2月22日。2ばかり並ぶ日に514号目の地平線通信を出そうとしている。なんでもニャンニャンニャンという語呂合わせで1987年以後「猫の日」とされているのだそうな。今年は2022年で、「2」が6つも並ぶことから、「スーパー猫の日」と呼ばれているとも。コロナで籠る日々が続いているため猫を飼う家が増えているそうで「ねこのミクス」効果はかなりの金額になるそうである。
◆昨年7月の引っ越し以来猫と暮らす日々なので私自身も少し関心がある。信州上田城の庭にいたのを縁あって連れに拾われた雄ネコの源次郎。推定7才。養い親への信頼は驚くほど厚く朝から晩まで後を追っている。こんなに人に懐くのは、猫ではなく犬ではないか、と思うほどだ。実は、ここにきて思いがけずこの源次郎が狭い世界で注目されている。連れがかって勤務していたKEK(高エネルギー加速器研究機構)の素粒子についてのトーク「私にスピンをわからせて第7回」というトークの表紙に「司会として」登場しているのだ。どういうシリーズか、私には難解で説明のしようもないが、我が家のニャンコが表紙に登場していることは間違いない。退屈しのぎに見てやってほしい(このタイトルで検索すると出ます)。
◆そんなのどかな話を根っこからぶっ飛ばす話が今日になってモスクワから飛び込んできた。ロシアのプーチン大統領は2安全保障会議を開催し、親ロシア派武装勢力が実効支配するウクライナ東部の一部地域、「ドネツク人民共和国」と 「ルガンスク人民共和国」の独立を認める大統領令に署名したのだ。その映像が世界で放映され、プーチンはテレビ演説で、ウクライナはロシア史の不可分の一部で、ウクライナ東部は古代ロシアの領土だったと述べ、怒りの表情を見せた。これに対して ウクライナのゼレンスキー大統領は22日、国内の緊急安全保障会議を招集するとともに、各国首脳と電話会談を行い「明確な支援」を求めた。
◆このようにプーチンが恥も外聞もなく行動を起こしてきた場合、世界はどう対応するのがいいのか。正解は果たしてあるのか。1991年12月のソビエト社会主義共和国連邦の崩壊以来くすぶり続けている「大国の争い」がはっきり表面化した形である。そして、このことは一昨日、冬季オリンピックを終えたばかりの習近平の中国にもまさに通じる問題である。ウィグル人民への迫害を理由に西側各国が外交ボイコットする中、ロシアのプーチン大統領は最大の賓客として習近平に迎えられ平和の祭典は二大国リーダーの握手の場となったのだ。かっての力を発揮できないアメリカをフランス、イギリス、ドイツなどが必死に支えようとしているが、残念ながら力の論理に押し勝つのは簡単ではない。
◆そして、いまだ勢い衰えない新型コロナウイルス。何度も書くが、この通信で新型コロナウイルスのことを初めて取り上げたのは2020年の2月号(490号)で、「テレビ、ラジオの速報は繰りかえしある船の動向を伝えている」と、3000人を越す乗客、乗員を乗せたまま横浜港周辺を漂う「ダイヤモンド・プリンセス号」のことを書いた。115,875総トンという超特大の船の中でのことが一気に世界に広がっていき、瞬く間に地球全域に広がっていった。今日22日現在、世界では4億2000万人が感染し、死者は588万に上っている。日本国内の感染者数も5万人あまり増えて455万人に、死者は2万2021人になった。パンデミックという未知の災厄をできるだけ記録しておこう、と繰り返しこの通信で書き続けている。
◆私の周囲にそれでもコロナに罹患する人はずっといなかった。昨年暮れ、オミクロンという新種が現れ、俄然“感染力”が強まったあたりから空気が変わった。この10日の間に3人も新型コロナウイルスの感染者を知ったのだ。いずれも地平線会議関係の人である。その具体的な現れがこの通信の最終ページを読むとわかります。そうです、皆さんもう逃げられないのかもしれないのです。私はとりあえず今月7日に3回目のワクチンを接種してもらったが、これで逃げ切れるかどうか。
◆冬のオリンピックというと、懐かしい。1972年の札幌五輪とその前年のプレ五輪、二冬続けて札幌にお邪魔したのである。大倉シャンツェの70m級(現在のノーマルヒル)で日本のジャンプ陣(笠谷幸生、金野昭次、青地清二)がメダルを独占した時も現場にいた。後に、冬季オリンピックやワールドカップ等で日本のジャンプ陣を「日の丸飛行隊」と呼ぶようになったさきがけである。北京オリンピックでは、ロシアのフィギュアスケートが強く話題になった。とりわけドーピング疑惑の15才のカミラ・ワリエワ選手が7回のジャンプで5回失敗した場面は心底いたましかった。まだ15才。少しでも痩せていたほうが回転する体にはいいとか悪いとか。ロシアのフィギュアでは17才18才というともう後がないのだから驚く。72年の札幌では「銀盤の妖精」と呼ばれたアメリカのジャネット・リンの天真爛漫な尻餅ぶり(結果は銅メダル)が好感を呼んだのだが……。[江本嘉伸]
■2021年11月18日。ただただ全方位に広がる青と白の世界。白瀬突進隊が明治末1912年に最南地点である大和雪原(やまとゆきはら)に到達して以来、109年振りに初めて人が立つ。変哲のない雪原だが幼い頃から憧れ続けていた場所に立ち、同じ景色を見ているかと思うと感慨深い。白瀬隊と同じく国旗と三角旗を打ち立て、頭を下げ黙祷する。自分は世界一幸せな男だと感じる。
◆目標を公言してからここに立つのに10年。気付けば38歳になっていた。実現のために経験と実績を積むだけでなく資金との闘い。信頼を得るために外国人冒険家たちとの親交を拡げるという外堀を埋める行動。大和雪原に立つためのプロペラ機チャーター費を含めた遠征費約7,000万円を個人で獲得する。コロナ禍のなか大きな遠征を実施させること。走り続け闘い続け、その想いは結実した。
◆最初に結果を言うと遠征は失敗に終わった。54日間で780kmを踏破して撤退を決めた。目指していた大和雪原から南極点への到達は叶わなかった。そして今までの遠征で初めての明確な失敗だった。焦りや呪縛、ベースキャンプスタッフとのコミュニケーション不足。そういったものが人生最大の挑戦で派手に転倒する結果を生んだ。何よりも楽しむことができておらず過去で最も苦しさを感じた遠征だ。遠征の規模が大きくなり、かかる資金が増え、関わる人が増えて行くと、自分のやりたいことが見えなくなり、知らず識らずのうちに破滅の道に迷い込む登山家や冒険家は多い。そうならないように十分に気を付けていたつもりだったが片脚を突っ込んでいることに気付いていなかった。
◆当初の最終構想では、11月初頭に大和雪原からロス棚氷の南進を開始、南極横断山脈を越えて無補給単独徒歩で1,220kmを75日間かけて食糧燃料を積んだソリを引いて踏破し、白瀬隊の旗を南極点で掲げるというアンビシャスなものだ。だが、コロナ禍で南極ベースキャンプUnionGlacier(以下UG)の開設が遅れ、チリ・プンタアレーナスからUG行きの飛行機も遅延し、着いたのが11月15日。UGの撤収時期も決まっており最大でも60日間しかとれない。山脈越えでほぼ標高0mから3,200mまで上がるにも関わらず1日平均20kmを歩かねばならず達成は極めて難しい。最大の誤算はUGの最終打ち合わせでルート変更になったことだ。
◆南極内陸部の冒険遠征や登山、南極観光をトータルにサポートしているのがアメリカに本社のある略称ALE(旧ANI)だ。稀に例外があるがほぼ全ての遠征隊がALEの飛行機を利用しており、実質一社独占と言っていい。彼らはガイドだけでなく各分野のプロフェッショナルを揃えており、現場では非常に頼りになる存在だ。現代冒険家たちが自らのサポート要員を南極に置く必要がなくなったのはALEによる。
◆ALEはTravel Safetyというルート検証およびルート最終決行判断のチームを持ち合わせており、彼らとの打ち合わせおよびコミュニケーションが重要となるのだが、それがうまくできていなかった。プンタアレーナスとUGで直接の打ち合わせをする。行程の地形的に想像できたことではあったが、大和雪原から南進するルートは衛星写真で検証すると大規模なクレバス帯が2箇所存在し、単独で跋渉するのは現実的ではないという最終判断に至った。
◆双方で急ぎ決定した行程ではあるがオンライン会議などでもっと突き詰めることは可能だったはずだ。コロナ禍を潜り抜けなんとか南極に行くこと自体に意識が傾いていた。大和雪原から西に向かいアムンセンが使用したルートに合流し南進するが、距離が100km延びる上に北部の軟雪地帯を歩く区間が増える。西進では雪面の状況が変わることは見込めない。白瀬隊は情報がないので南進しただろう。それを踏襲することも叶わない。スタート時点で極点に達せないであろうことを感じながら自分をプッシュする。
◆ほぼ休息日なしで毎日12時間歩き続けたが距離が延びず、南極横断山脈アクセルハイバーグ氷河越えの中腹で撤退を決め下山しピックアップを受けた。
◆極点どころか行程の半分強しか踏破してない。自分が考えうる限り最も無様な結果だ。焦りがあった。資金をほぼ確保しながら2年連続で延期を余儀なくされた。延期の間トレーニングは欠かさなかったが決して若くなくいつ衰えるかという恐怖。コロナが収束するか見えずいま挑戦しないともうチャンスはないと思えた。遠征中は義務であるUGとの衛星携帯電話での定時交信以外、誰とも話さず。他の南極遠征隊とSMSなどのやり取りさえ拒否した。
◆今にも心が崩れてしまいそうで他を遮断することで自我を保った。それは弱い人間のやることだ。苦しかった。呪いに取り憑かれていた。本来、自分は遠征が大変でも楽しみ笑ってる。好きでやっているのだから。達成していない人間が何を言っても言い訳にしかならないのはわかってる。現代冒険の条件の中で目的を達せなければならない。失敗と自分の弱さに向き合わねば成長できない。
