1月19日。2022年最初の地平線通信をお届けする。1979年9月に初めてはがき通信を出してから足かけ43年、よくも一度も欠かさず発行し続けてきたものだ。それだけの炎が皆さんの胸にもチロチロ燃え続けているということなのだ、と思う。
◆国内で初めて新型コロナウイルスの感染者が確認された2020年1月15日からまる2年、ウイルスの勢いは依然衰えず、日本はとうに「第6波」に突入。昨年11月30日に初めて確認されたオミクロン株が急拡大し、新型コロナウイルスの日本国内の新規感染者がきのう18日初めて3万人を超え3万2197人と発表された。1日あたりの感染確認が最も多かったのは、「第5波」の昨年8月20日の2万5990人である。
◆政府は明後21日から2月13日までの3週間、11都県に「まん延防止等重点措置」の適用を決定。飲食店は、酒類の提供、営業時間の制限など再び厳しい事態に追い込まれた。同時に、すでに7割以上の国民が2回の接種を終えたワクチンの3回目接種を急ぐとのこと。世界の感染者数は3億3083万人に達し、死者は554万人。重症者は少ないとはいえ、オミクロン株の爆発的な感染力は、ちょうど2年前、この通信で初めて新型コロナウイルスのことを書いた当時の理解がいかに甘かったか、を思い知らされる。
◆12月の地平線通信を出した日(22日)の翌日、さいたま市の鈴木明重・幸子さんご夫妻から喪中はがきが届いた。「姉 金井重が12月5日に94才で永眠いたしました。生前に賜りましたご厚情を深謝いたします」。ああ、シゲさん、しばらく音信がなかったが、天国に旅立たれたのだ! 金井重さん、通称シゲさんは、53才で仕事をやめ、アジア、ヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアと旅を続け、50か国を旅したところで地平線会議に登場、1988年1月29日、アジア会館での第99回地平線報告会の報告者となった。以後も旅を続け、歩いた国は100か国以上に。合間に短歌や俳句を詠み、地平線通信の常連寄稿者ともなった。
◆最後にお会いしたのは、千駄ヶ谷の画廊、長野亮之介画伯の個展会場でだった。シゲさんは、いつものように元気よくニコニコしてみんなと挨拶していたが、今にして思えば当時かなり耳が遠くなっていた(なので電話もしにくかった)ため、会話は以前ほど理解していなかったと思う。最近私も補聴器をつけるようになって、時に話が見えないままニコニコうなづいてしまうことがあるのだ。それにしても強烈で懐かしい人だった。地平線史に永遠に残るであろう旅人を偲んで、今月の通信で“永遠のシゲさん”を特集した。
◆1月9日、久しぶりに講演をやった。関野吉晴さんの「地球永住計画」プロジェクトの一環として頼まれ、引き受けたのだ。講演タイトルがとんでもなく長いのは、具体的に書かないと江本が何をやってきたか、わからない人が多いからだろう。「新聞記者として、チンギス・ハーンの墓探し、北極点、エヴェレスト、黄河、チベットなどの大型企画の取材を導きながら、地平線会議代表世話人として差配してきた半世紀を語る」というのである。おいおい。
◆おととしの10月、報告会の場でも話をしたが、実は私はこの30年、地平線会議では自分のことはあまり話していない。新聞記者としての取材であったことが多かったのと、他の冒険者たちの力を尊敬するあまり、私などとてもじゃない、と考えていた。しかし、振り返ると実は現代史の意外に面白い、大事な現場に立ち続けていたことに自分でも驚く。たとえば「初登攀争い」がまだあった大学山岳部の冬の北穂滝谷登攀の話、田部井淳子さんが女性初登頂をなしとげた1975年のエベレスト日本女子隊、1978年の植村直己さんと日大隊が競った北極点行、中国がチベット奥地への入域を認めた1980年のチベット側からのチョモランマ、1982年のチベット5000キロ横断、1985年の黄河源流探検行……。さらに、チンギス・ハーンのことは口にも出せなかった社会主義時代のモンゴルでどうハーンの陵墓探検を実現したかなど、結構贅沢な取材行ではあった。
◆1月15日、海部俊樹元首相の逝去が報じられた。9日に老衰で亡くなったという。91才だった。海部首相と聞くと懐かしい気持ちになる。1991年8月、西側諸国の中で最初にモンゴルを訪問した首相で、当時ウランバートルにいた私は屋外での歓迎の場でご夫妻と自由に話をさせてもらったことがあるのだ。もちろん、その場に日本のモンゴル政策に尽くした花田麿公さんがいた。当時は外務省中国課の課長補佐だった花田さんにきのう久々に電話して、実はあのときの海部首相のモンゴル行きは、天安門事件から2年しか経っていないため、かなり難題だった、と聞いた。当時、モンゴルへ行くには北京を経由しなければならない。天安門事件で西側各国が中国行きを拒否していたさ中、日本の首相が経由地とはいえ、中国に入国することは簡単ではなかった。
◆そういう中でモンゴル入りした海部さんに対して、モンゴルの人々は好意的だった。市場経済に移行した草原の国に対して日本の手厚い支援が続き、日本モンゴル関係は素晴らしい成果を出しつつあった。[江本嘉伸]
■2021年12月28日から2022年1月3日にかけて、私たち九大山岳部は北アルプスの燕岳、大天井岳で冬合宿を行った。7人パーティーで男女比は5:2。1月1日には燕岳に全員で、1月2日には大天井岳に4人で登頂した。この山域は収容人数200人の燕山荘が年末年始に営業されることもあり、毎年多くの登山者が訪れる。
◆行動の概要は、以下のようだ。12月28日、宮城ゲート〜中房温泉。12月29日、中房温泉〜合戦小屋〜燕山荘。12月30日、沈殿日。12月31日、燕山荘〜合戦小屋(合戦小屋までベースキャンプを下げる)。1月1日、合戦小屋〜燕山荘〜燕岳〜燕山荘〜合戦小屋。1月2日、合戦小屋〜燕山荘〜大天井岳〜燕山荘〜合戦小屋。1月3日、合戦小屋〜中房温泉〜宮城ゲート。今合宿ではじめて、冬山の山頂を目指すことができた(1年前の白馬岳をめざした冬合宿では、大寒波の影響で一つの頂にたどり着くことなく撤退を余儀なくされたのだった)。山で圧倒されたのは、骨の髄まで凍えるような寒さ、稜線の強風、そして降り続ける雪だった。
◆12月29日、30日に幕営した燕山荘のテント場では、冬山の風と雪の荒々しさを体感した。ここで過ごした2晩は冬の北アルプスで生活することの困難さを知る経験になった。稜線上にテント場があるため、風が吹き荒れていた。雪かきが欠かせず、かきだしたはずの雪は空中で風に吹き飛ばされるため、風の流れに従い雪をかきだすか、風が収まるスキに雪かきをした。テント周辺に作った風防は、積雪とともに、またかきだした雪とともに高さを増していった。
◆12月31日にテント場を下げる必要があったのは、テントの3分の2の高さが適切とされる風防が高くなりすぎて、テントが埋没する可能性があったからだった。風防とテントのあいだに掘った幅60cm深さ80cmほどの溝は、3〜4時間後には埋まっており、いわゆる「ドカ雪」が降っていたのだった。気温は−14℃〜−24℃で、モンベルのダウンハガー800#0のシュラフ越しに仲間の震えが伝わり、自分も震えていた。下界では時間がなくて十分に眠れないのに対し、テント内では時間があるのに深く眠れないのだった。雪かきをして、浅く眠って、雪かきをして、雪をとってきて、水を作って、ご飯を食べて、雪かきをして、を繰り返す中で日は昇り沈んだ。シュラフのなかで、より厳しい登山で、より長い滞在が必要になったとき、自分がどれだけ行動できるのかと想像し、自分の未熟さが自覚された。
◆元旦の燕岳登頂は、太陽の神々しさが身に染みるような体験だった。12時頃には雲が晴れ、まっさらな下界と、青空に燦々とそそぐ陽光、それに照らされた槍ヶ岳、穂高連峰、遠くに富士山を望む圧倒的な自然のパノラマに、疲れも寒さも忘れ、全身が喜んでいた。大袈裟な言い方ですが、本当に、一秒一秒が惜しく、生きていてよかった、山はいいよな、やっぱり、と思わされた1日だった。
◆1月2日の大天井岳アタックでは、山は恐い、と感じた。これまでも山でひやりとする場面は何度もあったけれど、今回は自分の命が完全に自然に握られている、という感覚をもった。1日のあいだに強風、晴天、曇り、雪、吹雪、と天気は表情を刻々と変えていった。大天井岳山頂直下の斜面をアイゼンとピッケルで登り、下ったときや、通常は中を通り抜ける蛙岩を迂回するときには、一挙一動に生死がかかっている緊張感があった。の表面は数日の間に移り変わる天候に呼応するように様々で、アイスバーンしているところ、岩肌が雪で見え隠れしているところ、ハイマツが雪もろとも凍ったところ、積雪で沈むところ、などなど、目を凝らしながら歩いた。初日の出に照らされる槍ヶ岳を横目に歩くという何とも贅沢な体験もあったが、全体を見ると4時発16時着の行動で、行動食も足りず、体力も、技術も十分ではなかったという反省がある。より自立した登山者になりたい。
