5月18日。ひんやりした空気が気持ちいい朝だ。全国的に晴れの予報で、東京の気温は25度まで上がるという。爽やかな初夏の訪れだ。
◆しかし、今朝の新聞一面は緊迫した世界の空気を伝えている。「マリウポリ製鉄所陥落か ウクライナ兵士退避を発表 捕虜と交換 露に求める」(読売)。「製鉄所 ウクライナ撤退命令 マリウポリ ロシア完全制圧へ 兵士260人親ロシア派地域移送」(朝日)。
◆先月の地平線通信のこのページで「ロシア軍がヨーロッパ最大の製鉄所『アゾフスターリ』製鉄所の制圧に乗り出した」と書いた。ウクライナ南東マリウポリ市の広大な敷地に建つ製鉄所。張り巡らされた複雑な地下通路を使い、ウクライナ軍は激しく抵抗し続けていたが、きのう17日、ついに「任務を完了した」と退避を開始した。2、3日で強大なロシア軍の軍門に下ると思われていたが、2か月半もの長期間、ロシア軍の猛攻に耐え続けたのである。
◆4月23日には黒海艦隊の旗艦「モスクワ」がウクライナ軍によって撃沈されるなど、戦況は予想とは大きく違ってウクライナ有利の状況の中、展開したのに驚く。ウクライナの人々の強い意志は、今回のロシア・ウクライナ戦争の象徴だろう。反対にロシアはプーチンの暴走を止められる人が出ないまま、ずるずると戦争体制を続けている。
◆せめて5月9日の「戦勝記念日」にはプーチンが何かましなことを語るだろう、と私は注目した。この日はヒトラー率いるドイツ軍が殲滅され、ドイツ軍が降伏文書に署名した日で第2次世界大戦の大きな節目の日とされている。
◆演説でプーチンはウクライナへの軍事侵攻について「ロシアにとって受け入れられない脅威が国境付近にある」と述べ、さらに「ウクライナでは外国の軍事アドバイザーが活動を始め、NATO(北大西洋条約機構)の加盟国から最新兵器が提供された。唯一、避けられない、正しい決定だった」と、ウクライナへの軍事侵攻を正当化した。ほんとうはNATOの人々を一瞬でもうならせるような言葉がほしいのに、この程度の話術しか持っていないのだ、と私は心底がっかりした。
◆プーチンにとっては自分で撒いた種のようなことが俄に起きた。フィンランドとスウェーデンが長く保ってきた「中立」を捨てて、NATOへの加盟申請を出したのだ。NATO加盟30か国のうち、トルコがクルド問題を理由に反対しているので時間はかかるかもしれないが、大勢は変わらないだろう。NATOの首脳会議に日本の岸田首相もはじめて参加するというから大きい。
◆ロシアの側に聞くべきことはないのだろうか。多くの人と同様私もそう考える。18日付け毎日新聞は「ロシアの言い分聞くべき」という和田春樹東大名誉教授に対し、真っ向から反発する日大危機管理学部の福田充教授(危機管理学)へのインタビューを取り上げている。旧世代の和田名誉教授が「ロシアが攻め込むに至った歴史を考えよう」と主張するのに対し、福田教授は「どんな理由にせよ市民殺害は悪」と言い切り、「許されない価値観があるということも日本人は学ぶべき」とする。両者の言い分を紹介する紙数はないが、私は読ませてもらって福田教授の立つところに共感した。プーチンの言い分より大事なことがあると思うからだ。
◆先日、「ウクライナ語で叫びたい」というタイトルのドキュメントをNHKで偶然見た。日本に住むウクライナ人女性ディレクターが、故国にいる家族との会話を軸に、今回の戦争を市民がどう感じているか伝える内容で、この戦争以後「ロシア語は使いたくない」と言い切った父親の言葉が胸に刺さった。
◆ついきのうまでこの家族は家の中でもロシア語で自由に話し合う習慣だった。それが、ロシアの侵攻で変わった。うーむ。そこまで行くのか。
◆実は、4月からロシア語会話教室が再開される予定だったが、5月が来ても私はその気になれないでいる。ロシア人女性である先生は、言葉の勉強は別、やりましょう、と幹事を通じて言ってくれているが、どのようにやってもプーチンへの怒りと彼を支持するロシアの市民への批判を表現してしまいそうな自分を抑えられそうもないのだ。
◆どうしてロシア語を?と聞かれることがある。18歳当時、東京外国語大学の受験を決めた時、ソ連が持つ広大な地には何かがある、という好奇心とたまたま当時読んだドストエフスキーの短編「貧しき人々」に感動した時だったので、ロシア語と決めた。実際は山岳部に入った途端、登山一筋の大学生活となったため語学力は大したことないままで終わってしまったが、年齢を重ねて一度はしっかり勉強し直そう、と近くにあった上智大学社会人クラスの門を叩いた次第。
◆世界はロシア、ウクライナだけではない。この通信のあちこちに大事な切実なものが埋まっていることを最後に付記しておく。[江本嘉伸]
■あと5分でライブが始める。そんなタイミングでスマホが鳴る。毎年夏の子どもたちとの三陸海岸みちのく潮風トレイル100kmウォーク。その下見を兼ねてファンである福山雅治さんのライブを見に仙台のセキスイハイムスーパーアリーナにいた。
◆もうライブが始まる。出るのを躊躇したが出なければいけない気がして会場の外に急いで出た。電話に出ると兵庫県の植村直己冒険館の 吉谷義奉館長から開口一番。「第26回植村直己冒険賞の受賞者が阿部さんに決まりました。お受けしていただけますか?」
◆10秒ほど固まって無言になる。予想外だった。なぜならこの賞は大きな目標を達成した人間に授与されるものだと思っていた。先日の南極遠征は撤退であり失敗に終わった。それが評価対象になるとはついぞ思っていなかった。過去2例、賞を辞退された方がいる。その感情を体験として落とし込める機会がくるとは。受賞するか辞退するか。10秒の間に脳内で逡巡する。達成した上での受賞ではないのでお受けしてもおそらく否定的な声も出るだろうことも予想できた。
◆そして考えた。自分の行動の価値は自分で決める。しかしながら社会的な価値は他者が決めるもの。好きでやってきたことを評価してくれたことを幸甚に思い拝受することにした。たとえ批判がでたとしても、それも背負って立つのがプレイヤーというものだろう。むしろまだ自分には不釣り合いである賞をいただいたことを自覚し、次の南極、それから先の遠征を通して行動で証明していくしかない。
◆「謹んでお受けいたします」と答え、ライブ会場に戻る。記者発表は4月22日に東京・市ヶ谷で行われた。過去に相当量のスピーチトレーニングの経験があるのだが、今回ばかりはガチガチに緊張し、普段は見ないカンペを見ながら発表スピーチに臨んだが決して居心地のいいものではない。なぜなら主たる質問は、なぜ失敗したのか、だからだ。傷口をえぐられるような心の痛みをかき分け答弁する。オンラインで植村さんの母校豊岡市立府中小学校の児童も視聴しており、子どもたちと話してようやく笑顔がこぼれた。
◆記者発表の次の日。板橋区にある近所の植村直己さんの墓前に手をあわせ報告する。母親に電話をすると涙声で、よかったね、と。母にとっても報われた瞬間だったのかもしれない。皆さんに取らせていただいた賞だと理解している。浮足立ち慢心することは決してあってはならない。一層に自分のやり方で自分の道を貫いて行きたい。まずは年末の南極の実現だ。[阿部雅龍]
■毎度拙文でお馴染みとなりつつある「インド通信」の延江由美子です。13日にアメリカから帰国しました。滞米中の4月26日、朝日新聞「ひと」欄で紹介していただき、まず地平線会議を通してお近づきになった方が日本時間の早朝に記事を写メって送ってくれました。その後、家族や友人たちからも連絡があり、実際に掲載された記事を見てどれだけ身に余る光栄なことかがようやく実感として沸いてきました。
◆それにしても、山本奈朱香さんの記事の鮮やかさといったら! 私たちMMSの今後の活動に支障をきたさないよう、インド国内のややこしい事情に触れることを実に巧みに避け、限られた紙面のうちに私のゴチャゴチャした道のりを的確にまとめてくださった行間には山本さんの温かい共感が溢れていました。ちょうどその日の午前と午後に、私の日本とインド北東部での活動と「いのち綾なす」の出版経緯についてのプレゼンをし、どちらもとてもよく受けとめられました。
◆興奮いまだ冷めやらず、といったところに山本さんの記事を拝読したわけですが、何やら無性に思いがこみ上げてきて一人になりたくなって、夕闇に包まれた修道院の広いキャンパスをしばらくゆっくりと歩きまわりました。シスターたちに原文のまま読んでもらえないのが残念でなりません。
