12月22日。冬至である。東京の日の出は6時47分、この原稿を書くために午前5時に起きたが、まだ真っ暗。気温は6度。新聞を取りに下に降りるとマンションの内庭の池にはっていた氷が溶けていた。少しあたたかいのだ。毎日裏山を歩いている効果か、8階を登って我が家にたどり着いたときの息切れが幾分穏やかになっている、と感じる。
◆もう一つ。鬱陶しいばかりだったマスクが気がついたらそうでもなくなっていた。顔まわりが寒くないからだ。府中市に住んで初めての冬である。近所の裏山が私のお気に入りの遊び場となり、ほぼ毎日、歩きまわっている。昨日は、保育園の園児たちが落ち葉の山を作って遊んでいた。
◆「オミクロン」という言葉が横行している。オミクロンとはギリシア文字のアルファベットの15番目。コロナ変異株の呼称はインド株など最初に見つかった国の名を使っていたが、これでは差別になるとしてWHOは2021年5月から意味のないギリシャ文字を使うようになったそうだ。αから始まるギリシャ文字は24しかない。あと9つの変異種が現れたら別の文字をあてるという。「オミクロン株」の感染者が日本で初めて確認されたのは11月30日。まだ日本では少ないが、米疾病対策予防センター(CDC)の推計によると、12〜18日の週に米国で新たに確認したコロナのうちオミクロン型が73.2%を占め、デルタ型(26.6%)を逆転したらしい。
◆きのう現在、新型コロナウイルスの日本の感染者数は173万人、死者は1万8382人。全世界では2億7500万人が感染し、536万人が亡くなった。減少を続けていた日本国内のコロナ新規感染者数は不気味なことにゆっくり増加する傾向だ。19日、東京で33人の感染者が報告されて、前週日曜日に比べて20人増えた。全国的には177人で1週間前(115人)に比べて60人近く増加した。
◆12月17日、久々に日比谷公園わきの日本記者クラブに行った。山野井泰史さんのピオレドール(黄金のピッケル賞)生涯功労賞受賞会見を記念した記者会見が行われたのだ。10階の会見場に現れた山野井さんはいつものように淡々と受賞の感想を話した。毎日新聞の元村有希子記者、朝日の山岳専門記者の近藤幸夫さん、現地の受賞式に参加した山と渓谷の萩原浩司さんの質問、解説もよかったが、何より自然体でどんな質問にも簡潔に、しかし深い回答ができる山野井君に感嘆した。
◆たとえば、若い人に何かメッセージを、と聞かれ、こう答えた。「昔から頑張れ、と言ってはいけない分野とクライミングを捉えているのです」。ソロを登攀の思想とする山野井さんに元村さんは「(奥様の)妙子さんはどのような存在なのですか」と切り込んだ。山野井さんはこう答えた。「20代前半までは彼女はつくってはいけない、後ろ髪を引かれる存在を作ってはいけない、と考えてました。妙子と出会って変わりました。山に対する考えも生活面の考えも、彼女と僕は同じだと気づいたんです」。
◆日本の山については「谷は深いし、山は急だし、天候もけっこう厳しいし、沢登りなんて日本にしかない文化だし、豊かでいい場所だなと思います」と明快だ。私はふたつのことを質問させてもらった。1つはこれまで13人が受賞したピオレドール生涯功労賞を最初に受賞したボナッティが人生の後半そうしたように、「垂直の冒険から水平の冒険に移行することはあり得るか?」という質問。山野井さんは明快だった。「僕は動けるうちは、垂直だと思います。下を見て、わぁ、こんな高いところまで来たんだ、という感覚が好きです」。東京オリンピックで種目となったスポーツクライミングについてどういう印象を?と問うと「面白かったです。熱心に見ました」。
◆会場から、熊に襲われた後遺症について、と聞かれてフランスでPCR検査を受けたときのことを話した。2008年9月17日、山野井さんは自宅近くの登山道をジョギング中に熊に襲われた。顔などに重傷を負い、ヘリコプターで青梅市内の病院へ搬送された。右腕20針、顔面70針を縫う大怪我で1週間入院した。今回PCR検査で右の鼻に検査用キットを差し込まれた際、綿棒が通らなかったという。「その部分が潰れてしまっていて。これが後遺症ですかね」。
◆12月19日、チベット仲間の田中明美さん、横内宏美さんと前橋の矢島仲子さんを訪ねた。チベットを2度も訪れ、商人の娘と結婚した矢島保治郎の長女。先月88才になったのをお祝いする名目で久々に4人で食事を楽しんだ。私はかって『西蔵漂泊』という本を書き、河口慧海、能海寛など明治から昭和まで苦難を乗りこえてチベットを訪ねた10人の先達の物語を書かせてもらっている。矢島保治郎はその中でもひときわ個性の強い冒険家で、仲子さんにはいろいろ取材でお世話になった。毎月地平線通信をお送りしているが、「この通信が私の支えです」と言われた。人は歳をとるにつれ、仲間を減らす宿命を持つ。できる限りお元気でいてほしい。[江本嘉伸]
■今年最後の現場労働、北海道八雲町での地熱探査の業務が昨日終了した。地熱発電所建設を最終目標として、特定の山域のどこに熱源があるのかを探る調査を行ってきた。登山道のない山に道をつけ、機材を搬入して地下構造のデータを採る。ターゲットが決まれば別のチームが井戸を掘り、うまく蒸気があがればタービンを回すエネルギーとなり発電ができる。きちんとメンテナンスをすれば50年以上も発電を続けられるので、遠方から燃料を運んで発電する火力発電なんかと比べると合理的かつ省エネの発電所になる。
◆八雲での2か月間の生活も今日で終わり、明日の離場をもって年内の賃労働は一区切りとなる。12月の北海道で探査を行うというのは、業界でもかなり異例のことらしい。道内屈指の強烈なネマガリタケが繁茂する山で雪、雨、霙に苦しめられ、作業は難航した。ちなみに、八雲という地名は、一週間に八日も曇るといわれるほど悪天が多いためにつけられたらしい。腰ラッセルの冬山に素人を連れて測定機材の回収にいかなくてはいけないなど、山を少しでも齧った人なら嫌な感じのする現場だったが、大きな怪我や問題もなく、無事満了することができた。
◆陣中見舞いに来た本社の部長が、「作業員の怪我や事故もそうだけど、雪に埋設された測定機材を春まで回収できなくなることが一番心配」といった一言が忘れられない。作業員の安全よりも高価な機材を優先する会社人の神経に唖然とした。
◆今年は伊豆大島の土建屋での労働にはじまり、春以降の地熱探査の仕事では、くりこま高原、雫石、立山、魚沼、八雲と、仕事を隠れ蓑にコロナ禍らしからぬ移動と滞在を続けた。傍からみればただ出稼ぎをしている根無し草にしか見えなかっただろうが、作業員として労働現場というものを参与観察できたある種の旅のようなものだったと理解している。旅の宿(つまり、飯場)から地平線通信に原稿を書かせてもらえたことも、一歩引いた眼で日々の労働環境を客観視するのに大変助けになった。
◆冬の伊豆大島で耳にした外国人技能実習生の労災や、地熱探査の現場でみた開発の強引さ。利益を最大化することが至上目的の株式会社は、労災や過労というかたちで人を殺傷しうるという現実を垣間見た一年だった。
◆実は伊豆大島から八雲までの仕事の間は、一人の北大探検部の仲間がずっと一緒だった。コロナ前にはじめたアジア自転車旅行の最中にロックダウンで身動きが取れなくなり、チャーター機でネパールから郷里の岡山に戻ったあと、抜け殻のようになっていたそいつを、とりあえずは冬の季節仕事に誘ったことがはじまりだった。旅を中断させられた彼を待っていたのは、まともな賃労働者として勤労せよという昔ながらの風潮であり、旅の世界と日本社会とのギャップに苦しんでいた。
◆そんな彼を、共同生活の仲間に誘ったのは1月の伊豆大島でのことだった。世間ずれしたそいつが、「社会に合わせて自分を歪めてまで働かなくてはいけないのか」というプレッシャーに圧されているのを見て、「俺たちが楽しい生き方を本気で追求しよう」と言わずにはいられなかった。なにより、現役時代に部室生活や活動を共にした盟友となら、この先ももっと楽しい活動をやっていける確信に溢れていた。規格化された労働者を大量に必要とする資本主義社会は、社会に適合しにくい人間には生きにくい。久しぶりに再開したそいつとそんな話題で盛り上がった。
◆プレハブ小屋の飯場で放った私の誘い文句に、「わしが仲間でいいんかいな」と言いながらも、二つ返事で移住を決断してくれたそいつとは、結局一年間同じ職場で寝食をともにした。以後、飯場で酌み交わす酒の肴はこれからの北海道での暮らしに修練され、屋号も決まった。前回投稿させていただいた原稿に書いたそれが「ちえん荘」だ。
◆二人の間でどんどん楽し気な妄想が膨らむ様子を遠方から伝え聞いていた私の相方が嫉妬しない訳もなく、新聞記者という職業と労働環境に違和感を抱いていた彼女がさっさと離職し、仲間に加わるまでにそう時間はかからなかった。6月に退職を宣言した相方が正式に「社会」から脱却したことを皮切りに、8月に遠軽町から東神楽への引っ越しを済ませ、ちえん荘は発足した。とはいえ、近い将来自分たちの山がほしい、畑がほしいという我々にはまとまった現金が必要だったので、結局今年いっぱいは出稼ぎに出ずっぱりだった。
◆カネ稼ぎ中心の生活から脱却するためにカネを稼いでいる、というのはなんとも滑稽な話ではあるが、いわゆる「手切れ金」なのだと自分に言い聞かせて一笑することにしている。「いい大学をでて、いい会社に入って働くのがよい」といったようなクソみたいな世間の固定観念を完全に振り切った3人は肩の力が抜けて、なんだかいい感じだ。とにかく、みんなよく笑うようになった。「探検部員って学生時代は社会に背を向けたような態度をとってても、結局背広着て金払いのいいところに就職していくやつは多いよな。そういうやつに限って、学生時代はよかった、なんていうけど、なんでそれをやらないんだろうな。やればいいじゃんって言ってやりたいよ」
◆そう呟く同僚は百姓になるべく有機無農薬の畑に弟子入りを決めている。私は山仕事の修行をするべく旭川にある森林関係のNPOの面接準備中。相方は旭川の職業訓練校、木工のコースに合格が決まった。それぞれ違う進路ではあるが、カネではなく、体に知恵と技能を身に着けて、手仕事で生きていきたい、との思いは共通しており、今後ちえん荘とその住人がどのように転がっていくのか、妄想は膨らみ続ける一方だ。探検部出身3人組の共同生活と修行の様子を、時々ご報告させていただきたいと思っている。
