6月15日。朝から寒い。1階まで新聞を取りに行くのにしっかり着込む。
◆ウクライナでは東部ドネツクの攻防が続いている。火力はロシアの10分の1しかない、一刻も早く兵器の支援を、とゼレンスキー大統領はNATO各国に迫るが、反応は意外にクールだ。2月24日のロシア軍の侵攻から3か月半も戦いは続きウクライナ側は想像を絶する善戦をしているのに、欧米各国は早くも戦争への関心は薄くなりつつある。メディアへの露出が日に日に減っている。ロシアとの火力差は「10対1に悪化した」との情報もある。米欧は相次ぎ高性能兵器供与を決めたが、前線配備や訓練には時間がかかる。 ロシア側はセベロドネツクの化学工場に避難しているウクライナ人たちの避難のため「人道回廊」を設置すると表明したが、ウクライナ兵の投降が条件では、果たして。
◆おととい、神田神保町の岩波ホールに行った。先月の地平線通信で白根全が書いているように54年続いたホールもいよいよ休館することとなり、その最後に「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」を上映するというのである。見ない手はない。1章「プロントサウルスの皮」、2章「魂の風景」など8つの章から成り、伝記作家、妻、人類学者らが証言する。49才の若さで逝ったチャトウィンが残したものは地平線の旅人にとっても宝物であろう。岩波ホールはまもなく閉館する。最後の上映作品となるこの映画、7月29日まで上映しているので都合のつく方はどうぞ。それにしても1940年生まれのチャトウィン、比べることではないが私と同年だ。
◆5月のある日、甲斐の林道を連れの車で走っていた際「ウィ・ラ・モラ」の文字が一瞬見えた。あ!そういえば……。もう18年も前のことになる。2004年11月に私たちは「地平線会議300か月記念フォーラム」と称して「その先の地平線」という大集会をやった。石川直樹、多胡光純、シールエミコ夫妻、服部文祥、風間深志、賀曽利隆、安東浩正らにまじってひときわ注目されたのが会場にそっと入ってきた2匹の犬たちだった。オオカミ犬のラフカイとウルフィー。獨協大探検部出の田中勝之・菊地千恵カップルがカナダから連れて来た家族だった。地平線会議はさまざまな報告会をやっているが、わんこが主役というのはこれが初めてだった。もちろん会場外の車に待っててもらい、細心の注意を払いその瞬間だけ会場にそっと入ってもらったのだが。
◆その後八王子恩方の家にゴールデン・リトリーバーのくるみを乗せて子犬を産んだばかりの2匹を訪ねたことがある。京都で獨協大探検部後輩の多胡光純・歩未夫妻の結婚式が行われた際には面白い出会いをした。結婚式の後、奈良の田舎屋に住んでいたシール・エミコさん夫妻に会おうと、奈良県の県道33号線をとぼとぼ歩いていると車が止まり、なんとあのラフカイ、ウルフィーが窓から顔を出しているではないか。せっかくだからエミコさんちの畑を見ていこう、と京都からまわってきたのだ。家もほとんどない農道をラフカイたちと散歩し、遊んだ。まだ2才半のウルフィーは飛び跳ねんばかりに元気で、スティーブや私に「棒投げ遊び」を何度も迫った。
◆千恵さんはウルフィーとの出会いを『ウィラ・モラ オオカミ犬ウルフィーとの旅路』という本(偕成社)にまとめた。「wi' la'mola」カナダ原住民の言葉で「we are all traveling together」という意味だそうだ。この名を表札にするのは2人しかいない。帰り道、看板の示す先に入ってみた。あるじは不在のようだったのでたまたまあった地平線通信最新号を置いて去ろうとすると「ご用ですか?」と田中勝之君が出てきた。わぁ、久しぶり、と互いに挨拶。千恵さんは不在のようだったが、「2匹はここです」と林の中に2匹の名を彫った墓標を指し示してくれた。最初の出会いから18年も経って、ウルフィーたちのついの住処を訪ねることができたのだ。
◆コロナのおかげで報告会はもう2年4か月休んでいる。代わりにどうにかこの通信だけは出し続けている。「紙の通信は素晴らしい」と言ってくれる方も少なくなく、私もそう思ってきたが、ほんとうにそうか。実は最近出た『べリングキャット』(エリオット・ヒギンズ著 筑摩書房刊)という本に衝撃を受けている。デジタル空間広がる画像、動画、SNS情報、地図など公開された情報にアクセスし、鮮やかな分析手法を駆使して国家権力が隠蔽しようとする事件の真相を暴く手法が急速に広がりつつあるというのだ。「猫に鈴をつける」という意味のべリングキャット。創設者は1979年生まれ(地平線会議と同じ!)のイギリス人。地平線会議とはまったく関わりようのないネットワークだが、個人的には新たな手法が生まれた、ちょっとやられたぞ、という気分がある。[江本嘉伸]
■江本さま 澤柿です。大変ご無沙汰しております。これまであまりご連絡も差し上げず申し訳ありませんでした。気がついてみれば、前回に我々第63次南極観測隊が昭和基地での越冬任務を開始したことをお伝えしてから、はや3か月以上が経過し、日本を離れてからも半年以上が経過しました。我々は32名という小さな孤立集団で越冬生活を続けてきましたが、独特の生活リズムにも慣れ、本州ではすっかり新緑の頃を過ぎて地域によっては梅雨入りもしていることであろうと、郷里の様子を懐かしく思う余裕も持てるようになってきたところです。
◆ここでの生活はというと、3月の桃の節句には食堂にひな壇を飾り付けましたし、4月には紙と木材でできた桜の木を飾って昭和基地なりの「開花宣言」を出して花見を楽しみ、端午の節句には鯉のぼりを掲揚したりしました。雪氷とむき出しの大地しかないこの極限の地での生活に、少しでもメリハリと潤いをもたらそうと、国内と同等かそれ以上に歳時を律儀に実行していく慣例が、歴代の越冬隊でずっと受け継がれてきています。
◆厳冬期に向かいつつある南極では、日に日に日照時間が短くなっており、5月下旬の太陽は数時間だけ水平線の上に姿を見せて、横に転がるように移動しています。6月にはついに太陽が地平線の上に姿を見せなくなってしまいます。その先7月下旬まで、南極圏内にいる我々は日光を拝むことのできない「極夜」の期間を過ごさねばなりません。
◆ただ、昭和基地にとっては、そんなに悪いことばかりでもありません。暗くなったらなったで、オーロラ光学観測などにはうってつけの時期となります。実は昭和基地は南極でも最もオーロラが出現しやすい場所に位置していて、一次隊から様々な観測が行われてきた歴史と実績を誇っています。昼夜を問わず、天候さえ許せば見上げた空にはきまってオーロラが揺らめいているという、なんとも贅沢な時間を越冬隊の特権として過ごさせてもらっています。ただし、美しい夜空を眺めるには、マイナス20度以下の極寒に耐える我慢強さも必要ですね。
◆4月末に襲来した大型のブリザードが落ち着いてから、久しぶりに南極名物の蜃気楼でも見ようかと双眼鏡をのぞいたところ、氷山の間にいつもみえていた輝きにかわって黒く水平に広がる筋が出現していました。その上空には,開水面を示す空模様として極地探検家の間では古くから知られてきた「ウォーター・スカイ」と呼ばれるドス黒い雲が広がっているのも視認しました。海氷が張っていれば,その照り返しで上空の雲が白く輝くのに対して、水面だと光の反射が少ないために雲の底面が黒くなるのですね。
◆十数年前に越冬した時にも同じ光景を見たことを思い出し、これはきっとブリザードに伴う南極海のうねりが海氷を持ち去ってしまったに違いない、と確信しました。今回は越冬隊長として昭和基地を預かる身となっていますので、厳冬期を迎えてこの先にひかえている様々な野外オペレーションに思いを巡らせながら、この状況にどう対応すべきかを思案し始めました。