◆「いのち綾なす」は、著者として私の名前が表紙にありますが、これは惜しみない協力を提供してくれたすべての方(もちろんインドとアメリカのシスターたちも含め)の作品、いうなれば、これまでの40年以上にわたるご縁の結晶です。あちこちで生活していると、お互いに共通の知り合いがいるというケースがあまりに多くて、まるで世界中のみんなが何かしらの接点を持っているような錯覚に陥ります。そしてその繋がりに気がつくとさらに新たないのちが生まれる。写真集を見たり、講演やプレゼンを聴いた人たちから「インド北東部がとても身近に感じられるようになった」と言ってもらうとほんとうに嬉しいです。
◆実は「いのち綾なす」というタイトル、最後の最後に変更しました。ずっと「大地の和」(それも「インド北東部への旅」というサブタイトルもなし)だった。けれど、校正に送られてきた極めて日本的なデザインの表紙を見たら「大」と「和」が一緒に目に飛び込んできて、「大和」に見えてしまいました。これはまずいでしょう、ということで、プロの作家でもある兄に相談し、英語校正のシスターたちにも事情を説明し、我らが長野亮之介さん含む編集チームの面々と急遽ブレインストーミングして、散々考えあぐねてやっと生まれたのがこのタイトルです。世界中いたるところで、つながりを分断し、いのちを破壊する行為が凄まじい勢いで広がる今、これからもご縁によってさまざまないのちが美しい模様を作り上げていくことを願っています。[延江由美子]
■こんにちは、京大農学研究科修士1年の坪田七海です。延江さんをとりあげた朝日新聞の記事を読んでの感想を寄せてほしいと、江本さんから連絡があり、2度目の寄稿となります。前回は2022年2月号で延江さんの写真集『いのち綾なす――インド北東部への旅』の紹介文を書かせていただきました。
◆延江さんのことは写真集や講演会、母から聞いた話などで知っていましたが、私の知る延江さんという個人が、公の象徴であるような全国新聞の記事に掲載されている、とびっくりしたというのが記事を見た最初の感想です。記事を読んでみると、延江さんのこれまでの人生の軌跡が数文でまとめられ、「地球上の全ての生き物が命を謳歌できる」ことを願う姿勢が貫かれているという風に読めました。
◆これを読んで、延江さんについて初めて知る部分がありました。そうか、延江さんにはそういう思想が中心にあるのか、と思いました。もっとおもしろい場所、生きやすい場所、あるいは生かされる場所を探して辿り着いたのが今の場所、という印象をもっていましたが、その解釈も間違いではないだろうと思います。実際にお会いしていろいろお話を聞くことができるのを楽しみにしています。
◆地平線通信を読むようになってから、延江さんの近況を知ることができるようになりました。写真集から想像するだけでない、MMS内部でのやり取りや、インドの感染症や政治に関わる状況と渡航の困難さ、アメリカでの状況など、彼女の現実における現在の取り組みを知ることができて、今同じ世界に生きている、この情勢下でもがいている一人の人なんだなと感じます。
◆地平線通信に載っている文章には、国際的な政治やイベント、対立などに関する情勢や、感染症の状況などを踏まえて、そういった情勢に巻き込まれている書き手が自身の生活を省みて、今立っている場所と今後の方向性を確かめながら文章をつづっているといった印象があります。どんな生活をするかが政治的立場表明にもなりうるよなぁと特に考えさせられるのが、山仕事を生業にしたいと奮闘している方々の文章や、島ヘイセン通信でした。
◆私は農学原論分野という農業や環境に関する社会科学的な研究を行う研究室に所属しており、そういった自身の関心からもこれらの文章に目を引かれたのだと思います。また、探検部や山岳部に所属する他大学生の文章も楽しみに読んでいます。同じ世代の人がどんなことを考えているのか、ある程度の長さの文章で読むことがあまりないので、今後も地平線通信の大先輩たちに混ざって大学生が登場するのを刮目して待ちたいと思います。[坪田七海]
■地平線通信4月号はその号の「あとがき」に書いたように、なんと2日間かけての発送作業となった。江本が最後の自分の仕事、フロント原稿を書き上げた直後、文章が消えてしまったのだ。どこか余計なキーを押してしまったのだろう、どうしても復活できず2度目の原稿もなぜか消えてしまい、結局、この部分のみ翌日に持ち越しとさせてもらった。◆そんなわけで、長野画伯の描いた題字部分、通信517号の奥付の日付(4月20日)とフロントの書き出しの日付(4月21日)は、1日ずれてしまった。内容的に支障ないとはいえ、地平線通信始まって以来のことで申し訳ないことだった。ミスを理解してくれ、2日にわたって発送仕事に汗をかいてくれたのは以下の皆さんです。ありがとうございました。とりわけ2日続けて参加してくれた人たちに倍の感謝を。
[20日]森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 長岡竜介 伊藤里香 落合大祐 白根全 久島弘 武田力 新垣亜美
[21日]森井祐介 車谷建太 白根全 伊藤里香 久島弘 武田力 江本嘉伸
■地平線のみなさんこんにちは。こちら沖縄は梅雨真っ只中。ゴールデンウィーク後半に梅雨入りして以来、雨ばかりです。雨でもやぎたちに草をあげなくてはいけないので毎日お天気アプリの雨雲レーダー見ながらの放牧は大変です。
◆ここ勝連半島一帯はもずくの養殖が盛んで、今がもずく漁の最盛期。心配された軽石の影響はあまりないようで今年は豊作とのことですが、ここにもコロナの影響はあるようで、大口の販売先からの受注が今年はだいぶ減っているらしく、海人もがっかりと言ったかんじです。みなさーん、沖縄もずく、たくさん食べて下さいねー。言ってくだされば送りますよー。
◆さて今日5月15日、沖縄が日本に復帰して50年の節目。テレビやラジオは1週間前から当時のことなどの特別番組を連日いろいろやっていて、本土出身の私が今まで全然知らなかったことがたくさんあることにびっくりします。
◆当時アメリカ基地には核兵器も毒ガス兵器もあったこと(ちなみに復帰後も毒ガスは置かれていて、ガス漏れ事故で発覚した)、国会では復帰法案がわずかの審議でさっさと強行採決されたこと、沖縄の人たちは復帰は悲願だが基地がそのままならば復帰は望まないと思っていた人が多くいたということ。
◆だから復帰の日、当時の沖縄の人たちはあまり嬉しそうではなくて、あきらめのようなかんじだったようでした。沖縄出身の国会議員は悔し涙を流していました。後日復帰を果たした佐藤栄作がノーベル平和賞をもらう影で、核再持込み密約の草案を作成して復帰に尽力した学者がその後「沖縄に申し訳なかった」と自殺をしたこと、などをテレビで知りました。
◆その後もドルから円に替えるときのごたごたや、車の右側通行から左側通行にかわるナナサンマル大作戦など、当時の人たちの苦労がたくさんあったことも知りました。連れ合いの昇は戦争経験こそないものの、復帰も通貨移行もナナサンマルも経験していて、「あんやたんやー(あんなだったよなあ)」と言います。50年たってもアメリカの基地はあっちを返すからこっちに移設させろと変わらず沖縄内にある現実。復帰50年はこの現実をあらためて見つめる機会となりました。[沖縄・浜比嘉島 外間晴美]
■大変ご無沙汰をしております。毎回地平線通信を楽しみに拝読させていただいています。東北のど真ん中、宮城・岩手・秋田の3県にまたがる栗駒山(標高1626m)の山腹で1996年から始めた「くりこま高原自然学校」はおかげさまで4半世紀が過ぎました。2008年の「岩手宮城内陸地震」、2011年の「東日本大震災」と幾多の震災、さらにリーマンショックや近年のコロナ禍による経済危機も乗り越え、潰れずに持続可能に生き残ってきました。
◆私は、東日本大震災の折に地平線報告会で発表をさせていただきましたが、還暦になった2017年4月からは栗駒を離れ青森におります。くりこま高原自然学校の運営は次代を担う世代へバトンタッチをし、新しい役割をいただき青森で取り組んでいます。青森大学で学生に向き合って早5年が過ぎました。そんなことで今日は近況報告させてください。
◆青森にきて取り組んでいるテーマは、SDGs的視点から、一つは「森」です。県名に「森」がつく県は青森県だけということで、最近常々「青森県の未来は森に向き合わずして語れないだろう」とことあるごとに話しています。森のあり方、木質バイオマスエネルギーなど森林を健全に循環して持続可能な地域資源として活用することを提唱して、学生とともに森に入り森林の整備に取り組んでいます。先日九州の熊本の球磨川と支流の川辺川流域を歩きました。
◆2020年7月の豪雨で起こった水害の爪痕を見てきました。球磨川の清流を守るために、国が進める川辺川ダムの建設を地元の民意で止めた経緯があります。この水害でダム建設が再び浮上していました。今回流域の山に登り、森と山を見て、ダム建設が水害の問題を解決できるとは全く思いませんでした。
