4月21日。東京の青空はまもなく湿りはじめ、夕方までには4月にしては珍しい「8日連続の雨」になる予報、ゴールデンウィークも雨マークが優勢という予報である。
◆ウクライナ軍の頑張りに世界の人々が驚愕している。先月のこのページで、ロシア軍の攻撃に20日以上も持ち堪えているウクライナ軍の本気への驚きを書いたが、それどころではなかった。明日22日で2月24日の侵攻開始から2か月になるというのに、一歩も引かずに耐えているのである。
◆首都キーウ(つい先日まで私たちはキエフと呼んでいた)の制圧ができなかったロシア軍は、きょう現在、南東部の港湾都市マリウポリ、その堅牢で知られる「アゾフスターリ」製鉄所の制圧に乗り出した。旧ソ連時代に建設されたヨーロッパ最大級の製鉄所。東京ドームなんと235個以上(!)という広大な敷地を擁する施設。広大な地下空間は市内の他の施設ともつながり、その複雑さが攻略を難しくしているという。
◆ロシア国防省は19日夜、モスクワ時間の20日午後2時(日本時間午後8時)からと時間を定め、武器を置いて投降した兵士に命の保証をすると約束した。投降の要求は3度目で、ウクライナ政府が市民を「人間の盾」にしていると主張し、「予測された悲しい結果に対し、完全に無責任だ」と非難した。
◆旧ソ連圏の二つの国の戦いを見て、私は1989年8月、ソ連が崩壊する直前のモンゴル草原での風景を思い出した。当時、ソ連のゴルバチョフ書記長の「ペレストロイカ」(改革)政策のおかげで、私たちが提案したチンギス・ハーンの陵墓探しが始まりつつあった。社会主義時代、モスクワはチンギス・ハーンをヒットラー並みにとらえ、英雄視することを長く禁じていた。モスクワに絶対服従していたモンゴルには辛い時代だった。しかし、ゴルバチョフの登場によってモンゴルの英雄は息を吹き返した。「ゴルバンゴル(三つの川の源)」と命名された。私たちの日モ合同学術調査がこうして始まったのである。
◆しかし、その後も簡単ではなかった。自分たちの権益を守ろうとするグループが8月19日クリミア半島フォロスの別荘で休暇中のゴルバチョフに面会を要求、ヤナーエフ副大統領への全権委譲と非常事態宣言の受入れ、大統領辞任を迫ったのである。ゴルバチョフはいずれも拒否、別荘に軟禁された。国家非常事態委員会は8月19日の午前6時半にタス通信を通じて「ゴルバチョフ大統領が健康上の理由で執務不能となり、ヤナーエフ副大統領が大統領職務を引き継ぐ」という声明を発表した。一時は反改革派が全権を掌握、モスクワ中心部に当時ソ連の最新鋭戦車であった戦車部隊が出動し、モスクワ放送は占拠された(当時、アナウンサーは背中に銃を突きつけられた状態で放送をしていたという)。
◆そのニュースを知ったモンゴルの学者たちが、ラジオの音声に聞き耳を立てる姿は忘れられない。ロシア語が堪能な学者たちと、私は直接話ができた。モンゴルはよく「ソ連の16番目の弟」として揶揄されることがあった。せっかくモスクワのくびきから解放されようとしたのに、このクーデターである。結局、エリツィンの頑張りでクーデターは未遂に終わったが、あの時草原のテントで、私の目の前でラジオに聞き入る学者たちの真剣な姿は今も忘れられない。
◆ゼレンスキー大統領以下、ウクライナの士気は衰えていないので、この戦い、長くなるかもしれない。しかし、お金にそんなに余裕のないロシアのプーチンとしては当面、5月9日の「戦勝記念日」(第二次世界大戦の最後、ソ連がナチスドイツに勝ったことを記念する日)の最大の行事としてなんらかの「勝利宣言」をしていったん小休止するのでは、と予測されている。マリウポリの制圧をもって誇大に宣伝するのか。西欧各国の経済制裁の効果を徐々に受け始めているロシア(当面は中国がルーブルを買い支えているとされる)としてどう立ち直れるか。
◆コロナは、中国の上海で猛威を発揮している。「ゼロ・コロナ政策」を進める中国では、他国では到底できない強力な外出禁止措置を取っており、その不満があちこちで爆発しつつある。世界のコロナ死者数はきょう21日現在620万人、感染者数は5億704万人である。上海は半世紀前に訪ねたことのある思い出の街だ。当時は国交がなく、上海舞劇団という芸術代表団が日本を訪れた際、帰路に初めて空路を使うことになり、日本航空、全日空の2社が直行便を飛ばした。両社のトップが同行した記念の便にメディア各社も代表1人を乗せていいということになり、私もその1人に選ばれて、初めて中国の土地を踏んだ。1972年8月12日のことだ。
◆わずか1泊の旅だったが、文化大革命末期の中国の貧しさに驚愕した。これでは1世紀経っても日本に追いつけないだろう、と。緑の人民服姿の市民がぞろぞろ歩く大通りで、この国が抱えている問題の深さを勝手に思いめぐらせた。あの日から50年、中国はなんとでかく、きれいになったのだろう。ロシアと中国。2つの超大国の力と、隣接する小国のあり方を思い知る4月である。[江本嘉伸]
世界最長の犬ぞりレース、アイディタロッドに参戦していた本多有香さん、見事3月20日日本時間の午後4時過ぎ、犬たちとゴールした。本多さんは3月7日昼、出走50チーム中、49番目にスタート、未曾有の強風に苦しめられ、寒気と戦いながらガンバリ続け、13日と5時間でのゴールだった。 スタートのときは13頭だった犬たちは11頭になっていた。アイディタロッド完走は2015年以来7年ぶりの快挙。アラスカのヒーリーに帰った本多さんに顛末を報告してもらった。
■2022年で50回目を迎えた今回のアイディタロッドに、記念として出場しようとかなり前から計画していたのですが、2019年のアラスカへの引っ越し後にコロナというタイミングだったので、私はかつてない貧困に陥りました。20年と21年はどのレースにも出られず、寒さとひもじさばかりの冬でした。そしてそのまま2022年のシーズンへ突入。
◆本当は今回のアイディタロッドに出たかったんだと、友人であるレモングラスというタイレストランのオーナーのナットに話すと、4千ドルもする出場料を「そっか。じゃあそっちはうちで出すから頑張れ!」と言ってくれて、ようやく光が見え始めエントリーしたのです。
◆で、ですね、ちょっとひどい状況だったんですが、言い訳がましい内容なのでこれは江本さん用の前置きです。
[実は、エントリーしたそのすぐ後にトラックのコンピュータが壊れちゃったんですよ。この冬は異常気象の連続で、大雪、まさかの大雨、マイナス50度の寒波、そしてまた連日の大雪という具合でスノーマシンがないとトレイルを作れない状況でした。知り合いに頼んで30ドル支払ってトレイルを作ってもらっても、翌日また大雪になるので一回で終わります。何回かはやってもらいましたが、そんなには工面できません。他のマッシャーもみなトレイル作りで疲れ果て、スノーマシンでいつもいい状態になっているデナリハイウェイは大賑わいでした。私もトラックがあればデナリハイウェイで訓練できるのですがトラックは一向に直らず、直ったといわれて引き取った1週間後にまた同じ問題発生でトウイング、というのを11月から4回繰り返しているうちにもう1月末になっちゃってました。もうすぐ月に行けるくらいの走行距離なので色々問題はありますが、修理屋は原因がよくわからないと言ってくるから困ったわけです。ディーラーに聞いたら、この大雪で大混雑だから1〜2か月以上待たないとだめだと言うし。そんな感じで特にキャンプの訓練が全然できていないし、訓練距離も足りていないので、こんなんでアイディタロッドなんて無理だから棄権しようと思ったのです。だからフードドロップの準備もしていませんでした。でも既に出場料の4千ドルは支払っていて返ってきません。そのことをナットに話したら「え? 出ないの? 4千ドルどうなるの? どうしてもだめなの?」と言われちゃって。ここはもう実践で行こうとクエスト200というレースに訓練として出ることにしたわけです。ここで犬たちがダメそうなら、アイディタロッドは棄権するつもりでした。いい“ものさし”でした。トラックはレンタルで高かったですがこのときはまだ最後のクレジットカードは停止まで行っていませんでした。で、無事に200マイルを走り切り、ゆっくり行けば何とか完走できるかもしれないと思い始め、アイディタロッドにそのまま出場することにしたんですよ。だからレースが終わったら休む間もなくアイディタロッドのことを考えなくちゃならなくて。フードドロップがクエスト200の3日後だったので、それからほぼ徹夜で肉を切って袋詰めをして、室内に戻って暖を取ってはレース計画とにらめっこしてまた肉を切って、をしていました。もう、本当に今までで一番大変なフードドロップでした。その後も結局2月末までトラックは戻らず、また訓練できない日々で、もうやっぱり棄権した方がいいんじゃないかとずっと悩んだまま、気づけばスタートラインに立っていた感じでした]以上、裏事情でした。◆アイディタロッドの訓練としてクエスト200に出場しました。今回はトラックの故障などがありキャンプができず、キャンプの訓練として出たつもりだったのですが、イーグルサミットでまた吹雪にあってしまい、そんな悪条件の最中にジャスティスが発情し、山越えが本当に大変でした。ただ、確実にチームの体力が上がった手ごたえを感じたのでいい訓練にはなりました。