◆余談になるが、私が志望している非営利組織は、以前地平線会議で報告をされていた延江さんが出身の北大クマ研のOBが代表をつとめる団体。八雲の現場に護衛で参加した女性ハンターは北大探検部のOG、人夫には北大山岳部の若いOBになった後輩も駆けつけてくれた(彼は旭川の岩場に通うために、今月はちえん荘の仏間に居候予定)。四六時中、現役時代と変わらない面々とつるんでいて、卒部してからちっとも年をとっている気がしない。
◆「いろんな大学を見てきたけど、北大はなぜか卒業後も異様につながりが強いんだよね」というのは、研究職として全国の大学を渡り歩いてきた上司の言だ。開校以来、内地から北辺の地に渡った学生らが、厳しい環境の中で手を取り合って研究に邁進してきたところからそうした校風は醸されてきたのだと思う。その恩恵にあずかれていること、当たり前のこととは思わず、感謝して享受、次の世代につないでいきたい。そして、ちえん荘が新たなつながりを生み出す拠点になれば、いいと思っている。
◆借家の部室を失い、現役部員のアパートで段ボール箱に入ったままの探検部の資料を預かるというプランも進行中だ。探検部OB・OGの3人が司書として常駐している探検部の図書室は、全国をみても珍しいのではないだろうか。江本さんにたくさん譲っていただいた地平線会議の資料や本も、ちえん荘の本棚の魅力をぐっと押し上げてくれている。『地平線・月世見画報』で眺めていたフロントが載った本物の地平線通信バックナンバーを手に取ったとき、冗談ではなく感動で手が震えた(我が家の家宝です。本当に貴重な資料の数々ありがとうございました)。
◆ちえん荘の発起人として、資料の整理、読み込み、肉の自給を目論んだ狩猟免許取得の手配など、仕事が切れてもやることは多い。賃労働ではなく、そういったことに汗をかけるのは、幸せなことだと思う。残り少ない師走を仲間と駆け抜けて、新しい年の到来をちえん荘で寿ぎたい。[ちえん荘住人 五十嵐宥樹]
■この4、5日間の冷たい雨と風でカラマツの黄金色の葉はほとんど落葉し、まだまだ待ってもらいたいけど、北の地は根雪を迎える準備を整えました。先日豊富町の図書館に希望図書申込みをしました。森本孝さんの『宮本常一と民俗学』(玉川大学出版)です。推薦理由に岡村隆さんの優しく熱い文を使わせてもらいました。
◆カラマツの紅葉のピークは実にきれいで好きです。他の秋の山の木々の紅葉もどれも本当に見事です。歳をとるごとに紅葉を見ながらの農作業に心が豊かになります。
◆年1回、突然電話をくれる友人が静岡にいます。定年延長をしている会社員です。実家のオヤジさんは84才の現役ミカン農家です。友人は「オヤジ、もういいんじゃないか、みかんの苗を育てるのは」と言うそうですが、「農業とはそういうものじゃないんだ」と返すそうです。私は思わず感動しこみあげるものがありました。
◆オヤジさんは毎年仕事量を縮小しながらもみかんの苗木を育て手入れを続け、自分が見られる限りのみかん山の維持に情熱を注いでいます。「明日どうなるかより、種をまき、育てる、続ける、農業とはこういうものなんだ」
◆うちのあたりの山々の紅葉で最後まで黄金色をつけて頑張っているのが、カラマツです。「落ちるな、落ちるな」。黄金色を見ながら冬支度、農作業に追われる日々が私の秋です。カラマツの葉は落ち始めても地面を見事に黄金色に変えてしまっても、そう簡単に枝からなくなりません。自分が生きてきた証をしぶとく表現しています。いろんな物への、自分への、次の命へのつなげていく力が伝わってきます。
◆地平線の大先輩の方々の存在はまさに黄金色です。それはとてつもなく“しぶとく”生きてきた証を表現されています。次の世代へつなげていこうとする力に、私は圧倒されています。[田中雄次郎 北海道豊富町の牛飼い]
★封書に手書きで。■も◆も手書きで書いてくれました。なお、電話して聞いたところ12月20日現在4日連続雪。いまは積雪50センチほど。気温は氷点下14℃。そして、嬉しいことに豊富町の図書館に森本孝さんの本を置くことが決まったそうです。「買うのは簡単ですが、少しでも多くの人に読んでもらえれば」と田中さん。よかった。[E]
■先日、1年半ぶりくらいに都内で江本さんと落ち合い、郵便局まで行ってきました。地平線会議の口座からお金を引き出すためです。地平線会議の活動資金は、江本さんが管理する銀行口座と、通信費の振込先になっているゆうちょの口座の2箇所に預けられています。ゆうちょの口座はもともとは三輪主彦先生が管理していて、数年前に私がその役目を引き継ぎました。日頃の入金を確認するのと、定期的にまとめて引き出して銀行口座に移動するのがおもな仕事です。
◆しかし実はこの1年半くらいの間、ゆうちょの口座からお金を引き出すことができない事態に陥っていました。お金はあるのに、活動資金として使えない。このままでは大事な地平線通信が作れなくなってしまう。なんということでしょうか。
◆どうしてそんなことになったのでしょう。ある日、私はいつものように郵便局からお金を引き出しに行きました。この口座は振替口座なので、都内にある支店に直接出向いて、窓口で出金手続きを行う必要があります。手続きに必要な届出印は三輪先生から私に引き継がれているので、それまでは出金で問題になったことはありませんでした。
◆しかしその日は違いました。口座の名義人である地平線会議と、私の関係を証明するものを提示せよと言うのです。関係が証明できなければ、たとえ印鑑があってもお金は渡せない、と。
◆ご存じの通り地平線会議は任意団体です。私が会計を任命されているとはいえ、それを証明するような書類などはありません。そのことを伝えると、名簿のようなものはないのかと聞かれました。名簿ならば、地平線通信の発送に使っているものがあります。幸いなことに、この名簿の管理も私が担当しているので、当日持っていたPCの中にそれはありました。しかし残念ながら、通信名簿の中の私の名前は結婚前の旧姓のままであり、一方でそのとき持っていた身分証はすべて改姓後のものでした。これでは名簿に私が載っている証明にはなりません。
◆ならば、団体の代表者(江本さん)にこの場で電話をして確認してもらうのではどうか、と提案しました。すると、その電話の相手が代表者であることを証明できるのであればいい、と言われました。繰り返すようですが、地平線会議は任意団体です。代表者が誰かということをどこかお役所に届け出ているわけではないので、公的な証明書は存在しません。ましてや、私が間違いなくその代表者に電話しているということは、どのように証明すればいいのでしょうか。
◆窓口の担当者の話では、任意団体が口座を開設する場合、現在は代表者や会計責任者、活動内容などを明記した会則のようなものを提出することが必須になっており、それが会の実態を証明する基準になるのだそうです。しかし、三輪先生が地平線会議の口座を作ったときにはそのような規則はなく、そもそも地平線会議には会則のようなものはありません。このようなやりとりを1時間以上続け、結局その日はお金を下ろすことができず、後日三輪先生にお願いして代わりに出金していただきました。
◆しかし今後のためにはこのままでは困るので、会計業務を担当者が滞りなくできるように、正規に手続きをしようと決意しました。そのためには郵便局に任意団体として届け出る必要があるようです。必要なものは、申請書、会員名簿、会則または規約、活動実績を証明するもの、エトセトラ。やはり最大の問題は会則です。郵便局側の言い分はよくわかります。しかし会則などというものを定めずに40年以上も活動してきたこちらとしては、今さら素直に規則のようなものを作りたくはありません。
◆そんなこんなで郵便局側と相談しつつも、緊急事態宣言の影響もあって手続きが進まないまま時間が過ぎ、とうとう江本さんから「おい、いよいよ手元にお金がなくなりそうだぞ」という連絡が入りました。それで、ひとまずは会の代表者が直接出向けばなんとかなるだろうということで、江本さんにご足労いただいたというのが今回の顛末でした。
◆みなさん、地平線会議のお金はゆうちょ銀行によって大切に守られているので安心してください。[地平線会議名簿管理・会計責任者 杉山貴章]
■10月のとある日の昼下がり。僕、白根全さん、長岡竜介さんの品行方正な3人組は埼玉某所の森井さんの弟さんの家にいた。森井さんはその一月前に弟さんを亡くされ、僕達は家の整理のお手伝いに伺ったわけなのだが、ものの小一時間であっという間に作業は完了した。「いやぁ、ご苦労さん。助かったよ〜、ありがとう」。握手を交わす森井さんの手には三つののし袋が。
◆う〜ん、当然無償で馳せ参じたつもりの僕達にとってこの展開はちょっとまずい。もうこれは傍からみればほとんど “お年玉を貰っている図式” になっているじゃあないですか。せっかくのお気持ちを受け取らないわけにもいかずあたふたしていると、「じゃあさ、今度森井さんを温泉に誘おうぜ!」。全さんの咄嗟の名案に光明が差した。ついでに1年間の発送作業の疲れをさっぱり洗い流せるに違いない! こうして僕達はこの度『森井さんと行く!温泉大作戦』を決行したのだった。
◆あいにくの冷たい雨の日ではあったものの快適なドライブで東京近郊の温泉スパに到着。ここの魅力はなんと言っても都内にはない開放感! 外は寒いけどいきなり露天風呂へgo!「うひょー!さんむーい!」。岩風呂に滑り込めば皆ニンマリ。「そういえば付き合い長いけど一緒に風呂入るのは初めてっすよね〜」なんて言いながら空を見上げると雨は上がり雲間から青空が……。
◆「あ“ーーー!」「ふぃ〜〜〜」それぞれの心の声なのか何なのか。自然に声が漏れ出るこの現象は何だろう? 名前が知りたい。一気に柔らかい湯に包まれた全身から力が抜けてゆく。ただただぼーっと立ち昇る湯気に視点の照準は一点集中してゆき、頭は真っ白というか、もはやなんにも考えない状態に突入している。うんうん、これこれ。これが温泉の醍醐味っすよ。このまま身を任せていれば心身共に全ての塩梅が上手いこといくんすよね〜。あ〜〜幸せ〜〜〜。
◆至極のひとときを終えて「生き返りましたね〜」と謎の確認作業。「今まで死んでいたんかい!」というツッコミはさておいて、各自手には飲むヨーグルトやミルクコーヒーをスタンバイ。やはりそうきましたか! 全さんは腰に手を当ててグビッといく王道スタイルを決め込み、隣で森井さんも「凄く満足であるよ」とご満悦。竜介さんはもう椅子と一体化している。なぜ入浴後のこの一杯ってこんなにも心に滲みるんでしょうね?