◆皆伐という伐採方法が至る所で行われ、山が荒れてひどいものでした。森が健全でなく、山に保水力がなければ、いくらダムを造っても解決しないだろうと感じてきました。この状態を見ると近年の水害は人災じゃないかとも思えてきました。
◆この問題は日本全国で起こっていることかもしれません。青森は西日本ほどの大きな水害があまり起きませんが、青森でも健全な森と山のあるべき姿を考えています。森の入り口である林業家、青森県林政課、森の出口である薪ストーブ会社、木質ペレット燃料製造会社などいずれもSDGsを意識した持続可能な森のあり方の実践を模索しています。
◆二つ目は、「観光」です。青森には観光資源としての自然資源が豊富にあります。青森大学に赴任した年から青森大学には「観光文化研究センター」が開設されました。観光庁との連携事業で「観光産業の中核を担う観光人材育成」に取り組んできました。そして今年度から青森大学総合経営学部に「フィールド・ツーリズムコース」を新設し、特に体験型観光プログラム、事業展開できる人材の育成が始まりました。
◆青森の観光の自然資源はなんといっても「雪」であると思います。アメダスの「酸ヶ湯」は日本一の積雪量で頻繁にニュースにでます。私が長年取り組んできた野外教育のプログラムに「イグルーづくり」があります。これまで40数年にわたり、子どもたちの雪上キャンプでイグルーづくりをし、何百人の子どもたちと雪の中で泊まってきました。このノウハウを雪国青森の観光資源として生かす取り組みを進めています。
◆イグルーづくりの講座を開き、イグルーを作ることができる人を育成してきました。青森大学キャンパス内はもちろん、青森駅近くの八甲田丸前、モヤヒルズスキー場、酸ヶ湯温泉、さらに極寒の八甲田ロープウエー山頂駅(標高1324m/気温−14℃/風速20m)でも建設して話題にもなりました。イグルーが観光資源として広く認知されるためにはイグルーの安全性も担保されなければなりません。そこで青森県国際観光戦略局からイグルーの安全性調査の予算をいただき調査を行いました。この結果は、近々学会(野外教育学会)などで発表をしようとも思っています。「雪国青森イグルー王国」というブランドになるよう毎年青森の雪にワクワクしています。
◆地平線会議の皆さんへ、青森でのこんな活動の詳細をを報告ができる機会があればと思っております。[佐々木豊志]
南米アマゾンのヤノマミ族は
親しい人のお骨を粉にして
バナナのお粥に混ぜてすすって
その人の死を嘆き哀しむ
DVDのその場面のたびにもらい泣きする私は
父の葬儀で涙の一滴もこぼさなかった
父が亡くなって三時間もすると
レストランのメニューを決めるようにして
通夜葬儀一式の段取りが決まっていた
係員の指示に従って骨を拾う
ホラホラ、これが父の骨だ
部屋の隅を見上げると
一瞬目が合った
文化人類学が発達したおかげで
「野蛮人」は死語となりつつあると思うが
父の死をシステマチックに処理する
吾輩ハ野蛮人デアル 魂の……
故郷(ふるさと)の小川のへりのしゃれこうべ
ヤノマミの人何思ふらん
花冷えや我は飯喰ふ父は逝く たわし*
*たわし=豊田和司の俳号
文中、中原中也「骨」からの引用があります[豊田和司]>/p>
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。
北村敏(3000円 年間通信費とカンパです)/清登緑郎(3000円)/上舘良継(次の1年分です。文字がもう1ランク大きいと年よりには助かります)/執行一利(6000円)/渡辺久樹・京子(6000円 我が家でも娘と孫がコロナに。人と会うどころか、時には身内と会うことすらはばかられるこの時代、仲間たちの言葉に触れられる通信のありがたさが際立ちます。夏には3人目の孫が誕生予定)/滝村英之(3000円 小松由香さんの連載「石ころ」、興味深く拝読しています。カンパ含めて)/いのり修(10000円 南三陸志津川の佐藤徳郎さんのお話以来、通信を送って頂いています。他の活動が優先されて読み切れていません。通信費も未払いです。わずかなカンパを最後にお休みします。ありがとうございました)/松中秀之(10000円 いつも地平線通信を楽しく拝読させて頂いております。ふっと気が付けば、通信費の支払いが1年遅れており、申し訳ございません。5月9日付けで、10,000円を振り込ませて頂きました。ご確認のほど宜しくお願い申し上げます。コロナ禍で自由に旅行もできず、通信を読んで、行ったつもりになっています。これからもどうぞよろしくお願い致します)/森美南子/村田憲明(鮭Tシャツでお世話になりました。59才になり、長女が結婚で出て行って家はカミさんと犬だけに)/藤原謙二(5000円 通信費2年分です。貴紙のお陰で活を拝受、感謝!)/木下聡(6000円 いつも興味深く読ませていただいています)
■留守をしていて、地平線通信3か月分を一度に読んだ。深夜に読んだのだが、4月号はあらためて読みなおさずにはおれなかった。「森本孝という探検」。文章を読んで、しびれる、と感じたのは初めてのこと、恥ずかしいが辞書で引いて「痺れる」と書くと知った。友人の死に接して、こんなふうに書ける宮本千晴さんにしびれるとともに、そこに浮かび上がった森本孝という人の、「美しい」では軽すぎる、それでも美しいと言いたくなる生きざまに心打たれた。千晴さんは書く。「悲しむには見事すぎる。寂しがるにはあつすぎる。しかし世界はなぜか遠くなった」。こんなにも、自分を揺さぶる友の死。ふたりはいったいどんな絆で結ばれていたのだろう。
◆森本さんは、好きな道を歩んでいた若き日、秋葉原の観文研で宮本常一氏と出会った。観文研の職員として種々の調査活動に従事し、やがて常一氏から大きな仕事を託されることになったと、丸山純さんの「宮本常一にほれ込んだ人生――森本孝さんを偲んで」が教えてくれた。大きな仕事とは日本全国に残る小型木造船を収集することだったと書かれているが、これは実に大変な仕事だ。
◆調査する能力、忍耐強く待つ精神力、なにより漁師たちが「仲間だ」と受け止めるだけの人間力が必要なのだから。森本さんは師匠の軌跡をなぞるように全国の浜を漁船収集に歩いた。その後、世界の漁業集落を訪ね歩き、港、船、漁法、市場設備、流通網のどこに問題があり、どう改善すべきかをアドバイスすることが仕事になったという。そしていつしか自分が師の道を伝える位置にいることに気づいたのだろう。「宮本常一と民俗学」を著した。
◆千晴さんは、常一氏の「消えゆく小型木造船を残したい」という絶望的な嘆きを身近に聞き、自ら動き出した。そして民博や民俗学者のネットワークにお願いして調査を進めると同時に、森本さんに木造漁船を後世に残すための選択と蒐集を頼んだ。ふたりは常一氏の志を継ぐ者、常一氏の願いを実現しようと努めた、まさに同志だった。
◆また千晴さんは、「周防大島での民俗的な歴史遺産を残し、展開させていくため」の仕事をしてくれたと感謝し、と感謝し、その生きざまは「少し青臭くて凛とした美しさの通った軌跡だ」と記した。そして6年前、「知らぬ間にステージIVの肺がんにかかっていて、長くてあと1年」と打ち明けられてからのつらい日々も山行にたとえて書いた。「遭難してから後の、勝ち目の薄い、しかしあきらめることを拒否した闘いの姿」に圧倒された、と。千晴さんは、死を覚悟した森本さんの悩み迷う魂の軌跡も記録する、「三度余命宣告を受けた。何度もあきらめに身をゆだねそうになりながら、そのたびにそのまま死ぬことを拒み活路を見つけた。休みのない苦痛が襲いはじめる。逝きたいし生きたい」。
◆なんという友情だろう。8才年長の千晴さんは、地球を歩き続けた森本さんを父譲りのもやい(ローブ)でつないできたはずだった。しかし友の死に接し、ふたりの絆は双方あってのことだったと実感されたに違いない。宮本民俗学を受け継ぐ者同士、重い荷物を背負い合ってきたことへのいたわりと、それでも自分が求める道を歩かずにいられなかったお互いの人生に心からのエールを送りたいという心情。自分が知る森本孝を記録せずにはおれないという思い。それが「森本孝という探検」という弔辞となった。読むだけで心が洗われる思いがした。そして文末の「しかし世界はなぜか遠くなった」。千晴さん自身のどうしようもない喪失感に、私自身も打ちのめされた。
◆若輩者が誠に恐縮ながら、先達の深い友情に感銘を受け、一文を捧げさせていただきます。そして地平線会議が続いてきたのは、こういう心根を持つ人たちが「共に信じあえる仲間を大事にしたい」と思い合ってきたことにあると、深く思い至りました。[佐藤安紀子]
