、公開できたのはつい先日の6月27日のこと。それまでは知り合いとその仲間だけ限定で、こっそり使っていた糞土塾を一般公開に踏み切った途端、いきなり決定した関野さんの講演会とプープランドが舞台の映画作り。絶妙としかいいようのない、何というタイミングのよさでしょう。「しあわせな死」にグッと近づけた嬉しさに浸っています。

◆じつは一昨年に古希を迎えた私ですが、今年になって歯が3本も次々に欠けてしまいました。昨年までは虫歯はあっても歯の欠損は2本だけでしたから、大幅な衰弱です。最近は食べることが少々困難になってきました。そしてもう一つ、去年まではめったなことではありえなかった「ウンコ漏らし」が、この半年で5回もあったのです。それも全て、野糞に行ったときの出来事です。林の斜面を登っている時にアッと感じたこともあれば、すんでのところで間に合わず、パンツを下ろす直前に出てしまったり……。最悪なのは、まるで自覚がないままに、野糞が済んでパンツを上げたときに初めて異変を知ったことです。肛門括約筋の急激な衰えは、糞土師の最期が迫ってきたことの現れなのでしょうか。

◆糞土塾の準備を始めた2020年秋からこの方、心身共にゆったりする時間はまるでありませんでした。これが人生最後の大仕事、という気持ちで取り組んできたためです。知らず知らずのうちに、精神も肉体も疲弊して、それすら感じられないほど参っているのでしょうか。しかし時間的に長生きするよりも、かつての長野淳子さんのように、「生ききりたい」という想いで日々を送りたいと考えています。

◆何はともあれ、こうして動き始めた糞土塾です。多くの方に積極的に活用していただき、無事次世代に引き継げることを願っています。[糞土師 伊沢正名

* 対談ふんだん http://taidanfundan.com
** 糞土塾ホームページ https://fundojuku.mystrikingly.com/

来年のプロジェクト完走に向けて

■7月16日から4日間、山形(白雪川―鳥海山)と宮城(阿武隈川蔵王山)を走ってくる。8月は徳島(吉野川―剣山)、9月には福島(阿賀野川―燧ヶ岳)を走る予定だ。7年目となるZEROtoSUMMIT(海から各都道府県の最高峰まで、一筋の川ぞいに走るプロジェクト。以下「ゼロサミ」)を今年も走っている。

◆徳島は、先日亡くなられた野田知佑さんへのオマージュ。学生時代に出会っていなければゼロサミが生まれることはなかった。その氏を偲びつつ、真夏の吉野川と戯れてきたい。暑ければ飛び込み、夜は焚き火をしながら美味い酒を飲んでこよう。

◆いつも河口から登りっぱなしだが、この2年間はとりわけデコボコ道だった。2020年前半はそれどころではなかったが、意を決して7月から再開。群馬、北海道、富山、石川、佐賀、長崎を、息を潜めながら走った。

◆2021年5月には香川、高知、愛媛へ。お遍路の四国なら旅人に寛容だろうと踏んだのだが、中高年がこぞって外出自粛中で、どの店も休業中なのには参った。広島、新潟、福井を経て、潮目の変化を感じたのは同年11月の山口、島根。路上で話しかけられても、東京から来たと相手の目を見て言えるようになった。今年5月には平常が戻ったことを感じながら、三重、奈良、和歌山、大阪を走ってきた。

◆順調に進んでいるように見えるかもしれないが、その実、回を重ねるごとに悩みは深まっていた。水面下で進めていた海外遠征企画がコロナ禍で吹き飛び、国内篇に集中することに。それ自体に問題はなかったが、目玉企画を白紙撤回したこともあり、思うように評価されない焦りが募ってきた。そんな悩みをある方に相談したところ、「尊敬されたがっているように見える」と痛烈な指摘を受けた。

◆そのとおりだった。走りながらその土地の代弁者を気取っていた。しかし、たった一度走った程度でその土地を理解したと思っているなら不遜だし、そこに暮らす人々にも失礼だ。評価を求めるあまり、いつの間にか「評価に値する自分」を演じていた。それに気づいたとき、自分にできること、自分がやるべきこと、そして本当にやりたいことがやっとクリアになった。

◆もしあのまま海外に出ていたら、今ごろきっと破綻していた。この2年間は、ゼロサミのコンセプトを強固にするために必要な熟成期間だったのだろう。年内にゼロサミは計42座に達し、来年には47座を完走する見込みだ。地に足をつけ、まずは国内篇をしっかり完結させたい。[二神浩晃

幻の剱大滝の撮影に成功!

■ご無沙汰しております。以前にもご紹介いただいた、中島健郎と石井邦彦のグレートヒマラヤトレイルチームが、利尻山に続いて、剱大滝の撮影に成功しました。5月の連休明け、梅雨前線が近づく前のわずかなチャンスを狙って行きました。通常は、早ければ雪崩の危険があり、遅ければ雪渓の状態が悪く、剱大滝に近づくことさえ難しいといわれる所なのですが、今年は例年になく残雪が多く、無事に大滝完登を果たせました。地平線会議の皆さまに興味を持っていただける番組です。何卒よろしくお願いいたします。[山田和也

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「地球トラベラー 完登めざせ 幻の剱大滝」(89分)
 NHK BSプレミアム:2022/7/23(土)午後6:00〜7:29
 NHK BS4K:2022/7/30(土)午後1:30〜2:59

《番組内容》
「誰も見たことがない画を撮りたい」という思いから世界最高所の縦走路“グレートヒマラヤトレイル”に挑んできた日本を代表するクライマー中島健郎とカメラマン石井邦彦、二人はコロナ禍で撮影の場を日本に移し撮影を続けています。樹氷に覆われた亜熱帯屋久島、紅葉に彩られた「幻の滝」剱大滝、風雪が吹きすさぶ利尻山、日本の自然のダイナミックな姿を紹介することができました。そして、今回は剱大滝に再挑戦、高さ300メートルの深く狭いV字峡谷を流れ落ちる大滝を登り切り、その全容をドローンで撮影することができました。「音はすれども姿は見えぬ」といわれてきた幻の大滝の姿です。「地球トラベラー」の取材を続けていますと、日本こそ「秘境」の宝庫ではないかという思いが強くなってきます。ご覧いただけたら幸いです。

日本とモンゴルとの国交50年に

■安倍元総理が選挙演説中凶弾に倒れました。故浅沼社会党委員長や長崎市長など日本で時に見てきた政治家をめがけての暗殺の時代は終わったと思っていましたので、ショックを受けました。謹んでご冥福を祈ります。後ろからの暗殺に神経をつかった「ゴルゴ13」を見ても、背中に警備のすきがあったようで残念です。社会主義時代のモンゴル要人の訪日で警備は後ろをとくにお願いしたものです。私自身も一連託生ですので。

◆安倍元総理は、2013年3月に2泊、2015年10月に中央アジア訪問途次立ち寄られ、モンゴルとの第8回目の首脳会談をされており、かけ離れてモンゴルをいちばん大事にされた日本の首相でした。モンゴル関係者はとても残念に思っていることと思います。