◆というのも、昭和基地は、幅4kmほどのオングル海峡を挟んで南極大陸から離れた島にあります。オングル海峡は通常は雪上車で走り回れるほどの厚さの海氷に覆われているのですけど、今回のように海氷が流出してしまうと、昭和基地の周囲に一晩のうちに渚が出現することもあるのです。そうなると島から一歩も出られなくなってしまって、野外行動が大きく制限される事態に陥ります。逆に何年も海氷が流れずに居残って成長を続けた場合、世界最強クラスの砕氷能力をほこる「しらせ」をもってしても割るのに苦労して、昭和基地までたどり着けない年もあります。このように、島に位置する昭和基地にとって海氷は非常にやっかいな代物で、その動向を気にかけていることが歴代の越冬隊長の重要な役割の一つでもあります。
◆急遽偵察隊をしたてて、スノーモービルでウォーター・スカイのもとへ向かいました。ブリザードが襲来する前に海氷上に立てておいた赤旗のルート標識をたどり、当初はなかった新しい亀裂を何本もまたぎながら進んでいった先で海氷が途切れていました。その先の海面は、マイナス15度を下回る外気にさらされてすでにシャーベット状に凍結しはじめており、表面には、海水が急激に寒気にさらされてできる「フロストフラワー」と呼ばれる霜が一斉に開花していました。基地に戻ってから今度は、上空400mまでドローンを揚げて島の周囲360度を空撮しました。幸いなことに、今回の海氷流出はかろうじて昭和基地の西方5kmでとどまっており、オングル海峡の海氷は無事なことが確認できました。
◆自然の巨大な力のなす光景を前にして、我々は、海峡内の海氷がこのまま維持されることを祈り、沖合で再凍結が進行するのを待つことしかできません。かといって、びくびく怯えてばかりいるわけにもいきません。海氷の推移を的確に把握することで危険や安全を見極める判断材料とし、どんな細かなチャンスも逃さずオペレーションを完遂させる努力はしていく必要があります。昭和基地では、各種の地球観測衛星が宇宙空間から撮影している画像を受信する業務を行っていますし、観測用マルチコプターも複数持ち込んでいます。なんと言っても、ここは最先端の観測基地なのです。今こそが観測プラットフォームとしての実力を発揮すべき時。ということで、海氷の状況を詳細に監視しする体制をにわかにととのえて、越冬隊の総力を挙げてこの困難な事態に対応しようとしているところです。
◆来る6月21日にはいよいよ、南極ではクリスマスよりも重要な日とされる「ミッドウィンター」を迎えます。南極探検の時代以来,どの観測基地でも盛大にお祝い行事を催す習わしになっていますが、昭和基地内でも、この越冬中最大の行事にむけて実行委員会を立ち上げて準備に取り組んでいる最中です。次にご連絡する際にはその様子もお伝えできれば思います。地平線のみなさんにもよろしくお伝えください。[澤柿教伸]
◆関係する写真を下記にアップしていますのでよろしければご覧ください。
https://cloud.sawagaki.net/index.php/s/Ni7cLcCXFAEQSHX
◆また、以下のウェブサイトやブログでも、観測隊から公式に発信している情報をご覧いただけます。
https://www.nipr.ac.jp/antarctic
https://nipr-blog.nipr.ac.jp/jare/
■今月25、26日に長野県上田市菅平の高原で「信州森フェス!」が開催されます。2011年から始まり、コロナ禍2年のブランクを経て今年が10回目。
◆二日間に渡り、音楽演奏や様々な出店、アトラクションなどがありますが、このフェスのメインは講演です。「森」や「自然」、「旅」などにまつわる様々なお話が一番のご馳走と位置付けています。まずは企画しているスタッフが楽しむことが最優先。そしてもちろん、訪れたお客さんたちも遊んで楽しんでいるうちに、なんとなく森に親しみを感じて帰ってもらえれば……という趣旨で始めた催しなのです。
◆このフェスは2009年に行ったコスタリカのエコツアーに端を発します。カリブ海と太平洋に海岸線を有する中南米の小国ですが、最高峰3900mを擁する脊梁山脈の存在と温暖多雨な気候条件の元で環境の多様性に富んでいる国です。旅の仲間は、現在森フェスの実行委員長である福永一美さんと、長男のスノーボーダー次郎くん、その友人の山岳カメラマン岳ちゃん、そして僕(長野)でした。福永さんの現地の友人たちに森を案内していただき、どっぷりと森に漬かった半月の旅でした。
◆僕以外は皆信州在住なので、帰国後信州でこの旅の報告会を考えているうちに、どうせなら大勢の人を巻き込んで森の面白さを発信しようというノリに。地元でペンションを経営し、お金はなくても面白がることにかけては人一倍という福永さんの人徳は菅平のみならず全国規模の幅広い人脈を育んでいるので、おもろい人が集まってきました。福永さんの友人のホテルオーナーから格安で貸していただいたバブリーなスキーロッヂは菅平高原の素晴らしい立地で、「森」を伝える舞台として絶好のロケーション。始めた当初は二日間で2〜3百人の集客規模でしたが、だんだんと浸透してきてコロナ前には千人ほどの来客に。駐車場のキャパなどを考えるとこれが限度です。
◆運営資金はといえば、福永さんはNPO「にっぽんこどものじゃんぐる」の代表として長らくコスタリカの熱帯雨林保護支援活動をしている方なのですが、このNPOの余剰金40万円ほどを森フェスでお借りし、それを元に始めました(もう返済しましたよ)。入場料はタダなので、他の資金は地元のお店などからの協賛金と、出店料のみです。出演者などへのわずかなギャラを支払うと、ほとんど残りません。僕を含め10名ほどのスタッフは全員手弁当。すべて手作りのフェスです。
◆いわゆるイベント業者などは一切入っておらず、毎回スタッフが春ぐらいからメールで「そろそろやる?」とつぶやき始め、ぼちぼちと準備するわけですが、不思議となんとか形になっていきます。地平線大集会の拡大版のような感じです。講演のゲストも多士済々。毎回スタッフの人脈を駆使して全国各地から興味深い講演者にきていただきます。これまで地平線関係者では服部文祥、長岡竜介、車谷建太、伊沢正名、関野吉晴、纐纈あや、今井友樹などの諸氏に参加していただきました。
◆今年は高野秀行(演題「ジャングル飯」)、小松由佳(演題「私が出会った、忘れられぬ森」)の両氏に登場していただきます。他にも自伐型林業の提唱で知られる高知県の林業家中嶋健造氏や、天然酵母パン屋「ルヴァン」のオーナー甲田幹夫氏、演奏ではシンガーソングライターの辻村マリナ氏、薩摩琵琶奏者の榎本百香氏、南インドタミル民族舞踏、県内では人気の信州プロレス興行など盛りだくさん。実は森フェスを始めた当初から「10年も続いたらやめようね」という話をしていました。今年がその10年目なので、一応最終回の予定です。興味がある方は「信州森フェス!」ウェブサイトをご参照の上、ご来場をお待ちしております。人生が変わるかもよ?[長野亮之介]
■兵庫県豊岡市を訪問するのは2回目だがホームを訪れている感覚だ。以前に訪れたのは5年前の5月2日だ。南極遠征の誓いを立てるために人力車を引いて旧国68か国の一宮を巡拝しながら6400km走ったことがある。豊岡市には但馬国一宮の出石神社参拝のために寄り植村直己冒険館にもお伺いした。伊勢内宮前で人力車を引いてる弟分が豊岡出身のため、初めて訪れたときから地元の人の家に泊まっていたし、さらに弟分の兄貴がここで自然学校をやっているので今後の冒険学校実現のためのアドバイスをよく請う。考えて見ると日本中に兄貴分や弟分がいる。国内どこに行ってもホームだ。