■江本さんから嬉しいチャンスをいただきました。森本孝さんの著書『宮本常一と民俗学』を読んでみて感想を送ってほしいとのことでした。しかし先月、締切日を間違えて遅れて提出してしまい……本当にすみません。気をつけます。今月号に載せてくださるということで、内容を少し加えてお送りいたします。このような機会をいただき、本当にありがとうございます。
◆先月の地平線通信、拝読しました。宮本千晴さんの、亡きご友人であられる森本孝さんへの、想い。50余年来これまでお付き合いされてきたお二人のご関係を私が何か言うことはとてもできないのですが、宮本千晴さんは、森本さんの最期の時までその生きざまを見てこられました。死に近づく葛藤を宮本千晴さんらしく見守り続けたことを、森本さんもきっと嬉しく思っておられるのではないでしょうか。
◆森本さんの本には、宮本常一氏がどのように日本の民俗学の成長に加わっていったのか、調査をする中でどのような発見や新たな考え方にたどり着いたのかが、宮本氏本人の視点で語られており詳しく知ることができました。所々にある挿絵や写真で分かりやすく、楽しみながら読ませていただきました。
◆宮本氏が行商人に騙されて山村にヤツメウナギを見に行こうとしたという話は、そんなこともあったのかと驚かされました。村に向かう途中でヤツメウナギは実際は取れないことを知ったがそれでも実際に確かめに訪れ、かわりに山村の暮らしや冬のきびしさを知り、それを受けて宮本氏は「実際に行って自分の目で確かめることが民俗学では大切だと感じた」という、その体験と発見のエピソードがおもしろかったです。
◆以前に読んだことのある宮本氏の『空からの民俗学』では、高く離れた空からどうしてそれほど詳しくそこに暮らす人々の生活や試行錯誤が分かるのだろうと、感心しました。景観から村の暮らしを知ることができる。そのことに宮本氏が気づいた瞬間が森本さんの本には書かれており、氏の考えの変化が読み取ることができたのが嬉しかったです。
◆自分のことですが、4年前に大学生になって登山に打ち込むようになったころ、登山だけではなく別の視点で山を見て山を知りたいと思うようになりました。また、とにかく山に居たくなり、登山として山と接するだけではなく普段の生活から山に居て山で暮らすことはできないだろうかと考えるようになりました。そこで何か参考になるのではと思ったのが、民俗学で伝えられる農村に暮らした先人たちの生き様でした。
◆街に人や物が集中する現代に山暮らしを求めるのは難しいことに思いますが、だからこそかつて農村で自給自足的に生活してきた先人たちの暮らしを知ることは自分の山との接し方のヒントとなるのではないかと考えました。昔は山に入って山の動植物を得ながら暮らす人が多くいました。そんな先人たちの生活を伝える民俗学に少し興味を持つようになり、宮本氏の『山に生きる人びと』や『空からの民俗学』などを読んでみました。そして思ったのは、自分も宮本氏のように実際に自らの目で見て知って学び、先人たちのように自分の手で暮らしを作っていきたい、ということでした。
◆宮本常一氏の民俗学にもっと触れてみたくなりました。当書を書き残してくださったことを、森本さんに感謝申し上げたいです。生前に読んでお伝えできていればよかったのにと、とても悔やまれます。心からご冥福をお祈りします。[小口寿子]
P.S. 4月から北アルプスの麓の林業会社で働き始めました。山をどう捉え山の資源をどう守り生かしていくのかを学ぶために、この道を選びました。給料は日給制で安いですが、世間で問題となっている残業というものがほとんどなく、作業の合間の昼の休憩時には周囲の草木を観察したりぼーっと景色を眺めたり、草木が奏でる音や鳥の声を聴き、風が撫でるのを感じながら小一時間うたた寝することもできます。このところほぼ毎日山にいて山を感じることができて、生きていてよかったと思わずにはいられません。そんな日々の中、山に関わる知識や術をどんどん磨いていきます。
《画像をクリックすると拡大表示します》
■「リョーノスケさん、この子……」と差し出されたのは痩せこけた仔猫だった。25年くらい前のこと、たまたま我が家に遊びに来ていた中畑朋子さん(地平線会議同人、染織家)が、その日偶然に家のそばで猫を拾ったのだ。コチビと名づけたそのオス猫は年中洟を垂らし、くしゃみをしては家中に洟を撒き散らす。その後引っ越した現在の家(妻の実家)にも盛大に鼻水ペインティングを施してくれた。僕が子供の頃は青っ洟を垂らしてる子はそこら中にいたし、自分も生涯洟垂れ小僧のような未熟者だと自覚している。洟垂れ猫が我が家にやってきたのも何かのご縁。「放たれ」に通じる開放的な語感も気に入り、いつしか我が家は「ハナタレ亭」を自称するようになった。
◆このハナタレ亭を稽古場として年一度の芝居を続けてきたのが劇団ハナタレ組だ。森林ボランティア仲間の忘年会の余興をきっかけに、芝居が大好きだった亡妻の淳子に背中を押されて2017年に旗揚げ(?)。当初は台本を持ちながらの、野外で15分程のイベントだった。セリフも覚えられないし、声も出ない。それでも翌年になるとまたウズウズする。これが舞台の虫というやつ? 年に一度の大人の文化祭は心優しい観客の反応におだてられてだんだんと欲も出てくる。20年に初めて芝居小屋を借り、照明や音響に包まれた舞台に立ってみると、そこはまさにハレの場。
◆今春の舞台は難産だった。台本は三度もゼロから書き直し、昨秋の公演予定が半年ズレた。セリフは増えて上演時間は50分超え。全員本職を優先するのが前提だから稽古時間も限られる。にも関わらず作家兼演出家の要求もハードルが上がり、僕が演じるキャラもどんどんエキセントリックに。役者の絡みがなかなかスムーズに運ばず、焦りが募りながらも、少しは芝居体力がついたのか、なんとかギリギリ間に合った。
◆文化祭には音楽がつきものだから、プロの音楽家である長岡夫妻も巻き込ませていただいた。誤解を恐れずに言えば、地平線会議の仲間はみんな、文化祭的人生を真剣に遊ぶ匠だ。まして長岡家は品行方正楽団員として気心の知れた長年の友人だから心強い。おかげさまで2日間3公演は全て満席となり、地平線会議の仲間も大勢来てくださった。感謝感激雨霰。また来年も虫が騒ぐと思いますが、一緒に文化祭やってみたい方、声をかけてね。
◆閑話休題。思えば80年に地平線会議と巡り合ってからずっと、諸先輩方や仲間達の文化祭的人生に憧れて歩いてきた。地平線人脈のご縁がさらに新たな縁を生む。最近では、写真集「いのち綾なす」を上梓した延江由美子さんもその一人。この原稿を書いているつい先ほどもひょっこり現れ、3日前にアメリカ、フィラデルフィアから帰国したばかりの土産話を聞かせてもらったところだ。「街中じゃ、もうだーれもマスクなんてしてないよ。大丈夫かよーって感じですよ」ですと。
◆カトリックのシスターという人生を文化祭的とはもちろん言わないが、彼女がライフワークとするインド北東部での医療奉仕活動には遊び心が溢れている。写真には撮影する由美子さんの好奇心が映り込み、被写体と笑顔でコミュニケーションをとる現場が目に浮かぶ。延江家はハナタレ亭から徒歩5分ほどのご近所。僕も関わったこの本づくりの過程では写真のセレクトから地図の構成、タイトル案の相談など、折に触れて訪ねて来ては打ち合わせと雑談に講じた。
◆インド北東部はアニミズム的な文化が基底に濃く漂い、布教にも寛容な対応を余儀なくされると聞く。まだ知り合って間もない頃、なぜか「生まれ変わり」の話題になった。由美子さんから《洗礼は受けているけど、私のバックグラウンドは仏教がベース。輪廻だってあるよね》という趣旨の話を聞いて目からウロコだったことがある。<修道女=原理的>という貧しい固定観念から僕を「放たれ」してくれた(言葉遣いがおかしいね)。心の柔らかい人との出会いはとめどなくオモロイ。
◆ちなみに僕の次の文化祭は今年6月の最終土日(25、26)に開催する「信州森フェス!」だ。立ち上げから関わり、及ばずながら実行副委員長ということになっている。これまた文化祭人生を紡ぐオモロイ大人たちが集う不思議な手作り手弁当イベントだ。菅平高原のバブリーなロッヂを舞台に2011年から始めたこの文化祭も今年で最終回の予定。地平線人脈では、作家の高野秀行さん、登山家/写真家の小松由佳さんが登壇予定(糞土師の伊沢正名さんも検討中)。もちろん入場無料。気が向いたら遊びに来てください。[長野亮之介]
■4月24日。ハナタレ組の素晴らしき公演のあと、僕は久しぶりに長岡夫妻の演奏を聴く機会に恵まれた。地平線会議には長岡竜介(ケーナ)、長岡典子(ピアノ)を筆頭に、長野亮之介(和太鼓)、大西夏奈子(和太鼓)、白根全(チャンチキ)、長野淳子(三線 いまは天に)、張替鷹介(バイオリン)、車谷建太(三味線)、長岡祥太郎(ピアノ)で構成される『品行方正楽団』という由緒正しき楽団が存在することはご存知の方も多いだろう。これまでステージ上でご一緒したり、長岡邸に集っては宴を楽しむ仲であったが、お2人だけの演奏を至近距離の観客席でまじまじと鑑賞するのはとっても新鮮な心持ちだった。