◆さて、今年の2月24日に日本とモンゴルが外交関係を樹立して50年になりました。おつきあいしましょうと国と国が決めた日を外交関係樹立の日としますと国交とは国と国が交際している状態でそれが50年になりましたということになろうかと思います。外交関係樹立の交渉過程は恋愛のようなもので、おたがいお付き合いしたいのに、いざ相手がくると素っ気なくしたり、両方もりあがっているのに一歩がでなかったりです。

◆日本とモンゴルの外務省の担当部署の者が直接接触したその最初の一歩を私は経験し、外交関係樹立になんとなく関係してしまいました。モンゴル語が専門であり、当初は担当はひとりしかいなかったから仕方なかったのですが、先輩に崎山さんという方がおられ、いつも巡り合わせは崎山さんが外国におられ、馬があい、外交関係樹立の問題で4回もともに出張させていただきました。ただ、3回目は私が香港からモスクワで合流しました。しかし今日本とモンゴルを通じて唯一のインフォーマントになってしまいました。「語り部」というところでしょうか、あちこち今年はお座敷がかかります。

◆2001年モンゴル革命80周年のとき当時の科学アカデミー総裁のチャドラーさんが私に両国関係史を書くよう、アカデミーで出版するとおっしゃってくださいました。「両国関係の始まりの歴史を書けと言われれば、記録や聞き書きで書く人はいるでしょう。でも当事者は今や貴方だけです。日本にとりモンゴルとの関係は小さいことかもしれませんがモンゴルにとり日本関係は大きいのです。貴方とともにモンゴルの歴史が失われますよ」と言いました。心にささりました。でも生来の怠惰、それに当時モンゴルは二年連続の大ゾド(雪害)で、私はトップドナー国の出先として、ゾド対策に東奔西走していました。しかし、その後も機会がなく、ずぼらしてきました。

◆一昨年からモンゴル外務省の『回想集11』、同13集とか、NEANETのホームページとか、友人の大学退職記念出版の一部にとかぼつぼつ書き始めています。モンゴル仲間の学会でも本にしてくれるといいます。生きているうちに完成するかわかりません。それに怠惰のクセが頭をそろそろもたげはじめています。一時しきりにさえずっていた鳥たちが近頃静かだなとかの方がだんだん関心の中心になっています。

◆実は例により江本さんからの依頼で、令夫人北村さんに鳥とその鳴き声の一致をご指南得た話、アオスジアゲハ「青ちゃん」を羽化させた話を書きましたら見事ボツ、7.11はモンゴルのナショナルデーです、モンゴルにちなんだものを書くようにと言われました、ほかに藝がないので、かいつまんで紙一枚に外交関係樹立の経緯を書きました。これから書くストーリーはかいつまんで書くとこれかと、なにかしらけてしまいました。最近饒舌になりがちでしたが紙一枚は上出来です。「紙一枚で人を納得させて、場合により予算もとる」と紙一枚に現役時代は真剣勝負をかけていました。その意味では満足ですが、心のどこかでそんなことではないだろうとの声がしていました。

◆そこでいま、この記念年にすこし考えていることを書かせてもらいました。

◆私のモンゴルとの国交50周年は、北東アジア6ヵ国(順不同でモンゴル、中国、韓国、ロシア、北朝鮮、日本)の中に日本が唯一の親友モンゴルを得たことではないかと思います。

◆外交関係樹立の直前、日本政府は親善使節団を派遣しました。その最後の行程でダルハン向け夜行列車で行きました。走行中中国の林彪機が隣県で墜落というおまけもありました。行き先のダルハン市で学校参観があり、小学4年生の授業がありました。近くの女生徒に日本のことを知っているかと聞きましたら、「敵」と答えました。8歳上がりですから当時11歳でした。今彼女は62歳になるはずです。彼女は今の日本をなんというでしょう。私は日本外交の成功例だと思います。50年の国交の歴史には江本さんのチンギス・ハーンの墓地捜索とその過程で発見した文化財などももちろん含まれます。私は50年に誇りを感じています。

◆しかし、私はむしろ、これからの50年をどうするかの提案に今回力点を置いています。自分は確実にいないのに。次の50年に大きなふたつの問題で日本がモンゴルにつながることで、北東アジアにおける日本の尊厳を獲得できると思っています。

(1)北東アジア国際貨物輸送回廊の構築

◆モンゴルと日本の貿易は日本の大幅な出超ですし、額もたいしたものではありません。モンゴルの輸出品は主として地下資源でバルキーなものです。しかし、モンゴルの地下資源はカザフスタンと並ぶ世界最大級です。今、日本経由世界への道筋を考えることができないのだろうかと思います。

◆隣国は内陸国モンゴルに対して政治的に輸送路を遮断してはいけません。内陸国に周辺の海浜国、つまり沿岸国は貿易通路を支援しなければならず、もよりの港湾へのアクセスを止めてはいけません。これは海洋法で定められています。そこで多国籍公社を設立し、国際輸送を運用することを2000年のアジア学会で私は提案しました。その拡大版をこれから築く必要があります。理想は中国新幹線を活用して国際輸送公社の貨物輸送ができればと考えます。そのためには少なくとも中国、韓国と当時のような好ましい環境を構築する必要があります。

◆実は定年退職したのち、有志とともにNEANET「北東アジア輸送回廊ネットワーク」を組織し、10年会長にさせられてやってきましたが、その努力は政治に一瞬にして吹き飛ばされました。しばらく唖然、呆然でした。ですから今の青年が後期高齢者になられるころ実現するかしらと思います。ですが、これが実現するということは日本が首都の空域をとりもどし、自立しているということだと思います。期待します。

(2)モンゴルの一国非核兵器地帯への参加

◆次に、モンゴルが苦労に苦労をかさねて構築した一国非核兵器地帯への日本の参加です。非核兵器地帯については今南半球やアフリカではできています。北半球の東部分ではASEANの北半球部分とカザフスタンの他はモンゴルだけ。モンゴルは拒否権を持つ常任理事国全部と総会に認めさせています。日本はこれに参加し、唯一の被爆国として核禁兵器条約に誰はばかることなく参加すべきだと考えます。これができれば、やはりそのとき、日本は独立していると思います。[花田麿公

久しぶりの地平線通信

■地平線通信に書くのは恐ろしく久しぶりです。毎年、夏の以東岳避難小屋暮らしのことなど書こうかと思いながら、書かずに何年も過ぎるうち、いつまでも続くと思っていた管理人のバイトが今年から打ち切りになってしまいました。避難小屋だからお風呂は入れないし、水は標高差80mの水場に汲みに行かなくてはいけないけれど、毎夏楽しみにしていた避暑地のバイトが自分の意思ではなく終了に。

◆そのかわりといってはなんだが、今年はたまたま長年大好きで通い続けている月山の頂上小屋で5日間の山小屋暮らしができた。7月前半だけ人手が足りなくて困っていると聞き、たまたま自分の久しぶりのまとまった休みがあったこともあり、とりあえずお手伝いしようと出かけてみた。7月1日は開山祭があり、昼時は参拝の方が寄るので戦争状態。とはいえこちらも前日まで仕事でずっと出かけっぱなしだったために、一番激戦の時間には到着できずでしたが、昼過ぎから参戦して掃除、夕食の配膳、片付けなど。