◆6月4日、授賞式は満席。参列者は200人程度。子どもたちの参加がないのが残念だ。緊急事態宣言以来、最も人数の多いリアルの会かもしれない。人が集まれるようになってきた印象が地方ではより感じられる。
◆授賞講演は横に手話通訳者がいるのが特徴だ。難しい言葉は使わないように留意するが、手話で使わなさそうな単語、例えばヒドゥンクレバスとかカタバ風とかはどうやって訳すのだろう、と尋ねると、例えばホワイトアウトはこうなりますよ、と顔の前で開いた手を上下に振ってくれた。固有名詞としての動きはないのかもしれないが、近い単語で代用するのだろう。手話は相当に頭脳を使うのか15分毎に交代し3人で回してる。
◆生い立ちから前回の南極遠征、今後の南極遠征について話していく。訳者に本当に申し訳ないのと思ったのが南極での脱糞の話と小学生時代のあだ名の話だ。子どものころは運動音痴で口下手でいつもグループから独りだけ外されていた。単独行の英才教育を受けていたわけだ。そんな自分についたあだ名が“ガモタツ”だった。子どもってのは案外賢くて残酷だ。ガモは秋田弁で男性器を意味する。つまり、ガモが勃つ。中学生になってフェラガモってブランドを知ったときは腰を抜かしたなぁ。
◆60分の講演を話しきる。今でも失敗した南極遠征のことを話すと声が震える。流暢な講演ではなかったが授賞式専用にアレンジしたので同じ内容で話す機会は二度とないだろう。副賞100万円は毎月わずかながら寄付している交通遺児育英会に全額寄付することにした。僕自身が4歳のときに父親を交通事故で亡くした交通遺児だからだ。そんなに楽な生活状況ではないし、次の南極遠征だって多額の資金が必要だが、予期しなかった降って湧いた収入であるため、自分のためだけに使わないほうがよいと思った。いま東京都板橋区で夢のある若者が住居費、水道光熱費、ネット代など無料で住めるシェアハウスの運営もしている。世の中は不平等で理不尽だ。だが這い上がるチャンスは必要なはずだ。世界中で人に助けられて好きな人生を送ってきた。だから自分が後進にできることをできる限りしたい。何よりそうした行為が好きなのだ。
◆冒険家に憧れたのはファザーコンプレックスのせいだ。記憶にない父親は、理想の大人像になり、10歳のときに母親が買い与えた探検家たちの冒険記にその理想像を重ねていた。冒険に憧れたわけでなく、逆境を覆していく冒険家という生き方に憧れた。この場所に立っているのはコンプレックスを強烈にこじらせたからだろう。
◆11月に引き続きの南極遠征を実行予定だが、コロナの影響は依然ある上に激しい円安や燃油代高騰というのも遠征費がかさむ原因になり、圧倒的な費用を占めるスタート地点に立つためのチャーター飛行機代に乗っかってくる。遠征予算は最大5000万円程度になるかもしれない。資金獲得の見込みがあるとはいえないが、それを覆すことが自分にとっての憧れる生き方だろう。
◆7月には子どもたちとの三陸海岸みちのく潮風トレイル冒険ウォーク。8月には南極への最終調整としてのグリーンランド徒歩横断。南極に最も近い環境はグリーンランド内陸氷床だ。クラシックなナンセンルートで東から西へ600km歩く。現代最強の極地冒険家ボルゲ・オズランドのチームが主催する高所登山の国際公募隊のようなもので南極直前のトレーニングとしては最高だろう。
◆今更、冒険ツアーに参加することに異論もあるだろうが、ぼくは今まで状況に応じて師事する人を変えて学んできたし、極地冒険は欧米の方が遥かに体系化されていて優れている。その現状を理解し、今後まだまだ極地遠征で活動していくためにも、更に外国人冒険家たちとの繋がりを大事にしていく必要もあるだろう。人からどう見えるかという外聞より、人からどう見えても自分が理想とする生き方の実現と達成のためにすべきことをするのが自分の矜持だ。
◆雑多なことに惑わされて目的と手段を履き違えてはこの生き方の意味がない。好調に見えるときこそ人生にはヒドゥンクレバスがあるもの。受賞したから慢心して歩みを止めるのではなく、より速度を上げていくこと。フンドシを何度でも締め直す。そう、楽しくなるのはここからだ。[阿部雅龍]
■6月1日から外国人の入国者数の上限や入国時、そして日本人の帰国時の検査の簡略化が始まり、みなさん、各地への渡航に向けて動き出していることと思います。地平線報告会も、そろそろ会場で開催されるのでしょうか。
◆出国時のPCR検査が不要になり、ワクチン接種3回の証明書で帰国時の自宅隔離がなくなるだろうという話が出始めたところで航空券を手配し、5月23日にネパールに来ました。2年半ぶりのカトマンドゥ、外出時は、排気ガス対策でマスクは必須ですが、ひと月前にこちらに来ていたアジャルから聞いていた通り、そして一般の人だけでなく、彼の親戚の医者たちも「ネパールは今、コロナはないから」と話すように、町中でコロナを意識させられることはほぼありません。
◆2年半ぶりのカトマンドゥは、大きな交差点で信号に右折の青矢や時間表記(赤の待ち時間)が出たり、人と車の多い(いや、どこも多いので、とりわけ多い)ところに歩道橋ができたり、と、交通渋滞解消に向けた多少の努力は見られますが、交通渋滞と並ぶ重要なインフラ、ゴミ問題がピークに達しています。
◆これは2005年にカトマンドゥ近郊の町シシドルが、当時のカトマンドゥ市長らの要請を受けて、仮の廃棄地として3年間、ゴミの受け入れを容認している間に、建設が決まっていたバンチャレダンダ(シシドルの西1.9キロ)の整備が進まなかったためで、事の発端は17年前にさかのぼります。
◆この間、約束を反故にされてきたシシドルの住人はストを起こし、その結果、町中のゴミが回収されない状況が続いています。人口増加に伴う年間のゴミの廃棄量は2000年代前半の10倍になり、廃棄地は完全にキャパシティを超え、回収されないのに道に出されたゴミは、何十メートルも離れた場所にいてもわかるほど異臭を放っています。
◆アジャルの家は、ネパール最大のヒンドゥ寺院パシュパティに近く、カトマンドゥでも人口密度が高いバッティスプタリという地域にあるのですが、わたしが来てから3週間近く、ゴミの回収は一度もされていません。表通りに出るコーナーには回収されないのに出されるゴミが廃棄されています。
◆ただ、外国人が多く、高級レストランやショップの多いカトマンドゥ南部のラリットプル市や、南西のキルティプル市では、バッティスプタリのような状況は見られません。羨ましいなあと思っていたら、ラリットプル市では、とりあえず回収されたゴミが、バグマティ川沿いの橋の下などに廃棄されていました……。
◆ネパールでは、5月半ばに地方選挙が行われ、無党派で32歳の構造エンジニアでラッパーとしても知られるバレンドラ・サハ(通称バレン)が、他の候補に大きな差(バレンは61000票以上、次点の候補は約38000票で)をつけて、カトマンドゥ市の市長に選ばれました。
◆新市長バレンも過去10数年のツケというべきこの問題は最重要課題と話していて、市長選出後、すぐにバンチャレダンダに視察に行っていますが、これまでの経緯などを読むと、この状況をどう解決できるのだろうと、思ってしまいます。
◆日刊紙「カトマンドゥポスト」によると、6月9日の夜に、市とシシドル、そしてバンチャレダンダの住人のあいだで、18の約束が交わされ、10日から夜間のみ、回収車によるゴミの運搬が始まったようです。2つの町はカトマンドゥ市に対して1か月以内にSmell Free Zone(悪臭のないゾーン)の設置を求めていますが、50メートル離れていても異臭を放つゴミの傍を通るたびに、自分の住んでいるすぐそばでこういう事態が発生したら……と想像するだけで恐ろしくなります。