◆オープニングはのりこさんのピアノによるソロ演奏。のびやかで美しい旋律が会場を一気に包み込み、さっきまで劇の余韻が残っていた舞台の空気が一変する。「さすがです、のりこさん!」。解説によれば、今回の演奏曲ラインナップは南米を縦断するように南のアルゼンチンを目指す音の旅だそう。
◆続いて竜介さんがケーナをひと吹きすれば、こちらは途端にアンデスの上空にひとっ飛び。揺るぎない一筋のケーナ単体の音色は、太古より変わらず吹き続ける土着の風のようで、僕はいつの間にかコンドル目線で山脈をぐるり見渡しながら悠々と空の旅を楽しんでいた。
◆曲の途中からのりこさんの旋律が重なってくると、風は急降下して芋畑の丘を越え、どこかのとある街並みを吹き抜けてゆく。大通りから市場や食堂、温もりのある人の暮らしが見える。「ピアノひとつが加わることで音の世界の彩りがこんなにも変わるんだ」となんだか嬉しくなった。南米の北風はその後も各地を点々と南下し、最後は竜介さんの太く勇ましいボーカルに乗せてみんなで手拍子をしながら楽しくアルゼンチンに到着することができた。
◆コロナ禍でもう随分と海外渡航は途絶えているけれど、やはり音楽って素晴らしい。今回披露された曲達の生まれた年代やそこにある暮らしの背景は詳しくはわからない。わからないけれど、今目の前で紡がれる音色の中で、聴き手にはそれらを自由に空想する楽しみがある。音楽は長い年月をかけて人から人に伝えられ、文化や文明が自然と融合しながら進化し続けているけれど、演奏とは毎回がその進化の現場なんだ。そんな音楽の根本的な魅力を再認識できた気がする。
◆ましてや、その演奏しているお二人は、普段は地平線通信発送を手伝ってくれる心優しい山を愛する竜介さんと、いつも宴のときにキッチンからものすごく美味しい料理を次々と繰り出すのりこさんである。このたびの演奏を聴いて、その絶妙なバランスぶりにあらためて「いい夫婦だなぁ〜」って思ったり、僕が初めて参加した楽団演奏会で、ポンチョを身に纏ったまだあどけない祥ちゃんが、演奏中にピアノのところで爆睡したことを思い出してニヤニヤしたりしてしまった。そんな祥太郎はいまや神津島で立派に高校生活を満喫している。そりゃあ、いい子に育ちますよね〜^ ^。
◆おふたりとも今回は素敵な演奏をありがとうございました! いろいろと勉強になりましたし、ほっこりもさせていただきました。あぁ、僕もそろそろ三味線担いで台湾に行きたいなぁ〜![車谷建太 津軽三味線弾き]
■感染防止、接触防止、飛沫防止で、演劇・音楽などの公演業界も多大なる影響を受けている。ケーナなど管楽器奏者は、明らかに飛沫が飛びそうと考えられているので、かなりのトバッチリを被っている状態である。この春もコンサートはほぼキャンセルであった。そんな折、長野亮之介画伯から、2022年4月23・24日、画伯も参加する劇団ハナタレ組とのコラボ公演の、貴重なるありがたいオファーをいただいた。
◆おしゃれな神楽坂、駅前のビルの階段を降りると、素敵な芝居小屋・メルシアーク神楽坂がある。お芝居は『ノーレイ ノーレイン』。段ボール箱、ハワイの花輪・レイ、雨音などが舞台回しのキーとなっている。題名は、ハワイのことわざ「ノーレイン、ノーレインボー」からとったとのこと。霊界からやってきた遺品整理人・長野画伯の名演技も際立ったハナタレ組公演のあと、第二部は、私のケーナとピアノ(長岡のり子)によるラテンアメリカ・フォルクローレコンサートとなる。今回は40分と短めの演奏のため、ぎゅっとラテンアメリカを凝集したプログラムとした。
◆一曲目はのり子ピアノソロによる『Aesthetic』。続いて竜介が登場しケーナコンサートとなる。まず、現代風にアレンジしたペルーの名曲『コンドルは飛んで行く』を披露。1913年、ペルーのダニエル・A・ロプレス作曲。民話に基づくサルスエラ(オペレッタの一種)の主題曲として発表されたもので、インカの象徴コンドルの雄姿を、失われた帝国への郷愁とともに表現する。続けてアルゼンチン・ボリビアの、温暖な谷間バージェス地方の民謡『東方の三賢者・ネグリータ』。ラテン風のリズム・タキラリで奏でられる。
◆そのあと、南米最南端に飛び、パタゴニア・マプーチェ族の音楽をモチーフとした『ロンコメオの調べ』。マプーチェ族は、スペインと戦い300年間負けなかった勇猛な種族らしい。ロンコメオには、雨乞いの意味合いがあるようだ。次に、アルゼンチン大草原・パンパスのガウチョの調べ『セジョーホス』。大農場・エスタンシアの門にかかる大きな古風な鉄製の錠前の意。最後には、三曲続けて花にちなんだ曲を演奏した。まずは『リセロン』、ヒルガオの意。リズムはバルス(ワルツ)。アルゼンチン・フフイ州ウマウアカ渓谷に生まれ、ラテンアメリカ各国で活躍、その後フランスに活動拠点を移したケーナの巨匠ウニャ・ラモスの名曲である。次に『アマポーラ』、ひなげしの意。メキシコのホセ・M・カラージョが1922年に発表したもので、日本でもおなじみのラテン・フォルクローレの名曲である。
◆最後には、ハナタレ組全員の皆様にパーカッションでご参加いただき、にぎにぎしくアルゼンチンの『花祭り』。作曲はE・サルディバール。アルゼンチン北西部、サルタ/フフイ/カタマルカ/トゥクマン州などの舞踊形式・カルナバリートをモチーフとしている。アンコールもいただき、しめは『ラ・バンバ』。メキシコ東部、カリブ海に面したベラクルス州の田舎のフォークダンス、ソン・ハローチョの名曲である。マラカスや、羊の蹄のガラガラ・チャフチャス、アマゾンの木の実のチャクチャ、大きな豆の鞘をそのまま使ったペルーのパカエセコなど、アンデスパーカッションの音色が、会場いっぱいに響き渡った。
◆しかし、入場制限、観客およびスタッフ全員マスク着用、前部観客フェイスシールド着用、手洗い徹底、消毒徹底と、会場内はまだまだものものしい様子であった。一日も早く、観客と一体となってともに歌える日のくることを願う。[ケーナ奏者 長岡竜介]
■初めに、劇団ハナタレ組2022春公演「ノーレイ ノーレイン」withフォルクローレ演奏会にご来場下さいました皆さま、お声がけいただいた長野画伯、劇団ハナタレ組とスタッフの皆様に、心より感謝申し上げます。
◆体力・気力勝負の2日間での3回公演を終えて3週間が経ちますが、心にはいまだ演奏会の余韻と清々しい気持ちが広がっています。今はピアノ教室の生徒たちにこの思いを還元していく番だと感じているところです。
◆長野画伯より今回のオファーをいただいたときから「大人の文化祭」という言葉が脳裏に焼き付いて離れなかった私は、自分が今一番表現したい曲を演奏したいと思い、ピアノソロ澤野弘之作曲『Aesthetic』をプログラムに加えることに決めました。竜介とのデュオの曲目はレパートリーの中から、ピアノとの相性の良い曲目を中心に選曲しました。
◆公演中に一番困った事は3回目のお芝居を客席で観て、感動して涙腺が緩くなったところで、自分たちの演奏に向かわなければならなかったことです。感染対策により観客の皆さんはマスク着用で一緒に歌うことこそできませんでしたが、リズムにのって体を揺らす仕草、曲調に合わせて張りつめたり、ほぐれたりする息づかいを感じながら演奏させていただきました。絶妙な距離感で、やはりライブが最高と感じた2日間でした。公演後には二人が阿吽の呼吸で演奏していたとの感想を沢山いただきました。実は5月25日に私たちは結婚20周年を迎えます。これからも一曲一曲に想いを込めて演奏して参りたいと思います。[長岡のり子]
■4月23日土曜日夕刻、メルシアーク神楽坂へ行く。前回のハナタレ組の公演で神楽坂のシアターを訪ねたのは2020年11月28日だったから、約1年半ぶりだった。この稿を書くまで、私は勝手に3年ぶりだと勘違いしていたが、前回も1番前列に座りフェイスシールドを付けて観劇したことが日記代わりのFacebookの記録でわかった。そのくらいに久しぶりに感じたリアル舞台は、文句なしにサイコーに楽しめた。
◆脚本は前回同様に松松辰哉氏。ハワイからスーツケースを持って首にレイをかけて帰宅したカップルの家に現れた、遺品回収業のスーツ姿の男。長野亮之介画伯の新境地ともいえる変態な役に、本人もハマってねちっこくオネエ言葉で演じる。「何故か体に馴染む……やっぱりヘンタイだったのか」とは開き直った本人の弁(笑)。