◆翌日も朝食の配膳、片付けを手伝ってから、自由時間に散策、戻ったらまた小屋の手伝い。しかし、宿泊客が少ないとほとんどただの居候になってしまいそうで、猛暑の下界に戻らないといけないだろうかと2泊したところで一度荷物まとめてみたり。結局、いたいだけいたらいいよという優しい声に甘えて居残りしたら、なんだかんだやはりおじさんと息子さんの2人しかいないと大変だなとわかって、4泊滞在。実は、いつも寄るたびに暖かく迎えてくださる大好きだった小屋のおばさんが急逝し、今年は小屋がいつもの時期に営業を始められるのだろうかと心配していたのだった。

◆小屋のみなさんが悲しみを乗り越え、小屋開けの準備をされていると聞いて、なにか少しでも力になれればと思っていたので、小さなネズミの手でも貸すことができて嬉しかった。スキー場オープンの翌日の4月11日に、クレバス事故でリフトの会社のベテランで一番のムードメーカーだった方が亡くなったのも大きな衝撃だった。けれど、1日にリフトを降りたときに話をした見かけぬ青年に今年から働いているのかと聞いたら、亡くなった方の甥っ子さんで、リフトで働いて、亡くなったおじさんのお母さんと一緒に暮らしてくれていると聞き、それも嬉しくて思わず目がうるうるに。

◆月山も、月山をとりまく人たちも、本当になんていい人たちなんだ。これからも大好きな月山に通い続けます。管理人の仕事はなくなったけれど、以東岳も好きなことに変わりはないので一般利用者として以東小屋にも行きたい。今年はありがたいことに仕事がたくさんあって、休みを山にばかりあててしまうと実家の片づけがさっぱり進まなくて困るのだが(ずっと無人なので、そろそろたたまないと)。[「月山依存症のあかねずみ」こと網谷由美子 山形市]

30年の住みか兼アトリエから引っ越します

■ぼくの「自分工房」について描こうとおもいます。散らかっていて、ゴミ屋敷みたいですが、ぼくにとっては、愛しい大切な空間です。自分には、どこにどんな物が在るのか解っている。「空想のきっかけ」(夢を想い出すための仕掛け)が、あちこちに積み重なっています。空間が作品のように育っている。「行きかけの旅の道中」が、事実上の伏線として随所にある。

◆この工房は、ぼくが「世界へ行く」ための乗り物。であり、冒険や探検の信頼のパートナー。此処に「すべて」が活きている。自己の妄想の深淵へ旅をするたびに、此処に生還していた。「此処の空間」そのものが、未知の探検の命綱みたいなもの。生還というと大仰かもしれませんが、想像は、とても恐ろしい世界だとおもいます。人間の想像力は、都合の良いユートピアばかりを空想できないとおもいます。悲劇的なことも悲惨なことも残酷なことも最悪も終末も想像しなければならない。

◆「自分の知らない自分」へ深く降下してゆく。そこに向き合うのは、視たくない、会いたくない自己かもしれない。創作は「作業療法」みたいなもの。目覚めながら「自覚的に夢見」する行為の連続。こころのなかの「モヤモヤふわふわ」な言葉にならない「ニュアンス」をなるべくリアルに体感していく。

◆それ(内心に起きてる事態みたいなこと)を色やカタチに視ていく。それを現実(此処)に持ち帰って、「たいせつなところ」をなるべく忠実に再現(描写)してゆくことが創作。妄想が難しい。自分は、感覚的にできない、センスが悪いのだとおもう。努力工夫して、記憶を辿る、想いを進む、四苦八苦。もちろん現実社会は とても恐ろしいけど。

◆だから、あるときは、社会と乖離した現実的なシェルターでした。工房空間が貝殻みたいなものでした。此処だけが、ぼくの安全。此処に感謝しています。工房には、先に他界したともだちたちの壁があって、想い迷ったときには、壁に向き合って話し合って相談します。

◆工房に有る物、家具や電化製品は、ほとんどが、ともだちからもらった物、買ってもらった物、自分で創った物、拾った物。ぁぁ、借りっぱなしの物もある。カンタンに廃棄せずに、物を大切に使いつづけたい。

◆粘土仕事は粉商売なので、うどん屋、お好み焼き、パン屋、ケーキ屋、とかとなんとなく似てると思います。だから、道具類は、ヒャッキンのお菓子つくりコーナーなどで揃うものがけっこう有り、それらを自分で加工すると陶芸用に売っているものよりも自分には使いやすい道具になります。

◆工房に付随して実際に「ちいさな森」があります。1アールほどの。30年前は、駐車場でした。砂利をどけて、耕して、まず畑にしていました。実際に農業をやってる人に訊きながら。だけど、発症入院して退院したら草原になってた。そのときは両肺手術してて体力が無くて放置。

◆じゃぁ「果樹園にしよう」と想って柑橘系数種やキウイなどの苗を植えた。丹波栗も埋めた。どんぐりも。木々ならば、ほっといても育つと想えた。それらが、育った。2本の桑は、鳥から育った。大きな金木犀は、以前から有った。伊沢正名さんと出会って「野糞」実験も開始した。

◆レモンや夏みかん、金柑、栗、キウイ、とかは、作品を買って下さった方々へ送らしていただいてたのですが、311の原発事故の飛来汚染から、森の「実りを送る」のをやめました。やっぱり、他所よりは数値が高いので。それを知っていながら、送れない。

◆それから、ひたすら「森」になっていった。何種か鳥が住んでいる。山鳩も2羽。森には、御嶽が祀られています。住宅街にいきなり在る、聖地のような森。「精霊がいるのだな」と感じることがある。

◆此処の大屋さんには本当に長い間、たいへんなお世話になりました。だけど、大屋さんが土地を売ることになり、此処を立ち退かねばならないです。

◆此処は「自分の身体」みたい。だから、外科手術で切り離されるような気持ち。此処から外へと世界を広げることができなかった自分がダメなのかもしれませんが。「ぼく自身」という生き物にとっての不可欠唯一の場。此処は自然循環世界。まさに「森」みたいな空間。

◆屋根に大きな穴があいて雨漏りが滝のようで、屋内から空が見えたこととかも、すべてのなにもかもが愛おしく 同時に森を守れなかった「見捨てる」感みたいな気持ち。たんにラボを失うだけでは無く、家族を失うような。

◆かけがえのない場所。当たり前に「森は、ずーっと在る」と想い信じてた。「かけがえのないこと」と「とりかえしがつかないこと」とは、いつも常に並走している。そのことに日常は、なかなか自覚できない。

◆だから、「此処を失って」も、「森を失っても」、自身は、平気なのだろうか。と今更、不安に想う。

◆大屋さんといっしょに「ツリーハウスを創ろう」という計画があったのですが、もう、実現はしない。精霊も 棲家を うしなう。

◆工房という「創作の森」と鳥が住む「ほんとの森」と、両方とも無くなる。ほんとの森では、地平線映画祭参加作品の「しゃあまんのいちにち 海編」が、撮影された。大感謝です。

◆工房の移転場所は、ようやく見つかりました。次の大屋さんも神様みたいなかたです。行き場を失った自分を救ってくださいました。大感謝です。

◆自分がダメになればなるほど、神々に出会える。じぶんは人生、なにも成して無い。そして、自分は、あらたなる妄想空間で「愚」の国の迷峰「骨」岳の「頂」を 目指そうと おもいます。