◆6月10日(金)前後からむき出しのゴミを大型のプラスチック袋に入れ、消毒薬を撒く作業が始まりました。デーヴァナガリ文字は、「監視カメラでチェックしているので、ゴミを捨てた人間は50000ルピー罰金」という内容のことが書かれています(見たところ、監視カメラはありませんが)。
◆久しぶりのカトマンドゥではゴミのことが頭から離れませんでしたが、次回来るときには、この問題が少しでも改善されてほしいと思います。もうひとつ、諸物価は各地で上昇しているのでしょうが、ネパールも同様で、日本円は弱くなっているなあと、改めて感じています。[塚田恭子]
塚田さんが撮影した《ゴミの写真》をweb版地平線通信限定で公開します(紙版では写真の印刷が難しいので)。 《ゴミの写真》をクリックしてください。
八ヶ岳の山小屋でアンデスの笛・ケーナの音色をお楽しみください。今年で44年目の開催です。ぜひ皆さまお越しくださいませ。
●日時 2022年7月9日(土)19:00より
●場所 八ヶ岳、黒百合ヒュッテ
JR茅野駅下車、バス渋の湯、徒歩3時間
●演奏 長岡竜介/ケーナ/サンポーニャ/ボーカル
長岡のり子/ピアノ
●料金 宿泊者無料
●お問い合わせ 黒百合ヒュッテ 0266-72-3613 090-2533-0620(小屋直通)
長岡音楽事務所 03-3709-1298
■バイクでの北極点&南極点到達という偉業を達成した冒険家の風間深志さんは、10年前にSSTR(サンライズ・サンセット・ツーリング・ラリー)を立ち上げました。日の出時刻に太平洋岸を出発し、日の入時刻までに能登半島の「千里浜なぎさドライブウェイ」にゴールするという参加者が自由自在のコースで走れるツーリングラリーなのです。最初は200人にも満たない参加者でしたが、毎年、倍々ゲームのように参加者が増え、何と10年後の今年は10000人を超えようかという勢い。今やライダーにとっては国民的行事であり、地元の羽咋市のみならず、能登全体でSSTRを歓迎してくれています。パワーあふれる石川県知事も千里浜に駆けつけてSSTRを熱く応援してくれています。
◆5月21日から5月29日までの間で、何日かに分けての「SSTR2022」、カソリの参戦は5月24日でした。スタート地点は相模湾の大磯漁港。夜明けの岸壁に相棒のスズキVストローム250とともに立ちました。ゼッケンは100番。この100番というのは10年来変わらないゲストライダー、カソリのナンバーなのです。4時31分、日の出時刻とともにスタート。大磯漁港からは国道134号→新湘南バイパス→圏央道経由で中央道に入り、5時33分、談合坂SAに到着。ここでラリー帳に第1発目のスタンプを押しました。
◆6時26分、中央道の双葉SAに到着。ここではラリー帳にスタンプを押した後、レストランで「ほうとう」を食べました。甲州路を走ると、無性に「ほうとう」を食べたくなるのです。7時45分、中央道の諏訪湖SAに到着。諏訪湖SAを過ぎると岡谷JCTで長野道に入り、8時18分、梓川SAに到着。残雪の北アルプスの山々を眺めながら「ざるそば」を食べました。信州そばを味わうのには「ざるそば」が一番。
◆梓川SAを過ぎた安曇野ICで高速道を降りると、県道306号→国道147号で大町へ。大町から見る青空を背にした残雪の北アルプスは強烈な眺めで目の底に残りました。大町からは国道148号で糸魚川へ。佐野坂峠を越えて長野県から新潟県に入り、11時50分、北陸道の糸魚川ICに到着。出発点の大磯漁港から333キロ。「大磯→糸魚川」のルートでの本州縦断です。ここからは時間との勝負になるので、SAに寄ることもなく、北陸道をただひたすらに走ります。
◆新潟県から富山県に入り、黒部、魚津、富山を通り、小矢部砺波JCTからは能越道を北へ。13時04分、能越道の料金所に到着。ここが「狼煙」まで行くかどうかを決めるSSTR一番の思案のしどころ。能登半島最先端の狼煙まで行けば距離を稼げるし、SSTR一番の面白さは距離を走ることだと思っているので、何としても狼煙までは走りたいと思うのです。しかし失敗すると、千里浜へのゴールが日没後ということになり、失格してしまうのです。この10年のSSTRを振り返るとカソリ、2015年5月30日に、自身の最長記録を打ち立てました。日の出時刻の4時15分に青森港をスタートし、18時50分に千里浜にゴール。19時05分の日の入時刻に間に合わせたのです。1222キロを走っての千里浜へのゴールでしたが、この時も能越道の料金所を出たところで狼煙まで行こうかどうしようか、さんざん迷いました。そんな迷いを振り払って、狼煙まで行ったおかげで、「1222キロ」を走ることができたのです。今回も2015年の「青森→千里浜」のシーンが頭をよぎり、「よーし、狼煙に行こう!」と決めたのでした。
◆能越道で七尾へ。13時50分、七尾に到着。七尾は能登国の国府所在地。能越道から国道159号に出たところには能登国分寺跡があります。そこでは復元された南門を見ました。国道159号で七尾の中心街に入ったところは「古府町」の交差点。古府の地名こそ能登国府の証明です。七尾からは国道249号→能越道→のと里山海道を走り、のと里山空港ICへ。そこからは快走路の珠洲道路を走り、珠洲では能登のシンボルの見附島を見ていきました。「軍艦島」で知られる見附島は見れば見るほど軍艦に似ています。最後はちょっと迷いやすいルートですが、15時45分に道の駅「狼煙」に到着。「やったね!」という気分です。最後のスタンプをラリー帳に押すと、能登半島最先端の岬、禄剛崎まで歩き、広い園地の先にある灯台を見ました。
◆16時30分、道の駅「狼煙」を出発。のと里山空港ICまで戻ると、のと里山海道を一気に走り、千里浜ICを過ぎた次の今浜ICで降り、長くつづく「なぎさドライブウェイ」を走りました。胸にジーンとくるビクトリーラン。18時45分、千里浜にゴール。スタート地点の大磯漁港から744キロ。水平線に落ちていく夕日を眺めていると、「また、明日から頑張ろう!」という気持ちが心の奥底から湧き上がってくるのです。これこそがSSTRの大いなる魅力。「自分はまだまだやれる!」という自信がこみ上げてくるのです。19時01分、真赤な夕日が日本海の水平線に落ちていきました。[賀曽利隆]
■記録的な大雪の真っ白な世界から、嬉しい春を迎え、ようやく山菜の時期となりました。初夏を感じる伊南川も「藤の花」や「タニウツギ」の美しい季節となりました。この春から地元(南会津町内)の全校生70名あまりの小学校で講師として働きつつ、家業の民宿業も細々と続けています。地元の伊南小学校はここ数年で半減し全校生32名となり、少子化も加速しています。来年度は地元の高校統合で、自宅から通える南会津高校はなくなるため、息子は来春の高校進学を機に16歳で家を離れる可能性もかなり大きくなってきました。一人の村人、一人の子どもが大切な地域に暮らしながら、ロシア・ウクライナ戦争で死傷している数えきれない人たちのことを想うと表現する言葉も見つかりません。我が家の92歳の爺ちゃんは戦争経験者でもあるので、当時を思い出しながら新聞やテレビを静かに眺めています。
◆さて、私も『宮本常一と民俗学』(森本孝著)を読ませていただきました。今も何度も読み返しています。宮本常一さんのお名前は地平線会議を通して存じ上げていました。が、この本を通して地平線会議に出逢えたことに「さらに」感謝の気持ちが溢れてきました。日常的にテレビドラマを見ることは殆どないのですが、昨年1年間「渋沢栄一」の人生を取り上げていた大河ドラマを家族と興味深く全編見ました。その中で孫の「渋沢敬三」という名を知りました。その渋沢敬三さんが、宮本常一さんの恩師であり、宮本常一さんの人生に大きな影響を与えていた方とは……改めて地平線会議とは歴史上の人物との出逢いだったのだと痛感しました。毎年、突撃訪問してくれる生涯旅人の賀曽利隆さんも、相沢韶男さんが保存に尽力を費やしてくれた南会津のかやぶき屋根集落の大内宿も本に登場していて、今私が南会津に暮らしているのも、何かのご縁でここに居るんだなと思いました。