◆受けて立つ斉藤克己や荒木ひとみを始めとする役者陣も前回より確実に進化してる。不条理な不確かな不思議さを残し、もう少し観てみたいと思わせて終わるのが、よかったのだろう。なんだか年取って涙もろくなったのか……泣くような演目でもないし、笑える内容なのに、マスクをしてフェイスシールドをしてるせいか目頭が熱くなって前方がよく見えない。全力で楽しんでる一生懸命さが伝わってきた。
◆そして10分休憩後に始まった第二部の長岡夫妻の葦笛ケーナのフォルクローレ演奏。♪コンドルは飛んで行く♪ロンコメオ・パタゴニアの調べ♪ボリビア・情熱のカーニバル♪アンデスの夕べの祈り、ほかたっぷりとハートフルな演奏を聴かせてくれて魅了された。すっかり気分はラテンの風に吹かれる草原や高地に飛んでいった。やはり生音はいいなぁー。最後に舞台に長野亮之介劇団全員揃って上がり♪花祭りを歌い演奏する。あー、もう溢れる涙をおさえられない。フェイスシールドしててよかった。まだコロナが油断できない中、終演後も足早に散会したがいい夜だった。[高世泉]
■フォトグラファーとして、2012年から続けてきたシリア難民の取材。主にシリア周辺国のヨルダンやトルコに赴いている。シリア内戦から昨年で10年目を迎えたが、コロナ禍による失業や物価の上昇は、ただでさえ不安定な難民の暮らしに深刻な影響を与え続けている。
◆この数か月はウクライナ侵攻に世界の目が注がれている。だがウクライナの平和実現を祈りつつ、ウクライナだけではない視点を大切にしたい。世界各地で紛争や人道危機が繰り返され、新しい何かが始まるたび、過去はゆっくりと忘れられる。だが、報道されない世界に、今日を必死に生きる多くの人々がいることを心に留めていたい。こうした視点を持つきっかけは、2013年に結婚したシリア人の夫の存在が大きい。彼を通し、難民としての苦悩と覚悟を知り、人にはそれぞれ、かけがえのない物語があることを学んだ。
◆2008年に出会ったころの夫は、シリア砂漠でラクダの放牧を手がけ、砂漠の太陽とラクダがよく似合う人だった。しかしそうしたロマンスの思い出も、現在ではサスペンス劇場になり、私は母親としての責任の重さに押しつぶされそうな毎日だ。何しろ夫は、アラブ民族の伝統と誇りを固持するあまり、育児や家事にノータッチ。さらに心の余裕を保つため、意図的に低収入まで実践しているのだ。それでも堪忍袋の尾が切れないのは、かつて故郷の砂漠に生きていたころの姿を知っているからだ。そして難民となった夫が、現代の多様な価値観との交わりのなか、どのようにルーツとの共存を図り、境界線を越えていくのかを知りたいのだ。これはまさに、私の人生を賭した実践的観察なのである。
◆とにかく現場に立ち、シリア難民の行き先を見つめようと、長男が1歳になった2017年から子連れ取材を続けている。小さな子供を連れての取材は、もうパニックとしか言いようがない。
◆写真を撮るということは、被写体が身を置く世界と深く繋がろうとする行為で、静かで落ち着いた時間が必要だ。だが、小さな子供たちが一緒だと、とにかく集中して何かをするのが困難だ。これまで何度、決定的瞬間を撮り損じたことか。
◆それどころか、子供が這い回ったり走り回ったりで、難民の家のものを壊してしまったり、難民キャンプで行方不明になったり、肝心なシーンで、おっぱいを欲しがって大泣きしたり、ウンチを漏らしたり、枚挙にいとまがない。撮った写真全部に子供が写り込んで愕然としたことも、おんぶしていて写真が全部ぶれたことも、三脚に頭突きされ、落下したカメラが破損したこともある。「写真を撮ってないで母親の責任を果たしなさい」と、難民の母親から叱られたことまであった。
◆とにかく写真が撮れない! 話がじっくり聞けない! そんな状態に悶々とした時期もあったが、子供が一緒だからこそ生まれる関係性があることを理解するようになった。何より、忘れがたいドラマが生まれてしまうのだ。子供が見当たらないと思ったら、いつの間にか難民の子らと一緒に頭を丸刈りにされ、服を着せてもらい、ご飯を食べさせてもらっていたことも、みんなでお尻を棒で叩かれていたこともあった。
◆2017年、1歳の長男を連れて訪ねたヨルダンの難民キャンプでの思い出は忘れがたい。それまでハイハイをしていた長男サーメルが、テントのなかで初めて立ち、数歩歩いたのだ。その場のみんなが手を叩いて喜んだ。
◆「立ったよ!」「立ったね!」そのとき、落ち着いて写真が撮れないという不満は消え去り、なんて豊かな時間なのだろうと思った。ここに生きていることを難民たちと共感し、その記憶を共有できる。それは良い写真を撮ったり、じっくりと話を聞くことより、私にとってはるかに重要だ。そして結果的に、取材するだけでは知り得なかった彼らの一面を見せてくれる。
◆今年も7月から取材に向かう。シリア難民の暮らす土地へ。例年通り、子連れパニック取材になるだろう。だがこうした蓄積から、やがて新しい何かが生まれる予感がしている。
◆二人の子供たちは3歳と6歳になり、長男は少しずつ自分のルーツを意識するようになった。子供たちがこの先シリアの地に立つことがなくても、シリアの人々を通して、土地の記憶を感じてほしい。そして彼らが成長し、いつか私の取材に同行しない日がきたら、思い出してほしい。故郷を離れ、新しい土地に懸命に生きようとしていたシリアの人々のこと。そうした多くの出会いを繰り返し、ここに立っていることを。
■この10年ほどの間に、チベットの文学が続々と邦訳されていることをご存知だろうか? 同じくこの10年ほど、チベット人による映画が相次いで日本で上映されているのをご存知だろうか? この未曾有のムーブメントを担っているのが、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)のチベット語研究者・星泉教授を中心とするグループだ。記憶にある方も多いはず。星泉氏は2018年6月の第470回地平線報告会「チベットの磁力・魅力・魔力」の報告者だ。なぜわざわざ「星泉」とフルネームで書くかといえば、母・星実千代も高明なチベット語学者。父・星達雄氏は20世紀初頭にラサに滞在した多田等観師の直弟子。「星さん」ではまぎらわしいからだ。
◆チベット文学日本進出の皮切りは2012年の『ここにも激しく躍動する生きた心臓がある チベット現代文学の曙』(トンドゥプジャ著、チベット文学研究会編訳、勉誠出版刊)だった。以来、2013年の『ティメー・クンデンを探してチベット文学の現在』(ペマ・ツェテン著、チベット文学研究会編、星泉・大川謙作訳、勉誠出版刊)、2015年の『雪を待つ チベット文学の新世代』(ラシャムジャ著、星泉訳、勉誠出版刊)と続く。このラシャムジャの短編集が今回紹介する『路上の陽光』だ。
◆ラシャムジャは1977年生まれのチベット人作家。チベット人がいったいどんな小説を書くのか? 読んだことのない方には見当もつかないかもしれないが、そこに描かれるのは意外にも普通の出会いと別れ、揺れ動く男女の心、少年の成長、都会暮らしの孤独といった普遍的なテーマだ。どの作品にも最初の数行で違和感なく引き込まれてしまうだろう。スマホもネットも普通にあるチベットの「今」はさほど日本と変わらない。だからこそ、ふとした瞬間のチベット人ならではの立ち居振る舞いが際立って見える仕掛けだ。
◆本書は日本で独自に編まれたアンソロジー。もともと別々に書かれたものだが、通底しているのは「何かが変わるとき」のように思える。ときに劇的に、ときにゆっくり静かに。それはどんな人間にも起こる自分事ととらえることもできるし、現代チベットが経験してきた変化を象徴しているのかもしれない。チベット経験者なら、かの地の強烈な「陽光」と、真っ黒い影の対比を思い起こしながら胸アツになれることうけあいだ。
◆本書の最後に収録されている「遙かなるサクラジマ」は著者が来日した際に「降りてきた」物語だという。日本で暮らすチベット人女性を描いた作品の本筋とは別に、これって何人かの実在の人物の話をミックスして書かれたのではないかと、心当たりがありすぎて仕方がなかった……なんてマニアックな感想は蛇足だろう(笑)。[長田幸康]
■チベット寺院の壁画や仏画には、神仏と並んで、しばしば得体の知れない化け物やら骸骨やら屍体やらが描かれている。都会でも護符や魔除けのおまじないの類をよく見かける。田舎に行けば「決して木を切ってはいけない山」「口にしてはいけない言葉」があったりする。そんな現実と非現実の境界にある「何か」をテーマに、チベットの現代作家たちが綴った物語のアンソロジーが本書だ。