◆下山後はいつも、現実感がなくとらえどころのない気持ちになる。今再び大学生活に戻り、思い返したとき、冬山にいた時間がやっと今日常生活を送る自分とつながっているという実感をもつことができた。そして山でのことを含め、すべての体験は与えられたものでもあると思い至った。今回寄稿させていただき、やはりありがたくも緊張するのは、地平線通信をこの1年間読ませていただき、閉じては考え、そのたびに誌面で出会う人々の行動者としての大きさ、生きることへの誠実なあり方の一端を知ったからだと思う。これからもどうか皆さんの生き方から、多くのことを学ばせていただきたい。[九大山岳部 安平ゆう]
■文化祭が終わり、体調も回復した僕は11月、12月と落ち着いた日々を過ごしている。2学期最後の島ならではのイベントとして、伊勢海老漁の見学に行った。神津島の名産品といえばキンメダイ、パッションフルーツ、それに加えて伊勢海老だ。友達は茹でてマヨネーズにつけて食べるのが一番おいしいと言っていた。自分はまだ食べたことがないがどうやら物凄くおいしいらしい。
◆美味しいがそれなりのお値段もする。漁協では高級食材として出荷するために様々な努力をしているのだという。例えば網から外す時は細心の注意をはらわなければならない。なぜなら目や触角、足などが取れてしまうだけで取引価格は大幅に落ちてしまうからだ。今回はこの作業を体験させていただいた。島の同級生達も初体験だという。繊細かつ集中力を要する作業は意外にも難しく、力ずくで外そうとして足をもいでしまっている人もいた。
◆自分もやってみたものの触角が取れてしまった。あの伊勢海老はどこで消費されたのか気になるところだ。神津島では伊勢海老の養殖もおこなっている。水温や部屋の明るさで餌を食べる量が変化するので、その調節が難しいという。また近年は海水温度の変化で伊勢海老の漁獲量は減少傾向にあるという。明らかな地球温暖化の影響だ。この見学の締めくくりに漁協の方からは「伊勢海老漁を続けていくためにはどうすれば良いのか?」という壮大な宿題が課せられた。海の幸に恵まれているということは、漁業に携わる人たちの努力と創意工夫の賜物であるということを改めて実感した。
◆そんな最中、島をある事件が襲った。小笠原諸島の海底火山「福徳岡ノ場」の噴火による軽石の漂着だ。神津島には東西に二つの港があり、軽石漂着のルート上にある西側の港にはオイルフェンスを設置する措置がとられた。漁船は東側の港へ避難した。幸いにして沖縄のような甚大な被害はなかったが、客船や貨物船が着岸できなかったり漁船が漁に出られなかったりと、少なからず影響はあったようだ。
◆島の人々にとって海は命。前浜海岸のビーチクリーニングはわりと頻繁に行われていて、高校でもボランティア活動の一環として清掃活動を行っている。軽石は小さいものから大きいものまで幅広く漂着していたが、騒動があって二週間もしないうちに漂着していたはずの軽石はほとんど撤去されていた。お土産に軽石でも持って帰ろうかと思っていたが、島の人々の団結は恐るべきものだった。
◆12月19日に誕生日を迎え16才になった僕は、年末に島の同級生と共に原付の免許を取りに行った。8人で試験を受け、見事全員合格。島では急な坂が多く、公共の交通手段が無いため、移動手段として学校でも認められており、島の先輩はほとんど原付に乗っている。自分は村のバレーボールチームの練習に行くとき先輩のバイクの後を全力で追いかけてヘロヘロになっていたが、そんな日々ともおさらばだ。免許証を手にするということは、より社会的な責任を持って行動しなくてはならないし、バイクに乗るにあたって安全運転は第一に考えなければならないと思っている。
◆しかし、実は少しだけ心を悩ませていることがある。それは島には交通ルールというものがないということだ。ないといっては語弊があるが、まず駐車禁止の看板があるところでも駐車OKで、原付ならば一方通行を無視してもいいなどと島の大人たちは皆言うのだ。免許の勉強をしているとき、原付は一方通行を守らなければならないことを知り、あれは島ルールだったのだなと気づかされた。ちなみに島には信号機はひとつしかない。おそらく島では本当に大丈夫なのだと思うが、実際のところはグレーゾーンだ。
◆離島留学も、もうすぐ1年を迎える。島生活にも随分と馴染んでいると思う。ここ数か月で島の新たな一面を知ることができたと同時に、バイクに乗っていまだ行っていない島中を走り回ってみたいという期待も膨らませている。[神津高校1年 長岡祥太郎]
■2022年、明けましておめでとうございます。昨年は神津島の高校に通い始めた長岡祥太郎くんの「島ヘイセン通信」を、掲載されるたび楽しみに読んでいました。のびやかな神津島の風景が見え隠れする溌剌とした奮闘記は、毎回、とても綺麗なものを眺めている気分になります。神津島は探検部時代、伝統の新歓合宿のために3度訪れました。住民らしい方と交流する機会はありませんでしたが、隣家から漂ってくる晩御飯の香りのように、ほんのりとある生活の気配が優しい印象の島でした。
◆祥太郎くんのお便りからは、学校の仲間や、地域の人たちとの実生活上の交わりから得る温度感が伝わってくるので、それを読む私の心もつられて優しくなったり、熱くなったりしています。1年生ということで、まだまだ続きを読めるのだと思うと嬉しいです。持ち前のエネルギーで、一度きりの高校生活を一層輝かせてください。ささやかながら応援しています。
◆12月中旬から年始にかけて、ボルネオの両親と連絡がとれなくなっていたのですが、つい先日電話が通じ、二人ともとても元気にしていたので安心しました。
◆私自身の最近の状況ですが、やはり今年もボルネオに行けそうにないかな……と思っています。もともと大学院へ進んだのは、修士課程の間に1年休学して、ボルネオでの実地調査を踏まえた研究をする心算あってこそでしたが、最近では実地調査なしでの研究を計画せざるを得ない状況になってきました。
◆就職活動は来年度の予定でしたが、この3月から、一度就職するつもりで参戦しようかな……などと考え始めています。最近の五十嵐宥樹さんの文章を読むと少し心が痛みましたが。
◆そのような感じで、私自身はだいぶ揺れています。おぼつかない感じのままで不甲斐ないですが、気持ちは前向きです。江本さんと前のように会ってお話ししたいなあと思います。[下川知恵 早稲田大学大学院 人間科学研究科修士1年]
■9日は江本さんの講演会に参加させていただいて、本当によかったです。貴重なお話と写真をありがとうございました。久々すぎる報告会っぽい雰囲気もまた、嬉しかったです。懐かしさとともに、やはり直接お話を聞くことのよさを、実感というか確信しました。報告者の声や身振り手振り、会場セッティングに動く方々、一緒に話を聞く人たちの気配……。録画や画面越しではない「いまこの瞬間、事実」をしっかり自分の目と耳で確認できることの喜びをより強く、深く感じることができました。それはきっと、開催者である関野さんのこだわりもあるのでしょう。その一方で、参加できなかった人たちのために通信が果たす役割の大きさも、改めて感じました。
◆江本さんの半生をお聞きしてから地平線会議のやってきたことを振り返ると、なるほど!と腑に落ちることだらけでした。外語大山岳部での経験が、登山技術や人脈といった形でその後のエベレストや極地、モンゴル取材に繋がっていったことが、よくわかりました。「人生の流れ」って面白いですね。私のちょうど倍の長さを生きている江本さんのお話を、今聞けてよかったです。江本さんの半端ない情熱やこだわり、冷静さ、今の状況としっかり向き合う心は、学生時代の岩登りでさらに養われた部分も大きいのかなとも思ったり。
◆「新聞記者として、書きたくても書けないこともあった。だから僕は行間を読める」と言われたときは、江本さんがいつも物事の本質を見ようとされていることと繋がり、そういうことかーと納得。
◆「本当に面白かった!」と話してくださったモンゴル相撲。ランニング中、白い服に反応してひょっこり穴から出てくるタルバガンという動物。チベットの今では見られない、ヤクの皮製の舟「コワ」……。高所や極地での経験も含めて、現場に身を置いていたからこそ、冒険者の内面や裏の事情、苦労も情熱も感動も分かる。こんなに説得力のある人、やっぱり江本さんしかいません。貴重な写真の数々、もっとゆっくり見たかったです。ぜひ写真展をやってください!