◆ご存じかもしれませんが、アイディタロッドは2017年以降携帯電話が使用可能となったため、レースは前回とまったく違うものになっていました。もちろんトップ10チームはそんなものを使う余裕もないので関係ないけれど、大体20位以降のチームはスマートフォンを肌身離さずに、電波が届く範囲でもそうでなくてもいつも使用していました。特に新人は外部から助言をもらえるのでとても便利そうでした。コンパスと地図を持参していたころが懐かしいです。私の好きだったアイディタロッドは2016年で終わっていたのです。
◆それでも、自然の脅威は変わらずそこにありました。最初は気温が高くうちの子たちには暑すぎて、何度も雪を体にかけて休ませながら進む始末でした。また吹雪も多く、トレイルを見失い3チームで協力しながら一歩一歩進んだりしてものすごく遅く進みました。
◆ホワイトマウンテンを出てからは強風でソリごと回転させられましたが、幸運にも骨折に至るような着地はしませんでした。地吹雪はクリアで視界は良好だったため景色は綺麗で雄大でした。凍っていてもやっぱり海は良いもので、海を見るとなぜか「帰ってきた」と嬉しく思ってしまうのは不思議です。そんなに見る余裕なかったけど。途中のチェックポイントでは村の人たちからの歓迎がうれしく、変わらない暖かさと美味しいクジラの肉で元気をもらいました。
◆50回を迎えたアイディタロッドは、確かに変わってしまっていたけれど、それでもこれはすごいレースだと思います。いつかまた出ることもあるのかないのか、借金返済終了後に考えてみたいです。
◆近況ですが、私はすでに働き始め、犬たちは暖かいお日様の下で昼寝ばかりしているけれど、まだ雪は残っているので軽く走ったりしています。訓練距離もギリギリで大変な嵐ばかりのこの冬を頑張って走ってくれたうちの子たちは、やっぱり世界一だと実感したレースでした。それから、うちの姉が私の名前のインスタグラムを始めたせいで、写真を送ってよこせと連絡が激しくなったのが最近の悩みです(笑)。[本多有香 アラスカ]
数日前の夏日の陽気が嘘のようだ。冷たい雨風が体温を奪う。やませの時期ではないが海から湿った風が吹くと気温よりもグッと寒く感じる。せっかく咲いた桜も戸惑っているだろう。4月10日から5日間、三陸海岸のみちのく潮風トレイル(以下MCT)の一部を歩いている。
◆震災復興の一環として環境省が日本初の1,000kmを越えるロングトレイルを創設することになり2019年6月9日に全線が開通した。20代後半はロングトレイルに傾倒していたことが長じ、震災翌年2012年に環境省のモニターとして私も黎明期のMCTを歩き、2020年に全線をスルーハイク(一気に踏破すること)した。震災から10年となる去年の夏からMCTを子どもたちとテントや民宿を使いながら100km歩くプロジェクトを始めた。毎年夏に歩いたとしても完遂に10年かかる。世界を少しばかり各種の人力手段で周って来たが、日本ほど美しい場所はなく三陸海岸ほど変化に富んだ土地は稀有だ。
◆食・人・自然、そんなポジティブな三陸を子どもたちに体験として感じてもらい、慰霊碑や震災遺構にも立ち寄り、我々が生きていることがいかに奇跡かを感じ、東日本大震災自体を知らない子どもたちに知ってもらう。その様子をSNSで発信する。震災翌年に三陸を歩いたときの自分の無力さを覚えている。だからMCTが完成したらこのプロジェクトを実行すると決めていた。それを行動に移している。
◆私のバックボーンにあるのは半年間住み込んでいた恩師の大場満郎冒険学校だ。冒険教育というものがあるなら現役を続けながらできる限りを尽くして行きたい。
◆南極から3か月。ひたすら走り続けた。地方に移動して板橋の自宅に戻ると徹夜でパッキングして次の目的地へ飛ぶ。そんな日々。それが良かった。そうでないと心が持たなかった。敗退からの回復。潰れないためには走るしかなかった。多くの人に会いながら自分の心を整えていった。そして改めて気付いた。私は走り続けることが好きなのだ。南極のベースキャンプ行きの乗り合い飛行機はロシア製輸送機イリューシンの時代が終わり、去年からボーイングに変わった。故に南極遠征はまだ実行できる。今冬の南極遠征に向けチャーター飛行機の交渉を始めている。円安と燃油代高騰にも影響を受け、出された初期見積もり額は都内の中古マンションが買えるくらい。当ては見事にない。失敗への世間の風当たりも強い。だがやれる道はきっとあると私は信じている。[阿部雅龍]
■地平線通信515号はさる3月15日(火曜日)印刷、封入し、その日のうちに局に預けました。この号は「あとがき」に書いた事情(画伯がいつもの「水曜日」と勘違いしていた)でかなり作業は遅れ気味だったにも関わらず精鋭たちの踏ん張りで時間内にすべて完了できました。頑張った方々は以下の通りです(最後の1人は見ていただけ)。
森井祐介 車谷建太 長岡竜介 白根全 新垣亜美 落合大祐 江本嘉伸
★ついでながらこの号のフロントの江本の文章で1か所訂正。テレビでニュースを放映中、女性キャスターの背後にまわり「プロパガンダを信じないで」と書いた紙を掲げたロシアの勇気ある女性、マリーナ・オフシャンニコワさんのこと。掲げた紙の一行目は英語で「no war」とあったのになぜか「stop the war」としてしまった。ごめんなさい。彼女はその後ドイツのアクセル・シュプリンガー社が発行するウェルト紙で、記者として働くことになったという。
■桜の季節は今年も駆け抜けるように去っていった。近所にある東京・光が丘の並木では、桜の面影はとうに消え、一面つややかな緑に覆われている。まだ花が見頃を迎えていなかった3月下旬のある日、私は大学院の修了式に駆けつけ、研究室を去られる先輩方と最後のお別れをした。
◆海外での実地調査をコロナで断念せざるを得えない、不運な年だった。二人とも研究の目処が立つまで非常に苦労されていたが、最後には素晴らしい研究を修められた。一人はこの春から環境コンサルタントになり、もう一方の先輩は就農されるという。同じゼミで過ごした上級生が、各々の道へ進んで行かれるのは嬉しかった。
◆私はというと、年明けから本格的な就活に乗り出している。早期選考に乗っかることができた財閥系企業からは、先月末に断られてしまった。第一志望だった。目指していたのには、私が数年間通い続けたインドネシア・ボルネオ島に社有林や製造工場を有し、安定したお給料をもらいながら駐在員になるチャンスが得られるのではないか、という魂胆があった。短期インターンでは手応えを感じた上、インドネシア語が操れ、森林資源についても学んできた身なのだから、ここで働けるのだろうなどと自惚れていた。だがそんな驕りが透けていたのだろう。あっけなく落とされたのだった。