◆伊南川流域での暮らしも気が付けば20年余りとなり、この地の良さも厳しさも身に染みるようになってきました。最後に宮本常一さんの言葉で心に響いた箇所を抜粋させていただきます。「かれらは貧しいけれども勤勉で善良だった。ずるい人もいるがせいいっぱい生き、平凡に死んでいく人たちである。その人たちにも歴史はある。民衆のひとりひとりに歴史があり、しかもその人たちによって文化は発展してきた。だがそれはまだ本当に発掘されていない」(114ページ)。この村で私にできることはそんなに多くないけれど、この土地で精一杯に生きている人たちから学べることを大切に暮らしていきたいと思います。[酒井富美]
■故郷の福島県楢葉町でのキャンプイベント「キャンプミーティングinならは」を先日開催しました。コロナでここ2年程見送ってきましたが、今回で4回目となるキャンプに約100人の方々にご参加いただきました。東日本大震災から1年半の間、楢葉町は警戒区域となり住民の立入りが一切制限された時期がありました。雑草が鬱蒼と生い茂り、芝地は荒れ果てて無残な姿に変わってしまった天神岬キャンプ場に再び多くの人に訪れて欲しい、そんな思いがきっかけとなり、2017年にバイク雑誌社主催のイベントとして開催したのが始まりでした。
◆当日は穏やかな日差しで絶好のキャンプ日和。ふるまいとして準備した豚汁は地元の同級生が提供してくれました。まずは毎回ゲストとしてお招きしている賀曽利隆さんのトークショーからスタートです。毎年3月の東北太平洋岸を巡る「鵜ノ子岬〜尻屋崎」を通して、11年間被災地域を見続けてきた賀曽利さんならではのお話をしていただきました。夕暮れ時から焚き火をスタート。各自テントの前で焚き火を楽しむ人も多く、皆さん思い思いのスタイルでキャンプを楽しまれている様子がとても嬉しく感じました。
◆参加者の中での最遠方者は福岡県博多からの若者でした。「賀曽利さんに会いたい!」その思いで新幹線と電車を乗り継いで楢葉町に来てくれた彼の話を聞いて更に驚きました。不自由な左手をカバーしてママチャリで日本一周を走破し、更にバイクで日本一周〜世界一周する熱い思いを持っている方だったのです。そんな彼が夜中まで賀曽利さんと語り合っているシーンを見て、今回開催して本当によかった、としみじみ思いました。彼は賀曽利さんと直に話して勇気とパワーをもらったのではないでしょうか。やはり何かを伝える、伝わるのは「フェイスtoフェイス」ですね。今回のイベントを開催して一番嬉しかったことです。
◆焚き火は一晩中燃やし続け、山のように集めた薪は全て燃やし尽くしました。キャンプや焚き火を通じてこうした交流の場をつくる活動を今後とも継続して実施していければと考えております。[福島県楢葉町 渡辺哲]
■初めましての方、あるいは覚えていない方がほとんどだと思いますので、簡単にではありますがまずは自己紹介をさせてください。私は北海道大学探検部に所属しており(現5年目)、現在は大学を休学して西表島でシーカヤックのガイドをしています(その経緯についてはまた後ほど書かせていただきます)。探検部入部に伴い直属の先輩である五十嵐宥樹氏より地平線会議について教えていただき、江本さんと知り合う中で、3年前に一度、通信に一度目の休学での経験談を寄稿させていただきました。この度、江本さんから寄稿の依頼をいただきましたので、この3年間での活動やその中で得た気づきを共有させてください。
◆3年前の今日、私は東欧ブルガリアの片田舎にて、香水用のバラを摘んでいました。有機農家さんの作業を手伝う代わりに、食住を提供していただく世界規模での取り組みWWOOF(World Wide Opportunities on Organic Farms)を利用して各地の農家さんを訪れていたのです。観光客など皆無の場所に、ほとんどお金を使うことなく滞在できるというだけで十分いい思いをさせてもらったのですが、各国現地の人たちとの暮らしはどれも素晴らしい経験と探検観と人生観に数々の重要な要素を与えてくれました。
◆例えば、ブルガリアでのこと。今にもギリシャ神話の神々が降臨してきそうな美しい大地のなかで日々、土を踏み、陽の光を浴び、バラ摘み作業仲間たちと食事を囲む暮らしは、生まれ育った東京や大学生活を送る札幌での暮らしとは対極的な、「動物としての人間」であることの根源的な幸せを感じさせてくれました。
◆滞在した村には多くのロマが生活していました。彼らは何世紀にもわたって差別と貧困の的にされてきましたが、そのことを忘れさせてしまうほどに明るく、愛に深く、人間味のある人々でした。彼らは初めてみる日本人すらも陽気に迎え入れ、教会(と言っても教会に十字架はなく、ブルガリアで最も主力のブルガリア正教会や隣国トルコで盛んなイスラム教とも異なるような独自の宗教体系でした)に招待してくれたり、髪を切ってくれたりと、彼らなりの厚いもてなしをしてくれました。
◆そうした各地の農家さんとの暮らしや人々との出会いが、今に至る「人間と自然」への関心を再認識させてくれたように思います。1999年に生まれた私は物心がついたときにはすでに地球温暖化やゴミの問題、森林破壊や文化の消滅が叫ばれていました。そんな中で育った私は、都会に生活しながらも、あるいは生活しているからこそか、「このままの暮らしを続けていてはまずいのでは」と思うようになりました。同様の考えを持つ各地域の農家さんたちとの共同生活によりその疑問は確信へと変わり、その後の日本の街道旅によりますます強くなっていきました。
◆農家さんの手伝いをしながらいくつかの国を周った後、祖国でありながらほとんど表面的にしか知らなかった日本を、かつての街道(北から松前街道、羽州街道、奥州街道、北国街道、甲州街道、中山道、東海道、山陽道、山陰道、長崎街道など)を通って自転車行脚することにしました。2019年の夏より始めて計7か月に及ぶ長い旅であったので、道中での出来事を紹介することはまたの機会とさせていただきます(旅路の詳細を知りたい方は、私のインスタグラムアカウント「exploring_archives」をご確認ください。旅の記録を写真と共に掲載しています)が、今これを読んでくださっている方々、特に若い方に対しては「日本には言語や文化の特異さ、多様さ、そして美しさがいまだ各地に残っている」こと、「一方で何世紀もの長大な時間をかけて形成されたはずのそれらが、急速に失われようとしている」ことを共有したいです。
◆街道を旅していると、国の指定する重伝建地区(重要伝統的建造物群保存地区。国は市町村が行う修理・修景事業、防災設備の設置事業等に対して補助し、税制優遇措置を設ける等の支援を行っている。令和3年8月2日現在、全国126地区が指定)や、昔話に登場するような風景の中を行くことがよくあります。そのような場所には、私が生まれ育った東京や大学生活を送る札幌のような都会市民とは全く別の国、別の時代を生きているのではないかと錯覚するほどに、伝統的な暮らしを受け継いでいる人がいるのです。そしてその暮らしは、地域の地形、植生や気候によって実にさまざまですが、しかし押し並べて洗練された美しさがありました。日本という国を東京や札幌など一部の地域でしか捉えられなかった自分にとって、その多様さと美しさを目にできたことは大きな財産となりました。