◆そして多くの記録の中で「大川小学校」のことが出てきたときは、涙が出そうになりました。自分が先月行ったばかりということもあり、とても人ごととは思えないショッキングな出来事、そこに自分なりにどう関わっていけるのか。実際に「山の日」という形にして行動に移されている江本さんの姿を見て、改めて真剣に考えさせられました。
◆会の最後に、「これからの地平線会議」というテーマで、意見交換の場が設けられました。通信について、明るくおだやかに、でもきっぱりとした口調で話されていた小松由佳さん。「通信はフィールドでもあるけれど、フィールドを伝えたり育む場でもある。フィールドで活動する人たち自体が変わらないのであれば、通信は、大きく変わっていいのではないか。変わることで、リスクはあるけれど、選択できる可能性が広がる。コロナ禍で世の中がそうなったように」。
◆宮本千晴さんは、地平線会議の根幹にある熱……「アメーバ集団」を引き寄せる核となっているようなものを、私たちに伝えてくださったように思えました。上からやれと言われる形ではなく、「面白いと思ったら、体を動かすような人たち」で作り上げていく場であること。そして「何か新しいものが湧いて出てきたときに、誰かが認めてあげる。面白いじゃない!と評価してくれるようなファクターが、ずっと続いてある。ほめておだてるとか、優秀だとかいうのとは違う、これは江本のキャリアや人格が果たしてきたこと。その評価のしかけは、これからも大切にしてほしい」と語られました。他にも参加者それぞれの意見があり、さまざまな視点からもう一度地平線会議を見つめ直し、この先を考えていくことで道が見えてきたような気がしました。
◆江本さんがこれまでされてきたこと全部を、同じ様にひとりで背負える人はいないでしょう。でも大西夏奈子さんが「江本さんのような大きな炎の塊はもてなくても、その火の粉を浴びて、それぞれのフィールドで歩いている最中の人たちがいる」と言っていたように、地平線会議に大きな影響を受けた面々で、また面白い『新しい地平線会議』を作っていける予感がします。地平線会議の偉大さにはやっぱりまだ萎縮してしまうけれど、私もこれからも関わらせてもらいたいです。[新垣亜美]
■2022年1月9日、関野吉晴さんが主催する「地球永住計画」(素晴らしい命名とアイディア)の講演会「――賢者に聞く――」に江本嘉伸さんが登場した。対面とZoomの併用でそれだけでも大変なのに、その上会場では椅子の消毒など準備や後かたづけに余計な手間がかかっていた。
◆普段他の人の業績の紹介が中心でご自身のことを語られない江本さんの貴重なお話を聞くことができた。マイナス30℃下でもマラソンをした話や、一般人がまだ入れなかった時代のチベットの貴重な写真、社会主義時代に人民の敵とされていたチンギス・ハーンの墓を探すことの社会的意味(これもある種の冒険か)など。顧問がエッセイストの串田孫一だったことからくるロマン溢れる外語大山岳部。しかし、冬の滝谷を麓から北穂高に登るなどトレーニングは本格的で、それが後のエベレスト取材などで役立った等々、美しい写真と共に、堪能した。
◆しかし、それだけでなく地平線会議の紹介もされた。情熱をもってやっている自分も80歳すぎ。いつまでもやれるわけではない。若手の後継者を探しているとの話もでた。長老の宮本千晴さんや最前列に並んでいた荻田泰永さん(北極)、大西夏奈子さん(モンゴル)、小松由佳さん(シリア)など、そして探検部関係の岡村隆さん、向後元彦、紀代美などの発言が相次いだ。若手の継承者不足は現代日本のほとんどの団体が直面している重要な問題。
◆地平線会議は、正式の会長もいない、会計報告をせずとも誰ひとり文句をいう人がいない。人間不信の時代にあって稀有なグループ。出版業界の不況で意見を発信する機会が限られている中で、誰でも、修正なく原稿をのせてもらえる自由な媒体は貴重である。そのような会だからこそ、ぜひそのスピリットをみんなの知恵と行動で継承していきましょう。未踏峰もない、踏査されていない辺境の地もない、そんな現代の「冒険」や「探検」の新しい「ものさし(古い!)」が求められている。[向後紀代美]
■江本さんから近況を書いてくれと、メールがきたが、残念ながらオミクロン株が猛威を振るう中、海外で何をやっているかなど面白おかしく書いたときには炎上する恐れもあるので、控えめに報告することにしよう。
◆1年ぐらい前に連載を終えた頃は、もうアラスカ大学を辞め、ハワイで秘密特訓の最中だったと思うが、その後ラムダやミューなどの変異株が立て続けに南米諸国で発生し、知り合いの中でも死者続出、もし医療崩壊中の国々でコロナに感染したら救急医療は受けられないだろうし、受けられたとしても、もともとそれは地域住民のために与えられたスペースなのだから拒否すべきであろう。
◆また、小さな辺境の集落は私がコロナを持ち込まなかったとしても風評も起きるだろうし、本来そういった集落にはこの時期立ち寄るべきではないだろう。コロナ禍で南米に限らないが海外(特に辺境といわれるところ)を訪れるのは今までとは違った“覚悟“がいる。そこになぜ行かなければならないか? 目的をはっきりさせて、行く者と受け入れる者の納得が必要だ。
◆私の場合、先を急ぐ理由にもう一つ年齢の問題がある。間も無く60歳になると高山に登るだけでなく、空気の薄いところでボーリング作業を数日間続けて行うのはもう限界、掘る時に間違った判断をしてしまう。今までのようにできるのもあと数年だろう。コロナの収束まで待ったら完就できなくなる。いうまでもなくこれは私の現役最後の大仕事だからだ。
◆というわけで待っていても一向に好転しない状況とチリなど外国人入国禁止状況の中、昨年8月にとりあえず乾季のエクアドルに飛んだ。最初のターゲットはチンボラソ。キトの空港でエクアドル気象庁の仲間が私を拾い、買出しもできないままコトパクシの中腹まで連れていかれた。高所順応のためここに5日滞在してからチンボラソへ行くのだ。
◆空港は素通りだったので、着いてから会った人間は2人、2人ともダブルマスク、首からアルコールスプレーを下げている。ところでこれから始まるアンデスボーリング計画はこうだ。メキシコからコロンビアそしてパタゴニアまでの主要な山でボーリングをして温度計を地下に埋設し、永久凍土のモニタリングネットワークを構築し、我々が生きていたこの時代の凍土環境を次世代に伝えるという試みだ。
◆我々も50〜100年前に計測された数少ない地温測定のおかげで今日温暖化など時間スケールでみた具体的な事実がわかった。将来の研究にとってそれは希少な事実で、替えがたい全体の財産になるだろう、もちろん地元国民にも必ずそれは役に立つはずだ。この30年北極域の集落でスノーモビルやトナカイを使い、ボーリングを繰り返してきたが、今度は主に誰も存在を知らないし、掘ったこともない熱帯高山での永久凍土の理解だ。
◆ハワイやキリマンジャロなど南米以外の熱帯高山永久凍土もあるが圧倒的な分布はアンデスだ。幸いユネスコやアンデス諸国の政府環境機関も理解してくれて、このパンデミックの中でも実行可能となった。エクアドルのあとワクチン接種率が20%に満たないペルーへ向かうのだが、ラムダ株ピーク収束までは元修士学生の家が持つグアヤキルのビーチハウスで1か月篭ることになった。うってつけのコロナ避難だ。9月末ラムダ株が収まったペルーに入り、来年のペルー環境省とのボーリング地点(5600m)での予備ボーリングを敢行する。その後10月中旬やっと国境が開いたチリにはいる。
◆チリは南米の中でも裕福な上、このプロジェクトに積極的で、その上私のチリ大学の指導ポストや天文台建設でも今後の本拠地となる国だ。コロナで外国人閉鎖になっても自由に往来ができるよう永住権の準備もしてくれた。チリでは昨年の暮れまで4700〜6740mまでいろいろな高所で掘った。中には北極(デナリを除く)のどの地域よりも寒いところもあった。これから夏休暇を迎える南米、仕事の展開がちょっと落ちるが、南半球の冬が来る前にパタゴニアやコロンビアでのボーリングを終えて、どこか静かな海辺で痛んだ脳細胞を休ませたいものだ。[吉川謙二]
■江本さんはいつも「記録すること」の大切さを語っておられる。81歳の女性である私も、コロナ時代の旅を記録しておこうと考えた。私の旅はふたつに大別できる。ひとつめは毎月の「らふらんす山の会」――80代を中心とした日帰りゆる山歩き。ふたつめは2か月に一度の数日間の温泉ツアー。どちらも大した旅ではないともいえる。しかし、「無用な外出は控えるように」との政府の方針の中でのこと。戦時中の「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵」のようなムード漂う中では、ちょっと勇気が必要だった。仙台に住んでいる娘の話では、地方ほどそのような同調圧力は強かったようだ。
◆コロナ時代の近所の駅周辺のスーパーは家族連れなどの人々で大賑わい。それに対して近郊のあまり名の知られていない山は、人の姿もまばらで、人と人との距離をとるようにとの政府の原則は充分満たしていた。らふらんす山の会の「らふらんす」とは洋梨=用無しという意味で、社会的活動が期待されていない高齢者である自分たちを表すユーモアたっぷりの命名である。夫の元彦の高校山岳部先輩の馬場健治さんが計画し、車でできるだけ高い所にある駐車場へ。もちろん「親しき中にも礼儀あり」で車中はマスクがマスト。
◆「昔は、ここは走り下りたものだ」とかいいながら、普通の人の2倍の時間をかけてゆっくりと降りる。今年のお正月は山頂でお雑煮をつくった。高橋康昌さんが自分の畑で作った有機栽培の小松菜や庭でなったゆずや葉っぱつきみかんを取り出す。もう20年も使っているから調子がよくないといいながら古い小型ストーブを取り出す干台治男さん。白い雪の富士山をはじめとし奥多摩、丹沢の山々、八王子の市街地、スカイツリー、横浜のランドマークタワー、その向こうの海まで見渡せる。もちろん、食後は愛用の薬の服用が欠かせない。
◆ついで温泉ツアー。バスは定員の半分の乗客。乗る前の検温、手指のアルコール消毒。もちろんマスク着用。ホテルについても同じ儀式、食事はビニールの手袋とマスク着用。めんどくさいので一遍にすべてのご馳走をとってしまう。それでも食後のコーヒーを再びとりに行くときはさすがに面倒とおもいながら、くちゃくちゃになった手袋をする。長いテーブルにはプラスティックの仕切りあり。換気のよい所に高齢者をとの好意には、さすがに寒くて席を変えてもらったこともあった。
◆お客がすくないためか、お料理には、コックさんの熱意が感じられた。お風呂の混み具合をロビーに掲示しているホテルもあった。それでなくとも空いている時間を推定して、大浴場を独り占めということが多かった。往復のバスと食事時をのぞいては部屋でゆっくりしたり、近所の自然の中を散歩するぐらいで、他の人と接することはないので、実質的な自主隔離生活となった。