◆自身の空想世界を活路したいと おもっております。内心をもがく。冗長が森を育む。アートは、だれかのどこかで こころの風通しのちいさな窓となるかもしれない。

◆描き連ねたけども、ぼくの自己鼓舞。通信の貴重な紙面にごめんなさい。

◆江本さん 「聖なる愚の巣窟」に いらしてくださって ほんとうにありがとうございました。そして、「創作の森」と「ほんとの森」と 両方とも撮影してくださった 小松由佳さん ほんとうにありがとうございました。

◆いままで来訪してくださった たくさんのみなさま ほんとうに ほんとうに ありがとうございますとても うれしいです たのしかったです おもしろかったです ゆたかで しあわせな気持ちです[緒方敏明 彫刻家]

新入部員10名! 夏合宿スタートです

■江本さん、地平線の皆様、こんにちは。拙い文章や顔を覆いたくなるような感想で度々登場させていただいています、九州大学(以下九大)山岳部の安平です。

◆コロナ禍で空っぽだったキャンパスには人が集い、うしろめたさを感じることなく人と食事ができる日々に幸せを感じるこの頃です(とはいえ、また感染者数増えはじめてますね!)。2020年の4月に入学した私も学部3年となり、周囲は就活に院進にと、自分の進路に向けて動き始めています。私はというと、まさに右往左往という具合で、人類学分野の大学院の説明会に行ったり気になる教授と面談していただいたりするかたわら、冬の(夏はすべて合宿と重なっていました)インターンシップの情報収集などをしたり、旅の計画を立ててみたりと、どう生きていくのか自分に問いかけている最中です。

◆私が所属する山岳部では、新入部員を10名(!)迎えることができ、部としても九大山岳会としてもうれしい幕開けとなりました。このうち4名は中国、ベトナム、台湾からの留学生です。完璧ではない英語を駆使してやり取りをするのも面白い。

◆他方で、装備の不足、老朽化、資金の不足、というシビアな問題もあります。新入生に貸し出すことができる装備は、OB・OGさんが当分使わないと貸し出してくださった装備であり、それが不足すると、新入生の金銭面での負担が大きくなります。今年は新入生の装備購入資金を一度部費でたてかえ、九大山岳会からの資金貸与も受けられ、夏合宿はなんとか乗り切れそうです。

◆さて今年の夏合宿は、前半の定着合宿、後半の縦走合宿の二本立てです。前半は真砂沢、剣沢をベースキャンプに、劔岳、立山周辺で行います。行動日8日、予備日4日の計画で、雪山にそなえた雪上訓練、八ツ峰や南壁の登攀などを行い、源次郎尾根、八ツ峰上半などのバリエーションルートから劔岳登頂を目指します。

◆後半は南アルプス隊と北アルプス隊に分隊し、南アルプス隊は鳥倉登山口から入山、塩見岳から光岳までを歩き、芝沢ゲートで下山。北アルプス隊は蓮華温泉から入山し、白馬岳から爺ヶ岳まで歩き、2年生以下の隊員は種池山荘から扇沢へ下山。私と同期の二人は焼岳(噴火警戒レベルを参照しつつ)まで縦走する計画です。私は8月18日に室堂から入山し、縦走がうまくいけば9月上旬〜中旬ごろに上高地へ帰着しているはずです。天候は運任せなので、走って筋トレして計画を練ってと人事を尽くしています。

◆全体の活動では週に1〜2回、福岡県は糸島市の低山を歩荷縦走したり、外岩でマルチピッチクライミングの練習をしたりと夏合宿にむけての準備をしています。標高1000mにもいかない低山を歩いていると、天候によって空気も、生き物も、道も、さまざまな表情をみせてくれます。他方で、木々の根っこが土を抱きかかえて山があり、その土も落ち葉や虫、動物たちの活動から成っており、水も命も循環して、山があり、世界があるということを考えます。私の中で山に登ることは、自分が自然に生かされているということを確かめるという行為でもあるのだと思います。

◆将来のことを考えると、とたんに明日がぼやけてくる一方、目の前には知りたいこと、やってみたいことが転がっています。面白い人生だったと思える生き方をしていきたいものです。そろそろ山に行ってきます。これからも地平線から学ばせていただきたいです。[安平ゆう


先月号の発送請負人

■地平線通信518号(2022年6月号)は6月15日印刷、封入作業をし、新宿局に渡しました。6月号はページ数が少なく、厄介なレイアウトもしないですんだので早めに作業を終えることができました。汗をかいてくれたのは以下の皆さんです。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 長岡竜介 伊藤里香 白根全 新垣亜美 江本嘉伸 久島弘 武田力
◆久しぶりに四谷の「わかば」のたい焼きを買って届けたらとても歓迎されました。幸運にも長い列を待たずに買えたのでよかった。数もちょうど10匹だった。次回もねらおう。早かったので「北京」で餃子ほかを味わって車谷、白根、長岡さんに郵便局に運び入れてもらいました。


イラク・エデンの園

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モンゴルの友から連日届く追悼メッセージ

■安倍元首相の銃撃事件から1週間。私のところにも連日、追悼メッセージが届く。モンゴル人と南モンゴル人(内モンゴル人)からだ。彼らはSNS上でも、元首相を偲ぶ投稿を膨大に発信しつづけている。読むと社交辞令ではなく、心から悲しんでいるのがわかる。それを見て不思議に思う。ふだん政治家に対して辛口なモンゴル人が、なぜ他国の元首相をここまで慕うのか?

◆モンゴル人たちに聞いてみると、まず口々に言うのが「安倍元首相はモンゴルへ何度も来てくれた。隣国のプーチン大統領と習近平国家主席でさえほとんど来ないのに、小さなモンゴルという国を大切にしてくれて、両国の距離を近づけた」(ちなみに彼らは安倍元首相が6回モンゴルを訪れたと言うが、首相在任中に3回訪問したこと以外は確認できず不明)。

◆それからこうも言う。「安倍元首相は国際的な場でも意見をはっきり述べる。モンゴル人はそういう人が好きだ」。領土問題を抱えるロシアのプーチン大統領と何度も関わりを持ったり、強い大国に対してもNOと言う。モンゴル人たちは同じアジアの一員として、そのような印象を持っていたという。

◆日本に暮らす南モンゴル人たちは、ちょっと違う意見だ。多いのは、「安倍元首相はウイグルのことに向き合っていた貴重な政治家だった。私たちにとって、それが嬉しかったし、希望だった」というもの。いま南モンゴルは、チベット、ウイグルがたどってきた道を歩みつつある。2020年から状況が一気に変わり、中国政府の締めつけが強くなったのだ。

◆2020年9月、大雨降る銀座の街で、南モンゴル人を中心に千人がデモ行進をした。「内モンゴル自治区」の民族学校で子どもたちが使う教科書を、モンゴル語から漢語に切り替えるという政策が中国政府から出されたことに対する抗議だった。そのデモに参加した写真をSNSに投稿したことで、身が危なくなり母国に帰れなくなった人も多い。ある20代女性は新婚の夫を地元に残して日本へ留学に来たものの、やはり帰国できなくなった。夫を日本に呼びたくてもビザが下りず、今後再会が叶うのかすらわからないと言う。