◆「僕が最初の通信作業をしたのはあの埼玉の家だったんだよ」。ふと口にした森井さんの言葉に僕は反応した。「そもそも何故森井さんは地平線通信のレイアウトを担当することになったんですか?」。聞けばそれまでのレイアウト作業は皆で代わりばんこに行っていたという。当時森井さんは埼玉の家の住人で、昔印刷所で働いていた経緯で活字への心得もあり、持ち回りで回って来た作業を初めて手伝ったのは森井さんの記憶では309号。
◆それから暫くして弟さんから「住む家を交換して欲しい」と打診され引っ越して来たのが今住んでいる牛込柳町のマンションで、それがたまさか江本さんが住んでいた四谷の近くだったということで江本・森井のゴールデンタッグが組まれ、この512号が出る今日までずっと(ざっと見積って16年間!?)お2人で駆け抜けてきているのだった。嗚呼、何という運命の悪戯なのでしょう!
◆「ただ一度だけレイアウト作業に穴を開けたことがあるんだよ。それがこの傷」と、7年前に心臓の手術で入院した際にできた胸の傷を指差して見せてくれた。森井さんは今年で83歳。すごいなぁ、これまで通信作業という長い道のりを歩いてこられて……。
◆ん? 待てよ……。って、かくいう僕も気づけば15年、印刷作業という形でその斜め後ろくらいをしっかり付き添わせていただいてるじゃないですか! その道のりの長さほぼ同じじゃないっすかー! もうびっくりですよ! 毎月の通信作業ってそれだけあっという間に過ぎているような時間だけど、振り返ってみれば愛おしい日々を積み重ねる幸せに繋がっているんだなぁ。そんな気持ちになったほっこり温泉ツアーでありました。森井さん、お身体を大切にこれからもゆるりと楽しんで参りましょう! 皆さんも年の瀬にほっこり如何ですか?[車谷建太]
★今回の温泉スパ情報:相模・下九沢温泉 湯楽の里
■今年も冬山ケーナコンサートを開催いたします。夏冬あわせて、今年で43年目の模様です。
『アンデスの笛ケーナ、冬山コンサート』
薪ストーブの燃える山小屋で、山の笛ケーナの音色をお楽しみください。
●日時 2021年12月31日から2022年1月4日、五夜連続
●場所 八ヶ岳・黒百合ヒュッテ
(JR茅野駅下車、バス渋の湯、徒歩3時間)
●出演 長岡竜介/ケーナ 長岡のり子/ピアノ
●料金 宿泊者無料
●お問い合わせ 黒百合ヒュッテ 0266-72-3613
長岡音楽事務所 03-3709-1298
−−−*−−−−−*−−−
◆それから、祥太郎は年末26日に神津島から帰省の予定です。黒百合ヒュッテには1歳のころからずっと連れて行っています。最近は、小屋の仕事もよく手伝うようになりました。それでは、今年は寒くなりそうですが、お体に気を付けてお過ごしください。[長岡竜介]
■12月の半ば、2泊3日で宮城県を再訪した。東日本大震災のボランティアでご縁ができた方々との2年半ぶりの再会を楽しみに、早朝の新幹線に乗り込んだ。
◆仙台駅から、まずは内陸にある登米市の旧鱒淵小学校へ向かう。ここはボランティアの拠点として使わせてもらった学校で、すでに廃校になっている。驚いたことに、体育館は跡形もなく取り壊され、校舎は改修工事の真っ最中だった。地域の方によると、インドネシアから来た若者に介護の仕事を教える「仙台育英高校東和蛍雪校舎」として、来春開校する予定だそう。時代の流れを感じながら学校を後にし、沿岸部の南三陸町へと急いだ。
◆今回は南三陸町志津川の宿を拠点に、気仙沼市、南三陸町、石巻市、女川町を駆け足で回る計画だ。翌日は気仙沼大島へ向かって国道45号線を北上する。19日に全線が開通した三陸道を使えば短時間で行けて便利ではあるけれど、これでは小さな集落が素通りされてしまう。時間が許すかぎり、人が住む景色を見ながら進むことにする。
◆震災後に架けられた気仙沼大島大橋を渡って、大島へ初上陸。南端の龍舞崎は、枯れた白い松と、新しく植樹され育ち始めた緑の松のコントラストが印象的だ。気仙沼市内は整備が進み、津波浸水地にも家がバンバン建っている。南三陸町では、津波浸水地はかさ上げ後も災害危険区域として居住は認められていない。この違いは何なのだろう。物産館には旬の牡蠣、メカジキ、タラ、タコなどがずらりと並び、この旅初めての観光気分を味わった。
◆志津川へ戻り、震災後に地平線報告会でお話をしてくださったホウレン草農家の佐藤徳郎さん宅を訪ねる。ひーさんこと石井洋子さんも、ロケットストーブで焼いたあまーい焼き芋を持って来てくれた。すっかり住人の顔だ。お互いの近況を話していると、あっという間に時間が過ぎてしまう。
◆復興祈念公園や巨大防潮堤、図書館など、この2年半で志津川の町にも様々なものが完成していた。今も復興商店街の横で、大きな道の駅が建設中だ。しかし商工会との折り合いがついておらず、せっかくの道の駅なのに、地場野菜などの物産品は置かずに展示施設になる予定だという。過去の市町村合併の影響もあるのだろうか、住民の意見を取り入れながらの町づくりというのは、ここでは本当に難しそうだ。
◆翌朝、宿の前の坂を下り、海と町とを隔てている巨大防潮堤を越える階段を上ってみた。パラパラ降る雪と朝の冷気にさらされ、足元のコンクリートが余計に冷たく、重々しく感じる。階段を上りきってキラキラと光る海を眺めながら、この防潮堤がここに住む人々の本当の望みなのか、いつの日か色んな立場の住人の方々に聞いてみたいと思った。「この地に住んでいない私には関係がない」ことは全くなく、自然との関わりを感じにくい街の生活をしているからこそ、人間が自然に手を加えることの意味を自分から学んでいきたい。
◆最終日、石巻市へと向かう途中、南三陸町戸倉の知人を訪ねた。震災後に70歳で建設会社を立ち上げた阿部寿男さんは、なんと81歳の今でも現場に立っていた。私が伺った日も、午前中に慰霊碑の献花台設置を終えたところで、午後は台風被害を受けた水路の修復工事に行くという。従業員の方に渡すという「クリスマスケーキ代」の入った封筒を用意して、雪がちらちらと舞う中を、阿部さんは笑顔で午後の仕事に出かけていった。ちなみに、海に流れ込む川の両側にできた防潮堤についてどう思うか阿部さんに訪ねたところ「水門が無いし、津波が来たら今度は上流の集落に被害が出るから安心感はない」とのことだった。
◆石巻市では、地平線通信10月号で坪井伸吾さんが書かれていた、大川小学校の裏にある高台に登ってみた。坪井さんの言うとおり、学校から5分ほどですんなりと登ることができた。真下に「津波到達地点」の看板と波の力で破壊された校舎を見下ろしながら、84名の命を救えたかもしれない震災当日の判断の責任の重さを改めて強く感じた。
◆まだ続いている川沿いの防潮堤工事を横目に見ながら車を走らせ、女川町へ。時間が足りずに駅前にオープンしたおしゃれな商業施設しか見ることができなかったが、この町にも震災後の動きや変化に釈然としないまま暮らしている人々がいることは忘れない。また何度でも東北に足を運び、「これから」が少しでもいい方向に進むように自分にできることを探っていきたい。[新垣亜美]
■12月初め、長野亮之介さんと緒方敏明さんと一緒に、那須の森で林業合宿をしてきた。那須の森というのは、妻の実家で管理している約2ヘクタールほどの栃木県にある土地のこと。コロナ禍でも、子どもたちを自由に遊ばせる場所として、月1回の頻度で訪れている。昨年末には安東浩正さんにも来ていただいた。その一部には杉林があり、密集した杉が100本ほどあるので間伐を考えていたのだが、ぼくには技術も知識もなく、林業の専門家でもある長野さんに指導していただきたいと相談していた。緒方さんには那須の森のことを以前話していた経緯があり、ちょうどよい機会なのでお誘いした。夏ごろに声をかけてから、長野さんは個展が続き、緒方さんも兵庫のお母さんの介護があり、この12月にようやく実行できた。
◆3日間、朝から日が暮れるまで、チェーンソーのメンテナンスや扱い方、ロープワーク、安全確認の反復、木の伐倒、伐倒後の処理など、森の中でじっくりと講習していただいた。特に伐倒作業は危険が伴うため、一つひとつの行程を慎重に丁寧に、安全確認を行いながら進めた。倒す方向を見定めながら、木の幹にチェーンソーで「受け口」という切り口を刻んでいくのだが、最終的に思った方向に倒れたときは、それまでの緊張感も手伝って、嬉しさまじりの爽快感があった。
◆常に現場には危険があり、ぼくが手順を間違ってしまったときなどは、長野さんから厳しい言葉を掛けられることもあったが、すべての行動は安全性に帰結するので当然だ。直径20cmくらいの木でも倒れるときのエネルギーは人を死に至らしめる。長野さんから教わる手順の一つひとつが、先人から受け継いできた知恵の集積のようで、作業の効率性と安全性が交差する合理的なものだった。チェーンソーの構え方ひとつとっても、立ち位置、持ち方、チェーンソーの角度などが的確で、長野さんは安定感がまったく違った。これまでの経験が構えに反映されていて、まるで木と対峙している武道家のようだった。
◆木を切り、薄暗い林床に光が差し込むと、そこに別の植物が芽吹き、さらに生物の多様性が増していくそうだ。緒方さんには現場での作業プロセスを撮影していただき、森づくりに向けた第一歩を映像で記録することもできた。この那須の森には、ヤマメやイワナが棲む渓流があり、地元の人が古くから利用してきた上水路もあるため、きれいな水に恵まれている。また地形が比較的なだらかなため、森の中で活動しやすいという利点もある。これらは森を活用する上でのポテンシャルになると、長野さんから教わった。
◆その一方で、昨年周辺の杉林が皆伐され、今もそのままの状態になっており、県道に隣接する利便性の高い場所はバギーパークとして開発されてる。樹齢70年以上の杉が重機によって全て切り倒され、木がなくなった森の痕跡は痛々しく感じる。