◆夢はまだ終わらせない。続きのために年末再び南極に行く。この夢を結願させる。[阿部雅龍]
■江本さんから2月か3月に書きませんか、とお誘いをうけました。2月24日は日本とモンゴルとの間に国交ができて50周年という月であり、モンゴルにご縁の方が少なからずおられる地平線であれば、と2月に書かせていただくことにしました。
◆モンゴルには4000メートル級の山がいくつかあります。モンゴルアルタイ山脈では、タバン・ボグド山塊にフイテン山(4374m)、ナイラムダル山(4180m)、マルチン山(4050m)、ムンフハイルハン山(4204m)、ハルヒラー山(4037m)があり、ツァンバガラブ山塊にツァンバガラブ山(4195m)、ツァスト山(4196m)があります。ホブド県とゴビアルタイ県境にソタイ山(4090m)、他にハンガイ山地にオトゴンテンゲル山(4021m)があります。
◆これらの山々の山麓を出張途次、車で駆け抜けましたが、タバンボグド山塊は見えませんでした。そして毎日420kmから430km走ったので、疲れて居眠りをして、惜しいことにムンフハイルハン山を見損ないました。でも、その他は現地で見ることができました。
◆一昨年モンゴルの友人が原稿を見てほしいというので、走行路から見てその山塊、デグリーツァガーンの方角は右方北に見えるはずと訂正させていただくほど、これらの山には親しみを覚えています。
◆エンフバヤル大統領のとき、モンゴルを訪問して空港に到着すると使者がいて、ただちに迎賓館に来るようというので、うかがいました。首相のとき、訪日された際、一週間同じ自動車で回ったご縁で、迎賓館の庭にゲルを特に建てて待っていてくださいました。聞けば、翌日モンゴルの最高峰フイテン山に登るというではないですか、私とアルヒ(モンゴルのウォッカ)など飲んで明日大丈夫ですかと思わず言いました。すると大統領の答えがすてきでした。「登山の専門家たちが同行してくれるし、なにより、私の手には猫の爪があるので大丈夫、這って登ります」。
◆モンゴル西北の湖ロシアとの国境近くにオブス湖があります。そこからどんよりと雲に覆われたハルヒラー山塊、地元ではツァガーンデグリーと呼んでいました。翌朝晴れて、真白な雪に覆われたツァガーンデグリーの山麓を数時間走りました。
◆また、ウルギー県からホブド県への道でツァンバガラブ山塊のツァンバガラブとツァストを、車を止めて眺めました。社会主義時代親しくしていただいた数少ない友人の1人ツェンベルドルジ画伯はこの山麓に育ち、白い雪のトッピングをしたような独特のこの山を何度も描かれています。
◆私は個人的にツァガーンデグリーとツァンバガラブの二山が好きで、一時、パソコンのドライブの名称にしていました。いい響きと思いませんか。
◆次にオトゴンテンゲルという山があります。怖い山で上空を飛ぶときは山のお祭りを麓ですべしといわれていました。NHKの記者とカメラマンが搭乗した国連調達のヘリコプターが2001年にはなはだ残念なことに墜落し、犠牲となられました。案内した議員がオトゴンテンゲルをお祭りせず飛んだといわれています。その秋山麓をとおりました。南のゴビ地帯に砂嵐が荒れ狂い、砂煙が遠望され、北のオトゴンテンゲル山はどんより雲に覆われ、いかにも恐ろしげで、草原を狂ったようにトヨタ・ランクルをとばしたことがありました。いま拙宅には玄関口にオトゴンテンゲルの守護神ニルワーナの小額が掛けてあります。そしてもう一枚、リビングの入り口にも。魔除けです。
◆日本とモンゴルとの間の外交関係樹立交渉は1965年ふとしたことから始まりました。1961年モンゴルが国連に加盟したころ実は二名の外交官を現地派遣しましたが、モンゴル側が相手にせず、以後日本側はモンゴルにその意思あらずと放置しました。1965年国連セミナーがウランバートルであり、本省で担当官だったので、タイに当時勤務されていた戦前内蒙古研修の崎山喜三郎さんをお誘いして出席したことがきっかけで、外務省同士初めて意見交換し、翌年ウランバートルにおいて、両外務省間で厳しい本格交渉が始まりました。結局1972年に外交関係が樹立されるまで7年かかりました。それにしても最初がモンゴル語でなされたことはモンゴル語学徒として誇りです。
◆交渉は難航し、1968年モンゴル政府は、日本がモンゴルを真の独立国と認めていないのではないかと崎山さんと私に実情調査にくるよう招きました。外交関係が樹立されるにはさらに4年を必要としていました。
◆1968年の8月6日から14日までモンゴルに出張し、各地を視察し、モンゴル側と意見交換してきました。13日夕、帰国のため翌朝出発するのでウランバートル・ホテルでモンゴル外務省の担当局長らと夕食をとりながら、最後の懇談をすませましたところ、モンゴル外務省のロブサンリンチン氏から小沢重男先生を隊長とする日本の東京外国語大学山岳会とモンゴル登山協会のハルヒラー合同登山が成功し、今夕バヤンゴル・ホテルで夕食をとるとのことでした。崎山さんは大阪外語大でしたので、私に夕食後行ってくればと言ってくれました。たまたま旧知のゼネミデルさんが見え、一行はウランバートル・ホテルで夕食をとるとの情報をくれました。
◆レストランに入ると一行を一隅で発見いたしました。おそろいのエビ茶の隊服でみな元気いっぱい、「登山ご成功、おめでとう」と祝意を述べると、登頂峰には「日本モンゴル友好峰」別名「オリンピア峰」と命名されたとうかがいました。その後部屋へ来ていただき、交歓いたしました。でも残念なことにその名の山をツァガンデグリーの中に今見つかりません。
◆外交関係樹立前、関係交渉中におこった出来事です。このような国民間の交流が1972年の外交関係樹立に結集しました。この事件はまさにそれを象徴していると思います。それから50年、いまモンゴルは数少ない「親友」国です。[花田麿公]
■2022年も2月、我が職場、奥多摩の林縁の陽だまりにオオイヌノフグリのコバルトブルーやホトケノザのショッキングパープルの花々が春を告げ始めた。正月は、コロナ禍で自粛していた帰省を2年ぶりにした。
◆帰省先は四国の最南端の海に近い山間の限界集落。1978年の初上京以来、帰省すると必ず座る場所と眺める風景がある。いつ頃からか、「おばあちゃんの縁側とおじいちゃんの里山」と呼んでいる。断崖絶壁の太平洋岸から4kmほど川を遡った山の中腹に、大工だった祖父の建てた家があり、その縁側から周りの里山と世の移り変わりを眺めてきた。私の地球体験の原点中の原点だ。
◆かつての日本家屋は縁側を通して家の中の生活風景は丸見えだった。家の中からも縁側の戸を開ければ、外の様子はすぐにわかった。文字通り外と内を分け、かつ、つなぐ縁の側だった。夏は日陰、冬は陽だまりになる縁側に、子供達が集まって、飛んでるもの、走ってるもの、泳いでるもの、生えてるものを取って食べる算段をしていると、野菜果物作りの名人だったおばあちゃんは四季折々の産物を並べてくれた。家の周りの里山はおじいちゃんが年中果実が絶えないように多種多様な果樹を植えていて、どこの子でも取って食っていた。
◆おじいちゃんとおばあちゃんは孫やその友達を喜ばせようと競っていた。明治時代に来日した西洋人たちが讃えた、いつも笑顔を絶やさない田舎の日本人たちの一人だった。今年もいつも通り、縁側に座って里山を眺めて、「来し方、行き先」を展望した。コロナウイルスはオミクロン株の猛威で第6波の真っ只中。地球環境記者の草分けの石弘之さんは『感染症の世界史』(2014年)で現世人類の約20万年史を感染症との果てしない軍拡競争史にたとえている。新しい感染症の温床は、中国、アフリカ、シベリアだろうと30年前から言っていた。「石さんの予測通りになりましたね」と昨年末の忘年会に自宅に招かれたときに再確認。SF作家アイザック・アシモフの「科学は予言はしないが予測はできる」との言葉を思い出した。人類は過去と同じように環境を大きく変えるか身体を少し変えて対処するだろう。そしてポストコロナはやってくる。人生はスポーツと同じく準備が結果に反映するゲーム、準備するに越したことはない。
◆そこで、おばあちゃんの縁側とおじいちゃんの里山から、頭で考える「パンセ(思考)」と体で考える「パンセ・ソバージュ(野生の思考)」をしてみた。キーワードは、ネオコロニアリズム、ネオジャポニズム、SDGs、などなど。日本の辺境中の辺境から、1978年初めて上京して以来、広い世界を体験するようになってから今まで、鮮やかに蘇る瞬間の束がある。以下その一部。
◆1985年5月、アフリカ東端、セネガル・ダカール、ゴレ島にて、ネオコロニアリズムを聞く。「ゴレ島に興味あるのか? この島はヨーロッパ人の世界植民地化時代、奴隷積み出し中継基地だった。1960年代にアフリカ諸国は宗主国の英仏から独立した。けれどいまだに経済も政治も彼らに支配されている。国境線は植民地時代に引かれた直線。言葉も英語か仏語が公用語で勉強も議会も英仏語。資源は安く持ち出され、仕事は安い肉体労働ばかり。あげくに欧米からの援助がないと政府はやっていけない。英国はコモンウェルス、フランスはフランコフォニーと呼び、いまだ植民地扱い。アフリカの政治家は欧米日本から援助を引き出すことが第一の仕事。研究成果も情報も一方通行に持ち出され続けている。富は都市へ、そして先進国へ流れ、人もそれを追って移る。これを、ネオコロニアリズムという。貧富の格差が無くならないのは当然だ」。