◆しかし同時に、日本の多様さと美しさが一極集中化や過剰な利便性の追求、グローバリゼーション等によって失われようとしている、あるいは既に失われている現場を頻繁に目の当たりにしました。多くの地域で、かつての伝統的な住居が空き家になって取り壊されているか、その地域の独自性を完全に無視した、画一的な箱型の家に成り果ててしまっています。家の前を通る街道のことすらほとんど知らない住民との出会いも稀なことではありませんでした。暮らしが変容することは決して悪いことではないと思いますが、しかし先人たちから受け継がれた伝統や智恵、技術を忘れることがあってはならないと思います。そうした「遺産の忘却」は、日本の多様さと美しさを失うだけでなく、結局は私たちの暮らしを不便なものへと変えてしまうのではないでしょうか。
◆北海道から沖縄まで、ちょうど日本を半周し、その足で向かった台湾を一周し終えたころ、コロナ禍での入出国規制が始まりました。しかし私にとってその規制は障壁になるどころか、むしろ好機になりました。それは人の減った、残る半周分の日本の町並みをじっくりと見て回ることができたからだけでなく、私のような若年層が自分の足元を見つめ直す契機になったためです。今日、「地理的探検の時代は終わった」と言われて久しいように、人類は世界の隅々まで足跡を残し、各地を繋げてきました。ところがその繋がりは限りなく大きなものとなり、エネルギーや食料など生きる上で必要な物資を他国から輸入しなければならなくなったり、ウイルスが急速に広がるようになってしまいました。先述した「遺産の忘却」も、日本に限らず世界各地で発生しているように思えます。そんな今だからこそ、まずは足元に眠る伝統や智恵や技術を掘り起こし、これからの暮らし、ひいては世界の在り方を「探検」していきたいと思っています。
◆以上、取り留めもなく書かせていただきましたが、ここまで大分長くなってしまったので、コロナ禍での北海道でのアイヌ関連活動や現在ガイドとして暮らしている西表島での生活の様子は次号以降にて書かせて頂ければと思います。拙い文章で大変恐縮ですが、お付き合いいただけましたら幸いです。[岩瀬龍之介]
夏の昼下がり
開け放たれた電車のシートに
少年がぐったりと横たわって
少年におおいかぶさるように
深くこうべを垂れて
そのお母さんも一緒に眠っている
隣にまじまじと目を見開いて
きょときょとしながらも
少年の手を離さないでいるのは
どうやらお姉さんのようだ
弟が転げ落ちないようにと気遣って…
少年よ
君がこれから目覚める多くの場所に
お母さんも
お姉さんすらもはやいないだろう
けれども少年よ
君が最後の眠りに就くとき
お母さんのひざまくらと
お姉さんのたなごころは
きっとあるだろう
入道雲の見下ろす
小さな田舎の駅で
君が夢見ていた時のように[豊田和司]
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■地平線通信の感想をおくらせていただきます。まずは4月号です(5月号も書きます)。まず素敵だったと頭に浮かぶのは小松由佳さんの「石ころ」。お子さんと一緒に山の夜にもぐった1日のことがいきいきと伝わってきました。そして子供たちに対する姿勢が素敵だなあと思ったのです。自然の大きさや日常と隣り合わせの非日常を感覚的に知った子供たちには、きっとその後もその感覚が残る。自然のなかに入らないと直感も育たないのではと考えさせられました。そのような経験を子供であれ大人であれ誰からも奪ってはならないのではないかと思うのです。
◆また瀧本柚妃さん、お久しぶりではないでしょうか。とっても面白くて、どこか年齢離れした客観的な視点と文章が印象的です。またモンゴルに何度も行ったことがあることに憧憬の念を抱きます。いいなあ。他方で面白いのは、瀧本さんのなかに日本の学校とモンゴルの草原の双方が共在しているところです。どんな風に世界が見えているのでしょう。地平線通信は、私の知らない世界への扉をばかばかと開いてくれる。他方で、文章から読み取りきれない、大きくて深くて感覚的な世界もまた個人のなかにあることを想像します。同世代の方も多くいらっしゃると思えば、大々先輩方もいらっしゃり、大変面白かったです。
◆5月号では地平線文化部とでもいうのか、演劇に演奏会にと楽しそうなお話がありました。好きなことをする人は魅力的だなあとしみじみ思います。ケーナ? チャンチキ? どんな音がするのでしょう。またそれぞれの楽器は生まれた文化の中でどんな役割を担ってきたのでしょう。関心は尽きません。
◆また「青森を『イグルー王国』に」を書いた佐々木豊志さんにはイグルー作りを習いたい……。九州に住んでいると生活のなかの雪はあまりなく、雪山の経験も乏しくなりがちで、「雪に慣れる」が目標になるようなところがあります。イグルーは雪洞に比べると条件がすくなく作りやすいイメージがあり、身に付けたい技術のひとつです。
◆またうわあ、と言ってしまったのが林業会社で働きはじめた、という小口さんのP.S.です。さらっと書いておられるのですが(そこも素敵だなあと思いますが)、北アルプスの麓にいらっしゃるのですね……いいなあ。
◆ 2か月分の通信を読んでいる間、「いいなあ」が溢れて幸せでした。[安平ゆう 九州大山岳部]
■長い間ご無沙汰して申し訳ありませんでした。月山の山奥の村、田麦俣から現在の天童の田麦野に引っ越ししてからもう7年位がたちます。引越しした原因も左目にバイキン(アメーバ)が入り、山形大学の病院に7か月入院しましたが、とうとう左目は失明し、積雪4メートルにもなる豪雪地の生活は難しいと判断したためです。
◆現在の田麦野の山あいの小さな部落では積雪は1メートルぐらいあるのですが、トタン屋根なので積もった雪は自然に滑り落ち、除雪機もあるので家の前の道70メートルを除雪するのも楽にできます。雪の中での生活は田麦俣に住んでいたときより100分の1位楽になりました。
◆こちらに住んでからも良いこと悪いこといろいろあって江本さんからお電話いただいたとき何か地平線通信に書けるものがあると思ったのですが、長くまとまった文章にするにはちょっと物足りない出来事ばかりで、地平線に書けるのは私が本当におもしろいと思った出来事に遭遇したときではないかと思っています。
◆面白かった出来事は、2年前飯豊山の山頂で5頭の熊に囲まれたり、田麦俣に住んでいたときは見ることもできなかったイノシシに何度も出会い、車にはねられたイノシシを3回も拾うことができたり、また畑に作ったトウモロコシ40本がサルの群れに全て食べられたり、一生懸命皮をむいて吊るした干し柿100個がサルに全て食べられたり。相変わらず自然の中で野生と向き合って生活しています。
◆ここ2年ほどはコロナで遠くの山にも行けないでいますが、今年の夏からはまた大きな山にも出かけて行きたいと思っているので、もしまた面白い出来事があったら地平線通信にも書かせていただきたいと思います。
◆右の方の目も白内障気味になりヒザの関節にも痛みが出てきましたが、歩ける限りは山を登り続けたいと思っています。江本さんもいつまでもお元気でお暮らしください。[6月1日 松原英俊]
■地平線通信517号(2022年5月号)は5月18日午後印刷、封入作業をし、夜のうちに新宿局に渡しました。今月も以下の皆さんに汗をかいてもらいました。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 長岡竜介 高世泉 伊藤里香 白根全 落合大祐 武田力 江本嘉伸
■私は例によって遅れて駆けつけたのですが、作業の間も後の簡単な食事の間も話題は表紙の題字のことでした。毎月毎月、いろんな表現で題字を描く長野亮之介画伯のひねりが先月号は格別に効いていて、私含めて皆さん、??という状態でした(ただし武田君はすばやく解けた、とのこと)。正解は12ページに。皆さん、ありがとう!