◆昼は森で作業、夜は暖炉で焚き火をしながら、森のこと、表現のこと、芸術家と職人、いろいろなことを語り合った。なかでもアイヌの人々の自然観は印象的で、彼らは七世代先のことを寄り合いで議論していたそうだ。最近は持続可能性という言葉をよく耳にするが、現代からするとアイヌの姿勢のほうが先進的に感じる。一世代30年と考えると七世代は210年、そんな先のことを考えて行動できる人が現代にどれほどいるだろうか。
◆ぼくの理想としては、自然の中で子育てをし、森の中にアトリエを構えて夫婦で制作しながら生活していけたらと考えている。森林の恵みを享受しながら、多様な生き物と共生していけたらと。森の中には昔の炭焼き窯跡があり、昔の人は木を切って炭作りを生業にしていたようで、現状はその後に生えた二次林なのだそう。森づくりの技術習得と合わせて、30年、50年後にどんな森にしたいかを考える必要もある。人間の暮らしと自然との距離を丁寧に見定めながら、森に手を入れていきたいと思う。里山として活用するエリアと自然のまま残すエリアを分けて考えても良いのかもしない。
◆長野さんからは多くのアドバイスをいただいた。記録した地形や樹木の情報をもとにフィールドの地図を作り、これからどんな森にしていきたいかを考えていきたい。そして未来の森の姿を想像しながら、このフィールドに名前を付けたいと思う。今回の合宿は、未来の人々にどんな森を残すのか、を考える第一歩になった。[山本豊人]
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡(最終ページにアドレスあり)ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。
原田鉱一郎/笠島克彦(10000円 通信費です)/森本孝(10000円 通信費2000円+カンパ8000円です)/(株)フィールド&マウンテン(10000円 ご無沙汰しております。2013年からフィールド&マウンテンにおりますlunaこと村松直美です。今回フィールド&マウンテンで発行しているフリーペーパー「山歩みち」に江本さんに登場していただきました。ありがとうございました。※38号・39号で前編後編となっており読み応えいっぱいです!)/新堂睦子(10000円 コロナにもめげず地平線がんばってください)/山田まり子(20000円 いつも通信をお届け下さってありがとうございます。これからもよろしく! 楽しみにしております。★山田さんは宮本常一さんが所長をつとめた観文研時代からの地平線通信愛読者 今月に原稿を寄せた北海道の田中雄次郎さんが歩いて日本を縦断した際、観文研の月刊誌『あるくみるきく138号』は巻頭特集「日本縦断徒歩旅行」を組んだが、その編集者でもあった)/広田凱子/秋元修一(4000円)
■月日の流れはただでさえ早い。だが、自分が持てる全てを投入した時間は、流れ星のように一瞬の煌めきで終わる。今年もそんな時間を持つことができた。
◆2021年12月10〜16日、2年ぶりに写真展を開催した。小松由佳写真展「シリア難民 母と子の肖像」(富士フォトギャラリー銀座にて)。トルコ南部に暮らすシリア難民の、特に母と子の関係性に焦点を当てた展示だ。イスラムの格言には「天国の門は母親の足元にひらける」という言葉がある。イスラム社会において、母親の役割は家庭を守り、子供を産み育てることとされ、とりわけ子供の人生に対して母親に課される責任や役割が大きい。
◆母と子の絆は、父と子のそれにはない強いものがある。そうしたイスラム文化にあって、難民となったことで、母親たちはさらに多くを抱えようとしている。難民という不安定さを一手に引き受けているのは、父親よりもむしろ母親たちだ。会場では、こうした視点から垣間見た、母と子の関係性から、難民という立場、さらに彼らが抱えているものを感じとり、内戦が人々に何をもたらしたのかを考える場にしたかった。
◆写真展は二つのギャラリーを使った。一つ目のギャラリーでは、難民の生活風景をカラー写真で表現した。さんさんと太陽の輝く、緑豊かなトルコ南部に難民が暮らしている。これは外側から見たシリア難民の姿だ。そして次のギャラリーでは、やや暗めの照明の下に、モノクロ写真で構成された母と子の写真が並ぶ。これらは内側から見たシリア難民の姿で、彼らの心の内に迫っていく意図がある。
◆表現したかったのは、難民たちの全体像でも、明瞭で綺麗な写真でもない。難民としての、曖昧で、不条理で、不安定な立場そのものだ。そのため懐中電灯という、光量も動きも「一定ではない」光源で、彼らの一面だけをわずかに浮かび上がらせた。そして光が当たらない部分に、私たちが「写真のその奥にあるもの」を想像する素地を残した。
◆懐中電灯係として素晴らしい役割を果たしたのは、なんと私の二人の子供たち。5歳のサーメルと3歳のサラームだ。日中の撮影こそ、被写体の中に映り込んだり、取材先の子供と喧嘩したりで、えらいことになる彼らだったが、こうした夜の暗がりでの照明係は彼らの好奇心と創造力をかき立てたようだ。彼らは懐中電灯を手に部屋を走り回り、絶妙なライティングをした。あとは私が、もっと前に、後ろに、左にと指示を出し、私たち親子にとっても母と子の肖像写真が出来上がった。
◆さらに写真展では、今の時代だからこそできる表現法として音声ブラウザーを導入。スマートフォンやタブレットで、写真の人物の声をアラビア語で聞けるようにした。私たちが普段、家族や友人の声を覚えているように、難民それぞれの声を聞き、写真のイメージと併せて記憶することができたら、より彼らの世界を身近に感じられる。こうした音声ブラウザーのシステムづくり、さらには日本語と英語に訳した資料づくりには膨大な時間がかかり、写真展の1か月前からは、ほとんど布団の上では寝られない日々だった(居間のちゃぶ台の横で、毎晩力尽きてビバークした)
◆新型コロナの影響もあって報道が少なくなり、世界的にも関心が薄くなってきたシリア問題。特にシリア周辺国で暮らす多くの難民が、今日も困窮を極め、困難な日々を生きている。そうした現状を多くの方に知っていただき、それぞれに感じたものを新しい波へと繋げていただきたく思っている。
◆写真展とは、単に作品を発表するだけでなく、なぜ自分が写真を撮りたいのか、それによって何を実現したいのかに向き合う時間でもある。会期中は2200人ほどの皆様にご来場いただき、多くのお客様と直接お会いし、お話できたことが一生の財産になった。
◆忘れられない出来事もあった。写真展三日目の夕方、来場した若いシリア人男性とのやりとりだ。彼は、写真展で「refugee(難民)」という言葉を使っていることを非難し、彼らは「immigrants(移民)」だと主張した。移民を難民だと偽って、わざとみじめにに見せているとし、難民として写真を展示することに反感を持っていた。
◆表現への非難ならば別に良かった。しかし違和感は、自らを難民だとしている現地のシリア人に対し、彼がそれを許容しないことだった。これは被写体の難民たちの尊厳にも関わる問題だ。
◆これまでシリア問題と関わり、彼の話からピンとくるものがあった。つまりこれは、個人の見識の相違という枠を越えた、政治問題なのだ。つまり、誰が難民を生み出したのか、誰が加害者で誰が被害者なのかという見識の違いがあるのだ。
◆この男性も、要は何が言いたいかといえば、「(シリア政府への責任追求に繋がるような)シリア難民の写真展を開くな」ということなのだ。現在まで60年近い独裁が続くシリア。内戦後は、特に厳しい言論の取り締まりが課され、例え国外にいても、シリア人の中でも政治的見解の大きな分断が存在する。その男性も、政府による弾圧や空爆の影響から難民が生まれたという構図を認めないことで、政権側を支持し、擁護しようとする意図があるのかもしれない。
◆この出来事は、写真展の被写体たちがあえて自ら語らなかった状況、つまり彼らが今もどういう立場にあるかを逆に示してくれた。そして難民の生きる世界を知るために、彼らが常に直面しているこうした側面から目を逸らすことはできないと感じた。
◆「あなたたちは難民なのか? 移民なのか?」。私はこの出来事の違和感や戸惑いを取材地トルコのシリア難民に投げかけた。リアルタイムで、現地のたくさんの難民たちと繋がれるこの時代ならではの方法だ。彼らは「私たちは難民である」という明確な答えを示したほか、何故こうした分断が存在するのかについて、それこそがシリアで今起きていることの根本的な要因なのだと話してくれた。
◆二日後、写真展会場で小さなトークイベントを開催した。夫とその甥のムハンマドが、シリア問題の政治的視点の分断について語るというものだ。二人とも、政府軍兵士として内戦が始まる直前に徴兵され、市民の弾圧に加わる罪の意識から脱走、難民となった一人だ。どちらか一方を非難したり善悪をつけるのではなく、双方の立場を知った上で、この先の共生のためのヒントを考えたかった。日本でも、政府の留学生招致により、ここ数年で体制支持のシリア人が増えてきている。こうした異なった立場のシリア人が増えるなか、私たちはどのように彼らの立場の隔たりをとらえ、付き合っていけば良いのだろう。
◆しかしイベントを終えた率直な感想は、問題は根深く、答えは簡単に見出せないということだった。むしろ、共生なんて簡単には語れないという、夫やムハンマドの明確な意思を感じた。何しろ、あれだけのことが起きてあれだけの人が亡くなってきたのだ。シリア人同士で、踏み越えてはいけない一線を持ち、常に相手がどちら側なのかを探りあっている。よほど信頼できない限り腹は明かさない。