◆1986年8月、フランス、パリ大学食堂にて、ネオジャポニズムを聞く。「19世紀後半、世界中の植民地から富を集めてのヨーロッパのうわべの繁栄に疑問をいだく一部の知識人の中で、鎖国し自国で自給自足して、小さな身の回りのものを洒落て楽しむ日本の風景画や生活道具が人気になった。ジャポニズムの始まりね。20世紀後半、日本の映画、漫画、アニメ、軽薄短小な電気電子製品、バイク、車などなど、世界中の人々の暮らしの風景に日本製品は溢れている。今はネオジャポニズムの時代ね。日本製、ミニョン(かわいい)」。
◆1989年10月、イギリス、ロンドン大学図書館にて、SDGsを聞く。「われわれ地球環境学者は、持続可能性(sustainability)と多様性(diversity)と適正技術(alternative technology)に関心がある。そのヒントが日本の縄文文明と江戸時代にあると踏んでいる。君は何しにロンドンに来たんだ? 地球環境やるなら早く日本に帰ったほうがいいよ」。
◆1995年某月、アフリカ・チャドにて、再びネオコロニアリズムとネオジャポニズムを聞く。「メイドインジャパンはネオコロニアリズムの救世主だよ。欧米製品は何もかも高くて俺たち貧しいアフリカ人には買えなかった。安くて丈夫な日本製品が入ってきてみんな喜んでいる。首都ンジャメナのウィンドウに並んでいる時計、電卓、電気製品、バイク、車は日本製だらけさ」。
◆2000年某月、中国・内モンゴル植林地にてカザフ人記者と。今も続く、国連常任理事5か国のネオコロニアリズムを知る。「ここ内モンゴルでも郊外はモンゴル人が住み、都市は漢人が優勢。中国人やロシア人の他民族の土地への植民政策は今も進んでいるよ。米英仏のネオコロニアリズムと同じさ」。
◆2018年某月、トルコ・チグリス川上流にて、クルド人ガイドと。「真っ先に文明開化して我らの先生だった日本人はいつまで寝ているんだ」。
◆2022年1月、ふるさと高知県土佐清水市にて、同窓生市長の仕事は東京詣で。「地方交付税など東京からの金が市の年間予算の70%超か。日本の都市と田舎の援助依存症の関係は、先進国と途上国の関係の構図にそっくりやね」。
◆四国は九州から関西へ向けて、ムササビが体を広げて飛び立ったような形をしている。その右後ろ足に当たる所が四国最南端の足摺岬で私の故郷だ。高知の人は、山が海まで迫り断崖絶壁の海岸が続く高知県西南部を幡多(波多)地方と呼ぶ。高知出身の作家、宮尾登美子さんは「足摺岬に行くには遺書を書くぐらいの覚悟がいった」と書き、高知市に近い街出身のドキュメンタリー監督の山田和也さんは「幡多は探検に行く所だった」と言った。
◆ヨーロッパ人は15世紀末のコロンブス、マゼラン以来海に乗り出し、地球の東西に進出、植民地化してきた。東からきても西からきても最果ての島がジパング、日本だった。17世紀、一度は鎖国して、植民地化を逃れた日本は、19世紀に産業革命した欧米列強から再度開国を迫られた。明治維新の日本の指導者たちは、いち早く欧米文明化することで対処した。日本の辺境だった私の故郷は、明治維新後100年たっても、江戸の循環の暮らしの風景も、縄文の共生の営みと遊びも、わずかに残っていた。夕方炭焼きから酔っ払って帰ってきたおんちゃん達が、緩んだフンドシの脇から○○タマをのぞかして歩いているのを、悪ガキどもは盗み見て縁側で品評会を開いた。
◆「一里四方のものを食べていれば安全」とのことわざがある。1960年代、私の故郷の人々はお宮を中心に歩いて1時間以内で往復できる生活空間で自給自足していた。かつては日本全国どこでもみられた風景だった、と南方熊楠の著書にもある。1980年代、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と、たけしが盛り上げ、「世界に広げようともだちの輪」と、タモリが連呼して、みんなで後戻りできないバブルに突き進んだ。そして失われた30年。今では、地球の隅々の人々が、追随追い越している。2020年代、ポストコロナ時代は、SDGsとAIか。30年前一部の識者が言っていた言葉が合言葉になってきた。
◆解決のヒントは脱ネオコロニアリズムとネオジャポニズム。ネオコロニアリズムの克服には対他社会にも対自然にも真のウィンウィンが課題。ネオジャポニズム覚醒のヒントを、昨年末、幼馴染との同窓会で行った京都龍安寺のポスターに見つけた。「SDGsは吾唯足るを知る知識と技術にあり。知足の智慧(金剛界、自分に厳しく)と無際の慈悲(胎蔵界、他者に優しく)」。
◆再上京した東京の電車内は、皆スマホを覗く変わらぬ風景。SDGsの解決にAIや巨大情報産業がどう貢献するのか見えない。むしろ、マスコミ、政官財学、四方八方で、お題目のようにSDGsと連呼するのが、何やら不気味ではある。文明は人体に合わせて環境を変える。野生は環境に合わせて人体を変える。人類史は文明の勝利の歴史。しかし、地球環境の限界が文明史に赤信号をともしている。ゴールは誰も見つけてない。40年来、地球各地で水辺の遊びと森林の仕事をしてきた。炎天の夏や極寒の冬の野外活動はラクではないが、何よりいいのは、すぐにそこの自然と人と仲良くなれること。奥多摩や小笠原の森や水辺にいながら、そんな古今東西の交友録を懐かしみ楽しんでいる。ひとまずは目の前の小さなことを、日々大切にしていきたい。無為自然、あるがままの自然に学ぶことはまだまだある。ふるさとの縁側でそう想った。[山田高司]
■1月24日に、地平線通信を受け取りました。ありがとうございました。早速読ませていただきました。とりとめのない感想ですがお送りします。
◆島ヘイセン通信(読みはトウヘイセンでしょうか?)では、長岡祥太郎さんの島内でのネットワークの広さや、ご自身の好奇心の広さと呼応して、島の情報が長岡さんのところに集まっている様がよく分かりました。コロナの影響を全世界の人が浴びている最中に、生きている人間が見ている景色は本当に、本当に多様であるのだと気づかされました。長岡さんはコロナ禍であっても、学びの場を自らの意志でもって確保されており、ご両親や島のひとの支えの存在にも意識が向いています。私自身とても学ぶことが多いです。
◆そしてもうひとつに、和田城志さんの文章があります。星野秀樹さんの著作である『剱人』という本で和田さんが登場されており、よく記憶に残っていました。そして今回通信を読み、登山というものを世界のなか、日本のなかに位置付けておられるのだと感じました。いまだ登ることの意味など見いだせていない自分は、またここで立ち止まり考えることになりました。しかし最後の「思い」を読み、今は立ち止まって考え込むより、走りながら考えることにしようと思いました。「思いは 心ではなく行いに宿ること 行いは無口なことば」というフレーズに引っ張られるように、行動に思いも思考もついてくるだろうと考えるようになりました。
◆またコロナ禍での旅の文章を読み、自粛生活をし行動を制限する人もいる中で、自分は山に登っているのだということを確認できました。自分の行動選択がどれだけ社会状況を考慮したものなのか、そこに責任を負うことができているのか、自分はどこに向かっているのか、割り切れないことが浮かんできます。同じことでこの約2年間悩んでいるなとあきれますが、この割り切れなさも時代の中で感じる違和感であり、自分が感じていることでもあるので、拭い去ろうとせずに今は悩んでおこうと思います。
◆江本さんは、こうした感想も、載せていただく文章も、コロナ禍における大学生である自分の「記録」になると、たびたびおっしゃられていますが、通信を読み終えたとき、この通信は投稿者皆さんにとっての記録の場であり、時代が記録されているのだと感じました。また冒険者は記録することによって「冒険」のあいだに、自分を見つめ他者に触発され次の行動に移っていかれるのかもしれない、地平線会議はそういう場所なのかもしれないと思い至りました。何卒お体にお気をつけください。[九大山岳部2年 安平ゆう]
■第5波の収束をもっていったんは閉鎖された勤務先のコロナ病棟が、爆発的に増えたオミクロン株により再稼働を余儀なくされました。今回の流行からはさすがに逃れられず、これまで運よく回避できたコロナ患者にもとうとう直面。入院時に発熱、呼吸苦、周囲にも似たような症状が出ているとあっては疑わざるをえず、しかも末期の重症者の多い病棟なので、ウイルスを移動させるわけにもいきません。PCR検査の結果が出るまで罹っているものとして対応するしかなく、陽性の判定に専門病棟へと転棟するまで防護服で固める日々を送りました。
◆思い起こせば日本でのコロナ問題の発端となったクルーズ船騒動が2020年1月のこと。あれからちょうど2年、国内の累積罹患者は385万人まで増え、うち2万人が死亡(2月13日現在)する大流行となりました。
◆この暮に第5波が下火になり、ようやく活気が戻ってくるかと多くの人は期待しましたが、新たなる株オミクロンの登場に水を差され、それがまた強力な伝染性をもっていたためにまたしても世界中が行動を自粛。日本もまた欧米のあとを追うように発症数が急上昇し、さてどうなるかと医療従事者が固唾をのむ中で、どうにかこの2月の第2週をピークに、3週からは下降線に入りはじめたようです。
◆このまま消滅してくれれば万々歳なのですが、さてどうなることでしょうか。なお過去のデータから、死亡者数のピークは感染者が頂点となった1か月後ぐらいに現れるので、この波では3月上旬あたりが山場になりそうです。
◆さあこんどこそと希望をいだきたいところですが、次々と現れてきた新規株ですからここで終わりとはならないでしょう。ただしオミクロンは前株に比べて感染力は強いが威力は落ちます。ですから次なる株が登場してもさほど悪さをせず、さらなる新参株がさらに弱毒化したと確認できれば、そのあたりを機に世界中の国々が、インフルエンザなみの格下げに踏み切るものと思います。