◆妖怪大集合のような内容を(勝手に)期待して読み始めたのだが、実際は「世にも奇妙な物語」「ちょっと怖い話」といった趣き。だから「幻想奇譚」なのだ。「昔むかし」の話ではなく、今のチベットで起こっている話として描かれており、魔物や異界が現代社会と共存しているさまが軽妙な語り口で綴られているため、怖いというよりユーモラスでさえある。なお、作品ごとに解説や謎解きがあり、チベット文化に馴染みのない方も理解しやすいよう配慮されているのでご安心いただきたい。
◆「ゲゲゲの鬼太郎」をはじめ、キャラクター化された妖怪に子どものころから馴染んでいる身からすると、文中に登場する魔物たちがいったいどんな姿をしてるんだろう? と気になって仕方がなかった。とはいえ、読む人それぞれが想像を膨らませることができるのが、文字で書かれた文学の魅力だろう。
◆本書のカバーの挿画は、チベットを舞台にした作品を描いている漫画家・蔵西氏によるもの。本書で日本上陸を果たした「赤毛の怨霊」とか「一脚鬼カント」とか、その姿をぜひ蔵西氏にリアルタッチで描いてほしいと思った(いちおうお祓いした上で)。なお、チベット文学の最前線は雑誌『セルニャ』(チベット文学研究会)で知ることができるので、興味の湧いた方はぜひWebをチェックしてほしい。また、今年3月にもチベット人歌手がラサ・ポタラ宮の前で焼身抗議を図り命を落とすなど、チベットの情勢は何も改善されていないことを最後に付け加えさせていただく。[長田幸康]
■半世紀前も現在も、山は変わらず、ただそこに聳えているだけだ。けれど、時代や社会が移り変わっていくことで、これほどまでに“登山の様相”が変わっていくものなのか――。僕自身、ライターとして関わらせてもらった『日本人とエベレスト―植村直己から栗城史多まで』(山と溪谷社)を読んでいて、そんな感慨が湧き上がってきた。
◆この本は、日本人によるエベレスト登山の歴史をまとめたノンフィクションである。年代・テーマごとに11の章で構成され、複数の書き手による共同執筆でまとめられている。執筆者は江本嘉伸さん、神長幹雄さん、柏澄子さん、大石明弘さん、そして谷山の5人。各章の間にはエベレストに縁の深い人たちへのインタビューが挿入され、インタビュアーを山本修二さんが務めている。
◆各年代に行われた登山が、時代を映し出す鏡のようになっているのは、エベレストが世界最高峰という唯一無二の個性を持ち、登山者のみならず、山を登らない人々をも惹きつけてきたからだろう。1章「初登頂へ、二つの登山隊」では、松浦輝夫と植村直己による日本人初登頂という輝かしい記録とともに、1970年という時代が浮かび上がってくる。同年、日本で開催されたのが「大阪万博(日本万国博覧会)」。この万博のネパール館で上映する映画の撮影のため、70年のエベレストには日本山岳会隊のほかに、三浦雄一郎のエベレスト・スキー隊が入っている。当時は1シーズンに1隊が原則であり、同じ日本隊といえども、2隊が同時期に入山するのは異例のことであった。
◆田部井淳子の女性初登頂を描いた2章「女性だけでエベレスト」では、田部井の登頂が成し遂げられた1975年という年に着目する。この年は「国際婦人(女性)年」であり、世界が女性の地位向上に動き出した時代だったため、〈外国からも予想外の反響〉があり、〈「女性初」という言葉の社会的な重みが、独り歩きをはじめた〉のだという。
◆1988年の日・中・ネ三国合同隊(5章)は、国境を越えて交差縦走を行うため、国家的な一大プロジェクトとして企画された。ヒマラヤの最奥に巨大なパラボラアンテナを設置し、エベレスト山頂から世界初の衛星生中継を行おうという計画は、バブル景気真っ只中という時代だったからこそ実現できたのではないだろうか。
◆90年代以降、組織よりも個が重視される時代になると、山岳会や山岳部に属さない登山者がエベレストを目指すようになる。それを支えたのがコマーシャルエクスペディション(商業公募隊)で、1996年に日本人女性第2登を成し遂げた難波康子ら5人が遭難する悲劇的な事故が発生するが(7章)、一方で個人がエベレストに挑戦しやすくなったのも事実であり、七大陸最高峰最年少登頂記録を更新した石川直樹や山田淳も公募隊に参加してエベレストに登頂している(9章)。
◆また、90年代初頭からヒマラヤ登山も「環境」への配慮が求められるようになり、00年代には野口健が4回にわたるエベレスト清掃登山を実施。「登頂」ではなく「清掃」が、登山の目的となる時代になったのである(8章)。さらに通信技術やカメラの高性能化によって、かつてはテレビ局などによって発信されていたヒマラヤ登山の映像が、個人でも容易に撮影してネットを通じて発信できるようになった。そうした新たな時代の波に乗ってファンを増やし、世間の注目を広く集めたのが、11章「『栗城劇場』の結末」に登場する栗城史多であった。
◆70年の日本人初登頂をはじめ、83年の無酸素登頂(4章)、93年の冬期南西壁初登頂(6章)など、世界最高峰を舞台に日本人による冒険的登山が実践された時代はたしかにあった。しかし、公募隊によるエベレスト登山の大衆化によって、より多くの人にエベレストへの道が開かれるようになったが、パイオニアワークと呼べる登山はほぼなくなった。
◆エベレストではもはや冒険的行為は生まれ得ないのだろうか。本書では〈エベレストでの新たな冒険、新たなルートの登攀の可能性はない〉〈いまさら登山らしい登山は難しい〉という悲観的な意見が述べられているが、僕がインタビューをさせてもらった石川直樹さんは「今でもエベレストは人類の進化を証明する場所としてある」と語り、1冊の本の存在を教えてくれた。それはキリアン・ジョルネの『雲の上へ』(エイアンドエフ)。ジョルネは2017年春、エベレスト北面において単独無酸素で、固定ロープを使用せず、1週間で2度の登頂を成し遂げている。彼が山に向かう姿勢や行動には、登山の世界で受け継がれてきたパイオニアワークやアルピニズムの精神が息づき、さらなる高みへと進化していくんじゃないかという予感に満ちている。『日本人とエベレスト』を手に取るならば、ぜひジョルネの本もあわせて読むことをおすすめしたい。そうすることで、エベレスト登山のこれまでの歴史とともに、これからの時代の可能性を感じることができるはずだ。[谷山宏典]
■上記の表題で、日本ヒマラヤ協会の季刊誌に連載している。内容は、ネパールのランタン・ヒマールの登山史抄である。私は山岳部に入部して、ランタン・ヒマールのことを初めて知った。私のヒマラヤ登山はここから始まった。あれから半世紀、登山に没頭してきた。いくつかの初登頂もしたし、遭難して三度もヘリコプターの世話にもなった。冬剱雪黒部に年2回の長期山行を25年間続けた。酷使した体はガタガタで人工関節は悲鳴を上げている。もう山には登れない。
◆しかし、山恋いの想いは消えない。私は登山記録を発表するのを嫌っていた。だらだら自慢話を喋るのは品がないと考えていたからだ。人知れずにやるというのがカッコいいと思っていた。それに学生時代は大学紛争が荒れ狂っていたし、公害問題、部落差別、ベトナム反戦など政治的な運動が活発で、山登りや冒険は社会性の乏しい個人的な趣味で、誇るべきことではないと思っていた。だから目立ちたくなかった。
◆書くようになったのは1987年の冬山遭難で重傷を負い、7か月の闘病生活を余儀なくされたときからだ。もう書いても許されるだろうと思った。それに暇だった。仕事も辞めたし、これからどうしようかと悩んでいたから、書くことで気を紛らわしていたのかもしれない。
◆さて、現在の私はどうか。みんな遠い過去のことだから臨場感はないけれど、書くことも山登りの一部だと思えるようになった。企て、実践して、振り返り、書き記す、これで一つの夢が完結する。書くとは、起承転結の結びにあたるのではないかと思う。そしてそれが次なる夢の橋渡しになるのではなかろうか。
◆貴重な登山や冒険や探検の記録は、その時代の気風というものを表していて、後世に残すということは意義がある。それでマニアックな登山史の断片を書き残すことにした。その切り口は極めて個人的な思い込みで書かれている。地域をランタン・ヒマールに限定して、1949年のH・W・ティルマンのネパール探検から2015年のネパール大地震までを書こうと思っている。今ちょうど折り返し点あたりを書いている。
◆私には書く資格がある。山岳会も私もランタン・ヒマールに深くかかわってきたからだ。1961年、大阪市立大学第一次ランタン・リルン(7246m)遠征隊は、第3キャンプを氷雪崩に襲われ、ヒマラヤにおける日本人初の遭難事故を起こした。たいへん話題になり、5月19日朝刊では各紙一面トップで掲載された。森本嘉一隊長と大島健司隊員とギャルツェン・ノルブがクレバスに埋まり亡くなった。ギャルツェン氏は1955年フランス隊のマカルー(8471m)と1956年日本隊のマナスル(8157m)の初登頂者である。エヴェレスト初登頂のテンジン・ノルゲイと双璧をなす、当時最高のシェルパの一人だった。