◆「政権支持のシリア人を信用しないで。付き合わないで」。夫はそう話した。しかしそれでは解決の糸口すら見出せないだろう。シリア問題さえ知らない多くの人々のなかで、異なる立場の存在を尊重することで、自分もまた存在できるのではないか。問題は限りなく複雑で、答えがすぐに見出せない。しかし、だからこそ私たちは、絶えず考えていくしかないのだ。
◆振り返れば、シリア問題の複雑な一面に直面した写真展だった。しかしそれを、新たな表現の始まりにしたい。答えのない問いこそ、写真表現で昇華させたいのだ。例え政治やイデオロギーで分断されても、人間は一人一人が、土地や人と繋がりを持ちながら生きている。時間をかけながら、その姿を見つめていきたい。撮り続けよう。写真展を終え、その意思はますます固くなった。
◆写真展は終了しましたが、写真展のVR動画(360度カメラ)撮影が私のホームページより閲覧可能です(2022年12月まで)。同ページにリンクした音声ブラウザーも2022年3月8日までお聴きいただけますので、是非お立ち寄りください。
*詳しくは「小松由佳 ウェブサイト」で検索→「PHOTO EXHIBITION 2021」をご覧ください。
■「伝えたい、知ってほしい」という思いではちきれそうな、あたたかい写真展だった。銀座で開催された、小松由佳さんの「シリア難民 母と子の肖像」。私は会期中に4回おじゃまし、受付にも立たせていただいたが、会場はつねに盛況。次々やってくるお客さまの目をまっすぐに見つめ丁寧に話す小松さんと来場者の表情を見ていたら、私にも喜びが伝播したみたいで、その夜は興奮してうまく眠れなかった。
◆小松さんはジェットコースターのように激しい分刻みの日常を送りながら、どうやって、いつの間に、これほどダイナミックで豊かな写真展を準備したんだろう? 会場に足を踏み入れるとまず、シリア難民のやわらかな日常を切りとった色鮮やかな写真が目に入る。ママの取材に同行した5歳のサーメル君と3歳のサラーム君が、現地の子と一緒に遊ぶ姿も写りこむ。
◆そしてこのスペースの奥にある暗く広い部屋が、今回の写真展のメイン会場だ。真っ黒な壁にモノクロームの大判写真が並び、それぞれの作品をスポットライトがやさしく照らす。難民として生きる母親たちと、その宝物である子どもたち。小松さんは今年春に訪れたトルコの難民キャンプで、彼らの肖像写真を撮っていたのだ。
◆暗がりのなかで撮影されたそうだが、母子の顔のあたりだけ、ほんのり明るい。ママが撮影するそばで、サーメル君とサラーム君が懐中電灯を持ち照らしていた光だという。つまり被写体だけでなく、撮影者である小松さんにとっても、親子による大切な合作なのだった。この写真展の設営風景を見ていた関係者によれば、写真を貼る位置や照明の具合など、納得いくまで小松さんはこだわり続けた。さらに一部の写真をプリントし直したいと、オープニング当日の明け方3時まで作業していたのだとか。
◆肖像写真には特別な演出もあった。被写体たちが小松さんに語りかける声を、来場者は手元のスマホとイヤホンで聴くことができるのだ。重苦しい絶望を背負い、かすかな希望を抱え、今も彼の地で生きている難民たちの不安定で脆く危うい心の内が、声を介して生々しく響いてくる。その声色を聴きながら写真を眺めると、これは遠く無関係の国で起きている他人事ではなく、目の前で息をしている友人たちの話なのだとハッとする。
◆小松さんは彼らの音声を撮影現場で録音したものの上手くいかず、日本に帰国してから改めてボイスメッセージで送ってもらったそう。電話越しの日本の友にそっと打ち明けるように、難民たちはアラビア語で語る。樽爆弾で母と妹を亡くし、自分も両足を切断したという少年の声。携帯電話を持って話すのは恥ずかしいと照れる若い母親の声。彼らの存在や思いをこぼさないようにすくいとり、写真、音楽、映像、音声、光、VRなどアナログとデジタルを組み合わせて、日本にいる私たちに最大限のかたちで届けようとした小松さんの執念を感じる。
◆会期中に小松さんから何度も聞いて印象に残った言葉が、「ドカン」。息子ふたりを自転車の前後に乗せてウーバーイーツで生活費を稼ぐこともある彼女は、今回の展示にドカン!と資金を投じたという。会場費、設営費、受付で無料配布した写真解説冊子やバーチャル写真展の制作費……。お金がないから、コロナだから、忙しいからなんていう口実は、小松さんにはそもそもない。妥協せず、ただ表現の高みをのぼろうとする。
◆私は数年前からときどき小松さんと会って話すようになった。ふたりでランチに行ったり、サーメル君たちも一緒に八王子の公園でカーペットを敷いてピクニックしたり。マストな話題はコロナ給付金の最新情報で、ほかにも海外取材や出版業界のこと、これからやろうとしていること、公安とのつきあい方、プライベートの話などなど。写真展2日目の夜は、日比谷公園で遊んできたサーメル君たちも合流し、「ふだんできないことをしたい」という小松さんの希望で有楽町駅高架下の焼肉屋へ(このときは韓国ドラマ「愛の不時着」で北朝鮮エリート将校を演じたヒョンビンの魅力について、トークが白熱!)。
◆7日目、写真展が閉幕。その瞬間、会場の外には次の写真展を設営するスタッフが山積みの写真とともにもう待機していた。こうして小松さんのリアル写真展は終了したが、実はまだ続きがある。彼女が写真展に挑む姿をドキュメンタリー映画監督の杉岡太樹さんが撮影しており、短編作品になる予定。杉岡さんは糞土師・伊沢正名さんの長編映画を2年前から製作中で、その縁で私も知り合い、小松さんの撮影も少しお手伝いさせていただいた。公開されたら地平線通信でも告知しますので、そちらも楽しみにしていてください。[大西夏奈子]
■原稿が遅れ、江本さんから一喝を受けて電話を切られてしまいましたが、気を取り直して書きたいと思います。
◆私は今年度、娘の通う私立和光高等学校にて、教員と保護者が共に学ぶ教育研究会の役員をしております。講演準備はチラシ、舞台制作も全てが保護者の手作りで行うプロジェクト。仕事でのスキルを持ち寄り、力戦奮闘する楽しさが魅力です。世間ではPTA活動にマイナス傾向が高いのですが、私は社交と社会経験を養う場として積極的に関わっています。
◆この度は、講演者に小松由佳さんを推薦。30人程で運営される部員が小松さんの「人間の土地へ」を拝読いたしました。ヒマラヤ登山や探検という言葉に馴染みがない母たちですが、著者の研ぎ澄まされた感性でわかりやすく説いてくれる言葉に惹かれて、「ぜひ生で聞いてみたい!」と講演決定! 講演は残念ながらコロナ禍のため、部員のみで講演収録し、録画をYouTube配信となりました。
◆これを機会にシリア支援団体を調べていくと、メイドインシリアのお店につながり、その店主が小松さんの知人であることが発覚。シリアの縁がつながる面白さを実感。興味関心のアンテナを張っていくと、不思議と求めている情報や人に出会っていく。講演が始まる前から、小松さんという探求者が発信している波動が振動していったようにも感じています。
◆和光教育の根底に「真実を見つめ、命の尊厳を価値の基軸に置き、平和を希求して生きる人間に育てる教育」とあり、小松さんの講演はきっとマッチするのではないかと予感がありました。私自身も20年前に夫(戸高雅史 96年K2ソロ無酸素登頂者)とバルトロ氷河を歩いており、ヒマラヤは私のいしずえであり、小松さんと講演を組めることは私の喜びでもありました。
◆講演は120分。ヒマラヤ登山の臨場感ある語りとヒマラヤの美しい山々の景色に吸い込まれるように聞き入り、イスラム文化圏には小松さんと旅をするように遊牧の民の生きる世界へと誘ってもらい、シリアでのご主人との出会いやご家族との現状には、家族と共に生きる者として身に迫る想いが、聞き手の中に広がっていきました。
◆只今、絶賛配信中ですが、今日もきっとパソコンの前で小松由佳さんの生き様に釘付けになっている人がいることでしょう。視聴者から届いている感想は感動を通り越して衝撃。「どのトピックもかじっている程度の知識はあるもののリアルに体験されている方の詳細な体験談には非常にリアリティがあり、心を動かされることが多くありました」などなど、声が上がってきています。
◆小松さんの語りから伝わってくる人の心根の素直さ。講演を観た人たちから賞賛ではなく、心が通い合う交流が生まれていることを想います。ヒマラヤ登山の挑戦から真っ直ぐに生き切っている小松さんの光が、小松さん自身を、私たちひとりひとりを、そして社会にも平和と安らぎを灯してくれるものとなることを心から願って。[戸高優美]
通勤電車でいつも一緒のその女子高生は
朝の光の中で聖母のようなまなざしを
教科書に落としていたりもするが
おおむね降りる駅が迫っても熟睡しており
見かねた私が肩を軽くつつくと
気がついて恥ずかしそうに笑って会釈する
私が
ネクタイをはずしながら妻の小言を聞くとき
時間に追われて昼メシの牛丼をかっこむとき
窓外の樹に見とれて会社朝礼に参加するとき
私の肩をつついて教えてくれるのは誰だろう
さあ次がおまえの降りるべき駅なのだよと…
尊敬する登山家が冬山で消息を絶った*
飄飄としていつも冗談ばかり言っていた
ある時私が映画「どですかでん」の浮浪者親子は
辻潤・まこと親子がモデルではないかと言うと
ほうよ 詩人の山本太郎が確かどっかに書いとった
(なんでそんなことまで御存知だったのですか)
詩人のふりすらしていなかったが
まぎれもなく一人の詩人だった
詩人は旅立った
おそらく
誰かに肩をつつかれて
恥ずかしそうに笑いながら…
* 名越實(なごし・みのる) 広島山岳会会員、2013年12月単独で横尾尾根から槍ヶ岳目指し帰らぬ人に。幅広い人脈を生かし、広島県山岳連盟のセミナーに山野井泰史氏をはじめ多くの著名な登山家を招聘。江本氏とも交流があった。[豊田和司]