◆何かと批判の多い「Go To トラベル」であるが、普通では宿泊も考えたことのない、高級ホテルに泊ることもできた。日光金谷ホテル、秋保温泉の「ホテル佐勘」などでイサベラ・バードの泊まった部屋を見学したり、美しい山形産の絨毯をみられたり……草津温泉では地元土産物屋さんはこのキャンペーンはとてもありがたいといっていた。もちろん、問題もあった。地域振興券の手続きがめんどうで零細業者に恩恵がいきわたらなかったり……。海外旅行という遠くの地平線ばかりに目がいっていた私に、足元の地域のよさを教えてくれた「コロナ」であった。
◆そして、最もおおきな収穫は、コロナ時代の「冒険」を私に悟らせてくれたことである。すなわち、私以上に身軽にひらりとあちこち旅したり、美術館、おいしいものと夢の画像をFacebookに投稿し続けた高世泉さん、幼子を連れてシリア難民キャンプを訪れ写真展を開催した小松由佳さん、難病のお子さん(もう、大人ですが)を抱えながら社会活動をしている河田真智子さんなどの女性たちこそ、「現代の冒険家」ではないだろうか?[向後紀代美]
■嵐のようなパンデミックは収まる気配がない。のみならず、右傾化する世界はある種素直な欲望をむき出しにして、地域紛争を加速させている。全体主義があっけらかんと人権弾圧して、恥じるところがない。ポピュリズムを蔓延させたトランプ、自国、自分ファーストは生存本能そのものだから、精神的劣化がすすむ大衆にうけるのは道理である。右傾化は人間の性なのだろう。その上に、気象異変による、水害、旱魃、地震に噴火、とんでもない世界が迫ってきている。これからの世界が良くなる可能性はたぶんないだろう。怖いなあ。戦争と災害が他人事でないことは承知しているつもりだが、何だか切実さに乏しい。
◆過去を振り返ってみよう。1919年は多事多難な年だった。不幸な世紀の始まりを象徴するインフルエンザ、スペイン風邪が猛威を振るい、世界で約4000万人(正確な数字ではない)の人が亡くなったといわれている。あれから約100年、今回の新型コロナウイルスによる死者数は現在約550万人、感染者は3億人を超える。人類にあらためて衝撃を与えている。
◆1919年は人類最初の世界大戦が終結し、ベルサイユ条約が締結され、国際連盟という国家間の協調に目を開かされた年でもあったが、世界は本格的な動乱の時代に突入した。この年の出来事を拾ってみる。ドイツ共産党の設立とローザ・ルクセンブルグの暗殺、ソビエトにコミンテルンが結成された。朝鮮半島では三・一独立運動が起きた。アメリカでは禁酒法が制定され、アル・カポネが暴れていた。メキシコでは革命児サパタが斃れ、ガンジーの非暴力不服従運動が弾圧され、アムリッツアールでインド人1500人が虐殺された。これらの不穏な出来事は、世界大恐慌から日中戦争、第二次世界大戦への助走のように見える。
◆二十世紀は交雑する多様な価値観の中で、未来を探しあぐねていた。政治、経済、科学、文化が絡み乱れて、むさぼる世紀、殺戮の世紀、まさに欲望の世紀だった。現在は大規模な戦争はないが、状況が似ているように思う。パンデミックの後に格差社会急拡大と大不況が来て、第三次世界大戦? まさかそんなことには……。
◆国家間の覇権争奪と比べるとささやかなものだが、探検や登山にも時代は反映する。戦後のヒマラヤ初登頂の時代にも国家の威信をかける側面もあった。しかし、登山や探検の動機はあくまでも個人の知的好奇心である。第一次世界大戦のあと、1921年にイギリスのエヴェレストへの挑戦が始まった。敗戦復興に手間取ったドイツは、大恐慌のさなかの1929年にカンチェンジュンガに遠征隊を派遣した。率いるのは、ナチス党員でありドイツヒマラヤ財団を創設したパウル・バウアーである。その後目標をナンガ・パルバットに変える。両国とも度重なる遠征隊を派遣したが、第二次世界大戦に呑みこまれ、初登頂の栄冠は戦後に持ち越された。
◆日本はどうであったか。西洋の動的アルピニズムと異なる静観的登山を歩んでいた。1919年に、四つの隊が前人未到の黒部川十字峡(このときはまだこの名称はない)へ接近した。近藤茂吉の黒部川横断、小暮理太郎、中村清太郎の黒部川遡行の試み、沼井鉄太郎の十字峡への接近、そして古河合名会社調査隊の水量調査。趣味的登山と国策事業が交錯していた。黒部開拓は、軍需産業アルミニウム製錬の電力開発のためだ。
◆登山後進国の日本には、ヒマラヤは遠かった。英国隊がカメット(7620m)に初登頂した1931年に、京都大学学士山岳会は、パウル・バウアーのカンチェンジュンガ報告書を翻訳してヒマラヤを目指したが、大英帝国圏内にあるヒマラヤに遠征を出すチャンスはほとんどなかった。結局彼らの足跡は、樺太、朝鮮半島、モンゴル、ポナペ島、大興安嶺と、大日本帝国の大東亜共栄圏の辺境地帯を探検するにとどまった。1931年は満州事変の勃発した年であり、私のハイマート剱沢大滝が、日本電力(株)調査部によって登られ、幻の大滝の測量が完了した年でもあった。実利経営の水力調査隊が、冠松次郎らの山岳逍遥ロマンにまさった。
◆現在の探検、登山は冒険というジャンルに一括りにされて、その個人的パフォーマンスが衆目を集める時代だから、メディアやSNSを利用するのは当然だし、これはこれで時代を反映していると言える。大量に吐き出される多種多様な情報の洪水の中で、アルピニズムの記憶が色あせていくのを、私はただ呆然と見つめている。[和田城志]
――思い――
ことばが心とは別のところで生まれてくる
心が思いとは別のことに占められる
心の棘に気づかない
腫れて痛むわけも分からない
さ迷っていることばが 何かに恥じている
わたしって……何?
人の目に映るわたしではなく
感じているわたしでもなく
とまどい 踏み込めないでいるわたし
思いは 心ではなく行いに宿ること
行いは無口なことば
わたしの思いって……何?
風雪がうずかせる したたる胸のうち
時代が 乾いた歌を口ずさむ
■先日は都心までご苦労様でした。あの後ゆっくりお話ししたかったのですが、伊豆の我が家に友人が遊びに来ることになっていたので、早々に帰らせてもらいました。昨日、通信(12月号)送られてきました。僕のこと持ち上げすぎですね。これからも地平線通信楽しみに待っています。[山野井泰史]
■通信、いつもありがとうございます。[池本元光 日本アドベンチャーサイクリストクラブ機関紙「ペダリアン」最新号とともに]
■ますますのご活躍に敬服しています。私も5月には8巡目の寅になります。余録の日々、のんびりゆっくりやりたいと思っています。[吉岡嶺二]
■お身体にご自愛頂き、素晴らしい1年となりますよう。報告会が早く始まりますよう。[影山幸一 本吉宣子]
■床屋として修行し、内戦下のシリア政府軍の上官となり、ヒヨコ屋を開き、日本でバスに暮らしながら建築現場で働き、ヨルダンでうら淋しく涙を流している男。突然やってきて、突然去って行った。それが、マフムードに対する私のイメージだ。
◆彼がやってきたのは2020年の暮れ。夫の甥のムハンマドとともに、労働のために来日した。マフムードは、シリア中央部のオアシス都市パルミラで生まれた。夫やムハンマドとは幼馴染で遠い親戚、三人は兄弟同然に育った。しかし彼らのその後を決定的に分けたのは、2011年1月に徴兵されたことだった。折しもシリアが内戦状態へと向かう直前のことだ。マフムードは北西部イドリブ県の駐屯地に、夫やムハンマドは首都ダマスカスの駐屯地に配属されたが、民主化を求める運動がシリア各地で起きると、政府軍はその弾圧を行った。夫やムハンマドは、民衆に銃を向ける罪悪感から軍を脱走し、それぞれヨルダン、トルコへ逃亡。難民となる道を選んだ。
◆一方マフムードは、政府軍の一員としてあり続けた。給与を手にできたし、一日中寝て過ごせたからだ(マフムード談)。やがて昇進し、最終的に300名ほどの部下も持った。2019年、軍隊を離れてからのマフムードは、親類の家を点々としながらヒヨコ屋を開いたりもしたが、僅かな収入に納得できず、そこに降って湧いたのが、日本で働くという話だったらしい。そしてもう一人、夫の甥ムハンマドは、老いた両親や姉の生活を担っていたが、トルコでのコロナ禍による失業にあい、日本での仕事の話を得た。
◆こうしてシリアからマフムードが、トルコからムハンマドがやって来た。労働許可が降りるまで、彼らは私の夫を頼り、東京都八王子市の我が家で居候をはじめた。私は長期にわたって彼らの寝食の世話をしなければならず、二人の幼い子供の育児と家計もほぼ担っていたため、現実はパニックの一言だった。マフムードとムハンマドは大食漢で、我が家の家計を悪気なく圧迫し、またアラブ料理しか口にできず、魚介類も全く食べられなかった。さらに深刻なことに、私の作るアラブ料理は危険な味だった。やがて料理上手なムハンマドの台所での権力が増し、いつの間にか、調理はムハンマドが(私は彼を「マーマ・ムハンマド」と呼び、“お母さん”として慕った)、食材を買って片付けるのは私、という役割分担が生まれた。
◆やがて彼らは3月に千葉へ越していったが、待ち受けていたのは過酷な現実だった。彼らが住むのは解体予定のバスの中で、自分たちで電気や水道を引き、台所も作った。給与は手取り月額10万円で、健康保険なども未加入。実際に彼らが派遣された建設会社からは月額30万円が支払われていたが、招聘した会社が半分以上を中抜きしていた。労働契約書も保証もなく、完全にアウトローの世界だった。
◆さらに衝撃的事件が起きた。2021年8月、ムハンマドは、急にバックしてきたトラックと壁の間に挟まれ、肋骨を骨折、ヘリコプターで搬送されたのだ。ドライバーは高齢で、アクセルとブレーキを踏み間違えたらしい。私と夫は、搬送先の病院に急行した。「ムハンマドに何かあったら、自分は一生彼の家族に顔向けできない」。夫はさめざめと泣き、目の前で事故を目撃して多大なショックを受けたマフムードは我が家に居候へと戻り(!)、会社を解雇された。病院や保険会社とのやり取りの傍、マフムードのお世話もしなければならず、まさに激動の毎日だった。
◆やがてムハンマドは快復し退院したが、肋骨骨折の痛みが強く、しばらくは我が家で療養することになった。こうして再び、夫も含め三人のシリア人との同居生活が始まった。ムハンマドは調理し、マフムードは育児をし、夫は何もしないという協力関係が生まれ、それは三人のアラブ人男性との理想的な同居生活であったが、東京の外れの安くて狭いアパートの一室で、彼らのイスラムの文化を尊重するのは大変やりにくいものだった。
◆夏にも関わらず、家の中でさえ私が半袖やパジャマでウロウロすることは許されず(イスラームでは女性が夫以外の男性の前で肌を出すことを戒める)、風呂は彼らが寝てから入ることとされた。だが、そもそも日本の家はイスラム文化仕様にはなっていないのだ。事件は夏の夜に起きた。その日、遅くまで起きていたムハンマドが居間で夫と談笑中、翌朝早いからと風呂に入って上がった私が体を拭いていると、5歳の長男が風呂場と居間とを仕切るカーテンにぶら下がってカーテンが落下。イスラム文化において、決してあってはならない、「お尻丸見え事件」が起きてしまった!