◆それからしばらくが経った今、「生温い考えのまま、うっかり内定を出されずに幸運だった」と感じている。2月には法政大学の小口寿子さん、3月には北大探検部出身の五十嵐宥樹さんがそれぞれ綴った、山仕事への想いを読んで心が揺さぶられた。現場で土を踏み締め、森の仕事に体当たりで打ち込む同世代の2人の言葉には、わたしが到底持ち得ない説得力があった。「カネ稼ぎ」に染まった仕事と、身体・精神・生活に根ざした「生業」である仕事、完全には二分できないにせよ、それらを分つものが2人の文章からは確かにあるように思われた。生業は「生きていくための業(わざ)」であると同時に、その人の身体や精神と連なる「生きている業(わざ)」である。そのように感じさせたボルネオ島の人たちの姿も思い出された。いつしか情熱が失せ、世界に対し投げやりでいた自分が恥ずかしい。「世界とどうつながっていけばいいのか」という問いに自問を重ねた末、快適さよりも「快楽に伴う苦労を可能な限り引き受け」る暮らしを敢えて選び取り、仲間と実践する五十嵐さんは、もう遥か先を進んでおられる。
◆それでもひとまずはオフィスワーカーをやろうと思うマイペースな私だが、その中でもできるだけ生業に近く、「カネ稼ぎ」に染まり切らない仕事をしようと、以前とは毛色の異なる企業を見るようになった。
◆直近では、確かな技術を持った日本の鞄職人を要に、その側で働くことのできる職場を見つけ、惹かれている。鞄づくりに勤しむ村人たちの輪に混じっていたボルネオでの特別な日々が、自分の仕事に繋がっていくのだとしたらそれはいいなと思った。就活はやっと中盤、どう転ぶかも、いつ終えられるのかも見当がつかないが、この4月を区切りに再スタートを切ったつもりだ。[下川知恵]
■この4月、久々に新しい仕事につきました。市の社会福祉協議会(社協)で、生活困窮者向け自立支援のサポートをしています。コロナ禍の影響もあって増えている生活費の貸付や支援金・家賃補助の支給などの受付や手続きが主な業務です。
◆8年間住んだ屋久島から埼玉に帰ってきて、早半年。こちらに帰るきっかけになった母の体調は良好で、あまりに元気なので見た目では病気とわからないほどです。一緒にご飯を食べたり、コーヒーを飲んだり、車で買い物に出かけたりといった普通の日々に感謝しながら毎日を過ごしています。
◆この半年間は、母との時間を多く持つことと、栄養・運動・睡眠の管理を大切にしながら、実家の断捨離もしてきました。母の婚礼タンスや父の遺品などの思い出の品を処分するのは大変でしたが、これからの生活を快適に過ごせるようにと頑張りました。母の病気がわかったときはショックでしたが、ゆっくりと家族や実家と向き合う機会をもらえたこの半年間は、自分にとっても貴重な経験でした。
◆さてそろそろ仕事を、と思ったとき、頭に浮かんだのは屋久島の時と同じく小学校教員でした。でもワークライフバランスを考えると、今の自分には合っていません。「朝ごはんと夜ご飯を母と一緒に食べられる時間帯での勤務」「残業無しで、土日はしっかりフリーになれる」という条件で仕事を探して、たまたま登録した派遣会社から今の仕事を紹介されました。
◆国や県の様々な支援制度の窓口になっているのが、社協です。相談員は困っている方のお話を丁寧に聞き取り、必要な支援に繋げていきます。就労支援や家探し、食糧提供(フードバンク)、そして家計の見直しまで支援してくれて、日本ってなんて親切な国なんだ!と驚きました。あくまで「自立支援」なので線引きはしっかりとされていますが。年々増加しているひきこもりの支援にも力を入れています。
◆しかし、最近のニュースでも話題になっていましたが、コロナ禍で貸付条件が緩和されたことにより、返せないのにお金を貸りてしまって結局自己破産してしまうケースも出てきています。制度が本当の意味での救済になっているのかという疑問は、やはりあります。でも、利用者は20代の若者から高齢の方まで幅広くおり、直接食べ物をもらいに来る方も多くいて、セーフティーネットになっていることには間違いありません。「社会とつながる」「自分らしく生きる」とはどういうことなのか、考えさせられる日々です。
◆仕事の任期は1年の予定で、この経験をこの先どんな風に活かそうか今ははっきりとした道筋は見えていません。でも、いま私が一番にやりたいことである「母との時間を大切にする」はできている!と思うと、不安や焦りはあまりありません。屋久島の海や山や知り合いが恋しくなることもあるけれど、母と一緒に朝ごはんを食べ、コーヒーを飲みながら朝ドラを見て、出勤するという平和な日々が、今は幸せです。相変わらず流されっぱなしの人生を楽しんでいます。[新垣亜美]
■「インド通信」延江由美子です。先月号に続いて、現在滞在中のフィラデルフィア(USA)から登場させていただきました。久々の渡航、その上、写真集『いのち綾なす』80冊を詰めた2つのスーツケースはかなりの重量になったので緊張していましたが、羽田の国際線ロビーはまだまだガラガラでカウンターのスタッフも親切、幸先良く出国しました。
◆一転して乗り継ぎをしたシカゴ空港の入国手続きには長蛇の列。ソーシャルディスタンスなし。でも機内同様、空港内ではマスク着用が義務化されていて、皆それに素直に従います(暴力沙汰に出食わさなくてよかった)。目の前に並ぶ人々の、インドで見慣れていたのとはまた違った実に多様な人種の顔と、あちこちから聞こえるやりとりに「あ〜〜アメリカだなあ〜〜」と独りごちたのでした。
◆こちらでは先日、ケタンジ・ブラウン・ジャクソン女史が黒人女性として初めての連邦最高裁判事に指名されたというニュースが多くの人にとって実に喜ばしい出来事だった以外は、現地から報道されるウクライナの惨たらしい状況やエスカレートする一方の銃暴力など、暗いニュースばかりです。まさにこれを書いている最中にもNYCに住んでいる従姉妹から、ブルックリンの地下鉄駅で発砲事件があり13人が負傷、不発の爆発物も見つかったが、犯人は未だ逃走中、駅前にある学校の児童はシェルターで待機中というニュースが飛び込んできました。「ソフィー(娘の名前)がいつもベビーシッターに行く所だからすっごくびっくりした。ゆみちゃん(私のこと)も来るのが今日でなくてよかった。テロだったらやだな」とかなり動揺気味。大変なことがまた起きてしまいました。
◆ご存知の通りレイシズムもとても身近で切実な問題です。2020年5月に起きた黒人のジョージ・フロイドさんが白人警官に殺された事件は記憶に新しいですよね。フロイドさんは最期に「お母さん……。息ができないよ……」と言って亡くなりました。黒人の母親は息子が外出するときには必ず、決してポケットに手を入れて歩かないよう注意するといいます。ただそれだけのことで、命を失うかもしれないから。
◆MMSのPR担当者は、20代半ばのアフリカ系アメリカ人男性です。常日頃彼が経験している理不尽な出来事を本人から直接聞いたとき、この現実がもっとずっとリアルなこととして強烈に胸に迫ってきて、身の回りにいる彼らはいつも何事もないように気持ちよく接してくれるけれど、それは浅はかゆえの大いなる誤解なのだと気がつきました。
◆食事はほとんど修道院の食堂でいただいています。「え〜」と密かに閉口したのはほんの束の間。今となってはミートローフとかミートボール・スパゲティとかマカロニ・アンド・チーズとかポークチョップ&ベイクド・ヤムとか、スープにポテトチップスとか、アメリカっぽく用意された料理をそれなりに楽しんでます。90歳をすぎたシスターたち(ミッショナリーとして何十年とインドやアフリカやラテンアメリカで奉仕してきました)がそれらを少量ながらもモリモリと食べ、おまけに必ず添えられる超甘いデザートをペロリと平らげる姿には脱帽です。
◆コロナがだいぶん収まってきていたので(といっても、フィラデルフィアでは昨日からまた室内でのマスク着用が義務化されましたが)時々外食もします。印象的だったのは、この辺りに昔からあるグリーン・パパイヤという小さなレストラン。ベトナム人夫婦が細々と営んでいますが、メニューにあるのはベトナム料理でなく、やはり典型的なアメリカ料理。それもそのはず、お客さんは近所に住む白人の中高年ばかりでした。彼らはそうやって2年以上のコロナ禍にあってもしっかりとサバイブしているのでしょう。
◆こうして実際に来て、同じ空気(日本とは湿度が全然違う!)吸って、会って、話して、一緒に食事することでわかること、感じることがどれだけ貴重なことか。何十回のZoomも及ばない気がします。呼んでくれた姉妹たちに感謝!