◆そのインフルエンザ、通常3000人台の死者数がコロナに押されて2020年は1000人を割りました。とはいえまだ侮れる疾患ではないので、手洗いと三密回避はこれからも心がけてください。それだけで十分に逃れられますので、罹りたくなかったらコロナ同様にこの行動を生活に溶け込ませることをお勧めします。
◆今回のコロナのように、人類の生活を一変させるような感染症に遭遇することはめったにありません。とかく比較されるのが第一次大戦中のスペイン風邪、いわゆるインフルエンザで百年前のこと。その前の大流行としては、日本では江戸だけで10万人が犠牲になったといわれる幕末期のコレラが思い出されます。したがって今回の規模での新登場ならかなり先の世代になるでしょうが、局地的な流行ならば2003年のSARSと2012年のMERSが記憶に残ります。そのとき防疫関係者は恐れましたが、世界中への伝播は食い止められたので、SARSクラスの小規模な蠢動であれば、我々が生きているうちにあと2回ぐらいは襲来するのではないでしょうか。
◆そして落ち着いたとしてもコロナに対する問題は山積みです。予防接種だけをとっても、毎年3回も必要なのか、市販の飲み薬は弱いのか、インフルエンザのように毎年1回接種でなんとかならんのか、麻疹のように1回で終生免疫が作れないか、副作用がその後の人生にどの程度影響を与えるのか、持病のある人に対しどこまで使えるのかなどなど、たくさん考えられます。
◆それにしても今回のコロナは、衛生と人の移動という概念を激変させました。たまに乗る電車のすいていること、職員食堂の静かなこと。おたがいさまとはいえマスクにサングラスにヘルメットであいさつされても誰だかわからない。移動して初めて生きた結果を出せるのが地平線ですから、このコロナによりもっともダメージを受けた組織のひとつだといっていいでしょう。
◆私の周囲でも学会と名のつく集会はことごとく中止かオンライン開催になりました。そういや毎年開催していた職場の忘年会と歓送迎会、あれ300万円のバンケットだったのですが、幹事役のひとりである私は、あのホテルの宴会部門がいまどうしているのかとても気になるところです。[埜口保男 看護師]
■コロナが蔓延し始めてから通勤手段を徒歩に変えた。毎日35000歩をノルマとした。片道約12km×2、勤務中の歩数も足してノルマ達成(算出の根拠は10000歩を7kmとする)。途中から夜道は物騒と気づき、途中区間をバス利用。泣く泣く20000歩に縮小。毎朝富士山を望むポイントで小休止。わんこが尻尾を振ってくれたり、縁側でタバコを吹かしているおじさんが「ハイおはよう」と声を掛けてくださったり。遠足気分を味わいつつ2年近くこのスタイルが続いた。
◆身も心もすこぶる快調だった……のだが。正月早々やってしまった。凍っていた道で尻もち、右足骨折で救急車のお世話に。3週間入院、手術をして右足首にボルトとチタンのプレートが収まった。救急車を呼んでしまった、コロナ禍の病院に迷惑をかけてしまった、と落ち込んだ。今のうちにしっかり鍛えなおしておこう。コロナが少し落ち着いたらガンガン山へ行くぞとの下心が長続きした一番の理由。もう一つはいつまでもフットワーク軽くありたいという願望。世界で日本で何事か起きたら、現場へ飛んで行きたい私だからだ。
◆連帯という言葉を安易には使いたくないが、同時代を生きる者として何かしら行動したいのだ。少し調子に乗っていたのかも。なんで私ってこうなんだろう。そんなところへ江本さんから心尽くしの「エモカレー」が届いた。毎月の地平線通信の印刷、封入作業に私は必ず参加してきたが、さすがに1月はダメだった。私に限らずそういう人たちのことを江本さんはじっと見ているのだろう。野菜たっぷりの優しい味だった。松葉杖ついて頑張って仕事に復帰しようと元気が湧いてきた。
◆そんな私にとって2021年は激動の1年だった。以下私に関わる3つの出来事を時系列で綴ってみたい。
◆2月1日ミャンマーで軍事クーデターが起きた。私には連絡が取れなくなって久しいミャンマー人の友人がいる。今どこで何を思っているか。取るものも取り敢えず都内の思い当たる場所に出かけた。新宿駅南口で、ミャンマーのZ世代がリレートークを行っていた。彼らにまっすぐなまなざしで見つめられ、私はうろたえてしまった。「 」付きとはいえ民政下のもと育った彼らの不退転の決意は並々ならぬものだと感じた。ギプスが取れたら街頭にデモの隊列に友人の姿を探しに行こう。
◆かつてこんなことがあった。京都に住んでいた頃。鴨川に架かる荒神橋がお気に入りの場所だった。ここからポコポコ連なる北山を眺めるのが好きだった。その日も橋の欄干にもたれてぼーっとしていた。ふと御所の方角に目をやると、男の子の手を引いた女性がこちらに向かって来ていた。あ、あの人だ。最近お見かけするただ者ではない雰囲気を漂わせている人だ。ロングスカート、黒髪に南国の花飾り。エレガントなその人はやがて京大の東南アジア研究センター(旧称)の建物に消えていった。彼女がアウンサン将軍の娘、アウンサン・スーチー氏と知ったのは5、6年後のこと。今本国は武力闘争化していると聞く。少しでも情勢が良い方向に向かうことを祈る。
◆8月15日アフガニスタン全土をタリバンが制圧とのニュースが飛び込んで来た。ガニ政権はどうしたのだ。その後ガニ大統領は札束を握りしめ国外へ逃亡。こんなに腐りきった政権だったとは……。それから全土には暴虐の嵐が吹き荒れている。そんな中故マスード司令官の息子アフマドが故郷パンシールに向かった。今厳冬のヒンズークシュ山中で国民抵抗戦線は戦いを続けている。アフマドの周りにはマスードのかつての盟友たちがピタリと寄り添っている。彼らの無事を祈る。
◆私はフォトジャーナリスト長倉洋海さんのマスードの写真と出会い、シルクロードの十字路の国に魅せられた。これからも目を凝らしてアフガニスタンの情勢を見守りたい。
◆11月上旬岩波ホールで「チリの戦い」3部作を観た。監督はパトリシオ・グスマン。戒厳令下命からがら脱出、奇跡的に持ち出されたフィルムが今回お披露目された。高校生だった私は、世界最初に選挙により社会主義政権を打ち立てたこの国に関心を持った。73年の軍事クーデターはリアルタイムの記憶だ。フランス公演中で難を逃れたフォルクローレグループ「キラパジュン」の来日公演で「オーアジェンデベンセレーモス!」と泣きながら叫んだ(Venceremosはチリの革命歌。スペイン語で「我々は勝利する」の意味)。今回初めてアジェンデ政権の全貌に触れることができた。あの当時保守・多国籍企業・アメリカ政府・CIAがうごめく中での戦いであったのだ。こんなにも誇り高い、成熟した労働者・農民・人民の戦いだったと知った。記録しどんな時代だったのか、次の世代に伝えなければならぬ。二度と過ちを繰り返さないために。すごいドキュメンタリーだ。
◆かつて映画の自主上映サークルに所属していたことがある。「岩波ホール」で評判になった作品をたくさん上映させていただいた。「エキプ・ド・シネマ」(映画の仲間)だ。仲間がフィルムを回したのだ。間違いなく私の青春の一コマ。「岩波ホール」閉館のニュースはつらい。コロナで力尽きたのだ。文化・芸術の灯がひっそりと消えてゆく。もうすぐギプスが外れる。そしたらまたゆっくり動き出そう。出遅れてしまったけれど、今年を心に残る良い年にしたい。[中嶋敦子]
■最近は特に森林(もり)や林業について考えているので、1月の通信で金井重さんを追悼する文章にあった「林住期」という言葉が強く心に刺さった。なぜ「林」なんだろう。五木寛之さんの『林住期』は読んだことがなく、恥ずかしながらこのときまでその言葉も知らなかった。世俗から離れ森林の中で一人瞑想にふけるという時間。年齢を踏まえると今の自分は学習期に当てはまるが、たまに自分も自然の中にじっと身を置いてみたくなる。無数にある木のうちの一本のようになり、そこにいるだけですべての自然がより近い存在となって自分もその一部になったと感じるようになるというのは、山に登りたくなる理由の一つと同じなのではと思った。
◆先月は新潟へ、林業の講習会に行ってきた。担い手減少が課題となっている林業のために、厚労省が外部委託で行なっている「就業支援講習20日間コース」というもので、森林と林業の現状、チェンソーと刈払機と小型重機の扱い方、木の伐倒方法などを、ほぼ無料で教わることができる。林業の基本的な知識と道具の使い方を身につけることと、自分の身体や性格が3Kとも言われた林業のきつい仕事に本当についていけるのかを確かめることが、今回の大きな目的だった。それまで林業に関係する作業をほとんど経験したことがなかったのでどれも新鮮で楽しく学ぶことができた。たとえば、チェンソーは刃のメンテナンスがとても大切で、それがどのように仕事の出来具合や自身の体への影響を変えるかを学び、職人技の奥深さを感じた。
◆諸作業で感じたことはたくさんあったが、全体を通しては、自分の手で森林の様子を変えていくことにおもしろさを感じ、また人と山の繋がりがより近く感じるようになったと思う。人が手入れをしている山はどんな様子なのか、1本の木は周囲の環境とどのように影響しあっているのか、そしてその木をどう伐倒するのかなど、それらを観察し考えることが大切で、自分の中で山や森林への新しい見方が生まれたようで、とても嬉しい。とはいえ、今回自分が学んだことはまったくな基本部分で、それもまだ完全に身に付いたとは言えない。
◆この春からは、まずはどこかの林業事業体で教わりながら技術をより確実なものにしていき、林業の山の世界にもっと深く関わっていってみたいと思っている。大学は文系学部で学んできたので、それなのに林業や山で働くことに興味を持っているのを講師の方に驚かれた。確かに、林学科や農学系で学べばそれもおもしろかっただろうし、そこでの学びが山で働く選択肢を広める糧になっていたのではと思うことはある。しかしこれまでがあってこその山と人生への今の考え方があり、これからどう生きていくのかが肝心だと感じている。