◆日本には南モンゴル人が1万人以上暮らしている(中国籍なので正確な統計はないが、帰化した人を含めたら2万人、5万人という説も)。その彼らの間で最近、互いをスパイと疑いあう「スパイ病」が蔓延している。とくにこの1年だ。たとえば私が南モンゴル人のAさんに会うと、「Bさんはスパイかも」とそっと言われる。別の日にBさんと会うと、「Cさんはスパイみたい」と耳打ち。Cさんに会うと、「Dさんが東京で当局に呼び出されたらしい」……なんていう会話が日常茶飯事。「スパイ病」が厄介なのは、真実はだれにもわからないのに、一度疑いはじめると脳裏から払拭できないこと(友人、家族でさえも)。そして人から疑われないように、だんだん自分自身を抑えていくのだ。

◆南モンゴルの一部は、かつて満州国だった。「日本を宗主国だと思っている」と話す南モンゴル人もいる。北側のように、独立することを切望していた南モンゴルだったが、それが果たせなかった原因は日本にもある。だからこそ日本人に南モンゴルのことをもっと知ってほしいと思っていても、日本の政治家からはほぼスルーされてしまう。それでよけいに、安倍元首相への期待が大きくなっていた。

◆北側で独立を果たしたモンゴル国と安倍元首相との関わりについて、私が個人的に思い出すことがある。2014年8月20日に私がウランバートルを歩いていたら、とつぜん目の前に数台の黒いジープが現れて縦列駐車した。中から出てきたのは、安倍元首相の母親の洋子さん(当時86歳)。真っ青なスーツに身を包んだ元横綱朝青龍も一緒だった。表向きの目的は「日本モンゴル友好書道展」への出席だったが、拉致問題に関する信書をモンゴル政府へ渡しに来たのだろうと思った。同年3月、横田夫妻とめぐみさんの子どもであるキム・ウンギョンさんがウランバートルで対面したばかりだった。

◆この8月、私はモンゴルへ行く予定だ。きっと現地でも安倍元首相の話題が出るはず。ウランバートルの日本大使館では、献花と記帳に訪れる人が絶えないという。私がモンゴルと関わりつづけている大きな理由のひとつは、同じ東アジアで表現の自由を守ろうと頑張っている国だから。最近は、日本留学を経験した30〜40代が中心となり新しい政党をつくって選挙に挑んだりもして、みんな必死に闘っている。

◆そして私が言うまでもなく、日本にとっても人ごとではない。日本でも海外でも、ネット上でもリアルの世界でも、驚くようなスピードでいま自由が失われつつある。モンゴル人は自由を愛する民族だ。草原と相撲だけではない、情熱的な自由の民であるモンゴルについても、もっと紹介していけたらと思う。[大西夏奈子

ネパールで考える、ゴミって難しい!

■高校時代「いつかは!」と思っていた国ネパール。当時メスナーに憧れていて、高校山岳部にも入った。でも、すぐにやめた。岩をやらないからだ。それで地元山岳会へ。結局、そこでも本格的な岩はやらせてもらえないまま、進学で上京。そこで出会った小島一郎の写真。これが、いつも頭の片隅にあった岩を追いやり、ぼくのカメラマンとしての道を決めた。

◆「ネパールに度々行っている」と言うと「トレッキングで?」なんて聞かれる。でも、ぼくは、いつも、同じ場所を訪れ、同じ人たちに会う、それを楽しみにしている。そんなネパールとの関係のきっかけは、南三陸町で縁ができたRQだ。2015年のネパール地震のとき。孤児院支援の物資運びと並行して、RQのネパール支援をお手伝いすることになった。そのときの関係は今も続いていて、行けば必ず訪問する。

◆カトマンドゥに日増しに増えるゴミのことは、先月の地平線通信で塚田恭子さんが報告されている。そのカトマンドゥに、NPO活動に参加するために僕もいた。ゴミ処理再開後、最終処分地に足を運び、みたこと、聞いたことを、ここに書くことにする。

◆なぜネパールでのNPO活動なのか? それは、ネパールが好きだから! そして、そのNPOの、ゴミ集積所や、最終処分地で仕事をする方の衛生問題に関する活動に興味を持ったからだ。そこで、日頃参加している日本支部から推薦してもらい、参加することになった。ところが、世はコロナ禍へ。本当に待ちに待ったネパールだった。

◆大体どこの国でも、ゴミ処理場のような迷惑施設は、都市部からはなれた田舎にある。それはネパールも同じ、カトマンドゥから北へ1時間半ほどのところにそれはある。向かう道中の臭いがすごい、前を走るトラックに積まれたゴミのせいばかりではなさそうだ。そんなトラックが数珠つなぎになって走っている。それを追いかけるように土埃が巻いあがり、遠くからでもトラックの場所がわかるほどだ。道路脇では、子供が小さな桶で水を撒いている。土埃が立たない所は、ぬかるみ、ジープすら道を選び走っている。道はそのどちらかしかない。速度をおさえるためか、石で狭められたところが何か所もある。今回の道路封鎖は、それがエスカレートしたものだ。約束された、夜間のみの運搬もすでに反故にされている。道路封鎖の撤去に催涙ガスが使われた程の抵抗だ、この問題はまだ尾を引くだろう。

◆17年間使われた処分地が、ネパールの田園風景に、異彩と異臭を放っていた。それは処分地とは名ばかり、尾根筋から谷に向かって投げ捨てられた日本の不法投棄を、ものすごく大規模にした感じだ。ゴミから滲み出た真っ黒い水が、谷底の川へ流れ落ちている。

◆新しい最終処分地は、さらに2キロ奥。古い処分地の上が道路になっていて、そこにトラックがスタックし、道路を塞いでいる。そこからは徒歩と、トラック便乗で処分地へ。乗せてくれた運転手さんによると、積荷は雨季である最近は、いつもより2割程度重い、8〜10トン。そんなトラックが200台、一日三往復するそうだ。

◆ゴミが埋められる谷は、およそサッカーグラウンド8面、深さは15メートルくらい。ゴミの先端には、落ちてくるゴミから、ペットボトルなどのお金になるゴミを拾う人たちが見える。ほとんどが素手にサンダル、若い女性の姿も見える。

◆新しい処分地は日本と同じ構造。水をゴミに置きかえたダムを想像してもらえばいい。汚水が浸透しないようにゴムが敷かれ。集水路が、葉っぱの葉脈のように配置されている。集められた汚水は、沈澱式の排水処理施設にためられ、浄化し川に流すようになっている。ただ、どの池も水は真っ黒で、浄化できているとは思えない。日本では、ゴムの破損防止のため砂が敷かれているのだが、ここでは、砂利の上に直接敷かれていて、破損が心配だ。それに、めくれてしまっているところもある。

◆取材中の現地カンティプールTVのキャスターと話すことができ、色々聞くことができた。彼がいうには、今使用している場所は、このままでは6か月しかもたない、その対策として、カトマンドゥでゴミを分別し、燃えるゴミだけを運び込むことが決まった。ということだ。彼の言葉を裏付けるように、タメルの集積所は、ペットボトルとガラス類が、分別されていた。