◆翌日犯人は無事確保されました。それもなんと、従姉妹家族が住んでいるアパートメントの目と鼻の先で![延江由美子]
■3月19日、長女と次男を連れて3人で奈良に行ってきました。目的は緒方敏明さんの個展を見るためです。緒方さんとは、昨年の12月、長野亮之介さんと一緒に那須で山仕事をした仲であり、表現者としての大先輩でもあります。
◆今回の個展は「天空郵便 RAIN」というタイトルで、雨漏りのひどい緒方さんのアトリエの状況から着想を得た展示。会場は興福寺から歩いて7分ほどの場所にあり、古都の風情あふれる町屋のような雰囲気のギャラリーでした。会場に着くと、緒方さんが入り口にいて、子連れの私に少し驚いた様子でした。
◆展示スペースに入ると白い建築物の彫刻が並んでいました。作品の内部には、水や空を思わせる濃淡様々な青色のガラスが溶けていて、手渡されたライトで照らすとキラキラと輝きます。一緒に見学した子ども達も、第一声が「わ〜、きれい、万華鏡の中みたい」と。子ども達の素直な感性にも緒方さんの作品は響くんだなと、一緒に来て良かったと思いました。
◆日本橋三越での個展も、緒方さんの静謐な作品が会場の雰囲気に合っていて、とても素晴らしい空間でした。今回の個展では、彫刻作品を包む静謐な緊張感はそのままに、子どもの来場者も受け入れる優しさも漂っていて、人との繋がりを大切にしている緒方さんらしい展示だったと思います。
◆個展には江本さんや久島さんも来場されていて、作品を前に感じたことを話しました。久島さんが「緒方さんの作品を見ていると、前世、この建物で暮らしていたような気持ちになる」と言っていたのが印象的でした。緒方さんの作品には、鑑賞者が想像力を働かせる余地がたくさんあり、各々が想像の世界と作品の世界を重ねて、彫刻の中を歩き回るように鑑賞しているのだと思います。緒方さんの作品は、人の想像力を邪魔しないよう緻密に作り込まれていて、窓周辺の厚みにしても、小さな建物が自然に見えるよう調整されています(たぶん0.1mmくらいの精度だと思います)。
◆夜の帰り道、アーケードを抜けて雨の中を歩きました。私と子ども達、江本さん、緒方さんと一緒に奈良の細い路地を歩いていると、彫刻作品の中にいるような感覚になりました。駅に向かって歩きながら、「このメンツで、こんなところを歩いているなんて、これから先ないですよ」と緒方さん。彫刻、人と人、土地との繋がり。「天空郵便 RAIN」は、冷たい雨粒も愛おしく思えるような、人の温かさを感じる個展でした。[山本豊人]
お忙しいなか いつもありがとうございます。先日は、遠路の御来場、作品と向き合ってくださって、ほんとうにありがとうございました。食事も珈琲もごちそうさまでした。そして作品まで、買っていただいて、感謝恐縮であります。
創作のこと 母親のこと あたたかいお心遣いと励ましを ほんとうに ありがとうございます。とてもうれしいです。
奈良個展には、地平線会議の仲間の方々が、たくさんいらしてくださいました。嬉しかったです。感謝感激であります。
コロナ社会になってから、ぼくは、ほとんど誰にも会えずで、ほぼ、「母親」としか、現実に会えてなかったです。
奈良の商店街を迷う江本さんと遭遇したときは、寒い雨の日。シルエットで、「江本さんだっ」って わかる。おぼえてる「たたずまい」。その記憶通りの江本さんが風景に「居る」ではないかっ。江本さん「そっくり」に。あたりまえだけど。
どんどん 「江本さん」に 近づいて そして いっしょに 歩いた。横を視ると 江本さんの 「顔面」が 本当に「在る」。「リアルだな」って感じた。「最新の江本さん」とぼくは コンマ一秒の誤差も無くいっしょに居る。あたりまえだけど カンペキだ。
とかとか 描いてると 大仰で 今 とても恥ずかしくなっていますが ぼくの作品は、妄想をカタチにした物ですから、ほぼ「ウソ」ばっかしです。
「わからない」「さわれない」「とどかない」、、、内心の余白のなかに「無いけど ある」ニュアンスのもどかしさ、みたいなこと。あの「感じ」を 空洞に具現できないものだろうか。
はじめてなのに「しってる」みたいな あの感じ
みなさま、ほんとうに ありがとう ございました![緒方敏明]
■コロナ禍での6回目の個展「破猫盤乗展」が12日に終了しました。地平線会議の皆様にも大勢お越しいただき、ありがとうございました。今回は音楽を主題とし、好きな曲に勝手にレコードジャケットを着せるという企画がメイン。僕が音楽に目覚めた中学生の頃は、音楽はまず深夜ラジオで聞き、最終的にLPやEPといったレコード盤に手を出すのが定番でした。なけなしのお小遣いを貯めて買い、盤に針を落とすまでは、ジャケットのデザインだけが内容を想像するよすがです。
◆今その役割は動画に移ったけど、当時のデザイナー達は30センチ四方の枠(LPジャケットのサイズ)を、これから展開する音楽世界の入場門として飾りました(玉石混淆ですが)。展示したジャケットはパロディじゃなく、先人に倣って曲の印象だけを元に描きました。配信全盛の現代でも、平面のデザインに刺激される脳の働きは興味深い。今回は絵に加えて文字要素が重要と思い、両者を融合させ易いデジタルで描きました。気づかない人も多かったのですが、画材の一つに過ぎないので、しめしめという感じです。
◆恒例の地平線カレンダーには、手描きの絵を制作しました。個展の相棒、丸山純さんのアイデアを受け、歌い踊り演奏する猫を描いています。実在したアーティスト名をパロった命名も丸山さん。当初クレージーキャッツというコミックバンドをイメージしてベースやサックスの絵を描いたんですが、ジャンベやフラメンコなど民族音楽を入れたことでジャンルも色も多彩になったかな。
◆個展が終わったばかりですが、この文章を書いている時点で数日後に迫った演劇公演の準備に追われています。芝居好きだった亡妻の淳子に背中を押されて始めた芝居。役者は僕を含めアマチュアですが、大人の文化祭と位置付け、練習不足だけども素人なりに真剣に取り組んでます。5回目の今年は劇場を借りて50分ほどの舞台。第二部にはケーナ奏者の長岡竜介さんと、ピアニストの奥様のり子さんに登場いただきます。地平線通信でおなじみ長岡祥太郎くんのご両親で地平線報告者です。
◆環境再生医、矢野智徳さんを追ったドキュメンタリー映画「杜人」が公開中。我が家の「じゅんこの庭」も登場します。映画パンフレットに僕も寄稿しました。監督の前田せつこさんは編集者や市議など多彩な経歴の持ち主。「文化祭が好きで、人生ずっと文化祭なの」という言葉に共感する今日この頃です。[長野亮之介]
4/23〜24「ノーレイノーレイン」予約フォーム(必ず事前予約をお願いいたします)
マロニエの はな
ゆらゆら ゆれる
ふらふら あるく
ひとの こころも
マロニエの した
すやすや ねむる
あかごは わたし
うららに はれて
マロニエの はな
ひそひそ はなす
いくさの きおく
まだみぬ あした
マロニエ みあげ
おろおろ ないた
わかれは いつも
はなの もとにて
せんしゃのなかは
せまくて あつい
あなたは くさい
わたしも におう
マロニエの えだ
そよそよ そよぎ
さらさら さらう
ひとも こころも
*1994年5月18日、詩人若松丈太郎は、キエフからチェルノブイリ原発を視察のために移動。「空港まえからマロニエ――こちらのことばではカシタンと言う――が並木になって続いていて、ちょうど今がまっ盛りで、白い花のトンネルの中を走るバスは、空前の事故現場へではなく、夢幻の世界へわたしたちを連れていってくれるのではないかと、錯覚するのだった。キエフは緑が多いことではヨーロッパ屈指の街とのことで、そのもっともうつくしい季節が5月であるということばに掛け値はないだろうと納得した」『若松丈太郎著作集 第三巻 評論・エッセイ』p.44 コールサック社[豊田和司]
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。
■猪股幸雄(毎号楽しみにしております)/奥田啓司/ 小長谷由之・雅子(6000円)/小林進一 10000円 数年分通信費・カンパ)/ 和田城志(10000円)/市村やいこ/石田昭子(江本さんの社説から始まって最後の頁迄、よみごたえがあります)/藤本亘/吉竹俊之(2022年分通信費、遅くなり申しわけありません。皆様より力を頂いております!ありがとうございます!)
■森田さん、地平線会議を卒業されるとのこと、ビックリしましたが、ほんとうに長い間、お疲れさまでした。
◆地平線会議を誕生させた頃の我々の一番の願いは、『年報』を出すことでしたよね。それを見事に実現させ、『地平線から』を毎年、発行できたのは森田さんの献身的なご努力のおかげです。森田さんの粘り強さ、意思の強さ、能力の高さを間近で見せてもらいましたよ。
◆森田さんのご著書の『上海は赤いバイクに乗って』(1987年草風館刊)も忘れることができません。鮮烈な印象は今でもしっかりと残っています。
◆森田さんのファイナルメッセージの「悠々として、急げ」には、松尾芭蕉と金子光晴が登場していますね。ぼくにとってはともに我が師といってもいいような人物です。
◆サハラ砂漠縦断のときには、芭蕉の『おくのほそ道』の文庫本を持っていきました。東京から「奥の細道」結びの地の大垣まで、芭蕉の足跡を追ったこともあります。
◆金子光晴に出会ったのは、20歳の時のアフリカ大陸縦断でした。エチオピアのアディスアベバで、日本人画家の水野富美夫さんの家で泊めてもらったのですが、そのとき画伯にすすめられて金子光晴の詩集を読んだのです。その中の『漂泊の歌』には目を吸い寄せられてしまいました。