◆1年前は膝の手術を受けて一時は山の斜面が怖くなり、この脚でこれから思うように山で働いていけるのかと、かなり不安になった時期があった。しかし今回の講習会で、踏み跡のない草藪の斜面をチェンソーや刈払機の機械を持って操作しながら動くことができ、もう大丈夫だと自信が生まれた。山について前向きに考えることができ、とても嬉しい。実は先日、山で働く学部の先輩が、山で亡くなった。私が山で働くと決めるきっかけになった一人であり、山で働くことを応援してくれて、その存在は私にとって大きな励みになっていた。やりたいことをやれるようにするために、一生懸命に生きていた人だった。20代の若さで亡くなり、とても悔しい気持ちがある。この人の分まで自分は山に向かいたい、やりたいことを実現していこうと、誓った。
◆世界的な感染症問題が始まってから早2年。地平線の報告会もこれまで通りには行えなくなってしまった。自分が東京にいるうちにもっと報告会に行けたらよかったのにと思い、とても残念だ。この春から長野県にIターンする予定で、報告会に行くのが難しくなるからだ。やむを得ない行動の制限はあるが、今しかできないこともあるんだということを念頭において、生きていきたい。[法政大学社会学部社会学科4年 小口寿子]
■2008年10月、沖縄県浜比嘉島で地平線会議は「ちへいせん・あしびなー(遊びの庭)」というユニークな催しを実践した。詳しくはウェブサイトで見てほしいが、そのときの貴重な記録『あしびなー物語』が江本の引っ越しの際出てきました。沖縄全県の小中校に贈った記念の出版物です。希望者はメールで江本宛、住所・氏名を書いてお申し込みください。送料負担のみでお送りします。
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。
宮寺修一(10000円 通信費2000円×5年分)/橋口優(5000円 いつもありがとうございます。今後ともよろしくお願いします)/北川文夫(2022ツウシンヒ、オクリマス。マイツキノ ツウシン ガ タノシミ デス)/平本達彦(ツウシンヒヲ オクリマス イツモ タノシク ハイケンシテイマスミナサマノ カツドウヲ シヨウシヨウ ウラヤマシク マブシク カンジテイマス コレカラモ ヨロシク オネガイシマス)/ 櫻井悦子(30000円 10000円は通信費、20000円はカンパです。重さんからたくさんの生きる指標をいただいた一人です。旅から帰った時のキラキラした姿、声、輝いていました。銀座でのマル秘女子会、アジア会館からの帰り道etc.、今も私の心の宝物です。シゲさんありがとう。地平線会議の皆様ありがとう)/中山綾子(3000円 通信費)/桐原悦雄/ 鈴木明重(金井重さんの妹さんのお連れ合い 30000円)/高松修治
妹の髪の毛が抜けるのは
お国のため原爆に遭ったせいだから
男子がボーズボーズと言ってはやすのを
やめさせてください校長先生!
瀬戸内の島に縁故疎開していた姉は広島が全滅したと聞き
母と妹の御骨を拾う悲愴な覚悟で広島入りする
救護所で背中の火傷を治療してもらっていた母を見つけ
駆け寄って抱きついて泣いた
その日母が建物疎開に出るときまだ寝ていた妹は
被爆した母が背中の火傷も忘れて必死で家に戻ると
爆風で持ち上がった両隣の畳がちょうど屋根となって
倒壊した家の中で泣き叫んでいたが無傷だった
三人で島に戻りしばらくすると妹の髪の毛が抜け始める
男子生徒が「ボーズボーズ」と言ってからかうので
妹は学校に行きたくないと言って泣いた
姉は単身校長室にのりこんで直談判した…
姉とは私の母親で
妹つまりおばさんは結婚して孫にも恵まれ
旦那はとても腕のいい畳職人で
思えば畳に守られた幸福な一生でした…
でも本当にそうだろうか?
おばさん、子供、孫たち
入市被爆した母、私、私の子供たち…
放射能はもう私たちのことを忘れてくれたのか?
ヒロシマの放射能の生体実験は現在進行中であり
人類が未だ経験したことのない実験の
その結論はまだ出ていない、にもかかわらず
今度はアメリカから主役の座を奪った日本が
ヒロシマの千倍の放射性物質をつぎ込んで
人類全体を巻き込んだ壮大なスケールで
未曾有のスペクタクル巨編
ハリウッドではなく
フクシマから
ヴァーチャルではなく
リアルに
新たな生体実験をスタートさせた
[豊田和司]
■地平線通信513号はさる1月19日に印刷、封入し、その日のうちに新宿局に渡しました。都内では一気に感染者が増えたときだったので、かなり気を使いながらの作業でした。もちろん、餃子屋にも行けなかった。そんな中、以下の皆さんが来てくれました。皆さん、ほんとうにありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 長岡竜介 伊藤里香 新垣亜美 白根全 高世泉 久島弘 江本嘉伸 落合大祐
■2009年夏、バスの窓からこの土地をはじめて目にしたとき、その美しさに息を呑んだ。トルコ南東部、ティグリス川ほとりの街ハサンケイフ。約1万2000年の歴史があり、その上方の丘陵地には、古代の遺跡や墓が、柔らかな草原に埋もれていた。かすかな踏み跡をたどって山の上に登ると、犬がかけてきて激しく吠えたてた。牧羊犬らしい。たじろいでいると、犬を呼ぶ男性の声に、犬はくるりと引き返した。その先に、ヤギの群れを連れた男性の姿があった。ヤギの放牧をするチョバン(トルコ語で羊飼いの意)、ヤシャールとの出会いだった。
◆「アイへへへへへへ!」ヤシャールの声が、静寂の谷にこだまする。ヤギの群れに、進 め、の合図だ。100頭近いヤギが、砂ぼこりをもうもうとあげて谷を下る。ヤシャールはクルド人。父親もその父親も、この谷のチョバンだった。年齢は本人もわからない。30歳ほどか。幼い頃から父に連れられ山を歩き、現在は兄と交代で放牧にでる。家族は年老いた母と二人の兄。兄たちは結婚して実家近くに所帯を持ち、母と二人で暮らしている。村と谷、山とを往復する毎日だ。
◆夜明け前。暗闇から朝焼けへと変わる谷の道を、ヤシャールと犬、100頭ほどのヤギが登ってゆく。朝日が差すと山は赤く燃え、世界が一変した。手足の寒さが和らいでゆき、今度は暑さに苦しんだ。わずかでも日差しを避けられるよう、私たちは木陰から木陰を歩く。その前方で、ヤギは喧嘩をしたり戯れながら自由に進む。ヤシャールは一頭一頭のヤギに名をつけ、その父親や母親、祖父母の名まで覚えていた。
◆正午頃、木陰に座って休んだ。ヤシャールはポケットからラジオを取り出し、クルドの古い民謡を聞いた。野や山々など自然を彷彿とさせる音色。自らのルーツ、クルドの文化をヤシャールは愛していた。
◆流れるのをためらうかのように、雲がゆったりと流れる。ヤギの群れはいつの間にか視界から消え、犬が先に行ってヤギを見守っていた。犬はヤシャールの相棒で、犬もヤシャールの役に立つことが誇らしい様子だ。
◆そのうちヤギの群れが岩場にさしかかった。足場が限られた巨大な一枚岩を、ヤギたちが一列になって降りていく。群れは整然と進むのかと思いきや、順番待ちに耐えかねて前のヤギに頭突きするヤギ、後から来たヤギに踏まれ下敷きになるヤギ、突然交尾しようとする雄ヤギもいて、群れはてんやわんやだ。そんなヤギをヤシャールはほらほらと指差し、困ったという仕草で笑った。
◆岩場を越えた先にはなだらかな草原があった。「シャララ、グッド、ビューティフル」ヤシャールが嬉しそうに指を差す。自慢の場所らしい。やがて水の音がし始め、岩陰に泉が現れた。その水は澄んでいて、谷へと続く水路へと流れていた。
◆クルドの言葉で“シャララ”は“泉”。この乾いた山々の一体どこから、これほど清らかな水が湧くのだろう。まさに自然の神秘だ。ヤシャールはこのシャララが、神からチョバンへの贈り物だと語った。
◆さらにシャララの上には楽園があった。たわわに実をつけたブドウの木。イチジク、リンゴにザクロ。私は目を疑った。一体誰が、この山に木々を植えたのか。雨の少ないこの土地で、木々はどうやって生きているのか。謎はすぐに解けた。ヤシャールは、ヤギが果実を食べないよう追い払いながら、シャララで汲んだ水を木々の根元にかけて回った。そして、これは父が植えた木、これは祖父が植えた木だと、木の物語を語った。どれも数十年を経た木々で、それはこの山に生きたチョバンの歴史でもあった。まさに秘密の楽園だ。その楽園もシャララの水も、この山のチョバンからチョバンへと受け継がれてきた。
◆「ハサンケイフの谷で、チョバンの仕事は幸せだ」そう語るヤシャールの緑色の目は、本当に幸せそうだった。彼は仕事に誇りを持ち、この土地に愛情を持っていた。チョバンは暑い夏も凍える冬も、雨や風の日も、ヤギを連れて山を歩かねばならない厳しい仕事だ。現金収入も少なく生活に余裕はない。だがチョバンとして生きることは、父親や祖父、そのまた父親たちと同じ土地に生き、彼らが残したものを受け継ぐことなのだ。彼の人生は、常に先人の人生や物語とともにあった。
◆夕暮れ。全てを愛おしむように、太陽の最後の光が大地をなでてゆく。草原は金色に波打った。太陽のめぐりに生きること。大地の厳しさも恵みも、神からの贈り物であること。ヤシャールは、彼が生きる山の世界を教えてくれた。そんな彼の背には、いつも満ち足りた幸福感があった。ハサンケイフのチョバンはヤシャールを含め数人しかいないという。いつかこの谷からチョバンが消えるとき、山の上の楽園も、そこに生きたチョバンたちの物語もまた消えるのだろうか。ヤシャールはヤギを追って谷の道を下りてゆく。その背が、山の下へと小さくなっていった。