◆今回のことで、カトマンドゥの人々は、処分地近隣の方々の日常を体験した、その経験が、ゴミを考えるきっかけになればと思う。そして、これは他人事ではない、先進国のゴミが、再生可能と名付けられ、貧しき国に送られ、大半が再利用されないまま投棄されている。そして、そのゴミが送り返されることが、ここ数年起きている。そして、ぼくはここで「燃えるゴミ」と書いた。でも、それは間違いだ。その言葉は、焼却所が整備された国だけのことばだからだ。その焼却炉をめぐって起きていることは、まさにここと同じだ。

◆日本の街にゴミが山積みになる前に、何か手を打つ必要がある。何ができるだろう? いまぼく自身が生むゴミについて、考え、行動することならできそうだ。そして、分別されないゴミで生活を支える人たちがいる。ゴミって難しい![小石和男

風――森下弘さんへ――

磨(す)っている
老人が墨を磨っている
老人の片耳は欠けている

少年は夢の中で
何度も実家の焼け跡に立った
母親はすでに骨になっていたので
せめて意識が無くなってから焼かれましたようにと
煮えくり返るはらわたの底から願った
去りがたい思いを断ち切って少年が踵を返すと
背後から風が吹いてきた

高校教諭となった少年が長女を授かった
病院に向かう吹雪の中
風は前から吹いてくるのに
後ろから押されているような心地がした

平和運動に身を投じた
原爆で失われた自分の耳のこともたくさん話した
周囲から「売名行為」と言われてもやめなかった
けれど「運動」で人の心を変えることはできない
芸術だけが人の心を変えうると悟った
以来詩と書の融合を目指して倦むことがない

墨を磨り終えた老人が
裂帛の気合で渾身の筆を打ち下ろすとき
いつも
焼け跡から
包みこむような
やわらかい風が吹いてくる[豊田和司

地平線の皆さん、はじめまして!

■はじめて書かせていただきます。冒険とは無縁な日常を送っている私だが、少々冒険的要素があるとすれば戸隠流忍術の修行をしていることくらいだろうか? 戸隠流忍術は平安末期、木曽義仲に仕えた仁科大助が歴史上の始祖ともされ、伊賀流の流れも汲んでいる。体術を中心に様々な武器を使う点が魅力で、お馴染みの手裏剣や人の髪で編んだ鎖鎌、苦無(くない)等も使うが、結局その辺にあるあらゆる物を武器にしてしまう柔軟性が面白い(夏合宿では水遁の術の訓練も行う)。攻撃より自分や相手をも守ることに主眼を置いた平和的な武術であるのが何より私の好きなところだ。とキリがないので忍術の話はこの辺で……。

◆江本嘉伸さんとの出会いは、在日チベット人の友人ロディさんから、チベットのテレビ番組向けの映像を撮るから手伝わないか?と誘われたことに端を発している。

◆ロディさんと私は、池谷塾というドキュメンタリー映像塾で知り合った。チベット僧の焼身抗議を扱った『ルンタ』等のドキュメンタリー映画の監督、池谷薫さんが主催する映像塾だ。私は普段webサイト制作の仕事をしているが、縁あって池谷さんの映画サイトを初期作品のころから作らせていただいた。サイトを作るにあたり、作品を何度も観ているうちにドキュメンタリー映画の魅力に取りつかれ、いつしか自分もカメラを回したくなった。

◆それで、図々しくも池谷さんに教えてもらえないか?としつこくお願いしたところ、念願かなって5年前に実現したのだ。そのときのメンバーのひとりがロディさんだった。その後池谷さんが神戸に拠点を移してしまったので、東京の塾は実質解散したが、そのときのメンバーは今もお互いの映像制作を手伝っている。

◆今回はチベット亡命政府から、日本に住んでカメラを回し続けているロディさんに、チベットに縁のある日本人のインタビュー映像を制作して欲しい、と依頼が来たらしい。その映像はTibetTVで放映するとのこと。他国からのチベット人へのメッセージは、とても喜ばれるのだそうだ。ダライ・ラマ法王日本代表部事務所が、チベットに造詣が深い僧侶や識者、NPOの方たちをピックアップしてくださり、昨年の夏の終わりに取材が始まった。忙しいロディさんからは、取材時に簡単な連絡しかこないので、私は毎回どなたに会うのかもわからずドキドキしながら現地に向かっていた。偶然にも『西蔵漂泊』をリュックに忍ばせていたその日、お会いしたのがその本の著者の江本さんだった。本当に信じられないことに、私はその日まで地平線会議を知らずに生きていた。江本さんはさぞ呆れたことでしょう。

◆でもそんな私に江本さんは、「今日はインタビュー形式ではなく、あなたに向けて講義をします」と、贅沢にもマンツーマンで貴重なチベットの話を聴く機会をくださった。チベットにまつわる、たくさんの大切な本や写真を目の前で惜しみなく見せてくださり、臨場感のあるお話しには深く感銘を受けた。もちろん帰ってすぐに地平線通信の購読を申し込んだ。

◆ひととおりwebに掲載されている通信に目を通してしまうと、最新号を待ちわびる日が始まった。そもそも私の本棚は服部文祥さん、角幡唯介さんを始め国内外の冒険家・探検家たちの本が占拠している。また密かに関野吉晴さんの追っかけをやっていた時期もあった、そんな私が地平線会議を知らなかったのは本当に不思議でならない。

◆通信では、敬愛する冒険家たちの、より近しい人に向けた心情の吐露も垣間見えるのが私にとっては何よりの魅力だ。例えば角幡さんのコロナ禍でのうっぷん、旅立ち前夜の服部さんの静かな高揚のような。かと思えば、離島留学を始めたばかりの高校生の瑞々しいアオハルな日常や想いも、同じ紙面に記録されている。

◆俯瞰してみれば、アイボリーの紙面にただ黒い活字が並んでいるだけなのに、読み始めると一気に様々な土地の色彩や生活音が溢れだし、異なる匂いや温度や湿度の中に身を置く経験ができる。そしてそこで生まれるいろいろな想いも共有できるのが楽しい。モンゴルも神津島も南極も同じ紙面にあって、凄く離れているのに繋がっていて何だか通信は空のようだなぁと感じる。こんな贅沢な読み物はなかなかないのではないだろうか?

◆中でも最近私の中で一番印象に残ったのが、金井重さんにまつわるエピソードだ。54歳で旅を始め、100か国以上を回られたシゲさん。キャラの立った明るく柔軟なお人柄。文章からもイラストからも、関わりのあった皆さんのシゲさんへの想いが濃く伝わった。

◆しかし、シゲさんのそれぞれのイメージは似ているようで少しずつ違う。大声でパワフル。にこやかで温か。鷹揚に見えるが目の奥は冷めている。そのどれもがシゲさんなのだろう。旅を一人続ける時間の中で、様々な景色や情勢や人や想いと出会い、それを消化しながら歩いていくうちに、いろんな変化を遂げていったのかもしれない。実際にお会いしてみたかったなぁ。想像の中のシゲさんは私の中でどんどん膨らんでいく。いろいろな名言も残されたシゲさん。旅を放課後の開放感と形容されていたとか。その開放感、いつか味わってみたいな。冒険とは無縁の私だけど、通信に息づくシゲさんに背中を押された気がしている。[中山綾子