ほこりにまみれた地球儀をまはせば、
わが夢もともに世界の国々をめぐる。
そこに住む人間ども、
民族と、異なる国籍を越えて流れる
コスモスの息吹。
世に年たけて猶、夢多いのが悲運。
徳をおこたり、なりはいのすべてをしらず、
みちたることなく、女たちの腕をもすりぬけて、
ただひたすらに胸をおどらせた。
旅へのいざない。
――後略――
◆ぼくは『漂泊の歌』を日記帳に書き写すと、この50余年間、何度となく「ほこりにまみれた地球儀をまわせば」を読み返しています。
◆森田さん、これからはどうぞ川の流れを見下ろすようなお気持ちで、地平線会議を見つづけてくださいね。悠々と、ゆったりと![賀曽利隆]
■「人生で1番影響を受けた作家を挙げるとしたら誰ですか?」もしそんな質問をされたなら、僕はきっとこう答えるだろう。「それは、野田知佑さんです」
◆はじめて彼の本を手にしたのは、大学2年目の夏の高知だった。宿泊していた高知大学の寮のそばにある書店で彼の本を見かけた僕は何気なしにそれを手に取った。何気なしにというのは、語弊があるかもしれない。椎名誠さんのエッセイに出てくる人として僕はすでに彼を認識していたからだ。僕は手に取った本をその日のうちに読み切り、高知から帰るころには小さな旅行バックは彼の文庫本でいっぱいになっていた。
◆そんな僕が彼にはじめて会ったのは、2003年の3月下旬。那珂川ではじめてカナディアン・カヌーを漕いだ僕の視線の先には彼がいた。ツインリンク茂木でのイベントが終わり、会場を去る前に僕は彼に挨拶に行った。そして、アフリカを縦断するときに彼の著書『旅へ』を持っていったこと、旅の最後にそれを再読したとき、自分自身のことがそこに書かれていると感じて涙が止まらなかったことを話した。すると彼は「少し火に当たりながら話をしようか」と近くで燃えていた焚き火のところに僕を促した。彼は自身の旅を語りながら、僕の話を頷きながら聞いてくれた。
◆それから月日が経ち、2017年5月に僕は彼と茨城県の久慈川の畔で再会した。僕はあの後にユーコン川を下ったこと、そして、航海カヌーでパラオからグアムまで航海したこと、そうした旅は彼に影響を受けた結果だったことを伝えた。「そういう話を聞かせてもらえることが、人生のいちばんの楽しみなんだ」と朗らかな笑顔で語ってくれた彼と握手をしながら、彼から受け取った何かをようやく返せたような気がしたのを覚えている。
◆もし彼の本に出会わなかったのなら、僕の人生は全く別のものになっていたに違いない。彼が生きている間に自分の旅を直接報告できて、本当によかった。自分のことを知ってもらえて、よかった。野田さん、たくさんたくさん、ありがとう。[光菅修]
■初めまして、北海道大学探検部の赤嶺尚弥と申します。大学生となり、探検部というおもしろい団体に入り、現役の先輩の岩瀬龍之介さんやOBの五十嵐宥樹さんの紹介で地平線会議を知りました。探検のことがまだまだ分かっていない私にとって、非常に参考になるばかりです。このたび江本さんが今後のためにと声をかけてくださり、自己紹介代わりの感想文を送らせていただきます。
◆送っていただいた最近の通信から気に入った記事について書かせていただきます。まずは2021年12月512号の「地平線通信の一年」です。歴の浅い者からの目線になってしまいますが、地平線通信とはどのようなものなのかがわかりやすくまとめられているように感じました。インターネットを通じて膨大な量の情報が氾濫している現代、そして依然として人との繋がりが制限を受けているコロナ禍だからこそ、ひとの温かみが感じられる“手紙”が交換されている地平線通信の場が他にない熱量と魅力を持っているのだろうと思いました。また若い書き手がたびたび登場しているとのことですが、今回声をかけていただけたのもその一環なのだろうと思うと、身の引き締まる思いです。
◆次に2022年3月515号に掲載された「悠々として、急げ」です。前半旅について言及されていますが、私自身探検部として活動する中で旅と探検が近いものであるように感じています。昨年の夏休みに先輩にそそのかされ、ママチャリで道北方面を旅しました。初めての一人旅でしたが、案外何とかなるという経験は今後の人生観に確実に影響を与えたと思います。自分の価値観を形作り、「自分が生きている社会を正確に見定める」ためにも旅を続けていきたいと改めて思いました。
◆後半「『コロナだから仕方がない』とは、言わせない」と述べられています。ここでは日本の進むべき道についての言葉ですが、一介の大学生にも刺さりました。大学生はコロナによって大きな被害を被った職業のひとつといえるでしょう。しかし嘆いたとて、失われた時間は戻ってきません。貴重なモラトリアムを悠々と、しかし有意義に過ごしていきたいと思います。
◆この他にも興味深い記事ばかりでしたがこの辺で。改めまして今後ともよろしくお願いいたします。[北海道大学探検部 赤嶺直弥]
■4月6日に新学期が始まり、およそ一週間が経過した。在校生は全員そろって進級することができた。そして自分にもとうとう後輩ができた。新入離島留学生は、新生活の準備のため在寮生より2日早く入寮することになっている。新2年の僕たち寮生4名は1年生のサポートをしようと決め、新入生と同じ船で島へ戻った。自分が離島留学をすると決心したときのことや、入寮当時感じていたことなどを思い出し懐かしく思いながらも、これからはどんな日々が待っているのかと期待を膨らませている。あえて離島留学を選択するようなメンバーなだけあって、今年もなかなかの曲者ぞろいだ。12時間の船旅の間に、後輩とはかなり打ち解けた。
◆楽しい高校生活がまた始まったところだが、連日のウクライナへのロシアの軍事侵攻の報道には心を痛めている。この問題について自分なりに考えていたことがあった。今は停戦交渉も難航してしまっているし、日に日にエスカレートしていく市民への被害の報道は見るに堪えない。なぜロシアは外交努力で解決しようとせずに武力で貫こうとするのだろうか。また現在日本ではウクライナの避難民を受け入れているが、果たして十分なのだろうか。ウクライナから日本までの移動は簡単ではないし、その間に犠牲になってしまった人たちもいるだろう。日本で私たちに何ができるのかを一人一人が考える必要があると思う。
◆日本からウクライナに向けた募金活動も多く実施されている。友達も寄付すると言っていたが、自分は今寄付することが良いことなのか疑問に思った。なぜなら今このお金を何に使うのかといったら、ロシアに対抗するための費用になってしまう可能性もあるからだ。もちろんこのお金で救われる命はあると思う。だから決して間違ったことではない。しかし、私は戦争に加担するお金は払いたくないと思っている。
◆次に情報についてだが、アメリカや日本、ロシアメディアはそれぞれ報道している内容が異なっており、どの情報が真実なのかがわからなくなってきている。あるニュースでロシア大使へのインタビューを報道していたのだが、大使はロシアが病院や学校を攻撃したのは、ウクライナ政府がそこから市民を追い出して軍事施設にしたからだと答えていた。既にロシア軍が市民をも虐殺していることは明白であるのに。目の前に見えるものが真実とは限らないし、何が真実で何が嘘なのか、今後も様々なメディアを精査して見比べる必要があると思った。
◆戦争をして得をするのはいったい誰なのか。それは武器をつくった会社であって、結局のところ犠牲になるのはたくさんの市民だ。いかなる理由があっても武力行使をした段階で平和を語る資格はないと私は思う。戦いの前線にいるロシア兵には、軍の命令ではなく、戦争が本当に正しいのかをそれぞれの意志でもっと真剣に考えてほしいと思っている。一日も早く平和が訪れることを願っている。そして我々のような若者は戦争をなくすために、歴史からしっかりと学び、自分自身で行動に移せる力をつけなければならないと思った。[神津高校2年 長岡祥太郎]
■予定していた最後のワークショップにアビジャンに2月25日から来ています。昨年夏からのべ200人超を対象に無事にすり身の技術、加工の工夫、衛生管理、マーケティングなどを実地に伝えてきました。今回は、新しい研修センターがようやくできたので、この会場を使っての初めての研修で、みんなとってもうれしそうでした。
◆研修センターの竣工式は、開催するしないですったもんだしましたが、開催と決まったらみんな、ピタリと決めるのでびっくり。漁業大臣と日本の一方井克哉コートジボワール大使も来られて、立派な竣工式となりました。私もいつもはオレンジのTシャツですが、珍しくワンピースなど着て、最初の研修生であるリーダーと記念写真におさまりました。
◆面接を経てから3週間にわたり、1週間ごとに研修生が入れ替わる形でワークショップを行いました。どの週の研修生もそれぞれ味わい深い言葉を残してくれましたが、2週目の研修生がとくに印象的でした。修了式のとき、涙を流して「私は初めて卒業証書をもらいました」と喜ぶ女性がいて、すっかりもらい泣きしてしまいました。
◆こどものときに両親が亡くなり、11人兄弟も全員がなくなり、親戚の家を転々としていて、学校に通うことができなかった、それがいま、こうして修了証書をいただいた、こんなにうれしいことはない、自信を持って生きていける、と赤ちゃんを背負いながら大きな体をゆすって話し、修了式後にも「どうしても一言、お礼を言いたい」と前に出てこられました。心から感動で胸いっぱいになりました。