◆時が流れた2020年9月、ハサンケイフはダム建設によって水没した。ヤシャールが羊を追って歩いたかつての谷や山は、もうそこにない。
■日本人のエベレスト初登頂50年を記念する単行本『日本人とエベレスト 植村直己から栗城史多まで』が2月半ば、山と溪谷社から出版された。時代別に11の章から成り、江本は1、2、4章を担当している。他を神長幹雄、谷山宏典、大石明宏、柏澄子が担当した。2020年10月にやった最後の地平線報告会でオフレコで話した内容(女子隊の隊長はなぜ一時帰国したか)についてもふれている。◆446ページ、2000円+税◆他の章は以下の通り。'◆1章 日本人初登頂(1970年) 2章 女性初登頂(1975年) 3章 加藤保男の3シーズン登頂と死(1982年) 4章 無酸素初登頂(1983年) 5章 交差縦走(1988年) 6章 バリエーションからの登頂(1993年) 7章 公募隊の大量遭難(1996年) 8章 清掃登山(1999年〜) 9章 最年少登頂と最高齢登頂(1999年〜) 10章 日本人の公募隊(2004年〜) 11章 「栗城劇場」の結末(2018年) 終章 今後のエベレスト登山[江本嘉伸]
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■江本さんが手に持っておられた本が目に飛び込んできた。江本さんが動くと目がその本を追ってしまう。カラフルな布の写真の帯が巻かれたその本は、インドの大地のような手触りの表紙に小さな箔押しで『いのち綾なす インド東北部への旅』とあった。2020年2月報告会のナガランドを含むインド北東部の報告者で、その後地平線通信にナガランドの様子を寄稿してくださっている延江由美子さんの写真集のような新刊だった。
◆この美しい本を眺めていると、多彩な文化を表現したかのような布写真の帯(カバーかもしれない)を纏った著者ご自身のように見えてきた。まず、鮮やかな刺繍や織布が扉や序文を彩っている。インド北東部の人々の多様な暮らしを想起させるドラマの始まりだ。ページをめくると見覚えのあるタッチのカラーのイラストマップが! なんと長野亮之介画伯作成! 写真を見て地図に戻り、文章を読んでまた地図に戻る。何しろ複雑に入りくんだ地域なのでこの読み方は正解なのではないかと思う。時々、地図に添えられた民芸品や動物のイラストを見て一息いれる。楽しい!
◆インド北東部はネパール、ブータン、チベット、ミャンマー、バングラデッシュに国境をもつ8つの州にまたがる多様な民族文化をもった複雑な地域だ。第二次世界大戦時の「インパール作戦」激戦地でもあったから日本とも深い関係があるが、私なんぞは延江さんの報告を聞く以前はすべてナガランドで一括りにしていた。
◆「ナガ」「アッサム」「ガロ」「カシ」4つのどの章も清々しい写真をメインにエッセイや写真への文章で構成されている。クリスチャンの多いこの地域で、カトリックMMS(メディカル・ミッション・シスターズ=医療宣教姉妹会)のシスターとして医療を土台に長年活動されている延江さんにとっては、多くの親しい人々が暮らす愛おしい地域なのだろう。写真の中の人は揺るぎない信頼感をもった真っ直ぐな目で読者の私を見つめてくる。読み進めていくと、遠い遠い「神秘のナガランド」が自分とそう変わらない実体として身近になってきて、風景や営み、祈りの深淵な意味を考えさせられる。明日への手がかりになる何かが内包されているようにも感じ、閉塞した時、行き詰まった時、ワクワクしたい時にも本を開けばインド北東部へひとっ飛びできそうだ。ふーーー。深呼吸。
◆この本はエンターテインメントの様相も呈している。導入部はブラック一色で印刷されているが、画伯のイラストマップは別の用紙にカラー印刷、そして美しいカラーの写真。何のキャプションもない! ただ無になって写真と対峙。写真ページの合間にエッセイ、章の後ろに再び小さな同じ写真を載せて説明がされている。このエッセイと写真の説明はまた用紙を変えて黒に近いセピアで印刷されている(ように私には見える)。何と凝った造りなんだろう!とページをめくっていくと章と章の間には本の幅よりも少し短いサイズの「民族衣装」「民芸品」「市場」の可愛い写真コラムがカラーで差し込んである。何しろ本が閉じてあるときには気づかないのだから、まさしくギフト! 狂喜乱舞してしまう!
◆延江さんのインド北東部へのひたむきな思いと揺るぎない信仰心、彼の地の幾重にも重なる多様性を書籍という形としても表現している。電子書籍では絶対に味わうことのできないたいへん贅沢な本だと思う。[田中明美]
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■初めて寄稿させていただきます、京都大学農学部4年生の坪田七海と申します。今回、延江由美子さんの写真集第2弾『いのち綾なす インド北東部への旅』の紹介文を書いてくれないかという話を受けて、地平線通信にお邪魔することになりました。
◆紹介文を書くことになった経緯から少し説明します。延江さんと私の父は北大在籍時にクマ研に所属しており、延江さんは私の父の後輩にあたります。延江さんと私の母は北大獣医の同級生で、他の同級生含む5人で同じマンションに住み、ルームシェアもした仲だそうです。
◆私は延江さんのことは、家に置いてあった写真集で知りました。延江さんの写真集第1弾『Moving Cloud, Flowing Water: A Journey Into North East India』が家の本棚にあり、私はその写真集を何度も開いて眺めていました。私が高校生くらいのときに、延江さんが学生時代に所属していた札幌のカトリック教会で講演会があり、延江さんご本人からインド北東部に関するお話を聞く機会がありました。
◆また、2021年にオンライン開催の延江さんのスライド・トークショーがあり、そこでもインド北東部に関するお話を聞くことができました。そして2021年の暮れに写真集第2弾が出版され、私の手元にも届きました。どのページを開いてもどきどきわくわくすると延江さんに感想を伝えたところ、地平線通信に載せる紹介文を書いてくれないかと依頼メールがきたという次第です。
◆延江さんは若い世代の人にもこの写真集を見てほしいと思っているそうです。なぜ私が中学生くらいのころから延江さんの写真集を繰り返し見ていたのか、自分でも明確にはわかりません。実家の本棚には野生動物の写真集が多くあり、それらも見ていましたが、人の暮らしぶりが写っている色鮮やかな延江さんの写真集は、見ていて想像力が刺激されて楽しかったのかもしれません。そのくらいのころから、私は世界各地を旅していろんな人々の暮らしを見てみたいと思っていました。
◆大学に入学して探検部に入りました。農学や地域研究、文化人類学などの学問分野に拠ってフィールドに入る人達と出会い、エチオピアやパプアニューギニア、トルコにそれぞれ1、2か月ほど渡航する機会がありました。私はまだ世界各地の人々の暮らしを見る方法を勉強している途中です。しかし多少の海外渡航経験を踏まえて、改めて延江さんの今回の写真集を見ると、なぜこの写真集に惹かれるのか少し言葉になる部分があります。
◆写真は日常の一コマを写し取っており、人々の何気ない仕草や格好、街角の人々が集まっている様子や自転車に積まれた稲わらなど、写真に導かれて現地での暮らしを少しずつ知っていくことができます。ある場所に初めて行くと目に映るものをなんでも新鮮に感じますが、写真を通して、その感覚を味わえます。写真を撮った延江さんが何に目を引かれて何をおもしろく思ったのか窺い知れるところもなんとも楽しいです。
◆人々の日常のふとしたところに視線を向けて、ほほえんでいる延江さんの姿が目に浮かびます。写真は、人々の住む山間地や田園の風景、稲作や畑作、漁などの生業、機織りや民芸品、市場での様子、ミサでの様子、学校に通う子供たちの様子、戦地跡の風景、伝統行事の様子など、彼らの暮らしのさまざまな側面を写しています。
◆延江さんがインド北東部で活動するようになってから十数年になるという時間的蓄積が、人々の暮らしに対するまなざしに歴史的な時間軸や民族ごとに多彩な差異を見出すといった広く深い視座がある理由の一つなのかなと思います。
◆人々の暮らしのさまざまな面をごく自然に写し取ったこれらの写真を見て、私は外国を訪れて人と関わるときの、今まで知らなかった世界の人とふれ合える喜びと同時に感じるわかり合えなさを思い出します。目の前にいて同じ経験を共有していても、同じように感じているか、違う風に感じているならどのように違うのか、わかった気になることはあっても、本当にはわからないことを痛切に感じるときがあることを思い出します。
◆写真の中からこちらを見る彼らが、実際には何を感じ考えているのか、私は想像することしかできません。同じ世界に住む今まで会ったことのない人々が、どんな暮らしをして何を感じているのか、想像するためのたくさんの手掛かりがこの写真集にはあると思います。これらの手掛かりを手渡してくれた延江さんに感謝したいです。[坪田七海]
■豊岡市主催の植村直己冒険賞を「取材」させてもらうようになったのはいつの頃だったか。よほど急な取材や収録が入らないかぎり、毎年4月の記者発表会場に伺わせてもらっている。受付でもらった受賞者の経歴資料の入った封筒を開けて、初めてその年の受賞者を知る。