■ヒマラヤの世界から離れ、草原や砂漠を旅しながらフォトグラファーを夢見ていた20代半ば、私は東京郊外の牧場で働いていた。太陽の下で働く喜びと、牛糞にまみれた毎日だった。早朝に起き出し、牛たちを集め、乳を絞る。その後で、コーヒー工場から運ばれたコーヒーの粉末や、チョコレート工場から運ばれたカカオ豆の殻を牛の寝床にまくのだ。ある日、カカオ豆の殻に見慣れないものが混じっていた。
◆それはタバコの吸い殻と、しわくちゃになった紙幣だった。紙幣は広げてみたところ、ガーナのものであることがわかった。カカオ豆の収穫をした労働者たちが休憩中に置き忘れたか、落としてしまったものだろう。彼らは日陰でタバコを吸っていたのかもしれない。冗談を言って笑い合っていたのかもしれない。こうして紙幣がカカオ豆に混ざり、海を渡ってやって来たのだろう。
◆私はうっとりと想像をふくらませた。日本の片隅で牛の世話をする私と、遠いアフリカの地が繋がっていることに驚きながら。
◆初めて「ドキュメンタリー」というものを意識したのもこのときだ。人と人とが、本人さえ知らない間に繋がり合って存在している。そんなこの世界の面白さ、人間同士のつながりを、写真で表現したいと思ったものだ。
◆カカオ豆の収穫をしたガーナの労働者が、何気なく混入させたタバコの吸い殻と紙幣が、その後の私の道を決定づけてくれた。ときに見知らぬ人間との出会いが、大切な何かを教えてくれることがあるから、人生とは不思議なものだ。
◆ 2005年のチョモランマ(エベレスト)登山での出会いもそうだった。高度順応の遅れから、早々にアタック隊員から外された私は、失意のうちに日々を過ごしていた。ある日、5200メートルのベースキャンプにほど近い高台に登ると、遭難者の墓場があった。ある小さな墓石に目が留まる。「パパはここにいる」。フランス語でそう刻まれていた。チョモランマで亡くなったフランス人の登山家。その娘である少女がここに立ち、山を眺め、父を思ったのだろう。その姿をいつまでも思い浮かべた。
◆同じくチョモランマで、吹雪のなか彷徨し、チベット人のヤク飼いのテントにたどり着いた。雪の吹き込む簡素なテントで、焚き火の灯りに照らされた老人の横顔が、なんと美しかったことか。チベットの太陽に焼かれた黒い皮膚に刻まれた皺は、ヒマラヤの谷のように深く、荘厳だった。焚き火を囲み、ともに黙って火を見つめたあの老人の表情を今も忘れることはない。翌朝老人は、背に雪の降り積もったヤクの群れを連れ、上へと登っていった。老人とは言葉が全く通じなかったが、人間としての心の通い合いがあった。
◆山を登るために、私はこの山に来た。だが、世界最高峰チョモランマをめぐる人間の渇望を目にするうち、私はそこから離れたものにこそ、自分の進むべき道を感じていった。
◆翌2006年、世界第二の高峰K2を登ったが、この山での経験から、自分が求めるものが高みにではなく、地にあることを確信した。そうして私は、人間の素朴な営みに潜む豊かさに魅せられ、今も長い旅の途上にいる。
◆人間は強くあるため、生きるために、イデオロギーを生み出す。そしてそれは、ときに真実を覆うことさえある。だが、生きた人間がそこに生きている「存在そのもの」は、決して覆うことができない真実だ。私は写真家として、人間がそこにあるという真実を見つめ、唯一無二の物語を記録していきたい。
◆写真を撮る、ということは私にとり、祈りのようなものだ。やがて消えゆく目の前の光景を、ほんの一瞬とどめたいという、かすかな希望なのだ。
◆「名のない星」という言葉が好きだ。夜空は、星座の星のように、名のある星の光によって美しいのではない。名のない多くの星のかすかな光によって、夜空は輝くのだ。私はそうした名のない星々の光を感じていたい。そうして道のない道を歩き、やがて磨耗し、路傍の小さな石ころとなって土に埋もれていきたい。<完>
■地平線通信5月号について、こんな問い合わせメールがあった。「517号の表題を解けませんでした。七六が2つあり、『あ、これがちへいせんつうしん』の『ん』というのはわかりますが、あとは???です。次号にでも種明かしをお願いします(千葉県柏市 上舘良雄)」。
◆編集長の私もすぐにはわからない。さて、と思案していると岡山の北川文夫さんから「地平線通信が本日5月23日に着きました。題字は、「いろはにほへと」を7文字づつ並べて表にしたものを行番号と行内の順番を並べたものですね」ときた。
◆続いて大阪の岸本実千代さんからも以下のメールが。「今回の題字、通信が着く前から話題になっていたので、心待ちにしていました。そして、私はひらめいてしまい、解読することができました。さすが、私! みんなに自慢したら、ぜひ江本さんに報告するようにアドバイスいただいたので、メールしました。すごい題字ですね。長野さんさすが。これからの通信の楽しみがまた増えました(六三 六七 七三 一七 六六 ニ一 三一 岸本実千代)」。
◆大阪の中島ねこさんからも「いろは歌の七句切りの行と列に当てはめると出てきました(最初は七五調に当てはめようとし、苦戦しました)」と正解が。
◆最後に描いた当人、長野亮之介画伯に「正解」を書いてもらった。「今回の題字のヒミツですが、これは戦国時代の武将、上杉謙信が使ったとされる『上杉暗号』です。一般に《換字式暗号》といわれる暗号です。いろは48文字を7文字ずつ右から縦に7列に並べます。7文字ずつですから、横にも7行できます。
◆列(縦)には右から1〜7の数字を振り、行(横)には上から1〜7の数字を振ります。すると、いろはの『い』は1列の1行目になるので、1-1、『ろ』は1列の2行目ですから1-2、という具合に、文字を数字の組み合わせに置換できます。最後の『ん』は7列の6行目なので、7-6となります。数字を漢数字で表して『ちへいせんつうしん』と綴ったのが、今回の題字です。
◆上杉暗号が使われたのは戦国時代なので基本の文字群は『いろは』を使い、濁点などの表記方法もありません。『地平線会議』は『チヘイセンカイキ』となり、解読してもちょっと読みづらいですが、日本語を知っていれば想像できる範囲です。『地平線通信』には濁点がなくてラッキーでした。
◆ちなみに、使う文字群をアイウエオにしてもいいし、アルファベットに応用することも可能です。もちろん、行と列の数を変えればもっと複雑にもできますが、元の文字群が広く知られているものならば、比較的解読しやすいとされる暗号です」。
◆そんなわけで正解した北川さん、実千代さん、ねこさんには記念に江本も一部書いている「日本人とエベレスト」を送らせてもらいました。[江本嘉伸]
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。
天野賢一/小林由美子(5000円 通信費とカンパです。毎号、興味深く読んでいます。世界は広いのに、視野が狭い我が身を振り返る、どこを読んでも面白い通信です。ありがとうございます。心から離れないロシアのウクライナ侵攻の大問題に、ドイツ軍兵士には「抗命権」と言う自分の良心に鑑みて、命令に従わないで良い権利があると新聞報道で知りました。軍隊が必要悪な中で希望です。ウクライナの理不尽な悲しみと共に、ロシアの若い兵士1人1人を殺人者にしている事態も悲しいです。延江さんの「インド通信」行動記録と、だけでないところが楽しみです…朝日新聞掲載記事の取扱い方に私も感心いたしました。「父の骨」も良かったです。急速に都会化するモンゴルで「祖母を鳥葬に出来て本当に良かった」と若いガイドから聞いて、何か喜ばしい感じがしたことを思い出しまた。これからも、宜しくお願いいたします)/小村壽子(10000円 毎月楽しみに待っていて生きる元気を頂いています。通信が届くと直ぐに読みます。江本さん、お身体大切にされますように! 83才になりました )/佐藤泉(通信費です。73才の自転車旅を後押ししてもらっています。毎月、楽しく拝読しております)/長塚進吉/松尾清晴(20000円 1月中旬、突然両手両足が動かなくなり、入院、手術を受けました。おかげさまで無事歩けるようになりました。毎月の通信、素晴らしいです。「紙の力」の凄さを感じています。これからもよろしく!