◆翌日、ムハンマドとマフムードは、我が家から徒歩3分のアパートの一室に移ることになった……。
◆この頃からマフムードは、次第に無気力になっていった。「最も大切なものがここにはない」ふとこぼしたマフムードの言葉に、私は拙著『人間の土地へ』(集英社インターナショナル)に書いた一節を思い出した。「人間は、最低限の生活が保障され、安全を手にしても、それだけでは生きるために十分ではないのだ。(中略)そうした、日々の選択によって自分の生があるという実感。それこそが、“人間の命の意義”なのではないだろうか。」(『人間の土地へ』p.154)
◆2021年11月の終わり、「あさってヨルダンに行くから」という言葉とともに、マフムードが突然日本を去ることになった。ヨルダンではアラビア語も通じるため、マフムードにとって日本よりも生きやすく、シリアよりも将来的な可能性があった。
◆こうした重大な決断を、マフムードはその日の直感で行い、すっきりした様子で旅立っていった。ところが、飛行機に乗ったマフムードは、その段階で「日本へ帰りたい」と思い始めたようだ。そしてヨルダンの空港まで迎えに来てくれたアンマン在住の夫の兄、ジャマールを前に、「日本に帰りたい。私の心は壊れてしまった」と話し、周囲を困らせた。ジャマールは離婚した直後で独り身だったので、当面の間はとマフムードを家で居候させた。だが、ヨルダンでの生活はマフムードの期待とは異なっていたらしい。毎日ダラダラ寝て起きて、仕事を探す気力もなく、「日本に帰りたい」と涙を流すマフムードに、ジャマールは苛立ちを募らせた。その一挙一動を、私たちはジャマールからの愚痴とも言える電話と、マフムードからの切実な電話で知った。しかし夫やムハンマドは、そんな彼らの話を完全に聞き流した。
◆夫とムハンマドは、マフムードの退廃的で無気力な姿に嫌気がさしたのだという。「彼は常に安易な選択しかせず、戦うことをしない」と。両者をわけるのは、内戦下、良心の呵責のため、政府軍から脱走し難民となる選択をした覚悟であり、その後の人生の厳しさを生きてきた気概ではないだろうか。だが私は、目の前で目まぐるしく移り変わる時勢に、身を委ねて生きることしかできなかっただろうマフムードの姿も理解できるのだ。そして結局、どこに行ったとしても、人間が生きるということは容易ではないのだ。
◆「またどこかで。すぐに会おう」。日本を離れるマフムードに、私はそう声をかけた。彼は、私の夫や子供たちのルーツの地にいる。だから、ずっと彼とはどこかで繋がっているような気がした。日本からヨルダンへと移動したマフムードは、この先をいかに生きていくのだろう。彼を思うたびに、心の海にざわざわと波が立つ。マフムードもまた、時代の潮流に翻弄された一人といえるのかもしれない
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金井重さんの訃報にあらためてシゲさんが通信に寄せてくれた文章、短歌、俳句などを読みたい人は多いと思います。新しい人にはどんな存在であったか気になるところでしょう。実は、地平線の強力な支え手、あの丸山純さんがひそかにシゲさんの作品をまとめてくれていました(これを皆さんにお伝えすることについて、シゲさんご家族の了解もいただきました)。こうしてまとまったものを見ると実に面白く、また時代を学ぶきっかけともなります。以下、丸山さんに経緯を書いてもらいました。
『町姥のたわごと』 https://matsurikasha.jp/shige/
■金井重さんの訃報を知らされて、胸の中にぽっかり穴が開いたような気持ちになりました。地平線会議に突然現われ、あの独特の「シゲ節」でいつもわれわれを圧倒し、笑わせてくれたシゲさん。こちらも歳を重ねていくにつれて、若いころはわからなかったシゲさんのすごさがますます実感できるようになりました。
◆失礼ながらまず思い浮かべてしまったのは、20年ほど前に地元の浦和で開催されたシゲさんとその仲間の個展に招かれ、シゲさんがなんと駅まで自家用車で迎えに来てくれたことです。えっ、シゲさん、クルマの運転できるのですかという驚きもそうですが、その運転ぶりがまさにシゲさんで、前見て、前見てと何度も叫びながらの恐怖の20分間でした。
◆このとき展示されていた短冊を熱心に見ていたのが印象に残ったのでしょうか、2014年に突然シゲさんから相談を受けました。自費出版で歌集を作りたいのだが、短歌も俳句もほとんどが地平線通信に投稿したもので、手元に残っていない。どうしたらそこから集められるだろうかというのです。幸い、地平線通信は1995年9月から全文が地平線のウェブサイトに掲載されています。岡山の北川文夫さんが運営してくれているミラーサイトには全文検索エンジンもある。
◆そこで「金井重(シゲ)」で検索をかけてみると、200件ほどのページがヒットしましたが、カンパの名簿などを除くと正味70件ぐらいだったでしょうか。海外や国内の旅先から江本さん(地平線ポスト)宛てに送ってきたものも多くあります(そのほとんどを江本さんが打ち込んでテキストにしてくれていたのです)。そこから短歌や俳句を全部取り出したのですが、せっかくだからと思って、全文をブログのかたちでウェブサイト化しました。タイトルは「町姥(まちんば)のたわごと」。この頃しきりに名乗っていた自称からいただきました。いつかこのサイトを本のかたちでまとめたいと思っていたのですが、かないませんでした。
◆すべてが地平線通信としてすでにウェブに載ったものですが、あらためて目を通してみると、在りし日のシゲさんの姿が目の前に見えるようで、胸が熱くなりました。江本さんがご家族から許可をとってくださったそうなので、ここにお知らせすることにします。2014年にとりあえず作ったもので何の工夫もありませんが、シゲさんを偲ぶ手がかりとしていただければ幸いです。[丸山純]
■冬至の日に金井重さんの訃報が届いた。12月5日に94歳で旅立たれたそうだ。シゲさんはきっといつものようにザックを背負って好奇心いっぱいで、あの世に行ったような気がしてる。
◆私との最初の出会いは1987年、シゲさん60歳の時だ。その頃20代の私が勤めていた神田練塀町にあった日本観光文化研究所(以下、観文研)にふらりと、帽子を被りザックを背負いTシャツにギャザースカートの旅姿で現れた。シゲさんは1927年福島生まれ。54歳から4年半かけて50か国を3度にわけて旅した後に、旅先で観文研や地平線会議のことを聞いて訪ねてくれたのだ。
◆軍国少女から転じて「泣く子も黙る」と言われた総評(左派労組のナショナルセンター)の専従活動家になってバリバリやっていたシゲさんが、どういうわけで早期退職して旅に出るようになったのか。《戦後の民主主義の青春期、60年安保から70年安保に至る高度経済成長期、オイルショック以降の経済安定期を、働きづめに働いてきて、ふっと思ったんですよね、このままでいいのかしらって。52歳のときでした。夏目漱石の頃なら、人生50年。でも、もはや人生は80年の時代。残りは約30年もある! さて、金井さんよ、どうする? ここらで身も心も、一度オーバーホールしておいたほうがいいんじゃない? それから第二の人生を踏み出すのよ、ね?