◆2021年4月5日、雨のアルカディア市ヶ谷で壇上に現れたのは稲葉香さんだった。リウマチで痛む手足に悩まされながらドルポに通い、河口慧海の足跡をたどる大阪の美容師。2017年12月の第464回報告会では、慧海ルート踏査を軸にドルポでの旅の経験を話す彼女の眼差しが印象的だった。その後、稲葉さんは2018年のフムラ遠征を挟み、2019年11月から2020年2月の厳寒のシーズンを再びドルポで過ごした。雪氷に閉ざされたヒマラヤ再奥の地での人々の暮らし、この時期だけの祭りをつぶさに観察した。それが評価されての冒険賞受賞だった。
◆大阪金剛山の麓にベースを構える稲葉さんの活動は東京の私からは地平線通信や彼女のブログ、Facebookなどで知るしかないのだが、「新・河口慧海研究プロジェクト」を立ち上げて研究資料の整理を始めたり、ベースの隣にある古民家?を「山小屋美容室」に改装したり、信じられないほど精力的に動かれているようだ。そして今年1月に書店に並んだのが『西ネパールヒマラヤの最奥の地を歩く ムスタン、ドルボ、フムラへの旅』。多弁な稲葉さんにして、いままで著書がなかったのが不思議なほど。
◆丸善に平積みされていたのは174ページのソフトカバーのガイドブックのような体裁だった。意外に薄くて拍子抜けする。そして前半88ページまでがヒマラヤの山々、谷に暮らす人々と祈り、四季の風景をストレートに伝えるカラー写真で構成され、ムスタン、ドルポ、フムラと稲葉さんの旅の文章は後半に集約されている。
◆さっきから説明なしにドルポ、ドルポと言っているが、私はドルポのことを全然知らない。チベット文化圏の一地方で、1990年代以降大谷映芳さんが取材してブルーポピーの美しさやテンジン・ヌルブさんの絵画を紹介したことぐらいの知識しかなく、ときおり都内でのチベット人の集まりで「この人はドルポ出身」と紹介されて「そんな山奥からよく来てくださった」と返答する程度の認識しかなかった。
◆そのわずかなイメージを具体的に肉付けしてくれたのが慧海ルートをたどった稲葉さんの体験談であり、それをまとめたこの著書だった。地域ごとにまとめられたドルポのガイドブックのようで、稲葉さんの旅日記でもある。そしていつもの稲葉さんのブログや講演と同じように話が行ったり来たりして、決してすんなりと頭が受け入れない。
◆1900年7月、日本人で初めてチベットに足を踏み入れた河口慧海はドルポを経由する前に、カリガンダキ川に沿ってムスタンからのルートを試していた。稲葉さんの紀行はその足跡をたどるようにアッパームスタンのローマンタンから始まり、続いて慧海ルートの解明に心血を注いだ大西保さんに同行してのドルポ横断、さらに西へ進んでフムラでの「パラサーブ・レイク」探索へと続く。パラサーブ・レイクとは、2014年に急逝した大西さんが夢枕に立って地図で示した名もなき湖のことだそうだ。
◆大西さんは峠からカンリンポチェ(カイラス山)が遠望できることを記録に残していたが、具体的な場所がわからない。稲葉さんは2つの国境峠を候補にして、ガイドとともに道なき道を進む。「先に歩いているガイドが少し西にずれていた。彼らは地図もコンパスも持たないし、歩くのが速すぎて私とは遠く離れているので声をかけられない。しかしそのずれた方面にも行きたかったロルン峠があったのでついていくことにする。……国境に向けた車道の工事中の場所を通過し、北西に進むと、遠くにカイラス山が突然見えた。見えると同時に一緒にいたガイドも驚き、突如、漂う空気感が変わるほど、祈りの世界に切り替わった」。
◆チベット西部、広大なチャンタン高原に接してそのすぐ南に位置するフムラ、ムグ、ドルポは、カトマンズから見れば「ネパールの最奥の地」だが、世界地図から言えば北はモンゴルまで広がるチベット世界の最南端でもある。本書に詳しくは書かれていないが、車道はチャンタン高原を走る新蔵公路から分岐しブラン(タクラコット)を経て、ネパール側のシミコットへ物資を運ぶためのものと推測する。「最奥の地」は中世からチベットと地続きだったし、そして現代も中国に向かって入口が開かれている様子が垣間見える。
◆フムラ遠征で自信をつけた稲葉さんは、2019年のドルポでの越冬を企て、単身実行する。著書はその122日間の紀行で終わる。外国人がまだ誰も見たことがない冬の大祭、天井が開いたチベット式家屋(倉庫?)でのホームステイ、じっとしていると耐えられないほどの厳しい寒さ……。
◆そして終章間際のこの一節を読んで、チベット世界におけるドルポの位置付けに深く共感する。「ドルポは全土が聖地で、山には神々が住んでいるのだ。そのことを、越冬のあと下山したときに実感した。実際にここに人が住みはじめたのは今から800年前頃(西暦1220年頃)のことで、シェー山(水晶山)の開山が画期となって行者たちが活動するようになり、仏教が盛んになってきて、やがてそこにチベットから人々が移住して村々を作ったと聞いている。……ドルポにはシェー山を中心に曼荼羅を描いているように無数にゴンパ(寺院)がある。極楽浄土が本当にあるのなら、ドルポこそが天国なのではないか」。
◆いますぐカトマンズ便のチケットを取って旅立ちたくなる。まったく新型コロナ禍が憎い。[落合大祐]
■1月に初めての著書を刊行させていただきました、稲葉香です。「西ネパール・ヒマラヤ最奥の地を歩く ムスタン、ドルポ、フムラへの旅」(彩流社)。2007年から2020年にかけて西ネパールを歩いてきた中から写真とコラムを厳選しました。本のことは特別に書いていただいたので、本には書けなかったリアルなリウマチの状況を書きたいと思います。
◆私は美容専門学校に通っていた18歳のときリウマチになりました。ちなみに今48歳でちょうど30年がたちます。リウマチとは、免疫異常で膠原病の一つです。関節の中の滑膜がおかされ増殖し、その増殖した滑膜が骨を破壊します。
◆これがとにかく痛いのです。痛くて寝れないときもあるほどです。関節炎が進行すると、関節そのものが変形してゆく。最終的には関節が破壊し尽くされ、骨と骨が直接接し強直という状態になる。こうなるともはや関節を動かすことはできない。そのかわり、炎症が起こる場であった滑膜が完全に破壊され消失してしまっている状態であるため、炎症も終息し痛みは感じない。私の両手首と右足首は、滑膜が完全に破壊されて、30代前半でこの状態になりました。一時期は、痛みがなくなりましたが、30代半ばからまた以前と同じような痛みと強張りがでてきました。発病した当時は、10年後はきっと歩けなくなるだろうと思うほど痛みとの戦いでした。
◆特に両手首と右足首は常に痛くて階段はまともに降りれないなど、日常生活もきつかったです。29歳で初めてのヒマラヤトレッキングで私の体は目覚めました。朝、起きたら痛くない、動く体に驚きました。環境が厳しい状況に身を置くと人間が本来持っている力が蘇るように感じました。諦めていた自分の体ですが、山でリウマチが治せると思わせてくれました。だから今でもヒマラヤを歩くことに思い入れが強いのです。ヒマラヤの大地が私を復活させてくれた、そう思っているからです。
◆その後、西ネパールに通ってきましたが、どちらかというと、再発中での出発ばかりで、現地に行くと痛みが軽減するというのが特徴です。高所でのアップダウンが良いと私は感じてます。
◆ここから年代順に書き出してみます。
◆2007年 ドルポ横断41日間。薬をやめていた時期、帰国後再発。
◆2009年 ムグ〜ドルポ横断43日間。再発中で遠征に参加、出発当日もザックを背負えないほど全身が痛かったが、山に入ると嘘のように痛みが軽減した。
◆2012年 ドルポ横断66日間。最新治療の生物学的製剤の点滴を打って出発、それは2か月もつのでリウマチの症状はほぼ出ていなかった。
◆2014年 アッパームスタン32日間。最初の3日間は股関節が痛すぎたが、4日目で痛みが軽減した。
◆2016年 ムスタン&ドルポ横断69日間。再発中でドクターストップをけって出発。出発前に点滴治療をして、その後は薬を使わない状況を試した。前半のムスタン2週間は痛みがある中歩いていたが、ドルポに入る頃には軽減して、予定していた行程を完全踏破できた。しかし、カトマンズ到着後、激痛に襲われ両手首、右足首の痛みと強張りが激しく、帰国後また点滴治療を再開した。
◆2018年 フムラ46日間。異常なほどの膝の腫れ、突起のように飛びてて痛みもあったが出発、現場に入ると不思議とおさまり1か月を歩ききった。
◆2019〜2020年 ドルポ越冬122日間。厳冬期の長期ということで、初めてリウマチの薬の自己注射を持参。出発前は足の痛みと手の強張りが強く、カトマンズ出発前日夜に自己注射する。スタート地点で歩きだすころには、痛みが軽減し、ドルポ内部に入ると痛みがおさまった。薬を使わないで、いつまでもつのかを実験しほぼ約100日間もったが、面白いことに下山を決めた夜、足が硬直してきて痛みで目覚める。下山は10日間を要する。ドルポでは注射を打ちたくなかったが迷ったあげく打った。なんとか痛みが軽減し、最後の難関、雪の5000mの峠を無事に超えて自分の足で歩ききった。
◆こんな感じで、リウマチは常にそばにいます。ドルポ越冬から帰国後は、夏に両足が痛すぎて秋にはステロイドを使ってしまいました。きつい薬は使いたくなかったのですが、痛すぎるとそんなこと言っていられないのです。それ以来、痛みのアップダウンがある毎日を送っています。でも、また山で治そうと思い、今年に入って痛くても荒行のようには毎週山に行ってました。痛すぎて急登や下山がまともにできない状況が続いてましたが、2月5日の山行で痛みが軽減しました。足首は筋肉がないから鍛えても変わらない。この荒行がいいのかわかりませんが、少しマシになりました。リウマチは普段内科を受診してますが、来月は整形外科の予約もしました。今まで人工関節なんて思いもしなかったのですが、やっぱりこれしかないのか?と、最新の治療状況を知りたい思いで予約しました。今後もまだまだ歩きたいので諦めず模索したいと思ってます。[稲葉香]