■「アフリカその後」を地平線通信にご掲載いただきありがとうございました。原稿を送った頃は、当会の“ビッグボス”、間もなく88歳のS女史が何かの感染症に罹り、ちょっと危ないときでした。ご主人は25年前に亡くなり、一人娘は米国、という状況ですから、入院したとはいえ、具体的なケアは私しか対応する人間がいません。目の前の仕事と病人のケアに追われておりました。
◆その後、感染症がサルモネラ菌感染とわかり、治療方針がはっきりしたので、どんどん回復して2週間で退院。自宅で1週間くらい療養したら日常に戻れる、というところまできました。米国から一人娘も急遽帰国して、私とバトンタッチしてくれたので、私自身はようやく日常に戻りつつ……というところです。
◆家に戻れば、夏に階段から落ちて1か月以上入院していた母が、これまた必死のリハビリ中です。入院生活が良い生活習慣をつけてくれたらしく、朝のラジオ体操から始まって、食事づくりも家事も普通に行い、規則正しい生活をしながら、自ら治そうと奮闘中です。この母も現在88才。地平線通信のフロントで86才の民話収集家、「193コンサート」のバイオリニストの記事を拝読し、ああ、私なんてまだまだ若僧どころか赤ん坊のようなもの、と思いました。
◆そしていつまでも活躍できる人というのは、精神力が違うのだと改めて思い至りました。若いときほど指や体は動かなくても、精神力は若いとき以上に自由で闊達な人たち。自分がやらなくてはという強烈な使命感をもって活動している人たち。目的意識がはっきりしていて困難を実現可能にしてしまう人たち。
◆このような、社会を豊かにしてくれる先輩たちの使命感は時として非常に強く、接する者をクラクラさせるときもありますが、人生を豊かに生きるという意味では、出会えた幸せに心から感謝したいと思っています。
◆地平線会議も江本さんや数名の人たちの使命感と熱意でここまでつづいてきたと思います。江本さん、倒れるその日まで地平線会議の先頭を走りつづけてください。その熱情にふれた人が「地平線会議的」な何かをつかみとり、走り出すのですから。
◆うちのビッグボスも、感染症でなければ精神力で下痢を治してしまったに違いありません。10月の帰国時からほとんど何も食べられない状態で10キロやせて37キロになっていますが、1月には予定通りアビジャンへ行くと言っているのですから、大したもんです。医師たちも、あの元気なら大丈夫、と言ってくれているので、1月の現地入りに向けて具体的な計画を練り始めています。
◆私の周囲は元気な高齢者が多い、というか、高齢者ばかりです。先のことを考えれば心配ではないか、という人もいますが、高齢者パワーの結集がどんなにありがたいかを私はしみじみと実感しています。
◆西アフリカという仏語圏で私たちが思い切り活動できるのは、東大→パリ大学→漁業交渉40年というオジサマが私たちのサポートを買って出てくれているからです。この方が来年80歳。ほかにも日本、コートジ双方にさまざまな協力者がいますが、皆さん揃って70代、80代です(なかには30代の音楽家、40代・50代の漁業専門家や栄養士、60代のピアニストもいますが)。
◆それぞれの人生のなかで培ってきた能力を、皆さんが惜しみなく出してくれるという、ありがたく熱い応援で、プロジェクトがつづいています。プロジェクトの対象はコートジボワールの漁村女性ですが、私はそのなかにいて、大きな愛に包まれているような、不思議な感覚を受けています。「何かに守られているに違いない、神さまの存在を感じることもたびたび……」と書いたのは、私自身のこうした実感からなんです。
◆いまアフリカで活動するのは、肉体的にも精神的にも過酷ですが、「がんばろう! まだまだできるぞ!」と思えるのは、ありがたい協力者がいてくれるからです。
◆この12月には、なんと漁村女性のためのセンターができあがります。その建物を使って次のワークショップを開催する、という予定です。このセンターの図面を書いてくれた日本人の一級建築士も、多大なる協力者。東日本大震災のとき持てるだけの自家発電機をもって一緒に出掛けた仲間です。
◆かけつけたあと、町づくりには町民が町を俯瞰して議論することが大事といって、畳12畳分のジオラマを女川町と大槌町のために手作りして両町に寄贈しました。そういう人ですから、アフリカ漁村女性のためにいろいろな要素を考えて、素敵な図面をかいてくれました。この人も、まもなく80歳。新しいセンターでどんなワークショップになるだろう、と今からワクワクしています。また、ご報告しますね。[佐藤安紀子]
■みなさま、こんにちは。自称「インド通信」の延江です。2冊目の写真集『いのち綾なす ―― インド北東部への旅』(Weaving of Spirit: A Journey into North East India) が校了してやれやれと思っていた矢先、報告会を通してお知り合いになった寺沢玲子さんからナガランドの不穏なニュースが舞い込んできました。直ちに現地の友人に問い合わせると、彼女も直ちに返事を、続いて Nagaland Post という地元紙の記事を送ってくれましたので、以下、かいつまんでシェアします。
◆「最近、インパールでインド軍の大佐と妻と子、加えてアッサム・ライフル部隊(インド軍のパラミリタリー)の兵士数人が襲撃を受け殺されるという事件があった〈これについては日本でもBSニュースでインドNDTVからとして報じられました〉。これがインド軍を刺激したのに違いない。先週の土曜日12月4日、ナガランド州モン地区〈コニャク・ナガ族が多く住んでいます〉にあるOting村〈州都コヒマから300キロほど北東に位置します〉で悲惨な出来事が起きた。インド軍が炭鉱での日雇い労働に従事していた若者を帰途につく途中で待ち伏せし襲撃したのだ。罪のない6人が殺された。軍の言う『地下組織が近辺にいるらしいという情報に答えたまでだ』とは常套文句。内務大臣は遺憾の意を表したが、人々の怒りは収まるわけもない。村人たちは兵士らに立ち向かいさらに7人、また兵士1人が犠牲になった。現在のところモン地区のネットは遮断されているのでその後の詳しいことはわからない」
◆「今年はホーンビルフェスティバルが12月1日から20日まで開催されているが、この不幸な出来事のために一部の出店は閉鎖。またナガ学生連合会はあらゆる祭り事を控えるべしと要求している。今日(6日)は朝の6時からお昼の12時までストライキ。ろうそくの火を灯し祈る集会があちこちで見られ、人々はひどい不安に陥っている」〈7日付けでホーンビル・フェスティバルは全面的に中止になりました〉
◆この悲劇の重要な背景として、1958年に成立した軍特別権限法(the Armed Forces Special Powers Act :AFSPA )という法律があります。これによってインド軍は「混乱した地域」で「公の秩序を維持するために行使する力」を持ちます。つまり疑わしいというだけで逮捕したり、銃撃してもいいというわけです。
◆AFSPAは北東部のナガランド州、マニプール州、アルナチャル・プラディシュ州でいまだ有効です。まるで「混乱した地域」としたのがナガの人々だと言わんばかりですが、そもそもの張本人は誰でしょうか? 過去にもこのような悲惨で理不尽なことは幾度となく繰り返されてきました。社説には、AFSPAに対する厳しい批判が書かれています。「最も古い文明の一つであり、最も寛容な憲法を持ち、世界最大の民主主義国家であるインドの国軍が、市民を守ると誓いながらも自国民に対してこのような理解しがたい恐ろしい行為を繰り返している。我々は平和で理にかなった政情を実現する先駆者として、AFSPAを一刻も早く取り消すよう切実に要求する」
◆New York TimesやイギリスBBCでもこの事件を大きく取り上げました。しかしAFSPAについては言及していません。日本では新聞でもTVでも報道されなかったと思いますが、友人が Yahooニュースで見たと教えてくれました。何十年もの間、当局によって外界TVとのつながりが遮断されていたナガランド。2011年には入域許可がなくても入れるようになり状況は徐々に良い方向に向かっているように見えたのですが……。彼らの千辛万苦が終わる日は一体いつ来るのでしょうか。[延江由美子]
■江本さん、やっとご報告できます、ようやく完成しました。念願の著書「西ネパール ヒマラヤの最奥の地を歩く〜ムスタン、ドルボ、フムラへの旅〜」を彩流社さんから刊行させていただきます。これまでに、西ネパールに通ってきた中から厳選しました。
I アッパームスタン 〜禁断の元王国〜
II アッパードルポ 〜世界の屋根〜
III ロワードルポ 〜チベットの民が暮らす地へ〜
IV フムラ 〜ネパール最北西部〜
V ドルポの冬 〜念願の越冬〜
◆担当の編集者さんが講演会に来て写真をほめてくださったことで、予定していた構成が一気に変わり写真が増えました。本の制作は、自費出版でやってきた今までとは全く別世界でした。一文字一文字に責任があり、制作の過程で何度か投げ出したくなるほど厳しい期間でもありました。そのたびに今は亡き西ネパールの私の師匠達の顔を思い出し、時には涙が溢れ出たときもありました。師匠達がいなければ私は絶対に西ネパールに入ることができなかったことを思い出しました。
◆あらためて、貴重で切なくて愛おしい時間だったと痛感しました。泣いて笑って怒って一瞬一瞬を思い出します。今はスマートフォンのGPSで簡単にどこでも行けるような時代になりました。装備も軽くなり何でも便利になり、道路もどんどんできて道も変わりました。でも、私は絶対忘れない、時代は変わっても先人様へのリスペクトを忘れないです。改めて偉大さを感じました。