◆そんなこんなを経て、いまパリです。明朝、日本に向かいます。飛行時間はウクライナ戦争の影響で長くなっています(ロシア上空を迂回したルートを使用するためだそうです。行きはロシアの北、帰りは南を飛ぶそうです)。戦争の時代のアビジャン行は、私自身にとっても感慨深いものとなりました。[佐藤安紀子 4月4日 パリにて]
■中学生になって、とんでもなく忙しくなった。たとえコロナの影響がなくて遠出ができたとしても、モンゴルになんてとても行けないような忙しさに見舞われている。
◆まず、部活や勉強で忙しい。さらに去年生徒会に立候補し、生徒会本部役員としての活動も忙しさに拍車をかけている。でも、先輩とも仲良くできているし、新年度には生徒会長になることも視野に入れているので余計に身が入る。
◆2年後には高校受験が控えている。私は都立の難関校を目指し、苦手な教科を克服するべく日々奮闘している。成績は常に学年のトップにいたいと思っているが、苦手な教科もある。5教科の中だと特に数学にてこずっている。学校の授業でじっくり勉強しないと理解できるまでにとてつもなく長い時間がかかるのだ。自宅学習と学校だけというのに限界を感じた私は、あえて厳しめで授業スピードの速い塾に行きたいとお願いし、この春から数学のみ受講している。
◆そして部活にも明け暮れる日々を送っている。入学式や新入生の歓迎会でめちゃくちゃかっこいい先輩(女)を見たのをきっかけに吹奏楽部に入部した。楽器はアルトサックスを担当し、水曜以外の平日は毎日遅い時間まで練習をしている。アルトサックスは合奏の中でメロディーや主役のような立場になることが多く、責任感を持ちつつも楽しく演奏ができている。運動部よりも大会は少ないものの、合奏を披露する場面が多く、練習も充実してできる。
◆色々と忙しいなかで、昨年度は半ば強制的に合唱コンクールのピアノ伴奏者を引き受けさせられた。やってみると意外と楽しいもので、次の伴奏者も引き受けようと今の段階から練習している。
◆新型コロナウイルスが流行し始める前の2019年までは、モンゴルの草原に毎年母と二人で通っていた。私達が行き始めた最初のころはゲルの中のただ一点でしか電波が通じず、遊牧民家族は電話をするのにも苦労していた、というか携帯電話はほとんど使っていなかった。その後数年経つと、ゲルの中や周辺でも電波が通じるようになっており、以前よりは電話が楽になっていた。
◆そして去年、なんと草原からメッセンジャーでビデオ電話がかかってきた。広い草原でも通信環境がとても安定してきたようで、私達が毎年通っていた遊牧民一家は大体がスマホを持つようになっていた。私が近所の友達とビデオ通話するときよりもタイムラグが少なかったし、私がピアノの先生とビデオ通話するときよりも画質が良かった。モンゴルの草原における急激な環境の変化を感じた。
◆モンゴルに行く中での楽しみのひとつに、馬に乗って散歩したり羊や牛を追ったりすることがある。モンゴルに初めて行った5歳のころから私の身長は約1.5倍になった。そして何より2年間馬に乗っていない。以前と同じように馬に乗って疾走することはできないのでは、と心配になる。この先5年くらいはこの忙しさが続く予感がするので、次は何年先に行けるかわからないが、かっこよく馬に乗りたいし、言葉ももうだいぶ忘れてきたのでこれ以上忘れたくないと思う。
◆私達が毎年訪ねている遊牧民家族の中の一人、クンクルがこの夏日本に留学するそうだ。初めてその家族と会ったときはまだ15歳の女子中学生だったのにもう立派な女子大生だ。そのころから日本に留学したいと話していて、それが実現しようとしている。すごいなーと思った。
◆私が忙しいのはあれもこれも全部楽しみたいと思っているからなので、苦にはならない。でも夏休みにモンゴルに行くのはこれから数年は難しそうだ。だから時々草原の家族にビデオ電話をかけたりクンクルに会いに行ったりして、草原の一家との関係は絶やさないようにしたい。[春から中2 瀧本柚妃]
■「アフマド・シャーが亡くなった」。2001年の9月10日、パキスタン北西部に位置する旧チトラル藩王国の王子であるシャリーフ殿下がぽつんとつぶやいた。アフマド・シャーって誰だっけ? 親しい知人が亡くなったような口調に一瞬戸惑ったが、続く会話であの「アフマド・シャー・マスード」だとわかって仰天した。前日の9月9日、ジャーナリストを装ったアラブ人テロリストにインタビューを受けている最中、カメラが爆発したのだという。シャリーフの祖父のブルハン殿下は、ソ連のアフガン侵攻時代、隣接するアフガニスタンからチトラルへと逃れてくる難民を領地に迎え入れ、ムジャヒディン(戦士)たちを支援した。殿下の屋敷に、のちに大統領となるラバニの一党が滞在していたこともある。シャリーフの家族や使用人たちもみな沈痛な表情でマスードの死を悼んでいたのは、そんな土地柄だったせいもあるが、アフガニスタンとは歴史的にも政治的にも微妙な関係にあるパキスタンでも、マスードの高潔な人柄はこれほどまで人々に慕われているのだと、強く印象に残った。
◆20年以上前のこんな記憶が鮮やかに蘇ってきたのは、長倉洋海さんの新著『アフガニスタン マスードが命を懸けた国』(白水社)を読んだからだ。この本はマスードが亡くなった直後の2002年に刊行された『アフガニスタン 敗れざる魂――マスードが命を賭けた国』(新潮社)の増補改訂版で、9.11からアフガン紛争、そして昨年8月のタリバンによる政権奪取前後までの新情勢を踏まえた新章が付け加えられている。引っ越しで紛れて旧著が見つからないために確認できないが、いま読んでも違和感がないように本文に手を加えてあるようだし、この新章はじつに手際よく簡潔に直近のアフガン動向をまとめていて、これだけでも新著を手に入れる価値がある。また、扉や本文にちりばめられた写真の印刷がとてもよく、紙の本を手にする喜びが湧いてくる。
◆長倉さんの膨大な仕事のなかでも、マスードを撮った作品群は際立ったものとなっている。1983年に長倉さんが初めて会ったとき、29歳のマスードはすでにソ連軍の攻撃をことごとく撃退した国民的な英雄だった。同世代ということもあって友として温かく迎えられた長倉さんは、以後17年間にわたって何度もマスードや部下たちと寝食をともにし、戦場にも出向いた。撮影した写真は総計2万カットにものぼるという。マスードを取り上げた写真集も以前から何冊か出ているし、写真展も催されている。2017年春に東京都写真美術館で開催された「フォトジャーナリスト長倉洋海の眼:地を這い、未来へ駆ける」では、大伸ばしされたマスードの写真に見入って時間を忘れた。
◆私がこんなにも長倉さんの撮ったマスードの写真に惹きつけられのは、ひとつにはチトラルで暮らしたせいもあるだろう。険しいヒンドゥークシュの山並みが連なっているものの、直線距離で100キロも西へ行けばもうパンシール渓谷の一角だ。マスードが愛した土地の空気感や四季の移り変わり、人々の暮らしぶりなどは、手に取るようにわかる。でもそれ以上に、やはり写真としての力が大きいのだと思う。川のほとりの草地に寝そべって読書にふけったり、石油ランプのほのかな光のなかで懐中電灯を照らしながら一人で地図を検討したり、部下たちと並んで近郊の丘からカーブルの街並みを見下ろしたり……いつも思い浮かべてしまう印象的な写真を見るにつけ、長倉さんのおかげでマスードをこんなにも身近に感じられるありがたさを思う。今回、改めて昨秋に刊行された大判写真集『MASSOUD』に目を通してみた。いまのアフガンの若い世代にマスードを知ってもらいたいという、マスード財団の要請を受けて編まれたものだが、マスードのさまざまな表情と目力の強さに引き込まれる。この写真集で、マスードはどこか遠くを見つめているような表情を浮かべることが多い。彼は、いったい何を見ようとしていたのだろうか。
◆それを推しはかるためにふさわしいのが、この『アフガニスタン マスードが命を懸けた国』だ。マスードと長倉さんとの関係や取材の経緯などは、昨秋にこれも改訂版として出版された『マスードの戦い――アフガニスタン伝説の司令官』(河出文庫)のほうが詳しいが、タイトルにあるように、この新著ではアフガニスタンという国そのものが主体として描かれている。歴史を学ぶのはけっこう退屈で、しかも多民族と諸外国の思惑が入り乱れるアフガンの場合は混乱してしまいやすいのに、マスードを軸に据え、彼とともに時代を歩んでいくことで、マスードがめざしたかった道筋が見えてくる。過不足なく背景も説明され、アフガンの現代史を知るための手ごろな1冊となっている。
◆もう一つ強調しておきたいのが、マスードを通して本来的なイスラームの姿が描かれていることである。マスードはイスラーム主義者といわれるが、それはテロや女性抑圧、人権侵害など、いまの日本人が思い浮かべるイメージとはほど遠い、他文化との共存がはかれる寛容さとしなやかさをもったイスラームだった。マスードを通して、そんな良質なイスラーム信仰のあり方を知ってもらえるのもうれしく思う。
◆ロシアがウクライナに侵攻し、アフガニスタンがタリバン支配下にあることが、世界から忘れ去れてしまった。そんななか、国を守り、敵と戦い、平和を実現し、戦後の体制を構築するとはどういうことなのかを、マスードの生き方を見つめながらじっくり考えてみたい。[丸山純]