◆それで退職して、アメリカに渡ったっていうわけです。ほら、島崎藤村も「志を立てんとする者は旅に出よ」と言っていますから。アメリカを選んだのは、英語が話せるようになるんじゃないかと期待して。英語、ずっと苦手だったんですよ。なにしろ、女学校では敵性言語ということで習えなかったし、28歳で入った大学では、基礎力がないから落ちこぼれ。でも、国際化が進むこれからの時代、英語も話せないんじゃ情けない。よーし、頑張るわよぉ!というわけで、西海岸で移民の為の英会話学校に通った。が、50の手習いですから、なかなか身につきません。ちっとも英語がペラペラにならないうちに、翌年の夏のバカンスが来て、リュックを担いでメキシコ旅行に出ました。それが、グアテマラへ、南米へ、果てはヨーロッパへと続く、長い旅になってしまったのです。見知らぬ国を次から次へと旅していくことの、おもしろいこと、おもしろいこと》
◆シゲさんのハジケぶりは、一心不乱に左翼活動に没頭してきた反動だろうか。旅の体験は「放課後の開放感」と表現している。どうして旅を続けるのか?との問いに、《ズバリ、おもしろいからです。そりゃ、キツイことだってありますよ。若くないから。でもね、おばさんになってからの旅は、若い人には(たぶん)わからない味ってもんがあるんです。いろいろな国に行って、文化や生活習慣の違いからくる、思いがけないカルチャーショックを受けたりするでしょう? そんなとき、コチコチ頭にズシーンと、すごいパンチを食らっても、「これぞオーバーホールの価値あり」って、わりと素直に喜べちゃう。「ああ、ダメなおばさんが、これで少し鍛え直してもらえたわ」って。なんだか、放課後の開放感といった感じで、どんな経験も楽しめるんですね》
◆ふらりと現れる旅人か多い場所だから、大抵のことには驚かないのだが……。シゲさんの話を聞いてるうちにコレは私一人で聞くのはもったいない、とんでもないスーパー旅人だと仰天した。観文研が発行していた「あるくみるきく」編集長に紹介したりして、結局、伊藤幸司さんに繋いで、廃刊が決まっていたあむかす旅のメモシリーズの最後の89冊目として、「おばんひとり旅――4年半で50ヵ国――」を1987年12月に発行した。これは旅した人から旅する人へのすべて“手書き”のガイドで、シゲさんはせっせと観文研に通って手書きした。今では考えられない編集なしの旅記録である。
◆その後、親しくお付き合いは続き、30過ぎて地平線会議で出会った連れ合いとの結婚式でもシゲさんは名スピーチで会場を沸かせてくれた。当時、日本電波ニュース社に勤めていた連れ合いとはシゲさんの方が先に出会っていた。しかし私達の間には短波しか流れなかったのよ〜ガハハハと豪快に笑う。
◆結婚生活はタイのバンコクでスタートしたが、バンコクの我が家にも旅の途中に立ち寄っては泊まり、うちに荷物を置いて、旅の「拠点」にしていた。アパートの子供達を集めて遊んでくれたり、我が家にホームステイしていたタイ人の学生と浴衣を着て盆踊りを踊ったりしたこともあったっけ。今計算したらあの時66歳だったんだなぁ〜とあらためて底抜けのパワーに驚く。
◆最後に会ったのは、4年前の長野亮之介画伯の個展。千駄ヶ谷駅で待ち合わせた90歳のシゲさんは髪は真っ白だったが大きな声で話し、いつもの笑顔で元気一杯だった。個展会場には江本嘉伸さん夫妻始め、向後元彦さん夫妻や地平線会議の懐かしい顔が集まった。
◆最寄駅まで送って行く帰り道、貴女はこれから30年は旅に出られるわよ! 頑張りなさい!!と励まされた。バンコクで会ったときに「今自分は森や林に入って瞑想にふける林住期なのよ」と言われていた言葉を思い出す。「林住期」とは、ヒンズー教で、「学習期」「家住期」に続く、瞑想にふける時期を指す。これを経て、精神的な余生を過ごし、死を迎える「遊行期」となる。
◆6歳年下の妹さん夫婦と以前から埼玉県で暮らしていて、昨年5月に電話した時は妹さんとは話せたが、シゲさんはもう電話口に出ることはできなかった。コロナ禍前には週3回デイケアに行ってたらしいが、耳が遠くなり、手首を骨折して手紙も書けなくなって、人と会わなくなり誰のことも思い出せないとか。3月には誤嚥性肺炎で入院され、面会も差し入れも叶わず、地平線通信も届いてるが渡せてないとのことだった。
◆シゲさんは、コロナ禍の中「遊行期」を生ききったのだ。今、私はまさしく林住期を迎え、シゲさんの言葉を噛みしめている。[高世泉]
■もう30年近く前のことです。私の母と同世代のシゲさんは、にこやかで温かなエネルギーを発していてとても素敵でした。仲良くなって少し経った頃に、「シゲさんはお元気ですね〜。いいなぁ〜、うちの母は小さなことにグズグズ言ってばかり。シゲさんを見習ってほしいです」と話しかけました。「あなたのお母さんはそれでいいのよ。あなたがいるんだから」と静かなお返事。なんだかいつものシゲさんとは違う感じで、ちょっと複雑な気持ちになってしまいました。
◆年の離れた私たちのことをいつも気遣ってくださいました。子どものいない人生を歩んだ先輩として、もっとお話を伺ったり聞いてもらったりすればよかったと思っています。シゲさん、ありがとうございました。[茅ヶ崎 中畑朋子]
■映画を一緒に観ましょう、と誘われて新宿へ出向いたのは1990年の冬だろうか。何が観たいのですかと尋ねると、「クマさんが観たいものなら何でもいいわ」と言う。それじゃあと、いとうせいこうの小説が原作の『ノーライフキング』にした。
◆時代はファミコン全盛期。パソコンを導入した最先端の学習塾に通う小学生たちが、人気ゲームソフト「ライフキング」に紛れ込んだ「ノーライフキング」に出会ったら、それをクリアしないと死ぬという都市伝説に翻弄される。塾や学校の子どもたちから世間にまで広がっていく噂の海の中、主人公の少年がみんなの不安と願いを背にひとりゲームに挑む……。
◆今、インターネットで検索してみたところ、そんなストーリーだったらしい。映画のことは、全編を流れるピコピコというゲームの電子音と、ラストにゲームを終えて外へ出た主人公にゲームの精霊みたいなのが字幕で問いかける「リアルデスカ?」くらいしか覚えていないのだが。
◆私はファミコンなんてやったこともないし、おそらくシゲさんだってそうだったろう。映画館を出てライオンでビールを飲みながら、「あなた、なぜこの映画を観ようと思ったの?」と、あの福島なまりの独特なイントネーションで聞かれた。私は何と答えたのだろう。シゲさんも特に感想は話してくれなかった気がする。
◆シゲさんはいつも時代の空気に敏感だった。敏感であろうとしていた、といったほうが正確だろうか。地球のあちこちへ足を延ばしたのも、「同時代を生きる世界の今を感じたいから」と明言していた。中村哲さんのペシャワール会へ赴き、マザーテレサの「死を待つ人の家」でボランティアに加わり、ロンドンの女たちと反原発の座り込みをし……。
◆情報を現地で聞いて駆けつけることも多かったようだが、常日頃から全方位にアンテナを張り巡らせ、本を読み、映画を観て、講演会やワークショップに参加することで、世界中のさまざまな運動や団体の存在を脳内の地図に落としていた。そしてその地図を拡げて旅に出て、各地の「リアル」に向き合っていったのだ。
◆旅人としてのシゲさんの一つの特徴に「自分をキャラクター化する」ということがあったと思う。地球放浪のスタートは50代半ば、時代は1980年代前半。「かわいい子には旅をさせよ」ならぬ「ダメなおばさん旅に出よ」をキャッチフレーズに、若くはない自身がバックパッカーとして方々へ足を向けていく姿を、どこか客観化してとらえていた。
◆見知らぬものや人、事件や風物に出会い、驚き、感動し、ときに負の感情に満たされもする。でも、ショックで大きくグラついたり、惚れ込んだ土地に沈没したりはしない。だって50年超のそれまでの生きてきた時間が背中にくっついているから。
◆「しなやかでありたい」と願う心には、カチコチのその背中の殻は重荷だが、それを通して感じる世界には奥行きがある。戦争とともにあった青春期、自由を取り戻そうと奮起した長めの青年期、そして労働組合と平和運動のために奔走した壮年期、それぞれで培った「金井重のもと」が堆積しているからだ。全部をひっくるめてが「風来坊のシゲさん」。旅と旅の間で日本にあれば、そのキャラを操って、独特の話術で「見聞」を世間にひろめる。それが若くない旅人としての自分の使命だとも感じていたのだと思う。
◆私はちょうど今、出会った頃のシゲさんと同年配になったが、まったく自分を客観化できておらず、自身の使命もわからないままだ。センパイ、さすがです、さすがでした、と頭が下がる。
◆シゲさんは一見鷹揚に見えて、全然そうではなかった。調子に乗ってガハハと笑っていても、目の奥は冷めていた。特に女性をめぐる社会のさまざまな問題には、いつも厳しいまなざしを向けていた。だから今、日本でもようやく女性の社会環境やセクシュアリティ問題への関心が高まってきたなかで、シゲさんが何を感じているのか、聞いてみたかった。
◆映画を最後に一緒に観たのは10年ちょっと前になる。東中野で落ち合って、カレーランチを食べてから、ミニシアターのポレポレに行った。何の作品を観たのかは思い出せない。たぶん三池炭鉱か原発関連の記録映画だったと思うのだが、あまりにシゲさんらしくて記憶に残らなかったのだろう。その意味で『ノーライフキング』はいい課題だったといえるかもしれない。
◆シゲさん、旅した世界はリアルデシタカ?[熊沢正子]
■『シゲさんの地球ほいほい見聞録』。勤めていた出版社の倉庫で、入荷したばかりの本を手にしたときの記憶が蘇る。長野亮之介さんの鮮やかなイラストのジャケットを開くと、たわわに実ったバナナの隣に、南国の花を髪に挿したシゲさんの満面の笑顔が。もう40年近く前の写真だろうか。モノクロームだけれど天然色のように明るい雰囲気。あの優しく思いやりに溢れた口調も聞こえてきそうだ。
◆地平線報告会にいらっしゃった際、いつも前のほうの席に座って質問なさっていたあの声。毎月の報告会後の駅までの道では、色んなことを反芻しながら歩いたが、シゲさんのお話や声に接した帰り道は、いつも幸せな気分になっていた。