◆そして、ヒマラヤの民へ、彼らの住む大地から彼らの生きざまから、沢山のエネルギーをもらっている。あなた達の暮らしは、本当にカッコよくて美しい、ということを、この本を持って伝えに行きたいと思います。
◆一般発売日は、2022年1月21日ですが、私のお店「Dolpo-hair」で店頭発売開始、web-shopでは先行予約(2022年1月10日まで)を受付開始します。予約をしていただいた方には、ポストカード3枚付き。「Dolposhop」で検索お願いいたします。[稲葉香]
■こんにちは。こちら沖縄は晴天が続き、日中は23℃前後、ぽかぼか陽気が続いています。コロナが下火になり、浜比嘉島は観光客が徐々に戻ってきました。地平線報告会ができなくなって久しいですが、こちらでも行事がことごとく中止になり、本当に寂しい限りです。
◆ハーリーも、豊年祭も、エイサーも、区民総会も区民清掃も、一切中止。島人が顔を合わす機会が消えました。特に今年は12年にいちどの大きな祭り「ウフアシビ」の年でしたが、これも延期。来年果たしてできるのか。娯楽のない島では人とのつながりがほんとに大切で、祭りやお祝いの行事、たわいもないユンタクが島暮らしの楽しみでありました。島は年寄りが大半で一人暮らしも多く、残念なことに孤独死も起きました。
◆そんな中、来年2月1日の旧正月と、今年やるはずだったウフアシビに向けての地踊(じかた:三線や太鼓などの演奏者)の練習会が、先日おこなわれました。島に移り住み織物をしているわたなべともこちゃんが動いてくれて、人集めや稽古場のセッティングをやってくれました。ともちゃんは、太鼓の打ち手として島の人に教えてもらいながら、地踊の一員として頑張ってくれています。コロナが下火になっているこの隙にぜひやろうということに。
◆三線を指導するのは、山根杉男さん。若い頃から島の伝統芸能に携わってきて、私たち夫婦も杉男さんに指導を受け、行事やエイサーの地踊をつとめてきました。最近は、若手に継承していかないといけない、コロナ禍だからと何もやらないのでは取り返しのつかないことになる、と島の将来を憂いている、使命感あふれる熱い人です。地平線あしびなーでは計画段階から相談に乗ってくださり、ご存じの方も多いと思います。
◆練習会は10人ほど、高校生はじめ若手も集まり約3時間、30曲くらいやったかな。久しぶりに声張り上げてユンタクして、楽しいひとときでした。ひっそりした島の夜に、太鼓や三線の音色が鳴り響いたことでしょう。
◆このままコロナが落ち着いてくれるといいのですが。そうなったら江本さん、地平線の皆様、来年はぜひ、13年ぶりのウフアシビを見にいらしてください。
◆あ、江本さん確か前回のウフアシビ、見に来てくださいましたよね。[浜比嘉島より 外間晴美]
★そうか。あれからもう12年になるのだね。ウフアシビだけでなく、2008年10月、浜比嘉島で挙行した「ちへいせん・あしびなー」でも山根杉男さんにすっかりお世話になりました。懐かしいぞ、浜比嘉島![E]
■関東はすっかり寒くなったようですね。喜界島はまだまだ日中はお天気だと半袖日和ですが、風は冷たくなり朝夕冷え込むようになりました。8月11日に喜界島でもコロナ感染が確認された後、感染拡大は急速に進んで最終的に人口約6700人の島で88人の感染者が出ました。
◆約2週間でピークに、その後約2週間で沈静化しました。その後は一度も感染者は出ていません。鹿児島県全体でも感染が落ち着いたおかげで今はまた元の活動が戻り、集会やスポーツ活動等が行われています。今年は小規模の忘年会もあちこちで開かれる模様です。
◆島の行事は皆で楽しめるものが多く、子どもから大人まで参加できる催しが沢山あり、先日エントリーしたバドミントン大会では小学生相手に本気で戦いました(大人顔負けに上手い!)。昨年は妊娠、出産のためできなかった行事に子連れで参加できています。次は卓球大会、元旦には島一周の元旦駅伝が開催される予定で私も参加させてもらうことになりました。
◆夫が仕事で子守がいなくても誰かが子守をしてくれ、子沢山な島故に安心して預けられます。何処に行っても顔見知りのいる島。子連れだとしょっちゅう声をかけられ、初対面でも子どもを抱いてくれる島。島民生活まだ二年目ですが、島の暖かさに包まれて楽しく育児、生活しております。お店や物質は限られ、「ちょっとお出かけ」とすぐに島を出れませんが、とても心豊かです。今ここで暮らしていること、育児ができていることをありがたく感じています。
◆先程午後11時、夫が目をキラキラさせて海から帰ってきました。34cmの超特大伊勢海老、夜光貝とイカが捕れました。海もまた豊かです。[喜界島 日置梓]
■地平線通信511号は、11月17日に印刷、封入作業をし、その日のうちに新宿局に運び込みました。このところ毎月必ず車谷建太君が車を運転してきてくれるのがありがたい。重い通信を難なく運べるから(白根全さんが助手として重い通信の束を局に運びます)。四谷に江本が住んでいた時と違って、家に持ち帰ることができない。21時までに局に運ばなければならないので車谷君の車はほんとうにありがたいのです(そんな事情で最近榎町地域センターでの作業は15時15分からとしています)。
◆作業に参じてくれたのは、以下の皆さんです。今回も、ご苦労さまでした。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 大西夏奈子 中嶋敦子 白根全 長岡竜介 落合大祐 中畑朋子 武田力 江本嘉伸
■毎月の編集、送付、改めてありがとうございます。先月の通信の勝手な感想を送ります。皆さんが、とても大きいので、こういった感想も正直なところ、自分の小ささが確認されるばかりなのですが……。
◆田中さんの生き方は大地に根をはっているような大木を思わせます。本当に、食べる、寝る、生き物を育て、そして育つ....…なんというのか、食べていくための仕事、ライフワークと、個人の価値観であったり使命であったりを果たすための人生をかけた仕事、ライフワーク、の両方が織り込まれた生活をされているのだなと、思いました。自然の力、循環に野菜の成長を委ねるような栽培には、田中さんの価値観がとてもあらわれていると感じます。他方で、とてもリアルな金銭面のこと。やりたいことをやる、意志を通す、というときに、同時にその行動者は確実に選択をして、責任も負っているのだということを思い知らされました。
◆地平線の魅力のひとつに、知らない土地の空気を運んでくれるということがあります。坪井さんのこの記事は、この国から飛び出してみたい、世界中みて回りたい、そんな欲求をかりたてられるものでした。特にアラスカは、中学時代から心惹かれる地です。星野道夫さんの『旅をする木』、を読んだときのようなときめき、ざわめき、あこがれ、地平線通信を読んでいてそういうものに改めて出会っています。
◆森本さんのいのちを削ってできたような仕事、それを死が近いといわれながらやってしまうこと。生きている時間のなかで、ご自身の人生に変化をおこし続けるような、前のめりの生き方。実は、自分の父親が最近、余命が長くないと言われたことを受けて、死に向かって自ら人生を閉じようとし、日に日に生きることへの執着を手放しつつあることを感じていました。そのこともあってか、父親になんかいってやりたいなという気持ちが、森本さんが書かれた文章を読んでいておきました。[九大山岳部 安平ゆう]
12月27日(月) 現代の冒険者たち
大西良治(渓谷登攀家、ボルダリングの第一人者、未踏の称名廊下を単独で踏破)
19:00〜21:00 武蔵野プレイス(JR武蔵境駅南口前)
1月3日(月) 現代の冒険者たち
八幡暁(グレートシーマン、インドネシアより日本列島までシーカヤックで単独漕ぎ渡る)
14:00〜16:00 豊生画廊ホール(西武多摩湖線線一橋学園駅前)
1月9日(日) 賢者に聴く
江本嘉伸(地平線会議代表世話人)
14:00〜16:00 武蔵野プレイス(JR武蔵境駅南口前)
1月19日(水) 現代の冒険者たち
石川仁(葦船一筋25年、草船で太平洋に漕ぎ出す)
19:00〜21:00 武蔵野スウィングビル(武蔵境駅北口前)
※聴講にはお申し込みが必要です。詳細は、地球永住計画公式ウェブサイトでご確認ください。[関野吉晴]
■登山のフリーペーパー『山歩みち』の木村和也編集長から「インタビューしたい人がいるんだけど、取材をお願いできないかな」と連絡があったのは、6月末のことだった。そのお相手が、江本さんだと知ったとき、思わず「おおぉ」と声を上げてしまった。というのも、ちょうどその月の地平線通信(506号)にはじめて投稿をさせていただいたばかりで、僕にとっては絶妙ともいえるタイミングだったからだ。とはいえ、その初投稿の中で「『自己』ではなく、『他者』を表現すること。それが私にとっての『書く』ということ」「相手の考えや想いをちゃんと表現できているか、幾度となく自分に問いかける」なんてことを書いてしまったため、果たして江本さんの人となりに迫るような話を聞き出し、読み応えのある記事としてまとめ上げることができるのか、まるで試験を受けるような緊張感があった。
◆取材は7月29日、東京外国語大学の府中キャンパスで行なった。当日、江本さんはリュックサックいっぱいにいろんな本や雑誌を持ってきてくださり、いざ話し出せば、外語大山岳部時代のこと、地平線会議のこと、本物の行動者たちのこと、コロナ禍の世界のことなどを滔々と語り続け、気づけば2時間半を超えていた。インタビューの中で「自分にはパッションだけはあるから」と語っていたが、まさにその尽きぬパッションを直に浴びるような感じで、圧倒されっぱなしの取材だった。