■3月のある日、春風に誘われた。山に行こう。早速おにぎりを握り、ザックにお菓子を詰め、3歳と6歳の二人の子供たちを連れて郊外へ。目指すは東京都八王子市のはずれにある今熊山(いまくまやま)。標高505メートルの今熊山は、八王子では知られた低山で、かつては「呼ばわり山」として、失踪した人を呼び寄せる霊山として崇められていた。江戸期にもっとも多くの参拝客を集め、関東一帯から人々が訪れたらしい。
◆昔から、様々な事情で行方が知れなくなる人々がいて、彼らの無事を祈り、また再会できることを願って登られた山。現在のようにインターネットや電話、郵便などの連絡手段がなかった時代、人が出会って別れることは、現代よりももっと直接的で、それに伴う感情も強いものだっただろう。
◆コースタイムでは、登山口から山頂まで1時間ほどだ。なだらかでよく踏まれた道を辿り、景色の良いところで休憩を楽しみつつ山頂を目指す。子供たちはどんぐりや松ぼっくりを拾い、鳥のさえずりに耳を傾け、飛んだり跳ねたり自由に自然を吸収した。やがて山頂に近づくにつれ、苔むした石灯籠やお地蔵さん、朽ちかけた石碑が道端に点在し、古の参拝者たちの面影が偲ばれた。
◆20代前半、狂ったように山に足繁く通った時期があった。だが人生の変化とは驚くべきものだ。その後私は、草原や沙漠などの風土に生きる人間の営みに魅せられ、次第に登山から足が遠のいた。さらに長男を出産してからのこの6年は、とにかく運動不足に運動不足を重ねた。しかし、子供たちがだいぶ歩けるようになった最近になり、山の静謐の世界に戻りたいと願っている自分の内面に気づいた。
◆石段を登ったその先に、立派な今熊神社奥宮があった。山頂だ。信仰の山として賑わった往時をしのびつつ、広い山頂で子供たちとおにぎりを食べる。帰路は、武蔵五日市駅方向へと下山することにした。
◆ここで想定内の事態が起きた。「もう歩かない」と子供たちがストライキを起こしたのだ。どうやら、山頂に着けば登山が終わりだと思っていたらしい。普段、高尾山(東京都)でリフトやケーブルカーで下山することが多かったためか、子供はそれが登山だと思ったようなのだ。本当の登山は、自分の足で安全なところまで降りるものだと力説したが、子供たちは座り込んでしまった。必死の説得もお菓子大作戦も効果なく、時間は流れた。仕方なく次男をおんぶして下山をしたが、そのうち日が暮れてしまった。人里から離れているから、本当の真っ暗がやってきた。
◆山で日が暮れ、心細くなる……というのは真っ赤な嘘で、私は「よし、きた〜!」と思った。実はこの今熊山登山での大いなる計画は、夜がくるのを山で経験することだった。私は子供たちの前に立ちはだかり、ザックから、ホームセンターで買っておいたピカピカのヘッドランプを、まるでドラえもんのような心境で取り出した。「ヘッドランプ〜」。子供たちは大喜びし、それぞれヘッドランプを頭につけ、夜道を歩くことになった。
◆普通は、明るいうちに行動し、夜がくる前に山を下りる。だが、普通じゃない登山もしたい。たとえば、より深く夜を感じるための登山(付き合わされた子供たちにはかわいそうだが)。ゆっくりと足元に忍び寄る夜の気配や闇の暗さ、そこでのかすかな光の色を味わいたかった。
◆やがて夜の静寂のなかで、子供たちは、見えない暗闇への不安を口にした。「オバケ出ちゃったらどうしたらいいの」「ヘビが出たら死んじゃう」。小さい子供であっても、視界が効かない暗いところが本能的に “怖い”のだ。見えないもののなかに潜んでいるかもしれないリスクへの不安とも言えようか。だが、その “未知なるもの”への好奇心が、人間を人間たらしめているのではないかとも思う。
◆夜の茂みにも、生き物の世界がある。茂みから、「ガサガサ」と何かが動く音がするたび、私たちはハッと耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ました。その正体を感じ取ろう、危険がないかを本能的に判断する。安全と快適さとが前提にある街の暮らしでは感じ得ない、生き物としての野生を、自分たちの内側に確かに感じた。
◆やがて子供たちは、疲れと不安から、次第に深刻な表情を見せる。こういうときは励ましの言葉よりも、雰囲気を変えるに限る。私は場の空気を和ませる必殺技を繰り出した。「ブッ……」。夜の山道に大音量で屁が放たれる。少しの沈黙の後、子供たちは大笑いし、その後、“暗闇こわいこわい”はどこかへ吹っ飛んでしまった。一発の屁の、なんたる威力か。
◆そのうち登山道は終わり、私たち「ヘッドランプ登山隊」は、集落へと出た。すでに時計は夜8時を回り、街灯が仄かに道を照らしているだけで、人ひとり外を歩いていない。私たちは駅に向かう大きな橋を渡り、夢うつつの状態で歩き続けた。人を見かけることがなかったからか、まるで幻想の世界を歩き続けているようだった。
◆やがて目的地の武蔵五日市駅に到着した。「ああ、これでおうちに帰れる」と長男がひとこと。自然が内包するものへの未知に触れ、自身の野生に向き合った一日。子供たちとの、初めての、本当の登山だった。その後、私が山道で豪快に屁をこいたことは、今も小松家で語り継がれている。
■4月上旬に開催した「長野亮之介・猫絵展 6」に合わせて、「地平線カレンダー 2022〜2023」を刊行しました。今回のタイトルは『破猫盤乗(はにゃんばんじょう)』。サックス、ベース、ジャンベ、フラメンコなど、「破猫楽団」の楽団員(猫)たちの演奏風景を描いています。4月始まりなので、来年3月まで使えます。A5判横、全7枚組。頒布価格は1部500円。送料は1部140円、2部以上は200円。お申し込みは地平線会議のウェブサイトか、下記まで葉書で(〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」宛)。お支払いは郵便振替で。振込用紙を同封しますので、カレンダー到着後に振り込んでください。
[絵師敬白]アイデアが決まって、あとは筆を動かすだけという段階になると、音楽を聴く。好きな曲だけじゃなく、ジャケ買いした見知らぬアーティストなど、多彩な音楽をランダムに聴く。楽曲や歌詞の刺激で脳内に繰り広げられる世界は、“波瀾万丈”で自由自在だ。その「波」が、筆を運ぶ指先を時には揺らし、思いがけない色を選ばせ、予想外の線を生むのが面白い。音楽に浸りながらいつも身近にいるわが家の猫たちを見つめるうちに、連中が奏でる歌舞音曲のシーンが浮かんできた。
《画像をクリックすると拡大表示します》
地平線通信515号を出し終えてほっとした3月16日未明、最後の1本が届いた。18ページの通信はとうに印刷して郵便局に出してしまった後、もう入らないよ、とつぶやきつつ、書き手と内容に粛然とする。4月になるが、是非載せるので、と伝えると内容を少し変え、送り直してくれた。
■ウラジーミル・プーチンがウクライナ侵略を開始した日の午後、森本孝が体力のすべてを使い果たして眠るように逝った。まもなく四十九日になる。八つも年下だし、わたしが観文研を離れてからは年に1、2度会うかどうかといった付き合いだが、50余年来変わらぬ仲間であり、さまざまな頼みを聞いてくれた友だ。友は逝った。しかし自分でもおれはサイコパスかと思うくらいだから、悲しみは感じない。寂しいという実感も、たぶんまだ、ない。感覚の中では本人の気が生前と変わらず存在するからだ。
◆ふと昔最晩年の米山俊直さんの話を思い出す。そのとき先生の顔はすでに痩せて黄色みをおびて蒼く、素人の目にももう長くは生きていらっしゃらないとわかった。しかしその目はいつものように生き生きと輝いていて、感動をもってご自身の最新の発見を語ってくれていた。生と死は連続していて、死後の世界と行き来することができるものだとわかった。自分はその体験をした、と。とても気になる話だったが、当時のわたしには死を前にしている先達にそれ以上死について尋ねる勇気はなかった。
◆森本の顔を見て今度はもうだめかもしれないと思ったのは亡くなる100日あまり前、相談しておかねばならない用事があって訪ねたときだ。駅まで車で迎えにきてくれた。声はいつもと変わらなかったが、愛用のソファーに座った痩せた脚を見て、胸をつかれた。彼がどれほど過酷な闘いをつづけてきたのか一目でわかったからだ。会うのはたぶんこれが最後になるなとも。そして亡くなる三日前、「昨夜、にゆ」というショートメールが届いた。わたしはこのとき森本孝との別れを実感し、遠くからひとり厳粛に見送った。
◆サイコパスな老人は別れの悲しみを知らない。友はまだ以前と変わらずその辺にいる。しかし不思議なことに森本を心の中で見送った後、突然世間が遠くなった。片足をあの世に置いてこの世を見ているような距離感で、人の声は聞こえるが、自分とは関係のない家の外の話し声のようだ。こういう頭と体の分離はたぶん誰もが知ることになる隠居の感覚の一部かと思う。コロナ以前から強まってもいた。しかしわたしは米山先生の言葉を、改めて興味深く思い出したのだ。生きている人間にとって、死んだ友はどこへ行ったというのだろうか。生きていたときの彼の記憶やイメージと、亡くなった後の彼の記憶やイメージはどう違うのか。たしかにいまは問いかけても返事は聞けない。生きていたときの体温は感じられなくなった。でもたとえばメールのやりとりを読みかえしていると、当時は読みとばしていた言葉の奥のさまざまなものが新しく見えてきたりする。