◆私のあこがれる最高の探検登山家であるティルマンについても、かなり詳しく書いた。同世代の今西錦司と比較することで、ティルマンの偉大さを際立たせた。彼らの生い立ち、登山に関する考え方と活動、性格、特に第二次世界大戦を如何に過ごしたかは興味深かった。今西は理に働き、ティルマンは義に従う。孤高の野武士然としたティルマンは、戦後解禁されたネパール王国を最初に探検し、ランタン・リルンを目指した。
◆1949年に私は生まれた。そして、1978年に大阪市立大学第三次隊が初登頂を成功させ、私は登頂者の栄誉を得た。初遭難から17年の歳月が流れていた。過去の資料や報告書を精読すると、その時代時代に山を目指した夢追い人の心が浮かび上がってくる。
◆森本嘉一は戦前からヒマラヤ研究に没頭したが、戦争がそれを許さなかった。シベリアに抑留されて1947年に帰国、結婚、山岳会の仲間12名の戦死を知った。1949年は学制改革の年で、旧制大阪商科大学は大阪市立大学になった(今年からは大阪府立大学と合併し、大阪公立大学というマンモス大学になった)。森本は、戦後ほとんど廃部寸前だった山岳部の復興に尽力し、ヒマラヤ遠征を実現させた。彼は戦争に散った山仲間を背負ってヒマラヤに向かった。そして死んだ。41年の生涯だった。彼の長男は私と同い年で、父親の死を小学六年生のときに経験した。「お父さんを返せ」と生き残った隊員にくってかかったと聞いている。彼は東京大学に入ったが、決して山にはいかなかったらしい。どのような人生を歩んできたのだろうか。物語は今も続いている。
かなしきものよ 静寂につつまれて
深淵なるものよ 生まれ変わる命のまどろみ
はかなきものよ 野望の蜃気楼
神々しいものよ 美の回廊の奥深く
ヒマラヤは あこがれの迷宮
われらに語りかけながら
その終わりから始まりへの予感
この試練から奮い立つ希望
風雪に身をゆだねる その誘惑
われらは 沈黙へさすらってゆく
そうしてようやく ヒマラヤの部分になる
人生を縁取る白銀の飾りよ
クレバス闇にひそやかな
ブルーシルクの灯りをともす[和田城志]
■大航海時代の船乗りの間では、大洋の彼方は巨大な滝で近づく船はすべて落下してしまうものと信じられていた。私の旅もまた、地平線の先に広がる光と闇の奥に吸い込まれるかの如く、頼りなくおぼつかない漂流だった。だがしかし、人間は何にでも慣れるもの。どこかここではない、見知らぬ人々が暮らす異郷を視線に刻みたくて辺境を歩き巡るうちに、いつの間にか移動自体が自分の在り様になっていた。
◆40年以上ずっと旅を続けてきた。旅しかしてこなかった、といっても過言ではない。そしてある時、旅する先々に決まって彼の足跡が刻まれていることに気がついた。中央アジアから西アフリカ、ロシアからオーストラリア、そして南米大陸最南端まで。伝説の紀行作家ブルース・チャトウィンは、48歳の短い生涯でいったいどれだけの距離を移動したのだろうか。
◆もちろん、同時代の物書きすべてが彼にあこがれたという稀代の作家としての存在もあるが、どうにも気になるのには別の理由がある。もしかしたら、私は彼に遭っていたかもしれないのだ。「アフガンの春」と呼ばれた1976年、アフガニスタンの首都カブールでのことだった。アフガン内戦もイランのホメイニ革命も発火する前の、南西アジアがつかの間の静穏に浸っていた時代だ。
◆インドからパキスタンを抜け、カイバル峠を越えてたどり着いたカブールの下町。まだバックパッカーという言葉はなかったが、陸路はるばる流れてきた国籍も年齢もまちまちな現役のヒッピーたちが、ハシシの薫り立ちこめる安宿にたむろしていた。ロンドン発カトマンズ行きのマジックバスが埃を巻き上げて走る、『深夜特急』そのままの放浪と無頼の世界だった。
◆ある日の午後、通称チキン・ストリートと呼ばれる安宿街の一角で、私は信心深く気の短いパシュトゥン族の男たちと無知ゆえのトラブルを起こしてしまう。胸ぐらをつかまれ袋叩きになりかけたが、苦し紛れの言い訳で何とかその場を切り抜けることができた。一部始終を食堂の片隅のテーブルから眺めていたその男は、ひどい目に遭ったなとかすかに笑いながら、隣の椅子に座って話しはじめた。バーミアンの大仏像の足元で繰り広げられる遊牧民の勇壮な騎馬競技ブズカシ、この世のものとは思えない瑠璃群青の湖水をたたえるバンディアミール湖への道……。
◆サハラ砂漠の話はとりわけ強烈だった。別れ際にひとこと、「自由になりたかったら旅をしろ、謙虚でありたかったらアフリカへ行け」とささやくように言われた。その言葉を耳にしなかったら、アフリカに旅立つことはなかった。それも50ccの原チャリでサハラ砂漠を縦断するなどという、大幅にハズレたことは多分やらなかっただろう。翌朝、彼の姿はすでになく、海のように深く真っ青な瞳の記憶だけが残された。
◆彼がブルース・チャトウィンその人ではないかと思ったのは、3度目になるパタゴニア行でのこと。確証はないが、神出鬼没の彼のことだから決して不思議でもない。ニコラス・シェークスピアによる詳細な評伝でもその足跡は浮かび上がってはこないが、彼のひとことに誘われるように旅した西アフリカでの半年間は、その後の私の在り様を決定づける体験となったことは確かだ。
◆チャトウィンは松尾芭蕉の『おくのほそ道』を携えてパタゴニアの大地を彷徨った。芭蕉は旅への誘いを「そぞろ神のものに憑きて心を狂わせ」と記したが、チャトウィンもまたそぞろ神に導かれて漂泊の日々を過ごしたことは間違いない。新しい場所を探索したり、知られざる「宝物」を見つけたいという欲望は、遺伝的なものだという説がある。DRD4-7Rと呼ばれるこの遺伝子を持つ人は、移動するために生まれきたらしい。共通するのは、この旅する遺伝子だけかもしれない。しかし、そぞろ神はスマホには降りてこない。旅人の靴底にしか、旅の女神さまは降りてきてはくれないのだ。
◆風の踵を持つ旅人ブルース・チャトウィンの足あとに、自分のビブラム底を重ねてみたい、といえばそれは思い上がりでしかないだろう。それでも、彼の精神の高みに少しでも近づきたいという思いは変わらない。そして、あの深く海のように澄み切った青い目は、いつまでも忘れることができない。
◆さてさてところで、神田神保町の岩波ホールがコロナ禍による入場者激減で54年の歴史に幕を閉じることになったという。思い返せば古くは『極北のナヌーク』から『夢のアンデス』3部作まで、絶対ここでしか掛からない名画に目を奪われたものだ。その最後を飾るのが『歩いてみた世界 ブルース・チャトウィンの足跡』、監督は古くからの友人で『アギーレ 神の怒り』や『フィッツカラルド』の鬼才ウェルナー・ヘルツォーク! もはや、付け加えることは何も思い浮かばない。パンデミックで移動できなかった空白期間を経て、たとえ世界が戦火に覆われていても、再び旅立つ前にこの一作を記憶に刻むべし。6月4日から7月29日まで上映。最終日をもって岩波ホールは閉館となる。[Zzz@カーニバル評論家]
■この通信のフロントを書き終えたたった今、連載を書いている小松由佳さんから連絡が入った。なんと「モンベル・チャレンジ・アワード」を受賞することになったという。確か賞金100万円のはずだ。お金以上の名誉あることなのだが、常時金欠の由佳さんにはとってはありがたいことだ。今回も2人の子ども連れての旅なんだし……。そう思ったら追伸として「1円たりとも貯金せず全部カメラ代に使います」だって。さすが!
◆この賞をシール・エミコさんが頂いたのはいつだったか。あのときは大阪のモンベル本社まで私も行ったのだったっけ。辰野勇さんのこのアワード、目的が植村直己冒険賞と違うのは、「やったこと」にたいしてではなく、「やろうとしていること」への賞という点だ。よかった、よかった、由佳さん。地道な積み重ねが少しずつ報われているのが私も嬉しい。あ、連載「石ころ」、来月までです。
◆新型コロナウイルス、ついに北朝鮮までかなりの感染に。あれほど徹底予防していたはずなのに、ワクチンに回るお金がないのでは、と心配だ。日本は3年目の夏、果たしてマスクはいつになったら外せる?[江本嘉伸]
《画像をクリックするとイラストを拡大表示します》
今月も地平線報告会は中止します。
オミクロン株の感染が収束しないため、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。
地平線通信 517号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2022年5月18日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
|
|
|
|