◆語られた内容のあまりの広範さと濃密さに、木村編集長と「これは1回では無理だね」という話になり、8月発行の『山歩みち』38号に前編、今月12月発行の同39号に後編と、2回にわけて掲載されることに。A5版の小冊子の6ページ(3ページ×前・後編)という限られた誌面で、どこまで江本さんという人物を表現できているのか……機会あればぜひ、江本さんとのお付き合いが長い地平線会議のみなさんにも読んでいただき、ご判断いただければと思っています(冊子は全国の登山用品店で配布されています。後日、『山歩みち』のホームページにも公開される予定です)。
◆そのインタビュー記事の校正のやりとりをしているとき、江本さんから「通信にまた書かないか」とお声がけをいただいた。そして、「この1年分の通信を送るから」とも。僕が「ホームページで読ませてもらっています」と伝えると、「そうだろうとは思うけど、やっぱり紙で読んでほしいんだよ」とのこと。数日後、500号から511号までの地平線通信が自宅へと届いた。
◆あらためて1年分を通して読んでみると、インタビューで話されたことを江本さんは通信という場で実践されているんだなということが、ひしひしと伝わってきた。
◆たとえば、「若い人たちの話を聞いているのが楽しい」「若い人が元気じゃなきゃ、世の中、おもしろくない」とおっしゃっていたが、通信では「モンゴル旅を続けたい」と語る中学1年生の瀧本柚妃さん、神津島の高校へ離島留学した高校1年生の長岡祥太郎さん、江本さんの講義をきっかけにやりとりがはじまったという九州大学の安平ゆうさんと平島彩香さん、「山に生きる人間になりたい」という法政大学の小口寿子さん、早稲田大学大学院の下川知恵さん、社会人1年目の松本明華さんなど、10代、20代の書き手がたびたび登場している。若い人たちの話を聞くのが楽しいのは、きっと江本さんだけではないのだろう。彼らの投稿に対して、「読み入ってしまった」「(昔の自分と重ねて)懐かしく読みました」「生の気持ちが伝わってきて読み応えありますね」と、多くの人が感想を寄せているのも印象的だった。
◆かくいう僕も、彼らの「自分は何がしたいのか」「どう生きていくのか」と葛藤する姿に、20年前の自分を重ねてしまった。大学4年生のとき、就職か、海外登山か、という選択に直面し、僕は最終的に「今、自分がやりたいことは、学生時代をともに過ごした仲間たちとヒマラヤに行くことだ」と決心し、卒業した年の5月にパキスタンへと飛んだ。このときの経験が、その後にライターという仕事を選び、今も続けているきっかけになったのだが、不安と期待が入り混じった当時の気持ちを、彼らの文章を読んでいて久しぶりに思い出した。
◆また、インタビューで「われわれはコロナ禍という歴史的な現場の真っ只中にいる」「今という時代をしっかりと記録してほしい」とおっしゃっていた。毎月の報告会を中断しなければならないという異例な状況の中、通信だけは発行し続けている江本さんの問題意識も「コロナ禍の世界の記録」にフォーカスしているのだろう。フロント記事ではその月の世の中の動きや感染状況が詳しく語られており、地平線の方々からの投稿でもそれぞれがコロナ禍で生活や仕事にどんな影響を受け、「今、何を考え、何をしているか」が頻繁に報告されていた。
◆コロナ禍はわれわれにさまざまな気づきを与えてくれたが、そのひとつが「人と人とのつながりが生きる上でどれだけ重要か」ということではないだろうか。新型コロナウイルスのことが今ほどわかっておらず、どう対処すればいいのか情報がなかったころは、とにかく人と人との接触を減らすべく、学校にも行けない、離れて暮らす家族にも会えない、友人と会って食事もできない、という日々をわれわれは強いられた。人と会って自由に話をするという、当たり前の日常が奪われて、ときに非難の対象にまでされてしまう。「『人に会えない』は『人に会いたくない』に変わっていきました」という下川知恵さんのように、外に出るのが億劫になり、心にぽっかりと穴があいてしまったかのような気持ちで毎日を過ごしていた人も多かったのではないだろうか。
◆1年分の通信を読んで強く感じたのは、コロナ禍によって人と人のつながりが否応なく制限される社会にあって、地平線通信ではこれまで以上に濃密な交流がなされていたのではないか、ということだ。
◆コロナ禍で世の中が停滞する中でも、揺らぐことなく現場に向かい、自分の活動を続ける人。海外に行くことはできないが、今いる場所でできることを模索し、少しでも前へと進もうとする人。コロナ後の未来のために地道にトレーニングや準備を進める人。投稿からは、世界的なパンデミックによって思うようにならない現実に直面しながらも、ほとばしる情熱や想いを胸に自分の夢や目標に向かって行動を続ける「本物の行動者たち」の姿が立ち上がってくる。一方で、そんな彼らの行動や想いに触れ、「自分も前向きにやっていこうと気を奮い立たせるきっかけとなった」「皆さんの生きるエネルギーに圧倒される」と書き送ってくる人たちもいた。末期の肺がんと闘う森本孝さんの「地平線通信で読む若い人達の活躍には心がゆさぶられます」「私も3度目の余命宣告から奇跡的生還を果たすつもりでいる。そしてインドネシアの多島海を歩き、水平線の彼方から地平線の仲間にエールを送りたい」という文章を読んだときには、通信という場が持つ途方もない力を感じさせられた。世代を超えた熱き想いの交換が、紙面を通じてなされていることに、読んでいるこちらも胸が熱くなってしまった。
◆『山歩みち』のインタビューで特に印象に残っているのが、知人からの手紙について江本さんが語ってくれたエピソードである。旅先から送られてきた便りも多く、中には送り主がすでにこの世にはいない手紙もある。「他人から見れば、ただのボロボロの紙の束なんだろうけど、私にとってはダイヤモンドの山みたいなものなんだ」という言葉からは、江本さんが手紙の送り主たちとのつながりをどれだけ大切にし、地球のあちこちから送られてくる彼らからの便りを心待ちにしていたかが伝わってきた。
◆そんなことを考えながら、通信のページをめくっていると、ふと「ここに載っているのも、投稿者から江本さんへ、そしてその先にいる地平線のメンバーへの手紙なんじゃないか」と思えてきた。人は手紙を書くとき、送る相手のことを想い、その気持ちを言葉にのせていく。通信というかたちで“手紙”を受け取った人は、書き手の想いを受け取り、まるで返信を送るように感想を書いて投稿する。そうした往復書簡のようなやりとりがあるからこそ、地平線通信は人と人がつながり合う稀有な場になっているんじゃないだろうか(と、投稿2回目の新参者ですが、僭越ながら感じました)。
◆「ある時期から、旅や冒険だけじゃなく、『人間はどう生きるべきなのか』という普遍的なテーマに関心が向くようになった」と語ってくれた江本さん。その志向はコロナ禍によってさらに深化しているように思う。だからこそ、報告会が中断されていても通信を出し続け、さらに、「最近の地平線通信はすごい。熱量がただごとではない」(佐藤安紀子さん)、「これまでになく跳躍する紙面」(貞兼綾子さん)と地平線の方たちが語っているように、圧倒的なパッションをもってコロナ禍の世界の記録を集め、毎月の通信に編んでいるのだろう。[谷山宏典 フリーライター]
■「YouTube」というメディアがいまでは世界を席巻しているが、私はあまり積極的には見てこなかった。しかし、たまたま山野井さんのことを検索しているうち、素晴らしい映像にぶつかり、一気にひきこまれてしまった。突然服部文祥がナツを連れて登場し、1時間、2時間のドキュメンタリーが続いた。それが実に面白いのだ。
◆服部君とはたまに話すこともあるのに、彼は私にこういう表現の場を持っていることをほとんど語らなかった。そういえば、「私が出演する映画のようなもの」のために山に行きます、とは聞いたことがあるな、と思い出した。1、2度映像を見ると、次々に新たな作品が紹介されてくる。ああ、世界はこうして動いているのだ、となんだか“遅れてきた青年”の気分になって、それでもついつい熱中してしまう。
◆2002年の「国際山岳年」のとき、皮切りのイベントに山野井さん、服部文祥、石川直樹の3人に登場してもらったことがある。「我ら皆、山の民――私たちはなぜ山にひかれるのか」というタイトルで3人に話してもらったのだ。「国際山岳年」のまとめの報告書では服部君に「山登りが日本を救う」という文章を書いてもらった。今思えば贅沢な顔ぶれにお願いしたものである。
◆なんだかおさまりそうでおさまらない、コロナ旋風である。1月には報告会を開けるかも、とひそかに会場を予約してあるが、そう簡単にはできないかもしれない。[江本嘉伸]
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今月も地平線報告会は中止します。
新型コロナウイルスの感染が収まりつつありますが、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。
地平線通信 512号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2021年12月22日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先(江本嘉伸宛)
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 042-316-3149
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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