◆友にはみなそれぞれに恩がある。まず、友情への恩だ。その先はそれぞれに違う。森本孝の場合は大きくわけて三つ。ひとつは彼が消えゆく舟を集めて残してくれたことだ。終戦後の日本の海辺にはどこにでもあった土地それぞれの木造の舟。そのころ瀬戸内の島の浜辺で育っていたわたしが操ることができた小舟。憧れていたもっと大きくて格好いい漁船。いつまでも残っていると思っていたそれら伝統的な小型木造船は戦後10年もたたないうちに急速に姿を消していた。木造なので燃して終りだ。
◆父の絶望的な嘆きを聞いて、まだ残せるものはあると思い、一方で民博の梅棹忠夫館長や佐々木高明・祖父江孝男先生に頼み込み、他方で日本の海辺を歩きはじめていた森本に選択と蒐集を頼んだ。森本はわたしの父が撮りためていた写真からすべての舟を洗い出し、父が気づいていたその背景や意味を聞きとってたたき台として、歩きはじめ、TEM研究所の真島俊一君たちも別の視点で全国の舟に網をかけてくれた。森本の蒐集はわたしが知っているだけで15年ほど。舟によっては10年越しの交渉の末譲ってもらえたものもあったと聞く。おかげで民博と歴博に標本資料として代表性と裏付けのある筏と舟とそれらの製造や維持、操船や操業のための用具や漁具をなんとか後代に残すことができた。
◆二つ目はわたしの故郷、周防大島での民俗的な歴史遺産を残し、展開させていくために志を同じくする地元の有志たちとのいろんな仕事だ。これもいわば宮本常一の後始末。目的や狙いは美しくても、現実は手間や徒労の限りない連続あっての話となる。戦略レベルからいろいろな企画、展示から印刷物のレイアウトまで、逃げ出すことを拒みつづけて死の床までつづけてくれていた。
◆そして三つ目は森本自身の生きざまだ。ちょうど森田靖郎が地平線会議からの卒業というかたちでサマリーを描いて見せてくれたように、人によっては模索と探求の連続であった生の軌跡そのものが探検として浮かび上がる。丸山純のスケッチを読んでいただきたい。アフリカの大西洋岸から太平洋、カリブ海にまたがる海の島々をひとり歩きまわる姿も見える。若き日の立命館大学探検部員が夢見ていた姿だったかと思う。出会ったころに聞かされた立命館の探検部のスピリットをそのまま受け継ぎ通した少し青臭くて凛とした美しさの通った軌跡だ。しかしわたしを圧倒したのは、6年前の7月、知らぬ間にステージIVの肺がんにかかっていて、あと半年、長くて1年といきなり宣告されました、と聞いてから後の生き方だ。山でいえば、遭難してから後の、勝ち目の薄い、しかしあきらめることを拒否した闘いの姿である。
◆死は覚悟した。三度余命宣告を受けた。何度もあきらめに身をゆだねそうになりながら、そのたびにそのまま死ぬことを拒み活路を見つけた。休みのない苦痛が襲いはじめる。逝きたいし生きたい。本を一冊書いて出版した。それとは別に自分の体験と見てきたことは必ず誰かの助けになるはずと自伝的闘病記を書き続けていた。
◆が、死の19日前突然脚が立たなくなった。久しく気になっていた背骨の影はがんだと分かり、ついに骨髄に入ったわけだ。二日後入院したが今の体力ではもはや打てる手はないことだけが確認できた。「いよいよ最後のようです。バカでした。1年前の判断ミスです」。森本もついに別れと感謝のことばをつぶやきはじめる。しかしまだ全面降伏したわけではない。寝返りも打てぬ体で執筆を再開し、緊急時の再入院を予約して退院する。後は気力だけです。構想はまとまっているんですが命次第です、と。
◆最後の日の四日前、森本は途中から後は日記の抜粋メモを貼りつけただけの未完の原稿をクラウドに送り、共有設定を済ませた。そしてその日の夜更け意識を失って緊急入院となった。以後はほとんど半覚醒の状態で、家族の呼びかけに反応するだけだったというが、先に書いた「昨夜、にゆ」というショートメールや、コメントをつけない友人からのはげましのメールがふたつ転送されてきた。いまはその無言の転送メールは「こんな形で励まし続けてくれた友人もいるんですよ」という感謝と幸運を伝える、半分あの世からのメッセージだったのだとわかる。悲しむには見事すぎる。寂しがるにはあつすぎる。しかし世界はなぜか遠くなった。[宮本千晴]
■江本さんが送ってくださった森本孝さんの『宮本常一と民俗学』を読みました。宮本の人生をたどるものでありつつ、森本さんの見ていた景色、価値観といったものがにじみ出ているように感じられ、日本中を歩いた宮本には世界がどのように見えていたのだろうかと想像しました。高度経済成長期以前の日本を自らの足で歩き様々に記録し保存した宮本には、ひとつのものをうけとれば10のものを把握できるような、奥深い視点があったのではないかと思いました。直接ものを見聞きして判断基準とするような機会が減っているように感じられる現代の生活のなかで、宮本の仕事は特別心惹かれるものでした。
◆また、歴史に名を残すことはない人々にも、語り記録するに足る人生がある、という考えに基づき民話やライフヒストリーの記録と保存をおこない、それらの情報を学問的にも価値のあるものとして残していったという話がありました。ここから記録することには何かを捨て去るという側面が伴い、歴史は残すに足ると思われた情報が集まったものに過ぎないのだという気づきを得ることができました。
◆また宮本の人の営みに対するあたたかいまなざしが随所にあふれており、それは他者への敬意にも通じるものであると感じました。自分の人生においても、足を動かすこと、考えることをたやすことなく、他者に対して想像力と敬意をもって接することができればと思っています。
◆言葉にならないことも多く、とりとめもない感想となりましたが、ありがたい読書体験を与えていただいたことに心から感謝申し上げます。[九大3年 安平ゆう]
■私は今年の4月で中学生になりました。そのことを江本さんが知ってお祝いをしてくれました。そして、中学生になった記念に、と『宮本常一と民俗学』という本をプレゼントしてくれました。宮本常一さんは地平線会議の鏡となる人だということを父から聞いてそんな素晴らしい人の生き方を読めるなんてすごい勉強になりそうだなと思いました。
◆家に帰って実際に読んでみるととっても難しく目で文を追っているだけの状態になりました。けれど情熱でなんとか“はじめに”の部分まで読みました。
◆そこまで読んでわかったことがあります。それは宮本常一さんは他の学者さんがやっていないことまで研究したため民俗学の代表的な人物になったということです。詳しく説明すると他の学者さんたちが行なっている民俗の研究(生活など)をしていたら一般的な民俗学者にはなれます。しかし宮本さんは民俗の研究プラス他の学者さんたちが研究の対象にしていないところまで熱心に研究をした、そのため民俗学者の代表的人物になったということです。
◆“宮本さんは日本中を歩き回り地図に赤いインクをつけていくと日本地図が真っ赤になる”ということが書いてありました。そのことについて私はこう思いました。
◆私の父は四国遍路に行って2か月で四国一周それも線状なのに、日本を歩き回り研究し回るのは硬い決意や情熱が必要なことだと考えます。ひとつ大きな目標を掲げたらその目標の達成にひたすら一本の道を進んでいく、長年かかるのに諦めなかった根性に私は感動しました。
◆私は将来料理研究家を目指しています。宮本さんのように私も料理研究家という夢を叶えてたくさん活躍したいです。そのために今私は友達のお母さんに料理を習ったり、家で料理を作ったりと料理研究家になるために知識を貯めています。私は大人になったらレシピの研究だけでなく、みんなの生活の役に立つアドバイスができる料理研究家になりたいです。[T.A.]
■この地平線通信、実はきのう20日に印刷、発送されているはずのものだった。それが16ページに及ぶ全ての原稿を送り出し、最後の私のフロント原稿を書き上げ、さあ、送ろうと思った瞬間、どこか不要なキーを押してしまったらしい。文章は影もかたちもなくなってしまった。消えてしまったことは過去にもある。いつものようにどこかに隠れてしまったのだろう、とあちこち探したが、出てこない。仕方なし。書き直すしかない。
◆4月20日、14時47分に通信スタッフの皆さんに送ったメール。「フロント原稿、なんと送ろうとしたら消えてしまった。大急ぎ書き直します。今回のげんこうすべて消してしまった」。
◆で、なんとか7割方書き直した。それがどうしたことか。またまたそこで忽然と消えてしまったではないか。ほんとうにがっくりきますね、こういうとき。しかし、文句言ってても始まらない。三たび書き始めた。レイアウト、印刷、封入の作業のため、すでに皆さんは榎町地域センターに集まってくれているのだ。
◆書き直しながらつくづく感じたこと。私は同じ文章は二度と書けないな、と。どう書いても別の文章になっていってしまう。しかし、それなりに新しくもあり、別な味はある。ふーふー言って半分近くを埋めたところでレイアウト担当の森井祐介さんから助け舟が。「江本さん、きょうはやめましょう。明日にしましょう」。
◆そんなわけで、フロントもあとがきも皆さんを待たせ待たせての二日がかりの仕事となりました。みんな、ありがとう。[江本嘉伸]
《画像をクリックするとイラストを拡大表示します》
今月も地平線報告会は中止します。
オミクロン株の感染が収束しないため、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。
地平線通信 516号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2022年4月20日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
|
|
|
|