■1948年の英国からの独立以来、「最悪の経済危機」に陥っているスリランカ――。食料や燃料などの日用品から医薬品、インフラまでのほとんどを輸入に頼る島国で、急速に外貨準備が底をつき、物不足とインフレ、停電などで日常生活が困難になったため、3月以来、政府の無策に対する国民の抗議活動が続いていたことはご承知だろう。
◆その抗議活動は、首相以下の全閣僚が辞任して入れ替わった今も「元凶」と目される大統領の辞任を求めて続いているが、政情不安の状況は5月初めの混乱期に比べれば少し収まったように見える。大統領と首相の兄弟ら7人もの親族で大臣などの要職を独占し、政治を私物化してきたラジャパクサ一族の支配構造が、少しは弱まったからでもあろうか。
◆すでに報じられているように、この経済危機は、最大の外貨収入源だった外国人観光客がコロナ禍で途絶えたことと、ロシアのウクライナ侵攻などで原油や食料が高騰して物流も滞ったことが直接の原因とされている。だが、もっと大きな要因としては2009年に長い内戦が終結した後、インフラ整備を急ぐ政府が海外からの融資に財源を頼り過ぎ、中国による「債務の罠」に落ちるなどして、利払いで首が回らなくなっていたことが挙げられる。そのくせラジャパクサ一族には不正蓄財(海外融資の一部簒奪)の疑いも噂される現状だから、国民が怒って政情不安となるのも当然というものだろう。
◆しかし、そんな状態でも国内の治安は保たれ、大多数の人々も落ち着いて苦難に耐えているところを見ると、私個人はこの国の一種の「底力」を感じないわけにはいかない。過去半世紀以上この国を見てきた両目の裏側には、1970年代の食糧難の折にジャングルの池(古代貯水池の跡)から蓮の実を採ってきて主食にしたり、町の学校の校庭を耕して生育の早いイモ類を植えたりしていた人々の逞しい姿が去来する。搾取された植民地支配や独立後の内戦などを経て、人々はさまざまな苦難のなかで日常生活を保つことに慣れているのだ。
◆振り返れば、私はそんな人々の「強さ」に甘える形で、これまで密林遺跡の探検を続けてきたのかもしれない。少ない食料を分けてもらい、内戦で襲撃されて多くの知人が死んだ村で再訪を温かく迎えられ、戦闘中に地雷で片足を失った元兵士の農民が義足で密林のガイドについてくれたりもした。文字どおり「有り難いこと」の連続だった。
◆そうやって続けてきた探検が、1973年の最初の遠征から数えると、来年でちょうど50年目になる。スリランカ政府考古局からの要請もあるので、今後の数年は国内最大の川、マハウェリ川の下流域のジャングルで遺跡探査をする予定にしていたのだが、この2年間はコロナ禍で活動できなかった。今年もこの状況では難しいだろうが、節目の年となる来年を期して、本格的な探査隊による活動を再開しようと考えている。そのための打ち合わせと偵察のために、今年は7月21日から1か月ほど現地へ行ってみる予定だ。
◆今度の現場は、少数民族タミル人の居住区域に当たり、私にとっては50年前に本流をゴムボートで通過しただけの初めてのフィールド。密林を複雑な水路が走り、移動には舟が便利そうだから、どんな舟が適しているのか、また仏教遺跡とヒンドゥー教遺跡との分布はどうなっているのか、ヒンドゥー教徒であるタミル人の仏教遺跡への意識は……など、研究すべき課題は多い。今回の国内の混乱が、民族問題ではなく、むしろ民族を超えての一致した政治と経済の問題であることが、救いといえば救いだろうか。
◆とにかく、どんな状況でも現地の本当の様子は行ってみなければわからない。わからなければ動けない。動くためには、まず一歩を踏み出すしかない。「状況」には自分という主体も含まれ、その意思が状況をも動かすのだから、行かないことには何も始まらないのだ。そんな当然のことさえ、コロナ禍による蟄居が長引いて出不精となった私は忘れていたようだ。
◆先日、Facebookや電話で訪問の意図を告げると、友人知人らはこぞって歓迎の意を示してくれた。そして現地では今度もまた、そうした人々の強さに甘えることになるのだろうが、長年続けてきたこととはいえ、こうした困難な時に、困難な問題を抱えた場所に、私のような旅人が行く意味は何なのか……。今度ばかりは、そうした旅の意味への問いをきちんと背負い、自らの旅人としての「業(カルマ)」と「感謝」の思いもきちんと背負って、旅立つこととしよう。[岡村隆]
■久々に山形の鷹匠、松原英俊さんと話をし近況を書いてもらった。驚いたのは飯豊山のてっぺんで5頭の熊に遭遇した話。原稿を補足しておくと実際、2時間ぐらい双眼鏡で熊たちを観察し続けたという。母熊が2匹の子を連れて徘徊する現場は何度も目にしているが、5頭の成獣がうろついる風景は初めてなのでほんとうに嬉しかったそうだ。
◆嬉しかった、というのは私にはよくわかる。熊が何頭も群れているなんて滅多にあることではない。が、中には「5頭いてどうして嬉しいんですか?」と聞く人も(この場合学校の先生)いるのだそうだ。「答えようがないです、こういう方には」と言っていた。
◆長野亮之介画伯、今月の題字も凝ってますねえ。どうしよう。毎号すぐにはわからない私のような者には題字はいまや恐怖だ。
◆2005年6月、くるみ(当時12才4月)、雪丸(4才11月)の2匹が1週間内に続けて昇天してしまってたことがある。あの時のショックは今も忘れられないが、金井重さんから送ってもらった一句が先日出てきた。確か、通信には掲載しなかったと思う。あらためてお礼の気持ちをこめて。
◆「弔歌とや くるみ雪丸に 虎が雨」重さん、ありがとう。[江本嘉伸]
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今月も地平線報告会は中止します。
オミクロン株の感染が収束しつつありますが、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。
地平線通信 518号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2022年6月15日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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