◆今、本を読み返して、また幸せな気分に浸っています。ありがとうございました。[久保田賢次]
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■時は1980年代初頭、ところは南米ペルーの首都リマ市の片隅。当時ラテンアメリカを旅する日本人の間で、その名を知らぬ者はモグリとまで言われた伝説の安宿「ペンション西海」が舞台である。パタゴニア未踏峰敗退からリオのカーニバル初体験をへて、ペルーアンデスの登山シーズンも終わり、私は移動遊牧生活から定住沈没生活へと棲息形態を進化させるべく、排気ガスに煙る埃っぽいリマの街に戻ってきた。
◆とにかく圧倒的に金欠だった。疑似貧乏旅行とはいえ1年以上も放浪と無頼の日々を過ごし、飯代にも事欠くほど所持金枯渇極貧状況に悩まされていた私は、旧知のマエストロ西海氏に泣き付いてペンションの管理人に就任させてもらった。トイレ掃除や朝飯用パンの買い出し、漫画棚の整理や部屋割りなど雑用をこなす代わりに、宿代は無料にしてもらうお約束である。そこに登場したのが、若き日の現役ばりばり謎の年金旅行者シゲさんこと金井重さんであった。
◆まだ生まれてねえよ的な大昔の話をされても意味不明解読困難で、若干の時代背景の説明が必要だろう。ようやくバックパッカー・スタイルの日本人旅行者が世界各地に見られる時代ではあったが、その多くは先進国観光地か近場の唐天竺亜細亜界隈がほとんどで、遠く南米大陸まで足を延ばす旅人はまだ少なかった。ましてや一人旅の中年女性となると、ほとんどUMA=未確認生物並みの希少な存在である。ムベンベやらイエティーとまでは行かないにせよ、ツチノコに劣るとも勝らないくらいなありがたさだ。
◆当時のラテンアメリカではどの国でも町なかで英語はほとんど通じないし、かの『地球の迷い方』もまだ存在せず。後日発刊された南米版ガイドには「…南半球では太陽は西から昇って東に沈む…」などという戯けた記述が平気で掲載されているほどに手抜きで、つまりはエキゾチック風味な遠い地の果て扱いだったのだろう(ちなみにこれは実話、白根文庫では証拠の現物を所蔵しているので希望者は閲覧可)。
◆治安も国ごとの経済状態や政治状況に応じてそれなりに深刻だったし、まだ70年代の残虐軍事政権 vs 左翼冒険主義ルチャリブレ的カオスが残されていた。ペルーは毛沢東主義を標榜する極悪非道なPCP-SL=ペルー共産党センデロ・ルミノソ(輝ける道)派による革命闘争が激化し、内戦状態となった悲惨な歴史を有すが、リマ市内で爆弾テロに巻き込まれるような事態はまだ少なかった。一般犯罪も武器を振り回すようなケースはあまり無いかわり、ほぼ手品としか思えない早業のスリ置き引きは日常茶飯事。
◆ペンション西海は市街中心部から徒歩20分ほどの旧市街にあったが、周辺の治安はその当時から悪化する一方で、たどり着く前に身ぐるみはがされる犠牲者も頻発していた。そこに転がり込んできた謎のオババは、団塊世代の怖いお姉さんとはやや異なる特殊な尖がり方だった。軍国少女から労働運動経由年金一人旅という超レアな個人史から抽出された言動は、強烈な信念に裏打ちされた、地球上どこにあっても独自のペースを決して変えることのない強固さを伴っていた。
◆天性のキャラを一言でいえば「空気を読まない」ということに尽きる。当初から空気を読むどころか、絶対不滅のポリシーすなわち見たいものを見る、邪魔するものは排除して突き進む、塀があったら押し倒し壁があったら乗り越える、という一貫した態度である。前例なきオババの過激な行動は、すなわち極夜行やらサバイバル登山も真っ青なパイオニアワークと位置付けるべきものではなかろうか。
◆当時の私の主な収入源は麻雀で、宿泊客相手に負けなしの好成績をマークしていた。負けると昼飯が食えないせいか、その集中力たるや我ながらすごいものがあった。が、シゲさん滞在中はなぜか調子が狂ってまったく勝てず、麻雀牌の音がうるさいと文句を言われて勝負はキャンセル。その実態は口うるさいオバはんで、トイレ掃除から皿洗いまで教育的指導は厳しかった。
◆オーナーの西海氏は飲んでいれば幸せ、酔っぱらえば天国という超アバウトな性格で、どんなキャラの相手でもまったく気にせず拒まない。あれほど自分の欲望に忠実な人も珍しいほどで、結局は深刻な糖尿病でも酒瓶を手放さないまま逝去。ペンションはしばらくセニョーラが後を継いでいたが、頻発した盗難パスポート再発行業務に手を焼いた在リマ日本大使館からの勧告もあって閉鎖されたという。その後、シゲさんとは地平線報告会で再会を果たした。恥ずかしそうな小声で話しかけられて、思いは一挙にあの湿っぽいリマの街へと翔んだのだった。
◆ペンションやその周辺で知り合った幾多の名の中には、今でもくっきり記憶に刻まれたものが多い。マチュピチュで式を挙げた新婚ほやほやのドクトル関野ご夫妻はもとより、堀江謙一氏の出航3か月前にドラム缶イカダによる太平洋横断漂流実験航海を試みて海上保安庁に拿捕された金子健太郎氏、ペルーアンデスの氷壁に美しいラインを刻む先鋭的登攀を展開していた金城均氏、日本人初のフィッツロイ登頂に成功した登る生
☆器こと日本登攀クラブの米井輝治隊長と若きメンバーなど、ただ者ではない人々ばかりだ。
◆深夜に怒鳴り合う声に起こされて外に出てみたら、空港からのタクシー代が高すぎると喧嘩していたのは、後に極地探検家として名を馳せる大場満郎氏。植村直己氏に傾倒して自分もアマゾン河をイカダで下るはずが、乾期で水位が低すぎたため企画倒れとなり、餞別たくさんもらってきたのに帰れないっぺ、と悩んでいた。
◆なかでも忘れ難いのは、自転車世界一周中の「焦げつく青春」こと河野兵市と、バイクによる世界一周ツーリング中だった西野始の両氏だ。リマ以降も深い付き合いがずっと続いた二人ともが、思いをかなえることなく唐突に姿を消す結果となったのは想定外の悲劇としか言いようがない。農大探検部の山田高司隊長やJACCの埜口保男氏なども草鞋を脱いだペンション西海の最晩年を見届けたのは、たぶん坪井伸吾氏の世代だろう。
◆アムカス旅のメモシリーズの最後を飾った『おばんひとり旅――4年半で50ヵ国――』と題された手書き赤本は、一昨日ようやく開かずの書庫奥から発掘された。「豊かな青春みじめな老後、シゲ女」とのサイン入りだ。報告会や写真展などでシゲさんと声を交わすたび、リマの懐かしい日々の記憶が浮かんできたものだった。その時代を知り、同じ空気を吸い、同じ空間を漂った共通認識とでも言えそうな感覚を共有できたのも、ネットのない時代に地球を旅した者同士の不思議なつながりだった。旅のできないコロナ時代に長い旅を終えたシゲさんの安らかなる眠りを祈りたい。合掌[Zzz-カーニバル評論家]
■今から27年ほど前、朝食後のテレビを見ていたら、67歳くらいの女性がリュックを背負って世界100か国以上の旅をしている話が紹介されていました。東北弁で素朴、明るい人柄に魅せられ、最後に浦和在住と聞き、同じ浦和に住んでいた私は電話帳を調べました。幸いご本人名で電話番号がわかりました。その日のうちに電話が通じました。会ってお話を聞きたいというと、OKよ!と言うことでした。
◆その後、野外で会って、話は尽きず、鎌をかけてなに年ですか?と聞くと、あら、私は乙女座のウサギよとのお返事。頑丈そうなご本人には似合わない?と思いました(失礼!)。そこで生年月日を図々しく聞きました。1927年9月20日とのこと。何と夫は1939年9月20日生まれで一回り違いの同じ月日生まれでした。
◆シゲさんと会ったとき地平線会議の話が出ました。私は冒険探検の話が大好きな、小さいバイクに乗る主婦でした。お願いして神楽坂の会場や高田馬場の会場に出かけました。会場に行ったのは数少ないですが、地平線通信の購読は27年になるかと思います。地平線を通じては会津の酒井冨美さんの民宿「田吾作」にも行きました。田吾作は、毎年桧枝岐に向かう通り道です。私はバイクが好きで、以前は風間深志さんのファンでした。今は賀曽利隆さんです! その賀曽利さんも田吾作に泊まられると聞いて嬉しく思いました。
◆ラジオから小松由佳さんの声を聴いたとき、古本屋で河口慧海のチベット旅行記の本を見つけて買ったとき、江本さんの『西蔵漂泊』を持っているので、とても嬉しかったです。地平線通信で見知った方々が各地で活躍されていることがとても誇らしいのです。
◆労働組合総評の幹部だったシゲさんはずっと世界を旅して、好奇心を絶やさず、にこにこ元気でした。何より私に地平線を教えていただいたことは感謝に耐えません。安らかにお眠りくださいと祈ります。[仙台 小村寿子]
■いつもありがとうございます。なかなか文章がうまくならず、ごめんなさい。ついに千葉の工房の『立ち退き決定!』で家を探しています。「土地付き100万円以下」なら買っても良いと思ってます。(借金しても)」ともかくぼくはポジティブに生きることにしました!! 母親の介助もガンバる。きっと良い作品も創る!![緒方敏明 彫刻家]
■魚食に関わり29年目、アフリカでも「魚食は体にいいですよ」と伝えつづけて11年目。不思議な思いでいっぱいですが、人生のご縁がアフリカに向いていたということでしょうね。今年も2月にアビジャンに参ります。[佐藤安紀子]
■コロナ禍なりに楽しく工夫して過ごしています。『山歩みち』に江本さんが載っていると聞いてお店に行ったけどゲットできませんでした。残念! 私はせっかく日本語教師の採用が決まったのにコロナで無職です。[瀧本千穂子]
■ステイホームで仕事をしながら、2匹の猫に助けられています。近寄るとすぐに「ゴロゴロ……」。この「ご機嫌力」を見習わなくては。歴史的な社会状況、江本さんのみつめる視線がどのようにかかわるのか注目です。[三好直子]
みえないものは
おととともに
おとずれる
はる……
[豊田 和司]
■私たちは結婚52年を過ぎました。エメラルド婚まであと3年、そこまでは元気で過ごしたいと願っています。倫子は仕舞の稽古に励み、主彦は国府、国分寺巡り、狛犬探しをします。[三輪主彦・倫子]