■「小川、みずほの交差点にいますぐ来い」。あれは春の暮れのころだったか。映像の制作会社2年目の駆け出しADで、休日に会社で仕事をしていたわたしを先輩ディレクターが携帯電話で呼び出した。会社は、地下鉄の表参道駅真上にある、みずほ銀行交差点のすぐそば。何があったんだろうといぶかりながら、太陽が照りつける外へと飛び出した。
◆すると、そこにはいつも行き交う車は走っておらず、ひとだかりができていた。青色と赤色が交互に並んだ旗がはためいている。耳をこらすと、かけ声が聞こえた。「フリー・チベット」。そう、2008年の夏に開催される北京五輪についての、チベット人によるデモ行進だった。旗は、チベットの国旗「雪山獅子旗」。このとき、参加者のひとりが道路脇で見学するわたしの手のひらに、ちいさな折り鶴をのせた。祈りのこめられた、丁寧に折られた鶴。わたしは、ひといきれと日差しに浮かされながら、学生時代に旅をしていたチベットに思いを馳せた。そして翌年、会社に辞表を提出し、インドのダラムサラへ飛んだ。チベット亡命者たちの旅の終着地であり、難民として生きるはじまりの地だ。あの折り鶴が、わたしを運んでくれた。そう思っている。
◆そのダラムサラで出会ったのがひとりのチベット女性ラモ・ツォ。彼女の夫は2008年の北京五輪開催について「チベットのひとがどんな思いを抱いているか」インタビューをし、まとめた映像を発表したことで逮捕された。国家を分裂することを扇動したという罪で、刑期は6年。ただ映画をつくっただけで、投獄された。わたしがラモ・ツォと出会ったとき、彼女は道端でパンを売りながら、子ども4人と義父母の生活を支えていた。そんな彼女をカメラで8年追いかけ、映画「ラモツォの亡命ノート」(2017)を制作し、その後を取材したものを書籍『パンと牢獄』(2020)にまとめた。ラモ・ツォと出会ってからの10年は激動の日々で、ダラムサラの撮影で終わりかと思いきや、彼女はスイス、アメリカへと渡り、わたしも撮影のために何度も米国に足を運んだ。そして2017年の劇場公開のときには、ラモ・ツォを日本に呼んだ。そこで、思いがけず夫であるドゥンドゥップの中国脱出の報せを受け、家族が米国で再会する現場に立ち会うことができた。政治犯の奇跡の亡命劇だった。
◆時は流れて2022年。ふたたび北京で五輪が開催されようとしていた。2008年から14年。ラモ・ツォたち家族の生活は激変したけれど、チベットの現状は何も変わっていなかった。むしろ、2008年以降チベットの自由を求めて焼身抗議をするひとが増えたことで、さらに中国では取り締まりが厳しくなり、声をあげたくてもあげられない状況が続いている。それでも、“平和”の祭典といわれる五輪がふたたび北京で開催されようとしていた。わたしは、チベットのひとびとが背負う悲しい歴史を、少しでも知ってほしいと思った。14年前に折り鶴を手渡されたように、わたしもその折り鶴を誰かにつなぎたいと思った。
◆話は少し変わるけれど、2008年以降、日本のチベット支援者の様相は大きく変わった。2002年から欠かさずフリー・チベットの活動に参加している日本に暮らすチベット出身の友人に話を聞くと、こんなことをいう。「むかしはチベットの文化に関心を持っている日本の友人たちもデモに参加してくれていたけれど、いまはウイグルや香港についても活動する右派で民族主義者がほとんどだと思う」。
◆「民族を守りたい」という考えと親和性が高いのだろう。それが、日本のナショナリズムともつながり、嫌韓・嫌中と呼応してしまった。拙著『パンと牢獄』を読んでくれた友人のなかには、「SNSで感想を書くと、政治的にいろいろいわれるので、個人的に感想を送ります」という内容のメールを、ひとりだけでなく何人からももらった。チベットへ行きにくくなる、ということではなくて、あきらかに日本人からの視線を気にする内容だった。「チベットは自由になってほしいと思うけれど、日本でこうした活動には政治的なカラーがあって参加しにくい」という声は、よく耳にする。そういうわたしも、インドでも米国でもフリー・チベットのデモ行進に参加したことはあるけれど、日本では一度もなかった。
◆それでも、この北京五輪2022の華やかな舞台の影に、涙を流しているひとがいるということを知ってほしかった。政治的にフラットになるよう、アムネスティ・インターナショナルと明治大学の現代中国研究所に協力してもらい、チベット好きな友人たちとイベントを計画した。メインゲストにはドゥンドゥップとラモ・ツォの長女ダドゥンを迎え、「北京五輪に翻弄されて…娘が語る、亡命チベット人家族の14年」というタイトルにした。東京での会場イベントはコロナを理由に延期になったけれど、急遽企画したオンラインイベントには400人を超える申し込みがあり、当日の2月6日には200人近くがリアルタイムで視聴してくれた。北京五輪の開催について、なにか思いを抱えるひとがこれだけいてくれたことが、心強かった。
◆イベントでは、ほんの少女だった娘のダドゥンがすっかり大人に成長し、強い口調で訴える場面もあった。「2008年、父は映画をつくっただけで不当に拘束された。そんな状況はいまも変わっていない。中国の人権問題は、何も解決していない。そんなところで、ふたたび北京五輪が開催されていいと思わない」。優しさと強さを持つ聡明な女性に育ったダドゥンの姿は、どこかしら母ラモ・ツォの面影と重なり感慨深かった。イベントの開催直前には、嬉しい報せも入った。北京五輪のボイコットを訴えるためヨーロッパへ遠征中のドゥンドゥップが、ノーベル平和賞にノミネートされたというのだ。推薦人は、遠征中に対談したノルウェーの緑の党の議員。ドゥンドゥップの地道な活動に、少しでも光が当てられたことが嬉しかった。ドゥンドゥップとダドゥン(次女のラモ・ドルマも!)は、コロナが落ち着いたころに日本で講演ツアーをする予定になっている。何度も延期になっているけれど、なんとかノーベル平和賞を受賞する前(!)には実現させたい。あのとき受け取った折り鶴は、まだわたしの手のひらで羽ばたけずにくすぶっているのだから。
◆1月の終わりに家族の仕事の関係で長野から大阪に引っ越しました! 赴任地が決まったのが正月明け。そこから物件を探したり、行政の手続きをしたり、3歳の娘の保育園を探したりと怒涛の日々です。太陽の塔の近くを住処にしたところ、娘が「太陽さん!」とお気に入りで、毎日のように万博記念公園に出向いています。背面の青い太陽は「お尻」なんだそう![ドキュメンタリー作家・小川真利枝]
ずーーーーっと 雨の家
雨が やむことは 無い
何百年も 降りつづいている
床面は、雨水が溜ってて、ゆっくり 流れてる
水深は、踝くらい
透明な雨水
壁面は、どこも濡れていて 光ってる
雨だけど 光は さしている
ひかりは、雨といっしょに 降りてくる
そらは厚い雲に覆われている
だけれども、
光(太陽光)の粒子が、雨に溶け込んで、、、運ばれて来る。
そして 屋内で 太陽の力が 蘇生する
降り立つひかり
ってゆうか 雨は銀河から降りてくる
だから
夜に降った雨は「濃紺」
夜が 溶けてる
昼間の雨は「青い」、でしょう?
そらいろが、溶けているから。
◆ ◆ ◆
3月8日(火)〜3月20日(日)
11:00〜18:00(月曜日休廊、最終日は16:00まで)
ギャラリー「勇斎」
http://www.g-yusai.jp/
〒630-8372
奈良県奈良市西寺林町22
Tel/Fax. 0742-31-1674
JR奈良駅より徒歩15分
近鉄奈良駅より徒歩8分
■毎月の地平線通信はレイアウト担当の森井さんの仕事の都合(碁会所勤務)で大体水曜日と決めている。今月は印刷でお借りしている榎町地域センターが新宿区のワクチン接種会場となったため、水曜日は使えないので、きょう火曜日となった。ところが、いつも最後の校正チェックをお願いしている大西夏奈子さんがなんと他のワクチン会場のバイトに動員されていて、今月は無理、とさきほどわかった次第。まあ、みんなの力でやるだけのことなのだが一瞬慌てました。
◆実は、パソコンの接続が悪くてこの2週間、往生してしまった。新宿にいた時と違って地平線仲間にすぐ来てもらうわけにもいかず。おまけに原稿の字数の読み取りがうまくできず夏奈子さんと字数を相談しながら書いていたフロント原稿も今回は多めになってしまった。若い人ならなんでもないことをまわり道してやるしかないのが辛い。
◆下の漫画にある通り、長野亮之介画伯がよもやのコロナ罹患。大事でなく済んで良かったが、フロントで書いたように最近はあちこちで私もついに……、という話を聞きます。まだ先はありそうだけど、なんとかしてそろそろ旅に出たいとの思いや切。コレ皆まったく同じなり。[江本嘉伸]
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今月も地平線報告会は中止します。
オミクロン株の感染が収束しないため、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。
地平線通信 514号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2022年2月22日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸 宛)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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