Jellyfish Paradox

絵本作りの魅力

■地平線通信がみなさんの手に届くころにはすでに終了しているのですが、6月17日から7月3日までの間、浅草橋のギャラリー・キッサで、製作した絵本の展示をしていました。去年江本さんのご自宅の蔵書を冒険研究所書店に移す作業を手伝った縁で招いていただいた書店の開店祝いの場で、絵本のワークショップの講師をしてくださった井上奈奈さんと出会いました。彼女は冒険研究所書店のロゴをデザインした人で荻田さん原作の絵本『PIHOTEK ピヒュッティ 北極を風と歩く』(講談社・8月9日発売)のイラストを担当しています。

Jellyfish Paradox

◆彼女とはその後冒険研究所書店のイベントで何度かお会いしていたのですが、去年彼女が出版された『星に絵本を繋ぐ』(雷鳥社)を読んでワークショップの存在を知り、これも何かの縁だと早速2月からの回に申し込みました。当初は「絵本作りのプロセスを知れたらいいかな」という軽い気持ちでの参加だったのですが、すっかり絵本作りの魅力にハマってしまい、GWは10連休中、8日間、家にこもって絵を描き続けました。

◆ほとんど食事も摂らず絵を描いていたため、絵を描いていただけなのに3キロも痩せてしまったくらいです。そんな過程を経てできた絵本『JELLYFISH PARADOX』ですが、驚くくらい好評でつくった本人がいちばんびっくりしています。手に取れる形にしてみるのは大事ですね。ひとり出版社をはじめたいと思っていたのでこの絵本を最初の書籍にとも考えていましたが、折角の機会と思い、出版社に持ち込んでみることにしました。箸にも棒にもかからないとは思いますが、旅とは違った新たな挑戦にワクワクしているところです。[光菅修


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

大西正一/水野雅章(6000円 日頃より大変お世話になりありがとうございます。通信費+寄付4000円を送付させて頂きます。よろしくお願い致します)/横山喜久(5000円 毎月通信楽しみにしております。通信費、今年と来年分とのこりカンパとさせてください。報告会の再開を楽しみに!!)/西島錬太郎(4000円 定例の振り込み(3月)より遅くなりました。反省のため+α 2000円で4000円送ります。近いうちに、通信に投稿いたします。518号は今まで以上に面白かったです)/古山隆行・里美(花谷さんは不在でしたが、6月11日は七丈小屋に泊まり、甲斐駒に登ってきました。6月17日は松原尚之さんのガイドで南稜ルートで阿弥陀に登ってきました。相変わらず登山を楽しんでいます)/井口亜橘(4000円 通信、毎月ありがとうございます。仕事の合間の昼休みにいつも読んでいます)/野沢邦雄/網谷由美子(20000円 7年×2000円+カンパ)/延江由美子/長瀬まさえ(5000円)/水落公明(3000円 いつも「地平線通信」をお送り頂きありがとうございます。ボリュームのある内容、毎月読みのを楽しみにしております。コロナの感染がまた拡大し始めたようですが、お身体には十分お気を付けて下さい。通信費と気持ちばかりのカンパ、送金させて頂きます。引き続きよろしくお願い致します)/豊田和司(3000円 いつも拙詩御掲載いただきありがとうございます。毎回レイアウトの妙に感服致しております。年会費プラスカンパです)/高橋千鶴子


わたしの小川

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今月の窓

2022年7月に考えたこと……

■2022年の7月の頭は今後人生の節目に思い出す日々かもしれない。6月の終わりに梅雨明けするという、もはや異常であることが正常になった気象状況下で、登山のスーパーレジェンドと沢登りにいく計画があった。ところが、7月の頭に台風4号が発生して、梅雨に戻り、延期となってしまった。集合の前日に天気予報を見て計画延期の連絡を取り合ったときには、まだ雨は降り出していなかった。予報では、当分雨が続きそうだったので、私は動けるうちにと思い、ナツ(犬)と裏山にハードな散歩に行くべく、渓流シューズを履いて、廃村の猟師小屋をでた。

◆まだ行ったことがない隣村の沢に入る。パラパラと小雨が降りだした。ナツが鹿を追っていなくなってしまうことが2回。休憩を兼ねて、ナツが戻るのを待つ。放っておいて先に進んでも、私の匂いをたどって追い付いてくる。小屋から徒歩圏内だから、もし合流できなくても勝手に小屋に帰る。ただ6年間一緒に登っていて2回だけ、私の匂いを追えずに、別れたところでしょんぼり待っていたことがある。もし猟師小屋に帰ってこなかったら、明日雨の中、ナツを迎えに来なくてはならない。だから、ブヨを払いながら沢でナツが戻るのを待っていた(10分くらいで戻ってくる)。

◆いよいよ沢が源頭になり、できるだけ猟師小屋に近い支流を詰め上がって草原に出た。ここでまたナツが匂いを取るようにひょこひょこと先行し、スピードをあげて走って行ってしまった。また鹿と鬼ごっこである。小雨は降り続いており、早く帰りたい。5分ほど待っても戻る気配がないので「ナーツ」と大きな声で呼んだ。すると突然、足下、5メートルほどのところから子鹿が飛び出した。

◆鹿の出産シーズンは6月。この時期はバンビを連れた親子に会うことがある。母鹿は捕食者に遭遇したとき、幼い子鹿を藪の中に隠し、自分が捕食者を引き寄せて逃げ、あとで子鹿を回収するという逃走戦略をとる。子鹿の脚力がまだ弱いためだ。

◆ナツはその作戦にまんまと引っかかって親鹿を追った。だが、鹿側にも誤算があった。捕食者側にもう一頭、どんくさいホモ・サピエンスがいたことである。鹿の成獣との駆ケッコに勝ったためしはないが、子鹿なら別だ。ナツがいないなら俺が……とぴょんぴょん跳んでいく子鹿の後を追った。だがその子鹿は速かった。通常、30メートルくらい走ると立ち止まるのだが、止まることなく駆けていく。

◆これは追いつかないと諦めかけたときに一つ向こうの尾根を回り込むようにナツがひょこひょこ戻ってくるのが見えた。ナツが親鹿を追って行った方向とは別だったうえに、こちらに気がついているそぶりもない。子鹿は小尾根を越えて見えなくなった。ナツもひとつ向こうの尾根から沢に入り、私のところからは小尾根が邪魔して見えなくなった。一瞬だったので、見間違いか?と思った。もし私が見たとおりなら、子鹿とナツは沢状地形で鉢合わせすることになる。

◆この先は書かないでおく。狩猟鳥獣であっても猟期外に獲るのは違法である(素手で捕まえても違法)。有害駆除という猟期外に鹿やイノシシを狩れる特権が存在し、しかもその特権には自治体の予算まで付いていて、その上、狩られたケモノはゴミとして捨てられている。ロードキル(轢死)個体を拾うのも自由である(違法ではない)。車で動物をひき殺すことの是非も法律では言及していない。だが、ともに暮らす犬が鹿を猟期外に噛み止めてしまうのは違反なのだ。