■若い人たちの先頭に立っておられることに敬服しています。[大村次郷]
■昨年小中学生を対象とした詩のコンテストの審査員を務めました。手書きの原稿にこめられた祈りの深さに、いくつかの作品の前で泣きました。表彰式、大人用の椅子に座って、足先が床に届かず緊張した少年は、半世紀前の私です。小学三年生で作文のコンクールで入賞したことが、その後の私の人生を変えました。日本一のクォリティー誌に詩の掲載をしていただく私は日本一の果報者です。[広島市 たわしこと豊田和司]■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです(師走に送金してくださった方が多く、「今年」はすでに「昨年」のことです)。
■戸高雅史(5000円)/谷脇百恵(10000円)/土谷千恵子(本年もお世話になりました)/小泉秀樹(5000円 今年も“地平線通信”から元気をもらい、また考えさせられることが多々ありました。来年もよろしく)/宮崎拓(通信費を払い込みます)/ 佐藤日出夫(10000円)/佐藤安紀子(10000円 お世話さまです。数年分の通信費です。よろしくお願い致します。どうぞよいお年をお迎えください)/佐々木和夫(5000円 通信費2年分お願いします。1000円はカンパです。少なくてすみません)/福原安栄(2022年通信費。発送に至るまでの皆様のお働きに感謝しております。ありがとうございます)/大竹紀恵(20000円 大変お世話になりました。今回で終了とさせていただきますが、皆様のお元気なご活躍をお祈りしております。誠にありがとうございました)/横内宏美
■地平線通信512号(2021年12月号)は12月22日、印刷、封入作業をし、その日のうちに新宿局に渡しました。コロナ禍の中、今月も9人の方が作業に駆けつけてくれました。毎月の通信の発行、この活動を支えよう、との強い意思の現れ、と心強く思います。昼間の作業なので若い人が少ないのはやむを得ません。にしても、毎月必ず参加してくれる方々にはありがたし、のひとことです。参じてくれたのは以下の皆さんです。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 高世泉 白根全 久島弘 江本嘉伸 武田力 八木和美
■江本さま 澤柿です。新年あけましておめでとうございます。たいへんご無沙汰しております。12月16日に無事昭和基地に到着いたしました。乗船中は限定的なメール通信しかなく、昭和基地入りしてからも観測隊のオペレーション指揮に忙殺されておりましたため、今頃のご連絡になってしまいましたことご容赦ください。
◆10月末からの2週間の検疫隔離をへて観測隊員全員の無感染を確認したあとに横須賀を出航したのが11月10日でしたが、それがもう一昔前のことのように思えるほど、濃密な時間を過ごしています。横須賀を出港し、赤道通過の灼熱の数日間を経たあと、オーストラリア西岸での補給寄港を経て、12月になってようやく南氷洋に乗り出しました。暴風圏では片舷20度越えの動傾も経験しましたし、氷海に入ってからは、船体を氷に乗り上げて自重で氷を割りながら進む「ラミング」という砕氷航法を620回ほど繰り返しました。
◆過去には昭和基地に「接岸」することすらできなかった隊次も経験していますので、こうして無事到着できたことをなによりも嬉しく思っています。また、感染予防の観点から、国内準備期間中には観測隊員どうしが直接会合する機会が限られていましたが、この二か月以上という長期にわたる外界から隔絶された船旅の期間は、一転して、隊員同士の相互理解を深めるのに十分すぎるほどの濃密な時間となり、観測隊の団結を固めるのにも有効な船旅となりました。
◆南半球の盛夏を迎えた現在の昭和基地は、一年のうちで最も多忙な時期となっています。そんな中、年末にあすか基地近くにあるベルギーのPES基地でコロナの集団感染が発生しました。昭和基地を中心に活動している日本の観測隊には接触者がないということで、今のところは普通に過ごしてはいますが、南極学術国際機関への対応など、隊長としての緊張感は増しています。
◆さらに、年末年始には夏期間としてはめずらしいブリザードが二度もやってきて作業が中断しましたし、ブリザード明けに作業を再会した途端、こんどは数年ぶりの大雨となって皆びしょ濡れになりました。またヘリコプターの故障で野外観測に出かける隊員の活動が停止したりして、隊員のみなさんのイライラがつのった時期もありました。これがまさに南極オペレーションの実態です。自然の猛威に翻弄されながら、ちっぽけな人間の力ではなす術もないなかで、ミッションを完遂するための最適解を探し続ける日々を過ごしています。
◆隊を指揮するかたわらで、自分だけにしかできない「マイミッション」を設定し、今はそれにのめり込んでいます。実はこれまで、砕氷艦しらせの船内で総指揮をとる総隊長の公務室や昭和基地を一年間維持してきた前次越冬隊長の執務室はあったものの、新たに昭和基地入りして夏期オペレーションの陣頭指揮を執る次期越冬隊長の執務室はどこにもなく、夏期宿舎のベッドの横で無線機のマイクを握りしめながら指揮するという状態が続いていました。電子メール、無線通信、衛星電話、気象通報や南極内航空網の管制通信といった多種多様な情報が飛びかい、はたまたコロナ感染などへの迅速な対応も要求されるようになった現代において、このような旧態然とした状況ではまともな判断や指揮がとれるはずもありません。
◆使われなくなった冷凍庫を再利用した夏期事務室が数年前にできてはいたのですが、暖房をはじめとした内部の整備がなにも進んでいなかったため、せっかくの夏期事務室もほとんど使われないままになっていました。ここを夏オペレーションの司令塔としてしっかり機能させるべく、一念発起して、一人で整備を進めることにしたわけです。作業の指示を出す傍ら、基地内で不要となった古びたソファーや本棚を拾い集めてきては修繕し、内線電話やネット回線の引き込み、艦載ヘリコプターや雪上車や野外キャンプサイトなどを結ぶ数チャンネルにも及ぶ無線通信を傍受する機器を設置し、アンテナを立て、ヘリポートや砕氷船の状況を確認できる遠隔カメラも整備して、今ではちょっとした管制室並みの司令室に変貌しつつあります。
◆私のこの夏期事務室整備へのあまりの熱中ぶりに、隊員たちも共感してくれるようになり、またただの冷凍庫だったものが日々変貌し充実していく様を目の当たりにして、資源も時間も環境条件も限られた南極という地でのDo It Yourselfとはこういうことなのだ、ということに気づき始めてくれています。その結果、私の名前をもじって「柿(夏期)事務室」と命名されることになりました。
◆夏期オペレーションが終わってしまうと、夏隊と前次越冬隊は帰路に就き、我々越冬隊も、自分たちの冬ごもりのための準備に追われて、このカキ事務室も次第に隊員たちの意識の中からは遠のいていくことになるでしょう。それでも次の夏期オペレーションはやってきます。その時に、新たに乗り込んでくる次期越冬隊長が存分に指揮を執ることができるように、バトンを託す意味も込めて、短い夏のオフィスを仕上げていこうと思っています。
◆2月1日に越冬交代して落ち着いたころにまたご連絡いたします。地平線の皆様にもよろしくお伝えください。[第63次南極地域観測隊越冬隊長 澤柿教伸]
★澤柿さんは公務での南極勤務なので通信への投稿はできず、江本への私信というかたちで書いていただいた。今後もそういうかたちで個人メールを通信に転載させていただくつもりである。[E]
■ここ数か月、通信編集スタッフの武田力さんの大活躍で私もレイアウト担当の森井祐介さんも大いに助けられている。皆さんからくる原稿の内容チェックは編集長である私がやるが、印刷に漕ぎ着けるまでいろいろな約束事があり、結構厄介なのだ。武田君はこのところ、私に代わって文章に関するありとあらゆる規則をチェックし、最終的に森井さんがそのままレイアウトできる環境を“整えて”くれるのだ。文章は書けてもネット時代にはそういうさまざまな「決まり」をクリアできる人がいないとやっていけないのでほんとうにありがたい。
◆長野亮之介画伯が金井重さんのイラストを一気に紹介してくれた中で私もシゲさんを描いていることを思い出した。私たちは常に誰かが旅に出ている集団であり、画伯の不在時にピンチヒッターとして三五康司君が描き、たまに私も描いた。シゲさんのほか、賀曽利隆、河田真智子、桃井和馬ら5人の旅人が登場する「旅の写真術」、石川直樹のアフガニスタンちゃいはな旅日記などだ。画伯がいないときにあたってしまった報告者には申し訳ない、と言うしかない。
◆9日の講演会で嬉しかったのは、講演のあとの自由討論で、荻田泰永、小松由佳、大西夏奈子、光菅修ら現役の行動者たちがそろって地平線会議の未来を案じ、困難はあっても、かたちは変わっても断固継続するべし、と語ってくれたことだ。同じ路線を保持する必要はまったくない。時代ごとに変貌して当然だ。[江本嘉伸]
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今月も地平線報告会は中止します。
オミクロン株の感染拡大が続いているため、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。
地平線通信 513号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2022年1月19日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸 方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸 宛)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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