◆雨がはっきり降り出した中、私とナツは猟師小屋に帰った。私の手にお土産があったかどうかは知らない。

◆実は6月いっぱいでモンベルの社員を辞めた。「岳人」のスタッフであることはフリーのライター兼編集者として続く。

◆私は車を所有していないし、ボロ屋の安いローンはずいぶん前に返済した。酒もたばこもやらないし、最近は海外登山も行かないので、ほとんどお金を使わない。使うのは子供の教育費だけである。だから子供の教育費にめどが立った時点で、会社勤めするのが馬鹿らしくなってしまった。転職系の調査報告で、会社を辞める一番の理由は「人間関係(の悩み)」というのを見たことがある。ここだけの話、一緒に仕事をするのが耐えがたい同僚がいたのも理由の一つである。だがその同僚のおかげで仕事を辞める決心がついた。

◆7月1日は健康保険と年金の関係で役所と保険協会をまわった。そのため健康保険と年金についての知識が増えた。素晴らしい制度である。いくらか問題はあるにせよ、このような制度が成り立つのがすごい。そう思う一方で、健康保険や年金は、人生を本当の意味で深く豊かにしたのだろうか、と考え込んでしまった。私が日頃活動している野生フィールドには保険も年金もない。動物たちは自分の才覚だけでたくましく生きている。それを鉄砲で撃つ私は、保険と年金に守られている。それは端的にズルくないか。

◆おそらくこれから数年間、日常的な出費で最も大きいのは、健康保険と年金だろう。私も家族も病院にはほとんど行かない。だから医療費を10割全額負担で払ったとしても、納めている保険料のほうがはるかに高い。健康保険が自分への積み立てではなく、共済的な制度であることは承知している。だから自分が健康であることを喜こんで、こころよく納めるべきなのだろう。わかっていても高額な保険料が腑に落ちない。そしてそう考えている自分が、健康保険からも年金からも脱退するほどの覚悟を持っていないことも情けない。

◆企業の社員であることを辞めたのは、食料燃料生活空間を購入して生きるのが馬鹿らしくなったからでもある。食料も燃料も生活空間も山に入れば無料である(生米は街から持ち上げている)。家賃0円の廃村に籠もって、自力で食料燃料を調達すれば、生活を購入するためにあくせく働いてお金を稼ぐ必要がない。それは私にとって理想の生活だ。だが、保険と年金が足かせである。日本国民として生きていくには、システム上そこそこの現金が必要になっているらしい。7月10日は参院選だが、どの候補者もどの政党も、政策の前面には景気の回復を掲げている。これ以上市場が拡大する要素はなく、温暖化ガスを増やさずに市場を拡大することが不可能なことを社会学者(斉藤孝平)が説得力を持って指摘しているのにである。日本は法治国家ではなく、経済国家なのだな、といまさらながら考えて、合点がいった。日本を支配しているのは経済効率だと考えるといろいろなことの筋が通る。

◆ナツが子鹿を噛み止めたとしたら、子鹿がかわいそうだ、と思う人は多いのではないだろうか。私もかわいそうだと思う。だが、山間部の廃村では、鹿と生活空間を競合しないで生きていくことはできない。肉を得るために、そして、菜園の作物を守るために、私は鹿を殺している。その廃村は都会と地続きで、どこかに境界線があるわけではない。街に暮らしていれば、山から離れているため、直接手出しをしなくてすむ。だが、街の存在が鹿を山間部に追いやっているのだとしたら、街の暮らしは間接的に鹿殺しに加担しているといえないだろうか。

◆ウクライナではまさかの戦争が続いている。政治についての意見は年上の識者が口にするものだと思っていた。ところが気がついたら自分もいい年になっていた。戦争は無駄である。では無駄でないものとは何だろう? 生き物のなりたち上、闘争というものがなくなるとは思えない。ウクライナに攻め込むロシア軍のごとく、私は猟期には鹿の住処に侵入して鹿を撃ち殺す。人間ではなく動物だから殺していいのはなぜか。ただ人間側のルールでそうなっているからである。鹿の許可を得たわけではない。プーチンにはプーチンなりの正義があるのかもしれない。それが国際秩序として容認できないだけである。簡単に言えば多数決の問題だ。

◆日本が、軍隊を放棄して、マハトマ・ガンジーのごとく非武装無抵抗で国際関係を築けたら、格好いい態度であり覚悟だと思っていた。侵略して被爆して敗戦した国であれば、それができるのではないかと夢見ていた。だが今回の戦争を見ている限り、それが単なる理想論でしかないと諦めムードである。

◆7月30日からはじまる国際芸術祭あいち2022(旧あいちトリエンナーレ)に山旅を現代アートとして出展する。山旅をアートってなに?と思うだろう。私もよくわからない。人類の活動範囲を広げる冒険(純粋な登山欲)から始まった登山が、帝国と手を結んで国をスポンサーとしたヒマラヤ登山競争になり、その後、冒険の支援が宣伝になると踏んだ企業がスポンサーに代わり、現在はほぼ個人のレクリエーションとして落ち着いている。もしかしてアートはこれからの登山の動機になりえるのではないかと、考え、ちょっといろいろ奮闘してみた。登山をアートとして展示できるのか、そもそも登山はアートなのか。国際芸術祭あいち2022によかったら確かめに来てください。[服部文祥


あとがき

■この地平線通信に長く連載を書いてもらった小松由佳さんが2人の息子とともにシリアを目指すと聞き、出発前に昼飯会を持った。その際に持参したカメラが立派なので尋ねた。これ、新たに買ったの? 由佳さん曰く「そうです。これがモンベルのチャレンジアワードで買ったカメラ、フジフイルムのGFX100sという中判デジタルカメラです」。本体が60万円、ほかにレンズ2本、バッテリーなど備品を含めて105万円になったという。賞金の100万円はあっという間に消えたそうだ。

◆「これまでニコンZ7というミラーレス一眼を使っていましたが、フィルム撮影を愛する私からすると描写性があまりにデジタル的でしっくりこなかった」。「発売されたばかりのカメラということで価格が高く、手が出なかったんですが、この際、と思って」。

◆由佳さんはこうも付け加えた。「私は登山を通して、良い道具(自分の肉体、感覚にしっくりくる道具)を使うと登山のパフォーマンスが全然違うことを感じ、道具にはこだわってきました。道具は生死をわかつこともあるものですから、山を登っていたときは、感覚的にしっくりくる道具なら借金してでも買って使いました」。

◆知人の広告写真家からは「生活が厳しいのなら、分相応の安いカメラで撮れ」と言われたそうだが、本人は「生活が困窮しているのも、メディアにあまり需要のないシリア難民を撮っているから」と微笑む。

◆由佳さんには四谷荒木町の家に何回か来てもらったことがあり、昨年の引っ越しの際もわざわざ写真を撮りに来てくれた。「江本さんにも、地平線会議にとっても大事な場所ですから」と言って、乱雑な我が家をバシバシ撮っていった。それを立派な1冊のアルバムにして、シリアへの出立前に送り届けてくれた。荒木町周辺の風景も入っていて、私には思いがけないプレゼントとなった。ありがとう、由佳さん、帰ったら地平線報告会やろうね。[江本嘉伸


『座禅入門の巻』(作:長野亮之介)
表4 妖怪の巻

《画像をクリックするとイラストを拡大表示します》


■今月の地平線報告会は 中止 します

今月も地平線報告会は中止します。
オミクロン株の感染が拡大しつつあるため、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。


地平線通信 519号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2022年7月20日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方


地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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